■2015年6月28日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛は恵みを千代も保つ  up 2015.6.28


主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」
(出エジプト34:6〜7)

 

 

 

 今日は(出エジプト34:6〜7)のポイント5番目になります。真実の愛は、愛する者に恵みを長く注ぎ続けることがわかりますね。
1.『千代も保つ』とは?
(1)ヘブル語から
 『千』(英)thousand=千、非常に多数、無数、多数
       company=同席すること、仲間、交際、人の集まり、会社
       troops=群れ、一団、一隊
『保つ』(英)keep=物事・状態が続く、保つ、続ける、維持する
       guard=守る、保護する、見張る、用心する、抑制する
       watch=じっと見ている、期待しつつ待つ
       preserve=失わないようにする
       keep secret=秘密を維持する
(2)聖書から 
A)(申命記32:10)
“主は荒野で、獣のほえる荒地で彼を見つけ、これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られた。”
「ご自分のひとみのように、これを守られた。」という表現ですが、これはまさに「失わないようにじっと見ていて、変化しないように維持し、守る。」という気持ちを表しています。
私たちも無意識に反射神経が作用して、眼に異物が入ったらすぐまぶたが閉じます。神様は、愛するイスラエルの民が何かあったら即座に対応されるほどに、いつも彼らに目を向けておられます。
B)(イザヤ48:6)
“「あなたは聞いた。さあ、これらすべてを見よ。あなたがたは告げ知らせないのか。わたしは今から、新しい事、あなたの知らない秘め事をあなたに聞かせよう。」”
 この当時のイスラエル人たちは、完全に神様に背を向けてしまい、どうしようもない状態でした。どれほどひどかったかと言えば、神様が預言者やモーセ五書を通して語っておられることを、自分のあがめる偶像からの預言であると宣言するほど、偶像を主としていたのです。そんな背信行為を重ねているイスラエルであっても神様は見捨てず、アブラハムのような神への心を持つことができるようにと、かかわりを持ち続けてくださっていました。
 そして、彼らの偶像が語ったのではなく、生きておられる神が語られたと知るために、彼らの知らないことについて語ろうと神様はおっしゃられたのです。このことを通して、彼らが悔い改めに導かれるためです。彼らが心を変えるようにと、彼らへの愛とあわれみと親切のなせるわざです。
 間違いを正すことは親切です。しかし、正された方はいい気持ちではありません。現代では特に、「間違っている」という言葉を全人格否定のように受け止めてしまって、親切からの忠告を受け入れられない人がいます。そういった病的な現代人の状態が、そのまま滅びに向かわないようにと、神様は愛の親切をもって接してくださっています。それは恵みです。恵みとは親切なのです。
 神様に対して振り向きもしない状態のイスラエルに対してさえ、神様は何とか振り向いてもらおうと、正しい方向に振り向かせるために、いろんな方法を用いながらかかわりをもっておられました。

【デボーション参考ポイント】
○『恵みを千代も保つ』という主のお気持ちを考える
 そう簡単にあきらめることなどできないと、私たちについて思っておられる神様。「千代」という言葉が持つ様々な意味をあわせて考えると、「神のことを非常に愛し慕う一つの群れを、失いたくない。傷つけたくない。壊されたくない。」という気持ちが強く働いている気持ちを、「千代も保つ」のが、みことばに隠された神様のお気持ちだとわかります。
 ご自分でも、なるべくくわしく具体的に考えてみてください。それほどに神様は、私たちに対して深い思いを込めて恵みを与えてくださっています。この恵みは特に「罪の赦し」に対してのものです。
 律法に特例を設けて、私たちの罪を罰し、私たちを生かすという恵みを、私たちの心や行いが悪いからと言って断ち切られるどころか、「千代にも保つ」と約束されているのです。
 何とか悔い改めてほしいと、最後の時まであきらめないお気持ちが「千」という言葉に表現されていると思います。そして「一人も失いたくない」というお気持ちも、この「千」という言葉の中に含まれているわけです。
 また、「保つ」というお気持ちは、それが一時的なものではなく、単なる「置いておく」というものでもなく、期待を持ちつつ待っておられるのです。ここに愛があります。
 皆さん、親も子に対して、父なる神様が持っておられる「恵みを千代も保つ」という気持ちで、子どもを育て、見守ってほしいと思います。子どもが成長して成人しても、年老いても、親子の関係は切れていません。「恵みを千代も保つ」という気持ちを失わないことが、親に対する尊敬を抱かせるコツです。お金などのつながりではなく、尊敬でつながってください。
 年をとったらわがままになってもいいと思うのではなく、年を経るほどに節制して、人格的にも品性的にもさらに熟成した者として自分の心を守っていただきたいと思います。人の心には、どんな悪企みがひそんでいるかわかりません。正しい良心を失わないようにしっかりと保って、守ってまいりましょう。

2.『破邪顕正』(ヘブル12:15〜16)
“そのためには、あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように、また、不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がいないようにしなさい。”
★『破邪顕正』(はじゃけんしょう)の意味
「誤った考えを打破し、正しい考えを示し守ること。不正を破って、正義を明らかにすること。」
 「千代も保たれる」神様の恵みを無にしないように、私たちの心の姿勢を「破邪顕正」に保ちましょう。
 私たちの内側では常に、自己中心の考え方と、神様にきよめられた正しい良心とが葛藤しています。自己中心の考えは、誤った考え方です。それを正しい良心をもって打ち砕いて、正しい良心の考え、思いを表していって、神のおことばを守るようにしていただきたいと思います。これが「破邪顕正」の考え方です。
【内容観察】
「あなたがたは、主の群れとして一人も失われることがないように互いを保護し合い、だれも神の深い愛から離れる者がないように、また、悪い感情によって周りの人々を悩ましたり汚したりすることのないように、また、自己中心の者や一杯の食物と引き替えに長子の権利を弟ヤコブに売り渡すような、神を畏れないエサウのような世的な者がないように、神の愛のうちに自分を守りなさい。」
 神様の恵みを無にする行為とは、お互いに監督をせず、見張りをし合わないことです。悪いことを見れば注意し、チームが前進するための指導をするのが監督です。私たちはお互いが神様の愛の中から離れないように、注意、忠告しあうことが大事だと、聖書の中に教えてあります。ですから、よく監督し合いましょう。
 もし自己中心が強く表れている人が、自分の状態に気づいていなかったら、「最近、自己中心になっていませんか」と忠告してあげましょう。相手は気を悪くするかもしれないし、「あなたこそ自己中心だ」とやり返されるかもしれません。
 しかし、私たちはもともと罪人なのですから、相手からの指摘には「そうですね」と認め、それでも愛からの忠告を止めたりはしないようにしましょう。神様の恵みから落ちる者がないためです。
 次に「苦い根」ですが、たとえば今礼拝堂に付いているエアコンの注意事項に「場所によって温度差が出るので、ご了承ください」とあります。皆さんは「広い会堂だから、もっともなことだ」と思われるでしょう。
 ところが、実際にエアコンが作動している礼拝中に、横路伝道師を呼んで、「寒いからエアコンの温度設定を上げて」とか「暑いから温度下げて」とか言ったとしたら、何か変ではありませんか?
 暑いと思われる人と寒いと思われる人がいるのは個人差もありますから、仕方のないことです。そのことを踏まえて、自分にとって過ごしやすい温度の場所を選ぶことはできないことでしょうか?
 席を替えることも、暑さ対策も寒さ対策も講じないで、「私が暑い(寒い)と言ってるのに、私に対する最善を尽くさないとは。」と思う心は、苦い根ではありませんか。このような心が人を汚します。人の親切な心を壊してしまうのです。
 自分の気持ちを優先させることで、注意してくれた人の純真な愛をダメにし、悩ませてしまうのです。このような事が教会にはびこるなら、来たいとは思いませんね。「イエス様はすばらしい。わかるんだけど、来ている人々はすばらしくなってない。」というところで、心が痛むのです。
 いつも言っていることですが、私たちは罪人です。しかし、できる限り、神様に喜ばれることを目指したいと思っています。そうですよね?人と比べて良い悪いではなく、神様の前にいつも自分を、正しい良心で生きる者として歩もうと志している者同士の群れです。そんな私たちを、神様は失いたくないと思われています。苦い根によってバラバラになってほしくないのです。
 そんなわけで、私たちは最低、週に一度、心にある苦い根を抜き取るために、礼拝に来るのです。野草で毒のあるものを食べて、お腹をこわす人がいますが、私たちも教会の中で苦い根を食べて、その人を通して汚されてしまい、霊的腹痛で教会に行きたくなくなるかもしれません。
 それは神様が悲しまれることであって、私たちはお互いがつまずきを与える者同士である前提で、教会に来ましょう。この問題を解決するのは、赦し合う愛だけです。
 私たちは神様の願いを知り、成就するために日々過ごすクリスチャン生活なのですから、ぜひ、見える人によって汚されないように気をつけてください。こういう問題を避けるために、極力よく監督して、恵みから落ちることのないようにしましょう。律法ではなく恵みであることに注目です。
 次に自己中心についてですが、不品行の根っこにあるのは自己中心であるという見解から、あえて自己中心という言葉を使用しています。道徳的なものを無視して、自分の欲望をかなえようとする心の動機は、自己中心だからです。
 ではエサウは何でしょうか。彼は双子の兄であり、ほんの少し先に産まれたことによって、弟ヤコブが決して手に入れることのできない、莫大な財産や権利や祝福を自分のものとして受ける予定でした。
 ヤコブにしてみれば、兄とも言えない同い年のエサウが、自分とは比べ物にならない祝福を受けることを妬ましく思わない日はなかったでしょう。しかもエサウは、自分に与えらえた幸運を気にも留めていないのです。
 長子に生まれたのは「当たり前」、財産を受け継ぐのも「当たり前」、祝福を受けるのも「当たり前」で、自分を長子として選んでくださった神さまへの感謝などこれっぽっちもありません。彼がヤコブに長子の権利を売ったのも、「長子である自分が次男であるヤコブと立場が変わるわけじゃあるまいし。」とタカをくくっていたからです。
 神さまからの特別な贈り物を、自分の付属品のように思っていた、この横柄で傲慢な態度が、彼の問題だったのです。私たちも、自分の罪が赦されているのは当然のことではありません。これは本当に特別なことであり、永遠に一度きりのことです。
 私たちはこの「恵み」に関して、いつも心に留め、決して忘れないようにということで、毎週、毎日でも赦され救われている感謝を持ち続けながら、神様の前に畏れの心をもって歩みましょう。
 もし、神様を畏れない心があるならば、世的な考え方が中に入ってきているのではないでしょうか?私たちは世の中を受け継ぐために生れて来たのではなく、神の国を受け継ぐために生れてきた者です。神様の愛のうちに自分を守りましょう。

【デボーション参考ポイント】
★(箴言4:23)
“力の限り、見張って、あなたの心を守れ。いのちの泉はこれからわく。”
 イエス様がおっしゃった、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして(全身全霊をもって)、あなたの神である主を愛せよ」(マタイ22:37)というご命令があります。そして「自分を愛するように、隣人を愛せよ」というご命令もあります。
 では「力の限り」では何でしょう。これは私たちの生活環境の中で、自分の心を守り、悪に汚されないための工夫をしなさい、ということです。
 正しい良心をいつも意識できるように、家の環境、車の中、通勤通学の道のり、会社に行った時の環境など、世の悪影響を受けないために、自分の心を守る工夫や配慮が必要です。
 正しい良心が弱ると、あなたの心の泉が湧いてこなくなります。正しい良心が、成長と共に世の影響を受けて、ふさがれてしまうのです。
 たとえばクリスチャンホームの子どもは生まれながらのクリスチャンで、自然に神様のことを教えられて、神さまを信じることは当たり前のように過ごしてきています。しかし、ノンクリスチャンの子どもやノンクリスチャンの世界にだんだん触れていくことによって、正しい良心と違う彼らの価値観や考え方によって、肉的な良心の方に意識が行ってしまって、「いつの間にか自分は信仰を失ってしまった」と勘違いすることがあるのです。
 「こんな様子で、自分は神様への信仰を持っていると言えるのだろうか?」と疑問を持ってしまうのです。他の人の証を聞いて、「自分にはあんな体験はないし」と気後れしたりします。世の中に触れると、迷わされていくことが多いのです。
 世の中の影響を受けて、自分の正しい良心が肉的な自己中心の良心に代わっていることに気づかなければなりません。これに気づかないままだと信仰を見失ってしまいます。
 大人も、世の中との接点が多くなると影響を受けます。世の影響力を、私たちはどこかできよめなければいけません。そういう意味でも、最低週一回は礼拝に来て、みことばを通し神様の臨在を通して、神さまの愛に触れて洗い清められましょう。本来の自分の心である、きよい良心に立ち返る機会をいただくのです。
 そのような神様の恵みをぜひ活用して、心を守ってください。具体的な状況は皆さん個人個人で異なると思います。それぞれのプライベートに合わせて、進めていただいたら良いと思います。

