■2015年12月27日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛の紹介は不立文字  up 2015.12.27


『不立文字』(ふりゅうもんじ)の意味
言葉や文字、経典にとらわれることなく、心でもって悟りを導くこと。文字のような表面的に形作られるものではなく、その更なる深層において感じ取らせること。心から心へと伝えること。
禅宗の教義を表す言葉から。

主題聖句(第1コリント10:31)
こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。

 

 

 

 神様の愛を紹介するのは理屈ではありません。説得するのでもありません。心から心へと伝えるものです。

【主題聖句内容観察】
「他の人の利益を心がける隣人愛のゆえに、あなたがたは、生活のための一つ一つをとおして、神の御栄えの中心である愛を現すようにしなさい。」
『不立文字』(ふりゅうもんじ)の意味
言葉や文字、経典にとらわれることなく、心でもって悟りを開くこと。
文字のような表面的に形作られるものではなく、その更なる深層において感じ取らせること。心から心へと伝えること。禅宗の教義を表す言葉から。
 神様の愛を現すにあたって、私たちは理論ではなく生活すべてをもって証しすることを、この一年お話しさせていただきました。

1.人生を全うするための動機を悟る
 私たちが自分の人生を全うするための動機とは、一体なんでしょうか。皆さん、あなたが生きるための動機は何ですか?
 いのちが輝くためには、その輝きを増し加えるための動機が必要です。一人のいのちは全世界の富よりも価値があるものですが、それを失わせる生き方もあり、さらに輝かせる生き方もあります。
 私たちはいつの間にか、欲望を動機として生き延びようとしてはいないでしょうか。
 現代においては、単に長生きして思い通りのことができることが人生の幸せではない、と多くの人が気づき始めています。生きる動機がすばらしければ、あなたの人生はさらに輝くことができます。

A)(第1ヨハネ4:9)
“神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。”
【内容観察】
神は、ご自身の未来の保証である一人息子のイエス・キリストを贖いの代価としてこの世に遣わされ、その方によって罪の滅びの中にあった私たちを義と認め、いのちを得させてくださいました。ひとり子を代償にするほどの私たちへの愛が示されているのです。
 人には愛が一番大事だとわかっていても、その愛をどのように生きていくのかがわからないのが、私たち人間です。愛に生きるためには愛されなければわからないのです。人には愛を生み出すことができないのです。なぜなら、愛は神から出ているからです。
 人は神の愛を受けるかたちとして創られ、その愛を受けてから、私たちは他の人を愛することができるようになりました。しかし、神様の愛を第一とせず欲望を第一としたとき、創世記にも記されているように、人間同士が欲望のために殺りくを行うという「争いの実」を結んでいくことになってしまいました。
 欲望が止まない限り、争いも絶えることはありません。対して本当の愛は争いを起こすことがありません。争いを起こす愛とは、欲望が羊の皮をかぶっているようなもので、本当の愛は平和を保とうとし続けるのです。
 愛の神である創造主からどれほどの愛が注がれ、愛されているかを日々悟っていく。これは一日では悟れません。二千年前の十字架は、神様が私たちを愛されるがゆえに、ひとり子を犠牲にしてまでも私たちを罪の滅びから救い、もう一度希望ある未来を与えてくださるという救いのチャンスでした。これほどに私たちは愛されているのです。それを実感していく毎日、愛を動機とした人生を全うするという生き方を皆さんが悟られたなら、どんな苦しみもつらいことも、「私は神様に愛されているんだ」と、神様の愛によって耐えることができます。その苦しみの意味がわかってくるのです。愛を動機とすると、すべてのことをプラスに受け取ることができます。
 神様ご自身が、私たちが信じるかどうかもわからないうちから、「信じてくれるだろう」とまずご自身が愛をお示しになりました。あなたは愛されています。人からでなく、愛の源であられる神様から愛されているのです。
B)(ガラテヤ2:20)
“私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。”
【内容観察】
私は罪のさばきを受けるためにキリストとともに十字架につけられて罰せられました。罪の私は死んでしまったのです。今生きているいのちは復活されたイエス様のいのちなのです。ですから、私がこの世に生き続ける理由は、私を愛して苦しんでくださった神の愛そのものである方の愛のためにこの世に生きているのです。
 いかに愛されているかを知ることによって、この世に生きている目的を悟ることができます。人は愛する者のためには、愛を全うしようとがんばることができます。愛は希望をもたらし、信じる力をもたらします。愛には信仰と希望が伴っているのです。
 そして、神と共にあるこの愛は、永遠に存在します。具体的な内容は、皆さんが置かれている状況に応じて、神様に愛されている者として勇気と力を得て、どんなことも受け止めていけるというものです。
 私たちの心は疲れ、不信仰になりますが、そんな時に神様の愛に望みを持ち、神様の愛に信頼して、神様の愛のうちに歩もうと意識を持ち直すと、自分のものではなく不思議な愛の力を再び得て、その苦しみを乗り越えていくことができるのです。
 人間的にでも、愛するものがある人は強いものです。ましてや神様の愛を悟ることができたら、「私を信じる者は、たとえ死んでも生きる」との矛盾するようなみことばさえも悟れる日々を送ることができます。
 このように、皆さんがイエス様を信じたら、イエス様の愛のいのちに満たされて生きることができます。ただし、今までの心も同じように存在しているので、クリスチャンは葛藤することになります。
 しかし私は、神様が愛してくださっている心を信じます。自己中心の考えや思いは私の本心ではありません。私の人格的存在は、神様の愛を信じるという部分に存在しているのです。さらに言うなら、欲望の中には人格が存在しないことを、イエス様に気づかせていただきました。欲望は人格を破壊し、愛は人格を育てます。愛のある人に徳の高い人が多いのはそのためです。

【デボーション参考ポイント】
私たちのいのちは、神様から授かったものですか、それとも、預かったものですか?
 「授かる」は非常に高価で尊いものを、目上の方からあなたの所有とすることを許可されるイメージです。大事に扱うことで、下さった方への尊敬を表し、敬意を保ちます。この場合、下さった方への尊敬が薄れると、負担に感じ邪魔になり始めます。
 対して「預かる」は、引き受けて保管したり、世話を任せられるという意味になります。これには「元に戻す」という条件が必然的についてきます。返す時に、預かった時と比べて大変な状態になっていたら怖いですね。傷つかないように大事に保管します。あるいは、預かったからには、以前よりももっとすばらしい状態にしようと思うかもしれません。管理が良ければ、初めよりももっとすばらしい状態にすることも可能です。返す時には、元の持ち主から非常に感謝されることでしょう。
 自分のいのちを「授かりもの」と考えるか「預かりもの」と考えるかによって、私たちの人生は大きく変わります。もらったと考えると「もらったものは自分のもの」と好き勝手にすることもできますが、預かったものとなるとそうはいきません。
 返さなくてはならない以上、きちんと管理する責任があります。せめて預かった時点の状態に保っておくのが、預かった者の最低ラインですし、むしろ預かった時以上にするのがベストでしょう。
 イエス様のたとえ話にタラントを預かったしもべの話がありますが、彼らに預けられたお金は、そのまま主人からの信頼と取ることができます。彼らはそれを用いることによって、主人の愛に応えることができたわけです。
 主人は彼らにそれを用いさせることを目的にしていたのです。損得ではなく、主人の信頼に応えて、それを自由に使ってほしかったのでした。しかし、1タラントや1ミナのしもべは主人からの信頼を恐れて、隠してしまいました。
 もし私たちが自分のいのちを「預かった」とするならば、何もしないでボーっとしているのはよくないと思います。失敗してもいいから預けられたものを使う、信頼に応えて使っていくという生き方が大事です。
 愛を用いていく中にも苦しみがあり、つらいこともあるでしょう。しかしともかく、任されたものを使い続けるのです。使うために預けてくださった主人の心に応えて使い続けるなら、それが主人に喜ばれるのです。
 人間はしょっちゅう欲が中心になって、損をしたら叱られるとか弁償だとか不信を持ちます。それは自分を守ろうとする自己中心な愛で、神様から愛されているその愛に応えずに、自分を守ろうとするのは「欲がはたらく愛」です。
 叱られるからとか、地獄に行くからとかいう計算で「愛に生きていこう」という動機は自己中心であり、利己的です。
 何はともあれ、御子イエス・キリストの尊いいのちを皆さんに与えて、その愛のいのちを用いてほしいと、神様は願われました。
 愛のいのちは、愛するという方向に用いていくものです。そして、預かったものを、イエス様が再び来られる時にお返しし、その時「よくやった。よい忠実なしもべよ。」とおほめをいただくのです。
 ところで、預かったものを用いたたとえ話には、用いて損をした話がありません。これは、愛はすべてプラスになるという意味なのです。愛のためになら何をしても、すべてが益と変えられるのです。5タラントの愛は5タラントの愛を作り出すのです。
 愛を用いなさい、必ず損をすることはないという意味です。たとえ盗まれても、盗まれたところに「赦す」という心を通してさらに愛が増し加えられるので、平気なのです。愛があるところには苦しみも悲しみもつらさも全部、プラスに変える働きが起こるのです。1ミナずつ10人のしもべに預けたたとえでは、1ミナを5ミナにしたしもべもいました。愛は活用されれば、そんなにも大きく膨らむのです。
 私たちのもっているいのちが「預かった」いのちである、ということをしっかりと受け止めていただいて、あなたの人生を最後までまっとうしてください。そうすれば、命の使い方に大きな変化がやってくるのではないでしょうか。
 もちろん「授かった」と考えることも良いことです。授けてくださった方への尊敬をもって、授けられたものを大切に用いていくというのも、授かるという点においては大事なポイントです。お返しする心で責任を果たしてまいりましょう。
 こういう準備ができてこそ、「不立文字」ができてくるのです。

