■2016年6月26日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 聖い愛への道  up 2016.6.26


主題聖句(マタイ7:13〜14)
狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

 

 

 

 今年も半分を過ぎようとしています。「聖い愛を求める」という今年の目標に照らし合わせて、今日のテーマを考えてみました。今日、特に強調したい点は、私たちが求めている聖い愛への歩みは狭い門から入ることであり、それを見いだす者はまれであるということです。
 昔は福音を語る時に、「楽に生きられる、苦しみから解放される」と話すことが多くありました。しかし、この世では「楽」という言葉を、「怠けられる」と捉えがちです。報いにはその前の労働や犠牲が必ずあるものですが、特に若い人の間で、苦労せずに生きたいという考えが増えている気がします。
 
 けれども福音は怠けさせるためのものではありません。私たちは「狭い道」を選んだのです。このクリスチャン生活に打ち込めるための「まれなもの」を見いださなければ、私たちの生活も苦しいだけのものになってしまいます。「地獄に行きたくない」から我慢するのと、「天国に行きたい」から忍耐するのでは、心もちが全然違います。天国という神の国の素晴らしさに目が開かれたからこそ、狭い門を選び、狭い道を歩むという決心と覚悟ができるのではないでしょうか。
 
 楽をするためにクリスチャンになるというイメージを持たないようにしましょう。個人的経験から言えば、むしろ精神的に多くのストレスをためてしまうことが多いと思います。ただし、霊・魂が救われているので、そのストレスは消えます。
 
 米国メジャーリーグで今もバリバリの現役で活躍中のイチロー選手。同じ日本人として誇らしく思いますが、彼の実生活は、私たちにはとうてい真似のできないものです。40代の体を他の若い選手並みに保つために様々な工夫がされており、シーズンオフと言えども基礎トレーニングを一日として欠かすことはありません。その苦労は、彼が野球を好きで、そのすばらしさにとらわれていて、現役でいられる限りやり通したいという愛情と熱意がなさしめています。
 私たちのクリスチャン生活も、苦しみを苦しみと思わないほどの魅力を見つけたら、クリスチャン生活は本当に楽になります。

1.主題聖句より(マタイ7:13〜14)“みことばは前述”
【内容観察】
「聖い愛を真剣に求めるなら狭い門から入ることを選びなさい。自己中心の貪欲が動機の愛は滅びに至る大きな門で、その道は進みやすく広いのです。そして、苦しむことが少ないので、そこから入って行く者が多くいます。いのちに至る聖い愛の門は小さく、困難の続く狭い道なので、それを選択するための価値とすばらしさに気づく者は、本当に少数です。」
 
 皆さんは少数派です。この世の中で狭い門を通り狭い道を進むのは難しいことです。惑わすものがいっぱいあります。罪でない欲も度を過ぎると貪欲になって、大事なものから心がそれてしまいます。

◎「狭い・小さい」という言葉に象徴されている意味
◇窮屈、不自由、制限がある、圧迫感、難しい
 確かな的(遊びの部分がない)、価値の高い(手に入りにくいもの)、結晶、凝縮している

◎「広い・大きい」という言葉に象徴されている意味
◇解放的、自由、安易、簡単、多くのもの 
 もう十年以上クリスチャン生活を送っておられると悟ってくると思います。「クリスチャンの方がつらい」と。
 
 クリスチャンは真理を教えられ、聖さを勧められ、愛することを励まされるがゆえに、複雑な悩みが多いものです。愛することには赦すことが必要ですが、人にとって一番苦手なものは赦すことです。広い門は赦さなくてもやっていけるという広さがあります。狭い所は赦さないと先に進めないので、どうしても逃げることができません。
 
 ちなみに、この「広い・狭い」の感じ方は、世の中の未信者の人々の感じ方です。しかし、神様の愛に喜んでいる人は、狭いとは感じません。私の歩むべき道はこれだという心の光を持つことができた人は、狭いか広いか、苦しいか楽かは関係ないのです。「これが私の生きる道」と心が定まると、狭いも広いもありません。
 
 クリスチャンでも悟りを持たず、この世の考え方が半分あると、不平不満が出てきます。世の中に足を置いて物事を判断するからです。世の自由は規制されない自由、すなわち放縦です。力があれば自分の好きなことをとことんまで推し進めていくことができます。周りに迷惑をかけようが被害を与えようがびくともしません。
 
 しかし狭いところは無理強いができるような幅がないので、問題を一つ一つ解決し、兄弟姉妹との関係をしっかりと愛でつないでいかなければ、一人で突っ切ることはできません。最後はみんなで一緒に足並みを揃えて、心を一つにして前に進みます。愛による一致が必要であり、これはものすごく難しいことです。
 
 世の中は個人主義が入り込んできてしまい、一緒に物事をなすことに対して、ひどく抵抗を感じるような価値観、考え方が、無意識のうちに取り込まれています。
 
 しかしイエス様が私たちに勧められているのは狭い道であり、田んぼのあぜ道のように歩きにくく足を踏み外しやすい道です。そのぬかるんだ道で足を滑らせないように、一歩一歩用心して歩く必要があります。
 
 楽をすることに心がとらわれていると、神を愛し、神に愛されるということに目が開かれません。「なんて愛されているのだろう。」と思うからこそ、この狭く困難な道を歩いて行けるのです。

【デボーション参考ポイント】
「聖い愛を求めることは、狭い門、狭い道、少数派の人生です。」
 この世の人々がどんなに自分より楽をしているように見えても、それは広い門から入った広い生き方の人だとわきまえ、私たちとは違う人だと再確認してください。狭い道のすばらしさ、それは少数の人しか味わうことができません。誰でも簡単に味わえるものではなく、特別に気づいた人々しかこの道を歩むことができないような、本当にすごいすばらしい道なのです。

2.『寸善尺魔』の影響
『寸善尺魔』(すんぜんしゃくま)の意味
「小さな善と大きな魔。世の中には、良いことはほんの少ししかなく、悪いことのほうがずっと多いこと。また、良いことが少しあっても、悪いことに邪魔されること。」
 
 親切で良いことをしようとすると、「何を一人だけかっこうつけているのか」と邪魔されませんか?もろには言わなくても、ねたまれたりうとまれたりする世の中です。
 
 大勢の方が正しいと思っている人がたくさんいます。そこでクリスチャンたちはみじめな思いをします。少数派であるがゆえに、正しいことを言ったり行動しても圧迫されます。あるいは圧迫されることに気づかないほど、この世と調子を合わせてしまっているかもしれませんね。
 
 狭い道を進んでいたら、必ず抵抗があります。良いことは少数派なので、悪いことを是とする多数派の中では抵抗が生まれます。そういう私たちの、良い部類の人生の歩み方は「寸善尺魔」の環境の中で歩んでいるのです。
 
 ということで、この「広い」「好きなことをしている」人々をうらやむことのないために、下に5つのみことばを挙げていますので、これをしっかりとデボーションしていただきたいと思います。

★聖い愛を求める勤勉な者という少数派、不健全な欲に振り回されるな まけ者という多数派、という観点から以下のみことばの意味を考えてみましょう。

(1)(箴言10:4)
 “無精者の手は人を貧乏にし、勤勉な者の手は人を富ます。”
 「人を貧乏にする」とは、自分自身のことも周りの人々のことも指します。なまけ者は自分で働かないので、周りから助けてもらわなければいけません。しかも、助けてもらえないと文句を言うのです。なんやかやと屁理屈を言い、相手を非難し、自分を正当化します。
 
 「富ます」のはお金のことだけではありません。なまける心は人に負担を与え、心を貧しくしますが、聖い愛を求めていく人は、その愛によって人の心をも富ませるのです。

(2)(箴言13:4)
“なまけ者は欲を起こしても心に何もない。しかし勤勉な者の心は満たされる。”

 なまけ者は欲を満たしたら次の欲を求め、結局何も残りません。しかし、聖い愛を求めて勤勉に人生を送る人は、愛が残ります。いつまでも残るものは信仰と希望と愛ですね。

(3)(箴言19:15)
“怠惰は人を深い眠りに陥らせ、なまけ者は飢える。”
 不健全な欲に振り回されている人は、心が眠っている状態です。人格者としての尊厳を失ってしまうのです。「愛なんて意味がない。私たちは動物なのだ。」と人としての存在価値を捨ててしまいます。

(4)(箴言21:25)
“なまけ者の欲望はその身を殺す。その手が働くことを拒むからだ。”
 人はパンだけで生きるのではありません。私たちの心を養うための健全な欲でない貪欲、肉の欲望を満たすための欲は、私たちを滅ぼしてしまいます。身とは精神も含みます。欲望にとらわれると、すべてを滅ぼしかねません。

(5)(箴言23:23)
“真理を買え。それを売ってはならない。知恵と訓戒と悟りも。”
 真理はイエス・キリストその人です。神の愛の見えるかたちとして来られたお方がイエス様ですね。「買え」とは、代価を支払いなさいということです。代価を払ってでも真理を手に入れなさいということなのです。言い換えれば、真理は代価を支払ってでも手に入れる値打ちのあるものだということになります。
 
 では、「売る」とはどういう時でしょう。価値を感じない、軽んじるような状況の時ですね。テレビ番組で、骨とう品の鑑定をする番組がありますが、「売って旅行に行こうと思います。」と言っていた人も、予想外の大金が品物に価値づけられると、手放さないと心変わりします。真理もまたそのようにすばらしいものなのです。知恵と訓戒も悟りも同様に、測り知れない価値を持っています。
 
 少数派の私たちは、そのすばらしい価値あるものをつかんでいるはずなのですが、ひょっとしてそのすばらしさから心がそれてしまっているとしたら、「いつ売ろうかな。」と考えている状態かもしれません。
 
 この世の人たちの自由に広い道を歩く様子を見て、「こんな信仰、一文の得にもならない。」と手放してしまう誘惑に引っかからないようにしましょう。
 
 なまけ心はいつの間にか影響を受けているものです。世の人を見て「いいなあ。」と思うことがあるでしょう。それは愛が弱った時です。神様の愛から目がそれはじめたら、楽しむということへの誘惑に引っぱられます。
 
 イチロー選手はなぜ目がそれないんでしょうか? 彼は一瞬でも目をそらすことによって、今まで積み上げてきたものがすべて無駄になってしまうことを知っているのです。年をとって肉体が老化してくると、練習を一度休むことによって、それまでの努力が水の泡になってしまいます。今までの努力を無駄にしないため、そして自分の求めているものをさらに追求し続けたいという熱意が彼を支えているのです。
 
 私たちも神様の愛のすばらしさを、心惹かれるようなものを早く見つけ出すようにしましょう。見つけておられる方は、それを手放さないようにしましょう。

 

 

 

 

 

■2016年6月19日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 聖い愛による信仰  up 2016.6.19


主題聖句(ガラテヤ5:6)
キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。

 

 

 

【内容観察】
「キリスト・イエスの聖い愛を信じている者にとっては、外面のしるしを付けることが重要なこととして優先されるのではなく、神の聖い愛によって愛されていることへの愛の応答としての動機による信仰が最も大切であって、これよりも優先されるものはない。」

 しるしも大事なことです。しかし、しるしとしての洗礼さえ受ければいいという極端な考え方になってはいけません。大切なのは、しるしを付ける前の動機です。
 皆さんの神を愛する心の動機は、まず神に愛されて、その愛を知ったからこそ自分も神を愛するというものだと思います。そして、その心が土台となります。
 この心の動機がどんなに重要であるかを、みことばからみていきましょう。

1.聖い愛による信仰が大事な理由(ローマ14:23)
“しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。 ”