 

 

 

 

■2015年6月21日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 恵みとまことに富む愛  up 2015.6.21


主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」
(出エジプト34:6〜7)

 

 

 

1.『恵みとまことに富む』とは?
 今日は、神様の愛について4番目のポイントを学びます。この「恵みとまこと」というものは、愛することによって自然に湧いてくるものだと思います。愛する者のために、恵みとまことを尽くしたいと思うのが『愛』です。
 では、神様が私たちを愛してくださったその愛のゆえに、尽くしてくださった恵みとまことには、どのようなものがあるでしょうか?それを学んでまいりたいと思います。
(1)ヘブル語から
 いろいろな訳がなされているのは、文脈から読み取るときに、使い分ける必要があるからです。このように、一つのことばにも多くの隠された意味があることを考えながら読んでみましょう。
『恵み』(英) mercy=慈悲、寛容、情け、幸運、恵み、救済
        goodness=良好、優秀、善良さ、有徳、親切
        kindness=親切心、優しさ、思いやり、優しい振る舞い
        faithfulness=忠実、貞節、正確
『まこと』(英)truth=真実、真理、立証された事実、誠実、忠誠
        true=本当の、本物の、偽りのない、正確な
        right=(道徳、律法、社会通念上)正しい、正当な
        faithfulness=忠実、貞節、正確
『富む』(英)many=多くの、たくさんの、多数の、幾多の
       great=偉大な、卓越した、多い、大いなる、非常な
       much=多くの、多量の、値打ちのある

 以上の言葉の意味を踏まえて、『恵みとまことに富む』ことについて説明してください。
 多くの意味を持っていることを考えながら、説明的な文章を自分なりに作ってみましょう。
<例>
 恵み=高徳なあわれみ深さと情け深さからの優しい親切な振る舞い
 まこと=堅く真実に立つ偉大な本物の誠実さに満ち満ちている
 富むという言葉は、上の二つの言葉をまとめる中で、それぞれの文中に読み取れるよう工夫しています。
 こういった事柄を通して、この地上では決して見ることも体験することもできないような、恵みとまことに富む神様の愛を私たちは受けているということを、皆さんに気づいていただきたいのです。
 神様の愛が真実である証として、恵みとまことが私たちに現されています。それが十字架による救いであり、律法において特例を設けて、代価による罪の赦しを私たちに与えてくださいました。
 また測り知れない堅固なまことは、愛するひとり子さえも罰することによって、罪の処分の厳格さを示しておられます。

2.主の『温厚篤実』に触れる(創世記24:26〜27)
 “そこでその人は、ひざまずき、主を礼拝して、言った。
「私の主人アブラハムの神、主がほめたたえられますように。主は私の主人に対する恵みとまこととをお捨てにならなかった。主はこの私をも途中つつがなく、私の主人の兄弟の家に導かれた。」”
 アブラハムは、一人息子イサクのために、自分の故郷から嫁を迎えることにしました。アブラハムの兄弟の娘から嫁を選んでくるように、と命じられたしもべが目的地に着いた時、神様にしるしを求めて祈ります。
 「水のところに行った時、自分と自分のらくだにも水を飲ませてくれる人がいたなら、その人が選ばれた嫁になる人です。」と。
 彼が祈った時、通りかかった娘が、本当にしもべにもらくだにも水を飲ませてくれるという奇跡的なことが起こりました。そこで娘にどこの人かと尋ねると、実にアブラハムの兄弟の娘であることがわかりました。驚き喜んだしもべが、神様に感謝の祈りをささげたのが、上のみことばです。

★『温厚篤実』(おんこうとくじつ)の意味
 「温かで情が厚く、誠実なさま」
 『温厚』⇒穏やかでやさしく、情が深いこと。
 『篤実』⇒人情に厚く実直なさま。誠実で親切なこと。
【内容観察】
「奇蹟的な偶然とも言うべき出会いによって主人アブラハムの兄弟の家に導かれた神。このことによって主人アブラハムへの恵みとまことは、尽きることのないほどに豊かであることを知りました。それで、私は、ほめたたえずにはおられません。」
 ここで大事なのが、しもべは自分の祈りが応えられたとは思っていない点です。彼は、「主人アブラハムの上に神様の恵みとまことが留まっている」と言っているのです。
 私たちは、よく自分の祈りが答えられたと言います。しかし、その言葉は自分に栄光を帰してはいないでしょうか。あなたが神様を動かしたのでしょうか?
 このしもべは本当にへりくだり、主人アブラハムを畏れ、神様を畏れていました。彼はずっとアブラハムに仕え、「アブラハムを祝福する者は祝福され、彼を呪う者は呪われる」という神様のおことばを文字通り体験してきた人です。
 アブラハムには特別に御目が注がれており、今回のイサクの嫁さがしにおいても特別なご配慮が働いていることを、彼は知っていました。
 だからこそ、自分にはふさわしい女性を選ぶことができないだろうと知っているしもべは、神様にしるしをお願いしたのです。すると、神様は奇跡的な偶然を通して、イサクにふさわしい娘を、しもべのもとへ連れて来てくださいました。
 皆さんはいかがでしょうか。思い返せば、奇蹟的な偶然があなたのクリスチャン人生を今まで支えてはいませんでしたか?それを見いだしていただければ、神様の恵みとまことに富む『温厚篤実』に触れることができます。

【デボーション参考ポイント】
★過去、現在、未来において、主は恵みとまことに富んでおられることを見いだしましょう。
 クリスチャン全体として共通した、神様の『温厚篤実』があります。
<過去>
 義認⇒信じるだけで義とされる
 イエス様の救い、すなわち神様の愛を信じることによって、私たちが罪人であるにもかかわらず神様は「義人」として認めてくださいます。これは十字架のみ救いが成就した時に、私たちに与えらえたものです。
<現在>
 聖化⇒悔い改めながらのきよめ
 私たちは罪を犯しては悔い改め、また新たにチャレンジします。同じ失敗をしてもあきらめずに、またチャレンジします。その繰り返しを通して、私たちはきよめられていくのです。
 神様は悔い改めに対する赦しを、回数制限されませんでした。それを「恵み豊かで、まことに富んでいる」と言います。私たちが失敗で終わらないように、成功するまで悔い改めとやり直しが与えられているのです。
 神様は私たちを赦し、励まし、支えて、成功まで導いてくださいます。一日に7×70までも赦してくださる神様は、私たちが2分に一度罪を犯しても、それをあらかじめフォローしてくださっているのです。
 「私はダメなクリスチャンだ」で終わらないように、神様は恵みとまことをあなたに向けておられます。
 このことに気づいて、「こんな私でもクリスチャンなんだ」と告白することは、問題ありません。むしろ「こんな私はクリスチャンらしくない」と告白する方が、間違っています。チャンスはいつも与えられています。
<未来>
 栄化⇒主と同じ姿に変えられる
 毎日自信のないクリスチャン生活を送っていたとしても、将来は必ず、主と同じ復活の姿に変えてくださるという約束が待っています。
 最後まで耐え忍ぶ者は幸いである」というみことばが聖書にありますが、あなたがどんなに悪いクリスチャンであっても、神様の愛を最後まで信じ続けるなら、最後には主と同じ姿に変えられるのです。
 皆さん、最後まで神様の愛を信じ続けてください。この、人間には決して真似のできない豊かな恵みと、確固としたまことは、私たちに向けられているのです。
 このことだけでも、私たちは神様の『温厚篤実』に触れることができ、デボーションの中で感謝することができます。これは全クリスチャンに共通する事柄です。
 あとは個人個人で、アブラハムのしもべのように、特別な出来事や出会いを通して今の自分がここにあることを探していただけたら、また心がうれしくなって感謝するようになると思います。

(証)ちかげさんのご主人(米国在住 スコットさん)
 小学生の時、母に神様がいるのかどうか質問すると、母は「そういうことは自分で決めるものだ」と言った。真実は勝手に決めて良いものではないから、神様はいないのだと思った。それから自分は無神論者として生きることにした。中学、高校では、クリスチャンの学友とよく論争をした。
 大学の時には、ある人が自分に「進化論だって、自分で信じているのではないか?」と、チャレンジした。そう考えれば、神様という存在もあり得るかもしれないと思ったが、自分にはまだ信じることができなかった。
 在学中に、グアムに旅行する機会があり、その帰りに少し日本に寄って帰ることにした。その時、クリスチャンの友達が連れて行ってくれた教会の牧師が、「まず神様に祈りなさい。」と言った。「神様が本当におられるなら、必ずあなたに答えてくださる。いないと思うなら、まず試してみなさい。」と。「信じてない者に祈ることはできない。」と答えたが、まずやってみろの一点張りだった。
 「やってみれば、神は絶対にその存在をあなたに示してくださる。」「本当に真実を知りたいと思うなら、神様はその真実を必ず示してくださる。」と。
 それから、「まず聖書を読んでみてください。」と牧師のすすめに、自分は無神論者でありながら、その指導通り、毎日聖書を読み、祈った。
 実はその祈りの中で、一つ家族のために願っていることがあった。すると偶然にも、母がよこしてくれた手紙の中に、自分が祈っていたことの答えがあった。しかも、自分がそのことについて祈っていた、同時刻に起こっていた。
 ただの偶然とは思ったが、その一方で「やはり神様はいるんじゃないか」とも思うようになった。こうして神様の存在は何となく信じるようになったが、イエス様を受け入れるまでにはまだ至っていなかった。
 すると、神様は日本から米国に帰る飛行機の中で、自分の隣にクリスチャンの女性を偶然にも備えられた。その女性は、「もし自分で信じるなら、そこで祈りなさい。」と言った。彼女があまりにも勧めるので、押されて祈ってみた。しかし、そんなに変わったような気持ちはしなかった。
 あるいは、誰かが自分の変化に気づいてくれるだろうかと期待したが、隣の女性(この人は韓国人だった)に、「あなたの国はクリスチャンがたくさんいますね。」と話しかけたところ、「ええ、たくさんいますよ。ところであなたはクリスチャンですか?」と切り返された。一瞬、自分はどう答えたらよいかわからなかった。
 その時、神様が自分にささやいた。「あなたがわたしに、ちゃんと神を示してくださいと言ったなら、わたしはきちんと示します。だから、あなたは今、自分のするべきことをしなさい。」
 それで自分は決心して、彼女に言った。「実は2時間前に、私はイエス様を受け入れたんです。」この言葉を口にした途端、ある変化が心の中に起こった。「心で信じ、口で告白して救われる」と聖書にあるが、このみことば通りに、私の人生はこの瞬間からまったく変わることができた。
 帰った時、大学の同級生に、自分がクリスチャンだと告白した。すると、その友達は「神様は本当に奇跡を起こされるんだ!」と言った。

 偶然を起こすことができる神様。それは神様の愛と恵みによる真実を伝えるためです。偶然は神のみわざなのです。「偶然」は神様がいないという意味を表すものですが、私たちクリスチャンにとっては、「偶然」は神のみわざです。
 今、多くの偶然を通して私たちがここにいることを、神様の愛のゆえであると感謝してまいりましょう。

*身近に起こる奇跡的な偶然は、私たちに対する神の愛が、いかに恵
みとまことに富んでいるかの証である
 何らかの偶然がなければ、私たちは教会に来ることができません。キリスト教が根付いている欧米ならともかく、日本ではよほどのことがなければ、教会に来ることはないでしょう。感謝します。

「さくらんぼ 恵みとまこと なぞらえる」

 さくらんぼを見ると、神様の恵みとまことに満ちた愛を思わされます。その色といい、可愛らしさといい、照り艶もすばらしく、神様の愛のイメージにぴったりだと思うのです。
 さくらんぼの実は、木に鈴なりになっています。その姿は美しく、味も実の甘さ(恵み)の中に、酸味(まこと)が一本筋を通していて、神様の愛の姿が表現されていると思います。

 

 

 

 

■2015年6月14日 日曜礼拝メッセージより(横路伝道師、小栗伝道師)

 愛を紹介する7  up 2015.6.14


こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。
(第1コリント10:31)

 

 

 

【横路伝道師メッセージ】
1.とりなしの愛を紹介する(ルカ23:34a)
“そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。…」”
 このみことばは、イエス・キリストが十字架にかけられた時、7つのことばを言われたうちの1つのことばです。
 イエス様は、すべてを治める権威のある、父なる神様に祈られました。「父よ。彼らをお赦しください。」と。ご自分を殺そうとしている人々をお赦しくださいとは、なんというすごい祈りでしょうか。この最高のとりなしの祈りを学んでいきたいと思います。
 十字架にかけた張本人は、当時の宗教指導者たちでした。イエス・キリストは異端であると誤解をして、十字架にかけたのですが、実は自分たちの救い主であり、神の御子であるのに、それを知らずに殺してしまうという大罪を犯してしまったのです。
 彼らは、自分で何をしているかわからない状態でした。しかし、これには神の深いご計画があり、このことによって、全人類の救いが完成されたのです。
 イエス様の祈りには、「彼らをお赦しください。罪に定めないでください。彼らの罪を私が引き受けますから。」という叫びが入っています。その中には群衆たちも含まれていました。
 群衆たちは、イエス様はすばらしいと言ってそれまでついて行ったのに、扇動されて「十字架につけろ!」と言うグループに加わってしまいました。
 しかし彼らは、イエス様がまことの神の子であるということを知らないで「十字架にかけろ」と言ったのだから、どうぞあわれんでください、ととりなしの祈りをされたのです。

