■2017年6月25日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 神への期待(信仰)  up 2017.6.25


主題聖句(第2ペテロ3:13〜14)
しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。
そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。

 

 

 

 7月の聖会に備えて、礼拝のメッセージも皆さんの励ましとなるように第2ペテロのみことばから語らせていただいています。今週のテーマは「神への期待」です。期待とは、信仰を意味しています。期待の心があふれるのは、信じていればこそ、です。今手にしてはいないけれども、将来必ず実現する、その確信と喜びから期待感が湧き上がってくるのです。これは信仰の働きと同じです(ヘブル11:1)。神への期待をもって聖会に臨みたいと思います。聖会の中で期待が湧くのではなく、聖会に出る前から、神に期待していきましょう。

1.「待ち望んでいる」 (第2ペテロ3:13)
「しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」
 私たちクリスチャンが最終的に待ち望んでいるのは、いやしでも祝福の豊かさでも神の奇跡でもありません。「正義の住む新しい天と地」というゴールです。そのすばらしさがわかればわかるほど、期待が湧いてきて、また信仰も同時に働きます。

A)神の約束に従って待ち望んでいる (ヘブル11:11)
「信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。」
 神様、というだけでも信頼できるお方であるのに、さらに神様は私たち罪人に約束してくださいました。私たちがどんなに不真実な状態になっても、約束は必ず最後まで守られます。神の約束は、私たち次第で恵みや祝福が変わるというようなものではありません。主イエス様を信じる私たちの信仰も、契約の条件などがあるわけではありません。ただ信じる、それだけで約束のゆえに新しい天と地への期待を持つことができるのです。

★約束してくださった方を真実な方と考えたサラの信仰
 一つの例として、創世記18〜21章からサラの信仰を見てみましょう。
 天の御使いがソドムとゴモラに遣わされる途中、アブラハムに「あなたは多くの国民の父となる」という約束の成就として、「来年の今ごろ、…あなたの妻サラには、男の子ができている」(創18:10)と告げました。そのときすでにアブラハムは99歳、サラは89歳でした。あまりに思いがけないことばに、サラは思わず笑ってしまいました。しかし翌年、サラはイサクを生みました。
 この1年の間に、いろいろな出来事がありました。ソドムとゴモラが裁かれ、その後アブラハムはゲラルの地に移りました。そこでゲラルの王アビメレクがサラを見そめて召し入れるということがおきました。御使いのことばがあった後、サラは子を宿す力を与えられました。神の約束のゆえです。89歳の高齢では体力的にも陣痛や出産にはとても耐えられないでしょう。そのためにからだが若返ったのではないかと思います。だからこそ、このようなことが起こったのではないかと考えられるのです。アブラハムは、ソドムとゴモラが滅ぼされるとき、甥のロトのためにとりなしをしました。自分のためではなく、愛する者のために心を注いで祈り、とりなしの力を身につけました。その間にもサラは日々若返っていく。そのような奇跡を見ていたかもしれません。
 なぜそのようなことが、サラの身に起こったのでしょうか。それは、サラが「約束してくださった方を真実な方と考えた」からです。この神への信頼が信仰という働きに結び付いたのです。どんなに不可能に見えても、神様は必ず約束を守り、期待を裏切ることはないお方だとサラは信じることができたのです。
 ポイントは「約束」です。私たちも、「このみことばは神様からの私への約束だ」と受けとめることができれば、例えばそれがいやしであってもマルコ16章のみことばにあるように、信じる者に伴うしるしとして必ずそうなる、と期待が湧き、信仰も力強くなるのです。もし神様の約束のみことばをみても期待が湧かなければ、期待が湧くまで祈り続けることです。祈り、神様に近づくことです。この聖会についても「何も得られない、何時間も集会があると疲れる」というように、何の期待も湧いてこなければ、せっかく参加してもその時間は無意味になってしまいます。
 神様は、私たちに広島エルサレムプランという聖書全体にわたる神の御心を行うためのビジョン・約束を与えてくださいました。聖書の具体的な実現にあたり、「全世界に出て行き、神の福音を宣べ伝えること」と「聖徒たちのきよめ」という2つの神の御心があります。これらが成就するために、神はあらゆる教会に具体的なビジョンをお与えになりました。
 私たちの教会も、「広島エルサレムプラン」という名に込められた、広島の町が神に愛される、神の平和の町となるようにとの願いをもって、広島の人々の救いのために神様が与えてくださった計画と信じて、今少しずつ進んでいます。この教会に属するすべての方に、神様からの約束として、これを受け取って欲しいのです。あなたにもできます。神の約束ですから。89歳のサラでさえも、真実な神の約束だからと信じて受けとめたゆえに、子を産むことができました。もし今無気力な、失望したような心の状態であっても、「神は真実な方、その神のお約束だから必ずそうなる」と心に何度も告白していくなら、御子イエス・キリストの十字架にあらわされた神の私たちへの永遠の愛を思い起こし、祈り続けるなら、信仰が働き、期待が湧いてきます。
 あなたはどんな期待をもって聖会に臨まれるでしょうか。私たちの神、約束してくださった方は真実なお方です。

B)正義の住む新しい天と地を待ち望んでいる (黙示録21:1-4)
 地上での神の私たちへの約束・ビジョンは広島エルサレムプランです。しかし、この地上の務めを終えて行きつくところは「正義の住む新しい天と地」です。
★神が約束されている新しい天と地
★正義が住む究極の理想郷への期待(信仰)
 
 「正義の住む新しい天と地」、そこに聖なる都、新しいエルサレムがあります。正義が住むところには、死も悲しみも苦しみも涙も一切ありません。これが神様が約束された、私たちの行くべきところです。最終的にはこの究極の理想郷に行くのだという希望があるからこそ、地上の人生がどんなに辛いものであっても、罪の世界で、神への信仰をもってキリストの証人としての生涯を全うできるのです。長いか短いかではありません。真の正義のないこの地上で、私たちの為すべきことを終えて行きつく「正義の住む新しい天と地」は、私たちが魂の奥底から願っている、平和と喜びと希望に満ちたところです。この地上では決して味わうことはできません。あらゆる矛盾も理不尽さもまったくありません。
 「正義が住む」ところがどんなに素晴らしいところであるか、ぜひ聖霊様から教えていただきましょう。そして、そこに入れていただくという神の約束を信じて、地上の苦しみや試みを乗り越え、希望をもって歩んで行きましょう。その一歩として、年に一度の聖会が持たれています。ぜひ参加して、正義の住む新しい天と地をめざしてともに歩んでいきましょう。

2.み前に出られるように励む (第2ペテロ3:13)
「そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。」
A)しみも傷もない者として (ヤコブ1:4)
「その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」
★信仰の試練がもたらす完全さをもって御前に出る
★試練の中でも神の約束に期待する
 
 私たちが行いにおいて不完全であっても、完全な者となることができます。それは忍耐を働かせることです。忍耐することを心がけて行くなら、自然に性格も変えられていきます。あらゆる試みの中で、神の約束を待ち望む、新しい天と地を待ち望む期待と信仰を失わない、信じ続ける忍耐を通して、私たちは成長を遂げ、完全な者とされるのです。怒りも失望も、この忍耐を働かせることによって治められます。主イエス様の十字架のあがないに心を向けながら、神の約束への期待を心に強くしていきましょう。それが忍耐の力となります。期待が薄れるとあきらめてしまいます。逆に期待があれば、そんな困難も耐え忍ぶ力が湧いてきます。どんな期待を持つか、これが重要です。神の約束への期待をもって忍耐を働かせること。これが罪人が完全な者となる唯一の方法です。

B)平安をもって御前に出られるように励む (ヘブル12:11)
★精錬されるための懲らしめが、平安な義の実を結ぶ
★赦されている罪人は、精錬される必要がある
 
 私たちは心に混ざりものが多い不完全な者です。神への純真な心を保つため、神は懲らしめを与え試練を通されます。この精錬の働きを通して、私たちのうちに純真な神への期待を芽ばえさせ、その期待をもって忍耐を働かせるように導いておられるのです。隠れた不純物が取り除かれる精錬の働きを通ることによって、私たちは平安な義の実を結ぶのです。
 平安な義の実とは、神の御前に正しい、義とされる状況を言います。不純なもの・歪んだものは入る余地がない、神の義に支配された心の状況です。私たちは何も問題のない状態を「平安」と思いがちですが、そういう平安は、何か問題が起きた時には揺らぎます。平安な義の実が結ばれている心は、どんな苦しみや試練を通っても、他のものが入る余地はなく、ますますしっかりと平安な義の実を結んでいきます。
 私も失敗することがありますが、小さな失敗で大きな教訓を得ることを心がけています。特に小さな交通違反をしたとき、神の忠告と受け入れ、すぐに心を入れ替えるように気をつけています。小さな失敗のうちに、自ら心を砕いてへりくだり、気づいていなかったごう慢や神様への不遜な心を悔い改めるのです。それによってほんとうに心が変えられ、平安な義の実が結ばれていることを体験しています。
何か思いがけないことが起こった時、私が精錬されるために神がなしてくださったことだ、とへりくだって受けとめて行きましょう。そのように、平安な義の実をもって神の御前に出られるように、ともに励んで行きましょう。

【デボーション参考ポイント】
 神の約束への期待を表明しましょう。それが、私たちの神への信仰の証しです。

 神への期待とその喜びを表していきましょう。幼な子がからだをもって喜びを表すように、私たちも賛美の中で、礼拝の中で、表現していきましょう。

【俳句】
 きよらかな  水芭蕉にも  試練あり

 水芭蕉が主に分布している地域はシベリア、サハリン、千島列島、カムチャッカ半島なのだそうです。いずれも冬場は氷に閉ざされる寒い湿地帯です。そのような厳しい環境の中で、雪どけの春を迎えたときに花を咲かせるのです。あのきよらかな美しさは、厳しい環境を通ってこそ、と言えるでしょう。水芭蕉を見ると、きよらかさは決して楽をしては得られるものではない、そのようなことを思います。

