■2015年4月26日 日曜礼拝メッセージより(横路伝道師、小栗伝道師)

 愛を紹介する5  up 2015.4.26


こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。
(第1コリント10:31)

 

 

 

【横路伝道師メッセージ】
1.赦しの愛に生きる(ヨハネ8:7)
“あなたがたのうちで、罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。”
 イエス様は早朝宮に入られると、多くの人々が集ってきたので、彼らに教え始められました。そこに律法学者とパリサイ人が姦淫の場で捕えられた一人の女を連れてきて、イエス様にワナをかける意図を持って質問しました。
 
「モーセの律法によれば、こういう女を石で打つ死刑にするよう命じていますが、あなたは何と言われますか?」
 あわれみ深いイエス様が女を赦せと言えば、律法に反することを言うと非難し、律法どおりするように言えば、ローマの支配下にあった当時、勝手に人の処刑を許可した者と訴える口実とするワナであったのです。
 
 イエス様が彼らに「さあ、どちらかに答えよ。」と詰問された時に答えられたのが、“あなたがたのうちで、罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。”という返事でした。
 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて一人一人出て行き、イエス様とその女が残されました。
 
 それでイエス様がその女に、誰も彼女を罪に定める者がいなかったことを確認され、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは罪を犯してはなりません。」と彼女を赦し、解放されました。
私たちは、この女のように、神様から赦しを受ける必要のある罪人であり、この律法学者パリサイ人のように自分の罪を棚に上げて、人の罪を責める心がある者です。
 
 しかしイエス様は罪をそのままにされるのではなく、その罪をご自身で負われ、十字架につけられ、その代価(刑罰)を死をもって支払われ、私たちを罪に定めず、生かしてくださったのです。
“神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、…私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの債務証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。”(コロサイ2:13b〜14b)
 
 イエス様は、赦しの愛に満ちたお方でした。愛そのままの生き方を、私たちもしたいものです。(第1コリント13章)には、愛とは何か、どのようなものであるのかを書いてあります。
“愛は寛容であり…怒らず、人のした悪を思わず、…すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。”
(第1コリント13:4〜5b、7)
 
 イエス様は寛容な心で私たちを赦し、私たちを怒って罰することをせず、私たちのために身代わりとなってくださいました。私たちの失敗や罪をがまんし耐え忍んでくださり、私たちの将来を信じ期待してくださる愛に満ちたお方です。
 
 戦後の日本で混血孤児を救うために人生をささげた、澤田美喜さん
という方がおられました。私財を投げうち、孤児たちのミルク代を求め、募金を集めて歩くことが多かった方です。
 
 時には、夜、居酒屋にまで行って、客に募金を懇願したそうです。ある12月のクリスマス前の夜のことです。一軒の酒場にミルク代を乞いに行った彼女に、酔っぱらいの一人が酒の入っていた器を投げつけたそうです。「人がいい気持ちで飲んでいるのに!とっとと行ってしまえ!」と言いながら投げたその器は、彼女の額に当たり、血が流れ出ました。
 
 居合わせた客たちがどうなることかと見守っていると、澤田美喜さんは、「ありがとうございます。これはあなたから私への贈り物としていただいておきます。ところで、孤児たちには何がいただけるでしょうか?」と言ったというのです。これを聞いた時、その場にいた人々から感嘆のどよめきが起こり、一人一人が自分の財布から取り出したお金を彼女の前に置いて店を出て行ったそうです。
 クリスチャンであった澤田美喜さんの、孤児に対する愛の深さは、2000人の孤児を養い助けました。彼女は、彼ら孤児たちの母となったのです。
 
 私たちは自分の力でこのような愛に生きることはなかなか難しいことです。御霊によらなければ、赦しの愛に生きることは難しいのです。
“私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。”(ガラテヤ2:20a)
 
 古い、自己中心の心を十字架につけ、新しく生まれた者として、内住の御霊によって生きることです。イエス様の赦しの愛に生きるために、御霊を求め、御霊に聞き、御霊に導かれ、御霊に従う時、私たちは愛に生きる人に変えられるのです。

【小栗伝道師メッセージ】
2.愛は道を知らせる(イザヤ40:3)
“荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。」”
 
 神様の愛は、私たちに道という人生を示しておられます。イザヤが預言を行った時代、イスラエルの国は神への不従順を重ねた結果、バビロンに捕囚として連れて行かれ、自分たちの国が無くなっていた大変な不安定な時代でした。
 ところが(40章2節)には、「今までの労苦は終わり、罪が赦されてあなたは神様の愛によって解放され、新しい人生が開かれますよ。」と書かれています。
 
 神様が私たちにお知らせになる目的は、大切なことであり、罪人を愛しておられるからこそ、ぜひ聞いてほしいことだからです。神様はここでエルサレムだけでなく、私たちに「苦労し、捕えられた人生は終わり、今は恵みによりあわれみにより、新しい人生に入っています。神が移しました。」と語ってくださっています。

 (:3節)は新約の時代にバプテスマのヨハネが語ったことを預言しています。神様は語られたことを必ず実現されるお方です。聖書に書かれてあること、神様のご計画で導かれていることは、必ずなります。事実、この後イスラエルの国は、異邦人のペルシャの王クロスによって、捕囚から解放されました。ですから、私たちに計画を持っておられる神様は、実際にはまだ起こっていなくても、あなたを解放したと語っておられるのではないでしょうか。
 
 バプテスマのヨハネは、イエス様が公生涯に入られる前に「主の道を整えよ」と荒野で叫びました。私たちも、やがて来られる神様が通られるにふさわしい道を整えるように語られているのではないでしょうか。石ころを取り、穴を埋めるように、平らにするように、と。
 
 道を人生とするならば、罪人の私たちの人生を通して、神様は栄光をお現しになろうとしておられるのだと。

◎自分の道を調べる(詩篇139:24)
“私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。”
 神様がお通りになるのに不要なもの、妨げているものはないかと調べます。みことばの「傷ついた道」とは、他の訳の聖書では、「悪者の道(悪い考え〜愛し合うことをしない)」「迷いの道(神様と世の中の間で迷う)」「神を悲しませる道」とありました。道を調べる時に、神様の前に心を開いて、神様に対して、対人関係においてどうなのかを語る必要があります。表面に出てくる行動の根拠となっている思いを見て、今は恵みの日、救いの時、赦しの神の前に悔い改めることが、道を調べ整えることです。

◎主の道を整える(ヨハネ14:6)
“イエスは彼に言われた。「私が道であり…。私を通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」”
 イエス様は、十字架にかかられることによって、父なる神様と私たち罪人がつながる道を作ってくださいました。本来戻るべきところである父なる神様のところに、罪を犯した私たちが戻れるのは、イエス様の贖いなくしてありません。私たちが天の御国に帰ることこそ、父なる神様の願いであられます。

 バプテスマのヨハネが語った「主の道を整えよ」とは、私たちが今どのような状態であれ自分のところに帰って来るように叫ばれている神様の悲痛ともいうべき声です。十字架がそれを現しています。これを信じる人は、イエス様を通して戻ることができます。この世での成功、賞賛は一過性ですが、天の父は私たちを賞賛し、招き続けてくださっています。
 
 自然界でも、鮭は、間違いなく自分が生まれた川の上流にさかのぼっていく習性があります。本来の輝いたうろこは、上って行くにつれてはがれ、黒ずんでしまいます。そして上流で卵を産んで死んでいくのです。かえった卵は上流に留まらず、川を下っていきます。まるで私たちが新しい人として新しい人生を与えられたかのようです。
 
 召天されたオンヌリ教会のハ・ヨンジョ先生は、罪人である私たちが「道のない所を歩いている」と表現されていました。世の闇の中にいて、自分がどこにいるのかもわからない状態ならば、もう一度「これが道だ」と言われたイエス様の愛の光によって、自分の位置を照らしていただく必要があるのではないでしょうか。
 
 その愛の光は戒めであり、みことばです。これなくしては、私たちは手探りで真っ暗な中を歩んでいるようなものです。
(箴言3:6)“あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。”
 主を認めるとは、主に主権をお渡しすることです。決して同等の関係ではなく、「主よ、私の人生にあなたが働いてください。」と。イエス様の十字架によって赦された者、あわれまれた者として、主を心に認めていく限り、傲慢になることはありません。
 
 今は曲がっていたり、障害物があったりしても、「主よ、このようなあなたに喜ばれないものがありましたね。」と気づかせてくださり、主がその道をまっすぐにしてくださいます。八方ふさがり、四面楚歌の状態でも、主は間違いなく愛し続けてくださり、共におられます。
 
 また聖霊様は、私たちと共に歩んでくださっていますが、私たちの側で無視してしまっていることがあります。聖霊様は、私たちが聖霊さまに語ることを待っておられるのです。「私の歩みがあなたの喜ばれる歩みとなるため、道を整えるため、へりくだりの心を神の前に導いてください。」と願うことが、主の道を整えることにつながっていくのではないでしょうか。

★毎日、自分に与えられた主の道を整えてまいりましょう。

 

 

 

 

■2015年4月19日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛はいのちの水の川  up 2015.4.19


この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水がはいると、そこの水が良くなるからである。この川がはいる所では、すべてのものが生きる。
(エゼキエル47:9)

 

 

 

 ここ数年、毎年のように入学式を紹介される学校がありますが、皆さんご存知ですか?それは宝塚歌劇団の養成学校です。この学校のモットーを聞いて、私たちクリスチャンも実行したいものだと思いました。
 それは「きよく、正しく、美しく」です。霊においてきよく、心は正しく、からだが健康で行動が美しいとは、むしろクリスチャンのモットーにしたい言葉だと私は思いました。宝塚ではこの言葉を目標として、ノンクリスチャンの方々が徹底的に学び、訓練しているのです。
 私たちはなおさら、「イエス様のようにきよく、正しく、美しくありたい」と願って歩んでいきたいものですね。