2.『不立文字』を受ける(ヨナ4:10〜11)
“主は仰せられた。「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。”
『惜しむ=愛しむ』
捨て難く思う。愛着を持つ。いとおしく思う。大事にする。いつくしむ。
 ヨナがこのとうごまを惜しんだいきさつについては、旧約聖書のヨナ書を拝読していただければ幸いです。
 彼がとうごまを惜しんだのは、暑さをしのぐちょうど良い傘が失われたという自分勝手な理由でしたが、神様がニネベの人々を惜しまれたのは、彼らを愛されたからです。
【内容観察】
ヨナのとうごまに対する惜しむ心を通して、罪人が滅びることに対する神のあわれみの心を諭された。
 ここで神様は文字によらず、ヨナの心に直接、罪人が滅ぶことをなぜ惜しまれるのかを示されています。これが「不立文字」です。
 イスラエルの敵である罪深いニネベの町。罪が満ちて、神様はこのニネベを裁こうと決断されたにもかかわらず、裁きの前に今一度チャンスを与えて、ヨナを遣わして悔い改めのメッセージを与えられました。
 ヨナ自身は、イスラエルの敵ニネベが悔い改めることを望みませんでした。しかし神様に悟らされたヨナは最後にはニネベに行き、彼らの悔い改めを望まぬまま、説教をして回りました。
 案の定、ニネベの人々は悔い改め、ヨナが懸念していた通り、神様は裁きを思い直されました。イスラエル人としてはがっかりです。
 しかしヨナの未成熟な心を成熟へと導くために、神様は一本のとうごまを彼のところに生えさせ、暑い日中の日よけとして与えてくださいました。
 一日で生えたとうごまは次の日に枯れました。このとうごまは神様からの恵みです。恵みは、恵みを施す側の権限に任されています。本来、いただく側には口を挟む権利はありません。
 しかしヨナは、「なぜ一日しか生やしてくれなかったのか」と文句を言いました。恵みを恵みとして受け止めず、自分の当然の権利と思っていたのです。
 たった一日生えていたとうごまにそれほど執着するのなら、あなたにとっては敵であるニネベの人々であっても、神様にとっては大事な役立つ人間であり、家畜たちだと神様は語られました。それを罪のために滅ぼさなければならないとは、本当はしたくないことなんだと。ヨナを遣わされた神様が、人のいのちをどれほど大事に思ってくださっているかがおわかりでしょうか。
 神様は生かすことも殺すこともできる方です。未信者の方からすると、人のいのちを尊んでないように聞こえるかもしれませんが、神様は本来裁きが決定している罪人に対してさえ、もう一度最後のチャンスを与えてくださるような方なのです。
 人のいのちを愛しんでくださっているからこそです。「悔い改めをここまで待ち望んでくださっている神様なのですよ。」と私たちは言うことができます。
 ヨナはこのとうごまを通して、イスラエル人ではなくニネベの異邦人でもなく、神の前に立つ一人の人間として自分が何者であるかを悟ったのでした。人種的にイスラエル人を大事にするのではなく、イスラエル人もニネベの人も同じ神の前に罪人であることに気づいたのです。これは様々な出来事を通して、心から心へと、神様がヨナにお伝えになった「不立文字」でした。
 神様は私たちに、人生のあらゆる出来事を通して、神様の御心を、愛を伝えようとしておられます。
 私個人の見解ですが、私自身は神様の絶大なる愛を信頼しておりますので、たとえ事故で片足を失っても、神の愛は私に変わりなく注がれていることを信じます。たとえ自分の愛する者が先に天に召されたとしても、神の愛の観点から見るがゆえに、私はそれを受けとめることができます。どんなに自分の心が痛んだとしても、「神は私たちを愛しておられるからこそ、このことを許された」と信じています。これが神の愛に対する、私の信頼です。
 私の愛する方が何をされるか。それらはすべて「私を愛してくださっているから」そういう出来事が起こることを、そのまま許されたのです。ある時はいやしや奇蹟があります。しかし、そればかりではありません。「神様は本当におられるのか」と問いたくなるようなことも起こります。旧約聖書のヨブ記などはよい参考になると思います。しかし何が起こったとしても、神様の愛は変わりません。なぜなら、私たちの人生はこの世で終わりではないからです。
 私たちの人生は、この体を卒業した後にもあるのです。だから、この地上での損得だけで物事を測ってはいけないのです。皆さん、死後の未来があるのですよ。それが確実であると証ししてくださったのが、イエス様の歴史的存在です。信じられる感情の有無ではなく、信ずるに足る歴史的事実があるのです。ですから私は死後の世界を信じていますし、死後の世界において、神様はこの世で報われなかった分を必ず報いてくださるという約束も信じています。この世で何があっても安心していられます。皆さんもこの世では苦労してください。そうすれば神の国において清算を受けられます。
 このように、神様の愛を信じて歩む時に、どんな出来事に対しても愛ゆえに受けとめて前向きに考えることができる、というのが私たちクリスチャンの強みです。それは永遠という未来への望みのゆえです。
 私たちは月毎の給料をおとなしく信じて待っていますが、イエス様の御国を待つのも同じようなことです。それは歴史に刻まれた十字架によって、確かなものと証明されています。
 神様の「惜しみ、あわれむ心」を信じてください。あなたは惜しまれています。神様から惜しまれて、尊重されて、大事に思われているのです。今も罪を犯していようとも、あのニネベの人々をさえ惜しむと言われた神様ですから。
 この一年間どんなに失敗し、どんなにモットーのみことばから離れていたとしても、神様のあなたに対する愛は弱ったりしていません。今も同じように愛を注いでくださっています。あなたを「愛しむ」心をもって。
 「来年、新しい年を期待しているよ。過ぎた時はもう思わないよ。」と言ってくださいます。神様は過去の方ではなく、現在から未来へと続く永遠の神様です。

○神様の惜しむ心は、至らない者にほど大きく注がれている
 成功した人にはもちろんのことですが、失敗した、うまくいかなかったと思っている人に対しては、さらに大きく神様の愛が注がれていることに気づいていただきたいと思います。そういう人にはニネベの人々を惜しまれたのと同じ愛が注がれています。
 他の誰でもない、あなたを、惜しんでおられるのです。愛しまれる存在としてあなたを強く思っておられるということにぜひ目を留めて、新しい一年に備えていただきたいと思います。そして様々な出来事を通して、心から心へ伝えたいものを、次の一年でしっかり感じ取ることができるように備えていきましょう。

『薄き愛 後悔しても 年歩む』

あんまり愛に生きることができなかった人のことを、薄き愛と表現してみました。悔やんでも時は戻りません。新しい年がやってきます。

さあそこで、「預かったもの」なのか「授かったもの」なのか、ですが、私は「預かったもの」として、もうこの一年は取り戻せないのだから、時の流れに従って、明日を見て生きて行こうと思うのです。

神様が与えてくださった時の流れは、未来へと続いています。私たちも後ろのものを忘れ、前に向かって歩む心をしっかりと整えて生きていこうではありませんか。

 

 

 

 

■2015年12月20日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 クリスマス記念礼拝  up 2015.12.20


試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。
(ヤコブ1:12)

 

 

 

 ある大学教授が、年金の行く末の厳しさを予想するデータを発表されていたそうです。20年後の老後の保障は危ぶまれ、近い将来、生活に対する不安な状況がやってくることが確実視されている世界に私たちは生きています。「このような状態になったのは神様のせいだ。神様は助けてくれない。いや神はいないのだ。」という人々もおられるようです。
 「地球が静止する日」という2008年に上映された映画は、高度な文明を持った宇宙人が数十年前から人類に入り込み、「人間は地球を生かせるのか、滅ぼすのか」と調査し、結局人間によって動物や美しい自然がつぶされていく様子を見て、地球が破壊されてしまわないために、文明文化を全部破壊してしまうという最後の審判のような内容でした。制作者のこの世の中は全部リセットしなければよくならないのでは、という考え方がこの映画の中でうかがえます。
 表向きは好きなようにしていても、地球上の今の状態では将来はないと皆薄々感じているのではないでしょうか。紛争、経済…、世界はもう一度大きな変革の時がくると。ですから、私たちは将来に対して無関心であってはいけないと思います。
 さらに「死」については、哲学・思想を超えた宗教の世界であり、今日宗教がらみの事件が多発し、「自分を見失わせる」という印象から、宗教への無関心が語られています。しかし、人は死んだらどうなるのか、死ぬまでどのように生きたらいいのか、と考えておられることも事実ではないでしょうか。
 聖書に、「人は、それぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」(ヤコブ1:14〜15)と書かれています。
 欲に引かれ、自分の未来を壊してしまうというこの世における原理を語っています。欲が問題です。
 「欲がなくならない限り、戦争はなくならない。」と、ある映画で語られていました。欲により生み出された発展が、自分たちの未来を壊していることにも気づいていかなければなりません。
 欲をコントロールできたら、私たちはどれほど互いに平和に暮らすことができるでしょうか。
 昨日でしたか、一億八千万円を横領した事件の報道がありました。銀行に預けていた120人位の方々のお金を10年間に渡って引き出していたそうです。
 この横領事件と私たちの罪がよく似ています。聖書で罪は的外れの意味があり、的を外した人生を、罪の人生と言います。私たち人類は、自分の所有のものでないものを自分のために好きなように使うという罪を犯しています。
 神が私たちに愛のきよいいのちを与えてくださったにも関わらず、人は欲に引かれて、罪・的外れの判断をし、滅んでいく道を選んでいます。神を敬わなくなったためです。このいのちは神様が与えてくださったという考え方ができないのです。進化してきて、とがめられる必要はない、弱肉強食、自然淘汰…強い者が生き残るという考え方がこの世界の根本だったらどうでしょうか。一部の金持ちだけが生き残るという自然淘汰が始まってしまいます。
 欲が私たちの人生を滅びに向かわせていることにお気づきになりませんか。欲をコントロールできないことが、人類の大きな問題であり、本当の敵は私たちの内にある欲望なのです。不健全な欲望、これを聖書では貪欲と言います。分を越えた欲望を求めることによって、道を外し、滅びにいたってしまうのです。まさにこの神様のおことば通りに、人類は向かっています。神様から分け与えられたいのちを自分勝手に使っているのです。人が造られた時、神はいのちの息を吹き込まれました。神のきよいいのち、互いに愛し合うという神の家族の関係のために与えられた命を、欲望に負けて自分勝手に使っている現状です。経済社会は欲には勝てません。欲望を止めると経済は発展しないからです。
 一方で、北欧の国々は、経済はさほど発展していなくても伝統と新しいものを調和させ、また老後も安心して暮らせるような福祉のシステムを作っています。北欧には宣教団体も多くあります。
つくづく私たちの貪欲のコントロールができたら幸せになれると思います。
 それでは、欲に打ち勝つ力とは何かと考えると、それは「愛」だけです。人は愛する者のために自制します。人を愛することが出来なくなると、自分を愛する生き方となり、自分の好きなように都合の良いように考えるようになります。
 この愛の心が互いに生まれれば、欲は自制できます。この愛を私たちに手本として示してくださったのが、イエス・キリストです。決して豊かさが幸せとは限らないのです。
 「人は一度死ぬことと、神の前に立って裁きを受けることが定まっている。」
 秩序が乱れないためにも、横領した人の罪は必ず裁かれます。イエス・キリストは、私たちが神様のきよい愛のいのちを横領している罪の裁きを受けるために、私たちの身代わりに十字架にかかられ、私たちが将来を全部失うことのないように、全人類が罪を赦し、未来を生かすためにも地上に来てくださいました。ですから、イエス・キリストは全人類の救い主なのです。お生まれになったのはユダヤで、血統がユダヤ人というのは1つのモデルであり、全人類が的外れの人生に気づき、愛にあって生きることを教え諭すために、聖書という4千年かかって蓄積された神のおことばをもとに語り続けてくださっています。
 救いを成就させるために神が人となって来られたのがイエス・キリストです。この方がお生まれになったことは本当に喜ばしいことです。私たちの未来(死ぬまで、そして死んでからも)までも希望を持つことが出来る罪の処分をしてくださいました。だから私たちは心を入れ替え、考えを変えて、欲を制御するために神 の愛に習うようにと、生きて働かれる神のことばが内に働いて、私たちを教え諭し、私たちの魂を動かすようになります。神のことばには力があるからです。
 最後に、神の愛を基に歩んでいく方々へ、神の約束のことばを紹介します。
「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」(ヤコブ1:12)
 欲に満ちたこの地上で、神の愛にそって神様にいただいたいのちを正しく使っていこうとすると非常に苦しいです。しかし、その欲との戦い、試練に耐える人は幸いであり、耐え抜いてよしと認められた人は、いのちの冠を得ます。このいのちの冠とは、「イエス・キリストの姿」とイメージできます。
 フィギュアスケーターの羽生結弦さんが、謙虚に「自分自身の技術向上」を次の目標とされていると口にされていました。へりくだった心こそ、力を抜いて演技をするこつだと思います。
 「ビジョン」を達成した者が立派で、到達した者だけが幸せだと語る世界は偽りです。優れていようが劣っていようが、幸せであるべきです。「互いに」という関係の中に個々の幸せが生み出されます。互いを結ぶのは愛であり、信頼、友情…です。みなさんの将来に対して少しでもプラスになるように、愛の生き方について興味がおありでしたら、礼拝へおいでいただけたらと思います。今日、愛のある生き方を教えておられるイエス様のご降誕を共にお祝いすることができた時間を心から感謝いたします。

 

 

 

 

■2015年12月13日 日曜礼拝メッセージより(横路伝道師、小栗伝道師)

 ご降誕の神の愛  up 2015.12.13


神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネ3:16)

みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、この方にあって神があらかじめお立てになったみむねによることであり、時がついに満ちて、実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。
(エペソ1:9〜10)

 

 

 

