■2018年2月25日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 悩みのどん底で待ち望む  up 2018.2.25


主題聖句(詩篇25:16〜18)
私に御顔を向け、私をあわれんでください。私はただひとりで、悩んでいます。
私の心の苦しみが大きくなりました。どうか、苦悩のうちから私を引き出してください。
私の悩みと労苦を見て、私のすべての罪を赦してください。

 

 

 

 今回から「待ち望む」というところに焦点を当てて、何回かメッセージをしていこうと思います。待つといっても、単にじっとして待つというのではなく、やって来るものを受け取るという意味の「待つ」です。私たちはどういう態度で、どういう心構えで待ち望むべきかを聖書から見ていきましょう。
 
 人生には様々な悩み苦しみが多いと言うことは色々な方々が証ししておられます。皆さんも人生は苦悩の日が多いなあと実感されているのではないでしょうか。そのような苦悩から救われたいと願ってイエス様を信じられた方もおられるかもしれませんが、クリスチャンにはクリスチャンならではの苦悩があるようです。
 
 しかし、クリスチャンであってもなくても、悩み苦しみがその人を成長させると言われています。苦悩を通して、さらに人格的にも能力的にも成長し発展していくのです。
 
 有名なフィギアスケーターの羽生選手も、昨年11月に大怪我をして、今回のオリンピックに出場できるのかどうか分からないような深刻な状況でしたが、彼はこの苦悩に負けないで、みごとに金メダルを獲得しました。このことによって、彼は単に天才的なスケーターであるだけでなく強い精神力をもった選手であるということが、ライバルの目にも誰の目にも明らかになりました。
 
 私たちも悩みや苦難を通して成長します。そういった悩みや苦難を避けてわがままに生きている人は、あまり目立った成長はできないものです。どのような世界でも悩みや苦しみを通して成熟し一流になっていくものです。そのように神の子である私たちはもともとは罪人ですから、楽して天国にいけるとは考えられませんね。
 
 私たちのこの苦悩は、神の子として成長し賢くなっていくためのもので、決して滅びるためのものではありません。この地上で終わることのない永遠の世界への準備としてこの苦悩があると思うときに、これは希望であるとわかります。マイナスがプラスに変わり、死が復活に変わることだと言えるのではないでしょうか。
 
 では今日は、苦しみと悩みのどん底で主を待ち望むということを学んでいきましょう。

1.盲人バルテマイ(マルコ10:46〜52)
「彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人の物ごいが、道ばたにすわっていた。 ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と叫び始めた。
そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び立てた。すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている」と言った。すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。」
 
 これは例え話ではなく実際に起きたことです。この出来事は単なる奇跡の記事ではありません。ここから学ぶことがあるのです。

A)バルテマイの悩み苦しみを思い見る
 主題聖句の「私に御顔を向け、私をあわれんでください。私はただひとりで、悩んでいます。」をヒントに彼の悩み苦しみを見ていこうと思います。
 
 当時物乞いをするために道沿いにならんでいる人々が沢山いました。しかし沢山の物乞いをしている人々の中で、イエス様に叫び求めたのは彼ひとりだけでした。同じような目の見えない人もいたかもしれませんが、ひとりだけ叫び求めた彼の心境を考えてみてください。
彼は生まれつきの盲人だったのか、中途で見えなくなったのかは記されていませんが、おそらく中途で見えなくなったのではと思われます。
今まで見えていた人が見えなくなるというのは、本当に大変なことです。
 
 私の母も高齢になり緑内障などで、ぼんやり光が分かるぐらいにしか見えなくなりました。食べる時に、見えないということは大変不便で、箸が使えません。熱いものが食べられなくなりました。生まれつきの方は、勘が働いて上手に食べられますが、高齢になってから見えなくなると、熱いものを持つのも手が震えるし、口元に運ぶのも至難の業でできなくなってしまいます。そして食べる時には、手で掴んで食べられる物しか食べられなくなっていました。そういう母の姿を見て、何とも言えない辛い気持ちになりました。
 
 彼も、もしかしたら途中で見えなくなったのかもしれません。その苦しみや悩みの中で、周りの人以上にひとりで苦しんでいたのかもしれません。
 
 彼は見えなくなったことで、人のあわれみにすがってしか生きていけなくなりました。しかも無視されることも多かったでしょう。エリコの町は大きく、物乞いする人も多かったはずだからです。
 
 彼はもしかしたら、以前はしっかりと働いていて、プライドのある人だったかもしれません。そのようなあわれむ立場から逆転して、人にあわれんでもらわないと生きていけなくなるという境遇に、どれだけ苦悩していたことでしょうか。その苦しみを思い見るときに、多くの人は同じような境遇に置かれると、もう駄目だと諦めて落ち込んでしまうかもしれません。まして医学も福祉も発達していない時代です。彼も諦めかけていたかもしれません。

B)ナザレのイエスと聞いて叫び始めた彼の心を思い見る
 その時の彼の心を考えてみましょう。見えていた時に持っていた自尊心が、見えなくなり、人のあわれみでしか生きていけなくなったことで、粉々に砕かれていたはずです。

 しかし、もう一度元に戻りたいという気持ちがどこかに残っていたのでしょう。そしてもう一度元の生活に戻れるとしたら、このナザレのイエス以外にはないと思い、その最後のチャンスにかけたのです。どん底から唯一希望を見いだせるとしたら、人ではなく神しかありません。
 
 神に叫ぶ時は他に助けがないというぎりぎりの時で、本当に砕かれた時です。御利益的な神への叫びは忍耐がないので、すぐにあきらめてしまいます。しかし、彼は砕かれたことを通して、聖書にしるされている預言である救世主に心から叫んだのです。
 
 今の時代、心から神に叫ぶ人は少なくなっています。しかし、その中で神を求める人はよほど心砕かれ苦しんでいる人でしょう。
バルテマイは心砕かれてイエス・キリストを叫び求めました。

C)イエス様がすぐにお答えにならなかったのは何故?
 彼の叫びは聞こえたはずです。しかも余りに激しかったので、周りの人々が大勢でたしなめたとあります。彼にはこの一度しかチャンスがないという覚悟で叫び立てたのですから、大変な勢いだったはずです。

 しかし、イエス様はしばらく答えられませんでした。この状況のイエス様は、あわれみ深いイメージのイエス様とは違う気がしないでしょうか。もし、こういった態度を牧師がとったら、何人もつまづくはずです。イエス様は彼の叫びを聞きながらしばらく無視されたのです。
 
 この状況が続いた後、イエス様は「呼んで来なさい。」と命じられました。ご自分から行かれたのではありません。私たちは祈っても祈ってもなかなか答えられないときがあります。これはあわれみに関係するところです。
 
 イエス様はバルテマイをあわれんでおられなかったのではありません。ただ、この人は本当にあわれみが必要だということが分かり、あわれみが心に満ちてこられるまでの時間が必要だったのです。
 
 特別な奇跡としるしをなされるにはイエス様のお心にあわれみが満ちる時間が必要だったのではないでしょうか。
 
 彼がどんなに大勢の人々に押さえつけられても、なお叫び続けたことで、イエス様のお心にあわれみが大きくなり満ち溢れたのではないでしょうか。ですから、皆さんが祈る時、神様の御心があわれみに満ちたら、必ず応えてくださるはずです。

D)イエス様の質問には、どのような意味があるのか?
 「わたしに何をしてほしいのか。」という質問です。現代であったら、もしかしたら、目が癒されるよりもお金が沢山あったら大丈夫だからお金がほしいと答えるかもしれません。
 
 しかし、バルテマイにとっては、目が見えればもう一度働くことも出来るし、人生を生きる意味と目的と価値を見いだせるという願いしかありませんでした。
 
 私たちの祈りはもしかして、楽になりたい、楽をしたいという動機が隠れていないでしょうか。そういう隠れた動機は砕かれた心にはないはずですが、御利益的な祈りには、自分が楽して生きていきたいという動機が働いていますから気をつけないといけません。
 
