■2017年12月31日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 キリストの再臨に備えて  up 2017.12.31


主題聖句(第2テモテ2:20〜21)
大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。また、ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用います。
ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。

 

 

 

 2018年のテーマは「キリストのあわれみを待ち望む」です。みことばはユダ1:21の「神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。」です。
 待ち望むという、未来に対しての期待と希望を、一年を通じてお話していきます。
 
 新しい一週間のテーマは「キリストの再臨に備えて」です。キリストの再臨に備えていこうということを、これから10年の大きなテーマにしていきたいと思います。

1.大きな家の器
(第2テモテ2:20〜21)(みことばは前述)
 今週は、自分自身を聖めて、主人に有益な尊い器となるということを焦点とします。

A)大きな家
 神の御住まい、神の国、教会に例えられている。
 どの家にも色々なことに用いる器があります。神の国もそのように、全員が同じことに用いられるのではなく、器ごとに使い方を神様が考えておられます。それぞれの器を用意しておられるのです。

B)器と素材
  器 → 神様が使用するもの。人。
 素材 → 器の特徴、個性。
 器は私たち自身です。飾りの器は飾りらしく用い、食器は食器として用います。何を入れる食器であるかも考えておられます。
 また、素材が違うものもあります。金、銀、土など、これは一人ひとりの個性として捉えることができます。それぞれに特徴があります。例えば金は密度が高くて重たいですが、柔軟性があります。神様は全ての人をそれぞれの特徴をもって備えておられるのです。

C)器の使い方
 皆さんは、家で器の使い分けをしておられるでしょうか。それぞれの用途に合った器があります。
 大きく分けて二つの使い方があります。尊い用い方と卑しい用い方です。有名な焼き物や高価な器は、尊いことに用いようと考え、特別なお客様用に使います。少々割れてもすぐ買い換えることができるようなものは、普段使いの器にし、昔はよく、古くなってくるとペットの餌入れにしたりしました。
 そのように、器の価値により、尊いことに用いたり、卑しいことに用いたりします。

D)使い分けの基準
 神様の使い分けは、どこに基準があるのでしょうか。「だれでも自分自身をきよめて、これらのことを(悪・罪)離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。」とみことばにあります。すなわち、聖めがポイントであって、金・銀・土という素材の価値の違いがあったとしても、神様が尊いことに用いようと思われる基準は、どれだけ聖いものであるかどうかであるということです。
 金でできた器でも、汚れていたのでは使い物になりません。木や土でできた器でも、きれいで衛生的であれば、使うのにふさわしい物として、尊いことにも使うことができます。
 神様の尊いと感じられるものは、聖いか聖くないかだというのです。あなたの素材が価値があるかないかではないのです。どんな家で育ったか、能力があるかないか、姿や形は関係ありません。取るに足らないと思えるものでも聖ければ、神様は尊いことに用いてくださるのです。
 何ができているか、どんな能力があるというよりも、神様が聖いと見てくださるなら、尊いことに用いてくださり、主人に有益なもの、間に合うものとなり、生かされるのです。
 金銀でできた器であっても、さびてきて棚の奥にしまって使われないなら、存在していて存在していないのと同じで、生かされていないということです。たとえ、紙でできている紙コップでも、使い捨てとして非常に便利であると、主人にとって有益なものとなる場合があるのです。神様にとって、間に合う有益なものとなっているかどうかが大事なことです。

2.自分自身をきよめる
(ルカ11:37〜41)
「イエスが話し終えられると、ひとりのパリサイ人が、食事をいっしょにしてください、とお願いした。そこでイエスは家にはいって、食卓に着かれた。そのパリサイ人は、イエスが食事の前に、まずきよめの洗いをなさらないのを見て、驚いた。すると、主は言われた。「なるほど、あなたがたパリサイ人は、杯や大皿の外側はきよめるが、その内側は、強奪と邪悪とでいっぱいです。愚かな人たち。外側を造られた方は、内側も造られたのではありませんか。とにかく、うちのものを施しに用いなさい。そうすれば、いっさいが、あなたがたにとってきよいものとなります。」
 新改訳聖書では、ギリシャ語のきよめという言葉を日本語で表現するために、2種類のきよめがあります。ひらがなで「きよい」と記されている所は「きれいにする・掃除をする」という意味で、もう一つの「聖い」と記されている所は、「神聖・神のきよさ」を意味し、神に属してこそ得られる聖さを表わしています。
 (第2テモテ2:21)の、「自分自身をきよめて」とは、自分自身の汚れを取り去ってという意味です。「これらのことから離れるなら…聖められたもの」とは、聖なるもの、神聖なものとなったという意味の「聖め」です。

A)「外側と内側のきよめ」の意味とは?
 ここではパリサイ人への批判をイエス様がしておられます。外側をきれいにしても、内側が強奪と邪悪という汚れでいっぱいであると言われています。
 器の大事なことは、外側以上に、入れ物として内側をきれいにしておくことです。内側が汚れていると、その中に入れるものと混ざり合ってしまい、純粋なものになりません。外側も大事ですが、それ以上に内側をきれいにすることが大事です。
 人として、外側と内側は何を意味しているでしょうか。「そのパリサイ人は、イエスが食事の前に、まずきよめの洗いをなさらないのを見て、驚いた。」という所が、外側の部分です。
 内側とは、心の中です。心の中が邪悪と強奪でいっぱいであるなら、神様の聖い純粋な愛が混ざり物となってしまって、それは使い物にならないものになってしまいます。
 神様は外側だけでなく、内側も創られました。私たちの心の動きは、基本的に神様によく似ています。神様が感情をお持ちなので、私たちにも感情があるのです。
 しかし、神様の怒りと人の怒りとは違います。神様の怒りは義を全うするための悪に対する怒りです。「主はあわれみ深く、情け深く、…怒るのに遅い」とあります。神様が怒っているならば、自分も怒っていいのではないかと、怒りを義とすることのないように気をつけましょう。そこには完全なお方と、不完全な被造物という違いがあるということを認めて、感情の起伏を義としないように気をつけましょう。

B)うちのものを施しに用いることがなぜ「きよめ」になるのか? 
「とにかく、うちのものを施しに用いなさい。そうすれば、いっさいが、あなたがたにとってきよいものとなります。」
 私たちの心が与える隣人愛に満たされているならば、その隣人愛から出たものは全て聖いものとして、周りの人々がその聖さの影響を受けるということです。
 内側を聖めるとは、内のものを施しに用いることです。すなわち隣人愛の心を持って全てのことをしていけば、いっさいがあなたがたにとって聖いものとなるという意味です。
 愛し続けるということを通して、心のゆがんだ人が少しずつ癒されていくという話を聞きます。神の聖さは、自己中心ではなく、愛を流し出していくことです。神様が流し出してくださった愛によって、私たちは罪から離れることができるようになり、聖くされました。聖い神様に触れて、汚れた私たちが聖いものとなりました。
 同じように、私たちも聖い愛の流し出しをしていくなら、まわりの人々もあなたの聖い愛によって聖いものとなっていくと考えることができます。内のものを施しに用いることがなぜ聖めにつながるのか、自分自身でも考えてみてください。
 
 このようにして、神様にとって役に立つもの、有益なもの、良いわざに間に合うものになるということが、キリストの再臨に備えることであるということが、今日のみことばのポイントになります。

【デボーション参考ポイント】
 キリストの再臨に備えて、重要なことはなんでしょう。
 イエス様が来られる前に、自分は何を備えていけばいいのかということを考えてみましょう。

【俳句】
年越せば  ぐんと近づく  主の再臨
 ぐんと近づくとは、キリストの再臨にいちだんと近づいてきているという意味です。それくらいの気持ちで、キリストの再臨に備えていきたいと思います。

 

 

 

 

 

■2017年12月24日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 人は愛があってこそ人である  up 2017.12.24


主題聖句(第1コリント13:1〜3)
たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。

 

 

 

 人生はすべて、救い主をお遣わしになった愛なる神様が導いてくださっているのだということを思いみる一年として歩んできました。途中どんなに道を外すようなことがあったとしても、最後は必ず愛のゴールへと導いてくださっているのです。
 
 このみことばの「人の異言や御使いの異言で話しても」とは、どんなに言葉数を並べてもという意味でしょう。
 「たとえ預言の賜物を持っており…」とは、例え能力や才能、超自然的な力、信仰心など、人から尊敬される立派なものを持っていたとしても、愛がないなら何の値打ちもありません。 
 そして、「私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ何の役にも立ちません。」とあります。ここで語られている愛とは、特別な愛のことを指しています。それは人の愛ではなく、聖い愛のことです。すなわち、「神を敬う聖い愛がなければ」ということです。愛がなければ、人は人ではないのです。人が人としてそこに存在しえるのは、愛があってこそなのです。
 