 もし天国が、先ほど話しました宝塚の養成学校のように厳しい受験倍率だったなら、私たちはとても入ることができないとあきらめていたでしょう。
 しかし、天国はいわゆる落ちこぼれの罪人に対して開かれています。私たちの努力でなく、すべてのものを生かす水の力が、私たちを生き返らせてくださるからです。
 自分の力ではないからこそ、私たちは希望を持つことができます。あとは受け入れるか否かだけです。
 「罪に汚染された魂を浄化できるのは、神の愛だけである」というのが、今回の主題です。
 この世界は罪に汚染され、貪欲をかき立てては心を汚していきます。この世は「きよい」ことを嫌います。
 もちろん、ノンクリスチャンでも、「きよい」ことを喜び、そうありたいと実行していく人々はいますが、能力的に優れている人でなければ成功は難しいものです。残りの人は「この世界では仕方がない」とあきらめるしかありません。
 
 しかし、神様は「きよく」なることができるように、罪人に救いを与えてくださいました。神様にすがるなら、すべての人が希望を持つことができるのです。
 いのちの水とは、神の愛です。

1.『枯樹生華』(エゼキエル47:1、9)*一部新共同訳使用
“彼は私を神殿の入り口に連れ戻した。すると見よ、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、東の方へ流れていた。神殿の正面は東に向いていた。水は祭壇の南側から出て神殿の南壁の下を流れていた。
この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入る所では、すべてのものが生きる。”

★『枯樹生華』(こじゅせいか)の意味
「枯れ木に花が咲く意から、非常な困難のさなかに活路を得ること。また、老い衰えた人が生気を取り戻すたとえ。」
 奇跡的な何らかの出来事が起こって、枯れ木が変わったということになります。
 神のいのちの水の川が私たちの人生に流れ来るならば、枯れていた人生が生かされ、花が咲くようになるのです。
 
 いのちの水は、神殿にある祭壇の下からあふれ出しています。祭壇とは何でしょうか?キリストの十字架です。
 イエス様の十字架は、私たちの罪を贖うためのいけにえでした。
(第1ヨハネ2:2)
“この方こそ、私たちの罪のためのーー私たちの罪だけでなく全世界のための、ーーなだめの供え物なのです。”
 いけにえは、神の怒りである裁きを鎮めるためにささげられるものです。祭壇は神の怒りを鎮めるための場所です。私たちは人の心をなだめたり、喜ばせたりするために贈り物を携えていくことがよくありますね。その贈り物の内容によって、相手の気持ちが左右されることもよくあります。
 
 では、神様への贈り物はどんなものが良いでしょうか?
 私たちは罪人です。罪人の贈り物は全部汚れているので、神様に受け入れていただくことができません。私たちにできることは何もないのです。
 そこで神様は、ご自分でなだめのささげ物を用意されました。人のかたちをとった神ご自身、何一つ罪汚れのない神のひとり子イエス・キリストです。罪人への正当な裁きを、神ご自身の身を裁かれることによって止められたのです。
 そのような大事な存在を、人の罪の代価として十字架につけて、いけにえとされたのはなぜでしょうか?それは私たちを愛してくださっているから、としか言いようがありません。
 愛して止まないからこそ、それほどの犠牲を払っても私たちを救おうとしてくださったのです。十字架には神様の愛が現され、十字架には神様の愛が存在しています。
“私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。”(第1ヨハネ4:10)
 神様がご自身の正当なる怒りを止めるために、自ら用意されたいけにえ。だからこそ、ここに愛があるというのです。私たちを愛していなければ、こんなことはできません。
 祭壇は十字架を表し、そこから流れ出る水はイエス様が流された血を表しています。この血は、神様の愛なのです。
 神様の愛はいのちの水の川となって流れて行き、愛が流れ込む所はどこでも、すべてのものが生きるようになります。
 水はいのちを養うために絶対必要なものであり、私たちは水から離れることはできません。
 「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るひとつひとつのことばによる」と書いてありますが、その前に水が必ず必要になります。神の愛なしでは、みことばを食べるどころではないのです。

【デボーション参考ポイント】
★新約時代の私たちにとって「この川の流れ行く所はどこでも生きる」ということは、どのようなことでしょうか?

「本物であり唯一の祭壇である、十字架の贖いのみわざから流れ出る神の愛にいつも感謝し、神の愛に生きる。」

 皆さんもぜひ、ご自分の言葉でまとめてみてください。何を感じたか、何を決意させられたか、この一週間のデボーションのテーマとして、深く考えてください。
 私たちは誰でも、愛され、包まれ、いやされたいという願いを持っています。そして、神様は罪人である私たちを責めることはされず、まず愛をもっていやしてくださいます。
 いやされる前に「悔い改めよ」と言われても、それはできないことです。いやされ、落ち着いて冷静になってから、自分が悪かったことを認めることができるのが普通ではないでしょうか。
 神様はまず、私たちに愛を注いでくださいました。いやしてくださった後に、神様の愛とあわれみのうちに、自分の罪深さを認め、心からへりくだって悔い改めることができるようになっていくわけです。
 今の時代は、神様の愛の川が注がれており、私たちはそれを受けることができるという幸運な状況です。特に礼拝においては、講壇という祭壇から、いのちの水が噴き出しています。

 この会堂の壁を赤い線が走っていますが、これは真理の帯であり、神が真理であられることから考えると、真理は愛であるということになります。
 会堂全体をいのちの水の川が覆っているのです。教会に来れば、いのちの水の働きにより、あなたは良くなるのです。霊も、心も、体もきよくされます。

「黒潮は 漁師の宝庫 いのちの水」
 
この季節、北上してくる黒潮には、黒い真珠と呼ばれるクロマグロを始め、多くの魚群がいます。

「主の血潮 群がる魂 いのち得る」

 同じように、主の血潮の中に浸る多くの魂は、いのちを得て生き生きとするのです。

 

 

 

 

■2015年4月12日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛の挨拶  up 2015.4.12


その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」
(ヨハネ20:19)

 

 

 

 今日は、よみがえられた後のイエス様の行動を見てみましょう。
イエス様は、当時ユダヤ教の異端として非難されていましたので、弟子たちはイエス様が亡くなられた後、自分たちを守ってくれる人がいないとユダヤ人を恐れてじっとしていました。戸も窓も閉め切っていたそんな中に、イエス様が突如お現れになったのですから、弟子たちはびっくりしたことでしょう。
 恐怖が入り混じったそんな弟子たちへのイエス様の第一声は、「平安があなたがたにあるように。」
 この言葉は、ヘブルの習慣では「シャローム」というあいさつの言葉として多く用いられます。しかし、ここでイエス様は単なるあいさつの言葉の意味合い以上に、恐れおののいていた弟子たちの心を平安に変えてしまう愛のあいさつをされたのです。つまり、親から離れて迷子になり、孤独と恐怖心の中で泣きじゃくっている子のような弟子たちの前に現れてくださったのです。
 救いのみわざをすべて終えて、よみがえってこられたイエス様の愛のことばです。
 まさにイエス様の存在そのものが部屋を包んで、親を見て安心した子どものような心境にさせたと思います。
 私たちも、悩んでいる人、うちひしがれている人の不安を平安に変えることのできるような、愛にあふれた人を目指していきましょう。
 この中に不安や恐れのある人がおられたら、イエス様が「平安があなたにあるように」と語っておられることに気づいてください。

1.『一挨一拶』(ルカ10:5〜6)
“「どんな家にはいっても、まず、『この家に平安があるように。』と言いなさい。もしそこに平安の子がいたら、あなたがたの祈った平安は、その人の上にとどまります。だが、もしいないなら、その平安はあなたがたに返ってきます。」”

★『一挨一拶』(いちあいいちさつ)の意味
 「禅問答の中から生まれた言葉で、『挨拶』の語源。
 禅問答で一方が相手の力量を測るために積極的な攻め込み、突き進む『挨』があり、すかさず切り返し、切り込む『拶』があって相手の境地力量を見定め合うやり取りのこと。」
 相手の心を探っていく、いうなればコミュニケーションであり、その始まりがあいさつです。

【内容観察】
「神の国を伝えるために、どこかの家に入り、まず、福音の初めの言葉として『神の愛がこの家を満たしてくださいますように』と挨拶をしなさい。もしそこに神を畏れる平安の子がいたら、あなたがたの祈った祝福は、その人の上にとどまります。しかし、もし不敬虔な家であれば、愛のない言葉が返って来ます。」

 上に挙げたみことばは、イエス様が70人の弟子たちに、福音を伝えるために遣わされるために語られたことばです。(10章)を(1節)から見ると、指名された家に入るまでに、誰ともあいさつしないように語られています。それは人目を気にせず、どこの家に行くかを集中させ、行く家に福音を伝えることに心を一つにするように、という教えだったのです。
 心が分散すると力は弱ります。この一つのため、つまり神の愛を伝えることは、軽いものではなく、本当にやり遂げようという集中力が大切だと言われています。不安が平安に変えられるほどの力強い愛のあいさつのゆえに、集中して伝道するようにイエス様は言われたのです。
 福音のあいさつ「神の祝福に満ちた、良い知らせを携えてきました」と、確信に満ちた心であいさつをしてまいりましょう。
 このあいさつを嫌う人は、不敬虔な人が多いのではないでしょうか。イライラし、自己中心で人のことを考えないところに平安は宿りません。しかし、自分のことだけでなく、まわりの人のことも考え、神仏を畏れる道徳的な人には、このことばは興味を引くものです。
 祝福をもたらすことばとして、私たちも使っていきたいと思います。

