■2015年10月25日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 胆大心細の愛  up 2015.10.25


『胆大心細』(たんだいしんさい)
大胆ではあっても細かな気配りを行うこと。

主題聖句(ヨハネ9:1〜7)
またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。

 

 

 

 愛なる神様は繊細なお方です。愛する者のために集中して、愛の気配りをしていかれます。この場面では、生まれつき盲目の方を神の愛の気配りによっていやし、導かれました。
◎『胆大心細』(たんだいしんさい)
 「大胆ではあっても細かな気配りを行うこと。」
 大胆さは繊細さを欠くことが多いのですが、神様の大胆さは繊細さを併せ持っておられます。愛の細かな気配りが行き届いていることを、ご一緒に見てまいりましょう。
1.『人を罪に定めない愛』(ヨハネ9:1〜7)(みことばは前述)
【内容観察】
★「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこ の人に現れるためです。」
 生まれつきの盲目という不幸の原因は、罪から来ているというのが、ユダヤ社会での一般的な考え方でした。それは弟子たちの質問からも見てとることができます。一般の社会常識を持つ彼らが物乞いをする盲人を見、それが生まれつきであることを知って質問したのです。ユダヤでは病や障がい、災いは罪の結果でした。現代日本の私たちもこれと似た考え方をすることがありますね。この質問を聞いた盲人の彼はさぞかし傷ついたことでしょう。「生まれつき目が見えないとは、よほど悪いことをしたに違いない。」と断定されているのですから。
 しかし、殺人などの罪を犯した記憶でもあればまだ自覚もできますが、彼には思い当たる理由が何もないのです。弟子たちはほんの軽い気持ちで質問したのでしょうが、イエス様は神の愛を持ったお方、彼の心を見られる方です。イエス様のお答えは、盲人を罪に定めるような弟子たちの発言に対して「NO」とも「YES」とも言われないものでした。ただ、「神のわざがこの人に現れるため」だとおっしゃったのです。
 自分の目の前でこのやり取りを聞いていた盲人は、前向きで肯定的なイエス様のおことばを聞いて心が慰められました。もしこのやり取りがなく、弟子たちの否定的な言葉を聞かなかった状態でイエス様のおことばを聞いたなら、かえって腹を立てていたかもしれません。「神のわざのために、私はわざわざ盲目で生まれてきたのか。」と、自分の生い立ちや苦しい現況をますます恨んだのではないでしょうか。
 皆さんも、もしご自分の生活の中で起こるすべての不幸や問題や今直面している出来事に対して、「神のわざが現れるためです。」と言われた時、それを受け入れることがおできになるでしょうか?よほど神様の愛を知っていなければ、そうは受け止められないものです。この盲人がイエス様のおことばを受けとめることができたのは、弟子たちが失礼な質問をしたからです。盲人は「また生まれつきの罪人として私を責めている。」と、傷ついていたのです。それは彼が生まれ育ってくる中で何度も聞かされた言葉であり、ユダヤ社会全体の彼に対する見方でした。
○人は罪に定めるような見方でも、愛なる神様は未来を見て、神のわざが その人に現れるためには何の変哲もない生活では現れないので、神のみわざをその人に行いたいがために、あえてその状態を今まで見逃しておられた。
  ただし覚えておかねばならないことは、私たち人間はすべて罪人であるということです。人はみな、道を外した生き方をしていることを前提に、イエス様はこの発言をされています。
 まともな道を歩いていたら、普通は事故など起こりません。しかし、人間は本来の道から外れて、自分勝手に道ならぬ道を歩んでいます。アダムとエバの時から、自分の欲望を満たすために、神のおことばに従わずに自分の欲望のままに歩む道を選んでいます。そこは蛇が出たり、いのししに襲われたり、狼の群れに出会ったりする可能性もあるのです。神様の道ではない、自分の欲望の歩きたいままを歩いているからです。むしろ災いにあわない方がおかしいほどです。私たち罪人は、災いにあうことが大前提なのです。罪人としての人類の歴史から考えれば私たちは不幸にあうことが当然で、自分の人生をあきらめて歩むしかなかったのです。そして最後には神様から裁かれる運命でした。そんなふうに道を外している私たちに神様が、それでも私たちを愛してくださる愛をもって気配りをしてくださっています。
 この前提に立たないと、「神様がおられるならどうしてこんな災いが起こるのか」と、腹を立てることになります。私たちは道を外しているから、不幸な出来事が起こるのは当たり前なのです。
 それなのに、不幸な出来事にあうことが少ないのは感謝ではありませんか。これを理解できない人は、罪の自覚、罪人としての自覚が弱いと言えます。
 考えてみてください。自分の罪の責任で、また今までのすべての先祖の責任で、自分の今の不幸な状況があると考えたらどうでしょうか。ばかばかしくて生きていられないのではないでしょうか。「どうして自分が罪の責任を全部背負い込まなければならないんだ」と、思われるのではありませんか?
 道を外れて、本来の目的地からそれていくばかりの私たちに、それでも神様は精一杯の配慮をくださって、道を戻そうとしておられるのです。
 この出来事を通して、私たちは神様のご配慮に思いを向けていくことが大事だと思います。傷つき、希望を失っている盲人へのイエス様の配慮。人々から責められるように聞こえてくる言葉に対して、イエス様は愛の配慮をもって「いや、彼の自己責任ではない。神様のわざが現れるためだ。」と言われたのでした。
 責任追及ではなく、今救いがこの人に現れるためだと、ものすごい愛のことば・励ましのことばを贈られたのです。このことばは彼にとって一つの希望となりました。神様のご配慮はそのタイミングもあわせて完璧なものです。
★「地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を  盲人の目に塗って」
★「行って、シロアムの池で洗いなさい。」
 イエス様がいやしをなされる場合、ほとんどはおことばをいただくだけでいやされます。しかしこの人の場合には、わざわざ地面につばきをして、そのつばきで泥を作って目に塗るという作業をされています。簡単につばきをすると言っても、眼に塗るだけの泥を作るには一回や二回では足りないでしょう。
 盲人の側からすれば、イエス様が何をしているのかさっぱりわからない状態です。何やらごそごそしている気配の後、眼に何か塗りつけられ、「シロアムの池に行って洗いなさい。」と言われて、相手がイエス様と知らない盲人は「これは、薬で洗い流せば見えるのかな?」と期待を持ったことでしょう。彼にいやしへの期待(信仰)を抱かせるためのパフォーマンスを、イエス様はされたのでした。こんな具体的なパフォーマンスをされたのは、実にこの盲人に対してだけです。
 なぜ彼にはこんなパフォーマンスをされたのかと言えば、生まれつきの盲人であったがゆえに、神様に対する彼の信仰がつまずいてしまっていたからです。
 皆さんはいかがですか?ご自分の人生に対して、「なぜ自分はこんな人生を送っているのか」と思う時が誰しもあるでしょう。この出来事の流れを見ると、イエス様のおことばは適切にこの盲人の心を励まし、期待を持たせています。泥を目に塗るという行動は、この盲人に一粒のからし種ほどの信仰を持たせるための、励ましのパフォーマンスだったのです。
 私たちも、5分手を置いて祈ってもらうのと30秒祈ってもらうのでは、5分祈ってもらった方が信仰を持てたりします。このように、眼に見えるパフォーマンスは信仰に影響をもたらすものなのです。
 ただ人間に期待してしまう愚を犯さないために、パフォーマンスに頼り過ぎないようにしましょう。幸いに盲人の彼は、目の前の方がイエス様だということさえ知らなかったので、人に頼らずことばに頼りました。
 「目に何かを塗られ、『シロアムの池に行って洗いなさい。』と言われた。」ということばに、彼は信頼を置いたのでした。その信頼の証として、彼はシロアムの池に一人で行きました。
 イエス様はなぜ、盲人を一人で行かせられたのでしょう?信仰は聞くだけであってはいけないのです。聞いたことを信じた人は行動に移す、というのが、本来の信仰の全てです。聞くだけでは50%、後の50%は実行することで達成されます。
 盲人がこのことばを本当に信じて受け入れて、このことばを頼って信仰の行動をとれるかどうか、イエス様は課題を与えられました。
 私たちも聖書のおことばやメッセージを聞いて、そこで終わっていたのでは信仰は半分です。本当に信じて「ああ今日は良いメッセージだった。」と思うのだったら、聞いたことを行動に現してください。
 それで100%の信仰になった「洗えば何かが起こる」という彼の期待の心は、信仰の心と同じだということです。
(第1テサロニケ5:16〜18)“いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。…”とありますが、「なぜいつも喜ばねばならないのだろう?」と心に問う必要はないのです。信じる者には何かが起こります。何かが起こるまで、喜び、感謝し、祈り続けるのです。この盲人がシロアムの池に行く時の心境が、正にそうだったと思います。「これでだめだったら、私の人生は本当ににおしまいだ。こんなことを言ってくれる人は、嘘でもいない。」今までこんなことはなかったし、これからもないでしょう。お金を取って薬を与えて、何も起こらなかったなどという事ならよくあります。しかし「神のわざが現れるためだ」と目に何かを塗ってくれて、「洗いに行きなさい。」と言ってくれた人はこの人だけです。
 盲人の心は葛藤したことでしょう。「ばかばかしくって行けるもんか。」とか「本当に行けるのだろうか。誰か助けてくれないだろうか?」とか。
 人に頼る信仰ではなく神のおことばと向き合って心の中で葛藤しながら、それでも期待してシロアムの池までたどり着き、目を洗ってみたら、何と目が見えるようになったのです!神のわざが現れたのでした。
 シロアムの池にたどり着くまで、盲人がどんな目にあったと思われますか?今と違って平坦な道などありません。宮殿から出発してたくさんの階段を通り、盲人用の目印などない入り組んだ通路を歩いたのです。それは大変な行程だったことでしょう。それを最後までやり遂げることができた彼の支えは、「シロアムの池にさえ行けば、何か神のわざが現れる!」
 もし弟子たちが付き添って行ったなら、イエス様のおことばに対してここまでの期待と信仰を持つことはできなかったでしょう。一人でシロアムの池まで行く道筋は、周りの人から見ると「この人目に何か付けて、よろよろ何をしてるんだろう?」と思われるような状態であっても、彼の心の中はただただ「洗えば何かが起こる!」というそのことばだけに集中できていたのでした。
 ここが大事なところです。これも神様の愛の配慮であり、常識を超える大胆な判断の中に、永遠のいのちに至る信仰へと導く細やかな愛の気配りがこの出来事の中にぎっしりと詰まっているのです。
 文字には書かれていない部分ですが、皆さん想像してみてください。愛そのものであるイエス様の行動ですよ。愛のない行動など、絶対にとられません。どんな配慮、気配りをイエス様がしておられたのか、ぜひ皆さんも考えていただきたいと思うのです。
 神様は、あなたにも同じように愛の気配りをしておられます。それに気づけば気づくほど、私たちは素直にみことばに従えるのですが、気づかなかったら痛い目にあったり、うまく行かなったりすることが多く起こりますので、ぜひ素直に神様の愛を信じて、聞いたことを実行してみてください。

