■2018年8月26日 日曜礼拝メッセージより(辻和希伝道師、横路伝道師)

 真理を惑わすもの2  up 2018.8.26


主題聖句(マタイ24:4)
そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。

 

 

 

【辻 和希伝道師メッセージ】
1.惑わされたエバ
(第1テモテ2:14)「また、アダムは惑わされなかったが、女は惑わされてしまい、あやまちを犯しました。」

 先週に引き続いて、真理を惑わすものについて学んでいきましょう。1テモテと創世記3:1−6より、エバが蛇に惑わされた場面を見ていきます。最初に正しく読まないといけないのは、1テモテに「女は惑わされてしまい」と書かれていますが、これは、女性が惑わされやすいという意味ではありません。人は誰でもエバのように惑わされてしまう弱さをもっているのです。では、創世記を見ていきましょう。

(創世記3:1〜6)さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」
女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。
しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。なたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

 この物語から3つポイントを上げることができます。
 一つ目のポイントは、神様との距離間がみことばを疑わせる、ということです。蛇は何故アダムにではなく、エバに近づいたのでしょうか。考えられるのは、神様の戒めを直接聞いたのはアダムであり、エバはそのアダムから間接的に神様の戒めを聞いていたということです。エバでも惑わされてしまったのですから、現代に生きる、直接物理的に神様の声を聞いていない私たちは、エバ以上に惑わされやすいのです。ですから、生きて働く神様のみことばである聖書をしっかり読み、助け主なる聖霊様といつも共に歩むことで、神様との心と霊の距離間を開けることのないように、そして闇の力に私たちと神様の間に付け入る隙を与えないようにしましょう。
 二つ目のポイントは、人は魅力あるものに惹かれる、ということです。もし、目の前で大きな蛇が誘惑してきても、私たちは耳を傾けるどころか、警察に通報するでしょう。創世記の蛇は私たちが創造する蛇とは少し違うのかもしれません。一番狡猾であった蛇は、ある意味エバにとって魅力的な存在だったのかもしれません。また、食べてはならない善悪を知る木の実が、腐った木の実であったなら、エバは取って食べようとしなかったはずです。しかしその木の実は、まことに食べるのに良く、目に慕わしいとあります。人は魅力あるものに惹かれてしまうのです。そして、私たちは感受性豊かに造られているので、いろんなものが魅力に映ってしまいます。力やお金、美しさといったものを、求めることはいけないことではありませんが、それが神様以上のものになってしまうところに落とし穴があるので、気を付けなければいけません。
 三つ目のポイントは、人を通して惑わされるということです。アダムは、人であるエバの勧めで食べてはならない実を食べてしまいました。先ほども言いましたが、現代、目の前で蛇が惑わしてきても、絶対に耳を傾けないでしょう。ですから、闇の力は、人を通して私たち光の子を惑わしてくるのです。イエス様が公生涯をスタートされてから、悪魔から3つの誘惑を受けたときに、みことばをもって対処し、「下がれサタン」とはっきり退けられました。私たちは内面の領域ではイエス様をお手本にしますが、人と人との関係で成り立っている実際の社会で、直接惑わしてくる人に対して「下がれサタン」と言うことは難しいことです。むしろつまずきを与えてしまうでしょう。そんな時どのように対処すればよいでしょうか。私は、最終的に自分を守るのは、生きる信念であり、信仰だと信じています。神様への信念信仰を曲げない生き方こそが惑わされない生き方ではないでしょうか。そして、魅力的なものは、何も罪のものだけではありません。光の子としていく私たちこそ、真の魅力的存在であり、福音こそが魅力そのものなのです。この魅力を放つ生き方を目指して歩んでいきましょう

【横路伝道師メッセージ】
2.みことばがふさがれてしまう
(マルコ4:19)
「世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望がはいり込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。」
 これは、イエス様の話された種蒔きのたとえです。1番目の種は道端に落ちて、鳥が来て食べてしまいました。私たちの内に蒔かれたみことばを取られてしまうという例えです。
 2番目の種は、土の少ない石地に落ちました。すぐに芽を出しますが、日が照ると枯れてしまいました。私たちが喜んで聖書のみことばを受けても、色んな強い影響によってだめになってしまうという例えです。
 3番目が、このいばらの中に蒔かれた種です。いばらが生い茂って、良い実がならないようにふさいでしまったという例えです。
 4番目の良い地に蒔かれた種は幸いです。たくさんの実を結びます。
 今日は、3番目のみことばがふさがれてしまうということを、3つに分けて見ていきたいと思います。

A)世の心づかい(思い煩い)という惑わしについて
 心づかいの素晴らしい人がおられますね。しかし、逆に気を使いすぎて、思い煩ってしまうということもあります。また、人目や世間体を気にして、人を恐れる心があります。人に嫌われたくない、ばかにされたくないというプライドも私たちにはあります。そういう心が思い煩いの原因になります。実際よりも良く見せたいという心が、比較社会の中で起こってきます。
 
 先日、非常に気を使う鳥を映像で見ました。みみずくの仲間で、相手が自分より弱いものであれば、強く見せたいと思い、目を丸くして、体をふくらませてすごく自分を大きく見せるのです。逆に、相手が自分より強そうであれば、羽根をたたんで斜めに構えて、自分を細く見せ、弱い者に見せて敵が見過ごすようにするのです。

 私たちは、人目より神様を気にし、人を恐れるよりも神様を畏れることが必要です。世の中の心づかいをし過ぎないようにして、ありのままの自分を愛してくださり、罪人であった私たちを何度も赦し続けてくださる神様に感謝する毎日を歩みたいものです。

B)富の惑わしについて
 今の時代は、テレビやインターネットなどで、情報によってだまされないようにしないといけません。色んな情報によって、お金があれば幸せになれると洗脳されてしまいます。情報によって操作され、惑わされています。金銭に救いはありません。金銭はすべての悪の根だと聖書に書いてあります。また、「金銭を愛する生活をしてはいけません。今持っているもので満足しなさい。」とあります。(第1テモテ6:10)(ヘブル13:5)救いはイエス・キリストにのみあります。

C)いろいろな欲望の惑わしについて
 神様が人間に与えられている健全な欲求はあります。問題は、自制心がなくなるほどにやられてしまうことです。欲望の惑わしとは、不健全な欲求のことを言っていると思います。ついついのめり込んでしまうものがあります。時間やお金や健康を、いつの間にかのめり込んで失ってしまい、それが害を及ぼしてしまうという結果になることを知っていますから、自制心を働かせなければなりません。パウロは(第Tコリント6:12)でこう言っています。「すべてのことが私には許されたことです。しかし、すべてが益になるわけではありません。私にはすべてのことが許されています。しかし、私はどんなことにも支配されはしません。」これは、自制心がとても働いているパウロの模範を示しています。

 ある部族の老人が小さい子どもにお話しをしました。「人の心には、2匹の強いオオカミが住んでいるのだ。1匹は良いオオカミで、もう1匹は悪いオオカミなんだ。それがいつも心の中で戦いをしているのだよ。」その子どもが質問をしました。「それで、最後にはどっちが勝つの?」老人は答えました。「それはね。その人がたくさんエサをやった方のオオカミだよ。」

 エサをやるとは、時間をかけ、思いをかけ、大切にするということです。私たちは心の中に、神様の子どもとしてのアイデンティティーと、肉を持っているための、罪との戦いがあります。私たちが、時間を費やし心を向けているのに熱心なのは、どちらかを考えてみましょう。
 
 かっこうという鳥がいます。かっこうは卵を産んで、自分では子育てをしないそうです。湿原にある小さい鳥の巣に、その鳥が卵を産む時期に行って自分の卵を産みます。そして、数合わせをするために他の卵を捨てるそうです。少し大きめの卵があっても、その鳥は気付かず、自分の卵だと惑わされて温めます。ところが、かっこうは他の卵より早くかえり、たくさんのエサをもらいます。早く大きくなって、後からかえったひなを蹴落として、自分だけ育ててもらいます。そのうちお母さん鳥よりも大きくなり、巣立っていくのです。巣から蹴落とされたひな鳥と、だまされてしまった親鳥はあわれです。

 私たちも、本当は神の子であるというアイデンティティーがあるのに、世の中の情報に惑わされて、他のものが大きく育ってしまい、神の子のアイデンティティーを追い出すことにならないように気をつけて、主のみことばをしっかりと握っていかなければなりません。

 【デボーションポイント】
 この世からの情報を、真理によって見分けましょう。
 
 みことばの真理を握って、決して惑わされないようにしましょう。相手は上手にわからないようにやって来ます。譲ってはならないものを、みことばに従って守っていきましょう。それが情報に惑わされない鍵だと思います。

 

 

 

 

 

■2018年8月19日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 真理を惑わすもの  up 2018.8.19


主題聖句(マタイ24:4)
そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。

 

 

 

 先週まで自己の確立として3つの要素をお伝えしました。これはアダムの子孫に与えられている自己の確立のために大切な要素です。
「・神の子として生きる ・愛の器として生きる ・聖なる者として生きる」の3つです。
 聖なる者とは神に属する者という意味であり、出来ているか出来ていないかで属さなくなるということはありません。キリストを信じる者たちは、神様を愛するチームの一員になりました。今日は、この真理を惑わすものについて語ります。
 3つの自己の確立に必要な要素が揺るがされることを通して、真理から外れ、私たちに命を与え私たちをお造りになった神が与えてくださった存在そのものの意義と価値から私たちを引き離そうとする罪の力が働いています。
 この真理を惑わすものについて、今週と来週の二回に分けて学びたいと思います。
 私たちは世の中や周りの人々から影響を受けます。会社や学校等で出会うのはほとんどがノンクリスチャンの人たちですから、いつの間にか多数決の意見に惑わされてしまうことがあります。しかし、真理は多数決ではなく、決して変わらない道理です。
 進化論で人生を考えている人たちの中には、人類は自然発生であり、突然変異の連続によって今に至ったと考えているので、人生に何の意味も価値も目的もなく、ただ進化してきたと捉え、人生で何が善か悪かということは決めること自体が悪であると言う人たちもいます。
 世の中では多数決によって善悪の基準が決められたり、強い人々の意見で善悪が決められたりします。
 しかし、真理は流行や時間、地域に左右されるものではなく、決して変わらないものです。
 私たちは3つの立場を示す真理の上に立って、そこから人生をスタートさせ、そこからどういう生き方をし、どういう考え方をするか、どういう仕事に携わっていくかということを考えていきます。

1.にせ預言者(マタイ24:11)
「また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。」
 
 イエス様がこのことを話されたのは、弟子たちに世の終わりについて教えられた時です。

A)預言者とは?(民数記12:6)
「仰せられた。「わたしのことばを聞け。もし、あなたがたのひとりが預言者であるなら、主であるわたしは、幻の中でその者にわたしを知らせ、夢の中でその者に語る。」