 クリスチャンはイエス様を信じて救われて罪から解放を受け罪に勝利することが出来るようにされたのですから、病人が癒されて健康になったらもっと働くぞと意気込むように、罪から救われ解放されたら、もっと隣人を愛してみことばに生きていこうという意欲に燃えるはずです。楽して生きようとは思わないはずです。
 
 もっと愛のために労苦しようという意欲が湧き上がってくるのが、神の愛により新生したクリスチャンのしるしです。
 
 今もしあなたがクリスチャン生活に悩み苦しんでいるなら、もっと悩んで、「ダビデの子イエス様、私をもう一度あわれんで神の子として回復させてください。そして私はこの生涯、隣人をあなたのおことば通りに愛し、価値ある生き方をしたいのです。そのためにどうか私をあわれんでください!」と心砕かれて叫び祈ってください。これがバルテマイを通して気付かされることです。
 
 楽して生きたいというのは世の中の考え方です。この世の労苦があるからこそ、神の国で楽しめるのです。こんなクリスチャン生活でいいのかと疑問を持つ時こそ、バルテマイのように、真剣にイエス様に祈る時です。そして、イエス様が言われた質問に対して、バルテマイが目が見えるようになることですと答えたように、あなたも見えるようになりたいという信仰告白をしてください。イエス様の質問は信仰告白を導くためでした。
 
 イエス様にはお出来になりますという、望んでいる事柄を確信する信仰告白です。私たちも祈りの中で神様には出来るという信仰告白をすることが大切です。
 
 今週バルテマイの置かれた環境、状況から彼の心を想像し、自分自身の心の叫び、神のあわれみを本当に真剣に求めているのかどうか、叫び続ける祈りをあげているかどうかなど、考えてみてください。まずは叫び求める祈り方があるということを知ってください。

 

 

 

 

 

■2018年2月18日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 深いあわれみ  up 2018.2.18


主題聖句(士師記2:18〜19)
「主が彼らのためにさばきつかさを起こされる場合は、主はさばきつかさとともにおられ、そのさばきつかさの生きている間は、敵の手から彼らを救われた。これは、圧迫し、苦しめる者のために彼らがうめいたので、主があわれまれたからである。しかし、さばきつかさが死ぬと、彼らはいつも逆戻りして、先祖たちよりも、いっそう堕落して、ほかの神々に従い、それに仕え、それを拝んだ。彼らはその行ないや、頑迷な生き方を捨てなかった。」

 

 

 

 死者のよみがえりを神様に私たちが願い求めるのは、イエス様の建てられる教会が「ハデスの門もこれに打ち勝つことはできない」とある通り、死の力を打ち破る教会、復活の力を現す教会が、キリストが再臨されるために必要な条件だからです。キリストが生死を支配しておられるお方であることのしるしとして、私たちも神の前にそれを約束として求めていくべきであると思います。死に打ち勝つイエス様の福音が、2千年前と同じように現代の教会にも、主がよみがえられたことの証となるように、私たちはそれを期待していきたいと思います。
 今日は士師記の2章の18節19節を見てまいりましょう。偉大なリーダーのモーセが召された後、ヨシュアを後継者として選ばれた神様は、ヨシュアの後に戦いのリーダーを立てられませんでした。カナンの地を占領して12部族にそれを分け与えた後は、それぞれの部族がその地を統治するようにされたようです。
 しかし、イスラエルの民はカナンの地の偶像を礼拝するようになり、主から心が離れていくということが起こってしまいました。
 神様は、カナンの地に入ったら彼らと契約を結んではならない、カナン人と結婚してはならない、交わってはならないと、モーセとヨシュアには注意を与えておられましたが、そのリーダーたちがいなくなると、イスラエルの民はその土地のものと妥協しはじめたのです。戦うより楽だったのです。
 その世代は主を知らない世代であったと聖書に記されています。エジプトを出た時の主の大きなみわざを見た世代は死に絶え、主のみわざを見たこともなく、それが神話のようになった者たちの世代となっていました。彼らは主を知らないので誘惑にとても弱かったのです。
 神様の本当の願いは「万民祭司」、すべての聖徒は神の前に祭司であり、神に仕える者であるということでした。それはキリストを信じる者たちの上に成就するのですが、エジプトから出てきたイスラエルの民は、占領したカナンの地で、それぞれが神への信仰をもって神を愛し仕えるのではなく、自己中心の欲求を捨てきれないで、神に従うよりも見えるリーダー(さばきつかさ)に従いました。
 さばきつかさに従っている時でさえも心の中では自分の欲望を捨てていないというような、神の民としては中途半端な姿勢であったように記されています。
 ここで注目したいのは「彼らがうめいたので」とあることです。彼らのうめきは、目の前の苦しみや目先の圧迫から楽になりたいと、心底悔い改めるという気持ちのないご利益的なうめきでした。そこまで神を畏れる心が堕落してしまっていたのです。それでも主は彼らをあわれまれました。なんと大きなあわれみでしょう。
 神様があわれみ深いがゆえに本心からの悔い改めができない彼らをなおもあわれみをもって生かされる。それは将来、心から悔い改める時がやってくることを信じて、かたくなな民の現状を受け入れられたという意味です。将来にチャンスを残しておられるのです。
 しかし、これを繰り返すと、無知で自己中心でご利益的な人は「うめいたら神は助けてくれる」という習慣がついて、神を畏れる心から離れてしまうということも神様は知りつつ、そこで民を根絶やしにすることをなさいませんでした。もしここでイスラエルが根絶やしにされたら、イエス・キリストはお生まれになりません。全世界の人々の救いのご計画のためにイスラエルは必要な民でありますから、寛容と柔和と赦しをもって神は受け入れられたのです。
 言うなれば、私たちのために、神は頑迷なイスラエルを我慢されたのです。あなたのためにです。あなたを通して救われる人々のために、あなたの頑迷な生き方を忍耐しておられるのかもしれませんし、あなたが真の悔い改めに至るのを待っておられるのかもしれません。日本の人々が、広島の人々が、救われるために神はここで忍耐されたのです。将来に神の計画が成就するために今の現実を忍耐をもって見逃し、あわれみをもってその民をなおも助けられるという神様のお気持ちを、私たちはしっかり心に留めて教訓としましょう
 私たちはいつまでも「主よ、助けてください。主よ、この苦しみから私を助けてください。」と言ってご利益宗教的な祈りを続けることがないように、大人になりましょう。主を畏れる正しい良心が必要です。自己中心の肉の良心では、神のあわれみを利用して自分の欲を満たしていくような愚かな状況に陥ってしまいます。
 この世の中はどういう世界でしょうか。偶像崇拝の土地にイスラエルが入っていったように、クリスチャンもキリストを信じてこの暗闇の世界で光の歩みをするという霊的に同じ環境があり、クリスチャンにはいつも葛藤があります。
 経済社会は欲望をかき立てる誘惑の社会です。裏にはいつも悪魔と悪霊の支配があると言えるでしょう。まじめに熱心に献身的に生きよう、みことばに素直に従おうと思えば思うほど、圧迫と苦しみを受けます。少しでも楽になるためには、何か言い訳を作り、そこで妥協してしまうのです。
 もう一つは完全に勝利しきることです。ただ、イエス様でさえ罪を犯さない勝利の人生であったにもかかわらず、苦しみと叫びの生涯でした。葛藤は勝利につながるものとしてイエス様は歩まれましたが、私たちは勝利を「楽になること」と勘違いし、ボクシングのように何回戦もあると、もう戦うのが嫌になります。しかし、相手を完全に倒すまで戦い続け、勝ち続け、最後に栄冠を得るのだという気持ちを失ってはなりません。
 うわべだけのご利益的な不信仰な人々のうめきでも、神様はあわれんで聞いてくださる可能性もあるわけですから、このような世界の中で戦い苦しみ続け、真剣に祈り悩むクリスチャンの真実なうめきにはもっと神様はあわれんで聞いてくださるに違いありません。
 ただ、ご利益的な祈りでもあわれんでくださるといって、それを繰り返していたら問題が起こります。肉の思いがそこに安住してしまいます。だからこの教訓を通して、私たちはどうすればいいのでしょうか。
 奇跡的な神様の働きに対して気付いた人、イエス・キリストを信じて世界観、価値観が変わり、心が180度変わるような救いの体験をした人は、主を知っています。主を知った人は必ず主を畏れます。主を知っていない人は主を畏れることがわかりません。
 主を知るためには困難を通ります。イスラエルの民はエジプトから出るために10の奇跡を見ました。出てからも紅海を渡る奇跡、荒野では水と食べ物の奇跡を体験しました。困難の時にこそ、まことに生きておられる主を知る体験をしたのです。
 私たちも親からの証しや人から聞いた奇跡の話は、主に心を向けるきっかけではありますが、主を知ることには至っていないのです。辛いこと苦しいこと困難があるとき時こそが、主を知る大事な時であり、主を畏れる心がそこにしっかり刻まれていくのです。
 癒しも死者の復活も、単なる私たちの希望や期待ではなく、今こそあなたの栄光を現してくださいといううめきであり、動機はただ一つ、神の栄光です。
 一人の伝道師が召されたというマイナスをどうプラスに変えることができるか、マイナスという死の状態をどのように復活というプラスに変えることができるのか、私たちの信仰はそこにかかっているのです。マイナスで終わらない、神は死で終わらないお方、よみがえりの主、復活の主です。
 もし私たちが祈ったからよみがえったという錯覚をもったなら、自分で栄光をとってしまい、そんな心が残ってたら神は絶対そんなことはされません。まだまだ私たちはきよめが足りないということです。  復活に対する栄光は神のみがとるべきです。神のあわれみはなんと大きいことかと人々が神に栄光を帰すためです。
 よみがえるか、よみがえらないかは神様のお心一つですが、私たちのうめきが神様の心を少しでも動かされるきっかけとなれば、それはすばらしいことであります。復活に期待をかけて神のあわれみを求めていきましょう。