2.神のわざを行う(ヨハネ6:28〜29)
“すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行うために、何をすべきでしょうか。」イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」”
 神のわざとは一体何でしょうか。奇跡を体験することでしょうか。ユダヤ社会において「神のわざを行う」と言う時に「神のわざとは何か」という概念がありました。しかし、そのことに対してイエス様は、「それはポイントがずれているよ。」という意味をもって、「神が遣わした者を信じること」と、意外な回答をユダヤ人たちにされました。
【内容観察】
すると彼らはイエスに言った。「私たちは、義なる神のわざを行うために、どのようなことをすればよいのでしょうか。」イエスは答えて言われた。「あなたがたが、愛なる神が遣わした愛そのものである者を信じること、それが愛の神のわざです。」
 律法を中心にすると、「愛なる神」より「裁きの神」というイメージがつきます。ですからユダヤ人たちは、自分が義と認められるということを非常に重んじました。
彼らは、義と認めてもらえるための神のわざ(神様がなさることは全部義ですから)を探求し続けていたのです。イエス様がどのようにお答えになるか、ユダヤ人たちは興味津々だったでしょう。
 ところがイエス様のお答えは「神の遣わされた者を信じる事」でした。神は古くから預言者を遣わされており、やがてはモーセと同じような預言者、救世主を遣わされることを約束されていました。この救世主を信じることが神のわざであると、イエス様はおっしゃったのです。それが神に義と認められるわざである、と。
 罪人が唯一、神の前に義と認められるのは、正しい行動ではなく、神の愛であるイエス・キリストを信じることによってのみであるということを、イエス様はここで示しておられます。
 民の指導者たちは、義と認められるための「行い」を民の前に示しましたが、イエス様は、神が遣わされたキリスト、神の愛を「信じる」ことが、「神のわざ」であると言われました。
 信じることができるかどうか、についてよく考えてみると、信じるという心は神業であるとしみじみ思わされます。「よく自分がイエス様を信じることができたなあ。」と言われるクリスチャンたちがたくさんいます。「自分はそんな人間じゃなかった。何で信じる気持ちになれたんだろう。」と。
人の心を変えるというのは、ものすごく難しいことですね。自分の心さえままならないのに、人の心を変えるとは、奇跡以外の何物でもありません。ならば、「神が愛である」ということを信じられたのは、もっと奇跡ではありませんか。
 生まれつき目が見えない人が、「神は愛である」と信じることは、目が見えるようになることよりももっとすごい奇跡です。不信仰のかたまりの心が、どうして神の愛を信じることができますか?
 しかし、この盲人は信じることができたのです。彼はイエス様のことばに期待を持ったのです。「何かが起こる。神のわざが現れる。」という期待をもって、聞いたことを行動に移したのです。これが神への信仰と同じように見なされているのですね。
 あなたは神様の愛を信じて、期待し続けていますか?シロアムの池に行って洗うことで何かが起こる、と神様の愛を信じて、クリスチャン生活に何が起こっても前に歩み続けていますか?
 ヨセフのように、良い夢は見たけれども現実は夢とは正反対で、兄弟からはねたまれていじめられ、商人に売られ、罪をなすりつけられ、投獄されて忘れられ…全部反対方向の現実だったですね。なぜヨセフはこのどん底の状態から、エジプトを救うような身分にまで引き上げられたのでしょうか?ヨセフはどんな時でも自分を愛してくださっている神の愛を信じ続けた、その証が最後の結末なのです。
 盲人はシロアムの池につくまでつまずいたり転んだり、物にぶつかったり、人から陰口を叩かれたり、いろんなことがあったかもしれません。
 それでも彼は人の言葉を気にせずに、ただひたすらに「シロアムの池に行って洗えば何かが起こる。神のわざが起こる。」という期待をもって歩み続けました。
 私たちも神様の愛に期待して歩み続ける、神の愛のうちを歩む歩み方をここで学ぶことが必要だと思います。その愛への信頼が、目が見えるという奇跡を現したのです。
 あなたは見て信じますか、それとも語られたその約束を信じて、まだ見ていないけど前に進み続ける信仰ですか?神様はあなたを胆大心細の愛をもって、気配りをもって大胆に導いてくださっています。この愛をぜひ信頼して、歩んでいただきたいと思います。信じられない時に信じれば、神のわざが現れます。「どうしてこんな時に信じられるのか。」という時にこそ、「いや、十字架でひとり子さえも私たちの罪を赦すためにおささげになった父なる神様は、私たちを救うためにそこまでされたのだ。その愛はこんなことで私たちに注がれなくなってしまうことなどあり得ない。」
 十字架が鍵です。十字架に現れたあなたへの神の愛が、愛を信じ続けるキーポイントです。ぜひそのことを思いみる一週間としてください。
「人生の 霧の中にも 主の配慮」
 前が見えない、先が見えない霧がかかったようなあなたの人生、と感じているかもしれませんね。もっと先が見えたらいいのにと思うかもしれません。不信仰の霧がかかっているかもしれません。それでも神の、主の愛の配慮はあるのです。自分の人生お先真っ暗と思っておられる人、真っ暗でも主はあなたを愛してくださっており、胆大心細の愛をもってそれでも導いてくださっています。

 

 

 

 

■2015年10月18日 日曜礼拝メッセージより(横路伝道師、小栗伝道師)

 天に目を向ける  up 2015.10.18


だからこう祈りなさい。「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。・・・」
(マタイ6:9)

あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。
(コロサイ3:2)

 

 

 

【横路伝道師メッセージ】
1.祈りを教えられた神の愛(マタイ6:9)
“だからこう祈りなさい。「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。」”  
 今日は、イエス様が教えられた祈りについて学んでいきたいと思います。

(6:6a)“あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。”
 まずは、奥まった部屋で祈りなさいと教えられました。それは、集中して自分の本心を偽らず、裸の心で神様に祈るようにということです。イエス様ご自身も、早朝や深夜に静かな所へ一人で行かれ、祈られました。私たちも、神様と一対一で集中して祈るようにと語られていると思います。
(6:7a)“また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただ繰り返してはいけません。”
 他の宗教でも、同じ言葉を何度も唱える祈りがあります。旧約の時代、エリヤとバアルの預言者との戦いで、バアルの預言者は「バアルの神よ、答えたまえ」と同じ言葉を半日繰り返して祈りましたが、応えられませんでした。しかし、エリヤが一言祈ると、天から火が降りてきて、水浸しのいけにえを焼き尽くしました。

(マタイ6:8b)“あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。”
 全てお見通しの神様は、私たちの必要を全部ご存知です。例えば、子どもが自転車が欲しくて親に「自転車買って!」と何度もお願いをします。親は子どもの必要を良く知っているので、タイミングの良い時に買おうと思っています。だから、毎日1000回も「自転車買って」と言う必要はないのです。しかし、それでも祈りなさいと言われるのは、神様との交わりのためであり、また、祈りの中で願いが整理され、確信に至るためであると思います。

(第1テサロニケ5:7)“絶えず祈りなさい。
 私たちは、定型的な祈りをするのではなく、神様といつも御霊によって交わり祈り、神様のことを忘れて一日を過ごさないということだと思います。あるカトリックの修道院では、神様のことを忘れないようにと15分置きに鈴が鳴り、その都度手を止めて祈っていたそうです。それは絶えず祈りなさいということを具体的にしていたのです。しかし、私たちはそのような形ではなく、心の中にいつも聖霊様がいらっしゃることを覚えて、祈り心で聖霊様に聞きながら歩む毎日であって欲しいと願っておられると思います。
 アウグスチヌスは「祈りは、魂の呼吸です。」と言いました。呼吸は生きるために必要なものです。それは、私たちの体から炭酸ガスを出して、酸素を取り入れるためです。祈りもクリスチャンが霊的ないのちを保つために必要なことです。絶えず祈らないと、霊的酸欠状態になります。神様の前に吐き出す炭酸ガスとは、疲れ、悲しみ、怒り、悩み、また悔い改めなどであり、それらのものを神様と一対一の祈りの中で吐き出していくのです。祈りで自分の心を吐き出さなければ、いやし、なぐさめ平安、導き等の神様からの良いものも入ってきません。
 また、吐き出すばかりの一方的な祈りをして、神様の前に静まって神様のみこころを聞くことをしないなら、それは、病院へ行ってお医者さんに自分の症状をたくさん話した後、お医者さんの話を全然聞かずに、「ありがとうございました。」と言って、さっさと帰るようなものです。そのような一方通行の祈りになってはいないでしょうか。

◎「だからこう祈りなさい」と、イエス様は「主の祈り」を教えられました。
 「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。」
 「天にいます」とは、私たちの行くべき天が備えられていることを表しています。天は神様がおられる希望の場所です。私たちは、この希望の天に目を向けて祈ります。この地上のものは全てなくなります。しかし、天国は永遠になくなりません。
 
 また、「私の」ではなく、「私たちの父よ」と祈ることを教えられています。これは、互いに愛し合う兄弟姉妹といっしょに神様に向かうことです。「私の父よ」と、神様を一人占めしないで、共通の父を持つ兄弟姉妹として「私たちの父よ」と祈ることを求めておられます。
 
 「父よ」とは、はるか遠くにおられる厳しい神様にではなく、身近な優しいお父様として親しみを込めて祈るようにと言われています。
 また、「御名があがめられますように」とは、父なる神様が尊敬され、礼拝されるように願い、神の子たちがそのような心で神様の前に聖い生活をしていくことで、神様をまだ知らない人々も神様をあがめるようになることを願っておられるのです。

【小栗伝道師メッセージ】
2.天にあるものを求める(コロサイ3:2)
“あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。”
 私たちの行動は、思いから出ています。この思いが地上にあるのか天にあるのかを問われます。今日、心にどんな思いが浮かんでおられますか。

◎地上のもの
 エデンの園で、神様と本当に良い関係を持ち、神様の完全な愛におおわれていたアダムとエバは、あまりに無防備で、サタンの誘惑の言葉を受け入れてしまいました。「被造物が創造者のようになれる。」という誘いの言葉に欲が引き出され、神様を畏れない価値観を植えつけられてしまいました。
 自分の思いを基準にしたその価値観は、本来良いものとして造られたものを「私が」「私の」と、自分の欲を満たすために用いるようになりました。
 例えば金銭は必要なものです。しかし自分の欲を満たすために自分の思い通りに用いる時に、やがて貪欲となり、神の代わりに自分自身や他のものを神とする偶像礼拝となり、止めた方が良いとわかっていてもやめられない罪の奴隷状態となります。クリスチャンでも、ねたみやしっと、汚れた思い等、わかりもって手放せない状態は、偶像礼拝となっています。
 地上のものを、結局自分の欲を満たすために用いる時に、神様から離れてしまいます。地上で自分はどうあるかという自己実現を目的とするなら、すべて「自分のため」の生き方であり、自分の欲につながっています。これが地上のものに目を向けている状態です。

◎天にあるもの
 天には父なる神様がおられ、御子イエス・キリストが罪人の罪を赦すために十字架にかかって死んで葬られ、よみがえって、今は天の父の右の座で罪人のためにとりなし続けてくださっています。
 地上のものに目を向け心を奪われている状態に気づき、「神様、私は天におられる父なる神様に目を向けます。そのきよさがあふれ、栄光に輝いている所に向かえてくださることを感謝します。」と、天のものは天の御国への希望、永遠への思いを持たせ、逆に地上のものはこの地上だけに思いを留めさせます。
 イエス・キリストを信じて水のバプテスマを受けた人は、過去・現在・未来の罪が地上での人生が終わるまで赦され、その天の御国に入る特権が与えられています。
 父なる神は「自分が、自分が」という競争心、比較のこの世の価値観の中にあって、神に属する私たち聖なる神の子どもたちがみこころを選びながら生きているのを応援し、見守り、やがて迎えるのを心待ちにしておられるのです。

