■2016年2月28日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 交わりを願う愛  up 2016.2.28


主題聖句(マルコ1:40〜42)
さて、ツァラアトに冒された人がイエスのみもとにお願いに来て、ひざまずいて言った。「お心一つで、私をきよくしていただけます。」イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」すると、すぐに、そのツァラアトが消えて、その人はきよくなった。

 

 

 

 きよめられることと、人々との人間関係にはとても関連性があります。みことばにある「ツァラアト」という病は、昔はらい病(ハンセン氏病)と訳されたりしていました。しかし原語の直訳などをよくよく調べてみると、ハンセン氏病とは全く違う種類の病気であることが判明してきました。現代でこの病気に当てはまるような症状のものがないので、ツァラアトという名前がそのまま使われています。
 さて、聖書では「ツァラアト」は特にきよめと関わりの深いものとして取り扱われています。
 今日はここから、神様が私たちとの交わりを願っておられることをみてまいりたいと思います。

1.ツァラアトが象徴していること(民数記12章)
(:14)“しかし主はモーセに言われた。「彼女の父が、彼女の顔につばきしてさえ、彼女は七日間、恥をかかせられたことになるではないか。彼女を七日間、宿営の外に締め出しておかなければならない。その後に彼女を連れ戻すことができる。」”

 (民数記12章)において、ミリヤムはアロンと一緒にモーセを非難しています。モーセには、神様の召命をいただく前にめとった異邦人の妻がいたのですが、その妻のことで「律法の違反を犯している」と、モーセを糾弾したのです。
 しかし、それは全責任を負っておられ、全てを統治される神様への反逆と同意義の罪でした。それゆえミリヤムは、全身をツァラアトに冒されるという懲らしめを受けました。
 みんなの父であられる神様が決められたことに対して、自分の身をわきまえない苦情を申し立てたことで、神様に恥をかかせたことになりました。ゆえに父が娘につばきするがごとく、七日間ミリヤムは宿営の外で自らの身に恥を負うことになったのです。宿営の外では誰にも関わりを持つことができず、皆の批判や好奇の目にさらされます。
「あなたの父と母を敬え」という律法を破った報いとして、この懲らしめが与えられたのでした。

【内容観察】
 モーセに対する批判は、神の権威と秩序を冒涜することに等しい。
 それは、子が父をないがしろにしたことと同じ。
 懲らしめとして七日間、恥を受けることになる。
 それは、家族から締め出され、人々に恥をさらすことを意味する。

 神様が選び立てられた指導者に対して、「どうしてあの者だけが」と苦情を申し立て自己主張することは、神様の権威をわかっておらず、軽視していることになります。それは親をはずかしめ、おとしめているのです。
 私たちの場合、親や上司など自分より上の立場の人間でも、人である以上間違いを犯し、失敗もします。
 最近は人の当然の権利として、間違った者は上の立場でも尊敬の対象から外され、下の者と立場が逆転してしまうことがありますが、神様が立てられた秩序は正誤で動かされることはありません。
 たとえば警察官が意味もなく信号無視をしたからといって、私たちが彼を罰することはできません。彼を罰するのは彼の上に立てられた権威だけです。
 私たちは問題を指摘することがあるとしても、秩序を守りながらでなければいけません。自分の立場をわきまえない高慢さは、家族から切り離され、他人の目にさらされる恥を受けることにより打ち砕かれます。
 「ツァラアト」は人からも物からも隔離された生活を強いられます。神様の主権や秩序を正しく理解しておかないと、一切の交わりを絶たれた状態に陥ります。
 当時のイスラエルでは、「ツァラアト」にかかった人たちはその町や村を出て、同病者たちだけの集団に入れられ、仕事もできず田畑も持てず、家族からの差し入れで細々と食いつなぐ廃人のような生活を送りました。そんな人のうちの一人が、イエス様のみもとに来て、「お心一つで、私をきよくしていただけます。」と願い出てきたのでした。
 ミリヤムが七日間で宿営に戻ってこられたように、神様はいつまでも懲らしめを続けられる方ではありません。懲らしめの目的が達成されれば、もう一度元に戻されます。
 多くの人々は「ツァラアト」にかかった時点で人生をあきらめ、何の望みも手だてもなく死を待つだけなのに対して、イエス様のもとに来た人は、「この方こそ私を救ってくださる方だ。」と望みを持ってきました。
 誰とも交わりを持てない環境のまま、あきらめて人生を終えるか、それとも心を入れ替えて、もう一度家族や周りの人々と交わりを持てる社会生活に戻りたいという気持ち、すなわちきよめられたいという気持ちを持つか。この意志を定めるのは神様ではなく、その人自身です。
 私たちがきよめを求めるとは、罪のために神様から切り離されて、神と交わりを持てない私たちが(ツァラアトの状態)、愛の神との交わり、神の家族に立ち返るという望みを、イエス・キリストの十字架での贖いという福音を聞いて、自分の本来あるべき生き方として持ち直し、もう一度神の家族として愛の神のもとに回復を求めて行くことです。
 今皆さんは、結果的に神様のもとに帰って来た人々と言えます。
赦される、きよめられるというのは、神様との間に平和を取り戻し、交流を持つことができること。そして、神の家族の交わりの中に入れられることです。
 もし皆さんが夫婦、親子、社会的人間関係で問題があるなら、「ツァラアト」に冒された状態であって、交わりが絶たれています。ですからイエス様のもとに来て、「この汚い自己中心の、わがままな私の心を、あなたによってきよめていただけます。」と、まずい人間関係から一日も早くきよめられたいという思いをもって、イエス様の前に毎週でも集い、交わりが絶たれる人間関係をいやしていただくことを求めましょう。
 自分の周りにたった一人でも平和を保つことのできない人がいたらいやでしょう?私たちはたった一人との不和で、苦々しい思いを持ってしまいます。これは霊的な病気であり、いやされる必要があります。イエス様のもとに来て、「こんな汚れた私です。でもあなたのお心に触れさせてください。あなたによってどうぞ私をきよめて、『あなたの敵を愛しなさい。』と言われたあなたのお心で、愛を私のうちに与えてください。」と、すべての人との平和を追い求めることが、きよめられることを追い求めることです。
 皆さんのうちに苦々しい思いを持たせる人との関係を、いずれ忘れ去っていく人だと放置しておくと、「ツァラアト」はどんどん進行してしまいます。
 皆さん、見ないふりをして「ツァラアト」を進行させないように、自分の心を省みましょう。自分と相手のどちらが正しいかではなく、「ツァラアト」に冒されている自分の心をきよめていただきたいと、そのようにぜひ飢え渇いてほしいと思います。
 神様にきよめられることを、ぜひ求めてください。原因が誰かではなく、あなたの心がきよめられることが大事なのです。平和を保つという、良い健全な人間関係を求めていただきたいと願います。

【デボーション参考ポイント】
 神が立てられた権威と秩序を軽んじ、天の父の威光と尊厳をないがしろにしていないだろうか。

 デボーションを通して、知らないうちに父なる神様の尊厳と秩序を傷つけていないか、探っていただきましょう。
 今は、イエス様の十字架での犠牲という尊い代価によって、私たちは神様からの断絶を受けることを免れています。しかし、その恵みにあぐらをかいて、神様の愛を傷つけていないか、自分を慎重に見定める必要があります。

2.『芝蘭之交』に招かれた(第1コリント1:9)
“神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。”

『芝蘭之交』(しらんのまじわり)の意味
徳のある人と親しく付き合うこと。良い人と付き合えば、知らないうちに感化されて、自分も善人になるということ。
 神様が私たちに影響をお与えになることはあっても、私たちの悪に神様が影響されることはありません。それを信じているからこそ、私たちは神様に祈り、交わりを持ちます。みことばでの交わり、兄弟姉妹との交わりを通しても、イエス様のすばらしさに触れていきます。
 「ツァラアト」の人がきよめられて、再び社会生活に復帰したように、今、私たちもイエス様の御血潮によって愛によってきよめられ、父なる神様を敬う生活をするように歩んでいる途上です。そういう神の家族の交わりに「入らせていただいた」のです。自分の現在の姿から考えれば、とても入れていただけるような者ではないのですが、神様はこんな罪人をすばらしい徳の高い神の子たちの交わりの中へ私たちを導き入れてくださって、私たちを神の子イエス・キリストのような徳の高い者へと創り変え、影響を与えようとして、私たちを招いてくださっています。本当に感謝なことです。ですから、きよめられていくこととは、この交わりの中で、交わりを持ち続けることを意味します。

【内容観察】
(1)真実な方の招き
 真実な方の招きというのは、ちゃんとした信念と覚悟と考えをもってなされます。

(2)神は、罪人である私たちと交わりを持つことを願われている
 私たちの本来のかたちは神に似せて創られた神の子であり、罪人のかたちではありません。私たちはこれを否定しないようにしましょう。罪を犯してしまっても、神のかたちに創られた神の子であることは、絶対に否定してはいけません。これは真実であり、神様が私たちをそのようにお創りになったのですから。私たちは回復の途上にあり、そのためにこの「芝蘭之交」に入れていただいているのです。
 神様は、私たちが罪を犯しても、用済みの者として切り離すことをされませんでした。もう一度交わりが回復されることを願って、救い主イエス・キリストとしてこの地上に来てくださり、私たちの罪の苦しみの身代わりを、十字架で受けてくださったほどに、私たちに対する大きな愛を持ったお方なのです。

(3)徳の高い神の御子の良い影響を受けることができる交わり

(4)入らせていただいている恵み
 この「入らせていただいている」という恵みを忘れてはいけません。私たちはすぐなれなれしくなってしまい、ありがたみを忘れてしまいがちです。
 私たちは、病気になったり困難にぶつかったりすることによって、神様の恵みの中にある自分に気づくことができます。もし、悪いと思われることが続いている方がおられたなら、神の恵みに対して思いを向けていただいたらいかがでしょうか。もしかしたら、神様の恵みを恵みと思っていないかもしれません。横柄な態度をとって、親をはずかしめるような傲慢な心、すなわち霊的「ツァラアト」の状態、神様との交わりが断絶させられているような状態になっていないか、気をつけたいと思います。
 親から愛を受けることを当然の権利として、何の感謝も感じないなら、親子の関係は成り立ちません。親から恵みを受けて私たちは育てられたという感謝の気持ちが、尊敬の心、愛の心となり、いずれは親孝行へとつながっていくのです。損得や善悪の問題ではなく、今受けているものはすべて、親も子どもも仕事も能力も力も、いのちも全部神様が私たちに与えてくださっているという謙虚な考え方。恵みによって生かされているというへりくだった心が、父なる神様の愛を敬うきよい心と言えるのではないでしょうか。

【デボーション参考ポイント】
 神との交わりができるように聖められていることをありがたく思い、良い影響を受けるほどの交わりを深める。

 イエス・キリストを信じたことによって、この世で有利に生きられるわけではありません。私たちはこんなすばらしい愛の方と交わりを持つことができるようになりました。そんなすばらしい環境を与えられたことに感謝します。だから、私たちの人生に何が起ころうとも、このすばらしい方と共に交わりを持っているならば、勇気づけられ励まされ、乗り越えることができます。
 苦しみを乗り越えていく経験が、また私たちの人格を練ります。徳の高い者、キリストの姿へと近づいていくその一歩一歩なのです。そのように捉えていただき、楽する人生より苦労する人生の方がありがたいと、神様の恵みを捉えていただきたいと思います。良いことだけでなく悪いことも恵みです.悪いと思われることがかえって私たちをよくしていくきっかけとなり、私たちを磨く要因となりますから。
 逆境の時に神様との交わりを通して、この逆境の中での愛の交わりが良い影響を与え、逆境とさえ思わないほどの喜びをもって知恵と勇気を与えられ、進んでいくことができる聖められた環境にあることを、新しい一週間もう一度思い起こしながら、そんなにすばらしい状況の中に置かれていると、感謝をもって毎日を過ごしていただきたいと思います。

「春暖炉 囲んではずむ 分かち合い」

 冬の終わりから春先にかけて、寒いような暖かいような、日差しは春めいていても風はまだ冷たい、暖炉から離れるのがちょっと難しい季節を指す季語が、「春暖炉」です。
 暖炉の前で和やかなひとときを過ごす、一家団らんの交わり。家の中で暖かい暖炉を囲みながら、いろんな話を家族で分かち合うのです。

 

 

 

 

 

■2016年2月21日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希伝道師)

