■2017年8月27日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 神の愛に応える望み  up 2017.8.27


主題聖句(第1テサロニケ1:10)
また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。

 

 

 

 パウロは手紙の中で、テサロニケの町の教会を非常にほめています。本当にお手本とするべきクリスチャンたちの群れとして紹介しています。そのお手本ぶりとは、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエス様が天から来られるのを待ち望む生活だったのです。 
 彼らは、それを自分の口で周りに語ったのではなく、他の人々が、キリストの再臨を待ち望む彼らの姿勢を言い広めているほどに、この教会ではキリストの再臨に対する希望・期待というものをもって生活していたということです。クリスチャンでない人たちまでが、クリスチャンたちの毎日の生活を見て「すごいね。信じ切るとは、あのようなことなのかね。」と周りの人々が噂を広めていくぐらいに、彼らのクリスチャンとしての生活は、キリストの再臨に希望と期待を持って、喜びの内に毎日を過ごしていたというのです。

1.「望み」とは(ローマ8:24b)
「目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。」
★目に見える望みは望みではない。
★目で見ていること、すなわち、叶えられたことは望まない。
 皆さんは、今どんな望みをいだいているでしょうか。望みのある生活とは、楽しいものです。なぜなら、手に入れるまでの楽しみがあるわけです。あまりうれしくない人は、望みがないか、望むことがないのか、失望しているかです。無理だなとあきらめている人は、望みによる喜びを内側に持つことができません。私たちは、まだ実現していないからこそ楽しみに待つのです。
 
 テサロニケの人々が待ち望んだお方とは、どんなお方でしょうか。私たちを、いのちを捨てるほどに愛してくださっているお方です。そのお方がこの地上にもう一度、戻ってきてくださる。その戻ってくることを楽しみにして、クリスチャン生活を「いつも喜び、絶えず祈り、すべての事を感謝して」過ごしていたというのです。それが、キリスト・イエスにあって神様が、私たちクリスチャンに望んでおられることなのです。すなわち、再臨を「望み」として待ち望む心で、神様の前に歩みなさいと神様ご自身がそのことを願っておられるのです。
 
 そしてキリストが再び来られるという約束は必ず成就するから、楽しみにしていなさいと言っておられるのです。期限を決めないでプレゼントを約束されると期待が半減する可能性があります。それは、私たちが時間に追われた日常生活を送っているからです。
 
 日時を言わなくても、必ず行くという約束をしたとき、私たちは、その約束を何によって信じることができるのでしょうか。それは、その人との信頼関係、友情関係です。すなわち、愛の関係によってです。 
 キリストの再臨は、日時は指定されていません。ただ、父なる神様だけが心に決めておられる御子の再臨の時なのです。万物の終わり、審判の時がやってくるのです。
 
 テサロニケの教会の人々は、イエス・キリストが再び来られるための心の準備をして、クリスチャン生活を送っていたのです。周りの人々が噂するほどにテサロニケの教会の人々は喜びにあふれる生活を送っていたのです。あふれる愛が内側にあるからできるのです。あふれる愛があるならば希望を持つことができるのです。なぜなら、愛を信頼することができるからです。信頼することができたら約束に対して希望を持つことができます。
 
 神様の愛をどれだけ私たちは信じ切っているでしょうか。十字架で現された神様の私たちへの愛を信じ切ったら、もう一度、イエス様が来られるということへの「望み」を心の内に大きく持って、いつイエス様が来られてもいいように、少しでも心のお掃除をしておくのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

2.「望み」とは(ローマ8:23-24b)
「そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。」
 私たちは、この望みによって救われているのです。

★キリストを信じたことによる内なる葛藤は、救われている証拠
★「望み」は、葛藤から生まれてくる
★葛藤の原因は、肉のからだからくる「欲望」である
★キリストの再臨は、肉のからだからの解放の時

 クリスチャンになれば、内なる葛藤、善悪の葛藤や正しい良心との葛藤は増えます。それは、あなたが救われているから、悩むのです。その悩み、葛藤から誰が救い出してくださるのでしょうか。人ですか、お金ですか。お金がいくらあっても悩みは消えません。この悩みと葛藤から救い出してくださるのは、イエス・キリストだけです。
 
 私にはこんな罪がある。神の子としてふさわしくない部分があると悩み、また欲望が強い時には自制が働かなくて、誘惑に負けてしまうという悩みが、内側に増えてきて、心の中はすごくしんどくなります。「こんな私は、天国に行けるのだろうか」と不安になるのです。しかし、「望み」とは、これらの葛藤から生まれてくるのです。救い主イエス様に対して「望み」を持つことができるから、苦しければ苦しいほど「主よ」と救いの「望み」をイエス様に祈ることができるのです。
 
 もし、あなたがイエス様に「望み」を持って呼び求めることをしなかったら、イエス様に「望み」を持てない不信を心に持っているか、この苦しみからイエス様は救い出してくれないと不信仰になっているからです。イエス様がこの地上に来られた目的は何でしょうか。健康な人には医者はいらない。必要なのは病人だと、罪人を招くために来られたのです。医者のように、病人をいやすために、罪人を救うために来られたのです。
 
 だから自分の罪深さの為に、悩み葛藤しているのでしたら「主よ、あなたは、私の主治医です。霊的な主治医です。わたしを治療してください。直してください。あなたは名医ですから。」と希望をもってイエス様のもとに行きましょう。私たちは霊的名医であるイエス様のもとに集まってきた罪人という病人です。ただいま、治療中です。治療して治っただけではいけないのです。再び病気にならないように、生活を変えるところまで指導することが、良い医者なのです。だから、あなたが悩み、苦しむことは、イエス様に本当に「望み」を抱いている信仰を持っているかどうかが大きなポイントになってくるわけです。本当にイエス様を信じ、「望み」を持っている人は、すぐに「主よ」と祈ります。教会に通い続けます。治るまで続けて治療しに行くのではないでしょうか。
 
 また、この葛藤の原因は、肉のからだからくる「欲望」なのです。ガラテヤ5章19節から21節にはっきりと書いてあります。「肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」
 このような、霊的な病気にかかっているならば、すぐに私たちは、イエス様のもとに来て治療を受けていくことが必要です。この肉体があるがゆえに私たちの救われた魂は、正しい良心は葛藤するのです。今も、この礼拝において治療を受けているのかもしれません。そのような思いを持ってみことばに接していきましょう。

3.迎えに来られるのを待ち望む(ローマ8:25)
「もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。」
★主は、私たちを愛しておられるので迎えに来られる
★私たちも主を愛しているので、再臨を待ち望む
★肉体からの解放の時が再臨である
★その時を信じて、忍耐強く熱心に待ち望む

 なぜ、私たちはイエス様のもとに、治療の結果が思わしくなくても、治療し続けるのでしょうか、イエス様のもとに通い続けることができるのでしょうか。
 私たちへのイエス様の愛とは、何をもって信じることができるのでしょうか。絶対に間違いのない、変わることのない、信頼できる愛であると100%信じる決心ができる証拠とは何でしょうか。それは「十字架」だけです。あの「十字架」に、神様が私たちを愛してくださっている愛が、すべて明らかにされたと書いてあります。
 
 どれだけ愛してくださっているのでしょうか。ひとり子と表現された大事な存在であるイエス・キリストの罪のない命を私たちの罪のゆるしの為に、身代わりに苦しみを負わせ、私たちの罪を赦すという救いを完成させてくださったのです。そこまでしてでも私たちを愛してくださったのです。これは、歴史的事実なのです。決して作り話ではないのです。それゆえに私たちは、その愛に報いる姿勢として熱心に忍耐をもって待ち望むのです。
 
 テサロニケのクリスチャンは、神様の愛に応えて、その時を待ち望むという思いが生活の中にあふれていて、その姿を周りの人が言い広めるほどであったのです。この世と調子を合わせていたら、絶対にできないことです。
 
 その動機と力は、キリストを愛する心から出た、自分を聖く保とうとする願いです。願いが起こらないと、キリストが来られる前に、少しでも心のお掃除をしておこうという気持ちが湧いてきません。
 この罪人の私を、神の子として神の国を相続する者として私を呼び出して、私を神様のもとに連れて行ってくださる。私たちが愛されていることへの大きな喜びが動機となるのです。だから待ち望むのです。 
 テサロニケへの手紙には、待ち望むイエス様の再臨の時とは、肉からの解放の時、からだが贖われる時であると書いてあったように、イエス様を待ち望むだけではなく、この悩ましい肉体からも解放される時でもあるのです。ということは、悩み苦しんで、長くクリスチャン生活を歩めば歩むほど、自分の信仰生活や行いや結果を見て、落胆と失望、不信感の中に引き込まれていくような心の葛藤が増えるかもしれません。でもそれは、肉体があるがゆえに、その肉体に宿る「欲望」が私たちを悩ませるのです。
 
 しかし、その時には肉体は無くなって、永遠の神様の御国で、神様のみこころだけを行う人生が始まるわけです。その時がキリストの再臨の時だと思ったら、楽しみに待ちますよね。
 
 だから今、辛ければ辛いほどキリストの再臨に対する「望み」が大きくなるのです。これが私たちの神様への信仰と期待なのです。皆さんの信仰の程度に合わせて心のお掃除をしておきましょう。

【デボーション参考ポイント】(へブル11:1)
「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」
 ここでいう信仰は、望んでいることが、必ず将来実現するという、確信に満ちた信じる心。これが、聖書が言う信仰ということばの意味です。どんなわざわいにあっても、どんなに人から非難されようとも、キリストの再臨がやってくることは間違いのないことだと確信させること、安定させることが信仰だと言っています。
 
 そのように信じることができる証拠は、神様の愛だけです。神様は真実で正しいお方だということを、私たちはキリストの福音書から知り、十字架という歴史的な神様の愛のしるしを通して、疑うことのない神の愛、それだけを頼りに、キリストが再び私たちを迎えに来てくださる。その時はこの肉体が贖われ、新しいからだをいただいて、完全に悩みや思い煩い、葛藤から救われる。その時がやってくる。喜びをもって待ち望むことができる。これを私たちの神様への信仰といいます。

「?鱗潜翼」(しゅうりんせんよく)
  大望を抱き、時期を待つこと。

★からだが贖われる再臨の時を、見逃さないように忍耐強く待つこと。

【俳句】 
みことばは 世に滴りし いのちの水

 「滴りし」は夏の季語です。みことばはイエス様御自身です。砂漠のような世の中で、唯一神様のみことばは、夏の涼しいところでポツポツ落ちる、いのちの水のようなものであると歌ってみました。

 

 

 

 

 

■2017年8月20日 日曜礼拝メッセージより(辻和希伝道師、横路伝道師)

 神の愛による召し  up 2017.8.20


主題聖句(エペソ1:18)
また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、・・を知ることができますように。

 

 

 

【辻和希伝道師メッセージ】
 今週の主題聖句にあります、「神の召しによって与えられる望み」がどのようなものであるかを、見ていきましょう。

A.神の召しによって与えられる望み1
 “召し”と聞くと、私たちの側からとらえると重々しく感じてしまいますが、神様の側からするなら、それは“選び”のことを意味します。
第1ペテロ1:2に、「神の予知に従い、キリストに従うように選ばれた人々」と表現されています。
 神の予知とは、エペソ1:4「神は私たちを世界の基の置かれる前から〜」とあるように、神様があらかじめ決定されたことです。その決定に基づいて万物は動いています。私たちの選びも、神様の決定によるものなのです。その選びによって与えられる望みがどのようなものかは、第1ペテロ1章に書いてありますので、ぜひ読んでみてください。
 少し話はそれますが、第1ペテロという手紙は、私たちが住む日本社会にとても当てはめることができますので、5章まで一気に読まれることをおすすめします。
 1章の中で特に注目したいのは8節「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており」という箇所です。私たちは、なぜイエス様を信じることができたのでしょうか。2000年前の異国の地の見たこともない方を信じることは、奇蹟なことです。特に日本社会において、キリストを主と信じることは、大変困難なことです。私たちは、見たことの無いイエス様を信じるという“選択”をしました。それは信仰によるものなのです。
 神様によって選ばれた者の一番の望みは、私たちの信仰を働かせるお方がイエス様だということではないでしょうか。イエス様を信じていなくても、強い意思力によって、物事を成功している人はたくさんいます。しかし、最後まで残るのは信仰と希望と愛であり、これらは全てイエス様につながっているものです。
 イエス様は、「私が道であり、真理であり、命なのです。」と言われました。イエス様を信じる私たちの道が正しいものであることに希望を抱き、真理を求め、命を全うする人生でありたいですね。

