■2016年10月30日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 聖い愛による自制  up 2016.10.30


主題聖句(第1コリント9:25)
また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。 

 

 

 

 神から受ける朽ちることのない冠のために、私たちはこのクリスチャン生活を歩んでいると、パウロは語っています。
 神様は私たち罪人が救われるために、どれほどの大きな愛を与えてくださっているでしょうか。罪人であるにもかかわらず「神の子」と呼ばれるために、父なる神様はどんなにすばらしい愛を与えてくださっていることでしょうか。
 今日は、罪人の私たちが救われるために、イエス様がどんなに自制をしておられるかについても、みことばを通して学んでいけたらと思います。

1.『自制』について
A)日本語からの意味
 「自分の感情や欲望をおさえること。」
<節制>
 度を超さないようにほどよくすること。ひかえめにすること。
 規則正しく、行動に節度があること。放縦に流されないようによく欲望を理性によって統御すること。

 健全さを保つためのブレーキとしての役割を、自制は持っています。

B)ギリシャ語からの意味
 「自制した、節制のある、穏やかな、度を過ごさない」
・いかなる誘惑にも悩まされず、また、惑わされもしない自由で独立した、自立している人間を示す。

 私たちはよく、欲望や感情に悩まされます。また、欲望や感情のままに生きることが自由であるという勘違いもよく起こします。しかし、規則正しく節度ある健全さを保つためには、放縦であってはいけないのです。自由というのは、規則正しく節度を持ったものなのです。
 感情が欲望が放縦に流される方向に進むなら、感情と欲望を抑制することが真の自由です。そうやって健全さを保って、誰からも悪い影響を受けないように自分を保つのが、ギリシャ語の言う自制なのです。健全さを保つために自制心を働かせる人こそ、本当の意味で自立した人だということですね。
 上の意味を踏まえて考えると、神様の愛は本当に義理人情にも流されることなく、健全にそれらを表しながら、私たちにご自身を明らかにしてくださっていることがわかります。
 旧約聖書で神様が感情を表される時、私たちのように我を忘れてしまうことはありません。神様が怒りを現される時は最後の審判であり、最終的処置の場面です。そこまでは寛容と忍耐を示し続けてくださいます。神様の怒りは、寛容の範囲を超えるほどの放縦が起こった時に限られますし、イスラエルの民がそれをした時も、モーセのとりなしによって滅びを免れました。
 皆さん、自制とは大変なものですね。しかし、とても大切なものです。どんなにすばらしいスポーツカーがあったとしても、ブレーキがなければ、その車の価値はゼロに等しいのです。速度を適正に保ち続けるためには、ブレーキは必要不可欠です。同様に、私たちの人生を適正に過ごしていくためには、自制が不可欠なのです。
 以下に4つのみことばを挙げてみました。

2.『自制』は『肝腎肝文』
 『肝腎肝文』(かんじんかんもん)の意味
 ものすごく重要なこと。
 肝腎=肝臓と腎臓は人の体で大切な部分
 肝文=文章の中で重要な一節という意味

A)目標や目的を達成するために必要(第1コリント9:25〜27)
“また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。”

 目標、目的を達成するために自制は欠かせないものです。

B)御霊の実の一つ(ガラテヤ5:22〜23)
“しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。”
 
 神様の愛の実の最後を自制が占めていることには、何か意味があるのではないでしょうか。自制はすべての実のバランスをとります。
 たとえば、教会は地味で暗いイメージがあるから人が近づかないのだ、という意見があります。それに応えて教会も楽しみを求めるなら、どうでしょうか。もちろん楽しむことも必要ですし、神様が与えてくださった恵みの一つでもあります。
 しかし、その楽しみが行き過ぎてしまい、羽目を外すようになるなら、それは教会ではありません。そこに聖い愛の実である自制を働かせて、神様の聖い愛の中に歩んでいる者としてのコントロールをすることが必要です。聖さを保つための楽しみ方というものを、私たちは考えていく必要があるのではないでしょうか。
 そのことによって喜びが沈んでしまうとしたら、それは感情的な問題であり、大事なことは羽目を外さないという部分です。行き過ぎた楽しみ、すなわち罪に落ちていくような楽しみ方に至らないように、私たちは自制することが必要ですね。

C)実を結ぶための要素の一つ(第2ペテロ1:5〜8)
“こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません。”
 これらの項目をチェックすることにより、私たちの霊的健康さを確かめることができます。
 
『神を信じ未来を信じる力である信仰+道徳的に高い基準を持つ徳+いろんな知識+知識を判別するための自制+我慢ではない忍耐+神を畏れるがゆえの敬虔+兄弟を尊敬する兄弟愛+神を愛する愛』

 目に見えない神を愛することは目に見える兄弟を愛することで現すことができます。このことを通して、私たちの霊的な健康さを点検していければと思います。そしてここにも自制が必ず必要です。最初に申し上げましたが、ブレーキをかけることが絶対に必要なのです。「そうすれば実を結ばない者になることはありません」と書いてあります。
 これらを参考にして、私たちが聖い愛を求めて歩む人生に、自制に対するチャレンジもぜひ加えてください。

D)福音を証しするポイントの一つ(使徒24:24〜25)
“数日後、ぺリクスはユダヤ人である妻ドルクスを連れて来て、パウロを呼び出し、キリスト・イエスを信じる信仰について話を聞いた。
しかし、パウロが正義と節制とやがて来る審判とを論じたので、ぺリクスは恐れを感じ、「今は帰ってよい。おりを見て、また呼び出そう。」と言った。”
 
 パウロに対する裁判の途中での出来事です。みことばにある「節制」は「自制」と同じギリシャ語が使われています。パウロはここで正義と「自制」と審判すなわち裁きについて述べました。不敬虔なぺリクスに対しての福音の導きが、その言葉に表されていたのでした。
 私たちが正義において神の前に立ちおおせることが不可能なこと。そんな私たちがすべてを裁かれる審判の時、神の前に出るためにどれほどの節制をしなければならないのか。ぺリクスはパウロの言葉を聞いて、大いに良心が痛んだことでしょう。だからこそ、ペリクスは恐きれたのです。
 パウロの証と説明は想像などではなく、自分も真剣に聞かざるを得ないことがわかってきたのです。パウロはぺリクスを責める言葉を連ねたわけではありません。一般論として、罪の不敬虔な社会において個人の正義を振りかざして争うことや、節制をせず欲望を通し続け、力ある者たちが弱い立場の者たちを苦しめ続けていることに対して、終わりの日に神が正しくさばかれると言っただけです。
 「だから今、罪人を愛し罪人の罪を贖ってくださった救い主イエス・キリストを遣わされた神様を信じて、救い主に現わされた神様の愛を信じ受け入れて、自制を働かせてしっかりと愛のうちに健全さを保った生活を維持しながら、神様の最後の審判を迎えましょう。そうすればあなたは罪赦されて永遠のいのちを得ることができるんですよ。」とパウロは福音を宣べたはずです。
 今、私たちは福音に生きる者として、「自制」が非常に大事な部分です。特に日本では感情や欲望を制御することを重んじています。感情を制御できるならその人は完全な人であると、周り中が認めることでしょうし、欲望の制御がいかに難しいものであるかは、すべての人が知るところです。
 私(辻師)が学生の頃、非常に変わった先生がおられまして、自宅にTVもラジオもなく、情報源が新聞だけ。「新聞で事足りる」とおっしゃり、いつも質素な暮らしをしておられました。生徒たちはこの先生を揶揄したりもしておりましたが、反面、流行りに流されない彼を尊敬もしており、生徒が一番困った時に相談を受けるのは決まってこの先生でした。
 このように自分の生活をきちんと節制できている人には信頼が向けられるものです。神様は自制心を健全に働かせているお方です。この方は感情的に罪人を救われたのではなく、きちんと違反がないように、法的にすべての責任を取られました。
 なによりもイエス・キリストは、神であられたにもかかわらず、「人」という制限の中で私たちの罪を贖うための罪なき人生を送る「自制」に満ちた日々を送られました。私たちを愛して、私たちの罪を贖うために、自分を喜ばせることをしなかった、と聖書にあります。愛する者のために自制した、ということです。
 たとえば夫婦でも、愛する者が活かされて健康であるために、自分を抑えて二の次にして、自制心を働かせてその愛を表すことが大切ではないでしょうか。これこそ麗しい夫婦愛だと思います。
 私(辻師)の孫が食事の時、食べたいものがあっても「食べていい?」とききます。家族ではあっても遠慮の気持ちが働くのです。それは自制の現れではないでしょうか。それに対して「いいよ」と与える時、そこにも自分を抑えて相手に与える心があると思います。
 愛があるからこそ、相手のために喜んで犠牲を払っていく親切を施していく心が自制です。

【デボーション参考ポイント】
「私たちが救われるために、どれほどの聖い愛による自制をされたかを思い見ましょう。」
 イエス様も十字架にかかられた時、神としてのご自分の権利を捨て、人として十字架にかかり続け、人として人類を贖う死と十字架の苦しみを負うという愛の心をもって自制をされました。そこにどれほどの私たちへの愛があったことでしょうか。
 自制という点においても、イエス様が示してくださった聖い愛を、皆さんもぜひ今週思い起こしながら、神様の表された愛を思い見る一週間としていただけたらと思います。

 

 

 

 

 

■2016年10月23日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 柔和という聖い愛の飾り  up 2016.10.23


主題聖句(第1ペテロ3:4)
むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。 

 

 

 

 今まで色々な徳目をあげて学んできましたが、今日は8回目で、「柔和」について学びます。なぜこのような徳目をあげて学んできたかというと、私たちが身に付けるといういうことも大事ですが、それ以上に、神様がこれほどの聖い愛を示してくださっているということを知るためです。イエス様が私たちに示してくださった愛はへりくだりであり、謙遜であり、今まで学んできたような聖いこれらの徳目にあるような愛なのです。
 これらの徳目を学ぶことによって、神様がいかに罪人である私たちを高価で尊いとみてくださっているか、そして寛容の心を持って私たちを忍耐し、導き、善の心で見てくださっているかを知ることができます。

1.『柔和』について
A)日本語からの意味
 人の言動などの印象が心地よく安心感を持てるさま。
 落ち着いて気品があるさま。静かであたたかみを感じるさま。   
 柔和とは、その人の内側からにじみ出てくる、包み込むような暖かな柔らかな優しく温和な姿勢です。いつも和を大切にし、平和を追い求めます。そのためには、自己主張が強すぎたり、自分の利益ばかりを求めたりすることはしません。今の世界の争いを見ると、いかにこの柔和さが欠けていて、自分の利益ばかりを求めているかがわかります。