【横路伝道師メッセージ】
1.神の愛の熱意(ヨハネ3:16)
“神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。”
【内容観察】
「本当に驚くべきことですが、天の父なる神様は、ひとり子のイエス様を私たちへの愛のゆえに、十字架にかけられることを承知の上で、地上に生まれさせてくださいました。それはイエス様の十字架の死が、自分の罪の身代わりの愛であったことを信じる者がひとりも滅びないで、天の御国で永遠に主とともに生きる幸いを受けるためなのです。」
 このみことばの「ひとりとして滅びることなく」という言葉の中に、永遠に天の御国で私たちと友に過ごしたいとという、神様の熱い思いが伝わってきます。そのためにイエス様は地上に来られ、命を惜しまずに私たちに与えてくださいました。 
 このクリスマスの日に救い主イエス様がお生まれになるということは、その400年も前から預言されていることでした。どのような家系からか、生まれる場所や状況がどうであるかについて、具体的に預言されており、その預言通りにイエス様はお生まれになったのです。
 その預言の一つを見ましょう。
“それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。”(イザヤ7:14)
 「インマヌエル」とは、「ともにおられる神」の意味です。
 愛とは「赦し、与える」ことですが、別の視点からある心理学者が、「愛とはともにいたいという共存の願望である」と言いました。イエス様は、私たちの罪を赦し、命を与えられただけでなく、ともにおられるお方です。
 子どもは、学校から帰るとまずお母さんを探し、学校であったことや友達のこと等を話します。それは、自分が経験したことを共有したいからです。仲の良い夫婦は、会社での出来事、家での出来事、それに対して自分がどう感じたかまで、よく話します。体験を共有したいからです。
 神様と私たちの間も同じなのです。エデンの園の罪からはじめ、神を忘れ、背を向け、求めようともしない私たち人間に対して悲しく思われ、再びともに過ごしたいと、「ともにおられるインマヌエルの神様として、地上にイエス様を送ってくださったのです。
 さらに(マタイ28:20)では、「見よ。わたしは世の終わりまでいつもあなたがたとともにいます。」と言っておられます。神様は私たちといつもともにいてくださり、決して見捨てたり置き去りにされる方ではないことを宣言し、約束してくださっていることを感謝します。
 そして(イザヤ9:6〜7)にも、救い主イエス様の誕生の預言が続きます。
“ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。”
 なぜ、救い主であるイエス様が、赤ちゃんの姿で馬小屋でお生まれになったのでしょうか。王の王であり、主の主である偉大なお方が、か弱い赤ん坊の姿で、しかも王室や高級ホテルでなく、馬小屋の飼葉おけに寝かされたのでしょう。
 赤ちゃんは小さく、何の力もないとても弱い存在です。イエス様を殺すため、ヘロデの兵士達がベツレヘムを襲いましたが、栄光の王であるイエス様は、赤ちゃんであったがゆえに父ヨセフと母マリアに連れられ、エジプトへ逃げるほかなかったのです。
 しかし、赤ちゃんはとてもかわいい存在です。みんなに愛されます。赤ちゃんに対しては、敵意も警戒心も打算もありません。気難しい人でも自分の孫を見てはさすがにニコニコしてかわいがります。イエス様は、天の万軍をひきいて雲に乗って来られる前に、私たちが心を許して愛することのできる赤ちゃんとして来られたので、平和の君として受け入れることができるのです。イエス様が誰からも愛される存在の赤ちゃんとして来られた意味は大きいのです。イエス様は私たち弱い者のために来られたのです。
 また、イエス様は小さな貧しい村ベツレヘムで、暗くて臭くて汚い馬小屋にお生まれになり、飼葉おけに寝かされたのは、私たち貧しい者、罪人のところに来られたという象徴です。馬小屋は私たちの心の状況を表しています。イエス様は罪人を救われるために来られたからです。
 イエス様はその後も、貧しい大工ヨセフの子として育ち、おそらく額に汗して大工の仕事をされました。暑さ、寒さ、飢えと渇き、労働の疲れ等、すべてを経験され、公生涯に出られてからも、すべての苦しみと迫害を受けられ、十字架の死まで耐え忍ばれました。
(ヘブル2:17〜18)にはこう書いてあります。
“主はご自身が試みを受けて苦しめられたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。”万軍の主の熱心がこれを成し遂げられたのです。
 神様は私たちとともに住むことを願われ、地上にイエス様を送ってくださいました。そして私たちが罪によって滅びて永遠の神様から離れてしまうことのないように、イエス様の十字架の贖いにより、地上で主と友に歩み、召されても天の御国で主と共に永遠に過ごすことができるようにされました。
 弱い小さな赤ちゃんとして生まれ、貧しく育ち、十字架の死にまで私たちに熱意、熱心の限りを尽くしてくださいました。万軍の主の熱心がこれを成し遂げられたのです。私たちは、この「ともに住みたい」ということのために、すべてを成し遂げてくださった神様の熱意を今日感じているでしょうか。もう一度クリスマスを覚えて、感謝をもって心の中に主をお迎えしましょう。 

【小栗伝道師メッセージ】
2.キリストのご降誕は神の愛の現れ(エペソ1:9b〜10)
“…時がついに満ちて実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。…”
 信仰生活が長くなると、イエス様が自分の心に生まれてくださったクリスマスの感動をつい忘れがちですが、本来忘れてはならないものだと思います。
“やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に、光が照った。”(イザヤ9:2)
 心の闇が深いほど、本当は明るい光を求めてはいないでしょうか。イエス様の光は、私たちの心の闇の中に葬り去られた感情すらも愛をもって照らし、私たちがそれを認めて、新たに歩めるようにしてくださったのがクリスマスです。

◎神のみむね(神のご計画)
 イエス様のご降誕は神のみむね、ご計画の中にあることを改めて思わされます。神は御子にあってすべてを一つにまとめることを、みこころとされています。私たちの思いが、神の家族が、一つになることを望まれ、ご自分の民を一つに集めることをここで語ってくださっています。「時がついに満ちて」は、神が造られた世界となることを表している、と思います。
*“しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、 女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。”(ガラテヤ4:4)
 罪人の存在は神の前に出られるはずはなく、罪人の罪を処罰するために、イエス・キリストは地上に来られたのが「定めの時」です。
 しかも「女から生まれた」とは、私たち人間と同じ歩みをしてくださったということです。さらに律法を守り切ることのできない罪人のためにイエス様は木にかけられ、私たちが神様に近づくことができるように、私たちの代わりに呪われた者となってくださいました。
*“キリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。”(ヘブル9:26)
 御子が地上にお生まれになったことは、明らかに神のみむねの「時が満ちる」というところにつながっている現在です。
 イエス様は神である方ですが、罪人が自分ですることのできない罪の処罰を神様の方から手を差し伸べられて、「わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。(イザヤ14:22)」と声をかけてくださっています。イエス様は罪人の罪を取り除き、律法に生きてきた人々を自由にするために、十字架にかけられて死ぬこと、ご自分が罪のかたまりとなって神から離れさせられることを覚悟して、使命として地上に来られました。
 神様は私たちが罪人であったときに、イエス様が私たちのために死んでくださったことにより、ご自身の愛を明らかにしておられ(ローマ5:8)ぜがひでも私たちを神の子どもとして招きたいのです。
 私たちは御国を受け継ぐ立場となっていることを揺るがされることのないように、思いを守りたいですね。

◎キリストを待ち望む
*“…二度目は…彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるの
です。”(ヘブル9:28)
 イエス様が一度目に地上に来られ、十字架にかかられ、死んで葬られよみがえられて、そして天でとりなしておられ、再び地上に来られるまでの今の期間は、私たちの内にキリストのご性質が形造られる時です。
 彼を待ち望んでいる人は、神が真実で裏切ることのない方であり、必ず来られるという約束を信じて、忍耐強く熱心に今か今かと望みを持ち続けて待っています。

☆忠実で思慮深い(賢い)しもべ・・・・・(マタイ24:45)
 忠実とは人の前ではなく、神の前に愛の応答をしていくことです。義務ではありません。いつでも心を神様の思いに向けることができます。
 (:48)の「悪いしもべ」は自分一人で「主人はまだ帰らない」と勝手に決めつけています。主を畏れない彼は、「仲間を打ち叩く」という兄弟姉妹隣人を愛することをせず(受け入れず赦さず)、自分が王様か主人の立場に立って権威を振り回し、愛を行おうとはしていません。さらに「酒飲みたちと飲んだり食べたり」とは、世の快楽に心を向け、世を愛して神の敵となっている姿です。主を畏れるところから遠ざかっています。間に合わせ、打算、帳尻を合わせる信仰姿勢…。
 もし主人が早く帰ってくれば、明らかにならなかったかもしれませんが、しかし心をご存じの神様は心の中が暴露されることをよしとされて、主人の帰りを知らせてはおられないのではないでしょうか。
*“いっさいのことを愛をもって行いなさい。”(第1コリント16:14)
 このみことばは、私たちに対する神様の愛をもって、神と人に対する真実な愛を表すこと(詳訳)が示されています。しかしながら、愛を学んでいる歩みは必ずしも順調ではなく、肉の思いが引き出されることもしばしばあったとしても、イエス様が来られるまでの途上であり、自分のうちにキリストのご性質が形造られるために、常に愛を行う方へ方向転換する、神の愛に立つことを神様は導いておられます。

○一人として滅びることを望んでおられない神様のみ思い
 箱舟に入ったノアの後ろの戸を閉められた主が、箱舟に入らなかった、ご自分が造られたご自分の民と永遠に別れることをなさりたいはずがありません。戸を閉めることは断腸の思いです。今、箱舟である十字架が現されていても、まだ心を開けておられない方々に、神は時をもって「今、福音の知らせを聞いてほしい」と呼びかけておられます。愛する者を失うことは本当に痛みを伴うことです。神様は戸を閉める時間を延ばしておられ、「神様のところへ帰って来るように」とクリスマスを通してもその愛を紹介されています。

☆主にあって、今、どんな望みを持っていますか?
 神様の深遠なご計画が、集大成に向けて刻々と近づいているこの時、神様のみ思いを受け止めながら、ご自分の内にある望みを考えてみていただきたいと思います。神のみ位を捨ててこの地上に来てくださったイエス様のお心を考えながら、近づいて来たクリスマスに向けて、祈り、声かけをしてまいりましょう。

 

 

 

 

■2015年12月6日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 摩頂放踵の愛  up 2015.12.6


『摩頂放踵』(まちょうほうしょう)の意味
自身をかえりみず、他人に尽くすこと。
頭の先から足のかかとまで磨り減らすほど、他人や周りのために努力するという意味から。

主題聖句(ヨハネ13:1〜5、12〜15)
さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が神から出て神に行くことを知られ、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。 それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。 イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。

 

 

 

1.極みの愛(ヨハネ13:1、3〜5、12〜15)
 イエス様は私達にとって師であり主である方です。そのイエス様が明日死を迎えるという最後の時にされたことが、弟子達の足を洗うということであったというのは、本当に印象深いことです。
「摩頂放踵の愛」とは、自身をかえりみず、他人に尽くすことであり、頭の先から足のかかとまで磨り減らすほど、他人や周りのために努力するということです。イエス様はまさにその愛をご自身が身をもって示されました。
 それは地上にいる時だけでなく天に帰られてからも、愛し続けて下さるということを示されるとともに、その愛を弟子達から始めて、さらにずっと継承していってほしいという願いの表れでもありました。
 イエス様がされたこと(足を洗う)を通して、イエス様が伝えられたことを考えてみましょう。

A)愛のすべてを出し尽くされた。
 足を洗われたことは、愛を貫かれた、見えるしるしとも言えます。

B)最後の出し尽くされた愛のかたちが、弟子達の足を洗うこと。
 イエス・キリストは見えない神のかたちです。見えない神様が見える愛のかたちで地上に現れてくださったのがイエス・キリストです。イエス様は神の愛の証です。そして、地上を去る最後に遺言のようにしてその愛を示すためにされたのが、この洗足です。
いわばイエス様の愛の遺品とも言えます。それで、教会で洗足式をする場合は、イエス様の愛を思い起こすという意味もあります。
 遺品にはどういう意味があるのでしょうか。一番は思い出でしょう。しかも相手の良い思い出です。遺品はその人の良い思い出を思い出すきっかけになります。

C)洗足は、しもべの中で最も低い者がする仕事。
 子供でもできる単純な仕事ですから、新米のしもべでもできます。主人やその家族、お客さんのために足を洗うのは新米のしもべの仕事でした。

