■2018年4月29日 日曜礼拝メッセージより(辻和希伝道師、横路伝道師)

 聖霊による喜び  up 2018.4.29


主題聖句(第1テサロニケ1:6)
あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。

 

【内容観察】
あなたがたも、キリストを信じる者への社会的迫害の中で、聖霊によって注がれている神の愛による喜びが全てのみことばに対して心を開かせ、同じ迫害の中であなたがたに福音を伝え証ししている私たちと十字架に至るまでみことばに従われた救い主イエスとを模範とし、喜んで従う者となりました。

【辻 和希伝道師メッセージ】
1.愛されている喜び(ローマ5:5)
「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」
A)一般的に、愛されていることに気づくのはどんな時ですか?
B)神に愛されていることを、何によって知ることができますか?
【デボーション参考ポイント】
聖霊による喜びと、そうでない喜びの違いについて。

 今年は、「キリストのあわれみを待ち望む」というテーマです。それはつまり、「キリストの再臨を待ち望む」ということを指していることを教えられました。
 私たちは、イエス様がもう一度この地上に来られることを喜んでいるでしょうか。喜べていないと感じても、それは感情の領域であって、実は聖霊によって喜んでいる領域があると私は信じます。イエス様を信じている者なら誰でも、霊は喜んでいるのです。
 そして、私たちには神の愛が注がれています。このことを信じることができるのは、まさに聖霊によるのです。というのも、1コリント12:3にこうあります。『聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。』
 私たちが洗礼を受けたときに、イエス様を信じる信仰告白をしましたが、それは聖霊によって告白していたのです。
 同様に、聖霊によってでなければ、神の愛が自分に注がれているということを信じることはできないのです。
 それでは、神の愛を感じるときはどんなときでしょうか。一番は神様を礼拝するときに感じることができるでしょう。教会で交わりを持っているときも神の愛を見ることができるでしょう。
 大切なのは、教会から出た普段の生活の中で、どのように神の愛を感じるかです。私は、自分自身が不思議な方法で救いに導かれたことを思い起こすときに、神様に愛されていることを実感します。皆さんはいかがでしょうか。神様に愛されていることがわかるとき、それは聖霊によって喜んでいるのです。聖霊による喜びをいつも体験できる歩みをしたいですね。

【横路伝道師メッセージ】
2.聖霊による喜びは良い地(マルコ4:20)
「良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。」
 これは、有名な種蒔きの例え話です。種は4つの場所に蒔かれました。1つ目は固く踏み固められた道、2つ目は土の層が薄い岩地、3つ目はいばらの中、4つ目は良い地です。ここでは、良い地に蒔かれたその人は、たくさんの実を結ぶとあります。
 イスラエルの地方の種蒔きは、日本とは違います。日本の種蒔きや田植えは非常に丁寧ですね。畑をしっかりと耕してから種を蒔きます。しかし、イスラエルでは非常におおざっぱであったようで、種を蒔いた後に耕すそうです。ですから、この例えの状況がよくわかります。他にも、ロバや牛に種の袋を背負わせ、袋の底に穴をあけて、畑を歩かせるそうです。そうすると種がぽとぽとと落ちていき、その後に耕すというやり方もあるそうです。
 私たちは、良い地に蒔かれた種です。みことばは、全世界に蒔かれています。そこから教会に導かれた皆さんは良い地です。良い地に落ちていないと、まず教会に来ることができません。しかし、蒔かれた後に耕されるのです。クリスチャンになった後に耕されます。耕すとは、掘り起こされるということです。私たちの内にある悪いものも掘り起こされて、明るみに出てきます。それは、捨てなくてはならない小石のような頑固な心であったり、捨てなくてはならないごみのようなものが出てきます。神様が、それはいらないよ、捨てなさいと言われます。これが耕されるということです。私たちは、多くの実を結ぶために耕され、成長していきます。若者も年配者も、全員成長します。キリストの姿になるまで成長します。聖霊による喜びを持って家庭や地域や職場に置かれているその存在が、周りの人々への証しとなります。

A)「実り」と「喜び」とは、どのような関連がありますか?
 実りを見ることはうれしいことですね。涙を持って種を蒔くものは、喜びを持って収穫します。
 一方で、喜びを持った人が、実りをもたらすとも言えると思います。私たちが喜んでいるならば、周りの人々はわたちたちを見て祝福されます。私たちを見て救われていきます。教会に行ってみたいと思う人が現れます。私たちは聖霊による喜びから実りを招くことができるのです。
 有名な説教者のムーディという人が、このように言いました。「主の喜びを持たずに、人々を信仰に導くことのできる人はいません。神はご自分のみわざを行うために、喜びで満たされた人をお使いになります。喜びに満たされない人をめったにお使いになりません。」私たちは喜びに満たされて、多くの実を実らせる希望があります。

B)豊かな実りをもたらすための心を良い地とする条件と、聖霊が与えられることと、どのような関連があると思いますか?
 心の中が聖霊による喜びに満たされた良い地にするにはどうしたらいいでしょうか。まず、耕してもらうことを拒まないことです。深く耕してもらって、捨てなさいと言われるものを捨てましょう。石や害虫を取り除いてもらいましょう。栄養である肥料をいただくことも必要でしょう。 私たちは礼拝の中で栄養をいただきます。水も定期的にいただくことが必要です。聖霊の注ぎを受けることが必要です。土地の改良が必要です。酸性土だとアルカリの肥料を入れます。私たちも改善されるべき所があれば、それを拒まずに、頑固にそれを握らないで手放していって、更に良い地に変えられていくならば、良い実を豊に結ぶことができます。良い地にする条件は、求める心、へりくだった心、神を愛する心、素直な心が必要です。
 この教会の初代の牧師である黒川先生が「聖霊を受ける秘訣」という、山田盛彦先生の本を発行されています。その本の中で、大切なことが書いてあります。1番目に、「聖霊を求める人は、主の愛に溶かされなければならない。」とあります。心が溶かされるくらい主を愛するということです。2番目に、「聖霊を求める人は、自分をいっさい神にささげなさい。」自分のしている全てのことは、神様のためにしているということです。3番目は、「聖霊を求める人は、常に主を求めていなければならない」ということです。忘れてしまうと、聖霊を悲しませる悪いものが出て来るので、いつも主を求めていなさいということです。4番目に、「聖霊を求める人は、常に賛美をしていなければならない。」とあります。喜ぶことや感謝は、神様なしでもできるのです。しかし、賛美は神様なしではできません。賛美は究極の神様の喜ばれることです。また、私は素直な心が一番大事ではないかと思います。みことばを聞いて受け入れる素直な心が、よく耕された心の人です。疑わずにアーメンと言える人は幸いですね。幼子は理屈を言いません。私たちは主にあって幼子です。
 昔、ある3人のグループが、モンタナ州の山に金を探しに入って行きました。金がたくさんある所をついに見つけ、全部取るには食糧も尽きて時間が足りないので、一旦帰って食糧を準備して再び集まろうという話になり、その時に「誰にも言わない」という約束をしました。ところが、戻ってみるとなんと100人位の人がそこで金を掘っていたのです。3人は、お互いに疑いましたが、だれも話していませんでした。
 その答えは、彼らの口は語らなかったけれど、顔が語っていたのです。金を見つけたことで顔が喜びに輝いていたのでしょう。彼らを見た人たちは、3人がきっと金を見つけたのだと思い、みんな掘りに行ったのです。これは、喜びが実を実らすということの一つの証しです。「イエス・キリストがあなたの救い主です」と人々になかなか言えない人もいるでしょう。しかし、もし顔が輝いていたら、人々は教会にやって来ると思います。
 また、ある人がニューヨークにある伝道者が行き、熱く福音を語りました。3種類の人々がいました。一つ目の人々は、様々な宗教を持っている人たちでした。彼らに語っても、自分の宗教を持っているので取り合ってくれませんでした。今信じているものが正しいと思っているので、彼らの心は固かったのです。まるで固い道ばたに落ちた種のようでした。
 次の人々は、金融、証券の人々です。彼らの神はお金なのです。それで仕事をしているので、いくらメッセージを聞いても心にとどまりませんでした。いばらの中の人たちに種を蒔くようでした。
 3番目の人々は、貧民街の人々でした。移民してきた貧しい人々がたくさんいました。この伝道者がそこで熱く語ると、多くの人々がそれを聞いて、素直に耳を傾け、イエス様を受け入れたのです。その伝道者は涙を流して喜びました。他のもので心が満たされていないところへ種を蒔かれました。彼らはへりくだっていました。貧しい環境の中で心が砕かれていました。だから彼らは主を信じることができたのです。
 聖霊による喜びは、私たちの生活に表れてきます。その顔に表れます。その喜びによって証しがする人は幸いです。多くの実を結ぶことができます。私たちは日々耕されています。30倍、60倍、100倍の実りを期待し、求めていきましょう。
【デボーション参考ポイント】
「聖霊による喜び」が与える良い影響について

 

 

 

 

 

■2018年4月22日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 満たされる喜び  up 2018.4.22


主題聖句(使徒13:52)
弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。

 

【内容観察】
「キリストの教えを守るキリストに似た人々は、神の愛であるキリストを知ることの喜びと、神の愛そのものであられる聖霊様の臨在に満たされていた。」

 喜びを持っていることは幸いなことです。その喜びがどのような苦痛、悲しみにも耐えることのできる喜びであればなおさらすばらしいですね。マイナス的な暗闇の出来事や言葉にくじけることのない喜びをぜひ持ちたいものです。
 
 使徒行伝の弟子たちはどんな迫害にも決してくじけることのない喜びと聖霊の満たしを受けていたことが、使徒行伝13章を読むと分かります。
 
 聖書の言う「弟子」とは、師匠と同じ考え、価値観を受け継いで師匠に似た者になり、さらにそれを進めていく者という意味であり、キリストの弟子たちとは、キリストの教えを守るキリストに似た人々、すなわち「クリスチャン」のことです。弟子たちが満たされた喜びとは、「神の愛であるキリストを知ることの喜び」でした。
 
 私たち人間にとって本当に喜ばしいこととは、愛なる全能の神を体験的に知ることです。出会いは人生を左右します。イエス様と出会って知るということは、私たちの人生の未来に大きな影響を及ぼす出会いとなります。その出会いによって皆さんは変えられたのです。もし、イエス様とお出会いしていなかったら私たちの人生はどうなっていたでしょう。さぞかし惨めな罪深い空しい生活が想像されるのではないでしょうか。
 
