■2016年8月28日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 聖い愛にあずかる約束  up 2016.8.28


主題聖句(第2ペテロ1:4)
その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。 

 

 

 

 聖い愛を求めるのに困難な状況はありますが、さらなる歩みを進めるために、神様からの励ましを受けていただきたいと思います。
 今日のみことばにおいて強調したいのは、『約束』という点です。これは『神』の『約束』であり、『人』の約束とは違います。ですから、きよめられることに期待と希望をもっていただきたいのです。

1.創造主からの『帯礪之誓』(第2ペテロ1:4)“みことばは前述”
 『帯礪之誓』(たいれいのちかい)の意味
「何があっても絶対に変わることがない固い誓いのこと。
功労のある家臣に天子が誓う言葉で、いつまでも繁栄させることを約束する言葉。」 
 私たちが誓いをいただいたのは、唯一の創造主なる神です。「主イエス・キリストを信じる者は永遠のいのちを持つ」という福音です。どんなに私たちが悪い状況に陥っても、神ご自身が約束すると言われた以上、私たちを立ち上がらせ、きよめ、私たちに励ましを与えて、「あきらめないで約束を待ち望むように。」と、私たちの堕落やあきらめる心や弱さからもよみがえらせて、必ず約束を成就することを含めた言葉が、『帯礪之誓』です。
 
 人は相手にも約束を達成させるための条件がそろうことを求め、それがかなわないと約束を破棄します。しかし神様はご自分が約束された相手である私たち罪人が、最初の約束を守らずに堕落してもやり直しを許され、なんとか約束を守ろうとしてくださる方です。これは旧約聖書に記されている、イスラエルの歴史から知ることができます。イスラエル人たちは罪を犯すたびに懲らしめを受けましたが、神様の約束がほごにされたことはありませんでした。その証拠の一つに、今なお保たれているユダヤの純血の血筋があります。1900年にわたる放浪の中でも、それは失われませんでした。これが奇蹟でなくて何でしょうか。
 
 私たちも救われた最初は希望とやる気に満ちあふれていたのに、クリスチャン生活が長くなるにつれて聖められることの難しさに直面し、あきらめと失望にとらわれていることが多いのではないでしょうか。
それは、自分の力で聖められるように努力するところに原因があります。私たち罪人は自分の力で聖くなることはできません。罪を赦されているだけで、罪を持っていることは変わらないからです。私たちは神様が与えてくださった約束にあずかるだけです。聖い愛は、神様の聖さから私たちに手渡されるもので、罪人には作り出せません。それを約束として手渡してくださるのです。
 
 あなたが資格のない状態になっても、神はご自身の約束を守るために、あなたを励まし、もう一度悔い改めさせて、再び立ち上がって、聖い愛を受けることができるように手を尽くしてくださいます。私たちがするべき努力は、あきらめないで求め続け、待ち続けることです。
考えてみれば、信じて即完全になるのは、罪人にとって困難なことです。私たちは一生をかけて聖められることを、学び続けるのです。英語等は自分から学ばねばなりませんが、私たちの場合、神様が聖めて
くださるのを待つだけです。努力は必要ありませんが、いつでも受けられるように心を開いて待つ姿勢が必要です。あきらめてはいけません。このあきらめない心を信仰と言うのです。
 
 「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるもの」とあります。「神様が私をキリストのように変えてくださる。」という明日を信じて、今日を待ち続けるのです。すると、デボーションをしている人は、その中で神様が今日一日の聖められる課題を与えてくださいます。そして一日過ごせば、いつの間にか聖くなっているというわけです。その証拠に、今皆さんは礼拝に来ておられます。少しでも聖められたから来ているのでしょう?イエス・キリストの御名によって祈るのでしょう?
 
 聖められていない人は、イエス・キリストの名によって祈ることは1、2回くらいしかしません。イエス・キリストの御名によって祈り続けることはしません。待てないのです。それは信仰を働かせず、未来を信じていないからです。
 
 イエス様を信じている人は、未来に対しても良くなることを期待できます。イエス・キリストを信じる信仰をいただいている私たちは、聖められることを期待し、その日一日を過ごしていこうではありませんか。すると、いつの間にか聖くなっています。それは、御霊が「栄光から栄光へと主と同じ姿に造り変えてくださっている」という約束のことばが、私たちの身に成就しているのです。
 
 あきらめてしまうなら、その時から変わりばえのない一日になってしまいます。まるで教材だけが無駄に届いているみたいに、です。
神様に期待しながら、今日一日の仕事をやってみてください。その期待が聖めの神様の働きを受け入れる心の状態を作り出して、聖霊様のお取り扱いが始まるわけです。
 
 いざ始めてみると、試みがやって来て失敗をすることでしょう。そして自分でもがっかりするのですが、それが聖められている証拠です。自分の罪深さが聖められたことの証です。
 
 聖められてない人は、デボーションしたことも忘れて、腹を立てたりします。でも真剣にデボーションをした人は、自分の失敗を悔い、心を痛めます。心痛むことがなくなったらあきらめている証拠です。失望や絶望は、聖められることをまだ期待しているからです。正しい良心がまひしないように、神様に願ってください。デボーションをする時間をもって、信仰を働かせてください。

【内容観察】
「愛にあふれた創造主の高徳によってもたらされた、最高に価値のある、聖く美しい約束が私たちに与えられています。それは、罪人が神の深いあわれみによる罪の贖いによって、キリストとともに御国の相続人となる約束のゆえに、滅びに至らせる世に蔓延している汚れた欲から逃れ、この世において、愛の神の本性にあずかる者となる奇蹟が実現するためなのです。」
 
 今、自分が聖められている確信を得られなければ、天国に行けるという確信を持つことは難しいことです。それで神様は、日々の試練を通して「今、少し聖めがわかった」という実感を与えてくださっています。そのあなたの心の動きをもっと正しく観察してください。聖くなろうとする努力よりも、まず自分の罪深さを感じることです。聖められなければ、自分の罪深さを感じることはできません。自分の罪深さを実感するのはとても大事なことです。自分に絶望するのは、聖められた証拠です。
 
 この世の人々は、私たちが感じる罪のとがめを感じません。普通のこと、当然のことだと思っているので平気です。ですから、私たちが自分をどんなに最悪と感じたとしても、それは聖められた良心が死んだ行いから離れさせている成果なのですから、むしろ喜ぼうではありませんか。
 
 私たちが聖くなるためには、イエス様から聖めをいただく受け身の立場であることをよくわきまえることです。聖められていない自分自身と、いつも正面から向き合って、罪深さを感じる心を鈍らせないようにしましょう。聖められている心の証拠なのですから。

2.主なる神の本性による徳目(出エジプト34:6〜7)
“主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「主、主はあわれみ深く、情け深い神、怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者、父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」”
 
 主がどういう方であるか、徳目が挙げられています。この中で、「罰すべき者は必ず罰する」と書いてあるのはとても大事なことです。徳の高い人は罪を見逃しません。

 多くの神がありますが、真の神様以外は、誰一人として罪を正当に処分していません。聖く正しい正義の慈愛は、必ず罪を正当に処分するものなのです。慈悲を与えた者は、与えた相手の罪を代わりに背負わねばなりません。イエス様は実際に私の罪を代わりに背負って処分してくださったからこそ、「安心して次に進みなさい。」と言えるし、言ってくださるのです。
 
 神様の愛は「罰すべき者は必ず罰する」と同時に、「咎とそむきと罪を赦す」ものでもあります。「赦した責任はすべて私が負う」と言ってくださっているのです。私たちを赦す限り、その責任をすべてご自身が負うという、すごいことを神様はしてくださっています。

◎『主、主は』という出だしについて
「それは、万物の統治者であることを強調している。リーダー、指導者が必要とされる性質でもあると言える。キリストとともにこの地を治める私たちにも必要な性質である。」
 
 最高責任者であられる神様の徳目について、上のみことばからいくつも見つけることができますが、なんと、私たちもそれを受け継ぐのです。なぜでしょうか?「キリストと共にこの地を受け継ぐ」ことが約束されているから、イエス様と同じように「あわれみ深く情け深い」リーダーとしての資質をも受け継ぐのです。
 
 そのために今きよめられるための試験が続いています。試験に通るまで、この試みは続きます。そう考えるとなんだか楽しいですね。ぜひ、聖められるための試みをあきらめずに、主に近づいてまいりましょう。

【デボーション参考ポイント】
「私たちは触れるものに影響される。」
 上にある「資質」を私たちが受けることにおいて大事なポイントがあります。
 
 力の強い人、上位の者、目上の人と良い交流をもつなら、必ず良い影響を受けます。なぜなら、影響は上から下に流れるものだからです。
私たちも、イエス様のご臨在に触れるだけで影響を受けます。あわれみ深く、情け深いお心が流れ込んできます。もし受けられないなら、神様より自分を上にする高慢のわなに陥っています。自分を正しく知ってへりくだり、イエス様に触れて、すばらしいご性質を受け取りましょう。傲慢には気をつけましょう。
 
 自分のプライドのために「できません」と言うのはやめましょう。神様がやってみなさいと言われることには、すべて素直に従いましょう。自分の主人が言うことに従わないのは、主人より自分を上に置いているのです。成功も失敗も神様はご存知ですから、委ねましょう。
パウロの活躍の理由は、自分の罪を自覚していたからです。彼のへりくだりは、間違ったことを言った大祭司をそれと知らずに批判した時、他の人から大祭司の身分を知らされると、正誤ではなく上下関係の秩序のゆえに謝罪したことからもうかがえます。
 
 正しさは秩序を上回るものではない、とパウロはわきまえていました。私たちなら、「自分は正しいのに不公平だ」と怒るのではないでしょうか。パウロほどまで行かなくても、私たちも罪に敏感になっていきたいですね。神様のご性質に触れるにあたって、へりくだった心をもって、主の前にデボーションを重ねていっていただきたいと思います。

 

 

 

 

 

■2016年8月21日 日曜礼拝メッセージより(辻和希伝道師、横路伝道師)

 聖い愛による情熱  up 2016.8.21


主題聖句(第1ペテロ1:3〜9、申命記32:10)
 

 

 

 

【辻 和希伝道師によるメッセージ】
1.救いを得ている喜び(第1ペテロ1:3〜9)