○神の愛に満ちたあいさつ
 「神に愛されているのですから、安心しましょう。」
 「大丈夫ですよ。この家に平安がありますように。」と力強く言われると、勇気をいただけますね。
 イエス様は弟子たちの心の中をよくご存じで、安心を与える愛のことばと言えます。あいさつは人々の心に傷を与えるか、逆に励ましを与えるか、影響を与える重要なものであると、ぜひ認識してください。そして深い愛のあいさつを語れるように考えていただけたらと思います。

2.神の平安による守り(ピリピ4:6〜7)
“何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。”
【デボーション参考ポイント】
(1)神の平安が私たちの心と思いを守ってくださるためには、どうすればよいでしょう。
 「神に知っていただく」ことが大事なポイントです。心の内すべてを打ち明けるという意味を持っています。良し悪し関係なく、心の深い部分までも客観的に見ながら、神の前に告白するものです。「神様、私の今の心はこのような煩いがあり、感謝もできないような状態です。しかし、本当の願いと祈りは、心がきよくなることです。」と、具体的な心の内情を神の前に言い表すことによって、神の愛にあって守られるということです。

○内にあるすべてのことを語る⇒心を開く
 私たちが自分で向き合いたくない自分の心も、神様はご存じです。
それらをあらわにするとは、心を開くことを意味します。神様は、私たちが心を開いてくれるのを待っておられます。ですから、本人から罪を告白することは、心を開いていることになります。神様は、心を通じ合う関係を持たれたいのです。私たちの行いにおいて、神の前には罪人ですが、心の内を全部、神の前に表す正直さのゆえに、正しいと認めてもらえる神の子です。
○心を開くことを期待しておられる

(2)心の内を神に知っていただくことが、どうして神の平安による守りにつながると思いますか?
 友という関係を結ぶことによって平安がもたらされるから、子どもの共感してほしい、慰め、励まし、理解を求めている心、弱っている心を親がわかってあげにくい社会の状況があるようです。
 神様はイエス・キリストの姿をもって、十字架の死に至るまでの人生の苦しみ、つらさを味わい知られた方であり、親から捨てられる体験をされた方です。イエス様が十字架にかかられた時、天が12時から午後3時まで暗くなったのは、人類のすべての罪のかたまりとなられた御子イエス様を、父なる神様が捨てられたからです。私たちの身代わりに捨てられた苦しみも知っておられます。
 どんな人の人生のつらさも苦しみも共感できるあわれみ深い方、情け深い方です。あなたが人の罪の身代わりに十字架にかかったのでなければ、「神は私の気持ちはわからない」と言わないでください。世界中で、神様から捨てられた体験をされ、さみしさ、苦しみを味わわれたのは御子イエス様だけです。
 この方が私たちの人生のあらゆる苦しみに共感して、友として受け止めてくださっています。ぜひ知ってください。十字架は罪の赦しだけでなく、私たちの苦しみを共感する以上に、さらに深く味わわれたものだと。

○友の関係による平安
 神の前に何でも打ち明けられる愛の絆が結ばれてくると、平安、安心がもたらされます。そのために悩みを打ち明けるという、心を開く必要があります。
「思いわずらわないで」⇒安心しなさい、信仰しなさい
「感謝」⇒友への信頼のしるし
「知っていただく」⇒全部打ち明けなさい。
 一人では思いわずらいますが、友の所に行くことを決断すれば、思いわずらいは少なくなります。
 そうすれば、キリスト・イエスにあって、神の愛による神の平安が心を守ってくれるとは、壊れないということです。友と言うならば、プライドを捨て、心を100%オープンにして、神への祈りと告白をデボーションの中でチャレンジし始めてください。そうすれば、人知を超えた神の平安があなたの心を守ります。

「愛に満ち あいさつ交わす 春の暮れ」
 「暮れ』という言葉を、まず時刻的にとらえると、朝から礼拝で神の愛に満たされ、兄弟姉妹の交わりで愛に満ち、夕方、あいさつを交わして家路に着く聖日の一日を表します。また、季節の終わりととらえると、季節の推移はあってもそれに影響されず、神を信頼する愛に満ちたあいさつを交わし、愛に満ちた交わりをしていくことを表しますね。

 

 

 

 

■2015年4月5日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛は死よりも強い  up 2015.4.5


もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。
(ローマ8:11)

 

 

 

 雅歌で、「愛は死のように強い」というみことばがありますが、私((辻師)は死よりも強い愛をお伝えしたいと思います。雅歌では死は人を決して逃さないことから愛を例えていますが、神様がくださる愛は、死の力を打ち砕く力強いものです。

1.主題聖句より(ローマ8:11)“みことばは前述”
 私たちは、イエス・キリストがよみがえられた方であることを体験することができます。死の働きに反して愛は、私たちの人生を生かしてくださることができるのが、キリストの復活の証明です。

 イエス様の救いを受けて天国に行けるとは言うものの、私たちの日常生活の中で死の力に支配された状態が続いていたのでは、この世においては「負け」ではありませんか?

 死後の天国だけが楽しみというのでは、あまりにもイエス様の復活の力強さが否定されているのではないでしょうか。
 
 私たちの生活のどこに、イエス様の「死を打ち破られた力」が現されるのか?それを体験してこそ、「ああ、やっぱりイエス様は死に勝利されたお方なのだ!」と証明することができます。
 
 イエス様がよみがえられた証拠として、「私を見てください」とクリスチャンは言うべきです。「死ぬべきからだをも生かしてくださる」ことが、イエス様の復活を証明するポイントだからです。

【デボーション参考ポイント】
(1)「イエスを死者の中からよみがえらせた方」とは、どのような方でしょうか?
 死をも支配するお方です。

(2)何が私たちの死ぬべきからだを生かしてくださるのですか?
 死を支配される方の御霊です。

(3)「神は愛である」と言われる方の御霊とは、何でしょう?
 愛なる神の本質が愛なのですから、御霊も愛です。イエス様をよみがえらせたのは愛なのです。
 
 愛が人を生かすのです。弱っている人を慰め励まし、力づけるのは愛です。人を責める時も、その人が生きるために徳を得るために役立つように配慮すべきです。
 
 私たちは愛を感情で捉えるのではなく、神様のご人格として意識する必要があります。このご人格が私たちのうちで働いて、死ぬべきからだを生かしてくださるのです。
(4)「死ぬべきからだを生かす」とは、どういうことですか?
 まず「からだは死の力の支配にある」ことを認めましょう。からだは必ず死にます。しかし、この使い捨てのようなからだをも神様は有用なものとしてくださいます。たとえば牛乳を飲んだ後の紙パックを、「何かに使えるはず」と残しているように、神様の目には私たちは高価で尊いものとされています。

(5)どのように「愛」は死よりも強いのでしょうか?
・罪の誘惑よりも強い愛→誘惑に負ける時は愛が弱った時

・激しい罪の感情を制御する愛→愛する者には怒りさえ止めて、
 寛容と柔和を示すことができる

・罪が熟して死を生む時に、「病気」という形をとって来ることがあるが、
 神様の深いあわれみは、「いやし」になって死の力を打ち消されることがある
 イエス様は多くの人々にあわれみをもって奇跡を起こされた。

 以上のように私たちに多くの力を与えてくださることによって、「イエス様は死の力に打ち勝たれた」ことの証明をされています。イエス様を信じた人は、このようなことを体験できるのです。
 
 私たちは弱いので、自分の意志で行おうとするとくじけてしまいますが、愛という神様のご人格であられるイエス様が一緒なら、イエス様の力が死の支配権を全部取り上げて、私たちに生きた人生が送れるように創り変えてくださいます。
 
 激しい感情が起こった時に、イエス様の十字架を思い出して見上げてください。感情がスーッと治まっていきます。感情を止められないと言う人は、たいてい「十字架を見ている余裕などない」と言って、見上げることをしません。
 
 十字架を見上げて神様の愛に心を向けると、罪から離れ罪を抑制しようという心が私たちのうちに起こります。しかし私たちの心だけでは弱いので、聖霊様が一緒に働いてくださるのです。
 
 努力ではなく、内に住んでくださる神の愛が、私たちの死ぬべきからだを生かしてくださる、その仕組みがこれです。このことによって、私たちはキリストの復活の力が自分のうちに確かに働いていると、信じることができます。こういったことを、ぜひ重ねていってください。

2.キリストにあっての『鴒原之情』(第1ヨハネ3:14)
“私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。”
★『鴒原之情』(れいげんのじょう)の意味
「水鳥のセキレイが群がって互いにせわしく動いている様子が、兄弟姉妹の助け合う姿に見えることから、兄弟姉妹の深い情愛を意味する。」

【内容観察】
「私たちは、神の愛を知ったことによって死からいのちに移ったことを確信しています。それは、兄弟姉妹を、キリストが私を愛してくださったように互いに赦し合うことができているからです。互いに赦し尊び合うことをしない者は、神の愛を受け入れておらず、自己中心の欲望である死のうちにとどまっているのです。」

 互いに赦し、尊び合うのが兄弟愛の重要なポイントです。心がしっかりと絆で結ばれた親しい関係の間柄においては、相手に対して寛容であり、尊ぶ心が共通して存在します。
 
 捨てられるべき自分を神様が価値あるものとして見てくださったように、私たちも同じ愛の心を持って家族関係を結んでいるのが、教会というところです。しかし、無意識のうちに「他人」として切り離す考えも心のうちをよぎっているものです。すると、その相手を冷たくあしらったり赦せない心が起こったりします。血のつながった家族なら、時間が経てば「まあいいか」と赦していくことができるところなのですが、「他人」ではなかなか赦せません。「嫁姑」の問題などは世の中でも有名ですね。
 
 だからこそ、私たちが兄弟姉妹に対して柔和・寛容・親切を示すことができているのならば、「死からいのちに移っている」ことの証になると、このみことばは教えています。よみがえりの力、愛の力がそれをなさしめているのです。
 
 私たちもぜひ、これを目指したいものです。私は、「兄弟愛とは赦し合うことだ」と思っています。赦し合うために必要なことは、キリストをよみがえらせた御霊の愛を信じることです。

 あなた自身の愛の力で兄弟を赦してはいけません。ストレスがたまり、後々復讐心が湧いてきます。神様の愛が、あなたの心で別の人格として働いてくださることが大切なのです。
 
 あなたの心にある憎しみという死の力を、愛というお方が抑制してくださいます。この愛はイエス・キリストそのものであり、イエス様は死を打ち破られた方だからです。ですから愛に信頼してください。
 
 「私のうちにおられる愛なるイエス様。あなたが私の復讐心や憎しみ、心の傷の痛みなどのすべての死の力を支配し、私をこれらの死の力から解放して、神様のための赦し、受容、愛すること、親切を行うことができるように私を生かしてくださることを信じます。あなたの愛にはその力があることを信じます。」と告白することが、私たちにとって大事なことだと思います。

【デボーション参考ポイント】
★赦し合い、尊び合うことができないのは、何が問題でしょうか?
 