 キリストを知る喜びと、さらに無限の神様のすばらしさを知っていくわけですから、これは終わりのない喜びですね。そして、いつもどこでも離れずに神様がそばにいてくださるという、聖霊様のご臨在のすばらしさを得ることが大事です。これこそ私たちの理想とするクリスチャン生活ではないでしょうか。
 
 まだまだ私たちは途上です。もう十分ということはありません。もっともっと喜びと聖霊の満たしを受けることができます。求めるほどに得、探すほどに見出し、たたくほどに道は開かれていきます。何歳になっても、私たちには永遠の未来があるのです。未来が開かれていく喜びを持ったクリスチャン生活を忘れてはいけません。
 
 この世の楽しみが得られないからといって悲しまないで、それ以上にもっとすばらしい喜びがあることに目を向けましょう。
 
 今日は、キリストに似た者でなければ味わえない喜びをご紹介したいと思います。

1.キリストの苦しみにあずかる
(第1ペテロ4:12−14)
「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです。もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。」

A)試みを受ける目的は何でしょう? 
  苦しみにあずかることが喜びである――矛盾していますね。どういうことでしょうか。一般的に言えば、試みとは試験であり、目的は合格です。商品は市場に出す前には、十分正しく機能するかどうか検査員が必ずチェックして、合格することが必要です。
 
 クリスチャンは「新しく造られた者」と聖書に書いてあります。キリストの救いによって、魂も霊も新しく神の子として、キリストと同じ姿のものとして造られました。しかし、果たしてそのように機能するのかどうか、否、機能しないことを神様は分かりもってチェックされるのです。どこが悪いか調べられて、そこを私たちは教えられて悔い改めます。
 
 大きな働きをする性能の良い機械ほど小さな調整は非常に大事です。天国は完全なところでありますから、それにふさわしい合格印が必要なのであります。地上で私たちが受ける神様によるテストは、廃棄処分にされるためではなく、悪いところを調整してすべてを生かすためですから、試みられることは非常に喜びであり感謝なことです。
 
 私たちは栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられていきます。聖霊様が私たちを調整してくださいます。単に部品が完ぺきに備えられただけでなく、充分に機能して働くことができる最善の形に仕上げようと、神様は試みられるのです。
 
 試みは苦しいものですが、神様への信頼を持って、試みをしっかり受け止めて、喜んでテストを乗り切って、教えられ気づかされていきましょう。

 イエス様の再臨まで、この試みは続きます。「この辺でいい」ではなく、細かく調整されるということですから、試みの多い人は幸せです。試みを受ける目的、それは『より完成に近づく』ということです。

B)キリストの苦しみにあずかることが、なぜ喜ぶことですか?
 キリストは苦しみを通して救い主として完成されて、十字架にかかられました。罪を犯さない完全な救い主であることが証明されるために、試みの33年間を地上で歩まれたのです。イエス様の試みは、欠けたところがないことを証明するという試みでした。
 
 私たちの試みは、欠けたところがないか、それを見つけて調整するという試みであります。不完全では神の国に入れません。
 ご高齢の方は、キリストを信じてこられたその年数が、試みを受けたという証明となっています。安心してください。私たちもキリストと同じ試みに合っているのだと思い、耐えられない試みは与えないと言われてますから、安心して試みを受けましょう。

C)キリストの名のために非難を受ける幸いとは?
 私たちはキリストを信じることのために非難されることがありますが、それは幸いであると言われます。なぜでしょうか。非難する人たちは、私たちがキリストに属するものだと見て、私たちだけではなく師であるキリストを非難しているのです。
 
 私たちは良い行いによって「さすがクリスチャン」と認められているように思いがちですが、そういう良い行いはキリストの弟子でなくとも、誰でもしていることが多いのです。
 
 しかし、非難される時は、師であるキリストに対する批判中傷に値するものとして、私たちもイエス様と共に非難されているのです。イエス様と同等に置かれているということですから、感謝ですね。非難されるほどにクリスチャンと認められているのですから幸せです。

2.確信からくる喜び(コロサイ2:1−3)
「あなたがたとラオデキヤの人たちと、そのほか直接私の顔を見たことのない人たちのためにも、私がどんなに苦闘しているか、知ってほしいと思います。それは、この人たちが心に励ましを受け、愛によって結び合わされ、理解をもって豊かな全き確信に達し、神の奥儀であるキリストを真に知るようになるためです。このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。」

A)どのような苦闘をパウロはしていたのでしょう?
 パウロはどこに宣教に行っても迫害されました。特にユダヤ人に邪魔されました。パウロはユダヤ人の信じているモーセ五書から解き明かしてユダヤ人の反論を封じて、イエスがキリストであることを証明したのです。反論の根拠を失った人は感情的な嫉妬やねたみで敵対するしかなくなります。彼らの動機は自分の立場を守ることだからです。
 
 こうした感情に働く罪の性質を私たちはよく理解して、そういう罠に陥らないように気をつけましょう。

B)パウロの苦闘が全き確信につながるのはどうしてですか?   
 パウロは、そのようなユダヤ人との苦闘をラオデキヤの人たちが知ると、彼らが心に励ましを受け、愛によって結び合わされ、理解をもって豊かな確信に至り、キリストを知るようになるから、自分の苦闘は彼らのためになると言っています。
 
 私たちもキリストの名のために苦しみを受けるという苦闘が、第三者の回りの人々が豊かな全き確信に至るための必要な苦闘となり、福音が確かであることを証しすることができるようになるのです。
 
 クリスチャン生活だけでなく、誰かと論争したときにきちんと答えられるようになっておくと、回りの迷っている人々が全き確信を得るようになりますから、そのような覚悟を持てると、すばらしいクリスチャン生活を送ることができるようになりますね。私たちには足りないところはいっぱいありますが、チェックしていただいて足りないところをしっかり身につけましょう。
 熱心になればなるほど非難を受け、その苦闘を見て救われてくる人々がいるのです。そうやって初代教会は救われる人がますます増え広がったとあります。その苦闘が、私たちの信じている神は真の生きて働いておられる神だということを証明することになるのです。   
 楽をしているクリスチャン生活を見て他の人々がクリスチャンになるよりは、キリストの名のゆえに苦しみを得て、それでも神を畏れて善行を続けるクリスチャンの姿を見て信仰を持つ人の方が、しっかりした信仰を持つことができます。
 
 あなたの信仰の戦いを見、そこまで神を信じ切っているあなたの姿を見て、人はキリストを信じる信仰に一歩近づいていくのです。
 しっかりと信仰の苦闘を受け止めていきましょう。それが福音宣教の証につながるのです。

 

【俳句】  
桜まじ  ほほに感じて 母しのぶ

 桜が満開になり散り始めているころ、季節の変わり目、冷たいような温かいような南風を頬に感じたとき、2月に母を亡くしたその寂しさをふり払うかのように、母の色々な働きの素晴らしいこと、その温かみを思い出しました。南風の温かさが母の良い思い出を内側に思い起こすきっかけとなりました。
 
 怖い父親と子どもだった私の間に入ってくれたそんな母親の温かみを思い出す春真風(はるまじ)。今は恵みの時、救いの日です。愛とあわれみそのものであられるイエス様は、私たちに恐れることなく父なる神様に近づいていきなさいと、さばき主である神様と私たちとの間に立って取り持ってくださる、まるで母親のような温かみを持ったお方です、と合わせて詠んでみました。

 

 

 

 

 

■2018年4月15日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 キリストを信じる喜び  up 2018.4.15


主題聖句(ヨハネ15:11)
わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。

 

 

 

【内容観察】
わたしがぶどうの木にたとえてあなたがたに話したのは、わたしの霊と喜びがあなたがたの霊と共鳴し、あなたがたの喜びとなって霊と心とからだが喜びに満たされるためです。

 クリスチャンのトレードマークは「喜び」です。苦しいけれども喜びがある、不安だけれども喜びがあるという不思議な人生を送るのがクリスチャン生活です。感情的な喜びがなくても、主と共に歩んでいるという喜びを私たちは見失ってはいけません。
 まず、救われている喜び、神様に愛されている喜びをいつも思いみることが大事だと思います。幼子が親を見て喜ぶように、私たちも父なる神、イエス・キリストと共にいることの喜び、愛のつながりを素直に表す日々でありたいと願っています。

 喜びが注がれるというのは、わかりづらいのです。「わたしの喜びがあなた方の内にあり」と説明している部分を、私は「共鳴」という言葉で表現しました。
 共鳴というのは例えば、音を出すものが2つあって、片方を鳴らすと、もう片方も自然になります。イエス様が言われる喜びとは、そのようなものではないかと思います。イエス様にある喜びが私たちの霊に共鳴する。イエス様の喜びが理由なく、理屈なく伝わってくる。そして、不思議に同じように喜びを内側に感じることができる。自分の喜びのように湧いてくるのです。
 イエス様から共鳴して伝わってきた喜びが私たちの全身全霊に及ぶ、満たされるとはそのようなことではないでしょうか。イエス様を信じたら、イエス様ご自身が持っている喜びが、私たちに伝わり、共鳴し、私たちも喜びにあふれる。これが、イエス様を信じるすばらしさです。この喜びが私たちに平安をもたらします。この喜びが私たちに力を与えます。この喜びが私たちを失望から希望へと導きます。この喜びは力強いものです。私たちをつくり変える喜びです。
 死んでいて音が鳴っていないものが、イエス様の喜びの音が発せられると、生き返って一緒に音を鳴らす。私たちのクリスチャン生活はこのイエス様の喜びが、いつも伝わってきているのです。だから、祈るのです。だから、みことばを読むのです。だから、賛美するのです。主と向き合い、主に近づく、その行為がイエス様の喜びを内側にもって信仰生活を歩むことができるのです。

1. 実を結ぶ喜び(ヨハネ15:1-2)
「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」

A)農夫とぶどうの木とその枝の共通の喜びは何でしょう?
 イエス様の喜びは、実を結ぶ信仰の喜びであると、ここから想像することができます。農夫もぶどうの木もそのぶどうの木の枝も共通の喜びがあります。それは実が実るということです。実りを願ってぶどうの木をぶどう園に植え、お世話をし、枝が伸びて枝に実が実る。それを見て一番喜ぶのは農夫です。農夫は父なる神様です。
 また、ぶどうの木に例えられたイエス様は、飾りではありません。ぶどうの木の実を収穫するための木なのです。だから、枝に実が実った時に、イエス様自身も「良い実が結んだ。」と喜びます。

