■2017年4月30日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 主は私の羊飼い(12)  up 2017.4.30


主題聖句(詩篇23:1)
主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。

 

 

 

 「乏しい」という言葉には、単に生活が貧しいという意味だけでなく、内面的なことも含まれています。羊飼いなるイエス様は、貧しさを補ってくださる羊飼いです。
 また、羊たちは、羊飼いのことばによって導かれていきます。私たちの人生も、イエス様の愛のおことばに導かれて、生かされていくことを体験していきたいと思います。
 詩篇119篇から、12回目の「主は私の羊飼い」を見ていきましょう。

◎デボーションのための聖書箇所(詩篇119:89〜96)
 テーマ)『堅固なみことば』
A)不動の基であるみことばへの信頼
89節)「主よ。あなたのことばは、とこしえから、天において定まっています。」
 天は神の御座があるところで、そこでは、創造主の真理のみことばは確定していて、変化することがありません

90節)「あなたの真実は代々に至ります。あなたが地を据えたので、地は堅く立っています。」
 神は初めに天と地を創造されました。永遠に変わらない神様のおことばによって、神様は地を据えられました。

91節)「それらはきょうも、あなたの定めにしたがって堅く立っています。すべては、あなたのしもべだからです。」
 その中に満ちる全ての被造物は、今日も神様の定めに従って堅く立っています。人間の欲望のために、自然界のバランスを壊すようなことが起きていますが、神様のおことばによって自然界の法則は保たれ、問題が起こったら、それを補い回復する力も自然界に与えておられるのです。
 このように、神のおことばに対する確固たる信頼が表現されています。

★万物を支えるみことば(ヘブル1:3)
「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。」 
 イエス・キリストは神の栄光の本質を、目に見える形で表わされた方であり、その方のおことばによって万物は保たれています。神様のおことばの絶対的な力強さを、詩篇の記者は告白しています。

B)滅ぼす者にまさるみことば
92節)「もしあなたのみおしえが私の喜びでなかったら、私は自分の悩みの中で滅んでいたでしょう。」
 私たちのこの地上の人生は、つらいことが多い人生です。楽して生きようと思うのは間違いなのです。そんな逆境の中で私たちは、神の形に似せて創られた神の子として自分を保ち、罪の世界の中で、罪に負けず、染まらないで、しっかりと「自分は神の形に似せて創られた者だ」という自覚を持つことが大切です。
 罪人であるというのは、私たちの本来の姿ではないのです。罪の生活の中に自分をゆだねてしまうことは、本当の人間の生き方ではありません。すなわち、「あなたらしくない」ということなのです。神のみおしえを聞いて、それを受けとめていくことによって、自分を見失わないで生きることができるのです。神様のおことばが私の喜びだから、この暗い世界の中でも、喜びを持って歩むことができるのです。
 皆さんは、神様のおことばを喜びとしていますか。そうでなかったら、つらい人生で終わっています。神のみことばがどんなに素晴らしいかということに気がついて、それが楽しみとなると、みことばを読むことによって元気が回復されることができます。神のみことばは、私たちを神の子として保つために大事なものだと捉えていきましょう。

93節)「私はあなたの戒めを決して忘れません。それによって、あなたは私を生かしてくださったからです。」
 「私を生かしてくださった」とは、神の子としての、本来のあるべき自分の姿に立ち戻ることができるということです。 

94節)「私はあなたのもの。どうか私をお救いください。私は、あなたの戒めを、求めています。」
 この詩篇の記者は、救いのために神のおことばを求めています。苦しみにまさる力を得られるので、神のおことばを求めているのです。

95節)「悪者どもは、私を滅ぼそうと、私を待ち伏せています。しかし私はあなたのさとしを聞き取ります。」
 「悪者ども」とは、聖書では創造主を認めない不敬虔な人、ごう慢な人のことを言っています。
 「私」とは、神を尊ぶ敬虔な人のことです。神の子として敬虔に生きようとする者たちを、滅ぼそうとする者たちがいるのです。

★滅ぼそうとする者がいる(第1ペテロ5:8)
「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」
 私たちには敵がいます。油断すると引き込まれています。
 新鮮な魚を運ぶにあたって、何時間もかけてトラックで運ぶのですが、以前はなかなか鮮度を保つことができませんでした。そこで、ある人が逆の発想をして、水そうの中に、天敵であるタコを入れてみました。すると、ほとんどの魚は死なずに生きていて、しかも新鮮なまま、お店に届けられることができるようになったということです。
 なぜ、神様は悪魔をつくり、そのままにさせているのかと思う人がいます。それは、私たちが神の子として、自堕落で成長のないままではなく、敵に対してもしっかりと対応できるような賢い神の子として生きるようになるためです。神様のみことば通りに歩んでいくなら、敵は何の影響力もないことを学び、訓練され、強められていくために、敵がいるのです。 この世の教えは、楽して生きることが幸せだと暗示してきますが、そうではありません。苦しみを通して本当に良いものが生み出されていくという真理があるのです。敵がいるからこそ、神のみことばのすばらしさ、力強さを知ることができ、知恵が与えられるのです。
 
 この詩篇の記者のような証しが私たちの身に起こるように、みことばを実際に行動に移し、そこで神のみことばが生きていて力があるということを、ぜひ体験していきましょう。

C)みことばには終わりがない
96節)私は、すべての全きものにも、終わりのあることを見ました。しかし、あなたの仰せは、すばらしく広いのです。
 どんなに完全につくられたものにも、終わりがやってきます。しかし、神のおことばは、すばらしく広いとあります。「すばらしく広い」とは、限界がなく、無限に広がり、私たちが感動するような、奥深さがあるということです。ぜひ、みことばを通してそのような体験をしていきましょう。

★滅びることがないみことば(ルカ21:33)
「この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」
 全てのものを創造するにあたって、神のおことばがありました。神のおことばがある限り、たとえ天地が滅びても、またおことばによって再創造されることができるのです。しかし、神のおことばがなければ、創造される元がないので、それでおしまいになってしまいます。
 神のおことばは滅びることがありません。被造物には限界があり、壊れて滅びていきますが、神のおことばは、その壊れたところに再生、回復、復活をもたらす力があります。神のおことばによって、私たちの魂も、生活も回復され、再創造されることができます。だから、神のおことばを見失わないようにしましょう。
 
 ある塩会社を経営している人がいました。できたての塩を倉庫一杯に積み上げ、出荷しようとしていた時に、急な大雨がやってきて、倉庫にあった全ての塩がだめになってしまいました。しかし、その方はクリスチャンだったので、彼の内には神のおことばがありました。神様は、回復の神、復活の神であり、死んだ者をよみがえられることのできる方であると、神のおことばを信じ、もう一度1からやり直して、今度は以前より、二倍も三倍も大きな塩会社に成長することができたという証しをお聞きしました。
 
 神のおことばを捨てたら、そこで終わりです。しかし、神のおことばには広がりがあり、終わりがありません。現実は終わったように見えても、それは更なる段階へと引き上げるために、神があなたの人生に祝福を与えようと働きかけてくださっているのです。だめになって終わってしまうのではなく、そこから以前よりももっとすばらしくなることが神様の願いです。回復の神、復活の神です。それを信じて、現実を見てあきらめずに、神様のおことばを信じて歩んでいきたいと思います。

【デボーションの参考ポイント】
神のみ教えや戒めが堅固で不動なものであることから、どのような希望を持つことができるでしょう。
 もし、神のみ教えや戒めが、堅固で変わらないものだとしたら、そこにどんな希望を見つけられるでしょうか。それは信頼し続けることができる、頼ることができる、支えとすることができるということです。そうすると、勇気をもらうことができます。
 ことばなるイエス・キリストは、昨日も今日も、いつまでも変わることがありません。たとえ死ぬようなことがあっても、イエスを死者の中からよみがえらせたお方は、復活させることができるお方だということを信じることができるのです。この復活への信仰は、クリスチャンには欠かせないものです。復活があるから、こんな罪人でもやり直すことができるという希望があるのです。

【礼拝メッセージの内容メモ】
★聖書は「万世不易」(ばんせいふえき)の書物。
 『万世不易』の意味
  いつまでも変わらないこと。
  「万世」→永遠、いつまでもという意味
  「不易」→全然変わらないという意味
 神のみことばは、改善されて今日に至ったのではありません。他の宗教は、悟りが開かれるたびに改善されてきました。しかし、聖書のおことばは、最初から現在までそのままです。真理は最初から変わらずに伝えられてきているのです。目先の流行にとらわれず、神の変わらないおことばを大切にしていきましょう。

【短歌】
春惜しむ 四季の変化の 楽しみも
 万物保つ みことばによる
 神様は、自然の流れもみことばによって定められました。その四季の変化を私たちは楽しませていただいています。四季の変化を保つ神のみことばによって楽しませていただいていることを覚え、春は終わるけれど、次の季節も楽しみにして、これも神の定めによるものなのだと感謝していきましょう。

 

 

 

 

 

■2017年4月23日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 主は私の羊飼い(11)  up 2017.4.23


主題聖句(詩篇23:1)
主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。

 

 

 

 私たちクリスチャン生活の望みは主と同じ姿に変えられることであると、パウロは私たちに教えてくれております。現実にはそのようになっていないのですが、神様の救いは心、魂だけでなく体も贖われて、肉体に宿っている罪のわずらわしさから解放される時が来る、それまでの間、変えられることを信じて歩むというのが、私たちの希望であり、その希望が私たちの救いに至るとパウロは勧めてくれています。
 このままで終わらないという人生であることを感謝します。
イエス様がよみがえられたことが、その証拠として私たちは希望を持つことが出来ますから、これからもイエス様と同じ姿に変えられることを期待して、毎週の礼拝でみ言葉をいただき、日々の主との交わりを歩んでいきたいと思います。       

今週のテーマ 【羊飼いのみ言葉は救い】
 羊飼いの言葉は、羊にとって救いです。調子の悪い羊がいると、すぐに羊飼いはその羊のところにきて声をかけ、心配して回復を願っていろいろお世話されるわけです。
 主はいつも私たちのことを考えて配慮してくださって言葉をかけて下さる、元気をもたらしてくださるという意味から、「羊飼いのみ言葉は救い」ということを見てまいりましょう。

A)み言葉への期待と希望
(119:81)私のたましいは、あなたの救いを慕って絶え入るばかりです。私はあなたのみことばを待ち望んでいます。
(119:82)私の目は、み言葉を慕って絶え入るばかりです。「いつあなたは私を慰めてくださるのですか。」と言っています。
(119:83)たとい私は煙の中の革袋のようになっても、あなたのおきてを忘れません。
 
