■2015年2月22日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛に召された歩み  up 2015.2.22


さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。
(エペソ4:1)

 

 

 

 召すとは、招待を受けるという意味です。招かれたならば、そのところにふさわしい身なり、格好をして行きますし、招待する側もその催し物にふさわしい人を選ぶはずです。
 神様は、私たち罪人を愛をもって、その愛の中に招いてくださいました。この『招く』という言葉は、一人一人個別に名前を呼んで招待してくださるという親しい関係のものです。

【内容観察】
「さて、主の愛の囚人として自ら捕われの身となっているパウロがあなたがたにぜひ実行していただきたいことがあります。
それは、神があなたがた一人一人の名を呼んで、神聖な招待をしてくださったのですから、その愛に値する歩みをするように心がけてください。」
 例えば、皇居に招かれたなら光栄に感じ、飲酒して酔っぱらう習慣があった人などは自重するなど、誰に、またどこに招かれるかは、プライベートな生活に大きな影響を与えるようです。それを変えない人は、誰に、どこに招かれたかを理解していません。理解した人がよい影響を受けています。
 どうして皇居にこのような人が招かれたのかと思わせるようなことがあるなら、招いた側への信頼が落ちます。神様は、病人を健康にするため招くと言われたように、神様の愛だからこそ、罪深い私たちが招待されたのです。義人では神様の愛は現れませんが、罪人だからこそ、神様の力強く聖く、恵み深いあわれみ深い愛が表されていくのですね。私たちは、神様の愛に招かれた人生を今歩んでいるということを考えてほしいというのが、今週のメッセージです。
 イエス様から声をかけられて人生が変わったことで、特に有名なのが、福音書に出てくるザアカイです。イエス様は、エリコの町で背が低いためにいちじく桑の木に上って、イエス様を見ようとしたザアカイに、その名前を呼んで「今夜、あなたの家に泊まることにしている」と声をかけられました。ザアカイは、驚きとともに大きな喜びを持ってイエス様を家に招いた後、考え方が変わり償う思いが与えられました。ザアカイも、愛に招かれることによって、意固地になってゆがんだ心がいやされて、すなおな心に変えられ、愛に召された人生の歩みを始めたのです。
 私たちも神様の愛に召されて変えられて、今歩みを始めていることを、人生を通して人々に紹介していけたらベストですね。

1.神の召し(ルカ8:38〜39)
“そのとき、悪霊を追い出された人が、お供をしたいとしきりに願ったが、イエスはこう言って彼を帰された。「家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい。」そこで彼は出て行って、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、町中に言い広めた。”
 「神がどんなに大きなことをしてくださったかを話して聞かせる」ことが、召された使命である。
★『神の召し』
 「神聖な招待。
 ギリシャ語)ある使命を果たすよう神から呼びかけられること。
 福音である神の愛を伝える使命。」
 私たちは、福音である神の愛を伝える使命をいただいています。義務ではなく、神様が私たちを愛してくださった愛によって与えられた変化を伝えたいという、わきあがってくる気持ちを伝えることを使命として私たちを遣わされているということです。そのために、神様は私たちに愛を示してくださって、そして与えられた変化を話して聞かせなさいと言われるのです。
 しかし、どんなに大きなことをしてくださったかに気づかないと、使命感はわいてきません。人は喜ばしいことを体験すると、表現したくなるものです。神様は、私たちがこの地上にいる間、神の愛、福音を人々に話して聞かせてほしい、神学的理論ではなく神様がどんなに大きなことをしてくださったか、あなたが受けたこと、聖書のことばを聞いて、どのように人生や価値観が変えられ今があるかを話してくれたらいいと言われるのです。
 (ルカ8:53)に出てくる人は、悪霊を追い出されたという大きな神様のみわざを体験しました。

★『悪霊』
 言葉は霊である⇒教え、思想、哲学、宗教、世界観
 病気の霊⇒あらゆる病気をもたらす霊
 死の霊⇒死の病をもたらす霊

 私たちは霊的存在者ですから、何かの霊、言葉に従って生きており、私たちの霊は、いろいろな言葉の霊の影響を受けて形作られています。もし、この世の価値観、考えを取り入れていたら、この世の霊に縛られているとも言えます。私たちクリスチャンは、神の霊、ことばに捕われ縛られています。
 この箇所に出てくる男性は、言葉の霊だけでなく、複合的に病気の霊にも捕われ、精神的な面で自分の意志でコントロールできない強い霊に縛られていたようです。
 また、死の使いともいう死の病をもたらす死の霊にとりつかれると、不治の病がもたらされるようです。死に至らない病気が2番目の病気の霊です。
 普通、私たちは悪霊に捕われていないと思うところに欺きがあります。私たちは、神様の愛のことばに縛られ、強要されている者です。それは喜んで自分が選んだ道です。つまり愛がわかったから、ぜひ神様の愛の奴隷になりたいと選んだのですね。
「不敬虔な悪の霊に、霊であるこの世の教えに縛られていた私たちは、神の愛であるイエス様によって解放され、救われたのである。」
 私自身(辻師)を考えてみても、根本的考え方が変わることが、神様から受けた一番大きなみわざだと思います。神様は、生涯唯一信じることができる愛を、イエス・キリストを通して表してくださったのです。神の愛はお金が先ではなく愛が先であり、神様の愛を知ってから、お金以上の価値あるものを見出した喜びのゆえに、愛に対しての行動が現れ、持てる力に応じて神様への感謝のささげものができるわけです。この世の霊に縛られた人は、このことがなかなか理解しにくいようです。
 言葉は目に見えませんが、確かに存在し、文字にすることができ、告白する時に霊となって、それを聞いた人は影響を受けていくのです。悪い言葉の影響を受けないためには、聞かないことです。あるいは聞いても無視していくというように、自分の意志で選び取っていくときに、自分の心を守ることができます。神様のおことばだけが真実に信じられることばとして、心を開いて受け止めていくことができます。しかし、この世の言葉は不敬虔の霊たちの言葉であり、唯一の神の存在に対して否定的ですから、まともに聞いていくと神様への信頼を弱らせ疑わせていくので、気をつけなければなりません。正しい良心で聞き分けていただきたいと思います。

【デボーション参考ポイント】
 感化されるような聖書からのすばらしいことばは、あなたの霊の一部として、人生の歩み方に影響を与えていく神のことば、神の霊です。神様のおことばをしっかり読んで黙想し、愛なる神様を感じ取り、さらに愛に触れられてほしいと願います。

2.『激濁揚清』がふさわしい(第2コリント6:8)
“また、ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。”
 推薦とは、紹介していると同意です。ここでは6章1節からの様々な出来事を通して、パウロは自分を神のしもべとして、良い者として人々に紹介しているわけです。

★『激濁揚清』(げきだくようせい)の意味
 「悪を取り除き、善を求める気持ちを高めること。」
 主のしもべと自薦するパウロの心には、悪を取り除き、主人である神様の善の働きを追い求めていく気持ちをいつも高めて生きる姿勢がありました。私たちクリスチャンにとってのふさわしい心構えも、激濁揚清の心です。

【内容観察】
「ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したり、どのようなことがあっても神に愛されている者としてふさわしく応答することによって神の愛を人々に現しているのです。」
 しもべが良い主人に生き生きと仕える時、その良い主人から良い影響を受けています。悪い主人に仕えているしもべは、生きる望みも薄れ、言われたことしかしません。
 パウロが、自分のうちに悪を除き去って善を追い求めていこうという気持ちをいつも持つことができたのは、主人である愛なる神様がどれだけすばらしい方であり、いつもしもべであるパウロに愛を注いでおられるからであり、それはパウロの喜びの姿からも見ることができました。
 神の愛に励まされて善を追い求める生き方は、主人から愛され続けているから継続できるのです。主人に仕えているから主人の愛にいつも触れ、主人が願っている愛に生きることを求め、自分を高める思いを維持できるのです。
 救われても救い主イエス様との関係が薄れ、自分のしたいことを選び取っていく人は、罪を取り除き、善を追い求める意欲が弱り薄れていき、消えていきます。
 しかし、この救いと新しく創り変えられたという心の変化を通して、もっと主人に近づき、従い、お仕えしていこう…という人は、ますます主人の愛に強く触れられ、ますます罪を取り除き、善を追い求めていく生き方になります。主人としもべの関係によって、しもべの心の動機が維持され続けるのです。
 私たちも、自分を愛し支えてくれる人のために、「よしやろう」と良い方向へ気持ちが高められるのです。愛されることは非常に大事なことです。愛されてこそ愛する力がわいてくるのです。だから神様は、まず私たちを愛してくださったのです。そして、互いに愛し合いなさいと教えてくださっています。