D)愛する者のために、最も高い方が最も低い者がすることをされた。
 最も地位のある主人、あるいは師である方がしもべや弟子の足を洗うというのは、ずいぶん衝撃的なことです。ペテロは最初拒み、その後は全身洗ってくださいと申し出、結局イエス様から、全身はもうきよいのだから足だけでいいと言われました。
 足は外に出かけると汚れてしまいます。同様に私達は神様の臨在から出るとどうしても汚されてしまいます。悪い影響をいつの間にか受けてしまうので、礼拝に帰って来た時は足を洗う、つまり、きよめていただく必要があるということです。
 愛する者を大切にしているしるしは、へりくだりです。愛する者に傲慢に振る舞うのは本当に愛しているとはいえません。愛する者のためにはへりくだり、どんなことでもしてあげたいと思うのが自然でしょう。
 愛する人を大切にし敬うというのは自分を相手より低くすることです。愛する人のためには自然にへりくだり、大切にしたいと願うものです。
 このイエス様のへりくだりは、神である最高の方が最低の仕事を通して私達のためにへりくだられたのですから、他の何にも比較できないほどの大変大きなへりくだりです。そして、そのへりくだりの大きさこそが、どれほど深く私達を愛してくださっているかを証ししているとも言えるのです。
 愛はことばだけでは伝わりません。へりくだりという実践を通して、弟子達に伝えられたのです。
 この行為をイエス様は十字架に架られる前夜、最後の遺品として残されました。弟子達にとって決して忘れられない行為となったはずです。
 この足を洗うという行為は汚れを取る行為ですが、人の汚れをとるというのは、罪をやめなさいとただ言うことではなく、許すという行為によってなされます。
 赦しは、その人の将来に希望をもって、期待する愛の形です。
第1コリント13章にあるように、「愛はすべてを期待する」のです。
自分ひとりの力ではイエス様を信じ続けるということは大変難しいことです。信仰生活を長く続けていくほど、みことばを真剣に実践しようと願えば願うほど、自分の力ではとうていできないという絶望を抱いてしまうでしょう。そのような絶望的な私達の足を、イエス様は希望をもって赦し続け、足を洗ってくださっているのです。今も天において、父なる神の前で私達のためにとりなし続けてくださっています。それは、私達のために明日を作ってくださっているということです。またやり直すという明日を与えてくださっているのです。
 未来に希望を持てないと、赦すことはできなくなります。私達が赦せないという感情を持つのは、良い明日を期待できないからです。そして、相手の未来を奪い取ろうとするのです。
 しかし、イエス様は何度も失敗する私達を赦し続けてくださっているのです。これほどの愛を私達は受けているということに気付いてください。
 人を赦せない人も、そのあなたの赦せないという心が変えられることを、イエス様は期待して赦してくださっているということを知ってください。
 自分で自分をあきらめないでください。もうこんな私を赦すために十字架で苦しまないでくださいという人もおられるかもしれません。しかし、そうしてイエス様から離れてしまうことは、もっとイエス様を悲しませることになります。
 イエス様の愛に励まされて、自分をあきらめないようにしてください。イエス様はあなたの将来を信じてくださり、愛してくださっています。そして、日々自分はイエス様の姿に変えられていくのだということを、神様の愛を信じて、期待してください。
 そのようにあなたの隣人も愛しなさいと教えてくださっています。私達もイエス様の愛によって未来に希望をもつことのできるような愛の支えをいただいています。明日に期待してくださる神様の愛に応えて毎日を過ごしていきましょう。

2.『よりそう』という愛のかたち(マタイ20:27)
“あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。”
 よりそうということばから次のように言えます。
「人々を治め従わせたいのなら、その人のからだの一部となるほどに仕えることです。」
 私たちの教会では、頭になりたいという傲慢なひとはおそらくいないでしょう。しかし、人は無意識で頭になりたいという気持ちを抱いていることがあります。それが従わせるという行為に表れます。自分の意見に従わせる、意見を通すのは、リーダーの立場にいるということです。
 いつの間にか自己中心になってしまい、自分がリーダーかのようになって人を従わせようとするのです。「人の先に立ちたい」とは「人を従わせたい」ということと同じです。そういう人はしもべになりなさいとイエス様は言われました。
 しもべとは主人の体の一部分です。主人がしたいということをするのです。主人が重要なことにできるだけ時間をとれるように、しもべは主人の手助けをします。
 人の先に立ちたいという人は、その相手の体の一部となるほどにその人に仕えてあげなさいと、イエス様は言われたのです。仕えるとはよりそうということです。ただじっとそばにいることではありません。その人の体の一部のようになってその人ができないことをしてあげることです。
 主人は時にはしもべによりそってあげることが必要です。しもべができないことによりそってあげるのです。そのような主人にはしもべは喜んで仕えるはずです。
 妻が夫に従いたくないという背景には、夫が妻によりそっていないということがあります。また、夫も妻によりそう気持ちが起きてこない原因は、妻が夫にそのような気持ちになれない、支える働きをしていないからとも言えます。
 夫婦は互いによりそって生活することが大切なのです。仕え合うことが大切です。お互いに足りないことを補い合うことが「よりそう」ということです。
 私達がなんでもできる天才ばかりの完璧な人間でないことを感謝しましょう。互いによりそい、補いあうことができるのです。愛が実践できるのです。
 何もできない人は色々な人々にしてもらえます。してもらうということも大切なのです。そこにはへりくだりや受け取る愛が必要だからです。
 お金持ちは貧しい人々のために存在するというのが神様の願いです。
 愛するとは与えることであり、また受け取ることです。感謝を表すということは愛されたことへの応答としての愛する行動です。
 神様は何一つ足りないことがありません。それゆえ私達はただ感謝を礼拝や賛美で神様に捧げます。それが神様を愛するということです。
 どうぞ今の自分をありのままで受け入れてください。できない自分、優れたところがない自分を受け入れましょう。神様はそのように不完全なものとして私達を造ってくださいました。それは愛するためです。神は不完全な私達を完全な愛でおおうことで愛を示してくださっています。このようなよりそう愛を体験すると、人は喜んで仕えたいと願うものです。
 ですから、もしあなたが人の先に立ちたい、リーダーになりたいと願うなら、本当に相手によりそってあげてください。そうすれば、相手は心からあなたに従ってくるはずです。
 私は職人として働きました。最初は新入りですからうまくできません。それで師匠が一緒についてくれます。それは失敗した時カバーしてくれるためです。本当のプロは失敗をまるでなかったかのように直すことができる人のことを言います。
 新入りがどんな失敗をしても師匠は直すことができるのです。そして、大きな失敗を補ってもらう体験をすると、本当に師匠を敬うことができるようになり、二度と失敗しないようにしようと決心します。
 神様も私達も同じような関係にあります。罪を離れる人は、いかに神様が自分のためにとりなしてくださったか、犠牲を払ってくださったかを知る人です。つまり、神様の愛に応えたいと心から願うからです。
 従うというのは強制でできるものではありません。本当に愛が裏打ちされた関係において、初めて成り立つものなのです。
 その愛を頭の先からかかとまですり減らすほどに33年間示してくださったイエス様の最後の遺品が足を洗い合うということです。
 これほどに愛を示してくださっているイエス様の愛に気づいて、しっかりとその愛を受け取ってください。

 

 

 

 

■2015年11月29日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛を受けとめる愛  up 2015.11.29


主題聖句(ヨハネ12:1〜3、7)
イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。
人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。そしてマルタは給仕していた。ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。
マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。
イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。

 

 

 

一人一人の愛を理解してくださって、受けとめてくださる神の愛。

 神様は各人の心の中を見てくださる方です。人であればつまずくようなことをしてしまう、自己表現の苦手な人もいます。けれども神様はその人の心を見られるので、決して誤解されることはありません。
 神様の愛とはどのようなご性質のもので、どう反応、行動されるのかを、イエス様をとおして皆さんにご紹介してきました。
 それを受けた皆さんも、自分のうちに受けた神の愛を、自然に周りの方々に紹介することができるように、少しずつなってきておられるのではないでしょうか。
 私たちの神様は愛の神様です。しかし愛というのは深いもので、神様を知らない世界の愛とは違うことを、私たちの神様はイエス様を通して私たちに教えてくださっています。
 なぜこの世界で愛が冷え、軽んじられていき、程度の低い感情のようにいやしめられてきているのでしょうか。この社会はますます創造主なる神を否定し、持たないからです。
 神様に関心のない人は、愛にも深く関心を持ちません。それは、欲望を満たすための一つの手段にすぎないのです。同じように神に対しても、自分の願望・欲望を満たすための存在としてしか捉えることができません。
 神様に対する捉え方と、愛に対する捉え方は一緒なのです。愛を軽んじる人は神様も軽んじます。愛を大事にする人は、神様も大事にします。なぜなら、神は愛だからです。
 ですから、愛のない社会現象が多くみられるところには、神を畏れない不道徳がはびこります。価値観も変わってきます。醜い人間の争いは、愛のない証拠だと思います。
 親も愛がわからないので、子どもに愛を教えることができません。愛を深く教える人がいないのです。愛と神様は同じ存在であり、切り離すことができません。
 私たちの心にうるおいがあるのは、愛が存在するからです。ぎくしゃくした競争社会の中、利害関係の社会の中で、愛が失われていくほどに、欲望しか人生の楽しみがないような世界になってきています。本当にさみしいことです。
 そんな中で皆さんは、人生に対して、生きることに対して、イエス様のもとに来てまことの愛に気づき、その中を歩みたいと願って、いつもみことばから教えられる愛についてのことに耳を傾けてくださっていることは、本当に幸いなことだと思います。
 私たちが神を愛すると言う時、表現や行動を通して愛を表現します。その愛を、神様は受けとめてくださる、大きな寛容な柔和な愛をお持ちである、という意味が「愛を受けとめる愛」という言葉に込められています。
 私たちはまだまだ自己中心的な愛が残っています。それでも、その心の動機は、「神様が私を愛してくださっているんだ」という、神様の愛を少しずつ知ってきたところから生まれてくる心の変化です。
 不十分ですけれども、それでも神様を愛する心を持っているというところを見てくださって、私たちを丸ごと受けとめてくださる大きな愛をお持ちの方だということです。
 私たちが神様を愛するのは、神様に愛されたからです。愛には愛をもって応える、という動機をいつも忘れないようにお勧めしております。賛美もささげものも、神様が私を愛してくださっていることへの応答として、すべてが執り行われているのです。
 いつも当然のように行っているからといって、マンネリ化して、愛の新鮮味を失ってしまわないように気をつけましょう。心を新たにしていくきっかけとして、今日耳を傾けていただければと願っています。

1.『各人各様』の愛(ヨハネ12:1〜3、7)
★『各人各様』(かくじんかくよう)の意味
 ものの考え方や行動などが人それぞれ、様々である様子のこと。
 私たちは、より優れたものをと思う時、人と比べてしまうことがよくあります。人と比べたり、周りを見て自分の愛を量ってしまうのです。この世の中の習慣がくせになってしまっているところがあるのではないでしょうか。
 今日は、この三兄姉を通して、神様を愛する愛の表現には三者三様のやり方があったことを学んでまいります。
【内容観察】
A)十字架にかかられる一週間前に、愛する三兄姉の家を訪れた。
 この時、イエス様が向かわれているエルサレムでは、一週間後に過越の祭りが行われることになっていました。
 過越の祭りは、罪の贖いの祭りです。メシアがやって来て、人々の身代わりに罪の裁きを受けて、人々の罪が贖われて赦されることの象徴がこの祭りです。この祭りでささげられる動物は、キリストを象徴しています。傷のない、全きいけにえを通して、私たちの罪が身代わりによって贖われることを示しているのです。
 そしてキリストは永遠の贖いとして、全人類の罪のために身代わりに裁きを受けることを通して、私たちは罪の裁きから救われてもう一度神の子として、愛のある人生を歩んでいくことができる道を備えてくださったのでした。
 まさに、愛が人となられたのです。愛のない世界に愛を証しし、本物の愛とはこういうものだと示して、愛に対して期待と希望を持つようにしてくださったのがイエス・キリストなのです。
 人には愛が必要です。なぜでしょう?人は愛の神に似せて創られたからです。その愛は、この世の快楽の愛とは違います。聖書の神様が言われる愛は、友情や親子愛や夫婦愛で表される、心と心の強い絆を意味するものです。
 愛はすべてを結ぶ帯であると言われているように、争いをなくすためには、そこに愛が生まれなければなりません。ケンカを治めるためには、愛を語らなければならないのです。憎しみを取り除くためには、愛が語られなければ、憎しみは復讐を呼び、いつまでも終わることのない負の連鎖が起こります。どこかで愛によって、この世界の様々な問題を止めていくことが神様の願いであり、みこころです。
 だから、私たちはその愛をまず知るということで、聖書からイエス・キリストを通して学んでいるところです。
 この十字架にかかられる一週間前というのは、イエス・キリストがこの地上に来られた目的、十字架での死と葬りと復活を果たされる直前です。愛を知らない人々に愛を伝える、愛のない人々に愛を与えるためです。
 この大事な時にイエス様は、心から愛された三兄姉の家に来られたのでした。皆さん「来週あなたは死刑で死にます。」と宣告されたり知ってしまったなら、あなたは何をしますか?
 イエス様は神が人となられたお方ですが、人のご性質もお持ちでした。イエス様は三兄姉の家で、なぐさめと安心を持とうとされたのです。心からイエス様を尊敬している三兄姉のもとに寄られたということは、「さあ今から、救いのために神のご計画を成し遂げとげよう。」という覚悟と共に、感情的不安と恐れがしずめられるように、仲むつまじい兄弟愛のもとで憩う時間を持たれたのではないでしょうか。
 イエス様が十字架に向かわれる人生は、強制されてのものではありません。私たちへの愛のゆえでもありますが、父なる神がイエス様を愛してくださっている愛に報いるための応答であることも見落とさないでください。
 イエス様は逃げようと思えば逃げることができました。しかし、父なる神の愛を知っているイエス様は、複雑な人間としての弱い部分を乗り越えるための、神様への強い愛をそこに持っておられました。この道を選んでいく理由は、「愛に応えていく」愛の行動ということが、私たちがこの場面で気づくべきことです。
 実際、ゲッセマネの祈りで、「この杯(十字架の苦しみ)を過ぎ去らせてほしい」という個人的な願いがあられたほどに、その苦しみの恐怖というものを、人としてのイエス様は感じておられたのでした。それでもなお十字架を選んでいくというのは、父なる神の愛に対する御子イエス様の神への愛の表現です。口先だけの「神を愛している」ではなく、行動というかたちを通して証明されているのです。
 私たちも、もしこの立場にいたならば、すごい苦しみと葛藤があると思います。一日経つごとに自分の残り時間が消えていく緊張感、それを感じることのできる心を、イエス様はお持ちでした。
 でも、その恐怖を乗り越える「神の愛によって、今、自分はここに存在している」という感謝と喜びを感じて、肉体的苦しみを乗り越える神への愛を表明されたのです。
 皆さんも、愛する者のために苦しみを負うということはよくされますね。嫌なことでも、愛する人のためにチャレンジされるのではないですか。これがイエス様の十字架の人生です。イエス様はお手本として、私たちにそれを示されました。