 先週の次世代カンファレンスにおいて、関西聖書学院の大田裕作先生のメッセージが個人的に印象に残っています。大田先生は常に一貫して、“福音は2000年前に完成している。救いに私たちの努力が加わる余地はない。」と語っておられ、この度のメッセージでもその部分が語られ、励ましと力を受けました。大田先生が取り上げたみことばの中に1ペテロ1章8節があり、心に残ったこともあって、今日はその箇所をもう少し掘り下げて見ていきたいと思います。
 まず、このペテロの手紙が書かれた背景を見てみると、この手紙の読み手は迫害にあっていたことがわかります。
 迫害と言っても、殉教や投獄、財産の没収といった、国全体の迫害ではなく、特定の地域におけるキリストを信じる者たちへの非難や嫌がらせといった種類の迫害でした。
 また、読み手の多くは異邦人でした。救われた後、異邦人の生活と違う生活に変えられていったことで、周囲の人から非難される状況は、今の日本に似ているかもしれません。そんな彼らに励ましとしてペテロはこの手紙を書いたのです。

 3節では、「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。」と励ましています。私たちは、イエス様が死を打ち破って甦ってくださったことで、私たちの人生の終わりには希望があるということが示されたことを感謝します。

 しかし、希望ある人生にも試練は訪れます。ペテロは、その試練を7節で「あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。」と言っています。
 “福音はすでに完成している”ということに触れましたが、私たちが救われる条件は、行いによらずイエス様を信じるだけで良いのですが、その信仰を保つために様々な試練が訪れます。何故なら闇の力は私たちを堕落させようとはたらいてくるからです。
 イエス様も試みに会われましたし、苦難も通られました。しかし、最後には勝利してくださいました。私たちが体験する試練は一時的なものです。それは、後に称賛と光栄と栄誉になるという希望を持ち続けましょう。

 そして、8節で「キリストを見たことはないけれども愛しており、〜信じており、〜栄えに満ちた喜びにおどっています。」とあります。 ペテロは、読み手がどんな苦難の中にあっても、希望と喜びにあふれていることを知っていました。
 私たちはどうでしょうか。救われた当初は喜びおどっていたことでしょう。そこにはイエス様との出会いがあったからです。私もそうでした。直接見てはいないけれども、イエス様と個人的に、人格的な出会いをしたときに、ことばに尽くすことのできない喜びがあったのを覚えています。

 イエス様との交わり、しかも人格的な交わりは、私たちを大きく変え、力強めてくれます。救われた当時、何かしらのイエス様との出会い、交わりがあったことを是非思い出していただき、今週もイエス様との人格的な深い交わりのときを願い求めていきましょう。

【横路伝道師によるメッセージ】
2.私たちを守られる神の情熱(申命記32:10)
“主は荒野で、獣のほえる荒地で彼を見つけ、これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られた。”
 私たちが人生の荒野で恐れ傷ついている時に、神様は見つけ出し、抱きかかえて救い出してくださいました。そして、自分のひとみのように大切に守っておられるとは、何と感謝なことでしょうか。
「ひとみ」とは、かけがえのない宝物で、それほどに聖い神の愛は私たちをあわれみ、守ってくださっています。

1)父なる神様の守り
・砦、盾、やぐら(詩篇18:2)
“主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。”
 これは、神様が私たちを守るために、敵の攻撃があっても決して歯が立たない堅い防御をしてくださっていることを表しています。
・翼の陰(詩篇17:8)
“私をひとみのように見守り、御翼の陰に私をかくまってください。”
 断崖絶壁の高い岩場に巣を作り、翼を広げたら3mもあるような大鷲のひな鳥は、とても安全にその翼の陰に守られています。
 この大鷲よりも偉大な神様の御翼の陰にかくまわれている私たちは、なんと幸いなことでしょうか。
・恐れから(詩篇91:1〜6)
“いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。私は主に申し上げよう。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神」と。主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。また、暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。”
 この偉大な神様に守られている者は、恐れからも解放されています。

2)血潮の守り
・羊の血(出エジプト12:1〜13より抜粋)
“「…あなたがたの羊は傷のない一歳の雄でなければならない。…夕暮れにそれをほふり、その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。…あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの家を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。」”
 出エジプト記12章にあるように、イスラエルの民は、死の使いから守られるため、門柱とかもいに羊の血を塗りました。死の使いが過ぎ越すしるしとなったのです。
 もうすでに、この家の中の者が死に、その証拠の血が塗ってあるとして、死の使いはイスラエルの民の家の中に入らなかったものと思われます。
 同じように、私たちがイエス・キリストの十字架の血潮を告白するとき、サタンは攻撃できないのです。もう罪の処分は、十字架で流されたイエス・キリストの血で完了しているからです。この血潮の守りの力は偉大です。
・十字架のイエス様の血潮(黙示12:11)
“「兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに、彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。」”
 サタンの攻撃に対して、イエス・キリストの血潮の勝利を告白し、立ち向かう時、サタンは逃げ去るのです。

3)聖霊の守り
・雲の柱、火の柱(出エジプト13:21〜22)
“主は、昼は、途上の彼らを導くため、雲の柱の中に、夜は、彼らを照らすため、火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためである。昼はこの雲の柱、夜はこの火の柱が民の前から離れなかった。”
 イスラエルの民は、昼夜、雲の柱・火の柱の中におられる神様によって、完全に守られて進んで行ったのです。
 今現在は、聖霊様が雲の柱・火の柱となり、私たちを導き助けてくださっています。
・共にいて守り導かれる(ヨハネ16:13)
“「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。”
 御霊に導かれる時、真理から外れることがなく、また、やがて起ころうとしていることを事前に教えてくださることで、私たちは守られます。
 一例ですが、アレクサンダー・ドウイという人は、聖霊の声が「事務所から今出なさい!」と言うのを聞いて、すぐに出て行った時、事務所内に仕掛けられていた爆弾が爆発し、死なずに助かりました。彼は聖霊様の声に従って行動した時、守られたのです。このように神様は、様々な守りをもって私たちをいつも見守り、助け、救ってくださっています。

◎成人の儀式
 ジャングルに住むある部族の話ですが、その部族では成人式を迎える前夜に若者をテストする習慣がありました。森の中にその若者を連れて行き、大木に縄でぐるぐる巻きに縛っておき、一夜を放置するのだそうです。野獣のいる深い森の中のことです。夜中に野獣がやって来て、食われてしまうかもしれないのです。この恐怖に耐えた若者に、成人する資格が与えられるというのです。若者は一夜を恐怖の中で過ごす勇気を試されるのです。
 ところが、実は若者たちは全く安全なのです。なぜかというと、あらかじめ若者を縛り付ける大木の周囲の木々に、弓矢を持った大人の戦士たちが登って身を隠しており、野獣の襲撃に備えて寝ずの番をしているからです。
 神様は、まどろむことも眠ることもなく、私たちを守っておられます。神様は聖い愛の情熱によって、様々な方法で幾重にも完全に守ってくださっています。ですから私たちは安心して歩んでいくことができます。私たちを愛して、ご自分のひとみのように守ってくださっている神様に、心から感謝いたします。
 最後に下の参考聖句を読みましょう。
【参考聖句】(詩篇121:1〜8)
“私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。
主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。”

 

 

 

 

 

■2016年8月14日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛による平和は善を目ざす  up 2016.8.14


主題聖句(ローマ2:10)
栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行なうすべての者の上にあります。

 

 

 

 ナポレオンは力で世界を征服しようとしましたが、その彼が「キリストは愛で世界を征服された。」と語りました。力でいくら人々を制圧しても、いずれは復讐され逆に力で押さえつけられます。しかし、愛による征服は決して復讐を呼び起こしません。
 栄光と誉れと平和。栄光とはその人の輝かしい才能や、能力あるいは内面的徳の高さなどがあり、それは人々の心を捉えて誉れをもたらします。そして、栄光と誉れが豊かにあると平和の実を結びます。それは、善を行う者は、人種や宗教を超えて、どんな人であっても栄光と誉れと平和の実を結ぶということです。
 愛によって征服された平和には善が行われています。今週私たちは愛による平和をつくり出すために善を行うことを目指したいと思います。
 しかし、みことばを行うことは容易なことではありません。罪人である私たちにとって、聖書のみことばは時には実行不可能に思えることがあります。けれども、その不可能に思えることであっても、私たちは「神様には不可能なことはない」と神様に目を向けることができます。私たちの努力や力ではできないからこそ、イエス様の救いがあります。そして、神様にはできると信じ、こんな罪人の自分でもイエス様のような神の子としての実を結ぶことができるようになると、神様に期待し望みを神様に持つことができるのです。
 ご利益的な信仰にとどまらないために、神様には可能であるという信仰を持つようにチャレンジしましょう。今はできなくても神様に期待していたら必ずできるようになると未来に期待することが信仰です。
 過去の自分がどうであっても、神様は自分をイエス様のように神の子としてふさわしく必ず変えてくださると信じましょう。
 神様は私たちを愛してくださって、愛の無い者を愛のある者に、汚れた者をきよい者に弱い者を強い者へと変えていってくださるのです。
 自分の過去のデーターから未来を予測して失望するのはやめましょう。イエス様に変えていただく未来に信仰を持ちましょう。できないと思う弱い心に、チャレンジしようという動機を与えてくださるのは神様の愛です。神様は励まし助けてくださいます。変わらない自分ではなく、変わってきたところを見つけましょう。

