■2017年2月26日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 主は私の羊飼い(4)  up 2017.2.26


主題聖句(詩篇23:1)
主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。

 

 

 

 今年は「聖い愛に導かれて」というテーマで、どのようにみことばに導かれていくのか、詩篇119篇から今学んでいます。先週は失敗を通して悟ることがあるということを学びました。
 今週は119篇25節〜32節から「羊飼いの前にへりくだる」というテーマで学んでいきましょう。

A)『羊飼いの前にへりくだる』
1)(119:25)「私のたましいは、ちりに打ち伏しています。あなたのみことばのとおりに私を生かしてください。」
 ちり⇒むなしい状態、無きに等しい状態、死んだ状態。
 打ち伏している⇒打ちのめされた、完全に砕かれた。
 私のたましいは打ち砕かれて、むなしい、無きに等しい状態、神様の目には死んだ状態になってしまっているので、あなたの目に生きた者となるように私を生かしてくださいと、願い求めています。どうしてちりに打ち伏してしまったのでしょうか。それは26節にあります。
2)(119:26)「おきてを教えてください⇒自分の間違いを認めている。は私の道を申し上げました。すると、あなたは、私に答えてくださいました。どうか、あなたのおきてを私に教えてください。」
 自分の道を申し上げた⇒自分の道を推し進めた。
 あなたは答えられた⇒みこころでないことをわからせられた。
 自分の道を申し上げたとは、「こうしたいです」という希望を言ったのではなく、「神様、私はこう歩みます。こうしていきます。」と、自分の思いを優先していく状態です。まるで放蕩息子のようです。彼はお父さんの忠告を無視して町に出て行き、失敗しました。お金を全部使い果たした後にききんがやってきて、豚のえさを食べたいと思うほどに、心が砕かれました。
 ちりに打ち伏したとは、自分の道を推し進めた結果おちいってしまう状態です。「神様、この道でいいですか。」と聞くのではなく、「神様、こうします!この道でいいですよね。」と、聞く耳をもたずに自分のしたいことを優先していることが多いのです。欲望に心が満たされていると、自分の欲望を満たす気に入ったみことばしか心に留まらなくなり、御声を聞き逃してしまいます。
 自分の道を推し進めることによって、ちりに打ち伏すような出来事が起きてしまいます。それは、裁きや懲らしめというより、間違っていることを気付かせるための、神様からの応答の出来事なのです。そのようなことを私たちの人生の中でしばしば体験します。その時は、「神様が応えてくださっている。これは間違っているかもしれない。」と、もう一度神様のみことばに心を傾けるように心がけましょう。

3)(119:27)「あなたの戒めの道を私に悟らせてください。私が、あなたの奇しいわざに思いを潜めることができるようにしてください。」
 戒めの道⇒主が教えられた道、人が歩むべき道、真理であり道理。
 悟る⇒重要さを知る、他の道がないと知る、霊による納得。
 奇しいみわざ⇒人の目に見えない宇宙の法則、仕組み。
 思いを潜める⇒神のみわざを見出すこと。
 「教えてください」から「悟らせてください」に表現が変わってきています。教えられ、知識を得ても、悟らなければ無駄になってしまいます。「戒めの道」とは、神が人を創られ、その歩むべき道、真理をお示しになっていることです。その戒めを悟るとは、その重要さを知るということです。霊による納得とは、霊は神様が与えてくださったいのちの霊なので、神様の霊に共感し、知識や経験、主観を越えて納得することです。神様のおことばは愛です。愛を知識で判断することは愚かなことです。愛の霊によって語られたことばは、愛の霊によって解釈していくことが必要です。「奇しいみわざに思いを潜める」とは、被造物に秘められた神様の法則、原則に思いを潜めるということです。大いなる方が存在しておられるということに気付くために、神様のみわざに思いを潜めていきましょう。

4) (119:28)「私のたましいは悲しみのために涙を流しています。みことばのとおりに私を堅くささえてください。」
 悲しみ⇒自分の弱さ、悟りのなさ、主を恐れていなかったことの愚かさ。
 堅くささえて⇒動かされることのない岩となるみことばを求める。
 詩篇の作者は、悲しむだけではなく、神様のおことばに対する希望を抱いています。溺れている人が、助けに来てくれる人に対して「私は今から沈んでしまうので、助けに来なくてもいいです。」と言うなら、それはとてもごう慢です。助けを断り、あきらめて希望を失うということは、否定的な思い考えにとらわれ、それを優先して希望を退けるというごう慢さがあるのです。自分を卑下して沈んでいく人は、へりくだっているように見えますが、助けを求めないというごう慢さがあります。本当に心砕かれた人は、助けを求めるのが自然の反応です。あきらめというのは、砕かれているように思いますが、助けを受け入れないというかたくなさが隠れている可能性があるので、吟味して気をつけていきましょう。

5)(119:29)「私から偽りの道を取り除いてください。あなたのみおしえのとおりに、私をあわれんでください。」
 偽りの道⇒自分を義としている隠れた心、間違いを認めない心。
 人は、自分で義を立てることはできない。
 ごう慢な悲しみ、自己卑下には、自分を義としている態度があります。「私も悪いけど、あの人の方がもっと悪い」という、自分を常に優位に立たせる自己義を、偽りの道といいます。人がどうして自己義を立てることができないかというと、行いによってしか自分で自分を義とすることができないからです。自分を義とするためには、完全な行いが必要です。99守っても、1つ違反を犯したら、義ではなくなります。イエス様のように1つも罪を犯さない状態が義といえるのです。しかし、私たちは、神様の前には罪人ですと言いながら、人には「あなた方が悪い」と言うのです。これは罪の性質です。自分をよく見せようとし、自分をあざむくような心を取り除いてくださいと、神様の前に間違いを認めてへりくだり、正直になることが必要です。
 私たちは自分で義を得ることができないので、神様に認めてもらうしかないのです。それは、イエス・キリストを信じる信仰によって与えられるのです。常に私たちは罪人であることを忘れてはいけません。その罪人を神様のあわれみと恵みによって、義と認めてあげようと言ってくださるのです。自分の義を主張して、人を裁くことのないように気をつけましょう。与えてもらった義なので、誇ることはできません。「あなたのあわれみによらなければ、私は正しいということができません」とへりくだりましょう。

6)(119:30)「私は真実の道を選び取り、あなたのさばきを私の前に置きました。」
 神のさばきを目の前に置く⇒正しい判断のためにみことばを思い起こす。
 自分の主観で善悪をはかるのではなく、万物の基準である神様のおことばから見分けていくことが必要です、自分のプライドや経験、価値観を優先するのではなく、神様のおことばを優先しますというへりくだりが、ここにあらわれています。

7) (119:31)「私は、あなたのさとしを堅く守ります。主よ。どうか私をはずかしめないでください。」
 みじめさを二度と味わうことのないためにみことばを守る。
 「ちりに打ち伏しています」というみじめさは、彼のプライドやごう慢さを全て打ち砕くほどのものでした。よほどのことが起こったのでしょう。そのみじめさを二度と味わいたくないので「あなたのみことばを堅く守ります」とへりくだっているのです。

8)(119:32)「私はあなたの仰せの道を走ります。あなたが、私の心を広くしてくださるからです。」
 走る⇒素直さ、全き信頼、喜びに満ちている様、つまづきがない。
 心を広くしてくださる⇒みことばがすべての障害を取り除く。
 走るとはどんな時でしょうか。それは、子どものような素直さがあり、じっとしていられないほどの喜びを表します。神様の仰せを喜びとすると、うれしくて走り出すのです。つまずきや障害物のないところでないと思いきり走れません。人生には、つまずき倒れたり、道をそれてしまうような障害物がやってきますが、神様に心を広くしてもらうと、それらを受け止められ、つまずくことがないのです。みことばは、あらゆる矛盾や理不尽な事を解決し、つまずかないようにしてくださいます。そこに万事を益としてくださる神様の愛のご計画が見えてくるからです。神様の愛を感じると、神様の仰せの道を思いきり走ることができます。

【まとめ】
羊飼いの前にへりくだる⇒羊飼いを認め受け入れる。
 認め受け入れるとは、全き信頼を持つということです。羊飼いのおことばは、私を導くためのいのちのおことばです。いやなことを言われても拒絶せずに受け入れることができるなら、羊飼いを受け入れることになります。
 へりくだりとは、神の形に似せて創られた元々の性質です。ごう慢は、的外れの罪です。罪の起源はルシファーです。ルシファーは被造物の中でも最も優れた天使でしたが、自由意志を持っていたので「神のようになろう」と考えたのです。罪はごう慢から始まりました。神の子としてのへりくだりの性質を与えられているのに、そこに罪というごう慢の性質が体の中に宿ったのです。欲望を用いて羊飼いの声に聞き従わせないように罪は働いてきます。
 羊飼いの声に聞き従わなかったら、ちりに打ち伏してしまうような出来事が起こります。その失敗を通して詩篇の作者は、羊飼いの前にへりくだり、主を私の羊飼いとして受け入れるということを悟らされたのです。
 私たちも大きな失敗に至る前に、教えられたみことばを通して、ごう慢の罪に打ち勝つために、神様の愛に励まされていきましょう。愛だけが、罪の高ぶりを足の下に踏みつけることができます。愛は、へりくだった心になります。あなたのごう慢な心はあなたの本心ではなく、罪から来るものです。それに気付いて、罪を退け、イエス様のへりくだった愛に励まされていきましょう。

★聖書は、人を「知崇礼卑」(ちすうれいひ)な者へと導く
「知崇礼卑」の意味
 本当の知者は知識を得れば得るほど、他人に対してはへりくだって、
 礼を尽くすものだということ。
 私たちも、聖書の知識を得てごう慢になるのではなく、聖書のことばを知れば知るほど、「私はまだまだ知っていない」とへりくだり、愛の行為である礼を尽くし、人々に親切をしていきましょう。

【俳句】
みことばは 春めく心に 愛のつぼみ
 みことばは私たちに春をもたらします。まだ愛の花も実もなっていませんが、愛のつぼみができてきているのです。みことばをもって春を迎えましょう。

 

 

 

 

 

■2017年2月19日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 主は私の羊飼い(3)  up 2017.2.19


主題聖句(詩篇23:1)
主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。

 

 

 

 「主は私の羊飼い」という大きなテーマのもとにシリーズとして今、詩篇の119篇から神のことばについて学んでいます。この流れは今年のモットーのみ言葉であります、ヨハネの福音書6:44「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。」天の父が引き寄せられないかぎりと書かれている「天の父の導き」に焦点をあてて話をしています。

 マタイの福音書4:4の「人は神の口から出る一つひとつのことばによって生きる」このことばに導かれて生きるとは、まるで羊飼いと羊の関係のようなものだという流れの中で話をしています。

 今日のポイントは、羊飼いは羊の導き手であり、羊は羊飼いの声に導かれる。導く者と、導かれる者。その間の架け橋はことばであり、声として語られることばであります。

 羊飼いの声に従う限り、羊は何一つ欠けることがない。この3つのポイントを踏まえながら、神様のことばについて、詩篇119篇からとりあげていきたいと思います。

○デボーションのための聖書箇所 詩篇119:17−24

A)『失敗の経験を通して悟ったこと』
1)詩篇119:17−18
(17節) あなたのしもべを豊かにあしらい、私を生かし、私があなたのことばを守るようにしてください。
(18節)私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください。
 つまり、羊飼いのことばを守れるように懇願するほどの苦しい体験をしたため、私があなたのことばを守るようにしてください。守れない自分、もしくは守れなかった自分、また大事なことが見えずに、軽んじていた心の状態に対し、神様のおことばと意図するものがあるのだということが見えるようにしてくださいと願っている、懇願しているのです。
 人は失敗をしたときに反省をして「あの時、羊飼いイエス様のおことばを守っておけばよかった」「なぜ私はあの時、聞きのがしてしまったのだろうか」と悔いることがあります。でも、それに気が付くことが大事なことです。
 私たちもイエス様の羊です。羊飼いのことばは、私たち羊にとっては本当に大事なものであり、それを聞かなかったり聞き逃したり、あえて聞こえないふりをして自分勝手に行ってしまって「しまった」と思うのです。大きな失敗をする前に、小さな失敗を通して、ぜひ羊飼いのことばがいかに大事かということに気が付くことが大切な事ではないでしょうか。