 

 

 

 

 

■2017年6月18日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 純真な心を奮い立たせる  up 2017.6.18


主題聖句(第2ペテロ3:1〜2)
愛する人たち。いま私がこの第二の手紙をあなたがたに書き送るのは、これらの手紙により、記憶を呼びさまさせて、あなたがたの純真な心を奮い立たせるためなのです。
それは、聖なる預言者たちによって前もって語られたみことばと、あなたがたの使徒たちが語った、主であり救い主である方の命令とを思い起こさせるためなのです。

 

 

 

 ペンテコステ記念礼拝以降、聖霊様の働きに対してもっと関心を持ち、心をむけていくことが大切であると示されています。
 純真な心がなくなっていくのは、マンネリ化であり、教会に礼拝に来るのも習慣づいてしまった結果です。純真な心を呼び起こすことが大事だと言えます。
 信仰とは神への純真な心から成ります。洗礼も、神への純真な正しい良心の誓いです。その時と同じ純真な心をもって礼拝に集うことが重要です。何故なら純真な心で私たちは神様とつながったからです。純真な神への愛と信頼の心をもって神とつながっているのです。
 純真な心は正しい良心とも言えます。パウロは正しい良心と表現しています。ヘブル語には良心という言葉はありませんから主を畏れるという言葉に変えています。
 良心とはギリシャ文学から生まれた心理学的な言葉です。ペテロは素直に純真な心、神を畏れるきよい良心を奮い立たせるために記憶を呼び覚ますことを勧めています。
 その記憶とは、ひとつは預言者達が語ったみ言葉であり、もうひとつは使徒達が語った主イエスの命令についてです。

1.預言者達が語ったみ言葉
A )イザヤ48:17
「あなたを贖う主、イスラエルの聖なる方はこう仰せられる。「わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。」

 どこの国でも戦国時代を通ります。領土を広げ武力をもって国を統一しようという野望をもつのが人間の性質です。
 その時に人々が頼ったのは、戦いに強いと思われる神でした。戦って勝利しないと平和がこないということで、自分の力を超えた存在である神に頼って勝利しようとしたのです。
 イスラエルに戦いを挑んできたアッシリアも、「どこの国々の神にアッシリアの神に勝る神がいようか!」と叫んだように、国同士、民族同士の戦いでありながら、最終的には神同士の戦いととらえていました。
 この当時、どの神を自分の神にするかによって、勝敗が決まり、自分たちの未来が決まるという、神選び?は大変重要な問題だったのです。
 しかし、イスラエルは、天地万物を創造された神を信じていましたが、他の国とは違い、民自らが神を選んだのではなく、神様の方から先祖アブラハムに現れて、「わたしはあなたを大いなる国とする、わたしの民とする。」と、イスラエルを選ばれたのです。
 私たちクリスチャンも同じように、神様の方から選んでくださいました。「わたしはあなたの神である。」と、私たちを自ら選んでくださったのです。
 創造主であり万物を支配しておられる、すべての王の王である主権者なる神が選んでくださったのです。
 私たちはこのことを通して、自分の神様を知るということがどれほど重要であるかがわかります。
 あなたが信じているイエス・キリストはどんな神様でしょう。どのようにあなたは表現することが出来るでしょうか。その神様にどんな望みを持っているでしょうか。あなたにどのような事をしてくださっているでしょうか。あなたをどのように導こうとしておられるでしょうか。
 「贖い主」=代価を払って買い戻してもいいと思うほどに私たちのことを愛してくださる神様、決して何があっても手放したくない、例えあなたが離れていってもあなたを呼び戻したい、そのためにはどんな犠牲も払っていいという神様の強い愛の御心が表されています。イスラエルの歴史を見ても、民が何度神様を裏切り離れても、神様は決して諦めず助けておられます。神様はそのような御心で私たちを愛してくださっているのです。
 神は罪人という無価値な私たちをひとり子イエス・キリストの命を犠牲にしてでも、罪から買い戻してくださいました。それほど大切に思ってくださっています。そのことを私たちは思い見ることが大切です。それゆえ私たちは常に十字架を見上げ感謝し永遠にその贖いの御業を賛美し続けます。

 聖なる方=美、美しさに例えられます。私たちは美に惹かれます。
もしできることならば美しくありたいと願うものです。若さも美しさと言えます。
 美しさを求める人は部屋もきれいにしようと努めます。美という言葉を聖いという言葉に置き換えてみてください。永遠の命を求める人は若さも条件としてつけました。永遠の美を求めたのです。聖さを求めることは永遠の美を求めることと似ています。天国は最も聖い所であり、同時に美しい所です。天国は完璧な所です。
 サンビ教団とは、3つの美を求めるという意味で、霊と心と体の美を求めるということです。それと歌う賛美をかけ合わせて、カタカナでサンビと表しています。
 私たちの神様は究極に聖い御方であり美なる御方です。

B)レビ19:2
「イスラエル人の全会衆に告げて言え。あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。 」

 これが神が私たちを導いておられる方向であり、最終のゴールが聖くなるということです。
 あなたが聖い者として生きる為に命が与えられています。神様の聖さ、美に到達するようにと創造されたのです。
 すべての人間に神様は期待してくださっているのです。すべての罪人が神様を信じて救われ、聖なる者とされることを神様は信じ、望みをもってくださっています。
 そのように神様は私たちをご自身に似せて造ってくださいました。
その神様の期待に応えたいと、愛に応答する心が湧き上がってきます。これが純真な心です。
 神様の愛を信じ、神様の愛によって聖くなるということを旧約の時代から神様は預言者を通して語ってこられました。
 あなたが自分で努力して美しくなるのではありません、神様ご自身があなたを聖なる者として、変えてくださるのです。
 第1コリントに、「栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられていく」とあります。「これは主なる御霊の働きである」とあります。愛によって人は美しくなります。
 女性が美を追求する理由は、女性は教会の型であるからとも言えます。教会は聖なる美を追求するものだからです。 最初は癒しや解放、問題解決を求めて教会に来ていても、最後に求めるのは聖なる者となることです。ここに期待をもってクリスチャン生活を保ち続けましょう。そのために預言者の言葉を思い出して、純真な心を奮い立たせましょう。

2.使徒たちが語った主イエスの命令
A)ヨハネ13:34
「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」
 
 ポイントは、自分勝手な基準や価値観、世界観で愛するのではなく、イエス様が教えられた愛し方で、互いに愛し合うということです。
 
 イエス様の愛し方とはどのようなものでしょうか。贖い主として、諦めない、ずっと思い続けてくださり、私たちをご自身の家族とするためにすべてを犠牲し与えてくださった愛し方です。
 私たちが、互いに傷つけ合い、裏切り合う弱い罪人であり、まだ良くなる前にイエス様は私たちを愛してくださり、赦してくださり、犠牲を払ってくださいました。
 その人が良くなったから愛する、いい人だから愛するのではなく、神様が愛してくださっているその人を信じて、愛していく、そのような愛し方ができるクリスチャン人生を目標としましょう。
 自分の価値観ではなく、神様の愛で兄弟姉妹を愛せるように求めていきましょう。相手のどんな問題も問題と捉えず愛していけたら、これほどの平安はありません。
 地上で求める望みの至上のものはこのような純真な心であり、聖さです。

B)ガラテヤ5:14
「律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という一語をもって全うされるのです。 」

 これはパウロの言葉です。イエス様は神を愛することと、隣人を愛することと二つを述べられました。しかし、パウロのこの言葉の中には神を愛するということも含まれています。神様が私たちを愛してくださったそのように愛しなさいということです。
 つまり、隣人を自分自身のように愛することで、神様を愛していることになるというのです。
 「神がわたしを愛してくださったから、私も兄弟姉妹を愛します」ということです。

【デボーション参考ポイント】
「預言者が語ったみことばと、使徒たちが語った主イエスの命令によって、純真な心が奮い立ち、救い主を信じる信仰に至った。」

 どんな神様を信じて、どのような導きを与えられているのでしょうか。救い主イエス・キリストが語られ教えておられます。その教えの一番の中心が、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という教えです。律法全体がこれで全うされるのです。
 律法の目的は「あなたがたも聖なる者とならなければならない」です。そのために律法は違反を示すものです。その戒めをイエス様は一つの教えにまとめられました。
 兄弟姉妹を愛することは、聖なる者となることです。捨てられるべき罪人である私たちを愛してくださった、そのような愛を示してくださった聖なる御方のように、私たちも愛することを、主は求めておられます。
 それは、兄弟姉妹のために犠牲を払うほどの愛を示すことです。それが聖くなるということなのです。
 愛せないと思うとき、愛する条件をなんら求めず、ただ愛してくださったイエス様の愛を思い出しましょう。
 兄弟姉妹を愛していこうというあなたの心を神様は見て、喜んでくださいます。これがあなたの純真な心だからです。
 純真な心は不可能を可能にします。結果を求めるのではなく、ただ、あきらめずに聖さを求めていきましょう。自分にはできなくても神にはできると、神様への信仰を持ちましょう。
 諦める人は行いによって神様の前に出ようとする人です。そこで、できることに誇りをもって人を裁いてしまいます。
 癒しも同じです。人にはできなくても神にはできるのです。

【俳句】
      梅雨晴れに 純真な心 奮い立つ

 

 

 

 

 

■2017年6月11日 日曜礼拝メッセージより(辻和希伝道師、横路伝道師)

 聖霊と私たち  up 2017.6.11


主題聖句(使徒1:8)
しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。

 

