■2015年8月30日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
愛は事上錬磨 up 2015.8.30
『事上錬磨』(じじょうれんま)
実際に行動や実践を通じて、知識や精神に磨きをかけること。
「事上」=行動や業務をしながらという意。
「錬磨」=磨きをかけること。
日常の業務をしっかりとこなして、それを通じて修養することが真の学問だとする考え方。
主題聖句(ヨハネ4:46〜50)
中国の明の時代に、儒学者の王陽明が考え出した思想(陽明学)のことばです。
これを愛にあてはめると、「愛を築き上げるための特別の訓練は必要ない。日常という実践において磨かれる」と言えます。
教会でではなく、日常の生活で愛を学び、磨かれていくことを、今週は意識して歩んでいただきたいと思います。
1.試された役人(ヨハネ4:46〜50)
★カペナウムの王室の役人⇒地位のあるユダヤ人
★死にかかっている息子がいた⇒助けたい一心の親心
★イエスのいるカナまで40km離れている⇒環境的試練
★48節のイエスの言葉⇒見ないで信じるための試み
カペナウムという所は、ガリラヤ湖の北に位置し、イエス様が行かれたカナはガリラヤ湖から西にかなり離れており、カペナウムから約40km離れていたようです。
役人ですから馬車を持っていたにせよ、40kmの距離はとても一日で行って帰ることはできません。そうかと言って、自分がイエス様を迎えに行っている間に、死にかかっている息子が亡くなるかもしれないのです。そんな恐れを持ちながら、しかし息子を助けたい親の愛の一心で、行動を起こしているのが今の状況です。
○役人は何を試されたか
・社会的地位における傲慢さを捨てられるかどうか
この人はヘロデ王の宮廷にいる役人で、社会的地位が非常に高く、それなりにプライドもあります。また、ユダヤ人の指導者たちは「大工の息子がメシヤであるはずがない」というねたみから、ナザレという貧しい地域から生まれたイエス様を受け入れていませんでした。イエス様は、イスラエルの地位の高い人たちからねたまれたのです。当然この役人も、イエス様のうわさを聞いていたと思います。
しかし、日常生活の中で、そのような思いを吹っ飛ばしてしまうような大きなアクシデントが起こることがあります。通常の中で日々の中で、家族が病気になって死にかかるという試練が、この役人にふりかかってきました。
もしこの役人が、モーセの教えを壊すような話をしている異端者のもとへ行くわけにはいかないというプライドを持っていたら、イエス様のもとへいやしを求めて行くはずはありません。ヘロデ王の役人で、お金があり名声名誉があっても、死にかかっている息子を直すことはできなかったのです。この世の力は何の役にも立たなかったのです。
ですから彼は、突然起こった、病気で息子が死にかけるというアクシデントを通して、この世のものには頼れないが、うわさに聞いていたがこれまで軽視していた奇跡としるしを行うイエスのもとへ、息子のために、役人という位を捨てて一人の父親として行ったのです。
愛が練りきよめられていく中で、この世の地位や肩書きでなく「神に愛されている人間である」という自尊心をもって神の前に出ることが大事になってきます。
人と比べる生活に慣れ親しんでいると、人の前では良い格好をしたり、つい上から目線の態度をとってしまったりすることはないか、愛をもって神様を信頼しているかどうか試みられることがあります。
この役人は、一人の父親として息子のためにイエス様のもとへ行きました。ここで息子を愛する愛も試されています。地位の有無関係なく、「自分は人よりも優れた者でありたい」という存在欲求によって差別を生み出してしまうことがあるので、神様のきよい愛を 内側に育むために、これらを取り除くための試みもあります。
さらにこの役人は、「見ないで信じる信仰」を持つように試されました。これは口で言うのは簡単ですが、実際には大変なことです。見えない状態で言葉だけを聞いて、前に進んで行くのは恐いことです。声をかけてくれる人へのよほどの信頼がなければできないことです。
神様は永遠なる方であり、私たちの未来を見ておられますが、私たちには神様は見えないお方ですので、「見て信じる信仰」によって歩んでいることがほとんどです。しかし神様が願っておられるのは、「見ないで信じる信仰」です。
・見て信じる信仰→自分の欲を満たすために、自己中心に物事を考え、人を動かしていく。
見て信じるわけは、自分にとって益になるか損になるか…と主観で価値判断をするため。欲が絡んでおり、損をなるべくしないように、確実にプラスになるものを選び取ろうとする。
・見ないで信じる信仰→愛。
信頼は愛の一つであり、互いに愛し合っているとは、互いに信頼し合っていることです。行動の結果を見て愛しているならば、主観から外れ始めると愛が冷えていきます。
夫婦が結果ばかり求めているならば、その愛は長続きしません。神の前に誓い約束した愛は、神様が保証人なので、信じ続けることができます。 愛があると、結果が出ていなくても夫を妻を信じ続けることができます。この役人も試されました。
「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。」と突然言われたイエス様のことばは、へりくだってきた役人の心にグサリと突き刺さりました。
いや、そのへりくだりが本物となるためのイエス様の試みのことばでした。イエス様のこの否定的なことばは、不信感が湧き出たりプライドを傷つけられるようなことばに受け取れます。助けてもらえないかもしれないという、処理したように思えても、試みられて初めて「何を言われても息子のためには受け止めます」という本物のへりくだりに至る自覚が必要でした。
役人は言い返すこともなく、なおも息子のために願い出ました。息子のためには、少しの時間もロスすることなく、イエス様を連れて帰りたい役人の心が伺えます。
そして、その役人の息子を思うへりくだった様子を見て、イエス様は「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」と声をかけられました。イエス様に一緒に来てもらうために来たにもかかわらず、今度は「帰って行きなさい」ということばこそ、役人の見ないで信じる信仰が試されたのです。
役人にはイエス・キリストが神から遣わされた預言者、救い主、息子をいやしてくださる方だと信じるかどうかの葛藤が起こりました。結果として、彼は「息子の病気をいやしてくださる方」と信じて帰りました。その後、イエス様がいやしを語られた同時刻に、息子がいやされたことがわかります。
この役人は、自分に対して否定的でプライドを傷つけられるようなことばを聞き、また「帰れ」との命令にも失望することなく、直ったのを見ていなくても「あなたの息子は直っている」とのことばを信じて帰途につきました。
役人はイエス・キリストをどのように信じるかを学んだのです。神が遣わされた救い主、神の代理人のおことばは、信じるに足るものです。「あなたの息子は直っています」ということばこそ、光があります。
役人は神のことばを感情的に受け止め状況的に判断するのではなく、神が言われたことばは絶対に間違いのないものと、真実な神様への信頼を学んで受け止めました。不安な感情はあっても、信じて帰途につく途中で、息子が直った報告を受けたのです。
神を愛するとは、その命令を守ることであると、(第1ヨハネ5:3)に記してあります。それは、そのおことばを心から敬い、尊びなさいということであり、また尊敬がなければ守ることはできません。神への愛は、心から尊び信頼するところから出るものです。
神は役人をそして役人の息子を愛しておられたので、役人を試み、愛を確立されたのです。
【デボーション参考ポイント】
「神の愛を信じることの試みの目的は何だと思いますか?」
2.人の心は試されなければならない(箴言17:3)
“銀にはるつぼ、金には炉、人の心を試されるのは主。”
【内容観察】
「銀の鉱石から不純物を取り除き、順銀とするためにはるつぼを用いる。
また、金の鉱石から純金を取り出すためには炉が必要である。価値あるものも混ざり物であるなら価値が下がる。同じように、人が人として尊ばれるようになるために人の心を聖い愛とされるのは、愛の神であられる天地の主が人を試みられることによる。」
神様の試みは、金や銀が純度を高めていくためのものであって、合格/不合格を決めるものではありません。純度が高まるとは存在価値が上がることです。
あなたの内にある、神のかたちに似せて造られた神の愛は、土の器の中で土(肉の欲望)と混ざっているならば価値はありません。神様はその土と金、貪欲と愛を分けようとして、私たちを試みられます。世の中は金にとっては炉、銀にとってはるつぼにあたります。
この世にいる限り、私たちは試され続け、純度を上げていきます。長生きのすばらしさは、日常生活の中で磨かれ、純度が上がっていくことです。
あなたの今日のつらさは、純度を高めるための神様の導きと受け止められてはいかがでしょうか。忍耐しがいがあるではありませんか。この世の人は、純真な神の愛に価値を見いださず、試みられることを嫌がります。苦しみ、つらい思いをすることは不幸なことと受け止めます。
私たちは、神の国における深い愛をもって永遠に神のみわざを行うための、試みられる準備の期間として、この地上にいるのです。
また神の試みには、純度を高めるものと、罪の失敗により罪から離れるために懲らしめられるものがあります。いうなれば、陶器師が仕上げの前に一度つぶして、一から作り直すようなものです。せっかく今まで純度を高めてきたのに、へりくだりが足らず、頑固さによって罪から離れがたくなったために一からやり直すようなものです。
「心を試される主」のまとめ
○純度の高い愛とするため
○尊ばれる愛を内に育てるため
○神の聖さにあずかるため
★純真できよい愛は、結果や状況によらず信じ続けるもの
イエス様は、私たち日本人が救いを受け入れるかどうか、福音が一切宣べ伝えられてないにもかかわらず、二千年前に十字架で、私たちのためにいのちを捨ててくださいました。全く可能性が見えてない中で、私たちのために贖いのみわざをなしてくださいました。これは信仰です。
見ていなくても、世界中の人々が救われることを望み見て、十字架で苦しみを負われました。私たちを愛しておられるからです。愛しているから、「信じてくれる。救いを受け入れてくれる」と、私たちを見てくださいました。
純真な愛ほど、愛する者をとことん信じ続けることができます。私たちもその愛が練られ、強くされていき、私たちの内に生み出された神の愛に人々が引きつけられてくるように、宝を磨いていきたいですね。
【デボーション参考ポイント】
「カナでなされた二つの奇跡を通して、純真で聖い愛について教えられることは何でしょうか?」
「秋の夜 事上錬磨の 家族愛」
過ごしやすくなってきた秋の夜、いつもの一家団らんの何でもないような情景こそ、事上錬磨のときとして愛を育み、磨き上げていっていただきたいと思います。
■2015年8月23日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
愛は母望之人 up 2015.8.23
『母望之人』(ぶぼうのひと)
思いがけなく助けてくれる人のこと。
主題聖句(ヨハネ4:13〜18)
神様の愛であられるキリストは、思いがけなく私たちを助けてくださる方です。
1.(ヨハネ4:13〜18)
ヨハネ4章の初めから記してあるこの記事は、よく「サマリヤの女」と題されています。この場面から、今日は「渇く」ということと「潤される」というイエス様の愛の働きについてみていこうと思います。
★『水』⇒『渇きを潤す水』⇒喉の渇きと心(霊・魂)の渇き
サマリヤの女との会話は、彼女の喉の渇きを潤すという話から、魂の渇きを潤すという話に変化していきます。女性にとっては突然のこの出会いから、彼女は霊の渇きを潤されたのでした。
★(ヨハネ4:4)「サマリヤを通って行かなければならなかった」
・ユダヤ人にとってのサマリヤ人⇒偶像礼拝者、汚れた者、敵対者
サマリヤ人のそばに寄ったり、彼らの住んでいる地域に足を踏み入れたりするだけでも汚されるというほどに、サマリヤ人への嫌悪は深かったのです。その理由は歴史をさかのぼって、イスラエルが南北王朝であった頃から始まっています。
サマリヤ人たちは、純粋なイスラエル人ではありません。アッシリア帝国によって滅ぼされた北王国のイスラエル人は世界中に散らされ、残った人々が別の地域から連れてこられた民族と混じり合い、混血になってしまったのです。対して南王国の人々は純血の血筋を守り通し、バビロン帝国に滅ぼされた後も混血にはなりませんでした。
南王国の人々からすれば、北王国の人々が異邦人と同じレベルに見えるわけです。そんなサマリヤに、イエス様は「行かなければならなかった」のでした。
ユダヤの人々から非難を受ける覚悟でどうしても行かねばならない理由が、イエス様にはあったのです。この女性との出会いは、そのように重要なものとして聖書に記されています。
【考えてみましょう】
(1)『心(霊・魂)が渇く』とは、どういう意味でしょうか?
喉が渇いたら、水が欲しくなりますね。でも水が手に入らなかったら、だんだん苦しくなります。苦しみが増すと声も出なくなり、力も失われます。脱力感にさいなまれ、熱中症を起こしたりして、倒れてしまいます。そして最後には死んでしまうのです。
魂も同じで、心の潤いがなくなると、心が痛み、苦しくなります。力も失われ、まさに喉が渇いた状態と同じ様子をみることになります。最後まで自分の求めるものが得られなかった時には、心が死んでしまう(あきらめる)のです。
求める気力や希望、愛といったものへの関心がなくなってしまい、あきらめて開き直った生き方をするのです。「もう私は死ぬのだ。」と心に決めてしまった状態です。
(2)なぜ、サマリヤを通らなければならなかったと思いますか?