2)詩篇119:19
(19節)私は地では旅人です。あなたの仰せを私に隠さないでください。
 「私は地では旅人です。」と言っています。羊飼いに導かれる人生とは、旅人としての人生と同じであるとこの著者は語っているのです。羊は羊飼いに導かれ、牧場から牧場、水のほとりから次の水のほとりまで移動して行きます。次のところに移る時に羊飼いは声をかけます。羊たちは「なぜ動かないといけないの」と思うかもしれないませんが、羊飼いにはちゃんとした計画があって羊を次の場所に導いていきます。人生はまるでそのようなもので、地上での人生は通過点の一つだとも言っているのです。羊たちの将来をいつも思いながら、未来のことを考えながら羊飼いは羊を導くのです。
 次に、「あなたの仰せを私に隠さないでください」と書いてあります。「仰せ」を隠さないでくださいとは、羊である私への声かけを与え続けてくださいと懇願し、見捨てないでくださいという意味です。私たちも完全な良い羊ではありません。未熟な子羊です。小さな羊はなんのわきまえもなく、思いのまま野原を駆け巡って迷子になりやすいのです。「自由だ、自由だ」と好き勝手に心のおもむくまま欲望に振り回されるままに歩むそのような生き方をしてしまい、もう私は見捨てられる羊だとつい自分を卑下してしまうかもしれません。でも神様は決して、羊飼いは決して悪い羊だからと言って声かけをしてくださらないことはありません。

3)詩篇119:20−21
(20節) 私のたましいは、いつもあなたのさばきを慕い、砕かれています。
(21節) あなたは、あなたの仰せから迷い出る高ぶる者、のろわるべき者をお叱りになります。
 「さばき」とは、良いことには良い報いを、悪いことには厳しいさばきを確定することをいいます。「いつも、あなたのさばきを慕い」さばきを慕うなどとは、普段私たちはこのような使い方はしません。慕うということは、それを乞い求める、いつもそれを思い続けるという意味です。神の「さばき」を神の「ことば」と置き換えると「いつもあなたのおことばを慕い、砕かれています。」神のおことばが来たら、私の心に善があるのか悪があるのかはっきりさせることができる。神様のおことばで私の心をはっきりと正してください。そのような意味で、自己義を砕き、羊飼いのことばを尊重する信頼の姿勢が表れているのです。
 21節の叱るとは「さばき」ではありません。罪から離れさせるために叱るのです。また悪いことを改めさせるために叱るのです、神様は私たちが悪を行ったときに、悪に対するさばきをすぐにするのではなく、叱って私たちを悔い改めへと導かれる方であるということです。だから、もしあなたが罪を犯した状態であって、何か問題が起こった時「わたしは神のさばきを受ける」とか言わないでください。それは神様があなたをお叱りになって心を入れ替えるように、間違いに気が付くように、そこから戻るようにとお叱りになっているのです。これは愛のムチなのです。
 詩篇23篇4節に「あなたのムチとあなたの杖は私にとって慰めです」とありますが、羊飼いのムチと杖は、羊たちを群れから外すことのないように導くのです。そのように私たちが、的外れに行ってしまわないようにお叱りのムチとして神様のおことばが語られますよということです。

4)詩篇119:22
(22節)どうか、私から、そしりとさげすみとを取り去ってください。私はあなたのさとしを守っているからです。
 羊飼いとともに歩むようになると、そうでない者達からそしられ、さげすまれるようになります。しかし、羊飼いの声を守り通すことによって、そしりとさげすみが尊敬と信頼へと変わるのです。神様と離れて今まで一緒に遊んでいた者が、急にまた神様のもとに戻ったので、不敬虔な者たちからそしりやあざけりを受けるでしょう。「弱虫」「神を信じることは弱い者がすることだ」と言われることがあるかもしれません。神様がいなくて強く生きることが人間に本当にできるのでしょうか。人間は弱いものだと悟らなければいけないのです。真実に目が覚めた者が羊飼いとともにいる姿をうらやむ不敬虔な人々は、羊飼いとともに忠実に歩む姿を見て、良心が目覚めて「俺たちも何とかしないと」と、その人々の心が変わるのです。ぜひ最後まで神様のみことばを守り通して、あなたをそしる者達に本当に真実な証ができるように挑戦してみてください。

5)詩篇119:23
(23節)たとい君主たちが座して、私に敵対して語り合ってもあなたのしもべはあなたのおきてに思いを潜めます。
 この君主たちとは何を意味しているかというと「君主」=権威や力を象徴しており、すなわち、神様以外の不敬虔な人々の権威や力のことを言います。日本でいうなら、民主主義の多数決の力、人間主義(ヒューマニズム)人権を主張して真理を曲げてしまうような考え方や経済主義のようにお金がなければ何もできないというような考え方を言います。そういうものが私たちの羊飼いのことばを聞こえなくしてしまいます。そんな時であっても「あなたのおきてに思いを潜めます」と記されているように、神様の声を聞かせない働きに惑わされないように、羊飼いのことばをいつも思い出して、その権威と力や多数決の意見に惑わされないようにしましょう。私たちの羊飼いは多数決ではないのです。私たちの羊飼いは私たちのためにいのちを捨てて、罪の贖いをしてくださった「救い主イエス・キリスト」なのです。心を揺るがされる時こそ思い出して、ぜひ心を守っていきましょう。

6)詩篇119:24
(24節) まことに、あなたのさとしは私の喜び、私の相談相手です。
 失敗の経験を通して悟ったことは、羊飼いのことばは羊にとって喜びであり相談相手であるということです。見えない神様、見えない羊飼いです。ただ御声「みことば」だけしか感じ取ることのできない状況にあります。姿を見てその姿についていくのではなく、姿が見えないからこそ聞く、ことばを聞き分けるということに集中することが出来るのではないでしょうか。私たちは聞くことと見ることにおいて、見えるものを信じやすい性質があります。だから確実に神のおことばを聞き分けるためには、むしろ見えないほうが正確におことばを聞き分けていくことができるのではないかと思います。
 「神様のおことばが私たちの相談相手である。」この8つの節の中に、「失敗の経験を通して悟ったこと」として表現されているように私(辻師)は思いました。皆さんはどのように感じましたでしょうか。

★聖書は人を「斉紫敗素」(せいしはいそ)な者へと導く
 斉紫敗素とは、知者が事を行えば災いを福に変じ、失敗を成功に転じることのたとえだそうです。
 聖書は私たちに知恵を与えます。神のおことばは、すべてを益に変えることのできる知恵を与えてくださるのです。勉強ができるかできないかではない。それを養い育ててくださるのは神のおことばであり、羊飼いのおことばだとまとめてみました。どうして災いがあるのか、どうして失敗が多くて成功が少ないのか。そこには神様のおことばによる知恵を得るための何かを、神様が計画をもって導かれているのではないでしょうか。

≪今週の俳句≫
「 人生の 雪崩のあとに 春が来る 」

 季節の変わり目にいろんな災害が起こりやすいものです。梅雨時は大雨が降るし、夏から秋は台風が来る。また冬から春にかけては雪の多いところでは雪崩が起こります。そのような「あっ」と思うような災いがあるかもしれない、でもそのあと必ず季節は変わっていくのです。わたしたちの人生にもシーズン、季節があります。英語では人生の区切りを「シーズン」というのだそうです。人生の雪崩のあとに必ず春が来る。神様のみことばにしっかりと信頼して、羊飼いなるイエス様にご一緒についてまいりましょう。

 

 

 

 

 

■2017年2月12日 日曜礼拝メッセージより(辻和希伝道師、横路伝道師)

 主は私の羊飼い(2)  up 2017.2.12


主題聖句(詩篇23:1)
主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。

 

 

 

【内容ポイント】
 羊飼いは羊の導き手である。
 羊は羊飼いの声に導かれる。
 羊飼いの声に従う限り、羊は何一つ欠けることがない。

【辻 和希伝道師メッセージ】 
◎デボーションのための聖書箇所
A)詩篇119:9〜12『自分の道をきよく保つ』
 詩篇は、私たち人間とくにクリスチャンが人生で体験する、喜び、悲しみ、苦悩などの経験が赤裸々に表現されています。しかもその多くは音楽の歌詞であることから、当時のイスラエルの人にとっては、生活にとても馴染むものでした。時代が変わっても、人間が体験することは変わりません。私たちにとって、詩篇の記者が経験してきたことが、励ましとなり慰めとなるでしょう。
 本日見ていくのは、詩篇119篇の9節から16節です。まず12節までを見てきましょう。

9)どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。
 あなたのことばに従ってそれを守ることです。
10)私は心を尽くしてあなたを尋ね求めています。
 どうか私が、あなたの仰せから迷い出ないようにしてください。
11)あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。
12)主よ。あなたは、ほむべき方。あなたのおきてを私に教えてください。

 9節は、16節までの一連の流れの導入となっていますが、同時に結論にもなっているように見て取れます。それは、自分の道をきよく保つ方法は、“主のことばに従いそれを守ること”と書いてあるからです。主のことば、つまりみ言葉を守り行うことの大切さを記者はよく理解しています。10、11節にも、主の仰せから迷い出ないように、主に罪を犯さないために、主に尋ね求め、み言葉を心にたくわえています。12節では、主を賛美し、さらに主のおきてを求めることを歌にしているのです。

 このような表現から、主のみ言葉が生活とともにあり、それを喜びとしていることが伺えます。私たちにとって、み言葉を守り行うことは具体的にはどのようにすれば良いでしょうか。例えば、「殺してはならない。(出エジプト20章13節)」というみ言葉がありますが、殺人をしないように日々努力しながら生活している人がいるでしょうか?殺人はこの世の一般道徳感においても非人道的であり、刑罰の対象にもなっていますから、「殺してはならない」は当然ですよね。このように、この世の刑法に定められていることと聖書の律法は重なる部分が多いのです。私たちが意識して実践していくべきことは、心の動きに関することです。イエス様は、律法を二つにまとめることができると仰いました。1.神様を愛すること。2.隣人を愛すること。です。特に私たちの生活に身近なのは、隣人を愛するということを実践することです。

「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。(ローマ12章10節)」
 ある場面で息子の行動に尊敬したことがありました。自分よりすごいと心から思いました。思った瞬間、このみことばを実践したことになるでしょうか?私の考えは半々です。自分よりまさっていると思ったその後が肝心だと思わされています。なぜなら、尊敬しているのなら、その後も相手に対して行動に表れるからです。その瞬間瞬間においては、み言葉を無意識に実践できていることは多いと思います。しかし、み言葉とともに歩むということは、それが行動によって示されているかでわかるのです。このことを意識実践し続けることで、おのずと自分の道をきよく保つことに繋がっていくのだと思います。

【横路伝道師メッセージ】
B)詩篇119:13〜16『主のみことばを喜びとする』
13)私は、このくちびるで、あなたの御口の決めたことをことごとく語り告げます。
14)私は、あなたのさとしの道を、どんな宝よりも、楽しんでいます。
15)私は、あなたの戒めに思いを潜め、あなたの道に私の目を留めます。
16)私は、あなたのおきてを喜びとし、あなたのことばを忘れません。

