■2016年12月25日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 心をいやす愛  up 2016.12.25


主題聖句(マタイ12:21)
異邦人は彼(メシア)の名に望みをかける。

 

 

 

 22歳で結婚したある男性がいました。28歳で会社を立ち上げて成功し、順風満帆の中、35歳になった時に働き過ぎたためか胃に癌が発見されました。今までやってきたことは一体何だったのかと暗い気持ちになり、二年間闘病生活を続ける内、会社自体も傾いてきて、大きな借金を抱えるまでになってしまいました。
 その年のクリスマスの時期、彼はもう何の希望もなくなり、年が開けたら死のうと決心しました。そんなことを知らない奥さんと子供たちは、今日はクリスマスだから、クリスマスパーティーをお父さんと一緒にしようと準備しました。しかし貧しい中、ケーキではなくどら焼きにローソクを灯し、シャンパンの代わりにコーラという状態でしたが、お父さんと一緒なので、子供たちは大喜びではしゃいでいます。その様子を見ている内に、自分も今のうちに子供たちと過ごせる時間を大切にしようと決心して、彼はその日を精一杯子供たちと楽しみました。
 子供たちが寝た後、奥さんと二人きりで小さいテーブルを囲んでいた時、奥さんはしみじみと言いました。「あなたはどう思っているか知らないけれど、私は今が一番幸せよ。」
 この一言を聞いた時、彼は何とも言えない温かい気持ちがこみ上げてきて、「ありがとう。ありがとう。」と何度も繰り返して言っていました。そして、いつの間にか、死にたいという気持ちがなくなっていたのです。
愛は人の心を癒やすのです。その愛の心が落胆し失望している心にどれだけ生きる希望と力を与えることでしょうか。

「異邦人は彼(メシア)の名に望みをかける。」(マタイ12:21)

この箇所はイザヤ書から引用されています。数百年も前にこのメシアの預言が語られていました。

【内容観察】
全世界の人々は、創造主である愛の神が遣わされた救い主の名を信頼して心が癒され、その教えに望みをもって聞き従うようになる。

 なぜ、イスラエルの神と言われていた神を異邦の民までも信じるようになったのでしょうか。それは「救い主」といわれる意味と関わります。
 人にとって人生とは何なのでしょうか。神は愛なるお方です。その愛なる神に似せて私たちは造られました。それは、金儲けのための人生ではなく、自己満足や自己達成のための人生でもありません。私たちの人生は愛を知るための人生なのです。私たちはこの愛を聖い愛と表現しています。すべてのものを創造された父なる神の愛であり、欲望に決して負けない愛、愛する者のために自分を捨てる事のできる愛です。その愛を伝えるためにイエス・キリストはお生まれになりました。この方がお生まれになったことによって私たち人類に希望が与えられました。
 人は死ぬために生まれてきたのではありません。信じることのできる愛があります。いつまでも変わることのない聖い愛があるということを、キリストの御降誕を通して神は明らかにされました。

1.『帯礪之誓』(第1ペテロ1:24-25)
「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。
しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。」

『帯礪之誓』(たいれいのちかい)の意味
何があっても絶対に変わることがない固い誓いのこと。
功労のある家臣に天子が誓う言葉で、いつまでも繁栄させることを約束する言葉。

 天子、皇帝が言われる言葉は決して変えられることはありません。天皇陛下がテレビで語られる時、ゆっくりと言葉を選びながら語られます。それは、天皇という地位ゆえに軽々しくその場しのぎのおことばを使うことはできないからです。
 神様のおことばはそれ以上にいつまでも決して変わることがないのです。神様のおことば一つ一つは私たちへの固い愛のことばです。天子、皇帝が語る以上にそれは固い約束のことばであり、決して変わることはありません。
 ことばの意味が否定されたり約束が否定されると、相手の信頼を失います。しかし、聖書のおことばは決して変わることがありません。
ことばの意味が否定されたり変わってしまうと信頼を失います。信じるという愛は試されてこそ確認されるのです。相手が裏切ったり、心が変わったりしても、信じる愛は決して変わりません。神様は私たちがいくら変わっても、私たちの弱さを理解してくださり、約束を守り通してくださいます。その神の愛の強さは、イスラエルの人々がいくら堕落しても決してあきらめず、長く導いておられる様子を旧約聖書を読むことによってわかります。
 イスラエルの民の血筋は、5千年も絶えることなく守られ、今も続いています。このような民は他にはなく奇跡としか言えません。これはイスラエルの先祖に誓われた約束を少しも違えることなく、神様が守っておられることの証拠です。神はイスラエルの歴史を通して全世界にご自身の愛が決して変わらないことを示してくださっているのです。

2.変わらぬ愛は救い(エレミヤ31:3)
「主は遠くから、私に現われた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。」

【内容観察】
罪人のわたしにとって遠く感じられる聖なる愛の神は、罪深いわたしに現れてくださった。「永遠に変わることのない愛をもって、わたしはあなたを愛してきた。だから、あなたの心がどのように変化しようとも、あなたへのわたしの愛は変わることなく、必ずあなたはわたしを愛するようになると信じて真実を尽くし続けてきた。」

 このみことばは私の好きなみことばのひとつです。
 神様の「真実を尽くし続けてきた。」とはどのような意味でしょうか。
私たちの願いをすべて叶えることではありません。親が子供を躾けるように、あえて苦しみや困難を与えられることがあります。その逆境を通して気づくことがあります。あなたの労苦や苦しみは真実を知るためです。
病気になって初めて健康のありがたさがわかるものです。
 はじめに紹介した男性は、家族の為と思ってずっと働き続けてきました。しかし、その時間は仕事に費やされていました。病気になって、初めて家族との時間を共に過ごすことによって、彼はその時間がいかに貴重で素晴らしいものであるかを悟ったのです。絶望を通して、妻の本心を初めて悟ったのです。
 失敗や苦しみを通して神は聖い愛を見い出せるように、真実を尽くしてくださっています。
 変わる愛は人を傷つけ滅ぼします。しかし、この変わらない愛は人の心を癒やし、心の重荷を取り去ります。
 あなたの大切な家族や友人達とお金や損得でつながっていないでしょうか。大切なのは変わらない愛です。
 永遠に変わらない愛があることを、神はキリストを通して全世界に伝えておられます。この神様の御心がひとりひとりにしっかりと伝わりますようにお祈りいたします。

 

 

 

 

 

■2016年12月18日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 兄弟愛は聖い愛から  up 2016.12.18


主題聖句(ヘブル13:1)
兄弟愛をいつも持っていなさい。

 

 

 

【兄弟愛】の意味(ギリシャ語=フィラデルフィア)
 兄弟の間の情愛から、さらにひろく家族など同一集団を結合する情愛、人間全体を一つの家族として包み込む人間相互の情愛。

 今日の短いみことばの中に、いろいろな思索が潜んでいるように思います。「いつも〜持っていなさい。」とは、保っていなさい、失わないでいなさい、すなわち意識していなさいということです。
 
 兄弟愛が打ち壊されてしまうような世の中で、クリスチャンも同じようにうわべだけの兄弟愛で過ごしていないでしょうか。うわべだけ、形だけになっている可能性があるので、兄弟愛をいつも意識しているようにと言われていると思うのです。へブルの書簡が書かれた時、それだけ兄弟愛の真実味が失われていたということですね。
 
 兄弟愛の原語「フィラデルフィア」ですが、米国にフィラデルフィアという町があります。その町は「貧富も人種も関係なくみな兄弟である」との理念から、差別のない平等な暮らし」を掲げて、先住民であるインディアンとも争わずに平和を保った町として有名です。
 私たちが兄弟愛を持つことができるために、お手本はやはりイエス様です。今まで学んできた徳目の愛を一つ一つ私たちに注いでくださいました。その愛に触れ、私たちは自分の内にそれらの徳目を実らせていくことができます。兄弟愛も、神様は私たちに注いでくださっています。

1.愛の神から教えられる『夜雨対床』(第1テサロニケ4:9)
“兄弟愛については、何も書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちだからです。”