 

 

 

 

 

■2018年2月11日 日曜礼拝メッセージより(辻和希伝道師、横路伝道師)

 キリストのあわれみ2  up 2018.2.11


主題聖句(ガラテヤ1:4)
キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。

 

 

 

1.悪の世界から救い出そうとあわれまれた
【辻 和希伝道師メッセージ】
(マタイ9:36)
「また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。」
A)羊飼いがいない
◎羊飼いがだれかわからない
B)弱り果てている
◎迷いの中にある
◎周囲に影響され、振り回されている
 
 今週も、肉体を持たれたイエス様のこの地上でのあわれみを見ていきましょう。イエス様は公生涯に入られて、数々の奇跡と癒しを行われました。その噂はまたたくまに広まり、イエス様の歩まれるところどこでも、多くの人であふれていました。
 5千人の給食の奇跡からもわかるように、その数は数千人単位だったことでしょう。そんな群衆は、イエス様には“羊飼いのない羊”に映りました。
 羊は、群がり、先導者について行くという習性があります。自ら目的地に向かうことができないので、正しく道を示す役目が必要です。それが羊飼いです。
 なぜイエス様には、群衆が羊飼いのない羊のように映ったのでしょうか。それは正しく進むべき道を見失い、あらゆる人間的な手段で救いを得ようとし、しまいには弱り果ててしまっていたからではないでしょうか。
 
 私たちにとって、羊飼いはイエス様です。しかし現代において、イエス様をまだ見出せていない人が多くいます。または、違う羊飼いに付いて行ってしまっている人が多くいます。ご利益宗教に何万円も支払う人がいるのです。人生に疲れて、自ら命を絶つ人がいるのです。イエス様のあわれみの眼差しはこのような人々に向いています。
 
 かつて、私たちも人生の荒野をさまよっていましたが、イエス様という羊飼いを見つけることができました。私たちも、イエス様と同じように、まだ真の羊飼いを見つけられないでいる人々のために、祈りましょう。イエス様の御心と私たちの願いを合わせていきましょう。わたしたちもあわれみを受けたのですから。アーメン。

2.ご自分のいのちを捨てるほどのあわれみ
【横路伝道師メッセージ】
(ヨハネ15:13)
「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」
A)罪人を友として受け入れている
◎友としたいほどのあわれみ
 イエス様は私たちを友と呼んでくださり、私たちのために尊い命を捨ててくださいました。本当に大きな愛を注がれていることを感謝します。
 罪人である人々を友として受け入れられたことは、イエス様の生涯の中にたくさんありました。取税人や遊女等、罪人と言われている人の友となってくださいました。また、病気の人や、人々から疎外されている人の所に行かれ、温かい交わりをされました。どうしてこのような罪人を友としてくださるのでしょうか。
それは、イエス様の大きなあわれみによるものです。なぜ、このようにあわれんでくださるのでしょうか。
 神様は、私たちの成り立ちをすべてご存知です。私たちが元々ちりから造られたもので、罪や問題を起こしてしまう弱いものであることをよくご存知なので、それを受け入れてくださるのです。
 私たちは、罪の世界の中で生きていて、悪い方に引っ張られてしまう弱さがあります。まるで羊のようです。サタンが私たちを滅ぼそうとして誘惑し、偽ってきます。そのような中で誘惑に負けずに生きることはとても難しいことです。ですから、イエス様は私たちをあわれんでくださり、放っておけないと思われて、十字架の贖いを成し遂げ、救いの道を用意してくださいました。このことを感謝します。

B)信じることができない状態の者を信じる大きな愛
◎利害を考慮に入れない、むしろ損を覚悟のあわれみ
 これは、親がどんな状態の子どもであっても、自分の子を忘れることができないという気持ちです。
 放蕩息子のお話しがあります。どうしようもない弟息子ですが、お父さんは心配して毎日弟息子が帰って来るのを待っていました。親は、利害は関係なく、子どもの失敗を出来たら全部おおい、かばってあげたいと思うものです。神様は私たちをそのように思ってくださっているのです。
 人を愛し赦すという時に、3つのパターンがあると聞きました。一つ目は、「〜だから愛する」という愛です。2つ目は、「もし〜なら愛する」という条件付きの愛です。3つ目は、どんな状態であっても「でも、愛する」という無条件の愛です。あらゆる負債を身代りに負う愛です。
 私たちは神様からこの無条件の大きな愛を受けています。このような者をも子として愛し、赦し、そのままで受け止めてくださるイエス様なのです。私たちが正しいから、救われるのではなく、無条件で、心を主に向けるならその人を救おうと、あわれみを与えてくださるのです。

【デボーション参考ポイント】
★隣人を生かすために自分のいのちを用いる
(ガラテヤ1:4)
「キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。」
 イエス様は、隣人を生かすために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。
 「いのちは時間である」と、日野原重明先生が言われました。人が生れるといのちを与えられます。その人には人生といういのちの時間が与えられたことになります。
 今、私たちにも時間が与えられています。この時間をどう用いていくかを問われているのだと思います。このいのちの時間を何のために使っているのでしょうか。もったいないことのために時間を、いのちを使っていないでしょうか。一番素晴らしいのは、隣人を生かすために、時間を、いのちを用いることです。
 隣人を生かすために時間を使うということに、関心を持つ必要があると思います。何もできないと思われる方も、祈ることで、自分のいのちを、時間を使うことができます。これは尊い働きです。
 また、だれかの心に寄り添ってあげるということも、それはいのちの時間を共有することです。ほほえみかけることや、優しい言葉をかけること、優しい手を差し伸べること等、私たちにもできることがあります。互いに関心を持ち合い、何らかの形で関わりを持って寄り添っていくことを増やしていきたいと思います。
 隣人を生かすために自分のいのちを用いるとは、時間を用いて、神様の恵みを人々にに分かち合うことだと思います。そのような一週間としていきましょう。

 

 

 

 

 

■2018年2月4日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 キリストのあわれみ  up 2018.2.4


