■2018年6月24日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 御霊による自由  up 2018.6.24


主題聖句(ヨハネ8:32)
そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。

 

【内容観察】  
わたしのことばにとどまって弟子となるなら、あなたがたは正しい道理を知り、その普遍的な正しい道理は、あなたがたを本来のあるべき状態に戻し、神のかたちに創造された本性のままに生きることができるようにします。

 「真理」は道理(正しく変わることがない唯一の筋道)、「自由」は神のかたちに創造された本性のままに生きる事、と訳してみました。
 自由は何ものにも拘束されない放縦とよく間違われますが、聖書に書かれてある自由とは、私たちが罪と欲望の奴隷の状態から、神に造られた最初の状態(=神のかたち)に戻ることであります。
 そのことの為に、イエス・キリストは十字架にかかって代価を払い三日の後によみがえって、ご自分の霊を助け主として送ってくださり、私たちに実際の解放と自由を与えてくださいました。
 罪の赦しの御業は過ぎ越しの祭りという形で成就し代価は払われております。私たちは代価を払って下さった救い主を信じることによって、その事実を自分のものとして受けることができます。しかし、信じない人はその事実を自分のものとして受けることができません。赦されているのに、赦されない状態のままでいるというのが、信じない人々の状態であります。
 また、信じた人々は、罪は赦されたのですが、罪のない神の子として人生を歩んでいくためには、いのちの息(聖霊)を吹き込まれなくてはなりません。聖霊を受けて初めて神の子としてのかたちの生き方ができるのです。
 救われていても、聖霊様を内に迎えることができない人は、赦されていても神の子としての歩みができない、力がない、実際に生活すると同じ罪を繰り返してしまう、堂々巡りの人生を送ってしまいます。これが荒野の40年と呼ばれるイスラエルの民の生活でありました。
 本来なら、イスラエルの人々は約束の地であるカナンの地に入って自分たちの国を持って祝福の内に生きるはずでしたのに、荒野の人生を送ってしまったのです。クリスチャンも荒野の人生を送る人がいます。
 霊はいのちそのもの。いのち(聖霊)をいただいて、約束の地に入って、営みを始めるのです。ですから、聖霊を受けずにクリスチャン生活を送っていたら、赦されているのだけれど、以前と変わらない生活を送ってしまうのです。そうならないように、助け主聖霊様が送られて、聖霊様と一緒にクリスチャン生活を歩むときに、ちょうどイスラエルがカナンの地で異邦の民と戦って、その約束の地を自分のものにしたように、私たちも心の中の罪の支配からの勝利を得て、キリストのような神の子としての人格に向かって勝利のクリスチャン生活を進めていくことができるのです。
 旧約聖書の「創世記」「出エジプト記」「ヨシュア記」をぜひ読んでください。今日の説明がさらに良くわかると思います。
 エデンの園でアダムが心に欲望を持ち、誘惑されて、取って食べてはならないと言われたものを取って食べてしまって、道を外してしまいました。人間としての道理から外れた人生観を持つようになってしまいました。それ以来、人類は道理から外れたままの人生、歴史を歩んでいます。理不尽で不可解で、何のために生き、どこからきてどこへ行くのか、自分は何者なのか、存在そのものに対する答えを得ないまま今日にいたっています。 
 しかし、聖書は初めからはっきりと、人は神のかたちに造られたという真理を語っています。
 人々の多くが、神はいない、それは神話として作られたものだと思っていますが、クリスチャンは神がご自分のお心を聖書を通して文字にして人に伝えた真理の言葉として受け止めています。
 その真理に沿って私たちは自由にされる(元ある姿=神のかたちに立ち返る)のです。
 「罪人」という偽りの姿に惑わされてはいけません。「本当のあなたは、欲望に振り回される動物ではなくて、神のかたちに造られた神の子ですよ」という真理を聞くことによって、「ああ、そうだったのか」と元のかたちに戻される喜び、自由を味わうのです。
 皆さん、十字架において神様はそれを実現してくださったと、あなたは信じているのであれば、「私は神の子として生きよう!」と決心することが必要です。たとえ罪を犯して失敗するようなことがあっても、「私は神の子として生きるんだ」と決意しなおして、真理に従って生活を変えるとき、その行き着く所は「神の御国」なのです。
 真理を知ると私たちは自由になります。立ち返るべき姿へと戻ることが出来る、それが本当の自由なのです。
 奴隷から解放されても、一体私は何者?誰が親?出生地はどこ?というのでは、本当の自由ではありません。自分が何者かわからないという無知な束縛の中にあるのです。
 私たちはキリストを通して、神のかたちに造られたものであるという真理の回復の途上に今いるのだということを、しっかりと確信してください。
 それを信じることのできるしるしは、歴史の中にイエスキリストが罪のあがないのための十字架の御業を成就してくださったことです。それは、どの宗教の誰にも与えられていない、キリストだけにしか与えられていない救いの御業であることのゆえに、信じることのできる大きなしるしです。

1.言葉としての真理について  
A)日本語
正しい道理。誰も否定することのできない、普遍的で妥当性のある法則や事実。
類語として、「道理?物事がそうあるべき筋道」「真如?存在の本質、存在の究極的な姿としての真理そのもの」「天理?万物を支配する天の道理」がある。

B)西洋哲学より
確実な根拠によって本当であると認められたこと。ありのまま誤りなく認識されたことのあり方。
西洋においては真理論として古代、中世、近世、現代と論じられてきている

2.聖書からの真理について
A)みことばが真理(ヨハネ17:17)
「真理によって彼らをきよめ別ってください。あなたのみ言葉は真理です。」
 神の御言葉は、真理か真理でないかを見分けるために、もたらされる真理のお言葉である。見分けることが必要です。そのためには真理とは何かが語られていなければなりません。それを神は聖書の中にお示し下さっておられます。

B)キリスト自身が真理(ヨハネ14:6)
「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとにくることはありません。」
 イエス様ご自身が真理であると、ご自分で言われました。目に見える形で真理を表されたのがイエス様です。
(ヨハネ1:1)「初めに、ことばがあった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった。」
(ヨハネ1:14)「ことばは人となって私たちの間に住まわれた。」
 ことばなる神が肉体をとってこの世に来られたのがイエス様です。真理が目に見える形でこの地上に来られて、福音書に記録されました。ですから、私たちの神の子の姿としての生き方は、真理そのものであるイエスキリストの人生を見て学ぶということです。私たちの完成された理想の姿はイエスキリストの人生そのものです。イエス様がこの地上における生活の中で、どのように考え、どのように歩み、どのような価値観を持ち、どのようにものごとに反応・応答していたかが、私たちが学んで身に着けていくべきところです。目指すはキリストの姿、「栄光から栄光へと主と同じ姿へと変えられていくのです」という意味はそこにあるわけです。福音書をよく読んで、どういうときにどういう反応をイエス様はされたか、どういうことを語られたか、よく読みよく黙想し、そこに記されている記録、物語、たとえ話を通して、神のかたちとしての自分をとりもどしていっていただきたいと思います。

C)御霊が真理(第1ヨハネ5:6)
「このイエスキリストは、水と血とによって来られた方です。ただ水によってだけでなく、水と血とによって来られたのです。そして、あかしをする方は御霊です。御霊は真理だからです。」
 「御霊は真理」つまり、神の存在そのものが真理とは、どういうことでしょうか。
 神が語られることは万物の法則として真理なのです。神の存在そのものが真理として万物を創造し保っておられます。神の言葉によって万物は造られ、神の言葉によって保たれています。その真理なる御霊が私たちの内に助け主として遣わされます。それゆえ、神の霊と共に私たちの霊は、地上で神のかたちを取り戻す歩みを今続けているということです。

【デボーションポイント】
なぜ、「万世不易」(ばんせいふえき=永遠に変わらないこと)の真理が私たちを自由にするのでしょう?