【デボーション参考ポイント】
★パウロの神の愛に対するふさわしい生き方は、「主の囚人」である。
 パウロは、神の愛によって召されたこの人生を、罪赦され、愛された者として主の囚人として生きていくことが自分には最もふさわしい生き方だと個人的に捉えて、歩んでいたのです。
 「召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい」とは、どんな大きなことをしてくださったかという神の愛に触れ、そのみわざに感激して、この方のために、そして、この方を主として私の神として信頼し、そのおことばを心から喜んで受け止め、従っていこうという決心を生き方で表していくようにというものです。パウロはそれを、主の囚人として表しました。あなたはいかがですか。
 神の愛に対するふさわしいあなたの生き方をはっきりし表明すると、その生き方は人々に対してもっと明らかになります。この動機づけは、神がどんなに大きなことをしてくださったという出発点が必要です。
 まだこれらがはっきりしない方は、どんな大きなことをしてくださったかに気づくように、自己中心の心を神様の愛によって取り除いていただき、正しい良心によって、客観的に神様の恵み、赦されていることのすばらしさをぜひ気づかせていただいきましょう。私たちの存在そのものに価値を見出してくださり、愛なる、創造主なる、偉大な、聖なるきよい神様の心に触れて、使命を持って生きる歩みへと一歩踏み出していただきたいと思っています。そういうことを考える一週間であってほしいと願います。
 神様はどんなお気持ちで、十字架にひとり子イエス・キリストをつけるほどに私を愛してくださっているだろう…と。そこまでして救う値うちが私にはないにもかかわらず…なぜなのだろう。愛されるにふさわしいものは私ではないのに…。というときに、この私が存在していることが、神の愛の対象だということです。何者かでなく、存在しているそのこと自体に、神様はいとしさを覚えてくださっているということに気づくときに、心の大きな目が開かれます。
 様々な苦しみ、悩みを通して、ぜひ神様が十字架で表してくださった愛に報いる、またその愛に生きる人生をこれからも選び取っていただきたいと思います。

 

『寒風に ふさわしきかな 梅の花』
 雪が降るようなときに、花を咲かせるのが梅のすばらしさであり、またこの2月に花を咲かせてこそ、梅らしいとも言えます。風の中で花を咲かせる梅のように、寒風というこの世の厳しい風の中で、クリスチャンも花を咲かせるにふさわしい存在だということです。
 あなたも寒風の中で花を咲かせる梅のように、どんな寒い厳しい環境の中でも花を咲かせてこそ神の愛にふさわしいと受け止め、梅を見て元気を出してください。

 

 

 

 

■2015年2月15日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 神に愛されている者として  up 2015.2.15


それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
(コロサイ3:12)

 

 

 

 今日も、キリストを知ることを通して神様を紹介してまいります。今まで3つ紹介しました。
1.晴れ着 
 神様に愛されている子としての証です。
2.ユニフォーム
 私たちは神のチームに属しており、お互いはチームメイトです。
3.武具の一つである鎧
 
 それを身に着けることによって、罪から守られ、罪に勝利していきます。これらは肉体的な衣ではなく、内面的な衣服です。具体的にはどんなものなのかを上のみことばで語られています。

【内容観察】
「それゆえ、間違いを犯すことのない神によって選び分けられた者、きよい神によって聖なる者とされ、愛そのものである方から愛されている者として、あなたがたは、深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容という徳を積み重ね続けなさい。」
 衣というものは着こなすことが、非常に大事です。上に挙げた5つの徳が、私たちに与えられている衣であり、神に愛されている者としてふさわしい衣です。
 
 神様は、私たちが愛されるにふさわしくない罪人であることを知っていてなお、愛し救ってくださいました。しかし、愛されている側としてふさわしくない状態で居続けることは、神様に愛された側として心痛むことではありませんか。
 
 少しでも愛してくださる方に応答できるような者に成長していきたいと思うのは当然ですね。
 日頃のクリスチャン生活を通して5つの徳を働かせて、自分を訓練してまいりましょう。
 では、5つの徳を身につけるために一番大切なことを、今からお話しします。
 
 私たち人間には不可能と思えるようなことでも、何かのきっかけで動機が与えられ、それにチャレンジする力が湧き上がってくることがあります。それは、よほどの変化がもたらされたことを示すものです。
 今日、皆さんに、今から話すポイントをしっかり考えていただきたいのです。

1.どのような方から選ばれ、聖なる者とされ、愛されているかを知る必要がある(ダニエル11:32)
“彼は契約を犯す者たちを巧言をもって堕落させるが、自分の神を知る人たちは、堅く立って事を行う。”
 
 私たちは、人から大事にされると、心が元気になるものです。自分の存在価値を見出してもらうと、大きな励みがやってきます。自信の
ない人も、他の人から自分では気づいていなかった良い点を教えてもらうと、明るい気持ちになれますね。それをきっかけにして、否定的な心から前向きになれるということもありえます。
 私たちはどのような方から選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのかを知る必要があるのはこのためです。私たちには、前向きになるための強い動機が必要なのです。

【内容観察】
「暗やみの世界の支配者は、聖なる契約に逆らう者たちを巧みな言葉をもって貪欲の虜にしてしまうが、自分を愛し救ってくださった神を知る人たちは、欺きによる誘惑に負けることなく真理に従う。」
 
 ダニエル書は世の終わりについて書かれている書物でもあります。
「彼」とは暗やみの世界の支配者のことです。

 「聖なる契約」とは、全人類に対して、「イエスキリストが私たちの罪の身代わりになって裁きを受けてくださった救いの愛を信じる者はみな、神の裁きを受けずに永遠の神の国に入ることができる」という契約です。
 
 この契約に逆らう者たちは、私たちからみればm未信者の人たちとも言えます。彼らは貪欲のとりこになるのです。彼らは支配者の思うがまま、家畜のように使われる時代になります。実際に、お金、経済は今の世界で神のごとくふるまっていますね。世界の富の半分以上が、1%の富豪たちのものになっている貧富の差の激しい時代が今の世です。
 
 神を知らない人々は、ますます貪欲のとりこになっていきます。しかし、自分を愛し救ってくださった神を知る人たちは、欺きにごまかされず、真理に従うのです。
 
 天地を作られた真理なる神、唯一なる神、愛なる神から目をかけていただいているということ。この方はご自分のものをすべて捨てて、私たちを愛してくださいました。この方に対して何かしたいという気持ちが湧き上がってくるために、この方をよく知る必要があります。

 

<聖霊様から啓示をいただくために>
(1)(出エジプト34:6〜7)
“主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。”

 イスラエルの人々がエジプトの奴隷から救われ、シナイ山の上で、モーセを通して十戒をいただいた時の出来事です。
 主の「宣言」は、変わることのない内容であるということを表しています。

A)『主』
 主権者、支配者、王。
 誰もが主と認めるような魅力を持ったお方。
 無理やりではなく、まさにふさわしい方と内側に感じられる。
 
 たとえば、天皇陛下にお会いできたら、涙が出てしまうほど感動すると聞きます。その存在感、人徳を肌に感じて圧倒されるそうです。
 主なる神は、存在そのものが人々に魅力を感じさせるような方なのです。

 「すべての舌はひざをかがめて主と告白する」ほどの仁徳を感じさせる方であり、そのオーラをまとった方。
 私たちが神様を深く悟ることができれば、与えられた愛に感謝し、畏れ多いと思うし、この方の愛に少しでも応えたいという熱意が湧いてきます。この方のために生きたい、命を捨ててもいいという気持ちに変えられます。

B)『あわれみ深い』 C)『情け深い』
 主は、裁きよりも愛を優先させる方。

D)『怒るのに遅い』
 主の怒りは感情的なものではなく、罪を裁くための怒り。
 人々が罪を犯してもすぐには裁かれない。

E)『恵みとまことに富み』
 私たち資格のない者に対して、恵みを豊かに施したいといつも思ってくださっている。私たちは不真実を行っても、神様はいつも真実をもって返してくださる。これも愛から出るご性質。

F)『恵みを千代も保ち』
 ダビデ王への恵みが有名。
 ダビデ王は非常に主に愛された人でした。ダビデのゆえに、神様は彼の家系を赦し続けられました。神を敬わない悪い王が何人も出ても、王家を滅ぼされませんでした。

G)『咎とそむきを赦す者』
 神様はまず赦したいと思われる方。その人が滅ぶことを望まれない。できることなら悔い改めて、良い方向に戻ってほしいと願われている。

 どれほど私たちの未来に対して思いやりを持ってみてくださっていることでしょうか。人を罰することをそんなに簡単にはされないのが、愛の神様です。
 ※A)〜G)まで7つが愛を基にしています。