主題聖句(ローマ5:6)
私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。

 

 

 
 先日は父のあわれみ、親の愛について、伝道師の先生方が語られました。父と子の関係で結ばれる愛は「決して忘れない」という愛です。父として神は私たちを手の平に刻んだと言われています。それは、決して忘れることはないし、何かあったら手をにぎるように私たちを危険から守ってくださるという意味です。
 また、先々週「神のあわれみ」で語ったように、ぶどう園の主人が5時から雇った人にも、朝から雇った人と同じ金額の賃金を払ったことから、主人は雇い主という立場からというよりも、ただこの遅く雇われた人々へのあわれみによって心動かされており、このあわれみこそが神様のみこころであることを学びました。
 神のあわれみ、父のあわれみと、同じ神であってもそのあわれみの対応の仕方は異なります。それは主人として、父として、そして今週学ぶキリストとしての違いです。キリストは救い主、救世主としてのあわれみを示してくださいました。
「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。」(ローマ5:6)
 ここにキリストとしての弱い者、不敬虔な者へのあわれみが示されています。

1.不敬虔な者へのあわれみ(ルカ23:34)
「そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。 」
 このような祈りを十字架でささげられているイエス様のそばで、その高級な着物をくじ引きしている兵士たち。死に直面に苦しんでいる人の前で、その人の持ち物を自分の物にしようと画策している不敬虔な人々、イエス様はなぜこのような人々のために赦しを請う祈りをされたのでしょうか。

A)無知な神への背信
◎幼子は、自分が何をしているのかわからずに動く。
 イエス様はすべてをご存知でした。しかし、彼らはイエス様のことも、これから何が起こるのかも、さらに自分たちの行いがいかに不敬虔であるかも全くわからない、無知ゆえにこのようなことをしているのだと、彼らの無知をイエス様はあわれみ、とりなして祈ってくださったのです。無知とは幼子です。何をしているのかわからずに行動しているので、しつけなければなりません。そんな幼子の無知な状況はあわれむしかありません。

B)あわれみによる赦し
 無知ゆえにあわれみによる赦しを与えられました。
◎赦すとは、未来を与えること。
◎赦さないことは、ピリオドを打つこと。
 裁くとは結論を出すことで、その未来はありません。しかし、例えどんなに背信の状況があっても、無知だからという理由がわかったら私たちはあわれみをもって受け入れて、正しい知識を得て無知でなくなり悟りを持てるようにと願いをもって赦します。
 義も救いも滅びも何もわからない私たちのために、イエス様は救いの道をまず備えてくださいました。私たちが悔い改めたので、イエス様が地上に来られたのではなく、私たちがまだ無知で幼くて、罪も義も救いも滅びも全く理解していない状況の中に、まずイエス様は私たちをあわれんで、どんな人でも救いを得ることができるようにと、まず備えの救いの道を開いてくださいました。信じることが出来ない状況の地上の人たちを信じて、まず救いの道を備えてくださったのです。これが救い主の罪人へのあわれみであり、不敬虔な者をあわれむことが救世主の務めなのです。

【デボーション参考ポイント】
★不敬虔な者をあわれむことが救世主の務め
 罪人を救うとは罪人をあわれむことであり、イエス様は十字架で死ぬことを目的としてお生まれになり、33年間のご生涯を歩まれました。
 キリストにとって務めは救いであり、その動機はあわれみでした。それゆえ無知な罪人に対して常にあわれみの心を向けられましたが、無知でない人々、律法を理解している律法学者やパリサイ人に対しては厳しく接せられました。
 彼らは律法を理解していても感情的にイエス様を救い主と認めたくありませんでした。本当は聖書通りであると知っており、そのためのしるしがいくつもあるのにもかかわらず、自分たちの立場を守り、救い主にその地位を奪われたくないという妬みからイエス様を受入れませんでした。それゆえイエス様は彼らをあわれまれませんでした。そして、彼らに対しては裁きのことばを語られました。彼らの不敬虔は知識で知っていてもそれを認めようとしない不敬虔であり、無知の不敬虔とは違います。しかし、無知であるゆえの不敬虔はあわれみをもって赦しが与えられるのです。

2.弱い者へのあわれみ(ヘブル4:15)
「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」
A)弱さを知っているから
◎肉体を持っていることの弱さを経験している。
 イエス様はただ同情するだけではなく、 同じようなことを経験している者として共感して同情してくださるのです。しかし、罪との戦いや葛藤はあったとしても、罪は犯されませんでした。私たちの肉の弱さ辛さを理解するために、イエス様は肉体をもって地上に来てくださいました。その弱さが最も明らかに示されたのが、イエス様のゲッセマネの祈りです。
 私たちの弱さ、特に死に束縛されるというすべての人が逃れられない死の恐怖の体験をイエス様はゲッセマネでしてくださいました。これは非常に大切な意味深いことです。
 イエス様も私たちと同じ肉体の苦しみを経験されました。しかし私たちはイエス様ほどの罪や死に対しての肉体的、霊的な戦いは経験していません。イエス様は汗が血のようにしたたるほどの極度の精神的な衰弱と圧迫とに陥られたのです。それほどの肉体の弱さの中でも、父なる神の前にしっかりと祈られました。弱さを出すことは罪ではありません。弱さのゆえに引っ張られて行動して、その弱さから逃れようとしてしまうことで罪を犯してしまいます。
 クリスチャンは悩み続けてこそ健全なクリスチャンと言えます。一切悩みがないというのは嘘です。この地上で肉体をもっている限りは悩みを持ち続けます。それはきよい良心を与えられたからです。きよい良心における内なる葛藤を無視してはいけません。それから逃げようとしないでください。その葛藤を経験することで、自分の弱さを認め受入れ、神のあわれみ父のあわれみ、そして救い主キリストのあわれみを受け、そのあわれみによってこそ生かされているという敬虔なへりくだった悟りの心をもつことが、神様の願いなのです。

B)弱い者の魂の叫びを知っているから
◎神のかたちに創造された人の本性からの叫び
 イエス様のゲッセマネの祈りは単なる感情的なものではなく魂の叫びでした。
 「この杯を去らせてください。」とは、受入れたくないという魂の叫びでした。これは個人的な存在としてのイエス様の弱さであり、本当に心砕かれた人しか悟れない領域です。プライドが少しでも残っているとわからない領域です。
 私たちは自分の存在を支えるためにプライド、自尊心を持っています。譲れない自尊心を持っています。それは自分が無であるちりに等しいということを覆い隠す隠れたプライドです。なきに等しいとは人間にとって一番の恐怖なのです。ただ神の愛だけを受けるために私たちは造られたのです。
 人はルシファーのように美しくもなく、ルシファーのように楽器を巧みに奏でられるわけでもなく、ルシファーのように9つの宝石を持つわけでもなく(宝石とは尊い賜物を表します)、ただちりで造られました。しかも誘惑に負けて罪に束縛されてボロボロになった雑巾のようなものです。ボロボロになった雑巾は誰も惜しみません。そういう私たちに唯一価値を与えるのは神のあわれみの愛だけです。もったいないからではなくただあわれみを受けるために、神は私たちをあわれみの器としてお造りになられました。それゆえちりで造られたのです。ただ神の愛とあわれみ以外に誇るところがないようにです。極端に言えば神を信じたら百点満点で、拒んだら0点というように、造られたのです。
 私たちの本能的な魂の叫びは、こういう神のきよい愛という本性を神のかたちとして内に持っているからです。それゆえ「自分はなんて弱いのだろう。」と叫ぶのです。それは神のかたちの本性があなたの内に宿っているからです。その悔しさや惨めさを癒せるのは神の愛とあわれみだけです。
 本当に神の愛とあわれみを知るのは、そこまで心が惨めな状況になってこそで、その惨めさの中で初めて、十字架でこんな私のために命を捨てて罪の赦しを与えてくださったという、その大きな犠牲の愛が分かるのです。
 あの5時に雇われた人たちのように、誰も雇ってくれないこんな自分を雇ってくれるのかという主人の愛に感動し、また反抗して親の財産を湯水のように使い果たしてしまった息子を決して忘れずに思い続け祈り続け待ち続けてくださった父のような神の愛を悟るのです。
 キリストは私たちの本性の魂の叫びを知っておられたのでご自身を犠牲にして、私たちに救いの道を開いてくださいました。
 イエス様はあわれみ以外持たれません。無知な罪人の私たちをあわれみの目でしか見られないのです。それが救い主としての存在です。
 今まで学んできた創造主なる神様の愛とあわれみに心を向けて今週も過ごしていきましょう。