 

 

【辻 和希伝道師メッセージ】
A)「生きた信仰生活を送る」

 信仰を持つ前と後では何かしらの変化があります。そして、その変化に聖霊様が関わっています。
 私には二つの変化がありました。一つ目は、人生の目的が、キリストの証人、主の栄光を現わすということがはっきりしたことです。
 もう一つは、自分自身の存在価値に気付いたことです。この二つの変化は、受洗したときからというよりも、聖霊様に触れられて以降であったことを、思い出します。聖霊様には、私たちを変える力があるということを一つ目のポイントとして申し上げたいと思います。
 その聖霊様が今も私たちの助け主としてともにおられることには、信仰生活にとってとても重要なことです。

(ヨハネ14:16)
「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」
 聖霊様は助け主として、わたしたちのもとに送られました。そして、みことばにもあるように、いつまでもわたしたちとともにおられます。 ともにおられるということは、私たちの生活に密接しているということです。だからこそ、私たちの信仰生活に変化があり、その変化があるからこそ、信仰生活がリアルなものになるのです。
 もし変化の無い、実体の無い、ただ教えだけの信仰は、宗教になってしまいます。助け主なる聖霊様が、今も私たちに直接働きかけておられることを信じる信仰が、私たちの信仰です。これが二つ目のポイントです。
 聖霊様にいつも満たされた信仰生活を心がけますが、そこには聖霊様への渇きが必要になってきます。渇きが無ければ求めることをしないからです。
 私は、「主の栄光を現わすために、私に与えてくださっている賜物を引き出して、それを主のために用いて頂きたい。」という渇きがあることに気が付きました。そのために聖霊様で満たされることを新しい一週間も求めていきます。

【横路伝道師メッセージ】
B)「内に住まれる聖霊は助け主」

◎主のみこころ
1.使徒1:8
「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
 イエス様は、私たちの救いのために来られました。そして、聖霊様は私たちが証人となるために来られました。イエス様の愛を伝えるために私たちはこの地上で生かされていますが、私たちは、羊のような弱く愚かな者なので、証人となるためにはどうしても聖霊様が必要でした。

2.エペソ5:18b
「御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」
 もう一つの神様のみこころは、私たちが霊とまことをもって神様を礼拝をすることです。つまり、本当にすべてをもって神様をあがめる人々を求めておられるのです。
 ただ礼拝に出ているだけでなく、私たちが生き生きと、心から神様を喜んで礼拝する姿を、神様は見たいのです。

3.ヨハネ2:20
「そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』」
 アダムが神様の手によってちりから創られた時に、すべての体が完璧に創られていました。そして最後にアダムの鼻に息を吹き込まれました。するとアダムが生きた者となりました。
 私たちが聖霊を受けるということは、霊なる神様ご自身の霊を吹き込まれることです。生きた神様との交わりを持ち、生きた信仰を持つために、聖霊が必要なのです。
 内に聖霊様がおられると、親しい聖霊様との交わりを持つことができます。色々なことを教えてくださいます。御霊の賜物をくださり、御霊の実を結ばせてくださいます。神様のような愛の人に変えられます。そのために聖霊様が必要なのです。

◎真実な愛
ヤコブ4:5
「それとも、『神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる』という聖書のことばが、無意味だと思うのですか。」
 どんなに神様が私たちを熱く愛しておられるかということを、このみことばで見ることができます。
 すごく愛しておられるから、その愛する子が強くなるために聖霊を遣わされ、その子どもが元気になって聖霊様と親しく交わっていることを、神様がねたましいと思われるほどに、神様が私たちを愛しておられるのです。
 別訳には、「神がわたしたちのうちに住まわせた御霊は、ねたむほどに(私たち)を慕い求めておられる。」とあります。
 聖霊様も、私たちをねたむほどに愛しておられるということです。私たちが他のものに心を惹かれ、自分勝手な生き方をし、自分の好きなことだけを求めて生きているなら、聖霊様は悲しまれて、どうして私の方を振り向いてくれないのかと、ねたましく思われるということです。そのくらい私たちを愛してくださっている聖霊様との関係を親しく持つことが大切だと思います。
 私たちは聖霊様との関係の中で、悩みの時、うれしい時、悲しい時に、どんな時にも、「聖霊様、こうなのです。」と、心の中で聖霊様に話しかけることができたら、どんなに素晴らしいでしょう。そのような関係を聖霊様と持つことができたら、淋しいことがありません。誰も味方がいないような状況でも、聖霊様が慰め励まし、共にいてくださいます。

◎私たちの態度
1.ルカ11:9、13
「わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」「天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」 
 聖霊様を求めるなら、必ず与えてくださると書いてあります。だから、私たちは今日も聖霊様を求めましょう。毎日求めましょう。いつも交わりましょう。

2.エペソ4:20
「神の聖霊を悲しませてはいけません。」
 聖霊様は人格を持っておられるので、喜んだり悲しんだりされます。どんな時に聖霊様は悲しまれるでしょうか。それは、聖霊様を忘れて、まるでいらっしゃらないように歩んでしまうことです。聖霊様に相談をせずに、何でも自分の思い通りに勝手にしてしまうと、聖霊様は悲しまれます。
 聖霊様との交わりがあまりにも少ないので、聖霊様は悲しんでおられると思います。「聖霊様の素晴らしい恵みを無駄にしてはなりません。」と、リビングバイブル訳にはあります。せっかく私たちをこんなに愛して、力をくださり、内に共にいてくださる聖霊様を、まるでないかのように自分だけで生きてしまうと、聖霊様は本当に悲しまれると思います。
 別の個所では、「聖霊を消してはいけません。」とあります。私たちは、この素晴らしい聖霊様を与えてくだった神様のみこころを無駄にしないで、聖霊様との親しい交わりを持ち、私たちの周りの人々に対してイエス様の愛を伝える証人とされることを願います。

 

 

 

 

 

■2017年6月4日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 神の子は聖い愛に導かれる  up 2017.6.4


主題聖句(ローマ8:14)
神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。

 

 

 

 神様の霊、神の御霊に導かれる人。それはだれでも性別・民族・国語・DNA関係なく神の子どもです。そこには何ら差別はありませんという意味です。

1.御霊は「聖い愛」そのもの(使徒2:17)
「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。」
★聖い愛なる神様は「霊」なる方です 
★その神様の「霊」は聖い愛ですということです
 このみことばは、預言者ヨエルが語った旧約聖書中から引用されたことばの一部です。聖書でいう「終わりの日」とは、救い主イエス・キリストが預言通りにこの地上に来られて、罪の赦しのための贖いの御業を成し遂げられた後の時間を「終わりの日」と呼んでいます。そんな時に神様は「わたしの霊をすべての人に注ぐ」と言われました。 それは、救い主イエス・キリストを通してもたらされるのですが、聖い愛の現れであるイエス・キリストを信じる者に神様は御霊を注がれるという約束です。その約束とは「息子や娘は預言をし、青年は幻を見、老人は夢を見る」と語られました。
 「預言をし」とは、神様の霊が内側に満たされたしるしとして御霊の語らせるままに神様からのメッセージや御国について、神様についてのことばを語ることを預言といいます。
 「青年は幻を見る」幻とはビジョンということです。神様のみこころを行うための目標・目的・ビジョンを青年は見て、神様のみこころを実現するために進んでいくという意味です。
 「老人は夢を見る」夢とは通常いわれる夢ではなく、老人たちは失望や死を直前にしている年齢ですから、希望の無いそんな状況の中で人生を終わるのではなく、夢を与える、まだ私の人生には未来があるという期待と希望を心に抱くような夢を見るという意味を持っています。

 神様は愛です。新約聖書では、神様は愛ですというのが前面に出ているのです。一方で、神様は、さばき主ですというのが旧約聖書の時代の印象です。しかし、聖さのゆえに罪をさばかなければならない。聖い愛ですから、汚れたものを持つことは、聖い愛にふさわしくないのです。だから、さばきとは聖さを保つための方法なのです。悪いことをしたから懲らしめられる、痛めつけられるという意味ではなく、聖さを保つためにさばきが必要であり、聖さを保とうとする人にとって、さばきは何にも怖くないわけです。「怒られる」「どうしよう」「さばかれる」そのようなイメージを持たないで、さばかれることは聖められることだ。懲らしめられることは聖くなることだと希望をもっていただきたいと思います 

2.御霊は どこに導いてくださるのか?
A)第2コリント3:18
「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」
★主の御霊の働きは、栄光の主と同じ姿へと導いてくださる
 聖霊様の働きとは、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿に変えられていくことです。神様の子が御霊に導かれて歩むということは、よみがえられたイエス・キリストの姿に近づけられていく、つくり変えられていくということです。ですから、信じた時よりも10年・20年と信仰生活を歩めば歩むほど、さらに聖められていくわけです。だから当然、年数の長いクリスチャンほど試みは厳しくなります。
 最初信じていた時は、簡単に祈りに応えてもらえるような感覚があって、そのままの気持ちで進んでいると「あれ」期待通りのことが、願い事がかなわない。むしろ、いろんなことにぶつかることがたくさん出てきます。なぜでしょうか。あなたを聖霊様が主と同じ栄光の姿、聖められた姿へと、どんな小さな汚れをも取り除こうと働き、導いてくださっておられるからです。
 私たちは、神様の国を継承するものとしてふさわしい、イエス・キリストの姿へと近づけるわけですから、隠れている自己中心のわがままを引き出そうとされるのです。しかし、それには忍耐がいります。忍耐を働かせるとあなた方は完全なものになりますとヤコブの1章に書いてあるように、その試練の中で神を信じ続ける、その忍耐が私たちのわがままを取り除くという働きをするのです。御霊はそのように私たちが忍耐を働かせるようにと、私たちの信仰の力量に応じて試練を与えてくださるのです。
 「神様、どうしてこんなにうまくいかないのですか」そのように感じている人がいるでしょう。それは、信仰初心者の人ではないと思いますよ。次から次になんでこんなことが起こるのかという状況の中にいると思います。それほどあなたの細かい小さな部分の取り扱いが始まっているからです。それはキリストの御姿に近づいているというしるしです。あなたが通り抜けることができないような試練を神様は決して与えません。
 確かに苦しみは神様の祝福がないかのように思うかもしれません。でも、栄光から栄光へと主の御姿に変えられるということは、試され、熱い炉で練られて不純物が取り除かれるということなのです。まさに私は火の中にいると悲鳴を上げるのではなく「ハレルヤ、感謝します」と感謝、喜びを現してほしいと思います。