1.平和の実を結ぶために(詩篇37:1-4、8-9)
“1:悪を行なう者に対して腹を立てるな。2:不正を行なう者に対してねたみを起こすな。彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ。 3:主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え。
4:主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。 8:怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。9:悪を行なう者は断ち切られる。しかし主を待ち望む者、彼らは地を受け継ごう。”
 平和が壊れるときは争いが起こる時です。争いは怒りや憤りによって生まれてきます。どういう時に怒りが出るのでしょう。悪を行なう者がそれにふさわしい報いを受けず、むしろ善を行っている者が損をしているかのように思えるときなどです。
 新聞でも政治家に対する批判とかをよく目にします。日本人は正義感が強いので、こういった不正に対して敏感に怒りを感じます。(しかし、他の国では正義に対する考え方が随分違います。例えば、木に付いている実は確かにその家の人の物だが、一旦地面に落ちたら拾った人の物だとか)
 悪いことを政治家達がしているのを見るとまじめに働いているのを損に感じ、腹を立ててしまいます。しかし、8節に、怒り憤り、腹立ちは悪への道だからやめなさいとあります。例えば、奥さんが怒りに満ちて食器を投げつけたり、夫へのあてこすりで夫の大切なものを壊したりしたとします。少しは気が収まるでしょうか。しかし、怒りによる衝動は、むしろより大きな相手の怒りの復讐を招いたりして、結果未来は良いことにはならないのです。
 むしろ未来は怒りによって破壊されていきます。怒りや憤りは大きな破壊力を持ちます。戦争に行く時、兵士は怒りや憤りを持つように教えられ、敵に向かっていくように鼓舞されます。しかし、第二次大戦でもわかるように、戦争の結果は悲惨な殺戮と大きな破壊にすぎません。家族は破壊され兵士は身体も心も破壊されました。
 それゆえ、未来のことを考えるなら、今、怒ることをやめ、憤りを捨て、腹を立てるなと聖書は教えるのです。未来の自分を良いものにするためには大切なことなのです。
 怒りを収めるのは自分の未来のためです。それは相手に負けるのではありません。なぜなら悪を行う者はいずれ断ち切られるからです。
今は青草のように元気そうであっても、悪人には未来は断ち切られ希望はないのです。悪人は罪が裁かれ永遠の滅びが待っています。
 私たちは未来、永遠を見る力を神様から与えられています。そして未来が良いものであると信じ、喜んで備えていくことができます。

【内容観察】
未来への希望を怒りや憤りによって駄目にしてしまわないために、悪を行う者、不正を行う者に対しての怒りをおさめよう。
おさめなければ、あなた自身も悪への道を進むことにもなるからだ。
主に信頼して、善を求め、誠実を養いながら主を待ち望もう。
主はあなたの心の願いをかなえ、平和のうちに過ごさせてくださる。

 主を待ち望もうとは、善を行うことに疲れてしまわないで、未来を信じて善を行い続けようということです。

2.愛による『陰徳陽報』(ローマ12:21)
“悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。 ”
『陰徳陽報』(いんとくようほう)の意味
人知れず善行を積めば、必ずよい報いとなって現われて来ると言う意味
 主を待つ望むとは陰徳陽報のようなものです。人知れず善行を積めば、必ずよい報いとなって現れてくるという意味です。

(1)「悪」に対して「悪」をもって報いることは、「悪」に負けること。
 反則に対して反則で応じたら、それは悪になります。

(2)「悪」に勝利する方法は、善をもって報いること。
 悪に打ち勝つ方法はただひとつで、善をもって報いることです。それはあなた自身の未来をよいものに保ちつづけるためです。あなたの未来を人の悪のために滅ぼさないようにしましょう。

 今年の6月、日本政府は、終戦71年目にエルピディオ・キリノ・フィリピン第6代目大統領の功績を記念して日比谷公園に顕彰碑を建立しました。
 終戦間近アメリカ軍の日本軍への攻撃の中、多くのフィリピン人が日本兵の銃撃で亡くなりました。このマニラ戦で民間人約10万人が犠牲になったと言われています。
 それまでの日本軍のフィリピンの統治の仕方は非常に抑圧的で、日本軍はフィリピンの人々から非常に嫌われていました。大統領の妻と3人の子供、5人の親族も日本人に殺されました。
 戦後、戦争指導者らがA級戦犯として、東京で裁かれたように、フィリピンでも日本軍に対する裁判が始まり、兵士らは「BC級戦犯」として、殺人や虐待などの罪に問われ、計137人が有罪となって処刑されたり、懲役刑を受けたりしていました。日本軍に対するフィリピンの人達の怒りや憎しみは非常に強かったのです。
 しかし、マニラの刑務所に残っていた105人の日本兵達に彼は恩赦を与え日本に送り返したのです。もちろん自国の人々からは大変な反感を買いました。彼自身も日本兵を憎んでいたはずです。なぜこのような恩赦を出したのでしょうか。碑には、恩赦に関するキリノ大統領の言葉が刻まれています。
「私は、妻と3人の子供、5人の親族を日本人に殺された者として、彼らを赦すことになるとは思いも寄らなかった。私は、自分の子供や国民に、我々の友となり、我が国に末永く恩恵をもたらすであろう日本人に対する憎悪の念を残さないために、これを行うのである。やはり、我々は隣国となる運命なのだ。私は、キリスト教国の長として、自らこのような決断をなし得たことを幸せに思う」
 恨みを子供達に残さず、未来に良い関係を結ぶためにと彼は考えたのです。今でも日本を恨んでいる国はあります。しかし、彼は憎しみを未来のために断ち切ったのです。怨念で子孫たちの心を壊したくないという考えです。なんという犠牲でしょうか。
 イエス様は私たちの神の子としての未来の為に十字架で苦しまれました。イエス様にあるこのような赦しの心を大切にしようではありませんか。
 彼はクリスチャンとして、キリスト教国の長として、このような偉大な赦しを実践しました。
 あなたには希望があり、未来が与えられています。イエス様の十字架によって神様は怒りではなく赦しを与えてくださいました。
 自分をだめだと否定しないでください。イエス様の愛を信じて自分の未来に希望をもってください。イエス様の愛のゆえに周りの人々を赦していきましょう。
 私たちの希望は神にかかっています。怒り、憤り、腹立ちはただ悪の道です。それらを捨て去り、イエス様の救いに希望を持ち続けていきましょう。

 

 

 

 

 

■2016年8月7日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 試練に耐える聖い愛  up 2016.8.7


主題聖句(ヤコブ1:2〜4、12)
私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。
試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。

 

 

 

 先週学んだ「具不退転」を実行し続けるための障害になるのが、試練と呼ばれるものです。私たちにとって、すべてのことは試練であると私は思います。自分が罪を犯して失敗したことも試練の一つと受け止めることができる、と思います。神は私たちの失敗をも益と変えてくださるお方です。
 神様は、私たちの罪に対する弱さも計算の内に入れて、「心を入れ替え改めて歩むように」と、私たちに語っておられると思います。その時、継続のために必要なのは忍耐だと言えるでしょう。
 ところで、自分にとって何が試練にあたるのか、皆さんそれぞれ考えてみていただきたいと思います。試練には、「大変な重荷を背負う」というイメージがありますが、苦しみを負いたくないためにわざと試練を避ける、見てみぬふりをするといった私たちの心の動きもあるかもしれません。
 クリスチャンは神の国に着くまで毎日が練りきよめられる日々であることを、肝に銘じておいてほしいと思います。私たちの安息は天国に行ってからです。イエス様は「休ませてあげよう」と言ってくださいましたが、私たちが求める安住は神の国しかありません。
 地上では常に自己葛藤があり、罪・汚れとの戦いがあります。その苦しみを避けるために自分を卑下して、戦いを避けようとする心の動きがあります。
 皆さんの内にそのような心の動きがありませんか?さらには、そういう弱い自分を隠そうとする心の動きが起こってくるでしょう。
今日はその試練を嫌がる心に対して、元気づけていただきたいと願っています。

1.愛によって働く信仰は試される(箴言17:3)
“銀にはるつぼ、金には炉、人の心を試すのは主。”
 
 何事も、試されなければ本物には近づきません。信じることはスタートであり、試されるための試練の始まりです。
 「金」も「銀」も、価値ある資源です。しかし鉱石の状態と、純粋な状態ではその価値は大きく異なります。

(1)試されるだけの価値あるものが含まれている。
 人の心は、神様の前に金銀よりも価値があります。試されるのは、不純物が取り除かれた時に、その中にこの上なく価値あるものが存在している証拠です。金は世界経済の基盤を支えている物ですが、その資格があるのは、炉で精錬されて純化されたものだけです。
 同じく、人の中に何らの価値もないなら、神様は試練を与えたりはされず、滅びるままにしておられたことでしょう。
 魂の純化のために、きよい愛を私たちにもたらすために、この地上のすべての試練は存在しています。
 私たちは愛の神に似せて創られた者なので、まだ純化が足りません。試練は不純物を浮き上がらせる働きを持っており、それを取り除きながら、もっと純化していきます。ここでわかるのは、試練にあった時最初に出て来るのは不平不満だということです。これらの不純物を隠さずに神様の前に出し、「主よ。こんな不純物をもっていたことが明らかにされたことを感謝します。これを十字架のごみ箱に捨てます。」と処分します。そして悔い改めて新しく始めると、また新しい不純物が出てきます。
 私たちは一度で全部きれいになれるほどのすばらしい存在ではありません。自分だったら、何回の試練で純金になれるか考えてみましょう。回数など考えることができないほど、私たちは罪深い者ではないでしょうか。
 99%不純物であっても、残りの1%の金を採るために、神様は地上での試練を与えておられます。そして、1%の純金になったあなたを天国に連れて行ってくださるのです。たとえその「良いもの」の含有率がもっと少ないとしても、この世的には赤字になるような状態であったとしても、私たちのうちの誰をも見捨てられません。あなたがイエス・キリストを信じることができているのは、金が内にある証拠です。それを神様は惜しまれます。

(2)試されることは、私たちにとって『益』である。
 多くの人々が、神様に用いていただける才能を持ちながら、実際には活躍していません。それは彼らが試練を避けているからです。
 試練を苦しみとしか受け止められない人は、「練られる」ことを避けるので、純化されないままになり、神様のみこころを痛めるばかりか、いつまで経っても用いられません。
 ですから、「すべてのことは私にとって益である」と、自分の身に起こることを試練として受け止めてまいりましょう。
 たとえば、病は自分の罪が原因だとしても、そのおかげで自分の愚かさに気づかされ、的外れの考え方や弱さなどが引き出されます。悔い改めは自分の罪に気づかなければできないのですから、明るいところに引き出されるのはとても大事なことです。
 「この肉の性質のためにイエス様が苦しまれたのだから、私はもうこの悪い性質を捨てます。」と、不純物を捨てて行きましょう。
 この作業を通して、私たちの内に神様の愛の純度が高まり、自然に優しさ、あわれみ深さなどの神様のご性質が私たちの内に実ってくるわけです。それ以外のこの世に属するものを求める人にとっては「災いばかりではないか」と思われたりしますが、クリスチャンにとっては、決してそんなことはありません。
 すべてを益にしてくださる神様を信頼して、今ある試練を乗り越えていきましょう。

2.試される目的は?(エペソ1:5)
“神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。”
 