◎イエス様のとりなし(ヘブル7:25)
“したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。”
 イエス様はよみがえられ、天に上られ、今も天で私たちのためにとりなしてくださっています。
この地上が天の御国の支配に変えられるように、また、再臨の日までクリスチャンが守られるようにと、天においてとりなしてくださっているのです。

◎聖霊様のとりなし(ローマ8:26)
“御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。”
 言いようもない深いうめきが、私たちの内にもあるのではないでしょうか。聖霊様は、私たちのうめきを、ご自分のことのように受け止めて、私たちのためにとりなしをしてくださっています。
 とりなしとは、間に立って仲裁をする、弁護士のような役割です。聖霊様は、私たちのいろんな弱さをご存じで、間に立ってとりなしてくださっています。

◎私たちのとりなし(第1テモテ2:1b)
“すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。”
 クリスチャンの存在意義は、このとりなしのつとめをするためであるとも言えます。私たちの身近な人々から、高い地位の人たちのためにも祈る必要があります。国の指導者たちが、正しい判断ができるように、関心を持って祈ることが大切です。

<とりなしの例>
“…彼はまた言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、今一度だけ私に言わせてください。もしやそこに十人見つかるかもしれません。」すると主は仰せられた。「滅ぼすまい。その十人のために。」…”
 ロトが住んでいた、ソドムとゴモラという町が滅ぼされないように、アブラハムは熱心にとりなしました。
 正しい者が少しでもいるなら滅ぼさないでくださいと、神様のあわれみに訴えるとりなしの熱意から、学ぶことができます。

*モーセのとりなし(出エジプト32:11〜13)
“しかしモーセは、彼の神、主に嘆願して言った。「主よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から連れ出されたご自分の民に向かって、どうして、あなたは御怒りを燃やされるのですか。…」”
 モーセがシナイ山から40日も下りてこなかったので、イスラエルの民は偶像を作ってこれを礼拝するという大きな罪を犯しました。
 神様がこの民を滅ぼそうと言われた時、モーセが神と民の間に立って、決死のとりなしをしました。
 せっかくエジプトから導かれたのに、今ここで滅ぼされたなら、神様がそしりを受けることになりませんか…と嘆願した時、その祈りが聞かれ、神様はイスラエルの民を滅ぼすのを思い直されました。

*ステパノのとりなし(使徒7:60)
“そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。”
 ステパノは、最初の殉教者になりました。聖霊に満たされたステパノは、十字架で殺されたイエス様こそまことの神であったと、堂々と証をしました。イエス様を十字架につけた人々は、怒りに満たされ、ステパノを石打ちの刑で殺してしまいました。
 ステパノはその時、その人々を恨まず、イエス様と同じとりなしの祈りをしました。「この罪を彼らに負わせないでください。」と。

 私たちにはとりなしの務めが与えられています。家族、親族、友人、兄弟姉妹のためにとりなしをしていくことが必要です。
私たちがとりなさなければ、滅びてしまう人たちが周りにいることを覚えましょう。
 また、とりなしの祈りは見ず知らずの人のためにすることもできます。消防車や救急車のサイレンを聞く時、また街中で人とすれ違う時に、心の中でその人たちのためにとりなすことができます。「主のあわれみと救いがありますように。」と。
イエス様の愛を表す、このとりなしの務めを忘れないで、毎日すべての人々のためにとりなしをしていきましょう。

【小栗伝道師メッセージ】
2.神の愛による訓練(ローマ8:28〜29a)
 =神の愛は、神が愛される私たちの益となる訓練をされる。
“神を愛する者、すなわち神のご計画に従って召されている者にとっては、神は彼らと産みの苦しみを共にしてくださる方であるので、いっさいの事がともに働いて(益となる)良い結果をもたらすご計画の中にうまくはまることを私たちは確信しているのです。
 なぜなら神は、その予知される者(彼が前もって知っておられる、愛しておられる者)が、(彼の)み子のかたちに形造られ(内的に彼のかたちにあずかる)ことをも初めから定め(予定して)おられるからです。”(詳訳聖書より)
◎神の愛の訓練には、苦しみが伴う(神との信頼関係を結ぶため)
 神様は、私たちをいつも安定した状態には置かれないということです。
・「向こう岸へ渡ろう。」(マルコ4:35)
 これはイエス様が弟子たちに語られたことばです。
○弟子=主ご自身のお望みになる者。主に付き従う者。みもとに呼びよせられた人。
 いずれもイエス様の方から選びがあり、声をかけられた人です。
○弟子こそ、神の愛に近づくことができる
 ザアカイや長血の女の記事でも、イエス様を取り囲んだかと思えば、逆に扇動されてイエス様を「十字架につけろ」と言ってみたり、感情が揺さぶられやすく、神様の思いをわきまえられない性質を持っている群衆を、舟に乗せたら大変です。嵐にあったなら大騒ぎとなって舟は転覆していたでしょう。群衆の肉の性質では、訓練にならないのです。
 夕方とは午後6〜9時頃で、夜に近づいていきます。しかも激しい突風、波をかぶり、水でいっぱいになるような、命の危険にさらされる時こそ、まるで神様がおられないような夜と言える状態こそ、神の愛の訓練を受けている時と言えます。
 苦しい時とは、体調の不調があったり、人間関係においては想定外の心の傷つきを受けたり、思うように事が進まなかったりして、自分の存在が揺さぶられ不安定な状態になります。
 海は世を表しますが、世の荒波の中で舟を出して、不安定な中で向こう岸に渡るようなものです。このような時は自分を守りたい、楽になりたい、責めから逃れたい思いからいろいろな方策を尽くします。弟子たちも、自力で水を汲み出してきました。
 しかし、神の愛の訓練においては、神様の方に向くまでは、他の方策では解決にならないということです。そして、忘れてはならない事は、この場面においては、イエス様は最初から舟に乗っておられたということです。
 神であり人でもあるイエス様は、疲れからか眠っておられましたが、嵐になってもご自分にすべてを治める権威をお持ちでしたので、動揺される理由がありませんでした。そして弟子たちが、「これ以上どうしようもできない。」と察し、「私たちが溺れてもいいんですね。声をかけられたのはイエス様ですよ。」と訴えた時に、イエス様は神の権威を示され、嵐に命じられると、またたく間に静まりました。
 聖書に出てくる人の例を見ますと、お兄さんたちから裏切られ、穴に突き落とされたヨセフ。王様からねたまれ、命を狙われたダビデ。ダニエルと一緒に来た三人の若者は、金の像を拝まなかったが故に、燃える炉の中に投げ込まれ、ダニエル自身は、創造主なる神に祈りをささげ、王以外のものを拝んだということで、獅子の穴に投げ込まれました。
 このように多くの苦難や「なぜ」というところに置かれる時こそ、神の愛の訓練であり、嵐であり、「向こう岸に渡る」ため、神の愛に近づくために必要なものです。
 からし粒一粒のごく小さな信仰は、不信仰が占める心の中でもやがて芽を出し、大きな影響力を持つと信じます。
 今、舟に乗って嵐にあわれている方がおられるかもしれません。神様は、私たち神の子どもに神の愛の領域に近づくことを願っておられるので、「さあ向こう岸に渡ろう」と声をかけておられます。
 この訓練は、人間的判断、人間的力を一切手放し、神以外に頼るものが一切ない状態に追い込まれます。問題の中で万策尽きて、生きる事は難しいとさえ思える状況の中に、主が願われていることは何でしょうか。それは、最終的にどんな状態であっても、主と共に歩む覚悟をすることです。「生きるのはキリスト、死ぬのもまた益です」と。

*「あなたがたは、ここにとどまろうとするのか。」(民数記32:6)
・ルベン族、ガド族、マナセの半部族の最初の姿勢
 出エジプトをした後、目的地カナンを目前にしながら、ルベン族、ガド族の2部族(マナセの半部族は後から加わる)は、持っていた非常に多くの家畜のため、ヨルダン川を渡らないことを申し出ました。
結局、モーセの意見でカナンの地の戦いに共にあることを約束し、今の土地に戻ることを決めましたが、まるで「向こう岸に渡らせないでください。」と言っているかのようです。
 神様が私たちに、もっと神との愛の関係を深めてほしいと願っておられても、苦しみを味わったりすると「ここで十分です。」と言いがちです。神様は私たち一人残らず、神様が願われる愛の領域に入ってきてほしいと願っておられます。
 ですから、イエス様の十字架の贖いを信じる人たちが、苦しみも涙も夜もない天の御国に入ることを約束され、神様と永遠に交わるようにしてくださっています。一人としてもれることなく、導き入れたいと願っておられますから、今のままで留まろうと思われないでください。
 創世記に出てくるヤコブ(イスラエル)は、自分の愛する子どもたちのうちヨセフがいなくなり、シメオンもエジプトにとられ、そしてベニヤミンもエジプトに連れて行くように伝えられたことを聞き、「私も失うときには失うのだ」と覚悟を決めました。
私たちも、本来神様が占めるはずの心のうちを、目に見える物や人が偶像となって埋めていないでしょうか。それを手放すように示しておられます。これも自我を砕くということですね。

*イエス様の願い(ヨハネ17:24a)
“「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったもの(人々)をわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。」”
 イエス様は、私たちがどんな状態であっても、あくまでもイエス様のところに一緒におらせてくださいと、父なる神様にとりなしの祈りをしてくださっています。
 神の愛の訓練として、私たちの内に神と同じ愛のかたちが形づくられるために、それを妨げる自我が砕かれる必要があります。「神はおられるのか」というような所を通らせることがあっても、イエス様が舟に乗っておられたように、この人生を最後まで導いておられます。
 「目的地カナンを目前にして、その前で留まってしまうことのないように語られた神の約束に生きる者として、イエス様の十字架があり、罪人のために身代わりに罰せられても罪人を愛し続けてくださる神の愛の領域に、導いてください。
 また、キリストと共にいることが、この世のどんなものを手にするより幸いであり、恵みであり、価値あることと知らしめてください。
もろく消えてしまう、泡のような確信のないこの世の富や、誇り、人の評価に心を奪われることがありませんように。」そう祈ります。
 主が、霊的に「眠っている人よ、目を覚ませ。死者の中から起き上がれ。」「今、向こう岸に渡ろう。」と声をかけてくださっています。
主が共に手を引いてくださっていますので、「主よ。渡らせてください。」と、神の深い愛をもっと知ることができるように、近づいてほしいと願っておられます。

 

 

 

 

■2015年6月7日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛は怒るのにおそい  up 2015.6.7


主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」
(出エジプト34:6〜7)

 

 

 

 神様が「怒るにおそい方」であられるということに、異議を唱えたい方がおられるかもしれませんね、「結局は怒るんじゃないか。」と。注意しておかねばならないことですが、神様は決して「怒らない方」ではありません。
 以前にもお話ししましたが、神様の「怒り」は罪に対する正しい裁きのことを指しています。神様は罪に対しては怒られる方なのです。
 私たちも神様に似せて創られているので、「自分中心の考えや法律やルールに沿わない事柄」に対して怒りを発します。神様の場合は絶対に正しい基準をお持ちですが、私たちは一人一人自分の物差しで測るので、正しくありません。人間の怒りは神の義を全うすることができないと、(ヤコブ1:20)に書いてあります。
 愛の神は、怒りであるさばきをすぐには下されないというのが「怒るにおそく」の意味です。時間をおいてくださるということですね。