 (13節)「私は、このくちびるで、あなたの御口の決めたことをことごとく語り告げます。」あなたの御口で決めたこととは、神様の世のさばきと、イエス・キリストの十字架による救いのことです。神様はあらかじめそれを決めておられました。ゆえに私たちは、みことばからこの福音を語り告げます。
 (14節)「私は、あなたのさとしの道を、どんな宝よりも、楽しんでいます。」無力で弱い羊は、羊飼いに従順であれば何不自由なく養われ、命の安全を守られます。羊が迷い出て野獣に襲われたり、崖から転落したりせず、平安な一生を過ごすために、15節の「戒め」や、16節の「おきて」「さとしの道」が必要です。そして、それらは羊(自分)のいのちを守る「宝」なのです。
 また、15節の「思いを潜め」「目を留めます」は、私たちがいのちを守るためにする、みことばの「デボーション」を表しています。この世の楽しみや欲望に目や心を奪われ、誘惑に陥らないように、みことばに導かれて歩むことが喜びとなり楽しみとなる、それほどに私たちの羊飼いである神様に信頼しています、という意味です。
 これらの「主のみことば」を喜び信頼し、楽しむということを、もっとはっきり理解するために、主のみことばである「さとし」「戒め」「おきて」等は、すべてイエス様の愛から出ていることを思い、各節を「イエス様の愛」に置き換えてそのように読んでみると、とても意味がわかりやすくなります。
13)私は、このくちびるで「イエス様の愛」をことごとく語り告げます。
14)私は、「イエス様の愛」を、どんな宝よりも、楽しんでいます。
15)私は、「イエス様の愛」に思いを潜め、「イエス様の愛」に私の目を留めます。
16)私は、「イエス様の愛」を喜びとし、「イエス様の愛」を忘れません。
 
 このように、主のみことばは「イエス様の愛」として受け止めるなら、私たちの宝、喜び、楽しみとなるのです。
 「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)その他、「わたしはあなたを見捨てない」「共にいる」「助け導く」「救う」「神の子とする」「将来と希望を与える」等々、数々の愛のみことばを私たちはいただいています。これらを喜び、楽しんでいきたいと思います。
 
 次に、私たちがこの主の愛のみことばをただ聞いているだけでは不十分であり、そこにとどまっていてはもったいないということについて話します。
 その「愛のみことば」が「神様からの自分へのメッセージ」であると悟る必要があります。心の中に語られたみことばを自分のこととして受け取り、本当に悟るなら、感動がやってきます。感動し、告白し、信じて行う時に神様が働かれる段階に入るのです。
 「母のことば、ふしぎなちから」という、ヘギー・アイバーソンという方のお母さんの証の小冊子があります。
 このお母さんは、ノルウェーからアメリカに移った酪農家を主人に持つ小柄な女性でした。7人の子どもがいましたが、毎日の重労働と、夫と長男のアルコール中毒、2人の娘の大病等で、苦しい生活の中から、聖書を読み祈りはじめました。やがて、聖書のみことばの中から、自分の家族の解放と救いのみことばを見つけ出し、そのとおり実現すると悟り、確信していったのです。
 彼女は祈りました。「神様、あなたがみ旨とご計画をそのとおり実現される方であるということがわかりました。私はあなたの御心を私の家庭で実現させるため、私は私のことばをどう用いるべきでしょうか?」彼女は黙想しました。「万軍の主は誓って仰せられた。『必ず、わたしの考えたとおりに事は成り、わたしの計ったとおりに成就する。』(イザヤ14:24)そして示されたみことばに、「『私は信じた。それゆえに語った』と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語るの
です。」(第2コリント4:13)とありました。
 彼女はみことばの通りに信仰の告白をし、宣言していくようになり、やがて家族の奇跡的な救いと、たくさんの信仰による癒しを見ていくことになったのです。彼女は目立たない主婦でしたが、みことばをただ聞くだけでなく、悟り、確信し、告白する人になり、神様はその告白・宣言のことばの通りに働いてくださったのでした。

 

 

 

 

 

■2017年2月5日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 主は私の羊飼い(1)  up 2017.2.5


主題聖句(詩篇23:1)
主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。

 

 

 

 主は羊飼いのようにみことばをもって私たちを養い、導いてくださいます。今回からしばらくこの主題に沿って、神様のみことばによって養われることを詩篇119篇から学んでいきましょう。その中でみことばを理解し、味わい、実を結ぶように信仰を働かせていただきたいと願っています。
 主題聖句の詩篇23:1の内容ポイントとして3つ挙げています。

【内容ポイント】
 羊飼いは羊の導き手である。
 羊は羊飼いの声に導かれる。
 羊飼いの声に従う限り、羊は何一つ欠けることがない。
 
 今年の目標は「聖い愛に導かれて」ですが、聖い愛そのものであられる主はここで羊飼いにたとえられています。羊飼いは羊のために、どこにどのように群れを連れて行くかをいつも考えています。そして羊は、羊飼いに導かれてこそ、健全に成長していきます。また、ヨハネ10章でイエス様が言われたように、羊は羊飼いの声を知っており、自分の羊飼いの声を聞き分け、その声に導かれます。私たちは、私たちを愛して下さっている羊飼いの声、すなわち神のみことばに導かれていくのです。そのように神のみことばに従う限り、私たちは何一つ欠けることがないのです。あなたには何か欠けているものがあるでしょうか?お金、健康、…もし何かが欠けていると感じるなら、視点がまちがっているのではないでしょうか。私たちを永遠のいのちに導いてくださっている本物の羊飼い、主イエス様の真理のみことばに従っていきましょう。

●デボーションのための聖書箇所
A)詩篇119:1-3『幸いは、聖い愛のみことばによる』
「幸いなことよ。全き道を行く人々、主のみおしえによって歩む人々。
幸いなことよ。主のさとしを守り、心を尽くして主を尋ね求める人々。
まことに、彼らは不正を行なわず、主の道を歩む。」

★主のことばのことを示している聖句
「主のみおしえ」 「主のさとし」 「主を尋ね求める」 「主の道」
 これらはいずれも神のみことばのことを表しています。それぞれを「みことば」と置きかえて読んでみると、なぜこのように表現されているかを感じ取ることができます。

◎デボーションのポイント
1)なにが幸いなのか?
 「全き道を行く人々」「主のみおしえによって歩む人々」「主のさとしを守り、心を尽くして主を尋ね求める人々」とみとこばにはっきりと書いてあります。

2)どうして、そのことが幸いなのか?
 神のみおしえに歩むことが、どうして幸いと言えるでしょう。
 神のみことばは真理です。真理と真実は違います。真理とは、物事の道理、なりたちです。世界のなりたち、つまり神がすべてを創造されたということ、これが真理です。ですから、神のみおしえに歩むとは、創造主のみことばに教えられて歩むことであり、これが幸いであるということなのです。

3)聖書が教える幸いと自分が考えていた幸いとの違いに気づく
 私たちが考えている幸いとはどんなものでしょうか?争いがない、問題が起こらない、豊かである…これらすべては、自分の思い通りに物事が運ぶということであり、人間の側から捉えた幸せです。聖書が教える幸いとはまったく違っています。このような幸いの捉え方からすると、神のみことばに導かれて歩むことに反発を感じるでしょう。もし、「神のみことばに縛られたくない!」という思いがあるならば、どんなまちがいをしているのかに気づき、ご自分の考えを正していただきたいと思います。

4)どのように適用するかを、祈りの言葉によって告白しましょう。
 みことばから教えられたことを自分の生活に適用する祈りのことばとして、短い文章に書くと、もっと祈り方もはっきりするのではないでしょうか。例えば、「神様、あなたのみおしえ、さとしを、私を幸いに導くものとして受け入れます。」というようにです。みことばを読んで終わりではなく、具体的にことばにして祈り、告白することによって、私たちの心はそのように動いていきます。そしてみことばを実行していくことができるようになります。
 もっと聖書を読みたい、聖書全体から神様のみおしえを悟りたい、と思うようになるかも知れません。聖書を理解するための様々な書籍や注解書がありますが、“聖書は聖書によって読み解く”というのが基本です。わからないところがあれば、あらゆる聖書の箇所から答えを得ることができます。聖書に取り組んでみていただきたいと思います。

B)詩篇119:4-8『確かな歩みはみことばによる』
「あなたは堅く守るべき戒めを仰せつけられた。
どうか、私の道を堅くしてください。あなたのおきてを守るように。
そうすれば、私はあなたのすべての仰せを見ても恥じることがないで 
しょう。あなたの義のさばきを学ぶとき、私は直ぐな心であなたに感
謝 します。私は、あなたのおきてを守ります。どうか私を、見捨てな
いでください。」

★主のことばのことを示している聖句
「戒め」 「おきて」 「義のさばき」
 「義のさばきを学ぶ」とは、どういうことでしょう。正しいさばきは律法=ことばによってその基準が定められています。神のみことばを通して神の義はどのように罪をさばくのかということを学ぶことです。「直ぐな心」とは正しい良心です。そして、神の義のさばきとは、信仰による義のさばきです。神様の愛すなわち主イエス・キリストを信じる者へのさばきと、神の愛をないがしろにし、軽蔑し、軽んじる者たちへのさばきとの2つがあるのです。行いによるのではなく、神の愛そのものであられる救い主イエス・キリストを信じるか否か、ということによります。ですから、神のさばきを学ぶとは、神のみことばを学ぶことなのです。

◎デボーションのポイント
1)確かな歩みとは、どういう意味を含んでいると思いますか?
 私(辻師)の学生時代は、大手企業への就職が人生における確かな歩み、と言われていました。それは生涯安定した生活水準を保証される、まちがいなく安心した人生が送れるという考えからでした。確かな歩みとは、迷いがない、まちがいがない、安定した歩みと言えると思います。私たちは確かな歩みをしているでしょうか?「私の歩むべき道はこれだ」と確信をもって言える歩みはみことばによる、と知ることができます。

2)「人」にとっての確かな歩みとは、なんでしょう?
 「確かな歩み」とは「的を外していない、的を射た歩み、まともな人生」という意味です。的を外した人生は罪の人生です。的を射た人生とは、私たちの存在の目的に向かう人生、つまり神様との愛の関係をつくり、保ち続ける歩みです。今こうして礼拝に来て、神のみことばを聴いていること、それ自体が神様との関係ができており、まともな人生を歩んでいるということなのです。毎週日曜日に礼拝に来るということは、神を知らない世の人々には理解できないかも知れません。しかし神を愛し、信頼する私たちは、神のみおしえこそが確かな歩みへとまっすぐに導くということを知っており、道を逸れないようにと神様のみことばを聴いているのです。

3)なぜ、みことばが私たちにとって確かな歩みとなるのですか?
 創造主なる神が、私たちのことを一番よく知っておられます。愛するわが子として私たちをおつくりになり、一人一人にご計画と御心をもっておられ、一人一人にふさわしいみことばを通して導いてくださいます。神様がどんな人生を生きることを願っておつくりになったのか、あなたに対するご計画やお考えを、みことばを通して気づいていくことができます。

4)どのように適用するかを、祈りの言葉によって告白しましょう。
 例えば、次のように祈ることもできます。「神様、あなたはイエス様を通して、堅く守るべき戒めを私たちに教えてくださいました。それは『わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい』(ヨハネ13:34b)というみことばです。私はこのみことば、あなたのおきてを守るように、今日も歩み、努めていきます。的を外し、罪を犯してはずかしめをうけることがないよう、あなたのすべての仰せを守っていきます。」
 自分の言葉をもって、神様の前にみことばを適用するような祈り方をしていきましょう。これだけでも神様のみことばによって心が養われます。人は舌によって支配されるということがヤコブ書に記されているように、最初は実行できなくても、祈りを告白し続けることによって、人は動かされていくものです。ぜひ続けてみましょう。