★聖書的「自由」という意味?「あるべき姿(神のかたち)に戻す」

★聖書的「真理」とは?「ことばなる神ご自身の存在」

★万物は神のことばによって創造され保たれている

 

【短歌】
カワセミと  名付けられたる  青い鳥
  セミの仲間と  誰が思うや
 
 カワセミはセミと同類でしょうか?
 セミは背見と書いて背中が見えるという特徴を表した名前のようです。カワセミというのは鳥ですが、川のそばに生息して、背中に青い羽根が見えるところから、カワセミと名づけらました。海の中にもセミがいます。セミクジラです。海面をザブンと泳ぐ時、きれいな背中が弧を描いて見えるので、セミクジラと言います。
 セミもカワセミもセミクジラも同じ名づけの種類として同類なのです。名づけの意味、真実を知って初めて、同類という意味が納得できます。しかし、知らなかったらセミと付く名にモヤモヤが残ります。
 真実、真理に目が開かれると心のもやもやから解放されて、更により良い理解を得ることが出来るという思いで、この短歌を詠んでみました。

 

 

 

 

 

■2018年6月17日 日曜礼拝メッセージより(辻和希伝道師、横路伝道師)

 解放と自由  up 2018.6.17


主題聖句(第2コリント3:17)
主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。

 

 

 

1.聖書が教える自由
(レビ記25:10)
「あなたがたは第五十年目を聖別し、国中のすべての住民に解放を宣言する。これはあなたがたのヨベルの年である。あなたがたはそれぞれ自分の所有地に帰り、それぞれ自分の家族のもとに帰らなければならない。」

 今週のテーマは、「解放と自由」です。聖書にはレビ記25章にヨベルの年について記述されています。ここから、二つのポイントで解放と自由について見ていきたいと思います。

A.わたしは主のもの
 イスラエルの民が出エジプト後、カナンの地に移り住んだときに、神様によって土地を部族ごとに割り振られました。神様はこの土地の管理に対してある決め事をされました。それは、「地は買い戻しの権利を放棄して、売ってはならない。地はわたしのものであるから。」(23節)ということです。民が生活していくなかで、土地の売買は自然に行われたことでしょう。そんな中で、神様は、特定の者だけが土地を買い占めてしまわないようにされました。また、買い戻すことができなくても、50年ごとにもともとの状態に戻すことを決められました。これがヨベルの年です。これは、土地が民のものではなく、主のものであるということを表しています。この地上においては、私たちは寄留者です。何一つ自分から出るものはありません。全て神様によって生み出されたものです。それは、私たちの人生においてもそうです。私の人生、私自身は主のものなのです。そして、この人生はイエス様の十字架によって、すでに罪の束縛から解放されているのです。

B.主のもとで安息する
 カナンの割り振られた土地について、神様は7年目に土地を休ませるように言われました。これは、神様が天地を創造された際、7日目を休まれて聖なる日とされたことから来ています。そして、十戒にも「安息日を覚えて聖なる日とせよ」とあります。イスラエルの民は、安息日を守ることは徹底していただろうし、それは生活の一部だったと思います。安息日は仕事も家事もしませんでした。民は一日を、何をして過ごしたのでしょうか。きっと、主が安息されたことを大切にとらえ、民も安息したのだと思います。
 対して現代に生きる私たちは、週一回の礼拝の数時間は神様の前に出ますが、その後は自分の生活中心になってしまいます。礼拝中に自分の生活について考えることもあるかもしれません。それだけ、惑わすものが多い時代に生きているということです。そんな中で、いかに神様のことだけを考える時間を持つか、神様のもとで安息するかが、本当の自由なのだと思います。私の人生は主のものであることを再認識し、主が休まれた日には私たちも心から休みましょう。
【デボーション参考ポイント】
 聖書が教えている自由についてまとめてみましょう。

2.御霊のあるところに自由がある
A)原理が働いている
(ローマ8:2)
「 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」
 
 原理とは、原則や法則と言うとわかりやすいと思います。罪と死の原理とは、罪の支払う報酬は死であるとみことばにあります。罪を犯した者は死ななくてはならないという法則があります。
 罪の奴隷となって、したくはないのに罪を犯してしまう私たちを神様はあわれんでくださり、罪と死の法則から、いのちの御霊の原理によって解放してくださいました。罪から赦されるという解放をイエス・キリストの十字架の血潮によって与えてくださいました。 「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(ローマ8:1)と宣言されています。もしそれを疑わせるものがあるならば、それは闇の力であり、偽りです。

 昔の話ですが、フィリピンで、戦争が終わったのにまだ終わっていないと思って、ジャングルの中で30年戦っていた小野田少尉という人がいました。彼は、エリートの情報部員を育てる陸軍の学校に行きました。ですから、彼はルパング島で終戦を伝えるビラがジャングルに残っている軍人に空からばらまかれた時、「だまされてはいけない、これは偽物の情報だ!」と言って、信じなかったそうです。それで30年間もジャングルに隠れて戦っていたのです。
 私たちも、神様から赦されていて、もう罪に定められることはないと宣言されているのに、「私は時々罪を犯すから赦されていないかもしれない。」と思っていないでしょうか。神のみことばを信じましょう。

B)いのちの御霊の原理
( ヘブル9:14)
「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」
 
 いのちの御霊の原理は、変えられるものではありません。なぜなら神の御霊の力は強いからです。9つの聖霊の実と、9つの聖霊の賜物、そして復活の力を知っています。私たちはいのちと御霊の原理によって、それらのものを全部いただいているということを知らなくてはなりません。

 やぎや雄牛などの動物の血で罪がきよめられるとすれば、ましてや罪のないきよい神のひとり子イエス様の、十字架の血のきよめと赦しの力は、比較にならない完全なものです。このイエス様の身代りのいけにえの死を知ると、私たちは感動し感謝し涙し、心がきよめられて罪から自発的に離れたいと決心し、神様に喜ばれる毎日を歩むようになることでしょう。これらは私たちの努力によるのではなく、聖霊によって与えられるものです。
 日々私たちは聖霊を求め、聖霊と共に歩みたいと思います。御霊の力によって私たちは自由であることを忘れてはいけません。聖会に向けて、聖霊に満たされていくことを求めていきましょう。

【デボーション参考ポイント】
 御霊を持つ人のうちには、「解放と自由」をもたらす原理が働いている。

 

 

 

 

 

■2018年6月10日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 霊的な解放  up 2018.6.10


主題聖句(ガラテヤ5:1)
キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。

 

 

 

 このみことばは、つながれていてそこから逃れることができない不健全な奴隷の状態を指しています。
 健全な奴隷は身分が保証されており、主人と同じ存在価値を認められていました。仕える主人の財産として、主人と同等の存在と見られていたのです。
 創世記に出てくるヨセフは奴隷としてエジプトに連れて来られましたが、彼の主人に認められて家全体を任されるほどの身分になりました。その家の主人に次ぐ権威が与えられたのです。
 私たちは恵まれた状態の奴隷を知らないので、奴隷というのをひとくくりに「みじめな存在」と考えがちですが、良い主人に仕えたならば奴隷の立場は極めて恵まれたものです。
 しかし、このみことばでパウロが語っているのは、私たちが普通考える「みじめな存在」の奴隷のことです。
 私たちクリスチャンは何から解放され、今どういう状態にあるのでしょうか。また何をしたらよいのでしょうか。これらのことに気がついてない場合が多いと思います。簡単に見ていきましょう。

1.何から解放されたのですか?(ヨハネ8:34)
“イエスは彼らに答えられた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。』”
 クリスチャンはここを誤解しがちなのですが、、罪を犯してしまってもクリスチャンは罪の奴隷ではありません。罪の奴隷とは罪を行い続け、罪を犯したくなくてもそこから逃げられない状態です。サタンにだまされないでください。
 クリスチャンは神様に従って正しい道を選択することもできますし、欲望に負けて罪を犯すこともあります。選択の自由が存在するのですから、奴隷ではありません。

2.何をもって解放されたのですか?(1コリント6:20)
“あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。”
 罪の奴隷の主人は、罪の力を持つ悪魔です。私たちは悪魔から神様に買い取られ、所有権が神様に移っています。
 たとえばAさんが持っている百円のよくあるボールペンを、BさんがAさんとの合意の上、千円で買い取ったら、もしAさんが後になって「あのボールペンは自分のものだ。」と主張しても、裁判で負けるでしょう。取引は成立したのですから。
 私たちの買い取りに関して悪魔は絶対に文句を言うことはできません。それほどの価値あるものを代価にして、私たちは買い取られたのです。
 さて、もしBさんのボールペンがAさんの家に落ちていたら、それはAさんの物になっているのでしょうか?いいえ、やはりBさんの物に違いありません。
 私たちも罪を犯したとしても、やはり神様のものなのです。神様が支払われた「キリストの血潮」という代価は大きく、私たちが罪を犯し続けても神様の所有権はなくなりません。
 ただし、それをいいことに罪を犯し続けていれば、やがて悪魔が処分される時に一緒に処分されてしまいます。壊されてしまうことが決定しているAさんの家に居続けていれば、結果的には一緒に壊れてしまうのです。