※あなたの宝とは(マタイ6:21)
“「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」”
 宝とは、最も尊び頼りにしているもの、大切にしているものです。みなさんの宝が地上のものか天のものかは、ご自身で考えていただきたいと思います。
(黙示録22:11)では、“「不正を行う者はますます不正を行い、汚れた者はますます汚れを行いなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行い、聖徒はいよいよ聖なる者とされなさい。」”と、方向は全く二つに分かれるというのです。
 この世は地上のものを追い求める世界です。信仰を持っていても、いつの間にかこの世の価値観に染まることがあります。
 パウロの協力者であったデマスが、この世を愛し、この世の価値観を宝として、パウロと同行することをやめてしまったという記事があります。(第2テモテ4:10)ここに信仰の戦いがあります。地上のものにしか価値観を置かず、汚れがまかり通るこの世において、天のものを求める難しさがありますが、大きな価値があると言えます。

◎励まし合いが必要
 同じ価値観を持つ者同志が集まることの意義(ヘブル10:25参照)。
 ありのままの自分の状態を語り合える集まりに自分を置くことは大切です。

◎私たちは何者なのでしょうか(アイデンティティ)
 アイデンティティを大切にしましょう。
 私たちは神に属する者であり、神に愛された者です。洗礼は罪の赦し、新しい人生を導いてくださっています。

◎創世記ヨセフの兄ユダの成長をみる(創世記44:33〜34)
“「ですから、どうか今、このしもべを、あの子のかわりに、あなたさまの奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと帰らせてください。あの子が私といっしょでなくて、どうして私は父のところへ帰れましょう。私の父に起こるわざわいを見たくありません。」”
 父ヤコブからそで付きの長服(跡継ぎのしるし)を着せられるほど溺愛された、11番目の息子ヨセフ。
 ヤコブが愛していたラケルの息子であるヨセフは、「お父さんたちの束が自分の束を拝む」「日・月・11の星が自分にひれ伏す」という夢の話をし、異母兄たちに大変なねたみを買いました。
 そして父ヤコブに頼まれてお兄さんたちの様子伺いに行ったヨセフは、穴に落とされ、ユダの発案でミデヤン人の隊商を介してイシュマエル人に売られ、奴隷となり、神の御手の中に多くの苦しみ試みを経て、エジプトのパロ王の宰相となり、管理総責任者にまでなりました。
一方、カナンの地のヤコブたち、ヨセフの兄弟たちはききんとなり、ヨセフのいるエジプトに食料をもらいに出向きます。
 ヨセフは兄たちとわかりましたが、スパイ扱いをし、さらに二度目の来訪時には、ヤコブが手放したくない(ヨセフの同母弟の)ベニヤミンを連れて来させました。
 さらに、ベニヤミンだけを残して他の兄弟たちを帰すように伝えた時に、ユダが語った言葉がこの箇所です。
「ベニヤミンが帰らないことは、父がどんなに悲しむことか。私(ユダ)がベニヤミンの代わりとなって、あなたさま(ヨセフ)の奴隷になります。お父さんを悲しませたくありません。」と。
(創世記42:21)
“彼らは互いに言った。「ああ、われわれは弟のことで罰を受けているのだなあ。あれがわれわれにあわれみを請うたとき、彼の心の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった。それでわれわれはこんな苦しみに会っているのだ。」”
 あわれみを請うた弟の苦しみを見ながらも、神を敬わない地上にのみ思いを持つ兄たちは、相手の存在を否定し、平気で穴に落とし、その横で食事もしています。しかし苦しみを経て、徐々に全てを治めておられる神様の存在を認めていくことができるようになっていくときに、お読みしたことばのように、自分の欲のために生きていたユダが、「私は死んでもいいです。弟を帰らせてやってください。父ヤコブが悲しまないためです。」との一心で、この言葉を発するまでに変えられるのです。
 父なる神様は、地上のものにしか心が奪われてない私たちであっても、悔い改めて思いを神に向けるようになるまで待ってくださっています。イエス様の十字架によって、赦しを与えてくださっています。完全な愛をお持ちの父なる神様のみこころを聞き、そのお心を悲しませないように思うことが、天にあるものを思うことであるとも思わされます。
 私たちが今、地上に置いても生きる喜びが与えられているのは、父なる神の御旨とイエス・キリストの十字架の犠牲があることを忘れてはならないと思います。はかない地上のものを求めるのでなく、変わることのない天のもの、私たちを待ってくださっている父なる神様に「待っていてくださいね。」という歩みでありたいですね。

 

 

 

 

■2015年10月11日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 刮目相待の愛  up 2015.10.11


『刮目相待』(かつもくそうたい)
人の著しい進歩と成長を待ち望むこと。または、今までとは違う見方をして相手のことを見直すこと。

主題聖句(ヨハネ8:5〜11)
モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」 彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。
イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」 彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」

 

 

 

 毎週ヨハネ伝から愛について学んでいます。この学んだことを通して、周りの人達に、知識だけでも神様の愛を伝えることができます。

1.人を罪に定めない愛(ヨハネ8:5〜11)“みことばは前述”
 このイエス様の行動はとても不可解です。指で地面に書かれていたとあります。彼らが勇んでイエス様を取り巻きわめき続けている間中、イエス様はひざまずいて黙って地面に書かれていました。実はここにも深い意味があります。
 今日の学びの結論は「罪に定める論争に引き込まれないようにしよう」ということです。
 夫婦であれ友人であれ論争が過熱してくると、どちらが正しくてどちらが悪いかという、互いに相手を罪に定めようという方向に論争の目的がずれていきます。そして、いい意見を出し合って互いを高め合うという視点は完全になくなり、ただ感情が激していくだけになってしまいます。
 その論争に巻き込まれない為に、イエス様はひたすら指で地面に何かを書き続けておられたのです。

【内容観察】
★イエスを告発して罪に定めようと問い続けた民の指導者たち。
 パリサイ人や律法学者たちは律法のエキスパートであり、その教えに通じている人たちです。ところが彼らは、この姦淫を犯した女性を、宮の祭司の前にではなく、イエス様の前に連れてきました。そして、イエス様にその女性の罪を判定させようとしたのです。
 これは明らかに律法に従っていない違反行動です。罪を判定してもらうために罪人を連れていくところは、宮の祭司の前であると決まっていたからです。しかしイエス様を罪に定めることに目がくらんでいる彼らは、そういった基本的な間違いすら気にも掛けず、イエス様に詰め寄ってきました。イエス様は宮にいたのですから、当然近くには祭司もいたはずです。  
 こういうお門違いな行為に対して、当然イエス様は答える義務はありませんでした。それであえて答えられなかったのですが、彼らはしつこく答えを迫ってきます。
 なぜなら、彼らはイエス様がどのように答えても、そのあげ足を取る準備ができていたからです。
 イエス様はモーセの律法からどのようにでも彼らの間違いを指摘できるお方でしたが、あえて何も言われなかったのは、神の愛を知っておられたからです。神は誰が正しい誰が悪いかという論争を好まれるお方ではありません。
 愛は罪を気付かせるが、罪に定めることはしないということを、イエス様の沈黙から、私たちは学ぶことができます。
 (ですから、もし夫婦で論争になりそうになったら黙りましょう。結論を出しても意味がありません。相手を傷つけてしまうだけです。)
 さて、イエス様の沈黙を我慢出来ない彼らのしつこさに、イエス様はひとことだけ告げられます。
 「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
これは律法を良く知る彼らにとって、言いがかりが付けられない言葉でした。
 モーセの律法によると、最初に石を投げる人は決まっていました。罪を告発した人が責任を持って投げることが義務付けられていました。しかし、イエス様はそうではなくて、罪のない者が罪のある者を罪に定められるということを示されたのです。
 それはモーセの律法よりも、さらに奥深い神様の御心として響きました。パウロは「律法とは罰するためにあるのではなく、違反を教えるためにある。」と語っています。罪から離れるための忠告が律法でした。
 律法があっても祭司は必ず神に裁きを伺いました。それは、その罪の証拠があっても決して自分で判断しないためでした。神に伺うというのが基本だったのです。
 ところがいつの間にか、民は自分の考えや利得によって勝手に裁きを行い、神に伺うことをやめていました。しかし、そのような彼らであっても神を畏れていました。
 イエス様は自分の考えで語っておられるのではなく、神が示されたおことばをそのまま語られました。それはご自身の感情で語っておられないということです。
 語られた後も静かに地面に何かを書いておられたことからも、それが伺えます。自分の意見を主張し、論争しようと激して立ち上がったり、にらみつけたりされなかったからです。
 「まず、罪のない者が…。」ということばは、それぞれの良心に響きました。神と自分が向き合うという状況をイエス様は作られました。低く身をかがめられることによって、彼らはイエス様と向き合うのではなく、自分の良心に語られる神ご自身と向き合うことになったと言えます。
 彼らはイエス様ではなく神を畏れました。聖書では誰ひとり罪のない人はいないといっているからです。それゆえ彼らは去る以外にありませんでした。誰も神と論争しようとは思わないからです。
 私たちも相手を責めて罪に定めるような言い方をしないように気をつけましょう。相手が自分の良心に働きかけて、自ら自分の罪を認めるという働きかけをしましょう。そして、そこから裁きを受けないためにどうしたらいいかを一緒に考えましょうというのが正しい対応の仕方です。
 イエス様はこの女性の罪を裁かれませんでした。私たちも、誰の罪も定めないようにしましょう。神様だけが裁き主だからです。
 イエス様は罪のないお方でしたが、罪に定めるのではなく憐れみを示され、へりくだって罪を犯した女性の心に寄り添われ、赦されました。愛は罪から人を離れさせ更生させます。罪を赦し更生することを望まれるのが神様のみこころです。
 罪を示しても罪に定めないように(断定しないように)しましょう。相手の心の痛みを理解してその罪から離れるよう励ましていくことが愛です。それゆえ神様は赦してくださっているのです。

2.『刮目相待』(イザヤ43:4)
“わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。”

【内容観察】
「わたしはあなたのために人や国民を身代わりにしてでも守りたいほど、あなたのことを愛している。それほどに、あなたは、わたしの目には麗しく尊く手放せない高価なものと見えている。」
 神様の愛は、裁くよりその人が立ち直り進歩し成長することを望んで、赦し忍耐して待つ愛です。
 当時のユダヤ人達は、異邦人よりもさらに神様に対して罪深くなっていました。それにも関わらず、神様はイスラエルの民を他の誰よりも高価で尊いと見ておられました。これが愛の姿です。どのような状態であっても、存在そのものをいとおしく思う、これが愛する者への見方です。
 愛する者のことは例え不吉に思えるものであっても、すべてが良く見えるのです。愛をもって見るなら不吉なものでさえ祝福に見えます。
 愛する者と論争になりそうになったら、イエス様のように罪に定めようとする罪の働きを無視するために、みことばに没頭しましょう。
どちらが悪いかという論争に引き込まれてはなりません。
 罪に定めようとする性質は子どもにも見られます。兄弟は、それぞれが自分の観点から判断して自分の方が正しいと主張し合います。しかしその観点が自分の主観に従っているので、どちらにもそれぞれの言い分があり、正しい悪いとは判断できないものです。相手を悪いとし、自分を正しいとしたい欲望から早く身を引きましょう。これは罪の欲望なのです。
 互いに傷つけ合うことをなるべく避けましょう。イエス様が黙って地面に書かれていた姿を思い出して冷静に論争に巻き込まれないようにしましょう。

【デボーション参考ポイント】
人や自分を罪に定めないように、刮目相待の愛の目でみる。

「りんご見て エバの失敗 思い出す」

 

 

 

 

■2015年10月4日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛は悪から離れる  up 2015.10.4


その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。それは、ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたので、ユダヤを巡りたいとは思われなかったからである。
(ヨハネ7:1)

 

 

 