イエス様がこの女性と出会うために、です。同族であるユダヤ人たちからどれほど非難されようとも、苦しんでいる一つの魂を救うためにはどうしてもこの場所に行かねばならなかったのです。
神様のイエス様へのプランは、この日サマリヤのスカルという町に行って、12時ごろヤコブの井戸のそばに座っていることでした。そこに一人の女性がやってくるからです。
昼なので、弟子たちには食事を買いに行かせることができます。彼らがいたのでは、女性と話などできようはずもありません。
このように神様は、ある人を救いに導かれるために時間と場所を選び、ご計画をもって人を遣わされることがあります。
私(辻師)も同じような体験があります。その時の私は本当に心が渇いており、生きることにも社会生活にも希望がなく、自分の存在意義を見つけられずにいました。その私のもとに二人のクリスチャンが、電車で30分以上も離れた教会から、関西間で三畳しかない小さなアパートの部屋に遣わされたのです。
私の心は渇ききっており、「本当の神はどこにおられるのか!」という怒りにも似た気持ちで、自分の存在意義について葛藤しているその時、二人のクリスチャンがトントンとドアを叩いたのでした。それがイエス様との出会いの始まりです。
神様は渇いている者のところへ人を遣わされるのです。イエス様も遣わされました。
皆さん、ひょっとして、神様が皆さんのもとに遣わされた人がいるのに、その人を無視してしまっているかもしれませんよ。神様はあなたの本心に目を向け耳を傾け、魂・霊の叫びをいつも耳にしておられる真実なお方です。
この女性との出会いは、神様の真実さがしるしとして現れている大事な出来事だと言えるでしょう。それゆえに、イエス様はサマリヤを通らねばならなかったのです。
(3)女性の心(霊・魂)は、どのような状態だと思いますか?
18節のイエス様のおことばが、ヒントになると思います。彼女は自分の過去を誰にも知られたくない、非常に後ろめたい状況にありました。
現代でも5回も離婚を繰り返した人、しかも6人目がいて同棲中の人に対する視線は、決して優しいものばかりではありません。ましてや、二千年前ともなれば尚更です。離婚した後に再婚したら、姦淫を犯したとされる時代なのです。
彼女が再婚する度に社会的信用と立場が低くなり、道徳観も低いと見なされます。それでもあえて夫を求めた彼女の心中には何があったのでしょうか?
彼女は、結婚に自分の人生を賭けていたのではないかと思います。男性は仕事・女性は家事と子育てに役割が分けられていた時代ですから、女性にとって家庭を持つことは幸せのゴールであり、希望であり、生きがいだったのです。
もちろん形だけでなく、愛し合える夫と共にいつまでも愛が続いて子どもが生まれ、愛を育みながら子どもを育てていく幸せな家庭を誰もが望んでいます。愛がなければむなしいものです。
この女性が一緒に住んでいた6人目の男性は、生活のための同居者であり、愛はもうありませんでした。5回も結婚に失敗した彼女は、男性に絶望し結婚に絶望していました。
彼女は幸せが続くために必要な本当の愛、真実な愛、永遠の愛を求めましたが、どの男性もそれを満たしてはくれなかったのでした。この観点から見ると、律法的には罪の女であっても、生きざまにおいては彼女は本当に真剣だったのです。
(4)イエス様は女性に何を気づかせようとされたのでしょうか?
まだ希望があることを彼女に気づかせるために、イエス様はこの話をなさったと思います。
「人に求めたら必ず渇く時がやってくるけれど、あなたの魂が渇かない方法がある。あなたのうちに湧き水が与えられて、永遠のいのちへの水が湧き出るようになる。もう井戸に汲みに行かなくてもいい。」
これは何と彼女の気持ちをつかむことばでしょうか。自然の状態と彼女の心の状態を、うまく合わせたことばの表現ですね。案の定、女性は食いついてきました。彼女は自分が置かれた状況に疲れ果てていたからです。
人が出歩かない真昼間に水汲みに出ていたのは、彼女が受けていた迫害が相当なものであったことをうかがわせます。
彼女からすれば、せっかく人がいないと思って出てきたのに、彼女を失望させた原因である男性という性別の存在、しかもユダヤ人がそこにいたのです。そっと引き返そうとしたのに、そのユダヤ男性が水を飲ませてほしいと言うので、当時の女性の役割上しかたなく水を汲もうとします。ところが、その男性はいきなり訳のわからない話をし始めるのです。彼女はさぞかし面食らったことでしょうね。しかし、これは彼女の隠された本心を引き出すための、巧みなことばと言えると思います。
そのように、意識以外の深いところで魂が渇ききって死んだ状態であることをイエス様は知っておられるがゆえに、そのポイントに水を一滴でも投じるようなことばをお語りになって、彼女が関心を持つようにされたのです。
そして、彼女は「その水が欲しい」と思うようになりましたが、まだ自分の心の渇きには気づいていません。魔法の水を貰い、家に持ち帰れば、今の世間の目から少しでも逃れられると考えているだけです。
ところが、イエス様は突然「あなたの夫を連れてきなさい」と言われました。それは会話の枠を飛び越えて、彼女の心と霊・魂におことばをかけられたのでした。
彼女の心は、過去を知られたくない思いから閉じこもっていました。誰にも会わず、誰とも関わらないことで、自分の恥と向き合わないようにしてきたのです。それらを全部見抜いた上での、イエス様のおことばです。
「希望があるよ。人に対してではない希望があるよ。」と。
(5)イエス様と出逢った女性は、どのような思いに変わったでしょうか?
希望を持つように変わりました。詳しくは18節以降に記されていますので、帰ってから拝読してみてください。19節では、この女性がイエス様に礼拝場所について質問している場面が見られます。
過去を言い当てられた奇跡的な出来事を通して、この女性はイエス様を預言者として見始めました。敬虔な心を持つということは正しい良心が目覚めるということであり、本心に目覚めるということでもあります。
神を畏れる心の部分を良心として、ギリシャ哲学では位置づけています。彼女の正しい良心に意識が向くと、夫どうこうは関係なく、神様への叫び・渇きがあることに自ら気づきました。
5回も結婚に失敗した「罪深い女」として、(自分は神様に祈りを聞いてもらうことなどできない)という神に対するあきらめも、彼女にはあったのです。だから、もう祈ることさえしなかったのでしょう。
しかし、神様は偉大な預言者を自分の前に遣わしてくださったのです。一筋の希望を見出して、彼女は思い切って礼拝について尋ねてみたのでした。
すると、イエス様は彼女の質問に、「礼拝は場所や血筋に関係なく、霊とまことによってするものだ」と答えてくださいました。神様はそのような礼拝者、神を愛する者を求めておられるのだとイエス様から聞いて、彼女の心は眠りから完全に目覚めました。
御霊の働きとイエス様の巧みなおことばにより、彼女は本心に目覚め、自分を自覚し、正しい良心を心に芽生えさせることができました。
その結果、今まで自分の姿を隠していた町中の人々に対して、イエス様のことを告げ知らせて歩く人へと変えられたのです。イエス様との出会いは、それほどまでに衝撃的なものだったのです。
時も場所も選びません。神様はいつでも、私たちに対して神様の愛に出会うチャンスを作ろうとしておられます。まずはノンクリスチャンに、そしてクリスチャンに対しては尚更。私たちクリスチャンはいつでも、蛇口をひねれば水を飲むことができるのですから。
最近は水道のありがたみを知らない人が多いのですが、外国で水の不自由さを知れば、日本の水道のありがたみが身に沁みます。
私たちは往々にして、自分のわがままによって物事を選り好みします。しかし、本当の水でない清涼飲料などではまた喉が渇くので、再び得なければなりません。
もしあなたの家に良質なミネラル水が豊かに湧き出るならば、あなたはそれを飲み、芯からの満足を得られるはずです。ところが私たちは、いつでも私たちの心を満たす神様の愛の水が内にあるのに、それのありがたみを忘れます。
サマリヤの女は、井戸まで水を汲みに行かねばなりませんでしたから、水のありがたさをよく知っていました。この違いで、神様への感謝が変わってきます。
皆さん、便利なことに対して「お金払ってるんだから当然」という考え方ではなく、お金では換えがたいものがあることをよく知って、感謝の心を忘れないようにしましょう。
心の中も、神様の愛が常に与えられているおかげで、不平不満があってもいつも平安です。イエス様を信じる前の不安定さからは、解放されているはずです。「最近カルキが強いな」と文句を言うのは、ありがたみを忘れているからです。
神様は私たちのために愛を注いでくださっているのに、私たちの主観に合わないものがあると、文句を言ってしまいます。これは自分勝手な話だと思いませんか?
私たちは、救われていること、神様の愛で心が潤されていることについて、感謝しても感謝しきれないほどのありがたい環境であることを認識しましょう。そこから私たちの神様への愛を表していったなら、すべてのものに対して感謝できるようになるのではないかな、と思います。
自分の思い通りにいかないことが多いから感謝できないではなくて、思い通りにいかなくても神様の愛があり、この方に愛されているだけで十分だと気持ちが大切です。
「水一杯で十分です。ジュース類は要りません。」という気持ち。神様の愛の水は最上級のミネラル水ですから、私たちの健康を取り戻すにあたって一番大事なものです。良い水は、それを摂取するだけで健康を取り戻させる力があります。体の不要物を排出させ、血液をきれいにします。現代では、その良い水を手に入れるのに苦労しますが。
神様の愛は、私たちから罪という不要物を排出させ、心を浄化してくださいます。愛が私たちの心をきよめるわけですね。ですから、愛に対する感謝が少なくなれば、神様の愛を求めているのか、世の中の愛なのかが、自分でもわからなくなります。
私たちはそれを何かで潤そうとしてしまい、無差別に自分の心を潤してしまってはいないかと、吟味することが必要です。
今週は、そういったところにポイントを置いて、日々のデボーションであなたの心・魂・霊が何によって潤されているのかを考えていただきたいと思います。
楽しみを持つことは悪いことではありません。しかし基本の健全な水を忘れないでください。日々求めるべきは楽しみのジュース類ではなく、基本のミネラル水です。
あなたが人生の渇きを潤す時に、「この愛の水は大丈夫かな?世の中の罪が混ざってないかな?」と、自分の心の渇きを何で潤しているのかを点検する一週間としてください。サマリヤの女性の出来事を通して、思わぬところで神様の助けを得て、自然の良い水で守られているということに気づくかもしれませんね。
私たちは気づかなくても、神様は常に私たちのことを心配してくださり、思いがけないところで守られ、助けられていたという霊的な守りを受けているかもしれません。あなたが滅びないように、神様の愛が助けてくださっていることにも目を向ける一週間でありますように。
■2015年8月16日 日曜礼拝メッセージより(横路伝道師、小栗伝道師)
愛を紹介する8 up 2015.8.16
こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。
(第1コリント10:31)
【横路伝道師メッセージ】
1.ゲッセマネの愛を紹介する(マルコ14:36)
“またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままをなさってください。」”
ゲッセマネという所でイエス様が、十字架に架けられる前の晩にお祈りをされました。この時の祈りが壮絶な祈りでした。
最後の晩さんが終わり、その場所からあまり遠くない、エルサレムの町の外れのオリーブ山のふもとにある、いつも祈りに行っておられるゲッセマネの園という美しい園に、イエス様は弟子たちを連れて行かれました。
ゲッセマネとは「油しぼり」という意味で、そのオリーブ山でとれたオリーブをそこでしぼっていたのではないかと思われます。
そこでイエス様は、弟子たちからペテロとヨハネとヤコブの3人だけを連れてもう少し奥まで行かれ、彼らから石を投げて届くほどの一番奥の所で祈られました。
その祈りに行かれる時に深く恐れもだえ始められ、弟子たちに「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目をさましていなさい。」と言われ、少し離れた所で一人で祈り始められました。
弟子たちは何もわかっていなかったので、驚きました。しかし、イエス様は、これから捕えられ拷問を受けて十字架に架けられるのをご存知だったので、真剣でした。
(1)恐れ、もだえ
イエス様の恐れ、もだえは何だったのでしょうか。1つは、罪がないのに罪人とされることへの恐れと悲しみです。
もしあなたが何もしていないのに「あなたがそれを盗んだでしょう」と言われて、刑務所に入れられたらどうでしょうか。「そんなことはしていません!」と言うでしょう。本当に何も悪いことはしていないのに罪人にされて、十字架につけられることがわかっていたイエス様はどんなに悲しまれ、苦しまれたことでしょう。聖なる方が汚され者とされるというのは、非常な痛みです。新車を傷つけられたり、大事なものを汚されたらどんなに悲しいでしょうか。
イエス様の聖い心が、汚れたものとされ、人々の罪を背負うことは、どんなに辛く悲しいことであったでしょうか。
イエス様は、神の子として3年半の間、愛のわざをされ、いやしや奇跡をされた方です。その特権を奪われ、父なる神様との親しい交わりを断絶されるという悲しみはどんなものでしょうか。
父と子という関係を絶たれました。それらは、全人類の罪を背負って十字架につけられ、父なる神様が目を背られる罪人の姿になられるのです。これらのことをご存知で、ゲッセマネの園で祈られたので、真剣にならざるを得ませんでした。
(2)切なる祈り
その切なる祈りは、地面にひれ伏すほど、汗が血のようにしたたり落ちるほどの祈りでした。
ゲッセマネは油しぼりの場所ですが、イエス様はしぼりとられるほどの血のようにしたたり落ちるほどの脂汗を流して祈られたのです。どんなに真剣な切なる祈りであったか、想像できます。
(3)真実な祈り
「どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。」とイエス様は、弱い、逃げたいという気持ちをそのまま出され、本音で父なる神様に祈られました。
お祈りをするとは、神様にお話しをすることです。その時、形式的に祈ったり、さらっと祈ることもあります。しかし、真剣に祈る時には、私たちも本音で祈るのではないでしょうか。「神様、どうしても助けてほしいのです!」と。
