■2018年11月4日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

草偃風従(そうえんふうじゅう)  up 2018.11.4


主題聖句(第1ヨハネ2:6)
神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。

 

 

 

 

 

 

 

 

■2018年10月28日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

少欲知足(しょうよくちそく)  up 2018.10.28


主題聖句(ヘブル13:5)
金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」

 

 

 

 「少欲知足」とは、少しのもので満足すること、持っていないものを沢山求めず、持っているもので満足するという意味です。この考えが世界中にあるならば、飢餓はなくなると思います。

 貪欲ゆえに、ちょっとのことでは満足できない経済社会のしくみが貧富の差を生んでおり、全世界の人々が食べるに十分な食物生産が世界中で行われているにもかかわらず、8億人の人々が飢餓状態にあるという矛盾した世界があります。
 少欲こそが、余ったものを持っていない人々に分け与える、そういう心をもたらすのではないでしょうか。
 (へブル13:5)を見てみましょう。当時のローマ帝国にも金銭を愛するという経済社会の生活があったようです。金銭があればローマ市民権さえ手に入り、いろいろな特権にあずかれたようです。

 私たちクリスチャンも経済社会にいますから、お金の影響は受けますが、心まで金銭に支配されてはなりません。私たちの心を支配されるお方は愛なる神様だけだということを心に留めておきましょう。そして、少欲が、貧しい人々に施す心を生み出す、ということにもつながっていきます。

1.なぜ「少欲知足」なのか?  
A)箴言30:7−9
「二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。不信実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、『主とはだれだ。』と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。」

 神様は御心のままに富める者と貧しい者を置いておられます。それぞれの持ち物はある程度、神様が定めておられて、そこから私たちはスタートします。貧しい者が富む者へ、富む者が貧しい者へと変えられる人も中にはありますが、何を持って、どのような地位環境で生まれ育ったかではなく、どのように神を畏れてこの人生を最後まで全うするかを神様は見ておられます。

 (箴言30:7−9)には、多くもなく少なくもなく、自分の分をわきまえた考え方があります。私に必要な分だけで結構です。それ以上与えられたら、分け与えます。多いか少ないかではなく、定められた分で生きるということですね。

 多く与えられた者は多く要求されます。多く与えられた者は多く与えるという仕事、責任があるということも、聖書の中から見ることができます。私たちが少欲知足であるべきなのは、主を畏れるからだということを、ここから見ることができます。

 「食べ飽きる」というのは、神様の恩を段々軽んじていくという怠慢さが心の中に出てきて、信仰の道からそれるという状況です。クリスチャンたちも初めは迫害と貧困の中におりました。しかし、キリスト教がローマの国教となり、帝国の富と権力がついてくるようになって、信仰は堕落していきました。

 日本のクリスチャンも、神の前に聖く正しく生きることが難しい環境の中にいます。迫害も大変ですが、豊かさも心を神様から引き離し、知らず知らずのうちに神様を第二、第三にして、富と金銭を第一優先としていくようになります。そのような世の仕組みに自分の価値観が変えられて、知らない間に落とし穴に落ちてしまうような環境ですので、特に気を付けていきましょう。

B)ピリピ3:8     
「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」

 キリストを知ることは、他の一切のものが無価値に見えるほどに、素晴らしいことであるとパウロは言っております。私たちはまだそこまで知っていないのかもしれませんね。ぜひ皆さん、キリストの素晴らしさを味わっていきましょう。

 これは、一切のものを捨てるなんてできないから自分はだめだ、と責めを感じさせるみことばではありません。キリストの素晴らしさを知れば、自然と無理なく、そのように心が変わりますよというパウロの証であります。何が一番価値あるものなのか、それは救い主イエス・キリスト、神の愛そのもの、それを知ったパウロがそのように表現しているのです。

 「食べれるか食べれないかじゃない、私は神様に養われているんだ」と、主を畏れる心をもってイエス様の愛に満たされているのです。だから少欲知足になれるのです。
 私たちもイエス様の愛に満ち足りて、パウロのような心境に近づいていきたいものです。
 聖霊に満たされると当然そのような思いに満たされます。聖霊様の愛の満たしをもって、いつもイエス様のすばらしさを知っていく幸せを味わっていくなら、自然と少欲知足が生活の中になじんでいくと思います。

2.キリストを知る喜び(第2コリント8:1−2)  
「さて、兄弟たち。私たちは、マケドニアの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。」
 
 キリストを知る喜びは生活の中でどのように現れるでしょう。マケドニアの教会はイエス様への信仰ゆえに迫害を受け、極度の貧しさに追いやられたにも関わらず、心のうちには信仰の喜びがあふれて、惜しみなく施すほどであったと書かれています。

 経済社会においては、持っているか持っていないかで、施すかどうかを決めてしまいますが、聖書にある施しは、持っていれば持っているように捧げ、持っていなければ持っていないなりに捧げ、まったく何も持っていなければ、自分を用いていただきたいと自分自身を捧げる、そこまで変えられるほどに、救われていることの喜び、神の愛、キリストを知ったことの喜びと平安と感謝にあふれていたのです。

 今回の世界食料デーの支援金も同様です。皆がやっているから自分もしなくてはいけないとか、自分はそんな余裕はないなぁ…ではなく、なんとか支援金を送りたい!という願いから始まって、救いを与えてくださったイエス様の愛をもって、喜びと真心をもって、金額の多少ではなく心を込めて支援金を捧げることが大事なことであります。

 クリスチャンが心を込めて捧げるとは、祈りをもって捧げることです。「これは私の心です。祝福して用いてください。」と、心を込めて祈り捧げるのです。もしお金が惜しい、捧げたくない、という不誠実な心に気付いたなら、その罪を悔い改めましょう。
 
 世界食料デーにおいて、悔い改めて良心に立ち返るなら、この働きは支援される人々のためだけでなく、私たちのきよめ、聖別、信仰の成長のためにもなり、まことに感謝なことであります。正しく出来ていないことを失望するのではなくて、そういう自分の罪深さを認めてへりくだって、そして思い切って、献金しようと決心するのです。

 惜しむ心は罪の働きかけであり、肉の心です。そういう自分はもう十字架でキリストとともに処分されたことを思い起こし、今は良心が清められて、間違った心の部分を気付かせていただいたことを感謝して、悔い改めてまた正しい道に立ち返って、施しをするということを心がけるのです。

 私たちは罪の働きかけを受けるものです。罪の働きかけに揺さぶられることは避けられません。しかし、それから離れることはできます。悩まされることからは逃げられませんが、それを切り離そう、受け入れないようにしようとすることはできるのです。それは私たちがするべき正しい良心の意志決定なのです。マイナスにマイナスにと考えることがないようにしましょう。

3.「少欲知足」の法則(箴言11:24)    
「ばらまいても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、かえって乏しくなる者がある。」
 たとえば、少々の駐車料金を惜しんで、駐禁のところに車を止めて、多額の罰金を支払うようなものです。人が見ていても見ていなくても神様の前にいつも誠実な者でありたいですね。

 このみことばにある霊的法則は、特にクリスチャンにあてはまるものですから、気をつけましょう。少欲知足の心、それは「主を畏れるがゆえに、主から心が離れないがゆえに」という大事な心構えが含まれていますので、私たちも気を付けて歩んでいきたいと思います。今持っているもので満足していきましょう。

【デボーションポイント】
「欲」がもたらす危険について考えてみましょう。

 

 

 

 

 

■2018年10月21日 日曜礼拝メッセージより(辻和希伝道師、横路伝道師)

保泰持盈(ほたいじえい)  up 2018.10.21


主題聖句(ヘブル3:14)
もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。

 

 

 

【保泰持盈】
「安らかで満ち足りた状態を維持し続けること。または、慎重に行動して災いを招かないようにすること。」

【辻和希伝道師メッセージ】
 今週も、キリストの愛のうちに自分自身を保つことについて、みことばを見ていきましょう。

 主題聖句のへブル3:14にあります、最初の確信とは、私たちがイエス様と一番初めに出会ったときの確信です。私たちの罪を全て負ってくださったイエス様を唯一の主とすることを信じる信仰告白は、私たちのうちに確信として留まっているのです。それは、時が経って記憶が薄れても、霊は確信し続けていることを信じます。しかし、この世の教えや、闇の力によって、その確信が揺らがされてしまうことがあります。そうならない秘訣として、「賛美のいけにえをささげ続ける」ことが挙げられます。

1.賛美のいけにえをささげ続ける
(ヘブル13:15)
「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。」

●旧約時代には、いけにえの祭儀によって神との関係が保たれていました。
 いけにえをささげるという行為は、旧約のイスラエルの民にとっては、ただの宗教的儀式ではなく、神様との関係を保つ重要な祭儀でした。

 今日の私たちは、このようないけにをささげる祭儀をすることはありません。イエス様が、完璧な子羊としてのいけにえとなってくださったからです。

 では、へブル書で言っている賛美のいけにえとは何でしょうか。
 それは御名をたたえるくちびるの果実、すなわち、私たちの口から出る、神様を褒めたたえることばなのです。