 今、イエス様の行動を通して、神様の愛について学んでいます。イエス様は神様の愛そのものの方なので、イエス様の行動は神様の愛の行動なのです。
 その神様の愛なるイエス様がユダヤを巡りたいと思われなかったのは、単に殺されたくないからではないと思います。
 イエス様は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤと、神様の福音を伝えて旅をしておられました。おことばだけでなく、多くの奇蹟も行われました。しかし、ユダヤ人たちはそれを喜びませんでした。むしろねたみ、嫉妬し、イエス様を偽者扱いし、嫌ったのです。
 一方ガリラヤの方では、「この方こそモーセの言った大預言者であり、私たちを救う救い主だ。」と大歓迎されました。みことばと奇蹟を伴った福音は、混血になったユダヤ人であるガリラヤ人に受け入れられたのです。
 知らずに拒否するならばまだあわれみの余地が残されていますが、神の愛なるイエス様が語られる福音と奇蹟といやしを知って、なお受け入れないユダヤ人のところへは、イエス様は行きたいと思われなかったのでした。
 ユダヤ人たちは悪意をもって、イエス様に反対していました。悪意をもっている者は、相手がどんなに正しくても受け入れないし、認めません。
 愛というものは、悪意に近づきたいとは思わないものなのです。無知ゆえの悪ならばともかく、相手が正しいと知っていて、あえて受け入れない悪というのは、正しいことを嫌っているのです。
 この世でも、善をすればするほど、それをする人を茶化したりいじめたりする人がいますね。良いことをするほどにねたまれていくわけです。
 そんなところでいくら愛をしても、汚されていくばかりです。それで傷ついて汚されるより、むしろ近づかない方がよいのです。
 イエス様は悪から離れ、距離を置かれたと言えるのではないでしょうか。私たちも愛がありますから、反対する人に対して一層福音が必要なのだと、一生懸命働きかけることがよくありますね。しかし、悪意をもった相手は、どんな言葉も聞き入れません。ですから、そういう人とは距離を置きましょう。そして、自分が傷ついたり汚されたりしないように、悪いものが引き出されないように注意することが、賢い対処方法です。
 イエス様でさえ、あからさまな悪意を抱いたユダヤ人たちのところに近づきたいとは思われなかったのですから、私たちはなおさらです。
 これは見捨てることとは違います。かたくなな状態の人には、愛をいくら届けてもおろそかにされ、汚されてしまいます。それよりは、愛を歓迎し必要とする人たちにもっと届けるべきなのです。
 今週、これらのことを考えながら身の周りを見渡して、悪意をもって対応してくる人に対しては、あえて関わる必要はないことを知りましょう。その人とは距離を置いて、神様の前における自分の愛を汚されないように気をつけていただきたいと思います。
 
1.『厭離穢土、欣求浄土』(第2コリント6:16〜18)
“神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。
「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」”

◎『厭離穢土』(えんりえど)
 「けがれた現世を嫌って離れたい願いのこと。」
◎『欣求浄土』(ごんぐじょうど)
 「極楽浄土に往生することを心から願い求めること。」
この言葉はもともと仏教用語ですが、有名になった理由の一つに、徳川家康のエピソードがあると言われています。

「桶狭間の戦いで自分の主、今川義元を失った徳川家康(当時松平元康)は、菩提寺である大樹寺に逃げ帰る。前途を悲観した元康は松平家の墓前で自害を試みるが、その時13代住職の登誉が「厭離穢土欣求浄土」と説き、切腹を思いとどまらせたと言われる。
 すなわち、戦国の世は、誰もが自己の欲望のために戦いをしているから、国土が穢れきっている。その穢土を厭い離れ、永遠に平和な浄土を願い求めるならば、必ず仏の加護を得て事を成すとの意味であった。」
 住職は、家康が願っていた平和な世界への望みを思い起こさせ、彼をさとしました。すなわち、「あなたは戦いを終わらせるために天命を受けた人なのです。」と。
 それを踏まえてクリスチャン的に意味を取るならば、私たちは神の国とその義を願っています。極楽浄土とは神の国のことです。愛にあふれ、戦いがなく、神の愛によって治められる平和の国です。私たちはそれを切望します。
 イエス・キリストを信じた私たちは、心の中にそれをいただきました。まず私たちの魂が、神の国で満たされ、平安にあるためです。
 そして神様は現実世界でもこれを実現されるべく、ご計画しておられます。そのために私たちは、この世に神の国がもたらされることを願って、この地上でクリスチャンとして歩んでいるのです。
 皆さん、神の国の訪れに対する希望を持っておられますか。私たちはみんな、自分の親しい人たちから世界中へ神の国が広がっていくことを願っていますね。

【内容観察】
「あなたがたは、愛のないむなしいこの世から救われたいと願って神の愛である救い主イエス・キリストを信じて、わたしの息子娘となったのですから、愛に満ちた神の国に入ることを強く願い、貪欲を求めるこの世から離れ、汚れたものを取り入れないようにしなさい。」
 あなたがたは、このように語られる愛の神である全能の主の愛の霊が宿る神の宮であることを喜びなさい。
 私たちは神様の息子、娘となりました。天地創造をされた創造主なる神、愛なる神の生ける宮ともなったのです。私たちは自分が何者なのかをきちんと悟らなければ、生き方が定まりません。
 神様は言われます。「悪を嫌う私の子たちよ。あなたがたも私と同じように、汚れたものに触れないようにしなさい。」
 私たちのアイデンティティは、神様の子であるということです。これがものすごく大事な自覚なのです。まず第一に、私たちは神の子であると同時に生ける神の宮であるということ。そして神様の息子娘であるということ。これを忘れてしまうと、自分が何者なのかを見失い、単に飲み食いして生きているだけの生き方になってしまいます。
 たとえば、私たちは日本に生まれ、自分の背景に世界に誇れる文化を持っているにもかかわらず、欧米の文化にばかり目を向けていたなら、なんともったいないことでしょう。遺伝子の中に刻まれた自分の本質を、もっと求めるべきではないでしょうか。
 同じように、私たちがイエス様を信じたら、神の子としての元あるべき姿に立ち返ることができたと言えます。眠っていた、神のかたちに創られていた私たちの本能が引き出されていき、きよい愛を求め、正義を求め、悪に対して手を出したくないと思うようになります。
 そして、神の宮すなわち神がいつもご臨在を現してくださるところとされ、神の愛がいつもそこに存在します。
 神の宮であり息子娘であるというアイデンティティは、悪から離れる性質を持っています。愛なる神様に似せて創られた私たちの性質なのです。
 神様は悪を切り離し、悪と分離される方、そういうきよい愛を持ったお方です。私たちも、できているかどうかは別として、心の底では悪から離れることを切望しています。それが私たちが救われていることの証の一つなのです。
 もし願いが弱っているならば、神様の息子娘であること、聖なる神の宮であることへの意識が薄れているのではないか、と気をつけてください。神のかたちがまた眠らされてしまいます。
【デボーション参考ポイント】
「争いのない平和な極楽浄土をだれもが求めて戦争を繰り返してきた人類の歴史に終止符を打つには、創造主の国、愛の国を求めることです。」

2.悪から遠ざかる力(箴言16:6)
“恵みとまことによって、咎は贖われる。主を恐れることによって、人は悪を離れる。”
【内容観察】
あやまちを赦していただけるのは、まごころからのきよい愛と、深いあわれみから与えられる大きな犠牲の賜物による。
人が救われるために神のひとり子が罪の贖いのいけにえとなったことに神の愛を感じることによって、人は暗やみの業である悪から遠ざかる力を得ることができる。
 悪いことをすれば、その代償を払いつぐないをしてはじめて、罪が贖われたと言うことができます。その贖いの犠牲は、恵みとまこととによってもたらされるものです。
 罪を犯した者に対して、まごころからのきよい愛と深いあわれみを感じ、その人の罪を贖うためにどんな大きな犠牲でも払おうとする人の愛から、咎は贖われていきます。
 これが、神様が私たちに対して抱いてくださった、罪人への気持ちです。キリストによって歴史上に刻んでくださったこの愛によって、私たちは神様が私たちを愛してくださっていることを知りました。
 「私を愛してくださる」ことを実感として感じると、愛してくれる存在を人は敬い畏れるようになります。命の恩人をばかにする人はいないでしょう。親孝行をする人は、義務感からではなく、親からの愛を感じたことによる感謝を表しているのです。
 このように、私たちのうちに愛が生まれてくると、そこに力が湧きだしてきます。神を畏れ敬う心は「いのちを助けられ、新しい人生を与えられたのだから無駄に使いたくない。」と思います。
 これが「悪を離れる」という部分です。助けられたことを「儲けものだ。また罪に入ろう。」とはしないのです。良心の働きですね。神様の愛に触れると良心が動き出して、「ああもう悪に触れたくない。」と、新しい人生を生きていきたい気持ちが生まれてくるのが、自然で健全な心の動きです。
 この悪から離れる、罪に対抗する力は、自分の意志力では絶対に保ち続けられません。私たちは欲を制御する力が非常に弱い、自制心が弱い存在です。
 その自制心を強めるために、特に貪欲という罪から私たちが解放されて、欲をコントロールするためには、欲に勝る力である神からの愛の力が必要です。神からの愛だけが、人を悪から離れさせ、罪に対抗する力を与えます。
 昨日、私の孫たちが「おじいちゃん、おばあちゃん、甘いものでも飲んで元気を出してください。」と、自分たちの小遣いを使ってシェイクを買ってくれました。
 幼子は自己中心やわがままがとても強いものですが、その小さな子どもでさえ、日ごろ愛を受けた相手に感謝を表し、何かお返しをしたいと思うのです。

 私たちも神様の愛を感じたら、神様に対してお返しをしたいですね。その一つが悪から離れることです。
 この罪に対抗できる神様の愛を受けとめるために、私たちは何をしたらよいのでしょう?答えは、「神様の愛を信じ、愛を感じること」です。
 愛が注がれていることを私たちの感情で感じることができれば、心が強められ力が湧いてきます。意志を持って愛を信じることも大事ですが、もっと強くなるためには、愛を感じることです。信じて、感じることです。
 疑っていると感じることができません。「神は私を愛してくださっている。こんなにいろんな場面で愛を注いでくださっているんだ。」といろいろ思いを巡らせる中で、神様に愛されていることを感じていくと、悪から離れるという良心の動きが強くなっていくのです。
 そのようにして、いつも「神様に愛されているんだ。」ということを思い起こしながら、ぜひ今週、どれぐらいの人々に隣人として接していくことができるか、行動に移してまいりましょう。
 感じるだけでなく、感じたところから得る力を通して、悪から遠去かり、かつ善を行うという、隣人を愛する小さな親切から始めていきましょう。小さなことの積み重ねが、神様があなたにご計画をもっていろいろな働きに導いてくださることにつながります。

『イノシシは 猛進してこそ イノシシよ』

 イノシシといえば、猪突猛進という言葉の通りに、突き進んでいくというイメージがありますね。イノシシが飼い犬のようにペロペロ手をなめたら、イメージが違い過ぎてびっくりします。これはもう犬だろうと。
 私たちも、人前ではクリスチャンと言っていても、罪から離れてなかったら、現実的にはクリスチャンではありません。クリスチャンは罪から離れてこそ、クリスチャンなのですから。

 

 

 

 

■2015年9月27日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 戦々恐々を締め出す愛  up 2015.9.27


『戦々恐々』(せんせんきょうきょう)
恐れおののくこと。びくびくしておじけづくようす。

主題聖句(ヨハネ6:16〜21)
夕方になって、弟子たちは湖畔に降りて行った。
そして、舟に乗り込み、カペナウムのほうへ湖を渡っていた。すでに暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった。湖は吹きまくる強風に荒れ始めた。こうして、四、五キロメートルほどこぎ出したころ、彼らは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、恐れた。しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしだ。恐れることはない。」それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。舟はほどなく目的の地に着いた。