 これはモーセの兄アロンと姉ミリアムが、モーセばかりが神に語られて民に指示することに嫉妬して、神は自分たちにも語られるとモーセに怒った時に、神ご自身が彼らに語られたおことばです。モーセと神との関係は特別であり直接語られるが、預言者には、幻や夢により語られると教えられました。
 神が語られたことの確証を神は幻や夢で与えられます。いくら神から与えられたと主張しても、そのことが実現しないならそれは、にせ預言者であると書かれた聖書の箇所もあります。しっかりみことばに照らし合わせる必要があります。
 とにかく、預言者とは神から啓示を幻や夢で与えられ、民に語る人のことです。
 予見をすることだけではなく、民にメッセージを語ることも預言の一部です。神に語られたことを民に告げるという働きが説教者にはあるからです。今週何を語るか、又この月、そしてこの一年は何を語るべきかを神に聞いてメッセージしています。これも預言の働きです。

B)にせ預言者とは?(エレミヤ14:14)
「主は私に仰せられた。「あの預言者たちは、わたしの名によって偽りを預言している。わたしは彼らを遣わしたこともなく、彼らに命じたこともなく、語ったこともない。彼らは、偽りの幻と、むなしい占いと、自分の心の偽りごとを、あなたがたに預言しているのだ。」
 
 神はここに、にせ預言者の特徴をはっきりと示しておられます。神の名によって自分の思いを語っているということです。ですから、神を知る人たちは預言がにせ物か本物かを聞き分けることができます。
 すべてのクリスチャンは預言ができます。中には失敗を恐れて黙っている人もいるでしょうが、失敗を通して学んでいくのです。聖霊様を通した幻や夢なのかどうかは体験を通して学んでいけます。神様の導きと信じてチャレンジして語っていってほしいと思います。
 しかし、にせ預言者の場合は、その内容に問題があります。

C)にせ預言者の内容(イザヤ30:10ー11)
「彼らは予見者に『見るな』と言い、先見者にはこう言う。『私たちに正しいことを預言するな。私たちの気に入ることを語り、偽りの預言をせよ。 道から離れ、小道からそれ、私たちの前からイスラエルの聖なる方を消せ』」

 にせ預言者には共通の内容があります。この箇所は、正しい預言をする預言者に対して背信の民が言ったことばです。人々が預言者を惑わし、神よりも不敬虔な人々の言いなりになってしまうのです。相手に気に入られたい取り入ろうとして語ってしまうのです。
 預言を見分けるということは大事になります。クリスチャン同士であっても真理のみことばを良く悟っていないために、先輩のクリスチャンなどから超自然的な証しを聞いて惑わされていくことがあります。その惑わしを語るクリスチャンの隠れた目的は分裂分派です。
 超自然的な証しとは、昔、雨上がりの時に雲の隙間から天使が現れるのを見たというような話をよくするクリスチャンがいました。そういう証しに惑わされて、その人が言ったことばは聖書以外であってもすべて正しいと受け止めてしまうのです。そういう幻を見るという人はすごい人だと思い、聖書を知らなかったら、その人の言いなりになってしまい、遂にはキリスト教の異端という群れを作ってしまったということになってしまうのです。
 気をつけなければなりません。神の預言は聖書に文字として表されています。それ以外で表された場合は特に気をつけないとなりません。
不思議や奇跡を行う人が現れたとしても、だからその人が真理に従っているとは限らないのです。モーセはそのことをイスラエルの人々に忠告しています。
 神は不思議や奇跡を行うにせ預言者を遣わして、人々を試されたことがあると、モーセは言っています。どれだけ私たちが真理を悟って従っているかを試されるのです。
 見えるものにばかり頼っていて神のおことばに頼っていなかったら、惑わされてしまうのです。それは「 道から離れ、小道からそれる」状態です。
 アメリカでは二十数年前にキリスト教の異端の教会が集団自殺をするというショッキングな出来事がありました。人々を神ではなく自分に注目させ、道から離れさせるというにせ預言者が、この世の終わりには出てくるとあります。
 まだ日本にはしるしや奇跡があまり起きていないので、そのようなにせ預言者も表れていませんが、その前に今、日本のクリスチャンはみことばを良く学び悟るように訓練されていると言えます。
にせ預言者の内容は「聖なる方を見えなくさせて、人間を見ようとさせる」働きです。
 私に神から頂いている啓示はコリントの教会にあるように、教会はキリストの体であって、ひとりひとりはその肢体であり、働きがひとりひとりにあります。ですからひとりの超自然的な働きが教会の中にあってカリスマ的な存在になるということは非常に危険であり問題になりがちなので、癒やしを行ったり、預言をしたり、知恵のことばを語ったり、また霊を見分けるという、御霊の賜物を皆さんが表すことができるという教会こそ真の姿と思います。つまり指導者だけがすべてをするのではく、指導者も教会の働きの一部をになっていると考えています。私はメッセージを語る働きを担っていますから、皆さんの中から癒しの働きをする人々や預言をする人々も現れたりと、教会全体がバランスの取れた働きをすることを願っています。
 ですから皆さんが、積極的に神からせよと言われたことをしていかれるように励ましたいと思います。ただ聞くだけで終わらないようにしましょう。

D)現代のにせ預言者について考える(マタイ7:15)
「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。」
 
 特にある国では、人々の前に立って働きをする人々(牧師や預言者、音楽ミニスターなど)は聖職者でもありますが、ビジネスという受け取り方をしています。ミニスターということばは政治家にも使います。それは使命という意味です。使命をビジネスと捉えてしまい、講演料が少ないとそういう所へは行かないという考え方があります。それではいくら話の内容が良くても欲にとらわれた考え方です。
 聖なる努めを金銭で量ってしまうのは良くありません。現代のにせ預言者は知名度を利用して講演料を高く取り、自分の話はそれだけの価値があると、金銭で考えるようです。
 羊のなりをしていても貪欲な狼の心をもって、人の注目を自分に集めさせ、神のおことばから目をそらさせるということがありますから気をつけていきましょう。
 外国から色々な自称預言者という方も訪問したいと言ってこられますが、その方の知名度にとらわれるのではなく、どういう方なのかをよく祈って聖霊から教えて頂いて決めるようにしています。主に耳を傾けて受け入れを決めるようにしています。
 ですから、皆さんもあまり他のメッセンジャーの方が来られた聖会に簡単に行かれることはせず、もし行かれたい場合は、牧師にひとこときかれてから行くようにしていただけたらと思います
 今、にせのミニスターが多く出ていますので、本当に気をつけてください。

2.酔い痴れてしまう(箴言20:1)
「ぶどう酒は、あざける者。強い酒は、騒ぐ者。これに惑わされる者は、みな知恵がない。 」
 
 アルコールを飲む飲まないは教会によって議論があります。しかしその基準を細かく調べても無意味です。大切なのは、主にあるアイデンティティーにふさわしいかどうかです。
 確かに健康のために少しぶどう酒を飲むということはあるかもしれませんが、たしなんでいくと自制心を失い、肉の罪の力を顕にします。 正しい良心を弱めて邪悪な心を開放する働きがアルコールにはあるのです。
 酔うということは分別が弱まることですからあざけるような言動が出てきたり、良くない感情が出て来ます。そうなると、もう酒に飲まれた状態です。

A)酒に惑わされる(エペソ5:18)
「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。 」
 酒に酔うと放蕩に進みやすくなり、自制を保てなくなりがちです。ですから、飲まないほうがいいと思います。善悪の判断ができなくなり、アイデンティティーの自覚が弱まります。

B)過度な飲酒(箴言21:17)
「快楽を愛する者は貧しい人となり、ぶどう酒や油を愛する者は富むことがない。」

 快楽を愛することとぶどう酒や油を愛することは等しいということです。人格的に貧しくなり子どものようにわがままになってしまいます。
C)正しい良心を鈍らせる(箴言31:4−5)
「レムエルよ。酒を飲むことは王のすることではない。王のすることではない。『強い酒はどこだ』とは、君子の言うことではない。 酒を飲んで勅令を忘れ、すべて悩む者のさばきを曲げるといけないから。」
 
 これは王であるレムエルが親から受けた忠告です。王でなくても家庭を治める父親や夫であっても同じです。
 正しい良心を鈍らせ、正しい判断が出来なくなります。これらのことから判断して、酒から離れましょう。
 特に指導的立場にある人はアルコールに気をつけないと、正しい判断が出来ず、部下や家族などを不幸にすることになります。

【デボーションポイント】
神のことばである真理を惑わす教えや、のめり込んでいるものがありませんか?
 
 酔うというのは酒だけではなく、趣味にのめり込んでしまうということもあります。最優先してやってしまうことがあれば、酔った状態と同じです。
 今日は真理を惑わすもの二つを語りました。聖書の根本的なことをしっかりと心にとめて、惑わされないようにしましょう。

【俳句】
氷菓子 とどめられずに もう一つ
 
 とらわれていく様子です。ちょっとしたことで罠になります。気をつけましょう。

 

 

 

 

 

■2018年8月12日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 聖なる者として生きる  up 2018.8.12


主題聖句(第1ペテロ1:15〜16)
あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と書いてあるからです。

【聖なる者となる】とは、聖なる神、創造主に帰属すること。

 

 「聖」とは、混じりけがないものと言えます。聖なる者とは、良い事をして、罪を犯さない者という意味ではありません。それは一部分です。聖なる者とは、聖なる神、創造主に帰属すること、すなわち従うことであると聖書では教えています。
  神様は罪を犯す方ではないので、私たちも聖なる神様に属する者、仲間、同一の者として、罪を犯さないようにと心がけるのです。
 ある時は失敗もしますが、だからと言って聖なる者ではないと否定はすることはできません。聖なる者であっても罪は犯します。なぜそれでも聖なる者と言えるかというと、神様に属する者だからです。神様は「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と言われました。
 先週、面白いニュースがありました。見も知らずの婦人が家を訪ねて来て、「この封筒をお母さんに渡して欲しい」とその家の息子さんに封筒を渡し、名前も言わずに去っていきました。お母さんが帰って来て、「誰かわからないけどこれを渡してと言われた。」と封筒を渡し、中身を見ると、なんと現金が104万円入っていたそうです。そのお母さんもその婦人に心当たりがなく、身に覚えもなかったので、何か恐い気持ちがして警察に落し物として届けたそうです。黙ってそれをもらうことよりも、公にして安心したかったのでしょう。
 そのように人は、良心的な判断をし、善または悪を行うことに対して敏感に良心が働きかけて、良い方を選ぶことが多いのです。それは、私たちは聖なる者として神様に似せて形造られた者であるという証拠なのです。
 善悪を考えて判断するということが、人間の特徴ではないでしょうか。その判断の基準を何にするかが問題です。今、私たちは自分は何者であるかということを学んで来ています。
 第一番目は、「神の子である」でした。神様はご自分の形に似せて、娘、息子として私たちを造られました。 
 第二番目は、「愛の器」として造られたということです。神様が愛を注がれ、それを受け止める器として私たちを造られました。私たちは神様に愛されるために造られたのです。
 そして今週は、「聖なる者」です。この愛というものは、聖なるものでなければならなりません。色々な愛がありますが、その中で、神様に属する愛の器であるということが大事なのです。聖い愛を持つことが、自己を確立する第三番目の要素です。