B)ギリシャ語からの意味
 優しさ、もの柔らかさ、穏やかさ、温和、おとなしさ、従順さ。
 従順さとは、自らの意思で従い、相手に合わせるという姿勢です。
温和さのゆえに合わせるという従順さです。

2.『柔和』の重要性
A)イエス様ご自身が柔和な方(マタイ11:29)
「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」
 
 イエス様に習う者として、イエス様の心の優しさを学びたいものです。どんな人でも「柔和」は身に付けることはできます。能力や力にはよりません。
 柔和さを保つためには、その心を支えるものが必要です。イエス様はいつも御父を信頼していました。私たちもこの信頼(安心感)がないと焦ったり苛立ったりしてしまいます。
 
 イスラエルの初代の王にサウル王がいます。彼は王としてふさわしい柔和さ穏やかさがあるかどうかを試されました。王としての任命の油注ぎの後、預言者サムエルに、「私が行くまでいけにえを捧げるのは待っていなさい。」と言われました。ちょうどその時、ペリシテ人達がイスラエルを攻めるために陣をしいていました。それを迎え撃とうと民は集まっていましたが、内心はペリシテ人を恐れていました。いつ襲われるかという状況なのに、サウル王はいけにえを捧げるまでは何も出来ずにいました。しかも彼らは初めての王よりも預言者サムエルの方に信頼していました。そういった民の思いが伝わり、民のざわめきにいたたまれなくなり焦ったサウルは、遂にサムエルを待たずに自らいけにえを捧げてしまいます。民の不安と焦りに影響されて、神様に信頼して穏やかに待ち望むという王としての姿勢を持つことができませんでした。
 王にとって一番大切なのは大きな心で民を包み込む柔和さです。これがあれば民は信頼して安心できます。
 秦の始皇帝は人を信頼できずいつも不安で、疑いを持つとすぐ家臣の首を切ってしまいました。そして永遠の命を求めて旅に出ています。
人は何かに信頼していないと安心できず、平和がなく、寛容と柔和さを示すことができません。
 イエス様は完全な御父への信頼があったので、いつも穏やかで安心しておられました。嵐の中の小舟の中で、弟子たちが恐慌状態であっても、ぐっすりと眠られるほど平安で安心しておられたのです。
 イエス様はいつも穏やかな方で、あなたが罪を犯してもすぐに裁かれるのではなく、罪から離れるまで見守ってくださいます。それゆえ私たちは安心して罪を告白し罪から離れることができるのです。

B)御霊の実の一つ(ガラテヤ5:22〜23)
「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。 」
 
 神様の愛はこういう実で現れてきます。私たちも神様の愛で心が動かされると、内側にこのような御霊の実が現れてくるようになります。
柔和さは御霊の実のひとつです。

C)熱心に求めるものの一つ(第1テモテ6:11)
「しかし、神の人よ。あなたは、これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。 」
 
 熱心に求めなさいとあります。これだけは集中して求めなさいということです。それだけ重要だからです。

D)御霊の人は柔和(ガラテヤ6:1)
「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。 」
 御霊の人は柔和だからこそ、柔和な心で人を正してあげることができます。人に注意、忠告をするには深い信頼関係がないとできません。される方はどうしても反発や怒りが出てしまいます。しかし、人に対しては反発しても神様に対しては反発しないようにしましょう。神様は本当に柔和な方で、その大きな愛による忠告には反抗心は出なくなります。柔和さを相手に感じられれば反発や怒りも起きなくなるのです。

3.『柔和温順』という人がらの飾り(第1ペテロ3:4)
「むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。」
 このVが、今回一番語りたいことです。
柔和と飾りを意識して内容観察を作りました。

【内容観察】
「高価な着物や物によって外面的に美しく見せるよりも、心優しいく穏やかな霊といういつまでも朽ちることのない心の中の隠れた人がらによって、自分らしい美しさを引き立てるようにしなさい。これこそ、外側でなく内側を見られる神様の目に美しく写ることでしょう。」
 
 私たちは人に見られて美しいと評価され、喜んでもらえると嬉しいものです。
 飾り物がその人に似合うかどうかは、飾り物がその人にマッチし、その魅力を引き立てる時です。飾り物自体が重要なわけではないのです。何のためにアクセサリーをつけるのでしょう。指全部に指輪をしている派手な方もおられます。そういう人の中には高価な物をつけることによって、自分の価値を引き立てようとしている人もいます。お金の価値で自分の価値を引き上げようとしているかのようです。しかし、飾りはその人の魅力を引き立てるための一つの道具にすぎません。
ペテロはどうして、柔和で穏やかな霊が飾りになると言ったのでしょうか。

【デボーション参考ポイント】
柔和を心の飾りという言葉によって表現する意図は何でしょうか。
 例えばイヤリングをつけていて、表情が明るく見えるならそれはその人に合っていると言えます。飾りはつけている人を引き立てるものです。柔和さも、その人を引き立てるものなのです。
 人が相手に一番願うのは「優しい人」です。相手にその「優しさ」があるかどうかを見たいと願います。そして優しいと思うと心を開いて接しやすくなります。飾りは人がそこに注目するものです「柔和さ」がその人に目立って見え、しかもぴったりだと思われるなら、それ以上に嬉しい事はありません。
 いくら高価な飾りでも、その飾りばかりが目立ち、少しもその人に似合わないように見えるなら、その飾りはその人に合っているとはいえません。
 つけている人の価値がにじみ出て、その飾りが本当にその人が持っている良さを引き出して見える時、その飾りはその人にぴったりだと言えるのです。しかし、高価な宝石が似合うような人になることを求めるよりも、内面の隠れた人がらがにじみ出てくる柔和さという飾りが似合う人になることを求めましょう。
 柔和という飾りがつくと、あなたの良さが引き出されます。柔和さこそ、あなたの内面の美しさを引き出す飾りなのです。
 若い方の結婚したい人の条件は何でしょうか。自分中心ではなく、相手のことを考えてあげる優しさです。今の若い世代は年収よりも優しさをあげる人が多いようです。友達になるにしても、優しい人がいいですね。感情の起伏の激しい人は付き合いにくいものです。柔和は魅力的な素晴らしい飾りです。
 ペテロは寛容よりも、柔和さを飾りとしてすすめました。柔和で穏やかであることをすすめています。何よりも先に身につけるべき徳目が柔和さです。
 神様からどのような柔和さを感じますか?なかなか解りにくいかもしれません。それは普段あまり意識していないからです。寛容は相手をそのままにしておくという意味で、矯正したりせず、そのまま受け入れるという意味です。
 しかし、柔和さは積極的に相手に関わり、暖かく包んであげるという意味を持ちます。寛容であっても無関心であってはなりません。その点、柔和さは相手に関心を示し、関わりを持つことを表します。(寛容の中には柔和もほとんど同時に働きますが)
 神様は私たちに対し、寛容で赦してくださり、共に進む柔和さを持ってくださいます。よりそうということばの中にその気持ちが表れています。あなたの祈りを神様はいつも聞いてくださり、関心を持って積極的に関わっていてくださるのです。私たちも寛容さだけでなく、柔和な心をもって関わりを深めていきましょう。
 神様の限界は最後の裁きの時です。今はどのような状態であっても、神様は忍耐し柔和な心で私たちが裁かれないで悔い改めるように導いてくださっています。
 その神様の御心に触れて、私たちも柔和さを飾りとして求めていきましょう。

 

 

 

 

 

■2016年10月16日 日曜礼拝メッセージより(辻和希伝道師、横路伝道師)

 聖い愛による親切  up 2016.10.16


主題聖句(コロサイ4:6)
あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。 

 

 

 

【辻 和希伝道師メッセージ】
1.恵みを用いた親切(コロサイ4:6)“みことばは前述”
 この箇所で親切と訳されているギリシア語はcharis(カリス)という言葉が使われています。カリスとは、神の恵みという意味ですので、英語の聖書ではkind(親切)ではなく、grace(恵み)と訳されています。上記のみことばは新改訳ですが、文語訳がギリシア語に近い訳をしています。
「汝らの言は常に恵を用ひ、鹽にて味つけよ、然らば如何しての各人に答ふべきかを知らん。」
 恵みと親切にはどのような関係があるのでしょうか。そして、今週私たちにこの聖句から神様のどんなメッセージがあるのでしょうか。
 私たちがクリスチャンであることの素晴らしは、神様の恵みを知っていることです。体験していることです。
 では、私たちへの神様の恵みはどのようなことがありますでしょうか?各々振り返って頂きたいのですが、一番の恵みは、十字架による救いです。そのことを知っているから、クリスチャンの人生に喜びがあるのではないでしょうか。
 人に親切をすることは、誰にでもできることです。誰かから親切をされると、自然と親切をすることができます。しかし、クリスチャンは神様の恵みを知っているので、普通の親切とはまた違う親切になると私は思うのです。
 文語訳の“恵を用いる”とは、神様の恵みの体験をもとに、その経験を用いて親切をしなさいと言っているように思います。ここでは、“ことばが”と言っていますから、人間のコミュニケーションの最大の道具である言葉に、神様の恵みが伴うなら、聞く人にも神様の恵みが流れるのではないでしょうか。
 また、もう一つヒントになるのが、英語の聖書を直訳すると、“あなたがたの会話を、いつも神様の恵みで満たしなさい。”となります。そのような会話を想像してみてください。なんと素晴らしい交わりでしょう。私たちのまず身近なところで、神様の恵みであふれる会話をしていくことをチャレンジしていきましょう。