B)ヨハネ16:13
「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。」
★主の御霊の働きは すべての真理へと導いてくださる
 聖霊様は、神様の御霊ですから、神様から受けた様々な教えや未来に起ころうとしていることを私たちに教え示してくださる、すなわち、真理に導き入れてくださるということです。
 真理とは何でしょう。真理とはイエス・キリストそのものであると聖書の中では啓示しています。イエス・キリストは万物の存在の源であり、目的であると書いてあります。ですから、キリストを知ることが真理につながることになります。
 聖書をじっくりと読んで真理とは何か、私たちは生涯これを追及していくべきものです。神様はいろんな目的をもっていろんなものを造り。それを維持し、それを統治しています。これらすべてが真理であり、神様のみこころが真理です。ですから聖書を通して神様はどのようなことをお考えになって、このようなことをされているのだろうかということを見出していくことが、真理につながるということが言えると思います。
 どうぞ、真理を見出す思いを持って聖書を読み通していただきたいと願います。

C)ガラテヤ5:16
「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」
★肉の欲望に屈することがない、聖い愛の生活へと導いてくださる。
 私たちの内側から出てくるいろんな感情の乱れ、聖書ではこれを「情欲」といいます。一般的な日本語における情欲とは性的な問題ととらえることが多いですが「怒り」「嫉妬」「妬み」これらも情欲にあたります。
 感情の乱れには、大変力強い自制心が必要であります。意志の強い人はある程度それを抑えることができるでしょう。しかし、それには限界があります。その情欲の欲望を満たそうと「罪の力」がそこにプラスされていきますので、到底自分の力や意志力だけでは抑えきることができないのです。
 どうしたらいいのだろうかとクリスチャンたちが一番悩むところですね。イエス様を信じたにも関わらず、なかなか感情コントロールができない。自分の性格・性質を変えることができないと失望している人がいるかもしれません。
 罪からくる肉の欲望に打ち勝つには、御霊によって歩む。御霊に導かれて歩むということです。御霊は私たちをどのように導かれるかというと、肉の欲望を満たすことのないようにと私たちを導いてくださっているのです。誘惑のあるようなところに連れていくことは決してありません。私たちが誘惑のある所に行くのは自分で行くのであって聖霊の導きではありません。
 神様は今のあなたのありのままを受け入れてくださっています。しかし、神様はありのままを受け入れてくださっているので、10年後も今のままでいいと考えている人々がいます。これは聖霊の導きではありません。聖霊様は、あなたのありのままを受け入れます。でも、10年後も今と同じようなありのままの状態を聖霊様は導かれるでしょうか。それ以上変わる必要ない。そのままで天国に連れていきましょうと言うでしょうか。だったら「栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられる御霊の働き」とは何の意味があるのでしょうか。
 今日のあなたは無条件で神様の愛によって受け入れられます。しかし、神様の愛に励まされて、御霊に導かれて前進し、聖められ、キリストの姿に近づいていくという導きを拒絶したらいけませんね。御霊は、前に進むように私たちを導いてくださるのです。後ろに戻るようには導いてはおられないのです。そこにとどまるようにも導いておられません。
 導くとは、前に進む。未来に向かって目標・目的、神様のみこころの完成に向かって、御霊は私たちを導いておられるのだということを忘れないでください。御霊に満たされて、肉の欲望に勝利する体験をしましょう。これはもう知識的な学びではなく体験です。聖霊に満たされたら、絶対に自己中心の肉の欲を満たそうとするその働きを自制することができます。なぜなら、御霊の実は、最後に9つ目に自制という実を結ばせてくださるのです。

D)ガラテヤ5:18
「しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。」
★聖い愛の動機によって、みことばを行えるように導いてくださる
 律法という言葉の意味は、「束縛」もしくは、新約聖書では「負いきれないくびき」「強いられたくびき」によってコントロールされることを指します。
 優秀な馬に乗ると手綱がほとんどいらないそうです。賢い馬は主人である乗り手の思いを察して前に進み、目的の方向に走るのです。
 私たちも聖霊に導かれます。聖い愛である神様の霊に促されて、自発的に神様のみこころを喜んで行う生活に導いてくださるのが聖霊様です。
 でも、その導きを受け入れず、自己中心な人は神様の教え(律法)を聞くと無理やり従わされるという精神的負担を感じてしまうのです。 もし、あなたが聖書を読んでいて負担や圧迫されているという感情が湧いてきているならば、それは御霊に導かれてはいません。
 御霊に導かれている人は「これも神様のみこころ。神様が私をさらにキリストの姿へと変えてくださるために私に語ってくださっている。忠告・戒めを与えてくださっている」と、聖い愛をもって神様のみ教えを受け止めていくので決して重荷にはならないのです。神様の御霊は聖い愛、みこころから出た愛のおことばを共鳴・共感できるわけです。その真意を悟ることができるわけです。
 なぜそんなに厳しく言ってくれるのか。なぜ懲らしめられるのか。その真意を、神様のまごころを悟ることができる。見抜くことができる聖い御霊に神の愛があるのです。
 もし、あなたの人生に対して「どうして神様」という思いが出てきているならば、聖い御霊があなたの内から遠ざかっていませんか。導きを拒絶していませんか。自分の欲望を満たしたいと思うときに注意されると「縛られる」と感じてしまう。これが律法的に神様の教えを受け止めているということなのです。ぜひとも御霊に導かれて、そして神様のみこころを喜んで受け止めて、自発的な思いに変えられていくように、神様の前に努め、励んでいただきたいと願っています。律法的な考え方になっていないか。自分を吟味してみましょう。

【 俳 句 】

青梅に 御霊のいやし 思いを見る

 青梅は中国から薬用として日本に入ってきたそうです。青梅に重ね合わせて、聖霊様の導きをいやしと表現してみました。
 酸っぱいし、食べにくいかもしれませんが、薬としての大きないやしの力が含まれています。聖霊様の導きも甘いことよりも苦いことが多いかもしれません。でもそれはいやしであり、聖めであり、救いの完成です。

 

 

 

 

 

■2017年5月28日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 主は私の羊飼い(15)  up 2017.5.28


主題聖句(詩篇23:1)
主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。

 

 

 

 主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。物理的な豊かさで
はなく、霊的な内面的な豊かさ、主は私たちを養い育てて下さる羊飼
いなるお方、そのお言葉によって私達を導き養い育てて下さる主イエ
ス様、それは神のお言葉ご自身ですという流れから、詩編119編を
8つの節ずつ見てきております。今日は113節から120節です。

テーマ【神を畏れ敬うもの】

 この著者はどのような思いを描きながら感じながら、これを記したのでしょうか。当然神の御霊に導かれたものでありますけれど、この著者の経験体験を通して、神に対する信頼の心をここではっきりと表明しています。そういうところから、神を畏れ敬う者はどんな心、考え方、姿勢をもっているのか、どのように神を畏れているのかという点を見てみました。
(1)「二心を憎む」
(119:113)私は二心の者どもを憎みます。しかし、あなたのみおしえを愛します。
 主を畏れ敬う者の心は、神様と同じように「二心を憎む」というのがポイントです。
 「二心」というのはよく勘違いされるのですが、私たちの内面を見るときに、神様を畏れ、信頼し、愛する思いと、もう一つは、そうでない自己中心の欲に惹かれ誘われ、自己中心的な行動や考え方をして、神様に喜ばれないことに、思いや考えが向いてしまうという二面性が、
私たちにはあります。しかし、この二面性と二心は違うのです。
 「二心」という意味は聖書でいうと、イエス様も「人は神と富に仕えることはできない」と言われたように、主人を二人持つということです。もし、主人が二人だったら、例えば欲望という主人に、「ああ、欲望の神様、ごめんなさい、私はまことの神様に仕えてしまいました。」
と思うわけです。しかし、私たちの主人はただ一人、天の栄光を捨てて、私たちの罪の身代わりに十字架でさばきを受けて下さって、愛をすべて流し出してくださった、この愛なる神様ただ一人です。
 どんなに悪い自分が出たとしても、神様の前にへりくだって「ああ、私は罪を犯しました」と、ただ一人の主人に悔い改めるわけです。
 ですから、悪い心があると思って「私は二心が・・」という様に、自分を責めることがないようにしてください。二面性があったとして
も、主人が一人であるということが大事なのです。神を畏れ敬う人は絶対に、創造主なる神、聖き愛の神以外に主人を持たないというということが、113節から察することができます。