【横路伝道師メッセージ】
B)神の召しによって与えられる望み2
1)心の目が開かれる
 「心の目が開かれる」とは、霊の目によって、信仰の目によって見るということです。イエス・キリストを信仰の目によって見る、聖書の言葉も信仰の目によって読む、これが心の目が開かれるということです。聖書の中には驚くべき約束が与えられています。

*復活と永遠の命
*キリストとともに治める
*天の御国の永遠の相続者
 これらのことは、頭で考えても理解ができないかもしれません。しかし、信仰の目、心の目で見て理解するのです。

2)キリストのかたちに変えられる
*第1ヨハネ3:2
「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。」
 これは、イエス・キリストが再臨した時のことを指しています。私たちは選ばれて、神の子となっています。「後の状態はまだ明らかにされていません」とは、御国において私たちがどういう状態かはまだわからないということですが、再臨の時、キリストの花嫁として引き上げられて、顔と顔とを合わせてイエス様とお会いするということが聖書に書かれています。その時、私たちはこの体ではありません。天で永遠に生きることができる新しい体になっているのです。その時は、若くて一番いい時の体になっているといいます。キリストと同じように変えられるのです。同じ聖い体、同じ愛をもった霊で、天の御国に入るのです。

*ローマ8:29a
「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。・・・」
 これは、もうそのことが決まっているから、大丈夫ですよ、ということです。神様のかたちとは何でしょうか。神様の愛のかたちです。聖さと正義とあわれみ深さ、麗しさ、全ての良きものが神のかたちです。それと同じ姿に変わると、あらかじめ定めておられるのです。今悪い性質が残っているかもしれませんが、心配しないでください。変えられます。希望があります。私たちはこのみことばを信じて、希望をもって生きることができることを感謝します。まだ実感は湧きませんが、これは事実なのです。
 ノアの箱舟のことを思い出してください。ノアは神様の御声を聞いて、山の上に大きな舟を造りました。皆はそれを見てばかにしました。しかし、ノアは神が言われたことは必ずなると信じていたので、三階建ての大きな舟を、100年かかって造ったのです。やがて、雨が降り、大洪水が起きました。ノアは、神のおことばを信じてそれをそのまま単純に行ったのです。私たちもそうです。神のおことばが私たちの将来を約束されているのですから、「わかりました」と言って、信仰の箱舟を造りましょう。それは、神様の前にコツコツと毎日歩むことです。なすべきことをし、神様を礼拝することです。

*切望する・・期待の大きさ

 20年も前のことですが、私(横路伝)が会社に勤めていた時、論文やデザインや標語等の募集があり、当選したら、会社のアメリカ旅行にただで連れて行ってもらえるという話がありました。その時、あまり期待せずに標語を作ったら、なんとそれが当選したのです。そして、決定通知が来ました。信じられない恵みでした。神様の恵みによって、当選したのです。皆さんも、天の御国へ行けるという大きな恵みに当選したのです。
 当選通知を受け取った私は信じて準備をしました。まずパスポートを取り、旅行の準備をしました。約束の所へ行けるということを信じたからです。
 約束を得ている私たちも天国へ行くための準備をしましょう。それは、毎日を一生懸命生きることかもしれません。今なすべきことをすることかもしれません。礼拝になんとかして来ることかもしれません。それらは準備なのです。私たちは必ず天国に行く約束をいただいているからです。
 海外旅行では、聞くと見るとでは大きな違いがありました。天国に行ったら想像以上の大きな感動があると思います。それが私たちの切望しているものです。まだピンとこないという方も、必ず行けます。神の子として選ばれ、神様につながっておられるからです。どんなに栄光に富んだすばらしい御国に入り、イエス様と顔と顔を合わせてお会いし、神の子として永遠に過ごすのか、期待してまいりましょう。

 

 

 

 

 

■2017年8月13日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 神の愛に忠実  up 2017.8.13

(私たちを愛してくださった神の愛ゆえに、真心からみことばに従うこと。)


主題聖句(マタイ24:45)
主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。

 

 

 

 「神の愛に忠実」とは、私たちを愛してくださった神の愛ゆえに、真心からみことばに従うことを意味しています。神の愛とは、見えない神の形として、神様の愛の現れであるイエス・キリストのことです。
 この忠実とは、心に仕える態度、姿勢のことです。金もうけや利害関係ではありません。
 その家のしもべたちを任されるという主人の判断は、忠実な思慮深いしもべと認めて任せたと読み取ることができます。

「忠実」の意味
日本語=真心をもってよくつとめること。その通りにすること。
ギリシャ語=信頼できる。ゆだねることができる。信心深い。

 このみことばを、ギリシャ語に当てはめると、「食事をきちんと与えるような信頼できる思慮深いしもべとは」となります。日本語では、「真心をもってよくつとめること」と、行動を表現していますが、ギリシャ語は、心の内面を重視して表現しています。
 神様の愛に忠実、イエス・キリストに忠実とは、日本語的な意味からの、神様の愛に対して真心をもってよくつとめること、言われたその通りにすることですが、ギリシャ語から考えると、神の愛に信頼できる、ゆだねることができる、と逆の意味になります。このタイトルをギリシャ語からするなら、「神様から信頼できる者」「神様があらゆることをゆだねることができる者」と言えると思いますが、今回は日本語的に主題をつけています。
 
 私たちは、外面的な忠実さではなく、内面的な忠実さを神様の前の姿勢として崩さないようにしましょう。行いは100%忠実であることは難しい私たちの罪の性質がありますが、正しい良心、神を愛する聖い良心の内には、「忠実でありたい」「忠実に歩もう」という志があります。それを崩すことがないようにしていきましょう。

1.忠実さの源(使徒16:14〜15)
「テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。そして、彼女も、またその家族もバプテスマを受けたとき、彼女は、『私を主に忠実な者とお思いでしたら、どうか、私の家に来てお泊まりください。』と言って頼み、強いてそうさせた。」

★パウロが語る神の愛の福音を聞いたルデヤ。
★どれほど愛されているかを知ると忠実な心が生まれる。
 
 これは、彼女自身からパウロに対してバプテスマを受けた後、と言いました。当時紫色は、紫貝からしか色がとれない貴重な色で、紫は王が羽織る色として、高級品として使われていました。だから、紫布の商売は王族との商売だったので、ルデヤはとても裕福だったのです。どの神かは書いてありませんが、神に対しては敬虔な心を持っていたので、神様は、パウロの福音を聞くように彼女の心を開かれたのです。ルデヤは、自分は地位の高い人とのお付き合いがあるのだと、見下げてパウロの言葉を聞いた横柄な金持ちではなく、へりくだってパウロの語ることに心を向けたのです。ルデヤは福音に興味を持ちました。神が私たちを愛してくださり、その罪の赦しのために、ご自身が人となってこの地上に来られ、身代りにその罪の裁きのための苦しみを受けられ、救いを成就してくださったとパウロが語ったことを通して、ルデヤはバプテスマを受けたのです。そして、もっとお話を聞きたいと、「主に忠実な者、信頼できる者として私を認めてくださるなら、私の家に来てお泊りください。」と、パウロに家に来てくれるように頼んだのです。
 
 ルデヤは、福音を聞いた結果としての、神に対する忠実さを持っているということです。忠実さとは、忠実さを示す相手との人間関係、つながりの中で生まれてくるものです。それも、単なる親切ではなく、命に関わるほどの助けを受けるという受け止め方をすることができた人は、助けてくださった方への忠実な心というものを自然に持つことができるのです。
 ルデヤはパウロの話を聞いて、「神は本当に私のために、罪の赦しのための救いを表してくださった」と真剣に受け止めたので、「私はこの神様にだけに従って行こう」という忠実な心が湧いてきたのです。ルデヤは神様が愛してくださっているという熱い愛が燃え上がっていたのです。
 
 その人が何らかの愛を感じて、忠実さというものが内から湧き上がってきているかどうかが、本当に忠実であるかを見分けることができるポイントであると言えます。
 今日のメッセージを聞いて、「忠実にならないといけない」と律法的にとらないでください。自分の行いの状況や結果を見て、「私は不忠実だ」と、神様の愛を無視した自己判断や自己評価をしないように、気をつけてください。忠実さをあなたが願っているのなら、もっと神様の愛を知るように努めていただきたいと思います。そうすれば、努力なしに忠実になることができます。私たちの努力すべきことは、神の愛を知ることです。

2.忠実さを評価する主人(マタイ25:21、23)
「主人は言った、『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』」
★もうけの金額ではなく、忠実に働いたことを評価した主人。
 5タラント預けられた者と、2タラント預けられた者がいて、どちらも、もう5タラント、もう2タラントもうけました。そして主人が帰って来た時に、それを差し出しました。主人は、「あなたは5タラントに対して5タラントももうけたので、良い忠実な僕だ」とは言わなかったのです。「少しのものに忠実であったから」と言いました。5タラントとは、大きな金額です。たいていの主人は、金額で良い僕かどうか判断します。
 
 例えば、トイレ掃除をしておいてと頼まれた時、一応さっとやるのと、臭いが全くしないほどにしっかりとしたのとでは違いがあります。任された責任を問題なくやり遂げると、確かに見た目には忠実に見えます。「主人は臭いが消えるほどにちゃんと掃除してね。」とは言っていません。しかし、臭いが消えるまでにきれいに掃除すると、主人は「きれいにしてくれてありがとう。」と言うと思います。それは、その掃除した人の心の姿勢を喜んでいるということです。主人が喜ぶことを考えること、主人が願っていること、主人の心に忠実な人は、そこまで考えて掃除をすることができます。しかし、責任・義務という段階で、そこまで考えない人がいます。忠実とは、義務を果たすこととは全く違います。表面的な仕え方ではなく、心に仕える心の姿勢が重きに置かれています。だからギリシャ語の意味では「信頼できる、ゆだねることができる者」とあるのです。
 
 主人である神様は、何をもって忠実な心だとほめたのでしょうか。「お金をもうけた」というのは結果であって、「主人と一緒に喜んでくれ」と言ったように、「主人の心の思いにに応えた」という忠実さがここで評価されているのです。もうけた金額ではなく、忠実に働いたということを主人は評価しました。神様もそうです。行いの結果で忠実であるかどうかを見られる方ではなく、その忠実な心の姿勢に対しての評価をされます。たとえ結果が悪くても、あなたはよく忠実に働いてくれたと評価してくれます。
 しかし、5タラントに対して5タラントもうけたという結果は、いかに100%忠実であったかということの実なのです。だから、神に忠実に教えられたことを行えば、5タラントからもう5タラントを生み出す結果が生まれるという、忠実さの実をもこのたとえは示しています。だから、5タラントに対して4タラントだったという例は書いてないのです。忠実であれば、全うすることができる、結果もきちんと出るということを意味しています。どうぞ、結果を出すために忠実になるのではなく、忠実であれば自然と結果は良いものが生まれてくるということをここで読み取ってください。「心だけ忠実であったらいいのですね」という間違った忠実さをとらえないようにしてください。