 例えば、あんぱんに、あんではなくジャムが入っていたら、それはあんぱんでしょうか。それはすでにジャムパンですね。たとえあんぱんの形をしていても、中身が違えば、違うパンになってしまいます。中身で何パンかが決まります。
 人の中身は何でしょうか。もし人の心に欲望が満ちていたら、それは人とは言えません。ただの動物です。しかし、神の聖い愛が人の内にあれば、その人は人と言えるのです。なぜなら、人は神の形に似せて創られたとあるからです。あんぱんの形にはあんを入れるように想定して創られたように、人は愛の神の形に、愛を中に入れるようにと創られたのです。私は動物的な生き方をしていたと思い当たることがあれば、ぜひ心を入れ替えてください。

1.人は聖い愛の上に建て上げられる
(第1コリント8:1)
「次に、偶像にささげた肉についてですが、私たちはみな知識を持っているということなら、わかっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。」

A)知識を持つことの利点
 知識があればあるほど良いことがあります。色々なことを正確に判断し、決断していくことができます。知識のない者が決断すると間違いが多くなります。

B)知識を持つことによって起こる問題
 知識は人を高ぶらせるとあります。知識によって比較し、正しい回答を出そうとします。比較するところに問題があります。知識は人を高ぶらせ、人を低く見て、さばいたり、ねたんだり、しっとしたりする心を引き出してしまうという問題点があります。
 この知識を、良いものとして使うか、悪いものとして使うか、どこで決まるのでしょうか。知識は根本的には良いものですが、私たちの心のあり方、中身によって、良いものにも悪いものにもなりうるのです。

C)知識と愛の関係を、家を建てることにたとえて考える
 知識は、立派なきれいな家かもしれません。愛は、その家を支える土台にあたります。何も問題がない時は、土台があるかないかわかりません。しかし、自然災害にあうと、しっかりとした土台の上に家が建てられているか、そうでないかがわかります。
 私たちも、何も問題がない時はわからないのですが、問題が起こった時に、あわてふためき、最初は神様と言うけれど、神様を待っていたら手遅れになると思って自分で何もかもやってしまうということがあるのです。
 土台が据えられていなかったために、他のものに頼ろうとしてしまう心の動きがあります。本当に神様に信頼し、神様に人生が支えられているということを感じ取り、感謝して歩んでいるかどうかは、その時にわかるのです。
 神様は、あなたを新しくしてくださり、中身も入れ替えてくださり、あなたの人生をもう一度やり直させてくださいます。今までの過去を清算し、神様の愛を信じてキリストを受け入れ、愛を土台とした人生に作り変えていただきましょう。

2.キリストの御降誕とは?
A)ルカ2:28〜32
「すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。『主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。』」
 神殿にいた年老いた預言者のシメオンという人が、ずっと救い主を信じて待ち望んでいました。彼は救い主を目の前に見るまでは死ぬことがないという約束を与えられていました。そして、赤ちゃんのイエス・キリストが神殿に来た時に語った言葉です。
 イエス様が生まれたことにより、シメオン自身が救われたと心に安心を抱きました。更にこの救いは、「万民の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光」であると預言しました。
 まさにこの言葉通りに、イエス・キリストは、世界中の暗闇の中で悩み苦しんでいる人々に希望の光として、一人ひとりの人生を導きました。信じなかった者は暗闇の中で過ごし続けました。光を望むか、暗闇を望むか、聖い愛を望むか、欲望の愛を望むか、それぞれの人の心の考え方によるものですが、神はキリストを通して、失望している人に希望の光をもたらすものとして、救いをもたらされました。行き詰まった人生だと感じているならば、キリストは希望の光として、あなたを救いへと導きます。

B)第1コリント3:10〜11
「与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。」
 人生を建物としてたとえています。イエス・キリストは、見えない神様の愛を、見える形でこの地上に歴史に残された方です。確かに神は人を愛してくださっていて、その愛がどんなに大きいのかを証しするために、イエス・キリストはこの地上で見える愛をお示しになりました。あなたが自分の罪のためにさばかれないといけないさばきを、イエス・キリストが身代りに十字架でお受けくださいました。そのことによって、救い主を信じる者は、罪のない者として認めてくださるという救いを与えてくださいました。
 完全になってからではなく、不完全な時に救われて、完全に進んでいくというのが神様のお考えです。
 私たちを天国へ推薦してくださるために、イエス・キリストがこの地上に来られました。それがクリスマスです。

【デボーション参考ポイント】
 聖い愛という真理を元に、徳が高められているだろうか?
 
【聡明剛毅】(そうめいごうき)
 道理、真理に通じ、心が強く屈しないこと。

 罪の働きかけに屈することなく、聖い愛という真理によって心を強められましょう。

【俳句】
 愛求む  心に聖夜  おとずれる
 
 神の愛を求める人生へと、一歩踏み出していきましょう。

 

 

 

 

 

■2017年12月17日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛による人間関係  up 2017.12.17


主題聖句(ローマ12:18)
あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。

 

 

 

 良い人間関係とは、両者の間に平和が保たれている状態です。平和とは、関係作りの中で生み出していくものです。人間関係が悪くなると争いになってしまいます。どのように平和を生み出していくのか、見てまいりましょう。

1.良い人間関係の基本
(コロサイ3:13)
「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」
 
 このみことばは、良い人間関係のすべてと言っても過言ではありません。良い人間関係の基本は「互いに愛し合いなさい」ということですが、その一番目に来るのがこの「互いに赦し合う」ではないでしょうか。主はまず私たちを赦してくださいました。罪人であるにも関わらず、その罪を赦し愛してくださいました。私たちも互いの間に平和を保つには、赦すという心が大切です。

A)平和を保つために、「赦し」を選ぶ
 平和こそ人間関係に対して大事なことだと思うなら、赦しということをまず選ぶことです。赦す心を備えていなければ平和を保つことができません。赦せない心は争いに発展してしまいます。平和を保つことが大事だということのゆえに、「赦していこう」という決心と意志を働かせることが大切です。

B)赦しを選ぶために、神から赦しを受けていることを思う
 私たちは、神様から赦しを受けて今があります。神様に多くの迷惑をかけて、非常識なことをし、理不尽なことをしているにも関わらず、神様は寛容と柔和をもって、十字架の贖いのみわざを通して、赦し受け入れてくださっているのだということを思い起こし、まずは赦せない感情を静めることが必要です。平和のために、意志的に神様の赦しに心を向けることによって、赦しを選ぶ準備ができます。

C)神からの赦しを思うために、神に愛されていることを思う
 人は愛されているということがわかると、心が大きくなります。特に大きな愛によって支えられていると、寛容と柔和が不思議に生まれてきます。例えば兄弟げんかをしていても、母親が自分を愛してくれているとわかると、赦してあげるという気持ちが湧いてきます。「私は大きな神様の愛に支えられているのだ」と気付くことです。ただ単に赦されているのではなく、その赦しは神様の愛から出ているのだと、その愛に心を向けることです。

D)神に愛されていることを思うために、十字架を見上げる
 一番の根本はここにあります。平和を大事にするために赦しを選び、その赦しを選ぶために、まず自分が神様に赦されていることを知り、その赦しは神様の愛によって十字架であらわされ、本当に自分は創造主なるお方に愛されているのだ、ということを知ることです。この大きな愛に支えられていることを知ったら、平和を保つための赦しの心が湧いてきます。これは一つのパターンであり、そう簡単にいくとは限りませんが、この流れの繰り返しを通して、神様の愛の中にとどまった考え方、生き方をすることが習慣づいてきます。ぜひチャレンジしてみてください。
 あと一週間でクリスマスです。クリスマスは、神様が私たちに愛を注いでくださっている証拠として救い主を送ってくださった日なのだと、神様の愛に目を留めて、クリスマスを迎えていきましょう。

2.人をさばいたり量ったりしない
(マタイ7:1〜2)
「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」
 
 量るというのは、評価するという意味です。良いか悪いか、私たちは無意識のうちに主観を持っていて、人を量ったりさばいたりします。それをなくすことは難しいと思いますが、相手に伝わらないようにすることが基本です。伝わるから争いが起こるのです。自分の内だけにとどめておくならば、内なる葛藤として、相手を傷つけることがありませんからまだましです。しかし、自分の心を治めるため、さばいたり量ったりしないために、心がけることがあります。

A)人とは一体何者なのか?
(ヤコブ4:11〜12)
「兄弟たち。互いに悪口を言い合ってはいけません。自分の兄弟の悪口を言い、自分の兄弟をさばく者は、律法の悪口を言い、律法をさばいているのです。あなたが、もし律法をさばくなら、律法を守る者ではなくて、さばく者です。律法を定め、さばきを行なう方は、ただひとりであり、その方は救うことも滅ぼすこともできます。隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか。」
 
 さばいたり量ったりすることができるお方はただ一人、神様だけであると自分に言い聞かせることが必要です。パウロは人もさばかないけれど、自分自身もさばかないと言い、さばきは全て神がなされることだと心から神様を畏れ、敬虔な心を持って過ごしていました。さばきを神様にゆだねるということです。自分は一体何者なのか、出過ぎたことをしないという思いを忘れないようにすれば、さばく心や量る心、怒りを少しは静めることができるかと思います。私は人をさばけるような者ではないと、謙虚な心で感情をおさえることができるのではないでしょうか。