 「愛は死よりも強い」と、愛に信頼することです。ぜひ実行してみてください。キリストは必ず、あなたへの死の力の働きかけを打ち破ることがおできになります。

「花が散る 桜の魅力 咲き続け」

 散る、とは死の時を指しています。桜の花は散っても美しいものですね。その魅力は咲いている時だけではなく、散ってもなお続いているのです。私たちも死んでも生きる者です。散る時も人をひきつける桜の花のように、私たちも「生き続け」ます。魅力は「咲き続け」ています。

 

 

 

 

■2015年3月29日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛は良き牧者  up 2015.3.29


わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。
(ヨハネ10:11)

 

 

 

 今週は、イエス様が十字架にかかられた受難週のメッセージとして、(ヨハネ10章11節)から「愛は良き羊飼い」という題で話を進めてまいります。
 「いのちを捨てる」というのが、メッセージのポイントです。羊のためにいのちを捨てられた良き羊飼いとしてのイエス様の愛、父なる神様の私たちへの大きな愛を深く味わっていただけたらと思います。

1.愛する者を尊ぶ(ヨハネ10:11〜13)
“「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。
 牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を襲い、また散らすのです。それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。」”
 イエス様が羊を抱いておられる絵画があります。イエス様は羊の所有者という立場であられます。羊のことを心にかけ、忘れることはなく、羊のためにいのちを捨てる行為は、良い牧者としての証であると語っておられます。
 現実に羊飼いは、羊一匹一匹の特徴を見極め、大事にし、名前もつけると聞いています。

【内容観察】
「わたしは、わたしの羊のことを片時も忘れたことのない、羊を愛している羊飼いです。自分を愛するように羊を愛する羊飼いは、羊のためにいのちを捨てることをします。羊の所有者でない雇われ羊飼いは、狼が来るのを見ると、自分の身を守るために羊を置き去りにして、逃げてしまいます。それで、狼は羊を襲い、また散らすのです。その羊飼いは利害を考える雇われ牧者なので、自分に害が及ぶことがあれば逃げ出してしまいます。羊を愛していないからです。」
 羊飼いが羊を大事に扱うのは、愛しているという意味です。私たちは、自分にとって益をもたらす存在ならば大事にします。しかし、イエス様にとって罪人である私たちを手にしたからといって、害を与えることはあっても、利益をもたらすことはほとんどありません。それにもかかわらず、そのような私たちを、いのちを捨てるほどに心にかけてくださっているのです。

○牧者の立場=羊を養い導く立場にある人
 (「羊のためにいのちを捨てる」というのがポイントです)
・夫=妻を養い導く
 賢そう、姿が良い…という条件を結婚相手に持つのは自分に利益をもたらすという考え方です。しかし、妻を養い育てるためには落ち込んでいる時に支えてくれ、共に喜んでくれる、心を養ってくれる相手かどうかを見極めることが必要です。また、良い牧者が羊のためにいのちを捨てるというのは、優先順位を考えていることです。自分を喜ばせるのは二の次で、妻を喜ばせ、妻の心を満たすことを考える男性、自分のことより妻のことを優先して、妻の存在そのものに対して価値を感じている男性こそ、良き夫の姿ですね。
・親=子を養い導く
 親は、子の自然的、内面的に至るまですべて養い導くものです。
子が親の恩を感じるのは、自分の楽しみより、子どものために犠牲していく姿に触れた時です。しかし、子どものことより自分のことを優先していく場面を見始めると、子どもは大きくなって自分勝手な考え方をするようになり、利害関係の親と子になります。良い親は子どもを優先します。
 いのちを捨てる=自分の存在よりも、愛する者の存在を尊ぶこと
これが良い牧者としてのしるしであり、100%でなくても自分を尊んでくれる愛に出会うと、その愛に応えていきたいという愛が生まれてきます。
 イエス様の十字架を見上げるときに、自己中心になりがちな私たちの心が、神の愛のおかげでわがままができているという感謝の思いを心に持つようになります。
 今は未熟で迷惑をかけている私たちをそのまま受け止めて養ってくださる、良き羊飼いとしての神様の愛を思い描く一週間となればと思います。
 「主人」も含め、すべて上に立つ立場の人は、人を養い導く羊飼いであり、牧者です。そのような立場の方は、どうぞ良い牧者を目指してください。

○牧者の立場⇒存在そのものを愛すること
 利己的な羊飼いは、毛並みの悪い羊や乳の出の悪い羊を売るなどして、自分に利益をもたらさないものを処分していく考え方を持つことでしょう。しかし、良い羊飼いは羊の毛並みの悪い理由や乳の出の悪い理由を考え、何とか良くなるように養い導いていきます。
 気に入った人ばかりを用いるのでなく、問題の人が良い羊に変わっていくように、自分のいのちを削ってお世話をしていくのが、良い牧者です。それをイエス・キリストが今も私たちにしてくださっているのです。どれだけその愛を向けてくださっているかを、十字架で現してくださっています。
 誰が罪人のために十字架で身代わりの苦しみを受け、ハデスまで行くでしょうか。その人がそこにいることが喜ばしいことだと感じる、存在そのものを愛することが、良い牧者の特徴です。
 イエス様は十字架にかかるほど私たちを尊んでくださっているのですから、自分を足らない者と卑下しないでください。嘆いて、自分から離れようとするのは、良き牧者であられるイエス様にとっては心の痛い悲しい決断です。それすら元気にしたいと、強い思いを持っておられます。羊飼いの心をぜひ見抜いてください。

2.『巧偽拙誠』に生きる(第2コリント5:15)
“また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。”

★『巧偽拙誠』(こうぎせっせい)の意味
 「巧みに偽るよりも、つたなくとも誠意があるほうが良いということ。」
 巧偽は言い換えれば虚栄、見せかけです。本当は価値がないのに、価値があるように見せかけることです。私たちはつい見えるものにごまかされてしまいます。人々の前にダメな自分を、良いように見せかけているかもしれません。神様はすべてを見ることができる方ですから、隠しおおせませんが、人には見せたくない部分があるものです。
弱い人々をつまずかせないための配慮は、愛から出ているので偽っているものではありません。
 神様は、つたなくとも誠意があるものを認めてくださいます。私のためにきよい神のいのちが汚されて、身代わりに罪人となって裁きをお受けになったとは、何とすばらしい愛だろう…と。神の愛がわかってくると、重すぎて応えていくことができないと思うようになります。しかし、愛されている神の愛からは逃げられません。あなたがどんなに卑下しようと、イエス様から遠ざかろうとしても、神はそういうあなたを愛しておられ、その愛の中にいつも入れておられます。神の愛は、あなたの内に注がれています。

【内容観察】
「良い牧者であるキリストが、狼である死の力を持つ悪魔から、羊である私たちを救い出すために死なれたのは、神に愛されているアダムの子孫たちが、貪欲を満たす生き方でなく、自己中心の罪人である私たちの存在を尊く思う愛をもって死の苦しみを負われよみがえられた方の愛を尊く受け止め、見せかけのない、つたなくても誠意のある生き方を生きるためなのです。」
 私たちがイエス様からどのような愛を受けているかを認めた時、この方のために100%行いにおいては愛に応えられない羊のような愚かな弱い私たちだと思わされますが、しかし、格好つけず見せかけではない、つたなくとも誠意のある生き方をするために、イエス様が苦しみを受けられたことに気づいていただきたいのです。
 見せかけ、虚栄、偽善への誘惑が私たちの周りにあるはずです。なぜなら、この世は価値あると見なされたものに人々が注目し、愛を注ぐからです。無意識に、神様に愛されてないと思い込むのは、世の中の影響を受け、洗脳されてしまっています。この心の習慣は、神よりも人から愛されることを求めます。神より人からほめられることの方が嬉しいと、価値観を間違っています。
 二千年前に、私たちが永遠の滅びに行くことがないようにと、私たちの存在そのものをなくしたくないという神様の愛がかたちとなってこの世に来られたのがイエス様です。これほど尊ばれた愛を受けていながら、満足できず不遜なこの世の人から注目されたいという気持ちになるのは、この世の中の習慣です。
 あなたを正しく評価できるのは神様だけです。世の中はあなたの価値を自己中心で測ります。偽物の評価を受けたいですか。あなたの存在そのものに価値を見い出しておられる愛なる神様に、どれだけ愛されているかに心を向けることの方がよほど大事だと気づいてください。
 私たちの良い牧者は誰ですか。あなたを養い育てるのはこの世ですか。それともご自身のかたちに似せて創られた愛なる神様ですか。
 良い牧者として、あなたは誰を意識していますか。誘惑が来た時、ぜひ思い起こしてください。
 知識に留まらず、どれだけあなたの存在を大事に思っておられるかを、十字架を見上げてどんな方がどんなあなたのために、十字架で永遠の罪の裁きのために身代わりに苦しみを受けられたかを、去年より深く感じる一週間として受難週を味わっていただきたいと思います。