 

 

 

 

 

■2018年1月28日 日曜礼拝メッセージより(辻和希伝道師、横路伝道師)

 父のあわれみ  up 2018.1.28


主題聖句(詩篇103:13)
父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。

 

 放蕩息子のたとえ話より(ルカ15:20〜24)
「こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。」
 
【辻 和希伝道師メッセージ】
1.旅立った弟息子への父の愛
 今週も父なる神様のあわれみについて学んでいきたいと思います。
 今週は、有名な例え話である放蕩息子から見ていきましょう。
 ある人に二人の息子がいて、そのうちの弟の方が、父から財産の分け前をもらって、家を出、放蕩し、何もかも使い果たしたあとでききんにあい、我に気づいて、父のもとに帰るというストーリーです。
自分勝手に行動した弟でしたが、父は、その弟の帰りをずっと待ち続けており、赦し受け入れたのです。この父の姿こそ、天の父なる神様のあわれみほかならないのです。
 
 さて、この物語にはもう一人登場人物が存在します。放蕩した弟のお兄さ んです。この兄も、父から財産を受け取っていました。(12節)そして、弟が帰って来たとき、兄は畑にいました。(25節)
 このことから、兄は、父の家督を継ぎ、与えられた地を管理していた、とても真面目な人だということが想像できます。しかし、放蕩した弟のために、祝宴が開かれることを快く思わなかったのです。
 
 父と兄の違いは一体何でしょうか。それは弟への関心の度合いです。
父は、弟がまだ家まで遠くだったにもかかわらず、息子を見つけました。それほどに、いつも弟息子に関心を寄せていたのです。そして、それは、兄息子にも同様に関心を寄せていました。(31節)
 一方で兄は、真面目に家を管理はしていたかもしれませんが、関心が 自身のみにあったように思います。
 
 教会生活を送るクリスチャンは、初めは弟だったかもしれませんが、次第に兄のように、自身のクリスチャンライフや、教会行事のことばかりに関心が行きがちです。しかし、父なる神様は、この物語の父親のように、すべての人に関心を持たれています。
 私たちの教会にも、まだ帰ってきていない弟が、家族が、同胞がいます。父なる神様の関心は、そこにもあります。
 私たちも、自分の関係あるものにだけでなく、父なる神様と同じものに関心を向けていきましょう。関心を持つことから、あわれみにつながっていくのです。

【デボーション】
神と罪人の私たちとの関係に適用してみましょう。

【横路伝道師メッセージ】
2.帰ってきた息子を喜ぶ父
A)大祝宴を開くほどの喜び
 弟息子の帰りを待ちこがれていた父は、これほどまでに喜ぶかと思うほどの喜び方をしています。そして、みんなで喜んで欲しいと祝宴を開きました。祝宴を開くとは、一人で喜ぶのではなく、みんなでその喜びを分かち合うことです。「急いで〜しなさい。」とお父さんは言いました。神様も私たちを急いで祝福したい、急いで良い物を与えたいと願っておられるということです。

 喜びが爆発したようなこの父の喜びはどこから来るのでしょうか。それは、失われた息子に対して非常に関心を持っていたということです。弟息子が財産をもらって出て行った時には、父の心はとても痛んだと思います。生きているうちに財産を分けるということは、父を無いものとして考えているということです。それほど父に対して無関心で、自分のことしか考えていなかったのです。しかし親の方はそうではありません。苦しんで悲しんで泣いたと思います。そして祈り続けたと思います。ですから、帰って来た時に喜びが爆発したのです。
 
 私たちも色々な苦しみがありますが、苦しみが大きければ大きいほど、その祈りが聞かれ、問題が解決した時には爆発的な喜びがやってきます。恵まれている時よりも、本当に痛み、悩み苦しんで求めている時に、祈りがきかれ、癒されるなら、喜びが爆発します。今苦しい時であっても、やがて神様が祝福をくださると期待して待ちましょう。神様は祝福したいのです。たくさん祝福したいのです。急いで祝福したいのです。そのためには、この弟息子のように帰っていくということが必要です。
 
 放蕩息子の話の前に、2つの例え話があります。1つは、100匹の羊を飼っていて、そのうち1匹がいなくなり、さがしに行くお話です。その羊が見つかった時、大喜びでかついで帰り、友だちや近所の人たちを呼んで祝宴を開くと書いてあります。同じように、女の人が銀貨を10枚持っていて、もしその1枚をなくしたら、あかりをつけ、家をはいて、見つけるまで念入りにさがさないでしょうかとあります。見つけたら、大喜びで、友だちや近所の女性を集めて、一緒に喜んでくださいというでしょう、とあります。それは、失った大切なものに対して強い関心があるものであるということです。
 それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです、と書いてあります。もし、誰かが神様の元に立ち返ったなら、この父親がものすごく喜んだように、天においても喜びの声がわき起こるというのです。そのくらい、神様も天の御使いも、失われた魂に対して関心を持っておられるのです。

B)死人がよみがえったほどの喜び
 この弟息子は、父を捨てたと同然で家を出ました。もう帰ることのできない状況を自分で作ったのです。帰れるはずがなかったのですが、そこに帰って来るとはどういうことでしょうか。父の所には、パンのあり余っている雇い人がたくさんいました。豊かな父がいるということに気がついたのです。私たちも、愛の豊かなすばらしい神様が私たちを本当に愛してくださっているということに気がついたのです。その気付きが大切です。父親は、死んだと思っていた息子が帰って来て、その命が回復したのを見て大喜びしたのです。

【デボーション】
神と罪人の私たちとの関係に適用してみましょう。
 神様は、今の私たちの心を見られます。この弟息子は、父を無視して自分勝手な放蕩の生活をしましたが、その過去があっても、今は帰ってきました。今が大切なのです。神様は今を大切にされます。過去に生きているのではないのです。私たちの心が今神様に向いているかどうかを見ておられます。過去を責めるのはサタンであり、自分のプライドでしょう。神様は今を見て喜んでくださいます。
 汚い姿で帰って来た弟息子を、父は抱いて口づけしました。その心を見たのです。悔い改めて帰って来るその心を神様はとても喜ばれます。
 
 また、共に喜ぶことの大切さを思わされました。この礼拝も共に喜ぶ形です。一人で喜ぶのではなく、共に喜ぶことが大切です。
 マザーテレサがノーベル平和賞をもらった時に、ロールスロイスがプレゼントされました。最高級の車ですが、マザーテレサはそれを売り払って貧しい人々に分け与えました。
 また、ノーベル賞をもらった人には素晴らしい晩さん会が用意されるのですが、彼女はそれを断り、そんなお金があるなら私にくださいと言って、そのお金で貧しい人たちを集め、なんと2千人のディナーをしたそうです。一人で喜ぶよりも、共に喜ぶ、その方が素晴らしいということを、彼女は私たちに教えてくれていると思います。
 神様の喜びは、一人の魂が救われることです。昨年、7人の方がこの教会で救われました。天で喜びがわき起こったのです。私たちも喜びましょう。
 私たちが祈っている方々が、それが長ければ長いほど、苦しければ苦しいほど、癒された時の喜び、救われた時の喜びがどんなに大きいでしょうか。そして今を感謝して、神様と共に歩んでまいりましょう。

 

 

 

 

 

■2018年1月21日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 神のあわれみ  up 2018.1.21