B)各自のイエス様への愛の表現
○マルタ→彼女の得意な給仕によって愛を表現している
 マルタにとって、一番心を込めてイエス様に愛を表すことができるのは、給仕をすることでした。あなたの得意なもので神様への愛を表現しましょう。人と比べて優れているかではなく、自分自身の中で一番得意なものをすることが、心を込めて愛を表現する方法です。マルタは家庭的な平凡な女性でしたが、給仕によって自分の神への愛を表現しました。
○ラザロ→イエスがキリストであることの証人としてイエスのそ
 ばから離れないことによって愛を表現している
 彼は一度病気で死にましたが、4日後にイエス様によってよみがえらされました。これは、超自然的な神様のみわざだけではなく、神様の恵みや憐れみや助けをいただくという、神様のみわざを直接体験した人にとって、「私はイエス様によってよみがえらされました!」と、イエス様のみわざを証しし、証人としての生き方を選んでいくことが、愛の表現の一つです。
○マリヤ→イエスの愛を悟って、葬りのための香油を足に塗った ことによって愛を表現している
 みこころを悟った応答とは、愛の神様は私たちに何を伝えたいのか、何を願っておられるのかを感じ取って、それに反応していくことです。マリヤは、マルタのように料理をして接待をするような女性ではなく、ただじっとイエス様の足元に座ってお話しを聞いていました。この当時のユダヤは男性社会で、女性がメッセンジャーの側に来て話を聞くといくことは非常識でした。しかし、マリヤは非常識を乗り越えてでも、まわりが気にならないほどに、イエス様のお話に興味をひかれていたのです。
 本当に心ひかれているかどうかは、愛の表現によって証明されます。マリヤは高価なナルドの香油を、惜しげもなくイエス様のために使いました。また、この当時女性にとって髪の毛はとても大切なものでしたが、その髪の毛でイエス様の足に香油を塗りました。一番大事なものを使って、イエス様への愛を表現しました。マリヤはみことばを聞いて、心で悟っていたからです。心で悟れるものは「愛」です。愛を悟っていくということで、マリヤは愛を表現しました。
 どれが優れているというのではありません。愛の表現が三人三様であるということです。この三人の愛の表現をイエス様は受け止めておられました。イエス様の愛は、私たちの心の未熟さを理解してくださる愛です。どんな人の愛も前向きに受け止めてくれる愛なのです。ゆがんだ表現しかできない人も、その心の内の動機を見抜いて、その愛を喜んで受け止めてくださるお方です。人と比べて自分は愛が小さいとか足りないとか思わないでください。この三兄弟は愛の表現は違っても、お互い神様を愛しているということは理解し、しっともねたみも持たない素晴らしい兄弟愛でつながっていました。そこにイエス様の心がひかれるのは当然でした。私たちも、人と比べず、まねをするのでもなく、あなたらしく、純粋な愛で神様の愛に応えることを心がけていきましょう。

2.愛(みこころ)を悟るために(ローマ12:2)
“この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。”
 この世は、愛をいやしめる所においています。神様も、自分の願いが聞き届けられないと、神として認めないというご利益宗教になっています。このような世の中に調子を合わせていたら、神様の愛は見えてきません。神様の愛のお心は、心を一新することによって悟ることができます。
★心を一新する
 それは、神の愛に焦点を当て直すことを続ける。
 心を一新するために、神の愛に焦点を当て、いつも見続けることが大切です。神様の愛から目がそれてないか、いつも心がけることが必要です。心を一新させるために最も効果的なのは愛です。人はどんな小さな愛でも、愛を感じると変わるのです。いつまでも変わることのない神様の愛によって心を一新していくことが大切です。
【デボーション参考ポイント】
父の神の私たちへの願い→未来に期待していることを、聖書から見つけ出す。
 「神のみこころ」とは、神様があなたにそうあってほしいと願っておられることです。未来にあってそうなってほしいという期待の気持ちをもっておられます。愛する者に対して良い期待を抱くのが愛です。聖書は神様からの愛の手紙です。聖書に書いてある戒めや教えは、「今はまだあなたがたは罪人で、罪を犯したり反抗したりするでしょう。でも将来は、聖書に書いてあるような神の子になってほしいのです。」という愛の期待が込められているのです。あなたが良い未来を手に入れることが神様の願いです。自分の罪を責めるような聖書の読み方をしないでください。愛の気持ちから、そうなってほしいというあなたの未来に良いものを結んで欲しいという期待を込めた、神の戒めのことばです。
例)(第2ペテロ3:9)
“主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。”
 全ての人は神から出た者なのだから、ふるさとである神の元に帰って来てほしいという気持ちが、神様のおこころです。マリヤはイエス様の気持ちを汲み取って、愛を表現しました。イエス様の気持ちを汲み取る者になりたいですね。そのために、この世と調子を合わせずに、神様の愛に心を向け続けていきましょう。

「山茶花の 花散る姿 いつくしむ」

 

 

 

 

■2015年11月22日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 棣鄂之情を引き出す愛  up 2015.11.22


『棣鄂之情』(ていがくのじょう)
兄弟愛の美しい愛情のこと。
兄弟の仲が大変良く、互いに尊敬と愛情を注ぎ合っていること。
『棣』=庭梅の花    『顎』=花の顎
庭梅の花は、いくつも集まって咲くことから、兄弟が寄り添うように仲良くかたまっているようすにたとえたもの。

主題聖句(ヨハネ11:1〜7)

 

 見ているだけでこちらが嬉しくなるほどの兄弟愛を、『棣鄂之情』と言います。神様はその兄弟愛をもっと引き出されます。

1.ラザロの死がもたらしたもの(ヨハネ11:1〜7)
“さて、ある人が病気で死にかかっていた。ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタとの村の出で、ベタニヤの人であった。このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。そのようなわけで、イエスはラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。その後、イエスは、「もう一度ユダヤに行こう。」と弟子たちに言われた。”

 ラザロの死を通してどのようなものがもたらされたかを、ご一緒にみてまいりましょう。
 死は、呪いの結果として私たちの身に起こる罪の実です。この呪われるべき死が、かえって神様の大きなみわざが現される祝福に変えられる、すなわち復活を象徴する場面でもあります。
【内容観察】
A)ラザロ、マルタ、マリヤは、イエスに愛されていた兄弟であった。
 イエス様はこの三兄弟の間にある愛情に、感銘を受けておられたようです。イエス様は、よく三兄弟の家に立ち寄っておられました。
 イエス様から愛されるということは神様から愛されているということですから、さぞかし祝福があるのだろうと私たちは思います。しかし、ラザロは突如として病気になってしまいました。

B)兄弟愛を揺るがすラザロの死
 記事の流れから察するに、イエス様のところに使いが来る頃、ラザロは死んだのではないかと思われます。
 イエス様はラザロの病気が死に至るものを知っておられたことが、みことばからうかがえます。
 三兄弟仲良く暮らしていたものが一人失われ、愛が欠けるのは大変な事です。ものすごく大きな悲しみと心の痛みが、残された姉妹にはあったことでしょう。お互いを支え合う強い兄弟愛が、彼らの間にあったからです。
 しかし、彼らの神への信仰は、死を目前にしても弱ることなく、イエス様がやってこられるのを待ち続けました。普通なら、死んでしまった時点でイエス様を待つことなどできなくなっているでしょう。
 イエス様が来られたと聞いたとたん、みそばによったことで、彼らの信仰が弱くなるどころかますます強まっていることがわかります。ラザロに対する神様のあわれみを求める心が、強く起こされていたのです。
 人は、問題や苦しみが起こった時に初めて、本心があらわにされます。愛がないと、自己中心から他の人を批判してしまいます。しかし、本当に愛していれば、問題の原因はどうであれ、その惨事に心を向け、何とか手助けしようと思うものです。
 皆さん、災いにも大事な働きがあるものなのです。

C)ラザロのことを聞いて、なぜなお二日とどまられたのか?
 イエス様が彼らの所に来られたのは四日後でした。「4」は「完全におおう、完全に支配する」という意味があります。ラザロは完全に死におおわれ、偶然にでもよみがえることはないという意味です。マルタとマリヤは悲しみの中にあっても神への信頼を失わず、自分たちの悲しみをイエス様の前に訴えました。その返事が、ラザロのよみがえりの宣言でした。
 とても信じられない話ですが、彼女らはイエス様を信じて、おっしゃる通りに墓のある所へ案内しました。
 マルタは「もう臭くなっております」と、現実からなかなか離れられませんでしたが、イエス様の「わたしはよみがえりです…」とのおことばを聞いて信じ直し、イエス様に期待しました。
 このことのためにイエス様はあえて、病んでいるラザロの元に駆けつけられなかったのではないでしょうか。人間的方法と人間的考えを完全に打ち切ってしまうために、完全に神様のあわれみにのみ頼るために。
 ラザロが死ぬことが、最も神の栄光が明らかにされる方法であるということを、イエス様は確信しておられたのです。普通の人なら、病人を放っておいて完全に死ぬまで2日も放っておくなどありえないことですが、神様のお考えは私たちとは違います。「この病気は死で終わるだけのものではない」ことを証明するための、神のご計画だったのでした。
 (:5)は、唐突に現れる一文で、前後の文とつながらない印象を受けます。むしろ(:4)と(:6)が(:5)なしでつながった方が、文章の流れから言えばバランスが取れています。
 しかし、神は彼らを愛しているからこそ、2日とどまられたのです。絶望の中に現れる神の栄光、神の愛のすばらしさ。普段は見えないものが、この時にはっきりと現れてきます。
 ラザロの死によってこの三兄弟の絆が揺れ動く中で、なお神のあわれみにすがる彼らの神への信頼がさらに強められ、ついには神の栄光である死者のよみがえりという信じられないほどの奇蹟がなされました。
 これらの一連の出来事のきっかけと動機は、この三兄弟の兄弟愛のすばらしさのゆえです。一人欠けたことによって、彼らの兄弟愛が完全でなくなってしまいました。神様はその欠けた関係を放っておかれず、ラザロをよみがえらせて、また三人のうるわしい兄弟愛を見たいと思われたのです。
 神様の兄弟愛に対するお心が、この奇跡を生み出しました。神様がどれだけ兄弟愛を大事な価値あるものと見ておられるか、がわかりますね。
 それは自然の摂理に反する「死者のよみがえり」をなされるほどなのです。自然の法則を破るなんて、そうそうありません。パトカーが緊急時に赤信号を無視できるのは、それよりも大事な仕事があるからですが、神様が起こされる奇跡も同じです。
 私たちは罪人ですから、本来は全員死ななければなりません。死んで終わりなのが、罪のからだの宿命です。ラザロの奇蹟の時、神様はそのルールを一時的に変えられました。
 変えられた理由は、この三人の兄弟愛があまりにもすばらしかったからです。神様はもう一度、地上にこの三兄弟の愛を見たいと思われたのでした。神様の主権によるお気持ちがあるのです。
 そんな気持ちを起こさせるほどの、三人の兄弟愛だったということです。