(2)「主を隠れ場、盾とする」
(119:114)あなたは私の隠れ場、私の盾。私は、あなたのみことばを待ち望みます。
 主を畏れ敬う者は、隠れ場として神様のもとに身を寄せ心を寄せ、
盾として自分の心を覆っていただきます。患難や問題や悩みや嵐を、安全な主の隠れ場で、また盾のかげでじっと時を過ごして、信頼をもって待ちます。その安全な場所で、あなたのお言葉を、あなたの啓示を待ち望みます。この問題が過ぎ去るまで、 あなたの愛のもとで私を覆い隠してください、という信頼を表明している言葉だと思います。
(3) 「悪者を遠ざける」
(119:115) 悪を行う者どもよ。私から離れて行け。私は、わが神の仰せを守る。
 115節は「悪者を遠ざける」というポイントに目を向けてみました。「離れてゆけ!」と命じて、悪者を遠ざけています。これはどういう状況かといいますと、悪者がやってきた時、「あっ、逃げよう!」と、自分が動いて悪者から離れようとしても、それでも悪者は追ってくるのです、誘惑してくるのです。追いかけてくる者を避けるには「離れて行け!あっちへ行け!」と、強い態度で悪に対して臨むことが大事です。主を畏れ敬う者は、悪い者を振り払う、そういう強さを持つのです。

(4)「神への望みを捨てない」
(119:116)みことばのとおりに私を支え、私を生かして下さい。私の望みのことで私をはずかしめないようにしてください。
 神を畏れ敬う者は神への望みを絶対に捨てません。「みことばのとおりに私を支え」――ここでもう、神のみ言葉が自分の内に成就することに対する信頼が、うかがえます。私たちは神に望みを抱いています。その望みが、もし叶わなかったら、 「今も生きておられると言って、全然何も起こらないではないか」と、恥ずかしめられるのです。
 この著者は、神は絶対にみ言葉の約束通り、私たちの期待に応えてくださるお方だと信じているからこそ、強く神様に求めているのです。
私たちもまだまだそこまでいかないかもしれませんが、ぜひとも神のお言葉に対する期待を捨てないで、あきらめないで待ち続けてほしいと思います。                          
(5)「神の真実さに信頼する」
(119:117)私を支えてください。そうすれば私は救われ、いつもあなたのおきてに目 を留めることができましょう。
 117節は「神の真実さに信頼する」という思いを与えられました。
前節と同じように、望みと期待を持ち続けるということと、神は真実
で誠実な方であるということに対して、私たちは強く信頼して、み言葉を待ち望み、み言葉の励まし、み言葉に対する神の真実性を信頼し続けるという姿勢をもつということ、これが神を畏れ敬う者の心にはあるということです。                      
(6)「高慢を嫌う」
(119:118)あなたは、あなたのおきてから迷い出る者をみな卑しめられます。
彼らの欺きは、偽りごとだからです。
 「迷い出る」とはどういう意味か、そのヒントとして、「彼らの欺きは偽りごとだからです」とあります。「欺き」これは欺瞞、ありもしないものをあるがごとくにみせかけて、だますということです。
 この欺瞞、欺きは傲慢さからくるものです。神の言葉を軽視し、価値のないもののように感じ取る。傲慢からくる無知です。神の言葉について知らない、だから迷い出る。それは即ち、聞こうとする気持ちがないということです。教えられることを拒絶する態度、そこから出る無知で「迷い出る」ということです。             

(7)「聖められることを喜ぶ」
(119:119)あなたは、地上のすべての悪者を金かすのように、取り除かれます。それゆえ私は、あなたのさとしを愛します。
 119節は「聖められることを喜ぶ」もしくは「神は聖めをされる方」ということについてです。
 箴言のある所には「銀にはるつぼ、金は炉、人を試すのは主である」
と書いてあります。金銀は不純物があると価値が下がります。価値のあるものだけを残すために、るつぼや炉で純化するように、人を聖めるのは神からの試みによってであるということです。私たちは土の器と言われています。土の器の中に神の聖い愛の霊を頂いております。しかし、この罪に犯された肉体(土の器)と、霊、魂とがくっついてしまうと、不純物を含んだ金銀の様に、価値が下がり、またその良さも、十分に発揮できなくなってしまいます。
 神様の試み、試験というのは純化するためです。純粋な神の子を得るためです。だから、試みを避けるということは不純物を持ったままになります。
 苦しいところを通って試みを受けるならば、喜んで下さい!私は純金のように、いま聖められているところなのだと。一回ではない、何回も炉を通して純化を進めていきますね。そのように私たちも、天において何の不純物もない純粋な純真な神の子として迎えられるようにと、この世では試みられるわけです。聖められることを喜びましょう!神はあなたを聖めるお方です。

(8) 「恵みとあわれみに満ちた方は、裁き主」
(119:120)私の肉は、あなたへの恐れで、震えています。私はあなたのさばきを恐れています。
 私の肉――内面的な罪の性質、古き人のことですね、それが恐れて震えている・・・神様が怖い・・怖さが強調されています。
 出エジプト記34章で、神様がモーセに現れて、ご自分のことを宣言されました。「主、主はあわれみ深く情け深い神、怒るのに遅く、恵み豊かである、その恵みは千代にまで及ぶ・・・・」
 神は愛です。赦して下さるお方です。それなのにどうして「私の肉は、あなたへの恐れで、震えて」いるのでしょうか? ここで気がつかないといけないことは、あわれみと恵みの神様は、裁き主であり、罰すべきものは必ず罰するお方だということです。あなたの罪の為に、神は天の栄光を捨てて私たちと同じ肉体の内に宿られて、罪を一つも犯すことのない33年間を過ごして、私たちの罪の身代わりであるいけにえとなることができるように、証明して下さった。それほどに裁きは厳しいのです。
 あなたは自分の罪のさばきを自分で受けることはないでしょう。でも罪を赦すといって、放っておかれるわけではないのです。裁くべきものは裁くのです。身代わり――一ひとり子イエス・キリストを通して、罪を裁かれる方なんです。罪に対してはそれだけ厳しい態度をお持ちの方なのです。
 あなたが罪を犯すたびに、イエス・キリストは十字架であなたの罪の為に苦しみ続けているということ、罰されているということを忘れてはいけません。愛の神様だからといって、何をしてもいいんだ、赦されるのだ、少々罪を犯したからと言って、どうせ赦してくださるのだと、そんな甘い考えで、赦されていることを自分の欲を満たすことの口実にすることのない様に気をつけなくてはいけません。
 十字架は今も有効であるということは、今も裁きは続いています。あなたが罪を犯し続けている限り、未来に罪を犯す人間がいる限り、十字架の苦しみは続いているということを忘れてはいけませんね。
これが終わるのは、キリストの再臨される時、最後の審判がなされる時、その時イエス様の十字架の苦しみは終わるのです。
 イスラエルに行ってゴルゴダの丘を観光しますが、あそこに、今も十字架が立っているのです。私の今日の罪のために、主が再びこられる再臨の時まで、あのイスラエルに十字架は生々しく立って、私たちの苦しみを身代わりに受けてくださっているのです。その象徴がこのパンと杯です。イエス様が最後の晩餐の時、これを続けなさいと言われました。それは、これを過去のものと、とらえないように、その日その日、未来にまで十字架の身代わりの裁きの苦しみが続き続けているんだということを思い起こさせるための、イエス様のおっしゃったセレモニーなのです。
 十字架の大切さを思いみて、受けている赦し、恵み、あわれみは、裁きあってのものなのだと、心を律することが必要です。安易な気持ちになって、肉に流されることもあるけれど、でも私たちは二心ではありません。主はただ一人です。そんな堕落に傾いた心であっても、主よ申し訳ありませんと、ただ一人の主人に心を悔い改める思いを告白して、もう一度神様の聖い愛に導かれて歩む決心をして行くことが大事です。   
 何回失敗してもやり直す、これなら誰でもできますね。ただ、あなたがあきらめない限り、やり直しを、悔い改めを、赦しを与え続けてくださっている。十字架でその苦しみを耐え忍び続けてくださっている。ありがたいことです。感謝なことですね。ただ、罪深さがわからない人にはピンと来ないかもしれません。聖霊様が私たちの罪深さを、更に示してくださいますように。神様の十字架は今も生々しく、この時代においても効力があって、姿は見えないけれども、今も十字架の丘でキリストが苦しんでおられるということを、思い見ていきたいと思います。

【デボーションの参考ポイント】
(使徒23:1)パウロは議会を見つめて、こういった。「兄弟たちよ。私は今日まで、全くきよい良心をもって、神の前に生活してきました。」
 神様への畏敬の念を持つ心が良心です。パウロの告白のように、全くきよい良心をもって神の前に生活すること、これが主を畏れ敬うという大事なポイントになっているということをどうぞ考えてみてください。                             
【礼拝メッセージのまとめ】
★み言葉を賜ることは、なんと「恐悦至極」(きょうえつしごく)なことでしょう。
 恐悦至極とは相手の厚意に大変喜び感謝することです。私たちはみな罪人です。その罪人に、きよい神様がお言葉をかけてくださっているのです。
 神のお言葉である聖書を、私たちが頂いているということは、なんと光栄なことでしょうか!そのような気持ちを、皆さん、ぜひ失わないようにしましょう。

【俳句】
    新茶飲み  みことば思い  めぐらせる

 

 

 

 

 

■2017年5月21日 日曜礼拝メッセージより(辻マリア伝道師)

 仕える者の心  up 2017.5.21


主題聖句(ピリピ2:25)
しかし、私の兄弟、同労者、戦友、またあなたがたの使者として私の窮乏のときに仕えてくれた人エパフロデトは、あなたがたのところに送らねばならないと思っています。

 

 

 

◎デボーションのための聖書箇所(ピリピ2:25−30)
2:25
しかし、私の兄弟、同労者、戦友、またあなたがたの使者として私の窮乏のときに仕えてくれた人エパフロデトは、あなたがたのところに送らねばならないと思っています。
2:26
彼は、あなたがたすべてを慕い求めており、また、自分の病気のことがあなたがたに伝わったことを気にしているからです。
2:27
ほんとうに、彼は死ぬほどの病気にかかりましたが、神は彼をあわれんでくださいました。彼ばかりでなく私をもあわれんで、私にとって悲しみに悲しみが重なることのないようにしてくださいました。