 神様の真理があって、いろんな創造物が創造されています。真理を説明するために、神様は太陽をつくり、星をつくり、ぶどうの木をつくったのです。農夫は父なる神様、ぶどうの木はイエス様、枝は私たちです。この関係をわかりやすく説明し、理解できるように、ぶどうの木をつくられたのです。たまたま、ぶどうの木があってそれに当てはめたのではありません。

B)農夫は、どのような働きをしますか?
 「多くの実を結ぶために、刈込をなさいます。」これが農夫の働きです。ぶどうの木も枝は、多くの木の実を結ぶために自分で何かをすることはありません。農夫がします。
 イエス様は裁き主として、この地上に来られたのではなく、救い主として来られたぶどうの木です。裁くとは枝を切るということです。それをなされるのは父なる神様です。
 イエス様はすべての人を受け入れ、すべての人に実がなるように世界中の人々を自分の枝として接木されました。神様は、ぶどうの木を育て、枝を伸ばし、実がなるようにと刈込をしていきます。枝である私たちを剪定していくのです。
 私たちの人生における父なる神様の取り扱いとは、多くの実を結ぶという目的のためであり、多くの実を結んで喜びにあふれるためなのです。あなたの苦しいクリスチャン生活は父なる神様が多くの実を結ぶための枝の整理をしているのだと考えてみたらいかがでしょうか。神様は、私たちの人生に実を結ぶことを喜ばれ、楽しんでおられるのです。それは、枝である私たちの喜びでもあるのです。

【デボーション参考ポイント】
「信仰」と実を結ぶ喜びとの関連について考えてみましょう。
 農夫は、実がまだなっていないにも関わらず、秋の収穫を心に描きながら枝を剪定し、肥料をやり環境を整えていきます。いろんなことを配慮してぶどうの木を守り、育て、実を結ぶように働いている農夫は、秋に収穫することを、信じているのです。だから、春に種を植え、育て、実りの為に木をしっかり管理しているのです。それは必ず実が実ると信じているからです。そして、その通りになります。しかし、手入れをしなければ、だんだん実りは少なくなり、ダメになります。私たちも自分の人生に、農夫である父なる神様に喜んでいただける実が実るということを信じ、みことばに従っていきたいと思います。

2.ぶどうの実が象徴しているもの
A)ヨハネ15:16
「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」
 「あなたがたが行って実を結び・・・」いったい何の実なのでしょう。よく献身や開拓伝道、宣教師として出かけるときに示されることが多いみことばです。神様の選びとその地に遣わされるという、宣教の確信を持つ方々が多いわけですが、そのような主の働きをする人が、行って実を結ぶ。これは、福音宣教の働きであるということは明らかです。 行って実を結ぶのですから、出て行って福音を伝えて信じる人々が与えられる。救われた人々という実です。魂が救われることです。
 では、その実が残ることは、何を意味するのでしょうか。その場所で信じた人が与えられ、魂が救われると教会ができ、いつまでもそこに存続し続ける。すなわち、信仰が継承されていき、その地域で、次から次へと魂が救われ、実が結ばれる。すなわち、教会が生み出されるということが、実が残るという言葉に含まれています。
 農夫である父なる神様は、ひとり子を罪人の為に犠牲にしてまでも、実らない野生のぶどうの木を、良いぶどうの木であるイエス様に接木してくださったのです。
 私たちは神様に喜ばれる実を結ぶことができない罪人でしたが、神様が喜んで下さる実を結ぶことで、枝である私たちの喜びとなります。このようにして農夫とぶどうの木であるイエス様と枝である私たちが、実を結ぶことにおいて共有する喜びがあるのです。イエス様と共に喜べる実は、福音を聞いた人々が救われるという実です。ぜひこの喜びを父なる神様、イエス様と共有したいものです。
 
B)ガラテヤ5:22-23
「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」
◎御霊の実は、どこに実を結ぶのでしょうか?
 この9つの実は、山奥に行って独りで修行していては実らないのです。これは、人間関係の中で実っていくものなのです。相手がいないと「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」の実は実らないのです。一人だったら、愛しているか愛していないか対象者がいませんから、そこにもう一人いると実感できるわけです。
 平安も、人間関係の中で、社会の中で、わたしの内に本当にあると発見することができるのです。だから、わたしたちの内側に実を結ぶとともに、互いの間に実を結ぶ9つの御霊の実でもあるのです。
 この実を実らせていくため、神様は私たちをこの罪の世界において、罪人同士のいろんな人間関係や社会の中で神様のみことばに従い続けるということを通して私たちは訓練され、練られ、実践していくのです。そのようにして神様が喜ばれる実が実っていくのです。
 この2つの実が、神様も、イエス様も、私たちも、共に喜ぶことができる実としての象徴です。農夫である父なる神様、ぶどうの木であるイエス様、枝である私たちも、一緒に喜びたいと思い、魂の救いの実と御霊の実を結ぶことができるように、クリスチャン生活を歩んでいきたいと思います。

【俳句】
春田見る 心の目には 黄金穂

 春の田んぼは、まだ耕してもいないし、苗も植えていません。これからです。そのような春の田んぼを、農家の人が見るとき、彼らの心の目には秋の太陽の光に輝き、穂が熟した黄金に輝く田んぼを見ているという信仰を俳句にしてみました。私たちも、みことばの約束は必ず実るのだという期待と希望を心に描きながら、みことばを楽しみ行うものになりましょう。

 

 

 

 

 

■2018年4月8日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 福音を伝えながら待ち望む  up 2018.4.8


主題聖句(マタイ24:14)
この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。

 

 

 

【内容観察】
罪人が永遠の滅びから救われて神の国に入れられるという良い知らせは、あらゆる国民、国語、民族に教え語られ、証されることによって、私たちが待ち望んでいるキリストの再臨である世の終わりの時が来るのです。

 主の再臨をどのようにして待ち望むのかというシリーズの7回目、今日は「福音を伝えながら」ということを見ていきますが、これを、「キリストを伝えなければいけない」と、宗教的布教活動のように考えないでください。神様は、救われているという証拠を示したいと思われているのです。そのために、私たちが罪赦されて神様に愛されているということを、人生の中で感謝と喜びをもってあらわしていくというのが私たちの人生の務めであります。これが全世界に広がっていくことを通して、世の終わりの日、キリストの再臨がやって来るというとです。
 どのようにして福音を伝えていくのか、それは一方的な伝え方でなく、私たちが宣べ伝えて「証となる」ということです。福音を証したときに相手にどんな反応が見られるのか、今日は五つの御言葉を挙げて、見てみたいと思います。

1.キリストの弟子と認められる
(ヨハネ13:35)
「もし、あなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」

◎互いの間に愛があることを通して。
 福音を伝えていくときに、「ああ、この人々はキリストの弟子なんだな」とノンクリスチャンの人々は見るということです。
 
 クリスチャンとして人生を建て上げていこうとしている人を見て、世の中の人は「熱心ですね」と言います。それはノンクリスチャンの方から見てのことであって、私たちにはごく普通の当たり前のことです。それにもかかわらず、それを隠してしまうような生き方をしていたのでは、本来のあなたの救われているクリスチャン生活を、そんな良いものを、周りの人に隠してしまっていることになります。
 
 毎週日曜日に教会に行くほどに、何が面白く楽しく生きがいをそこに見出しているのだろうか?と人々は不思議に思います。その熱心さはキリストの弟子であることの証明です。それが福音です。そんな生き方が出来るんだということですね。弟子になることは難しいけれど、だからこそ、弟子になり甲斐があるということが言えるのではないでしょうか。
 
 弟子であることを認められる証拠は、互いの間に愛があること、「互いに愛し合いなさい」と言われたイエス様のお言葉が私たちの間に実を結んでいることです。夫婦の間、親子の間、教会の兄弟姉妹の間に愛がありますか?愛というのは自分の思い通りになっているときだけでなく、思い通りになっていないところでも愛を注ぎ続ける時こそ、この人たちはこの世ではない愛を持った人達だなあと世の人々は見てくださって、私たちをキリストの弟子と認めてくださるということです。

2.神をあがめるようになる
(第2コリント9:13)
「このわざを証拠として、彼らは、あなたがたがキリストの福音の告白に対して従順であり、彼らに、またすべての人々に惜しみなく与えていることを知って、神をあがめることでしょう。」

◎惜しみなく与えることを通して。
 私たちが福音を伝えるときに人々の二つ目の反応は神をあがめるようになるということです。 
 
 エルサレムにある迫害下のユダヤ人教会の窮乏のために、コリントにある異邦人の教会が献金を募りました。それが小アジア全体に広がりました。周りの人々は、何の関係があって彼らはそこまでするのだろうかと不思議に思ったようです。
 
 困っている人に、赤の他人であっても惜しみなく与える姿を通して「ああ、この人たちは本当に神を畏れ、人を愛する人たちなんだなあ」と「神をあがめるようになる」とパウロは証しております。
 
 惜しみなく――それは見返りがなくても、という意味です。見返りがあってもなくても、また自分たちの方が貧しいかもしれないにもかかわらず、困っている聖徒たちを助けるという業に協力したい、捧げるものがなければ私達を使ってくださいと自分自身を捧げるという愛にあふれた証を見ることによって人々は神をあがめるようになるというのです。
 
 ボランティアの働きや大規模な援助金の勧めなどは世界の歴史から見ても教会の働きによるところが多くありました。日本でも戦後、病院や施設など初めは宣教師により率先して建てられ一般の人に継がれていきました。世界的にもクリスチャンのボランティア活動が福祉活動の基本となって広がっていったようです。
 
 東北の大地震の後、最後まで援助を続けるクリスチャンたちに対して、また熊本の大地震の時もキリスト教の諸団体は今でも援助し続けているようですが、彼らは「キリストさん、キリストさん」と呼ばれて、非常に親しまれ感謝されていたと聞いております。
 
 私たち教会でも国際飢餓対策機構を通して援助金を集めておりますし、BFPを通してイスラエルを援助したり、里親制度で他国の子供たちの生活と成長を支えるなど、微力ながら色々な援助活動をしておりますので、興味のある方はお聞きになってください。

3.反対意見が説き伏せられる
(使徒18:28)
「彼は聖書によって、イエスがキリストであることを証明して、力強く、公然とユダヤ人たちを論破したからである。」

◎イエスが救世主であることを聖書から証明することによって。
 福音を伝えたとき三つめの反応は、反対意見が説き伏せられるということが起きることです。
 
 当時、アポロという人が旧約聖書から説明して、イエスはキリストであるという根拠を示してユダヤ人を論破したようです。
 
 私たちの福音は単なる感情的な良い知らせではなく、理にかなった良い知らせです。神話的な知らせでなく、現実的な良き知らせです。ですから反対意見も説き伏せることが出来るのです。
 