 私たちが使う信仰ということばは、愛によって働く信仰のことです。
前回、未来を信じる信仰には欲望で信じるものがあるとお話ししました。例えば、成功させるための可能性思考もそれに当たるでしょう。しかし、私たちの未来を信じる信仰は、イエス・キリストが私たちに良い未来を与えてくださるために十字架で死んでくださったこと、そこに表された神の愛を信じるゆえに、未来をも信じられるという愛を動機としたものです。今何かをしてくださったということが問題ではなく、今は例え悪くても、私たちの信じる神様は未来に必ず良いことをしてくださると信じることが大事なのです。
 神様の愛は未来に希望を与えてくださるものです。私たちも愛する者のためには、その人の未来を良くするために労苦さえ惜しまないものでしょう。神はなおさら私たちに良い未来をくださるために働いてくださっています。

【内容観察】
「神の聖い愛によって愛されていることを意識せずに生きる信仰からの物事に対する判断と行動は、すべて的外れをすることになる。」
 神様の愛を受け入れて未来に希望を持てないようなクリスチャン生活は、的外れであり、罪と言えます。
 しかし長くクリスチャン生活を送るほど、未来に向かって喜びをもてなくなる傾向があります。体が弱り、限界を感じるにつれて希望を持ちづらくなってしまったり…。
 そうではなく、本来ならば「体は弱って衰えていっても、必ず未来は祝福される。」と喜ぶべきです。神は愛だからです。
 この礼拝で愛によって働く信仰を回復してください。神は良い未来を与えてくださる方だからです。
 神が良い未来を計画してくださっているのにもかかわらず、それを信じないというのは、的を外したクリスチャン生活になっているということです。神様が愛を持って計画して今働いてくださっているというその愛を信じましょう。
 目の前のものが可能か不可能かを自分で判断して、不可能だと落ち込んでしまっていないでしょうか。今見える自分ばかりに目を向けているので、良い明日を信じられなくなっているのではないでしょうか。
「こんな私なんて…」と、いつもできない自分ばかりを見ていたら希望を持てなくなり、喜びも失ってしまいます。あなたができないと思っても、神は「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。 」(Uコリント5:17)と言ってくださっています。
 神の約束のことばは、今日も未来も変わることはありません。神が御霊の働きによって私たちを造り変えてくださるのです。どうにもならない罪人である私たちを神はどれほど愛してくださっていることでしょう。御子を十字架につけるほどにです。ですから、この愛を疑わないようにしましょう。
 神様は私たちへの愛のゆえに絶対不可能であったことを可能にしてくださったのです。それは、御子の十字架によって、信じるすべての罪人が赦されて神の子どもとされるという奇跡です。ですから、自分もこの神の愛を信じて、良い者へと変われることを信じようと決心してください。現実の自分や状況を見て失望しないで、むしろその否定的な考え方に打ち勝つ方法は、ただ「神の愛を信じる」ことに尽きます。
 心の深い悩みは大抵自分自身のことです。誰が悪いのでもなく、本当は自分が不信仰であることが原因なのだと気づいているからです。 相手が悪くても実は自分も悪いと心の底では気づいています。人を赦せるような自分に変えていただきたいと切に願っているのが本心ではないでしょうか。
 神は愛なので、自分の努力やカウンセリングでも不可能であっても必ず変えてくださると信じて待ちましょう。

【デボーション参考ポイント】
神様が愛してくださったように、まず、自分を愛すること。
 
 自分を愛するということを考えたことがありますか?ぜいたくをして楽をすることだとは思っていないですね。
 神の前にこんな罪人の自分を愛せるでしょうか。まずは、自分の罪深さに気づき、こんな自分は到底愛せないということに気づくことが必要です。出来ている自分を愛することはできます。しかし、出来ていない自分をも愛せるということが本当に自分を愛するということです。物事がうまくいかなくなった時、限界にぶつかった時に初めて自分を愛するということがわかります。
 若い時に何でもどんどんできてやり遂げてきた人は、人に対して思いやりを持つことはできません。弱さを知らないからです。しかし、多くの人は努力しても結果が出ないという経験をしています。比率的には努力しても結果が出ない人の方が多いでしょう。
 天国には努力は必要ありません。努力せずに入れます。しかしそう言うと、多くの人はそれを信じられません。なぜなら良い物を得るためには何らかの代価が必要だと教えられてきたからです。
 努力も何もしないのに天国に行けるということを信じますか?どんなにだめなクリスチャンでも天国に行けると信じていますか?
それなら今喜んでいるはずです。
 クリスチャンとして成長がない自分でも、神は愛してくださり天国に入れてくださる。何という大きな神の愛だろうかと気づくためには、実は自分はなんと駄目なクリスチャンであろうかと気づくことが必要です。その上でそのような自分をも愛してくださっている神の愛の深さに心が揺さぶられ、その愛の大きさに気づくのです。こんな自分をも愛してくださる神様の愛に感動するのです。
 失敗が大きいほど、それを赦された喜びは大きいはずです。その経験こそが、愛によって働く信仰になります。自分のいたらなさを悟り、心砕かれるために深い心からの悔い改めが必要です。
 
 6月14日に中国の有名な新聞に「中国人を助けて溺死した日本人を、日本のメディアは取り上げない」という記事が載りました。
 11日午後千葉県の海で貝を密漁していたいた中国人が海に落ちたのを、密猟監視員であった日本人佐々木淳さんが助けようとして溺死しました。これに対し中国のネットユーザーの間では大きな感動が起き、亡くなった佐々木さんの遺族の今後を心配する声もあがっています。しかし日本のメディアは亡くなったという一報は報じましたが、それ以後何の続報もありません。これに対し、中国のメディアは、最近の緊張関係のある両国にとって、このような感動する事件は報じる価値があるのではないかと報じています。互いのわだかまりを解くのはこういった善意や愛なのではないかとも報じました。こういう素晴らしいことに目を向けないで、特定の人の落ち度ばかりを追いかける日本のメディアに一石を投じていると思えます。
 この出来事から、罪を犯している私たちを救うために十字架にかかって命を捨ててくださったイエス様の愛を連想させられます。
 中国のネットユーザーたちはこの出来事を通して日本人への敵意が和らいだと言っています。
 私たちもイエス様の愛の犠牲によって生かされているのですから、互いに敵としてにらみ合っていてどうなるでしょう。むしろ、この神の愛のゆえに互いを受け入れあい、中国の人々とも良い未来を信じていくことが、神の愛に応えるクリスチャンの姿勢だと思います。
そのような心を失わないようにイエス様の愛を見なおしてください。そうしていくなら、『禹行舜趨』はなくなるはずです。

2.『禹行舜趨』(ガラテヤ6:3)
“だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。”
『禹行舜趨』(うこうしゅんすう)の意味
うわべだけ夏王朝の禹王や聖天子の舜などの聖人の動作をまねるだけで実質をもたないこと。
「禹王」=夏王朝の始祖とされる伝説上の帝王。
「舜帝王」=中国太古の伝説上の聖天子。中国五帝の一人。

【内容観察】
「神を愛していると言いながら、人をさばいたり批判してしまうのは、自分を無意識のうちに優れている者としてしまっているのです。それは、自分で自分を欺いていることになるのです。」
 
 人の罪を裁いたり批判したりするのは、自分の罪を忘れてしまっているからではないでしょうか。同じ罪を犯していたら、それをとがめる人はいません。気づかないから裁いてしまいます。赦されていることを忘れないようにしましょう。
 ただ赦されてやり直そうとしてすぐに完全な人になるわけではありません。稲が実を結ぶためには三ヶ月半かかります。まして罪人である私たちが神の子として実を結ぶには一生をかける必要があります。
ですから、まだ直らないのと相手を責めるよりは、励ましていくことのほうが大切です。
 責めることは、あきらめさせることです。批判し続ける人は相手の未来を壊すことになります。イエス様は決して責めません。夫婦でも毎日責められたら離婚したくなるでしょう。責めるのではなく、直していくことを励ましましょう。罪を改めることに協力してあげましょう。それが明日をつくることです。
 神はあなたが悔い改め、何度も直そうとし続けることに寛容を示し続けておられます。神があなたをそのように赦し続けてくださるのなら、まず自分自身を赦しましょう。神の愛があるから自分を赦しましょう。
 ただ負いきれない罪があると自分を許すことができません。しかし、やせるためにエステに通い続けるように、神に赦し続けてもらっているのですから、すぐに効果が出ないと思っても決して途中であきらめないようにしましょう。途中にやめるとリバウンドしてしまいます。霊的にイエス様を信じて悔い改め続けていくなら少しずつ心が聖くなっていきます。
 また、自分の罪を知り、なかなか完全になれない弱さを知るなら、相手の罪に対しても弱さを認め、寛容な心を持てるようになるはずです。
 それが「キリストがあなた方を愛してくださったように、あなた方も互いに愛し合いなさい。」という意味です。

 

 

 

 

 

■2016年6月12日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 万世不刊の聖い愛  up 2016.6.12


主題聖句(第1コリント13:13)
こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。

 

 

 

 「すぐれている」とは順位のことではありません。
 『万世不刊』(ばんせいふかん)の意味
  途切れることなく、いつまでも伝わり続けること。
  または、いつまでも無くならないこと。
「万世」=永遠、いつまでもという意味。
「不刊」=無くならないこと。すりへらないこと。
 神様の聖い愛は、何千年経とうと変わることがありません。信じますか? それくらい神はあなたを愛しておられるのです。
 そのしるしが十字架であり、あなたの身代わりに裁きを受けて、あなたを救ってくださる神の愛です。それは歴史に刻まれています。
 このことによって、私たちは今も「こんな私でも、神は関心を持っておられる」と、その愛を信じることができるのです。愛を実際に見せてくださったからこそ、私たちはそれを信じることができます。

1.聖い愛に伴う信仰と希望
 神様の聖い愛には、必ず信仰と希望が伴っています。神の愛によって人を愛しているかどうかを点検するために、その中には必ず信仰と希望が存在しているのです。

A)「信仰」(ガラテヤ5:6)
“キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。”
 割礼は、神様への信仰のしるしですが、たとえそれがないからといって信仰がないとは言えません。逆に割礼があるから信仰があるとも言えないのです。それは心の問題だからです。たとえば洗礼式を受けることを拒む方がおられるとします。洗礼を受けるのが難しい環境・状況は別として、自分の好みで判断しているなら、神への愛は疑わしくなります。なぜなら「行いのない信仰は死んだものである」(ヤコブ2:17)と書いてあるからです。
 健康かつ家庭的にも問題のない人が、信じたことの証明として洗礼を受けるのは当然のことではないでしょうか。
★聖い愛が動機となって働く信仰は、愛とともに永遠である。
 聖い愛とは、神様を敬う心です。イエス様を通して神と神の愛を信じることが聖い愛です。
 信仰には、愛の動機によるものと、欲望の動機によるものがあります。しかし、信仰という力は、どちらの動機でも働きますし、効力があるものなのです。ノンクリスチャンにも信仰を働かせることはできますが、クリスチャンにとっては、神への愛によって働く信仰に価値があります。
★信仰とは(へブル11:1)
“信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。”
 目標を達成するために、否定的にならず、必ず目標を達成できると心に確信を持って行動し、積極、前向き、肯定的な心を持ち続けて行動していきます。すると、必ずそのように実現するのです。これはビジネス界での積極思考です。アスリートの人々も、この前向き肯定的な心の状態をもって、筋肉を委縮させないようにしています。極度の緊張は筋肉を委縮させ、思うように動けなくさせますが、前向き肯定的な考えは筋肉をほぐし、活発にして、血流が良くなって運動がよくできるようになるのです。
 成功した人たちは信仰を働かせていますが、だからといって、その人が天国に行けるわけではありません。神の聖い愛を尊ぶ動機から出た、前向き肯定的な考え方。これが永遠のいのちに至る道です。
★未来を信じる力
 私たちは、神様を愛するがゆえに望んでいる事柄を確信できるでしょうか? 神様を信じて、将来を信じることができていますか? 信仰というのは未来を信じる力ですが、その動機が何かが大切です。
★聖い愛には、望んでいる事柄が将来に必ず実現するという、未来を信じる思いが伴う。
 否定的な愛というものは存在しません。愛は前向き肯定的であり、確信を持つほどに強い気力と感情が湧いてきます。神様の愛があるから、自分はだめな人間でも、神様の愛が自分を生かしてくださるのです。自分の意志には能力の限界がありますが、神様の愛が自分の心と体を動かして、限界を超えさせてくださいます。
 あなたが神様を愛していると言われるならば、未来を信じる力がありますか?あなたのクリスチャン生活は希望に満ちていますか? それが神を愛しているかどうかの見分け方になります。