1.自己を確立する第三の要素(アイデンティティー)
A)ローマ1:7
「ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。」

 神に愛されている人々、集められた人々を「聖徒」と呼んでいます。この「聖徒」には「わたしは聖であるから…」という聖と同じ「ハギオス」というギリシャ語が使われています。人に向けられて「ハギオス」が使われると、「聖なる人々」、英語では「セイント」と訳されます。 神に愛されてその愛に応答した人々は、全て聖なる者であると呼ばれています。ここに来ておられるということは、神様の愛に応答しているということです。行いによらず、聖なる者であるということです。

B)ローマ11:16
「初物が聖ければ、粉の全部が聖いのです。根が聖ければ、枝も聖いのです。」
 元が聖ければ、そこから派生してくるものは全て聖いという意味です。ここから、ヨハネ15章の「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。」というみことばを思い出します。木には根っこがついています。その幹から枝を伸ばしていきます。枝と幹は別物のように聖書では捉えています。私たちは枝です。根っこが聖ければ、枝も聖いのです。聖い養分が枝に流れることによって、その枝は聖いものになるというのです。
 私たちも、悪いものであったにも関わらず、その幹に接ぎ木されることによって、キリストに属する者として、聖い神様のみことばのいのちをいただいて、聖い者とされているのです。

C)コロサイ1:22
「今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。」
 イエス様は、十字架で私たちの罪を身代りに背負ってくださり、裁きを受けてくださいました。それゆえ私たちは罪がない者として、聖い者であると神様は見てくださるのです。この十字架の救いのみわざは、私たちが聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるという目的があったのです。
 聖い者に属するため、神様と和解するための十字架でした。和解を得るまでは、対立していたということです。私たちは神様に背を向け、自分たちは進化してきた生き物であると考えて、神様に対して反抗するような者でした。それでは神様のチームに入ることができません。 そこで、神様はイエス・キリストの十字架によって、聖なる者になるようにと道を開いてくださいました。

D)コロサイ3:12
「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。」
 これらのものを身に着けたら、聖なる者になるとは聖書は言っていません。これを勘違いしている人が多いのです。神様は聖なる者です。
 例えば、広島カープに入りたければ、カープに属さなければいけませんね。チームに入るとは、属するということです。
 しかし、違うチームの人がそこに紛れて入ってしまうなら、強くなりません。
 神様は聖なるお方です。神様聖なる者になりたいけど、この世の様々な快楽や罪をも楽しみたいという気持ちで神様の元に来ても、それは聖なる者ではなくなってしまうのです。クリスチャンは、神様のチームに入るなら、別のチームのこの世の考え方や習慣を改めなければなりません。一から学び直すことが必要です。そのためには、まずチームに入団して属さないといけません。
 私たちが勘違いするのは、チームの入団テストには、「能力的な点数や行いで合格するかどうかが決まる」という考え方が染みついていて、「信じる者は皆チームに入れます」という簡単な条件を信じられないと言う人が多いのです。
 もし、一日一回以上罪を犯したら天国へ行けないという条件があったら、無理だと思うかもしれません。しかし、行いではなく、私を愛して代わりに罪を背負うために、救い主イエス・キリストを送ってくださったことを信じるなら、例え0点でも救われるのです。そこからがスタートなのです。信じた者は、すべて神様のチームに入ることができるのです。
 もし、チームに属していることに自信がなく迷っているなら、練習にも身が入らず、結果も出すことができません。「私は神様のチームに属しているメンバーの一人である」と自覚することが大切なのです。このアイデンティティーが日々の生活に大きく影響を与えます。行いによって自分はチームから外れているとは思わないでください。行いによる契約ではなく、信仰による契約なのです。
 私たちには、聖いものにあこがれ、聖なる者になりたいと願う本心があります。神様の形に造られているからです。しかし、その本心を消し去ってしまうものがあります。それは損得の考え方です。その考え方に流されないようにしましょう。

2.聖なる者としての歩み
A)第2テモテ2:20〜21
「大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。また、ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用います。ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。」
 金や銀、木や土という器の質的な問題ではなく、どのような器であっても、神様にとっては聖められた器、聖いものに用いることができる器を大事にされるのです。少しでも聖い器を神様は願っておられます。 木や土を、金や銀に変えるのではなく、木や土の器でも、聖いものに用いてもらえる器になるということです。
 一日に何回罪を犯さないですんでいるかという能力的なものではなく、神様の聖い器として造られた以上、神様が愛してくださっている愛をどれくらい信じることができているかということが、聖い器と言えるかどうかに関わってくるのです。
 聖くされているのに「私は聖くありません。」と言って神様の聖い愛を受け入れることをしなかったら、それは拒絶してしまうことになります。「たとえ木や土の器でも、神様が愛してくださっていると言うならば、その愛を全面的に信じます!」とあなたが心を開くならば、その信じるということが、聖い者であるという印となっているのです。 信じない者の上にも愛は注がれているのですが、信じないためにふたをされているという状態なのです。
 自ら「聖くない」と閉ざしてしまったら、せっかく十字架によって聖めてくださったのに、それを信じていないということになってしまいます。それは聖くないということになるのです。
 しかし、「私の行いや質ではなく、キリストの十字架を通して、神様が私を愛してくださっていることを信じます!」と言えば、その瞬間あなたは聖い者となり、愛があなたの心の中に注がれてくるのです。私たちはついつい、世の中の習慣で、行いによって聖いか聖くないかを測ってしまうので、あざむかれないように気をつけていきましょう。

B)第2ペテロ1:5〜9
「こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません。これらを備えていない者は、近視眼であり、盲目であって、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまったのです。」
 ここに、努力をしてと書かれています。これらが備わっているかどうかは、行動の結果を通してわかります。備わっていなければ、「近視眼であり、盲目である」と書かれています。失格であるとか、クリスチャンでないとは書いていません。こういう人はだめですよ、とは言っていません。チームの中でも成績の悪い人はいますが、それでも聖なる者に属していることに間違いはないのです。
 聖なる者としての歩みは、「あらゆる努力をして」という現在進行形を失わないことです。今は近視眼であり盲目であるかもしれませんが、できるだけ見えるようになるようにと努力する所に、聖なる者に属している者としての歩み方があるのです。何もしないでじっとしているのではありません。聖なる者として、イエス・キリストを着ているということが大事なのです。
 
 信仰には、徳という品性・人格的な向上を加え、徳を高めるには知識が必要ですが、知識は人を高ぶらせてしまうので、自制心が必要です。その自制を働かせるには忍耐も必要です。その忍耐は単なる我慢ではなく、神を畏れる敬虔な心を持って忍耐するということ大切です。その敬虔さは、兄弟愛という人間関係においてはかることができます。そして、その兄弟愛は神様を愛する愛から来ているのです。皆さんもこのみことばを努力する目標として捉えていきましょう。

C)第1ヨハネ1:9
「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」
 この「きよめて」にもハギオスが使われています。自分の罪を言い表すとは、どういう罪を犯しているかを、神を畏れて正直に認めるということです。自分が正しいと思っても、他の人の証言も受け入れ、自分の罪を認めることが大切です。

 この3つのことを聖なる者としての歩みの基本的なポイントとして受け取ってください。チームに入るため、聖なる者になるためにこれをするのではなく、聖なる者となっている者、チームに属している者として、この歩みを進めていくということが、今日のポイントです。 聖なる神様に属しているというアイデンティティーをぜひ確立してください。行いによって確立するのではなく、みことばによって確立していきましょう。

【デボーションポイント】
 聖なる神に属しているというアイデンティティー。
    
【短歌】
万緑に  属するきよさ  我らにも
聖なる方に  つき従いて

 「万緑」というのが季語です。新緑より深い緑が生い茂っている風景です。暑さも緑を見ていると心地よく感じます。
 「万緑に属するきよさ」とは、一面、何の混じりけもない緑一色というきよさです。それは、聖なる方につき従うことによって、そのきよさにあずかることができるという気持ちをうたってみました。
 私たちも、神様の愛に心から信頼してついてまいりましょう。

 

 

 

 

 

■2018年8月5日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛の器として生きる  up 2018.8.5


主題聖句(ローマ5:5)
この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

 

 

 

 「注がれる」という表現から、私たちは注がれる神の愛をしっかりと受け止めるための器である、と捉えることが出来ます。
 
 先週は自己の確立の一つ目の要素として、「神の子として生きる」というテーマでお話いたしました。
 今日は二つ目の要素として、「愛の器として生きる」ということを考えてみたいと思います。

1.自己を確立する第二の要素(アイデンティティー)
A)第1ヨハネ4:12    
「いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。」 
 注がれた神の愛は、互いに愛し合うということを通して全うされる(成就する)と表現されています。神様の愛を注がれ受け止めた時に、私たちの器としての存在の目的が全う(完成)されます。中身のない器はまだ全う(完成)されていないのです。中身が入ってこそ、器として完全な意義あるものとなるということです。

B)第1ヨハネ4:13               
「神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。」
 
 御霊を与えてくださり、神様の霊が注がれ、神の霊がともに私たちのうちに存在されるということを通して、神の愛が私たちに注がれていることがわかります。

C)第1ヨハネ4:15              
「だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。」

 イエスを、人であるだけでなく神でもあることを認め告白するならば、神の愛が私たちのうちに御霊によって注がれて、愛されているだけでなく、神が私たちの内に好んで住まわれるということです。

D)第1ヨハネ4:16              
「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。」
 
 神があなたの内におられたらあなたは愛を大事にして、愛を優先してものごとを考えていきます。
 
 自己を確立するアイデンティティーとして「愛に生きる」、こういう人のうちに神はおられるのです。
 
 私たちは神の愛を注がれる器であり、愛を自己確立の要素として生きるクリスチャンです。
 神の愛を受け止めることがどんなに大事なことであるかを次のみことばからみてみましょう。

2.愛の器の大切さ(第1コリント13:1−3)   
「たとい、私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値打ちもありません。また、たとい私がもっている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にもたちません。」