3.どれほどの代価ですか?(1ペテロ1:18〜19)
“ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。”
 この世界では金は最高の価値を持ち、今の貨幣制度を支えています。しかしそんな金でも、この世界の経済状態によってその価値は上下します。キリストの血潮はこの金銀すべてをもっても買い取ることができない、至高の価値を持っています。
 イエス様の血よりも価値ある値付けは、どこの誰にもできません。誰にもそれを買い取ることはできないのです。他の誰かが山ほどの金銀を積んでも、キリストの血潮で買われたこの私たちを買い取ることは不可能です。神様も、私たちを誰にも渡したりされません。
 百円のボールペンを十万で買う人はいないでしょう。ところが神様はそうされたのです。罪人とは使えないボールペンのようなものなのに、あり得ないほどの高額で買い取られたのです。

4.買い取られた結果は?(ローマ6:17〜18)
“神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの基準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。”
 奴隷という存在は、主人によって人生が変わります。罪を主人としている時は、永遠の滅びに至るまで使い捨ての存在ですが、神の奴隷となった今は、永遠に大事にされる有用な存在です。

5.何をすれば良いのでしょう?(ローマ6:19、22)
“あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。”
 悪魔に誘惑されて、欲望を満たしたい気持ちから滅びについて行くクリスチャンも存在します。所有権が神様にあっても、悪魔はあなたをつかむことができます。あなたが罪を愛し罪の奴隷として生きることを選ぶなら、所有権が神様にあっても、使用できるのは悪魔になります。
 奴隷は主人のものですから、悪魔が滅びる時に、悪魔を選んだあなたも一緒に滅びてしまいます。なんという無駄な犠牲を神様に払わせたことでしょう。神様はお怒りになるのではなく、悔しく悲しいお気持ちになられます。
 イエス様の尊い犠牲も神様の必死の呼びかけも届かず、自ら進んで罪の奴隷として過ごすなど、愛とあわれみの神様が注がれたありったけの愛を踏みにじられた状態です。
 人間の親なら、思い通りにならないことに怒ります。それは支配欲からくるものですが、本当に愛しているなら、愛が伝わっていないことに心から悲しむのです。
 神様は、世の人々が不敬虔に暮らしていることを心から悲しまれています。「彼らの目はふさがれ、気づいていない。なんと哀れな人々だろう。一刻も早く目が開かれるように。自分たちが神様の尊い御子イエス様の血潮によって罪の奴隷から解放されているのに気づかず、それを認めないで罪という欲望の力に振り回されて逃げることができない。」
 未信者の人たちはよくクリスチャンに言います。「クリスチャンは苦しい。あれをしなさい、これをしてはならない、と決まりごとが多い。クリスチャンになったら自由がなくなるでしょ。」と。
 クリスチャンは自由です。礼拝に行かなきゃいけないのではなく、行きたいから行くのです。
 反対に未信者の人に尋ねます。「あなたは自分の欲から離れ、自制心を働かせることがどれほどできますか?自分の感情をちゃんと抑えられますか?」
 人は欲望にとらわれていると、自制心が弱まります。クリスチャンは罪の奴隷ではないので、たとえば怒りの感情がわいてきても抑えることができます。しかし必要な時にはきちんと叱ることもできます。
 自由人というのは束縛されないで、正しい良心の判断のもとに自制し制御できる人です。自分の感情に振り回されるのは自由人ではありません。
 もちろんクリスチャンも完全ではないので、振り回される時もありますが、皆さんも信仰を持つ前より多少の違い、自制心が強められていることに気がつきませんか。やめようと思えばやめられるでしょう。やめたくないのでやめられないのがほとんどのクリスチャンです。
 罪の奴隷でいたいが永遠の滅びはいやなんて、わがままですね。そういう自分に皆さん気づいてはいませんか。
 私たちは今日学んだ5つのポイントから、今自分が何から解放され、何になって、これから何をしていくべきなのかを知ることができます。
 それは「しなくてはならない」のではなく、罪の奴隷から解放されるために、私たちへの愛の証としてどれほどの代価を払ってご自分のものとしてくださったかという、神様の愛の大きさに目が開かれれば、罪を犯しているいないの問題ではなくなります。
 義の奴隷、神の奴隷として神様のものとなっていることの幸せを、皆さん感謝すべきです。自分ができるできないによって「良い奴隷・悪い奴隷」を自己評価しないでください。あなたは出来の良しあしにかかわらず、神様のボールペンです。
 私たちはこのように愛してくださったご主人である神様に報いたい、愛をお返ししたい、喜ばれるものになりたいと思うならば、聖潔に進みなさいとあります。私たちは聖潔に進む義の奴隷です。
 皆さんはきれいなのと汚いのと、どちらがいいですか?片づけるのが面倒ということを除けば、きれいな方が好きな人が大半だと思います。
 きれいにするのは面倒なもので、私たちクリスチャンも聖潔に進む時に面倒だと思うのです。面倒くさいのは、自分のしたくないことをするからです。人は自分が好きなこと、したいことならどんどんできるものです。
 もしあなたがきよくなることが嫌いなら、義の奴隷は重いくびきになるでしょう。しかし、掃除好きな人のようにきよめられることが好きな人は、楽しんで喜んですることができます。この違いです。
 皆さんは罪の奴隷でいたいのでしょうか。それとも義の奴隷として過ごしたいのですか。そこはあなたの自由意志で決定する部分です。
 イエス様を信じていると言うならば、今は義の奴隷、神の奴隷となっているのです。「罪の奴隷でいたいけれども天国に行きたい」ということは認められません。ここをしっかりと理解しておかないと、クリスチャン生活がしんどいだけになります。
 今日の話を通して、皆さんは自分が神の奴隷、義の奴隷であるにもかかわらず、罪の奴隷として元に戻っていないかどうかということも含め、自分を吟味してください。そして、失敗しても義の奴隷という霊的解放の中にあることを踏まえて、ひとつずつみことばにチャレンジしていく気持ちをもって、一週間を過ごしていただきたいと思います。

【デボーションポイント】
 
 「自由意志」を取り戻してくださった父なる神のみこころを知る。

「自由意志」他から強制、拘束、妨害などを受けないで、行動や選択を自発的に決定しうる意志。

 私たちの自由意志の動機は欲望でしょうか、愛でしょうか。

【俳句】

蒸し暑さ 夏野菜食べ 追い散らそう

 

 

 

 

 

■2018年6月3日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 ペンテコステ 聖霊を受ける3  up 2018.6.3


主題聖句(使徒2:16〜18)
これは、預言者ヨエルによって語られた事です。『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。

 

 

 

 ペンテコステの意味を通して聖霊を受けることを学んできています。今日は最後の3つを学んでいきましょう。
 聖霊を受けるとはどういうことでしょう。単に受けるというだけでなく、どんな神様の恵みや働きかけがあるのかということも含めて紹介します。聖霊を受けるということもキリストの再臨を待ち望む上で大切なことです。
 今年与えられた聖句(ユダ1:21)に、イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさいということばがあります。このあわれみの一つとして、神の御霊である聖霊を受けることが挙げられます。ペンテコステは大事な意味を持っています。
 50ということばがペンテコステの意味ですが、5という数字は「神の恵」という意味で、新約聖書には5役者という5つの働きのある教職者が教会に賜物として与えられるとあります。使徒・預言者:伝道師・教師・牧師です。この5つの務めによってキリストの霊的な身丈にまで神は私達を導かれます。この5つの働きは恵みです。ひとりだけでは到達できないことを、神様は恵みによりこの5つの働きによって到達させてくださるのです。
 「5」という数字にはそういう意味がありますが、ペンテコステは50ですから、さらに恵みが増し加わります。この50は、旧約聖書では、50年に一度解放の時というのがあります。借金していても許され、奴隷として働いた分も与えられるというヨベルの年です。
 イスラエルはカナンの土地が12分割され、その範囲内で部族は土地を相続していく決まりがありました。つまり、いくら借金として土地を取られていても、50年後には必ず土地は元に返ってくるということです。これが聖書に書かれている神が与えられたルールです。
経済的にも貧困の差が大きくつかないようにという神様のご配慮です。この50=ペンテコステには、解放という意味があります。自由になるということです。このペンテコステと聖霊を受けるとはどういう意味があるかをしっかりと学んで、さらに聖霊に満たされることを待ち望んでいきましょう。

6.贖いの日のための証印(エペソ4:30)
「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。 」
 すでに私たちは贖われているのに、なぜ「贖いの日」とあるのでしょうか。

