■2016年4月24日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 聖い愛を全うする祈り2  up 2016.4.24


主題聖句(マタイ6:11〜13)
私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』[国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。]

 

 

 

 先週は第一の戒めについてお話ししました。今日は、イエス様が二つ目の大事な戒めとしてお話しされた「隣人愛」について、皆さんと一緒に学んでまいりたいと思います。

1.二番目に大切な戒めを守る祈り(マルコ12:31)
“「次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」”
A)『私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。』
 『私たち』→自分を含むとりなしの祈りであり、他の人と同じ立場、同じあわれみを受ける者としてのへりくだった祈りである。
 「私たち」は大事なポイントのことばだと思います。祈る時、自分と他の人を分けて祈ることが多いのですが、私を含めた隣人のためにという考え方が、「私たち」です。
 自分を優先させる祈りは、「互いに愛し合う」という神様のおことばから外れています。しかし、そんな自分中心の祈りをしていることが多いのではないでしょうか。
 イエス様が教えられた祈りは、「私たちの日ごとの糧を」「私たちの負いめを」「私たちを試みに会わせないで」と、常に同僚のために願いを共有するかたちになっています。
 「私たち」と祈る時、自分と誰との間に共有されているものかをいつも念頭においてください。
 たとえば夫婦喧嘩をした妻が「夫を変えてください。」と祈ったなら、それは夫のことだけですが、「私たちの間の亀裂をどうぞいやしてください。」と、自分と夫を同じ仲間として祈ることが大切なのです。
☆願いを共有する隣人愛の祈り
 『日ごとの糧』→各自に応じた今必要なものとその人にとって最も適切な分量を、みこころのままに与えてくださるようにという祈り
 器には、それぞれ用途に応じて役目があります。裕福な家庭ほど様々な器があり、役割が存在します。神様は高度な生活をされているお方であり、様々な器をお創りになります。それが、私たちです。それぞれ大きさも形も異なり、使い方も目的も違います。すると各自に必要なものや量もそれぞれ異なるのです。
 その人の器、用途、必要に応じたものをきちんとお与えくださいますように、というのが、上に挙げた祈りです。
 私たちは目に見えるものだけを見て、「なぜあの人だけたくさん与えられるのか」と不平を言ってはいけません。神様がその人にふさわしい物や量をお与えになったのです。
 ですから、「神様、今日も私に必要なものを必要な分だけ、どうぞ与えてください。兄弟姉妹にも同じように(必要なものを必要な分だけ)与えてください。」と祈りましょう。
 自分も隣人も神に生かされるようにと祈ることが、隣人を愛する祈りになるのです。
※気をつけてほしい事があります。必要なものを必要な分与えてくださいと祈る時、神様がお選びになる必要があなたの望みと違うことが度々あります。
 自分の感覚で「欲しいものと違う」「量がちょうどでない」と思う時、それは神様が選ばれたことであり、神様に間違いはないことを思いみて、謙虚に受け止めてまいりましょう。
 神様が選ばれた「自分に必要なもの」であり「必要な量」であることをわきまえ受けとめる心をも、この祈りは表しています。
B)『負いめを赦す』
 「互いに赦し合うことによって、神からも赦される隣人愛の祈り」
 私たちは自分の汚い思いを見るたびに、「こんな自分が神様から赦されるなんてあり得ない。」と絶望したり失望しますが、同じような悩みを抱えた隣人が、皆さんのそばにいるのです。
 しかし、「赦せない心」がいつまでもあると平安でなくなりますね。私たちの本心は平和を望んでいます。私たち罪人が負った負いめは、自分ではいやすことができません。「赦してください。」という言葉を使う時は、お返し・弁償・償いができない時です。元通りにすることができれば、赦しをこう必要などないでしょう。
 私たちは互いに、元に戻すことのできない心の傷を持っています。過去に受けた傷を元に戻すことなど不可能です。そのせいで、どんなにしても赦せない気持ちが出てしまうのです。けれどこの赦せない心が、平安を得る邪魔をします。
 本心から平安が欲しいならば、赦せない心を捨てて、赦せる心を持つ準備をすることが必要です。人は皆、神様の前では赦されなければ存在できない罪人であり、「あの人も私も同じ」なのです。
 私たちは神様の愛のお心に傷をつけるという、いかなる代償でも赦されることのない罪を犯しました。私たちのわがまま、欲望を満たすためにです。そのことのゆえに、私たちは罪の裁きを受けることが決定した者たちです。こんな私たちを赦すために、イエス様は代償として何物もお求めになりませんでした。その代わり、「愛を信じなさい。」と、イエス・キリストを遣わされたのです。
 キリストを信じることによって、神様はご自分の傷つけられた心をいやし、慰めることをお考えになりました。すなわち、私たちが神様を愛する・信じる心を持てたら、傷ついた心の痛みがなくなるとお考えになって、神様はイエス・キリストによる贖いのみわざをご計画されたということです。
 私たちは今も、神様のきよいお心に傷を負わせ続けています。絶対に償いきれないと知っていて、神様は赦してくださいます。この方は平和の神ですから、私たちを赦したいのです。
 もし神様との間に平和を保ちたいと強く思うなら、神様に赦されている者同士、互いに赦し合いましょう。それが神の愛を信じているしるしだとして、神様は受け入れてくださいます。人を赦したら、神様はあなたの罪を赦されます。互いに愛し合うことには赦し合うことも含まれています。「私もあの人も共に赦し合って平和を生み出します。どうぞ私たちの罪をお赦しください。」という祈りなのです。
 一方だけが良い条件を作るのではなく、両方ともが平和を作り出すという関係が生まれた時に、「どうぞ、私たちの負いめをお赦しください。」という祈りができます。自分だけでなく、隣人のための赦しも一緒に神の前に祈る祈りが「負いめを赦す祈り」です。
 皆さん、考えてみてください。明らかに自分に悪感情を抱いている人が目の前にいたら、いくら「あの人を赦します。」と祈っていても、心に平安をもたらすのは難しいでしょう。平安と平和は両者がお互いに協力し合わないとできないものなのです。
 ですから、これは非常に難しいことなのです。それでも私たちは「赦しを乗り越えて、共に平和を保ちたい」というのが本当の心からの願いです。相手が不幸になることでは復讐心は消えず、相手が良い人になることによって初めていやされます。
 今年のモットーのみことばにある「平和を追い求め」るには、赦すことが不可欠です。赦せない心があったら、平和を追い求めることができずに、そこでストップしてしまいます。
 しかし、あなたの本心は復讐にあるのか、平和を得ることなのか、よく考えてみてください。復讐心はあなたの正しい思いではなく、罪の欲求からの思いです。自分の痛みを相手にぶつけたいだけなのです。しかも、ぶつけても痛みが消えることは無いのです。良い関係を保ってこそ、復讐心は消えます。「汝の敵を愛する」ことによって、敵対心が消えていくわけです。
 こんな実話があります。第二次大戦の終わり、あるカトリックの司祭のもとにナチスの兵士が逃げてきました。彼は司祭の息子を殺した犯人でした。一目で彼を息子の仇だと見抜いた司祭でしたが、兵士は自らの行いをとても悔いていました。司祭が自分の殺した相手の父親だとも知らず、自らの罪を打ち明けました。彼は心を入れ替える用意がありました。その司祭は自分の息子として彼を受け入れ、一緒に過ごしました。そのことによって、司祭の心の痛み・憎しみは消えていきました。
 敵との関係を改善してこそ、私たちの内に本当の平和が訪れます。
「敵であったけれども、今日はもう友となった。」というのが、いやされるためのベストの選択です。この選択は困難でしょう。しかし私たちはまず祈りから、このベストな選択ができるよう願いましょう。
 私たちも私たちに負いめのある者を赦しましたから、私たちの罪をお赦しください。」とは、隣人との争いをなくす祈りです。平和を求める祈りは、隣人を愛する祈りです。
C)『試みに会わせないで、悪からお救いください。』
 「争い合う悪から聖める試みに会わせないでください。互いに愛し合いますからという隣人愛の祈り。」
 試みとはきよめるために存在するものです。私たちが試みられるわけは、争い合う性質というかなかすが存在しているからです。このかなかすを引き出して、私たちが争い合う状況が出てきて、争い合う気持ちや敵対心の感情が出るようにされます。
 「ああ、これが私たちの汚い心だ。」と、私たちは隣人を素直に愛する心がまだできていないことを知り、その思いを十字架につけて赦し合う兄弟姉妹の関係を築き上げていきたいという気持ちが「試みに会わせないで」ということばの意味です。
 あなたが、隣人と平和に過ごすことでなく自分だけ平和に過ごすことを求めているなら、あなたは試されます。それは本当の平和ではないからです。試みに会わないためには、自ら本当の平和を求めて、隣人との関係を良くしていくのです。そうすれば神様から試みられることはありません。試みられるのはいやなものですね。何が起きるかわかりませんから。でもそれは、互いに愛し合うことができる愛の心を生み出すための試みです。
 私たちはできるだけ、争いに巻き込まれたかたちで平和を求めるように試みられることは避け、自ら互いに愛し合うことを一緒に進んでいこうではありませんか。
 自分だけを愛するのではなく、隣人を自分と同じように愛すること。隣人も自分と同じように平和を願っているはずなのだから、私もあの人も共に平和であるようにと、赦しを神様の前にチャレンジしていきます、と。この祈りを告白することによって、隣人を本当に愛していくその愛を、神の祈りのみことばから沸き立たせていただいて、愛の力によって実現へと進んでいただきたいと思います。