神様は私たちの本音で祈る祈りを喜ばれます。私たちは、祈りを聞いてくださり、受け止めてくださる愛なる神様を知っています。
この祈りの前に、イエス様は「アバ、父よ。」と祈られました。これは「お父ちゃん」という意味です。「あなたにおできにならないことはありません。」と真実な気持ちで祈られました。
(4)明け渡した祈り
最後の祈りがすばらしいです。それは明け渡した祈りです。
「しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを行ってください」と。
クリスチャンがこの祈りができるようになれば、一人前だと思います。幼いクリスチャンは、自分の願いだけをお願いします。
「みこころのままをなさってください」とイエス様は私たちに見本を示されました。なぜなら、できないことがないお方が、この祈りに答えてくださらない場合は、それよりももっとすばらしい答えを私たちに与えてくださる用意があられることを信じることができる祈りだからです。
私たちの知っていることは一部です。神様は、それよりももっと次の段階のすばらしいことを用意して待っていてくださいます。
私たちは目の前のことだけを必死に祈るのですが、聞かれない祈りもあるわけです。
教父と呼ばれ、聖アウグスティヌスと言われている、中世の教理を確立した方がいます。
このアウグスティヌスは、青年の時にはとんでもない放蕩息子でした。しかし、母モニカが熱心なクリスチャンで、アウグスティヌスのためにずっと祈っていました。いくら祈ってもなかなか回心せず、大変な時期を通りましたが、母モニカはあきらめずに祈り続けました。
いよいよ彼が20歳を過ぎて、住んでいた北アフリカからイタリアへ渡って自由に暮らしたいと、家を出ようとします。母モニカはそれを知り、当時のイタリアは享楽の街で何が起こるかわからないので行かないようにと、必死で祈り、ある時は徹夜で祈りましたが、とうとう彼は行ってしまいました。母モニカの祈りは聞かれなかったのです。
しかし、不思議なことが起こりました。そのイタリアで、アウグスティヌスはあることを通してクリスチャンに変えられたのです。そして、すばらしいクリスチャンになり、歴史に残る聖アウグスティヌスと呼ばれるような人物になったのです。
母モニカの、イタリアに行かないようにとの必死に祈りは聞かれませんでしたが。しかし、それよりももっとすばらしいことを、母モニカは見ることができたのです。
私たちは、自分の願いに固執しすぎて、神様のもっとすばらしい願いやご計画を壊していないか、無視していないかということに気づかないといけないのではないかと思います。主は私たちの願いに勝る最善を用意しておられる神様であることを、信じておられるでしょうか。主のあわれみと恵みを感謝します。
(5)目をさまして祈る
イエス様が祈りの途中で、3人の弟子の所に戻って来られると、弟子たちは疲れて眠っていました。イエス様は彼らを起こして「一時間でも目を覚ましていることができなかったのか。」と行って、また祈りに行かれました。このやりとりが3回続きました。3回とは、徹底するということです。
イエス様は3回もこの壮絶な祈りをされましたが、弟子たちは寝ていました。しかしイエス様は弟子たちに「誘惑に陥らないように目を覚ましていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」と弟子たちを弁護しながらlいさめられました。イエス様は優しいお方です。彼らはまだ聖霊を受けていなかったから、弱かったのです。ペンテコステ以降、弟子たちは聖霊を受けて強くなりました。
この時は、イエス様の十字架の苦難が目前に迫っている危機の時であり、目を覚まして祈っていなさいと言われました。
今の時代はどうでしょうか。イエス様の再臨が間近に迫っている時代です。やはりイエス様は誘惑に陥らないで目を覚まして祈っていなさいと言われていると思います。聖霊によって祈りましょう。目を覚ましてとりなし続けていきましょう。
イエス様は3度目に来られ、「まだ眠って休んでいるのですか。もう十分です。時が来ました。見なさい、人の子は罪人たちの手に渡されます…。」と言われました。最後はゲッセマネの苦しみに勝利されました。次の日にゴルゴタの丘で十字架にかかり、神の裁きである死の杯を飲み干すために、イエス様は決然と立ち上がられました。
イエス様は全世界の人々のために死なれましたが、その中に私の罪も入っているのです。私の罪のためにこのような苦しみの祈りをされました。ゲッセマネの園で、ご自身の意志を父なる神様に明け渡され、次の日に肉体を十字架の上で明け渡されました。イエス様はすべてを明け渡されたのです。それは全部、私たちが救われるためです。
<参考聖句>(ヨハネ12:27)
“「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください。』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。」”
イエス様は、私たちを救うという愛による使命を全うされるために、この地上に来られたということを自覚しておられました。信じる者はすべて罪赦されて、救われるのです。
瞬きの詩人と言われている、水野源三さんの詩を紹介して終わります。
「もしも、苦しまなかったら、神様の愛を知らなかった。もしも、多くの兄弟姉妹が苦しまなかったら、神様の愛は伝えられなかった。もしも、主なるイエス様が苦しまなかったら、神様の愛はあらわれなかった。」
【小栗伝道師メッセージ】
2.神の愛は疑いを打ち消す(ヤコブ1:6)
“ただし、少しも疑わずに信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。”
先日、「心を掃除する」というメッセージをお聞きしましたが、「疑い」も心の中に留めておいてはならないものです。互いの「愛が冷える」と言われる世の終わりにあって、疑いはそのきっかけとなり、せっかくの良い関係を崩していきます。疑いは思いだけに留まらず、態度にも表れてきます。
上にあるみことばの「疑い」は、心を動揺させる、ちゅうちょさせるの意味(詳訳)があり、心が不安定な状態で、揺さぶられているさまを表します。
◎二心のある人
二心とは、神様の価値観と世の中の価値観(自己中心)の両方をその場面場面で行き来するようなものです。「自分と同じように他の人を愛する」神の価値観に立っているかと思えば、自己中心の思い(量り)で周りの人の思いを探り、「自分は受け入れてもらってないのでは」と心が定まらず、生き方全体に安定を欠いているのです。
世の中は、できる・できない、持っている・持ってない等で受け入れる線が引かれる、対極的な価値を持った二元論の世界です。当然そこには、比較して互いを量る考え方があります。すべて見えるところでのdoing(行い等外面)による判断は、私たちの心を悩ませます。
*神は天地を創造された愛なる方(創世記1章、エペソ1:4〜5)
神がこの世界を創造された時、すべて「良かった」のです。互いの違いも受け入れ合った一元の世界でした。さらに私たち人間に対しても「世界の基の置かれる前から…選び、(エペソ1:4〜5)」「わたしは手のひらにあなたを刻んだ(イザヤ49:16)」と言われるほどに、愛を表してくださっています。私たちは神様から愛をもってご自分の子にしようと定められているほどの存在なのです。
ですから、神は私たちが互いの違いを受け入れ合うように、他の人が自分と同じようにしないことを拒絶することなく、先ほどの真ん中に引かれた線を取り消すように望まれています。この疑いの思いは、対人だけでなく、神様にも向けられます。
七月聖会で在原先生が、私たちの益のために「なぜですか」という出来事が起こることがあると話されました。在原先生の母教会の設立者であるアクセルソン宣教師は、受けた誤解を自らは解かないまま帰国され、たった一人で天に召されたとのこと。その召天後に誤解であったことが判明したそうですが、それでも神様への疑いは決してお持ちでなかったと思います。また、アフリカに送られ、女性として屈辱を受けて帰国をされた女性宣教師は、「(キリストの)代価を払って買い取られた(第1コリント6:20a)」ことを示され、ご自分の人生の所有権は神様にあることを悟られ、疑いが晴れたお証しは、記憶に新しいことです。
「代価を払って買い取られた」とは「選ばれた」「身代わりに死んでくださった」と同意の、罪人のためにキリストがいのちを捨てて神のものとされていることを意味します。
もし神様に対して「なぜですか」というような疑いが生じることが起こった時に、神に愛されている自分を思い出してしてほしいと、神様は願われています。
*平和を崩してくる働き
これは聞いた話です。
「平原でくつろいでいたシマウマの群れを狙ってきたライオンに対し、シマウマたちは頭を内側にして円陣を組み、後ろ足で蹴り上げ続けるので、ライオンは手の出しようがありませんでした。そこでライオンは一計を生じ、シマウマの一頭に、他のシマウマへの不信感を植えつけるような言葉を語りかけ、聞いた言葉に動揺して動きが止まってしまったシマウマを円陣から引きずり出して倒していく、というのです。」
比較という世の考え方の影響を受けて、自己中心の見方で他の人の思いを探り、プライドを突かれ、疑いをもってしまうことはないでしょうか。
*疑いへの対応の一例(第2列王記18:36)
“民は黙っており、彼に一言も答えなかった。「彼に答えるな。」というのが、王の命令だったからである。”
ヒゼキヤという、主を畏れる良い王様が統治していたユダの国に、アッシリヤの大軍が攻めて来ました。この時にアッシリヤの将軍ラブ・シャケは、ヒゼキヤ王への信頼、主への信頼を否定し揺さぶる言葉を、大声でユダの民に投げかけました。しかし、ラブ・シャケが主への不信をもたらす言葉をどう叫んでも、ユダの民はヒゼキヤ王の命令により、ラブ・シャケに一言も答えない姿勢を貫きました。
私たちは、聞いた言葉によっては、それまで持っていた神への信頼や人への信頼を崩してしまうことがあります。
前述の「なぜですか」というような出来事が起こって、神への疑いが入れられそうな時に、思いに語ってくる「これでも神を信じますか」という疑いをもたらす言葉を受け入れない、答えない、やり取りしないということが必要です。
疑いを打ち消すために、「代価を払って買い取られ、その手のひらに名前を刻まれるほどに神に愛されている自分」というアイデンティティーを決して忘れず、崩されないことが求められているのではないでしょうか。
また、みことばは何と語っているのかを確認することも大切です。
<詩篇62:8>
“民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。”
神様との間に、また互いの間に、疑いの思いによってその関係が切られそうになった時、「どんな時にも神に信頼する」ことは大切です。神様が私たちを愛し、赦してくださっていることを、素直に受け入れることが必要です。イエス様は十字架におかかりになることがわかっても、父なる神様への疑いの思いはお持ちになりませんでした。
日々の歩みの中で、疑いが生まれそうなその時にこそ、神に愛されている自分とみことばを思い起こされ、疑いの思いを放置せず処理していただきたいと思います。
罪人のために自らのいのちをもって代価を払われた神の愛は、疑いという肉の思いよりもはるかに大きく、疑いの思いを引き離すものです。
<参考聖句>(第1コリント6:19b〜20a)
“あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。”
■2015年8月9日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
呑刀刮腸させる愛 up 2015.8.9
『呑刀刮腸』(どんとうかっちょう)
これまでの過ちを自覚し、全力で心を入れ替えて善人に生まれ変わること。
主題聖句(ヨハネ3:3〜7)
今日は、ヨハネ伝から「愛を紹介する」というテーマの3回目のメッセージになります。ニコデモに語られたイエス様のことばから学びます。
『呑刀刮腸』(どんとうかっちょう)
これまでの過ちを自覚し、全力で心を入れ替えて善人に生まれ変わること。
呑刀刮腸とは、これまでの過ちを自覚し、全力で心を入れ替えて新しい人生に生まれ変わる決心をするということです。
愛には罪を自覚させ善人に生まれ変わらせる力があります。神の愛の聖さ、最も聖い愛は神の愛であり、その愛を知れば知るほど、ますます新生してきよく生まれ変わることができます。
1.(ヨハネ3:3〜7)(みことばは前述)
ニコデモはパリサイ人で律法に詳しい人でしたが、彼でもイエス様の言われることを悟ることができませんでした。ニコデモは真理を求めていましたが、周りの人々の多数の意見に動揺し、恐れ、自分の立場を、公にすることができませんでした。今日のみことばの意味をみていきましょう。
「新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」と、イエス様はまずニコデモに言われました。それは彼が内に持っている神への希望(渇き)を見抜かれたからでしょう。何百年も続いているユダヤ教の教えへの虚しさを彼は持っていました。しかし彼には悟れません。
さらにイエス様は水と御霊によって生まれなければと語られます。水は、汚いものをきれいにするきよめという意味を持っています。聖書では、罪の汚れは血によらなければきよめられないと言っています。つまりこの水は十字架を示しています。罪を罰する場面が十字架であり、その赦しを与えた神ご自身が罪を負ってくださったのです。このような罪の処分と赦しは他のどのような宗教も持っていません。
この十字架は、神の良き知らせでありみことばです。みことばは神の心から語られ、愛から語られたものです。
◎水=洗い流す→聖める→血潮→十字架→みことば→神の愛
イエス様は「わたしのことばによってあなた方はもうきよいのです」(ヨハネ15:3)と言われました。みことばには聖める力があります。
◎御霊=神は霊であり愛であります
神の霊とは、神の本質であり、その本質とは愛です。その御霊の特徴は交わりです。父なる神やよみがえられたイエス様とは直接交われませんが、神の霊とは直接交わることができます。パウロはこのことを、「主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の親しき交わり」というように表しました。御霊の名前は主イエス・キリストであり、父なる神の愛を表された御方です。
地上において、まだ罪を犯している私たちであっても、十字架の血潮のあがないによって、神の御霊である聖霊様と深く交わることができるという素晴らしい恵みの中を、私たちは歩んでいるのです。