●まことの兄弟愛は、絶望の中でこそ、神のあわれみへの希望を持つ
 彼らの兄弟愛は試されました。神を敬う三人の兄弟の愛は、神の心を喜ばせました。でも、問題が起こってもそうだろうか?というところが、次に試されました。
 問題が起こり、死という絶望がやってきても、その兄弟愛は神のあわれみに対する心をなお一層強くしました。それほどに三人の関係は、強い絆で結ばれていたのです。
 それが証明されたので、復活というありえないような奇蹟をも起こすほどに、神様のお心を動かしました。
 残念ながら、私たちはまだ死人の復活を目の前に見てはおりません。「イエスの名によって祈ればよみがえる」そういうものではないのです。
 イエスの名によって祈る、復活を求める、そのためには、神のお心を動かすような愛のささげものが必要なのです。私たちに、それほどの兄弟愛があるでしょうか。
 「私の存在はあなたによって、あなたがたによって、この教会の一人一人の兄弟姉妹によって、支えられている。私一人欠けるだけでも、何の価値もなくなってしまう。」というほどに、一人の存在が皆の支えとなっている認識。
 たとえば記念硬貨セットなどセットで価値のあるものは、その内の一枚でも欠ければ半分以下の値打ちに落ちてしまいます。兄弟愛も同じです。一人でも抜けたら、価値がぐっと下がってしまうのです。
 そういう兄弟姉妹の関係において、悲しみができた時に、神は「なんとかしてあげたい」という気持ちをもたれるお方です。

2.『棣鄂之情』に感極まる神(詩編133)
“見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。それは頭の上に注がれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。”
【内容観察】
『注目すべきことだ。兄弟愛の美しい姿。兄弟が互いに尊敬し合い愛情を注ぎ合っていることの至福。まるで、最初の大祭司任命のときの感激のようだ。神がどれほどの喜びを持ってイスラエルをご自分の民として祝福しておられることか。また、ヘルモン山のきよらかな潤いがシオンの山々にもたらされるようだ。なぜなら、主は、兄弟愛のうえに、とこしえのいのちの祝福を宣言されるからである。』
 いいことをしている、悪いことをしている、というような律法的な観点からの祝福ではありません。うるわしい兄弟愛がそこに見えると、神はそこにとこしえのいのちの祝福を命じられるのです。罪を犯すだろう、でも兄弟愛のうるおいがそこにあるので、神はそういう人々を祝福したくてしかたがない気持ちになられます。
 神様がお喜びになられるのは、兄弟愛を見たときです。兄弟の間では、ケンカをしてもまた仲直りします。他人だったらそうはいきません。一度心が傷つくと、もう二度と近寄りたくないと思います。
 でも兄弟だったら、そんなことは消えて行ってしまいます。兄弟愛は、一時的に相手を赦せないと思ったとしても、時間が経てば相手を赦して受け入れます。
 地上にいる神の子たちの間にそれを見ると、父なる神はうれしくって、とこしえのいのちに至る祝福を宣言したくなるのです。
 「災い転じて福となす」ということわざが日本にはありますが、それは愛の神様がいてこそ成り立つことわざではないかな、と思います。
 何回も繰り返して申し訳ないのですが、兄弟愛が神のみこころを動かすほどに神に喜ばれるものであることを、この(詩編133篇)でうかがえます。
 神が兄弟愛をいかに愛しておられるかを追証明しましょう。旧約聖書では多くのルールがありましたが、新約聖書でイエス様は一つだけ新しいルールをお与えになりました。
 そのルールが、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」です。なぜこの一つなのでしょうか?神は兄弟愛を望んでおられるからです。
 私たち一人一人と個人的につながる以上に、兄弟という一つの群れ、ユニットが愛し合っているということの喜びの方が、神様にとってはもっと大事に思われることなのです。
 親は子どもが仲良くしていることを喜び、仲違いしていれば悲しみます。人間でさえそうなら、人の心をご自身に似せて創られた神様はもっとそうでしょう。
 仲直りできることこそ真の兄弟愛であると言えるならば、まことの兄弟愛は互いに赦し合うことであると言えるのではないか、と思います。
 「時間が解決する」とは、赦せるようになる時間のことですね。肉親の兄弟は、多少心の傷は残るけれど、赦せる時間があれば赦し合うことができます。私たち自身もよく体験してきたことですね。
 まことの兄弟の証は、赦し合う、受け入れ合えることだと思います。どのくらい時間がかかるかはわかりませんが、ともかく、兄弟であれば赦し合えるという結果を生み出すのです。これは自然です。
 神様は私たちの心をそのようにお創りになりました。なぜなら、神のお心のかたちにも似せて、私たちは創られているからです。愛による赦し、これは肉親にしかできないことです。
 そして私たちはイエス様の血潮によって、神様の子として新しく生まれました。霊的な血潮・血のDNAを受け継いだ、皆生まれや顔、年齢は違えども、イエス様を信じてイエス様の血潮によって生まれた、神の家族・肉親(霊親?)です。
 私たちは家族としての意識があまりにも弱いと思うのです。それは、個人主義という教えが社会の中にはびこっているからです。私たちは互いを、「やっぱり他人」と言ってしまわないように気をつけましょう。
 夫婦は血がつながってないので他人同士、でも我が子は血がつながっているので夫(あるいは妻)よりも我が子を愛する…と世の中ではそういう言い方をしますね。
 確かに夫婦は他人ですが、他人を結び合わせるのは愛の絆です。他人を肉親のように結ぶ絆は、神を愛する愛の心です。だから、他人でも肉親のように赦し合うことは可能なのです。
 ただ、意識として「肉親と同じだ」と信じることができているかどうかで、違ってくるのです。反対に言えば、血のつながった兄弟でも、「あんたとは血がつながってない」と言い張る人は、憎しみを持ち続けるでしょう。ここから考えると、肉親という自然のつながりは、「赦す」という愛が無意識のうちに働く関係なのだと言えます。
 私たちもキリストの子として新しく生まれたのですから、皆家族です。皆さん、キリストを信じる者は、イエスの血によって新しく生まれた肉親ですよ。こういう真理をしっかりと受け止めるまでには時間がかかるでしょう。いろんなことを通して、開かれてくるでしょう。すぐに赦せる心にならなくてもいいのです。
 ラザロとマルタとマリヤは肉親であって、神の家族の兄弟姉妹でもありました。それで、他の人の兄弟関係よりもうるわしく、イエス様の目に映ったのでした。イエス様の目は神様の目ですから、神様に喜ばれていたのです。
 「もう一度見たかった」と神様のお心があったと思うのです。兄弟愛を大切にされる神様であればこそ、のラザロのよみがえりであったと解釈ができます。
 『棣鄂之情』、大事にしていきましょう。

『うるわしき 風に揺られる 秋桜』
 コスモス(秋桜)はこの時期の季語です。冬が近づいて冷たい風が吹いてくると、ひとかたまりのコスモスがみんなふわ〜っと一緒に揺れます。揺れるコスモスの姿を見て、兄弟愛のうるわしさがそこに見えるんだな、と思ったという俳句です。
 どうぞ皆さんも、そういう自然の中の美しい姿を見て、「私たちも神の目にこのようにうるわしく思われるような兄弟愛で、人生を互いに支え合う神の家族でありたい」と願っていただけたらと思います。今は風が吹いても、てんでんばらばらの方向を向いているかもしれませんが、同じ方向を向けるように訓練されていきたいですね。

 

 

 

 

■2015年11月15日 日曜礼拝メッセージより(小栗伝道師、横路伝道師)

 天に目を向ける2  up 2015.11.15


あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。
(マタイ16:23)

だからこう祈りなさい。「天にいます私たちの父よ。・・・御国が来ますように。・・・」
(マタイ6:10)

 

 

 

【小栗伝道師メッセージ】
1.神の愛についていくとは
“あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。”(マタイ16:23)
 そもそも興味・関心がなければ、ついていきたいという思いは生まれません。今日もそれぞれの方が通られているところに応じて、少しずつ神様への思いが導かれておられるのではないでしょうか。また、イエス様との出会いにより、人生の変わり方が大きいほど、ついていきたいという思いは大きくなります。義務的な思いの方も、やがて自発へと変わるように、神様は願っておられます。
 さて、このみことばにあるように、私たちは神様について行きたいと思いつつも、案外人のことや自分のことを思っていることが多くあります。
(詳訳聖書)
“お前は神のご本性(ご性質)に属することではなくて人間の本性に属することを考えている。”
(リビングバイブル)
“お前はただ人間的な見方をして、神様からの立場からは考えてみようとはしないのだな。”
 神様のご愛、ご計画でなく、あくまでも自分に関わる対人間的な、ご機嫌取りをしたり評判を得たりすることに思いを向けているのは、「人のことを思っている」状態です。
 この場面は、イエス・キリストを「神の御子キリストです」と、ペテロが神様に示されて告白した後、イエス様がご自分の十字架の死と葬りと復活という、魂の救いのための神のご計画を語られましたが、ペテロがイエス様をいさめて(非難し警告し)、「そんなことは断じてあり得ません。」と語った直後、イエス様がペテロに語られたところです。
 「人のことを思う」とは、ペテロでいうならば、まず人情的な思いが働き、尊敬するイエス様を失うことなど考えられない、ということです。私たちも人情に走ると、必要な忠告のタイミングを逃すことすらあります。またペテロは、「イエス様が地上での王国を作られる」というペテロ自身の計画にそぐわないことを考えたことでしょう。しかし、これらのことは神様のご計画を否定するものでした。
 神様が自分に何をしてくださったかを考えることは、とても大切なことです。イエス様はご自身の永遠の栄光をすべて放棄されて地上に来られ、私たち人間と同じ歩みをこの地上でしてくださいました。マリヤの胎に置かれ、飼葉おけの中に寝かされ、そして神である方があえて人の手に取り上げられることを受け入れるとは、へりくだりでなくして何でしょうか。これはすべては魂の救いのために他なりません。
 神様は、私たち人間を愛し、思ってくださっていますが、私たちが自分も含めた人のことを思っている間は、神の愛についていくことは本当はできないと言っても過言ではありません。
(マタイ16:24)
“…「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」”
 さて「ついていきたい」と思うことは自由意志であり、強制されません。
 そのためにまず自分を捨てること、(※詳訳:自分と自分の利益を無視し、目もくれず忘れること)とあります。自分を捨てられないのは、人のことを思っていることにつながります。人生の成功を求めるなら、自分を喜ばせる、自己実現、自分のための人生です。まるで神様を自分の計画について来させるという形です。
自分を捨てたら神様が助けてくださり、人生の主人となってくださいます。
 そして自分の十字架を負うことです。人にはそれぞれ負うべき重荷があり、神様はその人の性質、状況をみな知っておられます。私たちはもし重荷がなければ、慢心し安住してしまい、主にすがる状態にならないかもしれません。重荷があるからこそ、神を求めさがすでしょうし、神への純真さを失わないでおれるかと思います。その上で「ついて来る」=従っている、堅くよりすがるのです。