B)「希望」(ローマ5:5)
“この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。”
★聖い愛は、希望を復活させる。
 神様を愛する私たちの心は、「こんな私でも神様は愛してくださっている。」というところから、生きる望みが湧いてきます。自分ひとりでは自分を愛することさえできないけれど、「こんなどうにもならない私を、それでも神様は愛してくださって、私の罪を贖ってくださった。私は生きることを神様の前に認めていただいた。『あなたは生きていてOKだよ。』と言ってくださっている。そういう愛を私は受けている。神様感謝です。」というところから、生きる望みが湧いてくるわけです。
 すると、「もう自分の力で生きようとすることはやめよう。神様の愛に励まされて生きていこう。」という、明るい明日への考え方が生まれてきます。これが神様の愛を受けたことへの愛の応答です。
★失望の時こそ、聖い愛による希望が信仰によって生まれる。
 「私はだめなクリスチャンだ」で留まっていることは、神様の愛から目が離れている証拠です。罪人は神様の前に皆0点です。能力など関係ありません。しかし、私たちは神を愛するという、本来あるべき人の心に立ち返ることができました。能力はなくても、神を愛する心が、神の前に100点なのです。それを皆さん信じていますか? そんな愛を信じてますか?
 それさえ信じられないくらい自分に自信のない人、自分の罪深さを感じている人が中にはおられると思います。しかし、あなたの感情は関係ありません。「愛している」と言ってくださっている方の言葉を信じるか否かです。神様はいろんなかたちで、私たちを愛してくださっていることを示しておられます。その愛は生きる希望を持たせます。愛は神ご自身であって、永遠なる神様ですから愛も永遠です。その愛から生まれてくる信仰と希望もまた永遠です。
 あなたが神様を信じている愛には信仰と希望を見つけ出すことができますか? 自分に失望し続けてはいませんか? 神様の愛から目をそらしてはいませんか?「できない自分」に心の目を向け続ける限り、本当の神への愛は生まれてきません。すると信仰もなくなり、希望も失われてしまいます。
 今一度、私たちは自分を吟味しましょう。神様を愛する愛は未来を信じる力を持った愛か、その未来を信じる力を持って希望と喜びが湧いてくるような愛となっているかを。それはあなた自身の愛ではなく、愛され、愛に触れられた応答の愛です。
 サタンは「あなたの内に神様を愛する愛はないじゃないか」と言ってきますが、確かに自分から発生する愛はないのです。「私には神様を愛する愛はない。しかし、神様が私を愛してくださった愛で、それに応える愛はある。」そこをサタンにごまかされないようにしてください。

2.いつまでも残る愛の関係(第1テサロニケ1:3)
“絶えず、私たちの父なる神の御前に、あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしています。”
 私たちがどんな境遇になろうと、永遠に残るのは信仰と希望と愛です。
★激しい迫害の中にあったテサロニケの教会では、神を愛する動機からの信仰と希望による関係が結ばれていた。
 ローマ帝国から目の敵にされていたクリスチャンはまともな仕事や生活もできず、いろいろな不利益をこうむっていました。それをわかっていてなお、イエス・キリストを信じる信仰に至ったテサロニケの人たちは、この世のものを失ってもそれ以上に価値あるものを、パウロの語る神のみことばを通して気づいたのでした。この世のものは過ぎ去っていきますが、私たちの内側にある信仰の力、愛の働き、望みの忍耐は死んでも持って行けるものだと、テサロニケの人々は知ったのです。だから迫害の中でも信じたのです。
 皆さんはイエス様を信じ、愛しておられますが、今、現実に自分の持っている見えるものが全部なくなって取られてしまった時に、あなたの内に何が残っているかを想像してみたことがありますか? 財産を失い、病気になり、障害が残るなどの困難、患難にあった時に、「ああ私にはもう何もない」というような考えを持ってしまったら、神様を愛する愛はどこへ行ってしまったのでしょうか?
 人が試みにあうのは、神様を正しく愛することを気づかせるため、神様に背を向けている現状に気づかせるためです。それでもそむき続けるなら懲らしめがあるのですが、その前に気づいてほしいと、神様はあなたの心の状態に気づかせるために試みを用いられます。
★信仰による働き、愛の労苦、イエス・キリストによる望みを具体的に挙げてみる(第1テサロニケ5:11)
“ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。”
 信仰の働き、愛の労苦、イエス・キリストへの望みによる忍耐。テサロニケの教会では、互いに励まし合い、徳を高め合う関係を持っていました。信仰の働き、励ましです。「あなたは立派な勝利者だ。」と信仰の目をもって兄弟を励ますのです。今は敗北者に見えても、信仰は未来を信じる力なのですから。
 愛の励ましは大変力のいるものですが、神様がまず、私と私の未来をそのように見てくださっています。だったら自分と同じように、神様は兄弟の未来も必ず信じておられるのです。そういう目で愛の労苦をもって励まし、親切をし、いろんな足りないところを助けていきましょう。この愛の労苦は、イエス・キリストの再臨の時、必ず報われます。あきらめないで待ち望みましょう。
 キリストの再臨は時がわからないだけで、必ず起こります。イエス様は聖書の預言通り、一度この地上に来られました。ですから、イエス様の再び来られるという約束も必ず成就するのです。この希望のゆえに、私たちは互いに徳を高め合うのです。
 この世の人が神を恐れずに欲望のまま好き勝手に生きているのを見て心をくじけさせたり、この世と調子を合わせてしまって低い道徳観に陥ってしまわないようにしてください。
 テサロニケの人々は大きな迫害の中でさらに強く、実践として祈りあい、みことばをもって教え合っていました。目に見える迫害のない私たちはどのようにして信仰と希望と愛を働かせることができるでしょうか。それは、あなたの隣人に目を向けることです。

【デボーション参考ポイント】
隣人への愛が『聖い愛』であることを確認するために、『信仰』と『希望』が存在しているかを吟味してみましょう。

【隣人とは、交わる(関与)関係ができる人のこと。つまり、愛することができる人のこと。】
 「交わる」は、ギリシャ語で「コイノニア」という単語が使われています。愛が何らかのかたちで結び合わされているなら、その人は隣人ということになります。妻も夫も子どもも家族も全部、何らかの愛でつながれているので隣人です。電車やバスの席で偶然隣に座った人を「隣人」とは呼びません。
 「よきサマリヤ人」を隣人のたとえとしてイエス様が使われたのは、ユダヤ人から憎まれていたにもかかわらず、サマリヤ人がユダヤ人に関与したからです。彼はユダヤ人を介抱し、ロバに乗せて宿屋まで連れて行き、お金まで払い、彼の身の周りに関与しました。サマリヤ人は傷ついたユダヤ人を愛したのです。私たちが愛する人こそ隣人で、なおざりにしてはいけない人です。
 あなたの隣人はどのくらいいるでしょうか? その隣人を見て、あなたの愛が聖い愛であるかどうかを確認するために、信仰と愛と希望が存在しているかを吟味しましょう。
 たとえば子どもが勉強しないと、親は口出ししたくなりますね。それは子どもの現状を見て、未来を信じられないからです。それは神の愛ではありません。
 神の愛は「今この子は勉強していないけど、未来は必ず何か目が開かれて、勉強するようになるに違いない。」と信じて、今勉強していないことに対してつぶやかず、励ましていきます。これは夫婦や周りの人々すべてに対して応用できます。
 神様に愛されて愛する愛は、「私をこのように愛して心を変え続けてくださる神様は、あの人の心も変えてくださるに違いない。時間はかかるかもしれないが。」と相手の未来に対して神様の愛を信じて期待します。これが聖書の言う愛です。
 これに近い考え方の人はいるのですが、自分の力では限界があります。人の愛にすり替わっていたことに気づいた時、「神様の目から見たら、私はあまり進歩してない。それでも神の国に導くために『愛は寛容であり、愛は親切です。…』(第1コリント13:4〜7)と書いてあるように私に接し、私を信じてくださっている。」という、その愛がわかってきます。
 するとちょっとでもその愛に応えようと、愛の励ましによって前向きになります。同じようにあなたも相手に対して、今の現実を踏まえながらそれでも未来を期待していくその心が、愛として相手に伝わった時に、本当に変わっていくのです。愛には人を変える力があります。
 自分の思いではなく神の思いに合わせていきましょう。そうすれば責任は神様がすべて取ってくださいます。報いも懲らしめも、正しい裁きによって与えられます。
 ですから私たちはいつでもへりくだって罪を認め、「ごめんなさい神様。もう一度真剣にやり直しますから。」と心を込めて悔い改めましょう。何度でも、神様の愛を信じて方向修正を神様に向け続けることが、神への愛のしるしです。
 悔い改めをあきらめることは、神様を愛することをあきらめることです。自分の出した結果によってあきらめることは、行いによって神様に愛されようとしていることです。神様はそんな愛の方ではありません。あなたの存在そのものを愛しておられるので、ご自分の方に心を向ける者はどんな罪人でも、神様は愛し赦し受け入れてくださいます。私たちはそこに希望が持てます。
 皆さん、決して自分を見ないでください。そんなどうにもならない0点の自分を愛してくださる神様の愛を見てください。私たちが0点だからこそ、神様の愛が輝くのです。罪人だから、神様のすばらしい愛を知ることができました。愛はそのように、物事を前向きに捉える、心を変える力があるのです。

【みことば川柳】
『信仰と 希望と愛は 手放せない』

 

 

 

 

 

■2016年6月5日 日曜礼拝メッセージより(小栗伝道師、横路伝道師)

 聖い愛による希望3  up 2016.6.5


主題聖句(ローマ5:5)
この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

 

 

 

【内容観察】
「患難から生み出されて来たこの希望は、たとえ失望することがあってもその失望で終わることがありません。なぜそのように言えるかというと、イエス様が約束してくださった助け主である聖霊様が内住してくださっていることによって、神の聖い愛が私たちの心に注がれ、その愛によってきよめられた良心がいつも前向き肯定的であるからです。」

【小栗伝道師メッセージ】
 自分自身(小栗伝)が教会に来るきっかけは、自分の力が及ばない、希望が見い出せない、先行きのないトンネルの中にいる心境からでした。そのやみに包まれた心へ、信仰を持った方の言葉やみことばが光となって、神からの希望が与えられたことは間違いのないことです。失望に包まれたどんな苦難の中にあっても、全能の神様の言葉、力、光はやみをすべて取り除き、地上で得られない希望を与えてくださいます。

1.一つとなる希望
(1)神とひとつとされる希望(エペソ1:10)
“時がついに満ちて、…いっさいのものがキリストにあって一つに集められることなのです。”
 
 神様は一致を好まれます。
 希望=ある事象、事物が実現することを待ち望むこと。期待感
 この期待感がないと、生きている希望を見い出しにくいです。
 (エペソ1:10)によれば、時はいつかわかりませんが、それが近いことは言えます。