A)特別なことができるからといって、適切なことができるわけではない。
 
 地上の母国語以外の人のことばである異言、天上で語られる御使いたちのことばである異言、御霊を受けた人に与えられた特別な言語も、愛があればこそ、適切な時と場所で使うことが出来ますが、愛がなければただうるさいだけです。特別なことを適切に用いるには、愛が必要です。

B)超自然的賜物を持っているからといって、優れた存在なのではない。 
 預言、あらゆる奥義、知識、信仰、これらは神様からのすばらしい超自然的な賜物ですが、それを頂いた人の「存在」にとって、それらは愛がなければ何の値打ちもありません。
 
 能力主義の世の中では何が出来るか出来ないかで、その人のいのちの価値が測られますが、聖書ではそれらは人を価値づける理由にはならないと言います。

 立派な金の器も、何も入れないのでは金の塊であり、器とは言えません。器は器として何かを入れることによって器の価値が認められます。私たちは愛が注がれてこその器なのであります。
 
 この世の中はそういう考え方をほとんどしません。ですから私たちは、つい外目に人々に優れているものを見せることを通して尊敬されたり愛されたりするということを求めてしまうものです。神様の目からするとそれは違うのだと、クリスチャンはしっかり聖書の教える考え方を持っておく必要があります。

C)高徳なことが出来るからといって、高徳な者とはいえない。   
 
 器の中に神様の愛が注がれて、愛の器として存在しているのでなければ、持ち物を全部分け与えるという高徳の行いも、からだを焼かれるために渡すなどの自己犠牲の行いも、神様の目から見ると何の役にも立たないことであります。

◎器の大切さは外側にあるのではなく、内側に何を入れているかである。 
 この13章の1–3節は、どう見えるか、何で出来ているか、何が出来るかという器の質を表しています。しかし、外側の見えるかたちがどんなに素晴らしくても、中に何を入れるかで、器としての価値が決まってきます。素晴らしい細工を施した純金のコップであっても、下品なものを入れれば下品な器となり、たとえ木でできていても、熟成した世界有数の高価なワインを入れるなら、入れものとしては価値が高いといえます。中身が器を価値づけるのです。
 
 「愛がなければ」とはそういうことです。私たちは神の愛が注がれる器として造られました。神がそこに住まわれる神の家です。しかし、そこに何を入れるか、何を住まわせるかは、あなたの自由意思で決まります。
 
 器の中がカラッポで入れるべきものが入ってないと、人生に対して空しさを感じます。人はそういう時にイエス様と出会うと、人生が180度劇的に変わります。
 
 この世の楽しみも半分ほど入れて、それでも何となく人生の空しさも感じながら生きている人、そういう人がイエス様と出会いますと、これはすばらしい!と思うのですが、初めにこの世のものも入れてますから、混ざりものの中途半端なクリスチャン生活になります。神様一途には、なかなかなれません。しかし、注ぎかけられている神様の愛を受け続けていると、少しづつ少しづつ神様の愛があふれていくとともに、悪いものも一緒にあふれ出て、長い間には純粋な神様の愛だけが内側に満たされるようになります。

 信仰生活で徐々に変えられていくという人はそういう人です。世の中と多少妥協していても、神様の愛を大事に受け止めていけば、時間と共に必ず綺麗に神様の愛だけで心も霊も満たされるように変わるということです。
 
 ある人は、「神様もいない、生きることもどうでもいい」と、この世のものでいっぱい満たしている人がいるとします。神様は全ての人を愛しておられますから、そのような人にも愛を注がれます。そして時間はかかるかもしれませんが、神様の愛を受け止め続けていると、だんだん神様の愛に心は変えられていくのです。そして最後までイエス様を信じ続けたら、最後には神様の愛だけがあふれるということが起こるのです。
 
 クリスチャンの中には、途中であきらめる人がいます。「もう30年もたってるからこんなものかな」と、この世の中のつながりの中で、神様の愛もこの世の楽しみも同時に入れながら、いつまでたっても神様の愛だけにならない、中途半端なクリスチャン生活がずっと続く人もいます。
 
 私たちはたとえ不純なものがあっても、愛を注がれ続けているのですから、あきらめずに信頼して受け止め続けていきましょう。必ず神の愛だけに満たされる時がやってきます。必ず素晴らしいクリスチャンに、イエス様のような心に変えられていくと期待し、願っていきましょう。
 
 神様の愛を多く受け止めていくことがなかなか難しい生活環境があるかもしれません。そういう人は、日曜日は神さまの愛をいっぱい受け止めるけれど、月曜日から別のものがド〜ッと入ってきて、結局何も変わらないクリスチャン生活を送るということになってしまわないように、「自分は神様の愛を受け止める器なんだ」という自覚をもって生きることによって、神様の愛だけに用いられる器として生きていくことが出来るようになるのです。
 
 皆さんの中には、神様の愛を受け入れるにふさわしくない器であると感じている人がいますか?ふさわしいか、ふさわしくないかは、使う人が決めるのです。あなたではありません。欠けた器だからといって、愛を注ぐか注がないかを決めるのは、使おうと思う人です。
 
 中身は素晴らしいのですが、それを入れる器は確かに相応しくないかもしれません。しかし、欠けた器でも私(神)の目には高価で尊いから、私(神)はそこに愛を注ぎたい、そこに住みたいと、神様は願われたのです。

 神は私たちを神の愛を注ぐ専用の器として造られました。あれやこれやの雑用に用いるためではありません。大事なことのために造った器は大事なことのために使いたい・・それが神様のお心です。
 
 愛を入れるだけでは満足できないで、あれやこれや他の物も入れようというのでは、神様は悲しいですね。イエス様のいのちを犠牲にしてまで手に入れた神様の愛用の器だから、神様の愛だけを入れていこう、用いていただこうという意識が大事なのではないでしょうか。

【デボーションポイント】
神の子であり、神の愛を入れる器であるというアイデンティティー。
 
 このアイデンティティをもとに、もう一度、神様の前にどう生活を進めていくべきか、どういう価値判断をしていくべきかを、判断決断していけると良いですね。

              
【俳句】

  丼に  かき氷入れ  いと涼し 

                
 かき氷に丼は、見た目に合いません。しかし、暑い夏に火照った体を冷やしたい、冷たさを味わうために、かき氷を丼いっぱい食べたいと思います。そんな時は、器ではなく中身が大事なのです。中身が器を価値付けます。

 あなたは丼であっても、神様の尊い愛が入っているので、尊い器です。

 

 

 

 

 

■2018年7月29日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 神の子として生きる  up 2018.7.29


主題聖句(ガラテヤ3:26)
あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。

 

 

 

 今週、皆さんと一緒に考えていきたいことは、私たちは神の子として生きる者である、ということです。

1.自己を確立する要素(アイデンティティ)
 「神の子」というのは、私たちが何者であるかという、私たちの存在に対する、自己を確立する要素(アイデンティティ)であります。
 次の5つのみことばから私たちは、自分が何者であるかということを、はっきりと確信することが必要です。

A)創世記1:27 
「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」
 神のかたちとは神の子ども、分身ということです。子どもは親のかたち(よく似ている個別のもの)にうまれてくるもので、親以外のかたちに生まれることはありません。私たちは神のかたちとして創造された神の子であるということ、ここに私たちのアイデンティティが明確に書かれてあります。

B)ヨハネ1:12  
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」
 
 神のかたち(神の子)として造られたアダムとエバは、神に背を向けて自分の欲望に従うという的外れの生き方をするようになりました。聖書はこれを「罪」と言っています。
 神のかたちを失うような人生と歴史の中に、神は愛をもって救い主イエス・キリストを送られました。神様の愛の見えるかたちである救い主、その名を信じた人々には、「神の子どもとされる特権」をお与えになりました。つまり、クリスチャンとは存在そのものも神のかたち(神の子)であるけれど、キリストを信じることによって、さらに神の子どもとされる特権をも授かっているのです。神の子どもとして存在するということが、ここにもはっきりと書かれてあります。

C)コロサイ3:9−10  
「互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」
 
 クリスチャンは神の子どもとしての特権を与えられて、そのままでいるというのではなく、神の子どもとしての特権を持って生きることを通して、造り主のかたちに似せられて成長し、成熟した「神様のかたち」を持つことが出来るように至る、とここに記されています。
 私たちの人生は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされる(近づく)という人生であります。

D)ローマ8:17 
「もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」

 子どもであるなら相続人でもあると書かれてあります。私たちが神の子として造られたのも、また、たとえ背信の罪を犯しても再び立ち返ることができるためにキリストによる救いを用意されたのも、神様の持っておられるものを受け継がせる(相続させる)ためなのです。「神の相続人」という身分も私たちが自己を確立するための大切なアイデンティティです。

E)第1コリント12:27  
「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」
 
 私はキリストの一部なんだという自覚です。キリストは頭(かしら)で、私たちはその体であるとたとえられていますが、頭が黒人で体が白人というのはあり得ません。頭(かしら)と体は一つです。頭なるイエス様が神様のひとり子であるならば、からだである私たちも当然神の子であるという一体性を現わしています。
 自分は、頭(かしら)であるキリストにふさわしい体の一部であるという自覚が私たちの生き方を確立していくのです。

 私たちは普段は「アイデンティティ」ということを自覚してないと思いますが、ユダヤ人は約三千年前、アッシリア帝国やバビロン帝国の捕囚となり、最後にはローマ帝国により完全に滅ぼされ、国を失って世界に離散して他国の中に住み続けても、自分たちがユダヤ人であるというアイデンティティを決して捨てませんでした。自分たちの言語であるヘブル語を失いませんでした。

 何千年も自分の国を持たず世界に散らされ他国の中に住み続けると、普通は混血となりその国に同化して、自分達の文化も血筋も言語も失っていくものですが、イスラエル文化は守られ続けたのです。

 そして神様の約束通り、1948年にイスラエルが建国され、ヘブル語が国語として使用され、帰還した民はすぐに生活を始めるという奇跡が起きたのです。
 アイデンティティというのは一人一人の生き方に大変影響を与えるものであることがわかります。

 私たちは国内では何も感じませんが、海外に行くと自分は日本人だなあとよく思うものです。同じように、私たちは神を信じない不敬虔な世界にいて、神の子として生きにくさを感じる反面、神の子だという自覚はしっかりと区別できて、確信を持つことが出来やすいと言えます。
 しかし、この世に留まろうとする人は、神の子としてのアイデンティティを捨てていきます。私たちが神の子としてのアイデンティティを軽く見ていたなら、この世の神を信じない人々のアイデンティティと混合させられて、この世の人々のような生き方をしてしまい、神の子という自覚がなくなってしまうのです。