     「誠意満つ つたなき姿 木の芽より」

 新芽(木の芽)には派手さはありません。しかし見せかけがなく、誠意があり、まことがとても現れています。つたなくとも、純真さがあります。
 私たちもつたないなりに、今の自分で誠意をもって神様の愛に応答するクリスチャン生活となるよう、目指してください。

 

 

 

 

■2015年3月22日 日曜礼拝メッセージより(小栗伝道師、横路伝道師)

 愛を紹介する4  up 2015.3.22


こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。
(第1コリント10:31)

 

 

 

【小栗伝道師メッセージ】
1.神の愛が私たちの成長を導く(第1コリント3:6b)
 “しかし、成長させたのは神です。”
 自分史を振り返ってみて、順調にいってうれしかった事も覚えていますが、失望、挫折の方が記憶によく残っています。自分の歩みの一番の分岐点は、イエス様に出会ったことです。
 神様は、私たちの内面的成長を、愛をもって導いておられます。到達点は神の愛です。もっと赦せるように、もっと愛せるように、神様に創られた人は、イエス様のご性質になりたいと心から思うのではないでしょうか。
○私たちは神に創られた者(イザヤ4:37)
“「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」”
・創造し〜そのところに置かれたこと
・形造り〜性質、パーソナリティ
・造った〜仕立てた、完成した
 私たちは今も、神様にあって変えられ続けています。
 神様が私たちを創られた目的は、神様の栄光を現すため、その愛を現すためです。罪人の私たちに神様の尊い働きをしてほしい、しかも神様もご一緒されることを喜びとしておられるのです。
 創造主なる神様から頼まれること自体、とても光栄なことです。もたもたしたり失敗もしたりする私たちは、とても神様の願われる状況になり得ないことも多いのにも関わらずです。そして、罪人の私たちが神様の尊い働きができるようにと、私たちの罪を赦すために、イエス様が十字架にかかってくださったことは、すでに聞いている通りです。神様の元に帰ることが私たち信じた者の定位置と考えると、まださ迷っていて神様の元に来ていない人々も、自分の場所を埋めるようにと呼んでおられることもお伝えします。

*キリストにある幼子(第1コリント3:1〜3)
 生まれて間もない乳飲み子は、当然消化もよく栄養の高い乳を必要とします。みことばにあるように、キリストにある幼子は肉に属しているので、自分中心で人も神をも動かし、自分の思い通りになっていることが愛されていると思っています。神様の愛は、幼子も成人も変わりません。感情主体の幼子の心は、まるで王様、女王様です。
 乳であるみことばのうち、受け取りやすいみことばを好んで受け取ります。すべて気分次第です。また、A・C(アダルト・チルドレン)の状態は、自分の本心を抑えて親が好むようにふるまう、形だけの成長になっていることもあります。キリストの花嫁を目指す私たちが、幼い2〜3才頃のままでキリストに迎えられるとは考えにくいことです。
*キリストにある成人(ヘブル5:14)
 成人は、堅い食物を食べることができます。つまり感情では受け止めにくいみことばを聞く時〜それは神様がその人の成長段階に応じて語られるのですが〜経験、訓練ということばがあるように、いろいろな体験を通して、失敗もしながら、良いもの(神に喜ばれるもの)と悪いもの(神に喜ばれないもの、律法に反するもの)を見分け、区別できるように訓練されている人です。
 堅い食物を食べられるようになっているとは、神の愛を基準にした品性が整ってきているとも言えます。神様の愛を理解していない時は、自分の飲みやすい乳ばかり飲んでおり、神様が成長させようとしておられるのを遅らせてしまうとも思います。いずれも、自分の今の状態を知り、食物は何が必要か考えていただきたいのです。

《預言者ヨナの例》(ヨナ1章〜2章)
(1)(ヨナ1:3a)“しかしヨナは、主の御顔を避けて…”
 神様が個人的にヨナに頼まれたように、神様はその人にしてほしいと思っておられることがあります。ヨナは「ニネベの町に行って、悪に対する警告をするように」と言われた神の命令にそむき、ニネベとは反対方向のタルシシュ(製錬所の意味)行きの舟に乗ってしまいます。ヨナは自国を痛めつける残虐な行為をしてきたアッシリヤの首都ニネベの町の人々を好んではいませんでした。ですから、自分に託された神様の思いを悟れず、主の御顔を避けてまで、偉大な神様の計画を帳消しにしようとさえしたのです。私たちも、神様の願いを頭ではわかっていても、感情がついていかない幼子の状態のままでとどまり、神様の願いを受け入れないでいることがあります。

(2)(ヨナ1:4a)“その時、主が大風を海に吹きつけたので…”
 出来事すべてではありませんが、反対方向に行こうとするヨナに対しては、「主は大風をもって」主の導きを与えようとされました。実はここに、成長のステップを見るように思います。
 成長はうまくいくことだけによらず、なぜこんなことが起こるのかという時にも導かれています。実際、水夫たちが座礁しそうになった舟の荷物を海へ投げ捨てても、嵐は一向におさまりませんでした。主がヨナに関わりを持っておられたからです。
 当のヨナは、舟底でぐっすりと眠りこけており、意図的に主の命令を放棄しています。心を変えようとしない、踏み出そうともしない、かたくななヨナの姿勢があります。神様は、心がかたくなな状態の時には、ヨナに語ることをされません。本当は父なる神様は我が子に語られたいのです。「今のあなたの状態は、こうだよ。」と。ですからヨナの心が向くまで待たれたのです。
 (詩篇139:7)にありますが、神様から離れることはできないのに、ヨナは神様から体も心も離れようとしました。しかし、神様はヨナから離れてはおられませんでした。ヨナは自分の心がどこにあり、何をしているかを知っていました。水夫たちにきかれ、嵐を静めるために自分を海に投げ込むように伝え、水夫たちは創造主なるヨナの神、主を畏れ、祈りをささげています。
 ヨナが海に投げ込まれた途端、海は静かになったとあります。ここではヨナ一人のためだけに神が嘆いておられるだけでなく、ある時にはまわりの人をも巻き込んでしまうことがあることも教えています。

(3)(ヨナ1:17)
“主は大きな魚を備えて、ヨナを飲み込ませた。ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいた。”
 そして神様が備えられた大きな魚にヨナは飲み込まれ、三日三晩腹の中で過ごすことになります。この魚の腹の中こそが、ヨナが改めて神様の愛を知り、導かれる場所なのです。
 「三日三晩」はイエス様の「死と葬りと復活」を思いますが、私たちの成長の段階で、肉の死と葬りと新たなる人の復活が必要であり、神様に反抗する感情を十字架につけて、新しい人として生きていくことが導かれています。
 神様に心を向けるためには、何もない魚の腹の中が必要であったということです。
 成長とは、自分に向けられた変わらない神の愛に気づくことであり、気づいた時に、改めてみこころを行いたいと願うことを導かれることではないでしょうか。
 ヨナは、魚の腹の中で何を考えていたのでしょうか。「自分の中に、神に差し出せる良いものは何もないこと。(ヨナ2:2)からの祈りのことばを見ると、死ぬ間際まで味わい、苦しみの中で主に求め、どん底で神を呼び求めるなら、神はその祈りを聞かれる方であり、ヨナ自身悩みの中で主への感謝をささげています。そして、救いは主のものです、と。
 神様は、私たちの心が神様の方へ向くまで待たれ、ある時には「神様しか頼れない。」という所まで追い込まれます。ヨナの心が備わっているのをご覧になって、神様はもう一度「ニネベの町へ行くよう」語られたのでした。そしてニネベの町は悔い改めに導かれました。
【参考聖句】(エペソ4:16)
“キリストによって、からだ全体は…しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。”
 神様は個人だけでなく、からだ全体、つまり教会の成長を導いておられます。
 神様は、キリストによる集まりが成長に導かれ、やがて花嫁なる教会としてイエス様の前に立つことができるように願っておられます。肉を持つ者同士、幼子の状態の時もありますが、キリストにあって互いに愛された者同志として受け入れ合って、1つとなり、成長していく神の家族であることを感謝します。

【横路伝道師メッセージ】
2.あわれみ深い愛を紹介する(マルコ10:49)
“すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい。」と言われた。”
《盲人の物ごい、バルテマイ》
*「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と叫び続けた
 (:47〜48)
*呼ばれ、上着を脱ぎ捨て、立ち上がって御もとに行った(:50)
*「目が見えるようになることです。」と言った。(:51)
 盲人の物ごい、バルテマイは、イエス様が近くを通られると聞き、その気配を感じた時「ダビデの子のイエス様。私をあわれんでください。」と、叫び続けました。そしてイエス様に呼ばれると上着を脱ぎ捨て、立ち上がってみもとに行きました。
 バルテマイはイエス様に、「わたしに何をしてほしいのか」と聞かれた時に、迷わず「目が見えるようになることです。」と答えました。
このようにバルテマイは決して諦めない熱意を持ち、古き罪を脱ぎ捨てて、イエス様の御もとに近づき、「目が見えるようになること」のみを明快に願ったことは、今の私たちクリスチャンの良い模範となる行動であると思います。
 見方を変えれば、バルテマイは幸いな人であった。現実にその時代に生きて、地上を歩き回られた神の子に叫び、招かれ、お会いし、御声をかけられ、そして盲目を目を開けていただくという奇跡的いやしを体験したからです。
 しかし、今日はバルテマイではなく、あわれみ深いイエス様に焦点を当てて思い巡らしてみます。

《あわれみ深いイエス様》
*叫びを聞いてくださった(:49)
*立ち止まってくださった
*招いてくださった
*招くのに人を用いられた
*良い質問をされた。「わたしに何をしてほしいのか」(:51)
*「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」(:52)
 