*心を転じたソロモン(第1列王記11:1〜6)
ダビデの次にイスラエルの王となったソロモンは、主に知恵を求め、外国の王たちが助言を求めてくるほどの知恵深さが与えられました。さらに富、財宝も与えられ、神殿の完成時の主への祈りは、主への敬いが本当にあふれたものでした。
 しかし彼は、主から「入れるとあなたの心を転じる」とかねてから注意されていた他国の女たちを妻、そばめとして迎えていました。主の忠告を知りつつも、そばに置きました。
 当然、彼女たちの偶像礼拝の習慣が、次第にソロモンの心に影響を与えたことは否めません。主の助言があっても、彼女たちを愛して離れなかった、とあります。
  「年をとったとき」とあるように、神様はそれまで悔い改める機会を与えておられたはずです。申し分のない、恵まれた歩みの中では、主への思いが薄れていくのかもしれません。あったはずの主との強い絆も、徐々に徐々に薄められたかもしれません。
 また、ソロモンには命がけの戦いの記録がほとんどありません。つまり、追い込まれていない人生では、主を呼ぶこともなく、自分の思いと戦わず、自分を捨てることができなかったのです。そうしなくても十分歩んでいけたからです。
 人生に戦いがあることは幸い、とも言えます。今もし苦しみの状況におられる方、卑屈になることなく、主が共におられ、主とさらに深いつながりを持つことができると信じます。
 ソロモンの没後、残念ながらイスラエルは二つに分裂するという状況が引き起こされてしまいました。
【参 考】(第1ペテロ2:21)
“…キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、…”
 「あなたがたのため」とは、私たち罪人を愛するが故に救うためです。「苦しみを受け」とは、(イザヤ53章)にあるように、神であるイエス様がさげすまれ、顔をそむけられるような状況もあえて忍んでくださり、極刑というむごたらしい、みじめな十字架刑にかかられ苦しんでくださったことです。イエス様がそれをしてくださらなければ、私たちの救いはないからです。私たちがこの地上で、そのイエス様の足跡に従おうとするとき、肉は痛み、「なぜですか」と言うこともあります。しかしイエス様の苦しみの姿を思いみて、「私もあなたの愛についていかせてください。」と心を新たにできるのではないでしょうか。
(ピリピ2:16)
“いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。…”
 今、日本でも毎日のように殺傷事件が起こり、世の中は人の命を平気で手にかけるような時代です。ここでいう「彼ら(の間で)」とは、この曲がって邪悪な、霊的に堕落した、ひねくれた時代を指します。イエス様によって、偽りのない、悪に染まらない、傷のない、純真な神の子にされた私たち。イエス・キリストの十字架を信じて罪が赦されて、歩みを新たにするように導かれている私たちに対して、今はとてもそこまではできない、ついていくことすら難しいと思っておられる方へも、神様は道を導いておられます。この暗い世の中にあって、信じた人の内におられるイエス様を認める歩みを掲げていき、どんなときも神から愛を注がれている者として、私はこの神の愛についていきたいという思いをこの一週間心がけてまいりましょう。

【横路伝道師メッセージ】
2.祈りを教えられた神の愛(マタイ6:9〜10)
「天にいます私たちの父よ・・・・御国が来ますように・・・」
*御国はわたしたちの天の故郷(ふるさと)
 皆さんは天国のイメージはどのようにお持ちでしょうか。まだ行ったことがないのでなかなかイメージが湧きにくいですが、天国は、神様の愛が満ちあふれている所です。また、神様が愛によって治めておられる所なので、素晴らしい所であり、私たちの故郷です。私たちは救われ、天国に国籍があるので、間違いなく天国に行ける約束をいただいているのです。旧約時代のアブラハムたちは天の故郷にあこがれたとありますが、私たちもこの地上では旅の途中です。天国が本当の家であり、故郷なのです。
私(横路伝)のイメージは、天国は温かい光と愛があふれる世界であり、私たちの人生の様々な苦労や、人には言えない痛みや苦しみを全部見ていてくださる神様が、それらを豊かに何倍にもして報いてくださるところであると思います。
 また、天国には罪がなく、涙も病気も死もなく、飢えやしいたげがない平等な世界です。悲しみや不正がなく、命に満ちあふれ、元気で喜んで過ごすことができる場所です。天国に行ったら皆若い姿になり、それぞれの得意分野で生き生きとして過ごすことができます。「御国が来ますように」と心から祈るためには、この天国にあこがれて待ち望むことが大切です。
 (コロサイ3:24)には「あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知ってます。あなたがたは主キリストに仕えているのです。」とあります。私たちは今朝、礼拝に来るということを通して主に仕えているので、主からの報いがあることを感謝します。

◎御国はすでに来ている(救い主が来られた)(ルカ17:21)
「・・・神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」
 イエス様が2000年前のクリスマスに地上に来られた時に、天国が地上にすでに来たと言われます。なぜならイエス様が天国をあらわされたからです。「あなたがたのただ中にある」という天国は、私たちの心の中に、神様の愛の支配が来ているということを表しています。

◎御国の完成は未来にある(再臨と新しい天地)(イザヤ65:17)
「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。・・・」
 イエス様は今度は雲に乗って、再臨の主として来られます。いつ来られるのかはわかりませんが、神様の決めれおられる時に主はもう一度来られます。そして新しい天と地ができるのです。
(黙示録21:1〜4)
「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。『見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。』」

◎御国の完成のために
 御国の完成のために、私たちにはするべきことがあると思います。
(1)失われている罪人の救いのために
 私たちは、まだ救われていない私たちの家族、友人、知人のために祈り、とりなしをし、福音を伝えるためにこの地上に今生かされていると思います。

(2)私たち自身の備え
「・・・天の御国はこのような者たちの国なのです。」(マタイ19:14)
 もう一つの私たちがすべきことは、聖くなることです。聖くなるには、良いものに触れることです。聖いお方、イエス様に触れるなら、私たちは聖くなります。そして、純粋な子どものような心を持つことです。悔い改めて純真な心で神様を愛し、隣人を愛する者となりたいと思います。
 「天国は本当にある」という実話からの本があります。コルトン君という4歳の男の子が、盲腸が破裂してしまい、天国に行き、すぐに地上に帰ってくるのですが、その子が元気になって、お父さんお母さんに天国の話をぽつりぽつりとし始めます。彼は、天国でイエス様のひざに抱かれて、色々お話しをしたそうです。その本の中で一番感動したのは、イエス様が私たちを心から愛していらっしゃるということです。コルトン君はお父さんに、
 「神様はすごくすごーく僕たちのことを愛しているんだよ。」「イエス様はパパに話してって言ったんだよ。イエス様は本当に子どものことを愛しているんだよ。」と何度も何度も話したそうです。
 ある年配の方が亡くなる時に、コルトン君がお父さんについてお祈りをしに行きました。帰りぎわにコルトン君は、もう一度トコトコとベッドに近づき、背伸びしてその方の手を握り、「大丈夫だよ。最初に会う人はイエス様だからね。」と言ったそうです。
 イエス様は私たちを待ってくださっています。私たちもこの少年のように、純真な心で天国を待ち望んで行きたいと思います。

 

 

 

 

■2015年11月8日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 飲水懐源の愛  up 2015.11.8


『飲水懐源』(いんすいかいげん)
物事の基本を忘れないこと。
他人から受けた恩を忘れてはいけないということ。

主題聖句(ヨハネ10:40〜42)
そして、イエスはまたヨルダンを渡って、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた所に行かれ、そこに滞在された。 多くの人々がイエスのところに来た。彼らは、「ヨハネは何一つしるしを行なわなかったけれども、彼がこの方について話したことはみな真実であった」と言った。そして、その地方で多くの人々がイエスを信じた。

 

 

 

 何かの始まり、きっかけを通して今の私たちがあります。その根本、基本を通して受けた恩は、決して忘れてはいけないという意味です。愛は基本、初めを大切にします。そして愛の基本は純真さであるということを今日学んでいきます。

1.初めての場所へ(ヨハネ10:40-42)“みことば前述”
 おられたイエス様の心情を考えてみました。形だけの清めではなく、まごころからの清めを神は望んでおられます。そして宮清めの後、イエス様はまたユダヤ人たちから論争にをふっかけられます。彼らは何が正しいかが問題ではなく、いかにイエス様を否定し、いかに論破できるかということばかりに気を取られていました。こういった彼らの頑なさにイエス様はわびしく感じられたことでしょう。
 この後、イエス様はバプテスマのヨハネが初めにバプテスマを授けていた所に行かれます。ここで「初めに」ということばが重要になります。この場所こそ福音の出発点であるからです。 
 バプテスマのヨハネはイエス様が来られる前に道備えをしました。これはずっと預言されていた通りです。そしてイエス様は来られ、この場所でヨハネからバプテスマをお受けになりました。まさにこの場所がイエス様の公生涯の始まりの場所であったわけです。そこでは「悔い改めのバプテスマ」が授けられていました。福音の初めは「悔い改め」からなのです。
 さらに「悔い改め」は立ち返ることであり、元に戻ることです。では元に戻るとはどういうことでしょうか。それは創造の初めである神に立ち返ることです。聖書では私たちは神に愛される神の形に造られた者として記されています。しかし、アダムとエバから欲望による罪が人類に入り込んでしまい、人は神から離れた存在になってしまいました。イエス様はこの人類を元の神の子に戻す為に来られ、この場所から、神に立ち返ることができるという良き知らせである希望の福音が語り始められたのです。
 この出発点を考える時、悔い改めとは全人格的なものであり、特に私たちの心の姿勢、世界観であり価値観であるアイデンティティを全く変えることであることがわかります。
 私たち人類の間違いを示すためにイエス様は来てくださいました。私たちは迷いの多い者です、この迷いは自分の原点がわからない、自分が何者であるかわからないというところからきます。そのために人は色々な迷いの人生を歩んでいます。しかし、クリスチャンはその原点をイエス様の福音により見出しました。それゆえそこから迷い出ることなくしっかりとぶれないように、神の子である自分、神に愛されている自分であるという人生の土台、アイデンティティの上にしっかりと根ざして歩む必要があります。そのためにみことばの導きがあります。
 イエス様が初めの場所、原点となる所に帰られたということから、「愛は出発点、原点を大切にする」ということがわかります。愛は初めの状態を大切にします。夫婦関係が良い例です。夫婦も時間が経つとなんとなくマンネリ化してきます。結婚した当時の純真な愛から遠去かっているように感じられ、特に女性は寂しく感じたりするようです。
 それゆえ最初の純真な愛、結婚式で誓った愛に帰りたいと願います。
 初めに立ち返ることが愛を保つために重要なことです。すべての物事には基本があり、そこから離れるとスランプに陥ります。何事でも基本に立ち返ることは本当に重要なのです。
 イエス様がこうして初めの場所に帰られ、そこに滞在されたのはなぜでしょう。ユダヤ人は悔い改めることを拒否しました。しかし、出身はユダヤ民族でも異邦人とみなされていたこのヨルダンの地方の人々は皆、イエス様の話を聞き、悔い改めて神に立ち返りました。それは純真な心が彼らにあったからです。
 純真な心を失ったら原点に立ち返るための悔い改めはできなくなります。そして、神の愛を感じることも見ることも知ることもできなくなります。それゆえイエス様はかたくなに拒絶する人々のもとを去って、初めに悔い改めが説かれた場所に帰られ、まだまだ純真で聞く耳のある人々に教えられたのではないでしょうか。
 「悔い改め」と「愛」とは関係が深いと思います。愛が継続されるためには、悔い改めて最初の原点に帰ることが必要です。それがないと信頼関係も薄れてきてしまいます。原点からずれてしまったら、必ず戻ろうとするのが愛です。それがイエス様の行動を通して考えられることではないでしょうか。

2.初めの愛に立ち返る(黙示録2:3-4)
“あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。 ”
 