H)『罰すべき者は必ず罰する者』
 これだけが正義とさばきについて語られている。
 絶対に放っておかないで、必ず正しい裁きをされる。

 呪いが3代4代にというのは、父親が罪を悔い改めなければ、子供の代にまた試されるということです。どの世代かに必ず罰せられねばなりませんが、試されている人が罪を悔い改めれば赦されます。
 放っておかれないのは、愛が秩序の中で守られるものだからです。罪は必ず処分されねば、秩序が乱れてしまいます。

 神様は罪を裁くよりも、愛を大事にされる方です。罪を犯しても「責められる」と思うのではなく、罪を犯してもやり直そうとするなら赦したいと思われる神様の愛ゆえに、正しい道に立ち返りましょう。
 ぜひ、聖書にある他のみことばも見て、どんな方であるかを深く思いみてほしいと思います。

(2)(第1ヨハネ4:8)
“愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。”
 ヨハネはこの三位一体の神を一言でまとめました。

【内容観察】
「愛がわからない人は、愛することを知らない人です。なぜなら、神は愛だからです。」 
 神は確かに愛なる方です。愛なる方だからこそ、罪を放っておかれません。必ず裁かれます。善行によって罪を赦されることはありません。しかし、もう既に神ご自身が送ってくださったイエス様によって代わりに罰を受けられました。神はそれほどまでに私たちを愛してくださっています。

 神様を知りたいと思うなら、愛を追い求めることです。神様をわかった人は、愛をもわかることができます。愛がわからない神様は、私たちの信じる神様ではありません。聖書の神様と違う神様を信じている人は、愛がわからないかもしれません。

 イエス様を信じている人なら、必ず愛が心の中に生まれてきます。持っていないなら、イエス様と違う神様を見ているのではないでしょうか。

 私たち自身には愛がありません。神様から愛をいただくことによって初めて、私たちは愛を持つことができるのです。

 イエス・キリストという神様の愛そのものを受け入れることによって、私たちは愛の行動である5つの要素「深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」を身に着けていくことが、自然にできていくようになります。

 神様に愛されている自分、というものを再認識することを通して、内側から溢れ出てくる神様の愛に対する感謝や喜びや感激を動機として、「深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」を着こなしていく者に成長していただきたいと願っています。

 

 

 

 

■2015年2月8日 日曜礼拝メッセージより(横路伝道師、小栗伝道師)

 愛を紹介する3  up 2015.2.8


こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。
(第1コリント10:31)

 

 

 

【内容観察】
「他の人の利益を心がける隣人愛のゆえに、あなたがたは、生活のための一つ一つのことを通して、神の御栄えの中心である愛を現すようにしなさい。」
【横路伝道師メッセージ】
1.愛を紹介する「かおり」(第2コリント2:15)
“私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。”
 愛を着る、制服を着る、キリストの衣を着る等、着た姿を見せるという「視覚」によって、神の愛を紹介することについて学んできましたが、今日はかおりという「嗅覚」によって、神の愛を紹介することについてみてみたいと思います。
 クリスチャンは、かぐわしいイエス様のかおりを、福音を信じる人々の中でも、信じない人々の中でも、誰に対しても放っているというみことばです。

(1)風に運ばれる花の香り(雅歌4:16)
“北風よ、起きよ。南風よ、吹け。私の庭に吹き、そのかおりをただよわせておくれ。私の愛する方が庭に入り、その最上の実を食べることができるように。”
 「かおり」について考えてみると、「かおり」は人を引きつける働きがあります。コーヒー店の前、飲食店の前で風にのって良いかおりがすると、食欲がそそられます。食べに来てくださいと、かおりによって紹介しているわけです。
 (創世記25章)では、エサウがヤコブの煮るレンズ豆の香りに引き寄せられ、お腹が空いていたエサウは、長子の権利を譲ってもいいと思って愚かな選択をしたことが書いてあります。
 くちなしの花の甘い香り、バラの花の上品な香り等、花の良いかおりがありますが、花は蜂や蝶を誘うため、「ここにおいしい蜜がありますよ。」と紹介するかおりを放っています。
 (雅歌4:16)は、花嫁が花婿を招くために「北風よ南風よ吹いてきておくれ」と書いてあるところですが、花嫁は、私たちと教会を表し、花婿は再臨のイエス様を表していると言われているところから、風に向かって「吹いて来て、クリスチャンの心を表す庭に実っている、御霊の実である『愛・喜び・平安・寛容・親切・善意・誠実・柔和・自制』のすばらしさのかおりを漂わせておくれ。」と言うのです。
 風のない時はわからなくても、困難や試練を表す北風が吹いてきた時に、御霊の実がひときわ良いかおりとなって周囲に漂い、イエス様の愛を紹介するのです。

(2)ナルドの香油の香り(ヨハネ12:3)
“マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。”
 石こうのつぼに入っていた「ナルドの香油」は、なんと300日分の日当にあたる高価なものでしたが、マリヤは惜しげもなくその石こうのつぼを割り、全部をイエス様に注いだのです。家の中は香油のすばらしいかおりで一杯になり、家の外までそのかぐわしいかおりが漂ったと思います。
 おそらく10グラムでも十分だったでしょう。290グラムを残しておき、それを売って貧しい人を助けた方がイエス様が喜ばれただろうに!と誰かがきびしく文句を言ったのも、わからないことではありません。
 しかし、イエス様は「なぜこの人を困らせるのですか。この人は私の葬りのために自分にできるだけの立派なことをしたのです。」と言われ、また「世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられるところなら、この人のした事も語られて、この人の記念になるでしょう。」と言われ、実際にその通りになりました。2000年も経った今日まで、このマリヤのささげ物は伝えられているのです。歴史に残ることをしたいと思うなら、出し惜しみをしてはいけないのでしょうね。。
 マリヤは、イエス様の赦しの愛にどれだけ感謝していたことでしょう。イエス様をどれだけ愛していたことでしょう。とびきり高価なナルドの香油のかおりが、その愛を今の私たちにも紹介してくれているのです。

(3)全焼のいけにえのかおり(エペソ5:2)
“また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。”
 (創世記6章〜9章)には、ノアの箱舟と大洪水のことが書かれていますが、ノアの家族8人を除いた全人類が滅び、水が引いた後に、ノアは主のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜とすべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげたと書いてあります。主はそのなだめのかおりをかがれ、主は心の中でこう仰せられた。「わたしは決して再び人のゆえにこの地を呪うことはすまい。」また、「わたしはあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。」と言われ、雲の中に虹を立て、契約のしるしとされました。
 レビ記等に詳細は書いてありますが、イスラエルでは「罪の赦し」のため、なだめの供え物として動物を「全焼のいけにえ」つまり完全に灰になるまで肉を焼いて、その煙とかおりを天に立ち上らせることが行われていました。
 しかし、動物ではなくイエス様が地上に来られ、十字架上でご自身を神へのささげ物、供え物とし、香ばしいかおりをおささげになったとあります。しかもそれは、私たちへの愛のゆえであると書いてあります。イエス様の十字架上の死は、全焼のいけにえでした。全焼のいけにえは、完全に葬られ、焼き尽くされ、その煙とかおりが立ちのぼるものです。そのかおりがしるしとなるのです。
 最初に読みました(第2コリント2:15)には、私たちクリスチャンは神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです、とあり、この(3)の(エペソ15:2)では、「その愛のうちに歩みなさい。キリストも、あなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物として香ばしいかおりをおささげになりました。」とあります。
私たちが「イエス様の愛のうちに歩む」とは、イエス様に習い、自分の十字架を負い、イエス様がされたように、互いに愛し合うために自分を十字架につけることだと思います。
 「自分を十字架につける」とは、赦せない人を赦し、愛せない人を愛するために自分を砕くことです。自分を砕くときに、かおりが放たれるのです。
◎山椒の葉も、手のひらで叩いた時、細胞が壊れて強いかおりが出ます。
◎ごまも、すりばちの中で砕かれ、すりつぶされて、良いかおりが出 てきます。
 私たちもそのままでは、かおりが出にくいのです。逆境、困難、問題の中で悩み苦しみ祈りながら、自己中心が砕かれてへりくだる時に、生まれつき神に与えられていた正しい良心が現れて、神の子の性質、御霊の実が実り始めるのです。そして、やがては香ばしいかおりが出始めるのです!!
 神は私たちを用いて、御霊の実(愛・喜び・平安・寛容・親切・善意・誠実・柔和・自制)の良いかおりを放ち、愛を紹介してほしいと願っておられます。