1.怒るのにおそい
(1)ヘブル語の「怒るのにおそい」
 英語で(longsuffering)=<侮辱や苦痛などに>長い間我慢してきた。辛抱強い。長い忍耐。
 「神の義が侮辱されても、神のあわれみが悔い改めの機会を与える。」
 神様が行われている正義に対して、私たち罪人は自己中心の思いから文句をいろいろ言います。私たちに与えられている愛とあわれみといつくしみに対して、侮辱するような態度や心もちになってしまうのです。
 そんな私たちの自己中心があっても、神様は愛を優先して悔い改めの機会を与え、怒りを遅らせてくださっています。人間的な表現を使えば、神は辛抱強く、裁くことを長く我慢しておられるとも言えます。
 永遠におけるただ一度の裁きの時、最後の審判で神様はあらゆる罪を一掃されます。しかしそれまでは、多くの罪や神様に対するあらゆる屈辱、侮辱的な事柄を裁かれずに我慢しておられるのです。
 本来なら、神様に対するあらゆる悪い考えは全部間違っているのですから、処分されてしかるべきです。神様の怒りは、義を曲げる事柄を処分されるためのお心ですから。
 それなのに、私たちの「もう一日待ってください」という願いを聞き届けて、しかるべき処分を下すことを待ってくださっているのです。あわれみ深く、情け深いお方ですから、怒るのにおそくしてくださるのです。
 神様はきれい好きな方なのに、罪という汚れを我慢して待っておられるのは苦痛だということを、私たちも覚えておかなければいけません。決して簡単な気持ちで裁きをこらえておられるのではないのです。
 世界には70億もの人々がいて、自分勝手に暮らしては罪を犯しているのを見ると、早く裁きを行ってきれいにした方がいいのではないかと、神様も悩まれたり苦しまれたりされます。
(2)『忍辱負重』の神の愛(詩編103:7〜8)
“主は、ご自身の道をモーセに、そのみわざをイスラエルの子らに知らされた。主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。”
★『忍辱負重』(にんじょくふじゅう)の意味
 「屈辱を受けながらもじっと耐え忍び重責を担い、それを全うすること」
 神様の忍耐は、単に耐え忍ぶだけではなく、目的があり理由があるのです。背負っておられる重責とは、私たち一人一人の魂の価値です。これをご存じなので、一人でも失うことのないように、と細心の注意を払ってくださっているのです。
 私たちの存在を、失敗したからといって放り出したりはされないお方です。ご自分が創られた私たちへの責任を最後まで取られ、罪のための滅びから私たちを回復させるという重責を負って、我慢強く私たちを導いてくださっています。
A)御自身の道
★モーセに知らされた道
 「律法による義(幸せ)の道」
 イスラエル人たちが約束の地に向かうための指導者として、神様はモーセを用いられました。この民を約束の地において一つの国民としてまとめるために、神様がモーセを通して与えてくださったのが律法でした。
 この律法に従う者は祝福され、恵まれ、繁栄し、幸せになることを、神様はモーセを通してイスラエル人に教えられました。(幸せ)と記したのは、本当の正義が、自分だけでなく周りの人々もみな幸せにすることを示しています。自分だけの幸せは義ではないのです。
 神様が与えてくださった律法は倫理的にもとても優れた教えであり、その中には神様の愛があふれています。厳しい教えだと思わないでください。これを守るなら、世界中みんなが幸せになれると断言できるほど、バランスの取れた律法なのです。
 しかし、すべての人が罪人であるという現実のゆえに、私たちは律法を守りきることができません。私たちが罪人であるがゆえに、人は行いによっては義とされないことが明らかになりました。
★新約の私たちに知らされた道
 「キリストによる愛の道」
 「道」と聞いて、ハッと思い当たるみことばがいくつありますか?「わたしは道であり、真理であり、いのちなのです。」というみことばなどは有名ですね。「神の愛を証しされた方が道であり、真理であり、いのちなのです。」と、言い換えることもできます。キリストによる愛の道を、私たちは示されました。律法を守ることができない私たちは、神様の愛であるあわれみにすがるほかはないのです。
 あわれみにすがるとは、神様の愛を信じることです。この愛は私たちの罪を赦し、私たちを生かすために、「永遠に一度だけ、私たちの身代わりとしての裁きを認める」という特例を作ってくださいました。その愛を信じれば、みんな救われるのです。
 そのような贖いを神様が成し遂げてくださった事実を信じることを、「イエス・キリストを信じる」と言うのです。
 世界中にはいろんな愛の神様がいますが、私たちが知る愛の名前はイエス・キリストといいます。その愛を信じる者、その名を呼び求める者はみな救われます。なぜなら、その名は神様の愛とあわれみを表し、私たちへの愛を表しているお名前だからです。
 その愛を信じるなら、あなたは特例を受けることができ、罪を赦されます。「あなたの身代わりに、誰かがあなたの罪の裁きを受けてくれるなら、あなたは赦される」という律法における特別なルールを受けることができるのです。
 そうやって愛の道を知らされた私たちだから、神様は「互いに赦し合いなさい」「互いに愛し合いなさい」と勧められます。
B)そのみわざ
★イスラエルに知らされたみわざ
 「奴隷の身分からの解放」
 イスラエルは、エジプトから解放されてカナンの地に行くまでに、多くの驚くべき奇跡を目の当たりにします。
 エジプトに下された十の災い、紅海を割って進む奇跡、渇きに苦しめられれば岩から水が噴き出し、天から毎朝最高のパンが与えられ、肉が食べたいと言えば、夕方にはうずらの大群が降って90pもの高さに積もりました。150万もの人々がいたと推測されるのに、彼ら全員が満腹になるほどの肉が与えられたのです。これは何を意味するかと言えば、イスラエル人たちの奴隷の身分からの解放です。
 「あなたがたはもうエジプトの奴隷ではなく、神の民なのだ。神様によって養われ、守られている。もう奴隷ではないんだよ。」と知らせるために、神は超自然的な奇跡やしるしを与えられたのです。
★新約の私たちに知らされたみわざ
 「罪の奴隷の霊的身分からの解放」
 私たちは欲望によって罪の奴隷となって、欲望に逆らうことのできない弱い人間になってしまいました。霊的には欲望の奴隷、罪の奴隷になってしまったのです。しかし、罪の奴隷にならなくていいようにと、神様はイエス様のいのちをもって私たちを買い取ってくださいました。罪の奴隷の立場から私たちを買い取ってくださったその値段は、イエス・キリストの十字架での身代わりによる裁きです。
 これは、紅海が分かれてイスラエルの民が渡った奇跡よりももっと大きな奇跡なのです。罪人の罪を赦すために、神が人となってその罪を身代わりに受けた。こんなことは、二度もあるようなことではありません。永遠にたった一度の奇跡なのです。
 海を分ける奇跡は、何度でも起こすことがおできになります。けれども、身代わりとして裁きを受けてその人の罪を赦すという奇跡は、律法という枠の中で特例としてただ一度だけしか赦されないものなのです。これを何回もされてしまったら、律法そのものが崩れてしまいます。神様が永遠に一度だけ認められた、身代わりによる罪の裁き。これは永遠にただ一度の奇跡です。
 そういう本当にすごい奇跡を、私たちは「十字架」という歴史に刻まれたできごとを通して、「私たちは罪から解放された。赦されたのだ。」と知ることができるのです。
 神様の「怒るにおそい」愛の行動は、イスラエルの民や異邦人である私たちが、神の国の相続者、神の子として救われるために、悔い改めの機会を与えてくださっていると知ることができます。感謝ですね。
 神様のこの忍耐のおかげで、私たちは今ここに存在できています。やり直すことができます。「これでおしまい」ではないのです!それらのことを皆さん、しっかり信じましょう。
 あなたは、今でもおしまいではないのです。チャンスが与えられているのです。なぜなら神は「怒るのにおそい」方だからです。

2.その実は『英知』(箴言14:29)
“怒りをおそくする者は英知を増し、気の短い者は愚かさを増す。”
 果物や野菜も、我慢させると良い実ができますが、私たちも忍耐することによって良い実をならせることができると、神様は語っておられます。我慢とは、苦しみを通ることですね。
【内容観察】
「侮辱や苦痛を受けても、すぐに怒りを表さずに制御する人は、その実として、深遠な道理をさとりうる優れた才能と知恵を得、その怒りを感情のままに言い表す人は、愛を知らない自己中心な人として信頼と尊敬を失い、人々が離れて行く。」
 道理とは、聖書で言う真理です。深遠とは、幅広く深い物事の道理や真理を指します。それを見抜くことのできる才能と、生かすことのできる知恵が身に付くのです。
 これらすべてを指して「英知」と言います。この英知が、怒りを遅くすることで身につくというのです。勉強ができなくても、怒りを遅くするだけで、人格的にすぐれた者になるという報いが与えられます。
 それと逆に気の短い者は、周りの人も距離を置いて、うわべだけの付き合いしかしなくなります。誰も、しょっちゅう怒るような人とは付き合いたくありません。
 神様は愛なる方で、私たちはいつまでも一緒にいたいと思うのですが、もし神様が「怒るに早い」方だったらどうでしょう。礼拝があるたびに怒りを放たれたら、「礼拝に来るたびにお腹が痛くなる」「礼拝に来るたびに病気になる」などの裁きが起こるかもしれませんね。そんなことになるのだったら、誰も来たいと思わなくなるでしょう。神が「怒るにおそく」「あわれみ深い」方で感謝ですね。この方は私たちの罪を赦し、いやしてくださるお方です。
 私たちの「怒りという感情」は、正義を壊します。ルールを破り、平安を砕きます。怒りという感情は処分しないとどんどん溜まっていって、いつか大爆発を起こします。
★(エペソ4:26)“怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。”
 神様は一日一日を区別してお創りになりました。毎日を新鮮な聖なる新しい日として、私たちに与えてくださっています。その聖別された新しい一日に、昨日の怒りを持ち込むと汚れてしまいます。
 罪を犯さないように感情と行動を分けると同時に、怒りはその日で処分しましょう。まず、怒りという感情を持った時には、怒りのエネルギーが道徳的ルールを打ちこわす行動にならないよう自制しましょう。
 どう処分したらよいのかという疑問への参考として、(第1サムエル25章)を挙げてみました。読んでデボーションしてみてください。
 ダビデが隠れていたころに出会った、ナバルとアビガイル夫妻の話です。ダビデが怒りを収めることができたのはどうしてでしょう。
ダビデ=怒りの感情の型、アビガイル=きよい良心=英知の型、です。
 アビガイルは愚かな夫ナバルに仕えることによって、彼の怒りを招かずに目的を達成するための「英知」を得ました。その「英知」が、怒りに燃えるダビデをなだめることにも用いられ、彼の怒りはみごとに静められたのです。
 アビガイルのどの部分がダビデの怒りを静め、平安に収めることができたのかを、実際に聖書から見つけてください。
 怒りっぽい人、今週は25章を繰り返し拝読してみてください。あなたのうちに与えられたきよい良心、キリストを信じ神を敬う心が、あなたの自己中心の怒りを収めることができる秘訣がそこにあります。答えをすぐ聞かずに、苦労して探し出すことは大事です。苦労は英知をもたらします。たとえば今回の宿題として25章を毎日読んだなら、それだけですごいことではありませんか。
★葛藤の中で生まれる英知
 アビガイルは、常識の通らない夫ナバルのために苦労したはずです。私たちのクリスチャン生活が楽でないのも、この罪の世界で苦労して、知恵を得るためなのです。良い練られた考えは、辛さ、苦しみの中から生まれてくるものです。
 天才でも限界はあります。壁にぶち当たって、なぜ、どうしてと苦しみ、挫折する心と葛藤するのです。どうにもならないと開き直ってしまったり、その問題から逃げて楽しい事柄にふけり、問題から目をそらして生きるのではなく、それが苦しい問題であればあるほど、深い知恵が得られ、眠った才能が引き出されます。苦しみは、あなたのうちに潜んでいる宝を引き出す要因を持っているのです。
 反対に、苦労を避ける人は、生まれ持った才能があっても生かしきれません。これを「もったいない」(愚か)と言うのです。
 クリスチャン人生は、神様の導きの中における労苦を通して、神の知恵・真理に対する優れた悟りを持つための才能と知恵を身につけていくための労苦の人生なのです。
 労苦の報いである知恵は、この世のお金と違って、天国に持っていけます。ですから、葛藤することを避けないようにしてください。
 その中で「主よ。」と、正しい良心をもって苦しみ悩みを味わいながら、乗り越えるための知恵と力を神様に求めてください。神は生きておられ、それに応えてくださいます。何らかのかたちで、必ず応えてくださいます。道が開かれるか、他の方からの助言があるか、みことばからのさとしをいただくか。あらゆる機会に、神様はあなたに語りかけてくださいます。どうぞかたくなな心にならないで、どこで神様が教えさとしてくださるかを、しっかりと正しい良心の目を開きつつ、苦しみ、辛さの中を通っていただきたいと思います。
「短気者 柔和な心に ころもがえ」
 皆さん、自分の心も衣替えしてまいりましょう。神様の愛によって、短気な心から、柔和な心へとあなたを衣替えさせることができるのは、神様の愛だけです。

 

 

 

 

■2015年5月31日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 聖霊による愛の満たし  up 2015.5.31


この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
(ローマ5:5)

 

 

 

 私たちが持つのは失望しやすい希望ですね。しかし神様から来る希望は、たとえ普通なら失望するような状況に向かっても、心を失望に向かわせない心の動きをするというのです。これはとても力強いことばですね。
 なぜ失望するような状況で、希望を保ち続けることができるのでしょう。それは「聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれている」からです。
 今日はこの「聖霊によって神の愛が注がれている」の部分から、「神の霊に満たされることと神の愛に満たされることは同じ意味を持つ」ということについて、みことばから見ていきたいと思います。
 最近は「霊」と言うと、オカルト的なものや新興宗教を連想しがちですが、クリスチャンは、「霊が宿る」のイメージを変える必要があります。