主題聖句(マタイ20:1〜14)
天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。
彼は、労務者たちと一日一デナリの約束ができると、彼らをぶどう園にやった。
それから、九時ごろに出かけてみると、別の人たちが市場に立っており、何もしないでいた。
そこで、彼はその人たちに言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当のものを上げるから。』
彼らは出て行った。それからまた、十二時ごろと三時ごろに出かけて行って、同じようにした。
また、五時ごろ出かけてみると、別の人たちが立っていたので、彼らに言った。『なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。』
彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』彼は言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。』
こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』
そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。
最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。
そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、
言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』
しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。
自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。

 

 

 

 キリストのあわれみを待ち望む一年を歩んでいく中にあって、今週は「神のあわれみ」という題をつけております。
 「ただ、私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです」(14節)という御言葉に表わされた神のあわれみの心を、今日は見ていきたいと思います。1節から14節まで全文をお読みください。
(マタイ20:1〜14)
 「天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。彼は労務者たちと一日一デナリの約束ができると、彼らをぶどう園にやった。それから、九時ごろに出かけてみると、別の人たちが市場に立っており、何もしないでいた。そこで、彼はその人たちに言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当のものを上げるから。』彼らは出ていった。それからまた、十二時ごろと三時ごろに出かけて行って、同じようにした。また、五時ごろ出かけてみると、別の人たちが立っていたので、彼らに言った。『なぜ一日中仕事もしないでここにいるのですか。』彼らは言った。『誰も雇ってくれないからです。』彼は言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。』こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。自分の分を取って帰りなさい。ただ、私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。」

1.5時になっても雇用を待ち続ける人のことを思いみる
A)彼らの苦悩を思いみる
 市場では仕事をさがしている人に雇用主が声をかけて、一日いくらという条件を言って、一日の仕事に雇ってもらえるという習慣が当時あったようです。一日とは朝の6時から夕方6時までです。また、6時、9時、12時、3時という時間はユダヤ教では祈りの時を意味する時間でもあります。
 5時になっても誰にも雇ってもらえず、それでも雇ってほしくて市場で待っていた人たちの心境・状況を考えることは、神様のあわれみを待ち望むことのヒントとなります。
 彼らは遊ぶお金が欲しかったわけではないでしょう。たとえ一時間でも働かなくてはならない切羽詰まった事情があったと思われます。 更に、働きたいという意欲がありました。しかし、仕事に適した条件を満たしているようには見えなかった。それで雇ってもらえず一日中仕事もしないで市場にただ立っていたという人たち、もうあわれみによって雇われるしかない人たちであります。
 彼らを見たぶどう園の主人はかわいそうに思ったでしょう。働きたいのに仕事がもらえないという辛い気持ち、そこに主人のあわれみの心が出てくるということです。

B)神のあわれみを待ち望むことへの適応
 クリスチャンの一番の悩みは、神への信仰、信頼はあるのだけれど、結果を出せない、結果が伴わないことではないでしょうか。いうなれば雇ってもらえずに夕方の5時に市場に立っている人々ですね。
 雇ってもらうには雇ってくれる人の要求・条件に応えていないといけないのですが、5時の人たちに対しては条件はありません。雇ってあげましょう、ついてきなさい。信じるだけです。そして、彼らの賃金は朝から一日働いた人たちと同じ1デナリでした。朝から働いた人たちは、彼らと自分を比べて計算し、たくさん働いたのに…と文句を言いました。
 朝から働いた能力ある者たちに渡された1デナリは契約による当然の報酬でした。そして能力も才能も体力もない5時からの者たちに支払われた1デナリは、「同じだけ上げたいのです」という主人のあわれみによる恵みの1デナリなのです。頂いた者たちは、どれほど喜び感謝したことでしょう。どれほどあわれんでくださったかがわかれば、感謝と喜びがあふれてくるのです。
 神のあわれみを待ち望むことへの適応として、私たちはどう考えたらいいのでしょうか。
 私は何もできていない、他の宗教の人より出来が悪いかもしれない、神様に愛されているということに対する神様の愛を信じる心構えはしっかりもっているけれども、意志の弱いところがある、年齢的にも精神的にも不安定なところがある、他の人よりも弱々しいし、クリスチャンとしてふさわしくないかもしれない、自信がない、劣等感に心が縛られている、すべての人から見捨てられた、そういう心の人に神様のあわれみの心が起こるというのです。
 能力のある人は働けば当然の報いとして神様から報酬を受けることができます。ですから、能力のある人は一生懸命、神様の愛を信じて、仕事を通して主の為に能力や才能を用いてください。天において大きな報いがあります。
 しかし、神様の愛を信じていても結果を出せない人、その人は真剣に悩み苦しみ、それでもあきらめず神様を信じ続ける、その真実な神を信頼し期待する心を神はあわれんでくださって、報酬としてではなく恵みとしての報いを天において与えてくださるのです。 
 弱い者にはあわれみを、力ある者には報いを与える、救いにおいては平等です。これが神様のお考えです。
 もし、あなたが自分を卑下してクリスチャンとしてふさわしくないという結果を、自分のクリスチャン生活の中に見ているならば、それであきらめないでください。神様のあわれみを待ち望んでください。 5時まで待ち続けて、雇われないと私はもう生きていけないというそんな切羽詰まった心の真剣な神への気持ちを持ち続ければ、神はあわれんでくださるのです。一日働いた人と同じ賃金を恵みによって与えてくださる、永遠のいのちへと入れてくださる、神様はそういうあわれみ深いお方なのです。
 私たちの心がいかに真剣に自分のクリスチャン生活を悩み苦しみながら神様の愛を信じ続けていけるか、そのような人々に神のあわれみは注がれるということであります。 

2.最も多くあわれみを受けたのは何時に雇われた人?  
A)雇われた時間とあわれみの関係を考える
 5時に雇われた人には、あきらめずに真剣になおも求め続けるという飢え渇きの心、「1コドラントでもいいから雇ってください」という必死の求道心が感じられます。求める心を捨ててはいけません。自分の能力や結果を見て判断するこの世の『行いによる義』という考え方を捨ててください。神様は結果よりも求める心(求道心)に、あわれみを注いでくださるのです。

B)一日の労働と5時まで待ち続けたことは同じ賃金なのはどうしてですか?
 朝の6時から働いた報酬としての1デナリと、夕方5時に雇われて1時間、あわれみによる1デナリ、あなたはどちらを選びたいと思いますか。楽をして働かずして1デナリもらった方がもうけもの…と考える人は雇ってもらえませんし、あわれみも注いでもらえません。神はその人の心を見られる方ですから。そういう計算をする人は真剣に神様を敬うことはできません。
 与えられたものを十分に用いる。朝6時から働ける能力のある人は、それを十分に用いる。そして報われる。9時、12時、3時、それは能力の差、力量の差かもしれません。しかし、与えられたものをしっかりこなすことが大切な報われる理由です。働かせていただいたというへりくだった心があれば当然、1デナリあげたいと思われるでしょう。
 5時に雇われた人、あわれみを受ける人というのは自分の能力を全うする以上に、内面的な神への真実な心を持っている必要があるといえます。朝6時から12時間の労働の価値と、夕方5時に雇われた人の苦悩と、同じ価値を主人は見出したということです。5時まで待っても仕事がもらえなかったという心の労苦が、あわれまれる条件となり、「1デナリ」となったのです。
 「私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。」——すべての人を同じ永遠のいのちへと導きたい、という神様のお心に、私たちが感謝をお捧げしたいと思うのは当然の気持ちです。「礼拝しなければならない」「日曜日に教会に行かねばならない」と、縛ってしまわないように気を付けてください。すべては神のあわれみによって今、自分があるということを感謝しましょう。
 出来ていなかったら悩んでください。その悩みは、神様のあわれみがあなたに向けられる大きな条件となるのです。あきらめたり開き直ったりしないでください。
 悩み続ける、それはきよい良心があるからです。行いが出来ていない、でも神様を愛して神様の愛の内を歩みたい、という飢え渇きを持ち続けてこの生涯を歩むときに、神は私たちを5時に雇ったものとみなして下さり、1デナリをいただけるわけです。「救い、永遠のいのちを同じようにいただける」そんなとらえ方をしていただいたらいかがでしょう。