祈りに応えてくださったり、神さまの臨在を感じられるのはこの聖霊さまの働きによります。
この交わりとは、時間を決めて時々会えるという交わりではなく「共にいる」という絶えることのない交わりです。
★生まれるとは、父の存在がはっきりと感じられるというものです。聖書では父の名前が出てきて子どもの名前がでてきます。どういう父の子どもであるかが家系になっています。つまり原因と結果が表されていることばです。
◎水によってきよめの手続きをし、御霊によってきよめられ続けるということ
◎神の聖い愛が原因となり私たちの心を呑刀刮腸へと導くということです。
愛は罪の自覚をもたらせます。愛に気づいてこそ本心から心を改める決心がもたらされ、生まれ変わらせる強い力が与えられます。
自分を変えたいと願うなら、愛に出会うことです。その愛がきよければきよい程、自分の罪を自覚でき、心から変えられたいと願うようになります。
父なる神のきよい愛に触れるなら、その愛に応えたいと願うようになります。しかし、その愛とは違うもので人生を変えられる力があります。
それは「欲」です。人は欲のためなら人生を変えることができます。ある意味、欲と愛とを見分けにくいことがあります。
それは欲を動機として愛を求める人がいるからです。(しかし、欲は見分けて対処しなければなりません。)
神がいかに私たちを愛してくださっているか、ありのままの私たちをいかに受け入れてくださっているかを知るときに私たちの心は喜びに満たされ感謝があふれてきます。
◎感謝と賛美をささげるとは、聖い愛によって生まれた証しです。
罪の自覚をし、そのゆるしを知れば知るほど感謝の心はあふれてきます。イエス様は、罪深い女性が高価な香油でイエス様の足を洗った時、それを批判したパリサイ人たちに言われました「多くゆるされた者は多く愛する」と。
どれだけ聖い愛に赦され」ているかに気づく人は、その愛に応えたいと心から願うようになるのです。
ずいぶん昔になりますが、ある方の証しを聞きました。その人は妻がありながらどうしても愛人と手が切れない状況が続いていました。ある時、その愛人に対して、妻が「自分のいたらなさの為にこのような状況を招いてしまいました。赦してください。」と心から詫びます。そのことばに驚いて愛人は去り、彼自身は、自分のような罪深い者を赦し愛してくれている妻を通してイエス様の赦しの愛にふれ、心から悔い改め、献身するまでになりました。
聖い愛に気づき、この愛を汚してはならないと気づかなければ、どんなに説教を聞いても何も変わりません。悔い改める心さえ湧いてきません。
隠れたところでゆるし支えてくれる親の愛、この愛に気づくには親の後ろ姿を見ないとわかりません。このような愛は上っ面の表面的なものばかり見ている人には通じません。聖い愛もそのようなものです。隠れて成されていた愛の行為に気づいた時、人は心打たれるものです。
イエス・キリストの十字架はそのようなものです。表向きは罪人としてローマの思い刑によって裁かれました。しかし、実は私達のすべての罪を負って身代わりに裁かれ苦しまれたのです。
神が人となってこの地上に来られ、しかも人類の罪を負って罪人として裁かれたのです。この大きな犠牲の愛にふれ、その愛の深さ、赦しの大きさにふれ心揺さぶられるなら人は変わります。
赦されるのだから罪を犯そうと思うでしょうか。そのような考えは聖い愛を汚すものであり、本当に愛に気づいた人の思いではありません。
イエス様の十字架は、私たちが罪を犯し続けるためではなく、その罪から離れ、聖い神の愛にとどまるためのものです。
そして自分の罪に悩み苦しんで、罪から離れたいと願う為に聖霊さまは助けてくださいます。
2.二つの選択肢(ローマ8:5)
“肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。 ”
この箇所は、先ほどのヨハネ3:6と関連があります。欲が原因で人生を変えるのは欲の人生ですが、神の愛によって変える人は愛という神の霊と同じ霊に変えられます。
御霊によって生まれ変わらなければ、肉からくる罪の誘惑に打ち勝つことはできません。
弱さのゆえにできなくても失望せず、神の愛に属することを優先していくことを心がけましょう。
「肉を主観とするのか、御霊を主観とするのか。」
「自分を中心とするのか、神を中心とするのか。」
「貪欲に服従するのか、愛に服従するのか。」
二つのうちのどちらかを、自分で選ぶことができます。そして選んだことに対する結果がでてきます。
その結果である実が、良い実であれば神は報いてくださり、悪い実であれば裁かれます。
ただし、神様はそれに至るプロセスを大切に考えてくださる方です。どんなに悩み苦しんで、神様の愛に応答しようとしているか、それを神様は見てくださいます。そして、その応答が信仰であり、神さまへの信頼です。
ただ、注意しなければならないのは、恩恵が脅迫となって従うのではなく、愛に感動して従うことです。
神の御霊である聖霊様はいつも助けてくださいます。ますます神さまの聖い愛にふれて、変えられる人生を選び取っていきましょう。
■2015年8月2日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
熱烈に孝悌忠信な愛 up 2015.8.2
『孝悌忠信』(こうていちゅうしん)
真心を尽くして親や目上の人によく仕えること。
「孝悌」=両親や目上の人にしっかりと仕えること。
「忠信」=誠意を込めること。決して欺かないこと。
儒教の四つの徳目でもある。
主題聖句(ヨハネ2:13〜17)「宮きよめ」
『孝悌忠信』(こうていちゅうしん)
「真心を尽くして親や目上の人によく仕えること。
『孝悌』=両親や目上の人にしっかりと仕えること。
『忠信』=誠意を込めること。決して欺かないこと。儒教の四つの徳目でもある。」
イエス様は父なる神様に対して、本当に熱烈な『孝悌忠信』の愛を表され、その熱い心をもって私たちの罪を贖うためのいけにえとしての人生を歩まれたお方です。今日はそれを、(ヨハネ2:13〜17)から考えていこうと思います。
いつもは冷静なイエス様が、この時だけは感情もあらわにされました。商売の家と変えられてしまった神殿の状況を憂い、悲しまれ、心を痛められたことを行動に現されました。
このイエス様の行動が、熱烈な『孝悌忠信』の愛の現れです。神様の愛に対してどれほど深い思いを抱いておられるかが、ここに現されているのです。下に三つのポイントを挙げてみました。
(1)『過越の祭り』
「イエスの十字架による罪の贖いを象徴した祭り。
この祭りには、「種入れぬパンの祭り」がある。
「パン種」=この世的なもの。罪や欲望。」
イスラエルには、「過越の祭り」「五旬節(ペンテコステ)の祭り」「仮庵の祭り」の3つの祭りがありました。イエス様は他の2つの祭りではなく、この過越の祭りを選んで「宮きよめ」をされたのは、どのような重要な意味があるのでしょうか。
過越の祭りの始まりは、出エジプト記に書かれています。エジプトの奴隷であったイスラエル人が、奴隷から解放されることを記念した祭りです。神はモーセを通してイスラエル人を救い出し、先祖アブラハムに約束された約束の地に導かれたのでした。
この祭りの日、一匹の傷のない雄の小羊を選び、ほふるようにとの規定があります。この小羊が、イエス・キリストの罪の贖いを象徴しているのです。イスラエルの人々が正しかったからエジプト人を懲らしめて、イスラエルを解放されたのではありません。イスラエル人も同じ罪人です。イスラエル人の罪を赦し、ご自分の民として約束の地に導くために、罪を裁くためのいけにえである小羊が必要でした。自分たちの罪の身代わりとして小羊をほふることによって、自分たちは罪なき者として解放され、神と共に旅立つのです。これを過越の祭りと呼んでいます。この過越の祭りは、3つの部分に分かれています。
一つ目は『過越』です。『過越』は、「ほふった小羊の血を門の柱と鴨居に塗ってあると、死の使いがそこを通り過ぎる」という約束から来ています。死の使いは罪人を打つために遣わされた者ですから、贖いの子羊の血を塗った家は、もう罪が裁かれたものとして通り過ぎるのです。
時を同じくして、『種入れぬパンの祭り』も行われます。パン種(イースト菌)を入れないパンを焼いて、焼いた小羊の肉と共に食べるものです。パン種は罪の象徴であり、小さなパン種がパン全体をふくらませることから、私たちの少しの罪が生活全体に影響を与えて、罪の人生に導いてしまうことを表しています。この世の教えや価値観、心が囚われている罪や欲望のことをパン種と呼んでいます。
3つ目は「束を揺り動かす祭り」で、イエス・キリストの復活を表しています。
イエス様が宮きよめをされたのは、「種入れぬパンの祭り」の実践でもあります。商売の家として神様の神殿を使っていた商売人たちがいたのです。それも祭司たちの許可を得て、です。祭司という神様に仕える職業の人たちも、商売人の片棒を担いでいたことになります。
世界のどこででも、お祭りと言えば食べたり飲んだり売ったり買ったりして楽しむものですが、イスラエルの祭りは違います。厳粛できよいものであり、騒いだりはしません。
五旬節の祭りと仮庵の祭りは収穫祭を兼ねていますので、喜びを表しますが、過越の祭り(特に種入れぬパンの祭り)は、「世の中と妥協しない。神様のみ教えをこの日はしっかりと守る。」ことを象徴しています。
神様のきよい愛による罪の贖いを汚さないように、という意味です。世の中の価値観や考え方で神様のきよさを汚さないように、純真な神への愛をもって罪の赦しの救いを感謝して祝うという祭りです。きよらかな神様の愛を汚すようなお祭りであってはいけないわけです。しかし、そういう時期にもかかわらず、イスラエルの人々や祭司長たちは商売の家としてしまっていました。
(2)『商売の家』
「貪欲を満たすための信仰心の宮としていることをイエスは叱責。」
商売という言葉をイエス様が使われたのは、「欲を満たしていく」という理由からです。「商売の家」という表現には、「利得を考えている」という意味が含まれています。
利益を生まなければ、商売にはならないということをご存じですか?宮の中でいけにえの動物を売れば、売った金額の中に自分たちの利益が含まれています。商売は、損をすることは一切しません。一時的に損をしても、必ず最終的には得をするよう目算をしています。この世界は利得を考え、損をすることはあまり喜ばれません。私たちも、損はなるべく避けたいですね。
「利得を考え、損をすることは絶対しない」とは、「自己達成欲を最優先する」ということです。自分の願いを実現することを最優先した物事の考え方です。聖なるものであるにもかかわらず商売をしているとは、まるっきりご利益宗教です。
聖書の神様は、ご利益宗教ではありません。むしろ、犠牲を払って損することを教えています。在原先生が聖会で言われました。「愛とは、損をすることだ」と。この世では、愛は得よりも損することの方が多いようです。
皆さん、あなたの愛する者から利益を取るということを考えたことがありますか?そこには愛がありません。しかし、それでも「愛」として通じるような世の中になってしまいました。
神様は損か得かではなく、愛を、それもきよい愛を大切にされるお方です。私たちは商売を考えて信仰をもっているのではない、ということに気をつけなければなりません。
(3)『あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす』
「『家』=家族愛にあふれている交わりの場所。安息の場所。
『思う熱心』=いかにイエスが御父を敬っているか。
『食い尽くす』=我を失うほどの熱烈な行動。反感を買うほどの熱心さ。」
(詩篇69:9)でダビデが御霊に感じて記したことばです。逃亡生活の中で彼が味わった、嘆き・苦しみ・悩みは、そのままイエス様が地上の人生における歩みで体験されたものでもあります。
ダビデは、サウル王の次の王として、神様に選ばれ油を注がれました。彼は熱心になって、神様のために働きました。しかし、その結果、良い業績をあげるたびに、サウル王にねたまれ、正しいことをやればやるほど、サウル王の嫉妬は燃え上がり、ついには命を狙われ、逃げなければならないほどになってしまいました。熱心になればなるほど、良くない状態が起こったのです。繁栄ではなく、自分を食い尽くされる状態です。
神様の家は、神様との交わりの場所です。愛する家族との団らんは、楽しく心安らぐものです。神様は私たちを家として捉えてくださって、私たちと一緒にいることが最も憩うことができ、安心し、いやされる(神様がですよ!)と言われるのです。
この「神様の安息の場所を大切にしたい」という、神様の愛を大切にする熱心な思いは、どれだけ神様のお気持ちを大事にしているでしょうか。イエス様が、いかに御父を敬っているかということの現れであります。
常識を超えた行動に移る時は、必ず何らかの理由があります。イエス様は、神様のきよい愛が汚されている様子を見て、それを放っておけなかったのです。いかに寛容で柔和なイエス様といえども、「これだけはこのままで置いておけない。今すぐ汚れを取り除かなければならない。」と思われる状況でした。神様の住まわれる場所をゴミだらけ、罪だらけにして、どうして神様が安息を感じられるでしょうか。神様の愛が汚されていることへの義憤です。
イエス様は決して、ご自分の正しさのためにではなく、神様のきよい愛を守るために、義憤されたのです。絶対に放っておけないもの、それは神のきよい愛を守ることでした。
今日私たちは、商売繁盛のために礼拝に来ているのでしょうか?うまく契約が運ぶように?家族が病気だからいやされるため?確かに、神様はあわれみ深い方ですから、そういったことは無論ご存じで、私たちの願いに「応えてあげたい」と思ってくださっています。
でも、礼拝はそれが目的ではありません。礼拝は神様との交わりの時。信頼関係を築く日。信頼と尊敬の心の触れ合いを通して私たちの心がいやされ、励まされ、強められ、きよめられ、「ああ神様の家族で良かった。」と安心できるためのものです。これが理想であり、目指すべきものです。いやしを求めるなというのではありません。自分に何らの必要がなかったとしても、礼拝に来るのです。
世の人々は、何らかの利益をもたらすものがなければやって来ませんが、私たちは悪いことがあろうと何だろうと、「神様の愛に触れたい。家に帰りたい。」という気持ちで礼拝に来るのが、第一の大切な心構えだと思います。
皆さんがもし今日の礼拝に来なかったら、ご主人が一晩外泊したようなものですよ。奥さんはイライラするでしょうね。「あなた、夕べはどこに泊まってきたの!」と、すごい剣幕で問い詰めるのではないですか?