 

 

 
 恐れが来ると、するべき行動をすることができなくなります。おじけづくことに勝利していく一週間にチャレンジしてまいりましょう。私たちは、たとえびくびくしていなくても、するべきことができない場面は多々あるのではないでしょうか。それは人目を気にするところから来ているのではありませんか?
 人にどう思われるのか、それが嫌だという気持ちが「人の評価を気にする、恐怖する」という「戦々恐々」です。人にどう評価されるのかが恐いのです。
 大胆な人は、他人にどう思われるかを気にしませんね。こういう人はとにかく一歩前に進み、自分が何をしたとしても、人に喜んでもらえるという超前向きな気持ちを持っています。人からの批判さえも、「そんなに私のことをいろいろ考えてくれているんですね。うれしいです。」と、マイナスに取ることがありません。
 反対にクリスチャンは控えめな人が多いので、人の評価を気にしすぎて、良いことに対して見て見ぬふりをすることがあるようです。「良きサマリヤ人」の中の祭司やレビ人ですね。
 小さな「戦々恐々」かもしれませんが、これらを乗り越えていかなければ、神様の愛を実践していくことはできないと思います。私たちは「戦々恐々」に勝利し、乗り越えていく必要があります。
 そこで今日は、イエス様が湖を歩かれた出来事から、学んでいきましょう。

1.湖上の嵐の中のイエス(ヨハネ6:16〜21)(みことばは前述)
 嵐は恐怖をもたらすものであり、私たちの人生においても嵐を体験することがあります。その恐怖が消えたのは、イエス様だとわかった瞬間です。
 イエス様は神様の愛なる方ですから、神様の愛が私に注がれているとわかった瞬間に、喜びが恐怖にとって代わったことになります。そして舟にお迎えして、恐怖は完全に締め出されました。
 神様の愛は、どんな恐怖も完全に締め出すことがおできになります。「高価で尊い」と言ってくださる神様の愛に気づけば、人からの評価などどうでもよいことになり、するべき善を見て見ぬふりすることなく、一歩前に踏み出すことができるようになります。

【内容観察】
★五つのパンと二匹の魚の奇蹟によって有頂天になっていた弟子たち。
 男だけで五千人はいた大群衆をイエス様が養われた奇跡を目の当たりにして、弟子たちは鼻高々です。おそらくイエス様が弟子たちに、「カペナウムに行きなさい。」とおっしゃったのでしょう。彼らは快く受け入れました。

★イエス様とは別行動した弟子たち。
 イエス様が一緒に行かれないことを気にしないほどに、彼らは上機嫌だったようです。人は物事がうまくいった時、心に隙が生じます。自分の願いがかなって満足すると、この満足が高ぶりの入り口になることがあります。 
 すばらしいイエス様の奇蹟を見た弟子たちは「私たちの先生はすごい。」から、「イエス様の手伝いをした、弟子である自分たちもすごい。」と自慢する気持ちが生じたのではないでしょうか。
 なぜイエス様が弟子たちと一緒に船に乗られなかったのか。それは(イザヤ57:15)“…「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。…」”とあるように、高慢になり始めた弟子たちとともに行くことが、イエス様にとって好ましくなかったからではないかと、私は想像します。
 イエス様の弟子たちは、社会的にはのけ者であったり、地位が低かったりする人たちが多かったようです。しかし彼らの神に対する純真な信仰のゆえに、イエス様は彼らを選ばれました。
 選ばれた時の彼らは「自分のような者が選ばれ、イエス様のそばでお仕えできるとは」と、へりくだった心でありがたく受け止めたはずです。実際、すべての奇蹟といやしは、イエス様のおことばがあってこそなされたものばかりです。それにもかかわらず、一緒に過ごすことによって自分とイエス様を同一視しはじめ、「私はイエス様のお弟子であるぞ。」と、あたかも他の人々よりも一段上のランクであるかのような思い違いをさせる誘惑が彼らにやってきたのです。もちろん、現代に生きる私たちにも、他人事ではありません。
 願いが聞かれていくと、そこに傲慢さが生まれてくるのです。何でもうまくいくと、「イエス様」「神様のおかげ」と言いながら、(自分も少しは能力があって、できているのだよ)と自分自身を誇りたくなってくるものです。
 自分の能力も神様から授けられたものであって、自分自身で発生させたものではありません。神のみわざを自分の栄光としてしまう誘惑には気をつけましょう。
 もちろん、願いが聞かれることは大切です。聞かれないままでは不信仰になり、かたくなになり、心がゆがんでしまいます。
 しかし、特に大きな願い事がかなえられた時、私たちはそれで有頂天になって、だんだん自分を特別な者と思い違いし始めたりしがちです。
 イエス様は、弟子たちが自分たちを特別だと思い違いし始めた時に、ご自分は同行されずに弟子たちだけ先に行かせました。イエス様が共におられなければ、自分たちは何もできない者であるということを、彼らに気づかせるためです。
 イエス様は嵐が起こるのをご存じで、あえて弟子たちをガリラヤ湖に出されたのです。それなのに、イエス様が来られないことを不審にも不安にも思わず出て行ったところに、弟子たちの高ぶりを見て取ることができます。彼らはイエス様がいなくても問題ないと思っていたのでした。
 よく祈りが聞かれると、やがて「私が」祈っているから聞かれるのだと思い違いをし始めます。神様は高ぶった者のうちに住むことを嫌われる方です。祈りを聞いたとは、神のわざを現されただけの話であって、「私が」力を持っているわけではありません。
 それを自分の力のように錯覚してしまうごう慢な心には、神様は住まわれることができません。このことを、私たちはよくわきまえておくことが必要です。
 イエス様と別行動をし始めたことによって、弟子たちが勘違いしかけていることがわかったのでした。

★嵐に翻弄され、慌てふためく弟子たち。
 嵐の中、歩いてくる人影をイエス様と気づかない時、弟子たちは非常に恐れました。嵐の中、彼らは自分たちの未来が全く予想できず、不安の真っただ中にいました。
 頼るべきイエス様は舟の中にはいません。夢も希望もない、とはこんな状態でしょうか。ただ死ぬのを待つだけです。
 この時代の漁師たちの間では、湖で幽霊を見ると死ぬという噂がありました。嵐の中で、その死の使いらしきものを弟子たちは見たわけです。彼らの心は砕かれて、もう粉々でした。
 嵐の中、舟が木の葉のように揺れているのに、道を歩くようにイエス様が平然と歩いて来られたと考えると、ものすごく不思議な光景ですね。
 人生の嵐の中においても、イエス様という神の愛の存在は、環境に影響されない不動のものである、ということの象徴です。
 あなたの人生がどんなに波打っていても、その中でイエス様の存在は微動だにしないのです。イエス様は普通に歩いて、私たちのもとにおいでになり、愛を注がれます。神の愛は揺さぶられることがないのです。

★イエス様だと確認できた弟子たち。
 彼らが嵐を通され心がへりくだった時に、イエス様が来られたわけですね。イエス様が来られたことで、彼らは再び神の愛を確信することができました。人影がイエス様だとわかった瞬間、弟子たちの心は神の愛に包まれました。
 嵐の中でも、イエス様に来ていただいたことで安心できたのです。嵐はまだ過ぎ去ってはいなかったけれど、彼らは喜び、イエス様を舟に招き入れました。
 もし神の愛であるイエス様に信頼をおいていたなら、たとえ嵐の中でも「神様は私たちをここで死なせられはしないだろう。」と、嵐の中でもあわてなかったでしょう。
 しかし彼らはイエス様がいないことで非常にあわて、恐れました。神の愛に対する信頼が弱ったり疑ったりすると、恐れがやってきます。環境的にうまくいかない状態の中では、恐れと不安がやってくるのです。
 イエス様は私たちのそういう弱さをご存じです。しかし、今回の場合は、弟子たちがちょっとごう慢になっていたので、嵐で懲らしめられました。軽々しく自分たちで行動しないように、です。
 弟子たちは、イエス様なしでは何もできないことをよく知って、頼み込んででもイエス様と一緒に行くべきでした。そうしなかったところに弟子たちの高ぶりが見える、と先ほど述べました通りです。
 彼らは嵐の中で砕かれ、イエス様を再び喜んで受け入れ、舟は間もなく向こう岸にたどり着いたのでした。

◎自己愛は恐れを取り入れてしまう
 神様の愛は恐れを締め出しますが、自分優先の愛は同時に恐れまでも取り入れてしまいます。常に自分を安定させようとする自己中心の愛は、周りの不自然な不安定な状況により、ぐらぐら揺れてしまうのです。
 私たちが自己愛に陥っているしるしは、恐れや疑いが度々あって、これを乗り越えることができない状態にあることです。これに気づいたなら、その時こそもう一度イエス様の愛を確認していただきたいと思います。

2.恐れを締め出す愛(第1ヨハネ4:18)
“愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。”
【内容観察】
「愛は勇敢であり強い優しさがあります。愛が完全に心を満たすなら、いっさいの恐怖が心から追い出されてしまいます。なぜなら、失敗による責めを受け、批判され、死に至る恐怖があるからです。恐怖に尻込みしてしまう者の愛は、愛に対する信頼が弱いのです。」
 全きものとなっていない=信頼が弱いと考えてみました。善を行うことに対して、人目を気にして見て見ぬふりをしてしまうような私たちの弱さ、欠点、人を恐れる心は、神様の愛のうちに生きていることに対する信頼の弱さからくるものだと受け止めてみてはいかがでしょうか。
 恐れがない=勇敢であると考えてみました。勇敢さには愛が不可欠です。
 日本昔話で、ムカデの化け物が出てくる話がありました。ある村では、毎年白羽の矢が立つ家の娘を人身御供に差し出す習わしがありました。村人は内心嫌でたまりませんでしたが、誰も化け物に立ち向かう勇気はありませんでした。
 ある年、その村に住む武士の娘が人身御供に差し出されることになりました。父親の武士はついに化け物と戦う決意をします。それはなぜですか?娘を愛していたからです。愛は恐れを締め出すのです。
 昔話でさえ、愛の力を語っています。私たちは、神を愛するがゆえにというこの愛があれば、どんな人にもどんな状況においても、恐れに立ち向かって善を行うために自分を奮い立たせることができます。そのことにぜひ気づいてください。
 自分の身近な者が危険にさらされた時、愛によって奮い立つのは、昔からあることです。
 しかし、私たちは滅ぶべき罪人であるにもかかわらず、神の御子イエス・キリストが身代わりとして罪なき血を流して苦しみにあってくださいました。
 その愛を注がれて奮い立たされ、生きる望みが与えられ、こんな私でも生きていく望みがあるんだと、今、神様の愛を信じて歩んでいるわけです。愛されているから、生きる望みがあるのです。
 見える人よりも、見えない神様を愛して生きることが私たちの目標です。それこそが私たちの迷いを取り除き、環境や状況によって揺らぐことから逃れる方法です。
 絶対に手放してはならない神様の愛に応えていく生き方を、ぜひ皆さんも見い出してほしいと思います。そのためには、神に愛されているということを、確認していくことが必要です。
 弟子たちが嵐への恐れから解放されたのは、イエス様が「わたしだ。恐れることはない。」と言ってくださった時でした。神様はどんな状態でも、「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」と言ってくださいます。
 この神様の愛を確認していく必要があるのです。確認できれば、その日一日を勇気をもって、一歩踏み出す行動ができます。
 私たちは愛されることによって変えられ、愛することによってさらに変えられます。恐怖に対しても、神様に愛されていることに確信を持てると、「神の愛に私は生きている」ということに心が支えられ、恐れから解放されます。
 ただ注意すべきことがあります。『愛されている」とは、「私の思い通りになる」という意味ではありません。自分の思い通りになるという勘違いに陥らないよう、注意しましょう。
 神様は私たちを愛してくださっていますが、甘やかされはしません。弟子たちもイエス様に愛されてはいても、嵐にあうことは止められませんでした。
 まずは、神様が同行してくださることを拒む私たちの高ぶりに、自分で気づくようにしたいものです。イエス様は弟子たちと一緒にいたいと思われたがゆえに、彼らの高慢を砕く嵐を許されました。
 私たちは砕かれた時に、「神はこんな状況の中でも私を愛してくださる。イエス様の愛はすばらしい。」と、もう一度確信することが絶対に必要です。
 これらの三点をしっかり確認して、あなたの心の状態をよく観察し、心が騒いだり不安があることに対して、ぜひ見直してみてください。「私はなんてごう慢だったのだろうか。」と気づくことが一番大切です。
 私たちは懲らしめられないとわからないことが多々ありますので、最小限の懲らしめで済むようにしたいですね。そのためにも、「人の振り見て我が振り直せ」をしっかりと実行してまいりましょう。
 愛がどれほど私たちを恐怖から解放し、善を行う勇気をもたらしてくださるかを、この一週間の中で少しでもチャレンジしてみていただきたいと思います。
 恐怖に関して、忘れられない出来事があります。インド宣教にスタンレー師と木下師と共に行った時のことです。私たちの宿泊したホテルで、ゲリラによって政府の要人が殺害され、「この地域は危ないね。」と話し合っていました。
 すると、集会に目つきの悪い参加者が数名現れ、主催者が私たちにこっそり連絡してきました。「共産軍のゲリラが現れました。彼らは日本人であるあなたがたを狙っています。さらって身代金を取ろうとするでしょう。すぐここを発たねばなりません。」
 その頃はインドから日本への国際電話はつながりにくかったのですが、神様が計ってくださり一回でつながりました。家内に連絡を入れてみると、彼女も夢で示されており、「そこからすぐ立ち去るように。さもなくば命がない。」とのことでした。
 私たちはそれを聞いて、みこころはここに留まることではないのだと知り、翌日の朝一番に旅立ちました。あの時の恐怖はすごいもので、一晩中寝られませんでした。
 恐怖は判断力も鈍らせるし、大変な心境になることを身をもって知りました。しかしそれ以上に、神様がいろんな人を通して、私たちを愛して導いてくださっているということも知ることができました。
 インドから帰国する時は、イエス様の色々な奇蹟的な導きがあったんだなと飛行機の中でつくづく思ったのでした。