★いのち(存在そのもの)の価値は、忠実さにもよる。
 人のいのちは、同じ価値があります。どんな人でも、人間のいのちは同じ重さです。しかし、主人にとって、平等のいのちの価値ですが、どちらのいのちが評価が高いかというと、一つは「忠実」といういのちの使い方をする人の方を、「良いしもべだ」と高く評価したのです。忠実というのは、いのちそのものに価値を積み重ねること、徳を高めていく一つの要素です。主人である神の目に尊い者として受けとめられる一つの条件が、忠実であるということです。神も忠実な者を喜ばれます。

3.本物の忠実さ(ルカ16:10)
「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。」
★小さい事に忠実であるかどうかで見分ける。
★小さい事→この世での生活
 忠実というのは心の姿勢ですから、事の大きいも小さいも関係なく、どちらも同じ忠実さが適用されているかどうかが大切です。ですから、本物の忠実さは、小さい事に忠実であるかどうかで見分けることができます。

 昔、東京の渋谷駅の前で主人の帰りを待つ、忠実なハチという犬がいました。この犬のご主人の上野教授は、非常に犬を大事にする人でした。この教授が、急に学校で脳卒中で倒れて亡くなりました。なかなか帰って来ない主人をハチは、忠実に迎えに行きました。最初はどこの犬だと周りの人に相当いじめられたそうです。朝は9時の見送りの時間に行き、帰る時間に迎えに行きました。なんと、その犬が死ぬまで10年間もそれを続けたのです。このハチは、親戚など持ち回りで引き受けたのですが、最終的には元の家の近所の方が引き取っていました。そこから朝夕、ほぼ毎日通っていたのです。犬でさえも飼い主の恩を忘れずに、飼い主に心を向ける忠誠を持ち続けて貫き通す、主人に対する忠実な心を示す行動をしたことで、今でも渋谷駅の前に銅像があるのです。

 また、明治時代の名将軍と言われる乃木大将という人の話があります。彼は西南戦争で、軍旗を敵に奪われるという大失敗をし、飲んだくれになったそうです。しかし、数年たって国からドイツに一年間だけ軍事の学びをするように派遣されて、心が完全に変わって日本に帰ってきました。飲んだくれだったのが、規律正しい陸軍曹として帰ってきました。彼が日本の陸軍の規律を全部やり直し、成果は日清戦争で表れました。
 しかし、日露戦争で大変な目にあいました。結果的には勝利したのですが、旅順の要塞を陥落させるために、相当の兵士が犠牲になり、自分の二人の息子もそこで亡くなりました。日本国内では、いつまでそこで戦っているのかと、奥さんの残された家に、石や卵を投げられ、罵倒を浴びせられて大変な状況でした。それでも戦い続け、数年かけて勝利したのですが、10万人以上の犠牲がありました。そのことが彼にとっては大きな心の傷となり、勝利して帰ったのに凱旋にもパーティ−にも出ず、天皇陛下の前に出る時は責任をとって自害すると申し出ました。
 しかし、明治天皇は「死ぬのなら私が世を去ってからにしてくれ」と言い、彼はそのご慈悲に感動し、「この命はもう自分のものでなく陛下のためのものである」と、今度は軍隊ではなく教育に力を注ぎ、学習院の院長となり、明治天皇は孫の昭和天皇の教育係に乃木大将を任命しました。乃木大将がどれだけ国に忠誠をもって一生懸命戦い、犠牲を払って勝利に導いたか、その忠実な心を見て信頼され、慈悲を与え、孫の教育を任せたのです。昭和天皇は乃木将軍から道徳性、品性を引き継がれ、命を大事にし、兵士たちの命を心から心配される方でした。最後まで乃木将軍は忠実であったのです。彼は最後の侍と呼ばれました。
 自分の存在、命に関わる慈悲、恩を受けたとわかった人は、命をかけてでも忠実でありたいという願いが湧き起こるのです。心からの忠実さは、小さいも大きいも関係なく、ゆだねられたことを一生懸命果たすのです。それは、やりなさいと言われたことだけをやるのではなく、それを大きく発展させ前進させていくように、一生懸命従事していくのです。
 
 私たちが永遠の滅びから救われるために、神のひとり子が私たちの罪のための犠牲として十字架で苦しみを受けられ、三日間ハデスに下り、よみがえられたという大きな愛の犠牲を神様は私たちに示してくださいました。それなので、私たちの命は自分のものではなく、キリストのものであるとパウロは語っています。そこまで神様の愛と救いに対して恩義を感じるなら、忠実さというのは言われてするのでも、教えられて気付くものでもなく、自ら内側に湧き上がってくる自然な愛に対する応答の心の動きであるのです。忠実な心というのは、愛を知れば自然に持つことができるのです。どんなに愛されているのか、その愛に触れたなら、大小に関係なく忠実にその与えられたお言葉を守っていくのが、自然な愛の応答の姿勢なのです。

【デボーション参考ポイント】
神はいつ、私たちを忠実な者と信頼してくださったのでしょう。
 
 人は、状況や様子を見て、忠実かどうかを測ります。私たちは、神様を知らない時は、不忠実の極みの中にいました。不忠実な罪の中にあった私たちのために、神は私たちを愛して御子を遣わされました。忠実なものと信じて罪のための犠牲を払ってくだいました、ここに愛があるとヨハネは言っています。私たちは小さな事に忠実であるように、まず今任せられているものに対して、愛のゆえに忠実でありましょう。

 
「尽忠報国 神の国」

 「尽忠」→君主や国家に忠義・忠誠を尽くすこと。

 「報国」→国のために力を尽くして国の恩に報いること。

★神の愛に忠節を尽くし、神の国の恩に報いる

◎「尽忠報愛」

 私たちを愛して罪の贖いを成し遂げられた王の王、主の主であられるイエス・キリストの恩に報いて忠義を尽くす。

【俳句】
    うだる日に 蟻から学ぶ 忠実さ

 

 

 

 

 

■2017年8月6日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 平和を愛する  up 2017.8.6


主題聖句(ローマ12:18)
あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。

 

 

 

 8月6日は広島に原爆が投下された日です。自分の権利、利権を主張するような社会にあって、平和を利権と考え、自分の立場を守ろうとする、それが国であれば、そこに戦争が起きるわけです。
 私たちも個人主義の価値観の中で、自分を守るために平和を壊しているのではないか、もう一度平和ということを私たちは御言葉から見ていきたいと思います。

(ローマ12:18)
「あなた方は、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。」
 
 「自分に関する」というのは、自分に関係のある人々との間においてということです。もし私たちが平和を願うならば、自分と関わりのある人々との平和を保つようにと聖書は教えています。それによって草の根運動的に世界中の人との間に平和を保つことができるのです。
 身近な方々との平和を築いていくために、少しでも皆さんの助けになる御言葉から、少しお話をさせていただきます。

1.平和の価値
「一切れの乾いたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。」(箴言17:1)
 平和の価値は豊かさにはよらず、豊かさより、平和が優先されています。今は物質的社会ですから人々は反対に、平和は豊かさによってもたらされ、豊かであれば平和が訪れると考えます。豊かさを優先する平和の考えがあるから戦争が起こるわけです。ソマリアの内戦はその顕著な例です。一部の権力者が豊かさを手にすることによって多くの国民が貧しくなり、反政府軍の内乱が起こり今は無秩序で不幸を招いています。豊かさが平和をもたらすと思っているからです。
 西欧のキリスト教国でさえも植民地主義の時代、富を求めてアジア・アフリカに出ていき、貧しい隣人たちに対して圧迫を与えたという歴史があることをを忘れてはいけません。
 一切れのパンがあって平和であるという、この平和の価値をもっと見出していきましょう。物質世界の経済社会の価値観に私たちは惑わされないように、洗脳されないように気を付けていきましょう。

2.平和があるところ (ローマ2:10)  
「栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、善を行なうすべての者の上にあります。」
 平和はどこに存在するかというと、善を行う全ての者の上にあり
ます。善というのは宗教的、社会道徳的、人道的あらゆる意味における善です。そういう人々が栄光と誉れと平和を手にすることができるというのです。
 いろいろな平和活動家がいます。彼らの理論や主張は確かに言われる通りかもしれませんが、それは主張であって善を行っていることではありません。善を行っている者に平和は存在するのです。
 自分に関する限り、すべての人と平和を保つという神様のお言葉にのっとって、草の根運動的に、隣人に善を行うよう努めてまいりましょう。

3.平和は実現させるもの(マタイ5:9)
「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子供と呼ばれるからです。」
 平和はつくるものであり、自然にやって来るものではありません。
意志的に平和をつくるように働きかけなくては、平和はやってきません。自然にやってくるように見えるかもしれませんが、必ずどこかで誰かが平和の為に犠牲を払っているのです。
 この世界は暗闇の世界ですから争いの世界です。放っておけば争いの世界があふれています。
 しかし本当に平和を求める人は、その争いの世界の中で平和を造り出すように、生み出すように、意志的に努力して働きかけていく、ということです。  
 日本はそういう意味で戦後、平和国家として、あらゆる人々との和平を中心に争いを避けるようにと政治がなされてきました。それはすばらしいことだと思います。信念がないとか色々言われますが、自分のカラーを主張すれば争いしかないのです。そして力の強い方が治める結果になるということを、先の戦争で学びました。むしろ、妥協しながらも平和を保つことの方が最小限の犠牲で住むという、甘い考えだという人もいるかもしれませんが、それが70年後の日本の平和を保ってきたと言えるのです。
「何回約束破るのですか。この国は!」というようなことがあっても、争わないように努力していく・・・こういう考えは私たちの互いの間にも必要だと思います。  

4.平和をつくるために(エペソ2:14−16)
「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」 
 選民イスラエルとその他の異邦人の間には、モーセによって与えられた律法からくる区別があり、それが差別となって争いのもとになっていたわけです。神様は決して人を差別される方ではありません。神様は人を愛しておられます。神様との和解を通して、異邦人も選民イスラエルも同じ神の形に造られた同じ人間として、互いに愛し合うようにということを、イエス・キリストを通して語られました。十字架によって神と和解させ、敵意は十字架によって葬られましたという表現がここにされているのです。
 それはさておき、大事な点は、「隔ての壁を打ち壊して、敵意という壁を廃棄された」ということです。—— 平和の問題点は、この敵意という壁があるかないかということです。
 イスラエルはヨルダン西岸地区に大きな壁を築きました。あれは何の意味の壁ですか?ここからはイスラエル人、ここからはアラブ人、という壁ですか?それならあんな高い壁はいらないでしょう?アラブ人の敵意の高さによって、イスラエルはあの壁を作らざるを得なかったのです。世界の報道はそのようにはなされていませんが、イスラエルはアラブの人との和解、平和の為にどれほど努力してきたことでしょう。
 イスラエルは平和の為にと譲歩しても、決して和解しないアラブ人の側はその譲歩を利権として受け止めて、自分たちは決して約束を守らない、そして攻撃に出る、そんな中でどうしても壁を造らざるを得なかった。平和にイスラエルが暮らして問題が起こらないように、それが壁が作られた理由です。壁というのは敵意の現れなのです。
 皆さんの家には部屋割りがありますね。壁で区切られていますね。
プライベートを守るため・・・これは、どういう意味ですか?個人の存在を邪魔されないように壁を作る。そこは皆さん感じていないかもしれないけれど、敵意という無意識の態度が“プライベートを守る”という言葉で、壁として部屋割りを作ってしまっているのです。
 プライベートを大事にするという考えの極端なとらえ方が敵意を家族の間でも生み出しているのです。夫婦の間でも部屋を別々に持つ・・・敵意の生まれた結果です。
 皆さんはプライベートを守るということが、そこに敵意が存在するということだと意識したことはないでしょう。壁というのは敵意があるから、敵意がお互いにぶつからないようにと仕切りを作って、平和を保つということなのです。よく考えてみてください。この隔ての壁、個人主義、自己中心、自分の利権を守るというこの姿勢が、互いの間で見える形で火花が散らないように一応壁を作って、偽りの平和をそこに生み出すということです。
 壁がある限りは敵意はなくなっていません。壁があっての平和は本当の平和ではないのです。
 イエス・キリストは、個人主義的な自己中心の罪の働きかけによるこの世の考え方を、愛によって、敵意という壁を取り除くことを、私たちに身をもって教えて下さったわけです。そのことをエペソ2章14節から16節まで、イスラエルと異邦人が一つになる、隔ての壁をイエス・キリストによって壊されて神の子としての一つの民になる、そのことを通して私達に個人レベルでも同じように、隔ての壁を神様の愛によって打ち壊されて、本当の平和、愛による平和がそこに生み出されるということを、パウロは語っていると思います。
 