 どれほどのつらい思いで、ぎりぎりの所まで追い込まれて、救いを待ち望み、み言葉を待ち望んでいることでしょう。愛する信頼する方からお言葉をかけていただくことは、私たちの励ましであり、慰めです。「主はあわれみ深く情け深い神」と聖書に宣言されています。神様の愛と慈しみだけが私の慰めだと、主に叫び求めているのです。
 すすなどを吸い込むと真っ黒になってしまう「煙の中の革袋」のように、私たちの回りには罪の働きかけがあり、私たちを罪に染めようとしています。それでも私の希望はあなたのみ言葉ですと、告白しています。このような「み言葉を慕って絶え入るばかりです」という表現から、次のヨハネ6章51節を関連付けてみました。

★天から降ってきた生けるパン
「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」(ヨハネ6:51)
 イエス様自身が天から降ってきたパン、いのちを与えるパンである。すなわち、イエス様は羊たちにとっては、いのちのパン、いのちを与えてくださる方という意味ですね。
 パンはおなかがすくと欲しくなるものです。おなかがすくと、いつ餌にありつけるかと思うわけです。神様は私たちの健康を思ってむやみやたらとパンを与えるのではなく、定期的に健康のために与えるべき時を決めておられます。おなかのすいた羊が、「まだ牧場に着かないんですか?」という途上の中にあっても、羊飼いについていかないと、そこに到達することはできません。食事を与えてくださる神様は、その時と場合をすべて備えてくださっています。その時までしっかり待ち望むのだと、そのようにつなげることができます。             
★みことばはいのち
「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。私があなたがたに話した言葉は、霊であり、またいのちです。」(ヨハネ6:63)
 イエス様のお言葉は、パンのように魂の食物であるけれど、命そのものでもあります。だから、そのお言葉をいただくということは命をいただくことです。
 み言葉をあなたが聞くことが出来なければ、命をすりへらすだけになります。命を注がれるということがなくなると、神を敬うという敬虔な心は弱り果て、死んでしまいます。ですから毎週み言葉を聞きに来ているということは、み言葉のパンをいただき、いのちを注いでいただいて、いのちを繋いでいるということです。皆さんが、おいしい命のパンをいただくために教会に来ているということは、なんと素晴らしいことかと思います。

B)救いを待ち望む境地
(119:84)あなたのしもべの日数は、どれだけでしょうか。あなたはいつ、私を迫害する者どもをさばかれるのでしょうか。
(119:85)高ぶる者は私のために穴を掘りました。彼らはあなたのみおしえに従わないのです。
(119:86)あなたの仰せはことごとく真実です。彼らは偽りごとをもって私を迫害しています。どうか私を助けてください。       
(119:87)彼らはこの地上で私を滅ぼしてしまいそうです。しかしこの私は、あなたの戒めを捨てませんでした。          
 クリスチャンにとって、罪の世界、闇の力は私たちの敵となり、私たちを滅ぼすもの、迫害するもの、高慢なもの、私たちに偽りをもってきて真理である神様のお言葉を無に帰そうとするものであります。そういう働きかけを私たちはこの世で生きている間、受けるわけです。だからパウロはローマの教会に対して、「この世と調子を合わせてはいけません」と記しています。彼らに調子を合わせると、彼らは私たちを偽りで固め、社会的責任という言葉で迫害してきて、そのごう慢によって私たちをおとしいれ、最後には「それでもお前はクリスチャンか!」と信仰を奪い去って滅ぼそうとします。それがこの世の働きなのです。                            
★敬虔なものへの迫害
「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願うものはみな、迫害を受けます。」(第2テモテ3:12)
 迫害はいじめることにつながりますが、敬虔な歩みをさせまいとするのも迫害です。クリスチャンとして歩むこと、神を敬うことを第一とする尊い姿勢をやめさせようとするわけです。良いことであるのは皆わかっているのに、「いい子ぶって…」みたいな言い方をして、私たちの神様への愛を落胆させようとします。そういうことに私たちは心ゆさぶられ、痛みを覚えながら、「神様、あなたのお言葉によって救ってください、慰めてください、こんなにつらい思いをしながら神の国に至るまで歩みを続け、お従いしようとしているのですから」というようなつらい思いを表現しているように思います。
 もし皆さんがクリスチャンだということで後ろ指さされたり、非難されたり、「いやだな」という経験をされているとしたら、キリストの前に敬虔に生きようと願う正しい良心があるということです。しかし、迫害もない、責められることもない、仲良しになって一緒に遊んでいるような、そんなクリスチャンがいるとしたら、ひょっとしたら敬虔さを失ってないでしょうか?苦しみを受けるのが嫌だから、神の前に高ぶる者たちに調子を合わせていないでしょうか?高ぶる者たちの利益のために利用されおとしめられてしまうということがありますので、気を付けてください。そういうことのないように、み言葉をしっかりと心にとどめて見分けていくようにしましょう。C)み言葉への愛と信頼
(119:87)あなたのめぐみによって、私を生かして下さい。私はあなたの御口のさとしを守ります。
 88節は81節からのまとめで、信仰の告白です。神様は全能であり天地万物をお造りになった方、すべてを深く悟っておられる方です。そのおこころから出てくる私たちへの教え、言葉、励まし、慰め、そのお言葉を私たちは従い守っていきます。私たちに声をかけてくださることは本当に恵みです。
 その恵みによって「神様の御口のさとしを守ります」と言うには、どのような神様への信頼があるのでしょうか。

★み言葉にある権威への信頼
「しかし、百人隊長は答えて言った。『主よ、あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべはなおりますから。」(マタイ8:8)
 百人隊長というのはローマ兵です。ユダヤ人からすると異邦人という立場です。「大工の息子のへブル人、どうしてお前を家の中に入れるのか」これがローマ兵の考え方です。それが逆であるということは、イエス様を大工とは見ていない、神が遣わされた大預言者、神の遣い、神の子というほどにイエス様を尊んでいることがわかります。
 私たちだったらどうでしょう?自分の家にお入れする資格があるかないかより、「あ、ちょっと待って。片付けますから」ではないですか?「今来られたら、困ります。もっと後で、きれいにしておきますから。」と言って、何年かかるかわからないですね。きれいにしてからイエス様を迎えるというのは私たちの願いですけれど、私たちの罪の心として考えたらどうでしょうか?きれいになるまで、イエス様、私の心に来ないでください、恥ずかしいですから、と私たちはそういう程度のものです。権威ということを考えていません。
 百人隊長には、イエスは神がキリストとしての権威をお与えになったお方と見えました、いや信じました。そんな尊いお方を異邦人のけがれた家に迎えるわけにはいきません――すごいですね、イエス様への態度。私たちはイエス様に、肩でも叩いてコーヒーでも飲みにいきましょうと、捉えているかもしれない。確かにそういう身近なカジュアルなお方だというイメージもいいでしょう。
 しかし百人隊長は、自分は何者で、イエス様はどういうお方なのか…、謙虚な敬虔なへりくだった、目上の者を尊ぶという成長した熟成した心をもっていた人であったということです。
 確かにイエス様は親しく交わって下さいますが、創造主であり私たちを造られたお方であるということには変わりありません。そこに心からの敬意をもってこのように語った百人隊長は、その後がもっとすごいですね。「ただお言葉をいただかせてください、そうすればしもべはなおります。」と、言いました。言葉に力があるのです。イエス様という存在に力があるだけでなく、その力ある方が発した言葉にも同じような力があるということを悟っていたのです。それは自分の上司の千人隊長の指令で、直接顔を合わせなくとも言葉だけで、百人隊長は指令に従って動くわけです。イエス様が万物の創造主であるならば、お言葉で世界を造られた方、言葉で万物を動かすことのできる、すごい方だということが、言葉で動く生活をしていた百人隊長にはすぐわかったのです。       
 私たちも神のお言葉に対して、それぐらいの思いをもって尊んでいるでしょうか?力あるお言葉だからこそ、世の中において耐えられないような孤立した状態になろうとも、羊飼いであり万物の統治者である神につながっていれば十分なのだと。この百人隊長の信仰を、イエス様は「イスラエルの内の誰にも、このような信仰を見たことがない」と、ほめられました。
 万物の創造主が救い主として来られたイエス様の存在そのもの、神様の存在そのものに対する深い畏敬の念を持っていた百人隊長の姿が、マタイの8章には表れているのです。神様のお言葉は、素晴らしい力強いものであることを知っている詩篇の記者も、どれほどに「絶え入るばかりです」という、その気持ちを御言葉に対して持っていたか、おわかりでしょうか?言葉をください、あなたの言葉を下さい、お言葉をいただかせてくださいといった百人隊長と同じですね。お言葉だけで十分です、それほどお言葉を慕って「絶え入るばかりです」。  
 ぜひ、みなさんも神のお言葉に対してそのような思いをもって受け止めていただきたい。み言葉には力があって、私たちをつくり変え、私たちの環境もつくり変えていくわけですね。
 多くの神のお言葉の中で一つ一つ、私たちの生活の中で成就してきていることを心から感謝いたします。                      
【デボーションの参考ポイント】
 今週一週間はこの流れの中でキリストの言葉を統治者の言葉として受け入れましょう。これは万物の統治者、支配者のお言葉だ、心から敬うべきお言葉だと、神のおことばを尊ぶことを心掛ける一週間としていきましょう

★聖書は「破邪顕正」(はじゃけんしょう)の書物
 『破邪顕正』の意味
 邪道・邪説を打ち破り、道理や正道を明らかに示すこと。
 不正を破って、広く正義を明示すること。
 み言葉はまさに光です。不敬虔な世界の言葉は偽りの言葉、神を求めないというところから出てくる様々な考え価値観の言葉ですから、それはすべて偽りだと、神の言葉からは言えると思います。はっきりと邪悪な考えや教えを、聖書のお言葉を通して打ち破り、まことの言葉、真理を証していくものとして、この地上で真なるみ言葉であるキリストの証人として生きていきたいと思います。

【短歌】
    飼い主と じゃれ合う子猫 愛らしく
        可愛い鳴き声 主人にねだる

 

 

 

 

 

■2017年4月16日 日曜礼拝メッセージより(辻和希伝道師、横路伝道師)

 復活の主  up 2017.4.16


主題聖句(ヨハネ11:25)
イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。

 

 

 

【辻 和希伝道師メッセージ】
A)「キリストは生きている」(第1コリント15:17)
“そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。”
 
 日本においてイースター・復活祭は、キリスト教国に比べると、習慣に無いので、私たちクリスチャンも、クリスマスに比べると意識が低くなりがちではないでしょうか。自分でしっかりと手帳に記入していない限り、講壇から牧師先生より「今週は受難週で、週末はイースターです。」と言われて、思い出すのが現状です。しかし、クリスチャンにとって、イエス様の復活はとても重要なことであり大切なことなのです。
 私たちはイエス様を信じています。では何を信じているのでしょう?その中にイエス様が死から復活されたことは含まれているでしょうか。1コリント15章17節では、イエス様がもしよみがえらなかったら、私たちの信仰はむなしいとあります。何故でしょうか。もし復活されていなかったら、今でも黄泉の世界にイエス様はおられることになります。死んだ状態の神を信じることになっていまいます。そのような神を信じる信仰はむなしくありませんか?しかし、イエス様はよみがえってくださいました!私たちは、復活されたイエス様を信じているのです!このことゆえに、私たちの信仰は充実し、もうすでに自分の罪の中にはいないのです!
 