【デボーション参考ポイント】
●「愛」をすることは、神のみこころであるという強い確信をもって、
  互いに愛し合うことにチャレンジしてみましょう。

 

 

 

 

■2015年9月20日 日曜礼拝メッセージより(小栗伝道師、横路伝道師)

 神の愛  up 2015.9.20


また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。
(ヤコブ1:22)

それゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。
(イザヤ30:18)

 

 

 

※小栗伝道師メッセージ
1.みことばを行う力の源は神の愛(ヤコブ1:22)
“また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。”
 神の愛によって創られた自分の人生の目的は、自分のためにいのちを捨ててくださったイエス様の愛に生き、この愛を紹介することであるとはっきりする必要があります。予期しない出来事が起こり、様々な状況を通る中でも、愛を現す者として導かれていることを感謝します。

【内容観察】
「神の愛に動かされて、みことばを行うことをチャレンジすることを心がけなさい。自己中心の思いにごまかされて、チャレンジするチャンスを遅らせないようにしなさい。」
 みことばを聞き、心が動かされたというだけに留まらず、行うことを神様は導いておられますが、ただやみくもに「行いなさい」と言われているのではなく、そこには動機が問われます。
 神様を愛し、隣人を愛する心から出た行いと、もう一方は自分を愛する欲から出た、自分のための行いは、表面に出てくるものは同じように見えても、心を見られる神の目の前には、違いは明らかです。
(第1コリント13:3)のみことばにあるように、いくら立派な奉仕や良い行いであっても、神の愛の裏付けがないなら何の役にも立たず、むなしいものであると言っています。
 さらに、当時のパリサイ人や律法学者たちは、人に見せるための善行をしていました。わざわざ街角に立って、人に認められようとして、人前で祈るわけです。みことばを実行するというとき、内側の思いが本当に問われます。
※ただし、私たちの救いは、行いによる義で得られない。
(ローマ3:20)(自分のよい行いで救われることはできない)
イエス・キリストを信じる信仰によって救われるのであって、今回のテーマの「みことばを行う」ということとは、観点が異なります。

◎みことばを聞いても行わない人(同:23、24)
“みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。”
 ⇒鏡で生まれつきの顔を見てから立ち去り、忘れてしまう
(ヘブル4:12)“神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。”
 真理なるみことばの鏡は、真理に対する私たちの心・魂の状態をはっきり映し出します。みことばは真理ですから、神の子としてのあるべき姿、神が私たちに願われている姿が示されています。「互いに愛し合いなさい。」とみことばが語っても、「それはできない。したくない」という自己中心の思いが鏡に映る時に、その指摘を受けた自己中心の思いは、自分の存在価値を下げる、否定すると受け取るので、「見たくない」と避けてしまい、自己中心のあることをごまかすのです。
 みことばの前に、それに反する肉の存在を認めずごまかすことが、欺く状態です。結局、みことばにチャレンジする時を遅らせてしまいます。この欺く状態は、自分で変わろうとしない、変えようとしない、キリストの成人になるための霊的成長がとどまってしまうと言えます。
 神様は、まずみことばの鏡に照らされた肉の心を見る(直視)ように、願われています。
 また、行わなければ責められる思いを持つのも、誤った心の姿勢です。1タラントを預かったしもべは律法主義であり、結果を出さなければ責められる厳しい神と捉えていました。せめて預かった1タラントを減らさないために、隠しておくということを彼は思いつきました。
 しかし、神様はよい結果を出すことを求めておられるのではありません。神様は、私たちができないところからみことばを行って、少しずつ近づいていく過程を見ておられ、やり直すことができるようにしてくださっています。これが自由の律法です。

◎自由の律法を一心に見つめて離れない(同:25)
“ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。”
 自由の律法とは、キリストによって与えられた愛の教えであり、神の赦しと恵みの律法。これをしたからこれが返ってくるという報酬主義ではありません。
 ですから、私たちが、みことばの鏡に照らして肉の部分を見たとしても、「神様、あなたが私の人生を導いておられますから。」とチャレンジする思いに至るのではないでしょうか。
 神がまず、私たちを愛してくださいました。キリストは私たちの罪の身代わりに、十字架にかかって罰をその身に受けてくださいました。公然と、罪人としての姿をさらしてくださいました。
 私たちの過去/現在/未来に至る、すべての犯した罪、犯す罪は、イエス・キリストを信じるだけで赦されています。やり直すことができるようにされているので、ただ聞くだけでなく、行うことをチャレンジするチャンスを遅らせないようにと、神様は導いておられるのではないでしょうか。
 世の始まる前から、神の愛によって創られた私たち。「世に勝った」と言われるイエス様を、死者の中からよみがえらされた神の御霊が、私たちの内におられます。そのイエス様の復活のいのちが私たちの内にありますので、みことばを行うことを拒む肉の思いにごまかされないで、チャレンジしてみてください。
<参考聖句>(ルカ6:47〜49)
“「わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行う人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。聞いても実行しない人は、土台なしで地面に家を建てた人に似ています。川の水が押し寄せると、家はいっぺんに倒れてしまい、そのこわれ方はひどいものとなりました。」”
○みことばを聞いて行う
・地面を深く掘り下げる→心を深く掘る、調べる。心を砕く。
・岩なるキリストを土台にする→キリストへの信仰を建て上げる
 行いによる結果を出すようにということではありません。地面を掘り下げ、岩の上に土台を据えることだけでも、時間がかかることです。
 うまく進まなかったことも、くり返しながら忍耐をもって進め、また知恵をもって取り組んだことでしょう。それらの家を建てるために費やした時間は、すべて益です。なぜなら、私たちの内にキリストが形造られるために、神がそのみことばを行うことを望んでおられることを受けて、チャレンジしていくことで、神への信仰が深まるからです。神への愛が大きく積み上げられた家とも言えそうです。
○みことばを聞いても行わない
・地面を掘り下げたり、土台を作ることが面倒だと考えている。心を調べることをしない。
 こうして、見える部分はどちらも同じようでも、土台がなく、神への信頼関係、愛の関係が築かれないまま家を建てても、洪水や川の水が押し寄せれば、手をかけていないのですから、当然崩れます。
みことばを行う力の源は、神からの愛であり、神への愛です。
 在原先生がアルゼンチンへの召しを受けられたその地は、人から見れば本当に難しい地だったと語られました。しかし在原先生は、神からのことばに信頼して、神が行くように言われた奥地へと進んで行かれました。
 どうぞ、ご自分の内に与えられている神を愛する思いに導かれて、みことばを1つでも実行するチャレンジをご一緒にしてまいりましょう。
【デボーション参考ポイント】
*どのようなみことばが行うのが難しいですか
*それはなぜだと思いますか
*自分では、どのようにしていきたいと思いますか

※横路伝道師メッセージ
2.私たちを待たれる神の愛(イザヤ30:18)
“それゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。”
 私たちは、神を待ち望んでいます。しかし、神様の方も私たちを待ち望んでおられるということを今日お話ししたいと思います。このみことばでも、恵もう待っておられる神様であるということを知ることができます。

◎主は「待ち望むように」言われる
 なぜ、神様は私たちに「待ち望め」と言われているのでしょうか。それは、命令ではなく、神様の方も私たちを待ち望んでくださっているという相関関係があるのです。
 例えば、「互いに愛し合いなさい」というみことばも、神様がまず愛してくださったので、あなたがたも愛し合いなさいと言われています。「互いに赦し合いなさい。」も、神様がまず私たちを赦してくださったから、互いに赦し合いなさいと言われているのです。
また、賛美をささげることも、神様が私たちにご自分を賛美し礼拝することを要求しておられるように見えますが、そうではなくて、「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43:4)」とあるように、まず神様の方から私たちを愛してくださっているので、私たちも神様に賛美をささげるのです。
そして、神様は私たちを待ち望んでおられるので、私たちも主を待ち望めと言われているのです。
 主を待ち望むと、どんな良いことがあるでしょうか。有名なみことばに、「主を待ち望むものは新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」(イザヤ40:31)とあります。その他にも多くのみことばの約束があります。主を待ち望むことはとってもすばらしことです。
*待つのが苦手な私たち
 私たちは待つのが苦手な者です。早く助けて欲しい、早く癒して欲しい…とあせってしまいます。
*なぜ待てないのか
 本当に素晴らしいタイミングは、神様がご存知なのですが、私たちは自分のタイミングで、早く早くと急いでしまう心があるからです。信頼できる方にお任せすればいいのに、待てずに自分でついやってしまうことがあります。サウル王も、サムエルが来るのを待てなくて、自分でいけにえをささげてしまうという失敗をしてしまいました。不安がある人は、待つことがなかなかできません。
*他にない物、安くておいしい食べ物を並んで待つ
 一方、おいしいグルメのために、一時間でも平気で待つ人々がいます。それは、他にない物!安い!おいしい!等の認識があるからです。どんなに待っても、それだけの価値がある!ということを知っているから待てるのです。