 実りは多い  up 2016.2.21


主題聖句(ルカ10:2)
そして、彼らに言われた。「実りは多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。

 

 

 

 はじめに、マレーシアでの宣教旅行中、みなさんのお祈りを心から感謝いたします。旅行中は一度も体調を崩すこともなく、危険からも守られ、祈られているという実感がすごくありました。
 マレーシアに言って強く確信したのは、「宣教は神様が導く、ゆえに誰にでもできる。」ということです。
 私がチームと共に訪れたのは、観光地コタキナバルから内陸に車で6時間移動した、一つの奥地の村でした。その村は、水不足で水が限られた雨水しかなく、電気は通っていましたが、電波も届かない、山々に囲まれた小さな村でした。
 日本の生活とは正反対の環境に最初は戸惑いましたが、村人たちの温かい歓迎とおもてなしによって、心はほぐれ、そして一緒に「賛美主ハレルヤ」を賛美することで、すぐに心が一つになりました。神様が働かれた瞬間でした。
 村での滞在はとても充実していました。物質の豊かさは、福音が広がることに関係がなく、こんな私の些細な経験でも、現地のリーダーを励ますことができるのだということを実体験しました。
 私がマレーシアに滞在中にずっと内側にあったみことばが、ルカ10章2節です。この個所は、イエス様が訪れようとしていた町や村すべてに、弟子たちを二人一組で遣わす際にはじめに語った言葉です。
 ここで注目したい最初のポイントは、「実りは多い」ということです。実りが多いイメージは、金色の畑を想像しますが、私がこの日本に当てはめてみるときに、実が実る可能性のある土壌が広がっているということに気付きました。
 日本のクリスチャン人口は1%と言われています。つまり残りの99%はまだ福音の素晴らしさを知らないということになるのです。
 私は、これまでのクリスチャンとしての歩みを振り返ってみたときに、自分自身の成長や自分が関わる交わりの成長にエネルギーを注いできました。しかし、それはクリスチャン人口の1%の領域にエネルギーを費やしていることになり、残りの99%の領域にはほとんど目を向けていなかったことに気付きました。この日本においては、実りは教会の中にではなく、教会の外に99%も広がっているのです。
 また、次のポイントとして「働き手が少ない」ということに注目してみます。働き手とはどういった人のことを指すのでしょうか。この言葉から連想されるのは、教会の牧師や伝道師、献身者ではないでしょうか。しかし、イエス様は、私たち一人一人が働き手であるのだと教えておられると私は受け取ります。
 では、私たちの働く場所はどこでしょうか。私がこの度マレーシアに行ったように、何日間か時間を取って海外に行くことだけが働きではありません。私たちの日常生活こそが、私たちが福音を伝える場であるのです。
 また、イエス様は、「収穫の主に働き手を送ってくださるよう祈りなさい。」と言われています。職場、学校、近所の集まり、サークル、コミュニティといった私たちが日常で活動している場所において、福音を伝えるための同労者、仲間が与えられることを祈り求めていきましょう。
 
 日本は神様の目から見て実りが多い土壌なのです。そのことに視点を向け、私たちが働き手の一人として歩んでいく一週間としていきましょう。そして、収穫の主に私たち神の家族に加えられる神の家族を祈り求めていきましょう。

 

 

 

 

 

■2016年2月14日 日曜礼拝メッセージより(横路伝道師、小栗伝道師)

 聖い愛を求めて  up 2016.2.14


主題聖句(第1テモテ1:5)
この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目標としています。

 

 

 

【横路伝道師メッセージ】
1.聖い愛を求めて 〜みことばによるきよめ〜
“どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。”(詩篇119:9)
 きよく道を守るということは私たちの願いです。この「若い人」というのは、年が若い人だけではなく、「しもべ・家来・未熟な者」という意味があります。私たちはいつまでも若さをもって神様の前にきよく進みたいですね。そのためにはみことばに従って守ることが必要です。そこで、今日は有名なナアマン将軍から学びたいと思います。

◎ナアマン将軍のきよめ(第2列王記5:1〜14)
 イスラエルの王様の所に、預言者エリシャがいました。この預言者の素晴らしいうわさが広がっていました。その隣のアラムという国に、ナアマンという将軍がいました。このナアマン将軍は立派な軍服を着て、主君に重んじられ、人格的にも尊敬され、多くの勝利をもたらした立派な将軍でした。

*隠れた病い(ツァラアト)
 ところが、ナアマン将軍には隠れた病いを持っていました。それはツァラアトという重い皮膚病で、皆がいやがり、なかなか治らない病気でした。外面の立派さの中に、隠れた悩みを持っていたナアマン将軍は、心の中に悩みや悲しみがあったと思います。私たちも、内に隠れた悲しみや傷や罪など、きよめていただきたい部分がそれぞれあるのではないでしょうか。ナアマン将軍も、きよくなりたい、癒されたいという願いがいつもあったと思います。

*きよめられる希望
 ナアマンの奥さんの召使いに、イスラエルから連れて来られた若い女性がいました。その召使いが「もし、ご主人さまがサマリヤにいる預言者のところに行かれたら、きっと直してくださるでしょうに。」と伝えてきました。ナアマンは希望の知らせを聞いたのです。
 良い知らせに希望を抱くということは素晴らしいことです。私たちもイエス・キリストが救い主であるという良い知らせを聞いて、教会に招かれ信じた者です。
 ナアマン将軍は希望を抱いて、自分の王様にこのことを申し出ました。アラムの王様は、この歴戦の勇士で自分の右腕の将軍であるこのナアマン将軍の申し出を聞き入れ、イスラエルの王様に贈り物と、手紙を用意してくれました。それを受け取ったイスラエルの王様はびっくりしました。このツァラアトを直せというのかと、服を引き裂いて怒りました。しかし、預言者エリシャがこのことを聞いて、王様に「彼を私のところによこしてください。そうすれば彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」と言いました。

*ことばに従う困難
 ナアマン将軍はエリシャのところに行きましたが、エリシャはなんと家から出なかったそうです。ただ伝言だけをしました。「ヨルダン川に行って7たびあなたの身を洗いなさい。そうすればあなたのからだが元どおりになってきよくなります。」それを聞いたナアマンは怒りました。「何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このツァラアトに冒された者を直してくれると思っていたのに。」と言って、帰ろうとしました。
*従者たちの進言
 そこで、賢い彼の家来たちが、彼の怒りを静めてこのように言いました。「わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」
 ナアマンはそれを聞いて心を変え、やってみようとヨルダン川に行きました。
 私たちも、人から言われて素直に「はい」となかなか従えないものです。特に自分の思うような言葉や意見ではなく、気に入らないことを言われたら「はい」と言えない難しさを私たちも持っています。
 ナアマン将軍も、エリシャが出てこないとか、手をかざして祈ってくれないとか、自分の故郷の川の方がよほどきれいなのにとか、色んな自分の考え、プライドが妨げました。しかし、このプライドを砕いてナアマンは川に行ったのです。
 私たちも、色々と忠告をしてくださる方が周りにいることは感謝なことです。それは伴侶であったり、家族であったり、友達であったりします。そして、私たちが従えない時に、聖霊様がとりなしてくださり、導き教えてくださいます。私たちは、ナアマンが従者たちの進言に聞いたように、周りの人たちの忠告、特に聖霊様が忠告してくださることには、心を向けなくてはいけないと思います。

*7度身を洗う
 ナアマン将軍は、川に入るために立派な服を脱いで裸にならなくてはいけませんでした。家来たちの見ている前で、みにくい患部を見せなければなりません。それは恥ずかしいことでした。プライドがじゃまをして、かなり葛藤があったと思います。軍服を着ている時は立派でも、裸になったら弱い自分がいるということです。
 私たちも、外側では立派にしていても、内側にみにくい罪や、きよめられないといけない心があるかもしれません。私たちもナアマン将軍のように、川に軍服を脱いで入るようなつもりで、礼拝に来て、プライドを脱ぎ捨てて、神様の前に裸になって、正直に自分の思いを申し上げることが大切です。
 7度というのは、「徹底的に、完全になるまでに」という意味があります。7度も川に入るにはかなり力がいります。
 礼拝という、神様の臨在のある川に毎週来ることは素晴らしいことですが、なかなか力がいります。それはきよめられるためです。1週間に1回礼拝に来るなら、1年間に52回礼拝することになります。いつもきよめられる機会があるということです。そのためには、裸になることが必要です。

*従順によるきよめ
 ここでナアマン将軍は、完全に自我を砕いて、言葉に従ってそのことをしました。1回目…2回目…3回目…まだきよくなりません。もうやめようかなと思ったと思いますが、7回目に、奇跡が起きました。幼子の肌のようにその肌は完全に新しくなりました。みことばに従う時に、奇跡が起こるのです。
 ナアマン将軍は、川の水の中に癒しの力があるのではないと知っていたと思います。ヨルダン川よりもダマスコの川の方がきれいでした。また、エリシャ自身に癒しの力があるのではありませんでした。エリシャが神様に示された言葉に従った従順の中に、奇跡が起きました。プライドを捨てたところに奇跡が起きたのです。従順によって私たちはきよめられるのです。
 神様のところにいつも来ている人というのは、まるでくん製の食べ物のようだと思います。くん製は煙の中でいぶして、その香りがつきます。私たちも毎週教会に来て、イエス様のかぐわしい香りがついて、イエス様のようにきよめられていくと思います。
 このような話を聞いたことがあります。ある年配の方が、礼拝後に牧師先生を呼び止めてお話しをしました。「先生、私は毎週礼拝に来てお話しを聞いていますが、年をとって頭になかなか入らくて、まるでざるで小川の水を汲もうとしているみたいです。その時は一杯になってもあげたらざーっと水がこぼれて何も残っていないのです。何か無駄なように感じるから、来週から礼拝を休もうと思います。」それを聞いた牧師先生は少し考えて、「それでは、いい方法があります。そのざるを水の中にずっとつけて置いたらどうですか。」と言いました。その方は気がついて、「そうですね。水の中にずっとつけておいたらざるの中がいつも一杯ですね。水からあげたらいけないのですね。それなら毎週教会に来ます」と言われたそうです。 
 私たちも、ナアマン将軍のようにあきらめないで、礼拝ごとにきよめられることを期待して集うことは、なんと素晴らしいことでしょうか。ある時気がつくと、きよめられているということを期待していきたいと思います。
(参考聖句)(ヨハネ17:17)
“真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理で す。”
 ここで真理と言われているのは、イエス様ご自身であり、みことばをあらわしています。イエス様はきよい愛であり、みことばです。礼拝に出て、みことばなるイエス様にふれて、世の中の汚れからきよめられるようにと語られています。

【小栗伝道師メッセージ】
2.迎えに来られる主の前に(ヨハネ14:3)
“わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。”
*主が迎えに来られる
 「迎えに来られる」という言葉は、主が私たちを主のものとして大切な存在として見てくださっている愛の表現です。主は私たちのために場所を備えたら、また来て(再臨)、迎えに来てくださるというのです。ですから、いつ迎えに来られてもよいように準備が必要です。それが聖い愛を求めることであり、心を掃除することです。

・約束された方は真実(参考 ヘブル10:23)
“約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。”
 聖書のみことばは、神様からの約束のことばです。決して私たちを裏切ることのない、約束を反故にされない真実な方が、「迎えに来る」と約束してくださっているのです。地上での失敗や、自分のイメージだけで「迎えに来ていただける者ではない」と自分を否定しないでください。イエス様はすでに十字架で私たちの罪・とがを処分され、帳消しにしてくださっています。私たちはイエス様の十字架に信頼して、迎えを心から信じて待ちたいと思います。「決して遅くなることはない」(ハバクク2:3)と語ってくださっています。

*準備の期間12か月(エステル2:12、15)
“おとめたちは、婦人の規則に従って、十二か月の期間が終わって後、ひとりずつ順番にアハシュエロス王のところに、入って行くことになっていた。これは、準備の期間が、六か月は没薬の油で、次の六か月は香料と婦人の化粧に必要な品々で化粧することで終わることになっていたからである。”
“さて、モルデカイが引き取って、自分の娘とした彼のおじアビハイルの娘エステルが、王のところに入って行く順番が来たとき、彼女は女たちの監督官である王の宦官ヘガイの勧めたもののほかは、何一つ求めなかった。こうしてエステルは、彼女を見るすべての者から好意を受けていた。”
 
 王(神の型)のところに入っていくために、おとめたちには(エステルも含まれる)12か月の準備期間(6か月没薬、6か月香料)がありました。この後、新しい世界(12が表す意味)に移されるためです。