 そして、さらに素晴らしいのは、イエス様は今もなお生きておられるということです。信じる神様が生きておられることの何が素晴らしいのでしょうか。出エジプト記32章の出来事に、モーセによってエジプトの奴隷生活から連れ出されたイスラエルの民は、神様の奇蹟を目の当たりにしながらも、金の子牛を作って礼拝するという罪を犯しました。金の子牛にいのちはありません。もし、私が信じる神様が、そのような人によって作り出されたいのちの無い”つくり物”だったら、がっかりします。もし、私たちの信じる神様が、いのちの無い”石ころ”だったら、みなさんはどう思われますか。神様にはいのちがあり、人格を持ち、私たちとコミュニケーションをとってくださる方なのです。イエス様が今もなお生きておられる素晴らしさはここにあります。
 
 イエス様の復活は、私たちの信仰を充実させ、今もいのちある交わりをもたらしてくれます。イエス様の復活を意識する生活を歩みたいですね。

【横路伝道師メッセージ】
B)「復活の日に主が語られたこと」(ヨハネ20:19〜22)
 イエス様は金曜日に十字架にかけられ、新しい墓に葬られ、三日目の日曜日の朝よみがえられました。このことから、クリスチャンは日曜日に礼拝するようになりました。弟子たちは墓がからっぽでイエス様のご遺体がないので戸惑いました。マグダラのマリヤは、墓の前でイエス様に直接声をかけられましたが、ずっとイエス様と一緒にいた弟子たちでさえも、そのことを聞いてもイエス様の復活を信じられませんでした。

19節)「その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。『平安があなたがたにあるように。』」
 そして、その日の夕方、弟子たちは、自分たちもイエス様のように捕えられ、処刑されるのではと恐れて、扉に鍵をかけて身を潜めていました。そこに、復活されたイエス様が突然現れたので、皆、幽霊か幻かと驚き恐れたのです。それを見てイエス様はまず、「平安があなたがたにあるように。」と、恐れなくてよいと語られ、祝福のことばをかけられました。

20節)「こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。」
 弟子たちは、マリヤが言ったことが本当であって、イエス様が生き返られたことを、目と耳で確認したのです。イエス様が復活された、生きて今ここにおられるということの喜びは大きかったのです。クリスマスの喜び、十字架の救いの感謝に加えて、実は復活は最大の喜びなのです。復活されたことは次のことの証明でした。

1)イエス様が神であることの証明
 イエス様が死を滅ぼし、サタンに勝利されました。つまり、人間の最大の恐れである死、敵であるサタンの力に打ち勝った、まことの神の子であることの証明でした。あらゆる宗教の教祖も、死に勝つことはできずに、遺骨があります。しかし、イエス・キリストの骨は残されていません。イエス様は死に勝利され、生きておられるまことの神様だからです。

2)救い主(キリスト)としての証明
 もし復活がなければ、私たちはまだ罪の中に滅んでいる者でした。イエス様の復活で、人間の罪の赦しが完結したのです。
(ローマ4:25)「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」つまり、私たちが罪のない者と認められるためには、イエス様の復活がどうしても必要なことでした。それは救い主であり、神であられることの証明でした。

3)新しい霊のからだがあることの証明
 イエス様が復活されたからだは、以前のからだとは違う新しいからだでした。扉をすっと通り抜けられる、時間と空間に縛られない、自由にそれをコントロールでき、食べることもできるからだです。それは、病気も老いることもない、永遠に天国で生きることのできる新しいからだでした。またこれは、私たちもイエス様と同じ、永遠に朽ちない霊のからだをいただけることの証明でもありました。
 この新しいからだは、ラザロや、ヤイロの娘など、イエス様がよみがえらせた人のからだとは違いました。彼らは一度生き返りましたが、何年か何十年かの後は年をとてやがて死んでいったのです。それまでの肉体のまま生き返ったからです。しかし、新しいからだは、天の御国で永遠に生きることができる、年を取らない栄光のからだなのです。弟子たちは喜びました。自分たちにも、今の年を取っていく、寿命のあるこのからだとは違う、決して再び死ぬことのない、新しいからだがいただける希望が見えたからです。
 弟子たちは、復活された主を見て大いに喜びました。イエス様と自分たちが敗北者から勝利者になったのですから、喜び踊ったと思います。私たちも、復活を最大の喜びとして受け止め、心から祝いたいと思います。

21節)「イエスはもう一度、彼らに言われた。『平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。』」
 イエス様は、再度弟子たちを祝福され、使命を与えられます。福音のため、救いを宣べ伝えるために弟子たちを派遣されたのです。23節には、「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」とあります。神が罪を赦され、神が罪をそのままにされるという神の権限を弟子たちに与え、罪の赦しの宣言、和解の宣言をするようにと使命を与えられて、弟子たちを派遣されたのです。 
 私たちクリスチャンも、自分の救いだけで終わりではありません。自分が救われて喜び、平安をいただいているのは、この赦しと和解の福音を伝え、救い主であり、まことの愛の神であるイエス様を信じるようにと人々に伝える使命が与えられているからです。

22節)「そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』」
 私たちは聖霊を受けなければ、この使命を果たすことが難しいのです。別の箇所では「聖霊を受けるまでは、エルサレムにとどまっていなさい。」と言われ、50日目のペンテコステの日に聖霊が皆の上に下るという記事があります。
 私たちに不可能なことが、聖霊様によってできるのです。私たちは、聖霊によらなければ、イエス様を救い主として受け入れることができないのです。

【参考聖句】(第1コリント12:3b)
「また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません 。」
 復活のイエス様を信じることも、聖霊によらなければできないと思います。肉の考え、この世の知恵では人間が生き返ること、また天国に住まえるような新しい霊のからだが与えられることを信じることができないからです。
 私たちはみことばにより、信仰により、聖霊の力によって、復活の主を信じることができるのです。
 今、復活の主を信じ切れない人がいるなら、みことばを読んで、はっきりと確かめ、復活は本当にあった歴史上の事実であることを認めることが大切です。
 また信仰により、神がおられて、その方が全能の神であり、愛の神であるなら、復活は可能であるということを信じることです。それでもまだ信じ切れないなら、「聖霊様、どうぞ復活を信じることができるよう助けてください。」と、聖霊様の助けと導きを祈ってください。聖霊様が必ず助けてくださいます。
 
 復活の日は喜びの日、勝利の日、救いの完成の日、新しい体をいただいて天の御国へ入る希望の日です。
 ある人は、何年もかけて復活否定を研究しましたが、結局否定することができずに、信じてクリスチャンになったそうです。
(この人は、後に映画「ベン・ハー」の作者となりました。)
 
 私たちも、まず復活を信じて喜び、人々にイエス・キリストの復活を伝えていきましょう。

 

 

 

 

 

■2017年4月9日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 主は私の羊飼い(10)  up 2017.4.9


主題聖句(詩篇23:1)
主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。

 

 

 

 桜の季節になりました。お花見によって私たちの心は明るくされますが、いつかは散ってしまいますね。しかし、神様のみことばは私たちの内に、枯れることも散ることもなく、心を潤す花として、いつまでも心に咲かせておきたいと思います。今日は初めに短歌を見ていきたいと思います。

【短歌】
礼拝後 心に咲いた みことばは 花見のごとく 喜びに満つ
 礼拝後には、皆さんのうちに、みことばの花が咲くように願っています。
 
 今週は受難週にあたります。詩篇119篇73〜80節から「ご自分に忠実な羊飼い」というテーマで、皆さんと一緒に見ていきましょう。

◎デボーションのための聖書箇所)(詩篇119:73ー80)
(テーマ)【ご自分に忠実な羊飼い】『受難週』
(119:73)
あなたの御手が私を造り、私を形造りました。どうか私に、悟りを与えてください。私があなたの仰せを学ぶようにしてください。
(119:74)
あなたを恐れる人々は、私を見て喜ぶでしょう。私が、あなたのことばを待ち望んでいるからです。
(119:75)
主よ。私は、あなたのさばきの正しいことと、あなたが真実をもって私を悩まされたこととを知っています。
(119:76)
どうか、あなたのしもべへのみことばのとおりに、あなたの恵みが私の慰めとなりますように。
(119:77)
私にあなたのあわれみを臨ませ、私を生かしてください。あなたのみおしえが私の喜びだからです。
(119:78)
どうか高ぶる者どもが、恥を見ますように。彼らは偽りごとをもって私を曲げたからです。しかし私は、あなたの戒めに思いを潜めます。
(119:79)
あなたを恐れる人々と、あなたのさとしを知る者たちが、私のところに帰りますように。
(119:80)
どうか、私の心が、あなたのおきてのうちに全きものとなりますように。それは、私が恥を見ることのないためです。
 
 この8つの節を受難週と合わせて見ると、これはイエス様のお心が表れている素晴らしい箇所だということに気が付きました。
 イエス様は、救い主キリストとして、神の羊たちを養う羊飼いとして、ご自分に忠実でした。自分の思いのまま、考えのままに歩むことが、自分に忠実だと思ってしまいますが、そうではなく、自分が何者であるかということに対して、忠実であるということを意味します。
 例えば学校の教師なら、教師であるということに対して忠実にその役割を果たすということです。個人的な願いや思いを第二、第三として、第一に優先すべきことは「私は教師である」ということです。警察官や政治家も同様です。それは勤務時間だけではなく、勤務時間以外の時も変わらず、教師や警察官や政治家であるということです。
 このように、社会的に影響力のある立場の人々は、生涯「私は何者である」という姿勢を保ち続け、「これが私の生きる使命である」という強い自覚を持って生きておられると言えます。イエス様はまさに、羊飼いとして、キリストとして、忠実にこの地上での人生を歩まれました。そのことがこの8つの節に表わされています。