【横路伝道師メッセージ】
2.良きサマリヤ人の親切(ルカ10:30〜37)
“イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」”
 日本語の親切という言葉の意味は、「親」は「親しい」、「切」は「近い」という意味です。親しみをもってそばにいてあげる、というのが親切という言葉の語源のようです。そばにいてよりそってあげることだと思います。
 聖書の中でよりそう心をあらわす親切な人は誰かと探すと、一番に思い浮かぶのはやはりイエス様です。その次に思い浮かぶのは、「良きサマリヤ人」でした。このサマリヤ人から親切を学ぶことができます。 
 このサマリヤ人が、なぜ敵対しているこのユダヤ人を助けたのでしょうか。聖書には、「かわいそうに思い近寄った」とあります。ここに親切があります。ユダヤ人を差別せずに、よりそったのです。
 彼は、かわいそうに思い近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、包帯をしてあげ、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してあげました。それだけでなく、次の日に、彼は宿屋の主人にお金を払って、「介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。」と、全部の支払いを、見ず知らずのユダヤ人のために引き受けたのです。なんという親切でしょうか。これは、イエス様の姿を表していると思います。
 イエス様も、私たち罪人が滅んでしまうことを憐れんで、罪人でどうしようもない私たちをかわいそうに思って、天の位を捨てて地上に人間として来てくださり、私たちのお世話をしてくださいました。私たちを救うためにそのいのちを捨てて、血の代価を払って私たちを解放してくださいました。まさに、サマリヤ人はイエス様の姿です。私たちはとても温かい親切をイエス様から受けたことを感謝します。
 また、最後に「もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。」とあります。私たちが十字架で赦されたあとに、肉の力に負けて罪を犯してしまったとしても、その負債も、イエス様は後で払いますからと約束してくださっていることを感謝します。ですから、クリスチャンになったけど、まだまだできていないなぁ、イエス様を悲しませているなぁと思うのですが、その負債もイエス様が全部十字架の上で受けてくださっています。最後の審判の時に、今までの罪が全部明らかにされて恥ずかしく思うかもしれませんが、イエス様はそれらの全ての罪の代価を支払ってくださっているから、イエス様を信じている者は罰せられることなく、永遠の御国に迎え入れてくださるのです。私たちはなんという恵み、親切をイエス様から受けていることでしょうか。
 また、私たちによりそってくださっているイエス様、聖霊様がいつも共にいてくださることを感謝します。誰も自分のことをわかってくれる人がいないと思っていても、イエス様、聖霊様はいつもあなたと共にいて、よりそってっくださっています。そのことを忘れないでください。最高の友はイエス様です。その憐れみを受けた人は、他の人を憐れむことができます。
(コロサイ4:5〜6)
「外部の人に対して賢明にふるまい、機会を十分に生かして用いなさい。あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。」
【内容観察】
「外部の人たちに神様の愛とイエス様の救いを伝えるために、賢くふるまい、チャンスを逃さず相手の心によりそい、気遣いのある言葉を用いて、ひとりひとりに適切なあかしをしなさい。」
 塩味のきいた言葉というのはどういうものでしょうか。料理をする時に、一番適度な塩加減というのがあり、濃いければ辛くなり、薄ければ味気ないものになります。言葉の中でも、賢く使い分けて、色んな人にあった言葉を使うことが大切だということだと思います。料理も食べる人の口に合うようにします。その人に合った言葉をかけることが大切です。
 塩味がきいていない言葉は、味気のない、退屈な言葉になるかもしれません。また、塩味がききすぎると、厳しい言葉になるかもしれません。一人一人に必要な塩加減のきいた言葉をかけていきたいと思います。もう一つの塩味の意味は、聖い言葉、真実な言葉です。親切な言葉と塩味がきいた言葉は、どちかだけではなく、適度に両方が必要です。正しいことを言っても、そこに愛が感じられなければ、心に届かないのだと思います。
 神様からたくさんの親切を受け取って私たちは生きていますが、これを証しのために用いていけるといいですね。私たちの人生そのものが証しであり、教会の交わりそのものが証しであり、教会が聖くて優しくて、塩味がきいているならば、多くの人が教会に集まって来ると思います。もし、塩味がききすぎていたり、全くなくなったりするならば、人々は去っていくでしょう。私たちの教会の在り方は、愛と親切にあふれた教会であるようにと、このみことばは教えていると思います。
 一つの証しを紹介したいと思います。聞いた話ですが、他の地域で八十歳の時に初めて教会に来られた女性がおられました。その方は三回ほど教会に来られて、ぴたっと来られなくなりました。そして7年間のブランクがあり、八十七歳の時に再び教会に来られるようになり、イエス様を信じて洗礼を受けられました。喜んで教会に通われましたが、だんだん体が弱って通えなくなり、入院生活をされました。この方の牧師先生が、「なぜ、あの時3回だけ教会に来て、その後7年も教会に来られなかったのですか?」とお聞きすると、「教会がとても素晴らしくて、温かくて良い所だったので、3回来てみて、このまま続けて来たら自分はクリスチャンになってしまうかもしれないと思って、行かなくなった」とのことです。何かクリスチャンになれない事情がご家庭にあられたのかもしれません。しかし、八十七歳になられて飢え渇いて教会にまた来られ、洗礼を受けられました。それほど温かい素晴らしい教会だったのでしょうね。この方の愛唱歌があり、九十歳で召天される前に、彼女の愛唱歌を録音してお葬儀で流されました。アメイジンググレイスの替え歌です。
「(1)驚くばかりのあなたの愛 私に届いたあなたの愛
(2)さびしい日々にも辛い夜にも ほほえみくださるあなたの愛
(3)赦しの心があふれ流れ 私を包むよあなたの愛
(4)この世の旅路が終わる時にも 私を迎えるあなたの愛」
という歌詞でした。この方にイエス様がよりそっておられたことがわかります。ご家族は誰もクリスチャンではなかったのですが、素晴らしい葬儀を教会でされ、その後娘さんが教会に来られて救われたそうです。私たちも、外部の人に対して賢明にふるまい、機会を十分に生かして用いなさいとあるように、親切なことばと良い証しをこの人生で残したいと思います。

 

 

 

 

 

■2016年10月9日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 寛容な聖い愛  up 2016.10.9


主題聖句(第1コリント13:4)
愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。 

 

 

 

 先日、阿蘇山が噴火をしましたね。私たちもクリスチャン生活で、我慢我慢の生活のように思うのですが、私たちは不完全ですし、心が整えられておりませんので、つい怒りが出てしまうということがあります。そのように、ある一定の限度が来た時に出てしまうというのはやむを得ないこともあると思います。
 しかし、しょっちゅう、少々のことで爆発していたのでは問題です。爆発していて良いことはありません。そういうわけで、寛容さというのはとても大切なものですが、神様の寛容さについて見ていきたいと思います。

1.『寛容』について(第1コリント13:4a)
 “愛は寛容であり、愛は親切です。”
A)日本語からの意味
「寛大(心の広くゆるやかなこと)で、よく人をゆるし受け入れること。咎めだてしないこと。」
 広い温和な心。小さなことをほじくり返したり、とがめだてをしない。
B)ギリシャ語からの意味
「忍耐する。耐え忍ぶ。気を長くもつ。気長に待つ。寛容である。そのままにしておく。ほうっておく。怒りやすい事柄に対して怒らず、気長に期待を持って待つ。」
 日本語の寛容とは違う部分がありますね。ここでの「忍耐」「耐え忍ぶ」は、(ヤコブ1:4)“その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。”とは違うものです。
 忍耐にはいろんな形があり、次第に形相が鬼のようになってしまう忍耐も、寛大な心で気長に待つ忍耐もあります。心の豊さが示される姿勢でじっと見守る忍耐の意味が、寛容にはあるのです。相手の問題をわかっていて、なおかつじっと見守る態度は、期待をする心の姿勢からきます。「愛は寛容であり」とは、「愛は気長に待つ」と言い換えることもできます。
【デボーション参考ポイント】
“主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。”(第2ペテロ3:9)
 「忍耐深く」が主題聖句の「寛容」と同じギリシャ語になっています。神様は私たちに対して気長に待っておられるのです。いちいち口出しせず、そのままにして放ってくださっています。皆さん、祈った時に、神様から口うるさいほどの答えが返ってきたことはありませんね。
もし祈るたびに注意を受けたらどうでしょう。一日の始まりのデボーションから、注意と指示の嵐だったら、嫌になってしまいませんか。帰ってきて祈ったら、失敗の数々をあげつらう返事がきたらどう思われますか。それが続いたら誰でも祈るのが嫌になるでしょう。
 神様は気長で寛容な方で、私たちのために、「この子はどうするのかな。」と期待をもって見守ってくださっているのです。私たち一人一人がどういうふうに困難を受け止め、神様の愛に支えられてそれを乗り越えていくか、と。今までに聞いた聖書のみことばやメッセージを通して学んだことを、どのように自分の力で押し進めていくか、楽しみに見ておられます。
 小さい子を育てる時に、あまりにもお世話をしすぎると、子ども自身も嫌がって逃げ始めます。神様は私たちに自由を与えてくださっています。本当に危険な時は、啓示をくださったり、奇跡的な介入などもありえますが、少々のことは大きな心で見守ってくださっています。
 そのように私たちに対して気長に、寛容さを示して、神様の愛にどう応えていくかをじっと見守っておられるという意味を持って、「忍耐深く」ということばを考えていただきたいと思います。
 「すべての人が」を、ノンクリスチャンだけが対象と考える人がおられますが、「悔い改め」は彼らだけのものではありません。(ヨハネ3:16)には何と書いてあるでしょう。「御子を信じる者がひとりとして滅びることなく」とあります。信じてからも滅びに戻ってしまうことが多い、ということなのです。一度は悔い改めて、神様の方に方向転換したのに、いつの間にかまた欲望とこの世の楽しみにひかれて180度振り返ってしまうクリスチャンが多くいるということです。
 せっかく神様の愛を知って良い方向に向かったのに、ごまかされ惑わされて、エバが誘惑されたようにいつの間にか神様の方向ではない罪の世界に後戻りするようなことがありうるから、このみことばがあるのです。
 神様は忍耐深くあられる、ということと悔い改めを望んでおられることとを合わせて考えてみましょう。私たちはいくらでも罪を犯します。罪を犯すたびに、悔い改めていきます。自分だけではあきらめてしまいそうな、自分自身に対する失望感はありますが、神様は気長に待っておられます。「それでも悔い改めに進みなさい」ということなのです。
 私たち人間よりも、神様は気長な方です。このような神様の寛容さ、忍耐深くあられる気長な愛のお心のゆえに、私たちはまた悔い改めに進んでいきましょう。間違った方向は一方向だけではありませんから、どの方向に向かって間違いをしても、向きを正して戻って進みましょう。私たちはまっすぐに進むことができないことを、神様はよくご存じです。
 神様は私たちがイエス様を信じた後、どういう進み方をするか、すでに計算済みです。ですから、ペテロは自分の大きな失敗を通して「神様はなんと気長に私たちの成長を見守り、導いてくださっているのだろうか。悔い改めとはなんとすばらしい神様の愛とあわれみと寛容さなんだろうか。」と感じ入って、手紙を通して私たちに語っています。
 「父なる神の聖い愛による「寛容」さを、上記のみことばより深く思いめぐらしてみましょう。」
・このような今の私にも、神様は寛容を示し続けてくださって、「さあ、あ なたは神様の愛が変わらずに注がれていることについて、次はその愛 にどう応えてくれるのだろうか。」と期待をもって見守ってくださってい ること。
・その中でいくら失敗しても、神様は怒りを引き出されることがない、と いうこと。神様はそのお心の豊かさの中で悔い改めの心を持つ者に対 して、絶対に怒りを表されないお方。悔い改めないかたくなさを砕くた めのこらしめとしての裁きはともかく。
 私たち人間は自分がやった良いことに対して良い反応が戻ってこないと、すぐ心を騒がせて怒りがこみ上げてくるものですが、神様を見習って、寛容さを訓練していきたいですね。そのために神様の忍耐深くあられる個人個人に対する対応を、ぜひ思い返してその愛に気づいていただければと思います。