 あわれみ深いイエス様は、バルテマイの叫ぶ声を聞かれました。制止されてもめげずに叫び続ける熱意をひしひしと感じられたと思います。そしてその御足を止め、立ち止まられました。それはこのバルテマイにお会いになり、その愛を流し出そうとされたからです。
 一人のあわれなたましいのために、イエス様は深い同情心、あわれみの心からそうされました。それでまず弟子たちを遣わし、みもとにバルテマイを呼ばれました。この時遣わされた弟子は、バルテマイにとても優しい対応をしました。「心配しないでよい。さあ立ちなさい。あなたをお呼びになっている。」と。
 バルテマイが呼びつけられ、叱責されるかもしれないと恐れないよう、愛の配慮のある招きでした。イエス様のあわれみ深さをこの遣わされた弟子の中にも見ることができます。
 イエス様のそばにいつも共にいた弟子たちは、イエス様の愛の影響を受け、イエス様のように愛のある人物になっていたと思われます。
この時のように、イエス様はしばしばみわざをなされる時、訓練された弟子を遣わされます。私たちも遣わされた弟子です。関わる周囲の人々に対し、主の愛をもって優しく関わっていきたいものです。
 さて、イエス様はここでバルテマイに「わたしに何をしてほしいのか?」と質問され、「見えるようになりたいのか?」と言われなかったのは、バルテマイの本心の確認と、ご自身への信仰の確認のためであったと思われます。
 この時、イエス様はバルテマイの自由意志と本心を大切にされ、「イエス」「ノー」の二者択一の質問をされず、このように気持ちを聞き出す大変良い質問の仕方をされました。ここにも、深いイエス様のあわれみと愛があると思います。
 イエス様はバルテマイの確信に満ちた答えを聞かれた時、「さあ行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」と言われました。(マタイ20:34)では、「イエスはかわいそうに思って、彼の目にさわられた。」とあり、また(ルカ18:42)では「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです。」と言われたと書いてあります。
 マタイ、マルコ、ルカの記述を総合すると、『イエスはかわいそうに思って彼の目にさわり、「見えるようになれ。さあ行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」と言われた。』となります。
 イエス様は深いあわれみのゆえに、その目に触れられ、目にいやしを命じられました。またイエス様が救い主、いやし主であることを確信したバルテマイへの当然の結果として、目が開く奇跡が起きたのです。バルテマイはそれからイエス様について行き、良き証し人になったと思われます。
 今、私たちもイエス様に対する揺るぎない信頼を持ち、「ダビデの子のイエス様。私をあわれんでください。」と叫び続けるようにと励ましを受けます。『わたしに何をしてほしいのか』とたずねられる時、明確に「聖霊にいつも満たされていることです!」と答えられますように。また「イエス様のように、愛とあわれみに満たしてください!」とお願いしたいと思います。そして多くの人々に愛を紹介する者となりたいと思います。
【参考聖句】
“イエスはかわいそうに思って、彼の目にさわられた。”(マタイ20:34)
“「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです。」”(ルカ18:42)

 

 

 

 

■2015年3月15日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛は主権者  up 2015.3.15


イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
(マタイ28:18)

 

 

 

 今日は、まず川柳を紹介したいと思います。クリスチャンの心の悩ましさを表したものです。

「譲りたい。譲りたくない悩ましさ」

 正しい良心と肉の葛藤、隣人愛と自己中心の葛藤、このような迷う心はよく出てきます。運転にしても、突然割り込まれてくるとついカッとしてしまいますが、その時先に譲っていればこんな嫌な気持ちにならなかったのにと嘆いたり…。これはクリスチャンゆえに、神を愛し御心を行いたいと願うゆえに起きてくる悩みです。その悩みは神様を信じている証しなので、落胆しないようにしましょう。

今週のみことば(マタイ28:18)
“イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。”
 これは、イエス様が復活後、天に昇られる前に弟子たちに語られたお言葉です。このような大きな権威は、地上のどのような人間にも与えられていない絶対的な権威です。そして、この権威を神の愛であられるイエス様が持っておられるということは、何と私たちにとって幸いなことでしょうか。
 もし横暴でワンマンな王が国の支配者であったら、その国民は悲惨な目にあいますが、人格的に優れた王が支配したら、国民は幸せになります。けれども、地上の王はいくら優しい良い王であったとしても一時的なものであり、その良い状態を維持し続けることは不可能です。それは天においても、地においても、という権威を与えられていないからです。 
 イエス様だけが、この絶大な権威をもって支配してくださる御方です。しかも愛そのものの御方なのです。愛が支配し愛が主権者となって支配する国ほど素晴らしい国があるでしょうか。

1.愛のための権威(コロサイ1:16)
“なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。”

 御子とは、見えない神が見える形でこの世に現れてくださった方です。人は神のかたちに似せて造られたものであり、神の子という位置にありますが、御子は人となられた神であり、しかもひとり子という神にとっては最もかけがえのない存在です。そして、この御子が万物を創造されました。
 このみことばを、御子を愛に変えて読んでみてください。もっと深い意味がつかめてこないでしょうか。愛が万物の存在の動機付けなのです。そして、この愛が王座も主権も支配も権威も造られました。この4つの共通点は「治める」ということです。
 治めるとは、争いのない平穏さを保つことであり、治めるためにこの4つのことば(まとめて権威という)が必要です。権威とは治める力です。争うための力ではありません。
 治める力は平和を作り維持する力であり、秩序ある平和な社会を作ります。平和を維持するためには、組織立って働き秩序を守るための権威が必要です。この秩序ある平和な社会が、互いに愛し合う愛の国なのです。ですから権威は無秩序であってはなりません、正しく使われなければ大変なことになります。この権威を自分の欲の為に悪用するために、混乱が起きるのです。
 神の律法は、「互いに愛し合いなさい」ということばに集約されます。この互いに愛し合うことのために権威が必要であり、その権威の中心の主権が愛であり、人ではありません。愛を意識しなければ権威は虚しくなります。愛が存在しているから、その愛のもたらす実を味わい、愛を維持するために権威が必要なのです。権威は、自分の欲望を満たすために造られたのではありません。

【デボーション参考ポイント】
★愛という観点からの「権威に従う」「権威に従わせる」ことを考えてみましょう。
 
 まず権威に従う理由は、愛を大切にするからです。従う人は立てられた人、また組織やグループの信頼関係を大切にし愛を壊さないために立てられた権威に従います。好き嫌いや損得ではなく愛のゆえに従うのです。
 このきよい愛が重要です。互いのきよい愛の関係を維持していくことが大切なのです。きよくない愛があります。それは欲に支配された愛です。きよい愛はイエス様がお手本となって見せてくださっているように、与える愛です。
 それでは、権威に従わせる方の立場から考えてみましょう。従わせるということは、従う人に対して、自分は自己犠牲する愛を持っているということを表明することと同じです。あなたのために、愛で覆い守るという決意を意味しています。それゆえ、イエス様は「わたしの愛の内にとどまりなさい」と言われました。
 同様に夫は妻を従わせたいなら、妻を命がけで愛し守るという愛を表していく必要があります。イエス様が教会を命がけで愛し守ってくださっているように、です。そうするならば妻は夫の愛に応えて従うことができます。それが正しい結婚であり、夫婦の関係です。まず、神が私たちを愛してくださいました。男性はキリストが教会を愛したように、まず妻を愛することが大切です。権威を間違って、愛抜きで使っていないか自分を吟味してみましょう。

2.『修己治人』(創世記1:27-28)
“神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」”

★『修己治人』(しゅうこちじん)の意味
 自分の修養に励んで徳を積み、その徳で人々を感化して、世を正しく治めることをいう。

 従え、支配せよという言葉を、威圧的にとらえる人もいるかもしれませんが、聖書は神は愛であるということを大前提として語られているものです。それゆえ、みことばは、神の愛を信頼して読み取ることが基本です。神は、人をご自分のかたち創造されたとありますが、かたちとは、空っぽの器を表します。そして、器とは何かを入れる為に目的を持って作られるものです。愛の器として愛の神の形に似せて造られたのです。
 それぞれ器は入れるもの、用途によって作られます。例えば、ペットボトルはそれぞれ入れる物によって厚さや形が違います。水は薄くても大丈夫ですが、炭酸は薄いペットボトルだと壊れてしまいます。
 それでは人は何を入れるために造られたのでしょうか。神は人を愛を入れるために造ってくださいました。しかも、男と女に創造されたのは、互いに愛し合う関係を持つためでした。
 「生めよ」とは二人が互いに愛し合い、その実として与えられます。
 「ふえよ」とは、器に愛がますます満たされていき、愛が育まれていくことによります。
 「地を従えよ」とは愛によって徳が高められ、尊敬され、ますます従えていくことができるようになるということです。これは、徳を積むことによって成就されます。
 今日の四文字熟語の「修己治人」がそれを表します。このように祝福を頂いていたにもかかわらず、アダムとエバは食べたいという欲望に従ってしまいました。そのために、人間はどんなに努力しても貪欲に勝つことはできないという遺伝を受け継いでしまったのです。欲望に勝てず従ってしまうということは、罪という違反を犯すことでした。アダムとエバは誘惑がきた時、その欲望に勝つ力があったにも関わらず、その欲望に自ら服してしまい、そのことによって欲望が「この地を支配する」という権威を悪用するようになってしまったのです。それゆえ、この地上は欲が支配するようになりました。サタンは貪欲をもって人を使いこの世界を経済でもって縛っているのです。
 それゆえ神は、この地上を愛を持って支配するという本来の正しい権威を回復するために、イエス様を通して救いを与えてくださっています。
 十字架で罪を負ってくださり、貪欲の支配を断ち切ってくださり、さらに征服できる者にしてくださいました。これが私たちに与えられた救いです。ですから、私たちはもはや貪欲の奴隷ではないのです、立ち向かい、打ち勝つ力があるのです。
 しかし、サタンは私たちを偽り、欲に打ち勝てないで罪を犯し続けるしかないという否定的な思いで束縛しようとしてきます。
 日々デボーションをすることで真理を学び、神が与えてくださっている救いに目を開かれていきましょう。私たちはすでに解放され、正しく権威を使える者とされています。