A)「人」としてのキリスト
 イエス様は、神としてこの地上を歩まれたのではなく、人としてこの地上に現れた救世主、キリストです。
1)(詩篇119:73)
「あなたの御手が私を造り、私を形造りました。どうか私に、悟りを与えてください。私があなたの仰せを学ぶようにしてください。」
(ヘブル10:5−7)
「ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。そこでわたしは言いました。『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行なうために。』」
 イエス様は神様のみこころを行うために、からだを持ってこの地上に来られました。イエス様は何のためにこの地上に来られたかということをはっきりと自覚しておられました。キリストとして、救い主として、この人生を歩むのだという自覚を持って、この地上に来られたのです。

2)(詩篇119:75)
「主よ。私は、あなたのさばきの正しいことと、あなたが真実をもって私を悩まされたこととを知っています。」
 「真実を持って悩まされた」とあります。私たちは、「何でこんな目にあうのか」と、苦しみの原因を周りに探そうとしてしまいます。しかし、イエス様は「神は良いお方であり、最善をなされる方なので、真実をもって苦しみを通らせておられる」と受けとめられました。神としてではなく、人として悩みを通られたのです。
(ヘブル5:8−10)
「キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。」
 イエス様は30歳まで、普通の人としてこの地上で過ごされました。公生涯に入られての三年半は、苦しみばかりの歩みでした。それは、多くの苦しみによって従順を学ばれるためでした。神の子なので従順を学ばれる必要はないのに、人として忠実に生き、キリストとして忠実に歩まれたのです。人々の罪の贖いの代価としての人生を、逃げ隠れせずに歩み通されたのです。

3)(詩篇119:78)
「どうか高ぶる者どもが、恥を見ますように。彼らは偽りごとをもって私を曲げたからです。しかし私は、あなたの戒めに思いを潜めます。」
 イエス様はいろんな苦しみを通られましたが、特に律法学者やパリサイ人が、偽りごとをもってイエス様のされていることや、語られていることをねじ曲げてきました。
(マタイ9:34)
「しかし、パリサイ人たちは、『彼は悪霊どものかしらを使って、悪霊どもを追い出しているのだ』と言った。」
 イエス様はご自分の力で悪霊を追い出しておられたのではなく、父なる神様のおことばと、与えられた権威をもって悪霊を追い出しておられたのです。しかし、彼らは悪霊の力を使っていると言いました。彼らは高ぶっていたので、「ナザレから何の良いものが出るだろうか」と、イエス様を低く見下げました。ダビデの血筋だけど大工まで落ちぶれた者から、どうして救い主が現れるだろうかと、人間的な思いで見ていたのです。

4)(詩篇119:79)
「あなたを恐れる人々と、あなたのさとしを知る者たちが、私のところに帰りますように。」
 どんなに指導者たちがイエス様を批判しても、本当に神を敬う者は、イエス様のところに帰ってくるということを、「私のところに帰りますように」と表現されています。これは今年のモットーであるみことばに通じます。
(ヨハネ6:44)
「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。」
 パリサイ人や律法学者がどんなにイエス様を批判しても、神様を畏れる人々はイエス様が語っておられる言葉とみわざを見て、イエス様の元に集まって来ました。神様のおことばを聞き分けられる、御父が引き寄せられた人々は、必ず救い主キリストの元に帰ってくるのです。
 私たちは今、「神は愛である」ということを大前提に、愛を大切にして生きる人生を共に歩んでいます。そういうことを求め願っている人は、ここに引き寄せられて来ると信じています。なぜなら、イエス・キリストは、愛の神様の見える形としてこの地上で神の愛を証しされたからです。

5)(詩篇119:80)
「どうか、私の心が、あなたのおきてのうちに全きものとなりますように。それは、私が恥を見ることのないためです。」
(ルカ23:34)
「そのとき、イエスはこう言われた。『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。」
 イエス様が十字架にかかられて息を引き取られる前に、十字架の足下でイエス様の着物を分け合っている不遜な兵士たちに対して、イエス様はあわれみに満ちた祈りをされました。イエス様は召される最後の瞬間に至るまで、神様の愛のおきてに忠実に歩まれたのです。それは、赦しの愛です。「彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」と心から神に祈りをささげられました。その祈りが、心においても一つも罪を犯されることがなかったというしるしとして、神はイエス・キリストは死からよみがえらされたのです。だから私たちの罪を贖うことができるのです。罪なきお方であるということが、復活を通して証明され、イエス様は恥を見ることがなかったのです。
 
 イエス様は油注がれた方として、十字架の死に至るまで救い主としての歩みを全うされました。では、私たちの人間としての忠実さとは、どのようなものでしょうか。

B)人間としての忠実さとは?
1)創世記1:27
「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」
 私たちは神様のかたちに創造されました。男と女は神のかたちなのです。人間として忠実に生きるとは、自分の心の思いのままに生きるのではなく、創られた目的に従って生きるということです。「神のかたちに創られたのなら、神のかたちとして最後までこの人生を全うしよう」という生き方が、本当に自分らしく生きることができる道なのです。

2)エペソ1:4〜5
「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」
 神の子ども、相続人、継承人として生きることが、自分に対して忠実であるという意味です。この世の中には、個人主義という考え方がはびこっています。しかしこれは、愛の関係を断ち切っていく反神的な考え方なので、気をつけましょう。

【デボーションのヒント】
 存在の目的に、忠実に生きることを考えてみましょう。
 
 どのような仕事であろうと、神の子ども、御国の相続人としてその働きを通して生きるということです。皆さんも、今置かれている持ち場立場に置いて、神様の子どもとして、そのかたちを失わないように生きることを目指していきましょう。

【礼拝メッセージの内容メモ】
★聖書は「天経地義」(てんけいちぎ)の書物。
『天経地義』の意味
 人として、こうあらねばならないという不変の道理、正しい道のこと
 
 不変の道理とは、前述の(創世記1:7)と(エペソ1:4−5)のことです。これをあなたが、人間の正しい道だと受け入れるかどうかです。自由意志はあなたにありますが、あなたを創られた神様は、このことのためにあなたを創ったと言っておられます。
 私たちは神のかたちに似せて創られました。そして、神のかたちを失わないように生きていくために、イエス・キリストが私たちの罪を十字架で処分してくださり、助け主なる聖霊様を私たちの内に送ってくださって、神と共に歩む人生を実現してくださったのです。
 私が神のかたちに生きるために、イエス・キリストは苦難の道を歩まれたことを覚えて、受難週を迎えていきましょう。

 

 

 

 

 

■2017年4月2日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 主は私の羊飼い(9)  up 2017.4.2


主題聖句(詩篇23:1)
主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。

 

 

 

 「聖い愛に導かれて」 今年、神様の愛に導かれるとはどのようなことなのか。それは、羊が羊飼いによって導かれるように、私たちも神様が導いてくださっているということです。
 詩篇の著者は23篇1節で「主は私の羊飼い。私は乏しいことがない。」と言うことのできる羊飼いへの信頼、それは「ことば」によって導かれていくということです。「人はパンだけで生きるのではなく神様の口から出る一つひとつのことばによる」とみことばにあるように、羊飼いのことばは羊にとっては、いのちのパンであると捉えるができるでしょう。そのようなみことば、詩篇119篇からご一緒に学んでおります。

◎デボーションのための聖書箇所 (詩篇119:65-72)
テーマ 【 幾千の金銀にまさるみことば 】
 文明が発達しますと経済構造も発展していきます。経済構造が発展すると金銭に対して強い執着心や欲求が生まれてきます。強い貪欲さは秩序を乱してしまいます。自己中心が強くなって、不道徳的な行動や考えを起こしやすくなります。この貪欲さはなかなか自制できない、不思議な内なる力ではないでしょうか。この欲求とは健全で必要な欲求もあります。欲求を正しくコントロールして歩むことは良いことなのですが、罪の働きかけによってこの欲求が悪いものに用いられてしまうことになりました。そのような罪の力の束縛からイエス・キリストは私たちを解放してくださり、罪からくる欲求を自制することができる御霊の実を私たちの内に結ばせてくださいました。精神的に健全な欲求をもって歩むことができるように救いを与えてくださったことを感謝します。
 それでこの8つの節を記した著者が幾千の金銀にまさるみことばである神様の教えのすばらしさ、魅力をどのようなところに見出したのだろうかと考えてみました。

A)幾千の金銀にまさる魅力 
1)良いことをしてくださる
(65節)「主よ。あなたは、みことばのとおりに、あなたのしもべに良くしてくださいました。」
 神様のみことばは、すべて私のプラスになることをしてくださって、自己欲求を満たすプラスではなく、永遠のいのちに至るために、また救いに至るために、みことばは良いことをしてくださる、成就してくださるということです。

2)よい分別と知識を与えてくださる
(66節)「よい分別と知識を私に教えてください。私はあなたの仰せを信じていますから。」
 神様の仰せには良い分別と知識をもたらす教えがあるということです。人生は選択だといわれます。何を選ぶか、その選ぶためには分別と知識が必要です。その分別と知識をもたらす神様の仰せを信じているから、良い分別と知識を得ることができるということです。お金によって私たちは良い分別と知識を得ることはできません。いのちのことばである羊飼いのおことばを通して私たちは善悪を見分け、何が優れていて、何が愚かなことなのかを見分けていくことができるわけです。
3)苦しみを通して過ちを正しくしてくださる
(67節)「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります。」
 神様のおことばを知らないでいると、過ちを犯したか犯していないのかがわかりません。でも神様のおことばが、過ちを示して、この苦しみにあっている理由はここにあると気付かしてくださり、そこから正しいところに戻るように過ちを正してくださる、だから悪を行っていると心に平安がありません。私たちは神様のおことばを守ることによって、自分の魂がいつも神様の前に安心できる状態に置くことができるのです。

4)いつくしみ深い
(68節) 「あなたはいつくしみ深くあられ、いつくしみを施されます。どうか、あなたのおきてを私に教えてください。」
 みことばはいつくしみ深い。神様はいつくしみ深い御心から、いつくしみを施すことばを私たちにかけてくださって導いてくださるということです。そこに神様の素晴らしさがあるのです。