◎『夜雨対床』(やうたいしょう)の意味
兄弟が相思う心情。兄弟関係や、友人関係が良好で、仲むつまじいことのたとえ。
【内容観察】
「キリストにあって互いに思い合う兄弟愛については、あなたがたに何も教える必要がありません。なぜなら、あなたがたの相互の愛は、人間的な、人間による愛ではなく、御霊によって、神から教えられている、自然な愛の行為だからです。」
 
 「愛されて育つ」ことは、決してわがままに育つことではありません。未来に備えて愛情をもって忠告をし、助けを与え、励まし、ある時は叱責する、そういう愛によって育てられていくのです。

 このような親の愛を理屈ではなく心で受け止めた人は、どのように人を愛し育てていくかを、自らの体験を通して自然に行うことができます。逆境の中でそんな愛を受けなかった人も、そういう愛を探し求めているならば、すばらしい良い人々との出会いを通して、愛を表していく立派な人になることもできます。

 反対に心を歪めてしまうと、どんなにすばらしい親の元で育っても、どんなにすばらしい人との出会いも、すべてを自己中心に受け止める被害者意識で生きていく限り、愛のない人生になってしまいます。

 私たちは神様からどのように愛されているか、というのがわからなければ、愛のない人生になります。それはご利益宗教と同じです。日常の何気ない事柄から神様の愛を見つけて感謝していくことはとても大事です。私たちの神様は祈りにこたえてくださる時もそうでない時もありますが、私たちがわがままにならないためにそうしてくださっているところが、本物の神様であることの証拠だと思います。

 人は自分の愛する者に好かれたいと思うものです。だから愛する者の願いをかなえたいと思います。しかし、願いを聞くことが相手のためにならない時には、心を鬼にして願いをかなえない時もあります。私たちの心が欲望に振り回されないで正しく判断して自制心を強く育てるようにと、神様が祈りにこたえてくださらない時もあるのです。

 兄弟愛は人間的な人情ではなく、神の家族としての情愛をもって接していくことを心がけましょう。また一方で、私たちが神様に「赦されている」存在であることもとても感謝なことです。わがままを通させていただいていることは恵みです。私たちが自分のわがままを通す時、父なる神様はどんな思いをもっておられるでしょうか。神様との心の交流を通して、単に願い事をかなえてくださる神としてでなく、兄弟愛・家族愛をもって私たちを愛してくださっていることにも心を向けることが必要ではないでしょうか。

 神様は兄弟として、私たちのいろんな心を見抜きながら、考えながら、その関係を良い関係として保ち続けるように、神様の方で加減してくださっています。親が子どもに手加減するように、神様も未熟な私たちに手加減されます。私たちはこの方から兄弟愛を学んでいくのです。

 そのためにまず、神様がどんなに私たちを愛してくださっているかという神の兄弟愛と、それが私たちの人生にどのように現れているかを見極め、それに気づくように、祈りの中で神様との交わりを進めていただきたいと思います。

2.真理による清め(第1ペテロ1:22)
“あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。”
 真理に従うこととは何でしょうか。ペテロは漁師たちの頭で、腕っぷしも強く、体格も大きかったでしょうが、イエス様が十字架にかかられる時には恐怖のためにイエス様を知らないと否定する心の弱さをもった人でもあります。その心の弱さを抱えながらも、ペテロは真理に従うことによって強められ、最期の時には逆さ十字架の刑さえも受け入れるほどに強くなりました。

 聖書にはいろんな真理が記されています。私たちは真理について語る時、どうまとめるでしょうか?ぜひ考えておいてください。

 私個人としては、「神が罪人である私を愛してくださっていること。」と思っています。神も真理、キリストも真理、御霊も真理であり、すべての真理の源は神です。神の存在そのものが真理と言えます。しかし私個人としては、「神様の愛なくして罪深い私の今はありえない。私の存在は神の愛によって支えられている。」というのが真理に対する悟りです。

 皆さんも神様の前に祈り求め、真理に対して開かれていただければと思います。この「神様に愛されている」ことに従うことによって、聖められていきます。「今どんなに罪深くても、神は私を愛してくださっているんだ。私を見捨てておられない。こんなに罪を犯し、失敗も多く、自己中心でわがままが残っていても、神は変わらず私を愛してくださっている。」と信じて従うことによって、悪から離れることができます。

 私たちは何回か失敗するとあきらめてしまうのです。「神は私を赦してくださっている…かもしれないけれど、私は信頼され愛され続けるような存在ではない。」と自分で自分を判断しあきらめてしまいます。しかしそれは真理に従うことをやめてしまうことになります。

 真理に従うとは、今あなたがどんな状態であろうと、神は変わらず愛してくださっているという真理に従うことです。「それでも神は私を愛してくださっている」とわかってくれば、少しでもよくなろうと思うのではないでしょうか。それが真理に従って聖められるということです。

 神様は愛をもって親としての責務を全うされ、私たちの面倒を最後までみてくださいます。人の親よりもずっと親身になって、失敗したり反抗したり横道にそれる私たちをご自身のもとに引き寄せようと、立ち返るように悔い改めるように、愛情・助け・忠告をしてくださいます。この神様の愛あってこそ、私たちは聖められていくことができるのです。

 私たちは感情面で、「神様は本当に私を愛し続けてくださっているのだろうか?」とかっとうします。しかし真理は感情ではなく、十字架に現わされた罪人に対する神の愛による救いです。神の愛は最後の審判が終わるまで変わらず、私たちが救われるようにと愛情を注ぎ続けてくださっています。

 もうすぐクリスマスですが、イエス様が肉体をもって降誕された理由は2つあります。一つは、私たちの肉に宿っている罪を罰するには、罪のない肉体をもって贖い、身代わりの裁きを受けることが必要だったからです。

 もう一つは、「わたしはあなたの兄弟だよ。」と言うためでした。私たち人間は肉体をもっている者ですから、同じ立ち位置に立って、「わたしはあなたを兄弟だと思っているよ。」と肉体を通してそのことを証してくださっているのです。肉のかたちをとって来られたことが、私たちへの兄弟愛なのです。

 もし私たちの親類縁者に犯罪者を抱えていたら、その人をどう思うでしょうか?人に隠したり縁を切りたくなるのではないでしょうか?しかしイエス様は、私たちを兄弟と呼び、私たちから兄弟と呼ばれることを恥ずかしいとは思われなかったどころか、歓迎してくださるのです。

 イエス様は私たち見知らぬ者同士、この世では何の関係もない者同士がつながれるように抱き寄せて、「わたしたちは家族なのだよ。」と言ってくださいます。キリストを信じ、神様の愛を信頼する人はみんな神の家族です。私たち弟妹のために長子イエス様はわざわざ私たちの罪を身代わりに受けるために肉体をもってこの地上にお生まれになり、33年間一つも罪を犯すことなくお過ごしになりました。イエス様を私たちの罪の贖いのいけにえとしてふさわしいものと神は認められて、33年目に十字架で身代わりの裁きをお受けになりました。そういうすばらしい長子だからこそ、イエス様はよみがえらされたのです。人の罪を負われましたが、イエス様ご自身は何の罪もないお方だったので、神が3日の後に罪の処罰は終わったとしてよみがえらされ、イエス様に罪がないことの証明をされました。その心は兄弟を愛する愛による身代わりの裁きでした。責任を負ってくださったという兄弟愛をイエス様は示してくださいました。

 この真理を通して、私たちも神様の愛を知ってお互いに愛し合うように努めていきたいと思います。たとえけんかしても兄弟です。もちろん、仲の良い兄弟は傍から見てもほほえましいものですが。

 あるペットショップにペットを買いに来た人が、一匹分の予算しかなかったにもかかわらず、仲の良い兄弟を引き離すことがつらくて2匹とも買ってしまったそうですが、人の心さえ変えられるのであれば、神様はなおさらです。(詩133篇)に語られたほどに、神様はそれを祝福したくなります。私たちがお互いに赦し合って神の家族として仲良く過ごすことを非常に喜ばれて、心をすっかり変えてしまわれるほどです。