 クリスチャンたちの問題は、自分の人生の土台の一番根底に、神の子としてのアイデンティティが確信をもって据えられているか、ということです。もし、国籍や職業、地位、性別など他の事柄が一番のアイデンティティになっているとしたら、神の子であるというアイデンティティは弱まり、この世と調子を合わせてしまうことになります。

 神様の愛に一途に生きていくことができない、と悩んでおられる方がおられたら、自分自身の存在に対する、自分は何者であるかという自覚に目を向けてみて、もしかすると自分が何者であるかということを、はっきり認めていない、わからないままにしているのではないか、と吟味していただきたいと思います。

 私たちの存在の根底に、神の子どもであるというアイデンティティをしっかりと据えると、生活の判断基準も、善悪に対する判断基準も大きく変わります。

 どのようなアイデンティティがあなたの内に根ざしておられるでしょうか。黙想してみてください。

2.神の子として生きる(へブル3:12−14)
「兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。『きょう。』と言われている間に、日々互いに励ましあって、誰も罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。もし、最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。」

A)「最初の確信」を得ていますか?  
 自分は最初にそんな確信と言えるものを持ったかな?と思ってしまいますが、「最初」という時間的な意味合いよりも、大事なことは「確信」を持てたかどうかです。

 私たちは、元々は神のかたちに創造された神の子でありましたが、罪を犯しで堕落し、神のかたちを失った状態でした。しかし、福音を聞いて、神様の愛を知り、もう一度神の子という神のかたちを取り戻してくださいました。
 
 イエス・キリストの十字架の歴史的事実を通して、そのことをはっきりと信じることができました。その時、「これが私の生きる道だ、これが私自身なのだ!」と、皆さんが確信を心に持つという決心が出来たかどうかです。

 信じた時にこれが私の生きる道だと確信を持った人は、その確信を終わりまでしっかりと保ってください。確信を持った人でも、それを失ってしまうことがあるからです。

B)確信を揺るがすものはなんでしょう?  
 不敬虔な人々の色んな言葉や態度、姿勢を通して、神様を信じなくなってしまう悪い不信仰の心を内側に受け入れてしまう、これが確信を揺るがしてしまう大きなポイントです。
 
 クリスチャン生活を長く続けていくと世の中とのつながりも深まっていくことが多いので、そこから不敬虔な人々の情報を聞くことを通して、悪い不信仰の心が生れてくる可能性が大きいのです。確信を失うと私たちに迷いが生じます。神なんていない、という言葉や情報を聞き続けていると、そうかもしれないと思ってしまうのです。

C)確信を保ち続けるには?  
 では、どうすればいいのでしょうか?
「『きょう。』と言われている間に、日々互いに励ましあって、誰も罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。」
 
 励まし合うことが必要です。信じている者たちが集まって、神様の愛、キリストの福音が間違いないものであるという証を分かち合って、教え合い励まし合って、不信仰を起こさせるこの世の人々の言葉を洗い流していくことが必要です。

 毎週日曜日に来るのも、互いに励ましあって誰も罪に惑わされて頑なにならない為、と捉えることもできると思います。神様の愛に心を動かされて、神の子であるというアイデンティティーをもって決心した人がこんなに多くいるんだと、見て話して交わって更に勇気を得て、この一週間神の子としての確信を心に抱いて、一つ一つ神の子として判断決断していくのです。一人で聖書を読んで一人で祈っているだけでは、この世の不信の言葉に惑わされやすいので、互いに励ましあうという機会をもっていけるように努めていきたいと思います。

【デボーションポイント】    
 アイデンティティの確立と自覚。

 今日のみことばは真理のみことばとして、自分が何者であるかについて、目を覚ましていただきたいと思います。

 

 【短歌】           

  雑草は  刈り取られても  たくましく  

  迷うことなく  また生えてくる

 雑草は抜いても抜いても迷うことなくそこに生えてきます。神がそのように雑草を作られたのです。

 私たちも不信仰な言葉に振り回されず、神の子としてここで生きるんだ、雑草のように生え続けるんだと、それほどの強い確信をもって、救われていること、神様に愛されていることを心の励ましとして歩んでいきましょう。

 神の子として救われた以上、迷ってはいけません。イエス様を信じて、神の子としての理想的な歩み方、不可能と思えるような人生の送り方を私たちはチャレンジしているところです。

 自分の力だけでなく神様の愛の力に励まされて歩んでいけるのです。そういう勇気を持っていきましょう。

 

 

 

 

 

■2018年7月22日 日曜礼拝メッセージより(辻和希伝道師、横路伝道師)

 さらに輝け! いのちの光  up 2018.7.22


主題聖句(ピリピ2:15〜16a)
それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。

 

 

 

【辻 和希伝道師メッセージ】
A)パウロにならう輝く生き様
 今週は、先週持たれた夏期聖会の主題聖句をもう一度振り返ってみたいと思います。ピリピ2:15-16が主題聖句でしたが、もっと深く理解していくために、その前後も含めてピリピ2:12-18を読んでみましょう。

12)こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。
13)神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。
14)すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。
15)それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり、
16)いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は自分の努力したことが無駄ではなく、労苦したことも無駄ではなかったことを、キリストの日に誇ることができます。
17)たとえ私が、あなたがたの信仰の礼拝といういけにえに添えられる、注ぎのささげ物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。
18)同じように、あなたがたも喜んでください。私とともに喜んでください。
(新改訳2017)

 ピリピの手紙の随所には、パウロが宣教する中で支援をしてくれたピリピの教会への感謝と、信仰を熱心に守っていることへの喜びが表現されています。さらに、パウロ自身は牢獄に捕らえられていたので、ピリピの教会員にとっては、リーダー不在という不安の中にあったと思われますが、このことに対しても、「私がいないときこそ、見える人にではなく、見えない神様に信頼し、救われた人生を全うしなさい。(12-13)」と励ましています。まるで、自分に充てられた手紙のようで、感動を覚えるのと同時に、パウロの福音一本の生き様に圧倒されました。
 14節では、すべてのことを不平を言わずに、疑わずに行いなさい。とあります。それは、下記のようになるためです。そして、それは、聖会のポイントとつながってきます。
1.非難されるところのない純真な者=主をおそれること
2.傷のない神の子ども=本来の自分に気づき目覚めること
3.いのちのことばをしっかり握り、世の光として輝く=みことばを実行する人となる

 私たちの人生は、イエス様の十字架の救いの御業によって、新しくされました。新しく歩みを始めているピリピの教会に対してパウロは喜びを表していますが、実は、イエス様こそ、一番喜ばれているのです。そのイエス様は、先に救われた私たちへその喜びを共感してほしいと願っています。ですから、私たちは、この新しくされた人生を下を向いていては、イエス様を悲しませてしまうことになります。新しくされた人生を私たちは主にあって満喫できているでしょうか?生き甲斐を持てているでしょうか?イエス様の喜びに私たちもあずかりましょう。
「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」
ピリピ4:4

【横路伝道師メッセージ】
B)主を恐れる
(箴言9:10)
「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。」
◎主を恐れるとは、「心から敬う」という敬虔さを表す。
・神の栄光と創造の偉大さを知る
 神様の創造のわざはすばらしいです。大宇宙の広さ、人体の小宇宙の不思議、生き物、命の不思議にいつも感動します。
 私(横路伝)が中学生の時に生物部に入り、顕微鏡で見るのが大好きでした。こんなに不思議な世界を創られたのが神様だということはわかりませんでしたが、いろんなことが不思議だなぁと思っていました。それが神様のみわざだとわかったのは、教会に来てからでした。
 太陽系はとても広いですが、太陽系が入っている銀河系は、端から端まで行くのに光の速さで10万年かかると言われています。その銀河系がこの宇宙には1000億個あると言われています。とても考えられない大きさです。これをお創りになったのが神様なのです。
 
 また、私たちの体の血管を全部つなぎ合わせると、10万キロメートルになり、地球を一周する位になるそうです。それを神様が創られて、私たちが生きるようにしてくださっているのです。
 
 また、例えば、あの青虫から美しい羽根を持ったモンシロチョウになるということも、何回考えても不思議です。このような素晴らしいことをされるのは、神様のみわざです。この偉大な神様を知ったら、大自然は自然に出来たのではなく、神様が創られたのだということに感動します。

・十字架の愛の深さ広さを知る
 私(横路伝)がイエス様を信じた時に、これはただの物語でもなく、誰かのために死なれたのでもなく、私のために死んでくださったのだということがわかった時に、とても感動しました。
 もし私が二千年前のイエス様が十字架を背負われて殺されるために歩いておられる所にいたとしたら、どうするでしょうか。そのイエス様の痛みが自分の罪のせいだとわかったとしたら、「イエス様、行かないでください。私が行きます。」としがみついて止めるのではないかと思います。恐ろしい痛み、苦しみを、イエス様は私の代わりに受けてくださったと知った時に、感動して涙が出ました。これが救いの体験です。この愛の深さ、広さを知る時に、神様を恐れ敬う気持ちになります。

・聖霊の聖さを知る
 イザヤが神様を見た時に、その聖さに恐れて神様の前に立つことができませんでした。聖霊様の聖さに本当に出会ったら、自分の罪深さがあらわにされ、私たちも立っていることができないかもしれません。そのくらい、主の聖さはすばらしいのです。
 
 この3つの点がわかった人は、主を恐れる心、尊ぶ心、愛する心が芽生えてくるのではないかと思います。

◎主を恐れるとは、信頼しきること、愛し合うことを表す。
・完全な信頼関係
・深く愛し合う関係
 
 完全な信頼関係を持つとは、夫婦関係、親子関係のように、互いに愛し合い、交わりを続けていくことです。私たちはイエス様とそれほどの深い愛の信頼関係を持っているでしょうか。
 
 本当に信じ切り、愛し合う関係について、次のようなお話を辻先生がアンデルセンの童話からされました。

*「お父さんのすることに間違いはない」から学ぶこと
 とても愛し合う夫婦がいました。このお母さんがお父さんに対して持っている信頼は素晴らしくて、「お父さんのすることは何でも間違いはない!」といつも言うほどの、強い信頼を持っていました。
 
 ある時、家にいる馬を何かと交換してきてとお母さんが頼みました。「お父さんのすることには間違いないから」と信頼して送り出しました。
 お父さんは、途中で雌牛を飼っている人に会いました。「毎日牛乳が飲めるからきっとお母さん喜ぶに違いない」と思い、交換しました。
 
 しばらく行くと、美しい毛並みの羊を飼っている人に会いました。「この羊の毛で暖かいセーターを編んだらお母さんきっと喜ぶに違いない」と思い、交換しました。
 
 しばらく歩くと、今度は大きなガチョウを抱えてる人に会い、「このがちょうの肉はおいしいので、お母さんがきっと喜ぶに違いない」と思い、交換しました。しばらくすると、卵をよく産むめんどりを飼っている人に会いました。「お母さんに毎日卵を食べさせてあげられるぞ」と思い、交換しました。
 