・没薬〜古き人(肉)の死。遺体にかける強い匂いの油。
 主が迎えに来られるにあたり、聖い愛を求めていくにあたり、邪魔するのは自我、肉の自分です。肉は自己満足、自己顕示欲など、自分の欲を動機とした行動をとらせますが、時間がかかっても没薬の期間ですべて取り去られます。
 没薬は「苦しみ」をも意味します。自我の死のために、試練、懲らしめを通って、「苦しみたくない」「砕かれたくない」自我が残っていることを示され、古き人が十字架につけられた私たちを迎えるために、聖い者とするために、準備の期間を与えてくださっています。

・香料〜かぐわしいキリストの香り〜内側から滲み出るもの
 神の愛が動機となった行動は、自己否定が根本にあり、自分は神様に愛された者として、たとえ思わしくない反応をする相手でも、神の願われる愛をもって受けとめる姿勢をもっています。
 王のところへ入っていくおとめたちは、自分を着飾って王様に認めてもらうために希望するものをすべていただくことができたのに対し(エステル2:13)、エステルは宦官ヘガイ(エステル2:15後半・聖霊様の型)の勧めたもの以外を求めませんでした。
 聖霊様が今の私に何を導いておられるのか…。喜んで身につける従順さがエステルにありました(肉の思いが残っていたら、当然聖霊様の導きに反抗します)。エステルが身につけた内面の美しさが、次のみことばでも表されています。

○キリストのかぐわしい香りの具体例(一例)
*心の中の隠れた人柄(第1ペテロ3:4)
“むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人柄を飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。”
 柔和な穏やかな霊(柔和な、しとやかな気だて)という隠れた人柄を身につけるには時間がかかります。どのような場面に出会っても心騒がせることなく受けとめ、受け入れるまでに変えられていきます。
これは神の御前できわめて価値の高いものです。

◎気をつけること(ルカ21:34)
“「あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。」”
 準備がなされていくにあたり、迎えに来られても不在だったり、間に合わなかったりというのは、心の中にゴミがたまった状態ともいえます。
・放蕩、深酒…→「軽率に遊び回り、泥酔し…」
 自分の欲に生きており、とどめられず、お酒にしろゲームにしろパチンコにしろ、神様以外のものに心が囚われて、脱出できない状態となっています。
・この世の思い煩い
 地上に生きている限り、将来のこと、仕事、経済、人生…と心配がないわけはありません。ここではこの煩いに囚われて行き過ぎた心配をして、「明日のことは明日が心配する」「神にゆだねなさい」とのみことばよりも、自分が煩いを握って神に思いが向かなくなってしまっています。いずれも神様から心が離れています。
 このような時に、わなのように不意にその日がくることのないように、警護していなさいと言われています。
 日々の中で、神様から引き離すものが私たちの中にたまってきていないか心を見張ることが大切です。
 私たちを愛して、一緒にいてほしいとイエス様が迎えに来ると約束してくださいました。
 その時が間近な今、心がきよめられることを喜べるくらいに、残された地上での期間、迎えに来られることを待ち望んで、ご一緒に聖い愛を求めて、歩んでまいりましょう。

 

 

 

 

 

■2016年2月7日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 聖い愛は本来面目  up 2016.2.7


主題聖句(第1ヨハネ4:7)
愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。

 

 

 

 『本来面目』(ほんらいのめんもく)の意味
 人が本来もっている、人としての心の本質のこと。
 すべての人がもともともっている自然のままの心性。

 聖い愛を求める心を持つ一年としたいと思います。結果が出なくてもあきらめずに求めていきましょう。
 先週までは、その聖い愛を求めるための心の土壌について語りました。それは、「正しい良心」「きよい心」「偽りのない信仰」の三つが必要だということでした。
 さらに今週は求めていくにあたり、気づいてほしいことを語りたいと思います。
 聖い愛を求めるというのは、実は改めて求めるというのではなく、実は本来人が持っている心の本質なので、「聖い愛に目覚める」というのが正しい表現かもしれません。

1.『神を知っている』について
 なかなか自分は「神を知っています」とは言いにくいものです。どの程度知っているのでしょうか。ただ、知識として知っているだけなのか、いつも神様と深く交わり、よく知っているのか、「知っています」と言ってもその度合いは人それぞれです。自分自身を見つめなおした時に、まだまだ無限の神様をほとんど知ってはいないのではないかと思ってしまいます。

【主題聖句内容観察】
「神の聖い愛に属している方々。私たちは、聖い愛に属しているにふさわしい者としての交わりをもちましょう。聖い愛の源は、愛そのものである創造主の神様だけから出ているのです。その愛とともにあなたがたは神様から生れ出たのですから、聖い愛に惹かれるのは当然のことです。聖い愛の神様に似せて創造されているので、聖い愛に共鳴するのです。」

 「愛する者たち」という呼びかけは、共に神に属する者、神様のチームに入っている者同志、仲間として聖い者であるという観点から出たことばです。
 愛し合うということばは世の中では変に受け取られてしまうことがありますが、私たちの使う「愛し合いましょう」の意味は、「聖い愛に属している者として、それにふさわしい者として交わりを持ちましょう」ということです。
 「愛は神から出ているのです」は、この聖い愛は、愛の源であり創造主である神ご自身から出ているということです。
 愛のまがいものがあります。それは自己中心の欲から出てくるもので、自分の思い通りに動いてくれる者だけを受け入れるという愛です。 そして、中には愛という皮をかぶった欲望の狼がひそんでいます。そして「愛」ということばに誘惑されて利用され、傷つけられてしまうのです。
 真実の愛は神のみが持っておられ、神は宇宙万象を愛を持って造られました。それゆえ、愛の神様に造られた私たちは、愛がわかります。そして愛を知る者として、こうして神の前に出ることができるのです。
「共鳴する」とは、神様に似せて造られたので、私たちは同じ波長である神様の聖い愛に共鳴するのは当たり前とも言えます。
 それは元々、私たちは神様の聖い愛を求めるように造られているからです。私たちはイエス様を通して神様の愛にふれると、その愛を知りたい、近づきたいと応答していきます。私たちの心の内にはこの聖い愛を求めたいという渇きがあるのです。
 私たちはイエス・キリストに愛され、心が変えられていき、その愛に応答していきます。
 礼拝で何度も何度もこの「愛」を語っていますが、皆さんは、本当に飽きずに毎週礼拝に来られるということは、やはり聖い愛を求めておられるからだと思います。
 そして同じことを聞いても、神様の愛の聖さに満たされ、心地よく共鳴しているからです。気に入った映画を何度見ても飽きないのと似ているかもしれません。神様の愛に私たちは共鳴して感じて癒されます。

A)牧者の声を知っている(ヨハネ10:27)
“わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。 ”
 
 この羊とは私たちのことです。どうして私たちはイエス様の声がわかるのでしょうか。
 声はその人の内にある霊を伝えるものです。霊の表現が声となります。イエス様の愛が出てくると、そこに共鳴するものが私たちにあるのです。この愛は聖いか聖くないかで私たちはイエス様の声かどうかを判断すると言ってもいいでしょう。
 もう少し厳密に言えば、聖い愛に目覚めるということです。発信源が神様であれば、共鳴箱として造られた私たちは愛するという愛の共鳴をします。ここにいる兄弟姉妹はみんな神様の声に共鳴する心を持っています。

B)キリストを知る知識のかおり(第2コリント 2:14−15)
“しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。 ”

 神を知っているからこそ、私たちを通して神がそのかおりを放ってくださるので、放つという努力は必要ありません。 例えあなたが病気であったり、何か災害にあったりどのような状況にあったとしても、ともかく神様はあなたを通して、キリストを知る知識のかおりを放っていてくださいます。
 それは、どんな状況でもあなたは神様の愛をもって、対応することができているということです。どのような状況でもキリストを愛しているということです。
 災いの時でも私たちは神様に心を向け、感謝することすらできるのです。むしろ逆境の時の方がこの愛が輝くとも言えるかもしれません。私たちの愛は試されます。こんなに苦しくても神の愛を信じられますかという試みがきます。苦しくても辛くても神様への愛が変わらないということが試されます。まだ神様の愛への理解が不十分な時はなかなか感謝することはできませんし、同じように愛の応答もできないかもしれません。
 しかし、病気の時でも、苦しくても私達は家族を愛します。愚痴るかもしれませんし、怒るかもしれませんが、それは辛いから出てしまうことばでしょう。私たちは弱さがありますから。しかし治ったときまでその恨みを持つことはないはずです。心にある家族への愛は変わらないからです。
 神様への愛の応答も同様です。私たちはどのような状況でも神様の聖い愛に共鳴し応答する者でありたいと願っています。
 苦しい時にこそ神様の愛を証しできるいいチャンスとも言えます。そのように苦しみも喜びに変わると信じて忍耐していきましょう。
苦しみを神様の前に告白することは決して不信仰ではありません。むしろ弱さを告白できるというのは、神様の愛を知っているからとも言えます。
 イエス様はゲッセマネでの祈りで、一度だけご自身の願いを父なる神様の前に出されました。「この盃を過ぎ去らせてください」と祈られたのです。しかし、それは不信仰ではなく、むしろ深い父なる神様との関係ゆえに出た心からのうめきの祈りです。それゆえ、そのことばからも神様の聖い愛のかおりが放たれたのです。
 もともと私たちは神様に共鳴できる心を持って造られているので、「神様を知っている」のです。このことを日々気付かされていきましょう。

2.『本来面目』に気づかない原因
A)的外れの世界観(エペソ2:1−3)
“あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。”
 なぜ神様の愛を知りながら心が弱るのでしょうか。信じる前の霊的な見えない内側の状態がこのみことばにあります。心が弱る原因をこのみことばから4つあげてみます。

(1)自分の罪過と罪との中に留まり続ける 
 死んでいたものとは、留まり続けるという意味で身動きできないということです。死体は自ら移動できません。クリスチャンでも許されているからと、罪をやめず、意志的に罪を犯して平気でい続けていたり、または、再び罪に戻ってしまって、もう悔い改めず神の愛に立ち返ることをやめてしまうなら、罪過と罪の中に死んでしまっている状態になります。

(2)この世の流れに従っている
 神様に従っているように見えても、みことばにこの世の流れと違う面が出てきたら、もう心が痛んでとがめるので、聖書も読まなくなってしまうというような状態はこの世に従う方を選んでいることになります。みことばにとがめを感じる時こそ、自分の心が神に従っているのかこの世に従っているのかを見分ける時となります。

(3)不従順の霊に従っている
 不従順とは、権威に背くということが含まれています。自分の上にある権威に対して心から従順になれず反抗していることです。例え行動では従っていても、心が反抗していたら従順とは言えません。
 特に権威に逆らうという霊の働きがあります。訳もなく権威に逆らいたくなるという感情が湧いてきてコントロールできないのは、その人自身の霊ではなく、不従順の霊の影響がきていると言えます。そのまま、その状態にとどまり仕方がないと放置しているなら、その霊に支配されてしまい、抜けることができなくなってしまいます。

(4)自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い続ける
 クリスチャンでも欲に生きてしまうことはあります。しかし、これは良くないと気づけば大丈夫です。気づかないなら大変です。心の望むままを行い続けていくと本来のあなたの聖い愛の形が失われていき、心のセンサーが鈍くなっていきます。この世にいる限りはこの世の汚れで鈍くなっていくものですから、掃除しないといけません。
 せっかくイエス様の聖い愛によってきよめられた心が、イエス様を知らなかった頃のようになってしまわないように、いつもきれいに洗い掃除すること、つまり悔い改めることが必要です。
 この4つのことを気をつけながら、正しい良心を守っていきましょう。
 もうひとつ気を付けなければならないことがあります。

B)意識が欲を満たすことにある(ヤコブ1:14−15)
“人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。 欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。 ”
 