5)不遜な者から守ってくださる
(69節) 高ぶる者どもは、私を偽りで塗り固めましたが、私は心を尽くして、あなたの戒めを守ります。
 不遜な者とは、高ぶる者のことを言っています。高ぶる者とは、神を敬わない、不敬虔な人々のことをいいます。不遜な者どもは、神様のおことば「真理」に対して反する生き方をしています。聖書では真理以外のものは偽りです。真理が正しいものであって、真理以外が偽りとなるのです。その真理と真理でないことの見分けは「神を敬う心をもった教え」これが真理です。すなわち、創造主を認める教えは真理ですが、創造主を認めない自分の悟りだけで教えをする者は、真理とよく似た内容かもしれないけれども、それは偽りと聖書ではとらえます。
 神様を無視した正しい考えや道徳は、69節にあるように「偽りで塗り固める」といいます。あたかも正しいように見えるけれども、一番の根本の物事の成り立ち、土台である創造主を無視した考えですから、どんなに表面的に道徳的に正しく見えても、それは偽りで塗り固めているものであるということです。ほかの宗教にも同じような良い考え方がある。クリスチャンよりいっぱい立派な人がいる。彼らよりも私たちのほうが罪深いような気がする。できていないところがいっぱいある。それなのにどうして私たちは救いを受けて、彼らは私たちよりも正しいことをしていても救われないのか、それを左右するのは、創造主を認めているかどうかです。敬っているかどうかです。ここをクリスチャンはごまかされないように、偽りで塗り固められないように気を付けてください。

6)霊的肥満をなくし、健康を維持してくださる
(70節) 「彼らの心は脂肪のように鈍感です。しかし、私は、あなたのみおしえを喜んでいます。」
 心の健康さというものはお金で買えるものではありません。高ぶる者どもの心は脂肪のように鈍感です。イスラエルの人々は40年間、神様からの天からのパンをいただいて健康を保つことができました。彼らが死んだのは病気というよりも、神様に逆らって不平・不満を言って、倒れたり、蛇にかまれたり、いろいろ罪の為に滅ぼされたのです。食べ物の栄養不足のために病気になるということも40年間なかったのです。それは何を象徴しているかというと「人はパンだけで生きるのではなく」とモーセが申命記で記したその真理の象徴として「マナ」が与えられたのです。
 私たちの心も、自分の好みのことばばかりを聞いているとバランスが取れなくなって、肥満になってしまう。心が怠けることで、口だけは達者で私生活でやっていることは自己中心のわがまま、自分の好きなことばっかりしてしまう。霊的な鈍感さをもたらす不健康な方向に進んでしまいます。健康とは「喜び」なのです。

7)苦しみが みことばを学ぶ幸せとなる(71節)
(71節) 「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」
 神様のみおしえをどうぞ教えてくださいという割には、苦しい時がやってきたときに、なんか違うではないですか。あなたのみ教えを悟りたいのです。こんな苦しいことに会うことを願ったのではありませんといってしまいそうですけれども、神様のおことばは苦しみを通して学ぶことが多いという意味ではないでしょうか。「苦しみにあったことは私にとって幸せでした。」ぜひこう言いたいですね。
 苦しみと幸せは相反するものですけれども、どのような幸せか。真理を悟る幸せ、真理を学ぶことのできる幸せ、問題が解けることの幸せです。特に神様のおことば、みおしえを学ぶことにおいて、苦しみは大きな近道です。だから72節で「あなたの御口の教えは、私にとって幾千の金銀にまさるものです。」  また箴言の中にも「金銀を求めるよりも知恵を求めよ」とあります。知恵が金銀をもたらすのです。運が金銀をもたらすのではありません。私たちにとって健全な金銀、神様の前に胸を張って生活していくための金銀を私たちが使うことのできる器であるかどうか、神様が見ておられます。ある人には5タラント ある人には2タラント ある人には1タラント。1タラントの人が言うわけです「私は1タラントか」なぜみんな一緒にしてくれないのかと思うわけです。しかし、器にふさわしい働きをするために一人ひとりに与えられた能力を神様はよくご存じです。ですから金持ちであるか、貧しいかではなくて、どれだけ苦しみを通して神様のみおしえを学ぶことができたか、これが神様の前に評価されることなのです。

B) 幾千の金銀にまさる羊飼いイエスのおしえ
1)第2コリント12:9
「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」
 この世の不遜な人々、不遜な社会の中で弱さを誇るという教えはあるでしょうか。弱さを誇りなさい。どこに真理が隠されているのでしょうか。私たちができることをしたからといって、そこに神様の力・栄光・御業を見ることはできません。しかし、神様の恵み、神様の愛、神様が悟らせようとしていることにおいては、私たちは弱い時に学ぶことが多いのです。
 この弱さを誇るという教えは、私(辻師)にとって幾千の金銀にまさる魅力でした。優勝したり、金賞とったりしたことがない。家族の中でも一番成績の悪い者で、足も遅いし運動神経もあまりよくないし、本当に良いところがないみじめな自分というものをいつも感じていた時にイエス様を知ることを通して「弱さを誇るなんて・・なんという幸せだろう。」そのような考えが聖書にあったことにびっくりしました。弱いことが誇りになる。これは私(辻師)にとって大きな希望であり、喜びでした。なぜなら神様の恵みが、その弱さの中に十分に現れるからです。神様を知る。神様の愛を知る。神様のすばらしさを知る。それは弱いから神様が近づき助けてくださって、ご自身を現してくださるということにつながっていくからです。その弱さを通して神の恵みをいただいて、今までできなかったものが、できるようにつくり変えられました。今まで持っていなかったものまで与えられるようになりました。私(辻師)は、最初は何もなかったけれども、神様はここまでいろんなことができるように育て、このような力を与えてくださいました。神様がすべてを備えてくださいました。今ここにある私は本当に神様の栄光の証人として立つことができていると皆さんの前で言うことのできるのです。その弱さが今度は強さに変えられていく、成長していく、そういう神様の働きを受けることができるといろいろと教えられたみことばであります。

2)ルカ6:37
「さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。」
 人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。
 すなわちさばく人はだれか。罪に定める人はだれか。赦す権威をもっているのはだれか。それは創造主なる神様であって、人が人を決してさばくことはできないのです。ですから神様があわれみをもって私たちを赦してくださっている。罪人であるにも関わらず罪人には定めない。そのように赦され寛容さを示し、柔和さをもって、私たち罪人を受け入れてくださっているのです。そのような最終的な権限を持っておられる神様がすべての人を受け止めておられるならば、私たちは互いに相手をさばいたり、罪に定めたり、赦さないなんていうことはあってはならないという非常に道徳的に高度な考えです。創造主がおられる。最高権威者があってこそ、このルカ6:37のおことばは成り立つのです。私(辻師)は、創造主なる神様がおられることをイエス・キリストを通して知りました。体験ではなく、知識を知りました。本当におられるのだと信じました。だからもう私は誰かをさばいたり、誰かを罪に定めたり、赦さないということはしない。すべて神様に判断をお任せし、心の悩ましい部分をすべて神様にゆだねることができるようになりました。そのことによって本当に悩みが90%ぐらい無くなりました。このようなみことばによって私は今日まで育てられてきました。まさに金銀によって育てられたのではなく、神様の愛のおことばによって育てられてきたといえるのです。皆さんも、幾千の金銀にまさるみことばを、ぜひ見つけていただいて、みことばに向き合って羊飼いなるイエス様についていっていただきたいと思います。

★聖書は 「至理名言」(しりめいげん)の書物
「至理名言」の意味=きわめて道理(真理)にかなったすぐれたことばのこと
 聖書は創造主なるお方のみおしえ、おことばなのです。そのように造って来られたお方のおことばなのですから、それは道理です。真理です。神様のおことば、創造主のおことばとして聖書を貴んでまいりましょう。

≪今週の俳句≫ 
「喜びの 真理はまさに 山笑う」

 山笑うとは、初春の季語です、冬で枯れきった山に春が近づくにしたがって新芽が出てきます。
 まるで死んでいたような、色のあせたような自然が、春が近づいたことで色づき始める。いのちがそこにあふれている。そのような様子を山笑うといいます。それはまるで自然が喜んでいるようだという意味なのです。私たちの心に真理である神様のみことばがもたらされると、死んでいた心が新しくつくり変えられて、イエス様のいのちにあふれはじめるという意味です。

 

 

 

 

 

■2017年3月26日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 主は私の羊飼い(8)  up 2017.3.26


主題聖句(詩篇23:1)
主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。

 

 

 

羊飼いなる主は、絶えず私たち羊の将来を考えて今日を導いてくださっています。そのお導きはみことばによってなされます。羊には羊飼いが必要であるように、私たちにもみことばなる主が必要であることを心に刻みながら、今週も神のみとこばに導かれて行きましょう。

●デボーションのための聖書箇所(詩篇119:57−64)
A)『みことばは私の嗣業(しぎょう)』
 「嗣業」とは、神から賜った家系、地位、名前、家産、働きを継承することを言う。(造語で、キリスト教用語)
 「嗣(つぐ)」という字は、主に地位や財産、家督を受け継ぐときに用いられます。「業」は、これらのものとともに、神様の働きをも受け継ぐ、という意味で用いられています。
 つまり、神のみことばは、神様から私たちに与えられた、永遠に受け継いでいくべき宝のようなものなのだ、ということです。
◇57節
主は私の受ける分です。私は、あなたのことばを守ると申しました。
・受ける分→神から賜った嗣業
・守る→保護する、保つ、見張る、気を付ける、初めにあった状態に戻し、それを維持する
 「主」とはみことばなる神です。ヘブル語の「守る」は、日本語にある「従う・服従する」という意味は含んでおらず、与えられたときの状態のまま維持する、というものです。ですからこの節は「神様のみことばを私の嗣業として守り通します」という意味になります。 
 イスラエルの民がエジプトを出て約束の地・カナンに入ったとき、12部族それぞれに土地が分け与えられ、さらに「地境を移してはならない」というルールがモーセの律法に記されました。神が与えられた分を超えてはならない、また少なくてもいけない、その与えられた分を全うするように、という神様のみおしえです。このことからわかるように、「神のみことばを守る」とは、みことばを都合よく変えたり、自分の好むところだけに偏ったりせず、与えられたみことばの真理をしっかりと守り、受け継いでいく、ということなのです。

◇58節
私は心を尽くして、あなたに請い求めます。どうか、みことばのとおりに、私をあわれんでください。
・請い求める→足らなくなったものを元に戻すために請求する
・みことばどおりにあわれんでください→みことばの嗣業を取り戻すことができるようにあわれんでください

◇59節
私は、自分の道を顧みて、あなたのさとしのほうへ私の足を向けました。
・道を顧みる→今まで歩んできた人生を振り返って反省する
・足を向ける→嗣業のみことばに立ち返る
 57節にある嗣業の分を守り切れていない状況が起こってきたとき、これまでの歩みを振り返ってみると、みことばから外れていたことがわかった。そこで神にあわれみを請い求め、みことばに立ち返った。悔い改めた様子がここに記されています。

◇60節
私は急いで、ためらわずに、あなたの仰せを守りました。
・急いで、ためらわず→迷わない、疑わない、不信仰に心を向けない
・仰せを守る→嗣業のみことばを正しく受け止め、維持する