★聖書は、人を「微妙玄通(びみょうげんつう)」な者へと導く。
 「微妙玄通」の意味:ちみつで奥深く、すべてに通じていること。
           真理を体得した者の様子を言う。

 イエス様の御姿は、人間にとって最高のお手本です。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14:6)と言われたイエス様は、真理そのものなるお方です。神様のみことばは、「微妙玄通」=イエス様の似姿へと私たちを導いてくださいます。

【俳句】
みことばは  内なる立春  時つげる

 昨日は立春、まだまだ寒さは残っていますが、春の訪れをうかがえる時期に入ってきました。
 みことばは、苦しいとき、試練のとき、長い冬と思えるようなときに、春の訪れを告げる、時を知らせるおことばです。環境や状況がまったく変わっていなくても、みことばが光のように心に差し込むとき、それは春がやってきたしるしです。神のみことばは生きていて、力があります(へブル4:12)。神のみことばの働きを通して、神の約束のみことばによって、これから春に導かれて行くのだというみことばの啓示を受け取っていきたいと思います。

 最後に皆さんにひとつお勧めしたいことがあります。羊は羊飼いの声を聴いて行動していきます。
 羊飼いの近くにいる羊は、羊飼いの声をはっきりと聴くことができます。羊飼いに忠実な、羊飼いのことばがいかに自分を幸いに導くかを悟っている羊です。
 自分のしたいことを優先したい羊は、羊飼いから少し距離を置きます。まだ未熟な、みことばの大切さを悟っていない羊です。
 羊飼いの声を聞きたくない、声を聞くと逃げてしまう羊がいます。声を聞くと従わなければならない。だから、聞かないふりをしてますます群れから離れていこうとするのです。
 羊飼いの声、すなわち神のみことばが聞こえたとき、喜びとしてこれを受けとめる羊、まあまあ適当に聞いている羊、ますます離れようとする羊。神のみことばを聞いたとき、同じキリストを信じる者であっても、それぞれ内なる反応が違う場合があります。今のあなたの心はどのような状態でしょうか。
 「神様、あなたのみことばがなければ…」と神のみことばに飢え渇く心がある人は、失敗を通してみことばの大切さを悟った人です。「神のみことばが聞こえたら、直ちに行動する、従って行くのだ」という思いが強く心に刻まれている羊は、多くの失敗を繰り返したのではないかと思います。
 聞こえても自分の思いを優先したいために、知らんふりしてだんだん聞こえないところに離れて行く羊は、まだその怖さを知らない、未熟な状態と言えるでしょう。
 危険性はわかっているけど、まあこのくらいはいいだろうというのは、みことばの大切さを深く悟っていない羊。聞こえる範囲にはいるけど、羊飼いとの間に距離があり、細かいところまで神様のみことばに忠実に従うことのできない、そんな状態と言えるかも知れません。
 羊飼いなるイエス様を中心として、私たちは、どのくらいの距離にいるでしょうか。
 みことばなるイエス様との距離感、これがあなたがこれからみことばによって養われていくことにおいて、大きな影響を与えます。みことばに反応しない鈍い心は、遠く離れているかも知れません。気に入ったみことば、自分の願いにかなうみことばだけ受けとめるというのであれば、まだ距離があるかも知れません。
 どんなみことばでも喜んで受けとめます、という全き神様の愛に信頼している羊は、一番神様の近くにいると言えるかも知れません。
 
 マルタの妹のマリヤは、マルタが忙しく立ち働いている間も手伝いもせず、イエス様のもとでそのお話に耳を傾けていました。一番近くにいたのです。そのマリヤについてイエス様は、「しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。…」と言われました。食事よりも、接待を受けることよりも、みことばを聞いてくれる方が嬉しい。そういうお気持ちをイエス様は持っておられるということです。それほどに、主は私たちがみことばに耳を傾け、心を向けることを願っておられるのです。それくらい大切なことなのです。そのみことばが、私たち羊を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われるからです。
 
 今あなたは、みことばによって、緑の牧場、いこいの水のほとりにいますか?導かれていますか?たとえ死の陰の谷を歩くような状態であっても、わざわいを恐れることはありません。そんな中にも主はあなたとともにおられます。いずれそこからあなたを緑の牧場、いこいの水のほとりに導いてくださいます。安心して神の御声に従っていきましょう。
 そのようなことを心に留めながら、神のみことばを深く思い巡らし、真理を悟っていくよう心がけていきましょう。

 

 

 

 

 

■2017年1月29日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛のみことばによって生きる  up 2017.1.29


主題聖句(マタイ4:4
イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」

 

 

 

 導かれるとは、神が引き寄せてくださるということからきています。
それは、みことばによって導かれて私たちは生きるということです。その意味で今週の主題をつけました。

【内容観察】
試みの言葉に対して、イエスは神の愛のみことばを用いて答えられた。「『愛の神のかたちに似せて造られた人は、肉体の命を維持するだけで生きるのではなく、愛に溢れた神の心から出てくる一つ一つの愛のことばで生きる。』と神の聖い愛に生きるように教えている。だから、わたしは欲求のままに生きることはしない。」
 イエス様は公生涯に入られる前40日40夜サタンの試みにあわれました。
 このみことばは、40日の断食の後、サタンが肉体の弱点をついてきて、欲望に従わせる、つまり神の愛よりも自分の欲求に生きるようにと誘惑してきた時、サタンに対して宣言されたイエス様のおことばです。
 パンがいらないわけではありません。しかし、パンだけで人は生きられません。人とはことばを聞いて生きていく存在です。しかし、どのようなことばを聞いていくかが問題になります。
 食物によって体の健康状態は左右されます。好きな物ばかり食べていると偏った栄養ばかり摂ることになり、体調を壊してしまします。
 同様に、みことばも自分のより好みで偏ったみことばばかりを選び、自分の欲望と願いにかなったみことばのみを受け入れているならば、食物で例えるなら、偏食をしているようなものです。
 神様のおことばは、どんなおことばでも快く愛のおことばとして受け入れていくことが、健康的な心の面での生きる姿勢と言えます。これは、今日の学びの結論ですが、理解しているようでも、どうも結果が出ていないような気がします。
 聞いたおことばをどれほど実践しているでしょうか。ダイエットも、やり方を聞いても、三日坊主に終わってしまったら結果は出てきません。一ヶ月実践してスマートになった女優さんは、一ヶ月実践し続けたから結果が出たということです。
 みことばも一緒で、今日だけ聞いて良かったと思っても、明日から思い出しもしなかったら何にもなりません。今までと同じ罪の生活を繰り返すばかりで、クリスチャンになっても全然神様の恵みを感じることができなくて、新しく人生をやり直した(新しく生まれた)という神様のみことばがまるで嘘のように思えるようになってしまいます。
 ダイエットの食事も、自分ができない続けられないという理由をレシピのせいにして、自分中心的な生き方をしていたら不健康な状態になっていきます。それは道をはずす的外れという状態であり、的外れは罪の状態です。そして罪の結果不健康になって死をまねきます。
 同様に神のみことばも偏ったみことばにのみ心を向けてしまうと、それは神のみことばであっても、的外れを起こしてしまい、不信仰つまり不健康な状態になるので、みことばを読んでいるのに何故こんなに結果が悪いんだろうということが起きてきます。それは偏ったみことばに対する理解や解釈、またみことばに対し心を開く態度が偏食的であるからとも言えます。
 本来、私たちは戒められるということを嫌います。間違いを指摘されることも抵抗を感じます。
 しかしみことばの中で、特に注意や忠告をされるようなみことばでは、よく自分の心を吟味して痛いかもしれませんし苦いかもしれませんが、これを食べなかったら不健康になると受け止めて、しっかり食べてください。
 神様はいつも責めておられるわけではありません。神は愛と憐れみの御方ですから、頭ごなしに傷つくように叱りつけるようなお方ではありません。
 ただ、危ない状況でやむをえない時は、滅びに行かないために、元に戻るようにと矯正されることはあります。このように間違いを指摘されるのは、神様の愛から出たことですから、そのみことばをしっかりと受け止め心を開いてください。
 何か問題が起きた時には自分を吟味して、人はパンだけで生きるのではないこと、すなわち体の健康のことばかりではなく、もっと大切な霊的な部分、心の部分を養うことに気持ちをもっていくようにしましょう。
 このテーマのもとにページを開いてください。今週は皆さんが自分で3つのポイント(A〜C)でみことばを学んでいただきたいと思います。
●デボーションのための聖書箇所
 旧約聖書(申命記8章、出エジプト16章〜17章)
 新約聖書(マタイによる福音書3章〜4章)
 この5章をこの1週間でデボーションをしていただきたいと思います。
A)各章において、どのような出来事がありましたか?
 出エジプトのこの箇所は申命記8章と関連があります。
 またマタイ3〜4章はイエス様が洗礼を受けられて、荒野に出て行かれて試練を受けられた箇所です。
 この出来事の全体の流れを通して、黙想してみましょう。

B)それらの出来事や言葉から、教訓、教え、気づきがありますか?
 この出来事は何を私たちに教え、気づかせようとしているのか、何が教訓になるのか(私たちが同じ失敗をしないようにと神が示してくださっているのか)を考えてみましょう。

C)自分に適用できるポイントは何ですか?
 このイエス様が言われたマタイ4:4のみことばは、申命記8:3のモーセのことばから引用して言われたおことばです。誘惑に対して神の愛のことばで、いかに自分の心を養い守るかということです。
 これらの箇所から自分がどういうことに気づくか、どういうことが教えられるか、人それぞれ心が反応するでしょうから、自分の心をしっかり見ながら読んでいただいて、この1週間何か自分に適用できるものはないか、心を探ってみことばを黙想し「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」というみことばの実践を試みていただきたいと思います。

【礼拝メッセージの内容メモ】
★聖書は「至理名言(しりめいげん)」である
 意味ー極めて道理にかなった優れた言葉のこと。
 そのように聖書のことばを感じておられるでしょうか。聖書全体すべてが「至理名言」であると感じておられる方は、何度も何度も聖書を読んできた方だと思います。
 1回や2回では無理だと思います。何度も通読してみてください。毎日食事を何度もするように、一定の量を読んでみてください。
そして、神様のみことばを自分で体験していかれるなら、いかにみことばが道理にかなった素晴らしい愛のおことばかと御霊によって感じられるでしょう
 聞くばかりだと、なかなか頭に入ってきません。例えばダビデがどういう人かとか、王であったということは分かっていても、詳しく説明できなかったりします。彼がまだ10代の頃、巨人である戦士ゴリアテを石ひとつ投げただけで倒した話とか、ダビデという名前からも、いろいろな出来事を思い出せるようになりましょう。そうするといろいろな生活の場面で思い出して、教訓を得ることができるようになります。細かく知れば知るほど、さらに多くのことが教えられてくるものです。
 イスラエルの歴史であっても、極めて道理にかなった神のおことばとしての歴史書でもあります。
 そのような素晴らしいみことばが私たちの心に多く刻まれ、蓄積されていくと、次の俳句のようになります。

【俳句】
みことばは 心に積もる 雪景色

 台湾の方々が東北に来られて、初めて雪を見てその美しさに感動し大喜びではしゃいだそうです。
 みことばが心につもってくると、心が白くされ清くされます。 その白さの素晴らしさに感動します。 そのみことばがあなたを造り変えていっていると言えます。
 