 大なり小なり欲の気持ちが出てきた時は気をつけましょう。欲が出てきたら誘惑が出てくるというのは原理です。そして誘惑に耐え切れなくなると罪が生まれます。それは欺きであったり、良くない感情が出てきて、判断が正しくできなくなってくるということです。それを続けていくと死を生みます。死とは肉体の死ではなく、神様が与えてくださった聖さに鈍くなり、遂には反応しなくなるということです。このように正しい良心が鈍ってしまい、本来のあなたの神の子としての姿が見えなくなってしまいます。
 それゆえ、こまめに掃除をすれば楽なように、いつもこまめに心をきよくしていくことが大事です。そのためにも、聖書の通読は役に立ちます。みことばはいつも正しい良心に働きかけてくれるので、罪を示してくれます。そのチャンスをもらうためにも聖書を通読してください。みことばに触れることが多いほど、みことばは私たちの心を掃除してくれます。
 欲に気をつけましょう。欲はいつも出てきます。限度をわきまえるのが本当に難しい今の経済社会です。
 しかし、究極に必要な大切なことはただひとつです。それは神を愛することです。永遠の命がそこにかかっています。

【デボーション参考ポイント】
みことばからの本来の自分に気づきましょう。
 皆さんはクリスチャンとして、自分が成長している将来の姿をどのように描くことができるでしょうか。例えば、10年後の自分が描けるでしょうか。
 それは本当に難しいことです。みことばから描くしかありません。聖書では、「キリストの姿に変えられる」とありますが、それは具体的に自分がどうなることでしょうか。
 それがはっきりしていないと、ゴール(方向)を見失っているので、うろうろ迷ってしまうことになります。ゴールがあれば、ひとつの方向に心を向けて、方向をいつも正すことができます。現実の自分を超えて自分の将来を想像するのは難しいものです。現実の自分の悪いところを乗り越え、将来の自分を信じることができないと描けません。
しかし、本来の聖い愛の姿である自分に気づき、将来を信仰によって思い描いてみましょう。
 
「探梅の 一輪のごと 聖き愛」
 
 何度も愛のメッセージを聞いていると無意識に愛が心に芽生えているはずです。そして、敏感に反応するようになっていきます。
 小さな梅の蕾のように心の中にその兆しを見つけていきましょう。

 

 

 

 

 

■2016年1月31日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 聖い愛の土壌3  up 2016.1.31


主題聖句(第1テモテ1:5)
この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目標としています。

 

 

 

【内容観察】
「信仰による神の救いのご計画の実現のための命令は、内側と外側の浄化を気をつける心と、創造主への畏敬の念によって物事を判断する良心と、未来に対する神の約束を真心をもって信じる心という土壌から生まれ育つ聖い愛の実を結ぶことを目標としているのです。」

 私たちクリスチャンが真にあこがれるのは、自分の満足よりも聖さや愛でありたいですね。この世の人々は聖さや愛に対して絶望しているので、的を外して生きています。それが罪を犯す生活です。
 しかし皆さんは、未だ罪を犯すことはあっても、的を射た歩みをしています。ゴールへ向かう途上であって、進む方向は間違っていないのです。ですからどうぞあきらめないでください。あきらめたら方向がずれ、的外れになってしまいます。今直っていない罪の性質や汚い心があったとしても、自分の行くべき道・方向は神の聖い愛の下なんだという気持ちを、主の愛を信じてしっかり保ち続けてください。

 さて、神様の聖い愛が芽を出すために、私たちの心の土壌はみことばに挙げているきよい心・正しい良心・偽りのない信仰を必要としています。この土壌から生まれてくる愛は、神様の聖い愛と同じです。
 聖い愛が育つために、私たちは前述の3つの項目を重要視して生活していくこと。前回、前々回はきよい心と正しい良心についてお話させていただきました。
 悔い改めはゴミを捨てるのと同じです。もしゴミの収集日に出さないでおいたら、ゴミはどんどん溜まり、腐敗して大変な悪臭を放ち、虫が涌いて大変なことになります。罪も放っておくとどんどん溜まって悪臭を放ち、手におえない状態になってしまいます。
 罪というゴミを最終処分してくださるイエス様の十字架にお渡ししたなら、完全に処分してくださいます。
 ここで注意しておきたいのは、ゴミ(罪)が完全に出なくなるわけではない、ということです。私たちは罪のからだを持っているので、罪から完全解放はされないのです。ですから同じ罪を何回も犯しますが、絶望する必要はありません。
 それを取り除き、処分することを繰り返す、掃除をこまめにし続けるのです。私たちは罪の世界にいるのですから、ゴミを出さないことだけではなく、少しの汚れのうちに掃除することを意識してまいりましょう。それがきよい心です。
 ところで、人の美的感覚にはいろいろあります。清潔の感覚も人それぞれです。私たちは自分以外の人の掃除(悔い改め)についてとやかく言わないようにしましょう。
 自分の家(心)の管理に気をつけるのであって、人の家の片づけまで口出しすべきではありません。その人が他の人に迷惑をかけるほどに汚して(罪を犯して)いるのなら、注意が必要ですが。

1.『偽りのない信仰』について

A)虚栄に走らない(ガラテヤ5:26)
“互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。”

「虚栄」=実質の伴わない、外見だけの栄誉。
うわべだけを飾って、自分を実際より良く見せようとする。

 この世はいどみ合ったりそねみ合うのが常態化しています。教会の中でこんなことがあったら傷つきますが、私たち自身もえてしてこの世の常識にむしばまれていることが多い者です。
 私たちはよく虚栄を図ります。この世では目に見えるものがすべてなので、よりよく自分を見せるため、高い評価を受けるために心に刻まれてきたものです。そして罪自体も、自分と他人の比較をさせる性質を持っています。
 自分の正確な立ち位置をごまかす動きは、すべて虚栄です。人に立派と思われたい、ほめられ尊敬されたい、と誰でも思います。それ自体は罪ではありませんが、ほめられる状態ではない自分があるなら、それを正直に認めることが大切です。

B)自分の心を欺かない(ヤコブ1:26)
“自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。”

「欺く」=言葉巧みにうそを言って、相手に本当と思わせる。
言いくるめる。だます。

 自分の心に言い訳を並べて、自分の間違いを正しいと思わせるのが、自分への欺きです。これは洗脳でもあります。虚栄から出て来る、自分の心を納得させるための働きです。
 ひと昔前に、何でも「信仰!積極的信仰!」と唱えて、神様からの思し召しがないのにみことばを勝手に使い、失敗で終わることがクリスチャンの間でも起こりました。積極的信仰はもちろん目指すべきすばらしいものです。しかし、それが今なされるべきなのかどうか、という問題です。信仰とは明日のことを望み見ることで、明日起こることを今日起こそうとするものではありません。
 明日起こることのために、今日何を準備すべきかを考えましょう。みことばには信じれば何でもかなえられるとありますが、その意味を取り違えてはいけません。
 みことばを自分の都合よく並べ立てることはできるでしょう。しかし、それは自分を欺いて「洗脳」しているのです。神様のみこころとは違います。

(ローマ12:2)“…神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知る…”とあるように、どのようなお考えが神様にあるのかを知る、神様のおこころに対する信仰が必要です。
 私たちは神様の前に、神様を意識して、自分が今何を信じて歩むのが良いのか神のみこころを尋ねましょう。そして正しい良心のうちに返ってくる神様の啓示をしっかりと捉えて、それ以上でも以下でもない、言われた通りのことをするように気をつけましょう。

C)信仰に似合った行動(ヤコブ2:18)
“さらに、こう言う人もあるでしょう。「あなたは信仰を持っているが、私は行いを持っています。行いのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行いによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。”

 自分の現在の信仰状態を正確に知ることです。よく知らないと、欺いているかどうかもわかりません。私たちの行いとは、内側の表現です。私たちの心に反して憎しみがあったとしても、親切を施すことができるのが、人間という存在の特別性を示しています。
 自分の意に沿わないことでも、今必要なことであるなら実行できるのが人間であり、道徳心です。動物は思いのままにふるまいます。人間でも思いのままふるまう人は、動物と同じように道徳心が欠けていると言えるかもしれません。
 感情のおもむくままに生きるよりも、正しい良心に沿うか否かが、本当の正直さを判断するための基準であると思います。人は誰でも良心を持っています。舟で言うところの舵取り部分です。
 私たちはどの程度、正しい良心に従って生きているでしょうか。自分がどういう状態なのか、皆さんよくわきまえ知っておいていただきたいと思います。

<例>献金する時、皆さんそれぞれ自分の生活レベルに合わせて献金されていると思います。自分の勝手な思い込みで、借金してまで献金する人はいませんね。もし願いが起こるなら、神様ととことん向き合って祈り続けてください。

 このように神様から特別にチャレンジを受けている方ならともかく、みこころでないのに無理をしたら、大きな失敗としてはねかえってくるでしょう。それは愛から出ていないからです。神様からOKをいただける信仰かどうか、答えをいただいてください。
 また反対に、十分な生活レベルであるのに一円二円を惜しむような人もおられないと思います。自分にとってはした金であるような小銭でささげものを済ませるような人もまた、自分を欺いていると言えます。
 さらに、「小銭しかないからささげものはしない。」と隠す人もまた、虚栄心からそれをしてはいないでしょうか。いつでも周りに合わせて同じ額を献金しないといけないとは決まっていません。あなたはあなたでいいのです。
 正しい良心がとがめないようにささげものをし、奉仕をするのです。しかし、ここでまた注意が必要です。正しい良心がとがめることがわかっているので、言い含めてだまそうとする心の動きがあるからです。
 これは聖霊様によって探られなければなりません。神様と向き合う祈りの時間をもつなら、必ず示されます。そして間違っていることを示されるのがわかっている人ほど、「時間がない」などと言って祈りません。

○創造主であられる聖い愛の神を信じている者として、ふさわしい行動をとること。

 上に挙げた3つの事柄について厳格に言えば、私たちはしょっちゅうやらかしていると断言してもいいと思います。私たちはそういう者であり、そういう信仰なんだという認識。こんな自分を赦し、受け入れるというのが、偽りのない信仰なのです。
 人から不信仰と言われようが何とののしられようが、私たちは実際そう言われるだけの存在なのですから、「おっしゃる通りです。私の信仰はあなたの目から見たら、ないに等しいものです。」と受け止めるのが偽りのない信仰です。
 私たちの原点は、「神様と向き合う正しい良心をもって祈ること」に尽きます。どうぞ神様に耳を傾ける、みことばに目を向けるということを通して、自分の信仰に似合った決断と行動をしてください。
 不完全で罪人の私たちにできる「ふさわしい行動」は、自分のレベルに合わせての一生懸命しかありません。
 そして愛が向上心をもたらす以上、「このままで終わりたくない。少しでもみこころに沿った聖い生活をしてみたい。」という願いが必ず起こってきます。生きている心は必ず、未来への希望を見い出します。
 愛する対象のために、それを愛する人は未来を望み見るでしょう?良い未来を見ようとしますね。愛は必ず、未来に対して希望を持つのです。愛する者のために、否定よりも肯定的に未来を見ようとするのが愛の力です。
 それが湧いてこない場合は、正しい良心よりも、今までの罪の世界の心の方に、自分の意識がいってしまっているということです。すると神様の愛が感じられないという勘違いをしますが、実は意識していないだけなのです。
 探し物をする時、なぜか「あるはずのない場所」を探してしまうことがありますね。それと同じように、意識が別方向を向いていると、愛を見つけることができません。

2.『開心見誠』(かいしんけんせい)(第2コリント8:19)
“そればかりでなく、彼は、この恵みのわざに携わっている私たちに同伴するよう諸教会の任命を受けたのです。私たちがこの働きをしているのは、主ご自身の栄光のため、また、私たちの誠意を示すためにほかなりません。”

『開心見誠』の意味=隠し事をせず、誠意をもって相手と接すること。また、心の底を打ち明けること。

【内容観察】
テトスと共に、すべての教会で称賛されている兄弟を送ります。彼は、この愛の献金の業に携わっている私たちに同伴するよう諸教会の任命を受けた兄弟です。私たちがこの愛の献金の業をしているのは、主からの愛が、献金する者にも援助を受け取る者にもあふれるばかりに注がれていることの現れであり、私たちが神の愛に純真な心で応えていることを証しするためにほかなりません。