A)『贖いの日』(ローマ8:23)
 「そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。」
 初穂というのは、神の所有物、十分の一、神様にお返しするという意味があります。御霊の初穂というのは、神様のものとして御霊によって選ばれて神に捧げられるものということです。ですから、御霊をいただいた私達は、選ばれた人ということになります。そして、「からだの贖われること」を待ち望んでいますと、焦点がはっきり書かれています。罪を赦されるために代償を払ってもらい買い取られることを「贖われる」と言います。
 私たちの霊・魂は、信じたことによって贖われています。「信じる者はみな救われる」とはそういう意味です。しかし、心である精神(知・情・意)はまだ罪を犯したり、色々な悪い感情を抱いたりするので、イエス様のようにはまだ変えられていません。中途半端な状態です。ですから私達の信仰生活は、この精神がキリストのように完全にきよめられるように、この地上の生活の中で「造り変えられる」ということばで贖われ続けています。
 あなたが今日罪を犯しても、2千年前にキリストの十字架によって贖われているので、悔い改めることによって、また赦されて神の子として出発することができるのです。
 このように毎日贖われ続けているのです。しかし悔い改めなかったら贖われていないので、その罪は残ります。ですから、是非悔い改めて聖餐式を受け、贖われて、また新しい一週間を始めていただきたいと思います。そのようにして栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられていくのです。
 もうひとつ「からだが贖われる」というのがあります。罪との戦いとは肉の欲求との戦いです。肉体がなかったらどんなにクリスチャン生活は楽でしょうか。食欲、睡眠欲、などがなかったらどんなに楽でしょうか。からだが贖われてイエス様のようになれたら本当に素晴らしいことです。しかし、この罪の性質が残ったままでイエスさまのからだのようになってしまったら、その能力を悪用して大変なことになってしまうでしょう。しかし霊と心がひとつになるようになれば、からだも贖われるのです。それはエノクの場合です。彼は365年神とともに歩み、生きたまま天に上げられたとあります。
 エリヤもそうです。彼も生きたまま天に上げられました。キリストと同じような霊と精神の状態になれば生きたまま天に上げられるかもしれません。そうでなくても最後まで信仰を持ち続けるならば、キリストの再臨の時に必ずからだが贖われるのです。神様はそのように約束してくださっています。

B)聖霊様を悲しませるとは?(第1テサロニケ5:16-19)
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。御霊を消してはなりません。」
 (エペソ4:30)にあるように、聖霊を悲しめることと贖いの日は関係があります。また、(第1テサロニケ5:19)のみことばには、御霊が消えることがあると言っています。 御霊が内におられると光が内にあるので明るくなります。また、光によって自分の心にあるものも良く見えるようになります。 そしてみことばが内に成就し、光である御霊の働きによって、みことばを実践する生き方ができるようになります。この光なる御霊が消えるとはどういうことでしょう。それは、 (第1テサロニケ5:16-18)にある理想的なクリスチャンの生き方がなくなってくるということです。
 いつも喜び、絶えず祈り、すべての事に感謝するということができなくなっているのは、御霊の光ではなく、この世の光を受けて生きているからです。
 思い通りになっていたら感謝して喜べるがそうでなかったら喜ぶことも祈りも感謝もできなくなるという状況は、御霊の光がないからです。
 御霊の光に照らさて生きているなら、どんな状況が起きても喜び、祈れないような時にも祈り、どんなアクシデントが起きても、すべてを益としてくださる神様を信じて感謝の心が湧いてくるようになります。それは目に見える三次元的な世界に生きているのではなく、その背後にあっていつも働いてくださっている聖霊様の働きが見えているから感謝することができる訳です。聖霊様がおられるから、いつも喜び、絶えず祈り、すべての事に感謝する生き方ができるのです。
 このような生き方は聖霊様によらなければ成し得ないことであって、人間的にそうあるべきと律法的に裁くべきではありません。御霊がおられたら自然なことです。ですからまず聖霊様を求めましょう。
 聖霊様を悲しませることとは光を消すことで、聖霊様を求めることから心がずれてしまうことです。あなたの内に聖霊様がおられるのに、あなたに無視されていたら、聖霊様が悲しまれ、喜びも感謝もなくなっていきます。あなたがもし主婦であって、いくら家事で頑張っていても、ご主人に無視されていたら悲しむでしょう。
 相手をするということは大事なことです。コミュニケーションが大切なのです。みこばを読み、みことばに思いを巡らしていくことが聖霊様とのコミュニケーションなのです。そうしていくなら喜びがあふれ、祈る心が与えられ、感謝が湧いてくるようになります。

C)「証印」について(エステル8:8)
「あなたがたはユダヤ人についてあなたがたのよいと思うように、王の名で書き、王の指輪でそれに印を押しなさい。王の名で書かれ、王の指輪で印が押された文書は、だれも取り消すことができないのだ。」
 エステルはユダヤ人を皆殺しにしようとした計略をつぶすために命をかけました。そして王の酌量を得て、先のユダヤ人殺戮の命も王の印を使っているため消すことができないので、それに対抗する文書を新たに作り、そこに王の印を押してユダヤ人を救うことができたのです。証印を押すという意味は「誰も消すことができない」ということです。王の王、主の主である神が、ご自分の名によって私達の罪を贖い、神の子として聖霊の証印を押してくださったのです。聖霊を受けるということは、もう書き換えができないということで、どんなにサタンや悪霊、この世の人々が悪知恵を働かせてあなたの思いを変えようとしても、聖霊様があなたの内に証印となって、絶対に変わらない神様の約束となってとどまっていてくださるのです。
 感情は不安に陥ることもあります。しかし、証印は消えません。たとえ不信仰になっても、この聖霊の証印に目を注ぐなら、不信仰から立ち直ることができます。素晴らしい恵みです。聖霊様を悲しませないようにしましょう。せっかく与えられている証印が御霊を悲しませることで見えなくなってしまいます。聖霊に満たされるなら、光が満ちて、このような暗闇が一掃されて、すべてが良く見えるようになってきます。
 聖霊が住まわれる意味は2つあります。
(1)賜物として聖霊を受ける
 イエスを主と告白できるようになります。御霊を持たない世の中の人は神様を恨んだり憎んだりします。しかし御霊を受けた私達は、神は良い方だと認めることができるのです。
(2)Zと[で学びますが、務めをし、働きができるようになります。

7.キリストの証人となる。(使徒1:8)
「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」 
 ここでは力を受けるとあります。神がもっておられるすべての力を分与されるのです。キリストの証人として証言するために必要な力が分与されるということです。
 内側の変化だけでなく、現実のものとして、しるしと奇跡を起こす力が与えられるようになります。イエス様の証人とは信じる人全員です。

A)証人について(マタイ18:16)
「もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。」
 すべての事実が確認されるためにふたりか三人の証言が必要とあります。御霊に満たされた人は他の人も見て信じることができるような力を受けます。その力を受けることを聖霊のバプテスマと言います。
働きのための聖霊の満たしを聖霊のバプテスマと言い、証印としての聖霊を賜物として受けるだけとは異なります。
 ペンテコステ派と言われる人たちはこの聖霊のバプテスマを大切にしています。(マルコ16:17、18)「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、 蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」 という箇所にあるような力ある業が与えられます。これは聖霊のバプテスマを受けないとできないことです。神の証人として務めを全うするために、もっと聖霊に満たされて、聖霊のバプテスマを受けることが必要です。

8.油注がれた神の使者(ルカ4:18-19)
「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、 主の恵みの年を告げ知らせるために。」
 主の御霊がおられることと油注がれたこととは同じ意味として表現されています。
A)油注ぎを受ける(出エジプト30:30)
「あなたは、アロンとその子らに油をそそぎ、彼らを聖別して祭司としてわたしに仕えさせなければならない。 」
 アロンとは大祭司で一番の責任者です。その責任者とするために任命のしるしとして油が注がれました。
 聖霊が内におられるということは、任命の注ぎを受けたということですから、あなたは何かの働きを遂行するために聖霊の油注ぎを受けているということになります。神様の働きをするための力を与えられるのです。
 ダビデはまだ王となっていない時に預言者サムエルから油注がれました。その瞬間から彼には超人的な力が宿り、羊の群れを守るために獅子やクマをも素手で打ち殺してしまったのです。普通の人には到底できないことです。こういう現実の力と、また、若くしてサウル王に仕えた時は、ダビデは千人隊長という最高の権威まで手に入れました。それは、彼に神に立てられた器としての力が備わっていたので、周りの人々が彼をリーダーとして認めたからです。
 私たちもそのような聖霊の力を受けるために、もっと聖霊のバプテスマ、満たしを受けることが必要です。バプテスマとは浸されることです。内も外もすべて聖霊の臨在に満たされ、神の力を証しする使者として用いてもらいたいものです。そのひとつのチャンスとして7月の夏期聖会があります。この聖会を目指して、満たされるために準備していきましょう。