・神に会う備え
 いざという時、神様が集めると言われたその時、何を備えるのでしょうか。
 それは良い行いをするということではありません。「信仰によって救われる」というみことばからも、まず信じることからスタートします。さらに心のやみを光によって照らしていただき、明らかにしていき、悔い改めていつ来られてもよいように備えていきたいものです。
 神と一つとされるという時、神の側に私たちが合わせることであり、決して私たちに神を合わせてもらうことではありません。成長途上にあり、対人関係で今失敗の繰り返しがあったとしても、神と一つにされる希望をあきらめることがありませんように。神は、私たちがこの世との葛藤でどんなに苦しみながら神を選んでいるかを知ってくださっています。

・確かなアイデンティティ
 私たちは、主が世から取り出して選ばれ、「わたし(主)のもの」と言われる存在です。この世でどのような評価を受けようと、私たちはこの世の寄留者ですから、地上での評価は気にしなくてよいのです。

*(コロサイ3:2)
“あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。”
 天は神の愛の詰まったところ、終日神の愛に浸るところです。苦しみ、涙、叫び、死のない世界です。ここへご一緒に行こうではありませんか。
 比較が根本にある否定的な言葉で囲まれている現実にゆさぶられることなく、常に天にあるものを思い続けますように。残された地上での歩みが、欲望のためでなく「神のみこころ(神に望まれることのため、喜んでもらうため)」のために過ごすことを求めてまいりましょう。
 また、まわりが気にならず、主しか見えなくなるほどに、聖霊の満たしを求めてまいりましょう。

(2)兄弟姉妹と一つにされる希望(詩篇133:1)
“見よ、兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。”
 神のとこしえのいのちの祝福が命じられるほど、神の家族が一つになっているなごやかな平安な交わりを主は喜ばれます。まるで初代教会の祝福と重なります。

*(箴言10:12b)
“愛はすべてのそむきの罪をおおう。”
 聖い愛をいただいた人は、神に赦されていることを感謝し、神の愛によってまわりの人の成長を願い、未熟さをおおいます。何よりもイエス様ご自身が私たちのそむきの罪をおおってくださっています。

*(第1ヨハネ4:20)
“神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。”
 見える兄弟を受け入れずして、本当の意味で見えない神を愛するとは言えないのではないでしょうか。
 聖霊様が共にいてくださり、現実から訴えてくる肉の思いを捨て去り、一つになるすばらしさを教え、導いてくださいます。神と一つになり、兄姉と一つになる希望を持ち続けてまいりましょう。互いに分かち合い、祈り合い、集まることを止めないで、兄弟とますます一つになる希望を持ち続けましょう。

【横路伝道師メッセージ】
2.御国への希望は誰のものか
 天の御国に入る希望を抱くことのできる人は誰でしょうか。

(1)信じてバプテスマを受ける者(マルコ16:16)
“信じてバプテスマを受ける者は救われます。しかし信じない者は罪に定められます。”

◎“しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々 には、神の子どもとされる特権をお与えになった。”(ヨハネ1:12)
 まず第一に、心から主イエス様の救いを信じている人に、天の御国への希望があります。神の子には、御国において、全能の神、創造主のすべてを相続する特権があります。天の栄光、富、誉れ、力、神の愛のすべてを受ける希望があるのです。

(2)あわれみ深い者(マタイ5:7)
“「あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。」”
 次に「あわれみ深いもの」に、御国の希望があります。天の御国は、あわれみのない者にはふさわしくありません。なぜなら、天の神様があわれみ深いからです。では、「あわれみ深い者」とは、どんな人でしょう。人の弱さ、失敗、不幸を見て「当然だ」とか「ざまをみろ」と思うような人は、あわれみのない人であり、深い同情心をもって弱い人に手を差し伸べる愛の人が、あわれみ深い人です。
“「すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』」”(マタイ25:40)
 これは助けの必要な弱い人たちに愛をもってあわれみの行いをした人は、王(神様)に対してしたのであるとして、天の御国に入る者に選んでくださるという聖書の記事です。あわれみ深い者には天の御国に入る希望があるのです。

(3)心のきよい者(マタイ5:8)
“「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。」”
 三番目に「心のきよい者」は御国に入る希望があります。主が再臨される時、携挙され、空中でイエス様とお会いする(神を見る)希望がある人は、「心のきよい者)です。
 心のきよい者とは、いつも悔い改めて十字架の血潮によってきよめられ続けている人だと思います。
“もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。”
(第1ヨハネ1:9)
 日々、悔い改めて心をきよく保つ者に希望があるのです。

(4)心の貧しい者(マタイ5:3)
“「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」”
 4番目に、「心の貧しい者」に御国に入る希望があります。高ぶらず、幼子のような謙遜さ、へりくだりのある人が心の貧しい者です。
 私たちの心には時として、人よりも自分がまだマシだと思ったり、上から目線で人を見てしまう高慢さがあったり、自分の考えを曲げない頑固さがあったりします。
 心から人を自分よりも優れていると思う人、へりくだった謙遜な人、つまり心の貧しい人になりたいと思います。

 先日の広島宣教大会の講師、米内宏明先生のメッセージの中で、印象に残ったお話がありました。
 それは、レストランのオーナーから食事の招待券をプレゼントしてもらった一人のホームレスの人のお話でした。その招待券には、「今日、この券を持って来た人は、無料で腹一杯食事ができます。」と書いてあり、オーナーのサインがありました。
 その日、ホームレスは恐る恐るレストランを訪ねますが、店員はオーナーのサインを見ると「オーケー、どうぞお入りください。」と店内に案内し、たらふく食べさせてくれたというのです。
 
 次の日、再び空腹を覚え、ホームレスの人はその招待券を取り出して改めてよく読んでみると、「今日、この券を持って来た人は、無料でお腹いっぱい食事ができます。」とオーナーのサインがしてあります。「今日」とあるので、ひょっとして今日も大丈夫かもしれない、と恐る恐るレストランに行ったそうです。すると店員は招待券とオーナーのサインを見て、「オーケー、どうぞ。」と店内の席に案内し、彼はまた腹一杯食べたと言うのです。その招待券には「今日」と書いてあり、日付は書いてなかったようです。
 
 このホームレスは、心の貧しい人であったと思います。招待券を受け取るのをプライドから断ったり、レストランへ「こんな姿で行くのは恥ずかしい」と行くのを思いとどまったりすることもできたでしょう。しかし彼はへりくだってその恵みを受ける心があり、勇気を出してレストランを訪ねました。そしてごちそうにあずかったのです。
 
 神様は、天地の創造主であり、世界のオーナーです。私たちに招待券として聖書のみことばをくださっています。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」「わたしはあなたの右の手をとって助ける。」
「わたしはあなたを離れず、あなたを見捨てない。」
 その他、たくさんの私たちを助け励ます約束のみことばが聖書に書かれています。そのみことばには、日付がありません。いつでも500回でも1000回でも私たちを励まし導いてくださいます。信じ、求めるなら、何度でも十字架の血潮で洗いきよめてくださいます。

 ところで、この4月に私の家内の父親が天に召されました。義父は長年地域の世話活動を続け、神社の総代もした人でした。元軍人で、頑固で気難しい人、ということから、私たちはイエス様の救いについて語る事を永年ためらっていました。しかし、高齢になり、体が不自由になっていくと共に、次第に心が柔らかくなっていきました。福音を伝えるチャンスがやってきたのです。
 
 家内や、孫にあたる娘と一年ほど前から祈りながら福音を伝え始めました。耳が不自由になり、イエス様の救いを話す代わりに小さいホワイトボードを買ってきて、そこに書いて読んでもらう、筆談のようなかたちとなりました。やがて義父は、ホワイトボードに書いてある救いのみことばを消さずに置いておくように、と言うほどになりました。
 
 肺炎で入院中でしたが、ついに4月15日、「イエス・キリストを自分の救い主として信じますか?」という問いに、しっかりうなずいて同意しました。辻先生にも連絡してあったので、時を移さず病床洗礼を授けることができ、私たちは感謝と喜びにあふれました。
 
 しかし、そのわずか2日後に義父は急に召天してしまいました。97才でした。神様が、魂が救われたことを見届けられ、これ以上闘病生活で苦しまないようにあわれんでくださったのだと思いました。神様は義父の心が貧しくなりへりくだる時を待っておられたのです。あわれみ深い神様に感謝します。

 

 

 

 

 

■2016年5月29日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 聖い愛による希望2  up 2016.5.29


主題聖句(ローマ5:5)
この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

 

 

 

【内容観察】
「患難から生み出されてきたこの希望は、たとえ失望することがあってもその失望で終わることがありません。なぜそのように言えるかというと、イエス様が約束してくださった助け主である聖霊様が内住してくださっていることによって、神の聖い愛が私たちの心に注がれ、その愛によってきよめられた良心がいつも前向き肯定的であるからです。」

 血潮は神の愛の象徴です。愛にあふれていれば決して否定的にならないと、皆さんも体験しておられるのではないでしょうか。それが神様の愛ならなおさらです。
 希望を持つと、失望した時のショックが大きいので、あまり希望を抱かないで自分の心を守る人もいらっしゃるのではないでしょうか。しかし神様がみことばを通して私たちに語ってくださっている希望は、失望に終わることのない希望です。その理由は、神様の愛が私たちの心に注がれているからです。愛が私たちの心に希望をもたらし、かつそれを支え続けるのです。私たち自身の愛ではなく神様の愛が、です。その愛を信頼して神の国まで共に歩んでいけるように、希望を分かち合っていきたいと思います。

1.神の御前での悔い改めは『前途有望』
 この先、非常に良いことが待っていることを望みみることができる悔い改めは、将来を明るくする始まりです。聖書は「立ち返る」という言葉で、悔い改めの勧めをしています。

A)立ち返ることによる望み(第2歴代7:14)
“「わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顏を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。」”

★「地をいやす」=地上での生活を健全なものとする
 「悔い改め」はイメージとして、あまり良いものとして受け取れていないかもしれませんね。しかし何回もお話ししているように、再出発するための最初の部分ですから、悔い改めはすばらしいものです。それは過去を切り離し、未来に目を向けていく姿勢です。「立ち返る」も同じように考えられます。それは、もといた場所があったということなのです。
 私たちは神様のみことばを通して、どれほど神様の愛から遠ざかっているかを教えられ気づくために、いろいろな規定や戒めが記されています。その罪を認めなければそのまま進んでしまいますが、「これはまずい」と罪を意識し始めたら、「戻らなければ」という気持ちが起こります。それで、神の御心である「悪を離れ、善に心を向ける」ことを、「立ち返る」というのです。
 上の歴代誌の記事は、ソロモン王が第一神殿を神様に捧げた後、神様が夜ソロモンに現れて語られた部分の抜粋です。罪を自覚して、「このままではいけない。戻らなくては。」という心になるなら、神様が親しく天から聞いてくださり、罪を赦し、呪いから解放してくださるのです。
 「地」とは私たちの生活環境を指しています。霊的にも肉体的にも希望が与えられ、私たちにふさわしい必要な分を、神様はちょうどよく与えてくださいます。

B)悔い改めによる望み(エゼキエル18:31〜32)
“「あなたがたの犯したすべてのそむきの罪をあなたがたの中から放り出せ。こうして、新しい心と新しい霊を得よ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。わたしは誰が死ぬのも喜ばないからだ。−−神である主の御告げ。−−だから、悔い改めて、生きよ。」”
★「生きよ」=神に似せて造られている本来の自分を取り戻すこと
 悔い改めなければ、死んだ状態が続きます。私たちは本来神に似せて創られた者ですが、そぐわない生き方をするなら的外れの生活です。自分が神に似せて創られた者だという気持ちを奪われたり、捨てたりしないでください。それをしっかりと持っていれば、現在の自分が神の子としてふさわしくないことに気づいた時、悔い改めてもう一度神の子としての歩みをやり直すことができます。それを「生きる」と神様は表現しておられます。
 私たちは神の子としてふさわしくない行いを、日常生活でたくさん行っていることでしょう。でも神の子としてふさわしくないことに気づいたら、その日の内に心を入れ替えて、「明日はこんなことがないように気をつけていこう。」と考えるのが悔い改めです。とても簡単ですし、みじめな気持ちになるようなものではありません。
 神の愛による罪の赦しのみわざが完成されているからこそ、悔い改めた先には未来があります。罪赦され、神により御国の相続人、神の子としての計画が与えられています。それが見えてくると、「良かった。私は自分を取り戻すことができた。」という実感を、聖霊様に教えさとしていただけるのです。あきらめないで、嫌がらないで、悔い改めてまいりましょう。