自分に必要なことがある時だけ家に帰るような状態だったら、家の主人である神様はどんなに嘆かれることでしょうか。子どもが中高生くらいの時、一時的にそんな状態になることはありますが、いい大人がそんなことをしていたら問題です。
みことばを通して神様のお心、愛を深く悟っていくよう、努めていきましょう。
【デボーション参考ポイント】
“確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。”(第2テモテ3:12)
イエス様は、父なる神様に対する尊敬の心が強くなるほど、罪の世の常識から外れた行動をせざるを得ませんでした。私たちも同じく、神様を愛すれば愛するほど、不敬虔な人々の常識から外れたことをせざるを得なくなります。ですから、世の中の人々からは嫌われることがあります。「神様を信じるのはいいよ。でも熱心過ぎないようにね。」「信じないよりは信じてた方がいいよ。でも度を越してはいけませんよ。」
確かに、盲目の信仰は世界中で問題を引き起こしてきましたから、彼らの気持ちもわかります。間違ったものを信じてしまい、社会常識から外れたことをしてしまうことは良くありません。
しかし、私たちが言う「社会常識」には、道徳が含まれています。道徳のない社会常識は無秩序になり、だめになってしまいます。昔は道徳(善悪)が規準になったものが常識だったのですが、今は損得が規準になって常識を測っています。私たちには地域などでの関わりがあり、非協力的だと非難を受けます。非難が嫌なばかりに、第一にすべきものを第一にできないことも度々起こります。もちろん協力できるところは協力すべきですが、私たちはもっと考えなければいけません。土地の古株や年とった人が会長で、考えを変えない場合があり、若い人々は嫌々ながら従わせられている、地域のルールがあります。そういったことに対してはもっと知恵を用いて、お互いの自由を奪うことがないように社会的協力をしていくという相談が必要です。
時代と共に価値観が変わっていく中で、神様の愛に立って、すべての人に尊ばれるような良い考えや方策が生み出されるように、皆さんも発言すべき時は発言し、悪いものは変えていくことが必要だと思います。
人からの評価によって、私たちと神様との愛を汚すことのないように、心がけていきたいものです。最初から完璧なことはできません。でも、あなたはあなたなりの神様との関係で、最低限これだけは絶対に守り抜きたいという、神様への尊敬の心を持っていただきたいと思います。その一つが「きよい愛を守り抜く」という決意です。
イエス様は神であられたのに、神のままでいることを良しとせずに、人となってこの地上に来られ、私たちの罪を赦すために、ご自分が私たちの罪の裁きを代わりに受けるという、特例としての救いを与えてくださいました。それは私たちを愛してくださっているからです。
純真に愛しておられるから、神の栄光を捨てて不自由な人の姿をとり、汚れて当然の罪の世界で、ご自分を汚れからしっかりと守られました。傷のあるいけにえでは、神様の赦しを得ることができないからです。罪を犯さない生活がいかに難しいものか、皆さんもよくご存じですね。
ユダヤ人たちは遠くから過越の祭りのためにやって来ますが、神殿に受け入れられる完全ないけにえを連れてくることはとても困難です。なにせ、蚊に刺されただけでも傷に数えられるのですから。
この困難を避けるための商売人なのです。彼らが宮の前で動物を用意しておけば、サッとささげることができます。合理的で楽なので、民もそれを選んでしまいます。しかし、楽することを願ってお金で解決して、いけにえをささげる労苦を知らずにいけにえをささげるのでは、真の意味で「いけにえをささげる」ことにはなりません。
イエス様はなぜ、33年間の人生を送られたのでしょうか。自分をきよく保つことがどれほど大変な労苦を伴うか。それも私たちの罪のために、傷一つもつけないように最善の注意を払って33年間も人生を送られたというのです。そういうプロセスの中で私たちの罪が赦されているのですから、イエス様がどれほど私たちのことを思っておられたかがわかるでしょう?それほどのイエス様の思いを汲みとることが大事ですね。
(使徒5:29)“ペテロをはじめ使徒たちは答えて言った。「人に従うより、神に従うべきです。」”
今の世の中では、このことばをそのまま伝えると、カルト的と思われるかもしれません。現代的に言い直すと、「欲に従うより愛に従う」となります。
この世は自分の人格を欲にゆだねています。欲に関わっているので、心が欲によって左右され、支配されてしまいます。愛よりも欲を優先するのです。
たとえば結婚したのに離婚するのは、自己中心のぶつかり合いの結果です。「性格の不一致」などと言いますが、完全にマッチする性格などありえません。どちらかが辛抱しているのです。そして、辛抱を続けるために必要なのが愛なのです。愛しているから、耐えられるのです。愛しているから、つらさが喜びに変えられるのです。「性格の不一致」など、むしろ理想的です。お互いの足りないところを補い合うことができるのですから。
一致していたら、同じものしか持っていないことになります。聖書では男と女は一体となると書いてあります。足りないところをカチッと補い合うのです。これが夫婦です。だから、自分の主観と相手の主観がぶつかることがあります。でもそれは、自分の足りないところを補う相手の主観だということを大きな愛で受け止めると、倍以上のすばらしい結果もしくは考え方が生まれてきます。結婚はすばらしいものです。ただしそれをすばらしくするか否かは、愛を育むかどうかにかかっています。
人間関係は愛がなければ続きませんが、世の中は愛よりも欲を人間関係に取り入れてしまったために、利益が薄い相手とは付き合いたがらない状態が続き、愛が冷える世の中になってしまうと、イエス様が語っておられます。
私たちはこういう状況をよく理解して、この2つのみことばを正しい真実なもの(愛を大切にすることを否定する人はいません)として守っていきましょう。
欲を第一にする世界では苦しみと戦いが続きますが、それでこそイエス様の十字架での愛の贖いのみわざの苦しみを知ることができます。「こんなにつらい思いをしなければいけない。だけどイエス様は、私たちの罪を赦すために、33年間もこの戦いをしてくださり、最後の裁きを身代わりに受けて苦しみを負われた。何という大きな愛だろう。」
私たちが自分の失敗を通して、神様、イエス様の愛の大きさを知っていくわけです。「とてもとても私たちにはできない。感謝だな。」と愛によって救われていること、赦されていることを感謝して、敬虔なへりくだった心で人生を歩んでいくことができます。
皆さんもそういう心を持っておられると思います。ですから、今私たちが進めている神様の愛にとどまる生き方、すなわち「きよい愛を守り抜く」という決意をしっかりと抱いて、「守り抜こう」という姿勢を捨てないように共に励まし合って進んでいきたいと思います。
イエス様の『孝悌忠信』な愛が、私たちのうちにも育ってきますように。神様の愛のためならと、高い道徳性を持った神様の愛の常識を勧めることができるほどに、成長したいものです。
『原爆と 十字架の愛 忘れえぬ』
原爆ドームは8月の季語です。原爆ドームは、人類の起こした悲劇としていつまでも忘れることのないようにと、世界遺産に登録されています。戦争も、原爆も、絶対に忘れてはならないものです。戦争は何の益ももたらしません。武器商人ばかりが儲けていますが、愛がなくなるとそこまで道徳心が低下してしまい、人格的品性が落ちてしまうのです。お金がなくても、愛を尊ぶ品のある人生を送りたいと、皆さんは思いませんか?
「忘れえぬ」は、絶対に忘れられない、忘れてはならないことを強調しています。私たちは広島に住む者として当然、原爆が落とされたことは絶対に忘れてはいけません。それと同じように、罪の赦しのための十字架の愛を忘れてはいけません、という気持ちの俳句です。
■2015年7月26日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
愛は尽善尽美 up 2015.7.26
『尽善尽美』(じんぜんじんび)
美しさと立派さを極めているさまを言うところから、欠けるものがなく、完璧であることを意味する。
主題聖句(ヨハネ2:1〜11)「カナの婚礼より」
『尽善尽美』(じんぜんじんび)
「美しさと立派さを極めているさまを言うところから、欠けるものがなく、完璧であることを意味する。」
(1)『婚礼』
「愛と喜びと祝福に満ちているところ。特に、花婿にとって祝宴は、公に自分を推薦する大切なとき。」
花婿は婚礼のオーナーであり、主役です。花婿から招待を受けることは非常に光栄なことであり、人々は花婿に祝福を贈るために来ます。花婿にとっては、人々の前で社会的に自分がどういう者であるかを測られる時でもあります。とても大事な場面だと言えるでしょう。
(2)『ぶどう酒』
「喜び、祝宴、交わりを現すもの。祝宴には、なくてはならないもの。ぶどう酒が祝宴の途中でなくなってしまうことは、花婿の恥である。」
ぶどう酒というものは、祝宴においては、料理よりも重んじられるものです。招待するからには、満足して帰っていただかなくてはなりません。招待された客の満足度が、祝福になって返ってくるからです。人間、満足しきった心からは祝福を出しやすいものです。「あなたはなんてすばらしい人だ。私たちをこんなにもてなしてくれるほどの、素晴らしい愛を持っている。だから、必ず花嫁を幸せにすることでしょう。」
この祝福に最も大事なものが、「いかに良いぶどう酒を出すか」なのです。ぶどう酒にけちけちしてはいけない、そんな習慣があるのです。
(3)『わたしの時はまだ来ていません。』
「イエス様の婚礼は、再臨の時であって、今は贖いのために来られた。母を「女の方」と呼ばれた理由は、マリヤが教会を象徴しているから。」
*『婚礼』の原点は、神と教会の結びつきのことを象徴している。
ここはとても意味深い場面です。婚礼の流れから言うならば、お客であるマリヤが、同じくお客であるイエス様に、花婿の恥となる「ぶどう酒が足りない」ことを告げるのはおかしいのです。
本来、ぶどう酒の不足に気づくべきは婚礼の世話役です。婚礼の使用人たちが気づいたとしても、世話役に言いに行きます。しかし世話役も使用人たちも気づかず、客であるマリヤだけが気づきました。ところが、マリヤはなぜかイエス様に言いに行くのです。ここは興味深い点ですね。
婚礼は本来、神と人とが共に過ごすことを意味しています。それがここで示されています。それが元となって結婚式ができ、男と女が創られました。イエス様もご自分の花嫁(教会)を迎える計画を持っておられます。神を愛する人々の集団を女性として、世の終わりにイエス様が再臨される時に迎え入れられるのです。
二千年前のこの時イエス様が来られたのは、花嫁となる人々の罪を贖うためでした。そのため、イエス様はマリヤに、今はご自分の番ではないとおっしゃったのです。あくまで主役は花婿であり、自分が手を出すことはお門違いであると言われたのでした。
ここで私たちが学ばねばならないことがあります。一つは、「イエス様はいつも神様のことを思っておられる」ということ。一方私たちは、いつもこの世のこと、地上のことを思っています。
イエス様とマリヤの会話はかみ合っていないように見えます。どうしてこんなことになるのでしょう。
イエス様は創造主ですから、男と女を創った真理もわかっておられますし、結婚の意味もわかっておられます。それゆえに、常に神様のご計画のことのみ考えておられます。
今回の婚礼も、ご自身が教会を迎えた時のことを考えておられました。そんな時に、「ぶどう酒がありません。」と言われたので、「私の番ではありませんよ。」とおっしゃっただけのことです。
これに限らず、イエス様との会話がかみ合ってないのは、イエス様が常に神様のご計画を土台に考えておられるからです。周りに起こるすべての出来事は、神様のご計画に添えられたものです。イエス様は、これらの出来事の根本にある神様のご計画を考えながら答えておられるので、一見かみ合わない回答をしておられるように感じるのです。
今回の出来事では、母マリヤを「女の方(原語では女よ)」と、普通に考えたら失礼な呼び方をしておられるのも、そのためです。※「女」はイッシュシャとヘブライ語では書いてあり、manに対してのwomanにあたる。
(4)『母マリヤの信仰と弟子たちの信仰』
「母マリヤは、水がぶどう酒に変えられる前からイエスを信じていた。弟子たちは、水がぶどう酒に変わってから信じた。この違いは、神の愛は『尽善尽美』と信じているかどうかである。」
マリヤはイエス様のおことばがわかったのかどうか、謎です。しかし、ともかく彼女は落胆しませんでした。断られたとしか思えない回答をされたにもかかわらず、彼女は婚礼でのしもべたちに、イエス様の言うことを何でもしてあげて、と言いました。
彼女は「イエス様は必ず、何かをしてくれる方だ」と信じていたのです。ものすごい信仰だと思いませんか?これは、「まだ見ていない事柄を信じる」(ヘブル11:1)信仰です。
弟子たちはイエス様のなされた奇跡を見て、この方を信じました。見て信じた弟子たちと、見ないで信じているマリヤ。
私たちも、「あわれみ深く、情け深い神」について、ずっと学んできましたね。この方は「恵みとまことに富み、その恵みを千代も保つ方」です。そして、この神が遣わされた救い主、神の愛の象徴、愛なる神がかたちを取られた方がイエス様です。マリヤはこの方を目の前で見ていたので、「イエス様は絶対に放っておかない」とわかっていたのです。
ぶどう酒不足を放っておいたら、花婿が困ります。しかし、今からどこかで買い付けてくるのも時間がかかり過ぎます。何とかしないと信頼をなくしてしまうような、絶体絶命のピンチです。
この状況に、客だからといって放っておかれるイエス様ではないと、マリヤはイエス様を信頼していたのでした。イエス様が持っておられる完璧な神様の愛は、必ずこの状況を解決し、花婿が人々からほめられるようにしてくださるに違いない、と。
良きサマリヤ人のたとえで、パリサイ人が「隣人とは誰ですか」と質問しました。そしてイエス様はお話の後、「あなたも行って、同じようにしなさい。」と、このパリサイ人に言われました。
「隣人が誰か」ではなく、「私たち自らが行って、困っている人の隣人になる」こと、その人に近づいて愛を注ぐことを、神様は命じられたのです。
強盗に襲われて半死半生のユダヤ人には、助けが必要でした。まずは治療、次には宿屋での介抱。無一文の彼に支払能力はありませんから、宿屋での代金も必要です。さらには、自分がいない間の世話まで頼んで、それにかかる費用を前払いです。足りなかった場合はさらに追加で支払うとの約束までしました。
このユダヤ人を助けたサマリヤ人は、彼のすべての足らない点を補っていったのです。皆さん、これが「隣人になる」という言葉の意味です。
ですから、花婿の足らない部分=ぶどう酒を十分に用意できなかった・考えが甘かった・予想外に客が多く、ぶどう酒を飲み過ぎてしまった−−などの花婿が恥をかくような状況に際して、彼の足らないものをイエス様は補ってあげたのでした。これが隣人愛です。この祝宴を台無しにしないために、イエス様は花婿の隣人となられました。
神様の愛は、たとえ敵であっても隣人として見ることがおできになります。敵が飢えているなら食べさせ、渇いているなら飲ませなさいとのみことばがあります。それは相手を敵としてではなく、困っている隣人として見るということなのです。
「汝の敵を愛せよ」とは、単に敵対心をもって見るのではなく、敵が助けを必要としているならば助けなさい、すなわち隣人と見なしなさいという、神様の愛なのです。
看護師として有名なナイチンゲールは、まさに隣人愛を示したと言えます。敵味方の区別なく、負傷した兵士を治療したのですから。
彼女は良きサマリヤ人のたとえから神様の啓示を受けて決心し、味方の兵士から罵倒されながらでも、神様の愛を現すことを止めませんでした。ナイチンゲールの行いは、今の世まで伝わっています。
このように、完璧な善と美しさを持っている愛は、敵さえも隣人と見なして助けを施します。残念ながら私たちはまだそこまでできていませんが、神様の愛がどんなものかの紹介はできます。「罪人である私たちは咎をもち、神にそむき、罪を犯す者であるにもかかわらず、神は咎とそむきと罪を赦す方です。」と。
私とあなたの関係はどんな関係か?が問題ではありません。「隣人となるべき相手かどうか」だけです。敵味方関係なく、助けを必要としているかどうかです。
これが、神の愛の周りの者に対する見方、捉え方であり、判断のしかたであると言えるのではないでしょうか。
【デボーション参考ポイント】
(ローマ8:28)
“神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。”
私たちはよく、このみことばを用います。それぞれの信仰が保たれるための励ましとして、このみことばは度々用いられますね。
「なぜ『知っている』のでしょう。あなたはどうですか?」
『知っている』は『信じている』とは違い、信頼と確信を強調しています。ここでは神がどのようなお方かを語っているわけですから、「全人格的に神はどのようなお方であるかを『知っている』」という意味になります。
神様は間違いのないお方であり、すべてを働かせて益としてくださることは絶対間違いない、そういうお方なのです。
またこの『知っている』は、どれほど神を信頼しているかの表れでもあります。「信じている」よりも「知っている」の方が、より強く信仰が表現されている、と私たちは捉えることができます。
皆さんは本当にご存じですか?神様がすべてのことを働かせて益としてくださることを、『知っています』か?そんな噂は聞いたことがある、程度でしょうか?