B)ブーメラン現象
 自分のことばを持って相手をさばいたり評価したりすると、それが自分に返ってくるということですが、蒔いた種は刈り取るということです。

1)人から
(マルコ4:24)
「また彼らに言われた。「聞いていることによく注意しなさい。あなたがたは、人に量ってあげるその量りで、自分にも量り与えられ、さらにその上に増し加えられます。」
 
 ブーメラン現象というのは、良いものを相手に蒔くと、良いものが返っています。悪いものを蒔くと、ただ返ってくるだけでなく2倍3倍になって返ってくることが多いのです。自分のさばいたその言葉で、自分もさばき返されるということを覚えておきましょう。

2)主人である神から
(ルカ19:22)
「主人はそのしもべに言った。『悪いしもべだ。私はあなたのことばによって、あなたをさばこう。あなたは、私が預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取るきびしい人間だと知っていた、というのか。』」
 
 これは世の終わりにおける最後の審判をあらわしている例え話です。主人が旅に出て帰ってくるまで、しもべたちにタラント(賜物)を与えたという話です。これはイエス様のことで、天に帰って王位を受けられ、再び帰って来られます。
 3人のタイプのしもべがいて、主人はそれぞれにふさわしいタラントを与えました。2タラントと5タラントを預けられたしもべは、その違いを考えずに、与えられたものをそのまま自分のものとして受け入れました。主人が自分にふさわしく与えた金額として、その差があることを認めたということです。
 
 争いの原因は、人と比べて多いか少ないか、優れているか劣っているかを自分勝手に考えてしまうことです。絶対的な間違いのない主人である神様が私たちに与えてくださった賜物、働き、天職、人生に対して、私たちは文句を言ってはいけません。自分の人生の歩みに対して、どの国で生まれ、どのような親の元で、どのように育ったのか、不幸か幸福かと、人と比べて判断するのではなく、すべては神のおぼしめしであると、自分に与えられた人生を生きることが大事であると、ここから学ぶことができます。
 
 この2タラントと5タラントのしもべに主人は「良い忠実なしもべよ」と言われました。どんな環境であろうと、能力の差があろうと、自分に与えられたものに対して神様に忠実に生きるかどうかということを見ておられます。神様の一番の期待は、忠実であるということです。
 しかし1タラントのしもべは、その忠実さに欠けていました。その原因は、主人を自分の主観によって評価し、量ったことです。主人に対する否定的な思いを抱いていたのです。
 もし、本当の主人のことを知っていたなら、「あなたの言った言葉によってあなたをさばこう」と言われる主人なので、絶対主人のことを悪くは言わないと思います。神様は、私たちを最後に審判の時に罪は赦してくださるでしょう。しかし、私たちの語った言葉が自分をさばくことになるという法則を理解しておかないといけません。もしさばいたり悪い言葉を語っていたなら、悔い改めましょう。その悔い改めの決心が忠実さのあらわれなのです。
 愛による人間関係とは赦すことであり、人からさばかれたり、神様から自分の言葉でさばかれたりすることがないために、神様が愛してくださっているのだと、愛からの気持ちで人間関係を築き直していくようにつとめていくならば、すべての人との平和を保つ道を歩むことになります。そして、平和をつくり出す人は神の子と呼ばれます。
【デボーション参考ポイント】
マタイ18:23〜34で主人から一万タラント赦されたしもべは、なぜ、しもべ仲間の百デナリを赦すことができなかったのでしょう?
 
 赦せない心の原因をどうぞ自分で探ってみてください。この箇所を見ると、百デナリを借りたしもべ仲間は「もう少し待ってくれ」と言ったのに、待つことをしませんでした。なぜ猶予を与えてあげなかったのでしょうか。
 1万タラントは、一生に稼ぐお金だと言われています。百デナリは、日本円で百万円位です。どうして私たちは大きな罪の負債を赦されたのに、同僚の小さな罪の負債を赦せないのでしょうか。答えは皆さんの心の中にあると思います。
 人を赦すことにおいて障害となっている何らかの無意識の考え方、主観が残っているのなら、その罪の主観が、赦せないという原因になっているのではないでしょうか。「その罪の主観を十字架と共に処分したのだ、そんな自分はもういないのだ」と、古き自分から解放されていただきたいと思います。

【俳句】
 冬の空  互いに見上げ  赦し合う
 
 冬の空が季語です。澄みきったきれいな空を思い浮かべます。互いに争い合うような感情の時にも、冬の澄みきった空を見上げると、赦し合う心になるという意味です。
 人の心は環境に左右されやすいので、良いものに触れると心が平安に変わり、落ち着いて自分を取り戻すことができます。
 神様の愛によって創られた大自然の素晴らしさに触れて、私たちも良い人間関係を保つようにつとめていきましょう。

 

 

 

 

 

■2017年12月10日 日曜礼拝メッセージより(辻和希伝道師、横路伝道師)

 誠実な愛への忠実さ  up 2017.12.10


主題聖句(エレミヤ31:3)
主は遠くから、私に現われた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。

 

 

 

【辻 和希伝道師メッセージ】
1.誠実な神の愛
(ローマ5:8)
「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」

A)神の愛の誠実さは、どこに見ることができますか?
B)誠実さは、どのようなことによって知ることができますか?
C)神の誠実な愛を感じることができていますか?
 
【デボーション参考ポイント】
「誠実」について考える
 私たちにとって、福音とは何でしょうか。それは、イエス様の十字架以外にありません。その福音を私たちに届けてくださった神様の誠実さを見ていきたいと思います。
 そもそも、神様は私たち人になぜこれほどに愛を示してくださったのでしょうか。創世記の人が創造された経緯を見ると、万物の創造の一番最後に人は創造されました。人より後に創造された被造物はありません。そして神様は、人より前に創造された被造物を支配するように、人を創造されました。ここに、他の被造物との決定的な違いがあります。
 さらに、神様のかたちに似せて創造された唯一の存在が人です。このことから、私たち人がいかに神様にとって特別な存在であるかがわかります。
 その後、人に罪が入りました。しかしその罪人のために、イエス様を地上に送ってくださった父なる神様は、特別な存在への見方を変えることなく、創造時に”良し”とされた私たちを、今も”良い”存在と変わらず見てくださっているところに、神様の誠実さを見ることができます。
  
【横路伝道師メッセージ】
2.誠実な愛に応える
(ミカ6:8)
「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」

 神様の側は、誠実を持って私たちを愛し通され、今も後も永遠に誠実な神様であられ、私たちを決して見捨てることのない方であられることを感謝します。この誠実さに対して、私たちはどのようにお返しをしたらいいのかを、第2のポイントとして見ていきたいと思います。神様は何を求めておられるのでしょうか。

A)神が人に求めておられるみこころは「忠実」である。
B)神にとって良いこととは、「忠実」である。
C)神とともに歩むことは、みことばに「忠実」であること。
 
 私たちが神様の誠実に対してすることは、忠実しかないということです。
 「誠実」について調べてみると、それは神様の性質でした。ある方が、誠実な人の26のポイントを書いておられましたが、すべて神様の性質にあてはまりました。その中の一つに、「一つの物を大事に最後まで使う」とありました。神様もあきらめないで、私たちを大切にしてくださいます。神様は、私たちを見捨てずに、愛し続けてくださっています。しかし、私たちはそうではない部分が多く残っています。
 聖書の中で、忠実な人物はたくさんいますが、忠実について考えている時、ルカ15章に出てくる放蕩息子を思い出しました。
 放蕩息子のお父さんは、財産を使い果たして帰ってきたとんでもない弟息子を、じっと忍耐して、誠実を尽くして帰って来るのを信じて待っていました。そして、帰ってきた時に、一つも責めずに赦し、息子の立場を回復してくださいました。この後の話は聖書にのっていませんが、おそらくこの愛して赦してくださった父親に対して、弟息子はそれまでのごう慢で自分勝手な態度を悔い改めて、今度は忠実にお父さんに仕えたに違いないと思います。こんなにひどいことをして帰ってきたのに、全部赦してくださった、こんなに誠実で優しい愛のお父さんに対して、不忠実なことはできませんと、しもべの一人のような心で仕えたと思います。忠実とは、そのような愛を受けた時に出て来るものだと思います。二度と親を悲しませるようなことはしたくないと決心してそのようにしたと思います。
 私たちを命がけで愛してくださり、今日も赦して、子どもとして扱ってくださるこの父なる神様に対して、私たちは正しいことを行い、誠実である神様を愛し、誠実な歩みを習い、へりくだって神様と共に歩く、みことばと共に忠実に歩むということが、私たちの当然なすべきことであり、そのようになってくるものであります。それほど愛されているということを、十字架を何度も見て「なんとありがたいことだろう、私たちはもう赦されているのだ。だから忠実に神様のおことばに従っていこう」と、礼拝に来るたびにあきらめないでやり通すことができると思います。
 忠実という言葉の意味は、「心を込めてよくつとめること」「真面目によく働き、よく気がついて、面倒がらずにてきぱき動くこと」とありました。もう一つの意味は、「忠実に何かを再現し、内容をごまかしたり、省略したりせずにそのままあらわす」ということでした。「真面目であること・実直であること・本気であること・誠意があること・心を込めてよく仕えること」これが忠実です。
 忠実な者になるために必要なのは、「謙遜」だと思います。へりくだって仕え従うことが、忠実のキーポイントだと思います。心に隠れたごう慢があると、本当の意味で忠実であることはできません。私たちは、心のどこかに自己義やごう慢があると、へりくだることができず、自分を守ろうと言い訳をしたりしてしまいます。神様は私たちを愛を持って赦してくださいますから、正直にごめんなさいと言い、素直にみことばに従いますという態度を示すことが忠実であり、神様はそれを願っておられます。
 放蕩息子のお兄さんは、弟が簡単に赦されたので、心が穏やかではありませんでした。自分は今まで一生懸命お父さんに仕えてきたのに、こんなに宴会を開いてもらって楽しんだこともない、なぜ弟だけ赦してよくするのかと、文句を言って家に入らなかったとあります。お父さんはお兄さんをなだめます。お兄さんには自己義があって、弟を裁く心があり、赦すことがなかなかできませんでした。その続きは書いてありませんが、きっとお兄さんも心を入れ替えて、お父さんの気持ちを理解し弟を喜んで迎えたであろうと思います。 
 神様は本当に私たちを愛してくださり、私たちはその誠実に対して、忠実にみことばに従っていく歩みをしていくこと、これが私たちのなすべきことであると思います。