 ここでパウロは、利得や名誉のためではなく、純真な愛の行動であることを主張しています。偽りのない信仰は、このように誠意のある信仰でなければなりません。
 この書簡で記されている、援助をしている教会の中でもマケドニアの人々は特に貧しく、むしろ彼ら自身に援助が必要な状態でした。にもかかわらず彼らは「ささげたい」という神様への愛の動機が与えられ、「私を使ってください」と自分の身をささげることさえしたのでした。
 結果、「自分を献金箱に入れる」ような行動には彼らの誠意を見ることができる、と周りの人々も認めました。では今の私たちの力量に合わせた誠意ある表現というのは、どういったものでしょう。
 周りの人々がどう思うかではなく、神様がどう受け入れてくださるかが大事です。たとえば、他の人から見てはした金と思える献金をして、それが誠意あるささげものかどうかをお決めになるのは神様です。
 正しい良心からによる信仰の行動が、偽りのない信仰です。第三者の目で、判断できるようなものではありません。神様だけがその真偽のほどを見極めることがおできになるのです。
 自分の基準で人の愛や信仰を測らないようにしましょう。これは人を裁くことです。たとえ自分の目から見てどう思えるような言動があっても、その人の内側は神様がご存じなのですから、私たちはそれを受け止めればいいのではありませんか。
 裁きは神様にお委ねすればよいのです。私たちは各々、自分の領域で誠意ある信仰の行動と決断をしていくようにしましょう。すなわち、隠し事をせず、誠意をもって接していくことです。
 愛する兄弟姉妹、家族のために、誠意をもって決断し行動し、お互いに助け合うことが実現できるよう、目指してまいりましょう。今はできてないかもしれませんが、神様は期待して待ってくださる方です。
 どこまでできるか、チャレンジしてみてください。少しずつ、少しずつ始めましょう。できなくても、罪人の私たちにはそれが普通なのですから、失望することはありません。
 できたら神の栄光です。自分をほめてあげてください、ただしごう慢にならないよう。また、人間は自分ができることだと他人を責めたくなりますが、その誘惑に負けないでください。

【デボーション参考ポイント】
聖い愛の神様を意識して、自分の信仰に似合った行動ができるために、祈りにおける聖霊様との交わりに励みましょう。

 親切をする時、またささげものをする時、どうぞ神様と向き合って、正しい良心をもって決断・決意をしてください。その祈りの時間が必要です。決断の前に、どうぞ祈りにおける聖霊様との交わりで、正しい良心によるあなたらしい偽りのない信仰の行動を現してほしいと思います。
 「あきらめず 聖愛求め 春近し」

 「春近し」が、一月終わりの季語です。「春遠し」という反対の季語もあるのが興味深いですね。「春が近い」ことで、もうじき聖い愛にたどり着けるであろうという期待感を表してみました。神様の聖い愛を期待して、この寒い冬を耐え忍んでいこうではありませんか。
 皆さんにとって聖い愛は近いですか、遠いですか?これは信仰ですよ。信仰とは期待している事柄を望み見ることなのですから。早く聖い愛を得たい、という気持ちをもって、「春近し」という告白をしていく。そういう神様への愛の期待をもって歩んでまいりましょう。

 

 

 

 

 

■2016年1月24日 日曜礼拝メッセージより(小栗伝道師、横路伝道師)

 聖い愛の土壌2  up 2016.1.24


主題聖句(第1テモテ1:5)
この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目標としています。

 

 

【内容観察】
「信仰による神の救いのご計画の実現のための命令は、内側と外側の浄化を気をつける心と、創造主への畏敬の念によって物事を判断する良心と、未来に対する神の約束を真心をもって信じる心という土壌から生まれ育つ聖い愛の実を結ぶことを目標としているのです。」

 

【小栗伝道師メッセージ】
 世の終わりにあって、黙示録にあるように、聖か汚れか光か闇か、人々はどちらかの方向へ向かって生きています。愛であられ、同時に聖であられる神の前に、「聖い愛を求めて」のテーマのもと、今週は『聖い愛の土壌2』の「きよい心」についてお話しさせていただきます。
(※正しい良心については1/17参照のこと)

1.きよい心を保つために 〜聖化〜悔い改め
(第1コリント6:19)
“あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まわれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。”
 内容観察にある「内側と外側の浄化を気をつける心」が「きよい心」です。
○浄化=きれいにすること、心身の罪・汚れを取り除くこと。
 (ギリシャ語ではハギオス)に基づく神のチームのメンバーとなっ た私たちは、神を敬う心を持っており、それによっていろいろなこ とを判断するようになりました。しかし実際には、神の愛・きよさ に反する世の情報に触れていくとき、私たちの心は汚れていきます。○義認=行いによらず、イエス様を信じる心によって、神の前に正しいと 認められました。
○聖化=神に属する者として、心(知・情・意)をきよい正しい良心の 方向(神のみこころ)へ向けていくこと。

 あなたには、神が望んで住まわれる宮をきれいにする渇きがありますか。「心がきよくありたい」と願う思いの強さによって、心の掃除をする度合いも変わってきます。ザアカイ(ルカ19:1〜10)は人知れず劣等感と人を見返す思いで、富みを築き上げてきました。しかし、あきらめの中にも心の奥底に変わりたいという思いを持っていた彼は、いちじくの木の上に登ってまでイエス様を見ようとしました。そしてイエス様は、まだ変えられてないザアカイの所へ、彼の過去の行い関係なく心の奥底にあるきよさへの思いを知っておられ、泊まられました。「多く愛された者は多く愛する」「これほどまでに愛され、こんな自分が受け入れられ、声をかけられた」ことに驚きました。イエス様が泊まられたあと、主が住んでくださる心の内側をきれいにしたいと願ったのではないでしょうか。
 主を信じて真っ白にされた心に、いつの間にか汚れが出てきた時、拭き取りたいと願うのは「自分のために、神のひとり子イエス・キリストのいのちが身代わりに支払われた」ことが動機となっているからです。
(詩篇51:6)
“ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。”
 真実な神の前に、私たちが自分の汚れを隠さず、ありのままに表すことが大事なことです。同じことの繰り返し、情けなくなるような同じ反応を「もうやめたい」と願うことも、きよさを求める動機づけになるのではないでしょうか。「心の汚れを見て、捨てる、掃除をする」という心を調べる作業がきよめの応答であり、罪を認めることは神に立ち返る一歩です。
 さらに心を調べるという時、みことば、聖霊の導き、兄弟姉妹との徳を高める交わりによって、自分の汚れが示されることがあります。旧約聖書のモーセの幕屋の聖所に入る前に、青銅の洗盤が置かれ、祭司は手足を洗って中に入りました。
 心のきれいな状態へのあこがれを持ち続けることは、本当に大切なことです。心を汚れたままにする状態は、神様をお迎えし、住んでいただくことへの感動が失せ、正しい良心の方にふたをして肉の自己中心へ思いを向けていることを表します。日常に溢れている情報によっては、自分の思い通りにしたい欲が引き出され、おびき寄せられ、罪を犯してしまうとき、「だまされないようにしなさい」(ヤコブ1:16)と聖書にあります。
 神に愛された者という私たちのアイデンティティに立って、心の奥底には主を愛し求め、きよい心を保ちたい願いがあることを確かめ、肉を満たす方へ向かうことのないように、ということではないでしょうか。
 (レビ記11:41〜44)「地をはういかなる群生するものによっても、自分自身を汚してはならない。」とあります。この世に執着し欲に浸って生きる生き方になってきよめは後回し、今が良ければ良し、罪を犯したら悔い改めたらいい、という安易さが出ることのないようにということも表されていると思います。
 心の掃除を繰り返し行う、つまり常に心を調べることが大切です。
(コロサイ3:12)
“それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけなさい。”
 神に選ばれ、聖なる者とされ愛されている私たちにとって、表面的なことではなく、ここに表された心の内側の資質を、自分の心の内側に照らし合わせるバロメーターになります。
 さて、汚れの中には簡単には取れない汚れがあり、ここに神様の介入があります。この汚れは、永遠のいのちに関わる重大な汚れ、放置するなら神様から離れてしまう汚れとも言えます。辻先生は「悩みの炉」とも言われましたが、試み、懲らしめによって、神様からいかに離れているかを気づかせるものです。なぜなら、神様は私たちを愛しておられ、決して手放したいとは願っておられないからです。
 この試みの中で、悩みの中で自分の心が痛んだのと同じく、神様もお心を痛めておられたことを忘れたくはありません。磨く、こするなど、汚れを取る時には痛みを生じます。時間をかけて汚れてしまった赦せない思いも、表面的には赦したと言っても奥底にある思いをご存じの主は、痛みを覚えてもそれらをきよめられていかれます。そして、主のものとして、またやり直すことができます。
 行いだけを見れば、私たちは神の前に信頼に足る者ではありませんが、しかし、ザアカイと同じく私たちの心の奥底の願いを見て、私たちが必ず変わると見てくださり、信頼し続けてくださっています。
 神の子としての輝きを覆ってしまう心の汚れを掃除し(=悔い改め)、きよい心を保ってまいりましょう。
<参考>
(コロサイ3:10〜13)
“新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。”

【横路伝道師メッセージ】
2.きよい心を保つために〜十字架を仰ぎ見る〜
 十字架による救いを受けた私たちは、信じたときから神の子とされています。それゆえ私たちは内側はきよいのですが、外から汚れが入ってきて汚されるので、日々悔い改めによって心の掃除をすることが必要です。
 私たちはすでにきよくされています。ただ、掃除をした後のごみや汚れは、最終的には焼却場で焼いたり、下水処理場に流して処分します。それと同じように、私たちも日々の罪を悔い改めて掃除をしますが、罪の最終処分は自分ではできません。イエス様が十字架の上で命をもって最終処分をしてくださったのです。

1)私は救われる必要があった
“すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず…”(ローマ3:23)
“罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。”(ローマ6:23)
 人間は元々罪のない者として造られたのですが、アダムから罪が人類に入ってきたので、私たちは生まれつきの罪人です。「神からの栄誉を受けることができず」とは、「天国に行くことができない」という意味です。罪の結果は死です。ここで「小さい罪は大丈夫だけど、大きい罪は死に至ります」とは書いてありません。「罪から来る報酬は死です」とは、罪の大きさではなく、どんな罪でもその報酬は死であるということです。今年の目標聖句にも、「聖くなければ、だれも主を見ることはできません。」とありますが、これは少しでも罪があれば天国に入れないという意味です。

2)私たちは十字架で赦され、きよめられた(第1ペテロ2:24)
“そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。”
 イエス様は私たちの全ての罪を十字架で全て取り去ってくださり、永遠の命をくださいました。イエス様の十字架で私たちはきよめられ、天の御国に入ることができる者と変えられたのです。しかし、そのためには大きな犠牲が支払われたのです。

3)私は新しくされた
“だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。”
(第2コリント5:17)
“私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。”
(ガラテヤ2:20a)
 私たちは、十字架についてくださったイエス様と一緒に十字架につけられ、罪は最終処分されました。もう私たちはキリストにあって新しく生きる者として100%変えられて、主のものとなりました。しかし、なお自分の思い通りに生きようとしてしまいます。
 ルカ18章に、金持ちの役人の話があります。ある金持ちの立派な役人がイエス様に「何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか」と質問しました。イエス様は、「神の戒めの通りにしなさい。」と言われ、役人は「そのようなことはみな、小さい時から守っております。」といいます。イエス様は彼に、「あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々にわけてやりなさい。そのうえでわたしについて来なさい。」と言われました。
 これは、私たちが100%神様を信じているというのなら、100%神様から全てをいただいているということを知っているかどうか、ということです。
 私たちの心臓は神様は動かしておられます。命は神様の御手にあります。一生懸命自分で心臓を動かしたり、呼吸しているのではありません。神様が私たちを生かしてくださり、必要を満たしてくださっているのです。100%神様から与えられた命なのです。また、私たちの収入においても、自分の力で一生懸命稼いで得ているように思えますが、実は、神様が全ての環境を整えられて、働くことのできるようにしてくださり、福祉や法律も整えてくださっているのです。私たちが持っているものは全部神様から受けて、生かされているのです。命も持ち物も全部神様のものなのです。
 この金持ちの役人に対しても、100%神様からいただいた物なので、自分のためにそれを使うのではなく、みんなが幸せになるために与えた財産なのですよと教えられたのです。
 私たちの罪の最終処分も、イエス様の十字架の上で全てしてくださいました。しかし、2千年前のことなのでと、ぴんと来ない人がいると思います。
 数年前に、駅のプラットホームから線路に落ちた人を助けて、代わりに死んだ韓国の青年のニュースがありました。この青年はクリスチャンだったと思います。もし自分がこの助けられた人であったら、一生の間その助けた人のことを忘れないと思います。心から感謝して、その青年の悲しむような生き方をしたくない、立派に生きたいと思うのではないでしょうか。これはイエス様と私たちの姿です。私たちはこの線路に落ちたような者で、イエス様が身代わりになって死んでくださって、永遠の命を与えてくださったのです。
 アン・イスクさんという韓国の女性が、「たとえそうでなくても」という本を書いておられます。彼女は戦時中、朝鮮が日本の植民地だった時代、天皇と神社礼拝を拒否したため逮捕され、何年も刑務所で服役して拷問を受けました。彼女は子どもの頃からクリスチャンで、イエス様が私のために十字架にかかってくださり、よみがえってくださったのだから、この方以外に神があってはならないとしっかり思っていましたから、約3年間、拷問にも耐え、信仰をしっかりと保って最後には助かり、後に牧師夫人になりました。
 彼女は栄養失調のため、手の爪が全部はがれ、髪の毛も全部ぬけ落ちました。冬の寒さの時には全身がゆがんで固まってしまうような状況でした。しかし、その中で彼女は百合の花が香るような信仰を保っていたということです。このように証しています。
 『私はこの刑務所の中で、お腹が空いて泣いたことはありません。真冬の極寒に震えながら眠れなくても、寒いと嘆いたことはありません。しかし、私のために神のひとり子が十字架にかかって死んでくださったという事実を考えるたびに泣きました。夏は泣いても大丈夫だったのですが、寒い冬の夜に涙を流すと、目の周りがはれ上がって切れてしまい、うみが出てかさぶただらけになりました。それでも、イエス様の十字架を思ってはまた泣きました。』
彼女の涙は、喜びと感謝の涙だったのです。痛みや苦しみにまさる、すばらしい十字架の赦し、永遠のいのちをいただいたという感動が彼女から離れなかったのです。いつも十字架を見上げて、泣いて感謝をしていたのです。