2.『魚質竜文』に注意する(第1ヨハネ4:20)
“神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。”
『魚質竜文』(ぎょしつりゅうぶん)の意味=正しいように見えるが、実際には間違っていること。または、実質はないが、外見は立派に見えること。
 私たちは人を批判するために『魚質竜文』を使わないように、自分を吟味するために使うように気をつけましょう。
【内容観察】
「よく聖書を読み、多くの祈りの時間を持ち、奉仕活動に熱心な神を愛していると言っている人が、もし、兄弟姉妹に対して赦せない心を変えようとしない自己義の強さがあるなら、その人は偽り者です。なぜなら、神に愛され赦されている目の前の兄弟姉妹を愛することができていない者に、見えない者を愛することが難しい罪人にとって、見えない神を愛することは、なおさらできないことだからです。」
 見えないものを愛することは、よほど徳の高い人でないと難しいものです。私たちは自己中心という罪人であるわけですから、どうしても見えないものに対して愛を注ぐのはやりにくいものです。その性質上、ついつい見えるものによって信じてしまうことが多いので、よく聖書を読み、よく祈り、よく奉仕活動をしている人に対して、「あの人は本当によく奉仕活動をしているなあ。」と見えてしまいます。もしくは自分でもそのように納得してしまいます。自分が神を愛する証として、上に挙げた行動の数々を頼りにするのです。
 これらの行動が本当に神様への愛から出ているのかを確かめる方法が、目に見える兄弟姉妹を愛しているかどうかです。私たちは度々、自分の中にある良くない感情を自分自身だと思い込んでしまいますが、感情はとても不安定で、すぐ変化してしまいます。
 その時々の感情で「赦していない」と決めつけるのは早計です。あなたが神を愛しているならば、あなたの良くない感情を含めて、過去は全部葬り去られており、あなたの中にある悪い思いは過去からの幻影にすぎません。神様はあなたを「良い心になっていますよ」と見てくださっています。その証拠がイエス・キリストの救いですね。
 悪感情は過去のものとして、神様にゆだねてください。そのうちに消えていきます。イエス様の十字架を通して、悪感情に捕われなくてよい自分、新しい良いものとされた自分に気づいていきましょう。そうすれば感情は消えていきます。
 人は欲望を満たしたいという思いにかられ、復讐心を満足させようとしてしまいますが、それは自分の感情に振り回されている状態です。事実はキリストの救いのみです。それは真理の事実です。過去を神様にゆだねましょう。今のあなたは、神の愛によってきよめられている自分を信じ、受け入れましょう。そして復讐心を満たそうとする罪からの欲求をぜひ捨ててください。それは実体のないものなのですから。
 私たちはつい、「聖書を読まなれば・祈らなければ・奉仕しなければ」と、神様の前に熱心であることを、自分の行いのみで認められようとしてしまうことが多いのです。
 それも大事なことですが、更に優先すべきことは、兄弟姉妹に対してゆがんだ心を持つ事は無いだろうかと自分の心を吟味することです。兄弟姉妹に対する良くない感情をもってしまったことに心を痛めるのは、神様を愛しているしるしとして当然の心の反応です。神を愛しているからこそ、兄弟姉妹を愛せない心の状態を憂うのです。
 「私の方が正しい。」と自己義を神様の前で出してしまう人は、相手と平和を作る気持ちがないのです。「相手が悪いんだから、神様、どうぞ罰してください。」では、平和を作り出す気持ちが見えません。平和を作り出すことが互いに愛し合うこと、隣人を愛することなのですから。隣人になるとは、敵味方の関係性を捨てて、人のいのちを尊ぶという関係を結ぶことです。それが平和を生み出すということです。過去のことは全部取りのけてしまい、今、平和を生み出すことを考えていくことが、隣人を愛することにつながっています。
 そういうことで、皆さんも感情的に自分が正しいかを考えるのではなく、この思いの中でどうしたら平和を共に保つことができるだろうかと、ぜひ神様の前に祈り求めていってください。
 それが兄弟姉妹を愛すること、隣人を愛することになっているのです。悪感情は避けられませんが、その感情を平和に変えようとするあなたの心が、隣人愛へと動いていきます。
 自分だけでなく隣人も変わらなければ、本当の平和はやってきません。これは本当に高度な、徳の高い目標ですが、神は私たちが争い合うよりは平和であることを願っておられます。
 いろんな奉仕をするよりも、いがみあいを止めて協力し合うと言う関係を兄弟姉妹の中に、また家族や夫婦の中に持ってほしい、それを優先してほしいと願っておられるのです。
 あなたが変われば周りも変わります。傲慢や感情に振り回されやすい心や、ねじれた考えは争いを引き起こします。
【デボーション参考ポイント】
律法を全うする「主の祈り」を続けましょう。
そして、互いに尊び合う愛を心がける一週間としましょう。

 

 

 

 

 

■2016年4月17日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 聖い愛を全うする祈り1  up 2016.4.17


主題聖句(マタイ6:9〜10)
だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

 

 

 

 今の時代は、スポーツ界でも野球賭博をはじめ、違法の賭博で国の補助金までも使い込むような人々がニュースになるなど、いかに欲望が人々の思いをくらませ、支配しているかが明らかにされるようになってきています。
 ですから愛さえも欲望によって動かされてしまい、親子の愛さえ薄れてしまっているような気がします。
 まして、母親に比べて父親は、感謝されるよりもうるさがられたり臭いとか汚いとか言われたりすることもあるそうです。
 どうも、父親の愛は軽くみられがちです。子供にとって、直接身の回りの世話をしてくれる母親に比べて、父親の関わりは地味で目立たないのかもしれません。
 そして、そういう人々にとっては、父なる神様と言われてもぴんとこないし、その愛がわからないということが起こるでしょう。
 父親の愛がわかりにくい時代です。今日は俳句から始めたいと思います。母子草に比べて父子草はほとんどの人が知らない地味な花です。

「父子草 父の愛とは 地味なもの」

 地味という言葉の中に色々な意味が含まれています。派手なものはすぐに消えてしまいますが、地味なものはいつまでも続きます。そして、なくてはならない大切なものなのです。父なる神様の愛は地味であってもいつまでも続くものであり、父の愛の支えがあってこそ私たちの存在があるのです。
 今日のみことばは、有名な主の祈りの前半です。いかにこの前半の祈りが大切であるかを説明していきたいと思います。

1.一番大切な戒めを守る祈り(マルコ12:29-30)
“イエスは答えられた。「一番大切なのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。 心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』”
 
 このみことばと主の祈りには深い関係があります。主の祈りは、弟子達がまだ未熟な時に与えられた教えです。彼らはまだ聖霊を受けておらず、異言で祈ることができませんでした。
 この祈りは子供から年配者まで誰でも区別なくみこころにかなった祈りができるようにと、律法の「まず神を愛する」という大切な教えにかなった祈りとして、イエス様は弟子たちに教えられました。

A)『天にいます私たちの父よ。』→心を尽くしている
 「天にいます」とは、頂点に立つお方です。創造主は万物の頂点に立たれる最も尊い尊敬されるべきお方です。この心からの敬意を表明する態度がこのことばに表れています。本当に心から尊敬するという態度は、全神経がその方に集中し少しも不純なものがない姿です。
 「父よ」とは、最も尊敬する方への敬意を表明する呼び名です。同様にエジプト時代、すべての王が「パロ」と呼ばれました。パロとはひとつの敬称であり、その地位を表すことばでした。
 「父」とは同様に中東で最も敬意を表す方への呼び名であり、信頼と尊敬が表されています。
 私たちが父よと呼ぶ時、そこには親しさだけでなく心から信頼し尊敬する愛の気持ちが表れています。
 私たちが祈り始める時、まずこの心の動機をもって、心を尽くして神に近づくことが大切です。

B)『御名があがめられますように』→思いを尽くしている
 神様のことだけの思いがいっぱいで、あふれ出ている様子です。それ位素晴らしい父なる神様だという思いがあふれているということです。
 神様の主権はどのような権威よりも上です。それゆえ、創造主なる愛なるきよい神様の素晴らしさをクリスチャンは語らずにはおられません。

C)『御国が来ますように』→知性を尽くしている
 主の臨在、主の再臨のためにあらゆることを考えている様子です。
これは王を迎え入れることばです。王なる方が中心となってあらゆることがなされます。そのためには私たちも知性を働かせて、迎え入れる準備をしないといけません。今日礼拝に来られる前に、主の臨在の前に出る準備を知性を尽くしてされたでしょうか。

D)『みこころが地でも行われますように』→力を尽くしている
 みこころが自分の生活に行われるためにみことばに従う決意の表明。行動とは決心があってからなされるものです。天においては、神様のみこころは天における被造物が行っています。同様に地上では神を愛する人々が行っているということです。
 神様のみこころが少しでも表されますようにという謙虚な気持ちで生活するなら、そのために力を尽くしてみことばに従いたいという決意をします。ただじっとみこころを待っているのではなく、みこころに沿った行動をとることが大切です。きよい神の子とされていると信じて生活していくなら、みことばがあなたをきよめてくださいます。主を愛するというこの主の祈りを、しっかりと自分の決意として受け取って行動していくなら、きよめられていくのです。
 神のみことばには力があり、私たちの心の動機をきよめてくださいます。そして、みことばに従っていくなら祝福の実が実っていきます。
この主の祈りを用いて「主を愛する」祈りを続けていきましょう。

2.『神怡心静』をもたらす主を愛する祈り(詩篇32:5-6)
“私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。それゆえ、聖徒は、みな、あなたに祈ります。あなたにお会いできる間に。まことに、大水の濁流も、彼の所に届きません。 ”

 『神怡心静』(しんいしんせい)の意味
 心が開けて気持ちが柔らかくなり、心が平安に包まれる事。

 主の前に主の愛を信じて祈りを重ねていくと、心が開けて平安になっていきます。聖霊さまの臨在が下ってくるからです。神様に近づいていくからです。信仰が弱いと思う人はたくさん祈りを重ねていくことが大切です。心を込めて父なる神様への敬意を表して祈りを積み重ねていくなら、神様の愛に包まれ平安がきます。

【内容観察】
“私は、神の前にへりくだれず自分の罪を言い表すことができないで苦しんでいましたが、聖い神はあわれみ深い愛の神である事を信じ「私のそむきの罪を主に告白しよう。」と祈りました。すると、あなたは私の罪のとがめを赦してくださり平安に満たされました。それゆえ、主を愛する聖徒は、みな、あなたを信じて祈ります。あなたのあわれみが注がれている間に。
アーメン、滅びへと押し流そうとする罪の力も、その人には無力です。”

 罪の誘惑の力にまさる確固たる心をもつためには、罪人であることを認め、決して他人を非難する資格がないことを認め、神の前には自分の義を主張できるような者ではないと謙虚にへりくだることが必要です。
 自分の内側の罪を認めず隠し続けるなら、平安は失われていきます。そしていらつきストレスがたまり、怒りやすくなります。神様の前に自分の罪を認め、すべて委ねる時、本当に平安になります。罪があると神様の平安がきません。神様は自分の罪を認める人のところに来てくださいます。互いに赦された罪人として、受け入れ合いましょう。 まずは、神を第一にするという主への敬虔な愛の心を表す祈りから、今週は始めていきましょう。