 礼拝においては、音楽を用いて賛美をする時間がありますが、あの時間は歌を歌うことよりも、神様を褒めたたえていることが重要な時間になっているのです。日常の中で、何気なく賛美を口ずさむ習慣は素晴らしいことだと言えます。聖書は、“絶えずささげましょう”と勧めています。

 私は、賛美のいけにえとは、最終的には祈りになってくると思います。いつも心がけていることがあります。それは、最初にまず主なる神様の御名を高くあがめ褒めたたえることばを言うようにしています。私たちの願いを言う前に、まず神様を褒めたたえる。それが賛美なのです。

「父なる神様。今日もあなたの御名を賛美します。」「あなたの御名だけが褒めたたえられべき御名です。」「あなたが万物を創造された唯一の神です。」「主権はその肩にあります。」といった、賛美を、是非普段の祈りの最初に付け加えてみることをお勧めします。

 この祈りが、同時に神様との関係を保つものとなり、神様の愛のうちに自分自身を保つことになるのです。

【横路伝道師メッセージ】
2.キリストを身にまとい続ける
(ローマ13:14)
「主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」
 イエス・キリストを着るとはどういう意味でしょうか。イエス様を信じている人は、キリストを着ている人です。イエス・キリストが、 私の罪を赦すために十字架にかかり、身代りになって命を捨てるほどに私を愛してくださった救い主であると信じて、洗礼を受けた人は、もうキリストを着ていると考えてくださればいいと思います。
 
 では、なぜここに「キリストを着なさい」と書いてあるのでしょうか。イエス様を信じて洗礼を受けたら、もうキリストを着たので、それでいいのではないかと思う人がいるかもしれません。しかし、そうではなく、「キリストを着続けなさい」と言われているのではないでしょうか。時には、キリストの衣を脱いで、肉の誘惑に囚われていないかと心配されて、この手紙が書かれたのではないかと思います。
 
 警察官が、制服を着ている時はいいですが、休みの時に制服を脱いで、悪い事をして捕まり、調べたら警察官であったということが時々ニュースに出ています。着ているものを脱いだ時に、誘惑されてしまうのです。私たちは、キリストを着ていることを忘れないでいましょう。そうすれば、肉も欲に心を用いることがありません。

●アダムとエバは、神が与えてくださった衣を身にまとっていた。
 アダムとエバは、すばらしいエデンの園で過ごしていました。しかし、蛇の誘惑に負けて、善悪の知識の実を食べて失敗しました。彼らは、裸であることに気付いたのです。これは私の考えですが、アダムとエバも、光り輝く栄光の衣を着ていたのではないかと思います。しかし、罪を犯した時にそれが取り去られ、裸であることに気がつきました。
 神様は「アダムよ」と名前を呼ばれました。私たちも、一人ひとり神様が名前を呼んで、不思議な導きで教会に来て、神様に出会ったのです。
 アダムが、神様との関係が断たれ、栄光の衣がはがれ、地上で苦しまなければならないことを宣告されました。しかし、神様はアダムにプレゼントをされました。それは毛皮でした。その毛皮を作るためには、動物を殺さなければなりませんでした。動物の血を流してまで、アダムとエバを守られたのです。犠牲があったのです。
 
 私たちがキリストを着る時、キリストの犠牲の血があって、キリストを着ることができるものとされたのです。神様の愛によってその衣を着せられたのです。
 
 いちじくの葉っぱでアダムは裸を隠していましたが、それはすぐに枯れてしまうものです。神様はそのようなものではなく、すばらしい毛皮の衣をくださいました。私たちも、人間が作った自分を隠すものではなく、キリストの義の衣、愛の衣を着せてくださっていることを感謝します。

●祭司たちは、神が指定した衣を身にまとって務めをした。
 衣とは、その人の中身を表します。王服を着るのは王様だけです。警察官の服もそうです。軍服も、訓練を受けた軍人が着るものです。ふさわしい人がそれを着ます。

 同じように、神様に仕える人たちは、モーセの時代に、服装が指定されていました。基本的には白い亜麻布で作られた服でした。白は聖さを表します。

 今の時代に「キリストを着なさい」とは、服装ではなく、霊的なキリストのご性質である、聖さ、正しさ、愛を身につけなさいということです。

【デボーションポイント】
神の愛のうちに自分自身を保つために、具体的に何をすれば良いと思いますか?

 キリストの愛と正義を、いつも私たちの内に着ましょう。キリストに目を注ぎ、キリストと一つとなって、キリストにふさわしい歩みをしていきましょう。

(ガラテヤ2:20)
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」

 これは、キリストを身につけた人の告白です。私たちは、キリストを着た者として今週も歩んでいきましょう。

 

 

 

 

 

■2018年10月14日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

開心見誠(かいしんけんせい)  up 2018.10.14


主題聖句(第1ヨハネ4:9)
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。

 

 

 

 今日は、今年の主題聖句である(ユダ1:21)から、「神の愛のうちに自分自身を保つ」ことの一番目のポイントとして、「開心見誠」(心を開いて、誠意を表すこと。隠し事をせず、誠意をもって相手に接すること。)、それは一言でいうなら、「愛」ですね。
 今日は神様の愛について主題聖句(第1ヨハネ4:9)を見てみたいと思います。

1.主題聖句の内容観察
●私たちがいのちを得るために、ひとり子を世に遣わされた。

●罪人が義人となるために、罪が赦されるためのいけにえとして、キリスト をこの世に遣わされた。

●神を畏れなかった者が神を畏れる者となるように、最大の犠牲をもって、 神は愛をこの世に表された。

●罪のために神に立ち返ることができない者たちが神に立ち返ることがで きるように、罪を取り除くための代価として、神が人となられたイエスを キリストとしてこの世に遣わされた。
 
 この4つの内容観察は、少しづつ詳しく表現したものです。
 神様は罪人をそのまま放っておくお方ではありません。罪人が神様に立ち返ることが出来るように、イエス・キリストをこの世に遣わして、立ち返ることのできる準備をしてくださいました。「ここに神様の愛が私たちに示されている」と、ヨハネは言うのです。      皆さんも、「ここに神様の愛が示されている」という所を聖書の中から思い出しながら、それはどのような愛なのかを考えてみる一週間としてください。
 「神様は愛なんだ」と言って済ますのでなく、それはどのよう愛なのかをいつも思いめぐらすことによって、良心がきよめられ、死んだ行いから離れさせ、生けるまことの神に仕えるものと心が変えられていくことを感じ取っていただきたいと思います。

2.すべての人が赦されるための代価(第1テモテ2:6)
「キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。」

●信じない人たちのためにも支払われた罪のための代価。

●すべての人を神が愛されている証し。

 預言者によってずっと語られていた「罪の贖い」が実現したのが、イエス・キリストの十字架の姿です。
 この贖いの代価は「すべての人」のためであると記されています。 すなわち、信じない人も含まれているのです。神様は信じる者も信じない者も、すべての人を愛しておられることがわかります。神様にとってわが子は、良い子であっても悪い子であっても、わが子なのです。どんな人も見捨てない、無駄になることがわかっていても、そのための代価を支払う、これが神の愛です。
 例えば、賭け事に囚われて多額の借金をした息子に対して、親は他人から甘いと言われても、最後には息子も分かってくれると信じてあきらめないで、負債を肩代わりして支えていきます。
 しかし、親がどんなに息子の罪の償いをしても、本人が罪から離れなければ、最終的には親も償いきれない損失が本人自身に積み重ねられて、最後は裁きをうけることになるのです。
 神様の愛の届かない裁きがある(最後の審判)。それまでに心を入れ替えるようにと、神様は私たちに勧めておられるのです。

3.すべての人の救いを望まれる(第1テモテ2:4)
「神はすべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」
 望んでおられるのに、どうして強制的に救いに導くことをされないのでしょうか。相手の自由意思、人格を尊重されるからです。
 ロボットなら望む必要はありません。そのように救いをプログラミングすれば済むことです。望んでおられるということは、人格を持つものとして自由意思を与えられているということです。人は、自分の意思によって善を選び取っていのちの道を歩むために、自由意思が与えられた被造物なのです。
 
 神様は、「真理を知るようになること」を望んで、私たちを神のかたちにお造りになったのであり、単なる被造物ではないということを、私たちはいつも忘れてはいけません。イエス様によって救われている私達は今もなお、もっと真理を知るようにと神様は望んでおられます。それほどに神様は私たちに大きな期待の愛を注いでくださっておられるのです。

4.悪者が滅びるのを悲しまれる(エゼキエル33:11)
「彼らにこう言え。『わたしは誓って言う。――神である主の御告げ。――わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。」
 
 これは、イスラエルの家だけに語られたのではなく、すべての人たち、すべての悪人に語られた言葉です。
 私たちは、被害を受けた人の気持ちを考え、また平和を望む気持ちから、悪人が滅ぶことに安心を覚える時があります。
 しかし、神様は「人がいくら悪い者であっても滅んで嬉しいとは思わない。惜しむ心をなお持ちつづけている。だから悔い改めて生きることを選んでほしい。」と言われます。
 神様は御自分に背を向ける者に対してもあきらめずに、悔い改めの道を選ぶことが出来るようにと、働きかけて下さっているということが、ここでわかると思います。       
 神様は善人として人を造られたのですから、善人が悪者になって死んで滅びるということは、決して嬉しいことではありません。

 私たちも神様の前では悪者であったにもかかわらず、神様のあわれみによってイエス様にお出会いすることができて、信じることができるようになったのです。その恵みを思う時、この悪者にもイエス様の真実に出会ってほしいという願いをもって、彼らが滅んでしまわないように、あわれみを持つというのも私たちの最大の目指すべき心の思いではないかと思います。
 すぐにはそういう気持ちになれなくとも、私を愛してくださる神様はこのような真心からの愛を持っておられる方なんだ、ということに気付くことが今回の目的であります。神様はどれほど「開心見誠」をもって、私たちに十字架からご自分の愛をお示し下さっていることでしょうか。その愛に少しでも応答する私達の人生でありたいと願い告白して祈る、それが神の愛のうちに自分自身を保つということであります。 
 
 告白は私たちの心(感情)を変えることができます。神のことばは生きていて力がありますから、必ず罪の思いを勝利させて下さるにちがいありません。神をたたえ、救いを感謝する祈りを、御言葉から深く学んで、それを自分の口で告白し、悟ったこと、教えられたことを神様の前に祈りの言葉として感謝し、賛美していくよう努めていきましょう。

【デボーションポイント】  
 信じない者の罪も贖われているのに、どうして救われないのか?