2.『外寛内明』に努める(マタイ18:24〜35)
“「清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お支払いいたします。』と言った。
しもべの主人はかわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ。』と言った。彼の仲間はひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから。』と言って頼んだ。しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話した。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」”
 上に挙げたみことばの中に、「寛容」と同じ単語が使用されている部分が2ヶ所あります。一万タラント借りたしもべが「ご猶予ください」と、百デナリ借りたしもべの「もう少し待ってください」です。ギリシャ語言語から直訳すると、「どうか気長く待ってください。」と頼んだことになります。私たちが貸した相手に「気長に待ってくれ」と言われたら、むっとしませんか。
 しかしこの主人は、返せない状況にあったしもべに対して返すことを要求した時、しもべが心砕いて身を低くし、へりくだって願ったのを見て、返済を待つどころか借金を帳消しにして彼を赦したのです。それは主人がしもべを愛し、彼への愛があふれていた証拠だと思います。しもべに損害を償う気持ちがあることを見極め、その気持ちがあるのなら借金は帳消しにしてあげるからまた一から働いてくれるようにと、彼を生かすチャンスを主人は与えました。
 そして赦されたしもべですが、彼に借金していたしもべ仲間も、百デナリを返す気持ちがあることを証言しました。しかし、彼は彼の主人のような寛容さを示しませんでした。むしろ怒りを燃やして、しもべ仲間を牢に投げ入れました。
 ここで主人と一万タラント赦されたしもべとの対応の違いが表れています。「寛容さを示してください」と願われた時、主人は一万タラントの借金を負ったしもべを憎んでいたわけではなく、貸したお金に固執もしていませんでした。それは、自己中心の気持ちのない、しもべを大事にする主人であるということです。一万タラントを赦してでも、そのしもべを大事にしていきたいと主人が思っていたことの現れです。主人には愛があったので、寛容さと赦しを与えることができました。
 しかし一万タラント赦されたしもべの方は、しもべ仲間に「寛容を示してください」と願われた時、かえって怒りを燃やしました。なぜ寛容さを示せなかったのでしょう。考えてみれば、一デナリ=一万円で数えると百万円もの大金です。自分は一万タラント赦された立場ですが、かといって見過ごしにできる金額でもありません。
 彼はその金額に心を奪われているのです。彼は人間関係より、しもべ仲間のことよりも、百デナリを大事にしたのでした。彼はお金を重んじ、兄弟愛よりもお金に心を奪われていました。だから寛容さが示されなかったのです。
 皆さん、親しい友人ならお金を貸してと言われても快く貸せますよね。同じ友人でもあまり信用できない人だと、親しい人に対するようには貸せません。親しい相手になら、実際の必要にもこたえ、生活を立て直すための相談にも乗るでしょう。
 一万タラント赦されたしもべは、そういう良い同僚との関係よりも、お金を優先してしまいました。彼は愛よりも欲望を優先してしまったのです。彼の心にはゆとりがありませんでした。
 私たちは心の欲望を動機とするとき、ゆとりがなくなります。欲望が強い人は、わりといらだちが多いようです。願望の裏には貪欲というものがあり、健全な欲のように見せかけてはいても、健全な欲なら持っているはずの寛容さを示すことができません。
 私たちももし、怒りっぽいという性格があるならば、ひょっとしたら愛が動機となっていない可能性があります。自己愛、利己的な愛があると、怒りが出やすいものです。
『外寛内明』(がいかんないめい)の意味
「他人に対してはこころ豊かに優しく対処する反面、自分自身については、身の程を知り、自戒すること。」
 一万タラント赦された人は、他人に対して心優しくすることができませんでした。「一万タラントを赦されたからには、もう一銭も損はできない。百デナリもの金を待つなんてありえない。」と、欲望によって彼の心は狭められてしまいました。
 また、自分を冷静に見ることができてないので、「こんなに赦されている者なんだ」という事実を無視して、借金のある相手にだけ責任を押し付けていくという心になってしまっています。彼は自戒することもできなくなっていました。
 欲望が中心だとこういう態度が出てきます。私たちは神様の聖い愛に触れられて、「私もこんなに赦されている」「こんなに忍耐深く、私の人生を聖い愛をもって、神様は寛容を示してくださっている」という、身の程を知って自戒することが必要です。
 「もう人を責めてはいけない。隣人を愛していこう。」と自戒することを思い出していただいて、『外寛内明』という四字熟語に要約していただいて、寛容さの訓練・怒りを治める訓練にチャレンジしていただきたいと思います。
【デボーション参考ポイント】
「怒りを治めることの重要性に気づき、チャレンジを続けましょう。」
 自分の怒りやすさは治らないなどと決して思わないでください。神様は私たちを、怒りを出すためにご自身のかたちに似せて造られたわけではありません。愛のかたちにお造りになりました。ですから、怒りというのは私たちのもともとの性質ではなく、罪を犯したアダムとエバから引き継がれてきたものです。
 それは罪の結果の感情であり、不自然で不安定な感情です。ですから、カインとアベルの問題でも、カインは怒りましたね。その怒りの結果、弟アベルを殺してしまいました。この怒りは絶対に徳を高めることはありません。人間の怒りは神の義をまっとうできないと書いてあります。人間の感情的怒りは、壊すことしかできないのです。
 罪からくる感情である怒りは治らないものではなく、もともとのあなたの性質でもないことを、神様の創造の目的からはっきりと悟りましょう。そして、罪から吹っ掛けられたのが「怒り」であることと、これを治めるべきであることを決意しましょう。
 罪を治める力は神様の愛から来ます。「こんなに寛容を示していただいている」という、寛容な愛を感じるところから正しい良心に力をいただいて、罪の感情である怒りを治める強さをぜひ持っていただきたいと思います。
 そのためにも祈りの時間が大切です。怒りが出たら祈る、怒りが出た後も祈る、どちらにしても怒りに対する私たちの対応というのを、体験を通して治めるこつをそれぞれつかんでいただき、見つけていただきたいと願っています。神様はそれを願っておられるのです。教えて治められるような怒りであれば問題にもならなかったでしょう。怒りを治めるには体験が必要です。何回も失敗するでしょう。でもあきらめずに、ぜひチャレンジしていただいて、怒りを出してしまい、誰かを傷つけてしまったことがあれば、ぜひ謝って、「もうしばらく気長に待ってください。」と願いましょう。悔い改める姿勢をあらわにして、周りの方々に謝罪し、神様の愛に寛容を身につけるように努めていきたいと思います。
 自分が一番怒りっぽいと自戒して、身の程を知って、夫婦の間、家族の間でできる限り怒りがないように努めていきましょう。それがすべての人との平和を追い求めるこつでもあるのです。寛容さ、平和を追い求めるにあたって、大事な徳目の一つと言えるでしょう。

 

 

 

 

 

■2016年10月2日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 善意ある聖い愛  up 2016.10.2


主題聖句(エペソ5:8〜10)
あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。
―光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。―
そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。 

 

 

 

 「光」ということばで、神の国に属するものを象徴しています。私たちは、神の国に属する者とされたということですね。
 自由奔放に生きる人はルールを嫌いますが、放縦を本物の自由と取り違えているのです。「人は人として」生きる以外道はありません。ましてや救われた私たちが「神の子として」生きるのは、当然ではありませんか。光の結ぶ実として一番に挙げられた「善意」は、動機の部分です。今週はあらゆる善意にチャレンジしていきたいと思います。
 話を少し戻して4週前からの流れを思い出してみてください。まず「へりくだり」についてお話ししました。神様はへりくだった者を決して見捨てず、その人と共におられます。その神の愛に対して、私たちは忠実をもって応答しようとします。この忠実さは謙遜から出ています。謙遜とは多くもなく少なくもない、自分の分をきっちりと果たすことです。そして先週は、人を自分よりも優れた者として敬う心を学びました。
 これらのへりくだり、忠実、謙遜、尊敬といったものはすべて、まず神が私たちに対して示してくださったものです。
 私たちを救うために人となられた「へりくだり」。私たちを愛し続けてくださる愛における「忠実」。罪人相手にもかかわらず「謙遜」に接してくださっています。私たち一人一人の魂を「尊いもの」として見てくださっています。このような愛の中に生きている者として、私たちはこの愛に心動かされ、愛してくださった方のようになっていきたいという動機が生まれてくるのです。
 「へりくだり」「忠実」「謙遜」「尊敬」のどれも、命令でできるものではありません。神に愛された結果としてそのような気持ちが自発的に起こされてこそ、上記の4つにチャレンジする心の動きが起こってきます。愛されていることを知らずして、上記4つのテーマに沿えるよう努力しても、その道は困難です。もしできても、自分の力と思うと愛にはならず、ごう慢になってしまいます。
 イエス様のもとに来て「永遠のいのちを得るためには何をしたらよいか」と質問したお金持ちの青年がいました。(マタイ19:16〜22)彼はお金によって自分の存在を支えていることを指摘され、何もかも捨ててイエス様について行くことをチャレンジされましたが、できませんでした。彼はルールを守っていても、神を愛することはわかっていませんでした。それは律法学者やパリサイ人も同じことです。
 今日皆さんに、善意ある神様の対応を感じ取っていただき、「私たちも善意ある生き方を目指したい」という気持ちを起こしていただけるような、みことばからの啓示をいただいて欲しいと願っています。

1.『善意』とは?(エペソ5:9)“みことばは前述”
A)日本語からの意味
「善良な心。他人のために思う心。好意。他の人を好意的に見ようとする心。」
B)ギリシャ語からの意味(この単語は、ある時は「善」と訳されたりもします)
「直立。高潔、善良、正しさ、親切。
生活と心においての正直さ。慈悲、善、善意、公正。」
 「良いこと」を聖書的に言うと、隣人を愛することになります。他の人のために思う心を持つのは、隣人を愛することにつながる心の動機なので、そういう心を持っている人は善良な人と言えます。ギリシャ語の方には「他の人のために思う」という意味は含まれていませんが、文化的に言えば、「正しい」「善意」「善行」と言えるものは他の人のために行うものであるというのが、どこの国でも一般的な道徳になりますから、この善意は適切な言葉と思われます。

【内容観察】
「すべての人を照らすまことの光であるキリストのからだなのですから、あなたがたも光として実を結ぶのです。その実とは、他の人のために善を行おうと好意的に見る隣人愛と創造主なる神は唯一であるという畏敬の念からの正義と真実なのです。」
 