 

 

 

 

 

■2016年4月10日 日曜礼拝メッセージより(横路伝道師、辻和希伝道師)

 受けた愛を流し出す  up 2016.4.10


主題聖句(マタイ25:40)
すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。

 

 

 

【横路伝道師メッセージ】
1.新しい人は聖い愛の人
(1)キリストのうちにある人(第2コリント5:17)
“だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古い者は過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。”
 
 このみことばは、イエス様の十字架の救い「聖い愛」に触れ、信じ受け入れた者は誰でも「新しく造られた者」であるとし、それまでの神を知らない自己中心の生き方を「古いもの」であり、救われ、聖められ、新しい生き方に歩む人生を「古いものが過ぎ去って、すべてが新しくなった」と宣言しています。
 かつては罪の中に生き、やがては永遠の滅びにいたる「古いもの」であったが、それが過ぎ去って、天に国籍のある神の子として新しく造られた者となった、というすばらしいみことばです。

(2)新しい人を着た(コロサイ3:9〜10)
“…あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。”
 このみことばは、先ほどのみことばの「古いものは過ぎ去って」のところを「古い人をその行いと一緒に脱ぎ捨てて」と表現されていますが、ほぼ同じ意味です。
 古い人の行いとは、罪から出てくる自己中心、自己優先、自分勝手な悪い思いと行動です。例えば、怒り、ねたみ、争い、嘘、その他、皆もやっているからと、偽りや不正を容認しているような生き方ではないでしょうか。
 そういうこの世の罪に属する生き方を、汚れた服を脱ぎ捨てるように捨て去り、新しい汚れのない服を着るように、イエス・キリストの聖い愛で全身を包んで、その聖い愛に生きることを表しています。
このみことばはまた、人がそのようなキリストにある生き方を歩み始めるなら、その人は神のかたちに似せて造られた者としてますます聖い愛の人に新しくされていき、やがては、イエス・キリストに似た者となる希望を約束しています。
 私たちは、信じ救われた時の状態に留まるのではなく、まして救われる前の古い生き方に戻ることなく、悔い改めを通してますます聖められ、成長し続けているのです。
 失敗があっても失望したりあきらめたりせず、新しい人として歩むなら、キリストの似姿に変えられ続けるという、このすばらしい約束のみことばを感謝します。
 また、「真の知識に至る」とは、「神が聖い愛のお方であること」を確信することに至ることであると思います。
《参考聖句》(ガラテヤ2:20)
“私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。”

(コロサイ3:12)
“互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。”

【辻 和希伝道師メッセージ】
2.受けた愛を流し出す
(1)十分な神の恵み
 私たちは神様から多くの恵みを受けています。その恵みは私たちがどんな状況にあっても変わることはありません。先週のメッセージにあった、パウロの「主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」という確信に満ちた人生を送ることは私たちの目指していきたいところです。またパウロは2コリント12章9節で、主の力はわたしたちの弱さのうちに完全に現れることから、自身の弱さを誇りとできるくらいに、主の恵みが十分であることを私たちに教えています。いかに主の恵みが大きいかがわかります。しかし一方で、パウロと同じ状況でなければ主の恵み、すなわち愛を体験できないのではないか、そのことから無意識に、“私はそこまでに至っていないから”と律法的なってしまうことがあるかもしれません。確かに、自分自身の弱さを認め主に委ねるときに主の力が完全に働きますが、それは神様の恵み、愛を最大限に体験しやすい状況であって、まず大前提として、主の恵みは十分であることを私たちは心に覚えましょう。

(2)イエス様が私たちにもたらしたもの
 そして、私たちにとって一番の恵みとは何でしょうか。ヘブル9章14節に「キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになった〜」とあります。イエス様が私たちの罪の身代わりとして十字架に掛かられたことこそが、私たちにとっての一番の恵みです。
 また、十字架は神様の私たちに対する愛そのものです。その十字架の御業は、「私たちの良心をきよめて、死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」(ヘブル9:14)とあるように、神様を知らないで歩んでいた生き方から、生きている神様に仕えることができる生き方へ私たちを変えてくれました。こんなにも素晴らしい神様の恵みをもう一度意識した一週間としたいですね。
 私は教会に導かれた当初、神様というよりは、教会につながっていることに喜びを持っていました。教会での交わりがとても楽しかったからです。最初はそれで良いですが、私たちはどこかで、全ての恵みの源である神様ご自身に直接つながっていくことが大切ではないでしょうか。そのことを神様も求めておられると思います。

(3)受けた愛を流し出す
 イエス様の十字架は私個人のためだけや、特定の人たちのためのものではありません。全人類にもたらされました。しかし、全ての人がこのことを知っているわけではありません。この神様の恵みと愛を知った私たちは、まだ知らない人たちに伝えていく必要があります。自分自身が満足する信仰生活で終わるのではなく、受けた愛を流し出していくことを心がけていきたいですね。流し出していくことのヒントとして、マタイ25章31節から40節を読んでみてください。
 イエス様の十字架の御業をもう一度思い巡らし、神様から受けた恵みと愛を自分自身だけに留めておくのではなく、周りに流し出していく一週間としていきましょう。

 

 

 

 

 

■2016年4月3日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 聖い愛は天下無敵  up 2016.4.3


主題聖句(ローマ8:38〜39)
私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

 

 

 

  『天下無敵』(てんかむてき)の意味
  全世界において最も強くて、対抗しうるものがないこと。

 十字架に現された神様の愛の偉大さ、力強さ、すばらしさについて物語るみことばですね。
 「キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」神の愛の中に導き入れられ、そこに留まるのは、最も安全な場所に留まることであり、それは正に鉄壁の守りです。
 パウロはどのようにして、これほどの確信を得たのでしょうか。

1.聖い愛への信頼(ローマ8:38〜39)
“私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。”
【内容観察】
私は主を愛するがゆえに味わって来た多くの苦難から、神の愛に対する確信を得ました。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほか全宇宙に存在するすべてのものは、見ることのできる神の愛のかたちであられる私たちの主イエス・キリストを通してとらえてくださった神の愛から、私たちを引き離すことができる力は何一つ存在しないということです。
 パウロの確信は、祈りの中の啓示からだけではありません。イエス様を信じてから神様の愛を伝える福音の働き人になり、伝道の働きを続けていく中での実体験が、大きな影響を及ぼしています。
 神様の守りの中にあっても、パウロの信仰生活にはつらく苦しい出来事がたくさんありました。(第2コリント11:23〜27参照)
 はたから見ると、「何か罪を犯したからこんなに苦しみを受けているのではないか」と思われかねないほど、多くの苦難がパウロに襲いかかっています。しかし、私たち神を信じる者にとっての苦しみの時とは、かけがえのない宝物を見つけることができる時でもあります。苦しくつらい時ほど、「神様の愛はなんと力強く私を抱いてくださっているのだろうか。」と、かえって神様の愛の強さを確信させるのです。
順風満帆な時よりも、何らかのかたちで神様の愛から引き離そうとする力が働いている方が、その力にまさる神の愛の力が現れやすくなります。パウロはそれを悟って、苦しみを通して偉大な神様のことをさらに知っていきました。
 私たちは苦しみたくないと思います。しかし、そのつらさや苦しみの中で、どんな実が結ばれるかがわかれば耐えられますし、それを喜ばしく受け止められます。
 一流になる人は練習を怠けません。私たちには耐えられないようなメニューでもこなします。その結果として一流になるのです。必要な苦しみを経ずに「神様、ください。」とは、あまりにむしが良すぎるわがままな願いではないでしょうか。それを見分けられないような神様ではありません。私たちの神様は生きておられるからこそ、「それを願うのなら相応の覚悟が必要ですよ。」と、磨かれ鍛錬され練られる必要があることを語られます。
 このテーマで語って三か月になりますが、きよい愛を求めるほどに、自分がふさわしくない者であることを痛感します。しかし同時に周りの人々のできなさも見えてきて、批判的になりがちです。「この人のせいでうまくいかない。かかわらないようにしよう。」と、自分にとって「楽な」道を選ぶことは良くないことです。
 そういった怠け心、自己中心の考えというものに気づかせていただいて、様々な試みや困難、苦しみを通して、そこに神様の聖い愛の力強さを見い出していただきたいと思うのです。

2.『天下無敵の聖い愛』に対処するサタンの策略
 サタンは神様の愛に勝つことができない自分を知っています。では勝つことのできない相手に勝つ方法は何でしょうか。それはルール違反、反則をすることです。相手を卑怯な手で弱らせておいてから、勝利を得ようとするのです。

A)聖い愛に関心を持たせない(第2コリント4:4)
“そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。”
 私たちクリスチャンも、元のノンクリスチャンに戻ってしまう可能性を常に持っています。これ以上神を信じることがないように、という人々の思いをくらませ、福音の輝きを見せないようにするのがサタンの働きです。この世の神であるサタンはいつも働いています。私たちが順調にいっていると思う事柄でも、突如として妨げがやって来たり、いつの間にか福音の輝きが徐々に見えなくなって、それが当たり前になっていたりします。これは恐ろしいことです。
 「悔い改めて赦していただける」という恵みを、自動販売機のように「悔い改め⇒赦し」と当たり前のこととして捕え、それがイエス様の十字架での苦しみのお陰であることを忘れてしまうのです。神様の愛の輝きが見えなくなるというサタンのわなに、私たちも引き込まれてはいないでしょうか。
 サタンは、イエス様を信じた人々に手出しすることをあきらめたりはしません。現実的には神の愛の内側にいるクリスチャンたちに手出しはできないのですが、ここに偽りを持ち込むのです。愛に留まらせないための策略の一つが、この「思いをくらませる」ことです。神様への思いをぼやかし、他のものに注目させるのです。神様の光り輝く愛の前に別の偽物の光を置き、それしか見えないようにすると、私たちは偽物の光に目が行ってしまいます。
 私たちは神様のきよい愛の輝きにいつも触れていないと、この世に存在する限り、この世の光や楽しみを見たり味わうことを止められませんから、流されてしまいます。
 また、信仰が弱ると、きよい愛の輝きがわからなくなり、他の所に気を取られます。私たちの信仰はイエス様を信じる信仰と一口に言いますが、イエス様を信じるとは、イエス様の愛を信じることです。私たちはイエス様の何処にすばらしさを感じているのでしょうか。いやしも願いを聞かれることもすばらしいのですが、その中心は愛にあります。
 最初からそれを知ることはできませんが、神様は願いをかなえてくださることによって、少しずつ私たちが信頼をおけるようにしてくださっています。やがて神様の愛がこんなわがまま者の自分にどれほど注がれており、神の子としての成長を忍耐をもって待ち続けてくださっているかを悟るのです。
 そのきよい愛に目を向けることができれば、サタンに惑わされることはありません。しかし、思い通りに願いをかなえられることのみを求めているなら、神様の愛に対する信頼から外れていってしまいます。これが「信仰が弱る」ということです。
 神様の愛は義務感とは違い、無尽蔵です。私たちに無限の赦しをもたらす測り知れない愛が、知識から体験へと変わっていくなら、信仰は弱ってしまうことがありません。しかし別のものに思いをくらまされると、意識がそれて神様の愛の輝きがわからなくなるので、愚痴、不平、不満、不信仰が生まれてきます。