(第2テサロニケ2:10)
「また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行われます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。」

 滅びる人たちへの悪の欺きがおこなわれるのは、救われることのないためです。愛とあわれみの神様が、悪の欺きという働きを終わりの時代に放たれる、というのは一見、矛盾しているように見えます。
 救われる人々は悪から遠ざかります。救われない人々は悪の道を選び、好んでその道を進んでいきます。ここに、偽りとか、ただ単に救われたいから、楽をしたいから、地獄の苦しみを味わいたくないから、そういう救いの目的の動機を持つ人々がおり、彼らが「本当の動機」に至るために、神の試みがやってくるということなのです。口先だけや態度や行いだけで自分がキリストを信じているかのように見せかけることが偽り者たちは出来るからです。真心からの救いを求めていないからです。
 
 みなさんがキリストを信じているのは地獄に行きたくないからですか?災いにあいたくないからですか?悪いことが起きないで幸せになるためですか?それはすべて自己中心ではありませんか?
 クリスチャンの中にも、地獄に行くのが怖いから、悪は全て裁かれるから、アダムとエバが罪を犯して神様の前に出るのを「怖がった」ような、神に対する間違った動機があります。 
 
 私たちが救いを受け入れた目的は神を愛するためです。この動機が明らかにされなくては最後の審判はなかなかやってきません。
 信じてすぐに亡くなった方は信仰の幼さのゆえに、十字架の右で死んだ強盗のように、天国に行けるかもしれません。
 しかし、長くみことばを学んできた私たちには、肉と霊の混じった幼い信仰で留まるのではなく、「私は動機が間違っていた」と気付く時間が与えられているのです。「私は地獄に行きたくないからではなく、私を愛し、私のために死んでよみがえった方のために生きるのだ」という愛の動機に気付き成長するように、神様は願っておられるのではないでしょうか。
 「真理への愛」の直訳は「真理の愛」です。「真理(=神のみことば=イエス・キリスト=神)」が私たちを愛しておられ、私たちが罪から離れて正しい「真理」の道へと帰るように、愛を注いでくださっているのに、その「真理の愛」を受け入れず、無視し、軽んじたことのゆえに、裁きが行なわれるのです。
 人生のすべての罪は十字架で処分されました。一生の罪はキリストによって贖われました。なのにその人が救われないのは「真理の愛」を受け入れなかったからです。
 
 私たちは良心が聖められているので、罪から離れようという意識があります。でも、罪から離れられていない現実もあります。良心が痛み苦しみます。痛み苦しんだ良心は神の御救いに目を向けます。そんな罪から離れられない私たちを、今も「真理」の愛によって更に「真理」に導こうと今も働いておられる神様に、私たちはもう一度心を向けます。そして神様があきらめない愛をもっておられる以上、私はその愛を信じ続けようと、再びチャレンジしていきます、これが聖い良心の応答です。
 しかし、自己中心のゆがんだ良心は、できないからやめておこう、このままでいい、と妥協してしまいます。神の愛に応えたいという動機を捨ててしまいます。行いによって神様の前に全うしようと、いつの間にか律法的になります。そして、愛とあわれみという「真理」の中心から離れてしまうのです。
 私たちが今もなお不完全なままなのに、救われていることができるのは、「真理の愛」を受け入れているからです。神を愛しているからです。
 
 愛しているのなら罪を止めよ、というのは律法の責めです。しかし、十字架は違います。十字架は真理の愛そのものなのです。あわれみなのです。そのあわれみの愛を信じて罪から離れようとするものを義と認めてくださるのです。
 罪から離れようとする、神の愛に応える動機を持ち続けることが、救いに至る大事なポイントなのです。
 そのような心を持っていたら、他人を責めることはできません。神の愛の内に自分自身を保つ、それは赦しあうという意味です。私達はこれができないから苦しんでいます。だから、神様の前にへりくだり、心砕いて、悩み苦しんで祈り、神の愛の中に自分自身を保っていきます。
 
 聖霊様があなたに「愛しているよ、赦しているよ」と語りかけてくださる御声を、あなたの良心が聞くことが出来るなら幸いです。聞くことが出来なくても聖書はそのように語っていますから幸いです。
 
 神の愛を知ることは本当に大事なことです。それがどのような愛なのか分かれば分かるほど、この愛から出たくない、出たら私はおしまいだ、と必死に神の愛の中に自分を保つように努めていくはずです。

 「開心見誠」神様の愛の素晴らしさをもっと深く味わって、本当に贖われた喜びをもって、主の再臨を迎えたいと思います。

【俳句】
 紅の リンゴの魅力  開心す
 
 真っ赤なリンゴの魅力に、つい心開いて買ってしまいますが、酸いか甘いか味のほどは食べて見なくてはわかりません。
 イエス様の赤い血潮の魅力は、私たちが心を開いて信じても、裏切られることは決してありません。

 

 

 

 

 

■2018年10月7日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

天罰覿面(てんばつてきめん)  up 2018.10.7


主題聖句(箴言11:21)
確かに悪人は罰を免れない。しかし正しい者のすえは救いを得る。

 

 

 

『天罰覿面』
悪い行いをすれば、必ず天から罰が下るということ。

 神様はどんな悪も見逃されません。罰するべきものは罰するお方です。しかし、憐れみ豊かで情け深いお方です。信じる者には、罪の処分はされていますが、信じない者には神様の処分がなされます。その裁きは行いに対するものだけではなく、神様の愛を受け入れなかったということへの裁きです。

 行いに対する律法の裁きはキリストの十字架の贖いにより、全世界の人は許されていますが、信じ受け入れない者たちには、神様の憐れみ愛を受け入れないために、もっと厳しい裁きが行われます。

 どんなにこの世でうまく世渡りしても、裁かれなかった罪は、神様が最期には裁かれます。しかしイエス・キリストの十字架の贖いを信じる人々の罪は、日々の悔い改めにより許してくださいます。

 疑わないでください。私たちは疑い始めたらきりがありません。私たちは自分で決め、決心するべきです。悪魔の「許されていない」「行いができていない」という声に耳を傾ける必要はありません。「この愛を信じます!」と意思決定をして歩んでいきましょう。

 悪魔は見えるものをもって、行いができていないとか責めて惑わそうとしてきます。しかし私たちの心は自分で決めるべきです。「私は神様に愛され守られている幸せな者です!」と告白しましょう。
神様の愛は決して変わりません。

1.(箴言24:19−20)
「悪を行なう者に対して腹を立てるな。悪者に対してねたみを起こすな。悪い者には良い終わりがなく、悪者のともしびは消えるから。」

A)悪者に対して腹を立て、妬んでしまうのはどうしてでしょう?
B)「良い終わりがない」「ともしびは消える」とは、どういう意味ですか?