◎具体的に何をするのか
※ イエス様の願いを生きるために、どのような毎日を過ごせば良いのでしょう。
 私たちが一日のうち、3分でも5分でも主のことを思い出し、十字架を見上げて感謝し、黙想して祈ること、また礼拝に集って賛美と感謝をささげることはできると思います。私たちはそのことをして、心のきよめをすることができます。そして私たちから出るキリストの香りをかいで、主を信じる人々が起こされるようにと神様が願われ、私たちは今日も生かされているのです。
 主を見上げて、きよめられて歩む人生を歩んでいきましょう。

 

 

 

 

 

■2016年1月17日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 聖い愛の土壌1  up 2016.1.17


主題聖句(第1テモテ1:5)
この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目標としています。

 

 

 

 今週の主題は、みことばにあるように、聖い愛が出て来る土壌として「きよい心、正しい良心、偽りのない信仰」が重要であるということで選びました。
 それは植物が成長するために、肥えてよく耕された土地(環境)が必要なのと同じです。
 今回は「正しい良心」について語りますが、来週は「きよい心」について、再来週は「偽りのない信仰」について学ぶ予定です。

【主題聖句内容観察】
 信仰による神の救いのご計画の実現のための命令は、内側と外側の浄 化を気をつける心と、創造主への畏敬の念によって物事を判断する良 心と、未来に対する神の約束を真心をもって信じる心という土壌から 生まれ育つ聖い愛の実を結ぶことを目標としているのです。
 なぜ福音を伝えているのでしょう。それは愛を結ぶためです。救いとは愛の実が結ばれることです。愛の実を結ぶことが私達の生きる目標です。この聖い愛の実を結ぶために人生が与えられています。長生きすることや富を得ることが幸福の基準ではありません。いかに永遠に至る聖い愛の実を結んでいくかが、私達の究極の人生の目的と言えます。いつまでも残るものは愛であると聖書は言っています。この目標のために、聖書のすべてのみことばが私達に与えられていると言っても過言ではないでしょう。

1.『正しい良心』について(第1テモテ1:19)
 “ある人たちは、正しい良心を捨てて、信仰の破船に会いました。”

A)『正しい良心』とは?
 正しい良心がいかに大切であるかを知るために、まず正しい良心とは何かを学びましょう。
 ギリシャ語の良心とは、意識する、自覚するという心の部分を示します。特に善悪を意識する心の部分であり、感情や知性だけでなく、統合的に判断する部分とも言えます。
 また「正しい」とは、聖書では一般道徳の「正しさ」ではなく、万物を治めておられる神がもっておられる基準を言います。人の判断を超えた創造主である神の基準です。
 つまり創造主なる神様、聖書の神様、イエス・キリストを意識して物事を判断していく心の部分が、正しい良心と言えるということです。
 善悪を判断するために、私達は聖書の神様を基準とします。しかしその良心を捨てて信仰の破船に会うというのはどういうことでしょうか。破船とは船が壊れて沈没することです。

B)『正しい良心』の重要性
 人生という大海原を船を使って進んでいますが、その船の進行を決めて進むために舵を取る操舵手の役割をするのがこの『正しい良心』です。
 私達は神を敬い畏れて、人生の方向を決めて進んでいます。すべては神を畏れるというところから判断します。それはまるで星を見て正しい方向を決めて船が進むように、主を畏れる心を目印に、そこからずれていないかどうかを確認して自分の人生の舵取りをしています。 その方向性はキリストを頭としたチームのメンバーとして、神のきよさに変えられるために自分をきよめ、神のチームに貢献するために自分を神に捧げていき、さらに自分を浄化、精錬し不純物を取り除くために舵取りをしていきます。これら3つを「聖別」ということばで表せます。その方向に進むためにこの『正しい良心』は大切なのです。
 神様、イエス様を意識していくと善悪の区別がはっきりしてきます。
きよさを意識することの大切さを体験されたでしょうか。
 自分の心がきよくなることを感じることは本当に楽しいことです。まずは、きよい神様を意識しながら部屋を掃除し片づけてみてください。どんなお客さんが来るかで掃除の仕方が変わりますよね。イエス様が来られるとしたらどこから掃除し整理し始めるでしょうか。まずは来られるお客さんを大切に思う心で掃除するように、神様を大事に思う心で掃除をし始めてください。神様を畏れ敬う心で物事を判断することを、こうして少しずつ身につけていきましょう。

2.『頑廉懦立』(がんれんだりつ)(ヘブル9:14)
“まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。”
 
 この四文字熟語の意味は、悪い状態のものが良いものに触れると良い状態のものに変わっていくという意味です。
 良心はキリストのきよい血によってきよめられるとあります。キリストの血には多くの意味があり、奥義があります。このキリストの血に対する私達の理解力の深さによって、良心のきよめられ方が違ってきます。

『頑廉懦立』の意味
 高潔な師に接すると、頑固で欲張りな者も改心して私欲がなくなり、心が清くなり、だらしない臆病者も勇気を奮い起こすこと。

【内容観察】
 一時的でも動物の血が聖めの働きをするのであれば、罪を宿していない完全な人間となられたキリストが、神の永遠の愛そのもであられる御霊の愛の導きによって、罪人へのさばきをなだめる贖いのいけにえとして神におささげになった愛の血潮は、救いようのない悪に染まっている心でも、愛の神を意識することができる綺麗な心とし、欲望を制御できない生き方から切り離し、神に似せて創造された者として神の聖い愛にふさわしく生きる者としてくださることでしょう。
 
 イエス様の血自体に力があるというよりも、その血を流されたイエス様そのものの存在に力があります。愛なる神を表されたきよい愛なるイエス様ご自身に触れると、どんなに頑固でわがままな者でも、きよくなりたいと願わずにはいられなくなります。
 イエスさまの血は、ご自身の愛のご人格そのものです。その血潮の意味を深く悟る人にはイエス様のご人格に触れていくことになり、その影響を受けて、『頑廉懦立』の状態になります。
 なぜイエス様が血を流されたかを深く考えていく時に、そのご人格に触れていくことができ、自分自身がきよくなりたいと変えられていきます。
 
 私が中学に上がる時、欲しかったサイクリング自転車がありました。その当時流行ったドロップハンドルのスポーツ型の自転車で、自転車通学の他の男子生徒達が使っていたものです。しかし経済的にゆとりがなく買ってもらえなかった私に、母はいずれ必ず買ってあげるからと約束してくれました。
 そして、三年経って、もう自転車通学ではなくなった高校生になった年に、母はその自転車を買ってくれました。ある人はなんて無駄なことをと言うかもしれません。
 しかし、その自転車を買うために母がどれほど苦労していたかを知っている私にとっては、本当に貴重な母の愛の贈り物であって、例え乗る時間がなくても、いつも錆びないようにきれいに磨き上げていました。
 それは、自転車を見る度に、産婆をしていた母が、給料は全部家のために使わなければいけなかったのですが、当時はお礼として個人的に渡されるお金があり、それをコツコツと三年間貯めて、やっと買ってくれた母の苦労と私への愛情を思わされて、宝のように大切なものになっていたからです。
 母は三年かけてでも、息子の願いを叶えてやりたいと思ってくれていたのです。それゆえ、今必要かどうかは関係なく、そこに込められた母の愛がかけがえのないものになったのです。その後、同種の自転車を見る度に、決まって母の愛を思い出します。
 
 同じ意味がイエス様の血潮にもあります。その愛に私達が気づくかどうかが大切です。その血をイエス様がどのような心で流されたのかを考えるほどに、心に神様の愛が染みてきます。
 その血潮を思う度に心に神様の愛を感じていく時に、その愛を大切にしよう、この愛に応えていこうと心に決めていくことができます。そして、自分をきよく保ちたいと願うようになります。
 愛されたことへの感謝であふれ、自分も愛する者へと変えられたいと願う心、これが良心をきよめられるということです。それを忘れていくと良心は汚れていきます。しかし、思い出すとまた、きよめられます。
 
 この世にいる限り、良心は汚れてしまいます。それゆえ、いつもきれいにしていかないときれいになりません。汚れがたまってしまってからきれいにしようとすると大変な労力と時間がかかりますが、きれい好きな人が毎日少しずつ掃除することで、いつもきれいに保てるように、私達も毎日少しずつ心を見張ってきよめていただくようにしましょう。
 そしてきれいにしてもらったら、そのきれいさを保ちたいと願うものです。
 
 日々キリストの十字架の姿、血潮を仰いでその愛を感じ取っていきましょう。意識して良心を働かせていくと、いつも神様の愛を感じとれるようになります。私達は神の形にかたどって造られた存在なのですから。あきらめずにきよめられ続けましょう。必ずきよく変えられていきます。
 きよめられることをやめてしまったら、汚れていくだけです。ですから、ぜひきよめられることを願って、いつも喜んでチャレンジし続けてください。

 

 

 

 

 

■2016年1月10日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 純潔清浄を伴う愛  up 2016.1.10


主題聖句(第1テサロニケ4:7)
神が私たちを召されたのは、汚れを行なわせるためではなく、聖潔を得させるためです。

 

 

 

 『純潔清浄(じゅんけつせいじょう)』
 意味=汚れが全くなく、真っ白な心のこと。

【内容観察】
「私たちを愛してくださっている神が身元に引き寄せてくださったのは、我がままで自分勝手な願いを行わせるためではなく、この世から分離して御自身との関係が深まるように心を精錬するためです。」
  私たちは、汚いよりもきれいな方が好きなものですね。動物もきれい好きな種類がいますが、それは衛生上の問題だったり、相手の体をマッサージするという本能的な行動だったりします。単純にきれい好きなのは、人間だけかもしれません。なぜ人間は衛生的で、きちんと整理整頓されている状態が好きなのでしょう。
 今日は、『聖』を求めるのは人が掃除をすることに似ていて、決して特別なものではないことを学んでまいりたいと思います。