 「私は、神のみこころのままに、イエス・キリストを通して神の子になるようにと、あらかじめ前もって定められていた。私の存在は、私自身は、もう神の子となることに定められていた。」だから、試練にあうのです。
 あなたがどう思うかにかかわらず、私たちは全員神の子になることを定められていました。イエス様を信じるきっかけはいろいろあったと思いますが、信じ続けるには神様の愛を知ることが不可欠です。神様が私たちに表してくださるすべてのわざは、ご自身の愛を私たちに伝えられるためです。「神の子にしよう」という運命は、受け入れるも逃れるもあなたの自由ですが、本来の存在目的は変わりません。たとえ滅びに入ってしまっても、その理由は神様の子としてあるべき目的を捨ててしまったがゆえの裁きです。
 存在目的があり、そのための修練があることは、いかに幸いなことでしょうか。親を知っている孤児たちに比べ、親を知らない孤児たちの不安には測り知れないものがあるそうです。ですから、神の子として生まれたことへの安心感は偉大です。神の子として純化されることが私の生きる道であると胸を張ることができます。
 ここが弱いと、すべてのことに対して気力を失っていきます。気力を保つためにビジョンを持ち、この世界の成功をいろいろと目標設定して、永遠の神の目的を見ずにやってしまうと、自分の肉の誇りになってしまいます。教会のメンバーとして華々しく活躍しても、神の子として見た時にほめていただけるようなものなのでしょうか。
 神様はあらゆる試練を通して私たちをきよめられ、何一つ欠けたところのない完全な愛なる神の子として育ててくださっています。
 誰のせいでもなく、試練は私たちの内にある不純物が浮き彫りにされ、それから離れて神の純粋な愛にのみ生きることを選び取っていけるように、神が導いてくださっているのです。そういう人生であることを受け入れることができるでしょうか?

3.『堅忍不抜』が必要(ヤコブ5:11)
“見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。”

 『堅忍不抜』(けんにんふばつ)の意味
 「辛く苦しいことがあっても我慢して、ひたすら意志を貫くこと。」

 十字架を通して、神様の愛が間違いなく私たちに注がれていること。創造主なる愛の神が必ず存在しておられることに対して、十字架の歴史的事実を通して確認し、確信を持っているので、「堅忍不抜」の姿勢をもって神の愛に生きることを決心しているわけです。その意志を貫き通す覚悟を持ち続けましょう。
 ヨブ記は大きな試練を受けたヨブと友人たちの語り合いが主ですが、友人3人のことばは悟りの言葉ではあっても、ヨブには当てはまっていませんでした。ヨブは律法的には何一つ罪を犯してなかったので、自分の正しさを主張し続けました。
 ヨブの呪いのことばは自分に対してのものであり、律法的に罪はなかったのですが、ただ、神の前に自分の義を優先させてしまいました。それを示されて神の恵みと信仰による義から離れてしまっていたということに気づいたヨブが悔い改めた後、神は彼が失ったすべてのものを、2倍の祝福でお与えになりました。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということをヨブが悟るための試練でした。
 私たちも、どんな苦しい目にあったとしても、神の手の中に導かれている神の子として何一つ欠けたところのない、成長を遂げた完全な者となるために試練を与えてくださっていると受け止めましょう。
 苦しみを愚痴ることはかまいませんが、その時、全部を神様のせいにして、自分は悪くないという態度を取り始めると、間違った方向にそれていってしまいます。
 ヨブも、3人の友人とのやり取りの中で、自分の正しさを過剰に主張する方向にそれていきました。そんな傲慢に陥ったヨブにも、神様はいかに慈愛に富み恵み豊かであったことでしょうか。
 私たちはヨブの足下にも及ばない罪人ですから、なおさら試練にあうはずです。それを避けたいなら、傲慢にならないよう気をつけましょう。へりくだった者に試練は少なくてすみます。試練を通り抜けるこつは、早くへりくだることです。早く自分の罪を、至らなさを認め、「神様あわれんでください」と願うことです。我の強い人はそこまで至るのに時間がかかって、余計に苦しむことになります。ヨブの頑固さが、あれほどの苦しみをもたらしたのです。
 私(辻師)は何を言われてもそれをそのまま受け止め、神様の前に「自分はその通りの人間です。こんな私を用いてくださる神様に感謝します。」と感謝します。そういう意味では、私の試練はわりと少ないです。
 人は見えるものが成功してくると傲慢になりやすいものです。神様はサタンの罪と同じ傲慢に陥らないように、私たちをちょうどいい祝福に置いてくださっています。
 人間は愚かで、すぐ自分の行いが評価されて報いられたのだと勘違いしますが、すべてのことは神のあわれみによります。
 貧しい人も弱い人も、神様にあわれんでいただけるゆえに幸いです。肉のからだが与えられたことの意味は、へりくだりを覚えるためでした。
 どうぞ忍耐を完全に働かせて、早くへりくだるようにしましょう。耐え抜いて良しと認められるのはへりくだった姿勢ができる時です。神様が良しと認めてくださったなら、ヨブに与えられた後の祝福のようなすばらしい祝福が待っています。
 楽をして純金にはなれません。覚悟をしてください。神様はへりくだりを求めておられます。全能の神の前で、その愛とあわれみを心から感謝すること。神様の「おかげさま」で私たちが神の子として成長するためだと感謝して、時を過ごしていこうではありませんか。

 

 

 

 

 

■2016年7月31日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 具不退転の聖い愛  up 2016.7.31


主題聖句(ローマ6:11)
このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。

 

 

 

 『具不退転』(ぐふたいてん)の意味
  「途中で後戻りしたり諦めない決意を持ち続けること。」

 神様の聖い愛は、途中でくじけてしまうようなものではありません。また、私たちも、その聖い愛に応答するという決心をした以上、その愛を最後まで信じきって歩みましょう。ローマ書6章は、洗礼について記されている章です。その最後に、洗礼を受けた者たちへのアドバイスとして(11節)が記されています。
 「神に対して生きた者」とはどういう意味を持つのか、が今日のポイントです。先週お話ししました、「感謝」がその根底にあります。神様から注がれた愛への感謝から生み出される力が、私たちの原動力です。罪に対して死んだ生き方は、そうして自然に現れてきます。 神に対して生きた生き方も同じ動機から、自然に現れてきます。感謝を基としない決意は、すぐに崩れてしまいます。
 一つの実話をお話ししたいと思います。
 10年前に、2年間の交際を経て式場の予約をしたカップルがいました。しかし、予定日の3ヶ月前に、新婦を突然の病が襲い、意識不明の状態に陥ります。式を挙げられないと知った新郎は、式場に式の延期を申し込みます。彼女が治り次第、式を挙げるつもりだったからです。
 しかし新婦の意識が戻る気配はなく、毎日出勤前の一時間と休日には三度きちんと見舞う新郎に対して、新婦の両親が「もう他の人と結婚してください。」と願うほど、時間だけが過ぎていきました。
 倒れて半年後の手術は成功し、さらに1年半後新婦の目が開きましたが、脳にダメージを負っていた彼女は周りに一切反応を示しませんでした。それでも新郎はあきらめずに彼女の見舞いとリハビリを続け、4年後ついに新婦の笑顔を取り戻すことに成功しました。
 そこからの回復は目覚ましく、バージンロードを自力で歩くという目標のために、新婦はつらいリハビリにも耐え抜き、ついに二人はもう一度、式場に予定日を伝えることができたのでした。
 後に新郎は、式をキャンセルしなかった理由について次のように答えています。「2人で決めたことだったから。」この言葉は、二人の愛の強さの証と言えるでしょう。
 この出来事は、神様と私たちの関係に置き換えることができます。罪の中に眠り込んでいる私たちを神様は待ち続けてくださり、関りを持ち続けてくださっています。昏睡状態の時の私たちは、神様に対して反応しませんし、できません。対して、目覚めたなら神様に対してのみ反応します。これは強い愛の注ぎかけがあってこその決心です。
 自分の意識がはっきりと戻るまで、新郎の8年にわたる献身を知った新婦は、その愛に感動し、「この人のためにだけ、これからの人生を生きよう。」と思ったのではないでしょうか。これが、「神に対して生きた者だと思いなさい。」ということばの指すものなのです。
 御利益的な考え方でなく、自分を愛してくれた愛に感謝する気持ちから生まれた心はくじけません。

1.『神に対して生きる者と考える』とは?
(1)(ガラテヤ2:20)
“私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。”
 しっかりと神様の愛を感じ取っていくように心がけましょう。

(2)(へブル11:6)
“信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。”
 何か都合の悪いことが起こると、すぐに神様に対して不信の心を抱いてしまうのでは、本当に信じているとは言えません。最後まで「具不退転」の愛を信じていこうという気持ちが必要です。どんな状況に陥っても神様は必ず生きて存在されており、私に報いてくださる方だという心を神に対して向けることが、神に対して生きる者としての考え方です。

(3)(第1ヨハネ5:3)
“神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。”
 愛する者の喜びを選びたいと思うのは自然なことです。ですから、神の命令を守ることは重荷にはなりません。
 イエス様は、私たちが地上で罪を犯し続けていても、この地上でのいのちが続いている限り、心が変えられることを待ち続けておられます。実に、2千年越しの恋を、私たちに対して抱いてくださっているのです。