2:28
そこで、私は大急ぎで彼を送ります。あなたがたが彼に再び会って喜び、私も心配が少なくなるためです。
2:29
ですから、喜びにあふれて、主にあって、彼を迎えてください。また、彼のような人々には尊敬を払いなさい。
2:30
なぜなら、彼は、キリストの仕事のために、いのちの危険を冒して死ぬばかりになったからです。彼は私に対して、あなたがたが私に仕えることのできなかった分を果たそうとしたのです。

 エパフロデトは、ピリピの教会の使者としてパウロに贈り物を届けた人で、パウロの身の回りの世話や福音の働きに奉仕していました。パウロから「私の兄弟、同労者、戦友、またあなたがたの使者」と言われ、同時に「仕えてくれた人」と呼ばれており、まさに奉仕者と呼ばれるにふさわしい人でした。このエパフロデトから奉仕することについて学んでいきましょう。

 私(マリア伝)は、時々神学校時代の友人と会い、近況を分かち合い、祈り合ったりすることがあります。奉仕にあたり仲間がいれば、そのように互いに励まし合い、祈り合うことができます。しかし、多くの日本の教会では、大きな教会を除いて、働き人がいない状況がほとんどです。
 
 私の友人も、教会でただ一人の献身者でした。ほとんどすべての教会の働きを一人で負っている状態、誰にも気づいてもらえない、支え合う信仰の友もいない中で、そのうち気落ちして心が弱ってしまう状況になりました。ある時、教会の草抜きを一人でしていたとき、むしょうに虚しくなり、思わず神様に「私はいったい何をしているのでしょうか。何のためにしているのでしょうか。」とに語りかけました。すると「あなたは誰のためにしているのですか。わたしのためではありませんか。」と神様から心に語りかけがあったというのです。そして「そうだ、自分は主のためにすべてをしていこう、という思いだったではないか」と気づき、初めの頃ほんとうに喜んで仕えていたことを思い出したとき、虚しさから解放され、心が軽くなりました。それからは「すべての奉仕は主のために」という心構えでできるようになった、と分かち合ってくださいました。

 「主のために」という思いがありながらも、周りの状況や忙しさの中で次第に仕えることの喜びが失われてしまったり、疲れを覚えてしまうことはあると思います。また奉仕にも、このようにメッセージをしたり、楽器や歌の奉仕など人前に目につくものと、教会の掃除や礼拝堂のいす並べなどの隠れた奉仕とがあります。しかし、どんな奉仕に携わろうとも、人や周りを見るのではなく、いつも「主のために」という姿勢は変わらないでいたい。この証しを聞いてそのように思いました。
 
A)奉仕とは、足らないところに仕えること
 パウロが自由に伝道活動をしていた頃は多くの支援者があったことでしょう。しかし、その後捕えられ獄中にあった頃には、その支援者も次第に減っていたと考えられます。その中で、ピリピの教会の人々はパウロの働きを助け、またエパフロデトを遣わしました。
 教会は、昔も今も神の国のために働く人々を支え合う存在です。働き人だけでは倒れてしまうこともあるし、信徒だけでも成長が進まないということもあります。働き人と信徒が良い関係にあってともに支え合うことによって、奉仕は全うされていくのです。
 エパフロデトはパウロの必要に仕えた人です。パウロの窮乏のとき、エパフロデトの到着は、彼にとって神様からの祈りの応答でした。皆さんも忍耐して祈り続けているとき、絶妙なタイミングや不思議な方法で必要が満たされたという経験があるのではないでしょうか。

 小学生の低学年のとき、大阪でベニー・ヒン大会があり、両親と一緒に出かけました。それは同時に大阪にいる祖父母と会える数少ない機会でもありました。祖母に会った時、「好きなことに使いなさい」とお小遣いをいただきました。普段お小遣いはもらっていなかったので、思いがけず、ほんとうに嬉しくて「お菓子を買おう!」と決めていました。
 大会の最終日の献金の時間、財布をみると空っぽでした。小学生ですから、もともと数百円しか入っていなかったし、それまでの集会ですべてささげていたのでした。献金の勧めを聞いて「神様にささげよう」と思いが湧き上がってきたのに財布は空っぽ。私はとても悲しくなり、「神様、あなたにささげたいのに、何もありません。」と思わず祈りました。その時、祖母からもらったお小遣いがポケットにあることに気づきました。同時に、ものすごい葛藤が心に起こりました。 それはもともとなかったもの、しかも「好きなものに使っていい」と言われている、だから自分のものにしてもいいのではないか、と。 一方で、ないはずのものが、このためであるかのように与えられている、私が祈ることを知っておられたかのように、神様が備えておられるような…。献金袋が回ってくる直前まで、幼いながらに葛藤は続きました。もしここで私がささげなくても、神様は怒られることも失望されることもない。自分のためにお菓子を買うことも、神様にささげることもできる。どちらが価値があるのか、自分にとって喜びなのか。そう自分に問い直したとき、やはり「ささげたい」との思いが強く、「神様はささげたことを喜んでくださり、もっと良いことをしてくださる」という信仰が湧きました。そしてすべてささげた瞬間、惜しむ心が無くなり、喜びに満たされました。

 そのしばらく後、今度は祖父がお小遣いを与えてくれました。神様は真実な方です。どんなに小さな祈りさえも聞いてくださっていて、私たちの必要を知っておられ、求めて祈るときに与えてくださる方であると、このことから学ぶことができました。
 
 奉仕とは、神様がご自分の働きのために人々の必要を満たそうとされるのを、お手伝いすることです。自分がしたいときに、また自分のしたいことをすることは本当の奉仕ではありません。「私の窮乏のきに仕えてくれた」とパウロが言っているように、奉仕は、必要とされているときに、その必要を満たすことなのです。必要が見えたとき、その必要を満たしに行くことなのです。
 教会の中でも、何かもれていることや、足りないことに気づくことがあるかも知れません。しかし、それを非難したり批判するのではなく、自ら動いて満たしていこうとするのが、神への愛の献身です。「足りないところを満たすのに、何か私にできることはないでしょうか」と申し出ることが愛であり、その姿勢が仕える者の心なのです。
 
B)自分の足らないところが用いられる
 エパフロデトは彼自身の足りないところによっても奉仕しました。彼はパウロに仕えてきましたが、病気になり、逆にパウロの世話を受ける状況になりました。人間的に考えれば、パウロに仕えるどころか、かえって負担をかけるような状況です。しかし、神様のお考えは違いました。病に倒れたことで、ピリピの教会の人々やパウロ自身からも多くの祈りがささげられました。その祈りに神様が応えてくださり、エパフロデトはいやされました。そのように、彼の病気が教会の祝福となったのです。
 
 2年前、ホーリーバイブルチャーチで中心的に奉仕してくださっていた婦人の方ががんを患うということがありました。そのときからご家族で毎日家庭集会を持ち、忙しい中でも集まって祈り、それによって霊的回復がなされていきました。同時に教会でも兄弟姉妹が一つとなって祈り、それまでその姉妹がしていた働きを補う人々が起こされていきました。そのように、キリストの御からだとして教会が一つになっていったとき、そのがんは完全にいやされたのです。もしかしたら病いにあった姉妹は、皆さんに迷惑をかけてしまっている、と心苦しい思いを持たれていたかもしれません。しかし、病気になったことを通して、このように教会全体に祝福がもたらされたのでした。
 
 この教会ではどうでしょうか。多くの必要が見えるのではないでしょうか。その必要に対して皆さんはどう動いて行くでしょうか。「私には何もない、何もできない」「私は今このような状況にある」と思われている方も中にはいるかも知れません。しかし、そのような状況をも神様はあえて用いようとしてくださっています。すべての人が神様から用いられるのです。誰一人、用いられないということはありません。何もできなくても、ひと言祈ることができます。これも仕える心です。ぜひ何か思わされることがあればチャレンジしていただきたいと思います。

 神様の働きは見える分だけで測れるものではありません。エパフロデトは病気の時、見えるかたちでは何も奉仕できませんでしたが、彼の主に対する信仰や献身姿勢は、人々に大きな感化を与え、励ましを与えました。病いに倒れて何もできないような状況であっても、神様の目には用いられていたのです。

 奉仕は賜物や能力だけでするものではありません。能力があるとつい自分の力に頼り、神様の栄光を取り去ってしまうという誘惑に陥りがちです。自分には何もない、というへりくだった心で仕えるときこそ、神様が力と祝福を注がれ、ご自身をあらわしてくださいます。自分の力で、自分のやり方を通したり思い通りにしようとしている人は、本当の意味で他の人の必要に気づくことができません。自分の弱さ、足りなさをほんとうにを認めている人だけが、人を助けることができるのです。そういう人は主イエス様の十字架を仰ぎ見て、ただ神様の愛だけに頼り、すべてを満たされています。誰よりも弱いのに、何よりも強い人になれるのです。そこに神様の力が完全にあらわれてくるからです。

 すべての人が神に選ばれた働き人、奉仕者です。決して牧師先生や献身者だけではありません。もちろんそれぞれの場は違うかも知れません。しかし、皆さんはすべて神様にあって用いられる器です。人と比べて優劣をつけたり、自己評価して自分を責めたりするのではなく、主の前に弱さを認めて「こんな私ですが、あなたのために何でもします。用いてください。」とどんな状況でも主に感謝をささげることができる、これが仕える者の心です。へりくだって、仕える心をいつも持つことができるように努めていきたいと思います。神の御子ご自身が人となって仕えてくださった、主イエス様が私たちのお手本です。主がどのようであったか、いつも主を見上げて、仕える心をもって歩んでいきましょう。