 こんなにまじめにやっているのに、悪いことをする人たちの方が得して、自分が損しているようだと思える時に、このみことばを思い出してください。

 彼らは世渡りが上手です。善も悪も上手に使い分けながら、法律には罰せられないように上手く事を進めて地位、名誉、富を蓄えていき、いい目をするわけです。

 私がクリスチャンになった頃、職場の人達から、「真面目な者はバカをみる」と言われました。そういう中でクリスチャンが聖書通り生きようとしたら、本当に大変です。しかしみことばは、「悪い者には良い終わりがなく、悪者のともしびは消える」と言っています。これは、永遠に一度の最期の審判の時に、神様はどんな隠れた罪をもすべて裁かれるということです。

 神様を畏れ愛する人々に対しては、いつも忠告を与えたり、懲らしめたりされて、外れた道から立ち帰るように導いてくださいます。それは聞く耳を持っているからです。

 しかし、不敬虔な人々は神様から懲らしめられても何とも思いません。それゆえ懲らしめても意味がないので、間違った方向に行っても放っておかれるのです。邪悪な心、麻痺した心には、神様が良心に語られる声は届かないからです。

 そして不敬虔な人々は神様の声を聞く気もありません。あなたの真面目な生き方には必ず報いがあります。ですから人の前ではなく、神の前に善を行ない、できるだけみことばに忠実に生きることに心を向けましょう。

C)不敬虔な者が栄えている受け止め方(ローマ12:19)
「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」」

 被害者が加害者に直接復讐すると、倍返しや何倍もの復讐をしてしまいます。だから復讐は神様にゆだねておくことが大切です。

 神様の復讐は加害者に対してだけではなく、被害者にも心の癒やしや祝福という形で償ってくださいます。神様が豊かに償ってくださるのです。肉の体ではなく、御霊の体に変えて償ってくださるのです。

 この世における様々な迫害や苦しみに変えて、天において素晴らしい祝福で満たし償ってくださいます。
ゆえに上手くやっている悪人をうらやむ必要はありません。

2.確かな幸福(伝道者の書8:12−13) 新共同訳聖書から抜粋
「罪を犯し百度も悪事をはたらいている者が/なお、長生きしている。にもかかわらず、わたしには分かっている。神を畏れる人は、畏れるからこそ幸福になり悪人は神を畏れないから、長生きできず/影のようなもので、決して幸福にはなれない。」

 悪人の幸せは影のようなもので本質ではなく、決してつかめないが、主を畏れる人は幸せになるとあります。これが両者の大きな違いです。主を畏れるか畏れないかが分かれ道です。

A)主を恐れる人は、どうして幸福になるのでしょう。

 いいことをして仲良く暮らすのが幸せだとか、自分の願いがかなったら幸せという考え方があります。

 また、平安があれば幸せという考え方もあります。神様は聖書の中に幸福の条件として、この世と違う条件を出されています。それが、前述した「神を恐れるか否か」です。

 その理由を考えてみてください。あなたの内におられる真理の御霊が答えに導いてくださいます。

 ひとつの根本的な答えのヒントは「人は一度死ぬことと、死んだ後に裁きにあうことが定まっている」というみことばです。主を恐れることは永遠の命の保証であり、死後の裁きを受けるという死の恐れから解放されます。

B )悪人はどうして幸福になれないのでしょう。
A)の逆です。自分で考えてみてください。

【デボーションポイント】
主を恐れることが、どうして幸福を左右すると思いますか。

 この世の考え方に影響を受けてしまい、正しくみことばに忠実に、主を恐れて生きることをあきらめないでください。

 また、信仰を持って長いからといって、油断してはなりません。あきらめたら確かに楽かもしれません。

 またあるクリスチャンのように、天国の中に入れなくても門番でいいとか言わないでください。そういう人は歯ぎしりする場所に行ってしまうことになります。油断していたら天罰覿面です。歯ぎしりする場所がどこにあるかは明らかにされてはいませんが、ひどい所であることは確かです。

 例え今行いが出来ていなくても「頑張る」と決して「あきらめない」という決心をしてください。

 天罰覿面の覿面は「すぐに」ということではなく、神様のお考えの時にという意味です。その時に罰せられるのです。油断したりあきらめたりしないでください。

「しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。」」
(ルカ21:36)

 

 

 

 

 

■2018年9月30日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

陰徳陽報(いんとくようほう)  up 2018.9.30


主題聖句(マタイ6:3〜4)
あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

 

 

 

 ここ数回、「主を恐れる」ということで皆さんと共に聖書を見てきています。
 私たちが生まれてから最初に学ぶこと、知ること、考えることは、神様を恐れ敬うことです。
 日本では昔から神様仏様、一般的には「お天道様が見てますよ」という言い方で、悪いことをする人にも良いことをする人にも、相応の報いがあることを教えて、宗教心が道徳性を高めるようにしていました。
 私たちは宗教をしているのではありません。天地を造られた神様が事実おられるから、その方を恐れ敬うのです。そして神様は私たちに、善に親しむ生活をするようにと、教え導いてくださっておられます。そのために土台となるのが、神を敬うという尊い心の姿勢なのです。
 今日の主題「陰徳陽報」は、誰にも知られないように良い行いをすると、必ず良い報いがあるという意味です。人の目に目立つようなことをしないで、良い行いをすべき時にはする、これを重ねることによって必ず良い報いがありますよ、なぜなら良い行いに報いる方がおられるから、ということです。
 そのようなみことばが(マタイ6:3–4)にありますので見てみましょう。
 私たちは人の目を気にして生きる人生ではなく、神様の慈しみ深い目の前で歩んでる人生なのだということを印象付けるようなみことばですね。
 人から誉れを得ようとしてはいけません。「隠れた所で」というのは、人の目とは違う見方をするという意味も含んでいます。神様は、人々の考えや価値観や主観、この世の流行に左右されず、真実な神様の清い心の目で、私たちのすべてを見ておられます。そこに私たちは希望を持つのです。
 隠れた所で隠れた行いを見てくださるお方は、報いてくださるお方です。このお方はどんな報いを、主を恐れる者にくださるのでしょうか。5つのみことばから見ていきましょう。

1.詩篇25:12               
「主を恐れる人は、誰か。主はその人に選ぶべき道を教えられる。」
 
 神様は、「あなたが選ぶ最善の道はこれだよ」と教えてくださり、また、あなたが神を敬っていれば自然とベストの道を歩めるようにと導いてくださいます。
 私(辻師)もイエス様を信じる前は、将来のことを心配していましたが、イエス様を信じてからは、先のことを心配することががなくなりました。神を恐れイエス様を信じていれば、なるようになるものです。神がその人に「選ぶべき道を教えられる」からです。

2.詩篇34:7                 
「主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。」
 主の使いとは天使であるかもしれませんし、人であるかもしれません。取り囲んでいるというイメージより、いつでもあなたを助けられるように神様が用意しておられるということです。
 天使の幻を見ることよりは、あなたが神を恐れて助けられている方がもっと幸いです。天使は見えなくても、あー!と思うような偶然の出来事で助けられたことがあるなら、それはあなたが主を恐れている報いとしてもたらされたものだと感謝してください。

3.箴言19:23                    
「主を恐れるなら、いのちに至る。満ち足りて住み、わざわいに会わない。」

 主を恐れるということは実践的なことです。生活の中で、主を恐れる行動や言動をする人は、結果、いのちに至り、満ち足りて、災いに会いませんよ、ということであり、災いに会いたくないので主を恐れるというのは動機が間違っています。
 私たちが主を恐れる動機は、私たちを愛して私たちの罪の身代わりに苦しみを負ってくださり、罪の赦しを得させてくださった、そのゆえに神様を恐れ尊ぶのです。それだけでも十分な神様の恵みを受けている上に、神様を恐れ敬うことによっても災いに会わないという報いがもたらされるということです。
 満ち足りる心は金銭や物質にはよりません。真実な愛に満たされるという最高の心の満たしを、皆さんも早く味わっていただきたいと思います。そのためにも主を恐れることは大事なポイントです。

4.箴言22:4                 
「謙遜と主を恐れることの報いは、富と誉れといのちである。」
 
 一般道徳の基本である、神を恐れ敬う謙遜な心は、人々からの価値評価も高いのです。品性、品格、内面的なものに対する価値です。主を恐れることによってもたらされる誉れ(評価)というのは、あなたの人格的な評価です。これも評価を得たいから主を恐れるのではありません。主を恐れる結果、富と誉れといのちが報いとしてもたらされるのです。主を恐れる者に神様の報いは必ず与えられるのです。

5.イザヤ33:6                  
「あなたの時代は固く立つ。知恵と知識とが、救いの富である。主を恐れることが、その財宝である。」

 「財宝」というのは尽きることがない源という意味を含んでいます。この時代に安定した人生が送れるのも、知識や知恵が、救いの富として生活の中で実を結んでいくのも、主を恐れるということが源となって、その報いとしてもたらされていくものなのです。
 このように、主を恐れるということは、天においてだけでなく、この地上においても、神は報いとして見える結果を与えてくださいます。
 皆さんには、この一週間、主を恐れることが報われているかどうかを黙想していただきたいと思います。今までを振り返ってみて、偶然の助けがあったとか、そういうものはすべてあなたが主を恐れ愛して信頼しているから、報いとしてそのような守りや祝福があったのです。主を恐れていることへの報いとしてどんな結果が得られているか、ぜひ見つけて頂きたいとおもいます。
 もしあなたがそういうものは一つもないと思うなら、本当に正しく主を恐れているか、自分の心の隠れている部分に目を向けてみて、何を優先しているのか、神か、この世のものか、と探ってみてください。
 人は生活の安定を願っています。その安定をお金で支えようとするこの世の考え方にクリスチャンも影響されると、お金の計算をするようになります。
 神様の愛があればそれで充分、たとえ飢え死にしようと、この肉体が滅びるだけで、私の魂は罪から解放されて神の国に上げられるのだから、そのほうがよほど幸せだ、というくらいに、神様の愛に満たされる喜びを知っておくことが必要ではないでしょうか。
 以前、アダムとエバのところで、主を恐れるという話をいたしました。
 アダムとエバが罪を犯して、自分たちが裸であることに気付いて、神様の前に出ることを恐れて隠れました。それは罪を犯したことを神様に知られた恐怖ゆえの恐れでした。
 しかし、アダムとエバはもっと正しい恐れを体験します。二人はエデンの園からは追い出されましたが、神様は彼らの裸を隠すために(罪をおおうために)、初めて動物の血を流して、二人のために皮の衣を作ってくださったのです。裸でずっと暮らさなくてはいけなかったアダムとエバは神様の温かい愛のおおいに感動したことでしょう。そのとき、二人は尊敬の気持ちからの恐れを初めて体験したのです。罪を犯したけれど正しく神様を敬う心を知ったのです。
 これは私たちの十字架と重ねることができます。確かに私たちは罪人で、永遠の滅びに向かうものでありましたが、神はそのことを望まず、何とか滅びから救い出すことはできないかと、罪のない神のひとり子イエス・キリスト、即ち、神ご自身が人となられて、血を流して、私たちの罪を覆うという愛をお示し下さいました。
 ここで私たちは神を敬い恐れるという体験をするのです。それゆえ良心が聖められて、神様の恵みとあわれみの中で、赦された罪人としての人生を歩むことが出来るようになるのです。赦されて感謝、それはイエス様の苦しみがあってのことなのだという神様への愛がそこに生まれてくるのです。
 そのように神を敬い恐れる心があって初めて、歩むべき道が教えられ、助けがあたえられ、満ち足りた生活をし、富と誉れと命を得ることが出来るのです。
 主を恐れるということが、宝を生み出す打ち出の小槌のように、恵みと祝福の中心となります。そのような一週間を過ごして頂きたいと思います。