【デボーション参考ポイント】
ペンテコステの時に聖霊を受けるとは、罪の束縛から解放されて、神に仕える者として【永久不変】に任命されることである。
聖霊を受け満たされることを求めていきましょう。

【短歌】
青ぶどう 熟する時を 信じ待つ 神の子たちの 贖いの日も

 青いぶどうの実がついたのを見る時、秋の収穫が期待できます。そのように、私達も聖霊により、イエスさまの再臨を期待して、喜んで待つことができます。

 

 

 

 

 

■2018年5月27日 日曜礼拝メッセージより(辻和希伝道師、横路伝道師)

 ペンテコステ 聖霊を受ける2  up 2018.5.27


主題聖句(使徒2:16〜18)
これは、預言者ヨエルによって語られた事です。『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。

 

 

 

【辻 和希伝道師メッセージ】
4.天の住まいを着る保証
(第2コリント5:4〜5)「確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました。 」

【内容観察】
この世で生きることの現実問題として肉体という「魂の幕屋」を持っています。その「幕屋」が負担となって、苦しさのあまりうめくほどです。しかし、その苦しみは、逃げたいからではなく、逆に、天に準備されている永遠のからだとしての「建物」に住みたいからです。そのような神を信じる信仰は、滅びに至らせる死の思いを、キリストが復活されたように聖霊によっていのちに溢れ肉の働きを完全に従わせることができるようになるためです。私たちがキリストの復活のいのちに預かることができるものとしてくださった方は神です。神は、私たちが惑わされないようにと確かな印として御霊を私たちのうちに住まわせてくださったのです。
 
 5年くらい前になるでしょうか、京都でエンパワード21という大会に参加しました。その最終日に、ある幻を見たのですが、それは今でも鮮明に覚えています。今思えば、聖霊に満たされていた状態だったのかなと思います。
 聖霊様に満たされるという状態はどのようなことを指すのでしょうか。私は、自身に何かしらの変化が訪れている状態を指すと、体験を通して述べることができます。冒頭の大会後、私に大きな変化がありました。それは”祈りたい”という熱い思いがずっとあったことです。聖霊様に満たされると、良い方向へ変化があるのです。一時の満たしによる感動だけではなく、私たちは、日々新しく作られるのです。それは、まさに内側におられる聖霊様とともに歩むから”日々”なのです。
 第2コリント5:4−5
パウロは私たちの肉体を”幕屋”と表現し、約束されている天の御国での新しいからだを”天からの住まい”と表現しています。ポイントとなるのは、私たちのうめきの原因は、幕屋を脱ぎたいことより、天からの住まいを着たいという思いによるということです。希望を抱くことによるうめきだということです。現状を目を留めるのではなく、未来に目を向けることが大切だと教えられます。私たちは、今日どのように変わりたいのでしょうか。現状維持に力を費やすのではなく、未来への変化のために、心を注いでいきましょう。

【デボーション参考ポイント】
「慧可断臂」(えかだんぴ)をもたらす聖霊の満たし。
非常に強い決意のほどを示すこと。また、切なる求道の思いを示すこと。

【横路伝道師メッセージ】
5.御国の相続人となる
(テトス3:6〜7)「神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです。」

【内容観察】
私たちは罪の奴隷でしたが、神は、ご自身の御霊によって解放ときよめを実現してくださいました。この聖霊を今、溢れるほどに私たちに注いでくださっています。それは、あわれみによるキリストの赦しの恵みによって義と認められ、御国の相続人になるという永遠への望みをもたらすいのちによるものです。

 神様は、2千年前のペンテコステの日に聖霊をくださいました。エルサレムの2階座敷に集まって祈っていた120人の弟子たちに、預言通り聖霊がくだりました。激しいゴーっという音と炎のように分かれた舌があらわれ、一人ひとりの上にとどまりました。すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせてくださる通りに他国の色々な言葉で神の大きなみわざを語り出しました。
 集まってきた多くの人々にペテロは聖霊に満たされて復活されたイエス様がキリストであり救い主であることを大胆に語ったので、その日3千人の人々が信じて洗礼を受けました。この時から聖霊が豊かに人々にくだり、しるしと奇跡をもって福音が広がり、教会が誕生し、今に至る聖霊時代・教会時代が始まったのです。
 聖霊によらなければ、だれも「イエスは主です。」と言うことはできません。神様は、イエス様を主として信じた人を罪のない者、神の国に属する者、神の子とされました。私たちは神の子とされているのです。神の子であれば、神の御国の相続人でもあります。私たちが神の国の相続人であるならば、何を相続するのでしょうか。一番素晴らしい相続財産は、永遠のいのちだと思います。永遠のいのちとは何でしょうか。永遠とはいつまでも変わらないものです。変わらない、なくならないいのち、永遠に輝くいのちです。私たちは神様からこの約束をいただいているのです。なんと素晴らしいことでしょうか。
 私たちは元々神の子どもでした。しかし、アダムの罪によって、相続権を失ってしまった者です。エデンの園には罪と死はありませんでした。アダムとエバはエデンの園の中央にある善悪の知識の実を食べてはならないと言われていたのに、蛇に誘惑されて食べてしまいました。そこから罪が入り、死が入り、エデンの園から追いされ、永遠の滅びに行く者となったのです。その子孫が私たちです。神様は、アダムたちがいのちの木の実を食べて、永遠に生きることのないようにエデンの園から追い出されたと書いてあります。罪人となったアダムとエバがいのちの木から取って食べると罪人のままで永遠に生きることになってしまうからです。聖い者しか天国に住めないのです。そこで、神様はあわれみにより特別な方法を考えられました。ひとり子イエス様を遣わされ、私たちを聖めて罪なき者とするために、十字架に架けられたのです。そして、聖められた私たちを天国に迎え、相続権を与え、共に永遠に過ごしたいと待っておられるのです。

 罪によって神様のことがわからなくなっている私たちが、天国に入るためにどうしても必要なのは、イエス様の血潮と、私たちに霊的理解を与えてくださり、イエス様がまことの神であることをわからせてくださる聖霊様でした。だから聖霊様をペンテコステの日に私たちに注がれたのです。

【デボーション参考ポイント】
「安分守己」(あんぶんしゅき)
おとなしくして自分の仕事をして己の分際、本分を守る生き方。

◎御国の相続人という己の本文を全うするクリスチャン生活を目指す。
 私たちはすでにイエス・キリストを信じて、天国に行く相続人の保証として、聖霊を受けているのです。
 「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。」(マタイ16:26)これは言いかえると、「たとい人は全世界を失ったとしても、聖霊によってイエス・キリストの救いを受け入れたのなら、永遠のいのちを得たのです。」と言えます。私たちは、永遠のいのちを受ける幸いな者として生かされていることを感謝していきましょう。

 

 

 

 

 

■2018年5月20日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 ペンテコステ 聖霊を受ける1  up 2018.5.20


主題聖句(使徒2:16〜18)
これは、預言者ヨエルによって語られた事です。『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。

 

 

 

 神の霊を受けるという出来事は、ヨエル書に記された神様の約束です。終わりの日に、すなわち救い主キリストが現れて以降のこの時代に、罪深い私達の内に聖い神様の霊が注がれるという、ありえないようなことが起こるというのです。
 
 イエス・キリストは私たちの罪の赦しの為の犠牲として、十字架でその苦しみを負われました。このキリストの十字架のゆえに神は、罪びとであるけれども私たちを既に処罰されて刑を終えたものとして見てくださいます。そしてご自身の聖い御霊を私たちに注いでくださるのです。
 
 聖霊を受けるということは、私たちにどういう結果をもたらすのでしょうか、今日はそのことを三つ見ていきたいと思います。

1.神の子として下さる(ローマ8:15−16)
「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子として下さる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父。』と呼びます。」
 
 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。御霊を受けたということは、神の子となったというしるしです。
 御霊を受けると自然に私たちは、神様を「お父さん」と呼んで、子どもとして頼り、甘え、愛する、そういう心の変化を与えられます。 御霊によって、それほど親しい親子関係のつながりが一人一人の内側に生まれるのです。それは聖霊様が宿っている証であり、御霊を受けたというしるしなのです。

◎神の子として生まれたことになる。(ヨハネ1:12−13)
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子供とされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」
 肉の親子は血筋や遺伝子を受け継ぐことによって親子と認められます。神はご自分の御霊をもって、霊によるつながりを与えてくださいます。「確かに私はあなたを生んだ」というしるしとして、御霊を私たちに与えて下さいます。私たちはその御霊の体験をすることで、心にしっかりと神様を信頼し、神を愛する心が自然と内側にもたらされるのです。