 善とは隣人愛に基づき、相手を何とか生かす方法はないか、良い点はないかと、その人の将来を良い方向に向けるようにという隣人愛を基にしています。相手の90%悪いものが表に出ていても、残り10%に目を留めて、良い点を見ていってあげるのが、善意であり善良さです。光にはそういう実が見られます。実とは目に見えることなので、私たちもクリスチャンになると、自分より他の人のことをよく考えるようになっていきます。自分はもう神様から永遠のいのちを与えていただき、恵みを豊かに与えられているのだからおいておくのです。もっと助けが必要な人のために、自分を用いていただこうとします。それはあなたが、光の子どもとして救われたことの証でもあります。光の子どもとして育ってくると、そのように周りの人々のことに関心を持ち、周りの人々の救いや手助けを願う隣人愛が育ってくるのではないでしょうか。
 その隣人愛にあたっての私たちの判断は、「創造主なる神は唯一である」という、神を畏れる心から来ています。何が正義であるか、何が真実なのかを見極めていく基準がそこにあります。
 社会一般の価値観でなく、歴史的価値観でもなく、「神様がおられる」というところから価値観が身についてくる時に、光の結ぶ実として正義と真実の実が生まれてきます。
この正義と真実は、世の中や社会の常識と異なる場合も出てきます。創造主が何を第一にされ、何を最優先に物事を考えておられるかというところからの正義と真実なので、私たちも間違わないようにしましょう。何よりも聖い愛を大事にしておられる神様のお心から逸れないように。

【デボーション参考ポイント】
「神は罪人である私たちを、善意をもって見てくださっています。ですから、私たちも善意をもって交わりを持ちましょう。」
 ここで1つ聖書からの例を挙げます。ダビデが三男アブシャロムから王位を奪われたときのことです。(第2サムエル16章)若く美しいアブシャロムの策略でエルサレムから逃げることになったダビデの前に、前王サウルの子孫の一人シムイが現れ、ダビデを呪いました。いきり立つ部下たちをなだめ、ダビデはこう言いました。「神があの者を通して私を罰しておられるのだ。(それは良いことなのだから)放っておきなさい。」
 神がすべてを導いてくださる中にあって、今の状況が起こされているのだから、この出来事を通して、神は自分をあわれんでくださるやもしれない、とダビデは思ったのです。非難され呪われることを通して神は私を顧み、私の悲しみや傷ついた心にいやしと祝福をもたらしてくださるかもしれない、と良い方向に思いを向けました。ダビデは非常に神様を敬うすばらしい人でしたから、神様に関することを悪くはとらなかったのです。
 何が起こっても神は良き神様だと信じきって、シムイの呪いをも善意にとりました。これはなかなかできないことですね。ダビデはそれほどに心砕かれ、へりくだり、忠実で謙遜で、敬う心を持っていたので、善意をもって受け止めることができたということでしょう。それは神がどれほどダビデを愛してくださっているかをダビデが知ったからだと思います。
 私たちももっと、神様の大きな愛の御手の中で、聖い愛の中で、聖い愛を求め、聖い愛の中に歩む私たちとしてこれからもお互いに神を愛し神を畏れる心をもって善意ある交わりをしてまいりましょう。これは実行する気持ちが起こされてくるまでは、律法的になってしまうので、実行できないものです。ですから、まず神が私たちを愛してくださったとあるように、神に愛されることを知らなければ、良い方向に進めない罪人が私たちです。罪人が前向きで善良な者へと変えられる方法は、愛の力しかありません。私たちのかたくなさが残っているなら、もっと深く神様を愛するために、神様の愛をまず知ってまいりましょう。

2.聖い愛による『好謀善断』(ローマ15:14)
“私の兄弟たちよ。あなたがた自身が善意にあふれ、すべての知恵に満たされ、また互いに訓戒し合うことができることを、この私は確信しています。”
★『好謀善断』(こうぼうぜんだん)の意味
 しっかりと考えて、物事を正しく処理すること。
 
 パウロはローマの教会にいろんな問題があることを知っていましたが、神を畏れ神を愛し神の愛を十分に心に感じていたので、教会への信頼は揺らぎませんでした。パウロ自身もパリサイ人として神様に背を向けていた過去を踏まえ、「教会を迫害する者であった私を救いに導いてくださった神。この方は私を信頼し、私に現れてくださった。」という救いの大きな体験のゆえに、ローマの人々にどんなに悪いところがあっても「私はこのように確信する」と前向きに良い方に捉えています。
 問題のない教会など一つもありません。私たちは罪人なのですから、問題を難しくしてしまう人間の集まりのようなものです。パウロはそういう人々に対して、神様の愛をもって善意に見て、未来を信じて告白しています。私たちもぜひ、今は悪者同士でも、やがて良い交わりができる神の家族になれると信じましょう。神様はそのために私たちを救ってくださいました。罪人を、互いに愛し合えるような神の家族へと神様は私たちを育ててくださっています。そして、神が育てて下さっているならば、必ず神が望まれる姿になるに違いありません。パウロはローマの教会に対して、手紙を通して励まし、信仰を表しています。

【内容観察】
「兄弟たちよ。あなたがた自身が聖い愛からの善意にあふれ、主を畏れるところからの知恵に満たされ、また、神の慈愛をむだにしないよう互いに教えさとし、過ちを犯さないように注意し合うことのできる、神の愛のうちに歩んでいる人々であると確信しています。」
 ものすごく前向きに、好意的に捉えた言葉ですね。私たちもメッセージを聞いた後に同じように考えたいと思っていますが、なかなか現実には反映できません。ここにやはり、愛によって働く信仰が必要なのだと思います。見える状態が不十分でも、愛によって働く信仰すなわち、「罪人を愛してくださって、罪人の人生の未来をひとり子イエス・キリストのあの姿へと近づいていけると信じて、私たちを導いてくださっている神様のお心」を信頼して、「私たちもなれる。そのように造り変えられる。」と神様の愛を信じ、未来に希望を持ち、お互いに善意に捉えていくということを訓練しましょう。それを通して本当に自己中心が砕かれ、「神様に私がどんなに愛されているか」を知ることができます。
 私たちが善意に捉えようとする時、相当の葛藤が起こります。ましてや神様は「罪人を愛する」という内なる葛藤を抱きつつもそれを足の下に踏み、未来を信じて、まだ私たちが罪人であったにもかかわらず、ひとり子イエス・キリストを罪の贖いのためのいけにえとしておささげになったことを通し、私たちへの愛をお示しくださいました。良い点が見えたから救いをもたらしてくださったのではなく、何も良い点が見えなくても、神はまず愛を私たちにお示しになったのです。私たちはこの点をいつも思い出しながら、兄弟姉妹を善意に見ていく習慣を訓練していくことが求められていると思います。
 悪意にとったとして、気持ちのよいことは何もありませんから、だまされてでも善意に解釈した方が平安に過ごせるとは思いませんか?一般社会でも、悪くとると自分の心が醜くなるし、不幸になり、幸せが消えて平安がなくなります。それで、だまされてでも嘘でもいいから、良い方向へ信じていくのです。世の中の人は自分に暗示をかけ、心を治めていくしかありませんが、クリスチャンには根拠があります。私たちには、愛に報いてくださるお方がいるのです。そういう心を持って善意に捉えていくことが大事だと思います。
 善意に捉えると心が平安になります。私たちクリスチャンが悪意をもって行動したら、神の前に良心のとがめがあり、心が責められるはずです。皆さんも悪意の捉え方でなく善意ある捉え方で、聖い愛のうちを歩むように求め、チャレンジしていただきたいと思います。

 

 

 

 

 

■2016年9月25日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 聖い愛は人を尊ぶ  up 2016.9.25


主題聖句(ローマ12:10)
兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。 

 

 

 

 「愛」は相手に価値を生み出します。何もないように見えても、そこに価値を見出して尊ぶのです。それが神様の聖い愛です。
 主題聖句にある「尊敬」や「人を自分よりまさっている」と思うのに大切なことは「互いに」です。

1.『尊敬』とは?(マタイ27:9)
“そのとき、預言者エレミヤを通して言われた事が成就した。「彼らは銀貨三十枚を取った。イスラエルの人々に値積もりされた人の値段である。”

【内容観察】
★ギリシャ語の「値積もり」「値段」は、『尊敬』と同じ言葉にも訳せます。
値積もりされるほど価値があり、注目される有用で重要なものという意味です。
 相手を値積もりするという、こういう発想は日本人には理解しづらいですが、現実的でわかりやすい価値判断の方法です。

★イエス様は、銀貨三十枚に値積もりされました。それは当時の「奴隷」の値段で、今の値段だと百万円くらいです。
 ユダは会計をごまかしていたので、その穴埋めもあったのでしょうが、銀貨三十枚でイエス様を祭司長たちに売り渡しました。祭司長たちが銀貨三十枚にした理由は、人々から尊敬を集めているイエス様にねたみをもっており、絶対に認めたくないというねたみからくる怒りでイエス様への侮辱を表した額です。
 尊敬とは、その人の性格や品性に対する価値判断がもたらします。相手を値積もりするということは日本では抵抗がありますが…。
 相手を尊敬するには基準があると思いますが、大体、自分よりもすぐれた才能があたり、まねできないようなものがあると「尊敬」ということばを使います。
 神様に対するあなたの尊敬を示すとして、いくらくらいの値段をつけるでしょうか。値段がつけられないくらいと言われるかもしれませんが、それはそれほど尊く思い、尊敬しているということでしょうか。それではその尊敬しているという姿勢をどれほど神様の前に表しているでしょうか。
 自分は尊敬しているというつもりでも、案外やっていることはそれほどではないかもしれません。気持ちと実際の行動との間にギャップがあるということは、本当に尊敬しているという意識が薄いということです。
 本当に尊敬しているなら、腹が立っても自分を制することができますし、自分を犠牲にして仕えることができるはずです。

2.兄弟姉妹への『値積もり』(第1コリント12:18〜22)
“しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。 もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。 そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うこともできません。 それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。”
【内容観察】
★教会をキリストのからだにたとえ、互いを各器官とたとえている。 
 互いに値積もりをするには、この考え方が必要です。すべての兄弟姉妹が自分にとって大切であり必要な存在なのです。体にとって全部の器官がそろってこそ完全であり、どの器官であれ体から離れては存在できないのです。
 例えば、牧師や前で演奏している人々、聖歌隊の人たち等がいますが、もし、誰も聞く人がいなかったら牧師も演奏者も聖歌隊も虚しくなります。
 牧師の存在は聞く人々によって支えられています。また、聴衆も語る人がいないと困ります。どちらも互いの存在を支え合っているのです。そして、互いに相手のほうが自分よりまさっていると考える方がさらに聖いへりくだりになります。
 そのように私達は何ができるかで互いを判断するのではなく、「あなたがいてこその私です。」と思えることが大切です。