【デボーションの参考ポイント】
互いに仕え合うことを、具体的に考えてみましょう。

 

 

【辻秀彦牧師より】
 
 イエス様は私たちに「互いに愛し合いなさい」というおことばを与えてくださっています。「互いに愛し合う」とは、互いの足りないところを補い合うことも含まれています。例えば、夫婦の間でもそうです。補い合っているでしょうか?互いに、という相互関係が大切です。そのような身近なところから兄弟姉妹を愛することにチャレンジして行きましょう。

(第1ペテロ4:10)
「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」

【俳句】
キリストに  仕える心  五月晴れ

 人に仕えると傷ついたり、損したような気持ちになったりするかも知れません。しかし、すべて人に対して仕えることはキリストに仕えることなのだ、と悟った人の心は、いつも五月晴れです。そのような人は見返りを求めることはありません。すべて神様が正しく見ておられます。そのことに期待して仕える心の姿勢を整えていきましょう。
 
 まず神様が私たち罪人には決してできない、罪のあがないを成し遂げてくださいました。私たちの足りなさを十字架で補ってくださいました。神様にしかできないことです。永遠のいのちをいただける罪の赦し、これだけで私たちは十分なのです。神様の愛の赦しの恵みに感謝する日々でありたいと思います。

 

 

 

 

 

■2017年5月14日 日曜礼拝メッセージより(辻和希伝道師、横路伝道師)

 主は私の羊飼い(14)  up 2017.5.14


主題聖句(詩篇23:1)
主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。

 

 

 

【辻 和希伝道師メッセージ】
A)「みことばは足のともしび」詩篇119:105−108
(119:105)
あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。
(119:106)
私は誓い、そして果たしてきました。あなたの義のさばきを守ることを。
(119:107)
私はひどく悩んでいます。主よ。みことばのとおりに私を生かしてください。
(119:108)
どうか、私の口の進んでささげるささげ物を受け入れてください。
主よ。あなたのさばきを私に教えてください。

※(詩篇119:105)
“あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。”
 この有名なみことばから、主のみことばが私たちにとってどのようにともしびとなり、道の光となっていくかを見ていきましょう。
 一日の中で、ともしびが必要な時間帯は、太陽の光が沈んだ「夜」の時間帯です。現代のように、電気が無い時代、暗い中で何かをするのに、ともしびは必要不可欠だったことでしょう。当たり前のことですが、ともしびは暗やみの中でその効果を最大限に発揮するのです。「夜」から「暗やみ」を連想するように、私たちの人生において「夜」とは、暗やみの人生、困難な状況を指すとするならば、暗やみの中で最大限効果を発揮するともしびこそ、主のみことばなのです。困難という暗やみの中でこそ、みことばが光輝くのです。しかしそれは、普段からの主を礼拝し畏れる姿勢あってのことだと思います。困ったときにだけ頼るご利益宗教のともしびは、ほんの一瞬の輝きで、すぐに世の中の光に混ざってしまうと私は思います。主を畏れどのような状況でも信頼し、最後まで信じる者が困難な状況にあるとき、私たちが信じる主のみことばが困難から解決へと至る足のともしびとなるのです。

 そんなともしびを保つためには油が必要であることが、花婿を出迎える十人の娘(マタイ25:2-12)の例えから見ることができます。十人のうち、賢い五人の娘は油を用意し、残りの五人の娘は油を用意しませんでした。花婿が遅れて来たので、ともしびを保つための油を用意していなかった五人は油を買い足しに行ったがために、婚礼の祝宴に入ることができませんでした。ここで表現されている油とは、聖霊様のことです。みことばのともしびを私たちの内に保つためには、聖霊様によってできることなのです。そしてそのともしびを保つ目的は、婚礼の祝宴に入ることにあります。それはつまり、イエス様が再臨されるときに、私たちの内にともしびを備え、花婿なるイエス様を迎え、神の国に入ることです。「私の道の光」の私の道とは、神の国に向かう道であり、その歩みを目的地まで導く足のともしびが主のみことばなのです。

【横路伝道師メッセージ】
B) 「いのちがけで守る宝物」詩篇119:109−112
(119:109)
 私は、いつもいのちがけでいなければなりません。
 しかし私は、あなたのみおしえを忘れません。
(119:110)
 悪者は私に対してわなを設けました。
 しかし私は、あなたの戒めから迷い出ませんでした。
(119:111)
 私は、あなたのさとしを永遠のゆずりとして受け継ぎました。
 これこそ、私の心の喜びです。
(119:112)
 私は、あなたのおきてを行なうことに、心を傾けます。
 いつまでも、終わりまでも。

*要約
「私の信仰を邪魔しようとする悪者が、誘惑のわなを用意して待ちかまえています。しかし私は、永遠のいのちがかかっている、宝のようなみことばをいのちがけで守る決心をしています。」

(1)【もしそうでなくても】
*3人の青年(ダニエル3:18)
「しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」
 今、平穏と見えるこの世界の中で、クリスチャンは安心して過ごしている部分があると思いますが、聖書の中で、命がけで信仰を守り通した3人の青年の話があります。
 
 ダニエル書に出てくるシャデラク・メシャク・アベデネゴという青年は、バビロンの大王ネブカデネザルが建てた、30m近くもある金の像を拝まないと死刑にされると知りながら、「偶像を拝んではならない」という神様の戒めを守るために、王様に立ち向かいます。「私たちはこの金の像を拝みません。そのために火の炉に投げ込まれても、私たちの信じている神様は、その火の中から私たちを救い出してくださるでしょう。もしそうでなくても、私たちは金の像を拝みません。」と、きっぱりと拝むことを拒否しました。
 ネブカデネザル王は烈火のごとく怒り、3人を火の中に投げ込みましたが、王は彼らが焼け死なず、火の中を御使いと4人で歩いているのを見たので、「出てきなさい。」と呼びます。3人が出て来ると、髪の毛も焼けず、服は火の臭いもしなかったので驚嘆して、「あなたたちの神は本当の神だ」と、認めたのでした。3人は命がけで神への信仰を守った信仰の勇者たちでした。

(2)【たとえそうでなくても】
*安利淑(アンイスク)さん
 今から45年前に発売された、信仰の証しの本「たとえそうでなくても」という安利淑(あんいすく)さんの本を読まれたことがあるでしょうか。これは80年前、戦時中に神社参拝を拒否して投獄された朝鮮の方の証しの本です。この本の題名は、ダニエル書の3人の青年が言った言葉の口語訳をそのまま題名にしたものです。
 
 第二次世界大戦時に、朝鮮を併合した日本は、全国に神社を建ててこれを参拝するようにと強制しました。その時、キリストを信じる者として、神社参拝を拒否して投獄、拷問、死刑にされた人は数知れなかったそうです。アンイスクさんは若い女性で、日本の学校を卒業し、ピョンヤンで高校の教師をしていました。この頃、戦時中朝鮮を支配していた日本軍部は、朝鮮全土の各家に、神社の神棚を配り、会社、役所、学校、工場のすべてに神棚を置かせ、教会の講壇の後ろにも神棚を置かせて拝ませ、監視の刑事を配備していました。
 また、山の上に神社をつくり、毎月一日に市内の人々を全部そこに集めて号令と共に神社に最敬礼の姿勢をするように強要しました。アンイスクさんは何とか逃げ回ってそこに行かないようにしていたのですが、ついにその日が来て、群衆の一番前に立たされます。そこで、彼女は頭を下げませんでした。その後、刑務所生活が始まりますが、その大きな戦いの中で、彼女はみことばを暗唱し、祈り賛美をして心が守られます。彼女の聖さと流ちょうな日本語で、日本人の刑務所の署長の前や、取調官の前でしっかりと信仰の証しをしたのです。
 彼女は、いつもみことばを心の中に蓄え、神様と語っていました。監獄にいても、覚えているたくさのみことばが時に応じてすらすらと出てきて、聖書がなくても大丈夫であったそうです。投獄されている6年間、みことばによって支えられました。
 たくさんの証しがあります。最初に捕まった時に、県知事のような方の所に連れて行かれました。しかしその時電話が鳴って、それがとても重要な内容だったので、彼女のことは忘れられ、その間に電話中にこっそりと抜け出すことができるという奇跡がありました。
 それから、北朝鮮を転々と逃げ回るのですが、そのうち、神様から日本政府に警告をしないといけないという啓示を受け、同じ啓示を受けたパク長老という方と一緒に日本に行き、日本軍が朝鮮でしている悪いことを伝え、このままでは日本の国は滅びると訴えました。しかし、日本で捕まってしまい、ピョンヤンの刑務所で約6年間服役しますが、死刑寸前の時に日本の敗戦により、解放されました。

 神様は、この若い彼女を選ばれ、多くの刑務官や刑務所の関係の人々が彼女の言葉に耳を傾けました。彼女は祈りの人で、聖霊に満たされ、みことばが満ちていたので、その聖さと素晴らしさに囚人たちが感化され、キリストを信じる人々が出てきました。刑務官たちも、やがて彼女の支援者となりました。彼女は殉教することなく守られ、他の日本語の出来ない牧師たちを流ちょうな日本語で弁護しました。彼女は解放された後、ソ連軍から逃れて38度線を奇跡的に越えてソウルに行くことができました。
 それからアメリカに行く道が開かれて、アメリカで大学と神学校を卒業し、国内宣教師となり、牧師と結婚して牧師夫人となりました。この本は日本語に翻訳され、半年間で2万7千部売れました。