 ここには、よく忍耐し耐え忍んできたと二重に忍耐が記されています。エペソの教会は本当に優れた教会であると言えます。なぜなら完全な忍耐は人格を磨き、徳を高め、完全な者とするとヤコブ書にもあるからです。しかも疲れたことがなかった(心くじくことがなかった)とあります。信仰の迫害の中でも彼らはしっかりと立っていたのです。
 これだけ素晴らしい百点に近い教会に対して、神さまは非難すべきことがあると厳しく指摘されています。しかもその一点のために、その他のことが評価されなくなってしまうほどの大切なことだと言われました。それは「初めの愛から離れてしまった」ということです。
 神さまが最も大切にしていることは「愛」です。それなのに、その初めの愛から離れてしまうということは、それまでしてきたことが何の意味もなくなってしまうほどの大きな失点であるのです。
 愛で最もたいせつなことは純真さです。純真さがなかったら愛ではなくなります。これこそ愛の土台です。それゆえ愛は常に初めに帰ろうとするのです。時間が経てばこの世の物は古びていきます。しかし、愛はそうではありません。愛は時間と空間に左右されず、常に最初の愛を保ち続けられる神のような存在です。神は愛だからです。
 いつの時代でも純真な愛を持ち続けられる神様、その愛を継承する私たちに、神様は純真さを失わないよう教えておられるのです。純真さは愛の関係を保ちます。
 いろいろな人間関係、例えば夫婦関係にあるマンネリ化はそこに純真さが失われているからです。結婚した時の愛にいつも立ち返っていくなら、ふたりの間はいつも純真な清い愛が継続していきます。しかし人は弱い者で、なかなかそのような愛にとどまれません。そのために、神様は私たちに悔い改めて最初の愛に立ち返ることを、しっかりと教えてくださっています。
 悔い改めは単に責められるというような嫌なことではありません。本当の意味は、立ち返ることであり元に戻ることです。罪から離れるというのではなく、罪を犯すことのない神の子という本来の姿に立ち返ることです。そして、悔い改めは純真さの初めです。
 イエス様の救いに出会った時に立ち返ろうという心からの純真な悔い改めこそ、本当の悔い改めです。
 私たちは天国に行くというより、天国に帰ろうという表現をします。元ある所に帰るのです。そして天国に帰るまで悔い改めの人生を私たちは歩んでいます。それは希望です。初めの愛を見失うことは愛の関係が切れてしまうことです。
 初めの愛、純真さこそ大切なのです。イエス様はその純真な愛にとどまってくださいます。それは、ヨルダンに戻られたイエス様がそこにとどまられたということからもわかります。
 今週、私たちはいろいろな人間関係、家族、夫婦関係、あらゆることを通して初めの愛に立ち返ることの大切さを思う一週間にしましょう。

 「菊咲かす 基本解れば 楽しみも
      大きく咲かす 希望が香る」

 

 

 

 

■2015年11月1日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 含垢忍辱の愛  up 2015.11.1


『含垢忍辱』(がんこうにんじょく)
じっと恥辱を耐え忍ぶこと。
「垢」=あか、よごれ、けがれ。
「忍辱」=侮辱や苦しみに耐え忍び、心を動かさないこと。

主題聖句(ヨハネ10:22〜23)
そのころ、エルサレムで、宮きよめの祭りがあった。
時は冬であった。イエスは、宮の中で、ソロモンの廊を歩いておられた。

 

 

 

 今、ヨハネ伝から、神様の愛が見える愛として現されたイエス様の行動を通して、神様がどのような愛の行動をなされるのかを学んできています。
 イエス様は私たちを愛しているがゆえに、私たちが受けるべき恥を身代わりに受けてくださり、私たちが失望して滅びることがないように、愛をしっかりと表してくださっています。
 今日は、愛する者のためにじっと恥辱を忍ばれた含垢忍辱の愛を、この箇所から学んでまいりましょう。

1.ソロモンの廊を歩かれたイエス様(ヨハネ10:22〜23)
 ソロモンの廊とは、王宮の庭園の中にある屋根付きの広々とした通路のようなところを言うのでしょうか。そこを、イエス様はどんなお気持ちで歩いておられたのかということを通して、神様の愛を考えてみたいと思います。

【内容観察】
★宮きよめの祭り
 シリアの王アンティオコス四世によって圧政の中にあったユダヤ人は、エルサレムが破壊され、神殿が汚されていたのを取り戻すための戦いをした。(マカバイ戦争/紀元前168年〜141年)アンティオコスの急死によって終戦。エルサレムと神殿を取り戻し、それを主のために清めたことが起源である。奉献の祭り、光の祭りとも呼ばれる。
 
 マカバイ戦争は、あまりにもひどい迫害の中で、ユダ族のある部族を中心に奮起し、主に叫び求めて戦う中で、アンティオコスが神様によって打たれて急死し、イスラエルが勝利をつかみました。神様の介入があったと言える歴史的事実の一つです。この祭りは、この戦争を機にエルサレムと神殿を取り戻し、神の前にまたささげものができる喜びをもって、奉納をし宮きよめをし、モー
セの律法に従って選民としての歩みができるようになったしるしとして長く続いている祭りです。
 異邦人によって汚された神殿を取り戻し、あるべき神殿へときよめた祭り、さらにここからユダヤに神の光が取り戻された光の祭り、という意味です。

★時は冬であった
 クリスマスとほぼ同時期に行われていた。寒い時期。
 季節は私たちの感情に大きな影響を与えます。あえて、ここで冬に行われるとわかっている宮きよめの祭りを「時は冬であった」と記された神様の意図があると思います。

★ソロモンの廊
 第二神殿を修復したヘロデ王が、自分の威光を他国人にも見せつけるため、神殿の外庭に新たに設けた回廊。異邦人も自由に入ることができるところ。
 ソロモンが建てた第一神殿は、バビロン捕囚の時に壊され、70年後に第二神殿が築かれました。そしてヘロデ王は、本来、神に啓示されて造られるはずの神殿に、以前にはなかったソロモンの廊を勝手に造ったのです。それは異邦人が自由に本殿を見ることができるようにされており、まさにヘロデ王の自慢でした。
 本来、改宗していない異教徒とみなされる異邦人が入ることは、神殿の聖い領域を汚すという問題が起こるにもかかわらず、祭司たちはヘロデ王が造ったものを認めていたのです。
 喜びにあふれ、賑わっている祭りのさなか、冬の寒い時期にソロモンの廊を歩いておられるイエス様は、喜んでおられたでしょうか。

【イエス様のお気持ちを考える】
御自身のからだを神殿にたとえられたイエス様(ヨハネ2:19〜21)
本当に神殿がきよめられているのでしょうか。
 
 神ご自身であられるイエス様は、モーセ五書の内容をご存知であられます。神殿に異邦人の入る場所があることは、イエス様にとって喜べるはずはなく、宮きよめと言いつつも、全然きよめられておらず、愛するイスラエルにお与えになった神殿がこのように扱われていることに、怒りよりもむしろ悲しみが心にあふれておられたのではないでしょうか。
 きよめの祭りとは言え、きよめられておらず、彼らの閉ざされている心の目、罪、汚れに気づかないでそれを受け入れているような神への信仰に対して悲しんでおられます。しかし、イエス様はイスラエルを愛し続けておられるからこそ、怒りではなく悲しみをお持ちなのです。愛しているからこそ、十分に悟りきれていないのを見て、悲しんでおられるのです。
 (ヨハネ9章10章)には、ことごとくイスラエルの人々がイエス様を拒絶し続けている内容があります。そのかたくなな心の彼らへの愛を注ぎ続けておられる応答として、はずかしめをその身に感じるほどの悲しみを持たれたということです。神様の愛は悲しみを持たれる愛です。愛する者のために悲しみをも受け止めて、味わい耐え忍ばれるお方です。
 神殿が汚されることと、ご自分の体を汚されることを重ね合わせて、イエス様のお気持ちがどんなにつらいものであったか考えていただきたいと思います。

【デボーション参考ポイント】
 教会はキリストのからだです。(エペソ1:22)
 
 すなわち、私たち教会は神殿と同じにみなされています。ヘロデ王が資金を出したので妥協せざるを得なかった祭司たちの判断で汚されてしまった、ソロモンの廊の存在と同じく、私たち教会も、この世と調子を合わせてしまって神様はお喜びになるでしょうか。
 私たち教会は、神の神殿、神の御住まい、パン種一つない聖い場所でなければなりません。それを救いを盾にしてこの世と調子を合わせているところはないかを考えていただきたいのです。
 「私たち」と「この世」は違うものであることをはっきりさせておかなければなりません。福音を光としてこの世に輝かせることが、神のみこころです。彼らと同じようにすることではありません。
神のきよい愛を守り抜く思いを探られる場面ですが、このような至らないところが神の愛の心を悲しませていることを知ることが大事です。現に悲しんでいる方がおられるのです。
 もしあなたが、愛する人が悲しんでいるなら、放ってはおかないですね。悲しみの原因を聞くのは、それを取り除きたいと願うからです。
 私たちが気づかないでいる罪に、神が悲しんでおられることを知ったならば、神を悲しませたという愛のゆえに、悲しませたその原因を取り除きたいと自ら思うように心が動くのが、神への愛です。その動機なくして罪から離れることはできません。すぐに離れられなくても、罪のために神が悲しまれていることを知っていたなら、「今は全部はできないが、何とかしてその悲しみを少なくしたい」という気持ちを持つことが、神を信じる愛によって働く信仰ではないかと思います。祭司たちが、神殿運営のために当然のように妥協して、平気でソロモンの廊に異邦人を自由に入れて、罪とも思わないでいる彼らを、イエス様は悲しんでおられました。
 私たちも開き直ることなく、少しでも神様の悲しみが少なくなるようにと、自分が神の宮、神殿であることを踏まえて、少しでもきよくなりたいと考えていただきたいと思います。

2.十字架をしのばれたイエス様(ヘブル12:2)
“信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。”
 
 神の御座に着くことは神が決められることであり、イエス様は愛をもってはずかしめを受けられ、その愛の行為の報いとして、神ご自身の右の座に就かれたのです。イエス様の喜びとは、将来にもたらされる喜びでした。

【内容観察】
 父なる神への愛の創始者であり、その愛を全うされたイエスから目を離さないでいなさい。イエス様は、贖いの苦しみのあとにもたらされる罪人の救いの完成という喜びのゆえに、愛する者たちのために、はずかしめられることを逃れようとせず、十字架の恥辱を甘んじてお受けになられ、その愛を全うした者にふさわしい神の右に着座されました。

 私たちは罪を犯して滅びに至る者でしたが、神は私たちを滅びに至らせたくないので、愛のゆえに、罪なき者が人類の身代わりに裁きを受け、罪を裁くという、律法の義にかなった特例を作られました。
 私たちが救われ、最初の目的である永遠に御国を受け継ぐ相続人となり、あるべき姿に返ることをイエス様は喜びとされました。
そのために十字架にかかって人々の罪のためにはずかしめを受けるという時、プライドを捨てなければ、できることではありません。
プライドを捨てるのは欲望のためか、愛のためです。未成年の子どもが犯した罪に対して親が責任を持つのは、親子の愛のつながりがあるからです。父なる神様が私たちの未熟で霊的に幼い罪を、十字架で身代わりとなって罰を受けることは、当然の愛の証でした。
 神様は、私たち罪人の恥をご自分の恥として、「我が子」として十字架で背負われたというのが、「はずかしめをものともせず、十字架を忍ばれた」ということです。恥を受け入れるのが愛です。「愛」は悲しみを持ちますが、しかし、じっと耐え忍んで成長を待つということを、神様はまさに十字架で表してくださっています。
 これほど神様から愛されていても、自分はなかなか罪から離れられないと言って、自分で勝手に神様から遠のいていくことは、自分のプライドを守ろうとしているのであって、神様を悲しませていることを知っているとは言えないでしょう。少しでも神様を悲しませないようにしようというのが、正しい応答ではないでしょうか。
 
(サムエル記)に出てくる預言者サムエルの母ハンナは、ご主人に非常に愛されていましたが、主人の未来の保証となれない不妊の女でした。しかし彼女は夫の悲しみを少しでも軽くしたい思いで、宮に行き心を注ぎ出して主に懇願しました。
 少しでも愛する人のつらさを軽くしたいというのが、愛する方への愛であり、この後ハンナは、大きな働きをするサムエルを産みました。
 私たちが自分の信仰が至らないからと言って、神様の重荷になるだけだ、と「教会に行くのを止めよう」とか、信じていると言える生活ができていない、神の愛を表すどころか怒ってばかりと言って、神様から遠のくのは、結局自分がはずかしめを受けないように逃げているのではないでしょうか。
 神様にこれだけ愛されていて、その愛からは離れられないわけですから、唯一できることは、悲しみを与えている原因を少しでも少なくしたいと、その愛に応えることではないでしょうか。
 だから、神様の愛から目を離さず、その愛に報いることができるように、自分の力量にふさわしく、神の愛に応えていっていただきたいと思います。
 先の先を見ておられるイエス様は、ソロモンの廊を歩かれながら、悲しみを持っておられたけれども、イスラエルがきよめられて救われるという望みを持って未来を見ておられたとも思います。
 最後の時が来るまで、私たちのためにとりなしてくださっているイエス様の含垢忍辱の愛を忘れないように、悲しみを持っておられることを踏まえて、どう応えていけるかを、ぜひ一つでも考えてみてはいかがでしょうか。