◇61節
悪者の綱が私に巻き付きましたが、私は、あなたのみおしえを忘れませんでした。
・悪者の綱→嗣業を手放すように働きかけて来るもの
・みおしえを忘れない→嗣業のみことばを全うする
 この世の多数決の考え方や流行などが、私たちの思いや考え、主とみことばへの純真な心を迷わせることがあります。「この世のことも大事」「聖書の言っていることもわかるけど、現実があるのだから…」と、嗣業であるみことばを大切に守ることよりも、現実に生きることの方を優先してしまっているようなことはないでしょうか。
 伝統芸能である歌舞伎が「今は時代が違うから」とジャズダンスやミュージカルに変わってしまうようなことがあるでしょうか。それは伝統を完全に放棄することです。伝統を守りつつ、時代に合わせて現代的な音楽を少しだけ取り入れるようなことはあるかも知れませんが、必ず基本は守り続けるものです。
 私たちも、みことばを時代に合わせるのではなく、みことばを現代の人々にも理解できるようにするための工夫が必要です。みことばを変えてはいけません。神のみことばは真理です。ですから、どんな時代であっても、真理であるみことばは必ず通じるのです。
 そのように気を付けていたつもりでも、みことばの大切さを忘れてしまうことがあるかも知れません。そうするとこの世の力に引き込まれ、ついには罪がわからなくなってしまいます。決して神のみおしえを忘れないようにしましょう。そうすれば、たとえ罪に引き込まれそうな状況があっても、主の救いのみことばに耳を傾けるなら、神のみことばが悪者の綱を断ち切り、私たちを罪から救い出してくださいます。

◇62節
真夜中に、私は起きて、あなたの正しいさばきについて感謝します。
・真夜中に起きる→思い煩いが重くのしかかっている
・正しいさばきに感謝する→思い煩いから救われるには神の正しいさばきを信頼すること
 神の正しいさばきとはどんなものでしょう。神様はそれぞれの行いに応じて報いを与えられます。しかし、救いと滅びに関しては、行いによるのではありません。見える神の愛であられるお方、救い主イエス・キリスト様を信じる心=信仰による義によって救われるのです。罪に対して弱い私たちは、心は神の律法に仕え、肉(からだ)では罪の律法に仕えているという状況にあります。しかし、ローマ7章のみことばにあるように、心が神の律法=愛の律法に仕えている者は救われる、これが神の正しいさばきなのです

◇63節
私は、あなたを恐れるすべての者と、あなたの戒めを守る者とのともがらです。
・主を畏れ敬ってみことばという嗣業を守る者たちを友として選ぶこと
 この詩篇の記者は不遜な世の人たちとの接点が多かったのかも知れません。「友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます。」(第1コリント15:33)とみことばにあります。神のみことばから逸れないために、神を畏れ、みことばに従う者たちの群れの中に歩んで行こう、という思いを見ることができます。

◇64節
主よ。地はあなたの恵みに満ちています。あなたのおきてを私に教えてください。
・地に恵みが満ちている→表面には恵みが見えていない。それは罪のため。信仰の目を持って見るなら恵みが満ちて見える。
・おきてを教えてください→みことばが教えられることによって信仰の目が開かれるから。
 まったく同じ環境・状況であっても、イエス様に救われ、心がきよめられ、神様への愛に満たされたとき、すべてのものが新しく見えるようになったという証しを多く聞きます。その人自身が新しくなったのです。救われた心で見ていくとき、たとえ不遇な環境であっても、そこに神の恵みを見ることができます。
 アダムとエバが罪を犯して、エデンの園から追放されました。そこは罪の呪いの世界でした。私たちはそこに生きています。しかし、私たちの心は、エデンの園のように恵みに満ちたすばらしいところに置かれているのです。救われるとは、エデンの園に入れられることです。ですからすべてを感謝できるのです。そのためには、神のみおしえに心の目が開かれていくことが必要です。
 詩篇の記者は、自分の心が神のみおしえから逸れて、再び罪の世界に戻ってしまったような状況の中で、神の救いを疑うような不信仰に陥ってしまいました。しかし、これはおかしい、と神のみおしえを思い起こし、悔い改めて神様のもとに立ち返り、信仰の歩みを始めました。その歩みは、神のみことばを自分の嗣業・受け継ぐ分とする歩みです。
 私たちも、みことばは神様から与えられた永遠の家宝であると言うほど、みことばの大切さにもっと目が開かれていくことが必要です。みことばを失ってしまうと、私たちは御国の相続人としてのしるしを失うことになります。神の御国を受け継ぐ者のしるしは、聖霊様によって神のみことばをいただき、そのみことばに生きることです。みことばを大事に守り、保護し、その真理を保っていきましょう。

【デボーションのポイント】
 心にとまるみことばは、羊飼いであるイエス様から賜った嗣業です。
 今までに、どのようなみことばが与えられましたか?
 そのみことばを今も大切に守っていますか?
 
 旧約聖書において、神から賜る相続地・嗣業とは、非常に大切なものとして強調されています。私たちが受け継ぐ神の御国は、神のみことばによって成り立っています。聞いたことがある、知っている、もうわかっている…という態度は、決してみことばを大切にしているとは言えません。神のみことばは、神様が与えてくださった継承すべきすばらしい宝であるということに心を向けて、聖書を読んでいただきたいと思います。羊飼いなる主が、聖霊様を通してあなたの心に啓示を与えてくださいます。そこからさらに深いみことばの悟りをいただけるよう、時間をかけて取り組んでいただきたいと思います。
 皆さんは今までに与えられたみことばを、今も大事に守っておられるでしょうか。
 私(辻師)が救われたときに与えられたみことばは、「なくなる食物のためではなく、いつまでも残る食物のために働きなさい。」というものです。それまでの私は生きること、仕事をすることに何の意味も見いだせず、空しい毎日を過ごしていました。その中で、このみことばが私の心の奥深くまで刺さり、意味はよくわからないまま、強く惹かれたのでした。それが今までずっと、永遠の宝・嗣業のみことばとして、生きる目的をはっきりと示し、私を支えて来ました。今でも最初の感激を忘れないように、盗まれないように、大事に守っています。
 みことばを大切にする。その心がみことばに生きることに通じるのです。
神様から与えられている、永遠に継承すべきみことばをもう一度思い起こしてみて、輝きを失っていないか見直してみましょう。また、新たにみことばをいただいて歩んで行きましょう。

★聖書は、人類にとって「衣鉢相伝」(いはちそうでん)の書物。
「衣鉢相伝」の意味
教法や奥義を伝え継承すること。弟子が師の教えを受け継ぎ伝えること。今では広く先人の事業や業績を継ぐことにもいう。

【俳句】
「みことばは 花守ならぬ ひつじ守り」
 季語「花守」は、文字通り花を守る人、桜の花の番人です。みことばなる主は、私たち羊を守る羊飼い。神のみことばに心を開き、また美しい花を守るように、大切に守っていきましょう。

 

 

 

 

 

■2017年3月19日 日曜礼拝メッセージより(辻和希伝道師、横路伝道師)

 主は私の羊飼い(7)  up 2017.3.19


主題聖句(詩篇23:1)
主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。

 

 

 

【辻 和希伝道師メッセージ】
A)詩篇119:49〜52『主はわたしの慰め』
(119:49)
どうか、あなたのしもべへのみことばを思い出してください。あなたは私がそれを待ち望むようになさいました。
(119:50)
これこそ悩みのときの私の慰め。まことに、みことばは私を生かします。
(119:51)
高ぶる者どもは、ひどく私をあざけりました。しかし私は、あなたのみおしえからそれませんでした。
(119:52)
し今週の聖書箇所である119篇の41節から56節全体を見てみるときに、51節の“高ぶる者”からのあざけりや、53節の“みおしえを捨てる悪者ども”の姿勢に対して、神のみおしえを守る記者が、それを守ることを喜びとし、また思い出すことで慰めとしていることが読み取れます。 このことから、イエス様の例え話の一つ、金持ちとラザロの話(ルカ16:19−31)を思い出します。毎日ぜいたくに遊び暮らしていた金持ちと、全身おできの貧乏人ラザロが、死後それぞれ違う場所に行きます。ラザロは、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれ、金持ちはハデスの炎の中で苦しみを受けます。ラザロは生きている間に受けた悪い物の慰めを天において受けました。この両者を分けた要因は、貧富によるものではなく、モーセと預言者の教えを守ることが鍵となっています。
 詩篇が書かれた時代や、イエス様が来られた時代においては、モーセと預言者との教えを守ることが重要なことでした。しかし私たちが生きる恵みの時代においては、イエス様の十字架による罪の赦しという福音を信じ受け入れることが、救われる唯一の方法です。そして、このことこそが、私たちにとってとても重要なことなのです。何かを遵守したり、知識や教えを通して救いが左右されることはありません。この世の知恵によって神様を知ることができないのは、イエス様を信じることのみに、救いがあり、また、福音を信じる者を救おうと神様ご自身がそのように定められたからです。(1コリ1:21)
 詩篇119篇に戻ります。51〜52節を見ると、記者は高ぶる者どもからあざけられても、主のみおしえからそれず、主のとこしえの定めを思い出し、慰めを得ています。私たちも、この地上で生きている間に、あざけりやそしりを受けることがあります。また、イエス様を信じていることが、この日本においては少数ゆえに窮屈さを覚えることもあります。しかし、だからこそ、イエス様を信じていることに自信を持ちましょう。信じることで救われていることに感謝をしましょう。私たちにとって、最大の慰めは、暗やみの世界から救われていることです。たとえ、どのような状況にあっても、詩篇の記者のように、主に救われていることを思い出し、みことばを思い出し、辛い場面においては慰めを得、喜びの場面においては、救われていることを感謝する一週間を歩みましょう。