 次にみことばが生きる道しるべになっているということに関連した箇所を読んでみましょう。
★(詩篇119:105)
「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。
 今日、今週、今年あなたの足のともしび、道の光となっているみことばは何でしょうか。光は必ず必要です。
 この罪の世界は真っ暗闇で、光がなかったら足を踏み外してしまいます。ですから、この暗闇の世界を歩くために、あなたに与えられた神様のみことばが必要です。そうでないと、暗闇を手探りで歩むことになり、神様どうして?ということが起こってくるかもしれません。その理由はあなたの道を照らす光となるみことばがないからです。
私はどのように生きたらいいかわからない、どのように歩んでいいかわからない、そのような時は、みことばと自分の心を照らしあわせて、探っていく必要があります。神様が愛と憐れみをもって導いてくださるという信仰をもって探ってください。

(第2テモテ3:16)
「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」
 なぜ教えと戒めなどが必要なのでしょうか。それは人は未熟だからです。人には注意忠告をされたくないという人はみことばから教えられてください。
 きよめられること、矯正されることから逃げないで、もっと成長したいという向上心を持ち続けましょう。
 向上心を持つ、そういう姿勢が救われる人の心です。向上心がなく、これでいいという思いは高慢になり、神様はそのような心を願ってはおられません。
 あなたのありのままは受け入れてくださいますが、そのまま立ち止まることは願ってはおられません。神様の愛のおことばによってますます神様に近づいていきましょう。
 みことばによって、さらに雪景色のような美しい心に造り変えていただきましょう。

 

 

 

 

 

■2017年1月22日 日曜礼拝メッセージより(辻 百合子牧師)

 祈りのため、心を整え、身を慎む  up 2017.1.22


主題聖句(第1ペテロ4:7)
万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。

 

 

 

1.祈りのため、心を整えてから身を慎む
1)身を慎む
 『身を慎む』とは、軽はずみなことや度を超すことがないよう自らの行動や言葉を慎み、自制心を働かせて、あらゆる肉的なことを節制するということです。
 この世の価値観と神様の価値観とが全く違うということを考えるときに、私たちは聖書のみことばに照らし合わせて、自分の人生の価値観あるいは行動をどのようにすれば良いか、心を整理しながら吟味して、具体的に、現実的に、一人ひとり考えてみていただければ幸いです。

2)聖い良心を備える(へブル10:22)
「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」
 祈りのため心整えるという時、聖い良心を備える事が大切です。聖い良心を備えるという事を考えるときに、私たちは、悪いとわかっていてもやめられないと思ってしまうかもしれないのですが、自分の思いのままに生きてみたいという心があるので、それを正当化したいと思って言いわけをしているということがあります。でも、その良心というのは実は「偽りの良心」とか「良心がまひしている」、「鈍感な良心になっている」と聖書は教えています。
 イエス様の流された十字架の血潮から流れてくる愛が私たちの心に触れるとき、私たちの良心がきよくされます。私たちが神様の聖さにあずかりたいと思うなら、今日もう一度自分の心を点検して、どう考えてどのようなものを日々選んでいけば良いのか、益になるもの、益にならないもの、かえって私たちの人生、家族、その全てを妨害してしまうものもありえますので、聖い良心をもって選んでいけたらどんなに幸せかと思います。

3)聖なる油注ぎを受ける(第2コリント1:21−22)
「私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油をそそがれた方は神です。神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました。」
 『聖い良心』を維持するためには、心に『聖なる油注ぎ』を受ける必要があります。本当の聖さは、神様だけが持っておられます。イエス様を信じて、悔い改めて、水のバプテスマを受けるときに、素晴らしい神様の聖い霊である『聖霊様』が私たちの中に住んで下さることができるようになります。御霊が私たちの中にいてくださることを聖書では『油を私たちの心に注いでくださっている』と語っています。『キリストのうちに堅く保つ』とは、『キリストに属する』聖なる者となるということです。そのために、神様は私たちに『聖い油』を与えてくださいました。
 皆さんオリーブの実をご存知でしょう。オリーブの油が採られるためには、たたかれて、踏まれて、そして純粋な油が流れ出てきます。私たちが苦しみの時、嘆きの時、傷つきの時、聖霊様がいつも共にいてくださって、私たちが心へりくだり、砕かれていくようにと助け続けてくださることによって、私たちの中から“聖い油”が流れ出てくるようになります。今、一人ひとりの中に油がとどまっているということをぜひ知ってください。そして、その油がもっとあなたから流れていくように。苦しみの中で心を主に捧げて祈っていく、このような体験の中で、神様からくる『聖さ』が私たちの心を覆っていくようになります。

2.油注ぎが与えるもの
1)油には傷をいやす力がある(ルカ10:34)
「近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。」
 私たちの心に傷があると、その傷口から、何かが起こるたびに怒りや恨み、復讐心や責める心、赦せない心が引き出されてきます。しかし、その傷口に油を塗ることで傷口がふさがれ癒されることによって、問題がもはや問題でなくなってくるという体験をすることができます。

2)油には傷を和らげる力がある(イザヤ1:6)
「足の裏から頭まで、健全なところはなく、傷と、打ち傷と、打たれた生傷。絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえない。」
 この油注ぎは、『愛の油注ぎ』です。心の傷が愛によって包まれると、和らげられます。そのことによって心が和やかになり、柔和な心が与えられ、へりくだって、相手への思いやりの心が与えられます。そして、傷をつけてこようとする人の心に立つことができて、確かに苦しいし痛いと思うことがあるかもしれませんが、よく考えて祈り、その人の心、その人の生い立ち、その人の立場でその人の通っている霊的な状態を見る時、寛容な心で相手を受け止めて赦すことができるように、神様がその力を与えてくださいます。ですから、自分の力では出来なくても、神様の油注ぎがやってくると、赦すことができるようになっていきます。まだそういう痛いところが残っている方は、もっと神様の油を自分の心に塗ることができるように主の前に求めていかれると良いと思います。

3)油注ぎによる祈りは、罪を赦す力がある(ヤコブ5:14−15)
「あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。」
 『オリーブ油』は『聖霊の油注ぎ』の“象徴”です。旧約聖書では、オリーブ油が注がれて人々が立てられていきました。王、祭司、預言者になる人は、その務めに入る時に必ず“油注ぎ”を受けます。今、私たち全員が王であり祭司であると聖書は言っています。それは“聖霊の油”をいただいたことによってです。
◎王とはどういう意味でしょう。イエス様は私たちの罪のために死んで葬られ、ハデスに下ってくださいました。ハデスの王はサタンです。死の力を持つサタンに打ち勝って、イエス様はよみがえってくださいました。ですから、神はイエス・キリストを『主』と信じて従う人々に、自分の周りに起こるさまざまな闇の働き、出来事、あるいは家族に働いてきたり、自分の心に妨害や誘惑を持ってくるものを『イエスの名』によって縛り、私たちから取り除いていくという『王としての権威』を神様は与えてくださっています。
◎それから祭司として。それは神様への『愛の礼拝者』であり、人々のために『とりなす務め』を持つ者としての油注ぎです。ですから、神様の前に礼拝して主の前に祈る時、神様はその祈りを天で聞いていてくださいます。私たちが賛美するその賛美は、天に上げられていくのです。
◎預言者の油注ぎとは、神のおことばをはっきりと『伝える者』としての油注ぎです。
 
 長老たち、聖い油注がれた人たちに祈ってもらうと、病む人を回復させるだけではなく、もしその人が罪を犯していたらその罪は赦されますと書かれているのはなぜでしょう。祈っていただいて、聖い神様の油注ぎがやってくるときに、自分のうちにある醜い罪の心がはっきりと見えるようになり、きよめられることを求め、罪から離れたいと願う心が起こされます。祈ってもらっている中で、「主よ、罪を赦してください、悔い改めます」という心を持って、祈りをそのまま受けていることによって罪が赦されるのです。しかし、私たちが悔い改めをしなければ、神様は罪を赦したくてもそれができません。だから、罪を悔い改めることがとても大事です。

4)油注がれた義人の祈りには大きな力がある(ヤコブ5:16)
「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。」
 病の多くの原因は、心の傷からくることが多いです。心に傷があると、罪に心が支配されて悪い心を持ってしまうので、互いに罪を言い表してその罪を捨てることが大事です。私たちが罪を悔い改めるときに、イエス様の血潮がもう一度私たちの心をきよめてくださることによって、神様は私たちを義なる者、罪がない者とみなしてくださるのです。ですから、私たちが祈るときその祈りは天に届き、多くの人たちが神様の国に救われてきて癒されるようになっていきます。あるときは長い時間が必要になることがあります。しかし、大事なことは、決してあきらめないで、神様の約束は必ず成ると信じ切ることです。
 油注がれた義人の聖い愛を動機とした祈りは、その信仰が働くときに大きな力となってこの地上にあらわされていきます。イエス様を信じる人、そして血潮が注がれた人はすべて義人です。どうぞ確信をもってください。私たちが祈りを肉の力でつかんで引き下ろして何かするというのではなく、私たちの中にいらっしゃる素晴らしい聖い油注がれた方がすべてを成していってくださるのです。

3.油注ぎは勝利をもたらす(ヤコブ4:7)
「だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。」
 私たちは、わがまま、好き勝手といった肉の欲望に対して、言いわけをしてそれを通そうとする、あるいはごまかし、偽っていくところがあるかもしれません。でも、わがまま好き勝手をしている信仰は、お飾りの信仰、困ったときの神頼みです。主が来られるときに、お飾りの信仰は全く役に立ちません。「5人の賢い乙女と愚かな乙女」の話を知っておられると思いますが、愚かな乙女はどうして油を準備しないのですか。わがままや好き勝手、肉の喜び、快楽を満たすことに時間を費やすためで、本心は、心を神に向けることをしたくないからです。赤ちゃんが成長しないでいたら、生まれてきた目的を果たしますか?成長して、一人前になって独立していくことを親は期待します。でも、クリスチャンは案外甘えていて、いつまでも自己中な赤ちゃんでいる、お飾り信仰の人たちが多くいます。
 今は恵みの時です。神様は、私たちが本当に神を愛する者になるのを待ってくださっています。神様がまず私たちを愛して、命を与えてくださいました。そして今、私たちが神を愛し、イエス様のためにどのように仕えていくかを問われている時です。この神様のあわれみとチャンスの時に、もう一度しっかり心を入れ替えて神様の前に仕えるようにと神様は願っておられると思います。なぜなら、世の終わりが近いからです。
 ヤコブ4:7にあるように、『神に服従する』とは、神を愛して、従順な心を持って仕える事で、『愛』があるからこそ、服従し、従順な心を持つことができるのです。そして、『神様に従っていく者』には『聖い油注ぎ』が与えられる。すなわち、神はその人々を『神様に属する者』であると見てくださるのです。この『服従』とは、自分の肉を完全に十字架につけて、キリストが私たちに与えてくださった愛に応えていくということです。

1)油注がれた者たちは敵に打ち勝つ(黙示録17:14)
「この者どもは小羊と戦うが、小羊は主の主、王の王だから、彼らに打ち勝つ。小羊と共にいる者、召された者、選ばれた者、忠実な者たちもまた、勝利を収める。」
 『小羊』とは、イエス様のことです。イエス様を信じたいという思いが起こった人は、神様から召された人です。その人は選ばれた者であるとも書かれています。聖い神様の子となるように選び出されたのです。そして、選ばれたしるしとして、心に聖い油注ぎ、聖霊様を与えてくださるのです。
 そして、私たちがするべき務めがあります。神様がしてくださるのは、召され、選ばれるということですが、私たちの方では、神様に対して忠実な心を捧げていくということです。神のおことばのすべてに忠実に生きていこうと思うことがとても大事です。
 世の終わりが迫り、危急の時が迫っている中で、私たちは油注ぎをしっかり持ち、闇の働きに対抗することが大事です。すなわち、私たちの正しい良心、聖い神への愛、純粋さを奪おうと狙ってくるサタンに対して、聖い油注ぎを持ってイエスのお名前によって対抗していくということです。