1.聖霊は『愛』
(1)(ヨハネ4:24)
“神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。”
 「神の本質は『霊』です。」

(2)(コロサイ1:19)
“なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、”
「神の本質である『霊』を御子イエスのうちに神は宿らせられた。」

(3)(第1ヨハネ4:8)
“愛のない者に神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。”
「神のご性質は『愛』です。」
 あえて「性質」という言葉を使いましたが、本来は愛も神様の「本質」だと私は思います。
 神様のご性格として出る「あわれみ深く情け深い」愛の現れが「性質」という言葉に当てはまるので、「ご性質」として表記しました。
 先々週学びました(出エジプト34:6〜7)も参照してください。

(4)(コロサイ2:9)
“キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。”
「神のご性質である『愛』が御子イエスのうちに宿っている。」
 福音書が4つある意味は、それぞれが異なるイエス様のご性質を現すことにあります。
 「神の霊が宿られたイエス様」「神のご性質が満ち満ちたイエス様」について、イエス様のご生涯を読むことを通して、神さまの本質である『霊』とはどういう霊なのか、神さまのご性質である『愛』はどのようなご性質の愛なのかを見ることができます。

 (1)〜(4)を見ていくと、イエス様に宿っておられる霊は私たちのものとは違うことに気づかされます。神様の本質が宿られたお方であるイエス様だからこそ、この方は神そのものであるとも言えるのです。
神様そのものの霊を宿しておられる方が、イエス様なのです。

(5)(ヨハネ15:26)
“「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。」”
「助け主である愛の神の御霊は、御子イエスが『神の愛』であることを証しされる。」
 御霊とは、神の本質であられる『霊』のことですね。イエス様は、ご自分のうちに宿っておられる霊のご性質と同じものを、御父のもとから助け主としてお遣わしになると約束されました。
 御父のもとから送られる、その真理の御霊(神様の本質たる神の霊)が来る時、神の本質たる霊がイエス様について証しするというのです。これはどういう意味でしょうか。
 神のもとから遣わされる御霊は、イエス様のうちに宿っておられる御霊と同じということなのです。
 イエス様ご自身も、神様のもとから神の本質である霊を宿らされ、神様のご性質も同時に宿らされました。イエス様のうちにおられる愛の性質をもたれた霊は、神様から出たものです。
 神から受けたイエス様の霊とご性質は、イエス様が遣わす神様からの助け主、真理の御霊と同じものであるということです。
 同じものであるがゆえに、この御霊はイエス様について証しするのです。本物(イエス様のうちにおられた御霊)と同じものが私たちのうちに来られて、私たちに「キリスト・イエスはどんな方か」を証明し、理解させ、悟らせます。
 何より、私たちにとって一番正確に物事を理解することができるのは、実際に本物をこの目で見たときです。
 イエス様のうちに宿っておられる霊とご性質を、よく似た模型を使って説明するのと、実際に体験し味わうのとでは雲泥の差があります。
 あなたのうちに来られた神の御霊が、本物のイエス様の霊であることによって、私たちは「愛なる神様そのもの」を悟ることができるのです。
 たとえば、神学的によく使われる「三位一体」(神様は3つの人格をもつ一人の方)について、人間的には理解不能と言えるでしょう。しかし、実物である神の御霊が私たちのうちに来てくださるなら、それが「わかる」ということです。

◎聖霊に満たされるとは、愛に満たされること。その霊のご性質に満たされるということでもあります。愛に満たされて悪い方向に変わる人はいません。幼な子でさえ、愛に満たされれば良い方向に向かいます。
 マイナスをプラスに、やみを光に、不信仰を信仰に、後ろ向きな思いを前向きに変えることのできる力が、愛にはあるのです。それが神様からの愛であればなおさらで、死の力さえも打ち破る力を持っておられます。
 イエス様が復活されたのは、愛なる御霊がこの方をよみがえらせたからです。神の愛は究極のポジティブであり、究極のネガティブである死を打ち破ったのです。
 皆さんの人間関係において良い状態である時は、愛の結びつきがあるはずです。愛の結びつきが強い時は、お互い信頼して疑うことがありません。しかし、それを疑わせるに十分な確固たる証拠が出てきたなら、愛の信頼は弱っていきます。
 これが人の愛の限界ですが、神の愛は罪人を生かす愛です。罪のために死んでいた私たちの、欲望に捕われ奴隷となっている内なる霊を、再び善悪をわきまえる人格者として生かされるのです。
 人格的に生きるのが、私たち本来の生き方だからです。神様が私たちに与えてくださった本能は、欲望を自制し、善悪を見極めるものです。この善悪の基準が『愛』です。
 欲望が中心となった愛ではなく、神様から注がれる『愛』が基準となった善悪の判断であり、欲望の自制心です。
 この『愛』に満たされることが、私たち本来の人格者的生き方として最高の歩み方です。

2.愛があれば『円満具足』(エペソ5:18)
“また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。”
★『円満具足』(えんまんぐそく)の意味
 「十分に満ち足りていて、少しも不足がないこと。」
【内容観察】
「お酒やそのほかの快楽で心の隙間を満たすことはできません。もし、そのようなことを続けるなら放蕩があるのみです。それよりも、心を完全に満たす、愛の神の御霊に満たされることを求めなさい。」
 
 愛が弱ってくると、人はそれを補おうとして、リフレッシュするための趣味を持ったり、運動をしたりしてみます。愛があるなら、お互いの愛で心をリフレッシュすることができます。リフレッシュとはすなわち、よみがえらせることです。
 愛は、私たちのすべての思いを満足させるものです。欲望を満たすのではなく、生きることを満たすことを希望と言います。人の心に希望があると、欲望に捕われることがぐっと少なくなります。
 この「希望」と「欲望を満たすこと」を混同する人がいますが、これは欲を満たすことを美しく言い換えているだけで、本当の希望とは違うものです。
 「希望」は自己中心ではなく、自分も人も生かすことのできる計画、ビジョンを持つものなのです。自分だけよければ、というのは自己中心であり、自己満足のための望みにしかすぎません。

【デボーション参考ポイント】
★愛があればなぜ、円満具足だと言えるかを考えましょう。
 愛が基となってすべてのものが成り立つからです。
 
 よくノンクリスチャンの人から聞かれるのですが、「愛があればお金は要らないのか?」という質問があります。
 たとえば日本経済が崩壊して、円が紙切れになったとしましょう。みんな慌てふためく中、クリスチャンは落ち着いています。彼にとって、お金が生きる土台ではないからです。もし餓死するのならば、それでもかまいません。私たちの人生はこの地上で終わりではなく、霊は神のもとに行くのですから。
 私たちは永遠という時間の単位から考えて、今を暮しています。お金は、神様の愛を現すために使われる道具にすぎません。家庭の中で夫婦、家族が愛を分かち合うために、お金という道具を用いているだけの話です。その道具がなくなったからといって、愛もなくなってしまうのでしょうか。そんなことはありませんね。幸せのために一番大事なものは、「愛する相手」です。
 「愛する相手」という存在のために、お金という道具やお金と引き換えに手に入れるいろんな便利なものがある、というだけです。
 「愛する相手」のためにという考え方で、持っているものを使っていくなら、他の人を見てうらやむ必要はあまりないと思いませんか?
 愛する方に満足していただけることが、幸せなのではないでしょうか。私たちは愛する者のために生きるのが本当の幸せなのに、物質を楽しむために生きようとするから、愛が冷えるのです。
 愛があればこそ、便利なものをうまく活用することができるということに気づいてほしいと思います。
 今の世の中には、愛が足りないせいで、物質に恵まれていても「足りない、足りない」と言う人があふれています。与えられたもので満足する心は、愛がなければ持つことができません。
 愛があれば『円満具足』、ぜひ考えてみてください。

 

 

 

 

■2015年5月24日 日曜礼拝メッセージより(小栗伝道師、横路伝道師)

 愛を紹介する6  up 2015.5.24


こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。
(第1コリント10:31)

 

 

 

【小栗伝道師メッセージ】
1.神様への新鮮な愛を持つために(ヨハネ14:17)
“その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。”
 すべての人間関係は、愛が基となっています。関わりが深くなるにつれて、初めに抱いていたその人へのイメージが変わり、新しい魅力を発見することもあります。

◎神様に今、新鮮な愛を持っているでしょうか。
 神様から与えられている恵みに慣れてしまうと、礼拝で賛美をしたりメッセージを聞いたり…何となく済ませる状況になってしまうことがあります。
 モアブという国が、「ぶどう酒のかすの上にじっとたまっていて…」(エレミヤ48:1)と書かれてありますが、私たちの側が新鮮さを失ってなれ合いとなり、愛の成長がなくなるのです。
 池や沼のように水の入れ替えがなければ、よどんでしまいます。礼拝も形式的にただ儀礼的になっていれば、水がよどんでいるのと同じで、礼拝で久しぶりに神様にお会いするような状況です。
 慣れきった神様との関係は、恵みも当然のように受け止めがちですが、実際には、神が人となられることだけを取り上げても、創造主が被造物と同じ姿になることを受け入れるのは屈辱的です。
 しかし神様は罪人を深く愛され、救いたいと心から願っておられたので、屈辱も受け入れてくださったのです。
*十字架の敵となって歩んでいませんか?
<参照>(ピリピ3:18)“というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。”
 世を愛し、欲望を神とするなら、イエス様が十字架にかかってくださったことを知っていても、十字架の敵となって歩んでいることになります。
 世の中には、肉の思いに刺激を与えるたくさんの情報があふれ返っています。それらに慣れきってしまうと、いつのまにか神様を新鮮に愛し続けるどころか、求める思いが失せてしまうのではないでしょうか。
 また、世のことについて考えるならば、サタンがイエス様を誘惑したように、罪人の私たちはなおさら、欲が引き出されている時には十字架の敵となっているのではないでしょうか。心の中に、世に向かっている部分はないでしょうか。
 創世記に出てくるイサクの、双子の息子の長男エサウは、自分の空腹を満たすために、自分に無条件に与えられていた長子の特権と、一杯のスープを交換しました。「今の私に、長子の特権が何になろうか」と、後にいただくすばらしい恵みを軽んじたのです。聖書に、俗悪な者エサウと書かれている通りです。
 私たちも、神様からいただいた永遠のいのちを、「今の私に何になろう」とは言いたくありません。地上に思いを馳せて十字架の敵となって歩んでいるなら、エサウと同じ言葉を口にしているかもしれません。欲に仕える時、神様の新鮮な愛から遠ざかっています。さらに、思いわずらいや心配事が神様への愛を上回ってしまうと、神様がいくら「委ねよ」と言われても、「この心配事が…」と言って、神様への愛を向けさせなくしてしまうのではないでしょうか。

◎神様にお会いすることを求めましょう。
(ヨハネ14:17)“みことばは前述”
 「住み」とは、立ち寄るのではなく、ずっと居続けてくださることです。
*聖霊のバプテスマ=神の霊にずっぷり浸される
・父の約束
(使徒1:4〜5)“彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」”
 父なる神の約束であり、復活されたイエス様が40日間弟子たちと共に過ごされ、天に上られた後、10日後に上から与えられたもので、神様のご意志によります。

・助け主…《ギリシャ語訳》パラクレイトス
(ヨハネ14:16)“「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」”
 聖霊のバプテスマを受けること、また受けた方は、過去の聖霊の満たしではなく、本来毎日受け続けることによって、神様との新鮮な愛を保ち続けられると言っても過言ではありません。

・御国を受け継ぐ保証
(エペソ1:14)“聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。”
いわば、天の御国に戻れる手付金のようなものです。イエス様が迎えに来られた時に、今持っている罪のからだが一瞬にして栄光のからだに変えられ(栄化と言う)、天に入ることのできる保証となりますから、本当に重要なものです。
神様は、私たちと天においても交わりを持ちたいと願っておられます。同時に、地上においても罪人の私たちを放っておかれず、罪人の内にすら住みたいと思われるほどです。そこで、私たちの側に、この聖霊のバプテスマを受けること、さらに満たされることを○渇く○飲む○切に求める、ことが必要です。先延ばしするなら、切実さをもっていません。
(ルカ11:13)“「してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」”
 「聖霊様、あなたが私の内に来てくださらなければ、これ以上前に進めません。」と、行き詰まりを覚えておられる方、どうぞ求めてください。心を開くなら、神様はくださいます。欲など、妨げているものを手放して、求めてまいりましょう。

◎土の器である自分の内に来てくださっている聖霊様を大切にし、悲しませないように歩んでまいりましょう。
 神の愛が内にあるので、罪の性質が徐々に変えられていきます。聖霊様を与えてくださった神様は、私たちがイエス・キリストを信じて悔い改めてきよくなっているからこそ、信頼して送ってくださったのです。
 私たちは土の器に過ぎません。内に聖霊様という宝があるのです。
この一週間、内に来てくださっている聖霊様を悲しませないように、また更なる新しい満たしを求めて、聖霊のバプテスマを受けておられない方は受けられるように、と祈って待ち望んでまいりましょう。