 ねたみや嫉妬などの感情で反発している人にも、聖書を通してイエスがキリスト(救世主)であることを理にかなって証明できますから、感情的な伝え方だけでなく、反論を封じ込める伝え方、聖書の知識も必要であります。聖書の御言葉を学ぶことにも興味を持っていただければと思います。

4.御恵みのことばの証拠を見る
(使徒14:3)
「それでも、ふたりは長らく滞在し、主によって大胆に語った。主は、彼らの手にしるしと不思議なわざを行なわせ、御恵みの言葉の証明をされた。」

◎主によるしるしと不思議なわざを通して。
 12使徒たちは至る所で御言葉を語り告げていきました。その語っている言葉は単なる理屈だけではありませんでした。しるしと不思議な業という目に見える証拠を神様はあらわされたのです。
 
 御恵みの言葉、すなわちイエスの十字架の贖いの御業は嘘ではなく、永遠の滅びから罪赦されて神の国に救われるという、これは事実存在することだということのしるしとして、癒しや不思議な業を人々は目のあたりに見るわけです。すると、理論的にだけでなく現実的にも人は何も言えなくなってしまいます。大胆に御恵みの言葉、福音を語るとき、イエス様は語った人々の手を通して、しるしと不思議な業をあらわされるということです。
 
 初代教会で現わされた奇跡が、現代の教会でも、人々が驚くほどには充分に現わされていないということは、大胆に御恵みの言葉、福音を語っていないかもしれませんね。神様の救いの御業が本物であることの証しとして、主が証明と証拠を与えて下さいます。私たちの力ではなく、よみがえられたイエス・キリストがその御業を行なってくださいます。それを通してキリストは確かに死からよみがえって今も生きておられるという証拠を人々が見ることが出来るということです。

 日本においても主のしるしと不思議な御業を神様があらわして下さるほどに、クリスチャンとして大胆に私たちの人生を人々の前に生きていくように目指していきたいと思いますが、いかがでしょうか。
日本では隠れキリシタンが伝統としてありますから、現在も隠れキリシタンが多いかもしれませんね。そのような束縛、かごの鳥から解き放たれるように主の前に求めていきたいですね。

5.人々の良心に受け止められる
(第2コリント4:2)
「恥ずべき隠されたことを捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。」

◎神の御前における誠実さ(きよい良心)を通して。
 福音を伝えるのは忠実さのしるしです。この忠実さは義務以上の価値あるものです。きよい良心から出た行動として神様の良き知らせを伝えるということです。

 語ることと私生活が違えば人につまづきを与えてしまいます。いくらでも聖書の知識を蓄え、語ることは出来るでしょう。しかし、良心が汚れていたならば、語った内容はすべて無駄になってしまいます。

 私たちが福音を伝えるとき、説得ではなく、証拠を見せるだけでなく、人々の心が変えられるためには人々の良心に福音を伝えていくことが必要です。そのためには私たちが神に対して忠実であるという姿勢が見えたら、人々は良心的に私たちの話を聞いてくれるわけです。偏見をなくすことが出来るのは、私たちの神の前における誠実さ、忠実さが大きな効果をもたらすと思います。
 
このようにして福音を伝えながら私たちは主の再臨を待ち望んでいきましょう。そして人々はこのような五つの反応・応答をして、少しでもイエスがキリストであるという信仰へと導かれていくと言えるのです。

【デボーション参考ポイント】
 一日も早く再臨が実現するために福音を伝えることにチャレンジしましょう。今まで言葉で語ってきた人は、この5つの内の別のものにもチャレンジされてみてはいかがでしょうか。自分の出来るところから始めてみましょう。

【短歌】  

 百千鳥 さえずり交わす 早朝に
 主を待ち望み 祈りに励む

 いま湯来町では、澄みきった朝の空気の中、多くの鳥のさえずりが一斉にこだまのように響きあって聞こえてきます。すばらしい早朝の体験です。皆さんもこのような体験の中、主を待ち望み、朝のデボーションをしていただければと思います。

 

 

 

 

 

■2018年4月1日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 主の死を告げ知らせて待ち望む  up 2018.4.1


主題聖句(第1コリント11:26)
ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。

 

 

 

 初代教会では、既に再臨を待ち望んでいました。再臨のメッセージが力強くなされています。イエス様が地上に来られてから、もう2千年近く経っている今、私たちはどのように再臨を待ち望み、地上の人生を過ごせばよいのかを考えてみましょう。
 
 「待ち望む」ことについて、今日で6回目の学びになります。聖餐式ではパンとぶどう酒(この教会ではジュースです)をいただきます。共にいただくことを通して「キリストの再臨を待ち望む」ということに思いを向け、心を一つにして、このセレモニーにあずかります。
 聖餐式はイエス様の最後の晩餐以降ずっと今に至るまで続けられています。イエス様は、過ぎ越しの祭りというイスラエルの三大祭りの始めの祭りにこれを制定されました。
 これを続けることを通して、キリストの再臨を待ち望むようにとみことばに語られているので、教会はずっと礼拝で聖餐式を持ち続けているのです。
 
【内容観察】
「ですから、あなた方は、キリストのからだを象徴しているこのパンを食べ、キリストの血を象徴しているこの杯を飲むごとに、キリストが私たちの罪を贖うために十字架で死なれ葬られ三日ののちによみがえられたことを、よみがえられたキリストがこの地上に戻って来られる時まで、救いの喜びをもって証しするのです。」
 「主の死を告げ知らせる」というところに、今週の焦点を当てたいと思います。このことと、どうして復活が関係あるのでしょうか。

1.主の死(ローマ4:25)
「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」
 主の死とは、単に「死」を意味している訳ではありません。福音を語っているのです。イエス様の十字架の死を3つのポイントから見ていきましょう。

A)罪を贖うための死
 イエス様は私たちの身代わりになってくださいました。私たちが罪の束縛を受けているだけではなく、罪のための裁きである永遠の滅びに行かなければならない状況から救い出してくださったのです。それは永遠の滅びからの解放と、罪の力からの解放という御業です。
 贖うとは、買い戻すという意味があります。イエス様は、そのための代償となられたのです。それを詳しく次で見てみましょう。

B)罪の人生が裁かれて終わったことの葬り
 葬られて墓をそこに作るということは、そこで人生の区切りがついたことを表します。
 死を確実に宣言し人生にピリオドをつけることが葬りです。葬儀をするということは、地上の人生が終わったことを表し、遺族の方たちが心を整理する場となります。
 ですからお墓は、故人が今は天国に行ったことを認め受け入れるために必要になります。先祖を大切にするだけでなく、今は地上の人生から天に引き上げられたと知る証しがお墓です。
 ですから、一つの区切りを心に受け入れるために葬りは大切です。私たちは、イエス様の十字架における罪の裁きを一緒に受けたということを受入れて、私の罪の人生は裁かれてもう終わったのだと、一つの人生が終わったのだと認めることができるための葬りです。そしてそこで終わるのではなく、何のために罪の人生が裁かれて終わったのかが、次の「復活」です。

C)義人として新しく生きるための復活
 イエス様の死は葬りと復活を含めています。これを主の死という言葉でまとめています。「死」があるということは「復活」があるという事です。
 ですから、「主の死を告げ知らせる」とは、復活の希望を与える福音である、神様の贖いを告げ知らせることです。この福音を知らずに復活を祝うことはできません。
 私たちは行いによって神の前に義とされることはありませんが、救い主イエス・キリスト、神様の愛が見える形で地上に現れてくださったこの救い主イエスを信じることによって、義と認めていただけるのです。
 
 いくら新しく人生をやり直そうと思っても、過去の縛りがあって難しいものです。そこで神様は法的な手段を取られました。私たちを縛る過去と切り離すため、過去のすべての負債、借金を返済してやり直すために、御子イエス・キリストの命が代償として支払われたのです。ですから、もうあなたに借金の取り立て、罪の責めをもってくるものはいないということ、そのための裁きは既に終わっており、その代償はすべて支払われたのだという、はっきりとした証しが歴史の中に、イエス・キリストの十字架刑として刻まれているのです。
 そして、その十字架と私たちが一つとされるために洗礼を受けたのです。全身礼(身体的に無理な方のためには滴礼)というのを行いますが、それは、キリストと共に十字架について死に、一つの罪の人生が終わって葬られ、新しく神の前に義人として生きるために、イエス様と共によみがえったのだということを表しています。
 どうしてキリストがよみがえられたことで、私たちが義と認められるのでしょうか。もし、イエス様がよみがえられなかったら、イエス様個人が罪人であったということになります。しかし、イエス様には罪はありませんでした。それゆえ私たちの罪の代償を支払える、きよい命をもって十字架にかかられました。これが本当かどうか、キリストには本当に罪がなかったのかの証明として神はイエス・キリストをよみがえらせました。
 イエス様には罪がないゆえに、イエス様が十字架で死なれたのは身代わりとしてであったということが、復活で証明されたのです。
 
 罪のないイエス様が私たちの罪の身代わりとして死なれたのですから、そのまま死にとどまることは正しい裁きではありません。それゆえイエス様は必ずよみがえらなければならなかったのです。よみがえられたことで、イエス様は罪のない救い主であったということが証明されました。このよみがえられたイエス・キリストを私たちは待ち望んでいるのです。これが信仰です。
 
 信仰とは、まだ見ていないこと、まだ現実には起こっていないことを、必ず起きると信じ確信することです。よみがえられたイエス・キリストが本当に来られると信じておられますか。
 
 この「主の死」ということを踏まえて、次の「告げ知らせる」とはどういうことかを見ていきましょう。

2.告げ知らせる(ピリピ1:27ー28)
「ただ一つ。キリストの福音にふさわしく生活しなさい。そうすれば、私が行ってあなたがたに会うにしても、また離れているにしても、私はあなたがたについて、こう聞くことができるでしょう。あなたがたは霊を一つにしてしっかりと立ち、心を一つにして福音の信仰のために、ともに奮闘しており、また、どんなことがあっても、反対者たちに驚かされることはないと。それは、彼らにとっては滅びのしるしであり、あなたがたにとっては救いのしるしです。これは神から出たことです。 」
 告げ知らせるは宣伝するということですが、言葉だけでいくら言っても、なかなか人々は信じてくれない時代です。
 最近の詐欺師は資本を投資し、一つの架空の会社を作って、高級なパンフレットと事務所を構えます。そしてお金を集め、ある程度集まったらさっと逃げるのです。だますのも大変なようです。簡単な嘘は最近は見破られるからです。
 
 イエス・キリストの死を告げ知らせるということをどのようにしてするのでしょうか。どのように周りの人々に信じさせることができるのでしょうか。パウロは「キリストの福音にふさしい生活をしなさい」と言っています。

A)「キリストの福音にふさしい生活」とは?
 その具体的なものがB)とC)とD)です。

B)「霊を一つにしてしっかりと立つ」とは?