 広島にある「シュモ—ハウス」をご存知でしょうか? 被爆の町広島に、被爆した人々のために献身的に家を建てたアメリカ人の話です。
 彼は名声・名誉を嫌いましたので絶対自分の名前を使うのを拒み続けたのですが、広島、長崎に原爆を落としたということで心を痛め、ルーズベルト大統領に電報を送って批判しました。
 彼は、キリスト教徒の中の特別な宗派で平和・和解ということに関して、内なる光を輝かせるということにおいて教えをしていた団体のクリスチャンです。
 彼は広島の焼け野原の惨状を見て、彼らに家を建ててあげたいと、一口1ドル運動で、日本人の為に広島の為にアメリカで募金活動をしました。
 誰が日本の為に募金するでしょうか?真珠湾を闇討ち攻撃した日本です。ひどい日本バッシングがあった時です。彼はそのアメリカ本土で日本の為に家を建てる募金活動をしたのです。4年かけて集めました。最初は誰一人いなかったそうです。
 あきらめず4年続けて4000ドル集め、広島に来て二棟の家を建てたのです。
 日米のボランティアで協力して彼自らも大工仕事をして、幸い日本に大工ボランティアがいて十数人の人がともに家を建てました。
 建てている間、日本の人たちはアメリカに対し反発があり、そんな批判にも負けず彼らの為に一年かけて家を建てました。それがきっかけで長崎にも建て、広島には二十数件、彼も共に家を建てたということです。
 なぜ、この話をしたかというと、敵意というものがアメリカ人と日本人の間に壁としてあったのを、彼は率先してその壁を打ち壊す為に非難される中で心からの愛を表し続けたからです。その結果、今は壁が完全に取り除かれ、広島の為に尽力してくれた素晴らしいアメリカ人として記念してシュモーハウスという記念館が、江波に建てられています。
 敵意を取り去るのは、ひたすら「愛」だけしかないという良い事例ではないでしょうか?
 私たちも、夫婦の間、家族の間、その間に敵意という壁が生まれてしまっていないでしょうか?教会の兄弟姉妹の間にもです。神様は敵意という壁のある教会を作りたくありません。プライベートを一人一人与えてくれるような神様ではありません。キリストの体として皆が一つになることを考えておられます。
 私たちは自分の利権を主張して見えない敵意という壁を作らないように気を付けましょう。
 この壁が、争いの原因がそこに存在している、原因を持っているという「しるし」なのです。壁を作っているから平和なのであって、それを取り除いたら大変な争いが生まれますから、本当の意味では敵意はなくなっていない、ごまかしであるということですね。
 神様は敵意という壁を取り除いた、愛による平和を願っておられるのです。どうぞ身近な人との平和の為に、隔ての壁を取り除く努力をしてまいりましょう。

【俳句】 
 被爆都市  唯一の願い  相互愛

 世界で最初に原爆を投下された町の強い願いは、「戦争は嫌だ」という思いだけでなく、戦争をやめるために互いに愛し合うという運動を広げていけたらいいということです。
 それが私たちに神様が与えて下さったエルサレムプランの中心、互いに愛し合う関係をこの町の中で築き合うことです。
「私たちは自分に関係する限り、すべての人との平和を保ちなさい。」互いに愛し合うことを努めていきましょう。
 自分の利権のためにではなく、平和の為にこのことを進めていきたいと思います。

 

 

 

 

 

■2017年7月30日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 神の愛に生きる  up 2017.7.30


主題聖句(ローマ5:6〜8)
私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

 

 

 

 聖会の流れの中で、私たちは大きな神の愛に心を動かされ、イエス様についていくという決心をしました。それは、神様の愛に自分を委ねる・ささげること、すなわち神様の愛に献身することです。今週の主題「神の愛に生きる」とは、これと同じ意味を持っています。
 
 私たちはどのような神の愛に生きるのでしょうか。どのような神の愛に自分自身を委ねようという思いになるのでしょうか。このローマ5章のみことばは、キリストを信じる者は、言葉に尽くせない、いつくしみとあわれみと恵みとに満ちた、神様の私たちへの愛によって生きるのですよ、と教えています。
 旧約聖書において、律法のまず最初に「神を愛すること」が謳(うた)われています。律法の全体を表わすモーセの十戒、そのはじめの5つは「神を愛すること」についての戒めです。それに続いて「人を愛すること」について語られています。「人を愛すること」の1番目には「あなたの父と母を敬え。」とあります。見える肉の父と母を尊ぶことは、父なる神様を敬うことにつながり、隣人を愛することにおいて大切なのだということなのです。
 
 私(辻牧師)自身も、若い頃は自分の父に対して多少の受け入れがたい思いを感じたこともありました。しかし、その後社会に出て様々な人生を通る中で、育ててくれた父への恩を感じ、また「父の存在があっての自分である」ということに気づかされました。私たちは育った環境がどうだから、などと考えがちですが、それは問題ではありません。まことの親、霊の父である創造主なる神にお出会いすることが何よりも大切なことです。才能や能力がどうかということも関係ありません。愛なる神様を知ることができた、これが人生において最も価値のあることなのです。
 神様は、父親として私たちに大きないつくしみを注いでくださっています。ローマ5章のみことばには、キリストは「不敬虔な者のために」死んでくださったとあります。誰が不敬虔な者のために自らいのちを捨てることができるでしょう。母親が至らない子どものために、いのちを削って助けようとする、そのような親の愛以外にはないのではないでしょうか。
 
 父なる神様は、私たちが敬虔であるかどうかという前に、「わが子」として見てくださっています。だからこそ、不敬虔な者のためにいのちをかけてくださったのです。義理人情や武士道のように主君のために身をささげるということも日本文化においてはあることでしょう。しかし、キリストは「私たちがまだ罪人であったとき」死んでくださいました。
 罪人とは、神に背く者、神を敬わず、自分の思い通りに利用しようとする者たちです。まさに十字架にかかられたイエス様に対して「もし、神の子なら…降りて来い。」と侮辱した者たちと同じです。そのような自己中心なわがまま者のために死んでくださったのです。
 私たちは、あの人はいい人だ、この人のためにはいのちをかけてもいいかな、と自分の好みで判断します。イエス様の好みは義人です。しかし、私たちへの愛のゆえに、義人であるか否かではなく、私たちの存在を愛して、贖いの御わざをなしてくださったのです。このことによって、神様は私たちへの愛をはっきりと表してくださいました。

 第4聖会の中で、イエス様はご自分の花嫁として迎え入れるために、花嫁の借金を全部肩代わりして支払った上で、「わたしの花嫁になってくれませんか。」と声をかけてくださっているのですよ、とお話しました。そこまでしてでも、という愛を私たちに持ってくださっているのです。しかも強制ではありません。「永遠に変わらない愛を示しました、この愛を信じてわたしのもとに来てください。」と頼んでおられるのです。そしてこの愛を誰も見過ごすことがないようにと、主イエス様の十字架の贖いという事実を歴史に刻んでくださったのです。
 このような神様の愛の中に私たちは生かされています。この愛に生きて行こうではないか、というのが私たちの主イエス・キリストへの信頼であり、信仰です。これほどの愛を注いでくださるお方は、私たちを永遠のいのちに導いてくださるよき神様です。ある時はやさしく、ある時は厳しく、苦労も辛さもすべてよきものとして与え、また将来に渡ってよきものを与え続けてくださるお方です。皆さん、そのように信じておられるでしょうか。
 
 イスラエルの人々はあれだけモーセを通して奇跡としるしが表され、さらに紅海を渡るという奇跡を体験しながら、よき神様と信じることができませんでした。私たちの罪を赦すための身代わりの代価として、ひとり子イエス・キリストをおささげになった神様が、どうして良いものを与えられないことがあるでしょうか。父親がパンを下さいという子どもに石を与えるでしょうか。魚を下さいというのに、蛇を与えるでしょうか。このように、いろいろなみことばを通して、神様は絶対よいお方だ、と十字架に表された愛を通して信じ切ること。これが神の愛に生きることになるのです。
 
 私たちの愛する気持ちが弱いと、神様の大きな愛を受け止めきれません。神を愛する心よりも、自分の欲を優先する思いの方が大きいからです。自分の思い通りのことができない、と無意識のうちに罪の力が働くのです。私のいのちを永遠の滅びから買い取ってくださった、イエス様の愛にのみ生きることが私の本心、正しい良心なのだ、と肉の思いを切り捨てることです。人格のない欲望という感覚に惑わされないようにしましょう。

 次に、神様の愛に全き信頼をおいて生きるということは、私たちの人生にどのような意味をもたらすのか、どのようなことが現れてくるか、3つのポイントから見ていきましょう。

1.キリストのかおりとなる(第2コリント2:15)
「私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。」

【内容観察】
私たちは、神様にとって心を喜ばせるかぐわしいキリストのかおりであって、人々のためのかぐわしいかおりではありません。

★神様のためのかぐわしいかおり
 神の前にかぐわしいかおりであって、救われる人々や滅びる人々の前でかぐわしいかおりではありません。あなたは神様の前にかぐわしい、神様の大好きなかおりです。
 
 人にもそれぞれ好きなかおりがあります。私はばらのかおりが好きなのですが、そのきっかけはばら園で自然のばらのかおりに触れたことです。本物に触れると、にせものはじゃまになります。私たちも、神様の愛のかおりを知れば、それ以外に私たちの心を満たすものはなくなってしまいます。その神の愛のかおりが私たちの内に宿ることを通して、神様を愛するという愛のかおりが内側から放たれていきます。これがキリストのかおり、神を愛して、人を愛するというかおりです。

 

2.真理の証しとなる(第1ペテロ2:12)
「異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行ないを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。」

【内容観察】
不敬虔な人々の中にあって、神の愛に生きなさい。そうすれば、彼らは、神を敬わない心からあなた方を悪人呼ばわりしていても、あなた方が神の愛に生き続ける姿を見て、キリストの再臨のときに神をほめたたえるようになります。

★神の愛を証明することになる
 今は情報社会、さまざまな方法でキリストを宣伝することが可能です。しかし、その情報によって伝えられたことばがどこまで真実であるかを示す、実在的証明が少ないのです。文章や写真はいくらでも発信できます。しかし実際に目の前で神の愛に生きる人があまりに少ないために、日本では神の愛に目が開かれていない現状があるのではないでしょうか。
 十字架に表された神の愛に応答していく生き方は、すべてのものが愛なる神によって、愛を基に創造され、愛によって成り立っているという真理を自然に証しすることになります。心に湧き上がる愛をもって生きることが証しとなり、キリストのかおりとなって、人々の心を動かす力となるのです。人は心が動かされることによってのみ、真に神を信じる心が生まれてくるのではないでしょうか。

3.愛に生きる人生を推薦することになる(第2コリント6:8a)
「また、ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。」