1.『聖』について
 『愛』と『聖』とは一体です。『愛』は神ご自身の本質であり、『聖』もまた神の本質だからです。『愛』と『聖』とは表裏一体であり、切り離すことができません。『聖さ』があるところには必ず『愛』があり、『愛』があるところには必ず『聖さ』も存在します。
 私たちは『愛』であり、かつ『聖』である方に似せて創られた存在です。ですから、『愛』や『聖』に対して興味が向くのは当然ですし、それらに魅力を感じるのです。反対にそれらに魅力を感じない人は、霊的には病の状態であるかもしれません。
A)『聖』とは?
 言葉上としては、「分離」を意味している。
 あるものの性質を表すものではなく、関係を表す語である。
 つまり、神および神と関係あるものとそうでないものをわける語。
 『聖』の倫理性の基準は「善」そのものではなく、創造主への「関 係」いかんに置かれている。よって、『聖』とは、創造主ご自身で あり、その方との関係にある一切のものということができる。
 この『聖さ』という単語は、ギリシャ語でハギオスと言います。この単語は、神様に関係あるかないかを分ける言葉です。この場合、対象物の性質が善か悪かは関係ありません。
 極論を言えば、神様との関係ができている凶悪犯は『聖』になりますし、どんなに道徳的に完璧な人でも神様との関係がないなら『汚れたもの』になります。なぜなら、本当の愛も聖も、神様だけが持っておられるものだからです。私たち罪人が、単独で愛や聖をもつことは不可能なのです。
 こんな私たちが救われて、神の御国に入ることができる方法はただ一つだけ。罪人であっても、神様と良い関係を結ぶことができれば、実際には罪人であっても『聖なるもの』として見てもらえます。
 神様と敵対せず受け入れていただいている間は、私たちは『聖なるもの』ですが、そこから外れてしまうとまた『汚れたもの』になってしまうのは、考えてみれば無理からぬことですね。
 この『聖』と『汚れ』の見方をよく理解していただいて、「正しいか間違いか」ではなく、常に神様との関係で『聖』であるか『汚れている』かを考えるようにしていただきたいと思います。
B)『聖別』とは?
 何かを世俗との関係から区別して、神のものとすることを言う。
 「神聖化すること」「自分を神にささげること」「浄化、精錬すること」
 『聖別する』は、今日のみことばの「聖潔を得させる」と同じ単語が使われています。また、年間目標のみことばにある「きよめられること」も、「聖別されること」と訳すことができます。私たちがこの世から救われる=『聖別』されることです。それは、神のものになるという意味なのです。救われてなお、「私はこの世にも神にも、サタンにも属さない。私は私である。」と言うことはできないのです。その人が神に属さない以上、まだ汚れた者であり続けています。
 「あなたは救われていますか?」と尋ねられた時、「私はまだ結果を出せていない。クリスチャンらしくない。」と、自分が救われていることに対して自信がない、悩んでいる人が多くおられることと思います。しかし、救いは行いの結果によるものではありません。神様はあなたの行いの結果を見て救うか救わないかを決められる方ではないと、あなたも思われるでしょう?その通りです。
 神様は心の動機を大事にされるお方です。行いが伴っていなくても、本当に神様の愛を信じたいと、信じ続けたいという敬虔な心を持った人に対して、神様は滅ぼしたくないと思ってくださるお方なのです。そういう良い心の動機を持った人は、絶対に救われるのです。こういう心の持ち主は、必ずキリストを信じることができるのですから。
 ここが「救われる・救われない」「聖別される・聖別されない」の基準点になります。「なぜあんな人が救われるのか」と私たちが思うことがあったとしても、その人はやっぱりイエス様を信じているのです。
 性格の良し悪しでも、行いの出来不出来でもなく、神の愛を信じているかどうかです。そして、神の愛を本当に信じているかどうかを見極めることができるのは、人間ではありません。神様ご自身だけです。ですからパウロは、「先走って人をさばいてはいけません」と、私たちに忠告してくれています。イエス様を信じている者を私たちが信じてあげる、というのも、一つの大きな愛の表れだと思います。
○神に愛され神を愛するという関係は、聖なるものに所属するという ことであり、所属していたら聖なるものとなっている。
 たとえば、今年の広島カープでは、前田健太投手が米メジャーリーグのドジャースに移籍することが決定しましたね。それがはっきりと世間に発表されたのは、彼がドジャースと選手契約をしたからです。前田投手がドジャースに行くことを決め、ドジャースが彼を受け入れたしるしが、選手契約です。彼はドジャースに行くのですから、カープでやっていたことは通用しなくなります。結果はまだ出てなくても契約すれば、所属するチームの一員として迎え入れられ、そこでのルールや決まり、風習や習慣、考え方に合わせていきます。良い結果が出るか否かにかかわらず、契約期限が切れるまでは良い結果を出すための努力を続け、チームに貢献します。
 同じように私たちも、洗礼という契約をもって、この世に属していたものが、神様に属するものとなりました。特に洗礼を受けた方は、このことをはっきりと自覚していただきたいと思います。契約をしても、思うような結果を出せてない方もおられるでしょう。しかし、給料をもらっていながら思うような結果を出せていない選手で、努力をしていない者はいません。結果はどうあれ、チームのために努力を続けています。
 私たちも聖なるものに所属はしていても、聖なるものとしての結果が出ていないことはあります。それでも聖なるもののチームに属しているのだという自覚をもって、聖なるものとしての結果を出せるよう励むのが、チームの一員としての責任です。
 私たちは洗礼を受けた時に、そういう決心をしたのです。
 私たちはこの世で夢も希望もない人生を送っていましたが、イエス様を知ることを通して永遠の未来が約束されました。もはや死でさえ恐れることはありません。神様のチームに所属できたのはそれほどすばらしいことなのです。
 それなのに、「できない」「私はふさわしくない」そんなことばかりつぶやいていたら、受け入れてくれたチームの人々を悲しませてしまいます。私たちは一生懸命、聖なるチームにふさわしいきよい生き方をする、ということに励んでいるかどうかが大事なのだと思いますよ。この世と違って、神様は結果を重視されません。心が神様とつながっている者を契約破棄されることは絶対にないお方なのです。
 2タラント、5タラントの人が、それぞれの力量にふさわしく働いた時、どちらにも「よくやった。良い忠実なしもべよ。」と言ってくださいました。きよい生活に向かって「努力する」という忠実さをもって、悩み苦しみ戦いながら、失望や絶望や挫折を経てもなお神様の愛を信頼してやり直し、進み続ける人のたましいを神様が見捨てられることなど、どうしてあり得ましょうか。
 「神様は決して私を見捨てない」こと、そういう神様の愛を、皆さんしっかりと心に信じてください。「決して滅びてほしくない」という神様のお気持ちを、すぐあきらめてしまいたくなるあなたの弱さによって切ってしまわないようにしてください。
 もちろん、見捨てられないからといって、「これでいいんだ」と開き直ることはよくないことです。前田投手がもし、メジャーで芳しくない結果を出したとしたら、彼は「日本で活躍できる程度の実力では、こんなものだよ。」と割り切ってしまうと思いますか?そんな態度をとったら、彼を受け入れてくれたチームメイトや首脳陣、またファンの人たちはどう思うでしょう。もし実力が足りないなら、実力を伸ばすために努力するのが、プロの選手のすることではありませんか?
 たとえ結果が出なくても、努力を止めたりはしません。それがチームに所属している者の責任であり、チームへの愛です。
 ですから、私たちも「これ以上努力はできません。良い結果は出ません。」と開きなおるのではなく、それでも「私を信じて聖なるものに属させてくださった神様に少しでもお応えするために」努力をすることが、所属する者としての愛であり、責任です。
 責任と言うと、罰せられるイメージが強いのですが、責任とは愛の一形態です。愛するがゆえに、その責任を負うのです。
“ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。”
 神様の「受け入れてくださる愛」を土台に、私たちは毎日、聖なる者にふさわしい生活を求めていきます。
 このみことばの「きよめ」は神様の究極的な『聖』とは違い、私たちの日々における掃除や洗濯などの「きれいにする」という意味があります。汚れている物の汚れを落としてきれいにする、ということですね。
 聖なるチームに所属していても、努力せずにじっとしていて、自分の好き勝手にしては悩んでいるような人は、尊いことには用いにくいですね。反対に、一生懸命に良い方向に進もうと努力している人には、チャンスをあげたいと思うものです。一生懸命さ自体が、神様の心に応えることなのです。
 きよめられたとは、神のチームに属するものとしてふさわしいということ。神の聖さにふさわしいものとなれば、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなります。
 聖なるものに所属しているという自覚をもって、きよめの生活を日々努力していく心をしっかりと保ち続けて、少しでも一つでも罪から離れるというクリスチャン生活を続けていくこと。それが所属する者としてふさわしい生活であり、主人の役に立つ者となる、チームにとって益となる存在になります。
 ところで、チームには、所属することでチームの損になる存在もいます。でもその人も同じチームですから救われますので、安心してください。
 ただし、損になる存在では、良いわざに間に合うとは限りませんね。チームの控えになるか、レギュラーになるかを決めるのは監督です。そして尊いところに用いられるか、いやしいところに用いられるかは、あなた次第で決まるのです。
 同じ『聖なる』所属チームですが、あなたの心がけ次第で、主人に有益なものになるか、害を及ぼすものになるかが決まります。
 というわけで、害を及ぼすから救われないのではありません。『聖なる』チームに属している限りは、必ず救われます。しかしそこで起こる怠け心・自我・貪欲・自己中心などの罪の性質が、私たちの感情や心や考えを支配して、自分に対して「聖くない」とか「私はこれでいい」などと、神様との心のつながりを切ってしまうようなことにならないように気をつけてください。
 まずは『聖』なるものに属することから始めましょう。行いからではなく、まず信じてチームに属するチームメンバーになりましょう。チームメンバーに所属して、受け入れられるならば、そのチームにふさわしい選手になりましょう。
 『聖』にふさわしくなることを望みましょう。そのチームに喜ばれるものになるように努力し、心がけましょう。
 『純潔清浄』の志を抱いて、毎日少しずつでも練習し、積み上げていくという日々の努力が必要です。
 掃除は毎日少しずつした方が楽ですし、きれいになるのも早いですね。面倒だからと放っておくと、いざ片づける時に大変な手間と時間が必要になります。掃除用品で、「一度でピカピカに」などのうたい文句につられて買ってみても、思うとおりにならないことも度々ありますね。簡単に楽をしてきれいになるのは難しいことです。
 罪も一緒で、放っておくと、時間が経つごとに回復が難しくなっていきます。少々の悔い改めでは元に戻れなくなってしまうのです。
 結局のところ、日頃から使ったあとすぐ汚れを取るのが、一番の近道と言えそうです。この日常で体験している事柄が、そのまま罪の悔い改めに当てはめられます。
 聖なるチームに属している私たちは、救われた当初、あちらこちらに汚れやおこげをつけたままのフライパンのようなものです。救われた時に、一切の罪汚れが剥がれ落ちてくれればいいのに、その簡単な方法を神様が与えてくださらなかったのにはわけがあります。
 私たちの罪深さがどれほど根強くとれにくいものであるか、それを贖われたイエス様はどれほどの苦しみと犠牲を負われたか知るためです。イエス様の犠牲の大きさを理解する程度に応じて、汚れや焦げの落ち方が変わってきます。
 私たちが「自分は何てだめなクリスチャンなんだろう」と悩み苦しむ時、イエス様は十字架の上で、同じ苦しみを味わってくださっています。私が罪に勝利すれば、イエス様も十字架で少し楽になられます。
 イエス様と私たちは愛の関係でつながっており、私たちの苦しみをご自分の苦しみとして、イエス様も味わわれます。神様から私たちが裁かれないために、イエス様はこの苦しみを今も十字架で負い続けておられます。あなたが苦しめば苦しむほど、イエス様も十字架で苦しまれ、あなたが地獄に行かないために罪の破れ口をふさいでくださっています。
 この愛を思い起こしながら、汚れが全くない真っ白な心を目指して、神様の愛に応えていこうという志を失わないでください。結果が出るか出ないかではなく、志を持ち続け、決して捨てないように。それが「聖い愛を求めて」いくための、私たちが持つべき心の姿勢です。この姿勢ができないと、一年間志を保ち続けることができません。
 あきらめてしまわないためのイエス様の十字架。その愛の励ましをぜひ思い出してほしいと思います。
○皆さんの手助けになれば、と一つ提案をさせていただきたいと思います。
 心を改める時に、少しでも心の励ましになるために、身の回りも少し整理整頓をしてみてください。気持ちが変わります。
 私たちは見えるものに影響されやすいものです。ですから、一つの罪を悔い改めたら、あなたの身近な環境もぜひ変化させてください。整理し、きれいにしてみてください。
 たとえば机の上をきれいに拭き、聖書を置いてみると、ちょっと気分が違います。読む姿勢も変わってきます。
 心をきよくしていく生活を続けるために、同時に掃除をし、片づけをし、きれいにするという行動を伴うと、心にとって大きな励ましになります。
 私(辻師)は職人をしていた時、一つの仕事を終えるたびに仕事場をきれいに掃除し、道具をきちんと片づけていました。その時に感じていたことがあります。片づけは一つの仕事の終わりを実感させると同時に、次の仕事に臨むための心の姿勢、準備をさせているということです。片付いた仕事場は、新しい気持ちで次の仕事を始める心にさせるのです。何かが終わるごとに区切りとして片づけをすることは、心を切り替え、次のステップに進むための手助けになるかもしれません。
 皆さんも試しにやってみられたらいかがでしょうか。別に掃除でなくてもけっこうです。きよめを続けるための何かしらの工夫を、皆さんそれぞれ考えてみてください。そういう努力が神様に喜ばれるのです。
   「白銀に きよらかさ増す 鶴の舞」
 鶴はこの時期の季語です。真っ白な雪原に、真っ白な鶴の羽ばたきは、眼にまぶしいほどの輝きと清らかさを感じさせます。
 私たちもこの景色に近づけるよう、少しでも罪から離れる努力を惜しまずに続けていきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