3.『愛屋及烏』の値積もり(第1コリント6:20)
“あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。”
『愛屋及烏』(あいおくきゅうう)の意味
溺愛、盲愛のたとえ。その人を愛するあまり、その人に関わる全て、その人の家の屋根にとまっている烏さえも愛おしくなるということから。
 それほどに好きで好きでたまらないという気持ちから値積もりがなされるのです。

【内容観察】
★教会をキリストのからだにたとえ、互いを各器官とたとえている。
★神が創造されたからだには、何一つ不必要な器官はない。
★だから、兄弟姉妹を自分よりも勝っていると値踏みするべきである。
 代価とは、ひとり子なるイエス・キリストの命です。それほどの価値に値積もりされたのです。罪人の私達を、神様がご自身のひとり子の御子の命に匹敵すると値積もりされたのです。これは驚きべきことであり、信じがたいことです。誰も見向きもしない罪人を高価な御子の命とひきかえにするなど、考えられないことでしょう。神は万物の中で最悪の罪人を選ばれたのです。それほどの代価を払って買い取ってくださったのですから、神様の愛の輝きを自分のからだをもって表そうではありませんか。
 「こんな罪人の自分のためにでも神様はひとり子イエス様の命をとって与えてくださった、私がこうして罪赦されてここにいるのは、それほどの愛を示してくださっている神様のおかげです。」と証ししていくことが、神様の栄光を人々に表していくことになります。
 私達を買い取るために、これ以上の価値はないという御子の命の代価を払ってくださったのです。
 このみことばには、深い神様の愛が表されています。その神様の愛を受けている者として、兄弟姉妹を尊敬し合う愛の心を互いにもちましょう。

 

 

 

 

 

■2016年9月18日 日曜礼拝メッセージより(辻和希伝道師、横路伝道師)

 聖い愛は謙遜  up 2016.9.18


主題聖句(第1ペテロ5:5)
同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。 

 

 

 

【辻 和希伝道師によるメッセージ】
1.謙遜を身につける(第1ペテロ5:1〜5)
“そこで、私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、また、やがて現われる栄光にあずかる者として、お勧めします。あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。そうすれば、大牧者が現われるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。”
 先週は“忠実”がキーワードでしたが、今週は“謙遜”がキーワードとなります。聖書の謙遜とは、神の前に、自分は取るに足りない存在であることを認める、心の態度を言います。主題聖句の(第1ペテロ5:5)にある謙遜は、『タペイノー』というギリシア語が使われています。この単語は他の意味に、低くする、下げる、卑しくする、へりくだるといった意味があります。ですから、新約聖書において、日本語で謙遜と訳されている箇所は6カ所しかありませんが、『タペイノー』が使用されている箇所は、実に34カ所もあるのです。その中の一つに、イエス様がご自身のことを「わたしは心優しく、へりくだっているから、...」(マタイ11:29)と表現した箇所があります。へりくだること、つまり謙遜の姿勢は、イエス様がこの地上で実践された姿勢の一つなのです。イエス様のような完璧な謙遜は難しくとも、少しでもイエス様のように歩んでいくことをチャレンジしていきましょう。
 そこで、主題聖句の(第1ペテロ5:5)を含む1節から5節から、謙遜について深く見ていきたいと思います。
 先月も説明致しましたが、この手紙は、苦難と戦っている異邦人のキリスト者への励ましとして書かれたものです。苦難の中にある教会に対する勧めが書かれているのが5章です。1節から5節の中で謙遜を身に着けるための3つポイントを見ることができますので、順番に見ていきましょう。

(1).卑しい利得を求める心からではなく、心を込めて。(2節)
 これは、長老に対して語られています。長老とは、神の羊の群れを牧する教会のリーダーのことです。私たちの日常においては、教会のリーダーはもちろん、一家の長や何かしらのグループのリーダーも、このみことばが当てはまります。謙遜には、相手への心遣いが大切になってきます。

(2).支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。(3節)
 人の上に立つ立場の人への究極の勧めと言ってもよいと私は思います。私たちの最大の模範者はイエス様です。イエス様も弟子たちの足を洗うという模範を示されました。(ヨハネ13:5)また、イエス様の生涯の中で、人々を支配したことは一度もありませんでした。謙遜の姿勢は、支配ではなく模範を示すことにあります。

(3).長老たちに従いなさい。(5節)
 5節は、若い人たちへの勧めです。若い人とは、若さゆえの勢いや力が、時として反抗や肉欲に支配されてしまうといったことを表現しています。長老に従うとは、立てられた者に従うということです。それは、全ての権威を定められた神様に従うことに直結するので、とても大切な姿勢なのです。イエス様は地上での歩みで、天の父なる神様のみこころに従い通しました。十字架にかかることも従い通しました。謙遜には、上に立てられた権威に従うことが大切です。
この3つのポイントから、「謙遜」は、相手との関係において自分を低くすることで、相手を高める意識のことだということがわかります。単に自分の側を下げる場合も謙遜だと日常では認識されていますが、自分を必要以上に下げると、それは「卑下」になってしまいます。相手を高める意識を持つには、相手に対しての尊敬が必要になってきます。先に見た、心を込めて、群れの模範となることができるのは、相手への尊敬があるからです。上に立てられた人に本当の意味で従えるは、相手への尊敬があるからできることなのです。 
 そして、謙遜の姿勢の結果として、ペテロはこのように述べています。

◎しぼむことのない栄光の冠を受ける(4節)
◎へりくだる者に恵みを与えられる(5節)
 イエス様は言われました。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」(マタイ5:3)
 未来の約束だけでなく、謙遜であることは、私たちの日常生活にも大きな益をもたらします。
 もう一度最後に、聖書が言っている謙遜とは、神の前に、自分は取るに足りない存在であることを認める、心の態度のことです。それは、神様の絶対の主権を認め、神様を高く上げることです。この姿勢が私たちの根底にあるとき、それは、日常生活においても、兄弟姉妹との関係においても、形だけの謙遜や、自分を卑下してしまうことなく、自然な謙遜を発揮できると私は信じています。その謙遜から溢れてくる謙虚な姿勢や忠実な姿勢は、私たちの日常生活にも大きな益をもたらすのです。

【横路伝道師によるメッセージ】
2.イエス・キリストの謙遜(ピリピ2:6〜8)
“キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。” 
 謙遜の一番のお手本は、イエス様だと思います。
(1).捨てる謙遜
 イエス・キリストは、全てを捨てられたお方です。最初のアダムは、木の実を食べて神のようになろうとしました。得ようとして食べたのです。しかし、第2のアダムと言われるイエス・キリストは、神の立場を捨てて人を救おうとされました。アダムは得て高ぶることを選びましたが、イエス様は天の位を捨ててこの地上に来られたのです。これは聖い愛によるものです。
 例えば、私たちが今の生活を捨てて、電気も何もない山の中で生活をしなさいと言われると、抵抗を感じますね。捨てるということは難しいものです。断捨離という言葉があります。いらないものを捨てることですが、私たちの心の中にも捨てないといけないものがたくさんあります。
 私たちは捨てるということに対して、不安や損をするという恐れがありますが、本当に謙遜になるためには、捨てなければならないと教えられます。イエス様はご自分を無にして、ゼロになるまで捨てられたのです。

(2).低くする謙遜
 私たちは、高いものを欲しがります。高い地位や高い教養など、高いものが好きで、低いものはあまり好きではないという性質があります。しかし、イエス様は何でもできる方なのに、何もできない者のように、低くなられました。創造者が被造物になられたのです。陶器師が、陶器になられたということです。全知全能の神が、あらゆる制限のある人間の体に閉じ込められました。しかも何もできない赤ちゃんの姿にまでなられました。そこまで低くなられたのです。それは、私たちへの愛であり、聖い謙遜によります。罪と汚れの世界に入って来られ、人間と同じ苦しみを味わってくださったのです。

(3).仕える謙遜
 仕えることには謙遜が必要です。イエス様はご両親に仕えられ、天の父に仕えられ、罪人に仕えられた方です。謙遜でなければ仕えることはできません。イエス様は、弟子たちの足を洗うほどに、仕えることを教えられました。 
 私たちは誰に仕えているでしょうか。家族、会社、教会など、様々な所で仕えるという働きを、謙遜をもってされていると思います。仕えるとは、奴隷の状況の言葉からきています。自分の意思よりも、仕える相手の意思を大切にし、献身的に仕えるという謙遜の姿勢を表しています。謙遜をもって神と人に仕えられたイエス様にならって、私たちも心から仕えるべきだと思います。

(4).与える謙遜
 イエス様は私たちにいのちを与えてくださいました。謙遜でないと、与えることはできません。相手を愛していないと与えることはできません。自分が得たいと思っていると、与えるのは難しいですが、本当にへりくだって謙遜を持っている人は、愛をもって与えることができます。イエス様は私たちに、ご自分のいのちを捨てて、永遠のいのちを与えてくださいました。イエス様が天に昇られた後には聖霊を与えてくださいました。
 さて、私たちは今だれに何を与えようとしているでしょうか。私たちが愛し仕えている相手に対して、何を与えているでしょうか。
 ある人は、時間を与えていると言いました。私たちのいのちは時間です。時間を与えるということは、その人のいのちを与えていることになります。その人にとっては一生にその時しかない時間です。その時間を誰かのために与えるということは、素晴らしいプレゼントではないでしょうか。私たちは謙遜をもって、誰かのために時間と愛を与えていきましょう。
 また、時間を神様にささげて、神様と共に過ごすという時間を持つことはどんなにすばらしいことでしょうか。イエス様の聖い愛の謙遜は、私たちに将来と希望を与えてくださいます。
 1600年代の、ブラザー・ローレンスという有名な修道士のお話があります。年を取ってから献身して、修道士となられたようですが、立派な方であったので、ほどなくある修道院の院長として就任されました。そこは、非常にトラブルの多いことで有名な修道院でした。
 彼がその修道院の門をたたくと、若い修道士たちが出てきて、年を取った彼を見て、新しい修道士が来たと思い、「新入りは早く食堂に行って皿洗いをしなさい。」と言いました。なんとそのローレンスはそこで、「はい。」と言って食堂に行き、皿洗いをしました。その日に限らず、彼はなんと3か月も皿洗いをしました。若い修道士たちは、この白髪交じりの彼を、無視したり、いじめたり、軽くあしらったりしていました。
 ところが、3か月たったある日、その修道院にローレンスを院長として任命した監督が、様子を見にやってきました。「この修道院の院長はどこにおられますか」と修道士たちに聞くと、修道士たちは、「院長はまだ来ていませんよ。」と言いました。それに驚いた監督は、「一体どういうことだ。私がローレンスを3か月前に院長として任命し、ここに送ったのだが。」と言い、その言葉によって気づいた修道士たちは顔色が変わりました。急いで食堂に行って、ローレンスの前にひれ伏して赦しを乞うたということです。このローレンスは非常に謙遜な方だったので、彼らを赦し、何事もなかったかのように院長の仕事を始めたそうです。
 黙って皿洗いをし、他にも人の嫌がる仕事を引き受けていたこのローレンスの謙遜な姿にみんなが感動し、有名なお話として残っています。それ以来その修道院は、国中で模範的な修道院に変わったと言われています。
 この話は、イエス様によく似ているのではないでしょうか。イエス様は、地上に来られた時に、門前払いをされ、泊まる家もなく馬小屋でお生まれになりました。神の子として認めたのは一部の人であり、多くの人は無視をし、ついには十字架につけてしまいました。しかし、この方がまことの神であったと分かった時に、初めてひれ伏して、「イエス様は神様の子でしたのに、殺してしまいました」と言って、多くの人が悔い改めて、初代教会ができたのです。イエス様はへりくだって、天の栄光をすべて捨ててこの地上に来られました。このイエス様の謙遜に見習っていきたいと思います。