(4)(ピリピ1:29)
“あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです。”
 神に対して生きることは、キリストのための苦しみを受けることでもあります。神を第一として生きることには、多くの困難がつきまといます。しかし、それらの試みを神様からのプレゼントとして受け止めるのが、神に対して生きる者の考え方です。
 神様は、私たちの罪を贖うために、ご自身のひとり子のいのちさえ惜しまれませんでした。その方が、苦しみを通して私たちを滅ぼすなどあり得ません。そう思うのが、神の愛を信じる姿勢です。
 ゲッセマネの園でただ一度だけ、イエス様は神様の御心と違うご自身のお心を祈られました。けれども、その自分に打ち勝ち、神様の愛にすべてをお委ねになったことが聖書に記されています。十字架での苦しみは、多くの人々を生かすための苦しみとして、神様がイエス様に与えてくださったものだと受け止めることができたから、十字架にかかる決心を喜んでされたのです。
 イエス様は、この苦しみを賜物として受け止めたのでした。アダムのすべての子孫にいのちを得させることも、滅びに定めることも可能な、重要な苦しみでした。
 イエス様がこの苦しみを勇敢に受け止められたことは、十字架におかかりになる時の様子や、おことばからうかがい知ることができます。
 私たちにも、喜びや悲しみ、いろいろなことが訪れます。クリスチャンとして歩む中で、苦しみを負うというならば、それはプレゼントだと受け止めてはいかがでしょうか。そうすれば、苦しみに対する捉え方が少し変わるのではないかと思います。
 苦しく思えるプレゼントでも、それは永遠のいのちに至るすばらしいものなのです。 
 私たちが洗礼を受けた、という決心は、上記に挙げた4つの意味を持っており、神様の愛によって心を動かされるように心がけていただきたいと思います。これら4つのポイントは、愛に感じなければ決して実現できません。
 神様があなたにどれだけの愛を注いでくださっているかが福音であり、私たちの罪のために死に、葬られ、3日の後によみがえって、私たちを永遠の滅びから救い、永遠の義人として神の国の相続人としてくださいました。このことについて、本当に深く思いみることが必要ではないでしょうか。
 いつも、その「愛されている」という土台から、私たちは神様への感謝を捧げてまいりましょう。

【デボーション参考ポイント】
「聖い愛に救われて、感謝と喜びのクリスチャン生活を、どのような決意をもって歩むのかを改めて考えてみましょう。」
 愛される理由は何一つない、私たち罪人です。わがままし放題の私たちですけれども、それでも神様はあきらめずに私たちを愛し続けてくださっています。それは今も変わりありません。

 

 

 

 

 

■2016年7月24日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 聖い愛への尽きない感謝  up 2016.7.24


主題聖句(詩篇69:30)
私は神の御名を歌をもってほめたたえ、神を感謝をもってあがめます。

 

 

 

 クリスチャンから感謝が失われることは、いのちを失うこととと同じと言っていいくらい、感謝は霊的いのちにとって重要なものです。
神様をあがめる一番の理由は、個人的な神様とのつながりから来ます。感謝すべきとわかっていても、それをなおざりにしがちな私たちの生活ですが、感謝を失うことはいのちを失うことと同じくらい大事なことであると認識していきたいですね。

 先日、初めてバイパスを逆走する車に出会う経験をしました。すれ違う時に運転手をちらっと見ましたが、平然としていました。自分が間違っているとわからないのは恐ろしいことです。
 神様のみことばは、私たちに間違いを気づかせてくださいます。感謝は私たちに冷静さを与え、真理を受け入れる柔らかい心を作り出す、すばらしい効果があると思います。
 それでは、以下に挙げる6つのみことばから、感謝する事柄について学んでまいりましょう。

1.『報本反始』の日々のために
 『報本反始』(ほうほんはんし)の意味
 「天地自然や祖先などの恩に報いるという意味。
 人が今いるのは、天地自然や祖先などのおかげであるから、発生の始めに感謝し思いを尽くすこと。」
 「思いを尽くす」には、深く考えて、それに見合った行動をとるという意味があります。神様への尽きない感謝を、決して忘れることのないようにしましょう。

【感謝が生まれる理由を以下のみことばから考えましょう】
(1)(詩篇118:21)
“私はあなたに感謝します。あなたが私に答えられ、私の救いとなられたからです。”
「答えられ」
 無視されるほどいやなことはありませんね。神様は私たちに答えてくださる方です。しかも、本来なら答える義務などない罪人に対して、答えてくださるという恵み深い方です。
「救いとなられ」
 自分では如何ともしがたい状況にある時、そこから救い出されるのが神様の答えです。この方は救いの神であられ、私たちのわがままを聞かれる御利益的な存在ではありません。救いのためにならない願いはあまり答えてくださいません。私たちがわがままにならないためです。ですから、自分の願いがかなわない時でも、神様の愛に信頼して感謝しましょう。
 神様は本当に真剣な祈りには必ず答えてくださる方である、という体験を積み重ね、また忘れないようにしましょう。

(2)(詩篇118:1)
“主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。”
 「いつくしみ深い」というのは、本当に感謝なことですね。「あの人の親は優しくていいなあ」と思ったことがある人はおられますか。
 神様はその親御さんよりももっと優しくいつくしみ深い方です。こんなすばらしい方のもとに生まれることのできた恵みに思いを寄せることを止めると、感謝を忘れ、暴言を吐いたりわがままになったりします。

(3)(詩篇139:14)
“私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。”
 自分がここに存在することの不思議を考えたことはおありですか。人の体の精密な作りに感心したことはありませんか。
 進化論では、良い物をプラスしていったり、突然変異によって今の状態ができたと考えますが、それは奇跡と呼んだほうがふさわしいのではないでしょうか。その「奇跡」の集合が今の世界を形づくっており、それらすべてが神の被造物であるとは、なんとすばらしいことでしょう。その中に存在する私たちが味わうすべてのものは、苦しみ、悲しみ、痛みの一つ一つまでもすばらしいものです。こう考えると、感謝が生まれてきます。
 「おかげさま」という昔からの言葉は、そういった感謝の気持ちを表しています。周りのすべてのものによって生かされていると感謝する心の広さを持てば、愚痴不平は少なくなります。

(4)(第2コリント9:15)
“ことばに表せないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。”
「ことばに表せないほどのプレゼント」
 私たちが今ここにいることは、神様からのプレゼントです。「歳をとるほど親のありがたみがわかる」と言いますが、神様からの恩ならなおさらのことです。今まで起きたこと、味わった思い、喜ばしいことも悲しい出来事もすべて、神様からのプレゼントだと、後になればわかります。
 すべてが永遠のいのちにつながると気づいた時、誰でも感謝せずにはいられません。

(5)(ローマ6:17〜18)
“神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。”
 的外れをさせる心の動きは罪の働きであり、それに逆らえないのは罪の奴隷だからです。よほどの目標と意志の力がない限り、人は自らの心の動きに流されてしまいます。
 罪に打ち勝つ力は、神様の私たちへの情熱が与えてくださっているものです。立ち向かう勇気と力と希望も、私たちに与えられています。「私は義の奴隷となった」という、神の愛による実感を通して、自分の主人が義の神であることを感謝できます。

(6)(ヘブル12:28)
“こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではりませんか。こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕をすることができるのです。”
「揺り動かされない御国」
 日本人は、日本から外国に旅行に出掛けても、帰る国がなくなっているという心配はしません。米国に守られ、大きく発展した日本は、現在、押しも押されぬ大国の地位を占めています。
しかし国内の情勢が不安定だと、出たが最後戻ることができない国もあります。世界各地でテロが起こり、不安がはびこる現状において、日本は平和な方だと言えるでしょう。しかし、たとえ日本が消えることがあったとしても、私たちには天の祖国があります。私たちには天国での将来が待っているのです。

 以上の6つのことを考えてみると、この世で得るものに血眼になるのは、この世の人々の考え方に染まっていたせいであり、そのために愚痴不平が出ていたことがわかります。天地を造られた神様は、この罪の世界を処分されることを既に決定されています。最後の審判をもって終止符を打たれ、新しい天と地を計画されていることが聖書に記されています。
 私たちも、神の新しい天と地に向けた今日を生きるべきではないでしょうか。
 そのために、神様がどんなことをしてくださったのか、前述の6項目を通してよく考えてみていただきたいと思います。

【デボーション参考ポイント】
「『感謝が生まれて来ると、どのような感情が出て来るでしょう。また、その感情は、どのような『行動』をもたらすでしょう。」
 皆さんは、感謝の心が生まれてくる時、どんな感情が起こりますか?聖書には「喜べ」と書いてあります。感謝なしには喜びは生まれません。詩篇にある喜びや踊りは、感謝に裏打ちされたものです。
 私たちには、気をふさいでいるひまなどないほどに、主からの恵みが満ちあふれています。恵みは私たちを取り囲んでいます。
 では、皆さんの感謝から湧き出た感情は、次にどんな行動に現されますか?
 たとえば踊りは喜びという内にある感謝が、形を変えて現れ出たものです。
 いつも言いますが、「救われている」ということは、本当に喜び踊るべきことなのです。十字架は過去の出来事ではなく、今もまだ罪を犯し続け、それを止めることができない私のために働き続けてくださっています。赦し続けてくださる神の救いそのものなのです。ですから、赦されていることを感謝できるはずです。
 皆さん、この幸せを感謝しようではありませんか。たとえば、感謝の一番簡単な行動は笑顔です。人はうれしいことがあると、自然に顔がほころんで笑顔になります。どこに行っても神様に赦されているという感謝を、自然な笑顔を通して表しつつ人生を歩むことができたら、それだけでキリストの福音を伝えていることになります。
 世の人々は、笑顔を特別に良いことがあった時のみ見せるのが普通です。でも、クリスチャンにとっては神様の恵みのゆえに、笑顔は自然なことです。自分を赦し、愛し、常に関心を持ってくださる方への感謝から来る笑顔と、さらにその先にある自分なりの行動を表してまいりましょう。

 

 

 

 

 

■2016年7月17日 日曜礼拝メッセージより(有賀 喜一師)

 福音のパッション(夏期聖会2より)  up 2016.7.17


主題聖句(イザヤ52:7〜12)
良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神が王となる」とシオンに言う者の足は。聞け。あなたの見張り人たちが、声を張り上げ、共に喜び歌っている。彼らは、主がシオンに帰られるのを、まのあたりに見るからだ。エルサレムの廃墟よ。共に大声をあげて喜び歌え。主がその民を慰め、エルサレムを贖われたから。主はすべての国々の目の前に、聖なる御腕を現わした。地の果て果てもみな、私たちの神の救いを見る。去れよ。去れよ。そこを出よ。汚れたものに触れてはならない。その中から出て、身をきよめよ。主の器をになう者たち。あなたがたは、あわてて出なくてもよい。逃げるようにして去らなくてもよい。主があなたがたの前に進み、イスラエルの神が、あなたがたのしんがりとなられるからだ。

 

 

 