【内容観察】
また、ほめられても、そしられても、悪く評価されても、良い評価を得ても、人々のあらゆる態度に対し、神の愛に生きている自分を通して、神の愛に生きるようにと人々に勧めているのです。
★愛は『不言実行』である
 不言実行の意味=文句や理屈を言わないで、自分の信ずることや、
         やるべきことを黙って実行すること。

 「推薦する」とは、証しする、信じることを勧める、ということです。「神の愛に生きることはどんなにすばらしいか」を身をもって証しし、自信をもって語れることです。私たちはそこまでの確信をもっているでしょうか。失敗をしない、罪を犯さない、主イエス様のように完全でなければならないと思っていると、その確信は弱くなります。
 成功して推薦することは、世の中でもあることです。しかし、神様の愛は、失敗や犯した罪のゆえに打ちひしがれた人々を立ち上がらせるすばらしい愛です。そして、私たちが力の足りない、失敗の多い者であるからこそ、神の愛を証しすることができるのです。「神は罪の赦しを与え、やり直すチャンスを与えてくださるお方。こんな私でもあきらめずに期待して励まし続け、神の国まで導いて下さるすばらしい神です。たとえ私自身があきらめても、神様は決してあきらめられることはありません。ぜひ、このすばらしい神様の愛に生きることをお勧めします!」というふうにです。
 罪人ができる、神様の愛の証しは、失敗を通してです。失敗こそが、神様の赦しの愛を証しできるときです。

【デボーション参考ポイント】
 神の愛に生きるための試みに備えておく。
 
 私が献身すると言ったとき、両親が牧師と面会するために教会に来たことがあります。それほど心配だったようです。そのときから「自信を持って神様を証しできるようにしてください。言葉ではなく、私のクリスチャン人生そのもので、両親が神様を信じることができますように。」と神様に祈り続けてきました。
 それから私は、ずっと神の愛を第一優先として歩んできました。教会行事があったため盆や正月にも帰省することなく、また親からの援助も一切受けることをしませんでした。どんなに貧しくなっても親に頼ることはせず、ただ神様の愛にのみ頼り続けました。最初のうちは「あれはキリスト教に洗脳されたのだ」など、家族の中で言っているようでしたが、20〜30年もの間微動だにせず、信じ続けて歩むうちに、少しずつ認めてくれるようになってきました。
 
 苦境に立ってこそ、一途に神様の愛に信頼し続けて行動する。これがキリストのかおりを放ち、真理を証しし、神の愛に生きることを推薦することのできる確信となっていくのではないでしょうか。

【俳句】
神の愛  赦されし者の  香水や

 罪の悪臭を覆う、神様の愛の香水を私たちは身に付けています。神様の愛のかぐわしいかおりを、人々に惜しみなく放って行くように、神の愛に生きて行きましょう。

 

 

 

 

 

■2017年7月23日 日曜礼拝メッセージより(辻和希伝道師、横路伝道師)

 神の思いに心を合わせて(2)  up 2017.7.23


主題聖句(ピリピ2:13)
神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。

 

 

 

【辻 和希伝道師メッセージ】
A)「神の栄光を現す使命」
(第1コリント6:20)
「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」

 先週は夏期聖会でした。各々が神様から恵みを受け、新たな力を受けるひと時であったことと思います。私も聖会で受けた恵みをお分かちしたいと思います。
 聖会では、「世界の基が置かれる前から、神の子として、相続人として定められている。」「神様のビジョンは、神のご性質を私たちに継承すること。」ということが話されました。これらのことから私のうちに一つのみ言葉が強く浮かびました。それが1コリント6:20です。神様の栄光を現わすことが私のビジョンであり、使命であることを強く再認識致しました。
 少しみことばの内容を見ていきましょう。“代価”とは、イエス様の十字架のことです。私たちは、イエス様という代価を通して、罪の世界から贖われました。ですから、私たち自身は、私たち自身のものではなく、贖ってくださった主のものなのです。十字架の御業は、歴史的事実であり、私たちが信じても信じなくても、事実が変わることはありません。
 後半の”からだ”とは、そのままの意味でわたしたちの肉体です。私たちの罪は十字架で赦されましたが、肉体にはいまだ罪が宿っており、不完全なものです。そんな不完全なからだをもって、神の栄光を現わすことを、主は望んでおられるのです。ここに真理があります。私たちのからだは、聖霊の宮であり、不完全を聖霊様の力で補うことで、この地上で神様の栄光を現わすことができるのです。
 
 では具体的にどのように神の栄光を現わすのでしょうか。ヒントは、イエス様が大切な戒めとして言われた、「隣人を愛する」です。
 みなさんにとって、隣人を愛するとはどのような行動になるかを考えてみましょう。それが、神の栄光を現わす第一歩となるはずです。 また、からだ=人生と捉えるなら、私たちの人生を精一杯神様のために生きるということも、神の栄光を現わすことに繋がります。
 何をどのようにするかも、人に教えてもらうのではなく、神様の前に精一杯考え、そして行動に移すことが、この地上で神の栄光を現わす使命を持つ者の生き方であると、私は考えます。

【横路伝道師メッセージ】
B)「教会は目に見えるキリストの証人」
 聖会の中で、「キリストは見えない神の証人であるように、私たちは見えないキリストの証人である」と言われました。教会は、目に見えるキリストの証人であると言えます。

1)ヨハネ13:34〜35
「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」

※キリストの証人となるためのビジョン 
 「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」とあります。イエス様は、全ての人のために無条件で、進んで自分の命を捨てられました。そのように、私たちも互いに愛し合うことが私たちのビジョンです。
 イエス様は、自分の気に入った人だけを愛したのではなく、罪人や病人、弱く貧しい人たちの友となられ、愛されました。そのように、私たちも互いに愛し合い、赦し合い、受け入れ合うことが、私たちのビジョンとしてこの教会に与えられているビジョンなのです。
 私たちはキリストによる家族です。まだ私たちは未完成なので、互いにぎくしゃくすることもありますが、まるで家族のように互いに赦し合い愛し合えば、その姿を見て周りの人々は、「クリスチャンはすばらしいな、私もその中に入りたい」と思うのです。

2)コロサイ3:12〜13
「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」

※キリストの証人となるための献身
 私たちは、神の前に全て献身している者です。買い取られたものです。
 昔、奴隷市場があった時、奴隷として売られていた人をかわいそうに思って、お金を払って買い取る人がいました。その奴隷が自由になりたいと思えば、自由になれるのですが、その買われた奴隷の中には、喜んでこの主人に仕え、人生をささげた者もいたのです。
 私たちは、罪のために滅んでしまうはずでしたが、イエス・キリストが十字架の上で血を流して、買い取ってくださったのです。買い取ってくださったイエス様に一生をささげたいと願うことが、献身です。
 献身とは、神様のために全てをささげて修道院で過ごす人になるようなイメージがありますが、形の上での献身では神様は喜ばれません。神様は心を見られます。
 神様のために、自分をささげ、献身するとはどういうことでしょうか。それは、神様のために時間をささげることです。また、経済をささげたり、思いをささげり、愛をささげたりすることです。神様を求め、信じ、期待して、もっと神様を知りたいと聖書を読むことです。
 しかし、最も神様が喜ばれる献身とは、「互いに愛し合う」ことではないでしょうか。神様が私たちにしてくださったようにするとは、隣人に対して献身することではないでしょうか。
 隣人のために時間を取り、交わり、共に祈り、必要を助け、つらいことがあっても忍耐をして、隣人を愛し仕えること、これが神様に仕え献身していることと同じではないかと思います。隣人を愛するために、今よりもっと交わりなさい、祈りなさいと言われているのではないでしょうか。
 自分のことで一杯で、なかなか難しいかもしれませんが、神に仕えるように隣人に仕える心を持つことが、私たちの献身ではないかと思います。
 隣人とは、自分の家族や友人だけではありません。良きサマリヤ人の話があります。サマリヤ人は、自分を嫌っている、普段付き合いのないユダヤ人が倒れているのを見てかわいそうに思い、助けました。自分の好ましい人だけを隣人とするのではありません。自分の苦手な人こそ、隣人なのです。その人のために献身しなさいと言われているのです。まずそれを教会の中で始めましょう。それが互いに愛し合う愛の教会です。その愛を見て、「この教会に来たら愛がある、この交わりに入りたい」と、人々が思うのです。
 イエス様は、「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」(マタイ25:40)と言われました。弱い人、貧しい人、問題のある人、病気の人々は、イエス様の兄弟なのです。その人にしなかったことは、イエス様にしなかったことであり、その人にしたことは、イエス様にしたことなのです。

3)ヨハネ14:17
「その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」

※私たちの内に住まわれる聖霊様の助け
 イエス様に献身することは、隣人に献身することです。最も小さい人にしたことは、イエス様にしたことです。これが、キリストの愛の証しであり、教会はすばらしい所となるのです。このことを目指しています。それは、自分の力ではできませんが、それを実現するために聖霊をくださっているのです。聖霊様を求めなさい、聖霊様に導かれて歩きなさいと、聖書の中に何回も書いてあります。助け主なる聖霊様が、必ず助けてくださり、今出来ていなくても出来るようになるのです。私たちには、聖霊様の助けによる希望があるのです。このような、愛の教会を目指してまいりましょう。

 

 

 

 

 

■2017年7月15〜17日 2017夏期聖会メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 神の思いに心を合わせて  up 2017.7.16


主題聖句(ピリピ2:13)
神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。

 

 

 

 今年のテーマは、(ピリピ2:13)「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。」 です。願いとは神を愛する心から起こってくるものです。自分の願いばかりでがなく、神の願いを知り求める心が必要です。それでは、神の願いとは何でしょうか。今回は第一聖会で「神のビジョン」と題して見ていきたいと思います。

第一聖会 
「神のビジョン」
(エペソ1:4-5)
「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」
 このみことばは、ジーザスフェローシップ広島の広島エルサレムプランにおける神様の期待として与えられています。どんな期待をもっておられるのでしょうか。

1.世界の基が置かれる前から定められていたこと
 神はご計画をしっかりと心の内に持たれる御方です。エペソ1:5の「みこころのままに」とは確かなご計画と言えます。決して変化するものではありません。
 「私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」これが神のビジョンです。これは決定です。創造の御業を行われる前に決めておられたのです。ゆえに皆さんの存在はあらかじめ神の子と定められていますが、それを受け入れるかどうかで違ってきます。

(1)神の子(ガラテヤ3:26)
「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。」
 救い主イエス・キリストを受け入れる時に初めて、神の子となるという定めが始まります。信仰は将来への期待です。何故、イエス・キリストを信じることが求められているのでしょうか。私たちは自由意志が与えられているので、自分でする決断を神は求められるからです。神の子になるという定めを受け入れるかどうかを自由意志により決断するように、神は私たちに求められているのです。
 父と子という愛による結びつきを持つためには、この自由意志により愛によって信じるということが大切です。

(2)相続人でもある(ローマ8:17)
「もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」
 神が持っているものを受け継いでいくという意味が「子ども」にはあります。神は相続人がいるから万物を造られたとも言えるのです。神の子である私たちが万物の中心です。
【神の創造のビジョンにおいて創造主の子ども、創造主の相続人と決定し、私たちを生み出してくださった。これが私たちの存在の目的である】
 これが神のビジョンであり、根本の計画です。ここにはっきりと私たちの存在目的が語られています。

【ここに生きて存在していることにもう迷う必要はない】
 あなたがしていることはすべて、神の子として神のものを相続するためであるということです。万物は私たちが神の子となり神の相続人となるために存在します。もう迷う必要はありません。
(ヨハネ1:12-13)
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」
 神の子として私たちが生きるのは存在の定めです。

【人間の意志や計画によってあなたは生まれたのではありません】
 あなたが例え両親に恵まれていなくても、あなたの霊の親は神であり、ご計画をもってあなたをこの地上に存在させたのです。