【デボーション参考ポイント】
 主題聖句から、主が人に求めておられることについて考える。
 すべての答えは忠実にあります。忠実のためには、謙遜を学ばなくてはならないと思います。アウグスチヌスという人が、「どのようにしたらすばらしい人間になれますか。」とたずねられた時、「1番目は謙遜です。2番目も謙遜です。3番目も謙遜です。」と言いました。忠実であるために謙遜を身につけたいと思います。
 今週は、忠実について思いめぐらす一週間としましょう。

 

 

 

 

 

■2017年12月3日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛の動機(霊性)  up 2017.12.3


主題聖句(マタイ6:1)
人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。

 

 

 

 先週、手束先生が「神を畏れる」というクリスチャンにとって一番土台となるべき点を語ってくださいました。世の中の様々な教えや目の前に現れてくる出来事、そして多くの価値観を通して、クリスチャンたちの「神を畏れる」心が揺さぶられているのではないか、ということを指摘してくださいました。
 今日も「神を畏れる」ということにつながると思うのですが、「愛の動機(霊性)」ということについて見ていきたいと思います。健全なクリスチャン、その動機とはどのような動機なのかを、しっかりと確認してまいりましょう。
 マタイ6章1節を読みますと、良いことでもその動機というのが神様にとって私たちを見るための大きな基準となっているようです。
 「動機」とは信仰面から言うなら「霊性」です。辞書での意味を合わせて見ますと、動機とは、人が心を決めたり行動を起こしたりする直接の心的原因のこと。動機は、外的刺激(見聞きする)によって誘発される。また、外的刺激によって本性(神のかたちに創造された霊性)が覚醒されることもあります。
 いろいろな人生の苦しみや経験を通して、人は何のために生きているのかという自分への問いから行き着くところ、キリストのもとに来られた方もいるのではないでしょうか。いったい自分は何者なのか、それに気がついた時、そこに動機が生まれるわけです。これで私は生きていける、このために今私はここにいるんだと、心を決める要因が、外的なものから刺激されて目覚めるという意味です。人は何らかの心の姿勢を持って生きており、そして今のあなたがここにいるのではないでしょうか。
 人の前に人生を送るのか、それとも神様の前に人生を送るのか、神様はこれをいつも問い正しい道から外れないようにと私たちに忠告してくださっています。

1.「神の前に」という動機
(ローマ15:1−2)
「私たち力のある者は、力のない人たちの弱さを担うべきです。自分を喜ばせるべきではありません。私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。」
A)「自分を喜ばせる」その動機はなんでしょう。
 人の前で自分を喜ばせるというのは、自己満足であったり、名声名誉であったり、人から愛され尊ばれたい、優越性を持つ、良いものでありたいという動機、それは比較社会の中で、人より優れていることが人生の成功を治める者であるという印象を受けていることが多いものです。人からの誉れを受けようとすることです。
 しかし、神のひとり子イエスキリストを送られてまで私たちを救いたいと思うほどに愛を注いでくださった神様の前で、自分を喜ばせるというのはよいことです。私たちを一番愛してくださっている神様の前に、喜びのある歩みを、人生を、行いを現したい。私も喜び、愛してくださっている神様も喜ぶ。愛してくださっている神様から誉れを受ける。それが一番自分が喜びとすることではないでしょうか。自分を喜ばせる健全な動機は、愛してくださった方を喜ばせたい、それを通して私の喜びが満たされるということです。 
B)「力のない人たちの弱さをになう」その動機はなんでしょう。
 力のない人を助けるボランティア活動をする、弱い人を助ける行いをする、それが人々の前で自分が良いものでありたいという自分中心の、自分を喜ばせるためだけに心を向けている、そのような動機があるならば、そのような行いは神の前にはどうなんでしょうか。人々の目を気にして評価を気にして、自分を良いものと見せかけようとする、そんな動機に気を付けなくてはいけません。

C)正しく「力」を用いるための動機、霊性とは? 
 自分に与えられている力、能力、持ち物、才能は、人と比較すれば優れていたり劣っていたりします。その力を正しく用いるための動機、霊性とはどういうものでしょうか。私たちに与えられている力は「力のない人たちの弱さを担う」ためだと、ローマ15章1〜2節に記されています。神様は私たちに一番のお手本を示してくださっておられます。
 罪人である私たちのためにご自分の全能の力、永遠の愛の力をもって滅びから救い出して、ご自分の子として永遠の神の国に入れてくださる救いを完成してくださいました。私たちには自分を義とし自分を罪から救い出す力はありません。それを持っておられるのは神様だけです。その神様は私たちをゴミのように捨てて燃やされる方ではありません。私たちをもう一度生かしたい、もう一度取り戻したいと、ひとり子イエス様という神様のすべてをもって私たちの罪を贖ってくださいました。
 力のある神様が力のない罪人である私たちを救ってくださった、これがお手本であります。そのような神様の聖い愛の前に生きる人生という意識が、力を正しく用いることのできる動機を与えられるといえると思います。

【デボーション参考ポイント】  
隣人愛の動機について考えてみましょう。
 人々の前に私たちは良いものでありたい、愛されるものでありたいという、これは私たちの自然な欲求であり捨て去ることは難しいです。それは自分を変えていこう、努力を積み重ねていこうという向上心へとつながります。
 しかし聖書の中には、人々の前にというより、神の前に生きる生き方として、神が愛してくださったように私も隣人を愛していくという精神が、貫かれております。私たちも神を愛し神を畏れる者であるならば、愛された愛を持って互いに愛し合いましょうというのが正しいベストな生き方であります。それを目指していくために「今私は神の前に」という意識をいつも忘れないようにしましょう。
 今日も、みなさんは今「神の前に」いるのです。神様は口うるさく口出しされる方ではなく、じっと見ておられます。そして最後の審判のときに、それらすべてを正しく報いを与え、さばきをもたらしてくださる。なぜ神様は無言のときが多いのでしょうか。もうすでに神様の語りたいお気持ちはすべて聖書の中に記してくださっておられるからです。御ことばをしっかり読みながら、神様の言わんとしておられることを悟っていけるように、神様を愛する動機を持って隣人愛に歩んでいきたいと思います。

2.純粋な動機は、純粋な愛から
(へブル12:2)
「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」

A)内容観察  
「父なる神の愛を信じる純粋な動機による完全な信仰を初めて明らかにされた方であり、その愛によって働く信仰を十字架の死に至るまでも貫き通された方の純粋な愛で心を満たしていなさい。」
 「イエスから目を離さない」とは、神に対するキリストの純粋な愛をお手本として、その愛で心を満たしていることではないでしょうか。人は心に満ちることを口が語り、人生は舌によって左右されるとヤコブ書にあります。イエス様が御父を愛したその愛がいつも私たちの心にあるならば、その愛をお手本とし尊ぶ心の動機から隣人愛が出てくるといえるでしょう。世の常識、人の目を超えて、ただただ神様の愛に応えて33年間の人生を歩まれたイエス様の純真な心を、何より一番のお手本とすべきだと思います。
 私たちはまだまだ世の人の語る言葉、批評、評価に左右されます。まだまだ人に愛されたい、よく思われたいという自己中心の心があって難しいと思います。しかし私たちの霊、魂の本音は万物の中心であるお方に認められるということが一番の喜びであります。私たちを愛して私たちの永遠の救いの為にひとり子イエス様を犠牲にしてくださった、それほどに一番愛してくださる神様を知れば知るほど、だんだんと人の評価や人の目を恐れることなく神の前に生きるという純粋な動機がわき上がってくるのではないでしょうか。