「あたたかな 心で治める 神の国」
 
 この神によって与えられたあたたかな愛によって、あたたかな神の国を私たちの周りに築いていきましょう。

 

 

 

 

■2015年3月8日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛は謙遜  up 2015.3.8


わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
(マタイ11:29)

 

 

 

 クリスチャンが、心騒がされ迷いがあったり不安があったり、自分の心の感情を抑えられなかったり、平安がないならば、ここに問題があるかもしれません。
 
 先週学んだのは、この世と違う平安、死の恐怖からの魂の赦しと救いからくる安心でした。
 そして、今の私たちは、地上でこの愛を紹介するために生きているわけですが、地上でいろいろな試みがやってきますね。
 心を揺り動かされて、安らぎどころか重荷と不安がぶりかえすような体験もあるのではないでしょうか。
 
 もし今日のあなたにこの世とは違う平安がないとしたら、イエス様のくびきを負って、イエス様から学んでいないのかもしれません。主から学んでいる人は魂に安らぎが来ます。人から学んでいると、いらだちが来たり、腹が立ったり、心揺さぶられることが多いものです。ですから、人からでなく、主から学ばねばなりません。
 
 くびきとは、仕事をするために家畜に付けるもので、牛馬はこれに縛り付けられることによって、耕作や運搬などの仕事をこなします。
 反対に言えば、仕事が与えられることの証拠がくびきなのです。私たちにもなすべき仕事があり、それをイエス様と一緒にこなすのです。
 では私たちの仕事とは何でしょうか。正に「愛を紹介する」というのが、私たちに与えらえたこの世での仕事、労働です。
 
 イエス様と一緒のくびきで、イエス様から学ぶのはもちろん「愛」です。この方は神の愛そのものであり、愛を現され、証しされた方です。
 この「愛に生きる人生」を通して、キリストから愛を学ぶ人は、心に安らぎが来るのです。
 この方から「愛」以外のものを学ぼうとはしていませんか?それは的を外した生き方、考え方に心が向けられ、価値観が流されている状態です。的を外したままでは、問題があった時におそれ、迷い、不安、怒りなどがやってきます。心に安定がなくなるのです。
 
 主から学ぼうとする者には安らぎ、確信があります。「間違いなく、私の歩むべき道はこれだ」と確信して愛の内を歩む人生を、一歩一歩進めているので、どんなに辛くても安らいでいられます。迷いがないのです。思いわずらう内容はただ一つ、「愛を学ぶ」ことのみです。そういう意味ではないかと思われます。
 
 この「愛を学ぶ」ことによってどうして心の安らぎが来るのでしょうか? 愛を持つ者は「心優しくへりくだっている」からです。「愛は謙遜」という今日のテーマは、この部分からきています。
 神の愛を現された方であるイエス様ご自身が、「神の愛なるお方は心優しくへりくだっている」とおっしゃっている。愛と心の優しさとへりくだりは、切っても切れない関係にあり、愛があれば心優しくへりくだっているし、心優しくへりくだっている人には愛があります。心優しくへりくだっているということを、謙遜という言葉で表しているのですね。
 今日はこの「愛から来る謙遜」という歩みを目指して、人々に「神様の愛は謙遜なんですよ」と紹介できたらいいと思います。

1.キリストに見られるへりくだり(ピリピ2:3〜8)
“何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。”

 私たちは「何事でも自己中心や虚栄からしないように気をつけ、自分より優れた人だと、お互いを尊敬しあう」という心構えを持ちましょう。イエス様が手本を見せてくださっています。

【内容観察】
「自己評価への関心よりも、互いにへりくだって存在価値を高く評価し合いなさい。そして、他の人の存在がいかに大切であるかを認めることです。それは、救い主イエス様の私たちへの愛にも見ることができます。
 すなわち、神の姿に固守せず、罪人と同じ肉体の姿をもってこの地上に来られました。人としての性質を持たれたのです。このことがいかにへりくだっておられるかを示しておられます。それだけでなく、罪の贖いのいけにえとして、私たちの罪の汚れをすべてご自分が受けとめられて、死に支配されることさえもしてくださったのです。」

 罪人である私たちはお互いを責め合うのではなく、神様が付けてくださった評価をもとに、お互いを高く評価し合いましょう。低評価をすることは、神様が間違っていると言うことになります。兄弟姉妹をけなすことは、高評価された神様の主権を認めず、嘘つきと言っているようなものです。「高価で貴い」と言われている神の兄弟姉妹を、自分本位の見方でけなすことは間違っています。人を値付けするような表現は極力避けたいものです。

 しかし、罪の世で生きてきた私たちは、人を批判したり評価するくせがついています。どう表現すればいいか、言葉に困るときもありますね。しっかりと聖書のことば、神様のおことばを手本にして、人を尊く表現するやり方を学んでいけたらいいな、と思います。

 イエス様は神様であられたのですが、愛する者が私たち罪人であったがゆえに、交わりを持つことがおできになりませんでした。交わろうとすれば、私たちは滅びてしまいます。そこで、罪という隔ての壁を取り去るために、神が人となるという大きな課題をこなされました。人と同じ姿、人と同じ性質を持たれたのです。ここに愛する者に対する態度、へりくだりが現されています。
 たとえば、夫が妻に対して上から「従え」と押さえつけるなら、それは「自己中心愛」であって、従わない者に対して怒り、裁きをくだし、自分から切り離してしまいます。
 しかし、神様はイスラエルがどんなに逆らっても完全に断ち切られることはなく、未だに愛を注いでおられます。神様は裁きよりも愛を優先される、あわれみ深く情け深いお方だからです。
 あなたを救うために神様は、神の姿、自分の誇り、自尊心を捨てても、救いたいと願われたのです。プライドを捨てても私たちを救うことを考えられました。なぜでしょうか?私たちを愛してくださっているからです。愛があれば、愛する者のために身を低くすることができるのです。
 身を低くするとは、心優しくなるということでもあります。愛する者に対していばるなら、それは自己中心愛であり、欲望が動機の愛です。神様から出ている愛なら、愛する者の前に身を低くし、心優しくなり、愛する者を建て上げようとします。これがイエス様の愛です。自己犠牲は愛する者への心優しさから出ています。「愛はすべての罪をおおう」とは、自己犠牲のことなのです。

★謙遜は努力で得られるものではなく、愛することによって備わるもの
 努力で勝ち取るものではなく「備わってくる」とは、愛すれば謙遜さは自然に身につくもの、ということです。心優しさとへりくだりが身につかない愛は、神様の愛とは違う種類の愛ということになります。謙遜によって、神様からのものかどうかを見分けることができます。
 愛を知らない人は、どうしてへりくだれるのか理解できません。しかし、本当の愛ならば愛する者の上に立つことはせず、愛する者を下から支えようとします。謙遜について、デボーションでぜひ主に目を開いていただきましょう。

2.『一竜一猪』(へブル5:8)
“キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学ばれました。”

★『一竜一猪』(いちりょういっちょ)の意味
 努力して学ぶ者と、怠けて学ばない者の間には、大きな賢愚の差ができるということ。
 『竜』=賢く、成功した者のたとえ。
 『猪』=無知で愚か者のたとえ。

【内容観察】
「キリストは、学ぶ必要のない完全な神であられるのに、人となられたことによる多くの苦しみを体験することによって愛の従順を現され、神の愛を証明されました。」
 
 学ぶ必要のない方が「学ばれた」とはどういうことなのでしょうか? それは、学ぶ心は謙遜である、ということからきています。「もはや学ぶことなどない」と言い切れる人間は、この世界に一人もいないことを、私たちもよく知っている。頂点に立つ人ほどその奥深さ、学ぶことの必要性を教えられ、示されるものです。学ぶことがないなどと言えるのは、よほど無知で、視野が狭く、心が狭い、愚かで傲慢な人だということになる。
 神様には本来、学ぶべき事柄などありません。すべての知恵と知識を持っておられる、創造主なる方ですから。従順でさえこの方が創られたものです。
 しかし、この方が学ぶ姿勢を持たれたのは、その謙遜な姿勢を表しています。私たちのために、学ぶ姿勢、心を手本として見せてくださっているのです。地上に来られたイエス様は、愛を100%明らかにされるために、多くの苦しみを受けて従順を示してくださいました。私たちのために、実際に目の前で手本を見せてくださったのです。

 小さな子どもを教えるホームスクールで、親は子どもに教えるために、子どもの考え方に戻って一緒に考えます。親は理屈を分かっていますが、子どもに教えるために学び直しているわけです。同じことをイエス様もしてくださっています。この愛の苦しみは、このように従順をもってお応えするのですよ、とご自分の身を低くしてへりくだって、罪人にもわかるようにと教えてくださっているのです。
 イエス様が天に帰られてからは、本質を同じくされる聖霊様が私たちの内にあって、私たちの人生を共に歩みながら、愛の従順を「学んで」くださっています。私たちが受けるものは良いもの悪いものひっくるめて全て、聖霊様も受けておられるのです。私たちの心の動きも全部わがこととして受け止めてくださいます。 

【デボーション参考ポイント】
★神の愛を信じ通すことによって愛の従順を学ぶ。
★参考聖句(詩編119:71)
“苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。”

 愛は苦しみを通してこそ知ることができます。楽をしていてはわからないままでしょう。イエス様でさえ、苦しみを通して私たちにお手本を示されたのです。

 小さい子供を教える教師には、へりくだりが必要になります。大学生に話すような言葉で、小学校低学年に話す人はいません。彼らが納得できるように教えさとすには、自分の身を低くして、わかりやすい言葉、考え方で伝えるはずです。夫婦も親子も兄弟姉妹も、共に謙遜であることをしっかりと悟っていただきたいと思います。