 【デボーション参考ポイント】
 神のあわれみについてもう一度考える1週間としましょう。
 自分がいかに罪深いものであるかに気づいて、神のあわれみの素晴らしさに気づいて、感謝していきましょう。 

【俳句】
 主の慈愛   万両よりも   確かなり

 万両の木は常緑樹で厳しい寒さの中でも緑の葉をつけ赤い実を熟させますから、お正月の縁起物として喜ばれます。縁起をかつぐより、神のあわれみを待ち望む方が確実に祝福の実をもたらしてくださいます。神様の愛に信頼して、神のあわれみを受けて神の愛を知っていくクリスチャンとなりましょう。

 

 

 

 

 

■2018年1月14日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 邪悪な良心のきよめ  up 2018.1.14


主題聖句(ヘブル10:22)
そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。

 

 

 

 「心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ」とあります。邪悪というのは、ゆがんだ考え方をすることです。良心とは、全人格的意識で、車のハンドルのようです。
 クリスチャンは、いったん良心がきよめられていますが、また邪悪さが出てきます。それは、車のフロントガラスが汚れてしまうようなもので、正しく運転することに支障をきたします。

 同じように、私たちの心に罪汚れがつくと、良心が鈍ってしまい、古き性質が表れてきてしまいます。もし古き罪の性質のしっとやねたみやゆがんだ考えが内から出てきているなら、それは良心が汚れてきているという状況です。

1.そのようなわけとは?
(ヘブル10:19〜20)
「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。」
 生ける道を設けてくださったとは、神様に近づく道をイエス・キリストが準備してくださったということです。
 神様と私たちの間には、近づくことができない大きな壁がありました。旧約聖書では、神殿の至聖所の手前の垂れ幕があります。これは人間では取り除くことのできない罪の壁です。罪の壁を取り除くためには、罪のための贖いが必要でした。人間は罪を犯しているので人間の血ではそれを取り除くことができないので、罪のないお方がこの地上に来られました。だからおとめマリアからイエス様は生まれる必要があったのです。私たちは自分の罪のために死にますが、イエス様は私たちの罪を取り除くために命の犠牲を払って十字架についてくださいました。
 「大胆にまことの聖所に入ることができるのです」とあります。罪を犯したから、神様の前に行くことができないという考えは、ノンクリスチャンの時の考えです。今は、罪を犯してもイエス様の血によって、大胆にまことの聖所に入ることができます。そこで、とがめを持って礼拝に出ることがないように、悔い改めることが必要です。そのためにはへりくだることが必要です。
 このようにして、イエス様の血によって神の前に大胆に出ることができるということが、「そのようなわけで」ということです。これは、知識だけではなく、感情にも意志にも、イエス様の血潮に象徴された愛を感じ取ることが必要です。

2.それでどうなりましたか?
A)心に血の注ぎかけを受けた
 「イエス・キリストが私の罪のために十字架にかかって全ての罪を神様の前に償い、贖ってくださった。それによって私は罪を赦されている。」と、このことを信じ受け入れた人に、「心に血の注ぎかけを受けた」と言われています。血の注ぎかけは、愛の犠牲の血潮なのです。つまり、愛を受けたという意味です。愛を受けることが、心に血の注ぎかけを受けたという意味なのです。

B)邪悪な良心がきよめられた
 神様の純真な愛が、私たちのくもった良心をきれいにクリアにしてくださるのです。私たちも、友人や親の愛、家族の愛を思いみると、私たちの良心はきよくなるのです。愛を思い出すことが、心をきよくする方法です。人の愛でも良心をきよくする力があるなら、神様の愛であるイエス・キリストの十字架の愛そのものを象徴したみわざは、どれほどに私たちの良心をきよくすることでしょうか。いつも愛を思い起こして、いつも良心をきよめていきましょう。

3.からだをきよい水で洗われたとは?
(ヨハネ15:3)
「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。」
 何ができているか、できていないかではなく、イエス様のおことばを受け入れる人はきよいということです。
 弟子たちをきよいと言ってくださったのは、イエス様の話されるおことばを素直にそのまま受け入れたという点だけでした。ほかの行いは以前と変わりませんでした。イエス様のおことばを信頼したので、きよいと言われたのです。
 あなたも、イエス様のおことばをそのまま受け入れるなら、きよいものとされるのです。なぜなのだろうと考えるのはいいのですが、信じられないという、疑う思いを持ってしまうと、きよくなくなってしまいます。
 みことばが私たちをきよいものとしてくださいます。イエス様が私たちに話されたことばによって、私はもうきよいのだと受け入れることです。

4.それからどうするのですか?
A)全き信仰を持つ
(詩篇19:13)
「あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。」
 邪悪な心の一番の根本は、傲慢の罪からであるということです。傲慢の罪から守ってくださいと祈りましょう。特に上に立つ者は、傲慢にならないように気をつけましょう。傲慢の罪が、あらゆる邪悪な良心へと私たちを汚してしまうからです。
 「それらが私を支配しませんように。」とあります。支配されてしまうと逃れられないからです。一時傲慢な感情や態度になってしまうことはありうることですが、そのまま傲慢さがずっと心を支配し続けないようにということです。なぜなら、天使ルシファーが堕落してサタンになってしまった一番の原因は、傲慢の罪だからです。私たちも、傲慢から神様に対する愛の姿勢が堕落してしまうということが起こりうるので、この傲慢の罪から守り、それに支配されないようにといつも謙虚に祈ることが必要です。それが、全き信仰を持つ姿勢です。

B)真心から神に近づく
(ヤコブ4:8)
「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。 」
 神様は私たちに近づこうという気持ちと、その近づくための全ての手はずを整えてくださっています。ただ、私たちが神様に近づくという意志決定と、それに伴う行動がなされない限り、神様の方は近づくことができないのです。なぜなら私たちが逃げて行くからです。
 神様は、二千年も前から私たちに近づきたいと、イエス・キリストとしてこの地上に来られて罪の贖いをなされたのです。もう近づいてくださっているのです。あとは私たちが近づくかどうかです。私たちがそれに気付かずに好き勝手にしていますが、神様は色々と工夫し、イエス様の元に私たちが行くように導いてくださっているのです。人生の悩みを通して、イエス様の元に引き寄せられ、今私たちはここにいるのです。神様はいつも私たちに近づこうとしてくださっています。あとは、私たちが、神様に近づきたいと決意し、神様に近づくという行動をとることが大切です。 
 イエス・キリストの再臨は、神様の方から近づいてくださることです。イエス様にお出会いするために、全き信仰を持って、真心からイエス様を待ち望んでまいりましょう。

【デボーション参考ポイント】
 みことばを行ってみましょう。
 
【俳句】
雪女でも  イエスの血で  きよくなる
 
 季語は雪女です。雪女とは、ひねくれ者なので、邪悪な良心を象徴してみました。ひねくれた邪悪な心の人でも、イエス様の血できよくなることができるのです。

 

 

 

 

 

■2018年1月7日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 うちなる準備  up 2018.1.7


主題聖句(第2テモテ2:21)
ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。

 

 

 

 今年のテーマは「キリストのあわれみを待ち望む」(ユダ1:21)であります。これからの私たちの10年間のクリスチャン生活を再臨に備えていくことで、世の終わりにおける私たちの生活を神の前に整えていきたいと思います。
 
 今週は第2テモテ2章21節から、内面的に霊的に心を整えるということを見ていきます。
 特に「自分自身をきよめて」とあります。「きよめ」には私たちのするべき「きよめ」と、神様がしてくださる「きよめ」の二つがあります。両者が合わさって私たちの人生が建て上がっていきます。今週は「内なる準備」として、私たちのするべき「きよめ」を見てみたいと思います。