【ただ、神によって生まれてきたのです!】
 それゆえ人生に対する迷いはなくなります。ただ神の国の相続人としての道を歩めばいいのです。
 「最後まで神の子として生きよう!」と決心しましょう。これだけが真理であり、答えです。神のご計画は決して揺るぐことはありません。

2.相続する者とは?
(1)父なる神の聖さに預かる者(ヘブル12:10)
「なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。」
 このみことばには、神が父として自分の子に対する意志が表れています。ご自分の聖さを継承しようとされているのです。すべての試練も悩みも葛藤もそのためなのですから安心してください。

(2)神のご性質に預かる者(第2ペテロ1:4)
「その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。」
 罪人である私たちが神のご性質を継承する者となるとは何と驚くことでしょうか。罪の世界で一時的に苦しむのも、十字架によって神の愛を知るためです。迷ったらすべてが虚しくなります。しかし神の子として生きるという決心さえすればすべては益と変えられます。

(3)御国を相続する者(ヤコブ2:5)
「よく聞きなさい。愛する兄弟たち。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束されている御国を相続する者とされたではありませんか。」
 「御国を相続する者とされた」これが世の始まる前から定められていたという絶対動かない確信を神は持っておられます。ただ私たちが愛を受け入れるための自由意志を欲望に向けてしまうとすべて無駄になります。ルシファーは欲に走り失敗しました。しかし私たちは神の形に造られたので、十字架によって自由意志は愛に向くことができます。

【父なる神のご性質である聖い愛を継承し、治めておられる御国を相続する者のことである。これが私たちに対する父なる神のビジョンである。】
 内なるものは聖い愛を継承させ、外なるものは万物のすべての財産を継承させるために神は私たちのために今働きかけてくださっています。これが神のビジョンです。

3.相続者として定められている意義
(1)神のかたちに創造されている(創世記1:26-27)
「神は仰せられた。『さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。』」
 設計図が出来上がり、後は工事するのみです。創世記は工事が始まったということです。神はご計画を実行に移されたのです。
 神は形のない御方ですから、神の御国を相続する相続人としての形として人々を造られました。

(2)永遠の嗣業が与えられている(民数記36:9)
「こうして相続地は、一つの部族から他の部族に移してはならない。イスラエル人の部族は、おのおのその相続地を堅く守らなければならないからである。』」
 神は定められたことを厳守し続けられます。イスラエルの人々の土地は12の部族に合わせてくじ引きで神が分け与えられました。この相続地は神が与えられた嗣業です。この仕事をし、業を受け継いでいく土地は神が定められた領域であり、この領域は決して動かしてはいけないと神は定められました。
 これは、私たちに与えられた神の子、相続人としての定めを決して変えてはいけないということを表しています。

【神は、あらかじめ定めておられたことを実現するために、創造の御業を具体的に始められた。実行されたということは、定めのための計画は確定し、必ず実現することを表している】
 建築物の設計図が出来上がり、建築し始めて何か問題が起きてきても、完成するまで必ず施工し続けます。
 そのように、神の子である私たちに、いかに問題が出てきても、神は必ず完成まで導いてくださいます。ですから、もう自分は駄目だとあきらめてはなりません。神の定めへの信仰告白をしっかりとし続けましょう。これがしっかりしていないと信仰生活は揺れ動いてしまいます。この決心がしっかりしていたら、人につまづいたり、惑わされたりはしません。

<〜神の定めへの信仰告白〜>
【私は、父なる神の子であり、御国の相続人であるという永遠に変わることのない「定め」を受け入れ、それに従います。】
 人類の定めは、すべての人は「父なる神の子であり、御国の相続人である」ということです。その証明が十字架で示された愛ですと、人々にしっかり証しできます。
 今自分ができているかどうかの現状にだまされないようにしましょう。あなたの存在をそのように定められたのは神ご自身です。

第二聖会
「霊的ビジョン」
(第2ペテロ1:4)
「その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。 」
 神様の霊的、内面的なご計画があります。それは、神のご性質、本性を引き継ぐ者として私たちをご自分の子として造られたということです。

1.神のご性質(本性)とは?
(1)神は愛である(第1ヨハネ4:16)
「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。」
 愛は神から出ています。私たち人間の間に生まれる愛は欲望中心に出ています。
 しかし、神の愛は損得ではなく、愛する相手の存在を尊び、自己犠牲ができる愛です。その愛のゆえに私たちの罪の苦しみをすべて引き受けられたのがイエス・キリストの十字架です。神は使命ではなく愛のゆえに救いを用意してくださいました。

(2)神は聖である(第1ペテロ1:16)
「それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」と書いてあるからです。 」
 聖ということばは唯一の聖さであり、神以外には聖いものはありません。人が単独でこの聖い状態になることは不可能です。聖い御方は唯一万物を創造された神のみなので、神に属することが聖さの条件です。
 イスラエルの民も色々な問題を抱えていましたが、神ご自身がご自身の民として選ばれたので「聖い民」なのです。
 私たちも、自分はいくら考えても聖いと言えない状況であっても、イエス・キリストを信じる決心をした時に、もう神は「聖い」と見てくださっているのです。
 自分の行いや性質を見て、「私は聖くない」とあきらめないようにしましょう。神の愛を信じ、神の前にいつも悔い改める心を持っている私たちは、神の子であり、すでに聖い者なのです。
【創造主は、「愛」と「聖」が本性である。そして、ご自分の本性を継承する者として「人」を創造されたのである。】
 第一聖会と第二聖会を四文字熟語にしたら「聖愛継承」と言えます。
このための器として自分は造られ、その継承者としての訓練のための人生があると知ると、就職や様々な人生の選択の時に決断の土台となります。

2.神のご性質に預かるには?
(1)神の子としての訓練を受ける(ヘブル12:7)
「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。」
 人生で起こることは、私たちが神の子として聖愛継承するための訓練と思って耐え忍びましょう。

(2)懲らしめを受ける(ヘブル12:10)
「なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。 」
 神は父として子に聖さを継承して欲しいと願ってくださっているので、それをおろそかにするなら、子として懲らしめがあります。

(3)神の愛である御子を信じる信仰(ガラテヤ2:20)
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」
 パウロが与えられた啓示です。パウロが言うように、私たちはキリストとともに十字架につけられましたが、肉体からくる様々な欲望との葛藤の中に日々生きています。欲望をコントロールすることは本当に大変です。しかし、この告白の信仰に立って、肉からくる欲望に死に、イエス・キリストの愛に生きるという決心をすることによって、しっかりと神の愛に生きる人生が歩めるようになります。
 優先順位はまず神です。イエス・キリストの十字架の愛によって赦され生かされている者として、まず神の愛に生きることが何よりも優先されるのです。

(4)キリストの弟子として学ぶ(マタイ11:29-30)
「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
 弟子のようにイエス・キリストから愛と聖さを学びなさいということです。そのためにくびき、つまり律法を負う必要がありますが、イエス様の律法は「互いに愛し合いなさい」という愛です。愛し合うという仕事を神は私たちに与えてくださいました。

【「訓練」と「懲らしめ」は創造主からのもの。「御子を信じる信仰」と「弟子としての学び」は自らのもの。】
 神からの働きかけだけを待つのではなく、自分も動かなければいけません。愛があるなら、懲らしめがくる前に悔い改めようと思うはずです。懲らしめがくるまで罪にとどまるというのは、神への畏れを失っているということです。心が堕落している人は、いざ懲らしめがきたら逃げてしまい悔い改める心が持てないでしょう。懲らしめられる前に悔い改めることが、愛の応答です。
 私たちの教会は、気づいた人が奉仕をするということが基本です。しかし、そこで、気づかない人はしなくていいのかと不満に思う人がいるかもしれません。それは損得で考えてしまうからです。自分だけが奉仕をして損をしているような気になってしまうなら、いつの間にか肉の自己中心が出てしまっています。
 また、気付かず奉仕ができていなくても、「申し訳ない」という気持ちになることを神は願っておられます。愛があるなら気付くようになっていきます。すべての体験は聖い愛を継承するためと考えましょう。

【ジーザスフェローシップ広島へのビジョンを通して、神のビジョンが完成される】
 このエルサレムプランは、神の聖さと愛を継承するために与えられた具体的なものです。
(第1テサロニケ5:23-24)
「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。 あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。」
 これが神のビジョンです。広島がエルサレムのように平和の町、神が愛される町となるようにという計画ですが、この計画が完成すること以上に、このために一生懸命自分が関わることを通して、全く聖なる者として完成されていくということの方が重要です。神の愛にあふれて「いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝する」というクリスチャン生活を味わう者になりたいものです。
 エルサレムプランを通して、色々と試されることが出てくるでしょう。その中で、神の愛を継承するために最も良い道はどれかを判断の基準としていきましょう。
 人にとって「欲」という汚れが最も邪魔になります。クリスチャン生活で虚しくなったら、もう一度神の前に祈り、神の定めである聖愛継承
に立ち返りましょう。

<〜霊的ビジョンへの信仰告白〜>
【私は神の子、神の相続人として教会に与えられたビジョンである「広島エルサレムプラン」を通し、永遠の定めを全うします。】
 生きているということは、この聖さと愛を継承するために整えられる時間がまだあるということです。苦しんでいることを感謝しましょう。学ぶことができるからです。
 すべての体験、経験に神のご計画があることを信じ、感謝しましょう。

第三聖会
「霊的ビジョンのための具体的ビジョン」
(マタイ16 :18)
「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」
 イエス様は具体的なビジョンとして、教会を建てますとここで宣言されました。神様は、神を愛する者たちの集合体としての教会を二千年前から建てておられます。

1.教会とはなんですか?
(1)キリストの御からだ(第1コリント12:27)
「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」
 キリストが頭で、教会はからだです。からだである教会は、頭の権威のもとで、その頭が考えていることを、からだ全体で表現し、実行していくということを意味しています。

(2)キリストの花嫁(第1コリント11:2)
「というのも、私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っているからです。私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。」
 花嫁と花婿とは、結婚前の呼び方です。キリストの花嫁とは、キリストが再臨されて花嫁なる教会と一つになるという、再臨の時を強調しています。キリストの再臨を待ち望む教会を花嫁と表現しています。

(3)地上での目に見える神の国(ルカ17:21)
「『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」
 「ただ中」というのは、一人ひとりの内にという意味と、教会という集合体の中にという2つの解釈があります。私たちの内にも神の国があり、教会の交わりの中にも神の国があります。

【創造主と神を愛する者たちの集合体である教会は、互いになくてはならない好一対の関係である。】
 好一対とは、非常にふさわしい一対となるものであるということです。創造主と私たちは、どちらが欠けても成り立たない一対の関係なのです。神様はご自分と同じように教会は大事なものであると認めてくださっているのです。あなたが神様を信頼し愛しているなら、できているかどうかは関係なく、花婿が花嫁を喜ぶようにあなたのことを喜んでおられるのです。

2.教会は、目に見えるキリストの証人
(1)神の御住まいとして証しする(第1コリント3:16)
「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。 」
 こんな罪の体を、神はご自分の聖なる御霊を宿らせる神殿として用いてくださっています。それほどに私たちと共に居たいと思ってくださっているのです。神殿とは、居心地の良い、神様が安心して住まわれる場所です。愛している者と一緒にいることは安心できるのです。

(2)互いに愛し合うことによって証しする(ヨハネ13:35)
「もしあなたがた互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。
 互いの間に愛があるかどうかは、互いの間に問題が起こった時にわかります。だから教会の中に問題が尽きないのです。血筋による家族のように、どんな問題が起こっても受け入れ合い認め合うのが家族愛です。私たちはキリスト・イエスにあって生まれた家族なのです。