【デボーションノート】               
 主を恐れることが報われているかを思いめぐらしてみましょう。

【俳句】
 主を恐れ  今年もすでに  九月尽   

 今日は9月30日、月の一番最後の日、九月が尽きて終わるので九月尽。秋の終わり、秋が深まり冬が近づくという季節の終わりを表現しております。
 時の過ぎ去る速さを感じながら、残りもあと三ヶ月、主を恐れて、歩みましょう。

 

 

 

 

 

■2018年9月23日 日曜礼拝メッセージより(辻和希伝道師、横路伝道師)

主を恐れる者は悪を離れる  up 2018.9.23


主題聖句(箴言16:6)
恵みとまことによって、咎は贖われる。主を恐れることによって、人は悪を離れる。

 

 

 

◎デボーションのための聖書箇所
★聖書における恐れ(畏れ)の概念
・尊敬してうやうやしく畏れる(レビ19:3)
・怖くて恐れる(創世記32:11、マルコ6:50 etc.)

【辻和希伝道師メッセージ】
A)悪を離れる
(箴言16:6)
「恵みとまことによって、咎は贖われる。主を恐れることによって、人は悪を離れる。」

◎咎が贖われる対象→神の恵みを受け罪を悔い改め神を信じる信仰者
◎悪→正義の神が嫌うもの、裁きの対象
◎主を恐れる
・崇拝と畏敬の念で主と接する(礼拝)
・主に大きな敬意を払う(日常)

 今週は、主を恐れるというテーマで、箴言から学んでいきたいと思います。箴言という書物は、長い期間にわたって教えられ、語り継がれてきた、ことわざや格言が収録されている書物です。一般の人々が書物を持つことができなかった当時において、短く深くまとめられた教えは、人々の生活をより良いものにしていきました。特に聖書の箴言は、主を恐れることを土台としているのが特徴です。

 聖書において、主を恐れるというのは、主を尊敬してうやうやしく畏れるという意味です。日本語では、漢字は“恐れ“に統一されていますから、恐怖を連想させてしまいますが、原語のへブル語の意味には、尊敬という意味が含まれているのです。

 では、主を敬うことがなぜ人を悪から離れさせるのでしょうか。それは、神様が義の神で、悪を絶対にゆるすことが出来ないお方だからです。悪を嫌われているのです。私たちが主を敬うと言いながら、主の嫌われることをするのは、本当に敬っているのでしょうか。違いますよね。敬うというのは、相手を大事にし、相手の喜ぶことをしようとします。私たちが、悪を離れることができるのは、主の愛に応えたいという想いからなのです。

 主を礼拝するとき、崇拝と畏敬の念で主と接していこうとするのは、クリスチャンとして自然にできると思いますが、普段の日常においても、主に大きな敬意を払うことを心がけていきたいものです。

 なかなか毎日忙しい中で、主との時間を取ることが難しいかとは思いますが、日常の中でこそ、主に敬意を払うことを忘れず心がけていきましょう。

【横路伝道師メッセージ】
B)主を恐れる
(箴言16:17)
「直ぐな者の大路は悪から離れている。自分のいのちを守る者は自分の道を監視する。」

◎直ぐな者
 直ぐな者とは、主を恐れる者、素直に主を信じる者、主を愛している私たちが直ぐな者です。

◎大路
 信じる直ぐな者の道は、大きな道です。

◎悪から離れている
 正しい良心を持った人は、悪から離れて広い安全な道を歩むことができるということです。

◎自分のいのちを守る者
 主を恐れる者は、自分に与えられた永遠のいのちを守る者と言えます。私たちは天の御国に行ける約束をいただいています。これを私たちは守らなくてはいけません。

◎自分の道を監視する
 監視するとは、自分の毎日の歩みを注意深く見守ることです。命を守るため、悪から離れるために見守るのです。
 監視のポイントは、神様の愛から離れていないか、初めの愛から離れていないかなどです。
 
 この監視について、自動車の運転に例えて考えてみました。運転するにあたり、自分の命と人の命を守らなくてはなりません。そのために、自分の運転をチェックしないといけないと思います。初心に返り、ルールを守り、注意をして周りを見ることが大切です。それがないと、周りの人に迷惑をかけてしまいます。
 神様は目には見えませんが、私たちをいつも見ておられます。誰も見ていないからといってルールを守らなかったり、無謀な運転をすると、大変なことが起こってしまいます。
 慣れてぼーっとして運転したり、長時間運転して疲れている時は、危ないですね。信仰生活も、マンネリ化してしまうと危険です。
 
 また、夕方になるとライトが必要です。私たちの心は、みことばで照らしていただいて、自分の心をチェックしないといけません。神様のお心の通りに歩みたいと思うなら、たくさんみことばが必要です。私たちの心の動機をみことばに照らしていただきましょう。
 
 自分をよく見てみる時に、私たちは自己中心の思いがあったり、あわれみの心を忘れたり、すぐあきらめてしまったり、怠惰で横着な者であったり、自分の思いを手放せない者であったり、ごうまんな者であったりします。みことばに照らされる時、そのような弱さや罪のある自分を発見します。しかし、このような者をも選んでくださり、すべてを赦して受け入れてくださり、命を捨ててまで私たちを愛し、子どもとしてくださった父なる神様の大きな愛を思い出すと、感動するのです。

 みことばに従うことは難しいですが、そこで葛藤する人は幸いだと思います。それは、みことばを行いたいという願いがあるから葛藤するのです。あきらめてしまうのか、チャレンジし続けるのか、神様は見ておられます。

 私たちは自分の心を探り、あきらめてしまうのではなく、神様の助けを信じてチャレンジし続けましょう。

「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」
(ピリピ4:13)
「あなたを強め、あなたを助ける。」(イザヤ41:10)
 これらのみことばを宣言して、チャレンジを続けるように神様は期待しておられます。毎日の成長はわずかですが、必ず大きく成長します。

 そのようにチャレンジを続け、心を見張り、命を保つことが大切です。そのためには、神様の愛に返ることが必要です。神様の愛に対する深い感動を思い出し、神様の愛に応答し、愛を動機として歩んでまいりましょう。

 

 

 

 

 

■2018年9月16日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

老馬之智(ろうばのち)  up 2018.9.16


主題聖句(レビ19:32)
あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。

 

 

 

 今日は敬老の祝いにちなんだメッセージです。
 老馬之智(ろうばのち)とは、経験を積んで、物事に練達した知恵のことです。
 
 馬は一度通った道は決して忘れません。特に老馬は多くの道を通って来たという経験があります。
 これは中国の戦国時代にあった話です。戦いが長引き冬になり雪で状況が判らなくなってしまった時、将軍が老馬を放ちました。するとその老馬は通るべき道にみんなを導いてくれたという故事からきた話です。
 私たちも経験を積んでいくに伴い知恵を増します。知恵の宝庫とも言うべき高齢者の方々が、日本には多くおられるということは日本の財産です。
 
 しかし、高齢者は経済成長の観点からは若い人々にうとまれてしまいがちです。私たちは、この故事のように、老馬に知恵を乞う謙虚さを身につけ、年配の方々を敬うことが大切です。
 
 レビ記は神様の宗教的な規律、律法が記されています。心構えの第一は主を恐れることであり、見える形では老人を敬うということです。
「老人の前では起立し」とあります。
それほど敬虔な心で、人生の経験者である老人を敬うことが大切です。

1.老いた父と母を敬う(箴言23:22)
「あなたを生んだ父の言うことを聞け。あなたの年老いた母をさげすんではならない。」
 
 両親の言うことを聞き、さげすんではならないという意味です。外目には老人は弱々しく見えます。しかし認知症の方でも昔の事は忘れていません。彼らの語る昔のことは、しっかりと聞いて心にとめる必要があります。それは知恵の宝庫だからです。さげすんではなりません。
 認知症によって昔の記憶がさらに繊細に思い出されてくるようです。これは不思議な能力です。
 みことばを3つ挙げますので、ぜひ読んでください。