B)神の愛を聞き続けて、与えられた動機は?  
「神の愛を聞き続けて、私たちの内に与えられた動機は、いままでどのような動機があったでしょうか?どのような決心が与えられてきたでしょう。振り返ってみてはいかがでしょう。」

C)みことばを聞いて否定的になる人の動機は?  
 動機が与えられないから、いっこうにみことばを実行することができない、難しい。しかし動機が与えられれば、どんな難しいことにもチャレンジできるのです。
 文明の発展もそうです。不可能から可能へと進化してきました。飛行機も電気もテレビも水道も不可能だと思っていたら出来ていません。出来る、人々のためになる、と信じ困難を乗り越えチャレンジして現代の便利さが実現したのなら、みことばにおいても、罪人である私たちには不可能であっても、神様がチャレンジするようにと励ましてくださっているのです。不可能ではない、可能だと神様が愛をもって励ましてくださっているのです。

【デボーション参考ポイント】
イエスから目を離さないためにできることはなんでしょう。
 心に神様の愛を満たすために私たちはどんなことができるでしょうか。出来ることから始めるのが基本です。そして、できないことへのチャレンジが持たらされるほどに、強い動機が与えられるように、主の前に歩んでいきたいと思います。何よりも神が私たちを愛してくださっているという外的刺激を通して、私たちの内に愛の動機、霊性が生まれてくるという流れを、今週確認していただいて、福音を聞き、人々の福音の証を聞き、そのように外的刺激を通して、どうぞ心の内に愛の動機、神様を愛する動機をしっかりと起こしていっていただきたいと思います。
 私(辻師)はクリスチャンになる前、母親にだけは迷惑をかけたくないという自分の人生の考えをもっていました。母親に悲しい思いをさせたくない、苦労して育ててくれた母親のその生活を見てきました。これ以上苦しめたくない、それほどに愛を注ぎ、心配してくださっている母親の気持ち、この経験がキリストを通して父なる神様の愛を知る大きな助けになりました。
 父なる神様は私たちに大きな愛を注いでくださっている。自分の罪のために滅びにいたることがないようにと赦しの愛を注いでくださっている。いつも、どんな状況でもこの罪深い私たちを受け入れてくださっている。私の母親も同じように、たとえテストの点数が悪くてもそれをそのまま受け入れてくださって喜んでくれていた。運動会であれ、どんな状況であれ変わらず、そのまま受け止めて、よくやったねと愛の励ましをしてくださった、母親の愛ですね。この母親には絶対つらい思いをさせたくない、事故を起こしたり不道徳なことで親を辱めるようなことはしたくない、母親の迷惑には絶対ならないようにという一心で生きる決心をしてきたわけです。
 十字架ですべてを捨てて私の罪のための贖いをなして、そのあとも完ぺきではないのに、この私をそのまま赦し続けてくださっているその愛、母親の愛と重なって「ああ、私が歩む人生の根本は神様の愛のもとに生きること、それしか私の道はない」と考えるようになりました。神様が私の母を通して、すでに信じる前からそのことを示してくださり、その動機を与えてくださっていたのかなあと、そのように思うのです。
 皆さんも、神様から愛されているところから出てくる動機を正しく持っていただけるような、神様の前における今週のデボーションを続けていただきたいと思います。

【俳句】 
冬もみじ   散りゆく運命   神の御前に

 冬のもみじ、毎年毎年、散りゆく運命です。もみじの葉の最後は真っ赤に紅葉して死ぬことです。それが神がもみじを造られた「定め」であります。「人の前に」散るもみじではなくて、「神の前に」散るもみじ、そこに意味がある。そこに人生を全うする喜びがある。私たちもいずれ散りゆくもみじのように、神に定められた地上の運命があります。いつ召されるかわからない、いつ召されても神の前に散りゆく人生であるということ、敬虔な人生の歩み、神を愛し神を畏れる歩みを心がけていきたいものだという気持ちを込めてうたってみました。敬虔な心を失わないように、神を愛する動機から私たちの人生を建て上げてまいりましょう。

 

 

 

 

 

■2017年11月26日 日曜礼拝メッセージより(高砂教会 手束正昭師)

 神を畏れる  up 2017.11.26


主題聖句(イザヤ50:10〜11)
あなたがたのうち、だれが主を恐れ、そのしもべの声に聞き従うのか。暗やみの中を歩き、光を持たない者は、主の御名に信頼し、自分の神に拠り頼め。見よ。あなたがたはみな、火をともし、燃えさしを身に帯びている。あなたがたは自分たちの火のあかりを持ち、火をつけた燃えさしを持って歩くがよい。このことはわたしの手によってあなたがたに起こり、あなたがたは、苦しみのうちに伏し倒れる。

 

 

 

 フランシスコ・ザビエルが日本に来て伝道し、ローマに宛てた手紙に、「この国の人々が今までに発見された国民の中で最高である。日本人より優れている人々は異教徒の間では見つけられないでしょう。彼らは親しみやすく、一般に善良で悪意がありません。驚くほど名誉心の強い人々で、他の何ものよりも名誉を重んじます。大部分の人々は貧しいのですが、武士もそうでない人も貧しいことを不名誉と思っていません。」このように書きました。
 ザビエルにとって異教徒の国、文明の低い国「日本」、しかし来てみると国民は素晴らしい民であると書き残しているのです。
 マレーシアの元首相マハティールさんも日本に来て驚いたと言っています。「規律正しい、勤勉であり、能力管理システムが整っている。日本人は自動車がぶつかると互いにわび合っている。何という善良な国民だろうか。」
 そして村山首相が戦争について謝罪した時、マハティールさんは「今日の東南アジアがあるのは日本のおかげです。日本にはもっと頑張ってほしい。アジアのリーダーだから。」と言ったそうです。

 また、フィリピンの韓国人老宣教師は「日本人は不思議な国民だ。キリスト教を知らないはずなのに、我々韓国人よりも聖書の精神が息づいている。」と言ったそうです。

 阪神淡路大震災が起こった時に、アメリカの記者が神戸に来て驚きました。日本人の互いに助け合う姿はなんとも美しいと語っておりました。

 私たち日本人は長い間、自分たちのことを「醜いアヒルの子」と思っておりました。健全な自己愛を失っておりました。しかし、海外から見ると日本の評価は非常に高い。美しい白鳥です。

 私はルーマニアに三度行ったことがありますが、驚きました。小学生が日本語であいさつしてくれる、教室に入ると姫路城や五重塔の絵が並んでいる、校長室に行くと両国の国旗が交差して飾ってあるのです。おしなべて東ヨーロッパの人々は日本を尊敬しています。自分たちを苦しめたあのロシアを、あの小さな日本は打ち負かした。あの大戦では敗れたが、不死鳥のようによみがえって世界の経済大国になった。日本人はすごい!と彼らは思ったそうです。

 あのペリーも日記に書いていたそうです。「野蛮だと思っていた日本人は実は勇気がある、組織的に動いている、異邦人の中でこれほど優れた民はいない。ただ、決定的な問題点は、彼らがまだキリスト教を信じないことだ。」

 なぜ、日本人はキリスト教を信じないのか。なぜ日本にリバイバルが起きないのか。私も長い間この問いを持っていました。もちろん神様のご計画があるのでしょうが、日本人側の問題もあると思います。

 日本人は他者に対する思いやりが非常にあります。思いやりがありすぎて、人間主義、ヒューマニズムに足を奪われている。神様を第一にするよりも、人間を第一にしている。パウロは「今、私は人に喜ばれようとしているのか。それとも神に喜ばれようとしているのか。もしまだ人の歓心を買おうとしているとすれば、私はキリストのしもべではあるまい」と言っております。人に喜ばれようとしている。日本人が得意なことです。聖書は、神様を大事にしなさいと語っているのです。

 また、今までの伝道方針に対する反省が必要だと思います。敷居の高い教会に人々がやって来るのを待つよりも、出ていって伝道する。使徒行伝では皆家庭を拠点にしていました。創価学会は戦後、家庭を拠点にした集会によって信者を5千人から一千万人に増やしたと言います。

 そしてもう一つ、キリスト教信仰が御利益(ごりやく)主義に陥ってないかどうか。自分の利益や都合、自己満足の為に、自分が中心で神や仏を利用していないか。

 聖書はどう言っているでしょうか。「初めに神が天と地を創造された。」初めに神ありき、なのです。モーセの十戒の一番目は「あなたは私のほかに、なにものも神としてはならない。」神様が第一です。 更にイスラエルの人々がいつも唱えていたことば、「イスラエルよ聞け。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛さなければならない。」神様を第一にしなさいということでした。