【小栗伝道師メッセージ】
2.神様の愛の真実を紹介する(第1コリント1:9)
“神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。”
 真実な生き方を求めている私たちクリスチャンを取り巻く環境には、八百長、データの改ざんなど、多くの偽りとごまかしがあることを思わされます。そしてクリスチャンも、真実に生きたいと思いながらも、その影響を受けやすい状況にあり、価値観が揺さぶられて、まるでやみの中に置かれているかのようです。
 さて、真実な神様の私たちへの真実な期待を考える時、やはり体験していなければ語りにくいのではないかと思わされます。約束のみことばを体験した方は、身をもって「私の信じている神様は、決して裏切ることのない真実な方です。」と言い切ることができるのではないでしょうか。そして、この真実という言葉は神のご性質の一つです。

*神は語られたことを、必ず実現される方〜真実な神が、私たちを選んでおられる光栄
(エペソ1:4)“すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。”
 神様の目でご覧になって、私たちを世界の基の置かれる前から選んでくださっており、地上で生を受け、やがて人生を終えるその時まで神の子として聖い者として見ていただき、御前で責められたり非難されたりすることのない者として成長するよう導き続けてくださっている、神様のご計画があります。
 ですから、神に選ばれた者として、十字架に大切なひとり子をかけてまでして、あなたを神の子どもとなるようにされた神様の真実な愛を考えると、自分を卑下してしまっては、神様は嘆かれるのではないでしょうか。
 さらに、十字架以外に誇るものがあってはならないと言われた、神の真実な愛の証明であるこの十字架への思いが、今日どのくらい心を占めておられるでしょうか。マリヤは「主が語られたことは必ず実現すると信じきった人は何と幸いでしょう。」と言いました。聖書で語られているみことばを、ぜひご自分に語られた約束のことばとしてお持ちいただけたらと思います。

*神へのイメージ2例
(1)イエス様のことばに従ったペテロ(ルカ5:3〜7)
“イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。
話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われた。するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」そしてそのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。”
 神様のことばは、ときに好転する見通しのない現実(状況)に投げかけられます。この時の漁はさっばりで、イエス様の話に聞き入っている群衆に比べ、漁師たちは魚が獲れなかったことを嘆いてか、話には耳を傾けようともせず、網を洗っていました。
 その中のシモン(後のペテロ)に、イエス様は声をかけられ(選ばれ)たのでした。そして「深みに漕ぎ出して、網を下ろして魚をとりなさい。」と言われたイエス様のことばを、信用できる、信頼できる真実なことばとして、データや常識、プロの漁師としての思いによる否定的な感情を越えて「あなたのおことばを信じて」とその通りにしました。信仰の行動には神への信頼が伴います。疑いが生じると、行いには至りません。

<参考>(第1コリント10:13)真実な神が与える試練に対して
“あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。”
 真実な神様は、神の御国に導くため、信仰を持った人を例外なく試み、苦難を通しておられます。試練は、肉の持つ苦々しさ、心の中に浮かんでくる聖められていない部分を示し、取り除き、神の子として成長させるためのものです。困難と思えるその状況も、「必ず通り抜けさせてくださる真実な神様に期待し、私たちが忍耐をもって耐える強い力のある者にしてくださる」と信頼できるようになるためです。

(2)1タラントのしもべ(マタイ25:24〜25)
“「ところが、1タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』」”
 彼は主人を「ひどい方」だと語りました。その言葉の裏には、成果を出さねばならないという世の流れ、価値観によって非難されたくない、責められたくないという自己愛が表されています。
 しかし、主人である父なる神は、私たちを責める方でしょうか。大切なひとり子を差し出される愛の方が、私たちを「できてない」と結果に対して厳しく戒められる方でしょうか。
 不完全な私たちでも、純粋な思いで行動しても、相手側にうまく伝わっておらず、逆の思いに受け止められたりすると、がっかりします。ましてや、完全なお方である父なる神様にとっても、1タラントのしもべのことばは、神様の真実な思いを踏みにじったと言えます。不足に思える状況が起こった時こそ、「わたしの神様は真実な神様」と思いを入れ換えてください。
 さらにこのしもべは、自分の力で結果を出さなければならないと思っていたかもしれません。信仰の歩みを自分の力でやり通さなければならないという思いは、頼りにならない自分の行いにかけているようで、神様の真実な愛に思いが向けられていません。
*真実一路の生き方
 『真実一路』(しんじついちろ)の意味
      =「偽りのない真心をもって一筋に進むこと。」
<参考聖句>
 (ヘブル10:23)
“約束された方は真実ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。”
 約束してくださった方は、私たちを神の子どもとして最後まで導くと言われた方で、最後まで信頼できる間違いのない方です。ご自身のみことばをもって真実に守ってくださる方ですから、抱いている希望、すなわち私たちを神の子どもとして完成させてくださる、大変な出来事も必ず抜け出せるようにされ、また歪んだ心を聖めてくださる…など、完成させてくださる神に感謝をもって、目に見える出来事に心を揺さぶられず、神様に告白してまいりましょう。
 (ローマ12:9a)“愛には偽りがあってはなりません。”
 私たちの生き方から、偽り、ごまかし、不誠実さを取り除く。
 良心には自分の非を認める働きがあっても、自己中心(肉)は非を認めないと、以前、辻先生から学びました。どんな評価をされても、正しい良心の声をかき消さないように。ごまかすことをしない生き方をしてまいりましょう。自分の見たくないものを自分の内に見たときこそ、「聖めてください。」と祈りたいものです。
 出来事によっては、打ちひしがれそうなところも通るクリスチャン人生ですが、「神は真実な愛の方で、決して裏切られる方ではない。」と告白していきましょう。また、その思いが守られるためにも、神の家族の交わりの中で、励まし合い祈り合ってまいりましょう。

 

 

 

 

■2015年2月1日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛の武具(鎧)  up 2015.2.1


悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。
(エペソ6:11〜13)

 

 

 

 これまで、「キリストを着る」という観点から学んできました。今日は、私たちを愛してくださった父なる神様が、私たちのために特別に創ってくださったキリストという愛の衣を人々に紹介していきましょう、という話の第3回目です。

キリストを着る3つの特徴
1)そで付きの長服〜晴れ着(1/11礼拝メッセージ)
 〜神に愛されているすばらしさを紹介する〜
 神は私たちを特別に愛されています。イスラエルの先祖のヤコブは、12人の息子のうち11番目のヨセフを最も愛したしるしとして、そで付きの長服を与えました。自分の財産を継がせたい思いの現れです。
2)愛というユニフォーム(1/25礼拝メッセージ)神の愛である、互いに愛し合うすばらしさを紹介する
 私たちは、互いに愛し合う関係の、同じチームに属する者同士です。
そして今日ですが、
3)愛の武具である鎧を通して、愛による勝利のすばらしさを味わい知り、生きることを紹介する

1.神の愛に立ち向かってくる存在(エペソ6:11)
“悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。”

【内容観察】
「私たちが闘う相手は人ではありません。人を通して闘いに挑んでくる暗 やみの世界の支配者である悪の霊たちとの闘いです。」
 こちらからではなく、相手から仕掛けてきたときに「立ち向かう」と言います。

(1)私たち神の愛を信じている者を攻撃してくる存在がある。
 普通の服装では攻撃されると傷を受け、場合によっては一度の攻撃で致命的な状態(信仰を失う、永遠のいのちを失う)など、サタンの惑わしによって神様の愛から離れてしまうことも起こりうるかもしれません。そうならないためにも「キリストを着る」、すなわち神の武具を鎧として身に着けることが必要です。
“身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。”(第1ペテロ5:8)
 こういう状況があることをよく認識され、キリストの武具を脱ぎ捨てることのないようにしていただきたいと願います。
 あなたが神様の愛を信じているというだけで敵視し、攻撃する存在があるのです。これは血肉を持っている人ではなく、霊的存在者である悪の霊です。
(2)敵の策略への対抗のためにも武装することが必要
(3)常に狙われている
 (ネヘミヤ4:7〜23、6:15)に、城壁再建をねたんで工事を妨害してくる敵から守るため、武器を片手に修理にあたり、武装したまま眠ったとあります。鎧を脱がなかったのです。そして、奇跡的に52日で修復を完成したという記事が載っています。
 私たちも油断することのできない状況に取り囲まれています。

2.闘いの相手は人ではなく悪の霊(エペソ6:12)
“私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。”