先ほどお話しました(4)に通じることですが、「見て信じるか、見ないうちから信じるか」です。ある人は「今日、振り返ってみたら、神がすべてのことを働かせて益としてくださった。」と後で信じます。これは弟子たちの信じ方と同じですね。結果が出なければ信じられなかったということです。結果次第で信仰が左右されます。しかし、マリヤは結果が出るか出ないかで信仰が揺らいだりはしません。
彼女は、「神様は結果を出してくださる」と信じて、イエス様が行動を起こされる前から、イエス様にではなく手伝いの人に「あの方の言うことは何でもしてください。」と頼みました。もしかしたら何もされなかったかもしれないのに、ですよ?ここまで言われたら放っておけないではありませんか。
あわれみ深く情け深いイエス様のお心は、「窮地に陥った花婿のために何かしてくれると、花婿へのあわれみをもって自分のことを信頼しているのなら、この思いに応えなくてどうする。」と考えられたのではないでしょうか。
このように、相手の心をよく知ってとりなす人を、「とりなし上手」と言うのです。
私たちにとっても、神様のお心を動かすような祈りというのは、まだ見ないうちから「神様は応えてくださるに違いない」という告白をしたり、そう期待している祈りをすることです。
そのためには、「神様の愛は『尽善尽美』の愛だ」と、堅く信じていくことが必要です。どんなに時間が経とうが、「いや神様はあわれみ深く情け深い方だから、してくださるに違いない」と信じ続けるのです。
これが、神様が私たちに求めておられる、目指すべき「神を信じる心」です。私たちは、まだまだそこまで行っていません。しかし、最低限「見て信じる」ことはしましょう。
よみがえりのイエス様がトマスに言われました。「見ないで信じる者は幸いです。」このみことばにも深くかかわってくるのではないかと思います。
愛の神、主イエス・キリストがどのような愛の方であると知って信じていますか。あなたはイエス様がどんな愛の神様であると信じていますか?知っていますか?
これを吟味する一週間を歩んでいただきたいと思います。
最後に注意なのですが、今のあなたが信じ切れないでいることを責めないでください。弟子たちも「見て信じる」信仰から始まったのですから。そして神がどんな方なのか、神様の愛がどんな愛なのかを見ては信じていくことを続けたのです。その結果として最終的に、見なくても信じられるようになったのです。
私たちも同じです。いやされた・助けられた・恵まれた、という「結果から知る天の采配」によってイエス様への信頼を積み重ね、「今までこれほどしてくださったお方なら」と、これからを信じて待つことができるようになるのです。
なぜなら、この神は、「あわれみ深く情け深いお方、恵みとまことに富み、その恵みを千代も保つ方」だからです。
このように完全な愛をお持ちの方だから、必ず私をあわれんでくださって、私の足りない部分を隣人愛をもって補い、助けてくださるに違いないと思える、そういう信仰に一歩一歩近づいていきたいと思います。
「破れ傘 何かの役に 立つまいか」
「破れ傘」は、この時期の季語です。キク科の植物に、この名前のものがあります。芽出しの頃の若い葉の様子が「破れ傘(やぶれがさ)」に似ることによるそうです。ちなみに、芽出しの頃の葉が展開する前の葉と茎は、山菜として食用にされます。
私たちは(和傘の)破れ傘です。傘が破れたらすぐ捨てますか?もったいないからと、何かに使うことを考えたりしませんか?
神様も私たちを何とかして生かそうと、何かの役に立たせることを考えてくださる愛のお方です。
■2015年7月19日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
愛は聖潔を好む up 2015.7.19
主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」
(出エジプト34:6〜7)
今日は、このみことばからの7回目の最後のポイントの「罰すべき者は必ず罰して報いる者」からです。この訳は、ヘブライ語の専門家でないとわからない難しい訳です。そこで、私(辻師)なりにわかりやすくまとめたのが、主題の『愛は聖潔を好む』という言葉です。
愛である神様は、聖潔を好まれます。普通は「清潔」と書きますが、神様の聖さを表すので、特別に『聖潔』としました。
1.『罰すべき者は必ず罰する』とは?
(1)ヘブル語から
(英)no means clear the guilty=罰すべき者は必ず罰して報いる
to be empty=空になる
to be cleaned out=徹底的にきれいになる
be free from guilt=罪、罪悪感から完全に自由になる
be exempt from punishment=罰、懲罰が免除になる
★徹底的に、完全に処分、処理することを強調する言葉。
このヘブル語は、いろんな言葉に変化します。
(2)聖書から
A)(創世記24:8)
“「もし、その女があなたについて来ようとしないなら、あなたはこの私との誓いから解かれる。ただし、私の息子をあそこへ連れ帰ってはならない。」”
これは、アブラハムが、しもべを自分の故郷に遣わして、自分の親族の中から、ひとり子イサクの奥さんを探してほしいと誓わせて送り出した時のことばです。
誓わせる理由は、しもべなので、もし見つからなかったら帰ってこない可能性もあることから、誓わせて必ず帰ってくるようにと送り出したのです。
誓いの中に、選んだ女性が「行きたくありません。」と言ったら、その誓いから解かれるという条件がありました。この『解かれる』というヘブル語が、徹底的に完全に処理するという意味で、切り離す、クリアにするという意味があります。
B)(詩篇19:12)
“だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。”
『罪をお赦しください』このことばは、本来は「隠れているものから私を切り離し、自由にしてください。」という意味です。
このように、その前後の言葉で変化するので、神からの啓示をいただかなければわからないヘブル語です。ただ、処分、処理することを強調する言葉であることは確かです。
そこで、愛なる神様はどんな方であるかを想像した時に、神様はどんな小さなゴミ(罪)でも処分するお方である、ということが言えます。
★愛の神は、聖潔好きなお方である。
罪や咎は、罰せられなければ消えないものです。ゴミ箱に入れるだけで処分しなければ、残ってしまいます。神様は罪を放っておかず、処理を必ずされます。神様はきれい好きな方なのです。
私たちも神様に似せて創られたので、本来は神様のように聖潔好きで、汚れたものはきらいなのです。
しかし、罪という欲望のために、汚れたものを求めてしまうのですが、本当はそれはしたくないことなのです。罪に至るような欲望は求めたくないはずです。愛である神様は、徹底的に聖潔好きなお方です。
(第1テサロニケ4:7)
“神が私たちを召されたのは、汚れを行わせるためではなく、聖潔を得させるためです。”
きれいにすることはすばらしいことなので、ぜひそれを知ってほしいと聖い神の国へ私たちを招いてくださったのです。聖潔を得ることができるようにと、私たちの罪の処分を、イエス・キリストの贖いのみわざによって完成してくださいました。この聖潔好きな神様のすばらしさを見つけていきましょう。
2.『剪草除根』の救い(ヘブル5:8〜10)
“キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。”
★『剪草除根』(せんそうじょこん)の意味
「草を除くには根から抜かねばならないの意から、根本的に解決して後に問題を残さないことをいう。」
【内容観察】
「御子であられるキリストは愛ゆえに、この世に人として来られ、生涯を通して贖い主としてふさわしいことを証明されました。
それゆえに、この方に従う者の罪を完全に処分することができ、それだけでなく、彼らの日々の罪を、神の御前で徹底的にとりなすことによって取り除く働きをしておられ、メルキゼデクの位と同じ大祭司と称賛されているのです。」
このメルキゼデクという大祭司は、匹敵する祭司が一人もいないという偉大な大祭司でした。その大祭司が、罪人のために神の前にとりなせば、そのとりなしは聞き入れられるという、完璧な神の聖さに限りなく近い聖さをもった祭司ということです。このメルキゼデクは、イエス・キリストを象徴しています。
どんな小さな罪も見逃すことのない完璧な神様は、私たちのちょっとした自己中心や感情の乱れや失敗なども、見逃すことのできない方です。しかし、その罪のために、イエス様は大祭司として、神様と私たちの間に立って、とりなしてくださるのです。
ご自分が十字架で流された血潮を差し出し、「この血のゆえに、彼らの犯した罪は処罰されておりますから」と、とりなしてくださっています。全世界の人々のどんな小さな罪をも、とりなしてくださっているのです。
私たちは自分で自分の罪を処分することはできません。イエス様以外に、罪を処分できるお方はいないのです。どの宗教にも、罪を処分する方はいません。だから、イエス様に罪を告白してとりなしていただき、その罪を処分してもらうのです。
イエス様は十字架で亡くなられただけではなく、よみがえって、今もなお、私たちの日々の罪の赦しのためにとりなしをしてくださっている愛のお方です。
イエス様は最後の晩餐の時に、洗足式をされました。神の救いを受けた人は、全身は聖いけれど、日々の歩みの中で足は汚れるので、きれいにしなさいということです。また、そのためにお互いに汚れを洗い合いなさい、すなわち、互いに愛し合いなさいという意味です。
どのように汚れを取るのでしょうか。それは、とりなすことです。私たちにできるのは、相手のためにとりなすことです。イエス様がその罪を赦してくださいます。
とりなすためには、神の愛に立たないとできません。「汝の敵を愛せよ」とは、相手のためにとりなしてあげなさいということです。祝福するのであって、呪ってはいけません。
私たちには、人の罪を裁く権利はありません。それは神にしかできないのです。しかし、私たちには、罪を処分してくださるイエス様のもとに、自分の罪も兄弟姉妹の罪も一緒に持って行くこと、すなわちとりなしをすることができます。
私たちには、罪を完全に、徹底的に処分し、処理してくださるお方が与えられているということを覚えてください。
イエス様は、どんな罪をも処分できる唯一のお方です。自分の罪を告白して、何度罪を犯しても改めていくようにチャレンジしていくことが大切です。サタンは、私たちをあきらめさせようとしますが、あきらめてはいけません。
神様は聖いのがお好きなので、きれいにして御国に来なさいと、イエス様の十字架の処分を用意してくださったのです。神様には、どんな罪も汚れも、処分できないものはありません。
罰すべき者は必ず罰する神様は、イエス・キリストの贖いのみわざによって罰してくださるのです。だから、咎とそむきと罪を赦し、罰すべき者は必ず罰するというこのみことばが成就するのです。皆さんも、聖潔になることの喜び、楽しみを、ぜひ見つけてください。
【デボーション参考ポイント】
★聖潔を得ることが楽しみとなるように、祈りましょう。
■2015年7月12日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
愛は咎とそむきと罪を赦す up 2015.7.12
主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」
(出エジプト34:6〜7)
今日は(出エジプト34:6〜7)についての学び、第6回になります。今回は特に『赦す』ということばについて考えてみたいと思います。
1.『赦す』とは?