 赦し合うことは、神様に一番喜ばれることです。理由がきちんとあるから赦すのではなく、「神が私たちを赦してくださったのだから」という理由で赦すことです。「あの兄弟も姉妹も神は愛され、その罪を赦してくださった。だから、私たちも互いに赦し合いましょう。」、それが「兄弟愛を深めましょう」という意味なんですね。

 互いに愛し合いなさいというこのことばを、いつも持っておきましょう。互いに愛し合いなさいを実践するのは、兄弟愛です。いつも忘れないように心がけ、大事にしていきたいですね。
【内容観察】
「あなたがたは、聖い愛の神から愛されているという真理を知ったことによって、神の愛に動かされるたましいの清めを受け、形式的な見せかけの互いの関係ではなく、神によって新しく生まれた者、神の家族としての兄弟愛を抱くようになったのですから、これからも、互いに愛し合う兄弟の絆を強めて行くように努めなさい。」

 

 

 

 

 

■2016年12月11日 日曜礼拝メッセージより(辻和希伝道師、横路伝道師)

 聖い愛を待ち望む  up 2016.12.11


主題聖句(ルカ1:31〜32)
ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。

 

 

 

(ルカ1:26〜38)
“ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。 この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。 御使いは、入って来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。{あなたはどの女よりも祝福された方です。}」
しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。 すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。 ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。 その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。 彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」 そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」 御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子 と呼ばれます。 ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。 神にとって不可能なことは一つもありません。」 マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。”

【辻 和希伝道師メッセージ】
1.救い主の誕生は預言の成就
 クリスマスまで2週間となった今日、イエス様がお生まれになったときのストーリーをルカ1章26節から見ていきましょう。
 この箇所は、御使いガブリエルが、神様から遣わされて、ひとりの処女マリヤのところに来て、イエス様をみごもることを告げた場面です。クリスチャンであれば、誰でもイエス様の誕生について知っていると思いますが、その誕生が神様の約束にそったものであるということが、この箇所から見ることができます。それは、マリヤの婚約者であるヨセフがダビデの家系であるということです。(27)神様は、旧約聖書の中で、イエス様の誕生について、多くの預言を残しておられます。その中の一つに、2サムエル7:12−16を見てみましょう。
「あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。〜」
 預言者ナタンを通して、神様がダビデに語った約束です。この約束は、イエス様がヨセフとマリヤの間にお生まれになることで成就したのです。神様は、気まぐれでイエス様を地上に送ったのではありません。そこには、しっかりと神様のご計画と意思が働かれているのです。ユダヤ人にとって、救い主メシヤの誕生は、心待ちだったことでしょう。しかし、イエス様の誕生は、ユダヤ人だけのためではなく、全世界の人々のためでもありました。それは、ヨハネ3:16からもわかるように、御子を信じる者が一人として滅びることのないために、神様はイエス様を地上に送ってくださったのです。それほどの私たち人を愛してくださっているのです。その中に日本人である私たちも含まれています。神様の約束のもとにお生まれになったイエス様を祝うクリスマス。その奇跡的な誕生を思いめぐらしながら、クリスマスを迎えましょう。

【横路伝道師メッセージ】
2.マリヤの謙遜と従順
「マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」(ルカ1:38)
 ここでは、マリヤの謙遜と従順に焦点を当ててみていきたいと思います。(34節)に、マリヤは御使いに「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」と言っています。リビングバイブルでは、「どうして子どもができましょう。まだ結婚もしておりませんのに。」とあります。 
 その半年ほど前に、親戚にあたる祭司ザカリヤに、バプテスマのヨハネが生まれるという御告げを、主の使いが同じように伝えましたが、この時ザカリヤは、自分も妻のエリサベツも年をとっているので信じられなくて、御使いにそのしるしを見せてくださいと求めました。(18節)そのため、ザカリヤはヨハネの誕生まで口がきけなくなるというしるしを受けたのでした。しかし、マリヤのことばは、不信仰から来ることばではなく、「どうしてでしょうか」という純粋な質問の気持ちであったと思います。この後、御使いが伝えることばは驚くべきことばでした。(35節)「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。」つまり、マリヤは神の子の母となる光栄に預かることでした。そして、(36節)「ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。神にとって不可能なことは一つもありません。」と御使いの方からしるしを示されました。これらのことを聞いたマリヤは、御使いの言葉を疑わずに信じ、(36節)「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」と言いました。
 私(横路伝)自身、処女降誕という出来事を最初はなかなか信じられませんでした。しかし、ある時突然、神様とは偉大な方で、天地を創られ、人間も創られた全能の神ならば、処女降誕もできないはずがないと、信じることができたのです。それは聖霊様が教えてくださったのだと思います。私たちがイエス様を信じる時も、聖霊様の働きがなければ信じることができないと書いてあります。聖霊様が私たちの不信仰を変えてくださることができます。
 マリヤは御使いのことばを聞いて、感情的になってこのことばを言ったのではありません。エリサベツがみごもっているのを見に行って目で確かめたのでもありませんでした。マリヤは御使いの伝えた神のことばをそのまま信じたのです。
 また、当時のユダヤの社会で未婚の女性が子どもを産むということは、場合によっては石打ちの刑になることもありました。人間的には不利なことをマリヤは受け入れました。しかし、マリヤの心には恐れが一切ありませんでした。神様が共におられ、神様の約束があり、そのことがこの身になるという確信がマリヤには与えられていたのです。
 このマリヤの信仰による謙遜と従順がなければ、救い主イエス様は生まれなかったかもしれません。もしマリヤが受け入れなければ、別の人を選ばれたかもしれません。しかしマリヤは謙遜と従順をもって受け入れました。マリヤの純粋さ、敬虔さは、とても素晴らしいと思います。私たちも、聖書のことばをそのまま信じることが大切です。疑うのではなく、わからないことがあれば、どうぞ聖霊様教えてくださいという姿勢で聖書を読むと、聖霊様が悟りと理解力と信じる心を与えてくださいます。
 マリヤはその後、御使いから夢でマリヤに宿った胎の子が、聖霊による神の子であることを知らされた夫ヨセフと共にベツレヘムに行き、イエス様が生まれるまでの約10ヶ月、胎の中におられるイエス様と共に歩んだのです。
 マリヤは、胎内のイエス様を守るために、とても慎重な歩みをしたと思います。また、胎内のイエス様に語りかけながら、毎日を過ごしたかもしれません。10ヶ月間、期待の喜びをもって歩んだのではないでしょうか。
 今、私たちは内に聖霊様を宿しています。(第1コリント6:19)「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まわれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを知らないのですか。」
 今この時代に生きているクリスチャンは、イエス様は再びこの地上に来られるということを知っています。そのことを再臨と言います。このことは必ず起こります。いつ起こるかはわかりませんが、必ず来られるのです。イエス様ご自身が「わたしは来ます」と約束されているのです。その時を私たちは待っているのです。二千年前に来られたイエス様が、私たちを迎えに来てくださり、永遠に主と共に過ごすことができるのです。その日を待ち望んで、内に聖霊を宿し、心を整えて、聖霊様と共に主の来られるのを期待し待ち望んで歩み続けていきましょう。

 

 

 

 

 

■2016年12月4日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 聖い愛による敬虔さ  up 2016.12.4


主題聖句(第2ペテロ3:10〜11)
しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。

 

 

 

 【敬虔】の意味
 敬いつつしむこと。特に神仏に帰依して、つつしみ仕えること。
 キリスト教では『信心深さ』を意味する。

 私たちも聖い愛から来る敬虔さに感銘を受け、敬虔な歩みを目指す動機となるように、皆さんに励ましが与えられればと思っています。
 さて、十二弟子の筆頭であるペテロが御霊に感じて私たちに語っています。「どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう」の部分で、自分の現状を受け止めることも大事です。
 しかし、私たちのように信仰の弱い者に関してこの文の意味を説明するなら、敬虔さがいかに大事であるかを強調した、私たちへの勧めであると言えます。
 私たちが「敬虔な人」と言う時、それは心の中の姿勢と外側が一致した状態を指しています。この敬虔は、最後の審判の時も神様の赦しを得ることができる「非常に大切なもの」だと、みことばは言いたいのです。
 ですから、現時点の自分と「なければならない」を比べて、行いができてないことに嘆くようなものではありません。「聖い生き方」ができないからとあきらめて、不敬虔にならないように気をつけましょう。
 ここで私たちは、イエス様がどのような敬虔な人生を歩まれたのか、見てまいりましょう。