 私たちはいつのまにか、私のための神様、私優先、人間優先になっていないでしょうか。聖書は神様のための私、神様を畏れること、神に仕えること、神を第一にすること、を繰り返し言っています。
 今日お読みしたイザヤ書10節は、どんな困難があっても神様を一番にして従う苦難のしもべの姿です。11節は自分の為、自分の為といって生きているイスラエルの姿、同じ信仰者の姿ですが、私たちはどちらの生き方を選ぶのでしょうか。日本の教会はもしかして後者になっていないでしょうか。
 
 昔、大富豪ロックフェラー氏のお母さんが三つのことを言いました。 一つ目、礼拝を守るときには前の方で守りなさい。つまり、映画館や音楽会に行くような調子ではなく神様を畏れる心で礼拝に出るということです。私は礼拝が始まる30分前から席に着いて祈り賛美して準備することを提案します。
 二つ目、牧師先生を大切にすること。神様のお言葉を語る方だから悪口を言ったり逆らったりしてはいけません。
 三つ目、什一献金を捧げなさい。神様を畏れることの、この世での表現が什一献金です。十分の一を神様にお返しします。これは神様のものです。私たちは経済生活の中にいますから、神様を畏れているということの表現です。
 彼はこれを実行し、何千もの教会を建てました。たくさんの慈善事業に献金しました。そのことを通して彼は自らの信仰を証しました。

 皆さん、日本のリバイバルが起こるために、まずクリスチャンたちの姿勢を整えましょう。神様を第一にする、その信仰生活のあり方、神様を畏れるというあり方、それは、日本全体のリバイバルを起こす大きな手立てだと私は思います。皆様方が神を畏れ、神を第一にする教会生活をしていく時に、この教会にどんなにすばらしい主の御わざが起こるでしょうか。
 
 いつの間にか私たちは自分中心の信仰となり、人間中心の信仰となり、人間を喜ばせる。これは日本人は得意です。それはヒューマニズムに足を引っ張られていきます。そうではなくて、神様第一、神本主義。人本主義ではなくて神様中心、その信仰をいつも自覚をし、この信仰姿勢をしっかり保っていこうではありませんか。やがて、そういう信仰の結果、更に多くの人たちがこの教会にやってきて、生きた主の臨在にあずかり、「まことに主がいましたもう」という、その経験をして、もっともっと聖書を実行していくことを私は確信致しております。

<辻先生のお話>
 もっとも大切な、第一に私たちが心の礎としておいておくべきもの、「主を畏れる」これは知識の初めであり知恵の初めであるとも記されています。神様の赦しと恵みと豊かなあわれみに慣れてしまうと、主を尊ぶということがおろそかになってしまうのではないでしょうか。神様は今日そのことを忠告してくださったと思います。
 
 優れている素晴らしい日本人の特質も、それを与えて下さった神を敬う心なくしては、それは何の役にも立たない、愛がなければすべては空しいという御言葉があります。その愛は感情の愛ではなく、神様を敬うという愛、尊ぶべきものを尊ばずして親切は単なる自己満足です。
 この世の人は「自己満足がどうして悪いのか」といいますが、そうなると秩序が乱れてしまいます。秩序は敬うべきものを敬ってこそ、そこに成り立ち、良い社会、良い人間関係がそこに築かれていきます。いろいろなところで私たちは主を畏れることがおろそかになっている、また、主を畏れることを意識させないようないろいろな考えや教えが私たちの回りにあるのではないでしょうか。
 
 今日は私たちの心の目を癒して下さるような、目薬となるような、本当に大事なご指摘を受けました。今日から、皆さん、敬うべきお方を敬うにあたって、何からあなたは始められますか。今週、どのようなことを通して、私たちにいのちを与え、罪の赦しをもって永遠の御国への神の子としての存在をもたらしてくださった愛なる神様に、敬う思いだけでなく、それをどのような形をもってそれを現していく一週間としていきたいと思われますか。
 それを今しばらく黙想して考え、一つでも決心決意をもって、主を畏れる歩みにチャレンジして頂きたい、整えていただきたいと思います。

 

 

 

 

 

■2017年11月19日 日曜礼拝メッセージより(辻和希伝道師、横路伝道師)

 愛の精神(基準)  up 2017.11.19


主題聖句(ローマ1:17)
なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。

 

  精神=物事の根本的な意義。理念。基準となる根本的な考え方。

【辻 和希伝道師メッセージ】
1.義人は信仰によって生きる
(ヨハネ3:18)
「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」
A)義人と罪人との大きな違いは何か?
B)御子を愛する(信じる)人はどうして義と認められるのか?
C)御子を愛さない(信じない)人はどうして罪人とされるのか?
D)律法を守るよりも神を愛することが正しいと評価される理由
【デボーション参考ポイント】
「義人は信仰によって生きる」を、どう解釈しますか? 

 今週の聖書箇所は、パウロがとても重要視した“信仰義認”について語っている箇所です。
 
 義人とは、神様の前に正しい人のことです。しかし、罪人である私たちは、誰一人神様の前に正しい者ではありませんでした。ところが、イエス様の十字架と救いの御業を信じるだけで、私たちは、神様の前に義と認められました。何かをしたから義と認められたのではありません。ここに、私たちへの福音があるのです。まず義と認められていることを感謝いたします。
 
 信仰義認とあわせて考えなければならないものがあります。“律法”です。パウロが信仰義認を強調した背景に、律法 を守ることで救われるという空気があったことがうかがえます。
 
 律法とは、私たちが間違った方向に進まないために神様が人に与えたものです。それは、私たちを生かすものでなければなりません。初代教会の時代、多くの律法があったようです。それを一つ一つ守らなければ、救いに至らないという教えを律法学者やパリサイ人がしていたのでしょう。
 
 間違ってはいけないのは、信じることで義と認められているからといって、律法を守らなくても良いということにはならない、ということです。そのことはパウロもはっきり語っています。
 
 大事なのは、私たちは、イエス様を信じることでしか義と認められず、また義と認められた者は、最後まで信仰に生きるということです。その生き方は、神様の前に正しい行いをしていくはずです。当然律法に反することはしないでしょう。

 私たちの救いが、どれほど素晴らしいことかを意識する一週間としたいです。

【横路伝道師メッセージ】
2.福音に啓示されている神の義
(ローマ3:22)
「すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」

 2番目は、神様の目から見た神の義を見ていきたいと思います。私たちは信仰によって救われています。信仰によるとは、私たちの努力によらず、一方的な神様からの恵み・賜物として、イエス様の十字架によってのみ救われるということです。

A)十字架の贖いは、義人のためですか、罪人のためですか?
 もちろん、罪人のためです。なぜかと考えてみますと、全ての人は罪を犯したので、義人は一人もいないと聖書に書いてあります。だからこそイエス様の十字架が必要だったのです。神様は罪の中で私たちがだめになってしまうのを惜しまれ、どうしても救いたいと願われ、私たちを見捨てることをされませんでした。

B)罪人を救うことは罪ですか、正しいことですか?
 正しいことです。救うとは、罪からの解放を意味します。罪に縛られている人が、滅びるのではなく、罪の縄目から解き放たれ、永遠の御国に導かれることが、本当の救いです。この地上だけの救いだけではなく、まことの救いをイエス・キリストは十字架を通して用意されました。

C)律法の精神は、人を裁くことですか、生かすことですか?
 生かすことです。律法は悪いものではありません。なぜなら、律法がないと人は自分の思い通りに生きてしまいます。それでは滅びてしまうので、神様は律法を与えられました。
 
 例えば、車は左側を走りましょうというルールがあります。このルールを無視して自分勝手に走ってしまうと、事故だらけになってしまいます。律法は私たちを生かすために作られたのです。しかし、それが縛りになってしまう時に、目的から外れてしまいます。
 サタンは、私たちを滅ぼそうとして狙っています。サタンの最終目的は、私たちが天の御国に行かないように足を引っ張ることです。罪を犯させて、それが赦されないと思わせ、イエス様を信じる信仰から離れるように誘惑します。神様は私たちを生かそうとされています。

D)人を罰することと生かすことと、どちらが優れていますか?
 もちろん、生かすことです。人を生かすことは、神様の義なのです。せっかく創ったものがだめになるのを惜しんで、なんとか生かしたいと思われるのです。イエス様が来られたのは、裁くためではなく生かすためです。
 アダムがエデンの園で食べてはならないという木の実を食べてしまいました。そのエデンの園に植えられた木によって滅びが入って来ました。しかし、二千年前にイエス様はカルバリの丘に十字架を立てられました。それを信じる者は救われます。アダムとエバはその木からとって食べて滅びの道を選びました。私たちは十字架を信じて救われるのです。
 
 私たちは土から創られた者として生まれました。愛されて地を治めるものとしてエデンの園に置かれました。でも、その子孫は、アダムとエバの罪から滅びの方向に行きました。せっかく神の形に創られた人間が、滅びて行くのをどうしても惜しいと思われて、十字架の救いを与えられました。