【横路伝道師メッセージ】
B)「主のみことばは私の旅の歌」(詩篇119篇53〜56節)
(119:53)
「あなたのみおしえを捨てる悪者どものために、激しい怒りが私を捕らえます。」
  これは、「神様のご命令を無視する者たちには、腹が立ってはなりません。」ということです。神様を愛し、その教えのみことばをとても大切にしている者にとって、これを無視し、捨ててしまうような者がいるのを見ると腹を立てるのは当然です。
 あの柔和で優しいイエス様も(マタイ21:12〜13)にある宮きよめの時は、腹を立てて激しい行動をされました。「宮の中で売り買いする者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。」と書いてあります。
 祈りの家と呼ばれる神殿に来て礼拝するのではなく、強盗の巣のように使っていると天の父のお気持ちからの聖い怒りを表されました。「神様のための聖なる怒り」です。 
 しかし、もう一方で「人から出る肉の怒り」があります。自分の思い通りにならない時や、自分が無視された、ばかにされたとプライドが傷つく時に、人は腹を立てます。これは、「自分が正しい」とする、自己義の怒り、自分を人より優れていると思う高慢の怒りであり、人の肉からの怒りです。
 ここで、「みおしえを捨てる悪者ども」とありますが、神様の前に自分の心を見るとき、人事ではなく、自分自身がそのような悪者ではないかと、心を探られます。
 神様のみことば通りになかなかできないとあきらめたり、聖霊様が正しい良心に語りかけておられるのに、その御声を無視して、自分の思い通りにしてしまうことがあるからです。人の悪を見てさばいてしまう自分自身が、実は同じ悪者であることを知るとき、他の人を悪いと決めて腹を立てることはできないのです。
(119:54)
「あなたのおきては、私の旅の家では、私の歌となりました。」
 人は天国に至るまでの旅路を歩んでいます。旅には常に危険があります。旅の途中、私たちを天国につかせないように妨害する敵が、事故やけが、障害物、誘惑のわなを仕掛けて待ちかまえているからです。
 旅をその危険から守り、目的地に安全に到着させるために必要なものは何でしょうか。正確な地図、良い装備、良い指導者が必要です。正確な地図とは聖書のみことば、良い守りと戦いの武具も、聖書のみことばです。そして、良い指導者とは、聖霊様だと思います。
 また、主の救いと慰めが、私たちの歌です。私たちは天国への旅の途中に、私たちの家である神の教会に集まり、礼拝し賛美するのですが、この家である教会で聖書のみことばを学び、信仰の武具を身につけ、聖霊様に導かれて主を賛美しつつ歩むのです。(詩篇1:2)にあるように、「主のおしえを喜びとし、昼も夜もその教えをくちずさむ。」のです。
(詩篇28:7)「主は私の力、私の盾。私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。それゆえ私の心はこおどりして喜び、私は歌をもって、主に感謝しよう。」
 主のみことばは、私の旅の歌です。逆に、不平不満のつぶやきは、サタンの歌であり、サタンを喜ばせるものです。私たちはサタンの歌ではなく、主を賛美する歌を歌う者でありたいと思います。

(119:55)
「主よ。私は、夜には、あなたの御名を思い出し、また、あなたのみおしえを守っています。」
 私たちはもちろん、昼も夜も主のみことばと聖霊様に導かれて歩みますが、特に夜には闇の力、サタンが働く時です。イエス様も(ヨハネ11:10)で、「夜歩けばつまずきます。」と言われました。私たちは、夜はもちろん出歩くことはしませんが、神様の前に静まって祈り、イエス様の愛を思いめぐらし、一日の感謝を申し上げ、平安のうちに眠りたいものです。
(119:56)
「これこそ、私のものです。私があなたの戒めを守っているからです。」
 「常に神様にお従いすることが、どれほど祝福であったことでしょう。」ということです。
 私たちの祝福は、みことばに堅く立つことと、聖霊様の導きに従うことを通して豊かに与えられており、これは誰も奪うことのできない「私のもの」「私の宝」なのです。

 

 

 

 

 

■2017年3月12日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 主は私の羊飼い(6)  up 2017.3.12


主題聖句(詩篇23:1)
主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。

 

 

 

 「主は私の羊飼い」という大きなテーマのもとにシリーズとして今、詩篇の119篇から神のことばについて学んでいます。この流れは今年のモットーのみ言葉であります、ヨハネの福音書6:44「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。」天の父が引き寄せられないかぎりと書かれている「天の父の導き」に焦点をあてて話をしています。

 マタイの福音書4:4の「人は神の口から出る一つひとつのことばによって生きる」このことばに導かれて生きるとは、まるで羊飼いと羊の関係のようなものだという流れの中で話をしています。

 今日のポイントは、羊飼いは羊の導き手であり、羊は羊飼いの声に導かれる。導く者と、導かれる者。その間の架け橋はことばであり、声として語られることばであります。
 羊飼いの声に従う限り、羊は何一つ欠けることがない。この3つのポイントを踏まえながら、神様のことばについて、詩篇119篇からとりあげていきたいと思います。

○デボーションのための聖書箇所 詩篇119:17−24

A)『失敗の経験を通して悟ったこと』
1)詩篇119:17−18
(17節) あなたのしもべを豊かにあしらい、私を生かし、私があなたのことばを守るようにしてください。
(18節)私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください。
 つまり、羊飼いのことばを守れるように懇願するほどの苦しい体験をしたため、私があなたのことばを守るようにしてください。守れない自分、もしくは守れなかった自分、また大事なことが見えずに、軽んじていた心の状態に対し、神様のおことばと意図するものがあるのだということが見えるようにしてくださいと願っている、懇願しているのです。
 人は失敗をしたときに反省をして「あの時、羊飼いイエス様のおことばを守っておけばよかった」「なぜ私はあの時、聞きのがしてしまったのだろうか」と悔いることがあります。でも、それに気が付くことが大事なことです。
 私たちもイエス様の羊です。羊飼いのことばは、私たち羊にとっては本当に大事なものであり、それを聞かなかったり聞き逃したり、あえて聞こえないふりをして自分勝手に行ってしまって「しまった」と思うのです。大きな失敗をする前に、小さな失敗を通して、ぜひ羊飼いのことばがいかに大事かということに気が付くことが大切な事ではないでしょうか。

2)詩篇119:19
(19節)私は地では旅人です。あなたの仰せを私に隠さないでください。
 「私は地では旅人です。」と言っています。羊飼いに導かれる人生とは、旅人としての人生と同じであるとこの著者は語っているのです。羊は羊飼いに導かれ、牧場から牧場、水のほとりから次の水のほとりまで移動して行きます。次のところに移る時に羊飼いは声をかけます。羊たちは「なぜ動かないといけないの」と思うかもしれないませんが、羊飼いにはちゃんとした計画があって羊を次の場所に導いていきます。人生はまるでそのようなもので、地上での人生は通過点の一つだとも言っているのです。羊たちの将来をいつも思いながら、未来のことを考えながら羊飼いは羊を導くのです。
 次に、「あなたの仰せを私に隠さないでください」と書いてあります。「仰せ」を隠さないでくださいとは、羊である私への声かけを与え続けてくださいと懇願し、見捨てないでくださいという意味です。私たちも完全な良い羊ではありません。未熟な子羊です。小さな羊はなんのわきまえもなく、思いのまま野原を駆け巡って迷子になりやすいのです。「自由だ、自由だ」と好き勝手に心のおもむくまま欲望に振り回されるままに歩むそのような生き方をしてしまい、もう私は見捨てられる羊だとつい自分を卑下してしまうかもしれません。でも神様は決して、羊飼いは決して悪い羊だからと言って声かけをしてくださらないことはありません。

3)詩篇119:20−21
(20節) 私のたましいは、いつもあなたのさばきを慕い、砕かれています。
(21節) あなたは、あなたの仰せから迷い出る高ぶる者、のろわるべき者をお叱りになります。
 「さばき」とは、良いことには良い報いを、悪いことには厳しいさばきを確定することをいいます。「いつも、あなたのさばきを慕い」さばきを慕うなどとは、普段私たちはこのような使い方はしません。慕うということは、それを乞い求める、いつもそれを思い続けるという意味です。神の「さばき」を神の「ことば」と置き換えると「いつもあなたのおことばを慕い、砕かれています。」神のおことばが来たら、私の心に善があるのか悪があるのかはっきりさせることができる。神様のおことばで私の心をはっきりと正してください。そのような意味で、自己義を砕き、羊飼いのことばを尊重する信頼の姿勢が表れているのです。
 21節の叱るとは「さばき」ではありません。罪から離れさせるために叱るのです。また悪いことを改めさせるために叱るのです、神様は私たちが悪を行ったときに、悪に対するさばきをすぐにするのではなく、叱って私たちを悔い改めへと導かれる方であるということです。だから、もしあなたが罪を犯した状態であって、何か問題が起こった時「わたしは神のさばきを受ける」とか言わないでください。それは神様があなたをお叱りになって心を入れ替えるように、間違いに気が付くように、そこから戻るようにとお叱りになっているのです。これは愛のムチなのです。
 詩篇23篇4節に「あなたのムチとあなたの杖は私にとって慰めです」とありますが、羊飼いのムチと杖は、羊たちを群れから外すことのないように導くのです。そのように私たちが、的外れに行ってしまわないようにお叱りのムチとして神様のおことばが語られますよということです。

4)詩篇119:22
(22節)どうか、私から、そしりとさげすみとを取り去ってください。私はあなたのさとしを守っているからです。
 羊飼いとともに歩むようになると、そうでない者達からそしられ、さげすまれるようになります。しかし、羊飼いの声を守り通すことによって、そしりとさげすみが尊敬と信頼へと変わるのです。神様と離れて今まで一緒に遊んでいた者が、急にまた神様のもとに戻ったので、不敬虔な者たちからそしりやあざけりを受けるでしょう。「弱虫」「神を信じることは弱い者がすることだ」と言われることがあるかもしれません。神様がいなくて強く生きることが人間に本当にできるのでしょうか。人間は弱いものだと悟らなければいけないのです。真実に目が覚めた者が羊飼いとともにいる姿をうらやむ不敬虔な人々は、羊飼いとともに忠実に歩む姿を見て、良心が目覚めて「俺たちも何とかしないと」と、その人々の心が変わるのです。ぜひ最後まで神様のみことばを守り通して、あなたをそしる者達に本当に真実な証ができるように挑戦してみてください。

5)詩篇119:23
(23節)たとい君主たちが座して、私に敵対して語り合ってもあなたのしもべはあなたのおきてに思いを潜めます。
 この君主たちとは何を意味しているかというと「君主」=権威や力を象徴しており、すなわち、神様以外の不敬虔な人々の権威や力のことを言います。日本でいうなら、民主主義の多数決の力、人間主義(ヒューマニズム)人権を主張して真理を曲げてしまうような考え方や経済主義のようにお金がなければ何もできないというような考え方を言います。そういうものが私たちの羊飼いのことばを聞こえなくしてしまいます。そんな時であっても「あなたのおきてに思いを潜めます」と記されているように、神様の声を聞かせない働きに惑わされないように、羊飼いのことばをいつも思い出して、その権威と力や多数決の意見に惑わされないようにしましょう。私たちの羊飼いは多数決ではないのです。私たちの羊飼いは私たちのためにいのちを捨てて、罪の贖いをしてくださった「救い主イエス・キリスト」なのです。心を揺るがされる時こそ思い出して、ぜひ心を守っていきましょう。