1.内側のきよめ
(へブル9:14)
「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」
 要約すると、キリストの血潮が私たちの良心をきよめるということですが、まず皆さんに、良心がきよめられることの大切さについて知っていただきたいと思います。

A) 良心とは?
 良心とは道徳的判断をなし、自己の行為、心情にかかわって正善を意志、命令し、悪を悔い退ける全人格的意識です。
 私たちの様々な決断判断は良心という心の部分で行っていて、車でいえばハンドルのように方向を決める大切なものです。良心は、私たちの魂の未来を左右する全人格的意識の部分、それが狂うと人生も狂ってしまうというような大切なものです。

B) 良心をきよめる大切さ
(第1テモテ1:19)
「ある人たちは、正しい良心を捨てて、信仰の破船にあいました。」
 信仰とは霊的な原則であり、望んでいることがらを確信するための心の状態であります。明るい未来、前向き肯定的な将来に対する良い思いを持ち、「そうなる」と信じ切ることのできる心の状態を、「信仰」と説明することができます。
 
 神様は私たちを造り愛してくださっている良き神様で、どんなに私たちにとって悪いと思うことが起きても、神様はそのことも益と変えてくださるお方、いつも未来に良きことをもたらしてくださるお方であると、神様のご人格、神様の愛に対する信頼を持つ心、それが私たちの信仰です。
 
 神様を信じているにも関わらず、未来がよくなると信じることができないのは、「正しい良心を捨てる」ということになります。
 
 私たちの主キリストを送ってくださった神様は、私たちが永遠の地獄に行くことのない様に、私たちの罪を贖うために大事なひとり子を犠牲にされた、それほどの愛を私たちに向けておられるお方が、どうして私たちが滅んでしまうような災いをもたらすことがあるだろうか。災いは私たちが永遠の命を得るために神がそれをあえて認められた私たちのプロセスの一つである、というふうに神様を信頼していく前向きな良い心の思いを捨ててしまうと、「信仰の破船」即ち、未来を良いものととらえることが出来なくなり、「もう自分はだめだ、できない」と否定的になり積極性をなくしてしまいます。
 
 あなたの人格的な面がキリストの御姿に近づいていくということに対して信仰を捨ててはいけません。聖書のお言葉は真実ですから昨日も今日もいつまでも変わることのない神のお言葉です。私たちが神の愛によって救われて、キリストと同じ姿に変えられていく、それは難しいことです。しかし、やり方、原則は変わりません。今まで聞いてきたことを繰り返していけばキリストの姿に変えられていくのです。神様のお言葉にだけ素直に従っていけば変わっていくのです。
 
 そのようにあなた自身の内面の改革、新しくされていくという良い思いを、明日に明後日に10年後に持つこと、それが信仰なのです。まだ実現していないことを望みつつ、それに向かって進んでいく、その歩みに対して神の助けがある、良き神様が常に心を配ってくださっていると信じて明日に対する良い思いを持ち続ける、それが聖書の言う信仰です。
 
 未来に対する良い思いを持つことができないような、そういう心をもっていたら、信仰の破船にあいます。未来をよく思うことができなくなって壊れてしまいます。
 あなたが神の愛を信じキリストを信頼しているのなら、イエスにあって明日を希望あるものとして信じていきましょう。

(へブル10:22)
「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」
 神のきよさ、ご人格、徳の高さ、イエスキリストの御姿に近づいていくためには、血の注ぎによってきよめられた良心からの信仰を働かせることが必要です。心に血の注ぎを受けて、神は良きお方と信じて歩むことが神に近づく方法なのです。
 
 今の自分を見てだめだと思ってはいけません。今自分はこんなに罪を犯しているから、キリストの姿に近づくことは信じられないと思うのは、あなたが自分の力でやろうとするからです。神が私たちをきよくしてくださるのです。私たちのすることは、ただ信じる、信じて明日に向かって歩んでいくことなのです。
 
 きよくしてくださるのは、神のみ言葉の働きです。失敗だらけの弟子たちに「あなたがたは私の言葉によってすでにきよいのです」とイエス様は言われました。神のお言葉についていっているから「きよい」と言われたのです。
 
 あなたも神の言葉についていっていますね。できるかできないかという結果を考えず、とにかく神のお言葉であるイエス・キリストについていっていれば、キリストのような姿に造り変えられるのです。これが神様の御業です。私たちのすることは、愛を信じて、み言葉についていくことなのです。
 これほどに、内側(良心)がきよめられるということは大切なことなのです。では、一体何が私たちの内側をきよめるのでしょうか。                        

2.内側をきよめるもの
(へブル9:22)
「それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、といってよいでしょう。また、血を注ぎだすことがなければ、罪の赦しはないのです。」

A) 罪を贖う本物の血潮
(へブル9:12)
「また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」
 旧約聖書の律法による「血」とは動物の血でありましたが、罪を贖うことのできる「本物の血」はキリストの十字架で流された血潮でした。人々は律法を守って動物の血を流してきましたが、しかし礼拝する者たちの良心をきよめることはできませんでした。では、イエス様が来られて本物の血が流されましたが、2千年経った今、私たちはその血を振りかけられることはできません。イエス様の血とは何のことでしょうか。

B) 愛している証拠としての血潮
(エペソ5:2)
「また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。」
 
 イエス様は、私たちの罪が赦されるため、身代わりにさばきを受けたしるしとしてご自身の血を流されました。私たちを愛して、ご自分のいのちを犠牲としてくださいました。イエス様のこの隣人愛が「香ばしい香り」として神の前に立ちのぼったので、裁き主なる神様は怒りの心を静めて、イエス様の死をもってすべての人の罪を赦されたのです。
 
 隣人のために、隣人が永遠の命を得るために、あなたがあなたのいのち、時間を使うなら、それが愛の香りとして立ちのぼり、あなたが罪びとであっても、神様の心には裁く心よりあわれむ心が湧いてくるのです。

 他の人の罪を赦しなさい、そうすれば神はあなたの罪も赦してくださいますと、聖書に言われています。他の人の罪を赦すとは愛の犠牲を払うことです。そこに愛の香りが立ちのぼります。赦せないような苦しい状況なのに赦すという愛の香りをかがれて、神様はそれまでのその人のすべての罪を赦そうと思われるのです。
 
 私たちの内側をきよめるものはキリストの私たちへの愛、その愛を信じ受け入れると私たちの心はきよくなるのです。
 私たちのすることは信じ受け入れること、神様のなさることは信じ受け入れた人の良心をきよめることです。するべきことと、してくださることを分けて考えてください。神があなたをきよめてくださり、きよめてくださる神の愛を受け入れるのは、あなたのするべきことです。

【デボーション参考ポイント】
(第2テモテ2:8)
「私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者のなかからよみがえったイエス・キリストをいつも思っていなさい。」
 
 キリストの再臨の時まで、いつもキリストを思うことが、神への信仰であり「内なる準備」です。神は良き方で、いのちを捨てて罪の贖いとなってくださるほどに私を愛してくださっている、これが土台なのです。この土台の上に日常の生活があるのです。

 神に愛されている妻として、神に愛されているビジネスマンとして、物事を考えていけば、それが「いつも、キリストを思う」ことになるのです。再臨の日まで、キリストをいつも思い続けていきましょう。

【メッセージメモ】
  
 『秀麗皓潔』(しゅうれいこうけつ) 
  少しの汚れもなく、気品があって美しい様子。

   秀麗=すぐれていて美しいこと
   皓潔=汚れがなく、きよらかなこと

 キリストの『秀麗皓潔』に惹かれ、憧れ、目指したいと願う
 クリスチャンでありたい。

【俳句】

 聖日は 心にいつも 春衣きる

 おめでたい新年のお正月には、きれいな着物を着たくなります。私たちは一年中、毎週日曜日に神様のお言葉を聞いて新しくされ、心にキリストの春衣を着ますという意味でもあります。新しい一週間の始めは、きよらかな心をもって歩めるように、出発にあたって心だけでなく服装にもきよらかさを現していく、それも一つの準備の現れだと思います。