 その後、大きな袋を抱えた人とぶつかりました。その中身は何かと聞くと、傷のついた腐りかけたリンゴがたくさんあって、売り物にならないから処分しようとしているとのことでした。それを聞いたお父さんは、「お母さんはリンゴが大好きだから、きっと喜ぶに違いない」と、その腐りかけたリンゴとめんどりを交換しました。
 
 それから食堂に行きますと、あるお金持ちの人に出会いました。その人は興味を持ってお父さんに「なんでこんなたくさんの売り物にならないリンゴを持っているのか」と聞くと、お父さんは今までのいきさつを話しました。「これを見せたらお母さんはきっと大喜びする」と言うと、「そんなばかなことがあるものか。馬から、こんな価値のない腐ったようなリンゴを持って帰ると、奥さんは怒るに違いない」と言い、もし本当に喜んだら、たる一杯の金貨をあげると約束しました。
 そして、家に帰って奥さんにそのリンゴを見せたら、お母さんは大喜びして、「お父さん、私の大好きなリンゴをありがとう。こんなにたくさんのリンゴ見たことない!お父さんのすることにはやっぱり間違いがない!」と言ったそうです。お金持ちの人は、しかたなくたる一杯の金貨をこの人にあげたというお話です。

 このお話から色々なことを学ぶことができます。この世の考え方は、価値がだんだん低くなってくると喜べません。
 
 しかし、お母さんが喜んだのは、お父さんが一つ一つ自分のためを思って、お母さんを喜ばせようと思って選んでくれたという、お父さんの愛の動機がわかっているから、どんなものを持ち帰っても喜んだと思います。とても素直なお母さんです。このお母さんは、神様を信じる私たちのことを表わしていると思います。神様は、私たちが喜ぶようにと今の人生を与えてくださっています。時には悪い事が起こるかも知れませんが、私たちを愛してくださっている神様のお心を信じると、すべてのことを感謝して受けとめることができます。

 私たちの人生には色々なことがありますが、このお父さんを信頼するお母さんのように、全き信頼をもって、どんなことが起きても「神様のされることには間違いがない!」という信仰を持って歩むことができるなら、それが主を恐れ敬う悟りであり、神様を信頼し切って愛し合う人生を歩むクリスチャンの姿でないかと思います。
 
 愛は生かす力です。私たちは、愛によって輝く人生を目指していきたいと思います。

 

 

 

 

 

■2018年7月14〜16日 夏期聖会メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 さらに輝け! いのちの光  up 2018.7.15


主題聖句(ピリピ2:15〜16a)
それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。

 

 

 

【聖会1 7月14日(土)】
 
 私たちはイエス様を信じることでいのちの光をいただきました。それゆえ、さらに輝けるのです。その期待をもってこの聖会をすすめていきましょう。
 基本と土台を確認することは大切です。今回はその大切な土台を確認していきたいと思います。
「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。 」(箴言9:10)

 恐れるとは、敬うという敬虔さを表します。また知るということは、悟るということであり、初めとは土台、基礎であるという意味です。
 知恵…物の道理をわきまえる力。わきまえ。分別。賢さ。
 人格形成の始まりとなるのが主なる神様を知るということであり、その知恵が土台になります。この知恵は人格的な賢さを意味します。その賢さは創造主を認め、さらに徳が高い人格形成につながります。
 人格形成は経験、体験を通して、悟り、あるいは主観(その人の中心的考えの基)として出来上がっていきます。
 私たちの主観、判断の基準はどこにあるでしょうか。「主を恐れること」にあるでしょうか。しっかり確認しましょう。

「こうして、神は人に仰せられた。「見よ。主を恐れること、これが知恵である。悪から離れることは悟りである。」(ヨブ記28:28)
 主を恐れることが知恵であり、人にとって真理とは悪から離れることです。これが善を行うことです。損得は関係ありません。それによって迫害されてもじっと耐えるのは、神の裁きを知っているからです。神がすべてを公平に裁かれることを知って、信じているからです。

「悪者は高慢を顔に表わして、神を尋ね求めない。その思いは「神はいない」の一言に尽きる。」(詩篇10:4)
 神がおられることを信じている人はこの聖会で何が起きても起きなくても、神を信頼し失望することはありません。期待していたことが自分に起きなかったと失望するのは、「神はいない」と言っているのと同じです。
 ただ私たちが本心から神を信頼しているかどうかを、神は試されます。

【主を恐れているかどうかの確認】
1)行動、行いによる確認。
 …しかしこれには形だけを整えるという罠があります。

2)信じる信仰による確認。
 …内側を整えることです。しかし、それだけで大丈夫としてしまう罠があります。赦されているから大丈夫という自己暗示になってしまう罠です。
3)信じたことを行動に出すことによる確認。
 ヤコブは1)も2)もちゃんと見据えて提案しています。 
(ヤコブ2:14〜26)これはクリスチャンの基本です。まず悟ってください。これが悟れないということは、まだ未熟なクリスチンです。私(辻師)の32年間のメッセージの中心はここです。信じて一歩、 次のもう一歩は信じたことを行動に表すということです。
 癒しに関して、例えば100%神様を通してと考える人と、病院に行って癒しを祈るという人もいます。どちらも信仰によるのであれば間違いではありません。
 大切なのは信仰によることと、敬虔な心をもっているのかどうか、つまり主を恐れるという動機による行いであるかどうかが問われるのです。
 神は良い方であると信じておられますか。そのように信じているなら最後まで決して諦めることなく、どのような時にも何が起きても感謝をし続けることができるはずです。
 この世が全てではありません。私たちには永遠の報われる時が来ることを信じています。その信仰を行いで表し続けましょう。例えこの世で損をしても、神は天の御国で必ず報いてくださいます。

【聖会2 7月15日(日)】
 昨日、主を恐れるということを学びましたが、自分が元気で何でもできる時には難しいものです。ダビデも弱い時に主を恐れるということを学びました。強い者は高慢になり神を必要としません。しかし神は弱い者を憐れみ面倒をみることを喜ばれます。私たちが弱く罪人であるということは、実は神を知る上で必要なことなのです。今日は本来の自分が何であるかを学んでいきます。

【本来の自分とは】
 私たちは周りの意見に大きく左右されてしまいます。しかもそのことに気づかないでいたりします。
「互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。 」
(コロサイ3:9〜10)
 人本来のかたちとは、神のかたちです。創世記には、「造り主のかたちに造られた」とあります。創世記では、まだ人が罪を犯す前ですが、コロサイにある「造り主のかたちに似せられて」の人類は、罪を犯してしまい壊れてしまった人類です。しかし神はキリストの贖いを通してもう一度私たちを造り主のかたちに造ろうとされていることが語られています。
 今、神は新しい人として再生しようとしてくださっています。
古い人=罪の奴隷 → 新しい人=古いものに影響されない神のかたち

 洗礼を受けて20年経てば、もう成人です。成人したクリスチャンとして養われるばかりではなく、自分のビジョンを見つけて自立することが大切です。
 またいつまでも同じ衣を着ていては古びてしまいます。ますます新しい衣を着ていきましょう。
 今ついている仕事が、これが私の仕事だとやりがいを感じているなら、そこに心を定めて希望を持つことができます。これが自分の本来のやるべきことであり、居場所であると迷わないでいられる人は幸いです。

【神のかたちへの回復=神に義と認めていただくこと】
・行いによる義…行いの結果によります。結果を出さないと義と認めていただけません。外側の見えるかたちを整えます。

・信仰による義…どんな時でも神は良い御方だと神に希望を持ち続けることによる義です。心の姿勢であり動機でもあります。内側を整えます。
 結果ではありません。神は信仰により、あなたを神のかたちと認めて義としてくださるのです。
 ただし、何もしないでいいというわけではありません。心が神のかたちに整えられた人は神への感謝があふれてきますから、神の愛に応えたいと願い、その思いが自然に行いに表れてくるものです。
 そのような信仰をもっている私たちを救うために、十字架は過去・現在・未来のすべての罪を取り去って、私たちから罪を切り離し、前に進めるようにしてくださいました。
 それゆえ今日も神のかたちとして日々新たにされながら、ますます神のかたちに整えられて生きることができます。
 ある時は思いもしない試練がきたり、苦しみが来ることもあります。しかしヨブがその苦しみの中で心砕かれ、さらに学んだように、どのような試練の時も神のかたちに整えられて生かされている人は、その試練を通してさらに悟り学ぶことができます。

【霊的原理】
・罪と死の原理(ヤコブ1:14,15)
「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」
 欲自体は悪いものではありません。欲は成長し発展するために必要なものです。しかし、この欲が貪欲になると罪を犯し、死にいたらしめます。
 仏教では欲を悪と捉え、煩悩は捨てるべきと考えています。哲学や他の宗教でも悪と捉えるものが多いようです。
しかし経済社会では欲こそが神です。
 聖書では、欲を健全な欲求に保つために自制心が必要であると言っています。そうでないと欲が不健全な欲となり、罪を犯し、その結果死に至る、つまり神に裁かれてしまうのです。

・いのちの御霊の原理(ローマ8:2)
「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」
 罪と死の原理から解放されるためには、いのちの御霊の原理が必要です。
 いのちの御霊の原理とは何でしょうか。
「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」(ローマ8:14)
 子どもは親のかたちを継承します。いのちの御霊の原理とは、御霊の導きのことを言います。この原理のほうが罪と死の原理よりも強いので、そこから解放してくださるのです。導かれるとはどういうことでしょうか。
「けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」(ローマ8:9)
 御霊の中というのは、御霊におおわれているということです。
私たちの霊のところに御霊が来られ、包んでくださっています。守られ大事に包んでくださっているのです。

「もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。」(ローマ8:10)
 肉体は罪を犯して神の前には役に立たないようなものでも、私たちの霊は神のかたちを持っているゆえに生きているのです。
 神の霊はあまりに偉大なので、私たちの内に入りきれないであふれ出てしまい、しかもあふれ続けているので、私たちの霊はその神の霊の中に包み込まれてしまっているという状態です。御霊は神の愛ですから、私たちは神の愛に包み込まれているとも言えます。想像してみてください。なんと素晴らしいことでしょうか。
私たちはあふれるほどに満たされているのです。

「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」(ローマ8:11)
 10節にはからだは罪のゆえに死んでいてもとありますが、ここでは死ぬべきからだを生かしてくださるとあります。
 どんなに自己評価が低くても、神は生かしてくださると約束してくださっているのですから、諦めてはいけません。信じましょう。

「ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。」(ローマ8:12)
 あなたの所有権は神が持っておられます。イエス様の十字架で代価をもって買い取られているのですから、肉の思いに従って歩む義務は、もうないのです。