C)「心を一つにして福音のために奮闘している」とは?

D)「反対者たちに驚かされることがない」とは?

 A)をしっかりとすれば、B)C)D)の結果が表されてきます。
反対者たちに驚かされることがないとは、何を言われても脅かされたり、あわてたりすることが全くないということです。A)は罪をひとつも犯さない生活でありません。
 神が私たち罪人をあわれんでくださって、罪の束縛から解放してくださいます。神様のあわれみがキリストを通して表され、この方を信じたらあなたは無条件で罪が赦されますよという良いニュースが、キリストから始まったのです。
 
 ふさわしいというのは、罪人なのに罪が赦されているという神様の愛、あわれみを受けている者としてという意味です。
 あわれみを受けた者として今も赦され続けているのです。罪を赦されて感謝しつつも、完全には罪を犯さなくはなれないということも、私たちは分かっています。だからこそ、神はあわれんでくださっているのだから、少しでもそのあわれみに応えるために、罪から離れる生活をしたいと願い務めるのです。あわれんでくださっている神の愛の感動を受けて、罪から離れようと心から願い努力するのです。
 
 ですから、キリストの福音にふさしい生活とは、「神のあわれみに応えていこう。」という心を持つということです。そうしたら、その結果として、霊を一つにして、「神があわれんでくださっている」というところにしっかりと立つのです。
 
 霊というのは、「ことば」を意味します。神のことば、ビジョンと捉えられます。神様のみことばにあるビジョンを一つにして、そのみことばにしっかりと立って、そのおことばが神の愛とあわれみから出たものであるとしっかりと捉えて立つことを意味します。
 
 そして、C)の心を一つにして福音のために奮闘しているとは、一人もつまずくことがないようにと、私たちは神様のあわれみ、愛に応える生活を目指しているということです。
 罪から完全には離れられなくても、私たちが証しできるのは、それでも神様は赦しながら私たちが罪から離れ永遠の命に入れるようにと信頼してくださっているのです。その信頼に応えて一つでも罪をやめることが出来るようにと毎日の生活を送っているのです。
 その愛による信頼に応えて、一つでも罪をやめられるようにと毎日励み、互いに励まし合ってあきらめずに福音を信じ続けて、あなたも罪赦されているんですよという神様のあわれみを生活に表していくのです。

 ある意味罪の生活が神のあわれみを証しすることになるとも言えます。イエス様を信じてからも罪は続いていますが、まだ神はあわれみ続け、忍耐強く見守り励ましてくださっています。人は罪を赦しても限度があり、限界があります。しかし神様に限界はありません。そういう姿の人生を送っているを見て、第三者のクリスチャンでない人々が、神のあわれみは本当にあるのだという良い知らせが彼らの生活の中に表れていると見ることができるのです。その人々が見るためのしるしが先週のメッセージの「悔い改め」です。
 
 素直に罪を認めて、またやり直そうとする姿が人々の前に表された時に、真剣にキリストのよみがえりを信じて、罪の赦しを信じてクリスチャンは生きているのだということを見ることができるのです。それが私たちの証人としての歩みです。
 
 イエス様のおことばそのものが実現する癒しや奇跡も大事ですが、私たちの生活そのものがキリストの死を告げ知らせ、神様のあわれみを受けながら、罪を赦されつつ、日々歩んでいるのだということを証しするのが福音にふさわしい生活です。
 罪をやめられなくても、神の赦しの中で、悔い改めながらあきらめることなく、神のあわれみに感謝して日々奮闘している姿こそが生身の証しとなるのです。それゆえすべてのことに感謝し喜び、祈りながら歩んでいきましょう。

  聖 風 が  肌に 染み入る  朝 桜

 

 

 

 

 

■2018年3月25日 日曜礼拝メッセージより(辻和希伝道師、横路伝道師)

 悔い改めながら待ち望む  up 2018.3.25


主題聖句(マタイ18:3)
言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。

 

 

 

【内容観察】
「このことをはっきり言っておきます。今のままでは天の御国に入ることができません。わたしが迎えに来るまでに人間的な考えを捨て、子どもたちのように父なる神を信じる心を持つようにしなさい。そうすれば、わたしが迎えに来た時には、一緒に天の御国に入ることができます。」

【辻和希伝道師メッセージ】  
1.子どもたち(幼子たち)について
(ルカ10:21)
「ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。」
 「幼子、子どものように神の国を受け入れる」ことは三福音書に記されており、それだけ重要であることがわかります。
 イエス様の御名の権威を用いて神の栄光が表わされることを託されたのは、イエス様についてきた70人の弟子たちでした。その「弟子たち」のことをイエス様は「幼子たち」と呼んでいます。
 ここでいう「幼子」の要素とはなんでしょうか?
 一般的に子ども扱いされるのは、半人前だったり、低く見られたりと、マイナスイメージがあるかもしれません。
 しかし、聖書でいっている幼子、子どもの要素は「純真さ」「素直さ」です。
 「純真さ」「素直さ」を邪魔するのがこの世の知恵です。この世の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。(第1コリント1:21)文明の発達とともに、人々の知識による高ぶりは常に隣にあって、現代はソドムとゴモラの時代よりもはびこっていて、私たちはそのような中で生活しているということをおぼえていなければいけません。
 今の時代の中で、クリスチャンとして証していくために、神の知恵をもって、この世の知識や知恵を上手に用いていくことは必要なことです。しかし、知恵や知識は人を高ぶらせるので、気をつけないといけません。力を持つことに高ぶりは潜んできます。神様の御名の権威を用いる時も、自分を低く、謙虚な姿勢をもつことはイエス様自身も私たちに忠告してくださっています。
 イエス様にとって幼い子どもたちは麗しくうつります。余計な知識がない分、「純真さ」や「素直さ」が邪魔されないのです。大人になるにつれ、いつの間にかこの世の繁栄の知識や個人主義の考えや思想が紛れ込み、取り込んでしまい、神の国に対する期待や神の奇跡と御わざをかすめてしまう要因になっているかもしれません。
 子どもたちが大きな声で神様に賛美の声をあげているのをみると、疲れてしまっている自分自身の姿に反省させられます。「あっそうだ、子どもたちのように、」と純真さを思い返すことこそ、悔い改めることなのではないでしょうか。
 私たちはいつの間にかこの世の知識や知恵ですすめていたことを思い直して方向転換することが大切です。
 先日二台のパソコンが壊れてしまいました。それは、メンテナンスをしなかったからです。不必要なファイルなどを除去せず、パソコンに負荷をかけてしまった結果です。何ともない、大丈夫だと思って、長らくメンテナンスしないと、壊れてしまうのです。「除去しよう」これが悔い改めです。私たちは毎週みことばを頂いて神様の前に正しい道を歩んでいるか確認する機会が与えられていることを感謝します。
 子どもたちのような純真さがなければ、この世の知識はイエス様がもう一度来られるということを信じることができないわけです。天の御国があるということすら疑うでしょう。それぐらいこの世の知識や知恵は、私たちの信仰すらもかすめてしまう強いものです。ですから、私たちは、初めにイエス様にであった出会いに立ち返り、幼子のように純真な思いをもって神様の前に出て、そして、自分自身を神様の前にささげて、神の国を待ち望みましょう。悔い改めながら待ち望むというのは、常に、神の国にゴールをおいて、方向転換をしながら進んでいくということだと結論づけることができると思います。
 今週も幼子の心をもって待ち望んでいきたいと思います。

【横路伝道師メッセージ】
2.悔い改めについて
(黙示録2:4〜5)
「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。」
 黙示録の2章では、7つの教会に対して称賛と警告をしています。このみことばはエペソの教会に対して書かれたことばです。初めに称賛が書かれていますが、4節からは、非難すべき所があると書いてあります。この教会はたくさんの戦いをしながら、エペソという偶像礼拝の町に立派な教会を建ててしばらくすると、第2世代が育ってきていました。その中で「初めの愛から離れてしまっている」ということを非難されました。これは、今の時代の私たちにも言えることで、初めの愛から離れてはいけないということを教えられています。
A)「初めの愛から離れる」とは、どういう意味ですか?
 「初めの愛」とは、最初にイエス様を救い主として信じた時の、純粋な信仰の愛です。私たちがクリスチャンになるとき、どのように信じたでしょうか。それは、イエス様が私のために十字架にかかって私の罪を取ってくださり、私の罪はイエス様と共に十字架につけられたので、私はもう罰せられることはなくなり、天国に行く約束をいただいたというものです。なんと大きな愛をいただいたことでしょう。私のために命を捨ててくださった神が他にあるでしょうか。信じるには決心がいります。洗礼を受けた時の素直な決心の気持ちが、初めの愛です。これは、結婚になぞられることができます。結婚も決心が必要です。大きな決心をして、この人と一生を過ごすのだと愛を持って結婚するのです。その愛は純真です。疑いながら結婚はせず、相手を信じて結婚するのです。私たちの信仰も純粋さによって始まったのです。神様がこんなに愛してくださったから、私も心から神様を愛し、主人として仕えますというのが初めの愛です。
 そこから離れてしまったということは、この世の中に生きている中で悪い影響を受けて、純粋さが失われてくるということです。確かに私たちの心は信仰を持ってから年数が経つと、だんだんと情熱が冷めてきます。私たちの純粋な愛が、世の中の影響を受けて薄まっていってしまうと言えるかもしれません。
 アブラハムは、純粋な信仰を最後まで持ち続けた人だと思います。75歳で、空の星のように子孫が増えますと神様から約束をいただきましたが、なかなか実現しませんでした。100歳になってからそれが実現しました。25年間も信仰を失わずに待っていたのです。そして、その生まれたイサクをささげなさいと言われた時に、わかりましたとささげる気持ちになりました。すごく素直な信仰です。神様が言われることなら何でも従いますと、純粋な信仰を保っていたのです。もし周りに影響されて汚されていたら、素直に信じて従うことはなかったと思います。神様は死んだ者を生き返らせることができると信じていました。神様はどんなことでも益と変えてくださる良いお方であると、しっかり信じて疑いませんでした。これが幼子の信仰、初めの愛だと思います。このような信仰を持ち続けたいと思います。
 もし、この初めの愛がなくなったらどうなるでしょうか。疑う心、不信仰、自分の行いで信仰生活を守ろうとする律法主義、人と比較して批判したり落ち込んだりする比較の心、人を裁いてしまう心等が出出てきます。それは、世の中の影響を受けて、初めの愛から離れてしまっているからです。