B)『偽り』を信じさせる(ヨハネ8:44)
“あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。”
サタンは偽りの「父」、つまり偽りをつくり出します。偽りは力を持ちません。サタンは真理を偽りとし、偽りを真実と信じさせてきます。初めの偽りはアダムとエバに神様が禁じられた善悪を知る知識の実を食べさせました。神様のおことばに対する疑いを起こさせ、サタンの言葉の方が正しいと思わせたのです。
 だますことに力は必要ありません。真理とはキリストですから、「キリスト教は宗教の一つだ」と他のものと同じレベルに引き下げたり、異端の教えのように「キリストは確かに罪の身代わりの死を遂げたが、彼自身は神ではない」とキリストの神性を否定して偽ってきます。私たちが偽りを見分けるためには、本当にきよい神の愛を早く味わい、その輝きの魅力、すばらしさに心が囚われることが必要です。
 神様は私たちの祈りを聞き届けてくださり、信頼関係を築くための真実な愛を注いで、確かなものとしてくださっています。しかし、神様の誠実さに甘えてしまい、いつも願いをかなえていただくことばかり求めて、「こたえられないと信じられない」と、荒野を40年間さまよい続けた不敬虔なイスラエルの民のように、欲望をかなえるための道具として神様を認識してはいませんか。これは愛ではなく損得勘定での信仰です。
 初めは神様の愛のすばらしさに感動し、聖霊様に触れられて、「この方こそ救い主、私たちの愛なる神様」と感激していたにもかかわらず、この世にある罪の自己中心な考え方に影響され、「それだけでは人生おもしろくない」と思わされるのです。「実を結ぶ」ということにおいて、立派な信仰生活はめざすべき目標です。しかし「立派なクリスチャン」の部分に心が奪われると、根本的支えが神のきよい愛であるということから目がそれてしまいます。今まで何度も、世界にあるキリスト教会で繰り返されてきたことです。有名な大きな器でも、罪を犯して全世界につまずきを与えるような出来事が起こるのです。これらは神のきよい愛の魅力を、最初の純真な心のまま保てなかった結果です。
 奇跡もいやしも伝道していく中で当たり前のように起こっていくと、そっちの方に気を取られて、神様の愛のきよさ、すばらしさがわからなくなり、感じなくなります。むしろ奇跡をすることや人々がいやされることへの心地よさ、という傲慢への誘惑がその人を引き寄せていきます。
 成功する時こそ、本当に気をつけなければなりません。かといって失敗ばかりのクリスチャン生活は信頼性がなくなるので、バランスが難しいですね。だからこそ、きよい愛の魅力にいつも触れていくことが必要なのです。

C)『欺き』による不信を起こさせる(ローマ7:11)
“それは、戒めによって機会を捕えた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです。”
 「機会を捕えて」とは、すべての人が安全に平和に暮らすためのルールである戒めを使って、罪が私たちをあざむくことを指しています。 私たちの「欲」がその「機会」です。罪が私たちに働きかけてくるその働きかけは、私たちに見分けにくい姿に化けており、一見すばらしいように見えても中身の動機は正しくありません。
 欲は本来、神様が私たちのためになるようにと与えてくださったもので、良いものです。向上心や神様を求める心も欲の一つであり、健全な心の動きです。しかし罪は欲を利用して、私たちの心をくらませていきます。たとえば、規則を破ってしまったことについて罪が私たちを責め立てていき、厳しく規制することでかえって「してはいけないことをもっとやりたくなる」罪の性質をかき立てるやり方があります。規定は罪の働きを増幅させるのです。そして規定に反発する罪の力に、私たちは抵抗できなくなっていきます。
 パウロは他の箇所で「規制が与えられると罪が生き返る」と語っています。(ローマ7:9参照)
 見分けるこつは、「あざむきは白く塗った墓のようだ」ということです。自分の欲を聖書に照らし合わせ、表面的な願いや計画で覆っている本心を見つけ出しましょう。罪の動機が隠れていないでしょうか。罪の欲を満たすための理由として、神様のおことばを塗ってごまかしてはいませんか。クリスチャンにはこういうことが起こりうるのです。
「こんな基準で測られたら、自分は白く塗った墓以外の何ものでもない」と落ち込むなら、それでよいではありませんか。私たちは罪人で、中身は自己中心な腐った者なのです。
 そんな私たちを生き返らせるために、イエス様は私たちの罪を身代わりに受けて裁きを受けられ、その裁きが完全に終わった証としてよみがえらされました。私たちに新しい人生を与えてくださるという約束のしるしとしての復活が証しされています。ですから、私たちは白く塗った墓でもいいのです。そこからよみがえればいいのですから。そのために、きよい神様の愛は、何ものからも私たちを引き離されないほどの力ある愛なのです。
 私たちは墓の中から引き上げられ、神の子として新しい人生を送ることができます。このように神様のお考えがおありなのです。
サタンの策略である「妨げ」「欺き」「偽り」は力のない者にもできることです。むしろ力のない者ほど、嘘をつき、欺き、妨害します。正々堂々と勝負できない以上、やることはルール違反です。そしてだまされた私たちは、自分で自分の至らなさを裁いてしまうのです。
 しかし、神様はそういう弱い愚かな私たちだと知っておられます。神様はそれでも私たちを愛してくださっているのに、私たちが勝手にあきらめていてはいけません。サタンはただ欺き、嘘をつくことで私たちを不信仰に追い込もうとします。逆に言うと、彼らにはそれしか策略がないのです。神様のきよい愛、神様ご自身、全能である方に対抗などできるはずもありません。「彼らの策略を知らないわけではない」とパウロが言うように、妨げと偽りと欺き以上のものをサタンは持っていません。そのことを覚えて、恐れないで、欺かれないよう、偽られないよう、ちょっとした妨げで不信仰に陥らないようにしましょう。
 いつも神様のきよい愛に触れながら、「神様の愛はどんな欺きや偽りさえも壊せない。神様からの私への愛を引き離すことはできない。」と、もっと確信をもって歩んで行きたいですね。
「聖き愛 花より団子と ならぬよう」

 神様のきよき愛が「花より団子」のたとえのように、「神様の愛はいいものだとわかっているけれど、それより目の前の欲を満たすのはこっちの楽しみだ」とすり替えられないよう、気をつけましょう。

 

 

 

 

 

■2016年3月27日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 以身殉利を変える愛  up 2016.3.27


主題聖句(第2コリント5:15)
また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。

 

 

 

 『以身殉利』(いしんじゅんり)の意味
 つまらない人間は自分の利益になる事と、欲望のためにのみ生きる
 という意味。
 訓読⇒「身(み)を以(も)って利(り)に殉(じゅん)ず」
 
 このように、利己的な私たちの罪の性質を変えることができる神様のきよい愛が、今日のテーマです。
1.主題聖句内容観察
「また、キリストがアダムの子孫たちの罪の贖いをするために死なれたのは、何も知らないで生きている人々が、以身殉利の生き方から目覚めて、私たちを愛して罪のさばきを身代わりに受けて苦しまれたよみがえられた方のために生きるためなのです。」

2.キリストの『死』と『復活』を考える
A)イエス様がすべての人のために死なれたのはどうしてだと思いますか? 二つ以上考えてみましょう。
 まず、「私たちを愛してくださっているから」という答えが出るでしょうね。この「愛」は「大切な存在」という意味です。
 私たちを大切な存在と考えてくださっているので、それを失いたくないという気持ちが込められています。
 イエス様は、自分の利益を求めるような利己的な動機を持たれませんでした。すべての人の身代わりに罪の裁きを受け、病も十字架の上で身代わりに受けられ、誰もこれらに支配されないように、勝利できるようにと、罪の呪いをすべて十字架上で処分してくださったこと全部が、ご自分の利益のためでなく私たちのためでした。

B)「生きている人々」とは、どのような人々だと思いますか?
 「すべて生きている人」なのですから、ある特定の条件下にある人限定ではありません。ユダヤ人だけのものではなく、他宗教の信者たちだからといってはじき出されることもありません。今、世界各地で問題を起こしているISなどのテロリストさえも含まれています。
 何らの差別もない、「すべての生きている人々」が対象なのです。

C)「自分のために生きる」という意味を考えてみましょう。
 自己中心、的外れの生き方です。しかし、「人間は何のために生きているのか」という問いに対する答えがわからなければ、的から外れているかどうかもわかりません。「私たちは神のかたちに似せて造られた」ところに、存在の目的と意味があります。
 神様を父として、神の家族として父の愛のうちに創造されたのが私たちです。ですから、神の家族としての意識がないままに生きるということが、的外れになります。地上的に考えても、家族を家族と思わない、親を親と思わない人がどんなに立派な業績を残したとしても、「親を捨てる」という心がその人の人生を的外れなものにしてしまいます。親を敬うという人の心、人格が人々に価値づけられていくのが本来の人があるべき姿です。
 今の世は経済社会なので、「いかにプラスになることをしているか」で量られてしまいますが、それは私たちの生き方ではないと、聖書は教えています。自分のために生きるのではなく、家族のために生きるという気持ちが、普通の家庭でも無意識に持つ家族愛ではないでしょうか。
 この世では神様に対してすごいわがままな姿勢を続けている人が多いのですが、その中でクリスチャンは父なる神の愛に気づき、親のもと、家族のもとで暮らすことが一番幸せだということに気づかされていくわけです。