1.イエス様の敬虔な人生(へブル5:7)
“キリストは、人としてこの世におられた時、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。”
【内容観察】
「聖い愛であられるイエス様の敬虔さは、大きな叫び声と涙をもって祈らなければならないほどの苦しみと辛さの人生において、死から救うことのできる父なる神様を信頼する聖い愛からのものでした。
その敬虔さは、私たち罪人を愛するがゆえでもあったのです。ですから、父なる神様は、その聖い愛による敬虔さのゆえに祈りと願いを聞き入れられたのです。」
 イエス様は決して楽な人生を歩んではおられませんでした。私たちでさえ、叫び声をあげるほど切羽詰まることは多くありません。
 助けを求めて叫ぶ時、人はプライドも恥も捨てて一心不乱に求めます。イエス様は、過ごされた人生に多くの苦しみを受けられ、特に公生涯に入られた30歳からは、イスラエルの権力者たちから迫害を受け、良いことをすると逆恨みをされました。
 イエス様は神の国から下り、罪で汚れた人の世を生きられました。イエス様の神の国とは何もかも違いすぎる、生きづらいことこの上ない人の世です。外国で生活される方は、自分の国と違う価値観によって心痛む出来事に出会うことがありますね。
 イエス様は大きな叫び声と涙をもって過ごさざるを得ない人生を送られ、十字架上ではすべての良いわざがむなしくなるようなあざけりも受けられました。
 それでもイエス様は、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と父なる神様への信頼を崩さず、その敬虔さは変わりませんでした。父なる神様を完全に信頼し愛しておられたからこそできた、敬虔さの極みと言ってもいいでしょう。
 私たちクリスチャンも、イエス様を信じてからの方が苦しさは増したと感じることがあるのではないでしょうか。この世の罪の常識と相反する神の国の聖い愛に基づいたルール。それを生き抜くために、どれほどのかっとうが人生にもたらされたことでしょう。「つらい」と言える人生を送っているクリスチャンはまともです。
 罪の世界では神の国の常識がなかなか現れてきません。それでイエス様は、大きな嘆き苦しみを通して祈られ、神の御力がこの世界でもあらわされるように歩んでいかれました。

◎『敬虔さ』の極み
A)ルカ6:35
“「ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもなれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。」”
 自分の敵を愛することは、神への敬虔さのゆえに可能になります。神の前に歩む者として、相手が自分にとって敵か味方かを愛する基準とせず、どんな恩知らずにもあわれみ深い神を敬う者として、自分もそのようになりたいという気持ちから出てくるものです。
 神の聖い愛によって心を変えられた者として、敵をも愛するという敬虔な心を表すことができます。
 これは敬虔さの極みなので、これを突然実行しようとしても、当然うまくいかないのです。私たちはまだ敬虔さに欠けているのです。自分勝手で都合のいい敬虔なのです。
 聖い愛から出た、神の前にいつどんな時でも神を敬う心で、正しい良心をもって物事に接していく、こんな本物の敬虔さはなかなか身についていないのではないでしょうか。
 イエス様だったらこんな時どうされたかと考えると、自分のしたことと違う結果が導き出されることが多いと思います。未熟な敬虔さは小さいことから大きなことへと影響を及ぼして、自分の良いように物事を考え、人の前で敬虔に見えるように自分をつくろってしまいます。
 そんなメッキされた敬虔さではなく、純金の敬虔さになれるよう、目指したいと思います。イエス様は、恩知らずな悪人にもあわれみ深い父なる神の愛に感銘を受けて、「ああ、わたしもそのような愛の道を歩みたい」との願いが心からあったので、「自分の敵を愛しなさい」と言えたのではないでしょうか。

B)ローマ12:21
“悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。”
 この考え方も敬虔の極みにいるから実現できるのであり、神を信頼し従い敬う心、特に敬う心が強くないと、善をもって悪に打ち勝つことなどできません。私たちはもともと罪人ですから、尊敬するイエス様の聖い愛を見せられ、それに触れて魅力を感じ、心惹かれてそのようになりたいという気持ちを持たなければ始まらないのです。
 この動機があって初めて、「善をもって悪に打ち勝とう」という、今までチャレンジしたことのない不可能と思えるようなことに対して、やってみようという気持ちがわくのです。
 文字だけ見て「打ち勝ちなさい」と書いてあるからと言って、これをクリスチャン生活のルールのように感じるなら、それは間違いです。無理をして実行してもだんだんストレスがたまって、どこかで爆発します。なんの動機もなく、ただ行いによって敬虔であろうとすると失敗します。
 まず動機から始めてください。イエス様の敬虔の極みのすばらしい愛から出た姿勢、態度に惹かれ、魅力を感じ、「あれが神の姿なんだな。私たちも神に似せて造られたのだから、イエス様のような理想的な敬虔の極み、神への信頼を持つことができるかもしれない。」という期待と希望を、イエス様を通して動機として持つことができたなら、それはすばらしいことですね。それは奇跡であり、神はそこから私たちを造り変える奇跡を始めてくださいます。
 しかし、これはすぐに起こることではありません。

2.敬虔のための『下学上達』(第1テモテ4:7)
“俗悪で愚にもつかぬ空想話を避けなさい。むしろ、敬虔のために自分を鍛錬しなさい。”
 鍛錬は皆さんの意志にゆだねられています。敬虔を磨くのは自分自身なのです。
◎『下学上達』(かがくじょうたつ)の意味
身近なところから学んで、次第に進歩向上して行くこと。
簡単なことから始めて、次第に上手くなっていくこと。

【内容観察】
「劣悪でばかばかしくて取るに足りない空想話で時間を無駄にしないようにしなさい。主の日が近づいているのですから、むしろ神の子にふさわしい『敬虔』を身につけるため、自分の力量に応じた修養や訓練を積んで心身を鍛えるようにしなさい。」
 敬虔を身につけるためには、心も体も鍛えることが必要です。体が健康であれば、精神も強められます。両方とも強められれば敬虔の極みに進んでいくための条件が整えられます。
 永遠の神の国において、空想話や想像話、思い込みなどは時間の無駄です。そのようなことより神の子にふさわしい敬虔を身につけるために、自分の力量に応じた訓練を積むべきです。
 よく「お天道様が見てる」と言いますが、神様は昼も夜もどんな時も、私たちと共におられます。この創造主なる愛の神の聖い愛の前に生きていくという決心をしたのですから、私たちも条件の良しあしに関係なく、神の前で聖い愛に生きる者としてどうしたらよいかという考え方をもとに、自分を訓練しましょう。