 この土の器である私たちは、肉体は滅びますが、この体は新しく創り変えられ、神様と同じ栄光の体に変えられて、永遠に生きることができるという、そこまで救いを用意されました。ここに神様の義が表されています。
 
 ハ・ヨンジョ先生がこのように言われていました。天国に行ったら驚くことが3つあるそうです。一番目の驚きは、「あの人が天国に来ていない」ということだそうです。二番目の驚きは、「あの人が天国に来ている」ということです。私たちが見ているのと、神様が見ておられることは違うのです。三番目の驚きは、「自分が天国に来ている!」という驚きだそうです。なんと幸いな感激でしょう。
 神様は私たちを愛しておられます。神様の義が、私たちを救いたいと願われて救いの御わざをなされました。このイエス様の救いを決して捨てないように、堅く守っていこうではありませんか。

【デボーション参考ポイント】
「人の怒りは、神の義を実現しない」(ヤコブ1:20)とあります。では、人の何が神の義を実現するのでしょう。
 
 人の怒りはごう慢が原因で、罪の力から引き起こされると思います。互いに赦し合い、互いに愛し合うことによって、神の義が実現するのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

■2017年11月12日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛の使命(Mission)  up 2017.11.12


主題聖句(第1ヨハネ3:16)
キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

 

 

 

 今週の主題は、私たちそれぞれの使命というよりも、私たちの内に注がれている神様の愛の働きを意味しています。この愛の使命が私たちの内にもあるということで、私たち自身の使命にもつながります。
 個人的に使命を感じなくても、私たちに注がれている愛には使命があります。この愛の持っている使命が私たちの人生にも働いているということです。

  使命(Mission)=使者。自分に課せられた任務、天職。

 地上に神様の愛が注がれた、その任務は何でしょうか。この主題聖句では、神様の愛であるイエス・キリストはご自分の命を私たちのためにお捨てになりました。それによって、私たちに、愛とはどんな働きをし、どのような目的をもって行動に移るのか、愛そのものに使命があるのだとわかりました。
 この愛はイエス様ご自身のことです。この「愛がわかった」というところこそが、愛の使命であるととらえて、今回ご紹介したいと思います。
 愛は愛する者のために働き、力を発揮します。この愛が私たちの内に宿られているのなら、私たちは兄弟のために命を捨てるようになります。これは義務ではなく、愛の持つ使命として、湧き上がってくるものです。
 この兄弟のために命を捨てるという面で、時には葛藤が起こってきます。それは肉にある自分の自我と内に宿っておられる聖霊様の御声により起きてくる葛藤です。
 しかし、まずイエス様が私たちのためにいのちをお捨てになったということがわからなければ、私たちも兄弟のためにいのちを捨てるというところに共感することは出来ないでしょう。
 今日聞いて、すぐに出来るものではありませんが、自分の内に宿っている愛はこのような使命を持っているのだということを、まずは知識として持ってください。

1.塩に例えられる愛の使命(マタイ5:13)
「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。」
 イエス様を信じるまでは地の塩であるとは考えたこともないでしょう。地の塩とはどういう意味なのでしょうか。

◎塩の働き
A)味をつける
 その物の素材の味を引き立てます。昔、おいしいスイカを祖父に食べさせたいと高額なスイカを選んで買って帰ったことがあります。しかし、一口食べた祖父は、おいしくないなあと言い、そのスイカに塩をべったりと塗って食べました。
 なぜ塩を塗ったのでしょう。それは、スイカの甘みを引き出すためです。そういう役割が塩にはあります。
 
 また、私(辻師)は甘い卵焼きが好きなのですが、ある時、塩を入れ忘れて砂糖だけで焼いてしまったことがあります。そうするとただ甘ったるいだけで、美味しくない卵焼きになってしまいました。塩が砂糖の甘さを引き締め、丁度いい甘さにしてくれるのです。
 塩は主役でなくても、味付けには無くてはならない存在です。

B)健全な状態を維持する(腐敗を防ぐ)
 私(辻師)の故郷は伊賀で山奥なので、魚は塩サバとか干し魚くらいしかありませんでした。そのため、魚とは塩辛いものだと思いこんでいたので、大阪に出て焼き魚で全く塩気がないのを食べてびっくりしました。山奥だったので、魚も腐らないようにとしっかり骨に染み込むほどに塩漬けにしていた訳です。
 塩には生物を腐りにくくしたり、健全な状態を維持するという働きがあります。

 このように2つの働きが塩にはあります。この塩の働きの特徴をイエス様はとらえて、「あなたがたは、地の塩です」と言われました。
 神に愛されて、あなた方の内に神の愛が宿っているなら「あなたがたは、地の塩」なのです。

【デボーション参考ポイント】
1)「地の塩」と「愛の使命」との関連を考える
 塩の働きが神様の愛の使命です。この罪に満ちた世界、塩気のない世界に味をつけ、生きがいを与えるという塩気のような働きを愛は与えます。
 本当の神の聖い愛に生きる者たちがいるからこそ、この世の人々は失望せずに、そういう生き方もできるのだと、少しでも希望や生きがいを見つけることができるでしょう。あなたの内にある神様の愛があなたを通して、地の塩としての働きをされるのです。
 また、これ以上罪が広がらないように、あなた自身の心の内に罪が入って来ないように、あなたの心が腐らないように、そして、あなたの夫婦の関係、家族の関係、人間関係においても、互いに愛し合うという神様の愛の関係が壊れないように、神の愛は使命をもって働いてくださいます。

2)神の愛は、あなたをどのように導いていますか?
 あなたの人生は塩気を保っているでしょうか。振り返り、反省し、今週少しでも塩気を表す事ができるように神様の愛の働きかけに心をゆだねてみてください。

2.光に例えられる愛の使命(マタイ5:14〜16)
「あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。
また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」

◎光の働き
 神様の愛の使命は私たちを世の光として働かせられます。

A)暗闇を退ける
 そのためには、光を持つ必要があります。暗闇にある罪という力、その働き、私たちの心から罪の性質や罪の思いやいろいろな否定的な悲しい思い、傷ついた心の痛み、それらの闇の部分はどんなに努力しても消えません。特に、過去の様々な嫌な思いは心の暗闇として精神的に様々な問題をもたらしてきます。
 そのような闇の存在を退けるのは光しかありません。神のおことばは光であるとも書いてあります。愛なる神様から出た愛なることばは光です。「わたしの足の灯火となり、行くべき道の光」となってくださる神様の愛のおことばは、私たちの心の内にある闇を退け、癒してくださいます。

B)人々を照らす
 未来が見えない時に、みことばは未来に対する暗闇も退けてくださいます。
 自分だけを照らすのではなく、愛の使命が光の根源となって、私たちの内側から人々を照らします。沈んでいる人々、失望している人々、希望がなく悲しんでいる人々に光を持たらす働きです。何よりも人は、愛されるということに本能的に渇いています。
 なぜなら人は愛されるために造られたからです。神に愛されるために造られました。神様は全身全霊をもって、神ご自身のすべてをもって愛する対象として、人を神の形にお造りになられたのです。
 しかし、人は罪を犯して神との間に大きな隔たりを持ってしまいました。それにもかかわらず、もう一度取り戻すことが出来るようにと、神様は全身全霊を注いで愛を示されました。それが十字架です。
 なぜ、神様は蛇がエバを誘惑した時に、それをとどめなかったのでしょう。それはご自身の全身全霊の愛を示すためだったとも言えるかもしれません。
 彼らが罪を犯さなかったら、十字架の贖いは必要なかったでしょう。しかし、事実、神様はご自身のすべてをかけて、十字架で私たちへの愛を示してくださいました。神様のすべての愛という意味を持っているのは、「ひとり子」です。子どもは未来です。このひとり子を差し出すということは、現在だけでなく未来をもかけて、私たちの罪の赦しのために愛を表されたということです。
 神様はいのちをかけて愛していると私たちに言っておられるのです。
その犠牲と苦しみをも乗り越えられた神様の愛を私たちは受けています。

【デボーション参考ポイント】
1)「世界の光」と「愛の使命」との関連を考える
 愛の使命とは何でしょうか。愛することを通して達成されるものは何でしょうか。
 愛のミッションは何でしょうか。愛することを通して、人々の傷を癒し失望を希望に変えます。そういう任務を愛は持っていて、塩の特徴と光の特徴を通して、私たちにイエス様はさとしてくださっています。
 葛藤が起こるのは、内に神様の愛が注がれている証拠です。神様を信じているからこそ、自分の自我と神様の愛のみ声との間で葛藤が起こるのです。愛は人を赦そうと私たちの心に働きかけ勇気づけます。親切にしたい、もっと積極的に人々の助けになるようにと気づかせてくださいますが、もうひとりの自己中心の思いが恥ずかしいとか、今はそんな気分ではないとか、自分の五感に感じることを通して拒絶してきます。ここに葛藤が起こり、戦いが起こるのです。