2)油には水をはじく力がある(黙示録17:15)
「天使はまた、わたしに言った。「あなたが見た水、あの淫婦が座っている所は、さまざまの民族、群衆、国民、言葉の違う民である。」
 この『水』が意味しているものは、この世の価値観、悪しき利得主義の汚れたものの考え方、汚れた情欲、不品行、肉の欲望、神と神のみことばに反するあらゆる罪です。これらのものは、決して聖い油注ぎに近づくことはできません。油注ぎはすべての汚れから私たちを守ってくれます。ただし、条件があります。私たちがその聖い油注ぎを大切にして、それを選ぶということです。私たちが聖い良心を持って誘惑を退けようと決心するなら、それらは離れていきます。
 この誘惑から解放されるように、信仰の先輩方や先生方に相談して、一緒に祈ってもらうことが必要です。油注がれた祈りはこれらのものを断ち切っていくことができるし、地上で2人の者が心を合わせるなら神は必ず聞いてくださいます。

4.油注ぎを求めよう(ルカ21:36)
「しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。」
 天も地も揺り動かされる時が、やがてやってきます。この地で揺り動かされるものは全部取り除かれていく、そして永遠に残るものだけが残されるという時が来ます。私たちはどうしてもこの世に出て行かなければならないので、いろいろな情報が耳に入ってきて、心が惑わされ、汚されていくという状況があります。だからこそ、油断せず、心を見張って祈ることが本当に大切です。

1)油は減る(伝道者の書9:8)
「いつもあなたは白い着物を着、頭には油を絶やしてはならない。」
・油断していると、油はなくなります。盗人が盗んでいこうとするからです。私たちの霊的なものを盗むために、盗人(サタンの罪への誘惑)はいつもやってきます。それにより、霊的力がなくなり、神様への霊的渇きがなくなっていることさえ気付かなくなっている。それは油が消えかかっているのです。
・もうひとつは、油は用いると減っていくということです。神様のおことばを語る時、人のために祈る時、悪霊を追い出す時、油注ぎは流れていきます。イエス様も、長血の女が触れたときに「私から力が出て行った」と言われました。油注ぎは、良いことをして人々のために仕えていくときにもどんどん流れていきます。気付いたら減ってしまって、霊的にフラフラになっている。油の補給を忘れているのです。これは危険信号です。私たちはその時に、主の前に出て主と一対一になって、神様の前に静まって自分の心を探り、主の力を内にいただけるように求めることが大事です。
 『白い着物』は、信仰の義。神様を信じることによって、“義人”、罪のない者と認められます。白は義を表します。『白い着物を着る』すなわち、聖い心、正しい良心、聖い良心をしっかり心にまとうことが必要です。そのためには、イエス様の血潮で罪を洗って悔い改め、へりくだり続けることが大事です。もし私たちが罪を見逃して、あるいはごう慢になり、へりくだることを忘れているなら、油は補給されず消えてしまいます。『頭には油を絶やしてはならない。』へりくだり、神様の前に神の愛を求めて祈ることによって、私たちの中に油注ぎがもっと流れてくるようになります。

2)油を補給し続けよう(マタイ25:4)
「賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。」
 再臨のキリストにお会いするためには、油注ぎが必要です。油注ぎがあると、「今来られる」「もうその時が近いですよ」と内なる油が教えてくださいます。
 油注ぎがあるとき、私たちがどんな働きをするとしても、そこに神が共にいてくださることによって成功させてくださいます。成功のために油注ぎを利用する、それは違います。それは結果です。すべての仕事はとても大事です。その仕事の中で、神があなたを手に取って活かしてくださることができます。そして私たちは、その中で人生のあらゆる面に対して、勝利をしていくことができます。
 私たちの目的、それは『キリストに似た者となる』ことです。この目標を持って生き油注ぎを大切にするクリスチャンに、新しい天と新しい地が永遠に開かれます。
 主がひとつでも何か悟らせてくださることがあり、神様のことが少しでもとどまることができたら素晴らしいと思います。
 万物の終わりが近づきました。今年、祈りのために、『聖い良心』を備え、『聖い油注ぎ』を大切にしながら、心を見張り、整えていきましょう。

 

 

 

 

 

■2017年1月15日 日曜礼拝メッセージより(辻和希伝道師、横路伝道師)

 聖い愛によるご計画  up 2017.1.15


主題聖句(エペソ1:5)
神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。

 

 

 

【辻 和希伝道師メッセージ】
1.神様の私たちへのご計画(エペソ1:5)
 計画とは、目的を達成するためのものです。目的がなくては、計画は立てられません。(エペソ1:5)には、神様の目的が書かれています。
 神様の目的は、私たちを神様の子にすることです。その目的達成のために、私たち一人一人に壮大なストーリーでご計画をお立てになられたのです。そのご計画のすごさを、私は教会に導かれた経緯から見る事ができます。
 私は、親族からの伝道によって教会へ導かれました。はじめは全く関心が無かったのですが、弟が洗礼を受けたことと、親族による熱心な伝道によって、洗礼を受けることを決心しました。私は自分の性格からは、当時、様々な導きがなければ教会に行くことは絶対にありえなかったと思っています。親族にクリスチャンがいなければ、弟が洗礼を受けていなければ、まさに神様の導きでした。教会に繋がったこともまた神様のご采配でした。同世代との交わりが、当時高校生だった私には不可欠だったと思っています。
 今年の教会の目標聖句は、ヨハネ6:44です。
「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。」(ヨハネ6:44)
 私は、父なる神様によって引き寄せられたことを確信しています。神様の導きであることは、その時はわからないことが多いです。イスラエルの民の歴史を、旧約聖書を通して見る私たちは、神様がどのように民を導かれたかを見ることができますが、その当時の民たちは、わからなかったことでしょう。同じように、今後神様が私たちにどのようなご計画をもって導いてくださるかは、神のみぞ知ることです。しかしそのことには大きな期待があります。二つ挙げるとすれば、
1.私たちがそうであったように父が引き寄せようとしている魂がいるということ。
2.そのご計画に私たちが用いられるということ。
 去年までの歩みを振り返ることで、神様が立てられた私たちへのご計画を知り、これからなされることに期待していきましょう。

【横路伝道師メッセージ】
2.神のご計画による救いは恵みによる(第2テモテ1:9a)
“神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるものです。”
 私たち一人一人に神様のご計画があり、人類の歴史に神様のご計画があります。私たちが主導して何かしているのではなく、神様が導いてくださっているのです。例えば、私たちがこの礼拝に出席したのも、自分の意志で来たと思いますが、神様に導かれなければ来ることはできないのです。
 私たちは神様に召し出されて今ここに来ています。私(横路伝)自身が神様に召し出された救いの証をしたいと思います。
 私は第二次世界大戦中の1942年に、今の中国の満州で生まれました。神様が私を神の子としようと選び、ご計画の中で私の人生がスタートしました。
 3才の時に、敗戦で引き揚げが始まり、命を落とす人や、残留孤児になる人も多い中、奇跡的に日本に帰ってくることができました。
 小学校の低学年の時に、村の近所のおじさんが神学校を卒業されたクリスチャンで、クリスマスには近所の子どもたちを招いて祝会をしておられました。そのクリスマスの夜の思い出は今でも鮮明に思い出します。神様はその時も私をみもとに招いてくださり、私に目を留めてくださっていたのだと思います。
 中学生時代の時は、父親に連れられて色んな神仏をお参りしていました。高校生の時には、熱心な新興宗教の友人に誘われて、勉強会に行きましたが、卒業と共に友人からも離れ、就職してからは、赴任先で別の新興宗教に熱心な友人に誘われて、集会に何度も出席しました。その頃、寮長さんに誘われて、市民合唱団に入団し、コーラスのすばらしさ、楽しさを学びました。
 その後転勤し、そこでも合唱団に入団して毎週練習に通っていました。しかし、その頃何か空しさを覚え、将来に希望を持てなくなってきた時期でした。
 ちょうどその頃、近所の知的障がいがあるクリスチャンの女性が、寮母さんのところに遊びに来ていて、「お兄ちゃん、教会に行かない?」と、寮の人たちを熱心に誘っていました。私は彼女の熱心さに負けて、つい「わかった。いつか行ってみるよ。」と言ってしまいました。これは実に神様の救いのご計画であり、神様がその方を私に遣わされたのでした。
 それから、ついにある日教会の礼拝に出席しました。私は合唱団で歌を歌っていたので、教会で歌われる賛美歌、聖歌にはテナーパートが書いてあり、これは良い練習になると思い教会に通い出したのでした。あまり良い動機ではなかったかも知れませんが、神様は合唱とまず出会わせてくださり、歌を通して教会に私を引き寄せてくださったのです。
 教会でのメッセージは良い話で、聖書の知識と道徳性は教えられましたが、初めは心に響いてきませんでした。それから途中半年くらい行かなくなってしまった時期がありました。しかし、ある日何もすることがなくて、牧師先生にお借りしていた「神との平和」というビリーグラハムの本を、そろそろ返さないといけないなと思い、読み始めました。その本により、キリスト教が今まで経験してきた他の宗教とは全く違うものであることがわかってきて、一晩で一気に本を読み切りました。それから、本を返すために、また教会に行き始め、礼拝のメッセージ、聖書の言葉が次第に心に響いてくるものとなりました。
 しかし、私は一つの疑問が心にひっかかっていました。それで、ある冬の夜の聖書研究会に出席した時、思い切って先生にその質問をしました。それは、イエス様が十字架の上で語られた、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」訳すと、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という言葉でした。
 私は、「あのすばらしいイエス様の最後が、どうしてあんなに見捨てられて叫ぶみじめな弱い姿だったのですか?もっとかっこよく息を引き取ることはできなかったのですか?」と質問しました。それに対して牧師夫人が、次のように答えてくださいました。「それはね、イエス様があのような見捨てられたみじめな姿になられたほどに、あなたの罪がとても大きかったからですよ!」つまり、『私の罪の大きさが、イエス様の痛ましい弱い姿の原因であった!』ということを語られたのです。
 これを聞いた瞬間、私は自分が罪人であり、罪のない聖いイエス様が身代わりとなり、父なる神様に完全に見捨てられたのだということをはっきりと示されたのでした。それは、聖霊の働きでした。私はその時何とも言えない感動を覚えました。イエス様が、自分の罪のために死んでくださったことを悟らされました。そして、1965年のペンテコステの日に洗礼を受けました。
 それから今日まで、神様は私を守り助け、導いてくださいました。私が神様を選んだのではなく、神様のご計画と恵みによって、選ばれて救われ、長い期間を通して神様の恵みに預かり今日に至ったのです。本当に神様の召しと愛のご計画を感謝します。

 

 

 

 

 

■2017年1月8日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 聖めへの愛の導き  up 2017.1.8


主題聖句(ヘブル10:22)
そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。

 

 

 

 今年与えられたみことばはヨハネ6:44です
「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。 」
 このみことばの説明は元旦の礼拝のデボーションノートの【内容観察】にあります。神様は聖い愛のお方であり、その聖い愛の御方が見える姿で来られたのが御子イエス・キリストです。父なる神様の愛の働きかけ導きによって私たちはイエス・キリストのもとに来ることが出来ました。そして、同じ愛の働きかけによってイエス・キリストのおことばに従っていくことができます。