【デボーション参考ポイント】
「敬虔のための鍛錬を、どのように始めますか?」
 お互いに問題がない時には、謙虚に敬虔な姿勢をとれます。しかし、何らかの問題が起きたなら、心が騒いで冷静に対応できません。こんな時こそ、敬虔の鍛錬の時です。
 人間関係の中で誤解が生じた時に、疑いや恨む気持ちが出てきたとします。この気持ちに対して、「神様は悪人にもあわれみ深い。私はその聖い愛のうちを歩むことを決心し、目指してここに来ているのではないか。」と心は葛藤します。こんな時、イエス様は大きな叫び声と涙をもって祈られました。
 私たちも神様に対して願いをささげましょう。この時、問題の相手を去らせてほしいと願わないようにしてください。なぜなら神様はその人を愛され、その人のためにもイエス様を遣わして、十字架でその人の身代わりにされたのですから。そんなあわれみ深い神様だからこそ私は信じて、この方のようになりたいと思って従ったのです。なのに悪い噂が自分にふりかかったとたん心をゆがめてしまい、その問題から逃げようとするなら、それは神様の愛にふさわしくありません。
 問題がある時には、私たちはまず祈りの中で戦わねばなりません。自分に害を加える存在のために、つらく痛く逃げたいところで、その人にどうなってほしいのかを神様に祈ることによって鍛錬するのです。つらい時はつらいと告白しながらでも、聖なる愛による敬虔さから、正しい良心によって望んでいることを神様に祈ってください。これが自分で鍛錬することです。
 なかなか祈れない時も、苦しみばかりの時もあると思いますが、神様は必ず報いてくださる方です。イエス様も激しい苦しみの中で祈られましたが、苦しみを耐えて敬虔な祈りをされたことに対して、神はその祈りを聞き入れてくださいました。祈りが聞かれる主な理由の一つがこれであることを覚えていてください。
 敬虔な心を保つ苦しさを、神は知っておられるのです。苦しまない敬虔な祈りはあまりきかれません。
 今週、まずは罪人のためにご自分の生涯をささげられた、イエス様の「極みの敬虔さ」を知りましょう。父なる神様の聖い愛を尊敬し敬うがゆえに、その道を選んでいかれるという敬虔な人生でした。私たちもそれに感銘を受けて、「少しでもそんな愛を持ちたい」と願いがわきあがってくるように、イエス様のすばらしさに触れる機会をぜひ持つようにしてください。
 動機が与えられてこそのチャレンジです。それなしにやると失敗が多くなり、失望していくだけです。
 イエス様の極みの敬虔さは、あなたの良し悪しは関係なく、ただあなたを愛して、あなたが永遠のいのちに至るために、という心をもって親切と良いことと善意を行ってくださる愛だということを信じていきましょう。

 

 

 

 

 

■2016年11月27日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 聖い愛の忍耐は救い  up 2016.11.27


主題聖句(第2ペテロ3:15a)
また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。

 

 

 

 神様の聖い愛がどのようなものであるかを、今までシリーズで11回にわたり語ってきましたが、今日はその12回めで、「忍耐」という面からみていこうと思います。
 愛を大切にすることこそがクリスチャンの証しです。

【内容観察】
 私たちの神である創造主が、私たち罪人を愛して耐え忍ばれていることは、成長の遅い者にとってあきらめずに聖い愛を求め続けることができる希望の光であると信じなさい。

 罪人である人間はあらゆる被造物から見ると大変劣っていると言えます。
 しかし、その罪人のために御父は大切なひとり子である御子イエス・キリストをつかわしてくださいました。
 いかに成長が遅くても、神様は私たちを決してあきらめず、忍耐して深い愛をもって導き励ましてくださっています。この忍耐は私たちにとって救いの希望です。
 ペテロはイエス様について行きたいと切望していたにも関わらず、肉の弱さからイエス様を三度も知らないと否定してしまいました。彼の受けた衝撃の大きさははどれほどだったことでしょう。このような弱い自分を実感した中で、ペテロはいかにイエス様が自分に対して忍耐と愛を表してしてくださっているかを体験しました。もしイエス様に忍耐がなかったら、私たちはとうの昔に滅びの人生を歩んでいて、なんの希望もなかったはずです。
 今も神様は私たちを忍耐をもって愛と励ましを注いでくださり導いてくださっています。

1.救い主の御降誕は神の忍耐による(ローマ3:25)
“神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。 ”

 アダムとエバが罪を犯してから約6000年間、神様は人類の罪を見過ごしてくださっています。警察が犯人をすぐに捕まえない時は、さらに大きな犯罪を突き止めるために泳がせておくという意味がありますが、神様はそのような目的で裁きを延ばしておられるわけではありません。それは愛による神の義を示すためです。神様の義は罪人を悪の道から立ち返らせることです。悪人が心を入れ替えて立ち返るために、裁きの時を引き伸ばしておられるのです。そして、行いの罪はすべてイエス様が十字架で負ってくださいました。
 神様は一度計画されたことは必ず成就される方です。それゆえ、アダムとエバを創造された神様は罪を犯したからとすぐに彼らを滅ぼすことはされず、むしろ罪を犯した彼らと人類のためにイエス・キリストの十字架の救いを用意してくださったのです。イエス・キリストの十字架で、すべての罪は清算されました。そしてこのイエス・キリストを信じる人々がひとりとして滅びることのないように救いの計画を立ててくださったのです。
 神様の罪に対する忍耐はどれほど大きいことでしょう。そして今も最後の審判まで忍耐してくださっています。

2.慈愛による『忍気呑声』(第2ペテロ3:9)
“主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。 ”

 すべての罪が裁かれて後、新しい天と地が下ってきて、その新しい天と地に救われた人々を入れてくださるという約束が私たちに与えられています。
 この約束の時が伸ばされているのは、ただすべての人々が悔い改めて救いに入ってほしいという神様の大きな忍耐によります。
 『忍気呑声』とは、怒りをこらえ、出かかった言葉を呑み込む、怒りなどの感情をこらえて、声には出さないことを表します。
 それにはどんなに忍耐がいることでしょうか。
 ノンクリスチャンが救われることはもちろんですが、クリスチャンも最後まで救いの道からそれないよう挫折しないように、神は忍耐して憐れんでくださっています。
 神様の愛が悔い改めに導いておられることに、早く気づきましょう。かたくなな心は道がそれていてもなかなかそれを認めようとはしません。しかし、神の忍耐は救いのためなのです。自主的に悔い改めることを、神様は待ち望んでおられます。幼い心を捨てて早く大人の心になり、正しい良心からの悔い改めをしていこうではありませんか。
 神様の愛を心から信頼して、成長するまでいかに忍耐してくださっているかに気づいてください。

【内容観察】
 義の神にとって最後の審判を遅らせることは、どれほど苦しく忍耐しなければならないことでしょう。それでも、愛の神は、私たちを愛しあわれんでくださって、ひとりでも滅びることのないように、神の愛に気づいて悔い改めに進むようにと望みをもって忍耐しておられるのです。

 人は忍耐していただいていることに、なかなか気づかないものです。劣等感が強い人は相手に忍耐されていると思うとむしろ怒りと反感が出てきます(卑しめられていると受け取るからです)。そして相手の善意に対しても反抗心が湧いてきたりします。
 このような心の動き(ごう慢さ)にとらわれないようにしましょう。
忍耐されるというのは、いかに愛されているかという証拠なのです。

【デボーション参考ポイント】
神の慈愛による忍耐が、あなたの救いとなっていますか?

 救いには罪の性質からの救い、逆境からの救いなどもあります。
 神様が忍耐してくださっていることによって、いかに今の自分が実を結ぶにいたっているかを深く考えてみましょう。
 神の愛の忍耐に支えられて今やっているのか、まだ自分の考えでやっているのか考えてみましょう。

 

 

 

 

 

■2016年11月20日 日曜礼拝メッセージより(手束 正昭師)

 特別礼拝  up 2016.11.20


主題聖句(使徒16:6〜10)
それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。それでムシヤを通って、トロアスに下った。ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください」と懇願するのであった。パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤへ出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。

 

 

 