「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。 」(ローマ8:1)
 これは強い表現です。これほど強い表現をパウロがしたのには理由があります。パウロも肉の影響を強く受け悩んでいました。しかし、パウロはいのち御霊の原理を知ることによって、この肉に対し、殺すという強い表現をするほどの圧倒的な勝利を確信したのです。御霊の原理はそれほど強いということです。古き人に対して、あなたは必ず勝利できます。

「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。」
(ヨハネ16:13)
 御霊はすべての真理に導いてくださいます。

「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。 」(ヘブル9:14)
 御霊は私たちを導いて、神に仕える者としてくださいます。

 このように私たちは神のかたちの回復の途上にいます。そして、御霊の導きに従って歩むことこそが、私たちの本来の姿なのです。
この基礎である土台と原則を絶対に忘れないようにしましょう。
これがあれば必ず家はしっかりと建ちます。何度でも確認して自分を吟味してください。

★主を恐れること

★神のかたちに生きること

 

【聖会3 7月16日(月祝)】
「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」(ヤコブ1:22)

 「実行する」という意味は実践するということであり、結果を出すための訓練を意味します。とにかくみことばを実行してみようということです。すぐに結果が出せる訳ではありません。
 
 野球では、3割打者は優秀です。とにかく10本打って3本いい結果がだせればいい打者なのです。
 神様は私たちに100%の結果を出すようにとは言われていません。むしろそのような完璧さを求めてはおられないのです。1回でも結果が出せるために、まずは実行していきましょう。何もしなければ結果は出ません。

 また、「自分を欺いて」とは、本心があるのに見て見ぬふりをすることです。正しい良心は、みことばを素直に受け入れ信じます。
みことばは「あなたは神の子です。」と語っています。それなら、あなたは神のみことばを素直に受け取るべきです。自分の五感に頼ったり、自己卑下で否定してしまったら、それは自分を欺いていることになります。

 「ただ聞くだけの者」とはどういうことでしょうか。メッセージを聞いてアーメンと応えていながら、実行しようとしなかったら、ただ聞くだけの者となってしまいます。同意したなら実行してみましょう。

「ただ一つ。キリストの福音にふさわしく生活しなさい。そうすれば、私が行ってあなたがたに会うにしても、また離れているにしても、私はあなたがたについて、こう聞くことができるでしょう。あなたがたは霊を一つにしてしっかりと立ち、心を一つにして福音の信仰のために、ともに奮闘しており、 」(ピリピ1:27)
 みことばを実行するということは、キリストの福音にふさわしく生活するということです。
 ただ一つとは、どのみことばもすべてキリストの福音にふさわしく生活するためにあるということです。自分の都合にいいようにみことばを捉えてはいけません。

「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。
そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。
キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。
キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。
あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。」
(コロサイ3:12〜17)

 キリストの福音にふさわしく生活するために必要な5つの徳が示されています。神に選ばれた者として、「同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」という5つの徳を身に着けましょう。
それによって、互いに赦し合うという実が実り始めます。実行していかなかったらすぐには実はなりません。そしてやっと「赦す」という実が実るのですが、そこにさらに「愛」 を身に着けないといけません。
 最初は無理だと思えるかもしれませんが、身につけるためには苦労を喜んでしましょう。
 神は結果で評価する方ではありません。信仰による義は結果をだそうというプロセスを進んでいる人を義と認めるのです。神がそのやり続けるプロセスを見て義としてくださいます。
 私たちは福音にふさわしく生活することでキリストの証人となっています。
不可能に思えるようでも、順を追って一つづつでも勧めていけば必ずゴールに達すると神は知っておられます。神はすべての人が救われることを願ってられるので、どんなにスピードが遅い人でも可能な道を開いてくださっています。

「あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。」(ピリピ4:5)
どうして「主は近いのです。」ということばにつながるのでしょうか。福音宣教は単に説明するだけではありません。自分の寛容な心を示し、赦し続けることで、神の寛容さ、赦しを伝え、神の愛を伝えることができます。そして、すぐには信じないように見えた人々が、あなたを通して神の愛を知り悔い改めるチャンスを得るかもしれません。

【みことばによるチャレンジ】
 いくつかのみことばを示しますので、個人的に読んで黙想してみてください。あなたに与えられているみことばがあるかもしれません。

・(詩篇49:20)
「人はその栄華の中にあっても、悟りがなければ、滅びうせる獣に等しい。」

・(詩篇51:17)
「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」 
特に神へのいけにえであるということに目を止めてください

・(ヨブ32:8)
「しかし、人の中には確かに霊がある。全能者の息が人に悟りを与える。」
人の悟りと神の霊からくる悟りには違いがあります。

・(詩篇12:5)
主は仰せられる。「悩む人が踏みにじられ、貧しい人が嘆くから、今、わたしは立ち上がる。わたしは彼を、その求める救いに入れよう。」

・(箴言12:15,16)
「愚か者は自分の道を正しいと思う。しかし知恵のある者は忠告を聞き入れる。 愚か者は自分の怒りをすぐ現わす。利口な者ははずかしめを受けても黙っている。」
 男性は怒りっぽいですね。

・忠告…(箴言19:20)
「忠告を聞き、訓戒を受け入れよ。そうすれば、あなたはあとで知恵を得よう。 」

・(詩篇10:3,4)
「悪者はおのれの心の欲望を誇り、貪欲な者は、主をのろい、また、侮る。
悪者は高慢を顔に表わして、神を尋ね求めない。その思いは「神はいない」の一言に尽きる。」

・(箴言23:17、18)
「あなたは心のうちで罪人をねたんではならない。ただ主をいつも恐れていよ。 確かに終わりがある。あなたの望みは断ち切られることはない。」

 

 

 

 

 

■2018年7月8日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 ことばなる神のかたち  up 2018.7.8


主題聖句(創世記1:27)
神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

(ヨハネ1:1)
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

 

 

 

 前回、(創世記1:27)「創造の真理」ということで、私たちが神のかたちに造られ、その「かたち」とは「入れもの」という解釈をしてお話いたしました。神様は御自分を見えるかたちで現わし、また神様の働きをするために、器(からだ)を持たれた、それが私たちである、ということでした。そして、神様がどんなお方か、4つの本質について紹介いたしました。

 今日はその中の一つ、「ことばなる神」について、主題聖句(ヨハネ1:1)を見てみましょう。
 神はことばなるお方、全世界万物をことばによって創造され、ことばによって保っておられます。この「ことばなる神様」を入れる器として私たちは創造されました。
 神のことばを内側に満たすとは、神様が内側に満ちるということです。この神様のことばを入れるにふさわしい生き物として人は存在しているということを、今日は皆さんと一緒に見ていきたいと思います。

1.みことばを住まわせるためのかたち(コロサイ3:16)
「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と、霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。」
 ことばなる神様のみことばを私たちが豊かに内側に住まわせることによって、互いに良いコミュニケーションを図り、良い社会生活を送るようにしなさいと、語られています。
 みことばを内側に住まわせる――「住まいとなる」とは、どういうことでしょうか。

A)神の住まいとなる(エペソ2:22)
「このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」
 「住まい」というものは、造り上げ、建て上げ、完成させるものです。今、神様はご自分の住まいとして、私たちを完成に向けて建て上げておられます。私たちがみことばを聞いて行なう、学んで悟るというのは、神の住まいとして私たちが建て上げられて行くためのプロセスです。
 私たちがみことばを悟れなかったら、神様の住まいが未完成ということになります。神様が私たちに聖書のお言葉を与えておられるのは、ご自分が住む場所として私たちを建て上げて下さっておられる、という意味になります。

B)神の神殿(第1コリント3:16)
「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」

 神殿というのは建物の価値を表しています。旧約聖書ではソロモンが、金銀、一流の木材、拠り糸、最高の素材で、神殿を造りました。そこに御臨在される神様の存在価値を仮に表現するために、最高級の神殿を建てたのですが、それでもソロモンは、天地を造られた創造主なる神様をお迎えするには何とみすぼらしいものでしょうか、と言っております。
 私たちは金銀ではなく土くれのものですが、しかし私たちは神様が住まわれ、おことばを注がれるにふさわしい高価で尊い神殿として造られた一人一人なのです。

C)教会が神の家(第1テモテ3:15) 
「それは、たとい私がおそくなったばあいでも、神の家でどのように行動すべきかを、あなたが知っておくためです。神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は真理の柱また土台です。」
 
 このみことばでは、神の住まいが「神殿」から「神の家」となっています。どう違うのでしょうか。「神殿」は神様の執務室のようなものです。「家」とは、そこに家族がいる、皆が集まる安心の場所です。 神は私たちを高価な神殿のように見てくださっているとともに、ご自分の家族とともに安らぐプライベートな場所として、私たちを創造してくださったのです。

2.内住するみことばの働き(第1テサロニケ2:13)
「こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間の言葉としてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。」
 
 「住まい」というところから、三つの神のかたちを見てみましたが、そのようにして神様の言葉が私たちの内に住んでくださる時、どのような働きが私たちの内でなされるのでしょうか。

A)使徒20:32    
「いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。」
 
 「育成する」という働きが神のことばにはあります。私たちは成長しようと思うものですが、みことばがあなたを成長させてくださるのです。みことばの言われるとおりにしてたら、いつのまにか成長しているというのです。それなのに、自分が頑張ってしまうと、自分の努力や人間的考えで先走ってしまい、神様の育成のお働きを横に置くようになります。

B)へブル4:12  
「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」  
 
 2番目は「判別する」というお働きです。私たちは時々、自分が今何を考えているのかわからない時があります。わからないまま、何かに動かされているような感じがするという時、それは、自分が意識できないところに何らかの「言葉」があるのです。その言葉によって突き動かされているのです。それは欲求・感情から来る言葉であることが多いのですが、そのような見えない動機を、神のことばは判別します。

 私たちは本心に気付きたくないので、聖書を読まない、メッセージを聞かないというようなことがあります。みことばが私たちの心を見分ける力があるので、咎められたり責められたり、心が痛い思いをします。本心をあらわにされます。悪い動機が見えてきます。間違いが示されます。だから、いろいろと言い訳して聖書を読もうとせず、みことばを受け入れようとしません。その心は暗闇です。

 みことばは光です。光が暗い部分に当たれば様子がわかります。神のみことばにそった思いや考えがあるかどうかを私たちは見分けることができるのです。みことば(光)に心を向けたくないのは罪の力です。

 だから、聖書を読むことは大事ですね。神のおことばを入れる器として、神のことばを入れていなかったら、私たちの主観や価値観、考え方、そういうものが歪んできます。みことばから主観が生まれて来なければいけないのが私たち人間です。そのように造られているのです。