B)初めの愛から離れると、なぜ悔い改めなければならないのでしょう?
 「あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。」とあります。燭台とは灯りのことです。もし夜に停電すると困りますね。信仰生活における燭台とは、初めの愛であり、聖霊様の光、みことばの光、教会の輝きです。これらのものがなくなったら、私たちはこの世の人と同じように、暗闇の中に沈んでしまいます。もし悔い改めなかったならそうなると、ここで忠告されています。悔い改めとは、軌道修正をすることです。現代は、人工衛星によるGPSで自分の位置を確認することができます。私たちが初めの愛から目をそらし、道をそれてこの世の楽しみや考え方に引っ張られていくことがあれば、これはいけないと向きを変えて元に戻ること、これが悔い改めです。私たちは燭台が取り去られないために、灯りがなくなって失望し、死んだ人生になるのではなく、生き生きとした人生となるように、いつも神様を見上げていることが大切です。

C)「幼子」と「初めの愛」との共通点とは?
 これは、純粋さと素直さ、疑うことのない素直な信頼だと思います。幼子は親を信頼しています。私たちも神様に対して、完全な信頼、愛を持ち続けるように、そこから離れたらもう一度戻るようにと言われていると思います。悔い改めることは、悔いて、改めることです。悔いるけれども、改めないということもあります。それは悔い改めではありません。戻るためには行動しなくてはいけません。それができないなら、できるためにお祈りをするのです。赦せない、愛せない時には、神様に赦せるように、愛せるように、助けてくださいと祈りましょう。私たちにはできないけれど、聖霊様によって強くされてできるようにしてくださるのです。希望を持ちましょう。

【デボーション参考ポイント】
悔い改めながら再臨を待ち望むことについて考えてみましょう。

 

 

 

 

 

■2018年3月18日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 忍耐強く待ち望む  up 2018.3.18


主題聖句(ヘブル10:36)
あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。

 

 

 

 「待ち望む」というシリーズで今日は4回目です。一回目は「叫ぶ」、二回目は「主を畏れる」、三回目は「嘆かわしい思いで」、四回目の今日は「忍耐強く」、これらは一つ一つ別のことではなく、「待ち望む」要素として全部含まれていて、つながりがあります。
 忍耐といえばヨブ記を通して教えられることがよくあります。「忍耐の人ヨブ」と忍耐の代表のように記されているのですが、私たちが考える忍耐と、聖書がヨブを通して教える忍耐とは少し違う点があるようです。その辺を踏まえながら、叫びつつ畏れつつ嘆きつつ忍耐強く「キリストの再臨を待ち望む」と、続けて考えることができると思います。

1.主題聖句の内容観察
 再臨という約束に焦点を合わせて、(へブル10:36)を内容観察してみました。
『あなたがたが、キリストが愛されたように互いに愛し合って、キリストの再臨を迎えるために必要なのは、どんなときでも忍耐強く神の命令に忠実であることです。』
 忍耐という言葉の中には、あることを忠実に最後まで続けるというニュアンスがあります。神様の前に「忍耐を持つ」ということを考えた時、「忠実に」という言葉がキーになると思います。
 「神のみこころを行なう」それは、キリストが私たちを愛してくださったように、あなたがたも互いに愛し合いなさいというイエス様の御言葉を守り行うことであります。
 神のみこころというと、罪をやめるという“Doing”に目が向いてしまいがちなのですが、神はたとえ罪人であっても隣人を愛する心をもっている者を、あわれみをもって赦し受け入れる心をお持ちの方であることをしっかり悟っていく必要があります。
 隣人を愛していくという中で、イエス様が最も勧めておられる善行は、主が私たちを赦してくださったように私たち罪人同士も互いに赦しあうことです。神様の前に不完全なクリスチャン生活の行いを赦していただくために、あなたは隣り人の罪を赦す、あなたが赦せばあなたの罪も赦されると聖書にしるされています。
 あれをやめよう、これをやめようと、世の中の遊びや行いをやめる努力より、隣り人を赦すことに専心したほうが神の前には喜ばれることです。赦すことは生涯かけて私たちがチャレンジすることです。 
 ですから、キリストが赦してくださったように互いに赦し合うという神のみこころを行なってキリストの再臨を迎える事が必要で、そのためには忍耐強く神の命令に忠実であることです、というふうに訳してみました。
 忠実さというのは行動をもって完成するわけですが、その前に大事なことは心の姿勢です。忠実な心をもって忠実な行動をあらわしていくことです。外側の“Doing"がどんなに立派でも内側が出来ていなければ神の目には空しいのです。それは義人は信仰によって生きるということにつながってきます。心の忠実さというのは神への信仰です。信頼すべき神様の語ってくださったお言葉(約束)を、どんな状況があっても希望として信じ通すこと、それが「忍耐する」ということです。
 忍耐することの価値は「忠実である」ということ、それが今日皆さんにお伝えしたい大事な結論のポイントです。
 次のシロアムの池で癒された盲人の話から、具体的に忍耐について考えてみたいと思います。

2.シロアムの池で癒された盲人
(ヨハネ9:6−7)
「イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。」

A)盲人の目に泥を塗るパフォーマンスの効果
 つばきをすることも泥を塗ることも、普通なら人を侮辱するような行為です。イエス様のこのパフォーマンスはどういう意味があるのでしょうか。
 前後を読みますと、この盲人はイエス様についての知識を持っていなかったようです。もし誰か知らない人に「行って洗え」といきなり言われただけで、その言葉に従う気になるでしょうか。特に盲人にとっては無理難題のお言葉です。誰も助けてくれない一人です。ただ行って洗えと言われただけで、癒されるとは言われてないのです。
 この泥を塗るというパフォーマンスは盲人を信仰に導くために必要でした。盲人は目に塗られたものが何なのか知りません。何かドロッとしたものが塗られた・・もしや薬かもしれない・・もしやシロアムの池に行って洗えば目が見えるようになるのかもしれない・・、という期待と信仰がそこに働いたのです。このパフォーマンスはとても大事です。泥を塗るというパフォーマンスが盲人に信仰をもたらしたのです。
 私たちも信仰を持つきっかけとして、その人に信仰が内側に少しでももたらされるためのパフォーマンスをしてあげることが必要です。
 心に問題のある人が相談に来られた時、イエス様の御名によって祈ってあげる前に、信仰を持つことが出来るように、表情、しぐさ、言葉すべて、心からのパフォーマンスをもってその人の気持ちに共感します。そして、「それはイエス様だけが解決してくださるに違いないですよ、お祈りしてみませんか」と、相手がその言葉に信仰を持てるように、私たちの語り方、態度、姿勢、おもてなし・・そういうことを通して、神のお言葉に対する期待と信仰をもつことができるようなパフォーマンスを与えてあげることが、特にノンクリスチャンの場合、とても大事です。

B)「行って、シロアムの池で洗いなさい」
 このパフォーマンスの後に盲人に与えられたイエス様の言葉は、「シロアムの池で洗いなさい」でした。
 聖書はあえて「そうすれば見えるようになりますから」とは記されませんでした。見えるようになることよりも、行って洗うという行動の方に焦点を当てているのです。なぜでしょうか。「行ってシロアムの池で洗いなさい」という言葉を、忍耐をもって忠実に守ることに心が向くようにされ、シロアムの池というゴールまで忠実に向かっていき、そしてそこで洗うという約束のゴールに到達し、結果、見えるようになるという現象が起こったのです。
 イエス様は盲人に、見えるようになることを期待して、シロアムの池に向かって歩いていって、そしてそこで洗うようにと、約束の言葉を語られました。語られたことに対して彼は行動をとりました。エルサレムの旧市街の狭いごつごつした見知らぬ困難な道を、盲人は見えるようになると信じて願って一人で歩いていったのです。その気持ちが弱ったら、途中で挫折してやめてしまいます。見えるようになりたいという気持ちを実現してくれるようなそういう信仰が働くためには、泥を塗るというパフォーマンスが必要でした。彼はこの無理難題を「無理だー!」とあきらめず、最後まで信じ続けて忍耐をもって歩いて行ったのです。
 約束のものを手に入れるには忍耐が必要です。じっとしている忍耐ではなく、続けていく忍耐です。最後まで続け通すという忍耐が必要です。
 忍耐を働かせるということは、神様と自分、神の約束の言葉と自分との1対1の関係であり、人はどうも助けることはできません。一人でシロアムの池に向かったというのは、そこに神とあなたとの1対1の問題、神の約束の言葉とあなたとの1対1の問題があり、一人で約束を信じてシロアムの池に向かって、目を洗うことを目的として歩いていくのです。
 
 行って洗うということが強調されたのは、約束のものを手に入れるためには忍耐が必要で、それは信仰が伴う忍耐であり、それは「忠実さ」ということなのであります。
 忍耐強く待ち望むというのは何もしないでじっとしていることではありません。私たちは互いに赦し合い、愛し合うということを忍耐強く続けることを通して、神様が私たちに約束として与えて下さった再臨のキリストにお出会いする事ができるのです。
 また、再臨までに、神様の約束の言葉、色々な癒しの言葉、祝福の言葉、この地上で約束が成就するようなお言葉もありますから、それを忍耐強く忠実な心で、すなわち義人は信仰によって生きるいう信仰を、神様の前に忠実な心であらわし続けていくということが、忍耐強く再臨を待ち望むことであると、この盲人を通して私たちに教え語って下さっているのではないかと思います。
 皆さんももう駄目だと思うときにこそ、忠実な心を思い起こしながら忍耐強く「いや、神の約束は間違いない」と思い返して、忍耐を働かせて、どうぞキリストの再臨へと近づいていただきたいと思います。

【デボーション参考ポイント】
 約束を待ち望む忍耐には、忠実さが必要であるということがどういうことかを、もう一度ご自分で黙想し、御霊によって教え悟して頂くようにデボーションをしてみてください。

【短歌】

一年に  一度の開花  桜待つ
神の約束  楽しみに待つ

 桜も忠実に神のみこころを行なって、季節が来たら花を咲かせます。
私たちはその時の桜の花見を楽しみに待つように、神の約束も楽しみに待ちたいと思います。

 

 

 

 

 

■2018年3月11日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 嘆かわしい思いで待ち望む  up 2018.3.11