2.神の存在を確信する(第1ヨハネ4:13)
「神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。」
 聖霊体験をされた方、神が私たちのうちにおられるという確信を感じてこられているでしょうか。初めは、なんだ、これは?と思うだけであったり、あまり自覚がないかもしれませんね。
 子どもが生まれるということは親がいるということです。私たちが御霊を受けたということは、神が存在されるということの証拠です。
 この世の人は神の霊がわからないので神様の存在がわかりません。しかし、聖霊に満たされた人は、見えない神様が確かにおられるという確信を内側に持ちます。
 
 私(辻牧師)が、イエス様を信じて洗礼と聖霊を受け、聖霊に満たされた時、自分の内側に別の存在があることを感じるような体験をしました。確かに神の御霊が私のうちにおられるという確証が与えられました。理屈抜きです。思い込みでもありません。自分の意志とは違うものが自分のうちに存在しておられる、これが神の霊だ、というものを今でもしっかりと確信しております。聖霊を受けると私以外の別の人格がそこに存在するという体験をするのです。
 最初からそれがわからなくても段々わかってきます。神様の霊と自分の霊とは違うということ、そしてともに共鳴しあっているという「つながり」「交わり」を体験するようになります。

◎見えない神の存在を、霊の体験によって確信する(ガラテヤ3:4)
「あなたがたがあれほどのことを経験したのは、むだだったのでしょうか。万が一にもそんなことはないでしょうが。」
 
 聖霊を受けることは「あれほどの」体験なのです。神によってのみなされる、神の存在を証明するような経験です。「あー!神の御霊が私のうちにおられる!神はまことに存在しておられる!創造主なる聖い愛の神が私のうちに、ご自身の霊を送ってくださり、住まわしてくださっている!ハレルヤ!!」というような体験です。そのためには飢え渇きが必要です。神様を知りたいという魂の飢え渇きがなくてはなりません。興味のないものを与えられても、有難いけれど必要ないわ、ということになります。本当に欲しいものがプレゼントとして与えられるから本当に嬉しいのです。
 
 神ご自身を求める、そして神ご自身に出会う。神は私に出会ってくださった!こういう体験が、神の存在を確信するしるしとなります。皆さんも中途半端な求め方ではなく、聖書にある通り「私達が神のうちにおり、神が私たちのうちにおられる」ことがわかるような、聖霊を受ける、満たされるという経験をしていこうではありませんか。

3.神からの恵みの賜物を知る(第1コリント2:12)
「ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは恵みによって神から私たちに賜ったものを、私たちが知るためです。」
 神の御霊を受けた理由は、恵みによって神様がプレゼントしてくださったものを私たちが知るためだと書かれています。
 色々神様のものがありますが、それを一まとめにした恵みの賜物というのは、神の御霊だと聖書に語られています。
 神様ご自身のご性質、霊的遺伝子である神の御霊を私たちは恵みによって備えられました。それはどんな賜物なのか、それを知るために御霊が私たちのうち注がれたのです。

◎霊に属することは御霊によって知る(第1コリント2:14)
「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」 
 
 聖書は神の霊感によって書かれたものですから、大事なことはこの言葉を通して神様は何を伝えようとしておられるのか、何を知らせようとしておられるのか、何を悟らせようとしておられるのかを読みとることです。神様の思いを同じように共鳴共感することです。そのためには同じ御霊が私たちのうちにおられなければ、感じ取ることはできません。ですから、聖霊を与えてくださっておられるのです。
 
 御言葉を読んだりメッセージを聞いたりして「難しくてわからないわ」と思うときは、頭で考えようとするからです。「聖霊様、私へのメッセージは何でしょうか」と、祈り心をもって、内側に示される神様のみこころを教えていただきましょう。聞いてる途中でわかる人もいれば、あとでデボーションをする中で気づかされる事もあります。礼拝中だけでなく家に帰ってからも、どうぞ御言葉を楽しんでください。
 
 今週は御霊を受けるということを通してもたらされる素晴らしい神様の約束、「神の子として下さること」「神の存在を確信できること」「神の恵みの御霊を知る」ということを見てまいりました。来週と再来週であと五つポイントがありますので、楽しみにしていてください。
 
 今日の三つのことを、内におられる御霊様のしるしとして自分は経験してきているだろうかと考えながら、もしあまりにも経験していないようであれば、聖霊の満たしをもっと深く受けていただくように、心からお勧めをいたします。

【デボーション参考ポイント】
  御霊に満たされることに対する「意気衝天」な信仰
(いきしょうてん)
 非常に元気なこと、意気込みが天を衝くほど盛んなこと、大いに意気のあがる状態。
 
 聖霊に満たされるのは行いによってではありません。聖霊様を賜物として私たちに与えてくださるという神様の愛と約束を信じる信仰によって、私たちは聖霊を受けることができるのです。どうして聖霊に満たされないんだろうかと、ああしたら、こうしたら、あのせいか、このせいかと、方法や原因を私たちは考えてしまいがちです。
 「信仰による」というのは、今のあなたの現状が充分に聖い生活ができていなくても、キリストを信じる信仰、即ち神様があなたを愛して多くの約束を与えて下さっていることを信じることによって受け取ることができるのです。受けとめてから私たちは聖められていくのです。聖霊に満たされてからキリストのように変えられていくのです。「キリストのようにちょっと近づいたから、じゃあちょっとだけ聖霊に満たしてあげよう」ではないのです。できていないからこそ聖霊を注いでくださって、できないことが出来るように、神の子としての成長を導いてくださるのです。この聖霊様のご内住の働きをぜひ見極めて行っていただきたいと思います。
 
 神の子とされたことを喜び、神の存在を確信して神への信仰を強められ、今まで知ることのできなかった霊なる神様のすばらしさを知り、与えられている愛なる神様からの恵みを見極めていくことができるようになりますと、「いつも喜び、絶えず祈り、全ての事を感謝する」という、第1テサロニケの御言葉を、アーメン!と心に深く実感できるようになります。
 
 このような神様の恵みの賜物をより深く知ることによって、どんな逆境の中にあっても喜び感謝できるという、霊の目をもって見えないものを見ていく、そういうわきまえが出来る心が与えられていくのです。もっともっともっと聖霊に満たされるように、聖会に向かって心を一つにしてまいりましょう。

【短歌】 
わきあがる  栄に満ちた  喜びは
 御霊のあかし  風香るよう

 きよらかな新緑の香りが漂ってきますと、見えない風がその香りによって肌に感じられます。

 クリスチャンにとっての栄に満ちた喜び、神を知り罪の赦しを得ているものとしての湧き上がってくる喜びは、内側に聖霊様がおられることの証。それはまるで5月の風香るよう。新鮮な新録の香りが漂い、「ああ・・!」という言葉に言い表せない感覚は、聖霊様が内におられる証しとしての喜びです。

 

 

 

 

 

■2018年5月13日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 福音の喜び  up 2018.5.13


主題聖句(イザヤ35:1)
荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。

 

 

【内容観察】
「なんの役にも立たない死んだような地である荒野や砂漠、荒地にサフランが一面に咲き、喜びと楽しみに溢れるように、主が生き返らせる。」

 「喜び」をテーマにして、今日はその5回目になります。クリスチャンにとって「喜び」はトレードマークのようなものです。神様に愛され赦されている、救われているという喜びが、いつも私たちの内にあるからです。   
 福音とは「良き知らせ」という意味です。「福音の喜び」とは、良い知らせによってもたらされる喜びのことです。
 唯一の義なる聖い神が、罪深い愚かな私を愛してくださっている、見捨てることなく無視することなく愛し続けて下さっている、この便りが私たちにとっては何よりも大きな「良き知らせ」なのです。
 この世では、取るに足りない愚かなもの、才能も力もないものは、皆無視され除外されていきます。勝ち組、負け組と分けられて、多くがそれを受け入れて暮らしています。
 しかし、クリスチャンにとっては勝ち負けは問題ではありません。愛されているということに気がつくと、全ては益ととらえることが出来るように心が変えられて行くからです。そういう「良き知らせ」を私たちは聞いているのです。
 
 (イザヤ35:1)を読みますと、荒野、砂漠、荒地が死地であるにもかかわらず、楽しみ喜んでいます。サフランの花を咲かすと神様が約束してくださったから、その良き知らせのゆえに喜んでいます。
 サフランは薬草にも香料にも調味料にも使われる利用価値の高い花です。今のあなたの人生、今のあなたの心、今のあなたの環境は、荒野、砂漠、荒地のようであるかもしれません。しかし、イエス・キリストの救いによって、サフランのような花が一面に咲き誇る、そんな人生、心、環境に、神様は変えて下さいます。そんな約束の良き知らせが、聖書には多く書かれてあるのです。
 私たちはクリスチャン生活の最後に「ああ、自分の人生は荒野、砂漠、荒地のようであったけれども、まるでサフランの花がいっぱい咲いてる土地のように変えられた!!」と喜んで天に帰って行けるのです。
 そんな「福音の喜び」として、今日は4つの「良き知らせ」をご紹介したいと思います。