A)(箴言1:8〜9)
「わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。 それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである。 」

 日本の男性にとっては頭の花輪という習慣はありませんが、外国では喜びの象徴であり、栄えの証しです。
 また首の飾りというのは、胸に飾るものなので、自尊心、誇りを表します。そのように父母の訓戒を大事にしましょうということです。

B)(箴言4:1〜6)
「子どもらよ。父の訓戒に聞き従い、悟りを得るように心がけよ。 私は良い教訓をあなたがたに授けるからだ。私のおしえを捨ててはならない。 私が、私の父には、子であり、私の母にとっては、おとなしいひとり子であったとき、 父は私を教えて言った。「私のことばを心に留め、私の命令を守って、生きよ。 知恵を得よ。悟りを得よ。忘れてはならない。私の口の授けたことばからそれてはならない。 知恵を捨てるな。それがあなたを守る。これを愛せ。これがあなたを保つ。 」

 失敗も含め、父の教訓に聞き従いなさいということです。失敗はむしろ教訓となります。

C)(箴言6:20−23)
「わが子よ。あなたの父の命令を守れ。あなたの母の教えを捨てるな。
それをいつも、あなたの心に結び、あなたの首の回りに結びつけよ。これは、あなたが歩くとき、あなたを導き、あなたが寝るとき、あなたを見守り、あなたが目ざめるとき、あなたに話しかける。 命令はともしびであり、おしえは光であり、訓戒のための叱責はいのちの道であるからだ。」

 特に母親は子どもを心配するあまり、小さいことを注意したりします。それは子どもを愛しているからです。それを無視したりさげすんではいけません。
 両親を敬うということは主を敬うことにつながります。ですから、十戒の中に「あなたの両親を敬え」とあります。
 創造主を敬うということは、あなたを生んだ両親を敬うというところから始まります。

2.美しく老いる(テトス2:2−3)
「老人たちには、自制し、謹厳で、慎み深くし、信仰と愛と忍耐とにおいて健全であるように。 同じように、年をとった婦人たちには、神に仕えている者らしく敬虔にふるまい、悪口を言わず、大酒のとりこにならず、良いことを教える者であるように。 」

 婦人のみならず男性も同じです。お酒に逃げてしまってはいけません。また、すべての人にとってこれらのことは必要なことです。このような好かれる老人は祝福する特権を持っています。
上から受けた祝福を次世代に継承していく特権が与えられています。

A)祝福する特権(創世記48:9−10)
「ヨセフは父に答えた。「神がここで私に授けてくださった子どもです。」すると父は、「彼らを私のところに連れて来なさい。私は彼らを祝福しよう」と言った。 イスラエルの目は老齢のためにかすんでいて、見ることができなかった。それでヨセフが彼らを父のところに近寄らせると、父は彼らに口づけし、彼らを抱いた。」

 これは年老いたヤコブがヨセフの息子たちに祝福を与える箇所です。
 高齢になった人が最も大きな祝福を与える特権をもっています。ですから、高齢者の方々は悪口ではなく子孫を祝福する特権をもっているということを自覚して、若い人々を祝福してください。私もそのように祝福を語りながら天に召されたいと思います。
 そのためにも、尊敬される人として、自制、謹厳、慎み、信仰と愛と忍耐ということにおいて敬虔にふるまうことを心がけていきましょう。
 愚痴ばかりの希望のない老後にならず、また自分の楽しみばかり追うのではなく、人々を祝福する老後を送りましょう。そのように人々に喜ばれる老人になるのが美しく老いることです。

【デボーションポイント】
老いることの素晴らしさ、幸いについて考えてみましょう。

(参考)昔話「花咲かじいさん」から教えられること。
『正直なおじいさんとおばあさん、欲深いおじいさんとおばあさんという二組の夫婦が出てきます。
 正直なおじいさんは子どもがいないので一匹の犬をシロと名付けて子供のようにかわいがっていました。
 ある日おじいさんはシロに従って、畑を掘ってみるとたくさん小判が出てきました。それを見ていた隣の欲張りじいさんは、シロを無理やり借りて来て畑を掘ってみましたが、出てきたのはガラクタばかりでした。それに腹を立ててなんとシロを殺してしまいました。
 悲しんだ正直じいさんはシロを庭に丁重に埋めてやりました。そこに一本の木が生えてきて、みるみる大きくなり、正直じいさんはその木を切ってシロが好きだった餅をつくために臼をつくり、それで餅をつきました。するとどんどん臼の中から財宝があふれてきました。
 それを見た欲張りじいさんはその臼を借り、餅をついたら小判ではなく汚物があふれてきたので、怒って臼を壊して燃やしてしまいました。 
 正直じいさんは悲しんでその灰を持って帰り畑にまくと、風がその灰を運んで周りの木にかかり、みごとな花が咲き乱れました。
 そこへ殿様が通りかかり、灰をまくと枯れ木に花が咲いていくその不思議さと美しさに感動し、正直じいさんにほうびを取らせました。 それを見た欲張りじいさんは、さっそくその灰を取り上げ、自分もほうびをもらおうと殿様の行列が来た時に、灰を木にふりかけましたが、灰は殿様にばっさりとかかり、とうとう牢屋に入れられてしまいました。』という話です。

 ここで何を学びますか。欲深い年寄りは嫌ですね。また、この正直じいさんは欲深いじいさんを少しも責めません。起きたことをそのまま受け止めて怒らず穏やかに前向きに過ごしています。私たちはこの両方のおじいさんから学ぶことが出来ます。
 失敗や成功、様々なことを経験してこられた高齢者の方々を敬い、大切にしましょう。

【俳句】 
虫の音に 耳を傾け なに思う

 小さな虫の音にも耳を傾けるなら、色々なことが思わされます。
 忙しいときこそ自然に耳を傾け、心をきよめて正しい良心に心を変えて、神を恐れる心からでてくる穏やかさを大切にしましょう。
 そのように謙虚な心で、高齢の方々の話しにも、ぜひ耳を傾けてください。

 

 

 

 

 

■2018年9月9日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 弓調馬服(きゅうちょうばふく)  up 2018.9.9


主題聖句(箴言14:27)
主を恐れることはいのちの泉、死のわなからのがれさせる。

 

 

 

 今週の主題は「弓調馬服」です。
 「良い弓を選ぶには弓の調子を整えたうえで、どの弓が強いかを決めましょう。良い馬を選ぶためには服従する馬を選んで、その中から良い馬を選びましょう。良い人材を選ぶには誠実であることをまず第一に選び、その中から能力のある人を選ばれたらいいでしょう」と、昔孔子が魯の国の王様に、良い人材とはまず第一に誠実であること、と答えたところから、何事もまず基礎を固めておくことが第一であることのたとえとして、この四字熟語が使われるようになりました。

 私たちにとって何が一番大事な基礎なのかを(箴言14:27)からみてみましょう。
 泉のある所には人が住み、町が出来ます。湧き水のある所を選ぶのが生活の第一条件といえます。
 そのように、「主を恐れること」は、人が生きるために必要な第一の条件であると捉えることが出来ます。

1.知識のはじめ(箴言1:7)  
「主を恐れることは知識のはじめである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。」
 主を恐れることは、いのちの泉であるとともに、知識の初めでもあると書かれています。
 私たちは人格的な優れた能力をもっていますが、人として能力が発揮されるためには知識が必要です。そして最初に知るべきことは主を知ることであると語られています。
 このことをアダムとエバの話からみていきましょう。アダムとエバが最初に学んだ知識とは何だったでしょう。

◎アダムとエバが学んだこと(創世記3章から)
A)善悪の知識の木から取って食べる前と後との違いは? 
 創世記3章は、「食べるな」と言われた木の実を「食べたい」と思ったエバが、「死ぬことはありません、神のようになれるんです。安全ですよ、もっとすばらしくなるんですよ」という偽りの情報を、欲求のゆえに信じてしまいました。食べたら死ぬという恐怖より、食べたいという欲求の方が強くなって、食べてしまったという話から始まっています。
 善悪を知る木の実を食べる前には、自分たちは裸でも恥ずかしくなかったのに、木から取って食べた後は、自分達が裸であることを恥ずかしく思ったという、この違いは何でしょうか。
 善悪の知識の木とは一体どういうものなのでしょうか。
 アダムは成人として造られたので、最初から成人者としての知識を持っていたと考えられます。その証拠に言葉を話し、神様と対話が出来ていました。ですからこの善悪の知識の木の実とは、善悪を知るためのきっかけ、善悪を判断する鍵であったと推測されます。
 木から取って食べたことで、何が善で何が悪か、というような考え方をする能力が目覚めたのです。
 裸は聖書では罪の姿を象徴し、隠された罪をあらわにして恥をかかせるという意味に使われます。ですから裸に気付いて恥ずかしいという気持ちを感じたということは、二人はそこで善悪を判断したということです。そして恥ずかしさを隠す、罪を隠すという行動をとったのです。
 つまり、善悪の知識の木から取って食べる前と後との違いは、自分の今の状態が善なのか悪なのかということを判断する能力に目覚め、裸であることに気づいて、これは恥ずかしいことだ、人に見せるものではない、という善悪の判断がここでなされたということがわかります。
 善悪の判断をする考え方が私たちのうちになかったら、もっと楽に生活できますね。良いか悪いか、合格か失格か、二つに二分するような考え方や能力は、善悪の知識の木の実を食べた時に目ざめたのですね。