主題聖句(詩篇142:1〜2)
私は主に向かい、声をあげて叫びます。声をあげ、主にあわれみを請います。
私は御前に自分の嘆きを注ぎ出し、私の苦しみを御前に言い表わします。

 

 

 

 「イエス様のあわれみを待ち望む」ということを語って、3週目になります。地上でイエス様に出会った人々の反応を通して、「待ち望む」ということを学んでいます。
 
 「嘆かわしい」ということばは否定的なイメージですが、クリスチャンにとっては、神への信仰を働かせ、さらに神に近づける大事な要素になります。
 
 日本人はあまり内なる思いを外に主張しないという文化・生活習慣があります。喜びも悲しさもあまり素直に率直に表現せず、無関心、無感動さを装ってしまいがちです。そしてそれが美徳のように捉えられています。いつも周りの人々の目を気にして自分の内側の感情をそのまま出すことをためらってしまうのです。
 ただし、最近の若い人々は昔よりは自由に自分の感情を表現できるようになってきたと思います。また、就職の面接の時も自分の長所を上手にアピールすることを求められるようです。
 しかし、まだ本音を出しきれないという風潮が残っています。嘆きも、人前で惨めさを感じないために隠すことが多いのではないでしょうか。しかし、嘆きは神に向けて叫ぶ神への信仰の表れです。声にならないうめきをもって嘆きを神の前に注ぎ出すのです。
 
 聖書に出てくる不妊で悩んでいるハンナが良い例でしょう。彼女は神の宮で、愛する夫の子どもを産めない苦しみに声にならない叫びを神の前にあげていました。それはあたかも酒に酔っているかのように見えたとあります。異常に見えるほどの嘆きだったのです。

 私たちはそれほどの嘆きを味わったことがあるでしょうか。自分のプライドも投げ捨てて、魂の叫びをそのままさらけ出して、神の前にあわれみを求めている祈りがこの主題聖句です。この聖句のように嘆いている人を新約聖書から見ていきましょう。

◎38年間待ち続けた病人(ヨハネ5:2〜9)
「さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。その中に大ぜいの病人、盲人、足のなえた者、やせ衰えた者たちが伏せっていた。そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」 病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」
イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」 すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。」

 神様は数字にもこだわられる方です。38年にも意味があります。イスラエルでは、満12才で成人式をします。分別がつき善悪が正しく判断できるようになる年齢が12才と考えられているからです。そこに38年を足すと50才になります。この50才はレビ人や祭司が退職する年齢です。それからは補助者として若い人々の育成に励みます。(大祭司は別で亡くなるまで努めます)兵士も50才で退職します。働き盛りの年を終えるのが50才と考えられているのです。
 
 彼にとっての38年間というのは、他の人が職を得て社会に出る年数をずっと社会にでることも叶わず過ごさざるを得なかったということを表しています。
 
 社会にでることもできず惨めに過ごし、さらにもし今治ったとしても、就職することもかなわないような年齢になってしまったということです。病気のために人生を棒にふってしまったとも言えるでしょう。
 
 しかし、そのような状況の中でも、彼はなおも癒やされることを願い続けていました。おそらく周りの病人の中でも最も長い期間池のそばに居続けた人ではないでしょうか。この38年間で何人もの病気の人々があきらめて帰ってしまったことでしょう。
 
 イエス様は彼を見て、長い間であることを知って「38年経った今もよくなりたいか?」と聞かれました。普通だったら、もうあきらめてしまうような長さです。
 
 しかし、彼は「自分を水の中に一番に入れてくれる人がいません。」と答えました。それは、本当に自分を憐れんでくれるような人が誰もいないということです。例え、水がかき回されるのを誰よりも先に見つけて他の人に入れてくれるように頼んでも、その人が先に入り、そのチャンスを何度も奪われていくというような目に何度も会ったことでしょう。神の宮でそんなことがあってもいいのかというような理不尽さに何度も会っている嘆きが彼の言葉の中にうかがえます。

 自分では素早く動くこともできず、はってでも行こうとすると、その気配を察して他のまだ動ける人が先に入ってしまうなど、積もり積もった嘆きがその言葉の中に込められているのです。そしてこのような深い嘆きが表されているのが、(詩篇142:1−2)です。

1.積もり積もった嘆き(詩篇142:1−2)
「私は主に向かい、声をあげて叫びます。声をあげ、主にあわれみを請います。 私は御前に自分の嘆きを注ぎ出し、私の苦しみを御前に言い表わします。」

A)病気の人生という嘆き
B)38年間という嘆き
 信仰をもっている者が嘆くべきではないと考えるのではなく、現実における嘆き(病気の苦しみ等)や、待ち続けているのになかなかかなえられない嘆きは、持っていけないのではなく、むしろ神の前に言い表し注ぎだしてもいいということです。自分を偽って神様の前につくろう必要はないのです。むしろ正直に率直に嘆きを注ぎ出すということが、自我を砕くということになります。

2.待ち続ける信仰(詩篇69:16)
「主よ。私に答えてください。あなたの恵みはまことに深いのです。あなたの豊かなあわれみにしたがって私に御顔を向けてください。」
 彼は神様に愚痴不平を言っていたのではありません。待ちわびるという心境が待ち嘆くという心境に変化してしまっただけです。

A)どうして神の恵みとあわれみを知っていたのでしょう
 彼は先祖達に対して、神様がどれほど忍耐し憐れんでくださったかを良く知っていました。信じ切れる根拠、神様への期待はモーセ五書に表されている歴史と神の恵みを良く知っていたからです。アブラハムに与えてくださった約束をイサク、ヤコブと引き継がれ、さらに延々とイスラエルをあわれみ、いかに不信の罪を犯してもなお守りを与えてくださる神様の歴史を旧約聖書で知っており、学んでいたからです。
そして彼はその歴史を真実として信じ、昔話として捉えませんでした。そして今も働いておられる自分の信じている神は本当に素晴らしい方であると現実に感じ信じていたのです。

B)嘆きが神への信仰を強めることになった
 人に頼ることもできず、また38年間という長い年月を通して、彼の自我は砕かれ、イエス様にお出会いする前はその嘆きも深まり窮地に追い込まれていたことでしょう。そして、ただ神にしか望みがおけない四面楚歌の嘆きが続いていたと思います。この嘆きが神に向かい、神だけが自分を救ってくださる御方だとひたすらその時を待ち望んでいたのではないでしょうか。
 
 アブラハムも高齢で子どもが産めない状態になっても信仰を失わなかったとあります。人間的に不可能になった時、後は神に頼るしかないという状況に追い詰められます。アブラハムはイサクが産まれた後、さらに何人もの子どもたちに恵まれました。彼はひとり産まれるという奇跡を期待していただけかもしれませんが、神はさらに大きな奇跡を表されました。それは待ち続けた彼の信仰の結果与えられた神の恵みです。嘆けば嘆くほどその信仰が強まるというのは、この世とは違う神を信じる人々の強さなのです。

【デボーション参考ポイント】
★愚痴不平の嘆きは、神への信仰ではない。
例】荒野でのイスラエル
 彼らの嘆きは信仰につながらず、ただ愚痴と不平になりました。試練に合うたびに神が奇跡としるしを行い恵みを示されたのにも関わらず彼らの信仰はただ御利益的なものでしかなく、いつまで経っても人格的な神との結びつきには至りませんでした。

 嘆きと苦しみは神の前に言い表してもいいですが、愚痴や不満を言い表すのは信仰ではありません。「神様どうかわたしの願いを聞いてください。」「いつまで待つのでしょうか。主よ答えてください。」と神の前に言い表すことは罪ではありません。

 さて、再臨の主を待ち続けることは、この病の中に長くあって癒されたというこの出来事とよく似ています。私たちのクリスチャン生活はこの罪の世界にあって、色々な迫害や葛藤を味わうものです。日本では、クリスチャンは誘惑の多い世界で欲望という罪の力と戦っています。それぞれどこの国であってもクリスチャンは嘆き苦しむような場所にいます。クリスチャンにとって楽な世界は地上ではありません。安息の場所はありません。安息はただ神の元にしかありません。
 
 地上で信仰の戦いを戦い悩み嘆きますが、この38年間待った病人のことを覚えましょう。イエス様は33年間人として肉体をもってこの世に生きられましたが、もう一度帰って来ると約束してくださっています。
 今度は罪を裁くためと私たちを迎えに来るためです。一度来ると約束して来られた神はもう一度来ると約束されたのですから必ず来られます。この再臨の約束を100パーセント信じましょう。神は約束を守られる方です。
 
 この病気の男性は、イエス様が来られるということも救世主であるということも知らずにいました。しかし、この池が動いた時最初に入ったら癒してもらえるということを信じて待ち続けていた結果、彼は救い主イエスと出会い癒していただくという大きな奇跡を体験したのです。この出来事は彼の想像をはるかに超えたものでした。

 私たちもあきらめずに信じるならイエス様の再臨に出会い、主と直接出会うことができるのです。直接イエス様とお会いしたいという気持ちを失わないようにしましょう。
 
 私(辻師)は19才の時、本当に生きる望みである神はおられるのかと嘆きの中からうめき求めていたときに、神はあるクリスチャンを直接訪問させられ、教会に導かれて救われました。そしてイエス・キリストがどのような方であるかを知ってきました。色々な苦しみを通して、イエス・キリストをより深く知るようになったのです。楽を通してというよりも、嘆きと苦しみを通してこそ愛なる神、きよい神を知ることができます。
 
 再臨を待ち望むその嘆き苦しみはあなたを強くしあなたをきよくし、神の内にとどまりたいという思いを強めます。それはただ「神は良き御方である」という信頼のもとに生み出されてくる神への信仰です。いろいろな証しやみことばを通して、再臨を確かなものとしていつまでも待ち望んでいきましょう。

 

 

 

 

 

■2018年3月4日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 主を畏れる心で待ち望む  up 2018.3.4


主題聖句(第1ペテロ1:17)
また、人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、あなたがたが地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこんで過ごしなさい。

 

 

 

 私たちは地上に「しばらく」留まっていると言っています。私たちの人生は平均して80才ぐらいです。80年という年数は私たちの意識には「しばらく」なんて言えるような数字ではありません。しかし、永遠という観点から、神様はいつも見ておられますから、神様の目から見たら100年、200年は「しばらく」なのだということです。
 楽しい時はあっという間に過ぎていきますが、悩みの時など長く感じることが多いですね。心境の違いによって長く感じたり、短く感じたりします。
 