1.死地のための福音(イザヤ41:18)
「わたしは、裸の丘に川を開き、平地に泉をわかせる。荒野を水のある沢とし、砂漠の地を水の源とする。」

◎無関心、無気力、無感動な心に水が与えられる。 
 死地――死んだような役に立たない土地――無関心、無気力、無感動、そんな私たちの心にこそ、神様の福音は必要です。
 世の流れに流されて、惰性で生きて希望も目標もなく、すべてが面倒くさくて何もやる気がしない、そんな心の人にキリストの救いの福音が与えられているというのが、ここでのポイントです。

2.渇けるもののための福音(ヨハネ7:37−38)
「祭りの最後の大祭の日に、イエスは立って叫ばれた、『渇く者はわたしの所に来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書が言っているように、『そのお腹から、清水が川となって流れ出るであろう。』」(新共同訳)

◎すぐに投げ出してしまう人に、湧き上がる清水が与えられる
 「渇いてる人!私の所に来て飲みなさい。私から飲む人は聖書の約束通り、腹から命の水が川々となって流れ出るほどに大きな満たしと喜びがあふれてきますよ!」 ――そんな大きな救いを与えてくださるのが、イエス・キリストの福音であります。それは神様に愛されているということを実感したときの喜びです。
 愛のない生活には喜びがありません。あるのは湧き上がる喜びではなく、何かを体験し願望が与えられて願いが叶ったことの喜びでしょう。
 しかし、神様の約束しておられる喜びは愛の喜びですから、心の底から無意識に湧き上がってくるような喜び、そして川のように流れ出るような喜びであります。
 クリスチャンたち!愛する兄弟姉妹たち!あなたたちは今、湧き上がってくるような喜びが、内側にあるでしょうか?もし無ければ、こんな素晴らしい福音があることを忘れてしまっているか、自分が渇いていることに気付いていないのか・・・。
 クリスチャンは神様の愛に渇くということが無くなるものでしょうか?満たされていたら、その愛に喜んでいるはずなのです。清水が川となって流れ出ているはずなのです。
 私にはそんな喜びがないと言う兄弟姉妹がいたら、あなたにも渇けるもののための福音として、イエス・キリストの十字架の御業は必要な良き知らせだと受け止めて、また自分の心を吟味してみてください。
 特に、すぐに投げ出してしまう人、集中力がなく長続きしない人。愛を感じて愛の心が与えられると不思議と長続きするものです。清水が川となって流れ出るという状況が起こるからです。
 イエス・キリストの救いを通して、神が私を愛してくださっているということに気づいて心が開かれると、神様の愛が注がれているということのゆえに嬉しくなってきます。
 皆さんが神様の愛を知っていくことを、神様は願っておられます。神の愛に渇ける者のために、良き知らせが聖書の中には詰まっているのです。

3.真の神に渇く者のための福音(詩編63:1,8) 
「神よ。あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。水のない、砂漠の衰え果てた地で、私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです。私のたましいは、あなたにすがり、あなたの右の手は、わたしをささえてくださいます。」

◎不敬虔な世界で、唯一の神である創造主を求める者に出会ってくださる
 真の神――真理ですね。「我々は何のために生まれてきたのか、なぜここにいるのか、なぜ世界があるのか」と、私たちには生きることへの葛藤や存在の疑問があります。それは魂が真理を求めている証拠です。そのように真理に渇く人々の為に神様が与えて下さったイエス・キリストの良き知らせを、詩編63編から見てみましょう。
 
 ダビデは、イスラエルのために尽力した挙句にサウル王様にねたまれて、何も王様に悪いことはしていないのに命を狙われて、ユダの荒野で逃亡生活を強いられました。この理不尽な仕打ちに対してダビデは「なんで?!」と神様に当たりませんでした。神様を信頼していたからです。祈りの中で、支えてくださるのは神様だけだと知って、人に頼るのではなく神に頼ったのです。
 神を信頼し続ける者、真に神に渇く者のために、神は現れてくださる、祈りに応えて下さる、そういう良き知らせをこの詩編に見ることが出来ます。
 私たちも不敬虔な世界の中で、唯一の神である創造主を求めるものに神は出会ってくださるという良き知らせ(福音)を聞いています。
 人に何かを求めても何も得られません。人は罪人ですから、期待されても応えることはできないのです。それよりも、確かに答えて下さる救いの神がおられます。
 私たち罪人は直接神様にお願いできなくても、私たちのためにいのちを捨てるほどに愛してくださったイエス・キリストが、父なる神様と私たちとの間に立ってとりなして下さいますから、その愛のゆえに必ずきいていただけるのです。
 神を求める者に、神は近づいてくださいます。そういう約束が聖書の中にたくさん書かれてあります。

4.罪人のための福音(ルカ5:31−32)
「そこで、イエスは応えて言われた。『医者を必要とするのは丈夫なものではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。』」

◎罪という病気のために苦しんでいる人をいやしてくださる。
 神様は私たちが悪いことをしたからとすぐに裁かれる方ではなく、心を入れ替えるチャンスを与えてくださっています。
 それを可能にしてくださったのがイエス様です。イエス様が十字架で私たちの身代わりのさばきを受けて下さったからです。そのあがないの御業のおかげで、罪人の私たちが少しでも罪から離れることが出来るようにと、裁きの執行の猶予を与えてくださっておられます。これが十字架の救いのメッセージです。私たちはイエス様の再臨の時まで裁きが猶予されているのです。
 この世の執行猶予は、その間に罪を犯すと終わります。私たちは神の前に何度も罪を犯してしまいますが、神様は私たちのそんな罪な性質を分かったうえで、「それでも、よくなりたい」という気持ちを失わない者に、恵み深くあられるのです。
 自分はだめだ、もういいわ、とあきらめて開き直ることは、神の赦しの愛をないがしろにする考え方です。医者の助言を聞かないで、生活習慣を改めないならば、その末路はみじめです。私たちも罪を軽々しく思って放っとくと、神様の愛とあわれみをないがしろにしたということで、最後の審判の時は裁かれます。
 今私たちには罪人に残された時間があるのです。今は恵みの時、今は救いの日。神様の愛とあわれみに応えて、少しでも良くなりたいと思って罪から離れていきましょう。その心を神様は信じて、たとえ完成されていなくても天国に入れてくださるのです。
 治りたいという気持ち、それは信じ続けるという心です。「神様はあきらめずに私を治療し続けてくださる、病人を救う良いお医者様」と信じ続けてイエス様のもとに通い続ける者に、神様の恵みの働きが成就すると言えると思います。

【デボーション参考ポイント】
  「道心堅固」=道義心を堅く守ること
 私たちを赦し、罪から離れるのを待ち続けてくださる神様の良いニュースを軽んじることなく、神の愛に応えていく道心堅固な心をもって、クリスチャン生活を歩んでいただきたいと思います。

【俳句】
 
福音は  神愛の滝  天よりの

 
 上から下へと豊かな水が流れ落ちる滝のように、神様は私たちをイエスキリストを通して愛してくださっておられます。この福音の言葉を、神様は滝のように、天より今も降り注いでくださっています。

 

 

 

 

 

■2018年5月6日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 聖霊による喜び2  up 2018.5.6


主題聖句(ローマ14:17)
なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。

 

 

 

 先週に引き続き、聖霊に満たされる喜びについて今日も学んでいきたいと思います。 人は飲み食いで問題を起こすことが多いものです。食べ物や水を巡って戦争が起きます。国民が増えてきた時に、食物を得るために、領土を増やさなくてはいけないということで、戦争したり、また良い水を手に入れるために泉の湧く所や井戸、川などを手に入れて、自分たちの家族や子孫のために残そうとして戦いが起きます。
 つまり食物や飲水の確保は自分たちの家族の未来を保証する条件です。もちろん教会の中で食べ物のことで争いがあってはいけません。しかし大事な主の祈りの中に「日用の糧を今日も与えたまえ」と、食べ物のことが入っているのはなぜでしょうか。
  ある人は霊的な食物のことだと解釈して、魂の糧であるみことばが与えられますようにという意味だととらえています。これも正しいです。でも大事なことは、食べ物は平和を保つ条件だということです。
 家庭に食べ物と飲み物が豊かにあると幸せを感じます。ただし箴言には逆のことも書いてあります。(箴言17:1)「一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。」
 これは特別な条件であって、普通人は食べ物も心も豊かであると幸せを満喫できます。また心の平安を乱すのに食べ物が原因していることが多いです。お金が重要と言っても、結局は食べ物のために蓄えていると言っていいでしょう。
 クリスチャンは食べ物が粗末であったからといって心が乱されるということはないでしょうが、多くも少なくもなく丁度いい食事ができるよう、安心して暮らせるための食物が与えられますようにと、平和のための祈りが「日用の糧を今日も与えたまえ」ということばに込められています。
 この世は飲み食いで争いますが、主題聖句には、神の国はそのような自分の必要を満たすだけの物質的な飲み食いが中心ではない、例えそれが充分ではなくても、義と平和と聖霊による喜びが中心であるということが書かれています。