 マルティン・ルターが「義人は信仰によって生きる」と聖書の真理の原則に立ち、すべては神の恵みであり、救いは信仰によると宣言してから今のプロテスタント教会ができました。ひとりの人の信仰が世界を変えたのです。そして今、皆さんの信仰の告白と実践が21世紀この日本を変えます!イスラエルの民の出エジプトは神様ご自身の介入による超自然的なものでした。しかし、目前に紅海を見た時、民はモーセにつぶやき不平を言います。その時モーセの祈りにより紅海がふたつに別れて民は乾いた地を歩いて紅海を渡ることができました。人は全く無能で神様は全能です。神様は、人が神様に全く依存した時その大いなる御業を表されます。
 皆さんがそのような大きな御業を見ることができないとしたら、それは、神様に完全に依り頼むよりは、まだ自分で何とかできると思っているからです。
 聖書に「心が貧しい者は幸いである」とありますが、それは全く自分には何もない、神様に頼る以外に術がないという状態のことです。
 賛美に「鹿が谷川を慕うように、主を求める」というのがありますが、鹿がどうして川を慕い求めるのでしょうか。狩人によって傷つけられた鹿が、せめて死ぬ前に最後の一滴でもと水を求める気持ちを表しているという説や、狩人に狙われ逃げまわるのに、川があるならそこに飛び降りて一番深い所に入り、水の中に沈んで息を止めて姿を隠すことで、狩人から逃れたいという必死の気持ちを表しているという説もあります。どちらにしても命がかかっています。私達はそれほど本当に主に飢え渇いているでしょうか。
 
 私(有賀師)はイエス様に出会って、69年経ちました。最初に救われてから、まず有賀家で一番強い人であるはずの父の救いを祈り続けていましたが、私が救われてから、7年目にまず救われたのは母でした。父が喉頭癌になり余命三ヶ月という宣告を受けて、母と二人で父の癒しのために心から祈りました。そして、突然父の喉頭癌がなくなったのです。その時の主治医はクリスチャンでした。「これは医学的にはありえないことです。神様がなさった奇跡です。」と言ってくださいました。父はその奇跡でイエス様を信じました。そしてその後披露宴の代わりに招待した特別伝道集会で、父のみならず私の兄弟達やその配偶者達もみんな信じて、決心の祈りをしたのです。皆さん、「主イエスを信じなさい、そうすればあなたもあなたの家族も救われます」と聖書で言っています。家族とはギリシャ語ではオイコスと言い、親族や友人達も含まれています。
 私の親族は妻の親族も含めて約100人いますが、今は75人がクリスチャンになっています。日本ではクリスチャン人口が1%に満たないと言われていますが、私の親族では75%が救われています。皆さん、チャレンジしてください。みことばは、「救われます」と宣言しているのですから。
 以前大島のあるクリスチャンの方から電話があり、私の歌ったある賛美を昔聞いてとても感動して励まされたので、ぜひダビングしてほしいと言ってこられました。さっそく贈りましたら、その方は36枚ダビングしてご近所に配られたのです。そうしたらみんなとても感動したので、今度はぜひ自分の家に来て歌って下さいと言われました。それで広島に来たついでに行ったところ、そのCDをもらった方々36人全員が来ておられて驚きました。彼女は目が不自由で車椅子に乗っていたのですが、いつも近所の方々にご主人が釣ってきた魚や野菜、もらった果物等いろいろな物を配っているような方でした。出席された方々は全員浄土真宗で大変熱心な信仰を持っておられました。しかし、メッセージをして賛美をした後、11人の方々がイエス様を信じる決心をされ、さらにその年のうちに6人が洗礼を受けられたのです。それで、私を招いて下さった姉妹は大変感動し、神学校のメッセージのDVDを送ると何度も見ては喜んで勉強され、気がついたら目が見えるようになり、さらには車椅子から立ち上がり歩けるようにまでなられたのです。そして、今、毎週自宅で家庭集会をしておられます。

一)幸い 薄く見ゆる日に 病に悩む時に 我が恵なれに足れりと 
  優しき声を聞きぬ されば我、我が目を上げて 
  十字架のイエスを仰がん ああ主の愛を思えば
  我に乏しきことなしと

二)愛する者を失いて 望みの消ゆる時に 我、汝をひとりにせじと
  静かな声を聞きぬ されば我笑みをたたえて 王なる君に応えん
  ああ主の愛に生きれば 我に寂しきことなしと

(イザヤ52:7〜12)
「良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神が王となる」とシオンに言う者の足は。 聞け。あなたの見張り人たちが、声を張り上げ、共に喜び歌っている。彼らは、主がシオンに帰られるのを、まのあたりに見るからだ。エルサレムの廃墟よ。共に大声をあげて喜び歌え。主がその民を慰め、エルサレムを贖われたから。 主はすべての国々の目の前に、聖なる御腕を現わした。地の果て果てもみな、私たちの神の救いを見る。 去れよ。去れよ。そこを出よ。汚れたものに触れてはならない。その中から出て、身をきよめよ。主の器をになう者たち。あなたがたは、あわてて出なくてもよい。逃げるようにして去らなくてもよい。主があなたがたの前に進み、イスラエルの神が、あなたがたのしんがりとなられるからだ。 」

 「良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。」とあります。イザヤ書のこの箇所の歴史的背景は、クロス王によるユダヤ人のバビロンからの帰還の伝達のことであり、霊的解釈ではパウロがローマ10:13〜15に引用している福音の伝達者のことです。

1.福音のメッセージの宇宙性 (イザヤ52:7〜12)
 福音はあらゆる民族にことばの違いを超えて必要な良き知らせです。この福音は、平和、幸せ、良いこと、救いであり、どこの国の人も必要としていることです。
 ハゼット・ウイルックスという優秀な宣教師が以前日本に宣教に来られ、日本人が何を求めているかを「救霊の動力」という著書に記されました。
 (1)安心 (2)喜び (3)真理 (4)力 (5)永遠の命 の5つです。
 この全部をあなたにあげますというのが、福音のメッセージです。
本音を聞けるなら、誰でもこの5つを心の底では求めているのです。つまりこの神様のメッセージは、性質においても必要においても宇宙性があり、すべての人に適応するということです。
 有名なラジオ伝道師である羽鳥明先生のことで忘れられないことがあります。先生は今96歳で現役で活躍されています。
 羽鳥先生には遅く生まれた息子さんがおられて、「栄(さかえ)」君といいますが、この息子さんが4歳くらいの時、デパートの人混みの中で迷子になってしまいました。息子がいなくなったと分かったとたん、いつもは冷静な羽鳥先生が「栄〜!」「栄〜!」「栄〜!」と大声で連呼しながらデパートのすべての階を走り回って探し始められました。その大声にすぐに周りの人達も心配して、いつの間にかみんなが栄君の行方を探し始めたのです。そしてやがて館内放送で「栄君のお父さん!見つかりました!三階の詰め所まで来てください!」とアナウンスされ、めでたしめでたしとなりました。これは緊急事態です。もし迷子になり誘拐されたり、あるいは階段などで怪我をしてしまったらどんなに恐ろしいことでしょうか。
 皆さんは近所の人の叫び声を聞いていませんか? 本当に心の耳を持っているなら、みんなが叫んでいるのがわかるはずです。「助けてくれ〜!」「助けてくれ〜!」と、誰もが導き手を求めて、本当は叫んでいるのです。

2.福音の働きの緊急性 
 福音を知ったら伝えるはずです。私(有賀師)は69年前初めて教会に行って救われてから、礼拝も祈祷会もすべての集会を欠かしたことはありません。
 礼拝に行った次の週から日曜学校の紙芝居を読んだり、聖歌隊のテノールに抜擢されたり、救われて三日後にはなんと路傍伝道にといろいろな働きの場を与えてもらいました。イエス様に仕える楽しさを味わったのです。
 そして、高校を卒業して最初の日曜日に宣教師の先生の通訳を頼まれました。その時のメッセージがアブラハムがイサクをモリヤの山で捧げた箇所でした。
 話が前に戻りますが、私が初めてイエス様を知ったのは、実はこの宣教師の方が信者さんの家庭集会で語られたメッセージからでした。
 中1の時一つ下の友人がたった一晩の病で亡くなりました。その葬儀で、お坊さんが「彼はこれから長い旅に出ることになりました。」と言ったのです。
 人は死んだらどこへ行くのであろうか。私は悩みました。死んで極楽に行けるだろうかと思った時、自分の犯した悪いことを思い出したのです。そしてこのままでは地獄ではないかと思うと恐怖にふるえました。それから毎日、朝は4時に神社の庭を掃除しに通い、夜は10時までお寺で座禅を組んで修行に明け暮れたのです。
 このような生活が続いた二年後、神主さんもお坊さんも見どころがあるとほめてくれるようになりました。それで私は、「それでは私は救いの到達点で言えばどこまで行けたでしょうか。」ときいたのです。その時の二人の答えは「死んでみなければわからない。」でした。 どんなにしつこくきいても答えは同じでした。私は失望してしまいました。それなら死んでみようと思ったのです。そして親に遺書を書いて、夜中に鉄道線路に行き、最終の蒸気機関車の前に飛び込んだのです。しかし、私は小柄でした。神様はその恵みによって私を守ってくださり飛び込んだとたんに私は二本のレールの間にすっぽりと収まってしまい、その上を汽車は何事も無く無事に通過して行ってしまい、しかも家に帰ってみても、家族の誰も遺書にさえ気づかなかったという有り様でした。
 それで大晦日の晩に108の鐘で煩悩を取ってもらおうと、私は寺に向かっていたのです。その途中で私はクリスチャンの上級生に出会い、柔道と剣道の達人の彼に羽交い締めにされて無理やり教会に引っ張って行かれました。「救われたい!」という私の心の底からの叫びの緊急性に神はこの上級生を遣わして応えてくださったのです。この時メッセージをしてくださったのが前述した宣教師の方でした。
 さて、このすべてを捧げるというメッセージで宣教師は「日本人を救うためには、日本人が献身するしかありません。特に若い人は日本宣教のために自分を捧げないといけません。」と何度も語られました。自分以外に若い人が誰も居ない中で何度も迫られて、とうとう私は、そこに神様の招きがあることに気づき献身を決意しました。はっきりと救われて罪ゆるされ神の子となって生きるという素晴らしさがわかった人は、この福音を伝えないといけません。
 