D)「自分のために死んでよみがえった方」とは、だれのことでその方は どのような方でしょう。
 この方はイエス様のことですね。どんな方かというところで、イエス様のことをどの程度理解しているかがポイントになります。
 聖書から、また他の人々からイエス様がどんな方かという情報を得、また知識的にイエス様を知っている部分と、実際に霊なる神様と私たちの霊とが出会う祈りの中で体験することによって、イエス様を知っていくことの両方を通して、イエス様がどのような方であるかを、あなたの言葉でまとめていただきたいと思います。
 聞いたことだけでも結構ですので、どのような方であるかということを通して、私たちは今イエス様をどれくらい知っているだろうかということを確認してください。
 実際の家族生活においても、私たちはどれほど自分の夫、妻、子どものことを知っているでしょうか。現代は家族内でさえお互いのことをよく知ることができてない時代だと思われます。心が通じない、考えが理解できない、という愛の冷えた家庭状況が、今生まれてきているのではないでしょうか。
 そういうところから、私たちの人生のむなしさや問題や罪が生まれてきてしまっています。社会が混乱してきているということに気づいて、今こそ私たちは、神様が私たちに表してくださっている愛を大切にした生き方に立ち返るようにと、二千年も前から神様は勧めてくださっています。
 反対に言うと、人類は二千年前からもう既に愛のない、欲望と自分の利益のために生きてきたことになります。自分の利益のため、また欲望を満たすために、戦争は絶えることがありません。このような愛のない生活は早く終わりにしたいですね。すべての人が愛なる神様を信じる、その愛に生きることに目が開かれるように祈っていきたいものです。

E)「よみがえった方のために生きる」。どのような生き方だと思いますか?
 イエス様が十字架で死なれたのは誰のためかと言えば、あなたのためです。何のためかと言えば、あなたを愛しているからです。
 しかし、一口に愛していると言っても、愛を感じなければ私たちの心は動きません。愛に触れられる体験をするか否かで、どのような生き方になるかが変わってきます。
 「どのような生き方」かと言えば、愛に関係した生き方です。社会は利害関係で成り立つ者ではなく、人間関係であり、人と人との間で一番大事なものは愛です。「愛はすべてを結ぶ帯」(コロサイ3:14)とも表現されています。愛のない人間関係や社会には欲望しか残らないのではないでしょうか。そのために私たちは悩み苦しんで、本当に大切なのは愛だとわかっていながらも欲望に負けてしまいます。
 私たちのそんな弱い心を愛によって強めてくださるのが神様の愛、イエス様を通して注がれる神様の愛だと言えると思います。

 以上、ざっと説明はしましたが、後は皆さんがご自分で聖書に記されていることを通して「本当に神様が、もっと身近な愛なるお方がおられる」という情報から、「試してみよう、祈ってみよう」とチャレンジしていただきたいと思います。
 言葉では答えられないかもしれませんが、あなたが一番願っている真の平安(聖書で言う「救い」)がもたらされ、あなたの霊に神様の愛の臨在が触れて、「もしかしたら神様がおられるかもしれない」という思いから神様との出会い、関係を深めていただきたいと思います。そういうことをデボーションのポイントとして2つ挙げてみました。

【デボーション参考ポイント】
A)死んでよみがえられた方との関係に気づきましたか?
 それは、どのような関係ですか?
 「神と私との間に何の関係があるのか」と言う人がいます。
 神様は私たちの父、私たちは神の子という親子関係が答えの一つです。もう一つ、「死んでよみがえった」ことを通して、「神様に愛される存在」と、神様にとって大事な価値ある存在であると認めるところから、私たちと神様との完成を考えていくことが必要ではないでしょうか。
 神様が願っておられる私たちとの関係はどんな関係かということを考えると、私たちと神様との関係性が見えてきます。

B)その関係を続け深めて行きたい願いが起こされたなら、何からどの ように始めて行こうと考えますか?
 今の時点からさらに深い関係を築き上げたいですか?クリスチャンたちの中にも、「まあこの程度でいい。」と、あまり神様に深入りしない方向を無意識に選んでいる人がいるかもしれません。「深入りすると束縛されるから、もっと自由に自分のしたいことができなくなる」と、無意識のうちにそう考えている人がいたなら、それこそ、この「以身殉利」の心を捨てきれないでいるということになります。
 神様との関係が薄いなら、そんなにわがままを聞いてはもらえなくなるかもしれませんね。誰しもかわいい愛する者には、多少のわがままは聞いてあげたくなるものです。「祈りが聞かれない」と文句を言う前に、自分と神様との関係を見直した方がいいかもしれません。
 私たちのために「死んで」「よみがえった」方ということばの中に、神様がどういう関係を私たちと築きたいと思っておられるかに目覚めることが、今週の一番の目的です。「死んで」とは愛の犠牲です。「よみがえった」とは、全ての準備が整ったという意味であり、それがイエス・キリストのよみがえりです。
 イエス様がよみがえられなかったなら、私たちの罪はまだ処分されていません。イエス様が死んでよみがえったということは、イエス様が私たちの罪の身代わりに裁きを受けて、罪に見合うだけの苦しみも十分受けられたので、罪のないお方であるイエス様がよみがえられたという意味があります。
 イエス様の復活により、私たちは罪が処分されたことを確信し、安心して罪赦された神の子としての新しい生き方に入ることができます。

 最後に一つの出来事をお話ししたいと思います。
 ブラジルのリオデジャネイロ在住のジョアンというご老人が、2011年に一羽のマゼランペンギンを保護しました。海岸で油まみれになり、ひん死の状態だったペンギンを連れ帰ったジョアンさんは、ペンギンの油を落とし、元気になるまで世話をしたそうです。やがて元気になったペンギンは海に帰りました。
 しかし、何か月かするとペンギンはまたジョアンさんのもとに現れ、それから毎年8か月ほどジョアンさんと過ごしているというのです。
マゼランペンギンは本来、南アメリカの大西洋岸と太平洋岸を繁殖地としています。その中でペンギンは運悪く流されてしまい、8千キロも離れたジョアンさんのところに流れ着いたようなのですが、元気になってからも自分が元々いた場所とジョアンさんのいるリオとの間を毎年往復しているらしいのです。時速4〜8キロほどの速度で泳ぐペンギンが8千キロを泳ぎきるのには、42日間もかかるそうです。それを毎年やっているとなると、往復1万6千キロを泳いでいることになります。このペンギンはたった一羽で、それほどの長距離を泳いで毎年ジョアンさんに逢いに来るのです。
 ちなみに専門家が見たところ、ジョアンさんとペンギンの仕草は繁殖期の夫婦と似ており、時期的にも合致するので、ペンギンはジョアンさんを自分の連れ合いだと思っているのではないかとのことでした。マゼランペンギンは一度つがいの相手を選ぶと、一生その相手と添い遂げる性質があり、そのため毎年通ってくるのであろうと思われます。
 このジョアンさんとペンギンとの関係を見ると、神様と罪人の関係を思わされます。罪の泥沼で身動きが取れなくなっている罪人の私たちを神様があわれんでくださって、そこから救い、いやしてくださいました。そのことを理解すると、私たちは恩を返す以上の思いを、救ってくださった方に向けます。ペンギンでさえ単なる恩で終わらずに「この人と一生つがいとなろう」という本能的な気持ちがわいたのです。ペンギンでさえ、そのことに気づくのです。
 愛には隔てを取り除いて、心を結び合わせることのできる力があります。ならば神様の愛はなおさら、神様と罪人の私たちにある隔て「きよい方と罪人」を超え、二つを結び合わせることがおできになります。これが「以身殉利を変える愛」です。
 ペンギンは、自分とジョアンさんとの違いを理解してはいないでしょう。しかし、ジョアンさんを慕う心は動物でも宿すことができます。
 マゼランペンギンは本来とても警戒心の強い生き物であり、人間になつくことなどありえないのだそうです。しかし、本来ならペンギン同士であるべきそのつながりを人間との間にもったこのペンギンの心は、どれほどのすばらしい愛の介護がジョアンさんによってなされたかの証明でもあります。愛情を注がれると相手と自分との違いを知ってもなお、心を結び合わせることができるようになります。これが愛なのです。
 神様の愛であればなおさらのこと、あなたが今どんな状況であろうと、ふさわしくない者であろうと、神様とあなたとの違いという隔てを取りのけて、あなたをいやし、あなたを看護して、元気になるまでお世話をしてくださいます。私たちも、イエス様の十字架に現された神様の愛がわかってくれば、内にある神のかたちに似せて創られた私たちの魂が愛に目覚めて、「この方こそ永遠に信頼することのできる愛の神様だ」と心を開いて近づくことができることのお手本が、このジョアンさんとペンギンに現されている気がします。
 このペンギンは特別なのかもしれませんが、きよい神様と罪深い私たちが結ばれることもまた特別な出来事であり、奇跡です。
 わがままがいやされ解放される神様の愛の奇跡が、十字架の意味であり、約束のしるしなのです。私たちはもっと神様に対して、どんなに罪のための解放や看病を受けているか、健康な者であるようにと愛を注がれているかを違う観点から見い出していくことが必要ではないかと思います。

「初桜 苦しみ砕く 美しさ」

 冬の暗い雰囲気が、桜のつぼみがふくらんでその幾つかが咲いた時に、花の回りから消えていきます。「春が来た、明るい時が来た、暖かい時がやってくる。」と歌っているようです。私たちにも、暗い苦しみの人生の時期を砕くかのように、神様の愛が現されます。あなたに対する神様の愛は、人生の春をもたらすのです。
 どんなにあなたが暗くても、あなたの心に神様の愛が咲き始めると、その苦しみ、つらい冬は砕かれていき、あなたはいやされ解放されます。
 あなたが努力するのではなく愛の力がそうしてくださるのです。あなたのすべきことは、ただ愛を信じることです。神があなたを愛しておられると信じることによって、愛が自分のものになっていくのです。
 どんなに疑う心があっても、「いや、私を愛して、十字架で私の罪のために死なれたお方が、いのちを捨てるほどに私を愛されたお方が、簡単に私を愛さなくなることはありえない。変わらない愛を私に向けてくださっている。その証として十字架が歴史の中にある。イエス様が人となって私たちを愛してくださった。」と、そのように信じ続ける中に愛が確立されていきます。愛は信じることによって、あなたの心に咲き始めます。