 高砂教会の元老牧師、手束と申します。
 本日のみことばですが、この箇所は神学的にも歴史学的にも重要な部分です。神学的に言えば、聖霊様から2度の禁止を受けたことが重要です。人が良いと思うことと、神様のお考えは違うからです。私たちは自分の願いを禁じられたり挫折したりしますが、それは神のご計画の中にあることです。自分の願いがかなわないところにも神のご計画はあるのです。ですから、なげく必要はありません。もっと良い道を備えてくださっていることを、しっかりと受け止めましょう。
 私どもの教会が新興住宅地への建て替えを計画していたのにだめになったことがあります。住宅地の中心に建つはずだったのにと、私はとてもがっかりしました。しかし、そこに神様は働いてくださり、今は街の中心部に建っています。挫折と失望を変えられたのです。
 神様は私たちにすばらしいみわざを現してくださることを信じていこうではありませんか。
 もう一つの歴史的な部分ですが、キリストの福音が東でなく西に向かったということです。東より先に西に広がった福音は、閉鎖的な東洋文化より開放的な西洋文化を用いられたのかもしれません。
 また私個人は、ローマの繁栄が影響したのではないかと考えます。物質的豊かさと逆に人々の心は飢え渇き、救いを求めていました。いろいろな偶像や宗教が蔓延しました。同時に道徳的退廃も生まれていました。
 五木寛之曰く、「暗愁(どこからともなく忍び寄る憂い)を解決できなければ、本物の宗教とは言えない。」
 またパスカルは、「私たちの内には深い空洞があって、それはキリストによってしか埋めることができない。」と語っています。
 暗愁は、生活が豊かになるほど強く意識されるようになります。物質的に乏しい時代は、生きることに精一杯で、暗愁を覚えることはあまりありません。しかし平和で豊かな時代には、ふと自分を顧みた時に、むなしさや喪失感に気づくのです。
 最近、芸能人などのスターが麻薬に溺れて逮捕される事件が度々報道されますが、それは彼らの魂がむなしさに耐えかねたためではないでしょうか。そう考えると、今の日本とかつてのローマ帝国が重なって見えます。
 70年以上続いた平和、平均的な所得の水準が世界一の日本。私が住む高砂市に出稼ぎに来ている外国人労働者は、口を揃えて「日本がうらやましい」と言います。これほど貧富の差がない、平等に豊かな国は他にない、と。
 ソ連崩壊後、新生ロシア初の大統領になったゴルバチョフ氏は、「ソ連の社会主義は失敗したが、社会主義が成功した国は今まであったか」との記者の質問に、「あった。それは日本だ。」と答えたそうです。
日本は資本主義国家ですが、国民はきわめて平等に豊かになっています。けれど、日本人の心は空虚さと暗愁に満ちているとは思いませんか。
 今から10年ほど前に出版された「日本の自殺」という本があります。(グループ1984年)という名で著されています。
 この本の中に「ローマ帝国を滅亡させたのはパンとサーカスである」という一文があります。隆盛を誇ったローマは、政治家が民衆の指示を得ようとして食料配布を行いました。食事を保証された市民は、労働よりも遊びに興ずるようになりました。その結果国力が失われて、滅びていったというのです。

 今、日本で生活保護受給世帯が急増しています。大阪市には「日本に行きさえすれば生活保護を受けられ、たくさんお金がもらえるから、日本に行こう。」という中国人がたくさんいて、大阪市が非常に困っているそうです。日本人の若者でも「自分に向いた仕事がない。」と、生活保護で遊び暮らしている人がいるといいます。これが蔓延したら、国家財政が破綻してしまいます。
 また、日本はゲーム依存症世界一で、今や電車やバスにはスマートフォンをいじっている人ばかりです。
 歴史学者アーノルド・J・トインビーは「我々は常に自らの内にある虚ろなものによって裏切られるのであって、他者に裏切られるのではない。」と言っています。人間の歴史の光明を詳細に研究したこの学者は、人も国家も内側がむなしくなった時、精神力が弱った時に、外国につけ込まれて滅びて行くのだと言っているわけであります。
皆さん、今の日本がこれに当てはまると思いませんか。
 なんという脆弱な精神をもった日本人が生まれてしまったことか。つらいこと、苦しいことは嫌、ぬくぬくと楽に生活したい。少しでもひどい目にあうと泣き言を言う、日本人は本当に弱くなってしまったと思います。
 台湾出身の評論家、金美齢氏が、「どうして日本人はだめになってしまったのか。」と嘆いています。「かつて台湾人は日本人にあこがれた。自分を捨てても大義のために命を捧げていくりりしい姿に。」
 内面が崩壊しつつある日本を救うことができるのは誰でしょう。私たちクリスチャンこそが、日本人の空虚な心をイエス・キリストの福音によって満たしていくことができるのです。
 私は15年前に「日本民族総福音化運動」を立ち上げました。親しくしていただいていた、韓国ソンミン教会の申賢均(しんけんきん)先生が勧めてくださったものです。
 日本が開国してより150年、多くの宣教師が命をかけて宣べ伝えても1%しかクリスチャンがいません。もはや日本民族は滅びかけています。世界一豊かで平和な国と世界中がうらやむ日本の中では、しかし、日本人の内面崩壊が進行しているのです。これを何とかしなければ、日本国はやがて坂道を転がり落ちるように壊滅します。
 私たちクリスチャンはそのことをしっかりと見据えて、この日本人の心に福音を植えつけ、日本人の心を満たして、日本人の精神を強め、自壊作用を起こさないようにする必要があるのではないでしょうか。
 少し前、NHK大河ドラマで「黒田官兵衛」という作品が放映されていました。彼はキリシタン大名になった人です。本能寺の変より3年後の1585年に洗礼を受けました。明智光秀が滅び、柴田勝家が滅び、豊臣秀吉が天下を取ることが確定する時期です。黒田は秀吉の参謀として一所懸命仕えてきましたが、その役目に終わりが見えてきた時、むなしさがこみあげてきました。暗愁のとりことなった彼は、洗礼を受けました。
 皆さん、今日本中に黒田勘兵衛がいます。むなしさを抱えながらもどうしたらいいかわからない、多くの日本人がいます。
 皆さん、その人のところに行きませんか。「ここにあなたのむなしさを解決するものがある。イエス・キリストの福音、十字架、聖霊。」十字架と聖霊こそが、私たち日本人の心に今必要です。ある統計によると、日本人の約24〜5%がキリスト教に好意的です。もし何らかの宗教を選ぶとしたら、キリスト教と答える人が全人口の1/4もいることになります。
 このチャンスを生かせないのは、クリスチャン側に問題があるからではないでしょうか。伝道してない、やり方が不適切、などです。
 平和運動や人権運動も大切ですが、それらは他にも活動している人や団体があります。しかしキリストを伝えられるのはクリスチャンだけです。イエス・キリストの福音を伝えることこそが、教会とクリスチャンがしなくてはならないことです。そして、むなしくなった心を福音によって満たすこと、十字架の贖いと御霊によって満たすこと、そして愛と喜びと力によってこの人生を堂々と生きていくこと、これが教会がすることです。
 福音を伝え、人々を救うこと。むなしい心の人々に喜びと平安を与えること。生きる勇気と力を与えること。これを教会とクリスチャン以外の誰がするのですか。この大事なことをどうして教会やクリスチャンがしないのでしょうか?
 日本の多くの教会は一つの教会に20〜30人くらいしかいません。情けないと思いませんか。皆さん、もっともっと伝道しましょう。もっともっと福音を宣べ伝えましょう。もっと遠くの人たちを教会に招きましょう。そして、ここにこそ救いがあるということをしっかりと示そうではありませんか。
 内側が満たされて、御霊に満たされて、喜び感謝して、主を賛美する多くの民が、この日本にもいることを祈り求め努力していこうではありませんか。

 

 

 

 

 

■2016年11月13日 日曜礼拝メッセージより(辻和希伝道師、横路伝道師)

 慈愛に満ちた聖い愛  up 2016.11.13


主題聖句(ヤコブ5:11)
見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。
また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。 

 

 

 

【辻和希伝道師メッセージより】
1.神の慈愛は、忍耐の先に必ずある。(ヤコブ5:11)
 今週は慈愛についてヤコブの手紙から見ていきましょう。
“見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。”
 この節を要約すると、“耐え忍んだ人は幸いです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられるからです。”と見ることができます。
 私たちの人生には多くの試練がやってきます。それを忍耐する人は、神様の慈愛を体験することができるということです。それは、ヨブの忍耐を見るとわかります。ヨブはとても大きな試練を受けましたが、神様に不平を言うことなく、誠実な態度を保ちました。
 