2)神の愛は、あなたをどのように導いていますか?
 私たちは神様の愛に触れられ、神様の愛への信頼によって心が開かれていくことを通して、愛の持っている使命、それを行う能力が高められていきます。そして、人を赦し、困っている人に親切にし、その人を生き返らせ、立ち上がらせ、徳を高めるという任務を果たしていくことが出来るようになります。
 その愛の使命の働きに意志をゆだねていけば、愛の働きができるようになります。
 過去において多くの宣教師がこの愛によって心動かされ、首狩り族のところへおもむき、命を捨てて、遂には彼らに神様の愛を伝えていきました。こういう愛の行動は必ず実を実らせます。
 自分の感情によるのではなく、内に神様の愛が注がれているということを信じて、人々に愛を注ぎ続けていきましょう。

【俳句】

水だきに 大根おろし 欠かせない

 辛い大根ほど、美味しいものです。鍋の具材の味が引き立てられます。
生魚も大根おろしによって臭みが取れます。大根おろしの辛さが良いのです。

 

 

 

 

 

■2017年11月5日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛の質と価値観  up 2017.11.5


主題聖句(ルカ18:22)
イエスはこれを聞いて、その人に言われた。「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」

 

 

 

 新しい一週間の心の糧として、みことばを見ていきましょう。
 この役人は、大変な金持ちでした。社会的に地位があり、色々なものを手に入れて、他の誰よりも成功的な人生を送っていました。あと一つだけ神様の前に得たいものが、『永遠のいのち』でした。「私に永遠のいのちを受ける資格があるでしょうか。もちろんありますよね。」という気持ちが込められたイエス様への質問に対して、この22節のおことばをイエス様が返された場面です。
 彼には何も欠けていないという自信があったのですが、それをくじくおことばでした。律法も小さい時から守り、誰よりも聖く正しく歩んできたと思っていた彼に対して、一つだけ欠けたものがあると言われました。完全主義の人が、一つだけ欠けていると言われると、とても悔しく思います。イエス様は、「あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。」と言われました。『持ち物を全部売り払う』ことが、欠けていたことではありません。『貧しい人々に分けてあげる』という部分です。彼には、『あわれみの心』が欠けていたのです。
 彼は地上に名声、地位、財産をたくわえましたが、イエス様は、天に宝を積むことをすすめられました。「何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができますか。」という質問に対して、イエス様は、「天に宝を積むことになります。」と返されました。ちぐはぐな答えに思えますが、この永遠のいのちを自分のものにすることと、天に宝を積むこととは、同じ意味を持っていると思います。社会的に、人間の世界の中で尊敬され、豊かになることよりも、天に宝を積むことに心を向けることが、永遠のいのちを自分のものとするための大事なポイントであるということです。
 今日はこのみことばから、「愛の質と価値観」について見ていきたいと思います。

1.一つだけ欠けたもの
(第1コリント13:3)
「また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」
【質問】
その一つが欠けることによって、そのほかのことが全て役に立たなくたってしまうことについて考えてみましょう。
 例えば、新車を買ったとします。すべての準備を整えて乗るために、大事なものが一つあります。車を動かすための鍵がなければ、その車は動きません。鍵があっても、ガソリンが入ってなければ動きません。また、タイヤが一つ欠けても動きません。何よりも、エンジンがなければ動きません。フロントガラスがなくても車は動きますが、その一つ欠けたら、全てがだめになるという大事な部分があるのです。そのように、パーツの一部分の愛ではなく、愛という存在は、それが欠けたら全てがだめになってしまうという、一番大事なものなのです。
 「一つだけ欠けたもの」と言われた、この金持ちの役人に対するイエス様のおことばは、あわれみの心があまりにも小さいということでした。すべてのものが整っていても、肝心なあわれみの心を持っていなければ、すべてがむなしいということをここで教えておられます。
 人の目から尊い者と見られたいという気持ちがあると思いますが、神様は外側を見るお方ではなくく、私たちの内側を見られるお方です。たとえ貧しくても、才能がなかったとしても、あわれみ深い者は幸いです。

★「愛」は人生にとってそのように大事なものです。

2.天に宝を積む
(ルカ12:33〜34)
「持ち物を売って、施しをしなさい。自分のために、古くならない財布を作り、朽ちることのない宝を天に積み上げなさい。そこには、盗人も近寄らず、しみもいためることがありません。あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるからです。」

【質問】
 天に積み上げることができる「宝」とは、なんでしょう?
★「宝」とは、その人の価値観によるものです。
 その人の価値観で、宝になるかならないかが決まってきます。この地上に宝と思える物を持っている人は、天に宝を積み上げることがおろそかになります。この地上で豊かに楽しんだ人生を送ることを考えている人は、天に宝を積むよりは、この地上で宝を積んで豊かに楽しみたいと思うでしょう。神様は、天に宝を積み上げなさいと言われました。
 天では、この地上での名声、地位、財産は何の役にも立ちません。「いつまでも残るものは、信仰と希望と愛です。その中で最も大切なのは愛です。」とみことばにあります。信仰とは、聖さを象徴します。神を敬う心から持つ、未来に対する信頼、希望です。信仰があれば希望も含まれています。神を畏れ、期待する聖い心で神を見上げる時、それが愛として表されます。
 
 私たちは地上に積み上げる愛ではなく、天に積み上げる愛に価値観が結びついているでしょうか。ずっと愛について学んできていますが、難しいものだということにも気付いておられるでしょう。だからこそ、求めがいがあり、また価値があるものであると言えます。
 
 クリスチャンは愛を大事にしようと心がけているのではないでしょうか。なぜなら、神は愛だからです。最も尊いものは愛であり、最も尊いお方は、愛なる神様です。愛を尊ぶことは、愛なる神様を尊ぶことと同じなのです。
 唯一天に宝を積むことができるのは、この神聖な愛を積み上げることです。地上の銀行に積み上げるよりも、天国の銀行に愛を積み上げていきましょう。

3.キリストについていく
(マタイ10:24〜25a)
「弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。
弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。」
 弟子は師から何を学ぶのでしょうか。 
【質問】
あることに優れた人について行きたい、弟子になりたいという願いには、どのような目的があるのでしょう?
 弟子入りし、たくさんのことを知っている師匠の元で学ぶということは、「質を上げる」ということです。弟子とは、単なる師弟関係ではなく、質を高めるという意味があります。
 イエス様についていくということは、弟子としてついていくことです。イエス様が金持ちの役人に「わたしについて来なさい。」と言われたのは、彼はまだあわれみの愛が幼く、乏しかったので、これから全財産を売り払って、わたしから神の愛を学びなさいと言われたのです。
 お金があって地位があると、神様の愛を学ぶことのじゃまになり、遠回りになります。何もなくなり、ゼロになると、素直に受け止めることができます。
 弟子になるとは、それまでの生活を全部捨てるという意味もあります。全財産を売り払って、貧しい人に施し、ゼロになって神のあわれみを学ぶことが、永遠のいのちを自分のものにするということなのですと、イエス様は語られました。しかし、金持ちの青年は悲しい顔をして去って行きました。その後イエス様は、「裕福な者が神の国に入ることは、なんとむずかしいことでしょう」と言われました。社会的地位や財産を持っていると、天に宝を積むことにおいて、神様の愛を知ることにおいて、妨げになりやすいのです。
 まだ私たちは、友のために命を捨てるほどの愛を持っていないので、今この地上で愛を学んでいるのです。隣人を愛する心は、天において大きな報いが待っています。

★キリストは、私たちに表された神の愛です。
 キリストについていくことは、神の聖い愛に導かれていくことです。弟子のように、師であるイエス様から神の愛を伝授され、継承していく者なのです。その心を持ってイエス様についていくと、質の高い愛を身に付けていくことができます。
 この質の高い愛に対することに価値を見出すことが大切です。なぜなら、価値観には優先順位があるからです。何を一番にしなければならないか、価値観が左右していきます。
 神様の愛を第一にするという価値観がどこまで本物であるかを試されているのが、私たちのクリスチャン生活ではないでしょうか。価値を見出すことによって、人間的な欲望の価値観を、神様の愛を尊ぶ価値観に変えられていくことが大切です。
 質の高い愛を求めるなら、自分の価値観を変えていかないと、良い愛を身に付けることができません。この金持ちの青年は、地上で花を咲かせることにしか心が向いていなかったのです。
 天的な価値観を持つことによって、永遠のいのちを得ることができます。今週もデボーションを通して、質の高い愛を求めてまいりましょう。

【デボーション参考ポイント】
 質の高い愛とは、どのような価値観によって得られるでしょう。

【短歌】
          形良い柿  甘い柿
        どちらを高く  値付けするやら

 柿を買う時、形の良い柿にお金を多く払うでしょうか。それとも味の良い方に多くのお金を払うでしょうか。外側を気にする人は、形を気にしますが、味を大切にする人は、まばらな形でもそちらを選びます。あなたの価値観次第です。