(1)ヘブル語から
『赦す』(英)forgive=<人、神が人を>許す(赦す)、免除する
この言葉は意訳であり、直訳した場合は、下に挙げた5つの言葉に分けることができます。
(ヘ)to lift=持ち上げる、引き上げる
bear up=持って行く、負担する、運び上げる
carry=運ぶ、持って行く、移動する、持ち歩く
rise up=昇進する、立ち上がる、起き上がる
「昇進する」は、引き上げる意味から転じています。
swept away=〜を掃いて払いのける
(2)聖書から
A)(民数記14:19)
“「あなたがこの民をエジプトから今に至るまで赦してくださったように、どうかこの民の咎をあなたの大きな恵みによって赦してください。」”
◎直訳『あなたがこの民をエジプトから今に至るまで持ち運んでくださったように、どうかこの民の咎をあなたの大きな恵みによって大目に見てください。」
大目に見るとは寛容を示して赦免するという意味ですから、これは文字通りの「赦す」なのですが、最初にある「持ち運ぶ」という言葉も「赦す」と訳されているのはなぜでしょうか。
ちなみにこのみことばは、モーセが神様に語ったことばです。このことばが発せられるにあたって、神様はイスラエルをどのように救われ、どのように道中を守って来られたかを考えなくてはなりません。神様はイスラエルの民を、自己中心でかたくなで、強情な心を持った「うなじのこわい民」と評されました。彼らは奴隷としての苦しみの極みから叫びを上げ、神はモーセを通して、彼らの先祖アブラハムに約束されたカナンの地へと導くべく、エジプトにおいて10の奇跡を現し、彼らを救い出されました。災いを受けたエジプトの人々はイスラエルの民を追い出し、彼らは自由になったのです。
エジプト王パロが心変わりをして奴隷たちを惜しみ、戦車でイスラエルを追った時も、神は紅海を分かつという驚くべき奇跡をもってイスラエルの民を救い、パロの軍隊を海に飲み込まされました。
しかし、大きな奇跡を体験してもイスラエルの民は心を変えず、荒野で水がないと言っては神に愚痴を言い、食べ物がないとぶつぶつ呟き、与えられたマナにもケチをつけるありさまでした。
そんなわがまま者のイスラエルの人々ですが、そのわがままを神様は聞いてくださいました。40年荒野をさまよう間、神様は彼らの要求に応え続け、彼らを養い育ててくださったのです。
神に対する愚痴不平や不満という罪の態度を持っていても、神はそのイスラエルをそのままで受けとめて、アブラハムとの約束を守るために彼らを持ち運んでこられたということです。これをまとめて、「赦す」と訳すのです。赦しているから、運び続けてくださり、荒野で抱えて守り、わがままを言い、感情的になって失礼な物言いをしても、本来あるべき怒りをぐっとこらえて、彼らのために水を与え、パンや肉を与えてくださったのです。
赦し受け入れているから、持ち運んでくださることがおできになったのです。彼らを移動させ、その負担を負ってこられたのです。そういう意味で、「持ち上げる」「引き上げる」という言葉が使われています。
引き上げられる人がいかに罪深く、どうしようもない、本当にかたくなな者であるという状態があるからこそ、「引き上げる」を「赦す」という言葉に訳すことができるのです。
これを私たち自身に当てはめてみましょう。イエス様に救われたと言っても、すぐにすべての罪を止めることはできません。私たちはまだまだわがまま者です。でも神様は私たちを、神の国まで持ち運んでくださるわけです。今も持ち運び、導いてくださっています。それは赦しているからです。神様の赦しとはそのように、耐えがたいものをいとおしく思いながら持ち運ぶという姿勢です。
お父さんお母さん方、子どもたちはわがままな年齢を通っていきます。神様は人間を神の似姿としてお創りになりましたが、私たちには今、罪の性質があります。神様は貪欲に走ってしまう私たちの弱さをご存じです。貪欲を満たすために、神様に失礼なことをしてしまうこともご存じです。それでも、私たちの魂にある本当の気持ちを、神様は知りたいと思っておられるのです。
「欲望に弱いことはわかっている。それでも本当の心は、正しいものを求めているのだろう?」と、私たちの本心を知りたいし、私たち自身に気づかせたいと願っておられます。
私たちが試されるのは、それによって本心が明らかにされるためなのです。私たちの世界は貪欲が社会を構成しています。神様に耳を傾けないゆえに、いろんな理不尽なことや災いや、「これでも神がいるのか」と言われるような出来事が起こっています。でもすべては、私たちの罪のゆえにこの地が呪われてしまったためだと、創世記に書いてあるのです。エデンの園で自分の貪欲を優先した不遜のゆえに、この地上は欲で汚され、呪われてしまいました。
しかし、その中でも、神を求め、愛を求め、真理を求める人々のために、神様は裁きの時を延ばし遅らせて、救われる人々を待っておられるのが現状です。その時まで、神様は私たちを運び続けてくださいます。どんな悪人でも、心を入れ替えることを待っておられるのです。それは赦しておられるからです。神さまは、そんな赦しの愛を、私たちに注いでくださっています。
【デボーション参考ポイント】
○咎とそむきと罪を「持ち運ぶ、移動する、掃いて払いのける」という 『赦し』 は、十字架の贖いとどのような関連があるでしょう。
これは、「咎とそむきと罪を、私たちから移動する」という意味になりますね。神様は私たちの罪をどこに持って行かれるのでしょうか。
ゴミを処分することがうまくできないと、生活の秩序が乱れていきますが、霊的なゴミもきちんと捨てていかないと、霊的な生活が無秩序になります。
原子力発電所から出てくる核廃棄物の最終処分場をどこにするかで困っていますが、ゴミの処理についてきちんと考えないまま、便利だからと使ったためにこんな状況が引き起こされています。このようなことによって、社会秩序が乱れていきます。
罪の処分もきちんとしないと、私たちの心も社会の人々の心も乱れて無秩序になり、貪欲を満たそうとする気持ちが強くなって、罪というゴミの処理をおろそかにしてしまう社会が生まれてしまいます。すると、罪を犯すことを軽んじるのです。
ゴミだらけの家で平気な人は、まずいないでしょう。しかし、片づけられない人は、言い訳をして、行動に移そうとしません。私たちの心の罪も、言い訳をしては、処分を怠ってはいませんか。そんな私たちの咎とそむきと罪ですが、神様はそれらをどこに持って行かれるのでしょうか。この世界のゴミは、決められた日に集めて出しますね。ゴミ収集車が集めて持ち去ってくれます。
私たちの罪が処分されるところと言えば、十字架です。私たちの罪を救い主イエス・キリストに全部負わせて、私たちが罰を受ける代わりにイエス・キリストが罰を受けてくださいました。私たちの罪というゴミの処理場であります。
罪の処理ができてはじめて、私たちの罪は赦されていると言うことができます。処理できないまま、そこらに放り出されていたら、罪は残っており、どんどん増えていって、霊的環境は悪くなるのです。
ある宗教などは、「慈悲深いから許してあげる」と言い、罪をそこらに放り出して投げ捨てます。そして「修行しなさい」とか、「一日一善。あなたの犯した罪がきれいになるために良い事をしなさい」とか言いますが、処分されないままならその罪は残っているのです。一旦放り出しても、結局本人に尻拭いをさせるのでは、何の意味もありません。神様は、私たちの罪を赦してくださる際に、この罪というゴミを完全に処分してくださいました。
罪が裁かれなければ、赦しはあり得ません。私たちの罪を処分するために、罪なき神のひとり子と呼ばれる、神が人となられたお方が肉体をもって、すべての人類の代わりに裁きをお受けくださいました。それが神の、私たちへの愛の赦しです。
このように十字架で、咎とそむきと罪を持ち運んで処理してくださるという赦しを、私たちに与えられていることを、しっかりと心に留めておきましょう。
もう一点、心に留めていただきたいことは、「持ち運ぶ」時、他人に運ばせているわけではないということです。神様はご自分で、私たちの罪を処理されたのです。それは、私たちと関わりを持ち続けるという意味です。ゴミを処分して後、私たちと正常で健全な保ちたいという神様のご意向がそこにあります。
「今までの事は赦す。けれど、これからはあなたと何の関係もない。」というのでは、半分の赦しになってしまいます。神様の赦しは未来への希望を持った赦しですから、交わりをさらに続けていくし、その交わりを通して未熟な者が成長していくことさえも願っていく、そういう「関わりを持つ赦し」なのです。
私たちは、面倒な人との関わりはあまり持ちたくなく、「もういい。」と関わりを断ってしまいます。しかし、完全な赦しにおいては、お互いに良いものを受け、分かち合っていくという関係が必要です。
ですから「持ち運ぶ」ということばには、「関与し合う」ことがそこに含まれているわけです。そして「関与する」という言葉は、ギリシャ語で「コイノニア」といいます。「コイノニア」は、「交わり」という言葉に変えることができます。
「私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです(第1ヨハネ1:3)」との教会のモットーのみことばがありますが、この交わりは赦し合う関係なのです。
過去も現在も将来も、お互いに関わりを持ち続けていくためには、赦し合う心がなければ続かないということです。私たちはまだ未熟な未完成な者ですから、赦されているからと言って、全部イエス様のようにうまくはできません。人を赦せなかったり、怒りっぽいところがあったり、いろんな人に迷惑になるようなものを持ちつつも関わりを続けて、お互いにキリストの姿に変えられていくのです。
そういう人生の歩みをともに歩んでいくためのかかわりを持つのが、私たちの交わりであるという意味が、(第1ヨハネ1:3)には含まれています。
「赦す」とは、交わりさえも含まれた意味として捉えていくことが大事です。
2.『飲灰洗胃』(エゼキエル18:21〜23)
“しかし、悪者でも、自分の犯したすべての罪から立ち返り、わたしのすべてのおきてを守り、公義と正義を行うなら、彼は必ず生きて、死ぬことはない。彼が犯したすべてのそむきの罪は覚えられることはなく、彼が行った正しいことのために、彼は生きる。わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。−−神である主の御告げ。−−彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。”
★『飲灰洗胃』(いんかいせんい)の意味
「心の底から悔い改めて再出発すること。」
中国斉(せい)の高帝は、かつて過ちを犯して罰した笠景秀(りゅうけいしゅう)について、荀伯玉(じゅんはくぎょく)に問うたところ、荀伯玉は「彼は『もし悔い改めるのをお許しくださるならば、刀を呑のんで腸を削り、灰を呑んで胃を清めましょう』と申しております」と答えた故事から。
胃や腸は心の奥底をも意味しています。刀を呑みこんで腸に染みついた悪いものを削り取り、灰を飲んで胃にある悪いものを全部取り除くほどに反省し、心を改めています、という表現です。
【内容観察】
「しかし、悪者でも、自分の咎とそむきと罪から飲灰洗胃の決意を持ってわたしのすべてのおきてを守り、公義と正義を行うなら、彼は必ず生きて、死ぬことはない。過去に犯した罪は忘れられ、飲灰洗胃の行いのゆえに彼は生きる。わたしは悪者がそのまま滅びることを喜ばない。」
過去の裁かれていない罪と、今の良いわざとは、現在の法律では別個に裁かれるべきものです。良い事をしたからと言って、過去の罪が消えるわけではありません。しかし神様は、心を入れ替えて前に進むなら、過去は問わないと言われます。
どうしてそのようなことができるのかと言えば、イエス様による罪の処分計画をこの時点ですでに持っておられたからです。このご計画の動機は、「悪者の死を喜ばない」お心から来ています。
私たちは悪者の不幸を喜ぶ部分がありますが、神様にはありません。どんな悪者でもそのままで滅びてほしくないと、惜しんでおられるのです。私たちは悪者を惜しむことはありません。もしあるとしたら、その悪者に愛が注がれている時だけです。愛があれば、悪者に対しても「改心してほしい」と惜しむ心が生まれます。それと同じように神様は、どんな悪人にも「心を入れ替えてほしい」という愛をお持ちなのです。その「心を入れ替える決心」ができたら、過去の罪もこれからの罪も全部、霊のゴミはわたしが処分する、と言われるのです。
私たちが毎週あずかっている聖餐式は、ゴミを捨てる意志の表明であり、神様は私たちの罪のゴミをまとめて、十字架で焼却処分されます。ゴミを処分せず、溜まっていったら嫌ですね。気分までふさいできます。心を入れ替えることが大切です。心を入れ替えなければどんなに善を行っても意味がありませんが、入れ替えたならば、どれほど失敗してもイエス様は喜んでくださいます。
神様は、私たちの心が本当に『飲灰洗胃』の決意をもって罪と自分をしっかり分けるかを見ておられます。私たちは注意して、霊的ゴミである罪を、いつも神様の前に正直に認めて、放っておかないようにしましょう。いつまでも持っていたら、心はいずれ腐っていきます。
片づけが苦手でも、ゴミの処理はできます。ゴミをきちんと分けることが大事なのです。神様は私たちの罪の処分、赦しをしてくださるシステムを持っておられるので、罪人の死を喜ばれません。むしろ心を入れ替えて生きてほしいと願われています。
そんなふうに、罪人に対する愛を注いでくださっています。
【デボーション参考ポイント】
「愛の赦しという点から、エゼキエルのみことばの焦点は、どういうところにおかれていると思いますか?」
皆さんの信仰での主観的な捉え方で結構です。正しい答えはこれといってありません。今の時点でそれぞれ感じる事が大事です。
<例>今、神の前にあなたがどうであるかを神様は問われていると思います。過去に自分が犯した罪を数えて、今の自分は赦される自分ではないと考え、未来に希望が持てない。過去が原因で、現在も未来もだめにしてしまう、否定的な心の持ち方の人がおられませんか。
過去の重荷に引きずられている人に対して、神様はあなたの過去を全部処分することのできる方だから、今神様の愛を信じ神を畏れてやり直そうと、心を持ち直してほしいと願っておられます。神様は心を引き上げてくださるお方です。神様は私たちにいつもチャンスを与えてくださっています。回数を数えられる程度のチャンスではなく、改められる間はいつまでも何度でも、改める心を受け入れてくださるのです。自分で限度を決めないようにしてください。今はできなくても、いつかは必ず改めていくことができます。希望を持ってください。
神はあなたの未来のために、いつでも心を入れ替える時が来るまで、ご自身の心を開き続けておられます。すべてのアダムの子孫が神の国に入ることを、強く願っておられるのです。