◎私たちの信仰の戦い
 命がけというイメージが、今の日本の私たちにはあまりないのですが、信仰を守るための命がけということを考えて行きたいと思います。
 今礼拝に来ることができていることはとても感謝なことです。病気や何らかの事情で来ることができない方がたくさんおられます。彼らもそれぞれの場所で戦っておられると思います。私たち一人ひとりが、実は見えないところで邪魔するものと戦っています。
 例えば、ここに車や乗り物で無事に来れることは、神様の守りがあるのです。何があってもおかしくないのです。健康もそうです。
 私たちの信仰生活を妨げようとするものは、外側からも内側からも、何とかして私たちの信仰を引きずり落とそうと働きかけてきます。永遠の命を奪うためのたくさんのわなに気付かないといけません。肉との戦い、むさぼりや貪欲との戦い、自分のごう慢さとの戦い、神様との交わりの時間を奪われてしまうことへの戦い、人を赦せないという戦い等、たくさんあると思います。
 それらは、この二つにまとめられると思います。
(1)神様を愛することより自分を愛することを優先してしまう戦い
(2)隣人を優先することよりも、自分を優先してしまう戦い
 私たちは自己中心との戦いにおいて、命がけでなくてはならないのです。私たちは、じわじわと信仰を奪われてしまうような戦いの中にいます。この自己中心というわなから逃れるように私たちは熱心に祈り、心を正さなくてはなりません。
(ヘブル12:4)「あながたがは、まだ罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。」
 自分の罪と戦う時に、どうしても甘やかしてしまうことがあると思いますが、みことばは私たちの足を照らし、正しい道に導いてくださいます。そこから外れないように、わなにかからないように歩み通すことが、私たちの目標です。
 アンイスクさんのような大きな使命ではないかもしれませんが、まず私たちの家族、親族の中で、私たちがクリスチャンであるということをはっきりと輝かせることが、私たちの大きな使命かもしれません。そのために命がけで、アンイスクさんのように神様のみことばの力をいただいて歩んでいきたいと思います。

 

 

 

 

 

■2017年5月7日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 主は私の羊飼い(13)  up 2017.5.7


主題聖句(詩篇23:1)
主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。

 

 

 

 喜びは私たちの心を解放します。5月3日に開催された教会の運動会では、参加した人も見学した人も共に楽しい時を過ごすことができました。そのように毎週の礼拝で神様の臨在とみことばによって、一週間のあらゆる軋轢や圧迫から解放され喜びに変えられたらどんなに素晴らしいことでしょう。
 「主は私の羊飼い」というタイトルでメッセージして、今日は第13回目になります。13回みことばについて、詩篇119篇からお話をさせていただいています。神様のみことばによって、あなたの魂は少しづつ豊かになってきているでしょうか。みことばへの関心が深まり、食物のように自分が養われているという感覚が得られてきているでしょうか。

★父なる神の魂への呼びかけが、救い主イエスのもとに導く。(ヨハネ6:44)
 みことばを知識で理解しようとするのではなく、みことばに含まれている神の愛の感情が私たちの魂にふれる時に、自発的に主を求め、みことばを求める心が湧いてきます。聖書のみことばは完成されているので、今の状況の自分には不可能と思えるものもあるかもしれません。しかし、私たちは成長の過程にいるのですから、そのみことばについて行こうという心構えで読んでください。特に詩篇は、預言としてある人が神から受けて、自分の経験として表していると言われています。
 詩篇119篇はイエス様ご自身の地上での歩みの心の状態を表していると言っても過言ではないでしょう。イエス様ご自身も、地上での歩みの悩み苦しみの中でいかにみことばに頼っておられたかを感じることができます。
★人は、神のことばに養われて生きる。(マタイ4:4)
 救い主イエス様は神のおことばが人となられたお方です。
ですからイエス様のもとに行くということは、みことばに引き寄せられていくことと同じです。
【内容ポイント】
「羊は羊飼いの声に導かれて、育成されていく。
羊にとって羊飼いの声は、いのちのことばである。」

◎デボーションのための聖書箇所(詩篇119:97〜104)
 テーマ【蜜よりも甘いみことば】
A)みことばへの強い求道心
(119:97)
「どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。これが一日中、私の思いとなっています。」
 ここからみことばへの強い求道心が表されています。愛するという言葉は生き物に対して通常使います。しかし、みおしえを愛するとはどういうことでしょうか。単に素晴らしいというのではなく、まるで恋人のことがいつも頭にあって、心にあふれてくるように、神様のみおしえがいつも心にあふれ、浮かんでくるということです。
 イエス様は、まさにそのように生きておられました。時には前後の会話とは脈絡もないようなことばがでてきたり、弟子たちには理解できないようなおことばを突然語られたり、それは、いつも父なる神様のみことばで心があふれていたからです。突然訪ねてきたニコデモに対しても、初対面の挨拶などという順番は通り越して、瞬間に彼の心の渇きと求める思いに対して、速攻で真理を語られました。イエス様のこのような会話は一般社会の常識とはかけ離れていても、神様の常識、真理に対していつも開かれていました。
 「愛している」という表現には、これほど神様のみおしえに対する関心の深さ求める心の強さが表されています。
 同じ意味合いとして、(第1ペテロ2:2)を挙げます。

★魂の要求(第1ペテロ2:2)
「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」
 生まれたばかりの乳飲み子が真っ先に求めるのはお乳です。本来それぐらいに求道心は強いのです。罪の力や欲望に縛られていなかったら、私たちの魂は、本当は乳飲み子がお乳を求めるように、強く激しく神様のみことばを求めるものなのです。
 神の姿に似せて造られた私たちは、神様のみことばによって養われ成長することができます。しかし、それより先に自分の欲望を満たしたいという思いに惑わされてしまい、関心が経済や家庭問題等の悩みでくらまされてしまうのです。
 しかし、乳飲み子は経済の状況などで心配したりしません。貧しいからお乳を求めるのを控えようとかは思いません。私たちは自分は神の子だという自覚を強める必要があります。みことばは純粋なもので、それだけで完成されたものです。ですから、この世の色々な教えを混ぜてはいけません。乳飲み子を健康に養えるのは、この純粋なみことばだけです。私たちにはみことばの純粋さが必要です。このみことばがすべての基準になります。他の教えを加えたり混ぜ込んだりしないように気をつけましょう。
 この世の考え方は自己中心からなっています。しかし、新しく新生されたクリスチャンはこの自己中心から離れることができます。その力がすでに与えられているのです。いつまでも古き肉にだまされないように、しっかりとみことばによって養われていきましょう。

B)高徳をもたらすみことば
(119:98)「あなたの仰せは、私を私の敵よりも賢くします。それはとこしえに、私のものだからです。」
 敵に勝った知恵を神様から与えられているので、敵の妨げや罠を見破ることができます。
(119:99)「私は私のすべての師よりも悟りがあります。それはあなたのさとしが私の思いだからです。」
 人の知識ではなく、神様によって、万物の存在や起源に対して悟りを持つことができます。
(119:100)「私は老人よりもわきまえがあります。それは、私があなたの戒めを守っているからです。 」
 老人のわきまえは失敗の繰り返しを通して得られるものです。
老人のわきまえは人としてのプライドであり、長年生きてきた誇りです。その精神力が支えとなっています。その頑固さをみことばへこだわりとして持ちましょう。

★御霊によって神の知恵を語る(使徒6:10)
「しかし、彼が知恵と御霊によって語っていたので、それに対抗することができなかった。」
 ステパノはクリスチャンとして初めての殉教者です。ユダヤ人の知恵者たちは誰も彼のことばに対抗できませんでした。それは神様の知恵によって彼が語っていたからです。
C)みことばを愛するがゆえ
(119:101)「私はあらゆる悪の道から私の足を引き止めました。あなたのことばを守るためです。」
 強い求道心から自制心が出てきます。神様のみことばを守りたいと切に願うのです。その心が悪の道から自分を守ることができます。
(119:102)「私はあなたの定めから離れませんでした。それは、あなたが私を教えられたからです。」
 みことばこそ自分を変えてくださる力です。
(119:103)「あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。 」
 みことばが蜜よりも甘いと受け止められる、そのような感じ方ができているでしょうか。
 蜜とはアメリカでは、ミルク&ハニーということばがあるように、豊かで楽しく幸せという状況を表しています。聖書に「乳と蜜が流れる約束の地」が出てきます。やぎや羊、牛が良い乳をだせるような豊かな肥沃な土地というイメージと、あふれるほど蜂が蜜を集められるほど豊かな自然があるというイメージです。さらに、蜜は滋養があり、即効性のある食物です。
 神のみことばは蜜のように贅沢に豊かさを与え、回復力を与えます。

★(第1ヨハネ5:3)
「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。 」
 みことばを守ることは神を愛するということです。神様を愛していれば、みことばはストレスにはなりません。愛によってみことばを理解していきましょう。愛がなければ命令は重荷にしかなりません。

D)はっきりとした決意
(119:104)
「私には、あなたの戒めがあるので、わきまえがあります。それゆえ、私は偽りの道をことごとく憎みます。 」
 最後にはっきりとした決意、心を定めることがここで表されています。私たちも自分の決意をはっきりと表しましょう。みことばを、毎日食事と同じように定期的に頂くことが大切です。そのようにみことばを頂くとみことばの即効性に気づきます。
 今まで、どのようなみことばが蜜よりも甘いと感じられたでしょうか。そのようなみことばに出会って下さい。

★聖書は「座右の銘」となる書物
 『座右之銘』の意味
 いつも覚えていて、自分の戒めとすることばのこと。
 「銘」は、心に刻む戒めのことば。自分が座る場所の右側に書きつけておくことばの意から。
 自分を律することばです。大切なものとして、いつも思い起こせるみことばをもちましょう。
【短歌】
甘く煮た 蕗(フキ)の煮物に 舌鼓
        旬のみことば こころに甘い
 あなたの今の心に合った、旬のみことばをいつも毎日いただきましょう。