【参考聖句】(ピリピ2:3)
“何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。”
 「互いに」という言葉が非常に大切です。一方的にいくら愛して、相手を立てても、相手の人が高慢であってはなかなか平和が訪れません。互いに愛し合い、互いに人を自分よりも優れた者と思うことが大切です。謙遜によって、ブラザーローレンスのように周りを変えていくことができます。この謙遜をイエス様から学んでいきましょう。

 

 

 

 

 

■2016年9月11日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 聖い愛は匪躬之節の忠実さ  up 2016.9.11


主題聖句(箴言28:20)
忠実な人は多くの祝福を得る。しかし富みを得ようとあせる者は罰を免れない。 

 

 

 

 『匪躬之節』(ひきゅうのせつ)
   自分の利害を顧みないで忠節を尽くすこと。 
 
 救い主イエス様は、自分の利害を顧みず、神様の愛に忠節を尽くし、十字架の贖いのみわざを忠実に実行されました。イエス様が忠実だったがゆえに、私たちは救われました。私たちが永遠の未来に対する期待と希望を持てるのは、イエス様のお陰なのです。私たちにはイエス様の忠実さに心から感謝することが必要だと思います。

 イエス様の33年間の人生(特に最後の3年半)は、どれほど心傷つく日々であったことでしょう。しかも最後には良いわざをなしてきたことに対する裏切りとも取れる民衆の仕打ちを受けて、十字架につけられました。それでもイエス様は彼らの何も知らないでいる愚かさをあわれみ、神に忠節なお心で見てくださっています。
 今週はぜひ、「イエス様の忠実のゆえに私たちが幸いを得、恵みを豊かにいただいていること」を思いみながら過ごしていただきたいと思います。また、私たちもできる限り忠実さを神様の前に表していきましょう。
 自然からの害を私たちが受けるようになってしまったのは、まさに「富を得ようとあせる」行為の結果です。産業革命以降、富を得ようとあせった人類に対しての報いが、大自然の猛威となって降りかかっています。私たちもあせることなく神様の摂理をしっかりと見極めてそれに従い、心から神を信じて歩むことにより、多くの祝福を得ることができます。

1.賜物の管理者(第1ペテロ4:10)
“それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。”
【内容観察】
★いのちも家族も環境もすべて神からの賜物である。
 私たちが今持っているものはすべて、神様からの贈り物です。自分の存在や意志でさえ、神様から与えられています。

★各自は、神の財産を管理する良い管理者である。
 私たち人間は、アダムに与えられた神様の祝福のおことばどおり、「地を治める」管理者です。地は神様の財産であり、私たちはそれを忠実に管理する役目を負っています。地にあるすべてのものを任されている管理者として、自分中心に主人のものを悪用しないように、自制が必要です。
 今まさに、神を畏れない人々によって、神様の財産が悪用されている現状があります。全人類の一人として反省すると共に、クリスチャンとして良い管理者の人生を考えていくことが必要ではないでしょうか。
★互いに仕え合うために、神からの賜物を管理する。
 神様の財産を用いる目的は、「互いに仕え合うため」です。神様が万物をお創りになった目的は、私たちが互いに仕え合うことでした。ご自分の財産を通して、人々が互いに仕え合うことを計画され、万物を創られ、私たちに管理を任され、管理の目的は互いに仕え合うことだったのです。私たちは互いに仕え合うために、自分に与えられているものを活用していきましょう。
 このように私たちは、神様の賜物を管理者として与えられていることが基本にあります。では良い管理者とはどういうことでしょうか。

2.管理者に要求されること(第1コリント4:2)
“この場合、管理者には、忠実であることが要求されます。”
 主人から管理人に任命されるのは忠実な人です。能力よりも重んじられる主人への忠実とは、どんなものでしょう。
 創世記でヨセフが兄たちの手によってエジプトに奴隷として売られた時、彼を買った侍従長のポティファルは、自分の家の管理をヨセフに任せました。ヨセフが非常に誠実な心を持ち、また自分の神を敬っていること。裏表なく神の前に歩んでいるのを見て、ポティファルは自分の財産を任せるに足る人物だと思ったのです。ポティファルの屋敷には他にも大勢の奴隷たちがいたはずなのに、一番後に来た新入りのヨセフを全体の管理者としたのは、彼の忠実さのゆえです。
【内容観察】
★管理とは、目的を効果的、能率的に達成するための維持発展の機能。

★管理者は、主人のみこころに沿った管理を行う。
 管理者は、主人の考え(目的)をできる限り効果的・能率的に達成するようにと維持、発展を導く、指導する役目を果たす者です。

★それゆえ、主人に対する忠節さと忠実さが必要とされる。
 この「忠節」とは、主人に対する心の姿勢です。「忠実」とは実際の行動を指し、語った言葉通りのことを行います。ただし、その動機は主人に対する忠節な心を持っていなければなりません。私たちは神様の愛を示され、どれほど神様に愛されているかを知ったことにより、神への忠節を心に決心します。それがイエス・キリストを信じた時の決心です。箸にも棒にもかからぬこの罪人を、自分の子、神の国の相続人として救い出し、みもとに引き寄せてくださった、その愛に対して私たちは真心から仕えて行こうという決心を神の前にしたしるしとして、洗礼を受けるわけです。

3.忠実さを要求される理由(ルカ16:12)
“「また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。」”
 この世の主人は自分の財産を殖やし、名声・名誉を上げるために管理人を用いますが、聖書では違います。神様ご自身のプラスになる何かがあるのではなく、管理人として私たちを試み、また管理人にふさわしく整えていかれるためにこの世を用いておられます。それは、私たちに持たせるものがあるからです。
 昔、私(辻師)が表具師のもとに弟子入りした時、ぼろぼろのノコギリとカンナを道具としてあてがわれました。使い物にならないようなその道具を、仕えるように自分で手入れしなさいと申し付けられたのです。管理人もちょうどそんな仕事です。散らかった倉庫を、主人の使い勝手が良いようにすることを考え、整えるのも管理人の仕事なのです。
 私が最初に与えられたぼろぼろの道具とその手入れの仕事は、後に良い立派な道具が与えられるためでした。役に立たない物を役立てるような工夫や考えをそこに見いだすことを通して、良いものをさらに優れた用い方ができるいろんな工夫や考え方を持つことができます。
 今、私たちはこの地上で、神様のお造りになったすべてのものを、良い管理者として管理しています。今、私たちは試されているのです。神様は私たちを相続人として見ておられるのですから。

【内容観察】
★継承者や相続者として認められるには、忠実さが必要。
 忠実な心というのは無駄遣いをしません。自分のものであろうとなかろうと、そこに知恵を用いて、より効果的な結果を出すようにと尽力します。その知恵をつけるために、私たちは今管理人として、神様のものを自分のもののように使うことが許されている立場にあります。 神様はたとえ私たちが失敗して、神様に損を与えてもかまわないと考えてくださっています。しかし、もし私たちが自分のものを使って失敗し、それを失ってしまったら、もう取り戻すことはできません。私たちに与えられたものを絶対的に維持し続けることができるために、今管理人として訓練を受けているのです。管理人として与えられた能力と力を、「互いに愛し合う」という目的のために上手に活かすことができるようにと、神は見ておられます。

★他人のものであるこの世において、忠実さが試されている。
 この世は試みに満ちており、それは忠実さが身につくためです。神様が忠実さを求めておられるがゆえに、どうぞあきらめないで、忠実さを神の前に守り続けましょう。祈り、賛美をし、みことばから教えられ、聖霊様との交わりを通して知恵をいただいて、乗り越えて行っていただきたいと思います。

★忠実な者が神の国を受け継ぐ。
 忠実な者が受け継ぐという点を、どうぞ覚えておいてください。不忠実な者は入れません。神様の愛にいかに忠実であるかを、今私たちは鍛錬されています。

【デボーション参考ポイント】
「『欲』を満たすための忠実さではなく、愛ゆえの忠実さであるように。」
 欲を満たすために、今はがまんして誰かに仕えておくという考え方がこの世では主流です。心の中はまるで違うわけです。しかし、私たちクリスチャンがもし、自分の願いをかなえるために神様に従っているなら、それは欲を動機としています。それは汚れたものです。
 愛をもって私たちを救うために贖いのみわざの苦しみを身代わりに受けてくださったイエス様の愛ゆえに、私たちは神様の愛に忠実でありたいと願い、できるだけ主人を悲しませないようにと心がけていきます。これが私たちの基本的心構えです。
 たとえ失敗ばかりでも、心だけは欲望に売り渡さないように、忠節が必要です。
 私たちはイエス様の愛に感動し、すべてを捨ててついて行こうと決心するのですが、実際には「できません」ばかりで、みことばになかなか従えません。そこで思い出すのが、ペテロがイエス様に漁をするように言われた時に、「おことばですから」と従ったことです。彼はプロの漁師としてイエス様に従ったのではなく、イエス様の説教を聞いて尊敬する気持ちから従いました。それが忠実と認められたのです。
「それは世間の常識からずれている」と思う時、私たちは忠実を試されています。私たちには思いもつかないような神様のお考えがあるということなのです。
 皆さんの心に引っかかるようなみことばがあったなら、「今、試されている」と思いを変えて、どうぞおことばに従ってみてください。
 うまく結果を出せなくて心のとがめを持ちながらも、忠節の心から神への悔い改めの実を結ぶように努力していく一週間として、皆さんも歩んでいただきたいと思います。神様に忠実な人は、多くの実を結びます。それは経済にも、周りの人間関係にも良い影響を与えていきます。私(辻師)自身も、忠実さを通して一番の収穫になったのは、多くの人々と信頼関係を結べるようになったことであり、神様の前に感謝しています。
 神様の愛に忠実な人は、周りの人にもその忠実を示していくことを通して、良い人間関係の実を結ぶことができます。