 

 

 

 

 

■2016年3月20日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 聖い愛の方を求めて  up 2016.3.20


主題聖句(マルコ1:35)
さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。

 

 

 

 聖い愛の方を求めるにはどうしたら良いのか…皆さんは既にご存知ですね。神に近づくことは求めることであり、求めることは祈ることであると自然に理解されているかと思います。
 祈りとは自分の願いの項目にのみ集中して祈るのではなく、聞いてくださる人格者なる神と対面し、交われる唯一の方法です。

1.朝の暗いうちから、なぜ祈られたのか(マルコ1:35)
“さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。”
 イエス様の忙しい一日の様子は、その前の箇所に書いてあります。カペナウムで安息日を守られ、メッセージを語られ、癒しの業をなされた後、ペテロの家に滞在されたイエス様は、まず彼の姑の熱病を癒されます。その後多くの人々が押しかけて来て、イエス様は夜遅くまで癒しの業をされ続けられました。そのような状況でお疲れであるはずのイエス様が、なぜ朝早く起きて寂しい所へ行き、祈られたのでしょうか。

A)安息日を人々と朝から夜遅くまで過ごされた(マルコ1:21-34)
 イエス様は神様の働きをしていても、神様と向かい合って交わるという時間が安息日に持てませんでした。人々への奉仕を優先しておられたからです。

B)朝早くまだ暗いうちに起きられた
 人々のその日の生活が始まる前の夜明けの時間は、静かで神様と対面し祈る最高の時です。
 しかし、この教会は国道に面しているのでいつも車の行き交う音が大きく、ざわめきがずっとあります。湯来町の牧師館は本当に静かで自分の耳鳴りが気になるくらいです。こういう静かな所で神様の前に出ると、その静かさの中で、「自分」という一個の存在のみがはっきりと意識され、神様と自分だけという深い交わりの時が持てます。これは本当に最高の時になります。

C)寂しい所に出て行かれた。
 忙しいイエス様の周りは、弟子たちがいつも囲んでいます。その中でイエス様はお一人になれる「特別な」時間と場所を求められました。それは重要な時間です。どんな急用にも邪魔されたくない大切な時間を守るために、イエス様は誰もいない寂しい場所を選ばれました。それだけその時が、イエス様にとって重要な大切なものであったことがわかります。

D)そこで祈っておられた。
 祈ること、神に近づくこと、聖い父なる神との交わりが、いかにイエス様にとって重要でかけがえのないものであったかがわかります。
 私たちはそこまで求めて準備して祈るでしょうか。もっと神に近づいていく深い交わりの祈りの時を、誰にも邪魔されないでゆっくりと持ちたいという願いは、特別な大切な人と二人だけの時を持ちたいという願いと同じです。 
 そういう時間を作って、祈り交わる時間を持ってみてください。神様とのこの特別な時間が、どれほど素晴らしい充足の時であるかがわかるなら、率先して持ちたいと願うようになるはずです。ほかでは決して経験できない、魂の渇きが満たされる安らぎと神様の聖さで包まれる何とも言えない素晴らしい時が経験できます。

2.『進退両難』での祈り(受難週にあたり)
 イエス様の祈りに、この進退極まる苦しみの祈りがあります。ゲッセマネでの祈りは、イエス様ご自身初めて父なる神様の前に注ぎ出された心の苦しみからくる弱さの祈りでした。しかし、その贖いの御業のために、この時もしっかりと父のみこころに立たれます。
 そのイエス様が人の弱さの限界に立たれた祈りを十字架でされています。
 『進退両難』(しんたいりょうなん)の意味
 進むことも退くことも難しい状態。にっちもさっちもいかない様子。

【十字架上でのイエス様の祈り】
A)自分の弱さを受けとめる聖い愛の祈り(マタイ27:46)
“三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。”   
 肉体の苦しみは耐えることがおできになったのでしょう、しかし人々の罪を背負い神に見捨てられるという体験は、天でいつも御父なる神と一体であられたイエス様にとってありえない体験でした。神から離れて孤立している人間の弱さをイエス様は味わわれたのです。
 もう自分はだめだ、ここから逃れたい、解放されたいという人間としての弱さを、イエス様は負われました。肉体を持たない神には体験できない、肉にあるゆえにその罪の中で神と断絶される絶対的な孤独を、イエス様は体験されたのです。私たちの人としての弱さをイエス様はご自身が背負ってくださいました。その苦しみの叫びが「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」です。
 神であられるのに、人として地上に来てくださったゆえに、イエス様は私たちの弱さを熟知されました。それゆえに、神と人との間に立って仲介者として心からのとりなしをすることができる唯一の御方なのです。神の立場であられながら、人の立場をもとられたイエス様の仲介者としての苦しみが、このみことばに表されています。

B)他の人の弱さを受けとめる聖い愛の祈り(ルカ23:34)
“そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。 ”
 心の苦しみを神に吐露されたイエス様が、その後なぜ「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」とご自身の着物をくじ引きしているような見張りの兵士たちのために祈られたのでしょうか。
 私たちでしたら、一旦自分の苦しみと弱さに目がいってしまったら、もう周りの人々のことは考えることもできなくなるでしょう。まして、自分の苦しみを嘲るような人間のためにとりなして祈れるでしょうか。自分はこんなに弱い、人間はこんなに弱いということを体験されたイエス様はご自身の人としての弱さをしっかりと受け入れられました。それゆえ、人々の弱さを憐れむことがおできになったのです。自分しか見られない人はこんな状態を受け入れられないと神様に向かって暴言を吐きます。その暴言さえも、イエス様は憐れみによって受け止めてくださっているのです。

C)全存在を委ねることができる聖い愛の祈り(ルカ23:46)
“イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。 ”
 イエス様は誰かのせいにされるのではなく、ただ御父なる神に全てを委ねられました。
 私たちも人生の最後には全てを神に委ねて、このような祈りができたらと思います。イエス様のように私たちは変えられていくとあります。このような祈りができる姿に私たちも変えられていくという希望を持ちましょう。そのためにはいつも神に祈り、神に近づくことが大切です。
 皆さんはこれらのイエス様の十字架のことばから何を感じられますか?今週は受難週です。イエス様の御心を感じ、イエス様のお気持ちをご自分なりに考えてみてください。
 そして、祈りによって神に近づきしょう。神もあなたに近づいてくださいます。

「受難週 天父のもとに 立ち返ろう」

 十字架に示された神様の深い聖い愛に、今週さらに触れていただきましょう。そのために特別な時間と場所を祈りのために聖別しましょう。

 

 

 

 

 

■2016年3月13日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛は求める者に応えてくださる  up 2016.3.13


主題聖句(ヤコブ4:8a)
神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。

 

 

 

 「神に近づく」ことを罪人である私たちの立場から考えてみるならば、これはすばらしいみことばです。まだ罪を犯す、まだ汚れている私たちが神に近づくならば、なんと神様も私たちに近づいてくださるというのです。
 神様の愛とあわれみの大きさ、深さをここで感じますね。待っているだけでなく、神様から近づいてくださるとは、なんとすばらしいことでしょう。

【内容観察】
「聖い愛を求めなさい。そうすれば、聖い愛である神があなたがたを聖い愛に属する者として受け入れてくださいます。」
 近づいてくださるとは、受け入れてくださるということでもあります。放蕩息子が放蕩三昧の末帰って来た時に、遠くに弟息子の姿を見つけた父親は自ら駆け寄って、浮浪者同然の汚い姿をした息子を抱きしめたのです。
 神様の方から近づいてくださる、それは受け入れている、愛していることの証明です。聖い愛を求める者にとって、何と良い知らせでしょう。
 先々週も語られた(マルコ1章)に出てくるツァラアトの病人と比較しながら、今日の十人のツァラアトのきよめについてお話ししたいと思います。

1.十人のツァラアトのきよめ(ルカ17:12〜18)
“ある村に入ると、十人のツァラアトに冒された人が、イエスに出会った。彼らは遠く離れた所に立って、声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください。」と言った。イエスはこれを見て言われた。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」彼らは行く途中でいやされた。そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。そこでイエスは言われた。「十人きよめられたのではないか。九人はどこにいるのか。神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」”
 この十人のきよめはルカにしか出てきませんが、先々週取り上げた一人のツァラアト患者の記事は3つの福音書に出てきます。どちらがベストなのかはこの数の差でおわかりいただけると思います。

【2/28説教の一人のツァラアトのきよめとの比較】
(マルコ1:40〜42)“さて、ツァラアトに冒された人がイエスのみもとにお願いに来て、ひざまずいて言った。「お心一つで、私をきよくしていただけます。」イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」すると、すぐに、そのツァラアトが消えて、その人はきよくなった。”
 この2つのきよめの違いを、以下の4つの項目にまとめてみました。

A)イエス様との霊的距離感の違い
 遠くても近くても、イエス様は求めに応えてくださった。
 イエス様への信仰が強いから、求めに応えられるというわけではありません。信仰の強弱や立派かどうかには関係なく、イエス様に求めに来たツァラアトの人は皆、応えていただいたのです。これが大事な事です。
 聖い愛であられる神様は、求める者に応えてくださる方です。私たちは自分の信仰が弱いと言って、あきらめてしまうことがありませんか。それは損ですよ。
 神様の良き訪れのことばは、遠くから叫んでも、みもとにひれ伏して頼んでも応えていただけるのです。求めるという行動が、イエス様の愛の行動を引き出します。