C)主を求めることによる望み(エレミヤ29:11〜13)
“「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。−−主の御告げ。−−それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。」”

★「呼び求め、捜し求める」=悔い改め、立ち返ること
 罪人でも主を見出すことができます。この主は私たちに計画をもっておられます。私たちは創られた者なので、本当に計画があるのか疑ったり信じられなかったりするのですが、創り主は決して迷わずに私たちをご自分のかたちに似せて創られ、我が子としての永遠の計画を持っておられるのです。私たちには、心が沸き立つようなすばらしい未来が約束されています。
 「呼び求め捜し求める」とは、悔い改めと立ち返りを表しています。私たちが心を神様に向けていなかった状態の時も、神様は私たちに計画を持っておられ、将来と希望を用意しておられました。私たちが目や耳をよそに向けている間、「こんなに良いものを用意しているのに」と神様は思われていたことでしょう。
 しかしそれでも、悔い改めたら、神様にもう一度触れることができるのです。罪人であるにもかかわらず、心を入れ替え神のもとに心を向け直したら、神はあなたの祈りに耳を傾け、捜し続けるなら神を見出すのです。これは悔い改めの言い換えです。悔い改めの向こうには明るい未来があります。
 何をどのように悔い改めるのか、皆さんそれぞれが生活の中でみことばを通し聖霊様のうながしを通して、正しい良心をもって見極めていただきたいと思います。一つ一つ心に責められることを、悔い改めてまいりましょう。

2.『雲外蒼天』の望みとは(第1ヨハネ3:1〜3)
“私たちが神の子どもと呼ばれるために、−−事実、いま私たちは神の子どもです。−−御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。
愛する者たち。私たちは今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。”

 『雲外蒼天』(うんがいそうてん)の意味
「今は雨降りの中にいるが、やがて雲が晴れれば青空が広がるということから、困難を乗り越え、努力して克服すれば良いことが待っているというたとえ。」
★聖い愛によってもたらされた神の子としての望み
 神様は人と違ってとても気の長い方ですが、私たちの方があきらめてしまいがちです。2015年内閣総理府が日本・韓国・米国・ドイツ・フランス・英国・スウェーデンの若者を対象に行った統計で、日本の若者の「将来への希望」は最下位でした。自分たちの未来に希望が持てないので、目先の楽しみにおぼれるのです。
 クリスチャンもこの世にだけ関心を向けていると、この世でクリスチャンが希望を持てるようなことなんてほとんどありません。なぜなら、この世は裁かれることが決定しているからです。たとえこの世で成功者になったとしても、神様はそれらすべてを裁かれます。私たちはその清算ですべて終わってしまうことのない希望を、神様からいただいています。
 この世と調子を合わせず、神のおことばに、きよい愛のうちに歩むことをあきらめずに進んでいくと、この世での成功も世の称賛もすべて消え去る中で、神様からの賞賛だけは永遠に残ります。「よくやった。良い忠実なしもべよ。」と神様が言われてこそ、真に正しい私たちへの評価であり、報いです。
 今が永遠を決めるのですから、未来を左右する今日を大事に生きましょう。神が約束してくださっている未来に希望をもち、約束された事柄に心を向け、御国を相続する準備としての地上の歩みを怠らずに歩む望みを失わないようにしましょう。

★キリストに似た者となる望み
 ある人は、有名人に似てると言われて喜びますが、当の有名人からすると「やめてくれ」と言いたくなることもあるようです。けれどイエス様は、私たち罪人がイエス様に似ていると言われると、喜んでくださるお方です。ご自分に似ていると言われる神の子たちがたくさん生まれてくることを、イエス様は望んでおられます。
 「私のどこがイエス様に似ているだろうか」と言いたくなる私たちは、イエス様とかけ離れた人間かもしれません。しかし、「似た者とされる」ことに望みがあります。神様が私たちに約束をしてくださったのですから、「私でもキリストに似た者となれる」のです。この望みは自分の力や現状によるものではなく、約束してくださった方は真実だからという、神様の真実な愛を信じることによります。

★聖さを求める望み(モチベーション)
 ここに愛の関係(信頼・尊敬・畏れ)があります。愛のない人は「どうせ変えてもらえるのだから、今のうちに自分の好きな事をしておこう。」と考え、「自分をきよくする」の部分を拒否します。それに対して愛のある人は、「せっかく変えていただけるのだから、自分もきよくなる努力をしよう。」と、神様の愛のお気持ちに心を動かされます。
 尊敬し畏れる愛があればこそ、キリストがきよくあられるように自分をきよくしようという気持ちが起こるのです。皆さんのうちに自己中心な欲望が隠れていないでしょうか。そんな不遜な心もきよめていくように、気をつけていきましょう。
 将来への希望があれば、そのために自己管理していくモチベーションが上がります。これは自分の努力ではなく、神の聖い愛が私たちの心に動機を与えてくださることです。
 神様の聖い愛が望みをもたらし、それが毎日のクリスチャン生活をさらによくしていくための動機づけになります。だから、神様に愛されていることをもっと見い出していきましょう。すぐに全部を得ることはできませんが、ぜひ時間をかけてじっくりと、神様に愛されているその愛を見い出していただきたいと思います。

【デボーション参考ポイント】
「神の御前での悔い改めをし雲外蒼天の望みを持つとは、どうすることでしょう。(ローマ12:2)から学んでみましょう。」
“この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。”
(ローマ12:2)
 1に挙げたみことばもヒントになると思います。さらに上のみことばをぜひ参照して自分で考えてみてください。
 特に言いたいのは、「心の一新によって自分を変える」ことです。神が計画してくださっている良い未来に向けて、このままでは先に進むことができません。でも自分を変えていけば、違う明日がやって来ます。自分を変えないと、本来の意味での将来を手にすることもできません。今は罪深く、まだまだ罪を犯す者でも、自分を変えることは、一つでも悪から離れることです。悪から離れることに困難や不可能を感じる気持ちに対して、その考えを変えようとする姿勢がまず必要です。変えようとする気持ちが起こらない限り、「無理」という言葉を変えるのは難しいでしょう。「やってみよう」とするところに、新しい可能性が見出されます。
 心の方向を変えるのは簡単な事ですが、やってみると意外に大きなストレスが心にかかる可能性があります。葛藤もあるでしょう。しかし、そこから悔い改めていく、自分を変えようとする心の姿勢が、将来と希望をもたらす神様のすばらしいご計画をはっきりと見つけることにつながっていくのではないかと思います。
 どうぞ、皆さんもさらに深く聖霊様に示されて、この(ローマ12:2)から聖い愛による希望がもたらされる悔い改めのすばらしさに気づいて、自分を変えていくことに対して喜びを感じていただきたいと願っています。

「頑なさ 豆飯出され ほくほくに」

 豆飯は初夏の季語です。豆飯に限らず、目先の変わった食事は人を喜ばせます。目先が変わって気分転換になるということですね。頑なな心も、神のみことばという変わりご飯で柔らかくほぐされます。

 

 

 

 

 

■2016年5月22日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 聖い愛による希望  up 2016.5.22


主題聖句(ローマ5:5)
この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

 

 

 

【内容観察】
「患難から生み出されて来たこの希望は、たとえ失望することがあってもその失望で終ることがありません。なぜそのように言えるかというと、イエス様が約束してくださった助け主である聖霊様が内住してくださっていることによって、神の聖い愛が私たちの心に注がれ、その愛によってきよめられた良心がいつも前向き肯定的であるからです。」

 きよめられた良心は、とても前向きです。なぜなら、神様の愛の励ましによっていやされ、回復されているからです。
 この世に影響を受けた良心は否定的になる面が多く、失望的な状況に陥りやすいものです。そしてまた、人と比べて優劣を考えたりします。しかし、神様の愛によってきよめられた良心は、神の前に希望をもって、「神は私を愛してくださるから、このままでは終わらせられない。」という信頼が湧き上がってきます。

 聖霊様が私たちの内に神の愛を注いでくださることによって湧き上がってくる希望は、決して失望に終わることがありません。

 前回は、「聖い愛の助け主」というテーマでお話しさせていただきました。この助け主なる聖霊様を通して、私たちは生きる希望が与えられています。生きる希望のない人生はむなしく、飲んで食べて寝て仕事をするだけの繰り返しで終わってしまいます。では、私たちクリスチャンにはどんな希望が与えられているのか、今日はみていきたいと思います。

1.希望を示す真理の御霊(ヨハネ16:13)
“しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。”

★すべての真理に導いてくださる御霊

★やがて起ころうとしていることを示し、希望を与えてくださる御霊
 助け主なる聖霊様の来訪は、イエス様の約束です。この聖霊による希望は、決して失望に終わることがないのです。
 聖霊様に満たされると、私たちは真理に導き入れられます。それは私たちにとって喜ばしい事であり、望みです。この世は偽りや期待外れな事が多いものです。しかし、何が真実で真理なのかを探し求める中で、皆さんも教会に来られたと言えると思います。真理なる神様のみ教えを聞くことによって、皆さんは心のうちに喜びを持つことができたのではないでしょうか。
 それは、希望ができたという意味の喜びです。神様が私たちを目的をもって創造されたがゆえに、私たちには存在意義があり、神様が示される方向へ進むという目的もあります。
 イエス様の救いとみことばを通して目が開かれて、真理の道を歩んでいこうと決心しているわけです。それは明日に希望を持つことのできる歩み方と言えると思います。
 聖霊様が私たちの内に住まわれると、真理による希望が湧いてきます。「これでいい。間違いない。創造主なる神様の目的に沿った歩みなのだ。」という喜びと未来に対する希望を持つことができるのです。
 私たちはまず聖霊様を内に迎え入れ、真理の御霊様と心を一つにしなければ、「失望に終わることのない希望」を見出すことはできません。

2.やがて起ころうとしている希望(第2ペテロ3:10〜14)
“3:10 しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消え失せ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。
3:11 このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。
3:12 そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。
3:13 しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。
3:14 そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。”

★今の天地は焼け崩れ去り、正義の住む新しい天地がもたらされる。
 主の日は、神様が永遠の中でただ一度完全な裁きを下される日であり、善に対しては報いられる日でもあります。その後、罪なき新しい天と地をお造りになり、神を敬い愛する心をもった人々がそこに導き入れられます。この事をやがて起こるべき事として聖霊様は私たちに啓示してくださいます。世の中のできごとを通して、その時が近いということを教えてくださいます。
 正しい事を守り続け、きよい道を歩み続ける者にとって、これは非常に喜ばしい事です。特に日本では私たちは少数派であり、多数派から圧迫を受けます。真理を語っても作り話と言われ、否定されます。私たちの心痛む生涯の歩みにおいて、私たちはそれでも真理を信じ通すことによって、最後の審判がやって来た時に、神様が間違いなかったと証明してくださいます。
 このような期待と、すべての罪が裁かれ、神様を愛する敬虔な者たちが救いに導かれることに対する希望を、聖霊様がいつも私たちの心に思い起こさせてくださって、善を行うことに飽きたりあきらめたりしないように励まし続けてくださっています。
 今年のテーマである「聖い愛を求めて」も、私たちが現在できていなくても求め続けるべきテーマです。その真理の道を歩みたいという願いをもって、今、私たちはこの半年を迎えようとしています。私たちはペテロが励みなさいと言っているように、今はできていなくても励み続けることが必要です。100点満点を取るか否かという結果よりも、努力し続けることです。そのような私たちの神への思いを、聖霊様が私たちに教えさとしてくださるのです。
 神の国、新しい天と地に私たちが導き入れられることには、さらに2つの希望があります。