 このヨブを通して二つのことに気付かされます。一つ目は、ヨブは、我慢したのではなく、忍耐をしたということです。何かに耐えるという同じ意味の言葉に“我慢”がありますが、我慢とは、欲望を抑えこむ場合に用います。しかし“忍耐”とは、その状況を受け入れて耐えることを意味します。ヨブは、自身に起こった状況を受け入れました。 私たちは、忍耐に辛いイメージを持ちますが、もしかしたら、我慢しなければならないと思っているからかもしれません。我慢は続きません。しかし、忍耐も簡単なことではありません。
 そこで二つ目のポイントが重要になってきます。それは、全ての事柄は、神様中心に起こっているという、神視点に立つことです。
 全ての万物は神様によって創造されました。私たち人間もその被造物の一つに過ぎないのです。台風が私たちの視点からは災害に見えても、万物にとってはただの自然現象に過ぎないということです。
 ヨブは、万物の創造主なる神様の大きさと、被造物である自身の身分の違いを悟りました。私たちも、全てのことは自分中心ではなく、神様中心に起こっているという視点に立つときに、その忍耐の状況が少しでも軽くなるのではないでしょうか。
 全ては神様中心に起こっていると言いましたが、それでも、神様は私たち人を中心に想ってくださっています。このことは私たちにとって何と幸せなことでしょう。これこそ、親が子を想うような、神様の慈愛なのです。
 神様の私たちへの想いは、あらゆるところに注がれています。その中でも、私たちが忍耐の状況にあるときに、より深く神様の慈愛を感じることができます。なぜなら、ヤコブ1:3「信仰がためされると、忍耐が生じる」とあるように、忍耐が生じる要因は、私たちが信仰に立ち、神様に近づこうとするときだからです。ご自身に近づこうとされる者に対して、神様は喜ばないはずがありません。慕い求めてくる子を喜ばない親がいないように。
 神様の慈愛は、私たちの忍耐の先に必ずあります。

【横路伝道師メッセージより】
2.ペテロへの慈愛のまなざし(ルカ22:61〜62)
“主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う。」と言われた主のおことばを思い出した。彼は、外に出て、激しく泣いた。”
 この箇所はペテロがイエス・キリストを三度知らないと言った場面です。一番弟子であったペテロは、イエス様にどこまでもついて行きますと言いながら、いざイエス様がつかまると恐くなり、イエス様を知らないと三度も言ってしまいました。
 ペテロは振り向いて、ペテロを見られたイエス様の慈愛に満ちたまなざしに心を打たれます。ペテロはこの後、外に出て激しく泣きました。このイエス様の慈愛に満ちたまなざしは、讃美歌243番「ああ主のひとみ、まなざしよ」の2番に歌われています。
「ああ 主のひとみ まなざしよ
三たび わが主を いな(否)みたる
弱き ペテロを かえりみて
ゆるすは たれぞ 主ならずや」
という歌詞です。ここで三種類のまなざしを考えてみました。

◎三種類の眼差し(まなざし)
1)好意のまなざし
 イエス様のまなざしは愛のまなざしです。私たちで言えば、好意を持って相手を見ることであると言えます。例えばカープのファンは、好意を持って選手たちを見ます。また、親が子どもを見るまなざしは、いとおしむ慈愛に満ちたまなざしです。

2)自己中のまなざし
 これは肉に属する自分中心で物事を見るまなざしです。欲しがる、むさぼる、人をうらやむ等、欲望を持って見るまなざしは肉に属するものです。

3)悪意のまなざし
 高慢や人をさげすむ思い・不満・憎しみ・怒り・攻撃する・そのような目で人を見てしまうことがあれば、これは神から来たものではありません。このような悪意のまなざしは、私たちに本来神の子として与えられている良いものではありません。悪いものがやって来て、その思いをもたらすのです。

 その他にも失望のまなざしがあります。この人はもうだめだからとか、自分はもうだめだという、希望がない目で見てしまうことがあるかもしれません。一番すばらしいのは、好意のまなざしであり、慈愛に満ちたまなざしです。

◎まなざしの違いはなぜ起こるのか?
 私たちが隣人を愛し、ゆるし、受け入れている時には、好意のまなざしが出ます。逆に悪意のまなざしとは、人を赦せない気持ちが心に残っている時に出てきます。
 つまり私たちが人や出来事をどのように見ているかによって違ってきます。
 イエス様の慈愛のまなざしは、弱い者、貧しい者、罪深い者、敵対する者を受け入れ、赦し、あわれみ、とりなし、与えるという愛の心から来ます。

◎主は、罪人の私になぜ慈愛のまなざしを向けてくださるのか?
 1)神様は私たちを、親が子を愛するような愛をもって見守っておられるから。
 2)私たちの弱さを、神様は知り尽くしておられるから。
 3)私たちを創造した目的があるから。
 4)イエス様の十字架の代価を払ってくださったから。
 5)御国の相続者として永遠に主と共に住むために、私たちを待ってくださっているから。

 私たちは礼拝や祈りの中で、神様の臨在を感じ、愛のまなざしを感じることがあります。しかし、神様は24時間、私たちが忘れていても私たちから目を離されることがなく、私たちを愛のまなざしで見守ってくださっています。
 イエス様の尊い血をもって贖ってくださった神様は、
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だから、あなたを迎えたい。待っているよ。」と、励まし続けておられるのです。まだ私たちは、神の子としての性質を身につける途上です。
 やがて私自身がイエス様のようにすべてを慈愛のまなざしで見ることのできるようになるまで、主は待っていてくださいます。
【参考聖句】
(コロサイ3:12〜13)
“それゆえ、神に選ばれた者、聖なる愛されている者として、あなた方は深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけなさい。互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなた方を赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。”
(詩篇103:8〜14抜粋)
“主はあわれみ深く、情け深い。怒るのに遅く、恵み豊かである。私たちの罪に従って私たちを扱うことをせず、私たちの咎に従って、私たちに報いることもない。…父がその子をあわれむように、主はご自分を恐れる者をあわれまれる。”

 主は本当に私たちを愛してくださっています。私たちも、主の慈愛のまなざしをもって、まわりの方を見ていきましょう。

 

 

 

 

 

■2016年11月6日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 聖い愛は八元八凱  up 2016.11.6


主題聖句(ピリピ4:8)
最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。 

 

 

 

『八元八凱』(はちげんはちがい)の意味
「心が清く正しくて、徳の高い人のこと。」

 今回は徳を高めることがテーマです。損得を主眼に置いているこの世は、善行というものに対してあまり関心を持ちませんが、私たちはもっと徳と言われるようなものに心を向けたいものです。「人格者として生きる」という自覚を失わないようにしたいですね。
 損得や優劣に振り回され、「人よりも」という意識から来る競争社会での勝ち負けにこだわると、徳を高めることに無関心になります。口では立派なことを言っていても、その行動を見れば一目瞭然であり、むなしいことです。徳の高い職業であるはずの国会議員でさえ、昨今の意識低下にはあきれることがたびたびあります。それは日本社会が徳を高めることに対して無関心であった結果ではないでしょうか。
 この世での成功を重んじ、徳を高めることが軽んじられるのは、私たちクリスチャンには特にあってはならないことです。私たち自身が徳の高い人間ではないにしても、せめて心を留めていたいとは思われませんか?
 数年前、サッカーワールドカップで、日本サポーターが会場のごみを持ち帰り、そのマナーの良さに海外のファンたちがびっくりするという出来事がありました。この出来事は他国のサポーターたちにも影響を与え、彼らも参加した大会でごみを持ち帰るようになりました。
 これは徳の高い行動です。理論や哲学ではなく、道理に沿った「なすべきこと」をしたのです。人として、「ごみを散らかしたならばそれを片付ける」行動をすることができる人は、徳の高い人です。「掃除する人がいるんだから放っておけばいい」と考えるのは間違いです。
 これは小さなことですが、それを見た人に良い影響を与えました。これが徳の特長です。

1.『徳』について
A)日本語の意味
 人が本来的に持つもっとも本質、大切なものを特に『徳』と呼ぶ。道を悟った立派な行為。身についた品性。人を感化する人格の力。めぐみ。神仏の加護。
 日本語において「徳」は非常に宗教的に深い意味を持っています。東洋では「徳」は非常に大事なものとして扱われています。
 人の「本質」は善であり、愛です。それは神に似せて造られているからです。今は罪のために神のかたちが失われていますが、本来の姿である「聖い愛を行う」ことが、徳のある人の基準になります。
 「恵み」とは、神様が私たちを何かの報酬として守ってくださっているのではなく、ご自身の慈悲のゆえに生かされているという意味です。「徳」に恵みという意味があるのは興味深いことですね。