■2016年1月3日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 聖い愛を求めて  up 2016.1.3


主題聖句(ヘブル12:14)
すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。

 

 

 

【主題聖句内容観察】
『争いを避け、すべての人と互いに尊重し合って平和をできる限り求め続けましょう。同時に、互いを尊重し合う愛が聖められていくことも求め続けるようにしましょう。愛が聖められていくほど、愛の神である主を深く知ることになるからです。』

 このみことばが、今年一年の目標です。元旦に平和の大切さについて語りました。平和こそ幸せの基盤です。しかし、私達は平和だ安心だと思っていても、実は他の国の争いの種となることをしてしまっているという現状を食糧問題を通して語りました。私達はそういう矛盾した世界に生きています。残念なことですが、世界のどこかの国を犠牲にして、私達の国の物質的な平和が保たれているということを知りました。そして平和の大切なポイントをいくつか上げましたが、特に重要なポイントは(箴言17:1)の「一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。」という箇所で、食べ物よりも平和の方が大切であるというみことばです。
 近年平和に対する考え方が変わってきていて、お金や食べ物があることの方が平和であるよりも良いかのように言われています。しかし食べ物がなくても平和であったほうが、よほどいいのです。このような悟りを持つためには、心が「聖められる」必要があります。
 平和が大事だと言いながら、どうして争いが多いのでしょう。それは、その求める平和が聖い動機からでないということが原因のひとつです。
 平和を見出すためにも、神様にお会いするためにも、「聖い」ということが大切なポイントであるということを今日は学んでいきます。
 【内容観察】を読んでみましょう。聖書の神を知るほど争いを避けるようになるはずです。イエス・キリストは愛なる方です。ですから私達も聖い愛を求めていきましょう。求める心をいつも忘れないようにしましょう。意識することが大切です。

1.聖い愛を求めるために(詩篇107:9)
“まことに主は渇いたたましいを満ち足らせ、飢えたたましいを良いもので満たされた。”
 イスラエルの歴史を通して主なる神様はこのような方だと確信できます。聖い愛を求めるためには「渇く心」が必要です。
A)ルカ11:9
“わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。”
 この言葉の中に、イエス様のどのような隠れた御心があるのでしょうか。
【内容観察】
『追求して捜し求めても簡単には与えられません。その間心が揺り動かされ試されます。』
 反省して自分の心を点検していきますが、それでも与えられないという壁にぶつかることがあります。みことばを学んで悔い改めてと自分が学んだマニュアルをやりこなしていけば、必ずうまくいくはずと勘違いしてしまうのです。しかし、神様は機械ではありません。人格のある方です。まるで自販機であるかのように求めていては神様は悲しまれます。
 しかも、私達はなかなか忍耐ができず自己中心であり、自分のペースで求めてしまいます。
 そして、これ以上待てないと不信仰になってしまうのです。神様は私達の心を試し、本当に正しい良心で求めているのか、渇いた心で求めているのかを探られます。神様は愛なる方ですから、必ず与えてくださいますが、いつなのかは神様の主権で決められることです。私達はただ渇いた心で待ち望む必要があります。

B)第1テモテ1:5
“この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目標としています。”
【内容観察】
『「愛」は人の永遠の目標です。そして、その愛の頂点は神聖な愛です。神聖な愛は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰がなければなりません。』
 動機が大変重要です。聖い愛を求める動機が大切です。しかし目標がないと何の動機も渇きも出てきません。私達の目的は「愛」であるということに、まず気づいてください。いろいろな生活の目標がありますが、人として永遠に求めるべきものは「愛」です。なぜなら人は、神の形に似せて造られたからです。そして、神は愛そのものなのです。その頂点は神聖な愛です。ですから死後も永遠にこの神聖な愛を求め続けることができます。神様が無限であるように神聖な愛も無限だからです。
 しかし飢え渇きがなかったら、このようなメッセージも意味がありません。ある人は、第1位に経済力を求め、ある人は健康を求めるかもしれません。しかし聖い愛によって、これら経済も健康も正しい方向性をもってうまくコントロールできるようになるのです。いくら問題を起こしてもこの愛に立ち返れば、その問題も解決できるということに気づいてください。この聖い愛の大切さを悟るなら、例えどのような試練にあっても、寝たきりになったとしても決して失望せず、その状況の中でいつもこの愛を追求していくことができます。
 年を取って、もう目標がないと言わないようにしましょう。愛が目標です。
 動機をしっかりと持つために準備をしましょう。興味をもって、ぜひ飢え渇く心を持ってください。

2.『三薫三浴』で神の愛に応える(第1ペテロ1:16)
“それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」と書いてあるからです。”
『三薫三浴』(さんくんさんよく)の意味
「何度もからだに香を塗ってよい香りをつけ、何度もからだを洗い清めること。人を待つときなど相手を大切に思う情を言うことから、相手を大切に思う心を現す語としてつかう。」
【内容観察】
『神があなたがたを聖めようとされるのは、「わたしが聖であるならば、わたしに似せて創造したあなたがたは、当然、聖であるべきだ。」と書いてあるからです。』
【デボーション参考ポイント】
『聖い愛を求める準備ができていますか?』
 私達は神の形に似せて造られたのですから、神の形に立ち返ることが必要です。本当は私達は聖くあることができます。ただ貪欲がそれをはばむのです。
 三薫三浴の意味にあるよう、身を整えて神様の前に出るということは大切です。例えば仕事で汗だくになり、着替えて礼拝に出るべきか、遅刻しないようにするべきかで迷うとします。ある人は時間を優先するべきと考え、ある人は神の前に敬虔な心構えを優先すべきと考え、身だしなみを整えるでしょう。どちらも正しいと言えます(ただ責任によっては時間厳守は必要です)。身だしなみといっても相手を大切に思う心を表すという整え方で、飾り立てるという意味ではありません。この準備するというのは相手を大切に思う心から出るので、マナーとしても当然と言えるでしょう。大切な相手の前に出るのに何の支度もしない人はいないでしょう。
 ですから神様の前に出るのに、心構えをしっかりと持って出るというのは自然なことです。ただ、このみことばは強制ではなく、神の形に私を造ってくださったゆえに、その愛に応えて神の聖さを自分も求めて身につけていきたいと自然に願う自発の心を促しているのです。できるかできないかではなくこういう気持ちを持っていくことが、神様の愛に応える方法です。
 去年を振り返り、今年は同じような失敗をしないように、聖い愛を求める準備をしてください。まずは動機である渇いた心をもつことから始めましょう。このような自分には無理だと思っても、神様は「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と言われているのですから、そのみことばに応えて、動機をもつための準備をしてください。今年はその準備をする一年としていきましょう。

『初空が 教えてくれる きよき愛』
★季語『初空』は、新年の初々しい心で空を見上げることで、
 新鮮な清らかさと、大空の荘厳さをあらわしている。
 人は意識を変えることで、風景さえも違って見えるものです。神様の愛を意識して生活してみましょう。

『元旦礼拝』

2016年1月1日 元旦礼拝にて 辻秀彦牧師メッセージより

 私たち一人一人のいのちは尊いものです。
 日本円の千円が小学校教師の一ヶ月分の給料となるエチオピアに一万円を送れば十人の教師が養われ、さらに何百人もの子どもたちが教育を受けることになります。しかし、何にもならないことのために一万円を使うこともできます。同じようにいのちの使い方によって尊さの価値が変わってきます。今日は、いのちの尊さにふさわしい価値ある一年として生きることができたら…という思いで勧めさせていただきます。
(箴言20:3)
“争いを避けることは人の誉れ、愚か者はみな争いを引き起こす。”
 誉れとは、その人のいのちに対する価値づけであり、尊いいのちが尊く用いられたと評価された表現です。争いを避ける人は決して逃げ腰ではなく、神様は「いのちの価値をもたらすものだ。よくやった。」と言われます。結果的に争いを避けられたのならば、負けても誉れとなります。負けを認めたくないので最後まで戦ってしまうのは愚かな話です。
 平和を愛することは、いのちの尊さへの思いの表れです。むだな傷を受けることのないように、賢くいのちを使っていくことが必要です。
 日々いろいろな争いをしている私たちですが、負ける方が勝つよりも力が必要です。勝利を得た人が我を砕くことはありませんが、負けた方は自我を砕かなければ、負けを受け入れることはできません。自我を砕くとはへりくだること。世の中ではへりくだりは軽んじられ、損をする、負けてしまうといった神のおことばに反する価値観で決めつけています。今年、私たちは人間の本分の価値観として平和のためにいのちを使うことを心がけてまいりましょう。
 戦争はしていなくても、生活向上のため、特に先進国は経済の戦争をしています。一年に数十万人と言われる戦死者数ですが、グローバル経済のもたらした飢餓による死者は1分間に17人、1日に2万4千人強、1年では約900万人です。900万人が食べることができずに亡くなり、予備軍として地球の総人口71億人の内8億7千万人は飢餓状態にあります。
 例えば日本企業の出資でブラジルの膨大な畑で作っている大豆は安く手に入ります。しかし、元々の農家の人々は、大手に畑を買い占められて次々と失業し、貧困に陥っています。私たちの豊かさが貧困を生み出していることをご存じでしょうか。これは経済の戦いがもたらしていることです。900万人の餓死する人々の一因を負っている可能性が高い、とも言えなくはありません。
 さらには、60%輸入に頼っている日本は、1年に5800万t輸入しています。そして食物の廃棄量は1年に1940万tも捨てられています。残飯量は11兆円分、焼却料2兆円、13兆円はその処理に使われています。見えないところで私たちの豊かさが、世界のどこかの小さな幸せを壊している原因を作っていると言えそうです。
 このために貧しい国は、食べ物を奪い合い盗み、内戦につながっているのです。私たちの平和が、実はどこかの争いを生み出しています。
(箴言17:1)
“一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。”
 平和は持ち物によりません。豊かさの中にかえってみにくい争いが多いのではないでしょうか。資本主義は、競争なくして発展しません。無意識に弱肉強食、自然淘汰の考え方が入り込んでおり、矛盾した格差のある社会です。2割の先進国が世界の穀物の半分以上を消費しており、援助金は貧しい国々に行き届かず、資金源のある人々を応援するために用いられているそうです。私たちの今の平和は、本当の平和だろうかと考える必要があります。いのちに価値をもたらす平和を生み出していく人生でありたいと思います。
(マルコ8:36〜38)
“「人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。」”
 この世には、いのちに代わるものはありません。神が私たちに預けてくださった尊いいのちを生かすため、キリストのことばが与えられました。聖書は尊いいのちを価値ある使い方をするように教えている書物です。神のことばは愛に基づいた忠告、すすめ、励まし、諭しです。
 キリストのことばを恥じるとは、汚すという意味です。尊いものを尊くないことに用いる時に汚すと言い、恥じるべきことだということです。キリストのことばを恥じる者、すなわち愛の教えを汚す者、恥じる者、価値がないと思う者は、神から恥を受けます。「その尊いいのちを何という使い方をしたのか。」と。恥は誉れを汚します。神を敬わない日本では、恥を恥と思わせない考え方が多くなりました。
 恥じるとは大事なことです。価値あるものを認めているからです。利己的な考えがはびこっている世界で、恥を恥と思わない心に染まらないようにしていただきたいと思います。平和を求めること、争いを避けることが、私たちのいのちに価値をもたらすことを、神のおことばは教えています。
“「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」”(マタイ5:9)
 「呼ばれる」とは評価されることであり、無神論の世界で「神」の領域は最高の誉れの表現です。ですから、人が「神の子」と呼ばれるのは、人として尊いいのちを最高に用いたことの評価です。私たちのいのちを最高に尊いものとして用いる方法が、平和を作るということです。争いを避ける心構えは、神の子に近づく意味を持っています。勝ち負け、損得でもありません。
 人のいのちへの誉れをいただけるような、あなたのこの一年のいのちの使い方を心がけていただいたらいかがでしょうか。