A)義をいただく望み(ガラテヤ5:5)
“私たちは、信仰により、御霊によって、義をいただく望みを熱心に抱いているのです。”
★義をいただく望み。
★御霊に示された望みは、熱心さをもたらす。
 私たちはなぜ「自分は正しい」と主張したくなるのでしょうか。義とされることは、私たちの存在を価値あるものとすることです。間違うことは、自分の存在意義を否定されることです。私たちは誰からも愛されたいし、尊いものとして認めてほしいと願っています。それは存在欲求であり、正しいことです。しかし、他の人に対して自分の正しさを主張しても、完全に欲求を満たすことはできません。それができるのは神様だけです。
 万物の中心であり創造主である神様が「あなたは義なる者です」と私たちに義を与えてくださったら、初めて誰にも揺り動かされることのない喜びと安心が得られます。神様から義をいただくことの喜びについて、私たちはもっとよく考えることが必要です。人からではなく創造主であり愛なる神様からの正しい判断で、義をいただく喜びがあります。義をいただく喜びについて御霊に示されたなら、熱心さを私たちの内に沸き立たせることができます。この義を神様の前に熱心に求めていただきたいと思います。人の目ではなく神様の目の前に、神を愛する心に神が目を注いでくださることを。
 イエス・キリストを信じる信仰を通して、正しい者としてくださること以外に、自分のような罪人が救われる手立てはないことを聖霊様に示していただくなら、その神様の愛に対して熱心な気持ちが湧いてくるわけです。決してこの愛から離れたくない、この愛を大事にしたいと思うのです。
 この「義をいただく望み」があります。ですから、神の国、新しい天と地に導き入れられるのです。

B)神の子とされる望み(ローマ8:23〜25)
“そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。”

★肉のからだから解放され、神の子の姿に変えられる望み
 私たちの人生における悩みのほとんどは、この肉体に原因があります。争いの原因はこの肉を養うために起こっているし、肉の満足を得るために不平不満が生まれてくるのです。肉から解放されたら、ほとんどの罪から解放されるでしょう。それでもこの肉の中に私たちの救われた魂がいることを通して、この罪との戦い、欲望を制する力を養うことができます。
 アダムとエバが失敗した理由は、欲を正しく制御できなかったからです。人類の一番の課題は、欲望を健全な欲として止めておくことができるか否かです。神様はそれをクリアさせるように、私たちを肉のからだの中にきよめられ救われた魂を入れたまま、地上に残しておかれました。アダムとエバのような失敗を犯すのではなく、ぜひそれに勝利してほしいと助け主聖霊様がくださるアドバイスを通して、勝利することができるようになります。何度失敗しようとも、最後には必ず自制心をしっかりと働かせることができる、立派な徳の高い神の子と成長するようにと、今私たちは訓練されていると言えます。最後に合格した後は、この肉のからだを脱ぎ捨てて、キリストがよみがえられたあの栄光のからだが与えられます。
 皆さんはそういう望みを抱いておられるでしょうか。地上の事にあくせくと思いと時間を削り、悩み苦しんでいると、クリスチャン生活がとてもむなしくなります。そんな中で私たちは聖霊様の前に出て、聖霊様に満たされて、私たちには希望があるということをぜひ、聖霊様を通して皆さん思い出してください。喜びと希望を、神様は聖霊様を通して私たちに啓示してくださいます。まだ現実には見ていなくても、そのような約束を神は与えてくださっています。それを信じて、私たちは熱心に待ち望むのです。

3.希望を告白し続ける『松柏之操』(へブル10:23)
“約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。”
 私たちの心を見失わないように、神への愛をゆがめることがないようにしてまいりましょう。

『松柏之操』(しょうはくのみさお)の意味
 困難な状況下でも節操を変えない意思の強さ。苦しい状況にあっても 信条を変えないこと。

★約束された方が真実な方だと御霊に示されるなら、松柏之操をもって希望を告白し続けることができる。
 松は常緑樹ですし、柏は春に新芽が出るまで枯れた葉が落ちることがありません。冬でも雪でも変わりません。私たちも多数決の世界でまっすぐ歩み続けることは非常な困難さを覚えるでしょう。しかし真理は創造主なる方の意志ですから、私たちはどんな状況でも曲げずに、「神は罪人を救うために人となってこの地に来られ、私たちの罪を身代わりに十字架で背負ってくださった」という真理を信じ抜きましょう。
 「松柏之操」、神の愛に対する操をしっかりと守り通していきましょう。そのためにこの希望を告白することが大事、と励まされています。

【デボーション参考ポイント】
「御霊に満たされて、失望に終わらない希望を抱きましょう。」
 今週の皆さんは、聖霊の満たしを異言が出ただけで終わるのでなく、聖霊はあなたに失望に終わることのない希望をもたらす方として、心に希望が輝いているでしょうか。その希望により、神の愛に対する熱心さが湧き上がっているでしょうか。常に感情的になるだけではなく、その感情的な喜びは希望が伴っていてこそ聖霊から来るものだと言えます。神様は、感情で終わっていないか、聖霊による喜びかどうかを試みられます。聖霊による喜びは、失望で終わることがありません。
 感情的に喜ぶことの多い私たちですが、そこで留まることなく、本当の聖霊の満たしに対して私たちはもっと進んでいきましょう。聖霊様と密接な関係をもって、どんな時でも「神の国は飲み食いではなく、義と平和と聖霊による喜び」という、内側から湧き上がってくる喜びの輝きに満たされたいと思います。まだまだ足りませんから、もっと求めてまいりましょう。そんな喜びを、一度でいいから体験したいですね。
 私たちは挫折したり落ち込んだりした時こそ、ぜひ聖霊様に心を向けて、「聖霊様、将来あなたが私たちに起ころうとしている事柄に対することをどうぞ教えさとしてください。私たちの希望について、どうぞ示してください。」と、またその希望に心を向けていこうではありませんか。

「ふるさとの 川に居残る 夏の鴨」

 希望ということに重ね合わせて詠んでみました。かつて、私もふるさとでずっと過ごしたいと思いましたが、都会に出て行って仕事をしなければなりませんでした。そして、渡り鳥のようにふるさとと自分の普段の住みかとを行き来するわけです。
 ふるさととは、居心地の良いところです。そこには喜び、楽しみがあります。居残り組の夏の鴨は、私のふるさとの川で、何か希望を見つけたのでしょうか。今年は帰らない鴨になるかもしれません。
 私たちも神の国に希望を持ちます。神の国に帰るのです。皆さん、決してこの世界に居残る鴨にならないでください。天の御国の居残り鴨になっていただきたいと思います。

 

 

 

 

 

■2016年5月15日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 聖い愛の助け主  up 2016.5.15


主題聖句(ヨハネ14:16〜17a)
わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。

 

 

 

 今日はメッセージの前に俳句を紹介します。

「聖霊が 滝のごとくに 臨まれる」

 たくさんの滝が激しく流れているように、聖霊の現れを求めましょう。

【内容観察】
あなたがたのため、わたしが天に戻るにあたり父なる神様に約束を成就してくださるように要請します。そうすれば、父は、わたしと全く同じ働きをする助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主はあなたがたの内に住まわれ、離れることの無いためです。その方は、真理の御霊です。
 イエス様は、ご自身が天に帰られた方が、私達にとっては良いことであると語られました。なぜなら肉体には束縛がありますが、天においてご自身の霊を遣わされるなら、霊は何の束縛もなく遍在することができ、天にも地上にも満ち満ちて存在されるからです。
 肉体をもつイエス様なら、同時に何人もの人の側にいることはできません。しかし、御霊なら、同時に何人もの人の内に住まうことができるのです。
 神の御霊があなたの内に住まわれるなら、あらゆる罪を避け、また悔い改めるよう常に導かれることができます。そして、あなたが見るもの感じるものを一緒に見て、感じてくださるので、非常に罪から離れやすくなります。
 ただ、私達の方が内住される聖霊様を意識しないと、その御声を無視してしまい、聖霊様の導きも何も感じないで過ごしてしまうことになります。

1.御霊・聖霊について
A)ヨハネ14:26
“しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。 ”

 聖霊には2つの働きがあります。
★啓示して諭してくださる
 ソロモンの知恵がそのいい例です。御霊はあらゆる知恵をもってすべてのことを対処できるように教え導いてくださいます。
 ソロモンはあらゆる事に非常に詳しく卓越した知識を持っていて、その名声は他国の人々にまで及びました。それは、聖霊様の啓示があったからです。創造主なる神様の御霊が彼の内におられて、すべての創造物の存在に対する神様のご計画や意味を教えられるので、ソロモンはその教えられた知恵を人々に語っていたからです。
 そのように、内なる聖霊様はすべてのことを私達に教えてくださるのです。

★主の教えであるみことばを思い起こさせてくださる
 高齢になり、たとえ認知症になっても、聖霊様は大事なときに必要なみことばを思い起こさせてくださいます。
 モーセはモーセ5書と呼ばれるものすべてを暗記しました。神様がシナイ山で啓示された内容を彼はすべて思い起こして、ヨシュアに筆記させたのです。神様の御霊の助けによって、完全に思い起こすことができたのです。人の頭脳だけでは限界がありますが、御霊は完全に思い出せるように助けてくださいます。
 ただ聞いたことのないものは思い起こせません。しかし、一度でも聞いたことは適切な時に適切な形で思い起こさせ、教えてくださいます。

B)ヨハネ15:26
“わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。”
★真理の御霊と呼ばれる
★イエス様について正しく教えてくださる
 この助け主は真理の御霊と呼ばれます。物事のすべての成り立ちを教え諭してくださり、イエス様がどんな御方かを正しく教えてくださいます。特にキリスト教用語である三位一体という、御父と子なるイエス様と聖霊という3つの人格であられながら、ひとりの神であるという難しい真理についても、理解できるように導いてくださいます。この三位一体なる神様は聖霊によって啓示されないと、正しく理解できません。いくら説明されても、内住の聖霊によらなければ悟れないのです。

C)ヨハネ16:13−14
“しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。 ”

★すべての真理に導いてくださる
 この世の中には、たくさんの人々が導き出したものがあります。仮説を打ち立てて、それが事実であるかどうかを試すのが科学者です。今、進化論はひとつの仮説であり、それが真実というわけではないということが分かってきています。しかし、残念ながら日本ではそのことが報道されていません。今まで信じられてきたものが違うということを日本では出しにくい風潮があるからでしょうか。
 そういう様々な仮説や嘘が周りには満ちあふれています。そのような中で真理を見出し、間違いのない道を選ぶには、真理の御霊に導かれることが必要です。

★やがて起ころうとしていることを啓示してくださる
 「起ころうとしている」という表現は、明日のことは、既に今日始まっていることであり、神様は明日のことを既に準備してくださっているということを表しています。
 いつでも動けるように準備してくださっています。これは予知能力や占いとは違います。
 特にこの啓示は、イエス様の再臨と最後の審判に関しての啓示です。
その時期が近づいているので、その備えをするようにと聖霊は示してくださいます。主の日が近いという実感を聖霊は日々与えてくださいます。
また、時には危険を示してくださり、それによって危険を回避できるようにしてくださることもあります。

★イエス様の働きを継続される
 あなたを通してイエス様はご自身の業をなそうとしておられます。福音宣教の色々な働きのひとつに、あなたを用いたいとイエス様は願っておられます。

D)ローマ8:11
“もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。 ”