(3)世界の光として証しする(マタイ5:14ー16)
「あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」
 光は、神・みことばの働き・希望を意味します。あなた自身が輝くのではなく、あなたの内にある父なる神の光、みことばの光、キリストによる希望の光を輝かせなさいという意味です。
 神の定めである人々が目覚めるように、証しを地上で表わしていくのが教会です。目に見えない神の愛を証しするのです。
 
【イエスは、見えない神の証人であったように、教会は、見えないキリストの証人である。】
 互いに愛し合う関係が実を結んでいると、神の聖い愛を継承している人々がいると感じ、「愛なる神様はおられるのだ。彼らはその愛を受け継いでる」と信じるのです。
 教会は、見えない方が存在するのだということを証しするための集合体です。

【『広島エルサレムプラン』は、真理を証明するために与えられたJFHのビジョンである。】
(第1ヨハネ1:3)
「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。 」

【教会ビジョンを互いに愛し合うという交わりにおって推し進めていくと、神のビジョンが見えてくる。】
 広島エルサレムプランは、あらゆる人々に当てはめることのできるビジョンです。それぞれの立場で、人々に届くことができる働きがあるのです。
<具体的ビジョンへの信仰告白>
【私は、キリストのからだとして、花嫁として、神の国の民として、教会ビジョンに具体的に取り組んでいきます。】

第四聖会
「油注ぎを受ける時」
(使徒1:8)
「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
 王や祭司の任命式の時に、神の力、地位、権威を受けるしるしとして油注ぎがされていました。神の権威によって、キリストの証人としての任命され、油注ぎを受けるということです。

1.どのようなことを通して、キリストを証しするのか?
(1)(使徒13:2-3)
「 彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい」と言われた。 そこで彼らは、断食と祈りをして、ふたりの上に手を置いてから、送り出した。 」
 按手とは、分与する、分け与える、油注ぎを持って任命すると同じ意味を持っています。

A)使者任命の油注ぎ(ヨハネ17:18)
「あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。」
 イエス様について行く者は、イエス様の代わりにこの世に遣わされているのです。

【愛してくださっている方からの使命が与えられている】
 イザヤに、「だれがわれわれのために行くだろうか」と言われました。「ここに私がいます。」とイザヤが応えています。使者として、内側から湧き上がってくる使命感を持って行って欲しいと願っておられるのです。
 私たちは、救われて神様に愛を注がれている者です。愛があるから応答するのです。いやいやながらではなく、自ら「私が行きます。」と、心から応答する者に注がれる油注ぎです。イエス様の代理なので、イエス様への愛がないと油注がれません。主に仕える喜び、使命感が湧き上がってくるまで満たされることが大切です。

B)キリストと同じ油注ぎ(ローマ6:3)
「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。 」
 洗礼を受けるとは、キリストの一部となるという意味があります。
    
【バプテスマは、キリストのからだに献身したしるし】
 私たちはこの世とイエス様の中間にいるのではなく、イエス様の一部になったということです。

C)キリストを愛する油注ぎ(第2コリント5:15)
「また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」
 愛してくださった方のために生きるのです。私のためではなくあなたのためのいのちですという思いです。
  
 【神を愛するとは、神の愛に献身することと同じである】
 互いに愛し合うとは、互い仕え合うことであり、相手に自分をささげることです。
 イエス様はまず十字架で、私たちに献身する愛を示してくださいました。天の栄光を捨てて、私たちの借金をいのちをもって払ってくださり、「わたしの花嫁になってくれませんか」と愛を示されたのです。
 油注ぎを受けるとは、愛に献身することです。神の愛の証人として生きることです。そのための油注ぎです。神様の心に残る人は、神様への愛がある人です。

<〜油注ぎを受ける信仰告白〜>
【私は神の愛に献身し、キリストの証人として油注ぎを受けます。】
 
 愛のためなら、自分をささげることができる力が与えられます。愛のゆえに、したくないこともしようと思えるのです。欲との戦いは避けられませんが、欲を唯一自制できるのは愛だけです。信仰が弱ったら、まず神様の愛に触れることです。神様の愛に献身をするのです。 
 人は、何かができるとすぐに誇ってしまいます。しかし、愛がなければ、たとえ人のために命をささげてもむなしいのです。神の愛より人の愛を優先するならむなしくなります。神が私を愛してくださったがゆえに、人々を愛することができるのです。
 神の愛に献身する決意を持たなければ、中途半端な油注ぎになります。神様を愛することをおろそかにしてしまうと、欲望が動機となり、比較して自分を測ってしまいます。神を愛するとは、5タラントでも2タラントでも、主人を信頼してそれを使うことです。力量の違いがあっても、神を愛してその力を用いればいいのです。愛に献身するということを正しく理解し、愛のために生きていきましょう。

 

 

 

 

 

■2017年7月9日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 キリストから学ぶこと  up 2017.7.9


主題聖句(マタイ11:29〜30)
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。

 

 

 

先週はマタイ11章28節から読んでいただき、弟子になるということは学ぶことであるということをお話ししましたが、今週はさらに29節・30節に焦点をあてたいと思います。
 
 28節というのは「すべて疲れた人は、重荷を負っている者は私のもとに来なさい。私があなたがたを休ませてあげます。」とイエス様が語ってくださったお誘いのお言葉です。
 
 何に疲れ、どんな重荷を負っているのか。借金に疲れ、借金の重荷を持っている。「神様どうしたらいいでしょうか。」これは、イエス様が言われている「疲れた人」「重荷を負っている者」とは少し違いますね。それは表面的な疲れであって、表面的な重荷です。イエス様は、私たちの根本的な社会生活や人生において、生きることの疲れ、重荷というものを言われているのです。
 
 喜びと感謝にあふれているときは、重荷や疲れを感じることはありません。しかし、人生を長く歩んでいくうちに、だんだん何のためにこんなに苦労し、こんなに苦しまなければならないのか、クリスチャンになると、ますます苦しみや辛い思いが多くなり、また、葛藤が多くなります。
 
 クリスチャンだけでなく、まじめに真剣に生きようと思えば思うほど悩みます。そのような悩みから人々は解放されたいために「今、楽しく生きたらいいではないか。死んだらみんなおしまいなのだから。」と心に負担をかけないような考え方、楽に生きることを考える人々が多いのです。それも一つの哲学であり、一つの宗教です。しかし、神様は生きておられますから、クリスチャンはそのようなわけにはいきません。

1.キリストのくびきを負って学ぶ(マタイ11:29)
「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」

A)「くびき」とは何か?
1)使徒15:10
「それなのに、なぜ、今あなたがたは、私たちの父祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みようとするのです。」

★先祖も私たちも負いきれなかった律法という「くびき」
 
 第一回宗教会議といわれる初代教会の中で、指導者たちの会議がありました。それは、ユダヤ人だけがイエス・キリストを信じるという状態にあったのですが、突然として異邦人も救われるようになりました。「コルネリオ」という異邦人が非常にユダヤ教の神様に対して熱心でありました。そのコルネリオの家で、ユダヤ人がイエス・キリストを信じた時と同じような体験が起こったのです。異邦人が救われたのです。
 
 ユダヤ人はモーセを通して神様から受けた律法を彼らにも教え、守らせなければならないと、熱心なユダヤ人たちが、そのように議論していたわけです。しかし、ペテロは最後に言います。「彼らはユダヤ人ではなくて異邦人である。ユダヤ人が負うべきくびきを負わせる必要はない。」なぜなら、そのくびきは私たちにとって負いきれないものであったからです。それはモーセを通して伝えられた神様の律法、ルールです。イスラエルの人々にとって、それは大変な負担だったのです。

 どんな律法かというと、罪を犯したら贖いのいけにえを捧げるというものです。いけにえにはいろんな種類があり、ハト、1歳までの子羊、一頭の牡牛です。更に、そのいけにえは最良のものでなければならない。傷一つあってはいけない。病気持ちであってはいけないのです。皆さん、自分の罪を神様の前でいけにえで処分しようと思ったら、どれだけの気遣いと犠牲がいることでしょう。ユダヤ人たちは逃れられなかったのです。

2)ルカ11:46
「しかし、イエスは言われた。「おまえたちもわざわいだ。律法の専門家たち。人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本さわろうとはしない。」

★律法学者が負わせた、負いきれない律法の荷物

 「荷物」とはくびきと同じ意味です。律法を意味しています。このルールは私たちにとって非常に重いものであるとイエス様自身も表現されています。律法学者が負わせた負いきれない律法の荷物。それを背負ってしまったら、歩くこともできないくらいに重たいものだという意味です。

B)キリストのくびきと荷物
1)ガラテヤ6:2
「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。」
 キリストの律法。これをキリストの「くびき」といいます。「わたしのくびきを負って、私から学びなさい」イエス様の「くびき」は、互いの重荷を負い合うという律法ということです。その律法とは、一つしかありません。

2)ヨハネ13章34節
「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」
 
 世が救われるための贖いの御業が成し遂げられるための新しい律法。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」という「くびき」をイエス様の「くびき」といいます。そして、この互いに愛し合うということは、ガラテヤ6章2節にあるように、重荷を負い合うことだと言っています。これは、すごく理にかなったことなのです。一人だと負いきれないけれども、手伝ってもらったら軽くなるのです。
 
 自分で自分の重荷を負っていくのではなく、他の人の重荷を負っていけば、最後は自分の重荷も軽くなるということです。あなたの重荷を負ってくれる人が出てくるということです。でも、あなたの重荷なのですから、全部預けてはいけません。みんなで一緒に負い合って、一緒に歩いていけば、一人で負うより、少しは楽になっていくという、愛の関係をイエス様は私たちに一つのルールとして、また新しい戒めとして与えてくださったのです。

2.律法を負いやすく、軽くするもの(マタイ11:30)
 「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
A)ローマ13:10
「愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。」

★愛は律法を負うことができる
 
愛がなくては律法を負うことはできません。その重荷に耐えられなくなって、疲れて倒れます。しかし、愛は隣人に対して害を与えませんから、愛は律法を全うするのです。律法、ルールというものは、愛によってなされなければ、負いきれない「くびき」であり、担いきれない重荷になってしまいます。
 
 ルールとは、皆が公平に幸せを味わうことができるための決まりです。これを「愛の動機」で守れば、そのルールは全うできる。完全に負うことができるのです。でも、愛が無くなって、損得や欲望でこのルールを守ろうとすると、「あの人はやってないではないか」「あの人もできてないではないか」「なぜ、私がこんなにしなければいけないの」となってしまって負いきれなくなってしまうのです。だから、いかに人を愛する心を持てるかということなのです。生きることが重荷になるのか、疲れやすいものになってしまうのかは、そこで決まるのです。
 
 愛のない人は欲望だけで、自分を支えて生きる意欲・気力を保とうとします。だからこの経済社会は、欲望を引き立てるものです。経済も文化も発展の為に欲望を起こさせる、そのようにして経済社会は発展してきました。その欲望を失わせてしまったら文化も経済も発展しないでしょう。お金は欲望を満たす道具です。しかし、愛を満たすことはできません。
 
 神様は欲望を私たちの内に満たすことを願っているのではなく、愛で心が満たされるようにと私たちをお造りになったのです。神様の愛を受け止める「器」として、神様の形に似せて造られました。しかし、中身がまだ入っていない。何でも入れることができます。欲望も入れられるのです。でも「器」を造られた目的は、神様の愛を入れるためです。イエス様は神様の聖い愛を受け止めることができるようにと「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」といわれたのです。

B)ガラテヤ5:14
「律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という一語をもって全うされるのです。」