B)イエス様に直接触れられたのと触れられなかったのとの違い
 イエス様の応答は、言葉を投げかけてくださることである。
 遠くに離れていた十人に対して、イエス様がわざわざ近くまで駆け寄って手を置いてくださる、ということはありませんでした。対してみもとまで来たツァラアトの人には、御手を伸ばして触ってくださいました。
 私たちはどちらかというと、触ってもらえる方を選びたいと思います。その方が、いやされたという実感を得やすいからです。
 神様との心の関係が近い者には、神様が触れてくださるという報いが与えられることがあります。しかし、求めの内容は触れられることではなく、きよめられることでした。
 また、遠くからイエス様に叫んだ人も、触れられたいからではなく、あわれんで助けてくださることを求めました。
 私は触れられることを否定するものではありませんが、触れられなかったから応えてもらえなかったとか、いやされないとかいう考え方は間違っていることを皆さんに気づいていただきたいのです。
 たとえば証しで「私は神様のご臨在に触れられました。」と語った人がいるとします。「そうですか。触れられたのですか。私は全然触れられなかったです。。」そう感じた人は、触れられた人と比べて神様からの距離が遠いのです。
 礼拝の中でも、神様からの距離が離れている人と近い人では、感じ方が違います。でも大事なのは、求めているかどうかです。それが応えていただけるかどうかの違いになります。
 触れられるかどうかは、神様が応答してくださるという点においては、問題ではありません。そして神様はどちらにも共通のものとして、ことばを与えてくださいました。
 ちなみに十人にかけられたおことばの意味は、罪を象徴するツァラアトにかかった者が、祭司に自分の体を見せて、祭司が病気の治癒を判断する決まりだったからです。もちろん癒されていることを証明してもらうために、イエス様は彼らを行かせられたのですが。
 このように、神様はことばをくださることによって、応えてくださっています。神様との心の距離感がどうであろうが、神様は愛の神なのですから、求めることに応えてくださるのです。

C)ツァラアトがきよめられるまでの時間の違い
 きよめられる時間は違っても、必ずきよめてくださる。
 イエス様のみもとで求めた人がたちどころにいやされたのに対して、遠くから叫んだ人たちは、祭司のところに向かう途中でいやされるという時間の差があります。
 すぐに応えていただけないことで、「自分は生ぬるい信仰しか持ってないから、神様は応えてくださらない。」と不信仰になってしまう人がいますが、神様は応えてくださらないのではありません。
 結果が出るまでの時間の差は出てきますが、求めた以上、結果は同じものになります。自分で「不信仰だから応えてもらえない。」と決めつけないでください。
 神はあわれみ深い方です。時間をかけてきよめの結果やいやしの結果が出るのには、相応の理由、神様のお考えがあるのです。
 神様との心の距離感が遠くの人は、確かに神様への信頼の心が弱いので、心が揺れ動きます。もし十人のツァラアトの患者でなく一人でイエス様に遠くから叫んでいたならば、イエス様のおことばを信じきれず、祭司に見せに行かなかったかもしれません。
 十人いたから、不安を感じながらでも「やってみよう」と祭司のところに向かっていくことができたとも思えます。そして途中で「いやされている!」という事実に気づいたのでした。十人でいろいろと話し合って進むうちに、神様のお心が成就するための彼らの心の取り扱いがあり、神様の愛とあわれみに対する信頼(神は裁きをされる方ではなく救い主である)がみんなの心を変えていったのです。
 あなたが神様との心の距離が遠くても、大声で「神様、私をあわれんでください。」と祈り求めるなら、すぐに返事が来なくても神は必ず私たちを罪からきよめ、愛の神の子として導いてくださるお方です。

D)感謝を捧げることと礼拝を捧げることの違い
 きよめられたうちの九人は感謝したが、サマリヤ人は礼拝を捧げるために、イエスのもとに戻って来た。それは、聖い愛の神との交わりを続ける意味を表している。
 イエス様のみもとに来た人は、最初から礼拝の姿勢がありました。
 お願いに来た時点でひざまずいて、「お心ひとつできよくしていただけます。」と言った彼の姿勢から、イエス様を大工の息子としてではなく神が与えられた救世主であるとあがめる心を持って来ていることがわかります。
 対して十人のツァラアトがいやされた人たちのうち、九人は戻って来ませんでした。私たちは何か恩を受けると、それに対してお礼をします。しかしそのことによって義理を果たしたとして、後に関わりを持たないようにするということがあります。礼儀は果たしたのだから、もう関係ないということです。私たちは無意識に、神様との関係を続けたいと思わず目の前の問題の解決だけを求め、それ以上の関わりを面倒だと思う気持ちがあったりします。「神様は良い神様だから、良い結果を求めて来た。そして結果は得られたからもう用はない。」となるわけです。
 しかし、人間関係でも、良いつながりを持とうとすれば、時には損とわかっている選択をしなければならないこともあります。お互いに迷惑をかけ、恩を受けて、つながっていくのが人間関係です。
 神様は私たちに関心を持っておられ、交流を持ちたいと願ってくださっています。いやしや問題の解決を与えてくださった神様の目的は、私たちと交流を持つことです。
 関係を持ち続けたいという愛の思いで、見えるかたちでのツァラアトのきよめをなされたのです。とすれば、感謝をして終わる人は礼儀に反してはいませんが、神様の願いよりも自分の願いを優先しています。
 礼拝の中には感謝が入っていますが、単純に恩義を果たすという気持ちの場合もあるので、十人のツァラアトの人のうち九人はイエス様のおことばの真意には気づかなかったと言えます。一人だけ、「これはイエス様を通して与えられたいやしだ。」と気づき、神が遣わされた救い主のもとにひれ伏して、この方を通しての神様との正しい関係を保つ、本当の生きた信仰を回復したいと思って帰ってきました。
 神をあがめるとは、義理を果たすためのものではなく交わりなのです。神様との交流であることをぜひ心にとどめ、神様と交わりを持ち続けたいという感謝の心であり続けられるよう、デボーションで教えていただきましょう。

2.『至誠通天』(マタイ7:7)
“「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」”
『至誠通天』(しせいつうてん)の意味
 「至誠天に通ず」と読む。孟子の言葉。
 「至誠」とは、きわめて純粋なまごころのことをいい、誠の心を尽くして行動すればいつかは必ず天に通じ認められるという意味。
【内容観察】
純粋なまごころをもって求め続け、捜し続け、たたき続けるならば、聖い愛の神は、神の愛を信頼する誠意あるあなたの本心を見られて応えてくださいます。
 神様に近づく私たちの心の状態は、このようでありたいですね。神様はきわめて純粋なまごころを私たちのうちにご覧になった時に、それを理解して受け止めて必ず応答してくださいます。
 みもとに来たツァラアトの人は、最初からその純真なまごころを持っていました。しかし十人の方はいろんな肉的な考えや自己中心的な心があったために、すぐにはきよめの結果が出ませんでした。彼らは祭司のもとに行く途中で、純真なまごころを尽くすという神に対する心の姿勢が変えられたからこそ、その心を神は受け止めてきよめを与えられたのです。
 大事なのは、天に通ずる神様のお心に通じるような近づき方です。それには純真なまごころが必要です。あなたの行いや罪深さにはよらず、神様に対する誠意、誠実さが大事なポイントなのです。
 どんな罪人でも誠意をもって神に向かうことは可能です。自分の誠実さを正確に判断することは、私たちにはできませんが、神様は正確に心を見られます。良い信仰姿勢を持っているか否かではなく、誠意、まごころ、純真さをもって神様に向かえば、神様はそこを見てくださいます。反対から言えば、心の底に純真さ、誠意、まごころが見られるまで神様は試されます。
 時間の差は、誠意・誠実さの差です。あきらめない心は、純真なまごころを引き出します。あきらめない心は、自己中心な肉の汚い心を捨て去らせます。
 あきらめる人は、自己中心がまだ残っています。あきらめるという考え方自体が自己中心だからです。神様はあわれみ深い方なのですから、あきらめる事は「私の思い通りにしてくれないから、求める気がなくなった。」と言っていることになります。それは神様のきよい愛には通じません。
 みことばの「〜しなさい」は続けることを指しています。あきらめないで求め、捜し、たたき続けるという意志表示が、原語であるギリシャ語には含まれています。
 神様は私たちを愛してくださっていますから、私たちの願いをかなえたいといつも心を砕いておられます。私たちは自己中心、わがままがあって、つい自分の思い通りに応えてもらえなかったからと言ってあきらめてしまったり、やけになったりします。
 神様はそういうものを取り去り、なくなってしまうまで、すぐには応えてくださらないけれども、でも必ず神は応えてくださるのです。応えたいと待っておられる方なのですから。 
 このお方が自分を愛してくださっていることを信じ続けるかどうかが、私たちのクリスチャン生活と言えるのではないでしょうか。
【デボーション参考ポイント】
 「あきらめ」という不信仰をどのように取り除けばよいでしょう。
 このことについて、日々のデボーションで神様に尋ね求めてまいりましょう。
 余談ですが、昨年ノーベル医学・生理学賞を受賞された大村智という方がおられます。この方は長い間、高校教諭の仕事の傍ら化学の研究を続けてこられました。その誠実な姿勢が天に通じて、このノーベル賞という結果を天が私にもたらしたのだという意味で、「至誠通天」を使われたそうです。
 他にも歴史的に有名な偉人が「至誠通天」を座右の銘として挙げています。吉田松陰と西郷隆盛です。この二人も、宗教ではなく「天」を信じました。まことに生きておられる創造主なる神を信じる二人です。必ず神はおられる。だから、誠意ある生き方をすれば必ず天に通じて、天は応えてくださるという姿勢で、この二人は人生を歩まれたのだそうです。しかし、それを阻む幕府や政府がこの二人を処刑、自刃させてしまいました。けれど、この二人の影響は現代にいたるまで残っています。これほどに「至誠通天」という生き方の影響力は強いのです。天の神はきよい神様です。誠意ある行動に必ず応えてくださる方です。それがイエス・キリストという救い主のかたちをとってこの地上に来られ、その証をしてくださり、福音を伝えてくださいました。これほどまでに私たちが愛されているということは、何とすばらしいことでしょうか。
「福音は 愛の苗床 みな育つ」
 福音という苗床に入れば(福音を信じれば)そこは神様のきよい愛の苗床ですから、そこで育つ人はみんな育っていくという良き訪れを、神様はイエス様を通して私たちに語ってくださっていると思います。
 愛は求める者に必ず応えてくださる、神はそういうお方です。このことをぜひ心に留める一週間としていただきたいと思います。

 

 

 

 

 

■2016年3月6日 日曜礼拝メッセージより(小栗伝道師、横路伝道師)

 聖い愛は福音  up 2016.3.6


主題聖句(第1コリント6:11)
あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。

 

 

 

【小栗伝道師メッセージ】
 聖い愛は罪人の私たちの内にはありませんでした。体の衰えがあったとしても、聖さを求める等内側の資質は、思いが主に向かう限り成長を導いてくださると思います。

 「以前は…」の前の聖句を見ると、正しくないものは神の国を相続できないと断言されています。しかし私たちは、イエス・キリストの罪のための完全な贖いにより聖められ、神のものとして取り上げられ、神の義をいただき、正しい者として認めていただいたのです。