【横路伝道師メッセージ】
2.用意周到な神の深い愛(エペソ2:4〜6)
“しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かしーあなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのですーキリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。”

◎私たちは愛され、恵みのゆえに選ばれ、救われました。
 神様は、私たちが母の胎に形づくられる時から、恵みにより私たちを選んでくださり、目的を持ってこの世に送り出してくださいました。
*救いの道を用意された
 神様は、私たちがアダムから受け継いだ呪いのゆえに罪の中に生き、滅びが定まっていることをあわれんでくださり、十字架の贖いを備えてくださいました。これは、御子イエス・キリストを信じる信仰だけで救われ、永遠のいのちを得ることができるという、恵みによる「特例」でした。
*聖霊を与えてくださった
 また神様は、私たちがイエス・キリストを信じ救われた後に、この世で信仰生活を保つ闘いの人生の助け手として、ペンテコステの日に聖霊様を下してくださり、私たちが倒れてしまわないように備えてくださいました。
*教会を用意された
 そして、一人では弱くて勝利できない私たちに、助け合い、赦し合い、愛し合う教会を用意してくださいました。
地上に建てられた教会は、知識の一致、信仰の一致、霊の一致、愛の一致により聖められ、キリストの花嫁として迎えられ、すばらしい栄光の教会、天の御国の一部を味わうことのできる神の教会です。
*天の御国に住まいを用意された
 英国の社会福祉のスローガンであった、「ゆりかごから墓場まで」という言葉がありますが、神様のご計画は「母の胎から永遠まで」と言えるほど長くすばらしい、用意周到な愛のご計画であることに感謝します。

◎個人的にイエス様を「私の主、私の神」としているでしょうか?
 ご自身のひとり子を、私たちの救いのためにお与えになった神様の愛に対して、私たちは個人的に「私の主。私の神。」として受け止めて信じているでしょうか。

*トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」(ヨハネ20:28)
 イエス様が復活された後、弟子たちに現れた時、その場に居合わせなかった弟子の一人であったトマスは、イエス様の復活がどうしても信じられず、「私はその手の釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ決して信じません。」と言いました。その後イエス様がトマスの前に現れて、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇に差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」と言われました。
 トマスは答えてイエス様に「私の主。私の神。」と言ったとあります。(ヨハネ20:25〜29)
 トマスが「私の主。私の神。」と言ったのは、目の前に自分のために愛をもってわざわざ現れてくださったイエス様が、生ける神であり「まことに自分の主人、自分の神様である」と、個人的に信じ受け入れたことを表しています。
 私たちも、クリスチャン全員の神様として信じる以前に、「私自身の救い主」「私自身の神様」として、個人的に1対1での関係を持つ必要があります。
 そうでないと、聖書のみことばも、単に不特定多数の人々に教義・教典として書かれている書物、という読み方になってしまう恐れがあります。

 私がイエス様を信じ、洗礼を受けることになった経験を少しお話ししたいと思います。教会に導かれ、半年くらい経った時、やっと聖書を通し、イエス様がすばらしい救い主であることがわかりました。人々を救うために、そのいのちを捨てられたことを知り、他宗教の神仏とは違う真実な愛の神様とわかったのです。しかし信仰の決断の前にひとつだけ、心に引っかかっていることがありました。
 それは、イエス様が十字架上で『わが神。わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。』(マルコ15:34)と言われた所でした。十字架上でのイエス様のこの最後のおことばは、あのソクラテスが悠然と死んでいったのに比べ、あまりにも弱々しく情けないことばであると思えたのです。
 このことについて私が質問した時に、牧師夫人が答えてくださったのが、「横路さん、イエス様が十字架上で父なる神様に完全に見捨てられた、弱々しく情けないみじめなお姿となられたのは、あなたの罪が、それほどに重かったからですよ。」という言葉でした。
 これを聞いた時でした。私の心に聖霊様が触れてくださったのだと思いますが、私の今までの考え「人々の罪のために十字架にかけられ、死んでくださったイエス様」から、
 「私の罪のために十字架にかけられ、死んでくださったイエス様」に変わった瞬間でした。
 その時初めて、「『私』の罪の罰を、『私』が十字架にかかる代わりに『イエス様』が十字架にかかって引き受けてくださったのだ。なんと申し訳ない。なんとありがたいことだろう。」と、その恵みに胸が一杯になったのです。
 イエス様がクリスチャンたち「みんなの主」「みんなの神」から、「私の主。私の神。」となったのです。それで私は受洗の恵みにあずかったのです。
 このように、聖書のおことばを、クリスチャンの全員に語られている教えの言葉として受け取るのではなく、『私』に語られているおことばとして受け取ることが大切だと思うのです。
*わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43:4)
 このみことばも、みんなに語られているのだと受け取るのではなく、『私』に個人的に語られているのだと受け取ることです。
 「わたし」を「神様」と読み替え、「あなた」を「私」または「自分の名前」に置き換えて読んでみると、よくわかります。
 神様は聖書を通し、個人的に愛を語ってくださっておられるのです。
神様はすべてを用意され、聖書を通し愛を持って私たちを個人的に支えてくださる用意周到なお方です。このようなすばらしい神様の愛を、人々に紹介していきましょう。

 

 

 

 

■2015年5月17日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛は情け深い  up 2015.5.17


主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」
(出エジプト34:6〜7)

 

 

 

 今日は、あわれみ深さと情け深さの違いをよく理解して、神様の愛の大きさ、広さ、高さ、深さをさらに知って、人々に紹介できる者となっていくためにお話ししてまいりたいと思います。
 神様のあわれみ深さ、情け深さは、私たちには到底及びもつかないものですが、自分が実行できていなくても紹介することは可能です。
 
 さて、先週学んだ「あわれみ深さ」は、「例外・特例を作り出す」ということでしたね。本来のルールに反しない中での、特別な処置をしてくださることが「あわれみ深さ」に含まれている意味でした。
 私たちはあわれみも情けも同じ感情として捉えがちですが、神様はこれらに相違点もあることを示しておられます。
1.神の情け深さ
(1)ヘブル語の「情け深い」
 英語で(gracious)=慈悲深い、やさしい、親切な、恵み深い
           上品な、優雅な、麗しい
「神の情け深さとは、愛の麗しさの現れであり、愛の栄光の姿である。」
 
 慈悲深さは心の優雅さから出ており、恵み深さは心の麗しさの現れであるというイメージがあるようです。
 情け深さとは、内なる輝きの現れである、と言うことができます。

(2)律法の根底にある情け深さ(出エジプト22:21〜27)
“在留異国人を苦しめてはならない。しいたげてはならない。あなたがたも、かつてはエジプトの国で、在留異国人であったからである。すべてのやもめ、またはみなしごを悩ませてはならない。もしあなたが彼らをひどく悩ませ、彼らがわたしに向かって切に叫ぶなら、わたしは必ず彼らの叫びを聞き入れる。わたしの怒りは燃え上がり、わたしは剣をもってあなたがたを殺す。あなたがたの妻はやもめとなり、あなたがたの子どもはみなしごとなる。わたしの民のひとりで、あなたのところにいる貧しい者に金を貸すのなら、彼に対して金貸しのようであってはならない。彼から利息を取ってはならない。もし、隣人の着る物を質に取るようなことをするのなら、日没までにそれを返さなければならない。なぜなら、それは彼のただ一つのおおい、彼の身に着ける着物であるから。彼はほかに何を着て寝ることができよう。彼がわたしに向かって叫ぶとき、わたしはそれを聞き入れる。わたしは情け深いから。”

A)在留異国人としての苦しい体験をしたのだから、在留異国人に情け深くあるように教えている。
 あたん(関西の方言で当たり散らすことや仕返しを指す)せずに、親切を返す。嫁姑問題などは、典型的な「あたん」と言えます。嫁時代に自分が受けた苦しみを、嫁いびりで発散しているわけです。
 私たちがするべき深い同情とは、「私は苦しみを受けたから、同じ環境の中にある人には同じ苦しみを受けてほしくない。」と、相手が苦しみから逃れられるように助けを与えようとする心です。そのような心を、情け深さと捉えています。

B)頼れる身内のいない者に情け深くしない者には、情けのない事態がおこる。
 弱い者を悩ませることは、大罪なのです。本当に弱い、困っている人に情け深くしないことは大きな罪であることを示すために、みことばにある厳しい裁きを挙げておられます。
 情け深くあることがどれほど大事な事なのかを示しているものでもあります。やもめやみなしごのような弱い立場の方々が、世の中にはおられます。神様は、彼らがそうなった原因については、問題にしておられません。
 神様からあわれまれた私たちならば、彼らをあわれむ心が生まれてくるのは当然ではないでしょうか。健全な心とは、そういう動きをするものなのです。
 皆さんそれぞれが、違う環境にあります。皆さんの目の届く範囲で、ご自分が許されている権限内でいいのです。本当に頼るものがなくて困っておられる方々に対して、情け深さを取り去ってしまわないように気をつけましょう。
 それは、自分が身をもって彼らのつらさを味わうことにならないためでもあります。

C)本当に貧しい同胞からは、利益を取ることを考えてはならない。むしろ、情け深く対応する。
 困っている人に貸したものは、もうあげたものと思ってくださいという意味です。悪意や企みからではなく、まじめに返すつもりの人を邪険に扱ってはいけません。
 教育的指導以外の意味で、家族内での貸金に利子をつける人はそういないでしょう。逆に言えば、人の良心につけ込んで自分の欲を満たすために使うことがないように、私たちは気をつけねばなりません。
 もちろん、悪意のワナにはまらないように気をつけることも大事です。
 以上、「情け深さ」について、3つに分けて律法の中から学んできました。
 イエス様を通して、人生のさまざまな苦しみを、33年間のご生涯を通して十字架上での死まで体験された神様。人々の罪を背負って身代わりに裁きを受けるほどに、私たちの苦しみを負われたイエス様。
 この方は私たちの人生におけるすべての苦しみを、思いみることのできる方です。あわれみ深く、情け深いお方なのです。私たちと同じ体験をされた神様だから、真の共感を得ることがおできになります。
 私たちの苦しみを知り、心から私たちを助け、深い情けをもってあわれみを施すために、イエス様は地上に来られたのですから。こんなすばらしい神様に救われていることを、皆さん、感謝しましょう。

2.『傲岸不遜』から離れる(マタイ18:21〜35)
“そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。
イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。(中略)そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。わたしがおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」”
★『傲岸不遜』(ごうがんふそん)の意味
「おごり高ぶって人を見下すさま。思い上がって謙虚さのないさま。」
 人というものは、少し他人より優れた点があると、すぐ調子に乗って上から目線で他人を見下すようになるところがありますね。
 同じ罪人であるのに、少しの長所を鼻にかける私たちは、みじめな、心の貧しい者です。そういう虚栄心やごうまんさにおちいらないように、私たちは『情け深さ』について神様からしっかりと受けとめ、悟っておくことが必要です。
【内容観察】
「『情け深さ』には限度をもうけてはならない。限度のある『情け深さ』は単なる情けである。また、『情け深さ』を受けた者は、同じように情け深くあるべきである。そうでなければ、注がれた『情け深さ』は取り去られ、すべての負債を返すまで赦されない。」
 赦すことと情け深いこととはよく似ていると私は思います。イエス様が言われた「7を70倍するまで赦す」ことは、「情け深い」ことです。それは、人を赦す動機が情けから来るからです。
 赦す理由にもいろいろあります。自分に何がしかの利益をもたらすために赦す場合もあります。この場合は、利益が得られなくなった時、赦しも消えます。
 しかし、『情け深さ』は利益を考えません。その人の存在そのものをあわれみ、その人を「生かしたい」と思い続ける心が『情け深さ』です。
 ですから、何度失敗しても「もう一度やりなさい」と、チャンスを与え続け、励まし続けます。神さまが私たちの悔い改めを何度でも受け入れてくださるのは、まさに『情け深さ』の現れなのです。
 私たちが滅んでしまわないために、「今、赦されている間に、もう一度やり直して成功するように努力しなさい。」と、赦し続けてくださっています。これが神様の、私たちへの情けであり、愛です。
 私たちは、神様と同じようにはできません。ペテロが言うように7回も赦せたら大したもので、たいていは2回目でもう嫌な気持ちになってきませんか?「あまり赦し過ぎると相手をわがままにしてしまう」と理由をつけて、3回くらいで切ることが多いのではないでしょうか。
 相手の良心につけ込んで悪用するような人は、情けを受ける資格がありませんから、見抜くことが必要でしょう。しかし在留異国人や、やもめやみなしご、着の身着のままの人が助けを求めてきたらどうでしょうか?
 現代の日本ではほとんどの場合、きちんと手続きをすれば生活が保障されていますから、こういう人たちを見ることはめったにありませんが、私たちは本当に助けが必要な人を見捨てないように気をつけなければいけません。
 情けは赦すための動機であるのと同時に、人を見下すことがない心の姿でもあります。相手に共感できる心を持っているのが、『情け深さ』です。
 マタイ伝でのイエス様のたとえ話からわかるように、本来、受けた『情け深さ』は心に宿るものです。これは律法ではありません。
 『情け深さ』を受けた人の心には、自然に『情け深い』心が生まれてきて、他の人に対して情け深くあわれみ深くなり、あわれみを施すことができるようになるのです。これも『情け深さ』の特徴です。
 たとえ話の中で王様は、「あなたも」と言いました。法律的には強制力のない事柄です。王がしもべを赦した事と、しもべがしもべ仲間を赦さない事は「別件」となるのが法律だからです。
 しかし愛は「情けを受けたら情けを注ぐ」のがルールです。つまり私たちの中に「情け」が宿るのです。
 悔いくずおれた状況の中で『情け深さ』を受けると、「ああ良かった。助かった。」と私たちの心が入れ替わります。そして謙虚な心になり、「あの人を助けてあげないと」という心が自然に湧き上がるのです。情け深さのすばらしい点ですね。
 しかし、このしもべは、せっかく心に生まれた『情け深さ』を捨ててしまいました。捨ててしまったことによって、彼が受けたはずの『情け深さ』も帳消しになり、彼は元の借金を抱えたままになりました。
 イエス様は、「兄弟を心から赦さないなら、天の父もこの王と同じようにされる」と言われました。『情け深さ』は、愛にとって本当に大事なものなのです。
 さて、今まで聞いたことによって、『情け深さ』の厳正さをわかっていただけたことと思います。
 『情け深さ』とは中途半端な感情の揺らぎではなく、もっと厳格で公正なものです。受けた『情け深さ』を捨てると、赦しが取り消されるほどの重要な意味を持っています。
 愛の厳格さには、あわれみ深さが基準にあるようです。神様は愛を現される時に、助けが必要な貧しい弱い無きに等しい者に、愛を現すことがおできになります。
 だからこそ私たちはちりで創られ、罪の中に閉じ込められて、助けが必要な者だったからこそ愛を注がれたのです。対してルシファーは立派なもので創られていたので、愛を注ぐ必要がありませんでした。
 私たちが愛に生きるならば、私たちの持てる力をもって、親切や施しをしていくことが必要です。
 ただし、あわれみ深さを悪用されないように、賢く注意してまいりましょう。また自分の力量をわきまえましょう。限度を超えると無責任になり、それはあわれみ深さではありません。ただのかっこつけです。