<今週の主題聖句(ヘブル10:22)
“そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。” 
 私たちは「知っている」ということが、まるで「出来るようになった」と勘違いしてしまうことがあります。そして、繰り返されるメッセージに「また同じことか。」とうんざりして慢心してしまい、もう聞く耳を持たなくなってしまいます。
 しかし、何度でも語らないといけないことがあります。まだ悟っていないこと、身についていないこと、行動に移せないでいることがあるからです。
 辻先生の言われることは何度も聞いてわかっているので、私が代わってメッセージできますという方はどれくらいおられるでしょうか。この数年間愛について語っていますが、どんなことを悟り、身につけてこられましたか。
 「聖い愛について、今日はどんなことを聞けるのだろう」という興味深さも、聞いたことがないことを聞きたいという、耳新しいことにのみ関心を示すこの世の知識欲に影響を受けた、神のみことばに対する聞き方をしていると、大変な問題を引き起こし、神の子としての成長を妨げてしまいます。
 私たちが聞いているみことばは、聞いて行うこと、チャレンジすることが大切です。聞いて終わってしまったら意味がありません。ですから、聞いたことがあるというだけで、心を閉ざすのではなく、どれだけ実際に身についているかを考えてみてください。
 私も去年一年「聖い愛」についてメッセージをしてきましたが、振り返ってみる時に、どれだけかけ離れているか、ふさわしくない自分であるかを気付かされます。
 この世の中で影響された生活をしている私たちは、「聖い愛」に関わりふれることがいかに少ないことでしょう。ですから、聖い愛を求めて次に導かれていくことが必要です。求め続けてていくのです。あきらめてはいけません。こんな私たちでも、聖い神様を求めるような救いを神様は与えてくださった、ふさわしいかどうかは問題ではない、神様はこのままの今の私たちを愛してくださっている、ただそれだけなのです。
 神に愛されているということだけなのです。それで私たちはその愛を信じてついていける、これが私たちの生きる望みです。 
 つまり神の聖い愛に導かれて生きるということ、これこそが地上における唯一の望みと言えます。
 そして「神様の聖い愛は、さらに私たちを聖めへと導いてくださる」というのが、今日のメッセージのポイントになります。
 「心に血の注ぎかけを受けて、きよめられ」とあります。私たちは自分で自分をきよくすることはできません。神様の愛の働きかけによってのみ良心はきよめられます。また、「からだをきよい水で洗われたのですから」とは、洗礼を表します。
 私たちは洗礼を受けて洗われたのですから、「全き信仰をもって、真心から神に近づこう」とあります。私たちは全き信仰は持てません、しかし、「愛する」ということが、真心を生み出すのではないでしょうか。
 その愛に動かされて、こんな私でも神様についていこうというその心が、全き信仰と言えると思います。
 私たちは完全、落ち度がないと捉えてしまいますが、そうではありません。神様の愛によれば、自分にもできるのではないか、神様の愛によって私は造り変えられて、イエス様の御姿に近づけてくださることが出来るのではないかという望みを、神様のみことばを通して持っていくのが信仰です。
 神様がこのような自分をも変えてくださって、出来るようにしてくださると信じて、あきらめないで神様に従っていこうという思いが神様への愛の表現ではないでしょうか。
 「神様に近づいていく」とは、このように神様の愛に導かれていくということだと思います。

1.『聖い愛』の臨在の中へ(ヘブル10:19)
「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。 」
 これは神様の罪の赦し、救いに対する神様の手続きがはっきりと終わっているという証明のために話しておきたいと思います。
 私たちの行いや現状によってではなく、イエスの血(神様が私を愛してくださったその愛)を信じることによって大胆にまことの聖所に入ることができるのです。
 ですから愛されていることを疑ってしまったら、神様に近づくことはできません。愛は信じることを通して受け止めることができます。この神様を愛していますということを行いで証明することは大変むずかしいことですが、神様の愛を信じているという姿勢をしっかりともっていただきたいと思います。
【内容観察】
A)「こういうわけですから」
 これは旧約聖書のいけにえの制度の説明と、イエス・キリストを重ねて説明しています。本物ではないから一時的なものとして、本物がくるまでの前触れとしていけにえの儀式を示しておられたのが、その本物とはイエス・キリストだということです。

B)「わたしたち」
 神の愛であられる御子イエスキリストを信じているものたち。

C)「イエスの血」
 私たちを愛して、私たちの罪を贖うために、罪を贖ういけにえとして十 字架でいのちを神に捧げられたことの証であるイエスの血。
 すなわち、神が私たちを愛してくださっていることのしるし。
 十字架はすべての人を対象として公に示された救いのしるしですが、個人的に救いを受けるためには「信じる」ということが必要です。「信じる」ことが条件となります。
 その理由は、「愛」に関係します。神様は私たちに愛を注がれました。その愛を受け止めるとめには信じることが必要です。愛されてもその愛を信じなければ、愛はその人のものとはならず、無関係になってしまいます。
 けれども、信じるなら罪のための赦しはその人のものとなります。それゆえ罪の赦しはすべての人に与えられていると言えるのです。
罪のためのいけにえは「愛」なので、信じなければ成就しないということです。
 福音は広告です。信じて買いに行けば与えられる(救われる)のです。
私(辻師)はこの聖書という神様の福音を聞いた時に買った(信じた)のです。そして、その救いが自分のものとなりました。神様を愛する人々を神様は聖いと見てくださっています。現状が罪人の私でも神様は聖いと見てくださいました。それがスタートです。今も神様との交わりの中で、神様を深く知るようになってきていることに感謝しています。

D)「まことの聖所」
 至聖所のこと。神の臨在が現れ、神が語られるところ。
 旧約時代は、年に一度だけ大祭司だけが入ることができた。
 直接神の臨在に触れ、神からの導きのことばを聞くことができる場所。
 場所ではなく、時間と空間を超えた霊的な神様の臨在です。個人的に神様の聖なる領域に魂が導かれる引き寄せられるという体験があります。
 また同じ集会でも、全員が神様の臨在を感じることもあれば、個人的に感じることもあります。神様の臨在の中に浸ることができる、それは単に気持ちがいいというのではなく、至聖所の臨在の特徴は神様のみことばが聞こえてくるということです。神様の導きのみことばが語られ、聞こえてきて、これが自分に与えられる神様の人生の導きの声となります。単に、癒やされた、平安になったという段階は、まだ至聖所ではありません。そのところで、みことばとして、これは神様が自分に語られたとはっきり知ることができるようなみことばや勧めなど心に染みるような諭しや啓示が与えられます。聖書のみことばとして語られることがあったり、幻として与えられることや色々な形で語ってくださいます。それが至聖所の状況です。ですから、今私のメッセージを聞いていて、今日はこのことが私に示されていると感じている人がおられるなら、その人は至聖所に入っていると言えます。
 この4つの部分に分けて、聖い愛の中に私たちは罪人でありながら入ることができるとわかります。

【デボーション参考ポイント】
どうして、イエスの血が私たちの良心を聖めるのでしょう。
 2008年11月に上映された映画に「豚がいた教室」というのがありました。豚の世話をしていた6年生の子供達が、最後に「食べるべきか」「飼い続けるべきか」を決めるというものです。最初は不慣れであった豚の世話も一生懸命するうちにかわいくなっていきます。通常は生後6ヶ月で豚は食べられてしまいます。体重は半年で100sにもなるそうです。そこで、食べるべきか、飼い続けるべきかを、子供達は本気で論争していきます。
 どうして2つの意見に別れたのでしょう。ある人の解説では、豚を飼ったことで愛情が生まれて、まるでペットのように、愛らしく思うようになると殺すことができなくなります。食べるべきと主張する子供達は、食べるために育てたのだから最後は食べるべきと考えます。一匹の豚に愛情を感じた子供達はこの豚だけは殺して食べたくないと思い始めます。
 愛情が生まれると良心がきよめられ、殺したくないという気持ちがでてきます。何物に対しても愛情が生まれてくると良心が芽生えてきます。大事にしたいと思うようになります。イエスの血が私たちの良心をきよめると聞く時、ただ生臭い血を思い浮かべるような人は良心がきよめられることはありません。
 その血がどんな血であるのかを理解して初めて、イエスの血によって良心がきよめられるという現象が心に起こってくるのです。
 夫婦の間でも親子の間でも同じです。家族という愛情が強く働く時は、良心的な判断をし、相手を赦すということができます。しかし愛が弱くなると、損か得かで判断してしまいます。愛が良心をきよめる働きをし、正しい善悪の判断ができるようになります。
 イエスの血が良心をきよめるというのは、どれだけイエス様が私たちを愛してくださっているかがわかってくると、その愛の象徴である血潮を汚さないようにと、きよい良心を働かせることができるようになります。だから、十字架は私たちが生涯仰ぎ見つつ、それに近づき、その下にひざまずき、その十字架を思いみて、そこから流れてくる御霊の啓示による神の聖い愛に触れていくということを通して、私たちの良心は生涯きよめられていくのです。一度だけではありません。ゴールはキリストの再臨にまで続きます。今もイエス様の血潮による良心のきよめが続いています。それゆえ、礼拝では、いつも十字架が歌われ、語られます。それを思い浮かべながら神様の愛の表れであるひとり子イエス・キリストの犠牲を通して、いかに私たちが愛されいるかの愛をしっかりと心に刻みつつ、また新しい一週間を始めるというために、礼拝の集まりがあります。

2.『属毛離裏』(ヤコブ1:18)
「父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。私たちを、いわば被造物の初穂にするためなのです。」
 この初穂とは聖別という意味で、神様のもの属するものにするということです。被造物のなかで聖別された神に属するものになるということです。
【デボーション参考ポイント】
A)「生む」ことのプロセスを考えてみましょう。
 生むにいたる人格の相互関係のプロセスです。出会いがあり、何らかの結びつきの愛が必要になります。そこにいたるための人格的ふれあいを考えてみましょう。
 愛が生まれない限り生むにいたりません。愛にいたるためには出会い、心の結びつきがあり、生涯をともにするという決心をします。
 神様が私たちをお生みになられたということばの中にはどれだけ神様の苦労が含まれているでしょうか。私たちは神様のことを知らないで生きてきました。しかし、神様は私たちが生まれる前から愛してくださっていました。その片思いの愛を伝えるためにいかに苦労してくださっていることでしょう。神様は決してあきらめない愛を持って愛してくださっていることがわかります。

B)「真理のことば」とは、誰のことですか?(参照ヨハネ1:1-14)
 イエス・キリストのことです。イエス・キリストのことば、神のことばによって私たちは生まれました。奇跡やしるしによってでは、神の子にはいたりません。神の愛のことばによって、私たちは生まれるのです。人はことばの動物であると言われます。ことばによって、色々な影響が心に与えられます。特に「愛」ということばによって、色々なことばの表現が生まれてきました。
 しかし、単に進化した動物としてしか自分を考えられないなら、愛とはことばではなく、触れてしか感じられず、欲望の愛しかわからなくなってしまいます。
 神様の真理のみことばとの交わりによって、私たちは生まれてきた神の子どもです。

C)「みこころのままに」とは、どういう意味ですか?
 神様、あなたの御心のままに好き勝手にしてくださいということでしょうか?無条件降伏でしょうか。それでは、神様の御心は何でしょうか。それは聖い愛です。聖い愛以外ではありません。悪意とか欲望とか傲慢さとかが一切ない純真な愛のままにという意味になります。この聖い愛に全く自分をゆだねられるように人生を歩んでいきたいものです。神様はこの聖い愛によって私たちを子として受け入れ認めてくださいました。このような罪人を我が子と呼んでくださるのです。
 
 このような聖い神様の愛を求めながら、その聖い愛に導かれる一年としていきましょう。

 

 

 

 

 

■2017年1月1日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 聖い愛に導かれて  up 2017.1.1


主題聖句(ヨハネ6:44)
わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。

 

 