B)善悪の知識の木から取って食べた後の二人の行動は?
 3章7−8節では二人は、恥を隠す、裸を隠すという行動を取っただけでなく、神様の前からも身を隠しました。神の目に自分をさらすことをよくないことと思いました。
 食べる前は、神様の前に裸であろうが、良い悪いを判断しませんから気にもしなかったのに、善悪を判断する能力がついたとたんに、良くない、恥ずかしいと思い、神の前に自分の姿を見せたくないと思って隠れたというわけです。
 私たちもこの能力を引き継いでおりますから、神の前に出れる自分であるかないか、自分は良いクリスチャンか良くないクリスチャンか、とか色々考えます。善悪を判断する能力が働いて、悩ましいクリスチャン生活の中で右往左往するのです。

C)これらの体験を通し、二人はどんな知識を得たと思いますか?   10節には、隠れた理由を「恐れた」と記してあります。神の前に立つことが出来ない「恐れ」とは何でしょうか。
 アダムとエバは、神様の戒めを破った結果として裸であることに気が付き、裸の恥を通して、この姿では神の前に出ることはできないと思って、二人は隠れました。その結果、得たのは「神を恐れる」という知識でした。
 アダムとエバは知識の始めに「主を恐れる」ということをここで体験しました。自分は悪い姿であると思った時、神の前に出るのは怖いと思ったのです。
 神様はどんな方かということを本能的に悟ったと言えます。神は聖く恐れ多い尊ぶべきお方、だからこんなはずかしい姿で神の前に出ることはできない、と神を恐れる体験と知識を得たのです。これが知識のはじめです。
 人は失敗を通して学ぶことが多いのです。主を恐れる知識を、アダムとエバは罪を犯したことによって得ることができました、そう考えると何故、神様が二人の失敗を止められなかったかがわかります。
 主を恐れることはいのちの泉なのです。エデンの園で主を恐れずに過ごすということはいのちの泉を持っていないことになります。主を恐れるということはどういうことかを罪を犯して初めて気づいたわけです。
 私たちは、罪を犯すたびに落胆と失望を感ずる、というのはお門違いで、もともと私たちは裸のもの、罪の存在のものであります。神のように永遠に生きる完全なものではないのです。
 私たちは神のかたちにつくられたのであって、神ではない、似た者なのだとわきまえて、自分の罪深さに気づいた時は、自分は裸の者なのだと自覚して、神様のあわれみと愛によって裸を覆っていただく、義の衣(愛の衣)を着せていただくということが必要なのです。
 自分では裸を隠すことはできません。信仰による義の衣を頂くことによってのみ、罪がまるでないかのように覆って頂くことができるのです。
 神様は、人が罪を犯すという代償を支払ってでも、主を恐れることを知っていのちの泉を得ることが大事、とお考えになったのです。
 全く罪のない人間で過ごすより、罪人であっても主を恐れて、いのちの泉を心に持つ方がもっと大事だという神様のお考えはすごいですね。
 自分の信仰生活を振り返ってとがめられることが多いと思いますが、罪を犯す前も裸であったのです。自分は罪人だと気付いて神の前に出れないと思ったけれど、神様はそこから愛とあわれみと救いの道を与えて、神は愛であるということを、アダムとエバ、そしてその子孫たちに悟らせ教えてくださっていると言えるのではないでしょうか。
 罪を犯す代償よりも、神を知る、神を恐れることがもっと大事であると、受け止めていただければと思います。

2.知恵のはじめ(箴言9:10)   
「主を恐れることは知恵のはじめ、聖なる方を知ることは悟りである。」
 私たちが知恵を積み重ねていくためには、「主を恐れること」がまず初めの知恵であるということを、ギデオンの戦いの知恵を見ながら、見ていきたいと思います。

◎ギデオンの戦いの知恵(士師記7章から)   
 士師記7章は、13万5千人の敵に対し、集まった3万2千人のイスラエルの兵士を、神様が300人に減らすように言われ、ギデオンはその通りにして300人で敵の陣営まで行き、「主の剣、ギデオンの剣だ」と叫んで戦い、勝利したという話です。

A)300人の兵士が選ばれた理由はなんだと考えますか?
 神様は恐れおののく者は帰りなさいと言って、3万2千人を一万人に減らされました。更に、水を飲むときに膝を立て、手ですくって飲む者と、水面に口をつけて飲む者とに分けられました。前者が300人、後者が9700人、神様は少ない方の300人で戦うように言われました。
 彼ら300人は、神に忠実な、神を恐れる心を持っている人達だったのです。まさに「弓調馬服」、主が戦われるんだという信頼をもって勇気を内側に秘めていた兵士たちを選ばれたと思われます。

B)彼は、勝利の確信をどのようにして得たのでしょう。
 13万5千人の敵を相手に、300人で戦うとはギデオンも恐ろしかったことでしょう。
 攻める前の夜に神様はギデオンに、敵の陣営に若い者と二人で下っていき、敵の話していることを聞いてきなさいと言われました。そこで行ってみますと、敵の一人が、自分たちのテントが打ち壊された夢の話をしていて、もう一人が「それはギデオンだ」とその夢のときあかしをしていたのです。
 それを聞いたギデオンは、「これは神のなされることだ」と確信を得て、味方の陣地に帰りました。
 それからギデオンは300人で戦う方策を考えました。火のついたたいまつに壺をかぶせ、大群であるかのように見せるため3隊に分かれ3か所から、一斉にに壺を割って「主のための剣だ、ギデオンのための剣だ」と叫ぶのです。ギデオンが必死に考えた策でした。それでも無理と思える策ですが、神様を信頼して行う策略として成功させることが大事でした。そして、大勝利を得たのです。
 ギデオンは神様に告げられたお言葉に従いました。神様の示しに従っていく、それが勝利の確信をもつ大事なポイントです。確信をもたないで戦いに出ることは、不信仰という心がそこに起こるので、神様が勝利をご計画されていても、不信仰のゆえにかえって害を受けてしまうことになります。
 神様はいつも私たちに、確信をもってみことばに従っていくことを勇気づけ、励ましてくださっています。
 ギデオンは、気が小さいのを神様が知っておられ、その弱さを補ってくださる神様の啓示、幻を見せられて、戦う決心をしたのです。
 「主を恐れることは知恵のはじめ」の「知恵」とは、方策、策略、戦略ではなく、私たちが考える方策を、主を恐れ、主が祝福して、主が成功させてくださると信じる、それが「知恵」ということです。
 勝敗を決めるのは戦いの神、主です。私たちの策略ではなく主のみこころです。私たちが窮地に追い込まれた中で考えたことを必ず成功させて下さるのは主です。主を恐れる者とともに神は働いてくださるのです。
 勝利の確信は、主がこれを後押ししてくださるという信仰をつかむことです。これが大事な勝利のポイントと言えるのではないでしょうか。
 皆さんも士師記7章を読んで皆さんなりに、そこに隠されている勝利の秘訣、そこにどんな知恵が含まれているのかを見い出されてはいかがでしょうか。
 このようにして主を恐れることは、知識のはじめ、知恵のはじめであり、いのちの泉である、ということを考えることができます。

【デボーションポイント】      
主を恐れることが、どうしていのちの泉と考えることができるのでしょう。

 

【俳句】          

台風の  被害受くたび  知恵がます

 台風が来る前に備えるよりも、台風が来て被害を受けた後の方が、次に来た時の備えを賢くすることができます。
 苦しむことは無駄ではありません。失敗することも無駄ではない、悩むことも決して無駄ではない、むしろ苦しんだ後そこで得る知識と知恵、主を恐れることを学んでいっていただきたいと思います。

 

 

 

 

 

■2018年9月2日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 金城鉄壁(きんじょうてっぺき)  up 2018.9.2


主題聖句(ユダ1:21)
神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。

 

 

 

 中日新聞のほのぼの通信という欄に投稿された記事をご紹介致します。
 投稿者は46〜7歳の男性で、幼稚園の頃お母さんを亡くされました。かわいそうに思った隣りに住むおばちゃんが毎日、幼稚園に持って行くお弁当を作って持たせてくださったそうです。そのことを40年たっても忘れずにいて、ぜひあの時のおばちゃんにお礼を言いたいけれど、もう住所がわからないというので、新聞に投稿されたそうなのです。

 そして数日たって、そのおばちゃんから新聞社に手紙が届きました。「その頃のことはよく覚えています。お母さんが亡くなってお父さんと二人暮らしになり、自分にはお弁当がないという寂しい思いをさせたくないという母親のような気持ちでお弁当を作りました。お礼を言いたいと言われていましたが、あのことを40年近く覚えていてくれてただけで涙があふれて、自分こそ感謝したいほどです」というような内容だったそうです。