「礼拝に 情け深さの 風薫る」

 礼拝の中に神様のご臨在が現れます。あわれみ深い神の御霊のご臨在が、礼拝の中に風(ヘブル語では霊・息)として感じられます。皆さんは今日の礼拝で、神様のどんな風を、どんな愛のご臨在を感じられましたか?
 あわれみ深さ、情け深さ、いつくしみ深さ…神のご臨在をこれからも礼拝の中でしっかりと感じながら、私たちもそのあわれみ深い霊を内側にしっかりと宿していくように、心を開いてまいりましょう。

 

 

 

 

■2015年5月10日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛はあわれみ深い  up 2015.5.10


主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」
(出エジプト34:6〜7)

 

 

 

 主なる神様が、まずご自分のことを「あわれみ深い神であり、変えることはない」と宣言されたことは、とても意味深いことです。単なる人間のような、感情によるあわれみではありません。
 天地の創り主、王の王、主の主、一番の権威者、ルール、律法の元であられ、善悪の基準となられるお方、法の番人、裁き主でもあられる方が、「あわれみ深い」とはどういうことでしょうか。
1.神のあわれみ深さ
(1)ヘブル語の「あわれみ深い」
 英語で(compassionate) 日本語で(思いやりのある、特別配慮の)
「神のあわれみ深さとは、特別な配慮を例外的に行う可能性をいつも持っておられるという意味。」
 神様が例外的なことをなされる時は、いつも深いあわれみが表されているということです。

(2)イスラエルに対する例外的な特別配慮(出エジプト32:9〜14)
“主はまた、モーセに仰せられた。「わたしはこの民を見た。これは、実にうなじのこわい民だ。今はただ、わたしのするままにせよ。わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がって、わたしが彼らを絶ち滅ぼすためだ。しかし、わたしはあなたを大いなる国民としよう。」しかしモーセは、彼の神、主に嘆願して言った。「主よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から連れ出されたご自分の民に向かって、どうして、あなたは御怒りを燃やされるのですか。また、どうしてエジプト人が『神は、彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ。』と言うようにされるのですか。どうか、あなたの燃える怒りをおさめ、あなたの民へのわざわいを思い直してください。あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを覚えてください。あなたはご自身にかけて彼らに誓い、そうして、彼らに、『わたしはあなたがたの子孫を空の星のようにふやし、わたしが約束したこの地をすべて、あなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれを相続地とするようになる。』と仰せられたのです。すると、主はその民に下すと仰せられたわざわいを思い直された。”
 イスラエルの民がエジプトを出た後、神様はシナイ山で石の板に刻まれた十戒を与え、神の民としてのしるしをお与えになりました。
モーセが四十日四十夜留まっていたシナイ山は、神が下りて来られ、雷が鳴り響き、黒雲が覆い、かまどの火が赤く燃え上がるように煙が立ち上るという、超自然的現象が起こっていました。
 それらを目にしながらも、一向に下りてくる気配のないモーセを「どうなったかわからない」と言ったイスラエルの民は、金の子牛を自分たちの神として造り、お祭り騒ぎをしました。
 奇跡を見ながらも別の神を作り、お祭り騒ぎをする彼らは、モーセに従って来ても結局、自分たちが楽ができるように助けてくれる神としてしか見ていなかったのです。
 神がイスラエルの民をそう呼ばれた「うなじのこわい民」とは、自分たちの思い通りになるように態度をころころ変え、善を悪へと恩を仇で返す裏切り者です。このようなイスラエルの民を生かしておくにはふさわしくない罪深い民族として、神様は絶ち滅ぼし、モーセをイスラエルに代えてアブラハムの代わりとし、その子孫を祝福することを決められました。王が一度決定されたことを変えるためには、もっと大きな考えや出来事が必要であり、実際取り消すことができないと言っていいほどの王の権威と責任があるわけです。
 さて、この後モーセは神様に嘆願しています。嘆願という言葉が表しているように、モーセは必死で神様が決意されたことを変えていただくようにお願いしました。心砕かれたモーセの心からのとりなしがなされています。
 神様が思い返された一番の理由は、名前に傷がつくとか約束を破るとかでなく、モーセが「あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを覚えてください。」と語ったことばにあります。とりわけアブラハムは神の友と呼ばれ、愛、信頼関係、尊敬し合い、大事にし合う存在として認め合う間柄でした。そのアブラハムと交わした「彼の子孫を祝福する」約束を思い出され、その子孫であるイスラエルの民が「うなじのこわい民」でありながらも、アブラハムの故に深いあわれみを持たれ、「彼らが悪いから裁いてしまうことは、あまりにもあわれみがない。アブラハムの故に彼らを助けよう。」との思いを持たれ、下すとされていた災いを思い直されたのでした。
・厳密な方が例外を設けられた
・思い直される方〜あわれみ深い神
 神様が決められたことを変えられるのは、唯一、あわれみ深い愛があられるからです。あわれみ深さだけが特例を作ります。
・特例を作られるあわれみ深い神
 それは、救いたいという愛の現れです。愛しているから深くあわれむことがおできになるのです。

(3)特別な配慮の動機(申命記7:7〜8)
“主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。
しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。”
 人は自分の価値観に合い、高い評価を持てるものを恋い慕います。
神様は無条件に、存在そのものを恋い慕われる方です。イスラエルの民を特例として深いあわれみを施されたのは、イスラエルの民の存在そのものを、神は愛されていたからです。だから、罪によって滅ぼしたくはなくても裁かざるを得ない状況で、モーセのとりなしによって、神様の心に湧き上がってきた深いあわれみによって思い直されたのでした。旧約聖書には、神のあわれみ深さが豊かに表されています。

2.愛による『霖雨蒼生』(エペソ2:3〜6)
“私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながらに御怒りを受けるべき子らでした。
しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に沈んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、ーーあなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。ーー
キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。”
★『霖雨蒼生』(りんうそうせい)の意味
「苦しんでいる人々に、救いの手を差し伸べること。また、民衆の苦しみを救う慈悲深い人のこと。」
 私たちは罪の裁きを受けて滅びることが決定していましたが、神の豊かなあわれみによって決定がくつがえされ、特例として私たちに裁きを下すことを中止されました。
【内容観察】
「私たちもみな、神の愛を信じる以前は自己中心で、肉の欲を満たすことに熱心な、生まれながら神のさばきを受けるべき者でした。しかし、大きな愛をもって私たちを愛してくださり深くあわれんでくださった神は、的外れの人生を生きていた私たちを神の愛と一つにし、死よりも強い愛によって、霊においてはすでにキリストと同じ王座に着かせてくださったのです。
これは、私たちの状態にかかわらず、神のあわれみ深さによるのです。」
 神様は罪のために深く苦しみ、死刑が確定していた私たちを、救い出したいと救いの手、愛の手、あわれみの手を差し伸べられました。⇒「霖雨蒼生」
 そこまでされる理由は、愛しておられるからです。逆に、愛していなければ深いあわれみは湧き上がってこないとも言えます。あわれみの思いを感じても、生活を変えてまで行うには、それ相応の深いあわれみがなければできません。例えば生活費4万円をまるまる貧しい人に施すことは、特別な配慮です。施した相手への愛を持っていなければ、そのような大きなあわれみは湧いてこないはずです。人でも自分が決めたルールを変更してまであわれみの行動をとることは、なかなか難しいことです。神様からすれば、罪を犯した者は死をもって償うというルールを変更しようとするようなものです。
 義なる神様は、罪をそのままにして赦すことはできません。罪を犯したあなたを裁いたのでは、あなたは滅ぶしかありません。そこで、特別な配慮として、「身代わり」という例外を一度だけ作られました。あなたの罪を負って罰を受ける身代わりの人が出てきたら赦されるという、律法に反しない例外を作られました。罪を処分して、裁かれるべき人が赦されるというものです。罪の赦しの代価が低ければ、罪の赦しは起こりません。特例はルールに勝る強い力が必要で、それを愛と言います。
 ヤコブ書には「あわれみはさばきに向かって勝ち誇る」とあります。すなわち愛の方がルールより優先するということです。この愛は、義なる神の愛が条件です。今までの律法になかった新しいルールが新約です。旧約は行いによって救われ、新約は神の愛を信じる信仰によって救われます。そこには人類の罪を赦せる価値ある代価が必要であり、神自らが裁きの身代わりとなるため、地上に来られ、神ご自身のいのちをもって、すべての罪人のいのちを赦すことのできる代価となられたのです。「ここに愛がある」とヨハネが言いました。
 新約聖書の新しい契約は、律法からすれば例外です。皆さんは、この特例を施されているのです。(特別扱いを受けるには、何らかの深いつながりがあると言えます。)神は「いけにえよりもあわれみを好む」と言われました。あわれみのない人には、あわれみのない裁きをされると、ヤコブ書に書いてあります。それくらい、神様にとってあわれみは大事なものです。このあわれみは、特別な時に湧き上がってきます。
○神様が私たちにあわれみの心を起こされる特別な時とは?
・私たちは土のちりで創られた〜
 肥料でさえもないちりに、神様はご自分の息を吹き込まれました。体は無価値でも、神様の息を吹き込まれた人間を、神様は天使よりも優れた者と見なされました。
・生まれながらの罪人というレッテルを貼られた私たち
 神様は、存在価値がなく救い用がない私たちを、ご自分のかたちに似せて創られました。似てはいても役に立たず、その上罪を犯していて価値がない私たちだからこそ、神様は深いあわれみを持たれたのです。創られたものの中で最も美しかったルシファーには、あわれみを持つ要素がなかったのです。対して、最も無きに等しい者である人間には「あわれんであげなければ」と思われたのです。このあわれみは、律法よりも優れた力強い存在で、律法の中に特例を起こさせる力を持っています。このあわれみが、無きに等しい私たちに注がれるために、私たちはちりで創られ、罪の中に閉じ込められたのです。うなじのこわい民だからこそ、神様のあわれみが豊かに注がれているのです。能力、容姿その他の要求1つとして、神に愛される条件には入っていません。ただ存在そのものをあわれんで愛しておられるだけです。このような観点に立って、私たちは人の悪い所を批判してはいけません。できるできない、あるなしで自分を過小評価しないように。評価の基準は自分が作っただけで、神様はその基準は必要なく、ともかく「わたしはあなたを愛している」「だからあなたを深くあわれむ」と言われるのです。
【参考】(第1コリント1:26〜30)
“兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。”
 「あるものをない者のようにする」とは、この世の価値観ではゼロに等しい人に、神のあわれみが注がれることによって、存在価値がぐっと上がるということです。あるもの、すなわち優れたものを持っている、必要なものが整っている人には、神のあわれみが注がれる必要がなく、無に等しいことだという意味です。
 どんなに持っていても神様にあわれみを受ける秘訣は、「私は土くれの、無きに等しい者です。あなたさまの恵みによってこの能力、力が与えられました。私のものではありません。私はちりであり、ゼロです。」と、へりくだることです。そうすれば持っているものによらず、その人の存在は神の前に高く評価されます。決して能力のある人を否定しているのではありません。能力・才能があり成功し続けた人には、神のあわれみを拒絶する高慢な心が、無意識にできてしまうことを言っているのです。ですから、(:29〜31)にあるように、誇れるものは一つもなく、すべて神から与えられた賜物だと悟ることです。すなわち、神こそ創造者であり主権者だと認めることです。どうぞ、神のあわれみが私たちに大きな存在価値をもたらすことに気づいてください。
 今、苦しみ悩み、神に見捨てられたようなどん底にいるような人こそ、神はあなたを深くあわれんでくださっています。特別な配慮をされます。神に求めなさい。心を開きなさい。特別なことをしてくださることを、信じて待つことです。「神様、私はあなたのあわれみに頼るしかありません。」と。そのような記事が詩篇にたくさん出てきますが、人は律法によっては神の祝福を受けることができず、あわれんでいただくしかないと、旧約の詩篇の作者は悟っていたのでしょう。ある程度できている人が、自分より先に祈りが聞かれる人を見てねたむのは、高慢があるからです。神は悔いくずおれた魂の祈りに耳を傾け、その人に一番近くおられます。