 人を争わせるために悪の霊たちが用いるのは、貪欲です。欲望が制御できないと、貪欲という悪いかたちに変わります。人は、この欲に誘われて罪を犯し死に至るとヤコブ書に書いてあります。悪の霊は、欲を用いて人と人とを争わせます。すべて自分中心に物事を考えていくのが、貪欲の特徴です。闘いの相手を間違えないようにしましょう。
 私たち人間は、愛し合うために創られたのです。ですから、互いに愛し合うことこそ私たちの存在目的であり、創られた目的です。争いは私たちの歩むべき道から外れており的を外していますから、罪と言います。本当の敵は、悪の霊であり欲の背後に身を隠しています。欲で私たちを操り、争わせるのです。
 自制心の強い人には、争いを避ける人が多いでしょう。自制心の弱い子どもにけんかが多いのは、欲がぶつかり合っているからです。戦争も同様です。自分の領土を増すために、弱い民を制服し従わせて、自分の利益としていくのも、欲が中心です。
 旧約聖書に出てくる記事で、イスラエルの民がカナンの地に入った時に、そこにいた7つの民を、神様の命令で聖絶したり奴隷にしたりしましたが、自分たちの利益のためではありませんでした。イスラエルはあくまで神が指定された領土内に収まり、それ以上は増やしませんでした。「神が与えた以上の土地を持ってはならない」という神の教えがあったからです。「エドム人の土地を奪ってはならない、そこを通る時には水や食べ物を金銀で買い取るように。」と神は言われたのでした。つまりイスラエルの民は我欲ではなく、神の約束を守ることが動機だったので、神が言われた以上のことはしませんでした。そのイスラエルの民が貪欲に走った時に、神様の懲らしめを受け、領土をなくしたのです。欲のない人は争いが少ないですね。

★人を争わせる手段として悪の霊たちが用いるのは、『貪欲』である。
 私たちの闘いは、人を操る悪の霊との闘いであることを忘れないようにしたいですね。

3.『被堅執鋭』(エペソ6:13)
“ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。”

★『被堅執鋭』(ひけんしつえい)の意味
 「堅固な鎧を身にまとい、鋭利な武器を持つこと。完全武装。」
 邪悪な日は突如としてやって来ます。

【内容観察】
「ですから、敵が仕掛けてくる卑怯な攻撃に対して対抗できるように、また、神のみこころである御国を建て上げるために、神が身につけるようにとお与えくださった愛の武具を、すべて身に着けましょう。」

 悪の霊は、正当な闘いをしない相手であることを知っておいてください。ルールにのっとった闘いをすることなどありえません。私たちの、神の前における正しい良心の考え通りに悪魔は動きません.あなたを欺き、偽り、裏切り、聖い心を汚してくる卑怯な相手です。どんな手を使ってでも、私たちを神の愛から引き離そうとしてきます。例えば多数決によって「聖い愛なんて意味がない。」と社会的な価値観を押しつけてきます。それがまるで間違いではなく、正しいかのようにです。
 サタンは、真理を欺いて正しい者を滅ぼそうと働きかけてくるのです。聖書の真理と反対のことを真理として受け止めてしまわないように、愛の鎧を着けてしっかりと守らなければなりません。卑怯な手段にも対処できるために、愛の鎧を着けることが絶対必要です。彼らが卑怯者であることを、ゆめゆめ忘れないようにしてください。
 さらに、鎧は致命的な傷に至らないように身を守ります。丈夫な鎧があれば、一撃では倒れません。悪の霊は卑怯者ですから、傷を負わせるようなだまし討ちをしてきます。その不意打ちにも耐えられるように、鎧は絶対に必要です。例えば相手がクリスチャンだから大丈夫と思う安易な心は、鎧を脱いでいます。クリスチャン同士でも大丈夫とは言えません。クリスチャンは罪人なのです。当然ぶつかり合います。キリストの衣を着ている同士だから、つまずかないのです。衣を脱げば、自己中心の罪の姿が現れます。また、正直者だと自負して「思いのままに生きる」というのは、衣を脱いだ状態です。私たちは「赦されている罪人」に過ぎず、イエス様を信じても罪を犯さなくなったわけではありません。イエス様の贖いのみわざのゆえに、罪を犯しても赦されているだけであって、罪は犯し続けているのです。だから、互いに赦し合うキリストの衣が必要なのです。
 しかし、片方しかこの赦しの衣を着ていない状態は辛いですね。いつまでも溝ができたままです。寄り添っても受け入れられないというのでは、傷ついてきます。その傷が致命的にならないために、キリストの愛の衣を着ているなら、あなたに対して厳しい態度を取る相手でも受け止めることができます。衣を脱いで争い合うのは、敵の卑怯な策略にはまってしまうことになります。
 やみに対する光の武具は、神の愛だけです。敵であるやみの主権者である悪の霊を力のない者にしてしまうのは、神の愛だけだと信じています。最後まで完全武装して、神のみこころをなしとげていく心をもって歩んでいきましょう。完全武装の必要性を理解してください。

●参考ポイント(第1コリント13:4〜7)
“愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。”
 このみことばに、愛の武具のすばらしさが書かれています。しかし、あなたが努力してできることではありません。あなたは衣ではないからです。このみことばの内容は、衣の力、愛の力、キリストの力です。武具に秘められた力があり、私たちの肌では、剣を降られたらたちまち傷つき、あるいは切断されてしまいます。頑丈な鎧は、それに耐える力があります。私たちがどんなに鍛えても、剣を跳ね返す肌にはなりません。
 間違えやすいのは、私たちが努力して寛容などの愛の実を結ばなければならないと思ってしまうことです。
 所詮、罪人には無理な話です。だからこそ、神様はあなたにキリストという愛の鎧を与えて、ああなたを守ってくださるのです。あなたには力がないから、愛の鎧が必要なのです。力があったら鎧は不要です。
 私たちは鋼鉄のからだではないので、イエス・キリストの愛の衣によって、敵のあらゆる偽り、私たちの正しい良心を傷つけてくる剣を跳ね返すことができるのです。
 また、私たちには武具の使い方が委ねられています。兜を水汲みの道具に使うことも自由ですが、本来はその人の頭を守るためのものです。武具が持つ力は変わりませんが、使い方が悪くて武具の力が発揮できないことはあります。神様の愛の衣を着ているのに、使い方が悪いためにその力が全然発揮できないことがあるのです。ですから、聖書から使い方を学ぶ必要があります。
 キリストを着るとは、神の愛を着ること→心を神の愛で満たすこと→神様の寵愛(恩寵)をいつも感謝することです。
 聖霊は、神様の愛そのものであられるお方です。聖霊に満たされるとは、神様の愛に満たされることと同じ意味を持ちます。そのために差し出されたものを受け入れることが必要であり、それは感謝することです。私たちは、御子イエス様が私の罪の身代わりに十字架で苦しんでくださったこと、イエス様が葬られた時に私の過去も全部葬ってくださり、たとえ過去の記憶が残っていてもそれに囚われることはないようにしてくださったこと、イエス様の死と葬り、そして私が現に生きているのは、イエス様がよみがえられて、その御霊が私の内に住んでおられ、よみがえりのキリストのいのちのうちに私は今ここにいることを感謝します、と…。私はこんなに神様から愛されている、神様から心を向けられていると…。
 私たちができるできないで、神様から注がれた愛の量が変わるわけではありませんね。条件はついてないのです。自分で神様の愛を量らないでください。ともかく愛されているから、何でも感謝の心が湧き上がってくるように、神様がしてくださったみわざ、聖書に書かれている私たちへの約束のことば、それらを全部思い巡らしてみてください。そして神様に愛されていることを実感して、愛を内側に満たしていくこと、これがキリストを着ることです。キリストの衣は、神に愛されているという衣なのです。

『樹氷見て 神のたまもの 愛の武具』
 
 樹氷が神様のわざであるのと同様に、キリストの愛の武具も神様からのたまものであり、神様が織りなされた愛のわざによる衣です。

 

 

 

 

■2015年1月25日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 制服は愛  up 2015.1.25


バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。
(ガラテヤ3:27)

 

 

 

“こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。”(第1コリント10:31)
 神の栄光というものがわからない時は、このみことばをカルト的なイメージで受け取ってしまいがちです。神の栄光とは誉れであり、繁栄であり、輝きです。そして神様にとっての誉れとは、天地創造の力ではなく「愛」です。
 この世の神々の愛は欲望が動機になっていますが、本当の神様はご自身が愛そのものたるお方なのです。
 本当にきよい愛を求める者ならば、その心には敬虔が伴っています。きよい愛を求める人は、神を求めています。この神は、私たちを救うために遣わされたイエス・キリストであり、また遣わしめた父なる神でもあられます。私たちは、このすばらしい神様を現すために飲み食いなどの生活をしているのです。その愛を受け入れ、その愛を知ったからです。人はすばらしいものに触れ、すばらしいものを知ると、人に言いたくなるものです。神の栄光を現すとは、神の愛を紹介することに他なりません。
 イエス様は、受精卵の状態から私たちの所に来てくださり、私たちの人生を隅々まで知ってくださるほどへりくだられたお方です。1/18に学んだ「ヨセフの長袖の服」は、王様のガウンに似た豪華なものなのですが、私たちが着せていただいているイエス様も、正にそのような存在です。
 私たちは自分が着せていただいている長服を人に見せて、「私のような者でもこのように愛をくださっているのです。あなたも同じように愛されているんですよ。」と紹介するのです。着せていただいているこの服について、今日は(ガラテヤ3:27)より、制服としての意味合いから学んでまいりましょう。