「忠実な 自然の摂理 台風も」

 神様が創っておられる自然の摂理に沿って、大自然の働きは忠実に行われています。昨今の自然災害について「なぜ」という問いかけをよく見ますが、災害も自然条件が整った時に怒っているのであり、原因を作り出したのは私たち人間です。
 すべての生きものの中で唯一自然の摂理に逆らい、自分の都合で産業や技術を発展させる一方で、自然への配慮を怠った結果、異常気象という形で自らに災いをもたらしているのです。自分の不忠実さによって、自分の首を絞める結果になったわけです。文句を言うより、反省するべきではないでしょうか。

 

 

 

 

 

■2016年9月4日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 へりくだった聖い愛  up 2016.9.4


主題聖句(マタイ11:29)
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。 

 

 

 

 聖い愛であるイエス様はへりくだった方であるということを、今日はお話ししたいと思います。しかし、私たちが「自分はへりくだらなければならない」とプレッシャーを感じるのではなく、「イエス様はなんとへりくだったお方でしょう」ということだけを、今週はぜひ知っていただきたいのです。

1.キリストのへりくだり(ピリピ6:6〜8)
“キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。”
 イエス様がご自分を「心優しく、へりくだっている」と表現されたのは、ご自分から学ぶことを考えておられたからだと思います。
 イエス様と直接お会いしたことのない私たちに対しても、真実な方であるイエス様は、ご自分がどのような者であるかをはっきりと言われています。イエス様は私たちにとって本当にすばらしい良い先生です。安心して学ぶことができます。
 では、イエス様はどんなへりくだりを現されたのでしょうか。以下に4つの星印が挙げられています。

【内容観察】
★神としての自尊心にとらわれて、固執するようなことはなく。
 私たちは神様の地位と責任を、とても重要で大切なものと受け止めます。しかし、イエス様はそれにこだわることなく、私たちと同じ姿をもって地上に来られました。
 人が自分を義とするのは自尊心があるからですが、自分を明らかにするために自尊心はとても大切です。そして、自尊心を捨てるのはとても勇気のいることです。
 神様も旧約の時代にはご自分をはっきりと主張しておられました。それは創造主としてのプライドです。そのプライドを捨ててまでも、私たちを救うためにこの地上に来られたということですね。

★神としての栄光をすべて捨て去られた。
 栄光とは輝かしく繁栄していることです。称賛されるべき良きものがそこにあるということでもあります。神様は、ご自分の創造主としての栄光さえ隠されて、何もない者のようになられました。

★賛美を受けられるべき方から、被造物と同じ姿になられた。
 被造物からの賛美を受けるべき方が、被造物と同じ立場になられました。陶器師が陶器になったのです。そんなありえないはずのことを、イエス様はへりくだりの心から実際に成し遂げられました。

★従わせる立場の方なのに、最後まで従順であられた。
 人間なら、最高の位にある者というのは、従うことをほとんどしません。しかし、どんなにすばらしい王であっても、家臣の助言に従うなら、へりくだっていると言えます。

 イエス様は従わせる立場なのに、従う立場としての人生を過ごされました。従う者の気持ちを体験されたのです。ヘブル書には「従順を学ばれた」と記されています。
 王は従うということがわからない場合が多いのですが、イエス様は従うことを通して、従う者たちへの配慮や思いを込めて命令を出すことがおできになります。

(1)「仕える者の姿」とは?(ヨハネ15:1、5)
“わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。”
 神様は旧約聖書の中で、イスラエルの人々を「ぶどうの木」にたとえておられます。そして異邦人たちは「野生のぶどうの木」と表現されています。パレスチナ地方では、ぶどうの実は豊かさを表す特別な意味を持っています。
 イエス様は農夫にたとえられた神の御子でいらっしゃるのに、農夫の息子ではなく「ぶどうの木」とご自分をたとえられました。
 農夫のために実を結ぶ、というのが仕える者の姿であり、主人に喜ばれる実を結ぶのが、仕える者として一番大事な部分です。なんでも従順に従うことだけではなく、仕える中で主人の心を受け止め、主人に一番喜ばれるような実を結ぶ選択を、あらゆる面においてすることができるしもべが喜ばれ、尊ばれます。主人はそのしもべに全財産を任せ、家の管理をさせます。
 イエス様は人間と同じ「ぶどうの木」になられました。そして、御父は実を結ぶために「ぶどうの木」を養い、手入れをされる方です。
 人は「ぶどうの木」と同じく、自分で自分の手入れをすることができません。農夫がいてこそ「ぶどうの木」は育ち、良い実を結ぶことができるのです。野生の木には農夫がいないので、良い実を結ぶことはまれです。イエス様は手入れをされる必要のないお方なのに、手入れされる人間と同じになられました。これがイエス様のへりくだりの現れです。
 そして、私たちとのつながりを、「ぶどうの木の枝」として示されています。枝は木につながっていなければ、実を結ぶことはできません。私たち罪人(良い実を結べなくなったぶどうの木)は、もう一度まことのぶどうの木に枝を接木されて、良い実を結ぶことができるようになる必要があります。
 人は神になれないので、神が人となられて、私たちに良い実を結ばせるために地上に来られました。これが、良い実を結ぶために農夫に仕える者の姿です。
 罪の実を結ぶような私たちのために、まことのぶどうの木となって私たちを救いに来られるとは、なんと私たちのことを思い、またへりくだっておられることでしょうか。

(2)「人間と同じようになられた」とは?(イザヤ53:3)
“彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。”
 イザヤ書には、イエス様がお生まれになることや、歩まれる人生についてあらかじめ預言されています。
・さげすまれ→神が人となられたお方なのに、「大工の息子」「ナザレ人」と、イスラエル人からさげすまれた。
・のけ者にされ→良いことをするほどのけ者にされ、無視されていく。
・悲しみの人→神様は私たち以上に敏感で繊細な方です。それなのに、せっかく救いに来たイスラエル人たちにひどい扱いを受けて傷つかないことがありましょうか。神様は彼らを愛しておられるのに、です。社長の立場で社員に非難されるよりも、同僚から非難を受けると、ショックが大きいように、神様の立場で、人から非難されるより、同じ人間の立場まで下って対等な関係で非難されるのは、大変なショックです。
・病を知っていた→誰もがかかる風邪や、子どもの頃にかかったほうが軽くて済む流行り病など、私たちが育っていく中で通る道をイエス様も通られました。病気にかかる人間の肉体の弱さも、その病気を経て強められる経験もされたのです。けがをして血を流されたこともあるかもしれません。
 イスラエルの人々はイエス様が重要な方だと気づきませんでした。病をいやされたり奇蹟を味わったりした人たちも、イエス様の「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む」というおことばの意味を悟らず、ほとんどが去ってしまいました。彼らは御利益的な考えで従っていただけだったのではないでしょうか。
 イエス様は喜びや楽しみよりも、私たちと同じく傷つき悲しみ、嫌なことをこの地上で多く体験されました。それらを受け止めることができるほどのへりくだった心をもって、この地上での33年間を歩まれたお方なのです。
 私たちの「楽したい」「幸せになりたい」という葛藤もよくご存じです。世の中で思い通りの人生を歩める人はごくわずかで、多くは苦しいことの方が多い人生です。そんな私たちと同じ人生を選んでくださったイエス様。はるかに高い地位の全能者が、ちりで造られた被造物と同じ姿で地上に来られ、同じ人生を過ごされたこと。イエス様はこんなに私たちを愛し、私たちの心の痛みまでも共感できる思いやりを持ったお方であり、決して神の御座の右で楽をしている方ではありません。

2.神様にとっての隣人(イザヤ57:15)
“いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。”
 良きサマリヤ人の話は皆さんご存じですね。ユダヤ人はサマリヤ人を差別し、交流を持たない関係にありました。ユダヤ人に嫌われさげすまれるサマリヤ人は、人間に嫌われるイエス様のお姿です。
 そんな中でもこのサマリヤ人は、消えそうな一人のいのちを救うために、それが自分をさげすむユダヤ人であってもかまわず助けました。神様もご自分の創造主としての立場や人間の立場を取り去って、罪のために死にかけている私たちに手を差し伸べられました。それも、天から神の姿のままではなく、人と同じ姿で来られました。
 いろいろな人生の悩み問題を知った中で、手を差し伸べに来てくださった神様。私たちは神様の隣人なのです。

【内容観察】
★心砕かれ、へりくだった人を介護するために共に住まわれる。
 サマリヤ人は、ユダヤ人を宿屋まで連れて行った上に、彼が回復するまで介護の責任を負いました。隣人愛には介護も含まれています。介護は仕事にしろ恩返しにしろ本当に大変なものですが、神様は罪人を介護して、健康を取り戻すための世話をしてくださると考えてはいかがでしょうか。
 私たちができるところは自分でしますが、できないところは隣人として介護してくださいます。養い、成長させてくださるのです。

★宇宙の統治者が、人を直接介護される。
 宇宙の統治者は、たとえるならば天皇陛下のようなお立場です。皇族としてのいろいろなお働きがある中で、陛下が被災地にお見舞いに行かれることがありますね。それも遠くから見るだけの視察ではなく、見舞われる被災者の前にひざを折り、お話を聞き、手を握って、じかに励ましのお言葉をかけられます。そのお姿には全世界の報道担当者が驚嘆します。「なんと柔和でへりくだり、謙遜で徳の高いお方なのだろうか」と。天皇陛下は、私たちの隣に座って、一緒に過ごしたいと思ってくださっているそうです。
 イエス様も同じように、あなたを直接介護されます。あなたは気づいていないかもしれませんが、神の御霊はあなたの内に助け主として住まわれ、あなたを助けておられます。この直接の介護に、どうぞ気づいてください。
 「へりくだった」には「程度が低い」とか「下品」という意味も含まれています。「劣っている」という意味もあります。私たちはいわば程度の低い神の子なのですから、そんな自分を認めて、もれる愚痴不平は心砕かれた痛みから来るものとして、神様は共感してくださいます。
 それは傲慢な気持ちから出た愚痴不平とは違うもので、罪人なる私たちの心砕かれた痛みから出るありのままの姿は、ある意味へりくだりなのです。神様は人の人生を実体験されたので、私たちの気持ちを理解されます。
 不出来な自分をさらけ出した私たちを「心砕かれへりくだった人」と言われます。そして24時間専従の介護士として介護してくださるのです。
 今週、皆さんももう一度、イエス様がご自身のことを「心優しくへりくだっている」とおっしゃるこのへりくだりを、どんなへりくだりなのかと、他のみことばも踏まえてよくよく心に感じ取っていただきたいと思います。
 私たちのためにへりくだられた創造主なる愛の神様について、ぜひ学んでまいりましょう。また、ぜひ知っていきたいと思います。