【デボーション参考ポイント】
★イスラエルの受けた特別配慮を通して、私たちも深いあわれみを受けて いることを思い見ましょう。
「特別な 深いあわれみ 母の日に」
 今日は例外の日として、特別に、お母様方に、普段の労苦がいやされるような一日としてあげてください。

 

 

 

 

■2015年5月3日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 なくてはならない愛  up 2015.5.3


たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
(第1コリント13:1〜3)

 

 

 

 否定的な受け取り方をしてしまいがちなみことばですが、「愛を紹介することの大切さ」を学ぶために、愛を知ることが必要です。
 私たち罪人は、神様の愛のおかげで生かされています。イエス・キリストに現された神の愛を信じることによって、今もこの地上に生きることができているのは、神様の愛の恵みのおかげです。これがなければ、私たち罪人には何の希望もありません。
 ある人が和菓子屋さんに買い物に行きました。すると、和菓子屋のおばあちゃんが、籠いっぱいのかぼちゃをくれると言うのです。
 聞けば、畑になっている野菜を、サルたちが取っていってしまうとのこと。番犬も飼っているのですが、サルたちは頭が良いので、番犬をつなぐ鎖の長さを知ると犬が届かない距離から畑に入ってしまい、手に負えないのだそうです。
 「この間も畑でサルに会ってねえ」「それで追い払ったんですか?」「いやそれが両手にカボチャを抱えて、私の方におじぎしますねん。ありがとう、すいません、いただきますって。」続けて「たぶん家に帰ったら子どもがいますんやろな。せやから、私もつられておじぎしてしもうたんや。しゃあないなあ思うて、そのかぼちゃは差し上げることにしましたんや。」人とサルの間でも愛を感じると、相手の言葉が聞こえてきて、あわれみを施し、腹が立つような悲しいことにも、優しさを失わずに対処できるようになるものです。
 私たちも、普段自分には愛がないなと嘆くような者ですが、ふとした時にあわれみが湧いてきたりします。そのような素直な思いを表現していくことができるように、神様の子として幼子のような心で、神様の愛に歩んでいきたいと思います。

1.『愛』の位置づけ
(1)(第1コリント13:1)
“たとい、私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。”
【内容観察】
「聖霊のバプテスマを受けたしるしである異言を語ることができても、愛がないなら、いのちのないただの物質にすぎません。」
 異言とは、他民族や他国の言葉で自分には理解できないものを指します。人の異言は他民族や他国の、御使いの異言は御使いたちの言葉です。私たち自身は知らないそれらの言葉を、聖霊様の奥義によって語るのです。
 しかし、そんな超自然的な体験をしたとしても、愛がないなら、どらやシンバルのような他の音を消し去ってしまう大きな音の楽器のようだと言うのです。
 どらやシンバルをむやみに叩くことは、激しい自己主張をする人に似ていますね。これは周りとの調和を乱しますので、節制が必要です。
愛があるならば、周りのことを考え、いつ鳴らすべきか、どのように鳴らすかをわきまえます。

(2)(第1コリント13:2)
“また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。”
【内容観察】
「超自然の精霊の賜物を働かせることができても、愛がないなら、神の前に無価値なものです。」
 神様から授けられた超自然的な力を働かせることのできる信仰を持っていても、愛がないなら「無価値な優れたもの」になってしまいます。本来の機能を生かせば価値あるものであるのに、間違った使い方のゆえに無価値になってしまうものがあります。皆さんもそれぞれ、同じような経験がありませんか?
 たとえば最近はスマートフォンが流行っていますが、年配者用の簡単な使い方を説明してあっても、年配者には難しいものです。むしろ4〜5歳の幼児の方が使いこなすことも珍しくありません。
 どんなに優れた機能を持っていても、持ち主たる年配者が使いきれないのでは、無価値な優れた物になってしまいます。
 私たち人間も神に似せて創られた者であり、優れた存在なのですが、愛に代わって貪欲が心を支配するようになってから、無価値な優れたものになってしまいました。
 愛と貪欲は間違いやすいものです。神を畏れないこの世の人々は、欲求をかき立てるようなものを作っていきます。それに価値を見出すのです。
 この世の人は欲を基準として価値観を考えます。彼らにとって欲のない人生は無価値なものです。欲を満たしてこその人生、欲を満たせないなら、それは死んだ人生だと彼らは言います。
 さらに、クリスチャンがいう愛も、他人を愛することによって自分のうちに愛を満たそうとするのだから、欲と変わらないのではないかと、世の人は言います。
 彼らの欲と私たちの違いは健全であるかどうかです。この世に属する欲は貪欲であり、限度を知りません。次から次へと新しい満たしを求めて追求は続き、周りを傷つけ壊しても止められません。
 価値あるものが優れたものとなるためには、愛が必要だということに気づくことが必要だと思います。

(3)(第1コリント13:3)
“また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。”
【内容観察】
 「愛のない善行は、神の前にはむなしいものです。」
 一見すると「隣人愛」であり、何が違うのかといぶかしがる方もおられると思います。しかし人間が考える愛と、この(:1〜3)で語られている「神の愛」は違うようです。
 愛が動機となった欲と、欲が動機になった愛との違いを見分けることは難しいものです。ですが「愛」が動機である場合は、「神の前に節制ができる」欲になります。なぜなら、この「愛」は私たちの感情的な愛ではないからです。
(ヘブル1:3)“御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。”
と、あるように、神様の本質は愛であり、イエス様ご自身でもあられます。聖書で言う「愛」とはイエス・キリストに他ならないのです。
 この「愛」には人格があります。この愛は物事をきよく正しく受け止め、すべてを健全な状態に働かせるように動きます。
 「私たちが人にあわれみを感じたとしても、そのあわれみの根底に神を畏れる敬虔な心がなければむなしい」と、正確にみことばを読み取ることが大事ではないかと思います。
 ノンクリスチャンの方でも、私たちよりも立派な方はおられます。私たちよりも立派な方が、なぜ救われないのでしょうか?
 マイクロソフト社の創始者ビル・ゲイツ氏は、年収の9割を慈善活動のために使っているそうですが、年間40億ドル以上(2006年度)もの収入があったなら、私たちも思い切ったことができるのではないでしょうか。今の私たちには彼のような大金は使えませんが、神を畏れる心から少しでもささげるなら、金額の多少に関わらず、その動機から、神は私たちを評価してくださいます。
 「神を畏れる心を持ったあわれみ」とは何なのでしょう。私たちは今もこのことを学び続けている途中です。それは一度でわかりきることはできず、人生すべてをかけて学ぶものです。
 神様が私たちに現された「愛=イエス・キリスト」を知ることが、「神の愛を知ること」です。そして、この「イエス・キリストを知ること」は「永遠のいのちを得ること」でもあります。キリストは神の永遠の愛そのものである方だからです。
 この地上の言葉では、神様の愛全部を表すことは不可能なために、イエス様は私たちに愛そのものを見せてくださいました。
 神を畏れない愛では、「醜い善行」になってしまいます。私たちは本当に、この点をよく悟っておかなければなりません。善行という行いだけで、人の良し悪しを測ってしまわないように気をつけましょう。
 ただ、「良いものは必ず『愛』によるものだ」とは言えます。「愛」が、すべての存在に価値をつけるのです。あなたの現実生活においてそれを見出し、謙虚な、敬虔なクリスチャン生活へと導かれていただきたいと思います。

2.『一日九遷』(イザヤ43:4)
“わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。”
★『一日九遷』(いちじつきゅうせん)の意味
 「主君の寵愛を一身に受けること。それによって一足飛びに九段階も昇進すること。出世が早いこと。」
 創世記に出てくるヨセフは、無実の罪で囚人にされましたが、エジプトの王パロの夢を解き明かしたことで、一躍囚人の立場からエジプト全土を治める大臣になりました。
【内容観察】
「わたしはあなたを愛している。だから、わたしの目には、あなたの存在は尊く高価に見える。すべての人はみな罪人である。あなただけが何か特別なものをもっているから尊く見えるのではない。あなたを愛しているから高価で尊く見えるのである。」
 愛があると、他の人にどう見えようが、当人の目にはすばらしいものに見えます。私たちはどれほどの『一日九遷』を神様にいただいていることでしょう。
 まず、罪人なのに義人とされています。180度逆の取り扱いですね。さらに滅ぶべき者であったのに、永遠に生きる者とみなしてくださっています。罪の奴隷の身分であったのに、神様の私たちへの愛のゆえに御国の相続者とされたのです。
 私が天使の位置にいたなら、「なぜあんな者たちを優遇されるのか」と、抗議したかもしれません。放蕩息子の兄の気持ちに似ています。「彼は父の財産を湯水のように使い果たし、こんなボロボロの姿になって帰って来たのに、父よあなたは彼を赦すのですか?私の友人が訪ねて来た時には子山羊一匹くださったことがないのに、彼のことは祝い、また相続者の立場に戻すのですか。」と。
 さしずめ、「神様、貪欲の奴隷になって好き勝手している人間などを、あなたの永遠の御国の相続者にしてしまえば、あなたの財産を食いつぶしてしまいますよ!」といったところでしょうか。神に対して従順な天使たちの方が、よほど天国にふさわしい者です。もちろん神様にお仕えしている天使たちはわきまえがありますから、批判など心の隅にも浮かびませんが。
 しかし、サタンと一緒に落ちた闇の天使たちは、私たちが受けている愛のゆえに、私たちを非常に憎んでねたんでいます。土のちりで造られた人間が、誘惑に弱いこの人間が、すばらしい神の国の相続者だなんて!と歯噛みをしています。
 皆さん、私たちはどれほど特別な境遇の中に置かれていることでしょう。これを忘れてはいけないと思います。しかもその理由は、「ただ愛しているから」という、この一点にかかっているのです。なんの条件もなく、ただ神が私たちをいとおしんでくださっているその愛のゆえに、こんなことがなされているのです。すごいですね、感謝ですね。
 あなたは自分が無きに等しい者であることに失望するかもしれませんが、それでも神様の愛は変わらずあなたに注がれていることを、いつも思い起こして元気を取り戻していただきたいと思います。
 愛ゆえに、私たちは全被造物の中でも最高の待遇を受けている、ということにぜひ気づいてほしいと思います。
 ルシファーは罪を犯して永遠の滅びに行きました。対して人間は、罪を犯したのに無条件で赦され、神の国に行くことができます。ただ一つ、イエス・キリストを信じるだけで罪が赦されるのです。
 「不公平」と思われますか?この法律さえも超える力が「愛」にはあるということを、神様は私たちに示しておられます。「愛」とはそういうものなのです。
 聖書が語っている「愛」を、もっと私たちは実感し、満たされましょう。自分の至らなさを見るクリスチャン生活ではなく、神に愛されている自分という、神様の目から見た自分自身をしっかりと受け止めていただきたいと願っています。
「新緑の 神の寵愛 受けとめて」
 この季節、山の木々は生命力にあふれ、木々のかたちがそれぞれはっきりと盛り上がって見えます。木々の間を歩くと、すがすがしい空気のせいか、こちらまでリフレッシュされます。
 新緑を神様の寵愛になぞらえて、今日も明日も明後日も、永遠に新緑のような新鮮で生き生きとした神様の私たちへの特別な愛を、私たちは受け止めて、しっかりと信じて歩んでいきます。