1.主題聖句より(ガラテヤ3:27)
“バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に来たのです。”
【内容観察】
「神の愛であるキリストを信じたことの表明としてバプテスマを受けたあなたがたは、神の国に所属する者であり、そのしるしとしてキリストという制服を身に着て、神の愛の働きをする者なのです。」

A)制服は所属を現す
 「私はこれから神の国に籍を置く」との宣言が、バプテスマによってなされます。そして、それぞれの国にある民族衣装(これもユニフォーム)は、神の国の場合、キリストなのです。

B)制服は働きを現す
 色々なスポーツチームがありますが、どこも一目でチームがわかるユニフォームを着ています。それは所属を明らかにする役割を持ちます。キリストを着る私たちも、自分の所属を明らかにします。私たちの感覚が、この世の文化や常識と違うのは当然です。

C)制服は自覚を与え、周囲の人々への証となる
 警察官が制服を着て巡回中に、ポケットからお菓子を出してポリポリ食べたりするでしょうか?勤務中に交通ルールを破りますか?見たことがないですね。
 私たちは服装によって、自分の考え方や行動を自制します。そぐわない行動はユニフォームを汚すことです。ひいてはその組織や仕事全体の恥となります。

【デボーション参考ポイント】
★キリストのユニフォーム(制服)を着ている
 ただキリストは見えない服なので、意識を保つための工夫が必要です。忘れると、元の罪人の習慣に戻ってしまいます。警官が巡回中にマンガの立ち読みをしていたら変ですね?
【ヒント】
 人目につくものを身に着けること。人から「この人はクリスチャンかもしれない』と気にして見られるようにすれば、自分を律するのに役立ちます。
 また、兄弟姉妹と過ごす時間を多くするほど、着ているキリストに恥じない生活をしやすいものです。食事や遊びを一緒に過ごしてみましょう。これらのことを通して、神の愛の衣を着ていることを自覚してまいりましょう。

2.『愛心戮力』の喜びを紹介(エペソ4:16)
“キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。”
★『愛心戮力』(あいしんりくりょく)の意味
 「互いに愛の心をもって力を合わせること
 辞書には『同心戮力』とあるが、『同心』を『愛心』にしたもの。」

A)「一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力」
◎競ったり比較したりせず、互いの存在を大切にするすばらしさ。
 有能な者は何でもできるでしょうが、小さな者は切り捨てられるのがこの世です。しかし神様の愛にある社会では、力量にふさわしく働くことが重要であり、2の力を持つ者は、その2の力を出し切ればよいのです。神様はその人を認め、大事にしてくださいます。
 教会も天国もエリートを集めているのではありません。神様にとっての役立つ、役立たないの基準は「愛」であり、愛を信じて受け入れている人であれば、能力に関係なく、その存在を喜んでくださいます。
 あなたの人生はあなたにしか歩めないものであり、どこの誰も埋めることはできません。どっちがすぐれているかなどという比較は不可能なものなのです。私たちにはとても難しい価値判断のやり方ですが、神様がその視点で私たち罪人を見てくださっていると考えれば、とても安心なことではありませんか。
 競ったり比較したりせずに、互いの存在を大事にするすばらしさが、この服を着ている人たちの人間関係、社会なのです。

B)「備えられたあらゆる結び目」
◎一人一人に備えられている「とりなし手」がいる安心。
 人格や生活環境がまったく違っていても、一つからだに属する器官ならば、必ず手を結ばねばなりません。そんな時にも、必ず備えられた結び目があることが、みことばからわかります。まったくそりが合わないと思われる人とも、神が与えられた結び目の働きをする人(とりなし手)があれば、つながることができます。とりなし手の祈りを通して、そりが合わない誰かともつながり続けることが可能なのです。これは奇跡ですね。

C)「愛のうちに建てられるのです」
◎何よりも神の愛を基として育まれていく喜び。
 クリスチャン同士のつきあいで傷ついたりしても、数年後には「神様はあのようにして私を取り扱ってくださったんだな」と、気づくことが多々あります。問題の渦中にある時は気づかなくても、後に振り返るとわかります。私たちは愛のうちに建てられているのです。
 自分にとって気にくわないとか理解できないなどの自己基準で良し悪しを決めるのは、自分の内側だけに留めておいてください。愛なる神様の判断や物の見方は、私たちとは異なります。あなたにとって不要でも、神様にとっては必要なのです。

【デボーション参考ポイント】
★人生をキリストのユニフォームを着て共に生きる生きがい。
 皆さん、愛の制服を着ることを誇っていただきたいのです。良い誇りは自分の心を守ります。
 神の子としての自尊心を守るために、着せていただいているキリストを誇ってください。それは自分自身を誇るのではなく、愛してくださった神様を誇ることです。これを誇るがゆえに、私たちは自制します。
 服が持つ価値や大事な意味を知らない者は、乱雑に扱い、汚します。しかし、それを知った者は汚すまいと決心し、実行します。それは両親の遺品に似ています。他人にはボロボロのつまらない物でも、持っている当人には、親の恩を思い出し、自分を律するための親の教えを思い出すための大事な品なのです。これらは愛がわかってこそできることです。
 また、神の愛を誇りとするということは、愛というチームに属していることを誇りとすることでもあります。そのユニフォームを着ていることに喜びを見出しましょう。また、そのユニフォームを着て働けることの喜びを。
 ユニフォームは、私たち罪人を律し神の子として創り変えられたことを持続するための、大きな力をもたらします。そして、同チーム内で互いの苦闘を分かち合い、真意を理解し合い、兄弟愛を深めてまいりましょう。神様の最終目標は、互いに愛し合うことのできる良いチームであるということです。
 (ローマ15:1)“私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。”とのみことばを大事にして、私たちはすべての兄弟姉妹を、その力量にふさわしく受け入れていこうではありませんか。どうしても受け入れられない時には、「神様、どうぞ結び目なるとりなし手を送ってください。」と願いましょう。そして、すべては神の愛によって建て上げられているのだと認めることです。

『いつくしむ 愛の心は 冬牡丹』
  
「冬牡丹」は冬の季語であり、火鉢の比喩でもあります。
 罪の寒い世の中で、愛の衣を着せられた人は、まるで火鉢のように人を暖めるのです。

 

 

 

 

■2015年1月18日 日曜礼拝メッセージより(小栗伝道師、横路伝道師)

 愛を紹介する2  up 2015.1.18


こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。
(第1コリント10:31)

 

 

 

【小栗伝道師メッセージ】
 神の本質である愛によって生かされることに、すべての生きる目的があります。神の方がまず私たちを愛してくださいました。人生で、挫折や大きなダメージを受ける出来事の中でも、まだすべてを悟りきれていなくても、神の愛の中で導かれていることを感謝します。

1.愛を紹介する(箴言10:12b)
 “愛はすべてのそむきの罪をおおう。”
 先週の辻先生のメッセージで、放蕩していた弟息子の帰りを今か今かと待ちわびた父親が、惨めさと罪深さの極限で「雇い人にしてもらおう」と帰って来た弟息子のために、「急いで、一番良い着物を着せてやりなさい。」と言われたことを中心に語られました。
 
 神は、私たちがどんなに低く自己評価したり、平気で罪を犯したりする状態であっても、罪人の私たちの身代わりに、ひとり子イエス・キリストを十字架にかけて罪人の罪を赦すという「すべてのそむきの罪を赦す」愛を紹介してほしいと願っておられます。
 
 私(小栗伝)は、一向に開かれない進路に悩み苦しんでいた時、偶然に家に来られていたある姉妹の「教会に行ってごらんよ。」との一言によって、救いに導かれるきっかけとなりました。姉妹の言葉が私の心をとらえ、教会に足を運ばせましたが、姉妹の性格、生活環境は全く関係ありませんでした。これが紹介する側の状況に関わらないということではないでしょうか。

★紹介したい愛
 紹介したい愛という時、神様との関係に大きいウエイトが置かれます。(第1コリント10:31)は、神様が罪人の赦しのために、御子を十字架にかけるほどに愛された者として、神様の栄光(名誉)のために、すべてのことを行っていこうではありませんかということではないでしょうか。
 