神は人を区別されません。良い人が神の国に入ることはもちろん喜ばれますが、罪深い殺人者であってもアダムの子孫である以上、生き延びてほしいと、そこまで人の魂の、いのちの大切さを悟っておられるお方です。
<証>
ある姉妹のお母さんは、天理教の家に生まれ、嫁いだ先は日蓮正宗で、毎朝毎晩勤行にいそしんでおられました。その娘さんである姉妹は、人生に虚しさを感じていた時、クリスチャンの友人に誘われて救いを受け入れたのですが、母の救いを毎日祈っておられました。お母さんが80歳になったある日、左親指が化膿し、2回の手術で治らず、3回目の手術が必要になりました。そこで娘さんが、「お母さん、イエス様を信じて治してもらおうね。」と話をして、牧師に来て祈ってもらいました。すると、手術の前日にお母さんが夢を見たと言います。「フキを取りに山に行き、持って帰ろうと思ったが、持って帰れないほど取ってしまっていた。思案に暮れていると、前から3人の神様がやって来て、その内の2人の神様が、『あなたのその荷物を、イエス・キリストに任せるからね。』」と言った。姉妹は、「お母さん、それはイエス様がね、『すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。』と言われているのよ。その親指も癒されるよ。」と喜び、実際、病院での診察で、「化膿している指を始末したら、手術は必要ないね。」という診断が出た。指は癒された。それからお母さんは、朝晩に3人の神様を拝むようになった。娘さんが言っても「いや、みんな同じ神様や。」と聞かない。更に13年経って、93歳になった。お母さんは、だんだん体が弱ってきて、そろそろ地上での生活は終わりではないかと思われる頃、姉妹は親しい友人に、イエス様の福音をもう一度お母さんに語ってもらった。「おばあちゃん、イエス様を信じる?」「うん、信じる。」「神様はイエス様だけよね?」「いいや。3人とも同じ神様や。」と譲らない。それでも信じているんだからと洗礼を受けた。さらに3年経って、ほとんど寝たきりの状態になった。姉妹は困り果てて、土曜日に自分の教会の宣教師に相談し、祈ってもらった。次の日曜日、もう何も言わずにお母さんを礼拝に連れて行くと、礼拝後帰宅するや否やお母さんが、「○○(姉妹の名前)、もう私はイエス様しか信じないからね!」と言うのだ。それからお母さんが召されるまでの数日間、ついに神様は、イエス様だけになって、親子2人聖書を読むのが楽しくて、祈りが楽しくて、「こんな嬉しいことはお金では買えない」と喜びに満たされた。数日後、眠るように天に召された。
3人の神様を拝んでいたような人でも、神様は最後には必ず救いに導いてくださいます。神様はあきらめないお方なのです。私たちは義理や人情に流されてしまいがちですが、真実の救い主、「神は愛」というお方は創造主なるお方ただお一人であることを、神様の真心からの愛をぜひ伝えてまいりましょう。
■2015年7月5日 日曜礼拝メッセージより(小栗伝道師、横路伝道師)
Mission ミッション up 2015.7.5
私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」
(イザヤ6:8)
【小栗伝道師メッセージ】
今回、七月聖会の講師であられる在原繁先生・津紀子先生は、南アメリカ大陸のアルゼンチンのミシオネス州を起点として、パラグアイとの国境中心に現地の教会にリーダーを建てる働きを28年間してこられました。今回は、4回の聖会で語られた内容を思い起こしながらお伝えさせていただきます。
《聖会1より》
<創世記15:5>
“そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」”
主は子どものいなかったアブラムとサラ(すでに女の常のものがなくなっていた)に空の星を見上げさせ、「あなたの子孫はこのようになる。」と語られました。サラのその状態で、子どもを産むことは困難なことでした。
◎祭壇を築く
「人間にとって最も崇高なことは、神を礼拝すること。それは、神の愛にお応えし、神様と共にいること。」
礼拝とは、神の臨在の中に入り、御声を聞くことである。
「sit→stand→walk」(ウォッチマン・ニーの言葉)
まず祭壇の前に座り、神様に「あなたは、私に何を導いておられますか。」と心を神様に向け、やがて神様が示されたなら、立ち上がり、行動に移すというもので、すべてに通じるものです。
◎なぜ礼拝するのか〜枯れないため
私たち枝がぶどうの木から離れるなら、肉体精神は生きていてもキリストの養分を受けられないため、霊的には枯れてしまいます。
祭壇を築くとは、神の前に近づくことです。(創世記12章)で、主はアブラムに「主の示す地に行くように」「祝福の民とする」と約束してくださいました。「主のために…祭壇を築いた」ということばが複数回あるように、アブラムがいかに主を敬っていたかがわかります。
◎神のみ声と現実の差
在原先生がアルゼンチン宣教に召された当時の教会は、まだ宣教師を送り出すのに十分な状況とは言いにくい状態だったようです。神様の声があり、神様が導いておられるとわかっていても、現実はかけ離れていることがあります。
この時こそ、祭壇を築き、sitする(静まる)時なのです。目に見える状態がどうであれ、在原先生は、「最終的には、神の預言のことばによりアルゼンチン宣教が神の導きだと確信した。」と話されました。sit(静まる時)がないまま、動き出すというのは、結局自分の思いが主体となっており、不安定です。
<イザヤ55:9〜11>
“天が地よりも高いように、わたしの道はあなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。”
神が語られたなら、みことばを信仰によって受け止める。
《祈りのミッション》
<ヘブル11:11>
“信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。”
・約束してくださった方を真実な方と考えたサラ
約束してくださった神様は、真実な方であり、その通りをされる方です。見えないものに信頼するのが信仰です。
現実がどうであれ、サラは神が語られたことに思いを向け、真実な、裏切ることのない神が語られたなら、それはなると信じました。そして、そうなりました。
<マタイ11:28〜30>
“「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」”
・勝利の方程式は平安がポイント
イエス様は私たちに、「わたしの平安を与える」と語られました。イエス様こそ平安であられ、愛、力、希望の方です。罪深い私たちの身代わりに十字架にかかられ、愛を示されたイエス様から愛されているという確信を持つと、私たちの魂は平安になります。
イエス様の中に、すべての必要があります。
カール・ヒルティのことば「幸福とは、命を捨てても惜しくないと思える仕事を持つこと。その仕事をしながら死ぬこと。」
命を捨てても惜しくないと思えるものに出会うこと。自分の命と同等の価値を持つものを見つけることかと思いました。(小栗伝)これは人が決めることではありません。
◎現実と理想のギャップ
在原先生が導かれた所は、アルゼンチンの大都会のブエノスアイレスではなく、過去には先住のインディアンたちがいたミシオネス州という、ごみの臭いのする砂地のところでした。当時、在原先生は「案内人がいない。知人がいない。スペイン語もよく話せない。」という、「ないないづくめ」。ご自分の中にも宣教に言っても「勝てない」という思いがよぎったそうです。その思いに輪をかけるかのように、現地の人も「ミシオネス」に入ることは「無理。やめた方がよい。」と、否定的な言葉をかけてきたそうです。
そんな迷いの中で、在原先生が神の前に祭壇を築き導きを求めた時、「行きたくない所にあなたを送る。遣わす。」と示されたのです。
今置かれている難しい状況がある時に、否定的、消極的な自分の思いを神様の所に戻すのが祭壇であり、静まる(sit)の段階です。
行きたくない所だからこそ、むしろそこに神のみこころがあるとも言えます。
◎キリストのくびきを負う
二頭の牛の首を固定させて労働させるくびきは、二頭の牛が心を合わせて同じ方向に進まなければ、働きはできません。
キリストのくびきを負うには、イエス様の心を私の心として、「イエス様がおられる所に私もいます」「イエス様がなされることを私もなしたい」というように、イエス様に合わせる思いが必要です。私を愛してくださったキリストの愛そのものに心を合わせるならば、たましいに安らぎが来るというのです。
一方、くびきを負って持ち主の思うように労働する牛に対して、くびきを嫌がる牛は放牧され、思い通りにさせるそうです。これでは決して持ち主の思いに応えることができません。その結末は、本当に厳しいものです。
宣教とは、実際に宣教地に遣わされる働きも表すでしょう。しかし、罪を犯してきた私が、こんなに神に愛されていることを、身をもってその生き方を紹介することも宣教ではないでしょうか。
さらに在原先生は、「己に絶望すること」を強調されました。肉の五感、見えるものに頼らず、見えない神の愛に思いを向けて、神に近づき導かれていきたいです。
実は、見えないところにこそ、神の思いが隠されているのではないでしょうか。神様が願っておられることがわかっても、現実とのギャップがある時、神の前に祭壇を築き、神に導かれてまいりましょう。
【横路伝道師メッセージ】
《聖会2より》
<第1コリント6:19〜20>「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」
◎神の栄光を現す
・私の人格の中にキリストが形造られる
イエス・キリストを救い主として信じるクリスチャンは、もう自分の人生を歩くのではなくて、内に生きておられるイエス様に人生を明け渡して歩くので、これが素晴らしい人生となる秘訣です。洗礼を受け、聖霊のバプテスマを受け、聖霊の賜物をいただきます。これらは一瞬にして起こりますが、御霊の実が実るには時間がかかります。私たちの人生は、人格の中にキリストが形造られるまでの大きな事業であり、今は完成に向けての工事中なのです。弱さの中で神様を礼拝をする時、キリストに触れる体験をし、変えられ建て上げられていくのです。
・キリストのみからだとなるために
<マタイ18:19〜20>「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」
◎夫婦で祈りの祭壇を築く
夫婦、または兄弟姉妹や家族など、最低二人の人が心を一つにして祈るなら、どんなことでも祈りをかなえてくださるというのです。そこに神様がおられ、み声を聞くことができる礼拝の場所となるのです。
◎なぜ?という言葉
私たちの人生の中で、理不尽で、理由のわからないことがたくさん起こります。在原先生が話された3つのお話がありました。
<愛するわが子よ。わたしにあなたの体を貸しておくれ>
ある女性が20歳の時にアフリカで伝道したいという思いが与えられ、英語を学び、看護士の資格をとられ、アフリカに宣教に行きました。しかし、そこで内戦が起こり、ゲリラに襲われて一人取り残され、ひどい暴行をされて、ぼろぼろになって日本に帰ってきました。
彼女は、「アフリカの人々を愛し、仕えようと思って行ったのに、神様なぜですか?なぜこんなことが起こるのですか?」と苦しみの中で祈りました。しかし、祈りの中でイエス様が現れて、「愛するわが子よ。わたしにあなたの体を貸しておくれ。」と言われ、はっとしました。 イエス様のためにと思って働いていたことが、実は自分の働きになっていたのだと気づいたのです。自分はすでに所有権をイエス様に明け渡し、神様のものとなっていたのに、そのことを忘れていたのだと悔い改めました。「なぜ私が?」という時は私が主人公になっていますが、神様が人生を預かってくださり、最善をしてくださるご計画があるから、こういうことが起こったのだと後から知るのです。
また、ある牧師の3歳の息子が重い心臓病で手術を受けることになりました。多くの方に祈ってもらい、平安があると言われていました。ところがその手術は失敗に終わってしまいました。そこで両親は泣き崩れました。「神様、なぜ?」と言いそうになったその時に、その場に一緒に居た年配の女性宣教師が、「なぜ?って言わないで!後でわかるから。」と言われたそうです。神様がそんな時でも最善をしてくださり、その時にはわからなくても、神様のご計画があるのです。
<キリストのように生きたアクセルソン宣教師>
在原先生の母教会を開拓されたアクセルソン宣教師は、初めチベットに宣教に行かれていました。そこで内戦があり、反政府軍に捕えられ、毎日少しずつ殺される中、宣教師夫妻と幼子は、中立国のスウェーデン人ということで解放されました。雪山からなんとか助けられながら逃げ、やっと香港にたどり着きました。そこで2人が手を取りあい、祈った時、それぞれが「日本」という言葉を聞いて、そのまま母国に帰らず、日本に宣教に来られました。このアクセルソン宣教師の顔を見ただけで、イエス様を信じたいという人がいたほど、人格的にすばらしい人でした。そして御殿場の教会は、この先生に与えられた預言の通りに、素晴らしい教会になりました。
しかし、アクセルソン宣教師の晩年は、大きな誤解を受け、見捨てられたような状態で、帰国され、最後は一人でひっそりと息をひきとられたそうです。しかし、これはアクセルソン宣教師の「キリストのように生きたい!」という祈りの答えであったのです。キリストは誤解され、見捨てられた方となられたからです。宣教師が召天された後、誤解が解けたそうです。
《聖会3》
<ヘブル11:6>“信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。”
神様は、必ず祝福を与え、最善をしてくださることを、信仰によって受けとめなさいということです。在原先生がアルゼンチンに行かれるまで4年間、絶望するまで苦しい所を通られました。それは心砕かれて、自分の名誉のためではなく、神様のために行くのだと示される期間であり、絶望は後に武器になったそうです。
約束された方は真実であり、私たちが考えている以上に素晴らしい方です。私たちが今置かれている場所での使命があり、私にしかできない働きがあるのです。勇気をもってその使命・ミッションに飛び込んで、必要のある人々に手を差しのべていきなさいと言われました。
勇気とは執着心です。それは使命感であり、どうしても成し遂げたいという心です。愛するとは、傷つき涙し、相手のために損をすることだと言われました。私たちは誰かのために愛を示す時、傷つき涙しながら損をし手を差しのべていくのです。最後に、献身は覚悟であると言われました。私たちは神様に愛された者として、神を愛し、兄弟姉妹を愛して、そのために覚悟をもって歩んでまいりましょう。 |