★死ぬべき体をも活かしてくださる方
 例えば、もう利用できないので捨てられてしまうような物があったとします。しかし、それを拾い上げて活かすことができたら本当に素晴らしいことです。神様は、罪人という神様の前には価値のない者をも捨てることをせず、むしろ新たに生かしてくださり、価値ある者としてくださる方なのです。
 捨てていい物であっても惜しむことがあります。神様は私達を罪の中からあがない出し、御子の命をかけて救い出してくださいました。それゆえ、あなたは自分を価値がないと卑下してはいけません。あなたの内には御霊がおられ、価値ある者とされているのです。決して役に立たない人はいません。
 あなたを活かすことのできる神様の御霊があなたの内におられるのです。あなたはそれゆえに素晴らしい価値ある存在です。

E)ヨハネ7:37−39
“さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。”

 イエス様のあがないの業が完了した今は、もう御霊が注がれています。そして、生ける水の川が流れ出るような感覚で聖霊様が満ちてくださいます。
 それは、にごっているものをきれいな水で押し流してしまい、すべてをきよくしてくださるというイメージです。川が流れているなら、常にきよい水がどんなにごりもゴミも押し流してしまいます。
 あなたの心の奥底から御霊の生ける川のような流れがあるということは、あなたの心の奥底にどんな汚れたものがあったとしても、御霊はそのきよい流れによって、心の奥のすべての汚れを洗い流してくださり、全くきよくしてくださるのです。

★否定的な心を、尽きることのないあふれるいのちの輝きに満たしてくださる
 こういう否定的な性格は肉に所属する遺伝的な現れであり、放っておくと、クリスチャンでもにごってしまい、否定的なことしか言えなくなってしまいます。
 しかし、聖霊を迎え入れるなら、心の奥底からだんだんきれいな水が湧き上がってきて、どんどんきれいに変えられていくようになります。
 世の中と接していると、色々な考えに汚され、傷ついてしまいます。でもその度に聖霊の助けを受け、きよい水の流れを受けていくなら、日々癒されきよめられていくことができます。そのことを意識してください。

 こういう5つの御霊の働きによって、私達はいつも助けられ、弁護していただけます。
 神の御前に御霊はいつも私達を正しくとりなしてくださり、罪がないと証ししてくださいます。そして罪から離れ正しく生きられるように、日々助けてくださいます。
 この御霊の働きがあるからこそ、私達はクリスチャン生活を送っていくことができるのです。

2.『鶴立企佇』(ルカ11:11−13)
“あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。 卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。 してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」 ”

『鶴立企佇』(かくりつきちょ)の意味
 待望すること。人や物事を心の底から待ち望んでいること。

 聖霊を求める人には、神様は必ず与えてくださいます。与えられるための方法は、ただ待望することです。与えるのは神様の主権であり、私達は与えてくださると信じ、待ち望む姿勢が大切です。
 その欲しいという気持ちが弱ってくると、必要性を感じなくなるかもしれません。しかし待望し続けるなら、例え時間がかかったとしても、なおさら与えられた時の喜びは大きくなります。
 時には神様はあなたの心の動機ををさらに純真なものにするために、忍耐の時を与えられるかもしれません。
 聖霊を待望するときに、例えすぐに受けられないとしても、焦ったり失望しないでください。与えられる時を神様は必ず用意してくださっています。
 また、異言を語ることばかりに気を取られすぎてしまわないようにしましょう。聖霊の満たしにより異言は出てきますが、異言を求めているわけではありません。それをわきまえないと、ひとりよがりの異言をただ語っていることになりかねません。大切なのは聖霊に満たしていただくことです。
 ですから、聖霊を求めて前に出てくださっても、無理して異言を語ろうと力まないでください。ただ、促しが内からあふれてきたら、その導きに素直に従ってください。聖霊様のせっかくの促しを無理に押し留めたりせず、敏感に応じてください。
 また、すでに受けている人でも、口癖のような異言ではなく、内側から溢れ出てくる満たしを受けて語れるように聖霊様の満たしを待ち望みましょう。

 

 

 

 

 

■2016年5月8日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 聖い愛の喜び  up 2016.5.8


主題聖句(ローマ14:17)
なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。

 

 

 

【内容観察】
「なぜなら、この世では肉の欲求を満たすことが中心ですが、神の国においては霊を生かすための聖霊の働きによる義と平和と喜びが大切なのです。」
 
 喜びは健康的で、いのちと活力にあふれたものです。しかし、この世での喜びはいつまでも続いてはくれません。
 ところが聖霊による喜びは、苦難や困難や苦しみや悩みや思いわずらいにびくともしない喜びです。この喜びのゆえに、私はイエス様を信じる決心をすることができました。
 その結果、終わりのない喜び、悲しいけれど喜びにあふれることができる、という矛盾した体験を続けることができています。それは、その悲しみやつらさに負けない、折れない喜びなのです。

1.聖霊による喜び(ガラテヤ5:22)
“しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。”
 イエス様を信じ神様の愛を信じると、そこに愛が生まれ、喜びがわきあがり、平安に満たされ、寛容、親切、善意などの隣人を愛する心が出てき、誠実な心をもって人々に接し、柔和さをもって争いを避け、健全な欲を自制します。
 実とは結果です。聖霊様の働きの結果は、上に挙げた九つの実として現れ出てきます。聖霊様によって私たちに生み出されてくるものは努力によるものではなく、聖霊様ご自身によるものです。
 その中でも喜びは、愛の次に記されていることから、その重要性がわかります。愛には喜びが伴います。愛があれば、たとえ悲しんでいても、喜びが常にともにあるのです。皆さんも、この世においても体験できることです。愛は常に未来を見ているので、目の前の現実は悲しんでいても、未来の希望を見ているので、内に喜びをわきたたせるのです。
 聖霊様は私たちに未来を教えてくださいます。助け主はこれから起こることを私たちに教えてくださると、イエス様が聖霊様を送ってくださる約束の時におっしゃいました。未来を教えられると、私たちは希望を持てます。愛は未来を信じます。
 愛は不思議な力をもっており、それはまさに神様そのものと言ってもいいかもしれません。
 この「喜び」について、いろいろと調べてみました。

A)『喜び』(ギ)chara
★「喜び」は、神の現存性(実際に存在すること)が人間にもたらす
 特別の結果である。
 人の喜びの根本は創造主であり、人をお創りになった方が実際に存在されることにあります。自分のルーツがそこにあります。人には必ず生みの親があり、その親をたどっていくと、最終的にはアダムと彼を創られた神様に行きつきます。
 では、神がおられることによる喜びとは何でしょうか。この方は正義の神、聖く正しく完全なお方です。全ての善悪の基準であり、裁き主です。この方が実在されるということは、正義を全うする意味がそこに生まれる、ということです。神が永遠に一度だけの完璧な裁きをなさることがこの方の実在によって保証されたので、善悪を守り通すことの意義と価値が生まれました。私たちは、正義を全うすることに対して希望を持つことができます。
 この地上では神様がおられないかのような状況をよく目にしますが、そのように見えてもそれらを全部補償されるのが神様です。もし最後の審判がないなら、この地上で起こる様々な矛盾に対して私たちの納得しようがありません。だからと言って悪人に対して報復をすれば報復し返され、争いは尽きません。その争いを唯一平和に戻すことができるのが、神の裁きによる平和です。神様は、最後には全世界を平和に治められます。あなたが、神様がおられることを思い込みでなく実感できれば、今は平和がなく損ばかりしているように感じても、神の約束のゆえに喜びを保ち続けられます。
 そして、神様がおられることの証拠は、イスラエルに与えてくださった聖書のみことばです。みことばの約束はことごとく成し遂げられていき、二千年前には「神が人となってこの世に来られる」という預言も成就しました。
 次には、神の霊があなたに直接教えてくださる神の実在です。神の聖い霊があなたに触れるのを感じたなら、あなたも霊の中に神の存在を実感します。聖霊による喜びとは、神が実在することの喜びなのです。神の霊があなたに触れられたなら、義と平和と聖霊による喜びがあふれてきます。そして神の霊が触れられたということは、同時にあなたの罪が赦されていることを意味します。
★新約における用法として特に啓示を受ける者が啓示の内容に組み入れ られ、その啓示にあずかる者であるという特長がある。

B)新約聖書における使用例(59回使われている)
(1)(第1テサロニケ1:6)
“あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者となりました。”
 苦難の中でもみことばを喜んで受け入れられるのは、どんな状態の時でしょうか?東日本大震災の時、イエス様を信じる方々が多く現れました。地震によって被害を受けても、それを地球の営みの一つとして受けとめ、かえって神様に畏れを抱いた方々です。いつ来るかわからないとは、いつ来てもおかしくないと同義です。地球が生きている以上、私たちの都合通りにはいきません。私たちは自然の営みの中に住んでいることを、もっと謙虚に受け止めるべきでしょう。
 聖霊によらなければ、みことばに触れることができず、信じることもできません。

(2)(へブル10:34)
“あなたがたは、捕えられている人々を思いやり、また、もっとすぐれた、いつまでも残る財産を持っていることを知っていたので、自分の財産が奪われても、喜んで忍びました。”
 せっかくの財産が奪われたなら、私たちは喜べませんね。聖霊による啓示がなければ、そのように理解することはできないのです。聖霊による神様の実在を体験しなければ、みことばを正しく読み取ることはできません。

C)新約聖書における聖霊による喜びの事例(使徒7:54〜60)
“しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺した。証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた。こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。「主イエスよ。私の霊をお受けください。」そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。”
 ステパノはこの時、ユダヤ人たちに喜んで叫んだのでしょう。もしかしたらユダヤ人たちは、イエス様が見えたのかもしれません。しかしイエス様を認めたら、自分たちの非が明らかになってしまいます。彼らは自分たちの罪を明らかにすることを恐れて、大声で叫び、耳をふさいだのかもしれません。そのような激しい反対の中、石をぶつけられながらもステパノは祈りました。彼は痛みを感じないほど、聖霊による喜びに満たされていたのです。
 私たちも何かに集中していると、痛みを感じないことがあります。彼に与えられた喜びは、痛みを感じさせないほどの集中力を彼に与えたのです。
 私たちも、災いと感じるようなものすべてを前向きに捉えることができるほどの喜びが欲しいと思いませんか。これは神様の霊に触れられてこそ、そのような考え方、主観が生まれてきます。そういう喜びを、聖霊による喜びと言います。
 聖霊の喜びは何か得をしたからではなく、啓示を与えられ、未来に必ず起こることの確証を得て私たちの内にわきあがる喜びです。

2.『肝腎肝文』の聖霊による喜び(第1ペテロ1:8〜9)
“あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。”
 『肝腎肝文』(かんじんかんもん)の意味
 「とても大切で重要なことを意味している。」
 聖霊による啓示で一番根幹をなすものは、上に挙げたみことばです。