◎私たちは何を待っているのか
 私たちにはそれぞれ何か待っていることがあると思います。問題の解決や、苦しみからの解放、また様々な必要を待ち望みますが、クリスチャンとして成長してくると、聖められ、やがてキリストの来臨の時に携挙されてキリストの花嫁になれるように、聖霊に満たされることを待ち望みます。そして、御霊の実を実らせて、人々に福音を伝え、多くの人々が共に礼拝するようになることを待ち望んでいるではないでしょうか。

◎待つことの大切さ
*すべてに時がある。
 なぜ神様は私たちを待たせられるのでしょうか。それは、神様のご計画があられるからです。
(伝道者の書3:1〜8)
“天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。殺すのに時があり、いやすのに時がある。くずすのに時があり、建てるのに時がある。泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。……”
 神様には時があるのです。
*最善の時は「神の時」
 最善の時とは、神様の時です、私たちは「この時までにこうして欲しい」と願いますが、私たちが早くしてしまうと失敗してしまうことがあります。後でもっと良いものが待っているのに、その祝福を逃してしまいます。
*待つことで強くされる
 いつでもすぐ手に入るなら、その人は強い人になれません。私たちは欠乏の時、困難の時、待つことを通して忍耐を養われます。待つ時に信仰が試されます。本当に神様を信頼して待つことができるか試されます。必ず神様が最善の時に最高の祝福をくださるという確信があれば、私たちは待つことができます。神様は私たちを愛しておられるから、忍耐を通して信仰を強めて、素晴らしい神の子どもとしたいと願っておられるのです。

◎主は何を待っておられるのか
 神様は何を待っておられるのでしょうか。神を愛する人になること、隣人を愛する人になることを待っていらっしゃいます。多くの方が救われること、主に近づくこと、聖められて、携挙の準備ができることを待っていらっしゃいます。神様はあきらめずに、忍耐を持って待ってくださっています。主が私たちを待たれる理由は何でしょうか。
【参考聖句】(第2ペテロ3:9)
“主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。”
 これは、再臨を待っているクリスチャンに対してのみことばですが、同時に私たち一人一人の成長や、聖めのためにも適用できます。イエス様を信じていない人が滅びないで天国へ行けるようにということはもちろんですが、救われた私たちも、天国に行けるように、日々悔い改めて神様の前にもう一度やり直すことを待っておられます。それは、私たちを期待しておられ、愛しておられるから、あきらめずに待ってくださっているのです。
(詩篇39:7)
“主よ。今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです。”
 私たちは、祝福や癒しや人々の救いを待っていますが、私たちの究極の待っているものとは、それらのものではなく、その素晴らしい祝福と恵みをもたらしてくださる、神様ご自身を待っています、と詩篇の作者は語っています。神様ご自身を待ち望むことが一番大切であると言っています。
 先日、数名の方と「神様は私たちの何を待っておられるのだろうか。」ということを話しました。「私たちが元気になること」「感謝し賛美すること」「主と交わること」「御霊に満たされること」「疑わないこと」…等、たくさん出てきました。
 その次の日、メンバーの一人から、「わかりました。神様が待っておられるのものは、私自身なのですね。」というメールが来ました。私はそれを見てとても感動しました。神様は、私が何かして欲しいということではなく、私自身を神様は待ち望んでおられるのです。だから、私たちも神様ご自身を待ち望むのです。この一週間、神様ご自身を待ち望んでいきましょう。

 

 

 

 

■2015年9月13日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛は氾愛兼利  up 2015.9.13


『氾愛兼利』(はんあいけんり)
人を区別なく広く愛し、互いに利益を与え合うこと。
『氾愛』⇒広く隅々まで愛情を及ぼす意。
『兼利』⇒利益を共にして、広く分け合う意。
主題聖句(ヨハネ6:5〜13)

 

 

 

 氾愛兼利とは、人を区別なく広く愛し、互いに利益を与え合うという意味です。神の愛はすべての人に分け隔てなく与えられています。
 今日は一つの面白い企業についてお話したいと思います。この会社は日本一休みが多い会社として有名で、「楽園企業」と呼ばれています。この会社社長が有名な方で山田昭男さん(昨年亡くなられました)といい「未来工業」という会社を興された方です。もともとは劇団の人で、劇団だけでは経済がやっていけないということで、劇団のメンバーと一緒に会社を起こされました。そして、規模を大きくするために郊外に大きな建物を建てたのですが、そうなるとパートの主婦から、会社が遠くなって家から通いにくくなったと苦情がでるようになりました。それで、社長は会社を見直し始めました。
 まず、社長が楽園企業を目指した理由は3つあります。
(1)女性社員から通勤時間がかかりすぎ、特に残業を2時間もするとスーパーが閉まってしまい、買い物ができなくなるということで、スーパーの閉店時間に間に合うために、残業をしないで帰ろうということにしました。

(2)また、残業手当ては25%上乗せになり、それを支払うのなら残業せずに帰ってもらったほうが、デフレであったので会社のためにもなるという判断でした。

(3)もともとが劇団出身だったので、仕事だけが人生ではないと思っていました。それで、仕事の後、家族で団欒したり、趣味をするという余暇を楽しんでもらいたいという願いがありました。こういう訳で日本一休みの多い会社に作り変えたのです。
 何よりも、残業しないで、しかも給料が変わらず生活できるということ、会社の利益よりも社員のことを考えてくれているということから、社員も喜んで社長と考えを合わせ協力し、今日の日本一休みが多いが利益が上がる会社が出来上がったのです。
 隣人である従業員のためにという志(愛)が社員の心を動かしたという、今日の「氾愛兼利」の熟語にぴったりのお話だと思います。
互いに利益を分け合うというのが、愛の素晴らしさです。
 たまってから分けるのではなく、愛は先に与えていくというのが聖書の原理です。

1.5000人への給食(ヨハネ6:5〜13)
 人は食事をしないと生きていけません。イエス様は心の糧であるみことばとともに体のためのパンも与えたいと思っておられました。
 人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るひとつひとつのことばによるとあります。そのことばは愛のことばです。神は愛だからです。人を真に生かすのは神の愛のことばです。ただこの愛を信じられなかったら、そのことばは生きる力となりません。
 この神の愛を信じるために見える形で与えられたのが十字架です。これ以上の大きな愛のしるしはありません。

【内容観察】
★少年が、イエス様に持って来た五つのパンと二匹の魚。
 少年はイエス様への捧げ物として、この大麦のパンと小さな魚を捧げました。大麦というのは貧しい家庭で食べられていたもので、実際は家畜用でした。この少年はそういう貧しさの中にありながら純真にこのパンと魚を捧げたのです。それはイエス様を尊敬し慕っていたからです。
 神様への純真で小さな愛の捧げ物です。イエス様はどんな小さな愛の捧げ物も決して無駄にされない方です。
 自分にできる精一杯の捧げ物が人から見たらどんなに小さな物であっても、神は尊いと見てくださるのです。

★イエス様は、それを受け取って祝福し、人々に分け与えられた。
 神様は小さな捧げ物を大きく用いて下さる方なのです。小さな物が大きくなる。この世の生き物はすべて小さく生まれて大きく育ちます。神の国は小さなからし種が、多くの鳥を宿すほどに大きく育つ所です。少年の純真な愛がイエス様の祝福によって、多くの人々にまで及ぶ祝福とされました。
 あなたの純真な小さな捧げ物をまずイエス様にささげましょう。そうすればどんどん大きくなっていきます。

★受け取った人々は、それを分け与え続け、すべての人が満たされた。 パンや魚を受け取った人々は半分に裂いて他の人に与えると、自分の手元のパンや魚がもとの大きさにもどっているという奇跡を体験していきます。
 これはとんでもない奇跡です。おそらく全員が驚き喜んで、裂いては分けを繰り返したことでしょう。分けると増えるという奇跡です。愛は分け与えると楽しくなります。幸せになります。人々はこの愛の力を体験したのです。
 分け与えられない人は、分けたら減ると思うからです。しかし愛は分け与えたら増えるものです。こうして人々は分けることで満たされるという素晴らしい経験をすることができました。

★十分食べたとき、パンは十二かごいっぱいに余り、増えなくなった。 十分食べたとき、パンは十二のかごいっぱいに余りました。弟子たちのかご十二のかご以外に、人々のかごや入れ物もいっぱいになったことでしょう。
 そして人々が全員満腹した時、増える奇跡は終わります。愛は器にいっぱいになるとそれ以上増えません。そして自分だけが満腹しきってしまうと、間違った方向に行ってしまいかねません。満腹しきるのではなく与えることが大切です。
 まず神様に満たされましょう。そして、その祝福、愛は他へ流し出していきましょう。
 旧約時代、エリヤは、飢饉で最後のパンを焼いて息子と死のうとしているやもめに、まず自分にその最後の粉でパンを焼くように言いました。大変薄情な言い分のように感じますが、このやもめは神の預言者としてエリヤを受け入れ、そのことばどおりに、最後の粉でエリヤのためにパンを焼いて与えます。その結果、エリヤはやもめの家計を祝福し、飢饉が終わるまでかめの粉も油も尽きませんでした。
 また、エリシャは預言者の夫が亡くなり借金で苦しんでいる妻のもとに行き、家に唯一残っているのが油のつぼひとつだったので、器を周りの家からたくさん借りてくるように言い、そのことば通りに子どもたちが器をたくさん借りて来ると、その器にどんどん油をついでゆいき、最後の器がいっぱいになるまでついでいきました。そしてもう器がなくなった時、油は止まったとあります。
 これはイエス様がなされたパンの奇跡と通じるものがあります。この奇跡のために基となる小さなものが必要でした。そして、それを差し出した時にそれは大きく増えていき、いっぱいになった時に初めて止まったのです。
 愛を尊ぶならば、愛は増えて祝福されてきます。

2.分かち合う(第1テモテ6:18)
“また、人の益を計り、良い行ないに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。 ”
 人の益を計るとき、何を基準に計るのでしょうか。単にないものを与えることが益になるとは限りません。例えば大金を与えることがかえって相手の為にならないこともあります。
 人の徳が高められることこそが、本当に相手の益になることです。
また、豊かな良い心がなければ良い行いはでてきません。
 「惜しまずに施し」は、私たちはしばしば惜しむ心を持ってしまいがちです。例えば、献金で捧げましょうという時、十円で惜しむ人、百円で惜しむ人はあまりいないでしょう、五百円では学生の人は少し惜しむかもしれません、五千円となるとほとんどの人が惜しくなるでしょう。一万円になると…なかなかできないものでしょう。
 しかし、多くの物をもっていると思える人は多くの物を施すことができるものです。
 心の豊かな人は多く施すことができます。つまり徳が高められるということが大切です。与える喜びを知っていれば、豊かな心で施すことができるようになります。そこには施す量ではなく、神様の愛に感動し動かされ、豊かな心になって惜しむ心自体がなくなっていくのです。
 喜んで分け与えるとは、多く与えられている人は分け与えるために与えられているということを悟ることです。「愛をすること」のチャレンジはまず、持っているものを分け与えるということから始めてみてください。小さな愛を神は生かしてくださいます。
 そして、人の徳が高められるために何を分け与えたらいいのかを、考えてみてください。大きなことができなくても、家族のために進んで手伝ってみるとか…。
 まずは小さなことから始めていきましょう。心が豊かになっていくなら、徐々に大きなことができるようになっていきます。

 

 

 

 

■2015年9月6日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 一寸丹心へ流れる愛  up 2015.9.6


『一寸丹心』(いっすんのたんしん)
『丹心』=真心、誠意
うそいつわりのない真心。
自分の真心を謙遜して言う言葉。
主題聖句(ヨハネ5:5〜9)

 

 

 