 パウロは「私は何とかしてこの福音を伝えたい。」「私は用意ができている。」と語りました。彼はいつでもどこでも誰にでも語る用意ができていました。さらに、「私は福音を恥としません。」と言って、大胆に語り続けました。神様は詩篇121:4に、「わたしは決してまどろむことはない」と言っておられます。
 エペソ5:16では「機会を十分に活かしなさい」とあります。
 アメリカのある家庭で小さな子どもが「くまの大きなぬいぐるみが欲しい」と母親にこん願しました。母親は特に神様を信じてはいませんでしたが、「それなら神様にお願いしなさい。」と子どもに言いました。そのうち忘れるだろうと思ったからです。
 しかし三ヶ月経ったある朝、「お母さん、今日、神様はぬいぐるみをくださる日だと言われたわ。」と子どもは嬉しそうに言って来ました。仕方なく母親はお店に行き、大きなくまのぬいぐるみをレジまで運びました。まさにレジで買おうとしたその時、後ろに並んでいたクリスチャンに神様が語られたのです。「あなたは今彼女の商品の代金を払ってあげなさい。」と。神様に語られたクリスチャンは訳がわからないまま、その母親に、「今、神様があなたの持っているものの代金を私が払うようにおっしゃられました。どうか私に払わせてください。」と言いました。その母親は驚きました。
 そしてその後、このクリスチャンの女性に、娘に自分が言ったことと、神様が本当に小さな娘の祈りを聞かれ、今まさに祈りに応えられるご自身の存在を自分に示されたということを話したのです。そしてこの母親は、娘と夫と共に彼女の教会に出席するようになり救われました。
 こういうことは迅速にしないといけません。時を逃してはいけません。神様はいろいろな形で伝道の機会を与えてくださっています。そのチャンスが来た時、迅速に行動しましょう。後では遅すぎるのです。
イエス様は「わたしは自分から何かをするのではなく、父なる神様の言われたことを何でもします。」と言っておられます。神様が時を与えてくださるのです。
 皆さん、伝道しても誰も救われないと思わないでください。思ったらそのとおりになってしまいます。
 私は全国いろいろなところに伝道メッセージを語りに出かけますが、ある教会は信者100人のところ、なんと96人の未信者の人を連れて来ていました。いろいろな人脈を頼って声をかけられていました。そしてこの96人中、なんと64人の方がイエス様を受け入れられたのです。
 
 神様は業を急いでおられます。神様はいつも人を使われます。この福音伝道にあなたも私も使っていただこうではありませんか。
 皆さん、真理は説明するよりも生き方で示せばいいのです。
 ある中国の52歳の伝道者が突然牢屋に入れられました。なぜ入れられたのかわかりません。そこは雑居房で、異様な臭いがしました。片隅にひとりの身体の不自由な囚人がいて、汚物にまみれていたのです。その人の身体をきれいにあげると彼は「あなたはキリストでしょう」と言います。そして彼から始めてとうとう18日目には、その雑居房に入っていたすべての囚人が救われ聖霊に満たされたのです。そして19日目に開放され、この伝道師は、自分が理由もないのになぜ牢屋に入れられたのか分かりました。これこそ神様の御業だったのです。
 
 イエス・キリストの十字架と復活の救いという喜びの知らせを、このように人々を使って神様は伝えておられます。それは語るというだけでなく、見せていくという方法です。
 この福音の伝道は昔も今も変わりません。すべての人が急いで伝えていかないといけません。緊急性があるのです。そして、皆さんの生き様がまさにこの福音であるということを忘れないでください。

 

 

 

 

 

■2016年7月10日 日曜礼拝メッセージより(辻和希伝道師、横路伝道師)

 聖い愛による感謝  up 2016.7.10


主題聖句(詩篇118:1)
主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。

主題聖句(第1テサロニケ5:16〜18)
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

 

 

 

【辻 和希伝道師メッセージ】
1.主に感謝せよ
 みなさんはどんなときに感謝をするでしょうか。自分に嬉しいことがあったときが多いかと思います。最近感謝だった出来事を今思い返してみてください。私が最近感謝だったのは、奥さんが洗濯をしてくれる際、夏は汗をかいてシャツに臭いが染み付いてしまわないために、二度洗いしてくれることです。毎日快適にシャツを着ることができるのは奥さんのおかげだと心から感謝しました。こうした何気ないことが感謝なこととして、私たちの周りにはたくさんあふれています。それに多く気付けることは、なんと幸せなことでしょう。
 クリスチャン生活と感謝することはとても密接です。それはあいさつ言葉になるほどですが、私たちは口ぐせのように感謝ということばを口にしていることに気付かされます。
 昔の方はどんなことにでも感謝したとよく聞きます。それは決してかたちだけではないということは、その感謝の表し方を見ればわかります。一方私を含む若い世代は、感謝の表し方が若干苦手なところがあるように感じます。私も感謝するということはどういうことだろうかと、このメッセージを考えるときに思い巡らしましたが、考えれば考えるほど難しくなっていきました。答えのヒントになったのは、ルカ18章9節から14節のイエス様の例話でした。

(1).パリサイ人と取税人の祈りの違い(ルカ18:9〜14) 
“自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」”
 自分を義人だと自任し、他の人々を見下しているパリサイ人と取税人が、祈るために宮に上ってきて(9-10)、それぞれがどのように祈ったかが描かれています。二人の祈りの違いはこうです。パリサイ人は、立って、心の中で、ある特定の人のようではないことを感謝しています。(11-12)
 一方、取税人は遠く離れて立ち、顔を上げることもできず、胸をたたいて、あわれみを求めました。(13)
 パリサイ人は感謝の祈りをしています。そして行いも立派です。しかし、義と認められたのは取税人でした。(14)パリサイ人の感謝は嘘なのでしょうか。ここから教えられることは、人は行いによっては義と認められないことと、人と比べて自分を正しいとする感謝は間違っているということです。

(2).主の前に自分を低くする
 イエス様はこの例話の結論に、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くするものは高くされる(14)と言われました。高い低いは、人の優劣を図る物差しではなく、主のご支配を認めることです。主の前には、私たち人はみな罪人でした。そんな罪人があわれみを受けて、御子イエス様のいのちと引き換えに生かされたのです。
 私たちが感謝をする対象は全て主です。なぜなら万物の創造主が統治されている世界に住む私たちが受ける恵みや幸いな出来事は、全て主あってのことだからです。
 パリサイ人の感謝は、他の人々を引き下げて自分さえよければ良いという、主のご支配の中にいながら、そのことを意識せず、人間社会において優れていることを感謝したに過ぎません。
 取税人は、自分自身が罪人であることを認め、主のご支配のもとに生かされていることをわかっていたのです。この取税人が主のあわれみを受けたときに湧き上がってくる感謝は、真の感謝となったでしょう。

(3).「主」に感謝せよ。
 私たちが、心から感謝できるのは、主によってあわれみを受けたからです。そのことをどれだけ自分の心に意識できているかで、その感謝の表し方も違ってくることでしょう。
 ただ、あまり理屈的になりすぎてしまうことも良くありません。ダビデは詩篇で何度も「主に感謝せよ。」と歌っています。こういうことがあったから主に感謝する、ということももちろん大切ですが、私たちはすでに主から大きな恵みを受けています。先ほども言いましたが、イエス様の十字架を通しての罪のゆるしです。それゆえに私たちは感謝しましょう。理屈抜きで主に感謝しましょう。主に感謝する姿勢は、自然と身近なことに感謝する思いをもたらします。私たちの感謝の対象は、全ての根源なる主ですから、主によってこの地上の生活も富もいのちも何もかも与えられていることを、この一週間も感謝しましょう。 

【横路伝道師メッセージ】
2.感謝することは主のみこころ
 第一テサロニケ5:16〜18のみことばの中に「すべてのことについて感謝しなさい。」とあります。「すべてのこと」の中には、「不幸な悪いことが起きても」感謝するようにと、神様が私たちに望んでおられると知ることができます。
 普通、不幸に思える悪いことが起こった時に感謝することは難しいことです。しかし聖書には、そんなときであっても感謝できるよう、みことばの約束と保証があります。
(1)ローマ8:28
“神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。”
 ここに神様が不幸と思える状況を含めて、すべてのことを働かせて益としてくださるということが約束されています。

(2)ローマ8:32
“私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。”
 このみことばは、恵み豊かな神様が、どんなことが起きたとしても、私たちにすべてを与えて満たしてくださるという保証があることの根拠です。
 私たちはこれらのみことばをいただいているので、すべてのことについて感謝できるのです。
 イエス様はラザロの死に対しても感謝されました。イエス様は死後4日もたっているラザロの墓の前に立たれた時、まず父なる神様に感謝されました。そして「ラザロよ。出てきなさい。」と命じられると、よみがえったラザロは墓から包帯を巻かれたまま出てきました。(ヨハネ11:41〜44)
 また、ある人は「世界で一番幸せな人は、どんな人か。」と問われると、「すべてのことについて感謝しながら生きている人です。」と答えました。幸せだから感謝するのではなく、感謝するから幸せなのです。すべてのことを感謝する心を持っている人のいるその場所が、そのまま天国になるのです。
 感謝することは自分を変え、周囲を変える力があります。それは、まるで壁にボールを投げるようなもので、壁に投げたボールがこちらに返って来るように、相手に感謝を表す時、相手からも良いものが返ってきます。ある人は、「感謝の笛を吹けば、四方から祝福がやってくるが、不幸の笛を吹くと、周りから悪いものが集まってくる」と表現しました。
 また、感謝は健康にも良いという研究論文もあります。食前に感謝の祈りをして食べる人と、それをしない人との間に医学的な違いがあるそうです。感謝して食事をした人には、病気を予防する免疫向上ホルモンが分泌され、体内の病気の進行を遅らせ、病原菌の侵入を防ぐ抗毒素ができ、胃腸内の食物の腐敗や醗酵を抑制する物質が作られるというのです。
 また、神様に感謝し健康を保った有名な人物があります。ノーベル平和賞を受賞した南アフリカ共和国の初の黒人大統領ネルソン・マンデラ氏です。彼は、46才の時に捕らえられ、73才で釈放されるまでの27年間、実に人生の3分の1を監獄で過ごした人でしたが、釈放された時にすこぶる健康であったそうです。それで、ある記者がインタビューして、どうして健康を保つことができたのかとたずねました。マンデラ氏は次のように答えたそうです。「私は獄中で、怒りの代わりに神様に感謝することを選びました。監獄のひどい環境の中で、天井を仰いで感謝し、床を見ては感謝し、水を飲みながらも、食事をする時も、強制労働をしながらも、いつも感謝をささげました。それで健康が保たれたのです。」
 感謝をする習慣を身につけることにいついてもう一人の人を紹介します。17才の時、ダイビングをしていて首の骨を折り、四肢がマヒして車いす生活をしながらも、感謝しつつ40年以上、作家・画家・伝道者として活躍しているジョニー・エレクソン・タダという美しい女性がおられます。彼女は、すべてのことについて感謝するように自分自身を訓練してきました。そして、今ではその習慣が身につき、どんな時にも、条件反射のように感謝のことばが自分から出てくるようになったと証しています。 
 旧約聖書に出てくるダニエルもそうでした。ダニエルは日に三度、エルサレムに向けて屋上の部屋の窓を開け、神様に祈りと感謝をささげる良い習慣をもっていました。ダニエルをおとしいれるため、他の大臣たちの策略によって、『これから30日間、ペルシャ王ダリヨス以外の神を拝んだり祈願したら、ライオンの穴に投げ込まれる』という法令が定められたときに、死の危険があっても、ダニエルはその良い習慣をやめることがありませんでした。そのため、ダニエルは逮捕され、ライオンの穴に投げ込まれましたが、神様はライオンの口をふさぎ、ダニエルを死から救われました。
 ある人が、「行いのない信仰は死んでいるのです。」(ヤコブ2:26)になぞらえて、「行いのない感謝は死んでいるのです。」と言ったそうです。心の中で感謝の気持ちを持っているだけでは、相手には伝わりません。心からの感謝を表すには、口で表現し、感謝の心を伝えることが必要です。感謝を表すために、感謝献金することも大切です。感謝にあふれてささげる献金は祝福され、30倍、60倍、100倍の実を結ぶのです。私たちが神様に感謝することは神様のみこころであり、祝福されることも神様のみこころです。