 こういうメッセージの時は必ずと言っていいほど試みがやってきます。けれど、自分ができないことを知っても、がっかりすることはありません。まず神様から謙遜な愛で愛され、心優しい愛でいやされ励まされて初めて、私たちも人を愛することができるようになるのです。この順番を抜かして、いきなり自分から愛することはできないのです。

「学ばねば 心に冷淡 冴え返る」

 「冴え」とは身に染みるほどの冷たさを指します。寒の戻りと同じ意味で、「冴え返る」と表現します。
 霊的な学びをしないままでいると、愛のない冷たい心が戻って来て、ごう慢になり、肉に戻ってしまいます。学ぶことの大切さを忘れないでほしいのです。学びを怠らないようにしましょう。勉強でなく「学び」であることが重要です。「学び」は多くの失敗を通して体得していくものです。
  愛のない私たちが愛を体得するのだから紆余曲折があるのは当然です。失敗や落胆にとらわれず、神様の愛を信じて、一緒に励んでまいりたいと思います。

 

 

 

 

■2015年3月1日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛による平安  up 2015.3.1


わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。
(ヨハネ14:27)

 

 

 

 最近色々な俳句や川柳を目にするようになりました。サラリーマン川柳も面白いのがあります。今日は初めに、今風の短歌を作ってみたので紹介します。

  「はっきりと 聞きたしみ声願いしも 
           したくないこと聞きたくはない」

 聞きたくないようなみことばこそ、実は自分に必要なことかもしれません。今日もしっかりとみことばから学んでいきましょう。

 私がクリスチャンになって、みんなの前で初めて暗唱したみことば(ヨハネ14:27)がこれでした。
 教会に来るまでは、ずっと不安と恐れの中で生きていました。中学生の時は周りの同級生が遊びに興じている時に、自分ひとり尺八を吹きながら山の中で、「人生とはなんと虚しいのだろう。」と悩んでいました。
 そして、生きることに対する無力さ、無感動さ、虚しさの中でずっと苦しみ続けていた時に、イエス様に出会うことができました。その時に与えられたみことばが今日のみことばです。この世と違う平安を与えてくださるのがキリストの愛です。

1.この世と異なる平安(ヘブル2:14〜15)
“そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。”

 この世は足らないものがあると不安になるので、平安(安心)になるためには条件が必要になります。例えば、ある人は通帳を見て不安になります。お金がたまっていないと将来が保証されないので不安になるのです。高齢になると年金生活になりますが、今は十分支給されないし、子や孫もあてにできないのでお金がないと生活できない結局はお金だという不安がおそってきます。また、将来の行き先がわからないという不安があります。
 この世の平安、不安は、見えるものが安心であり、見えないものは不安という考え方をします。

【内容観察】
そこで、神のかたちに似せて造られたアダムの子孫は、全員が血と肉のからだを持っているので、主も兄弟となるための血と肉のからだをお持ちになりました。なぜかというと、罪のない血と肉のからだの死による罪の贖いによって、悪魔という、死の力を持つ者の力を無力化し、生まれた瞬間から死の恐怖につながれて罪の奴隷となっていた人々を解放してくださるためであったのです。

 私たちの身体はアダムとエバの罪によって遺伝子が汚され、霊・魂・体は罪によって滅びるものとなってしまいました。そして、罪に対して何らかの裁きが死後くだされるという不安や恐れが良心からくるようになったのです。死の不安や恐れから、人生が虚しく感じられるようになってしまいました。そういう不安や恐れから神は解放してくださり、平安をくださいました。神の前には、一つの小さな罪も罪であって、神の国に入るのにふさわしくありません。神の国は本当に清らかな国なのです。この世の価値基準で罪を考えても無駄です。法律さえ犯さなければ罪ではないという基準と、神の国の基準は全く違います。

 死後何が起こるのかわからない、そこからくる不安や恐れに対してキリストは、はっきりと赦しの御業を成してくださいました。その赦されているという安心感は、この世が決して与えられないものです。神からしか与えられないのです。

 イエス様は私たちの罪を処分してくださるために、ご自身も血と肉を持ってこの世に来てくださいました。ただし、全くアダムとエバの罪の影響のない聖い神の遺伝子をもって処女マリアより生まれられ、人類の罪を一心にその身に負われて、十字架で死んでくださったのです。 それゆえ、肉体は汚れた遺伝子のゆえに滅びても、魂や霊は滅びることなく永遠の救いを得られるようになったのです。
 もし、救いの不安のある人は、もう一度このみことばを読んでください。
 滅びの心配と不安をイエス様は取り除いてくださいました。これが良い知らせであり、福音なのです。この世で例えどんな不幸な人生であったとしても「天国に行ける!永遠に神の御国で生きる!」のです。これこそ素晴らしい望みではないでしょうか。
 天国の喜びの前には、生前のどんな苦しみも一瞬で忘れ去ってしまうでしょう。

【デボーションの参考ポイント】
★ 死の恐怖は、人々にどのような影響を与えるでしょう。
 恐怖から自分を守るために、利己的、自己中心的になります。そしてこの自己中心がパターン化してしまいます。

★ 死の恐怖と貪欲とのつながりを考える
 恐怖を消し去るために、その欲望で喜び楽しみを得ようとします。しかし恐怖とは魂が24時間感じているものなので、いくら頑張っても24時間楽しめるはずはありません。それゆえ私は楽しんでも後で死の恐怖がきて、最後は死で終わるのならむしろ楽しむまいと決心しました。13歳にして、無の境地に達してしまいました。

 お釈迦様は、死後何があるかわからないと言われました。しかし、イエス様は死後も体験された方です。処女マリアより罪のない遺伝子で生まれられました。胎児は、母体からは栄養のみを受け取り、遺伝子の影響を受けないでおられることが最近明らかにされています。
 そして、33年間全く罪を犯さない人生を私たちのために送られました。それは、ひとえに十字架で私たちの罪を負われ死んでよみにくだられ、ご自身は罪がないゆえによみがえって死の力を打ち砕かれるためでした。このような罪のない人生を歩める人は、他にいません。ただ私たちを愛し救ってくださるための人生を歩んでくださったのです。

 人は欲望を満たすことに飽きることはありません。満足してやめることはないのです。やめたら死の恐怖、虚しさがやってくるからです。死を考えない人はその不安すら感じません。しかし、死は見ようが見まいが必ず訪れるものなのです。

★ 神の愛を信じる人は、死の恐怖から解放されるのです。
 赦されたという解放です。死刑を宣告されてその死刑を待っている囚人は常に死の恐怖があります。しかし、もし死刑が免除されたらその瞬間から死の恐怖から解放され、安心できるようになります。

 イエス様の十字架は、歴史においても事実として残っています。この十字架によって、人類は滅びから解放されているのです。しかし信じない人にとっては何の意味もないでしょう。この十字架に示された神の愛を信じる人々はすべて死後の滅びから解放され、赦されたという神からくる全き平安に入れられるのです。
 赦されたことを信じるだけでなく、イエス様の愛を信じるなら、例えまた不安に襲われることがあっても、信頼のゆえにいつでも平安を得ることができるようになります。これが神が与えてくださった魂の救いです。

2.『金城湯池』の愛の平安(イザヤ53:5)
“しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。”
 神が私たちに与えてくださった愛による平安は金城湯池のように、決してゆるがない完全な救いによります。この救いは、どこからも崩しようのない完璧なものなのです。
 誰でも自分のために人が身代わりに苦しんでいるのを見たら、どんな反応をするでしょうか。ただ自分が苦しまなくてよかったと喜びますか?そうはならないはずです。イエス様は私たちの罪のために苦しみを受けられました。それは私たちがその愛による救いを受け入れ、赦された喜びと平安を受けて、神を信頼して生き方をしていくことを願われたからです。
 このような完璧な救いは他にはありません。そのような愛と平安に私たちは包まれているのです。

【内容観察】
一生涯死の恐怖につながれた罪の奴隷である私たちを解放し、癒し、愛の平安でしっかりと守ってくださるために、身代わりに懲らしめられ、打たれ、刺し通され、砕かれた。

 完璧な罪の処分を成されたということです。すべての罪がイエス様によって赦されたのです。それゆえ、失敗しながら鍛錬しながらも安心して良い行いを目指して生きていきなさいと神様は言ってくださっています。

【デボーション参考ポイント】
★平安で安心できる条件を満たしている神の愛。
 あなたの安心できる条件は何でしょうか。既に神様はそれを満たしてくださっています。

★私は将来がはっきりとわかっていることが平安です。
 希望に満ちた永遠の未来を神は示してくださったのです。旧約聖書は神のことばが確かに成就するものであり、神がいかに憐れみ深い方であるかをあらわしたものです。そして、預言の通りにイエス・キリストは現れてくださり、十字架にかかってくださいました。

★ 人の心は変わります。しかし神の愛は変わりません。
 この信頼できる永遠の愛を私たちは受けているのです。死さえも滅ぼせる命にあふれた神の愛です。イエス様は死からよみがえってくださいました。不信仰は、このキリストを見えなくします。エマオの途上にあった二人の弟子たちは、最初イエス様がわかりませんでした。なぜならよみがえりを信じていなかったからです。しかし、イエス様の証を聞き、信仰が回復した時、初めてイエス様だとわかったのです。マザー・テレサは、貧しい人々にイエス様を見出しました。
 それは(マタイ25:40)にあるように、イエス様が弱い者たちの神であり、やもめやみなしごの神であるからです。彼らは本当に心砕かれへりくだった魂であるからです。そのイエス様を、全き信仰をもって見れるようになりましょう。

★愛の神に勝る平安はありません。