【内容観察】
「あなたがたは、その目でイエス・キリストを実際に見たことはないけれども聖霊の啓示によって愛しており、現実に見てはいないけれども聖霊の啓示によって信じており、ことばで表現することができないほどに歓喜に満ちあふれた喜びにあふれわきあがっています。その聖い愛の喜びは、神の愛そのものである救い主イエス・キリストを聖霊の啓示によって信じることができた結果である、たましいの救いを得ていることの証拠なのです。」
 罪赦されていることの証として、聖霊は私たちに触れてくださり、神様の存在を証しし、神様の存在によって私たちの霊は希望を持ち、期待を持ち、喜びがわいてきます。この喜びは、神様がおられることを体験したしるしです。これは一番大切なことなのですが、救いを体験したことのしるしとして、私たちは聖霊による喜びを知ることが必要です。
 この地上で一生不幸な目にあったとしても、キリスト・イエスを信じているがゆえに、救われて神の国の相続者として迎え入れられるというこの救いを得ている人は、何ら悲しみません。これが理解できるのは、すばらしい愛の神様がおられることの実感から来る喜びです。「不幸や苦しみで私の人生は終わらない」という確信です。
 それは戦地で敵に取り囲まれて絶体絶命の一部隊が、仲間が援軍に来てくれることへの期待と喜びから持ちこたえているのに似ています。「神様はこのまま私たちを終わらせることなど絶対にない。」と。良き神様が確かに存在されることを通して期待しているのです。
 これを皆さん、本当に早く体験していかないと、クリスチャン生活に聖霊による喜びがないまま一生を過ごすことになってしまいます。苦しいだけのクリスチャン、我慢のクリスチャン生活です。希望の喜びではなく、失望ばかりになってしまいます。
 「こんな私で救われるの?」と考える時、私たちは自分がどんな良いことをしたかと、行いで測ってしまいます。救いは恵みであり、神の愛であるイエス様を信じたら、救われているのです。行いは恵みではなく報われるものです。救われるけど、何の働きもしなかったならば報いはありません。救われて義のために生きる人は、報われます。「最低天国に行けたらいいわ。」と思われる方も、最低天国には行けるように、イエス様を信じ続けてください。絶対にあきらめないよう、たとえ途中であきらめても必ず戻ってくるようにしてください。それほどに救いとは大事なことです。その救いに留まるためには、喜びを感じなければいけません。その喜びとは、神が現存するという御霊に触れられることです。
 御霊に触れられることを怠ると、私たちはだんだん確信が弱まります。御霊に触れられるために、各種集会がもたれています。賛美や預言を通して神様のご臨在に触れ、自分の心を入れ替え、持ち直して、神様の愛の中に留まる歩みをこの一週間も歩んでまいりましょう。私たちは一生、救いの喜びを求めて、その深みを知っていくことが必要です。一度聖霊に満たされただけでは不十分です。いつも触れられることが必要です。

【デボーション参考ポイント】
“「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、いったい何を差し出せばよいでしょう。」”(マタイ16:26)と、イエス様が語られたほどの救いが与えられている喜びを、深く啓示していただきましょう。
 
 私たちの救いの喜び、救われるということ、それは「いのちを得る」ということです。全世界を手に入れても、この救いの喜び・まことのいのちを失ってしまったら何の得もないほどに、いのちの輝きをイエス様は表現しておられます。
 この聖霊による喜びによって輝いているいのちを、人はどんな犠牲を払っても買い戻すことができないのです。人のいのちは人のいのちで贖うことはできず、もっと価値あるものでしか罪を取り除けません。もっと高価なものとは、神が人となられたイエス・キリストのいのちです。そのいのちで私たちは罪を赦され、聖霊による喜びに輝くいのちを受けているのです。この地上のものでは絶対に買い戻せないいのちの価値、輝きをいただいているのに、私たちは気づきません。まだ十分理解していないから、あまり喜べないのです。これは強制では絶対にわかりえないものです。
 この喜びは恐怖を取り除き、痛みを取り除きます。ぜひこれを一日少しずつでも体験していきたいですね。迷っている人、解決は聖霊による喜びです。神の現存性を感じ取った喜びです。私はなぜこんなことで悩んでいるのかと、自分の人生で受ける悩みが小さく見えます。これ以上は言葉では言い表せません。あなたが求めて得るべきものです。神様に求めれば得、叩けば開かれ、近づくなら近づいてくださいます。神にお出会いできる間に神を求めよとも書いてあります。神様はご自身に近づいてくるのを待っておられます。聖霊の喜びあふれるいのちに気づいてほしい、あなたに与えたいのちはこんなにすばらしいのだと神様は教えたいのです。
 来週はペンテコステ、神の霊が地上にくだってすべての肉なるものに注がれると言う約束が成就した記念日です。その時をきっかけに、私たちもまたこの一週間を、聖霊による喜びを求めていきたいと思います。

「鯉登る 喜びにまさる あがないや」

 季語の鯉は、中国の伝説では滝を登りつめると竜に変わると言われています。それゆえ、鯉は活気と力に満ちた存在として描かれますし、出世の象徴でもあります。よく掛軸などに赤と黒の鯉が描かれていますが、そのように縁起物として扱われています。
 広島にはカープ(鯉)というチームがあり、今は首位ですね。野球が好きな人は、自分の応援するチームが勝っていると大変喜びますね。
 しかし、それよりも、あなたが罪赦されたことをもっと喜んでください、という意味の俳句です。今首位にいるカープのファンたちが喜んでいるのを見ますが、それに勝る喜びが、罪赦された贖いの喜びです。赦されていることを、カープを喜ぶよりもっと喜んで!

 

 

 

 

 

■2016年5月1日 日曜礼拝メッセージより(小栗伝道師、辻和希伝道師)

 聖い愛の輝き  up 2016.5.1


イザヤ58:10
飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら、あなたの光は、やみの中に輝き上り、あなたの暗やみは、真昼のようになる。

イザヤ60:2
見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現われる。

 

 

 

【小栗伝道師メッセージ】
1.聖い愛をさらに輝かせるために(イザヤ58:9b〜10)
“「…もし、あなたの中から、くびきを除き、うしろ指をさすことや、つまらないおしゃべりを除き、飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら、あなたの光は、やみの中に輝き上り、あなたの暗やみは、真昼のようになる。」”
○神様は、罪人の私たちに、ご自分が与えた聖い愛を世に現して欲しいと願っておられる。
 神の聖い愛そのものは、そのままで輝いています。神様は光であって、暗いところが少しもないお方ですが、あえて輝きに伴わない罪人である私たちを用いたいと思われるのは、神の子である私たちへの愛の期待をお持ちだからではないでしょうか。
○聖い愛をいただいた私たちの側の問題
・輝きにふたをする
 布でおおうと、輝きは外に現れません。私たちを器と考えると、世の力(価値観)で器が外からおおわれた状態です。
・手入れをしない
 肉の器のままでいると、世に触れている分、少しずつくもってきます。聖い愛を求める生き方をしなくなったり、自分の欲を生かす生き方へ変わったり、初めは感動をもって聖い愛を求めていたものが、失われていってしまいます。
 いずれも聖い愛を大切に思っていない心の表れと言えます。ですから、器の様子を日々調べることが必要です。

※互いの関係を壊す働きとは(イザヤ58:9bより)
 世の価値観をくびきに負って、人との比較の生き方をしたり、人の欠点を後ろから指差したり、つまらないおしゃべり(呪いの言葉を言う、悪く言う)するところに、聖い愛の輝きは見られません。隣人を愛さないことを選び、主が愛してほしいと願われた人々を自ら否定する自己中心の思いを捨てていく必要があります。

○互いに愛し合うことこそ、聖い愛が輝く
・飢えた者に心を配り(あなたのパンを渡し)〜
 自然的にも霊的にも、相手の必要を察し、自分の手にあるものの中で、必要に応えようとする心
・悩む者の願いを満足させる〜
 悩み苦しみの中にある人に寄り添い、自分にできることはないかと考え実行していく。
 例えばボランティアとして被災地に出向いたり、また必要を送ったり、さらに祈りをささげたりすることは、決して自分のためでなく、他の人々に対する聖い愛の現れに他なりません。

◎赦しこそ、神の聖い愛の輝きそのもの
 互いに愛し合う中でも、特に「赦し合う」ことは、聖い愛が表していると思います。なぜなら、罪人のために御子イエス様を十字架にかけられた父なる神のお心と同じ性質のものだからです。
 私たちは、人から受けた仕打ちを過去の記録簿につけて、繰り返し眺めて、受けた痛みのゆえに「赦そうとしない」心の働きがあるように思います。その痛みと同じような痛みが来ると、その記録簿を開いてみては、「赦せない」状態に留まるのです。
 フィリピンの故キリノ大統領は、信仰を持っておられ、ご自分の奥様、さらに二才の娘さんが日本兵の手で命を取られたにもかかわらず、終戦後その日本兵たちを恩赦した記事が先日ありました。
 私たちはそこまでの大きな赦しはまだできないかもしれませんが、身近に起こる出来事の中で、赦すことが導かれていると思います。
(コロサイ3:13)
“互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを愛してくださったように、あなたがたもそうしなさい。”
 後半の「主があなたがたを…」以下は、『主が無代価であなたがたを赦してくださっているように、あなたがたも赦さなければなりません。(詳訳)』
 不満は赦さない心の表れです。これを持ち続けることは、聖い愛から遠のいてしまいます。
 神の聖い愛の輝きが罪人の私たちからさらに表されるために、心を常に調べて、「互いに愛し合い、赦し合う」ことにチャレンジしてまいりましょう。

【辻 和希伝道師メッセージ】
2.人々を照らす光となる(イザヤ60:1−3) 
“起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現われる。国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。”
 イザヤ60章は、終末におけるシオン(エルサレム)の栄光が預言されています。イザヤが活動した時代のイスラエルとユダの国の状態は、2列王記15章から21章を見るとわかります。
 預言者による数々の警告にも関わらず主に対して罪を犯し続けたイスラエルは、アッシリアによって国が滅ぼされて、王族をはじめ多くの民が捕囚としてアッシリアに連れていかれました。このような国の状態にも関わらず、神は助けてくれない、というように民には見えたかもしれませんが、イザヤ59章1–2に、「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。…あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、…」とあるように、私たち人間側に要因があるのです。
 しかし、59章16節から、主はこのような状況に神自らの御腕で救いをもたらすことを約束してくださいました。
 これはまさに、イエス様のご降誕と十字架による罪の救い、また、終末における新天新地までも含んでいます。

(1).起きよ。光を放て。
 国の滅亡、捕囚の状態にある民にとって、60章1節の「起きよ。光を放て。」とはとても力強い励ましとなったことでしょう。
 顔を上げ、立ち上がれ、主の栄光があなたの上に輝いているのだから。私たちが困難な状況に遭遇しても、主がいつも私たちの上で輝いているということは、見上げれば希望があるということです。このことは現代の私たちに対しても変わりません。
 主はいつもどんなときでも輝いているお方だということを心に留めておきましょう。

(2).主の輝きの大きさ
 60章2節にある、”主の輝き”という言葉は、太陽が昇って万物を照らす時に用いられる動詞が使われています。
 私たちは太陽を直接見ることができません。それは太陽の光が強いからです。太陽の輝きを直接見ることができない、つまり、その光の強さ大きさは測り知れず、私たちの領域を越えているということです。しかし、それほどに強いからこそ、この地上全体を照らすことができているのです。主の輝きも同じように、私たち人類全体を照らすほどの輝きです。その大きさは私たちのサイズを測る領域をはるかに越えているのです。
 聖い愛の輝きの大きさを是非今週思い描いてみてください。

(3).人々を照らす光となる。
 3節に、「国々はあなたの光のうちに歩み…」とあります。しかし、私たちに本来光の性質はありません。何故なら、私たちは、ちりで造られた被造物であり、罪人であり、本来は、主に近づくことさえできないものです。しかし、主の輝きの光を反映させることはできるのです。
 本来水は透明ですが、海の水が青く見えるのは、太陽の光である様々な色が含まれた白のうち、青以外が、海水に吸収され、青は海中深くまで進んでいくので、海水が青く見えるようです。また、空の青を海が反射しているというのも、海が青く見える理由の一つです。ここで言いたいことは、光の源は主であり、主の輝きを私たちの人生の中で反映することで、私たち自身が主の光を表現することができ、その光によって、この地上を、人々を照らすことができるのです。
 主ご自身の光だけでもこの暗闇の時代を照らすことは可能ですが、私たちを用いられるのは、私たちも光を放つ人生を歩んでほしいという主の願いがあるからです。罪人であった私たちに対する、何と神の大きな愛でしょうか。
 聖書が言う、終末の時代に生きる私たちは、暗闇の中で縮こまっているのではなく、立ち上がって、常に輝いている主の輝とその大きさに目を向け、その光を私たちの人生を通して、生活の中で現し、まだ主を知らない人々に、主が唯一の希望であるという光を照らす歩みをしていきましょう。