 1954年に座礁した青函連絡船洞爺丸に乗っていた二人の宣教師(ディーン・リーバー、アルフレッド・ストーン)は、身につけていれば助かったかもしれない救命具を、「私たちはもう救われています。けれどもあなたがたは救われていません。助かったら、必ず教会に行って救われてください」と周りの人に渡し、自分たちは沈んでいきました。なぜここまでできるのかと考えた時、神様が個人的に自分に何をしてくださったかという恵みの内容、愛への受け取り方に尽きると言えます。紹介したい愛とは、どうしても紹介したくてたまらないほどまでも意味します。プロスポーツ選手、芸能人、その方々に心酔したファンならば、とことん紹介したいはずです。
 
 では神様に対してはいかがですか。どうしても紹介したいほどの方でしょうか。知識では、御子を十字架にかけて、私たち罪人が天の御国に入ることができるように道を備えてくださったと知っているでしょう。しかし、神から心が離れていると、「そんなこともあるでしょうね」と冷ややかな反応をしてしまうことさえあるのです。

★父なる神の御思い(ローマ11:4)を知る
“「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある。」”
 (第1列王記19:10)以下のエリヤの記事がここでも取り上げられています。
 神はバアルという偶像を礼拝しない、救われるべき魂をご存知で、残しておられるというのです。まだ神様の所に来ておられないかもしれませんが、残してある。だから神様は「わたしのもとに帰って来てほしい。」と願われ、神の愛を知っている罪人の私たちに紹介を託しておられるのです。時が終わらない内に、何とか声をかけてほしいと。

★今の自分にできることとは
 いかに神様が恵みを注いでくださったか、悔い改めも含め、ご自分の状況を再度顧みてみましょう。さらに、神の栄光(名誉)と言いながら、私たちの肉の働きは、どこかで自分自身の名誉としたいところがあります。神御自身が現されたことを「私がしました」と、肉の働きに走っては神の栄光を現したことにはなりません。
 
 カラスが荒らした教会の裏の家々のビニルゴミを、ある姉妹が再びかき集めておられました。しかも数回されたと聞いています。その姉妹に「クリスチャンだから」というような、誇るところは少しもありません。まさしく、その時の必要に心が動かされてされた愛のわざです。自分ができることと言いつつ、神に栄光を帰さず自分の名誉にしようとするようなことがあれば、動機を問われる必要があります。
 
 また、「今の自分にできること」という時に、プレッシャーを自分にかけて「良い事をしなければ」と思ったり、人の目に自分がどう映っているかを気にしたりする思いを持つことがあるかもしれません。
 イエス様はまずいのちを与えること、愛を施すことを惜しまれなかったことを、ぜひ覚えておきたいです。ですから、私たちも自分のできる分を「惜しまない」心を持つということは必要です。他の人の必要を感じたならば、分に応じて動くことが求められるのではないでしょうか。
 (ゼカリヤ8:23)を見ると、紹介された神様のところに私も一緒に行きたいと言っています。冒頭の姉妹からの「教会に行ってごらんよ」という神への信頼の言葉が、苦しみあえいでいた私に届きました。今も失望落胆の中におかれている方々に、罪人の罪をおおってくださる神の愛を紹介することが、今の私たちにできることではないでしょうか。神は義の衣を着てほしいと待っておられます。

【横路伝道師メッセージ】
2.感謝による『愛』の紹介 (第2コリント4:15)
“すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためです。”
【内容観察】
「主イエス様の十字架のあがないによる罪の赦し、義とせられ永遠の命を約束された恵みを、ますます多くの人々が信じ救われ、私たちの感謝はあふれ、神様がほめたたえられるようになるのです。」
 
 色々な方法で神の栄光を現すことができますが、私は感謝を通して神様の栄光が現されることに目を留めました。
 サッカーや野球の選手の中で、ゴールしたり、ホームランを打った時に、天を仰いで指を指したり、ひざまずいて十字を切ったりするクリスチャン選手がいます。彼らは、自分の力でなく神の助けであると、神に栄光を帰しているのです。
 
 動物たちは生き生きと生き、植物も瑞々しく成長して花を咲かせ実を実らせる姿を通して神の栄光を現しています。創造主である神様はこれらをご覧になり、喜んでおられると思います。
 人は霊的存在なので、神様の愛に感謝をもって応答することが可能です。祈り、賛美、礼拝、等により感謝を現します。
 人が生き生きとして人生を生き、神に感謝をささげるなら、神様はとても喜んでくださると思います。そこに神の栄光が現されると思います。
 私たちが人から良い言葉をかけられたり、良いプレゼントをもらったりした時、「ありがとう。」と感謝を現すのは自然であると思います。そんな時、当たり前と思って感謝しないのは正しい反応ではありません。また、相手に心から「ありがとう」と感謝できる人は、相手にも喜びを与えています。

 さて、私の娘の友達で「Mちゃん」という女性がいます。私は一度も会ったことはありませんが、娘が「Mちゃんはね、何でも、とってもとってもおいしそうに、『おいし〜い!』と食べるんよ。」と話したことがあります。
 食べ物を感謝して食べる時の最高の表現は、「おいしい!」と心を込めて言うことだと思いますが、このMちゃんがいつも食べる時にすごくおいしそうに食べながら言う「おいしい!」の言葉は、その食べ物を作った人への最高の感謝の表現と思います。Mちゃんは感謝の達人なのかもしれません。

 私が20才くらいの時、教会で皆さんと一緒に夕食をいただいたことがあります。その時の食事中に牧師夫人が私に教えてくださった言葉があります。「食べる時には黙って食べるのではなく、おいしいとか何か感想を言うのですよ。」と。
 私は多少緊張していて、黙々と食べていたのですが、黙って食事を食べるのは、たぶん食事を作ってくださった方に対して失礼であり、「おいしいですね!」とか感謝を現して食べることが良いことなのだと、その時教えられたのです。その時以来、私は食事の時に「おいしい」と言って食べるよう、感謝を表現するよう心がけるようになりました。
 しかし、生かされ、救われ、日毎に神様からたくさんの恵みをいただいているのに、私はまだまだ感謝が足らないと感じています。感謝の達人になりたいものです。
 
 最近、次のような話を聞きました。地方出身で東京近辺に住んでおられるクリスチャン一家の、小学校一年生の子どもさんが、この度洗礼を受けることになりました。それで、ご両親は故郷の父親にこの子どもさんの口から、洗礼を受けることになった報告の電話をさせたというのです。
 このお父様は昔から熱心な仏教徒で、お寺の住職さんを一ヶ月おきに(もう一人の方と交替で)自宅に招き、お経をあげてもらうほどの方でした。最近はその住職さんも高齢になり引退され、お寺には後に来る人もないという状況だったそうですが、お孫さんであるこの子どもさんから「おじいちゃん。今度洗礼を受けるんよ。」と聞いたその時、おじいさんは意外にも「そうか。わしも一緒に洗礼を受けようかのー。」と言われたのです。
 長い間この父親のために祈り続けてきたこのご夫妻は、これを聞いて感激して踊り回るほどの感謝をしたそうです。
 それからしばらくすると、このお父様はご夫妻の母教会に通っていて、ご奉仕も始めておられるということでした。ハレルヤ!

【参考聖句】
(コロサイ3:17)
“あなたがたのすることは、ことばによると行いによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。”
(第1テサロニケ5:18)
“すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。”
 
 「すべての事について感謝しなさい」とありますが、少しこれはハードルが高いみことばだと感じておられる方が多いと思います。良いことが起こった時は感謝しやすいが、悪い状況の時にも同じように感謝することは、なかなかむずかしいからです。
 しかし、クリスチャンは、少し世の中の人と違うと思います。それは、「神がすべてのことを益と変えてくださる」という約束のみことばがあるからです。
(ローマ8:28)
“神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。”
 困難や問題の中にあっても「神様がすべてのことを働かせて益としてくださる」と、このみことばの約束を信じている私たちは、どんな時にも感謝することができるのです。悪い状況の中にある時であっても、聖書の中には、神様からの励まし、助けなど約束のみことばがたくさんありますから、私たちは失望することなく感謝できるのです。
多くの殉教者たちも、死を目前にして聖霊に満たされ、感謝して召されていきました。彼らは御国に入る希望にあふれていたから、感謝できたのです。
 神様は、私たちに、困難や苦しみの中で失望してはならない。必ずその状況から脱出させ益とする、祝福する備えをしているから、そのことを待ち望み、喜びなさい。「先取りの感謝をしなさい。」と言われているように思います。
 