 お弁当を通しておばちゃんの愛の心に支えられ、その思い出を持ち続けて、それが心を健全に保つための支えとなったという記事ですが、私たちもどこかでそういう親切や恩を受けたなら、そのおかげで今の自分があるという気持ちを忘れたくないものですね。

 今日の四字熟語「金城鉄壁(きんじょうてっぺき)」は、金や鉄のようにきわめて堅固な城壁の意味で、非常に守りが固いことのたとえ、また、非常に堅固で、つけこむすきがないことのたとえです。

 神様の愛のうちに自分自身を保つ、すなわち「金城鉄壁」の守りの中に私たちの霊、魂はあるのですから、そこにずっと留まりましょうという、これが今日のテーマであり結論であります。聖書からそのことを見ていきましょう。

1.完璧な守り(第1ヨハネ1:7)   
「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」
 
 私たち人間の一番の敵は外側ではなく、内側の罪の働きかけであります。罪が私たちを堕落させて神のさばきのもとに引き込んでしまうので、罪から離れることが、天に上る救いの道につながるわけです。

 神が光の中におられるように、私たちも隠すところなく、すべて明らかな状態で正直に歩んでいこうとするなら、私たちはともに光の中を歩んでいる者として交わりを持ち続けていきましょう。

 私たちクリスチャンは罪を犯すけれども、ごまかしたり偽ったりして暗闇を持つのでなく、その罪を告白し、罪から離れて光の中を歩むという生活を選び取ってきています。たとえ言い争いや、いがみ合いがあったとしても、光の中にいる交わりですから、その罪は御子イエス・キリストの血によってきよめられるのです。
 すなわちイエス・キリストの十字架で流された血は、私たちが罪を犯しても悔い改めるならばきよめていただけるという完璧な守りを与えてくださるのです。

A)イエスの血は、何をきよめるのか?(へブル10:22)
「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」
 
 善悪を判断するのが良心ですが、邪悪というのは善悪の基準が不確定で、時と場合によって、また自分の利己的考えのゆえに基準が変わって、偽りや欺きという結果をもたらすような判断をしてしまうことです。心に注がれるキリストの血とは何を象徴しているのでしょうか。

 キリストは十字架で私たちの罪が赦されるために、私たちの身代わりに神の前で裁きを受けてくださいました。私たちを救いたいという愛の心から、キリストは自ら犠牲となって十字架でさばきをお受けになりました。

 父なる神様は、ひとり子イエス様を救い主としてお遣わしになり、神様の愛を全時代の人々にお示し下さいました、その出来事を「イエスの血」という言葉で象徴しているのです。

 神は私たちをどれほど愛しているかという愛の象徴が「イエスの血」です。

 血とは命です。命をかけて罪人の罪を赦し、永遠の滅びに至らないようにと救いを与えてくださり、命がけで私たちを愛してくださっているというのが「イエスの血」にあらわされている意味です。

 私たちの心を邪悪な罪の思いから守るためにイエス・キリストの血が完璧な守りとなることがわかります。

B)きよめを受けた結果(へブル9:14)  
「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」

 神様の目から見て死んだ人間というのは、物理的には生きていても、善悪の判断が神様の基準からそれていること、特に、創造主なる神様の存在を認めないなら、神様の目には死んだ人間の状態だと聖書に書いてあります。

 死んだ行いから離れるとは、神を畏れない、神を認めない不遜な心や人生から離れて、神様の存在の実感のもとに、正しく善悪を判断する生活を選び取り、神を畏れ敬って歩む人生を選べるようになることと、このみことばに記されています。
 
 愛の力は人を造り変えます。ある姉妹は亡くなったご主人を今も大事に思っておられます。それは愛です。ご主人の愛を心に持ち続けていればいるほど、まるで今もご主人が生きておられるように、奥さんも自分の人生を、ご主人の愛の中で歩もうとされるのです。

 しかし、愛を忘れてしまうと、もう主人は死んだんだ、好きに生きていこう、夫からは解放されたと思い、放縦な生活になっていくこともあります。そのように愛の力は自制する力も与えるのです。

 人間の愛ですらそのようであれば、神を畏れ愛する心が実感としてあるのであれば、決して悪いことを進んでしようという気持ちは起こらないでしょう。少しは起こっても自制することができます。誘惑に負けたとしても、また立ち返ろうとする気持ちが湧いてきます。

 この人間社会においても、愛の力は私たちの心を善なる方向に導き励まし支えてくれるものであるなら、愛そのものであられる神様の愛はもっと力強く私たちを、その愛によって守ってくださるにちがいありません。

C)神の愛の完璧な守り(ローマ8:38−39)   
「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今ある者も、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」

 「キリスト・イエスにある神の愛」とは「イエスの血」と同じ意味です。「私たちの主キリスト・イエスの血から、私たちを引き離すことはできません。」ということです。

 誘惑されて引き離されそうになっても神様は絶対に離さないと言われます。あなたが弱くても神様の愛は強いのです。たとえ死がやってきても、あなたと神様を切り離すことはできません。自分は心弱くて、イエス様を信じるなんておこがましいと思うほどに罪深かさを感じていても、神様は何よりも強い力をもって私たちを愛し続けてくださっているという神の愛の強さがここに記されてあります。

 愛の強さを信じると、私たちは神様を怖がるというかたちで神様のお言葉に従うのではなく、安心して心開いて、こんな私でもなお見捨てることなくしっかりつかんでくださっているという愛を信じて、悔い改める気持ちが出てきます。

 何回も失敗するけれど、神様は「離さないよ!」と言ってくださるのなら、私たちは「もう一度やり直してみます!」と、神様のあきらめない心に合わせて、自分ではできないかもしれないけれど、神様ならつくり変えてくださるにちがいないという気持ちに変えられて、また前進することが出来るのです。

 ある保険の外交の仕事をしていた男性が、浮気をしたそうです。奥さんはクリスチャンでした。彼は離婚しようと思いました。奥さんは悩み苦しんで神様の前に祈りました。浮気相手の女性も一緒にやってきて、別れてほしいと言います。奥さんは神様に祈って示されたことを告白しました。「私の愛が足らなかったために主人に浮気をさせてしまうようなつまらない妻であったことを赦してください」と謝ったそうです。それを聞いた相手の女性は、こんな奥さんと別れさせることはできないと身を引かれ、また、ご主人も悔い改めてクリスチャンになって神学校に行って牧師になったということです。

 人を責めず、自分が悪いとへりくだって、そこまで言ってくれるかというような、ご主人を愛する思いを告白したその愛が、彼の浮気心をきっぱりとやめさせたのです。

 死んだ行いから離れさせるのは愛です。愛がその人の良心をよみがえらせて悪の道から離れさせる力をも与えるのです。

 私たちも神様の愛がわかればわかるほど、罪から離れたいという気持ちが同時に湧き上がってきます。その愛に応えたいと思うからです。完璧な神様の愛に守られているというその神の愛のうちに留まることを、私たちは努めていきたいと思います。

2. 愛のうちに自分自身を保つために(箴言4:23) 
「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」
 
 見張りの仕事は、敵がまだ遠い時に発見することです。早く見つければ見つけるほど対処のしようがあるというものです。罪の誘惑に敏感に自分の心を見張っていれば、敵がまだ遠い時に防御策を考えることができます。

A)心を見張り、見守るには?(へブル4:12)   
「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」
 
 神のことばによって、私たちの心の色々な考えやはかりごとを判別することが出来ると書いてあります。

 聖書を読みたくない動機は、自分の心にある暗闇をみことばの光で照らされたくない、罪だ悪だと認めたくないからです。だから神様のみことばを聞いたり読んだりするのを避けるのです。また、自分に都合の悪いみことばが書いてあるところは読まない、自分の心がなぐさめられるようなみことばだけ読もうとしたりします。

 私たちの心がいつも神様の前に明らかに正直な状態にするためには、どのみことばをも受け止めるという心をもって聖書を読んでいくことが必要です。

 咎めを感じるようなみことばは特にあなたへの神様からの忠告であり、隠れた罪の動機をあらわにするためのみことばのきよめの働きかけであると受け止めてください。

 私たちには神様に喜ばれない色んな心の動きがあります。しかし、イエス様の十字架の血潮によって、罪はもう裁かれたものとして赦されるのですから、ぜひ光を当てられて、認めて、悔い改めて、また一からやりなおしていきましょう。

 金城鉄壁のイエス様の血潮、神様の愛のうちに自分を保って、いつも神様の愛に感謝する、恩をいつも忘れないようにして歩む、そうすれば神の子として、愛の器として、聖なるものとして、その歩みを進めていくことが出来るのです。

 どうぞ、もしあなたがクリスチャンとしてマンネリを感じたり、世俗的な思いが強くなってきたりしているならば、もう一度十字架に現わされた神様の愛に心を向けられたらいかがでしょうか。

 その助けをしてくれるのは賛美であります。賛美を通して神様の愛を感謝する祈りを捧げていくことにより、神様の愛のうちに自分自身を保つことができると言えるのではないでしょうか。

【デボーションポイント】              
神の愛のうちに自分自身を保つために、実際の生活への適応を祈り求めていきましょう。

【俳句】                    

  神愛の  かわらぬ証し  天の川