 水が低いところに流れて行くように、神様の愛もへりくだるところに流れていきます。
1.心砕けた病人(ヨハネ5:5〜9) 
 38年間もこの人を苦しめていた病が、イエス様の一言によってたちまちいやされたというすばらしい奇跡の記事ですが、背景には何があったのでしょうか。
★38年間も待ち続けた心
 現代なら、もう治らない病としてあきらめ、「これが自分だ。しかたない。」と持病との付き合い方を考えるところですね。
 しかし、当時は社会保障などありませんから、彼にとって病気は人生すべてをだめにするものでした。絶対にこのままでいてはいけない状態だったのです。彼にとってはいやされることだけが希望でした。
 38年の歳月は彼を老いさせ、人生のほとんどはこの病気によって費やされてしまいましたが、それでも彼はいやされることを願ってここに留まっていました。
 神殿の中にあったこのベテスダの池に来る人々は、医者にさじを投げられ、財産もなく、何も頼るものがない人々です。彼らはここで物乞いをしながら、いやされるチャンスを待つ状態であったと思われます。
 その中で彼は、人にも環境的にも自分にも頼れず、頼れるものは神様しかいないという窮地に追い込まれた心理状態だったことでしょう。たった一つの希望は、聖書にある多くの奇跡としるしをなされた神様のあわれみにすがること。
 長い闘病生活の中で、このような心に変えられていったのではないでしょうか。
★イエス様が声をかけたくなるような病人の状況
 イエス様は見えるものに影響されず、見えない霊の動きを見抜くことができる方です。この場所には他にも数多くの病人がいたにも
かかわらず、イエス様は彼に声をかけられました。
 彼の心は悩みに悩み苦しみに苦しみ、自我が砕かれ貪欲が砕かれ、自分は無に等しい者であると追い詰められ砕かれた心でした。そのような心だったからこそ、イエス様の足が自然に彼の方へ向かわれたのではないかと私は思います。
 サマリヤの女の場合は、神様があらかじめご計画されて、イエス様はそこを通らなければなりませんでした。しかし、ベテスダの池の記事には、強制を感じる記述がありません。
 イエス様は、水が一番低いところに流れていくように、自然に彼のいる場所に足が向き、「この人こそ一番心へりくだった人だ。」と感じて声をかけられたのではないかと思います。
 池の周りにはさぞやいろんな人々がいたことでしょう。しかし、山の湧水は海にまで流れて行き、海に出てやっと落ち着きます。イエス様は神様の愛そのもののお方ですから、導かれるところは「悔いくずおれた魂」の居場所、へりくだった人の所です。
★真心からの説明
 もうあきらめかけているけれど、なお一筋の希望である神のあわれみのみを待ち望んでいる彼の心境なら、冷静に正直に現状をイエス様に告げたに違いありません。
 人に頼らず神様に一筋の希望を賭けている人の心は我がなく、感情や知識などの肉に左右される部分は弱り切って、たましいそのものが表に出てくるような状態にあります。肉は絶望しきっており、霊・たましいが神にのみ希望を持っています。
★深いあわれみによるイエス様のおことば。
 どん底にある低い謙遜な心に、イエス様は声をかけ、真理のことば、いのちのみことばを語られています。それはまるで創世記を思い起こさせるような、創造のみことばでした。
 彼のやみの人生に光を当てられ、病が取り除かれるというより、そこに健康を創り出されたのです。神が発せられたことばは必ず実現されますから、彼はイエス様のおことばどおりに床を取り上げて歩いたのでした。
 いやしというより、奇跡と呼ぶのがふさわしい出来事と言えるでしょう。彼がどれほどへりくだり、心砕かれ、粉々であったかが察せられます。
 人間としてこだわるものはもうなく、幼い頃から聞いていたヤハウェの神に対する霊魂からの信仰のみが彼をつなぎとめていました。イエス様はそんな彼を見つけ出して、へりくだった心におことばを与えられたのでした。
 神を愛する心は、神に対して尊敬を持つことです。この病人の神を愛する心は、神を敬う心〜イスラエルのために過去どれほどの栄光を表してくださったかを知り、信頼する〜であり、敬うとは希望を持つことでもあります。
 神を愛する人の心に神が語られると、そのことばは創造の力を持ち、現実に作用します。しかし、この希望を持つ人は、神への愛が真実かどうかを試されます。彼は38年間試されました。
 38年間様々な自己葛藤や肉の欲、不信仰との戦いを続け、彼は神様に文句や不平を言わずに自分の罪を認め、罪深さを自覚し、「こんな罪人が生きるには神のあわれみしかない」と悟りを開きました。
 逆に言えば、彼の謙遜な真心が現れてくるために病気のつらさ、苦しみがあったと言えると思います。

【デボーション参考ポイント】
 「『真心』が現れるときとは、どのようなときが多いでしょうか?」
 順風満帆な時よりも苦しみの時、失敗している時の方が、私たちの本当の気持ちが現れることが多いのではないでしょうか。この病人もそのところに至ったのです。イエス様もそれを感じて、誰よりも一番へりくだった彼のところに来てくださいました。
 私たちも、まだ文句や不平が出ている時や不信仰になる時は自我が砕かれていないのです。自己中心の主観から神様を測っているからです。彼はそれさえも取り除かれるほどに試されたからこそ、こんな奇跡を体験できたのです。
 悔いくずおれた、神を愛することにのみ希望を持っている魂には、神は声をかけてくださいます。
 いやされないのには理由があり、通らねばならない過程があります。砕かれ、へりくだり、神の愛に生きる希望を見出していくことが主目的ですから、たとえ生涯いやされなくても、最後に神の前に引き上げられるまで戦い続けたなら価値があります。
 悩み、苦しみ、信仰を神の愛に留まらせるために戦い続けるという過程が終わる時が、肉体の死です。ここではいやされるか否かは問題ではなく、神様の愛を悟るかどうかが大事なのです。
 いやしや奇跡はすばらしいものですが、それだけを期待する人々が集まるとなると問題です。
 パンの奇跡を見てイエス様の後についてきた群衆に対して、イエス様は言われました。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者でなければ、わたしについて来るのにふさわしくない。」
 この発言を聞いたとたんに、多くの人が去ってしまいました。

2.主が住まわれるところ(イザヤ57:15)
“いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。」”
 「心砕かれてへりくだった人とともに住む」と言われている部分を見落としていることが結構あるかもしれません。高く聖なる所と、心砕かれてへりくだった人とは同じところにあるのです。
 イスラエルの神を賛美する人は、心砕かれてへりくだっているからです。まず、罪人が神を賛美するのは救われているからですね。神の大きな赦しとあわれみを受けたからこそ、神を賛美するわけです。
 イエス様・神様を信じる人の心はごう慢ではありえないし、ごう慢であるなら神を信じられないのです。実際に、パリサイ人や律法学者はイエス様を信じられませんでした。
 神様の愛により洗われきよめられて、新鮮な魂・霊として新しい一週間を神様の愛に生きるために、私たちはここで愛の交わり(神の愛に触れる機会)を得て、ここに来ているわけです。しかし自我があっては、神様の愛に十分に触れることができません。
 ごう慢な人は人の気持ちや親切がわかりません。いつも自分のことばかりを意識しているからです。
【内容観察】
「最も尊ばれるべき方、永遠を住まいとして生きておられる方、その名を『きよい』と声高らかに称賛されている方からのお言葉。『わたしは、万物の創造者として治める主権の座におり、罪を深く悲しみ悔い、すべての人を自分よりも優れた者として敬う人の心の内に住まいをもうける。その謙遜と謙虚さを重んじてその霊を尊いことに用い、罪を深く自覚して卑下する者を愛して建て上げるためである。』」
 私たちの神様は、「きよい方」と唱えられる=大声で叫ぶほどに、きよさの極みにおられる方です。この方が持たれる主権がある玉座もまたきよい場所です。
 この場所と、他の人を敬うへりくだった人の心は同じであり、神様が一緒にいてくださると言うのです。
 神様が価値あると感じられるのは、謙遜と謙虚さをもつ魂です。自分を卑下して打ち砕き、また打ち砕かれた人の「ちりにも等しい自分」への悲しみをごらんになり、その人を特に愛され、生かされます。
 イスラエルの人々は表面だけのへりくだりをしましたが、神様は心のへりくだりを求められました。しかし、自分でへりくだることは難しいものです。心砕かれへりくだるためには、辛さや苦しみをを味わわなければならないことが多いのです。
 ですから、今苦しんでいる人は希望があります。喜び楽しんでいる人は、休憩中なのかもしれませんね。
 あなたがますます砕かれているのは、この病人が受けた神様の奇跡〜創造の神のみことば〜を体験できる信仰に到達できるための過程を今通っているのです。
 しかし、いやしを主目的にしないでください。きよめられること、へりくだりが与えられることに希望を持ってください。いやしは結果として現れるだけのものです。いやしは体に働くものですから、いずれは死ぬのです。
 いやしに期待し、いやしに心を奪われてしまってへりくだることができなかったら、いやしがその人をごう慢に導いて滅びに至らせてしまったことになります。
 現代日本では情報があふれていて、私たちの心は様々な情報に振り回されがちです。情報が多すぎて、どこに自分の真心があるのかを見失ってしまうこともよくあります。氾濫する情報は大したものではなく、自分の希望は神様だけであると悟る境地に行ってこそ、へりくだった心です。そういうことを皆さんもぜひ悟っていただきたいと思います。

【デボーション参考ポイント】
 「心砕かれて、へりくだった人に神の愛は関心がある。」
○高く聖なる所に住むお方が、低く汚れた所に住むことができるのは、自己中心が砕かれ、へりくだった心だけである。
 あなたが罪人でも、神の主権を認め、神の前にへりくだる心砕かれた状態であれば、神はあなたと共に住んでくださいます。
 ですから、神を信じる、神を畏れるというのは、とても大事なことです。イエス様を信じていると言っても、ご利益宗教的な信じ方では意味がありません。だからこそ、私たちは神様に試されるのです。本当に信じる人は、悪い状況、悪いものがあり続けたとしてもなお神様を信じ続けるものですから。
 高い所から低い所に流れる自然界の水。それを常に得るためには、雨が降って流れの元になる山のてっぺんか、水が流れ込む海に行くのが一番確実です。
 神様はいのちの水なるお方です。この水を得るために一番いいのは、へりくだった場所にいることです。

【まとめ】
 欲は心を高慢へと押し上げ、愛はへりくだる者へと流れくだる。
 この世は上を目指します。「もっともっと」と欲しがり続けて上を目指した結果、争い合うのです。ごう慢な者ほど争い、へりくだる者は争いません。
 上を目指す人々は、常にごう慢の罪に陥る罠にさらされています。成功した人がへりくだることは、並大抵の努力ではできません。ただし、多くの苦しみと失敗を経て成功した人はその限りでなく、自分の無力さを知っているので、ごう慢になりにくいです。
 成功し続けた人ほど、失敗した時に挫折が大きくなります。ごう慢なので、挫折が大きいのです。ですから、ごう慢になる危険をはらんだ欲というものは、よく自制しなければいけません。
 私たちは欲よりも愛を求め、愛を働かせるようにしていきたいですね。愛が私たちのうちに働くためには、へりくだりが大事です。神を畏れ敬う心に、愛は下ってきます。

「稲穂見る 愛が膨らむ しるしかな」

 稲穂は秋の季語です。この時期はまだ実が入ったばかりで、少し首を垂れるくらいです。この稲穂を見ながらこれまでのメッセージを思い返して、考えてみてください。
 稲穂は大きく実るほど首を垂れますが、愛の実も同じように、成長するほどへりくだるのです。
 あなたがへりくだりを身につけるほどに、また人のへりくだりを見た時に、「内に愛の実が膨らんできているのだな。」と見分けることができますね。