【内容観察】
なぜなら、神の国は、飲み食いによる楽しみではありません。神の愛を信じる義と互いに赦し合うことによる平和と、神の愛そのものである聖霊様による神の愛の喜びなのです。
 
 神の国は愛によって成り立っており、それは飲み食いよりももっと大事なものであるということです。飲み食いがあっても愛がなければ虚しいのです。義と平和と聖霊による喜びは神の愛によってもたらされるものであり、それが神の国なのです。
 神の国はあそこにあるここにあるというような三次元的なものではないとイエス様は言われました。それは、ただあなた方の中、互いの間にあると言われました。もちろん一人一人の中にもありますが、相対的に相手が存在した時に初めて引き出されて、神の国の義と平和と聖霊による喜びが互いの間に存在するということです。夫婦の間に義と平和と聖霊による喜びがあれば、神の国はそこにあるのです。
 物理的に教会が神の国を象徴しているととらえますが、もし、互いの間に神の国の義と平和と聖霊による喜びがなければ、単なるサークルになってしまいます。なぜ日曜日に礼拝メッセージを聞きに来られるのでしょうか。それは私の話ではなく、みことばについての話を聞きたいという思いで来られるはずです。
 
 今日の結論は、私たちの間に愛による義(神の愛を信じたら義人として見てくださるという信仰による義)、平和(罪人である私たちはそれぞれが主張し合うのではなくて赦し合うことによる平和。利害ではなく、愛による赦しによる平和、神様がいかに私たちの罪という大きな負債を赦してくださったかを知ることによる赦しによる平和。)があり、神様の赦しの大きさに目を開かれた人々の集まり、その赦し合う中に聖霊による喜びがあふれるということです。それが教会の真の姿であり、神の国の表れです。
 私たちはまだまだ完成に至ってはいませんが、そのように、愛し赦す人になれると信じて、ますます熱心に務めていきましょう。自分はもうこれ以上変わりようがないという人は信仰を捨てたことになります。
 イエス様を信じているのに信仰を捨てた人がいます。イエス様は素晴らしいと信じているのに、イエス様が自分を、愛し赦すことができる人へと変えてくださるということが具体的に信じられない人です。
神にはできる、人を赦せる人へと自分を変えてくださると信じていきましょう。

1.キリストに出会う喜び(ヨハネ16:22)
「あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。 」
 
 イエス様がご自身の死について語られた時、弟子たちは不安になりました。その時イエス様は再会の約束をされ、しかもその喜びはさらに大きくなり、その喜びは決して奪われないと言われました。
愛する人に再会することは本当に大きいものです。二度目に会うイエス様は、死からよみがえられた復活のイエス様なのです。
 この復活のイエス様に出会うことができるという望みが今の私たちに与えられています。それではどのように出会うのでしょうか。

2.キリストに出会うとは?(ローマ8:9)
「けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」
 
 例えて言うなら、神様はイエス様の命をもって、私たちをご自分の住む家として買い取ってくださったのです。 キリストに出会うとは私の内に神の御霊が住んでくださるという出会いです。
 最初福音を知識として聞き、信じて洗礼を受けます。しかし聖霊が内に住まわれるという聖霊のバプテスマを受けていないと、まだ借家のような状況なので、神様が充分に家を改装することはできません。しかし、自分の持ち家とされたなら、思い通りに改装することができるようになります。
 神様はイエス様の血潮で私たちをご自分の持ち家、住まいとして買い取ってくださいました。私たちは住まいとして、キリストに出会うのです。つまり、復活のキリストの御霊が私たちの内に住んでくださるのです。しかし、もしあなたの内にキリストの御霊が住んでおられなかったなら、あなたはキリストのものとは言えません。
 ですから聖霊の満たし、バプテスマの確信が薄い方は早く神様のものとしてご自分の心を明け渡してください。罪の赦しは受入れても、これからの人生は自分の好き放題にするというわがままは言わないでください。
 キリストに出会うとは、キリストのものになるということです。その決心が中途半端な人はイエス様を完全には知ることができません。

3.うちに住まわれる聖霊様(ヨハネ14:16〜17)
「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」
 
 内に住まわれるという聖霊様はどのようなお方でしょうか。もうひとりの助け主として住んでくださるということです。イエス様と全く同じ方が私たちの内に住んでくださるのです。あなたがより良い神の家となるように、作り変えてくださるのです。あなた方が救われたのは、あなた方が作り変えたら良いものになると値積もりしてくださったということです。

 大竹の教会を建て直すか改装するかを話し合った時、その柱がしっかりしていたので、建て直すのはもったいないということで改装することに決まりました。神様もご自分の形に造られた私たちがどれほど罪でボロボロになっていても、改装するなら神の家としてふさわしくなると値積もりして買い取ってくださったのです。
 その助け主である聖霊様は真理の御霊であると言っています。真理とは物事の道理、作られた目的、存在の目的です。
 私たちはどういう家として建てられたのでしょうか。その真理を知っておられるのが聖霊様です。しかし、その家を悪霊と悪魔と罪が悪く改造してしまっていたのです。
 しかし、神様はご自分が住む家として、もともとは私たちを造られたのです。聖霊様は私たちをその真理に従って神の形に作り直してくださるのです。
 しかし、世はその方を受け入れることができませんとあります。世とは神を信じない不敬虔な人々です。自己達成や自己満足のために人生はあるという哲学を持った人々のことです。その人々がもし真理を知ったら、自分の間違いに気づきます。それが嫌な人々が真理を知ろうとしないのです。
 クリスチャンも自分のしたいことをするために神様を受け入れたのでしたら、本当の意味で神様を受入れたとは言えません。聖霊様の好きなように改築してくださいと願うのが、聖霊を受入れたクリスチャンです。
 世はその方を見もせず知りもしません。もし知ってしまうと後ろめたさを持ってしまうからです。世は神はいないと宣言して欲望を満たす自己中心の生活をしようとするのです。
 聖霊様が内におられることによって、神様がどういうお方かを知ることができます。私たちの内に住まわれた聖霊様はイエス様と同じように助けを与え、真理に導いてくださいます。

4.キリストの御霊と出会うには?(使徒2:38)
「そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」
 
 賜物とは差し出す方の主観と考えでもたらされるものです。あげる方に主体性があります。聖霊様は私たちの内に住みたいと願ってくださっています。そしてその応答としてドアを開けるということは、悔い改めるということです。
 心を開くというのは悔い改めることです。キリストを信じて歩む人生を聖霊様の好きなようにしてくださいと全くゆだねることです。自分の好きなようにする人生ではなく、神様の思い通りにして頂く人生に方向転換することが、悔い改めです。
 まだゆだねきれないクリスチャンもいます。時間のかかる人もいます。それは真理を知らないからです。悔い改めが本当に大切です。悔い改めと決心が重要です。
 毎週礼拝に来ることなど、ただ義務的にやっている人もいます。しかし、本当に熱心な人とは、神のおことばに従順に従う人のことです。
 従順に従う心は愛からきます。愛がなければ従順ではなく強制にとらえてしまい、そこに喜びはありません。ただ義務的になるだけです。
十字架の犠牲の大きさと痛みに本当に気づかなければ、イエス様に入って頂くために心のドアを大きく開けることはできません。その愛を感じ取っていけばいくほど、ドアは大きく開いてきます。少しでも開ければ、イエス様のお声は聞けるようになります。
 悔い改めはイエス様と出会うために大切です。イエス様は熱心に私たちの心のドアを叩いてくださっています。それは、プレゼントとして御霊を内に住まわせたいと切望してくださっているからです。聖霊に満たされる喜びは復活のキリストと出会うことです。ぜひこの出会いを求めていきましょう。 
 【俳句】
 新緑の 喜びひかる 湯来路かな

 聖霊の喜びに共鳴し、私たちも光り輝いていきましょう。