【内容観察】
わたしを遣わされた父なる愛の神が人々の心にご自身の愛によってその人の心を動かされない限り、だれも御父の愛そのものであるわたしのところに来ることはできません。わたしはもう一度この世に来るときにその人を永遠の神の国へ入れるようによみがえらせます。

 上に挙げた聖句が、今年一年の主題になります。聖書を実際に記したのは人間ですが、そのおことばを与えられたのは神です。神様のお気持ちを深く知っていくほど、聖書のおことばの裏側に潜んでいる神様のみ思いが見えてきます。相手の気持ちを知って文章を読むのは大事なことです。
 世の中には言葉の端を取り上げて批判する人がたくさんいます。しかし私たちクリスチャンは、お互いの交わりの中でも相手の真意をよく知って、言葉だけで捉えることがないようにしましょう。
 教会に来なくなる人で、人につまずいている場合があります。クリスチャンをイエス様に近い人と思いこんでいるので、神様の愛を大事にしていると思えないところを見てしまうと、「クリスチャンもやはり建前で生きている。世の中と変わらない。」と希望を失ってしまうのです。
 ここで最初に申し上げておきますが、クリスチャンになるのは非常につらいことで、難しいことです。世の中は、豊かになり便利になり、楽して怠けて自分の欲望、願望を達成するという価値観です。それに影響された主観をもっている人は、神様の愛がわかりません。愛がわからない人は、欲で心が縛られている人です。
 それに対して、聖い愛が私たちの目指すべきものであり持つべきもの、大事にしていくものです。

1.『引き寄せる』とは?(ローマ8:14)
“神の御霊に導かれる人は、誰でも神の子どもです。”
【内容観察】
「神の愛である御霊に引き寄せられて生きる人は、だれでも愛の神の子どもです。」
★ギリシャ語からの意味
 「手元に引き寄せる」がもとの意味
 〜が〜をある方向や場所に引っ張る、引き寄せる
 〜を引き出す(刀を抜く時の表現にも使用)。取り出す。
 今年のモットーの一番中心はこの「引き寄せる」です。神の霊は神のおこころそのものです。そのおこころは愛であり、この愛が万物を創造されました。上のみことばにある「導かれる」は「引き寄せる」と違うギリシャ語なのですが、意味あいとして同じものなので挙げてみました。「導かれる」と「引き寄せられる」を置き換えて、読んでみてください。
 ちなみにヨハネ伝以外では、「引き寄せる」の原語はほとんど使われていません。ヨハネが御霊によって、イエス様のみことばの中に「引き寄せる」という単語を用いたところに、神様のみ思いを伺い知ることができます。

○隠喩される時の意味
 内なる力によって引き寄せられる
 導く、案内する、先導する、指揮する
 かりたてる、押し進める、〜を促す
 なぜ「引き寄せる」という単語が用いられたのか思いを巡らせながら、この一年を過ごしてみましょう。

【デボーション参考ポイント】
「神の愛に引き寄せられ(導かれ)て歩むとは、具体的に何をすることでしょうか?」
 神様の愛に引き寄せられるには、それに魅力を感じていることが必要です。いろいろな形の愛が世界中にある中で、神様の愛に関心がある人というのは、神様からの働きかけがあった人です。それなくして神の愛に引き寄せられることはありえません。なぜなら、キリストは見えない神の愛が見えるかたちとなられたお方だからです。「キリスト以外にも愛がある」と言う人は、本当の愛であるキリストを知らないとも言えます。(本当の)愛は神から出ていると聖書にありますが、私たちはその愛に対してもっと興味を持って生きるべきだと思います。
 外国の話ですが、ある13才の少女が骨肉腫になりました。それから1年ほどで彼女は召されたのですが、病室で寝たきりの日々を送っていた頃、母親の悲しい顔を見た少女はこう言いました。「お母さん。どうしてそんなに悲しい顔をしているの?私は十分幸せよ。」
 彼女はあとどのくらい生きられるかということに対して、どう生きるかを真剣に考え、家族が愛によって結ばれていることが一番大事だと悟ったのでした。お金も能力も持って行けないけれど、愛だけはどんな人もどこにでも持って行けます。
 聖書では愛は永遠だと書いてあります。私たちが唯一持っていけるのが愛なのです。彼女はそれを悟って、「人々にこんなに愛され、また愛を返すことのできる自分は本当に幸せだ。」と心を愛で満たされ、「もしこの状況がなければ、このことを知ることはできなかった。」と考えるに至ったのです。
 人の生きる喜びは愛を知ること、特に苦しみの中で知ることです。少女は一年の闘病生活でそれを悟りました。苦しみの中にすばらしい愛があります。それを聞いて教えられた母親はもう悲しい顔をせずに、残りの日々を精一杯交わりを持ち、悔いのない人生を送れるようにと家族が一致団結したというお話でした。
 この人々はノンクリスチャンですが、人は元々神に似せて創られているので、未信者でも愛や真理や正義を求めるのは当然であり、いわば人の本能です。苦しみを通して眠っていた本能が引き出されてきます。正に、進化ではなく創造されたからこそ、そのような思いやさとしがもたらされるのです。
 私たちはキリスト教という「宗教」で金儲けや楽をするために信じたのではありません。
 私たちは愛が大事だと道徳的にはうなずきますが、ならばなぜ捜し求め追求し実行しないのでしょうか?それらは山の中での修行ではなく、人々の間に入ってなされていくものです。人間同士のコミュニケーションにおいて、内なるいやなものも汚いものも良いものも引き出されてきます。それは罪のかたちと神のかたちです。そして私たちがどちらに目が開かれるか、です。神を認めない人は欲望にしか目が行きません。愛を欲の一つと見る人もいますが、私たちの言う愛は感情的な心を満たすものではなく、神そのものです。神様というすばらしいコミュニケーションを持つことのできる人格者を得る、ということなのです。
 いつくしみ深き友なるイエスという歌がありますが、友とは人間関係において最も近しいものです。愛は感覚や感情ではなく人格なのです。あなたを堕落させる愛は欲望の愛であり、あなたを立派に立ち上げ人格を形成し徳を高めていくような愛は神から出た愛です。愛は人の徳を建てる人格的働きかけをします。
 私たちが信じている神様は愛の神様だと聖書に書かれています。そして愛はこの神様から出ているのです。私たちが知るべきことは愛であり、この愛の源であるきよい神様(愛)を知ることが、私たちの生きている目的であり価値であり、意義です。特に苦しい時にこそ、一番輝く美しい愛を見いだすことができるチャンスだということを、世の中の様々な人生を通して見ることができます。
 クリスチャンでなくても、人が神のかたちに似せて創られている本質は現れてきますし、あなたの中にも必ずあります。「〜が足りない」と不平不満ばかり言うのは、心が欲にとらわれているからです。私たちはたとえイエス様のように33年半の人生に苦しみと悩みばかりだったとしても、その先には必ず神の国という愛にあふれた永遠の御国があり、愛を基とした永遠のご計画が待っているのですから、楽しみがあります。
 天国は飲み食いだけのところではありません。神の国は、愛があって生きがいのあるものですから、必ず永遠の人生に対するあなたの目的、仕事、やりがいのあるものが用意されています。愛があふれ、愛が輝き、愛に生きる喜びをもっと全うするために、神様のご計画があります。天国は終着点ではなく永遠への出発です。そのための準備として今、私たちは罪の世の中で矛盾や理不尽に囲まれながら、愛によって生きることを学んでいます。どれが本当の愛かを見いだすチャンスとして、この人生が与えられているのです。
 そういう愛に引き寄せられて歩むとは、具体的にはどうすることでしょうか。それを知るためには、この愛を絶対に知りたいという飢え渇きが必要です。お金、自己達成、自分の願いや欲望を満たすことより、愛がもっと大事という思いです。お金を使うにも愛があれば使い方が変わります。結婚するにも愛があれば夫婦は変わり、家庭も変わります。愛があれば仕事のやり方も変わります。愛はあなたの生活すべてに影響を与えるのです。
 ですから、教会でしか教わることのできないこの聖い愛にもっと興味を持っていただきたいのです。そうすれば、具体的に何をするかが自分でわかってきます。

2.導きを妨げる『尋章摘句』(ヨハネ5:39〜40)
“「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたはいのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」”

◎『尋章摘句』(じんしょうてきく)の意味
「枝葉末節にとらわれて、文章全体の理解が不足し、意味が通じないこと。
つまらないささいなことばかりにこだわって、広く全体を見通した、ものの見方ができないこと。」
 神様の愛の働きにおける導きを妨げるのは、枝葉末節にとらわれる心です。人を理解するのにも、細かい一つ一つの言葉より全体としてこの人は何を言いたいのかをつかまない限り、誤解を招いてしまうものです。
 上のみことばは、聖書の専門家であるユダヤ教の律法学者や祭司たちに語られたものです。彼らは言葉の一つ一つを丁寧に調べ、意味を理解していました。
 ところで聖書というものを全体的に見ると、イエス様(見えない神の愛の見えるかたち)について証言している書物なのがわかります。いろいろなルールが記されていますが、それらはすべて神様の愛を知るためのものです。ところが専門家たちは、「規律を守らねば罰せられることにしか目を向けませんでした。なぜルールや裁きがあるのか、神様の全体の思いや考えを見ずに細かいところばかりつついていたのです。
 一生懸命勉強するのは良いのですが、全体を見抜いていないために、イエス・キリストが神から遣わされた救い主であるということに対して心が開けませんでした。「大工の息子だろう?」「ナザレから何の良いものが出ようか」
 イエス様の育った地はナザレですが、部族はユダ族、お生まれになったのはベツレヘムです。イスラエル民族は神様のご命令によって部族ごとに地所を決められており、絶対にそれを移してはならないというルールを持っています。それぞれの戸籍は固定されているので、ローマ時代の戸籍登録の際にヨセフは妻マリヤと共に自分の本籍地に帰ったのです。預言にある救い主はベツレヘムで生まれるので、神様はあらかじめこのように定めておられたのです。モーセに率いられてエジプトから出て来てカナンで土地を分ける時点で、既にそれが定められていたとはすごいことではありませんか。
 聖書を大きな視点から見ると、神様の深いご計画に驚かされます。全体を見失わないようにしましょう。
 たとえば神の命じられた「聖絶」は、その場所に生きるすべてを根絶やしにすることで、それだけ見ると神様の愛はわかりません。「神は愛である」という原則から全体を見直していかなければならないのです。

【デボーション参考ポイント】
「聖書は『神を愛することと、隣人を愛すること』を教えています。聖書全体を通して私たちへの神様のメッセージは何でしょう?」
 今年一年をかけて、学んでいただきたいと思います。「わたしを遣わした父が引き寄せられない限り、誰もわたしのもとに来ることはできない。」導く、引き寄せる働きをされる神のみ思いは何でしょうか。聖書全体からのメッセージのヒントになるのが今年の目標聖句です。見える愛であられるイエス・キリストを遣わした父が、手元に引き寄せ導かれない限り、聖い愛によって人々を動かされない限り、誰も聖い愛がかたちとして来られたイエス・キリストのところに来ることができません。
 皆さん、お時間がないのは重々承知です。一年一回の通読をしなさいとは言いません。ともかく読み続けてください。そしてぜひ全体を把握していただきたいと思います。

「キリストの 愛を知るのが お年玉」

 私たち大人はお年玉をもらうチャンスがもうあまりありませんが、キリストからのお年玉「愛」を、この元旦からいただいて、この一年を過ごしていただきたいと思います。そしてまた、来年の元旦も愛のお年玉を成長に合わせて増額していただけるように。
 子どもは現金なもので、お年玉をもらった時だけ大喜びで後は知らんふりだったりしますが、私たちはそれに習わないようにしたいですね。