★自分を愛するように隣人を愛する愛が、荷物を軽くする

 律法を守ろうと思うと負担がかかります。しかし、律法をもって愛を学ぼうと思えば負担は軽くなります。律法を通して愛を学ぶということは、律法を守れても、守れなくても、愛が学べたらいいわけです。神様の目的はそこにあるのです。律法を完璧に行うことではなく、律法を守ろうとする中で「愛の動機」が働いたら、細かい規定はいらないということに気が付くのです。
 神様が与えてくださった人生への働き、ミッション、使命、それらを果たすために、それぞれ頑張っています。その中で、苦しいところを通ります。でもその苦しみは愛の動機、愛を学ぶため、愛を与え、愛を受け止め、愛を学んでいくためのプロセスであり、その上で神様はあなたがたにビジョンを与えてくださるのだということを覚えてほしいのです。
 
 前向き肯定的になるためには、人は愛に動かされるか、欲望に動かされるかどちらかです。これを神様は、一人ひとりに気づくようにと様々なプロセスの人生を歩まされています。
 
 愛の器として造られたのですから、愛を学んで、愛を受け止める器として、人生における様々な労苦を通っていくということです。 今、あなた方が通っているところは、全部愛を学ぶためです。夫婦喧嘩も愛を学ぶためです。泥棒にあって財布を盗まれても愛を学ぶためです。階段で転んで入院しても愛を学ぶためです。すべては益となるのです。全部愛を学ぶためだと結び付けてください。そうしたら、すべてのことに感謝することができます。いつも喜ぶことができるようになります。絶えず祈り心で神様とともに歩む人生を知ることができます。最初からできるわけではありません。でも、やり始めてください。おのずと前向き、肯定的になるのです。不真実な人に対しても、信じていこうという愛の気持ちが不思議に湧き上がってくるわけです。
 
 愛はいつも心地いいものではありません。愛は苦しい、辛い。その最たる見本がイエス様の十字架です。愛する者の為に十字架にかかり苦しみを負うのです。でも、その苦しみが愛を知る、愛を実感する時です。教会生活を味わって、神様の愛に生きることは楽ではありません。「くびき」はなくなりません。しかし、愛があったらその苦しみは負いやすく、荷は軽くなるのです。
 
 どうぞ、神様の愛を学ぶということから、目をそらさないようにしましょう。私たちにとってのイエス様は、愛の師匠です。愛を知れば、すべては解決します。

【短歌】

いとおしむ 愛の心に 映るのは 
いばらの中の 純白の百合

 7月は百合が季語となっています。百合とはイスラエルにとって素朴な花の一つです。素朴ですが神様の目にはあなたの存在は特別な存在だ。いばらの中の百合のように特別な存在だ。素朴な美しさ、純真な百合。イスラエルの白い百合のイメージから作ってみました。

 罪深い私たちでも神様は、愛の目で見てくださっているのです。感謝ではないですか。

 

 

 

 

 

■2017年7月2日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 イエスについて行く  up 2017.7.2


主題聖句(マルコ8:34)
それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

 

 

 

 私たちが持っている神様への信頼、それは期待であり信仰であると、先週学びました。
 信仰とは、私たちがまだ見ていないことに対して、神様に期待しながら必ず約束を実現してくださると信じることです。常に、神は良きお方であると信じて、この期待感はいつまでも持ち続けたいと思います。また、期待を持って聖会にのぞみたいと思います。
 神様に期待していく信仰には、ついて行くという行動が伴うのですが、そのついて行く時に、自分を捨て、自分の十字架を負ってついて来なさいとあります。これは強制ではなく、ついて来たいと思うならということです。自分を捨て、自分の十字架を負うとはどういう意味なのかを、今日は見ていきたいと思います。

1.ついて行くことは、弟子となること(ルカ14:27)
「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」
 ただ単に、イエス様について行きたいという思いではなく、自分の十字架を負うほどに真剣について行く、すなわち弟子となることを意味しています。それは、弟子になりたいと思うほどに、心惹かれるものがあるということです。

 多くの弟子となる人は、自らどの師匠に弟子入りするか選んで、弟子となるのです。「私について行きたいと思う者は」とあります。
 イエス様は、弟子のような心を持ってついて来て欲しいと願っておられます。心が惹かれるものとはどのようなものなのでしょう。

A)弟子入りするほどに心が惹かれるもの
(第2ペテロ1:3)
「というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。」

★聖い愛の神の栄光と徳に魅了される
 イエス様の持っておられる徳の高さに私たちは惹かれます。
 皆さんは、問題解決のためや、習慣的惰性的に、キリストについていこうとしていないでしょうか。弟子とは毎日、師から素晴らしいものを学ぼうとします。皆さんは、どんな魅力をイエス様に今もなお持っておられるでしょうか。
 
 「ご自身の栄光と徳」とは、外の見える魅力ではなく、イエス様の内なる魅力です。それに気付かなければ、途中で私たちはついて行かなくなります。祈りに応えてくださるからついて行くのでしょうか。それともイエス様のご人格に、神が人となられた、最も聖い愛を持っておられる、愛そのものである方に惹かれて、ついて行っているのでしょうか。ぜひ、愛の神の栄光の徳に魅了され、イエス様について行きましょう。

★それは、キリストの死と葬りと復活に表されている
 歴史の中に、決して変わることがない神様の愛を証明しているのが、イエス・キリストの十字架です。キリストは神であられたのに、私たちと同じ姿をとって地上に来られ、罪を一つも犯さず、私たちの贖いのいけにえとして自分の命をささげるという目的を持って、この地上に来られました。
 
 イエス様は、十字架の直前に地上に来られたのではなく、私たちと同じように母の胎から生まれ、私たちと同じように人生のプロセスを通り、その中で罪を一つも犯さない生活を守りぬくという大変な人生を送られました。それは自分のためではなく、私たちの罪を贖う確かな救い主であると、証明される必要があったからです。
 
 クリスチャンではない方は、罪との葛藤がないので楽なのですが、クリスチャンは、罪を敵として戦うので、この罪の世界で生きることはとても苦しいことです。くじけてしまいそうになることも当然あるはずです。イエス様でさえも、この罪の世界でまっとうに生きることが大変なことであることを証明されていますが、それを守り通した動機は、私たちへの愛です。
 
 4福音書はイエス様の生涯について書かれていますが、そこに聖い愛の神の栄光と徳が記されています。福音書を読むことを怠らないようにしていきましょう。聖霊に示されて、悟らされて読んでいくことの素晴らしさを、発見していただきたいと思います。

2.弟子入りすることは、学ぶこと(マタイ11:28〜30)
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

A)人生に迷い疲れた時に、行くべきところ
 人は順調にいっている時は、神様は必要ないと思うのですが、人生に疲れを覚え、迷いを感じる時があります。そして最後は死の問題が必ず待っています。死後何が起こるかということを、人は考えたくないのです。
 
 そこで、神様は救い主イエス・キリストを遣わして、肉体の死後、霊・魂はどのような体験をするのかをお話してくださいました。そして、神を認めない不遜な罪が、最も大きな罪として裁かれるのだということを教えられました。
 
 行いの業績によって裁かれるのではなく、神を畏れる心があるかないかが、裁きの中心なのです。その神を畏れる心を持って何をしたのか、畏れない心を持って何をしたのか、その基準は、神を愛しているか愛していないかによって裁かれるのです。
 
 そして、私たちクリスチャンは、人生を空しく思っている中で、イエス様と出会う機会が与えられたのです。神様の愛が私たちをイエス・キリストのもとに導かれたのです。

(ヨハネ14:6)
「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』」

★『真理』とは、主イエス・キリストである
 真理とは、思想や価値観ではなく、神が人となられたキリストの存在そのものが真理なのです。創造主なる神が存在されるということが、真理の根本的土台です。この罪の世界も神によって成り立っているのです。
 
 この偉大な創造主なる神は、一体何を考え、未来に対してどのような計画を持って歴史を進めて行かれるのだろうかという神の存在から、自分の人生を考え、物事の成り行きを判断し見守っていくことによって、私たちは真理を見出していくことができるということです。だから、真理がわからない人は、キリストと出会うことです。

B)生きることを学ぶための師匠
(ヘブル12:2)
「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」
 信仰とは、神と共に歩む生き方を言います。イエス様は、人間が神と共に歩むお手本としてこの地上で歩まれました。
 単に神の存在を信じているだけではなく、良き神様として、期待を持って、人生の本当の歩み方を学び、それを得ることができると信じてついていくことを、信仰と言います。

 私たちはイエス様から弟子として学んでいるでしょうか。職人の技術は本を読んで学ぶものではなく、師匠がいて、その側でじっと見ながら同じようにやりながら、感覚的に学んでいくものです。
 
 弟子たちは、イエス様にずっと一緒に生活をしました。弟子とは、師匠と共に生活し、常に師匠を見、その言葉に耳を傾け、言われたことは忠実にやってみます。成功しなくても、何回も繰り返しながらやっていくと、その感覚が身につくのです。
 神と共に歩むとは、理論的、哲学的なものではなく、人格と人格の接触によって学ぶことなのです。師匠としてキリストについてくことが、今の私たちの学ぶべき姿勢です。

★神と共に歩む人生の完成者、見習うべき先人。
 イエス様に、どんな期待を持っているでしょうか。どういう魅力を感じているでしょうか。そこがはっきりするのとしないのとでは、ついていく行き方が違ってきます。
 
 私(辻師)は、この地上に対する希望を持つことが全くできませんでした。何のために生きているのか、存在しているのかというところから、イエス・キリストに出会うきっかけがあり、このイエス・キリストに一度かけてみよう、と弟子入りしたのです。
 私が未信者の頃に追い求めていたものは、今から考えると聖い愛だったのです。自分のためではなく、人々の心を癒すような、そういう人生を歩みたいという思いが物心ついた頃からありました。
 しかし、大きくなるにつれて失望していきました。そして、一切の損得を考えずに、罪人のためにすべてを投げ出された神の愛を見出したのです。今も見出し続けています。
 
 聖い愛がなければすべてがむなしいと思います。そして、人間の存在は、聖い愛の神様の愛によって生きるために創られたのだと知った時にすごいと思いました。それなのに、どうして私たちはアダムとエバの罪のために、苦しい目にあわなくてはならなかったのでしょうか。それは、神の聖い愛を知るためです。苦しまなければ、聖い愛はわからないのです。
 
 私たちは罪があるので、罪を赦されるという体験をすることができたのです。どれほどの愛が注がれたかを知ることができたのは、罪人だからです。

 放蕩息子のたとえ話で、父親の愛をより深く体験したのは、後継ぎとして父親の言いつけを守ってきたお兄さんよりも、失敗して、後悔し、悔い改め、恥を忍んで帰ってきた弟息子の方でした。愚かな自分を全面的に無条件で受け入れてもらったという体験をした弟息子は、より深い愛を体験したのです。しかし、弟が帰ってきて宴会をする時、お兄さんは怒りました。行いによって愛されようとする人は、人を憐れむことを知りません。本当の愛は、憐れみが豊かであるということです。
 
 その聖い愛の憐れみの魅力のとりこになるなら、すべてを捨てて、自分の十字架を負って、イエス様について行こうという覚悟が出来てくるのです。私(辻師)が何よりも得たことは、賢くなったことではなく、聖い愛が存在し、朽ちることのない永遠に続く、最も偉大なものであることを教えられたことでした。更に聖い愛について知っていきたいと思います。

【デボーション参考ポイント】
 イエス様を信じるだけでなく、ついていきましょう。

 信じるところでとどまっていないでしょうか。信頼とは、師匠に対する弟子の信頼です。魅力を師匠に感じて、それを得たいという思いが湧きあがってくるのが弟子です。
 
 2週間後の聖会において、この聖い愛の魅力に触れて目覚めて欲しいと願います。弟子としての心を持って、飢え渇いて集ってまいりましょう。

【短歌】
鮎料理 忘れられない 味わいは
  惹きつけられる みことばのよう

 鮎の塩焼きを食べて、そのおいしさに驚きました。この時期になるとその味を思い出します。
 神のみことばも、ある状況と条件がそろうと、みことばの味わい、魅力が心に思い出されてきます。