6)詩篇119:24
(24節) まことに、あなたのさとしは私の喜び、私の相談相手です。
 失敗の経験を通して悟ったことは、羊飼いのことばは羊にとって喜びであり相談相手であるということです。見えない神様、見えない羊飼いです。ただ御声「みことば」だけしか感じ取ることのできない状況にあります。姿を見てその姿についていくのではなく、姿が見えないからこそ聞く、ことばを聞き分けるということに集中することが出来るのではないでしょうか。私たちは聞くことと見ることにおいて、見えるものを信じやすい性質があります。だから確実に神のおことばを聞き分けるためには、むしろ見えないほうが正確におことばを聞き分けていくことができるのではないかと思います。
 「神様のおことばが私たちの相談相手である。」この8つの節の中に、「失敗の経験を通して悟ったこと」として表現されているように私(辻師)は思いました。皆さんはどのように感じましたでしょうか。

★聖書は人を「斉紫敗素」(せいしはいそ)な者へと導く
 斉紫敗素とは、知者が事を行えば災いを福に変じ、失敗を成功に転じることのたとえだそうです。
 聖書は私たちに知恵を与えます。神のおことばは、すべてを益に変えることのできる知恵を与えてくださるのです。勉強ができるかできないかではない。それを養い育ててくださるのは神のおことばであり、羊飼いのおことばだとまとめてみました。どうして災いがあるのか、どうして失敗が多くて成功が少ないのか。そこには神様のおことばによる知恵を得るための何かを、神様が計画をもって導かれているのではないでしょうか。

≪今週の俳句≫
「 人生の 雪崩のあとに 春が来る 」

 季節の変わり目にいろんな災害が起こりやすいものです。梅雨時は大雨が降るし、夏から秋は台風が来る。また冬から春にかけては雪の多いところでは雪崩が起こります。そのような「あっ」と思うような災いがあるかもしれない、でもそのあと必ず季節は変わっていくのです。わたしたちの人生にもシーズン、季節があります。英語では人生の区切りを「シーズン」というのだそうです。人生の雪崩のあとに必ず春が来る。神様のみことばにしっかりと信頼して、羊飼いなるイエス様にご一緒についてまいりましょう。

 

 

 

 

 

■2017年3月5日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 主は私の羊飼い(5)  up 2017.3.5


主題聖句(詩篇23:1)
主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。

 

 

 

 私たちの成長に合わせて、牧場から牧場、水のほとりから次の水のほとりへと、私たち羊を導いてくださる羊飼いは、羊たちに声をかけて下さいます。神の言葉によって私たちは導かれ養われて行くというところから、ずっと話が続いております。
 今週は詩篇119篇33節〜40節を、『羊飼いの言葉を慕う心』と題して、その心を学んでいきたいと思います。

A)『羊飼いの言葉を慕う心』               
1)建徳を願う心
(119:33)
主よ。あなたのおきての道を私に教えてください。
そうすれば、私はそれを終わりまで守りましょう。
(119:34)
私に悟りを与えてください。私はあなたのみおしえを守り、心を尽くしてそれを守ります。
(119:35)
私に、あなたの仰せの道を踏み行かせてください。
私はその道を喜んでいますから。

★羊飼いである神のことばは『善』             
★『善』を守り通す心は、建徳を願う心
★それが高徳の人の心

 善を守り通す心は徳の高い人の心の姿勢です。妥協しない、善を追い求め、もし自分が善から外れたならすぐ悔い改めて立ち返り、善を追及していくという姿勢を回復させ、それを全うしようと常に心がけていく。これが徳の高い人の心構えです。
 そして最も善なる言葉は、万物を創造された神様のお言葉です。それは完全な善であるという神様への信頼をもって守り通し、徳を高めていきたいという気持ちが、この3節に表わされています。
善を願う心、建徳を願う心は、『羊飼いの言葉を慕う心』として、第一に気付くことだといえるでしょう。

2)誘惑を回避する心
(119:36)
私の心をあなたのさとしに傾かせ、不正な利得に傾かないようにしてください。
(119:37)
むなしいものを見ないように私の目をそらせ、あなたの道に私を生かしてください。

★誘惑がやってくることは、だれも避けることはできない。
★誘惑の力以上に、強く神のことばに惹かれることを願う。

 不正な利得に傾くような誘惑、空しいものを見させようとする誘惑が私たちの住んでいる罪の世には蔓延しています。誘惑というのは欲に働きかけてくると、ヤコブ書に書いてあります。欲は私たちにとって大事な性質です。欲がなければ成長という歩みを遂げることはできません。食欲があるからこそ健康を保つためのエネルギー・栄養分を摂取することができます。
 同じように私たちは心にも欲が必要です。それは神様のきよい愛を求める欲求です。しかし、欲を用いて罪の性質は、大事な神様のお言葉を聞かせないように、聞いても興味を持たせないように、別のものに興味をもたせようと誘惑してきます。
 そこで、「あなたの道に生かしてください」とあるように、欲望を満たす願望以上に魅力的なものを私に見させてください、即ち、あなたのいのちのお言葉に魂が魅かれるように、みことばの輝き、素晴らしさをどうぞ私に教えてくださいという気持ちが、『羊飼いの言葉を慕う心』の二つ目として見られると思います。

3)みことばを敬う心
(119:38)
あなたのことばを、あなたのしもべに果たし、あなたを恐れるようにしてください。

(119:39)
私が恐れているそしりを取り去って下さい。あなたのさばきはすぐれて良いからです。

★祝福であれ?責であれ、神様が語られたことばは必ず成就することを体験し悟れば、畏敬の念は強くなる。
 
 神様の語られたお言葉が成就することを体験すれば、おのずと神様を畏れ敬う気持ちが心の中にしっかりと刻まれ植えられていきます。あの乙女マリヤに天使が告げた時、社会的にどれだけ反道徳的なものとして非難されることになっても、神様のお言葉だから、イスラエルの救いのために、御計画のために、「あなたのお言葉がこの身になりますように。」と言ったマリヤの告白は、すごい告白だと思います。願望の祈りは必死で祈り求めるけれど、神の御心と御計画は、「ちょっと待って。私にはできません。」と、つい否定してしまうことがあるかもしれませんから気をつけましょう。どちらにしろ、神様のお言葉があなたに語られたなら、時間がかかっても必ずその身に成るということは間違いありません。

★『恐れているそしり』?神の言葉は何一つ成就しない
 神の言葉は何一つ成就しない、これは不信仰です。                   
 私たちは「神はあなたを癒す。神が語られたなら絶対そうなる。」と信じようとしますが、試されます。私のような不信仰な者が癒されるかな?・・とか、いろいろなところに神様のおことばが成就しない原因を見つけてしまいます。他人からもそのように言われることがあります。
 どうすれば、そのようなそしりや恐れは取り去られるでしょうか?
「あなたのさばきはすぐれてよいからです。」即ち、間違いのない神様の正しいさばき、みことばの成就がそこに現れることです。神様の言葉が成就するしかありません。成就しないから人はそしるのです。
 私たちの人生にどれだけ神様のお言葉が成就してきたでしょうか?まだ成就してないものもありますが、成就してきているものもあるのではないですか?そこに目を向けて、「それならば次も。」と信じることができるのではないでしょうか。『羊飼いの言葉を慕う心』には、必ず成就するみ言葉に対する敬虔な心がみられるということです。

4)正しい良心からの願い                
(119:40)
このとおり、私は、あなたの戒めを慕っています。どうかあなたの義によって、私を生かしてください。
 私たちは自分の義によって自分を生かすことはできません。神様の義、イエス様の十字架で立ててくださった“信じる者は義とされる”というその神様から義をいただくしか私たちが義人として生きて行くことはできません。「どうぞ、あなたのみ言葉を慕うこの心を見て、これを義として私を生かしてください。」そういう表現がここに表れています。みことばを慕う心というのは、キリストを信じる信仰と同じ意味を持っているわけです。
 日本のように物質的に豊かな社会では、お金によっていろいろな自分の思いや願いを手に入れることが出来るので、神への信頼やみことばを慕う心を失わせる可能性が大きいのです。
 みことばを慕うためには素晴らしさに触れていかなくてはなりません。だから、みことばを見させてください、み言葉の実を見させてくださいと、もっともっと真剣に私たちは求めていくことが大事なことだと思います。

★正しい良心?神の形に似せて造られた私たちの本当の心
★『善』である神のことばを慕うことは、本来の自然な心
 「正しい良心を作らなければ…」ではなくて、私たちの内には神の形に似せて造られた「正しい良心」があるのです。私たちは罪のために神の形がとじこめられていましたが、そこからイエス様は私たちを解放してくださいました。罪の力が私たちになんの影響力も与えないようにと、罪のための代価を支払ってくださいました。「もう、お金を払ったのだから、お前にはもう人間の魂、心を縛る権利はない、もう私のものだから。」と、イエス様はおっしゃってくださいます。それを信じなくてはなりません。縛られていないのに、縛られているような錯覚で人生を終わってしまう人がいるわけです。しかし、皆さんは気づいて、心がその愛によってきよめられて、善を求める思い、誘惑に負けたくないという心、神様の言葉を大事にしなければという気持ちが、自然にわきあがってきているのではないでしょうか?それをもっともっと大きく育てていくように、羊飼いなる神様の愛に心を向けて、み言葉を慕う心を育てていって頂きたいと願います。

<今週のデボーションのポイント>           
羊飼いの言葉を慕う四つの心を見つけ出し、聖書を読む。
 
 四つの心が自分の内にあるのだと確認して聖書を読んだら、不思議と聖書の魅力に気が付いていくものです。どうぞ試してみてください。

<まとめ> 
 聖書は人を「前途有望」(ぜんとゆうぼう)な未来へと導く
 
 羊飼いのことばである聖書は、羊である私たちにとっては前途有望な未来へと導く「いのちの言葉」です。永遠の神の御国へと導かれる「声」です。永遠の滅びではなく、永遠のいのちに至る大きな希望が未来に開けていくということを思い描きながら、聖書のお言葉をしっかり読み取っていきましょう。

  
  <俳句>   
【明日に向け 心を耕す みことばで】

 未来の収穫に向けて田畑を耕します。私たちは永遠の未来に向けて心を耕します。みことばを読んで、痛いかもしれない、素晴らしいと思うかもしれない、それは心を耕すことになります。更にそこにみことばの種がまかれることによって実を結んでいく、今は下地作りと言えるかもしれません。
 しっかりと御言葉に心を向け、神のことばを慕う、羊飼いの言葉を慕う羊として、今週も御言葉と向き合っていく一週間としたいと思います。