1.聖められることは良い知らせである
 私たちにとっては、天地を造られた創造主なる神様から愛されていることがまず福音(=良い知らせ)です。しかし私たちには、神に愛される条件を満たすことはできません。
 「わたしが聖であるから、あなたがたも聖でなければならない」と言われた「聖」は神との関係を表し、神に属する者となり、この世から分離された者となったことを表すことばです。

◎罪人の姿(エペソ2:3)
“私たちもみな、かつては不従順な子らの中にあって、自分の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。”
 イエス様を信じて、聖霊様が内に住んでくださっているクリスチャンでも、欲の方に目を向けてしまうなら、肉と欲の望むままを行う者になってしまいます。

◎罪人は神との深い断絶がある(イザヤ59:2)
“あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。”
 神がいくら愛してくださっていても、私たちの思いが肉の方に向いて、罪(的外れ)の状態にある限り、神様と大きな断絶があります。 クリスチャンも少々この位はよいだろうと油断をしていると、神の守りの中から飛び出していることもあります。罪人の私たちは、自分から神との関係を回復することはできません。さらに道徳観念が大きく低下し、不道徳がまかり通り、肉の満たしを美徳とするような、神の聖さと全くかけ離れたやみの世界に置かれている私たちは、その影響を大きく受けているとも言えます。

◎神のお心を知る(エペソ2:4〜5)
“しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、ーーあなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。ーー”
 聖であり、同時に愛とあわれみの神は、罪人の私たちを生かすためにキリストをこの地上に送ってくださいました。キリストが私たちの罪の罰の身代わりに十字架にかかって死なれ、葬られ、三日目によみがえられたという福音を信じた私たちは、過去・現在・未来に至るまで地上で犯す罪の赦しを得、救いを得て、神のものとなり、神の義のユニフォームをいただきました。これらはすべて神様が差し出してくださり、私たちはそれに手を出していただいたに過ぎません。受けられるはずのない立場の者が手にするという恵みに他なりません。
◎放蕩息子への父親の愛(ルカ15:18〜19)
“『立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」』”
 都で一旗揚げようと、父親に願って自分の財産の分け前を手にしながらも、放蕩三昧をして財産を湯水のように使い果たし、豚のえさを食べ物にするほど落ちぶれた弟息子が、我に返って口にした言葉です。
※財産を無駄遣いする〜神様から預かった愛、聖さを自分の思いのまま に大切にしない状況(=新共同訳)
 落ちた境遇を嘆いて、神様にも父にも罪を犯した自分は、子どもと呼ばれる資格はありません(=子どもと認められる値うちはありません)と語りました。
(:20)“「…まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。」”
 父は遠く離れている弟息子を、地面に額をつけて顔も上げられなかったかもしれない彼をあわれに思い、いとおしく思い、駆け寄っていったのです。
 そして(:22)のように、一番良い着物(義の衣)を着せ、指輪(子という地位)を与え、靴(当時、裸足は奴隷のしるしであり、靴を履くのは自由人)を履かせ、その心を行動で示しました。
 父なる神も同じです。罪人がいつでも悔い改めて戻ってくるのを待っておられます。神の子としての資格の回復を父なる神様の側から与えておられるのです。「わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。…悔い改めて、生きよ。」(エゼキエル18:32)と。
 父の家から飛び出して、関係が断たれていると思っている弟息子に、「わたしはあなたを待っていたよ。」と失われていく魂への神様の叫びを思わされました。
 そのように愛して、変わらず迎えてくださり、子どもと呼んでくださる父親の心を知った弟息子が、ほとぼりが冷めたらまた放蕩の生活に出かけるとお考えになりますか。
 きよめられることの良い知らせは、愛してくださっている神のお心に気づくこととも言えます。弟息子が自分から関係を断って出て行ったのにもかかわらず、父親は帰って来るのを待ち続けていたのです。
父なる神様も、御子イエス様を送り、義の衣を着た私たちに「必ず帰って来るように。あなたの来るべき方向はこちらだよ。」と天の御国から語り続けてくださっています。これがきよめられることは良い知らせだと言えるのではないでしょうか。地上にイエス・キリストを送られた神様は、私たちが戻って来るのを待っておられます。その神様へのイメージを大切にしてください。ただ恐い、罰せられると思われないでください。
 罪が赦され、義のユニフォームをいただいた私たち。その心をどのように使うかは、私たちに任されています。その私たちに任された歩みの中で、道がずれたり、きよめられてなく、失敗を犯し、神様が願われているようには歩めなかったりしても、義の衣は着せられ続けています。神様はキリストの贖いのみわざによって私たちを赦し続けてくださっているのです。

◎私の願い(詩篇27:4a)
“私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。…”
 私たちの心にある願いは何でしょうか。地上に置かれていても、やがて天の御国に帰るべき者として、主の臨在があり、主のことばが語られる主の家に住むことではないでしょうか。
 神との関係が正しくなると、問題は解決していくと聞いたことがあります。神様との関係がうやむやなまま、自分の思いで問題解決を図っても、状況が開かれないことがあります。神の主権をその問題に認めていくとき、神が軌道修正され、何よりも私たちの心を変えてくださり、主との関係が戻り、きよめられていき、問題の中でも生きる意義を見いだすようにしてくださいます。
 主の臨在のある所、礼拝、集会の集まりにおいて、個人的に主を求める、すなわち、主の声を聞き主の心を求めるとき、主が退けられるはずはありません。
 さらに聖さを求めているその姿こそ、世では見ることのできない心の姿だと思います。

<参考聖句>(ヘブル10:22)
“そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。”
 神は私たちを大事に思い返してくださっています。神との関係を持ち続けるようにしてくださったイエス様の福音=良い知らせから心がずれていかないように、日々歩んでまいりましょう。

【横路伝道師メッセージ】
2.聖い愛は福音(ルカ19:9〜10)
“イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」”
 エリコの町の取税人のかしら、金持ちのザアカイの記事から学びたいと思います。
 エリコはバルサム油などの産業が盛んであると共に、エルサレムの神殿に礼拝に行く多くの人々が通る、交通量の多い所でもあり、税収の多い町でしたから、この町の税務署長ともいうべきザアカイは、多くの税金を取り立て、また、決められた税以上に取り立てて私腹を肥やし、町中の人々から「ローマの犬」「国民の敵」と嫌われていた者でした。
 ザアカイは人々から嫌われ、憎まれながらも、この世はお金がすべてだという人生観をもっていたようです。

*聖い愛を求めていたザアカイ
 今現在も、世の中には真実な愛、聖い愛などない、誠実に生きることがばからしいと思う人や、頼れるのはお金しかないと思っている人がなんと多いことでしょうか。
 しかし、人はみんな、元々神のかたちに創造された「アブラハムの子孫」なのですから、このザアカイの心の奥底にも、神に創られた正しい良心があり、聖い愛を求める心が隠れていたのではないかと思われます。
 イエス様は、このような失われた人を捜して救うために来られたのです。
 ザアカイは、イエス様のことを噂で聞いていました。イエス様がしるしと奇跡をされる方であるだけでなく、貧しい人、弱い人、病気の人、罪人と言われている人々の友となっておられる聖い愛のお方であるという噂を聞いていたのです。
 そのような時、ザアカイのいるエリコの町を、イエス様が通られるというニュースが入ってきました。この時ザアカイは、一目イエス様を見たいと出かけましたが、背が低く群衆にさえぎられてみるのが難しいとわかると、走って先回りし、子どものようにいちじく桑の木によじ登って、イエス様の通られるのを今か今かと待っていたのです。
ここに、走って先回りし、大胆にも木に登るというザアカイの、熱心に求めるあきらめない行動を見ることができます。

*捜し、声をかけてくださる愛
 しかし、イエス様はザアカイにまさる熱心さをもって応えられます。ザアカイがいる木の下まで来られた時、木の上のザアカイを見上げ、「ザアカイよ、降りて来なさい。今夜はあなたの家に泊まることにしてあるから。」と名指しで呼び、急いで木から降りるように、また、夜ザアカイの家に泊まると告げられたのです。ザアカイはひどく驚いたことでしょう。
 イエス様はザアカイのすべてをご存じでした。そして、その夜ザアカイが悔い改めて救われることになっていることも、ご計画しておられたのです。

*喜んで迎え入れる
 その夜のため、ザアカイはそれこそ急いで木から降りて準備に取りかかる必要がありました。友のなかったザアカイですから、招くことも招かれることもなかったことでしょう。「大喜びでイエス様を迎えた」と書いてあります。

*聖い愛にふれて
 その夜、ザアカイのしてきたことを、イエス様は叱責も説教もされなかったかもしれません。しかしザアカイは全く自発的に悔い改めて、「財産の半分を貧しい人に施し、だまし取ったものは四倍にして返します。」とイエス様に誓ったのです。貧しい人、罪人の友である聖い愛のイエス様のお姿に触れているうちに、自分の今までの生き方が自己中心で罪深いものであったことに気づき、イエス様のように聖い愛の生き方をしたいと心から思ったのでした。
 イエス様はその言葉を待っておられたかのように、彼に言われました。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(:10)

*聖い愛の人に変えられる希望
 このザアカイのように金銭を愛する心、自己中心は私たちの内にも見られるものです。私たちも信仰によるアブラハムの子、神によって神のかたちに創られた者ですが、罪の力によって失われた者となっていました。しかし、私たちの心の奥底には神のご性質である聖い愛が宿っているのです。
 イエス様は私たち失われた者を探し、今日も心の扉を叩いておられます。そして名を呼んで、「あなたの家に泊まることにしてあるから。」と言っておられます。
 私たちクリスチャンは、ザアカイのように喜んでイエス様を救い主として心の内にお迎えした者、イエス様の聖い愛に触れられた者です。
「聖い愛」はイエス様ご自身でもあり、救いの福音でもあります。今、私たちのなすべきことは何でしょうか。毎日、主イエス様を心の内にお迎えし、よいお交わりをいただき、失われた人、罪人、弱い人、を捜し出して手を差し伸べ、福音を宣べ伝える者となりたいと思います。なぜなら、私たちもアブラハムの子孫なのですから。

<参考聖句>(第1コリント6:17)
“しかし、主と交われば、一つ霊となるのです。”