B)ギリシャ語の意味
 立派なふるまい。徳のある業。
 一般的には「称賛」「名声」という意味。
 しかし、パウロは、キリスト教的な意味として、人を建て上げるという意味を持たせている。
 ギリシャ語においては、ほめられることや名声名誉を得るような立派なことをしているのが徳、ということになります。
 パウロは神様からほめられたり名誉を得ることを考えて、この単語を使ったようです。それが発展して、ギリシャ語の原語は「建て上げる」というキリスト教での特別な使い方をされるようになりました。

2.贖いの御業は、神の『徳』の現れ(第2ペテロ1:3〜4)
“というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。”
【内容観察】
★神の栄光と徳が私たちを感化し、新生体験をもたらした。
 「お召しになった方を私たちが知ったことによって」というのが、感化されたということです。神としての徳(愛)の力が、心を全く新しく造り変えられるほどの感化を私たちにもたらしてくださいました。
 イエス様を知ればその人の心は必ず変わり、悪の心は善になります。善の心ならますます善になるのです。イエス様を信じているという告白の健全な確認は、徳と言われるものに対して心が留まるか否かです。善なるものに対して価値を強く感じるようになるのが、イエス様によって変えられたことの証明なのです。
 皆さんも、尊敬するべきすごい人との出会いを通して感化されたことはありませんか?若く未熟な人々は悪い者の影響を受けることも起こりえますが、大人になり善悪をわきまえると、良いものに対して感化されたいという本能的な欲求を感じませんか?
 それは罪が赦されて、神のかたちに似せられた部分が生み出されているからです。それまで罪に包まれていたあなたの魂が、高徳の神様の愛によって覆いを取り除かれて、本来の姿である神のかたちに戻ったのです。本来の心は善を求め善を愛し、聖さを求め、あらゆる良いと言われることに対して心が向くようになります。

★神の愛である方を信じる者に罪の赦しが与えられるのは、神の栄光と徳の現れである。
 罪人でも神様の愛を信じることはできます。神様の愛はイエス・キリストの十字架のみわざによって現されました。「私はこれほどまでに愛されているのだ」と、罪の赦しのためのイエス・キリストの十字架上での死を通して知り、私たちは感化を受けました。
 イエス・キリストの十字架上での罪の贖いは神の栄光と徳の現れです。私たち罪人の罪が赦されるために大きな犠牲を払われたことを通して、神様の徳の高さを測ることができます。
 立派な人ほど、人を赦す力が強いものです。神様はどんな罪人でも神の愛を信じるならば、その人の罪を赦すことのできる大きな愛をお持ちになった徳の高い方なのです。私たちも人を赦す時、その徳の高さが現れます。

★神を愛する者に、神の国を相続するという約束が与えられていることが、神の栄光と徳の現れである。
 旧約聖書における神様とイスラエルの関係を、旧約聖書を読む時に考えてみてください。律法を守らないと全世界に散らされ、ついには滅ぼされると言われたイスラエルの民ですが、神様はアブラハムの約束を現在に至るまで守られ、彼らは滅びていません。
 神様は何度も何度も悔い改めとやり直しを命じてくださり、赦しを与えておられます。のみならず、約束を守るために今もイスラエルの民に働いておられるのです。私たちでしたら、「約束を守らないのだから」と、とっくに切り捨ててしまっているのではないでしょうか。
 神様が辛抱強く待ってくださっているのは、私たちのためです。私たちも何回も罪を犯しますが、神様はキリストを通して私たちに与えてくださった、神の子として神の国を相続するという約束を絶対に成就したいという願いをもって、今も私たちを導いてくださっているのです。
 神様は「何回悔い改めてもいいから、約束を守りたい」と、今も必死に働きかけておられます。これはどれだけ徳の高い心、愛をお持ちであるかというしるしです。神様の誠実は、一度約束したことは必ず成就するんだ、というくらいの信念をもっておられます。
 私たちは自分に対してあきらめるのが早すぎませんか?神様は約束した相手がどんなに変わろうと、働きかけを止めることはなさいません。神様はまだ、あなたをあきらめてはおられません。悔い改めてもう一度やり直して、さらに一歩徳が高められるように、神の子として進むことを期待して、神様は私たちを育ててくださっています。
★罪人が神の栄光と徳によって、神のご性質にあずかることを可能にした。
 私たち罪の性質がこびりついて離れないような者たちに対して、神様はその性質さえも造り変え、ご自分の聖い愛の性質にあずかれるようにと、私たちの悪い性質を造り変えることを可能にされたのが十字架の贖いです。このような思いをもってくださったところが、神様の徳の高さを表しています。
 私たちは自分が罪を離れ、イエス様に似た者になることに対して否定的になりがちです。しかし「天国に入れたら十分」では、神様の願いを考えるとずいぶん自分勝手ではないでしょうか。神様は私たちを絶対に救いたいと思っておられますし、悪の性質を神の性質に変えられると信じて取り組んでおられます。
 徳の高い親というものは、幼い子が自分の期待した結果を出さなくても、彼らを否定したり決めつけたりしません。子どもに限らず未熟な者を軽蔑したり、失敗する者を低く見るのは徳の高い者がすることではありません。徳の高い人は、相手が失敗を重ねたり、悪いところがなかなか直らない状況を見ても、その人の未来を信じてかかわり続けます。
 私たちもまだ、神のご性質にあずかる過程の途上です。できるところもできないところもあります。でも神様は確実に、ご自身の高徳によって私たちがご自分の性質にあずかることができると信じて、導いてくださっています。
 ぜひ、神様の愛がいかに徳の高い愛であるかということ、徳の低い私たちをその愛をもっていかに愛してくださっているか、徳の高い神の子として育てようとしておられることを思い見る一週間であっていただきたいと思います。

【デボーション参考ポイント】(第1コリント8:1b)
 「愛は人の徳を建てます」=直訳「愛は人を建築建造する」
 人を築き上げるとは、東洋文化においては「徳を高める」ことになります。私たちは自分自身を築き上げましょう。それは自己達成とは違い、自分の願望を満たすものではありません。私たちは、自分が造られた目的に沿って歩むのです。それが自分を築き上げることにもなります。
 徳を建てることは、キリストの徳の高さにまで及びます。それがすべてアダムの子孫に与えられた存在目的です。私たちは今、罪のために神のかたちが見えない異常事態を招いてしまっています。ですから、自分たちのあるべき姿に立ち返る道中に、今私たちは立っているのです。
 「イエス様の姿にとは恐れ多い」と思っておられる方、それが本来私たちのなるべき姿だったのですよ。罪人の立場でいるから、普通でないと思えるのです。私たちは、実はあたりまえのことをしているだけなのです。善を行うこと、徳の高い行動をすること、聖い愛を求めること、これらは人としてあたりまえのことだったのです。
 私(辻師)は昔、願っている善とは逆のことをしてしまう自分に絶望し、なぜなのかと悩んでいました。イエス・キリストに出会ったことによって、それらが罪のせいであること、悪を行う仕組みがわかりました。神のかたちに似せて造られた私たちの心は、善を行いたいと思っています。しかし罪の力に縛られ、奴隷となってしまっているので、良い願いを行うことができないのです。
 そこで神様は、イエス・キリストを信じることを通して罪の縄目から解放されて、善も悪も自分の決断で行うことができる自由を与えられました。世の人は悪しか選べませんが、クリスチャンは悪でも善でも選べます。ですから「すべてのことが赦されている。しかし、すべてのものが徳を高めるとは限らない。」とパウロは教えています。
 徳を高めることを選べるように、神様の愛に励まされて、これから自分を建て上げてまいりましょう。そして愛を流し出すことによって、相手も自分も徳を高めることができます。愛には時間や物質やいろんなものが消費されていきますが、その犠牲によって得るものは大きいのです。
 お金では立て替えることのできない、キリストの姿に近づく徳が、そこに生まれてきます。愛をする毎日を目指す利点はそこにあります。
 できなくても、せめてイエス様の愛が徳の高い愛であり、その愛をもって私たちを愛してくださっているという、2のポイントにある★を思い見て、「こんなに立派な神様にこんなに愛されている。聖い愛で私たちは愛されているんだ。」という部分だけでも、しっかりと気づいて、目が開かれていただきたいと思います。

『建てるなら 家よりも人を 建て上げよ』