 

 

 

 

 

■2016年7月3日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 実を結ぶ聖い愛  up 2016.7.3


主題聖句(マタイ13:23)
ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。

 

 

 

 どのような実を結ぶのでしょう。質の良い実を結びたいと願えば、そこにかける手間や労力もおのずと違ってきます。私たちの人生で結びたい実は何でしょうか。また、実とは何でしょうか。実を結ぶことへのさらなる期待と信仰(未来を信じる力)を生かしていけるように、神様の愛に支えられて勇気と励ましを今日も与えられていきましょう。
 この箇所は、イエス様が弟子たちに種まきの例えを説明した最後の部分です。種とはみことばです。みことばを聞く心にはいろいろな状態があり、良い地に蒔かれてこそ多くの実を結ぶことができるとあります。しかし、大切なことは、多く結ぶというよりも「実を結ぶ」ということです。
 お互いを比較してどれだけ相手よりも多くの実を結んだかにこだわる人は、本当に良い実は結べません。そうではなく、実を結ぶということが大切なのです。
 ひとつでも実を結ぶことに心を向けましょう。30倍、60倍結べるような人は熟練者です。メロンや桃を栽培する農家の方々はいかに、大きな甘い実を結ばせるかに多くの手間と熟練された知恵を用います。
 私たちはどのような実を結ぶために日々労しているのでしょうか。それがわからないと虚しくなって労しなくなってしまいます。
 また、今実を結ばせようと努めているということは、まだ実は結んでいないということです。既に実っているなら努める必要はありません。取るだけていいので、実のありがたさも感じないでしょう。
 イスラエルの人々は天から降るマナに対して、だんだんありがたさがなくなってしまいました。それは自分が労しないで手に入れられたからです。
 私(辻師)は父が農業している姿を見て、その苦労を知っているので、育てるという大変さが身に染みています。
 また、すぐに実る実はありません。稲も何ヶ月も大切に育ててようやくお米が手に入ります。その期間天候を気にし、病気にならないよう気を使います。この労苦を知っている人はお米の一粒さえ大切にします。
 今年、神様はこの教会に「聖い愛」という実を結ぶように願ってくださっています。それは本当に大変なことです。皆さんの中には大変辛い試練を通っている方もおられるでしょう。しかし、まだ半年あります。あきらめずにこのみことばを、心の良い地に実らせられるよう奮起していきましょう。

1.『豁然開悟』の心(マタイ13:19-23)
“御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。 また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。 しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。 また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。 ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。”
『豁然開悟』(かつねんかいご)の意味
 心の迷いや疑いから脱却して真理を悟ること。
 「豁然」= 視野が大きく開けるさま。心の迷いや疑いが消えるさま。
 「開悟」= 迷いから脱却して真理を悟ること。
 ここはみことばの実を結ぶということの例えの箇所です。皆さんが神様に願いを祈る時、その願望が神様のみことばと一致しているなら、その願いは神様のみこころに添った願いなので実として実現します。しかし多くの人は自分の願いに合わせたみことばを選んで、これが神様の約束だと思い、みことばが心に種として蒔かれます。しかし、その実がなかなか結びません。そうすると、心が良い地でなかったからと悲観してしまいます。そうして、まず自分の罪を責めてしまいます。
しかし、実はほとんどの人は良い地ではなく、道端や岩地のような心なのです。なぜなら良い地とは放っておいてなるものではないからです。放っておくと、硬くなり、いばらが生えてきます。人々に踏まれ、荷車に押しつぶされていくように、様々な社会の重圧に苦しみねじれ、ゆがんでしまった心には、いくらみことばが蒔かれても実を結ぶことはできません。
 クリスチャンであっても、教会の兄弟姉妹の交わりの中でまさかの傷を受けてしまうと心が固くなり、神様は信じていても兄弟姉妹に心を開けなくなり孤立してしまうなら、それは道端の心です。
 また岩地とは、石ころより大きい岩なのでなかなか取り去れません。しかもその岩が邪魔してなかなか根を張れないのです。受け入れられないというかたくなな心が隠れているからです。
 例えば自分に関係のないようなみことばだとアーメンと快く受け入れますが、悔い改めなさいというメッセージにはがんとして心を開こうとしなくなります。自分が間違っているということは受け入れ辛いのです。そして、悔い改めて方向を変えないので、結局神様のみこころから外れていくことになります。
 いばらの心とは何でしょう。富の惑わし等社会の中にいると無視できないような環境が周りにあります。税金や保険、年金は払わないといけないし…。なんだか無駄という気がしてなりませんが、払わないといけません。私たちは自分の心にいろいろな雑草が生えてしまうので、日々それを抜いていかないといつの間にか伸びてしまいます。富の惑わしという雑草が伸びてしまうとお金をもうけるほうに心が向いてしまい、それを優先させてしまうようになります。そして、みことばが実を結ぶための時間と労力をかけなくなるので、実が熟して結ぶまではいかないのです。
 残念ながらイエス様以外はみんなこの3つの心があります。肉の罪があるからです。
 それではどのようにして実を結べるのでしょうか。
 県北は本当に山奥で平地はほとんどありません。しかし、その狭い斜面一面に畑を作り、田んぼも作っています。昔の人はくわ一本で山を畑や田んぼに変えたのです。そうであるなら、あなたの罪の心を良い地に変えていくことは決して不可能ではありません。道端、岩地、いばらの中であっても、生きるためにはどんなに難しい地であっても必死で耕して良い地に作り変えようと全力を傾けるはずです。永遠の命がかかっているのです。
 十字架に自分をつけるとは、人生を神様に預けて、言われたみことばはとにかく全力でやっていくことに命をかけるということです。
 農家の方々は自分が高齢になって、後を継ぐ人がいなくても、自分が動けるうちは田や畑を続けようと命をかけておられます。生きるためには乗り越えないといけないことです。まして、愛する人のためなら不可能と思えてもやり続けます。
 イエス様は私たちへの愛のゆえに、十字架で罰をお受けになりました。愛のゆえにできないとは考えられなかったのです。
 私たちも神様にいかに愛されているかを知り、愛してくださる方のために命がけで心を良い地に作り変えようと日々奮起することができます。
 イエス様は例え話で50デナリ赦してもらった人と500デナリ赦してもらった人と、どちらがより主人を愛するだろうかと問いかけました。語られたパリサイ人はイエス様を食事に招待はしたものの足を洗うための水も用意せず、あいさつのくちづけもしませんでした。しかし、彼が罪人とさげすんだ女性はイエス様の足を涙で洗い、自分の髪でふき、高価なナルドの香油を頭に注いで自分の感謝の心を表しました。 神様の前に自分の罪の深さが分かる人は神様の愛が分かります。そして、神様の愛に感謝し、みことばに従いたいと願い続けていきます。
 最初に恵みを受けても、次のものが満たされなかったら、文句を言い恨む…自己中心の人はそのようになります。罪の性質である貪欲は、以前の恵みをなかったことのようにして、今願っている恵みを受けられないとののしるのです。
 神様に対してこのような態度で出ていないでしょうか。このような心の状態でどうして良い実が結ばれるでしょう。
 しかし、私たちは神様の愛に励まされて、そのような罪の中から救ってくださり期待してくださる神様の愛を信じて変わることができます。あきらめずに耕し続けるなら必ず良い地へと変えられていきます。
【デボーション参考ポイント】
 何が「良い地」の心に変えるのでしょう。(ローマ10:17)
“そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。”
 もっとキリストについてのみことばを聖書から見つけていきましょう。ひとり子イエス・キリストがどれほど私達を愛してくださっているか、そういう神様の愛の励ましを受けて良い地になるため心を耕していきましょう。
 「自分を中心に物事を考えるという岩」が隠れていることに気づき、その大きな岩を動かしていきましょう。聖霊体験をした人はなおさら神様の愛が注がれているのですから、くじけるはずはありません。
 今弱っている心、なえている状態を神様は必ず回復してくださいます。そのためには信仰は聞くことによりとあるので、みことばを読み続けましょう。悲観的になる罪の性質に惑わされてはなりません。読み続けているなら、みことばのシャワーで必ず霊が元気になり聖くされていきます。そして、感情や肉体も健康にしていきます。有賀先生は60年の生活で600回聖書を通読されています。今でも一日20章は読んでおられます。みことばを読まれているので本当にお元気です。そして、さらに聖められるために日々みことばを読まれています。みことばに触れることによって、私たちはいい影響を受け、心も身体も元気になりリフレッシュされます。
 ただし罪の力は阻もうとしてきます。それは、実を結ぶようになるからです。その罪の力もみことばを読む習慣が出来上がれば影響力をもたなくなります。永遠の命がかかっています。必死で心を耕し良い地へと変えるため日々励んでいきましょう。