C)第1ペテロ1:23    
「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。」
 
 「新しく生まれさせる」という力が神のことばにはあります。一回新しく生まれても古びて行きますから、みことばによっていつも新しく生まれ変わっていくことが必要です。人は現状を維持したい、辛いし疲れるから変化したくないと無意識に思っています。しかし、人は変化を通して成長します。変化させ新しくする力が、みことばにはあるのです。

D)第1テモテ4:5    
「神のことばと祈りとによって、聖められるからです。」
 
 4つ目は「聖め」です。私たちが聖くなりたいと思うのなら、みことばを聞き、祈ることです。罪をやめて外側だけきよい形をつくろうとするのではなく、みことばが私たちの祈りと共に働いて、さとしや気付きや知恵を与えて、さらに神様のものへと近づけて、神様に所属するものへと造り変えてくださるのです。聖くならないのは、みことばと祈りが足りないからです。

E)ヤコブ1:21  
「ですから、すべての汚れやあふれる悪をすてさり、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。」

 「魂を救う」これは最初の救いのことだけではありません。私たちは救いから外れることがあるからです。誘惑されて神様から遠ざかることもあるのです。そのとき立ち返ることもできるように、神様のみことばは、もう一度私たちを救いの中に導き、私たちの魂を救うことのできる力をもっているのです。

 イエス様を信じて救われたからもういい、なんてことは決してありません。救われ続けることが必要です。私たちの環境は誘惑に満ち、つまずきにあふれ、「どうして?」と思うようなことが世の中にたくさん起こります。回答は神のみことば、聖書の中に必ずあります。

 このように、みことばが私たちの内に住んで下さることによって、私たちはことばなる神のかたちに整えられ完成されていきます。

 一つのみことばが心に宿ると、みことばの内容が、あなた自身のかたちとして人々にも感じられるようになります。みことばのかたちが現れるのです。「神はあわれみ深い方です。」というみことばを心に宿すと、自分もあわれみ深くなり、人々があなたを見て、あわれみ深い神のかたちを見ることができるのです。みことばがかたちとなって現れるのです。

 器は中身を表します。神様の言葉ではないねたみや怒りなど、他の言葉を宿していると、外側の器にもそれが表れてきますから、気をつけましょう。良いことば、神のことばを宿しましょう。神のことばが入れば神の器となり、罪の言葉が入れば罪の器になるのです。

【デボーションポイント】   
「嘉言善行」(かげんぜんこう)は、うちに住まわれる神のことばによって実現できる。
「嘉言善行」→良いことばと良い行いのこと。

       
【俳句】            

みことばに  動かされしや  夏燕

 巣作りに産卵に子育てに、親ツバメは一日中出たり入ったり、疲れも知らず、生き生きと飛び回っています。神様がツバメにそのような「ことば」を与えられたからです。「生めよ、増えよ、地に満ちよ。」すべての生き物の本能に、神はこの言葉を与えておられます。
 与えられた神のことばに反抗するのは人間だけです。人間が本当に幸せで生きがいがあるのは、神のお言葉を受け入れて動かされていく時ですね。

 

 

 

 

 

■2018年7月1日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 創造の真理  up 2018.7.1


主題聖句(創世記1:27)
神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

 

 

 

今週は「創造の真理」が私たちを自由にするということについて、皆さんと一緒に考えてみたいと思います。
 私たちの存在は、神のかたちに創造されたという真理をもっています。進化論を信じる多くの人々には不都合な真理です。なぜなら、神の前で善と悪に分けられ、悪に対する裁きがあるということは認めたくないし、自分の上に自分を支配する存在はいてほしくない、思い通りにしたい。ゆえに、創造主の存在は認めようとしません。
 そんな社会の中で私たちは、神様の存在のもとに自由に生きることができるという幸せをもっとしっかり掴むために、「創造の真理」を通して皆さんの心がもっと自由になっていただきたいと思います。   
 「野生のエルザ」という映画がありましたが、あのストーリーと同じことが起きたことを今週のニュースが伝えていました。ある男性が親からはぐれたライオンの赤ちゃんを育てて、時期が来てジャングルに返してやりました。半年か一年か、少し時間を経てその所に様子を見に行くと、一つのライオンの群れから一頭のライオンが出てきて彼に近寄ってきました。その優しい目を見た時、あのライオンだと気付いたそうです。ライオンと抱き合っている写真が掲載されていました。
 男性はライオンを人間社会でペットとして扱わず、自然の中に返してやりました。野生のライオンは大草原の自然の中で生きてこそ本当の自由があるからです。
 ライオンはライオンとして、人間は人間として生きてこそ自由です。では、人間として生きるとは?私たちは神のかたちに造られました。「神のかたち」とは何でしょう。まず、神について4つの本質を紹介いたしましょう。

1.神(創造主)について 
A)神は「霊」(ヨハネ4:24)
「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」
 霊は肉体ではありません。私たちの本質も肉体ではなく霊にあります。私たちは霊的存在です。肉体は死んでも霊は生き続けます。

B)神は「ことば」(ヨハネ1:1)
「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」
 光あれ、大空があれ、・・・全世界は言葉によって創造されました。言葉は未来を作り出します。
 人間も言葉によって文化文明、ものごとを発展させています。被造物で言葉を持つのは人間だけです。

C)神は「愛」(第1ヨハネ4:8) 
「愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」
 本当の愛を持っている人は神がわかります。神がわからない人は愛もわかりません。

D)神は「聖」(第1ペテロ1:16)
「それは、『わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。』と書いてあるからです。」
 「聖」なるものは神だけです。被造物は「聖」とはなり得ません。神に属するものを「聖なるもの」と聖書は呼びます。その人が罪がないとか罪を犯さないとかではなく、神様に属している、神様の一部、神様の所有になっているということが「聖」であります。
 逆に良いことをしていても神を認めない人は「聖なるもの」ではないということです。
 この4つの本質に似せて人間は造られたのですが、その目的は何でしょうか。

2.神のかたちに創造した目的(黙示録21:3−4)
「そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

A)神と人が共に住むための「かたち」

B)神の民となるための「かたち」  

C)神ご自身が人と共におられるための「かたち」

 神は霊なので個体として横に物理的におられるというのは考えにくいことです。神が人と共に住むとは、霊として私たちの体の内側の、私たちの霊のあるところに宿って存在されるという意味があります。
 たとえば、高価なものを納めるための特注の専用ケースを想像してみましょう。ピッタリ納まって安心できます。傷ついたり壊れたりする心配がありません。完全に保管するための器というふうに「かたち」の意味を解釈できます。
 神様が私たちの内に住んでくださるために、ピッタリはまる「かたち」。神様の最適の住まい、神様が安心できる家として、持ち主以外のものが住んだのではふさわしくない神様の家。私たちは神様に内に住んでいただくために、神のかたちに造られたものです。最も価値ある本物を、大事に保管するために造られた価値ある器が私たちなのです。――これは何と神秘的な気づき、衝撃的な喜びでしょうか!
 霊であり、言葉であり、愛であり、聖であるお方の、その本質を維持するにふさわしい器として、私たちは造られたのです。何と光栄なことでしょう。何と価値ある働き、使命を頂いた私たちの存在でしょうか。このことに気づいていただきたいと思います。
 そこから私たちの人生、いかに生きるか、何を目指すべきか、を考えていくことができるわけです。
 この真理なくして、自分はどう生きるべきかは、欲求が起こらない限り、目標を見つけることはできないでしょう。
 欲求は存在の目的ではありません。生存を支え維持するために必要なものでありますが、目標にはなりません。
 真理に沿った歩みをするために、肉体や霊的な欲求を満たしていくことによって目標まで到達することが出来るのです。欲求は罪ではありませんが、欲求を目的とすることは的はずれになります。罪です。
 神様に入っていただくべきところに、他の物を入れて住まわせたのでは、使い方を間違っていますね。
 「民」は治められるべき人々という意味で、王様と国民との間の相互の信頼関係を表しています。
 器だからといって、無理やり入り込んで居座って利用する単なるケース、というのではありません。神の民でもあるということは、心と心が通じ合っている関係があるのです。
 道具と使い手の関係で見ますと、たとえばピアノは一流の使い手にかかると、いのちが吹き込まれたかのように生かされて、これがあの同じピアノかと思われるような音色を創り出します。私たち被造物も、神の手に使われると、いのちが吹き込まれ、自分の能力以上の、神の全能を表すものとされるのです。
 神は全能ですから、お一人で何でもできないことはありません。しかし、あえて私たちを用いて、ことをなそうと思われるのは、なぜでしょう。お一人で行われるよりも、人間を用いてこそ素晴らしい結果が生み出されるからです。それが神の国です。
 神様のなそうとしておられることのための道具として自分を神にささげる心を持てば、神はあなたを神の愛として隣り人を赦す力をあなたに与えて、神の栄光を現す愛の人とされるのです。人から賞賛を受けることがあっても、神様がおられなかったら出来なかったことですから、「神様のおかげです」と、神様に栄光が帰されるのです。
 私たちは人を裁くために造られたのではありません。神は愛です。人を赦し愛するために私たちは造られたのです。神のかたちという真理を通して、色んな罪に束縛されている現実を解き放つことができます。
 今私は間違っている状況にある、だから正しいところに立ち返ろうと神のお言葉に心を向けて、自分の歩む方向性をしっかり定めることができます。
 罪を犯して、なかなか直らなくても、あきらめてしまえばそれでおしまいです。私たちは神のかたちに造られた者です。間違いで人生を終わりたくない、正しい方向に向かって人生を終わりたい。悔い改めてまた進むのです。悔い改めに飽きてはいけません。
 神様は結果を求めてはおられません。あなたが神のかたちとしての自覚を失わないで歩むことを願っておられます。
 自分を見捨ててはいけません。神は私たちを見捨てられません。私たちは自分で自分を見捨てないようにしましょう。
 神は最高傑作のご自分の住まいとして私たちをお造りになりました。私たちのところに入ってくることが神様にとってもっとも安息であり、安心の場所であり、憩いの場所であるという、そういう意味で私たちをお造りになりました。これが私たちが神と共に歩むということの意味です。
 悪いところは直していただきましょう。足りないところは補っていただきましょう。最後まで、私たちの神のかたちとしての人生を走り抜こうではありませんか。

【デボーションポイント】  

神のかたちに創造されたという真理によって、何から解放され自由となりましたか?

【俳句】

麻服が  よく似合うのは  聖徒かな
 
 夏は白い麻の服が涼しくていいですね。
 「麻布の衣を着た人々」のことが黙示録に書かれています。白い衣は義の象徴、白い服は聖徒にふさわしい服ですね。
 神のかたちに似せて造られた私たちに似つかわしい服は白、聖徒にふさわしい白い衣を身にまといたいものであります。