 そのように「しばらく」留まっている間、私たちはどのようにして過ごしたらよいのでしょうか。「恐れかしこんで過ごしなさい。」とは、迫害を恐れ、静かにクリスチャン生活を送りましょうという意味ではありません。私たちは人を恐れるのではなく、神様を畏れ敬って過ごしましょうという意味なのです。

1.畏れかしこんで過ごす(マタイ8:1〜3)
「イエスが山から降りて来られると、多くの群衆がイエスに従った。
すると、ツァラアトに冒された人がみもとに来て、ひれ伏して言った。『主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。』イエスは手を伸ばして、彼にさわり、『わたしの心だ。きよくなれ』と言われた。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。」

 このツァラアトとは、「罪」を象徴しています。この病気にかかりますと、一般社会から隔離された所で生活しなければならなくなります。
 もう一つは、罪人という宗教的な意味もあります。このツァラアトという病気は非常に偏見を受け、差別を受ける病気でありました。

 このツァラアトに冒された人が、イエス様が山から下りてこられた時、多くの群衆の中にいたというのです。これは絶対ありえないことだったのです。それにもかかわらず彼は、大勢の群衆の中についてきたのだと考えられます。

 イエス様の周りには多くの人がいたにもかかわらず、彼を止める人はいなかったのです。なぜですか。うつったら困るので、みな逃げたわけです。だから、ツァラアトに冒された人がイエス様のもとに近づくと、自然と道ができ、イエス様の前までスーっと来ることができたのです。

 これは、罪人はイエス様の前に恵みによって近づくことができる、罪人だからイエス様に近づくことができるとも考えることができる、面白い出来事だと思います。ツァラアトに対するユダヤ社会におけるさまざまなルールから考えて、イエス様のもとに群衆をかき分けて来たのではなく、引き寄せられるように彼はイエス様のもとにやってきたのです。

A)神を畏れる、ツァラアトに冒された敬虔な人
◎イエス様のもとに来てひれ伏した
 「ひれ伏す」という行為は、片膝をついて「おお、主よ」とかっこいいものではなく、体全身を、地面にうつぶせになることです。これは本当に普通だったらできないことです。それだけイエス様の前に立つときに彼は、イエス様が油注がれた者、救世主であり、遣わされた者であるということを深く心から受け止めて、うつ伏せになって、イエス様にお辞儀をしたのです。

 これは深い敬虔な心がある人の「証」です。私たちは「ひれ伏す」ことをなかなかできません。日本の風習では、うつ伏せでひれ伏すことはありません。90度のお辞儀をする。もしくはもっと深いお辞儀をするぐらいがひれ伏すことなのですが、それでも現代社会でそのような機会はありません。

 どんな人にひれ伏しますか。心から相手の優れた立場、状況というものを受け入れ、認め、自分は取るに足らないものであるという、相手を高くし、自分を低くするというような関係、自然と心の中にひれ伏すというほどの尊敬が湧いてくるような人は、この地上には、ほとんどいないかもしれません。クリスチャンは唯一、神様の前にだけ心から、ひれ伏すことができます。ひれ伏すということは、それだけ自分を砕くということです。低くするということなのです。

◎ツァラアトに冒されていても神を畏れる心は変わらない
 低くするとはどのようなことを言うのでしょう。「なんで私はこんな病気にかかったのだ。」「なんで障害を持って生まれてきたのだ。」と自分のありのままの人生を受け入れることのできない人は、神様を畏れる心が乏しいということです。

 自分の価値観や主観によって、うまくいっているときには、神様を敬う人が一般的に多いです。しかし、ツァラアトに冒された人は、どうして私はこのような病気になってしまったのだろう、社会から隔離されて生活しなければならない、仕事すらすることができない、みじめな人生を送らなければならない、何のために生きているのかわからないという生活だったのです。もう、希望も何いもありません。だけどイエス様の前に来たこの人は、イエス様の前にひれ伏したのです。 ツァラアトに冒され、このような病気になったことに対し、神様に愚痴・不満を言いませんでした。誰が悪いのか正しいのかではなく、これが私の人生である、そこを通ることが私の人生であると神様の前に人生を受け入れました。これが神様を畏れ敬っているということの「証」です。これが本当に神様を敬っている人です。

 自分の思い通り順調にいっているときに神様を敬うことは、誰にでもできることです。だけど自分の思い通りにならない時に、人と比較し、社会と比較して、馬鹿にされるような境遇や環境を通っていることに対して「神様なんていない。」とさえ思ってしまうような状況に追い込まれたときに、本当に私たちは神様に対して、深く敬虔な心をもって認めているでしょうか。単に自分のプラスになるご利益宗教的な、思い通りに動いてくれるような存在でしか見ていないのではないか、そこを問われるのです。クリスチャンには思い通りにならないことが多くやってきます。それは、敬虔さを学ぶためです。神様を畏れるということを知るためです。

 このツァラアトに冒された敬虔な人は、確かにはじめは悩み、苦しんだでしょう。もともと敬虔な生活を送っていたのかもしれません。律法を守っていたにも関わらず、ツァラアトにかかってしまいました。「なぜなんだ」と人は理由を考えるわけです。
 人間は、何か事が起きた時に、理由を考えて、理由付けて納得しようとするのです。ありのままを受け入れることができません。ものすごく自己中心と高慢さがあるのです。
 
 神様と私たちというのは、創造者と造られた者・被造物です。この違いを理解しないと本当の神様への敬虔な心は生まれてこないのです。私がどのような生まれ方をしようが、どのように社会で取り扱われようが、神様はその道を通ることを、私たちの人生とされました。私たちの走るべき行程、その道はあなたしか歩むことのできない道なのです。このツァラアトに冒された敬虔な人のように、これが私の人生なのだと、すべてを受け入れる心こそが敬虔な心なのです。

B)キリストへの信仰
◎信仰告白 「お心一つで、きよくしていただけます。」 
 彼はツァラアトだからこそ、油そそがれた者、救世主であるイエス様との出会い、知ることができたのです。あらゆる病気をいやし、貧しい人々を励まし、囚われ人を解放するという、油注がれたものにふさわしい御業をなされているお方、その救世主とお会いできるチャンスを与えられたのです。この時代にしかイエス様は現れなかったのです。彼の敬虔さがチャンスを、神様の恵みを引き出したのです。

 彼は、いつも神様は良き神様であるという神様への期待と信頼を持っていたからこそ、イエス様に出会った時に、自分から前に行って、信仰の告白をしました。「お心一つで、きよくしていただけます。」なんと力強い信頼でしょうか。なんという希望にあふれた救世主への信頼でしょうか。これは何を意味しているのでしょうか。確かにツァラアトがきよめられる、いやされることです。でも、もっと大事なことは、ツァラアトが問題ではないのです。魂がきよめられて、そして神の国に導かれることを彼は望みとしているのです。
 私たちはこの地上に、いろんな望みを持ってしまいます。神様の御業が現れたことによってかえって天の望みを小さくして、この世で大きな働きをすることに望みを持ってしまいます。でもそれは、方向がずれかかっているかもしれません。人々が救われることが大事なことなのです。そして救われるだけではなく、救われて天国に入らないといけないのです。入る切符はもらっているけれども、この地上に生きている限り、信仰を失わずに、神様を敬い続ける心を、持ち続けることが大事なことです。いずれこの肉体は死ぬのです。何回いやされても、何回よみがえってきても、必ずこの肉体から出なければならないのです。そして、新しい体をいただくのです。私たちは、ここに唯一の希望と生きがいを持っているでしょうか。天国に対する生きがいよりも、この地上に結果を残すことに生きがいを持っていませんか。それは、世の中の影響を受けているからです。

 ツァラアトに冒された彼は、どん底の人生に落ち込みました。でも、かえってそのことが良かったのです。神様だけに心を向けるようになったからです。この世の富・名誉に心を向けるような環境ではなかったのです。ただ、神様だけという状況に追い込まれました。ツァラアトという、みじめな罪の生活から彼は、キリスト・イエスに出会うという奇跡、神様の恵みを受けることができたのです。

 あなたは人生に悩み、苦しみ、いろんな問題を持ったがゆえに、イエス・キリストに出会うことができたのではないでしょうか。そして、私たちもこのような罪人であるにもかかわらず、お心一つできよくしていただけます。お心一つというのは、イエス・キリストの愛とあわれみによってです。

 何かしたからではなく、お心一つです。イエス様のお気持ちです。「どうぞ私のような罪深い人生を、あなたの少しのあわれみで、おゆるし下さい。きよめてください。あなたはそれほどにあわれみ深い方です。」ここまで敬虔で、へりくだった心と気持ちで、ひれ伏して、信仰告白をイエス様の前にした彼の姿勢。私たちもぜひ、このような神様を畏れる心で、人生すべてを受容しましょう。
 
 もう私たちはイエス・キリストを知っているということだけで、生きている意味があるという感謝の心が、神様を畏れる心です。だから、「私のクリスチャン生活に何が起ころうとも、すべて感謝して受け入れます。」これがへりくだった心です。バルテマイのように叫び続けて再臨を待ち続ける方法もありますが、敬虔な心ですべてを感謝しながら神様を畏れる心をもってキリストの時、再臨を待ち望むということも、どうぞ考えてみてください。

2.父と呼ぶ関係(詩篇103:13)
「父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。」
A)親を敬う子ども
 親は子どもであれば、限りなくあわれみを注ぐものです。ましてや何の敬う心のない愚かな子どもであっても、親は何とか助け、支え、あわれもうとするのです。であればなおさら、親を敬う子どもであればもっとあわれみが注がれるのは当然のことではないでしょうか。
 
 神様を敬うということは、親を敬うという思いと同じであって、親を敬う心をもってキリストの再臨を待ち望むというのが、神様を敬う子どもです。

B)待ち望む子ども
 親を敬っているのならば、親の言った言葉を信じて待つということです。私の親は本当に信頼できるから、約束したことは、必ず守ってくれるに違いないと信じて待ち続けるということです。神様がいつキリストを再臨させるかは、神様のお心次第です。

 しかし、神様は必ず、この地上にイエス・キリストが私たちを迎えに来てくださると約束してくださっているわけですから、あなたが心から神様を敬い、親のように敬っているなら「父なる神様が約束してくださったのだから、大丈夫。」という気持ちで、そこに希望を持ちながら、楽しみに待ち望むということが、待ち望む子どもの思いなのです。

 神様を畏れる心で、親を心から信頼するということも、一つの神様を畏れる、敬っている現れです。そして、すべてを創造主なる神様の与えられた人生として、受け入れる。この2つのポイントから、神様を畏れる心で待ち望んでいきたいと思います。