 また、私たちは相手から感謝されることは嬉しいことであり、お互いに受ける喜び与える喜びを味わう良い機会が生まれると知っていますが、神様も私たちが感謝することをとても喜んでいてくださり、感謝することを待っておられるように思います。
 
 私たちが、良い時もそうでない時もどんな時にも神様に感謝している様子を世の人々が見る時、それはとても良い証しとなります。私たちがささげる感謝を通して、神に栄光を返し、神の愛を紹介することができると思います。
 私たちはすべてのことに感謝する者、先取りの感謝をする者、絶えず感謝しているクリスチャンとなるよう目指したいものです。

 

 

 

 

■2015年1月11日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛の衣装  up 2015.1.11


わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。
(イザヤ61:10)

 

 

 

 今年のモットーとなる主題聖句は(第1コリント10:31)です。最も神の栄光を表すものは愛です。この愛であるイエス・キリストを私たちは紹介する年としましょう。そのためにも、このみことばを告白し続けましょう。

 今週は「愛の衣装」という面から神様の愛を紹介します。今週のみことばを読むと、いかに神が私たちを愛してくださっているかがよく分かります。
 神は愛の衣装を私たちに着せ、飾ってくださっています。正義の外套とは正しい良心のことです。正しい良心が汚されないように、神は守ってくださっています。こんなに愛されているということを知って、神様の愛をさらに人々に紹介していきましょう。

1.『綾羅錦繍』は愛の贈り物(創世記37:3)
“イスラエルは、彼の息子たちのだれよりもヨセフを愛していた。それはヨセフが彼の年寄り子であったからである。それで彼はヨセフに、そでつきの長服を作ってやっていた。”

★『綾羅錦繍』(りょうらきんしゅう)の意味
 上質の素材を用い、刺繍を数多く施した美しい衣服。
 また、きらびやかな衣服を身に着けつこと。
 高貴な人が着る美しい衣服のこと。

 イスラエルとはヤコブの名前であり、その父はイサクです。さらにその父はアブラハムです。
 
 ヤコブの時に12部族が産まれました。イスラエルの12人の息子のうち、11番めの息子ヨセフをヤコブは誰よりも愛していました。それゆえ彼にそでつきの長服を着せてやっていました。

A)そでつきの長服がヨセフに与えられた理由は何ですか?
 ヨセフにこの長服が与えられた理由は、彼が息子たちのうちで、父から最も愛されていたからです。ヨセフはヤコブが年をとってから生まれた子であり、さらに最も愛した妻ラケルの息子でありました。

B)そでつきの長服に込められている意味は何だと思いますか?
 この意味は、ヨセフが11番目の息子であるに関わらず、イスラエルに相続人として認められていたからです。そでつきとは派手であり、目立つほど豪華な衣装です。この特別な服をもらったということは、イスラエルの全財産をもらったという意味でもあります。

C)父ヤコブと長服とヨセフは、それぞれ何を象徴しているでしょう 父ヤコブは父なる神を表し、長服はキリスト、ヨセフは私たちクリスチャンを表します。ヨセフは完全であったから選ばれた訳ではありません。年寄り子であり、愛する妻の子という理由で選ばれたのであって、彼自身の能力や才能、人格にはよらない選びでした。存在そのものが大切だったのです。

 長服がキリストであるというのは、キリストを着るということです。昨年語ったように、キリストを受け入れた私たちは、キリストを着た者として、キリストにふさわしい生活をするべきなのです。私たちは至らない者なのに、ヤコブがヨセフを溺愛したように、神に溺愛していただいているのです。

【デボーション参考ポイント】
 ローマ13:14の「キリストを着なさい」という父なる神様の私たちへの声かけの言葉には、どのような気持ちや意味が込められているでしょう。
“主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。”(ローマ13:14)
 感謝して受け取るなら、神の国の相続人という特別な地位が与えられるのです。神様は私たちを溺愛してくださっています。
 
 その神様の愛を喜んで受け取りましょう。ヤコブがヨセフを特別に愛し長服を着せたように、父なる神様は私たちを深く愛し、キリストを着せてくださったのです。そのキリストを自慢しましょう。罪赦された真っ白な心に着せられた着物なのです。

2.罪の衣から愛の衣へ(ルカ15:22-24)
“ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。”

 弟息子は放蕩三昧をして、遂には豚の餌であるいなご豆さえ食べたいと思うほどに落ちぶれました。そして、その時彼は父のもとに帰ろうという決心をしました。ある人は男らしくない、自分で身を持ち崩したのだから、死んでも帰るべきではないと言うかもしれません。しかし、この時、弟は自分を深く愛してくれている父の愛に気づき、この父親に心から詫びなければ死んでも死にきれないと思ったのではないでしょうか。自分の自尊心よりも、父親の愛に報いる方を選び取り、心から謝るために帰ったです。この時、弟息子は自分は息子であるなどとはもはや考えられない、ただ使用人のひとりでもいい、父に詫びたいと考えていたのです。しかし、父親のことばは『急いで一番良い着物を持って来なさい』でした。

A)帰って来た弟息子になぜ一番良い着物を着せたのでしょうか?
  父親の気持ちや思いを考えてみましょう。
 この父親の気持ちはどうだったのでしょうか。身を清く洗うということを飛ばして、父は極上の着物を着せてやりました。

 それは失ったものが見つかった喜びです。高価で大切なものが見つかったら本当に嬉しいですが、息子ならばなおさらです。早く惨めな姿をおおってやりたいという親心です。

B)汚れた姿の上に一番良い着物が着せられたことは、何を象徴して
  いると思いますか?
 それは、「愛は多くの罪をおおう」という神の心です。イエス様を信じた人の悔い改めに対して、神はもう責め立てることはされません。イエス様の愛の血潮でおおってくださるのです。

C)父親と弟息子の関係において、何が死んでいたのが生き返ったの
  でしょうか?
 それは、親子の愛の関係です。弟は父親の財産を分けてもらいさえすれば、もう自分で生きていけるからと父との関係を一方的に切ってしまいました。高慢な横柄な態度です。親子の愛の関係は、決して切ってはいけません。この愛が死に、苦しみを通して弟が悔い改めたことにより、愛が生き返ったのです。

【デボーション参考ポイント】
★弟息子の喜びを表している主題聖句イザヤ61:10を、
 私たちに当てはめて考えてみましょう。
 この救いの衣は、正に綾羅錦繍の衣装です。花嫁として神は私たちを着飾ってくださるのです。

「救いの衣、正義の外套をまとわせてくださっている神の愛によって、私たちはおおいに楽しみ喜び、この愛の神さまを紹介します。」
 
 私たちがこの衣を喜び楽しんでいるだけで、周りの人々は愛の神様がどんなに素晴らしいかがわかります。暗い悲しい様子で生活していたら、誰もうらやましいとは思ってくれません。
 
 私たちは神様の愛が分かるほどに、その愛に喜び楽しむのです。その喜びは、どんな問題があっても失われない誇らしい喜びです
 父なる神様の愛をしっかりと知って、喜びましょう。この愛の衣を着て歩みましょう。脱いだらいけません。脱いだら醜い汚れた自分しか残りません。

 

 

 

 

■2015年1月4日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛を紹介する  up 2015.1.4


こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。
(第1コリント10:31)

 

 

 

 今年のモットーは、「愛を紹介する」です。
 説教してその人を導く布教(キリスト教では宣教)という言葉が、すでに現代ではなじまないようです。日本には依然として宗教への束縛感があり、宗教嫌いのイメージがあり、改善していく必要があります。
 そこで、あえて使った「紹介する」ためには、紹介者はどうであれ、紹介される方が立派であることが大事です。自分に自信がないと、至らなさのゆえに、神様を紹介できるような自分ではないと、無意識に紹介することがおっくうになってしまいがちです。
 
 「伝える」とは、「伝道する」というよりも「紹介」という方が自然と取り組みやすいのではないかと考えました。
 この愛とは、神の愛が人となられた救い主イエス・キリストを表し、「愛を紹介する」とは「神であるイエス・キリストを紹介する」ことであり、気楽に友人を紹介するように、リラックスして神の愛を紹介する一年でありたいと願います。

【内容観察】
「他の人の利益を心がける隣人愛のゆえに、あなたがたは、生活のための一つ一つのことをとおして、神の御栄えの中心である愛を現すようにしなさい。」
 
「他の人の利益を心がける」とは、自分を愛するように隣人を愛することを言い換えた言葉です。飲食は生活の土台です。
 
 世の中の神の愛を知らない人々は、自分のためにしますが、私たちは愛してくださった方のために飲み食いして生きると言えます。そして、それが神の栄光である愛を現すことになります。どんな内容の食事でも、自分を愛してくださっている方のためにいただくと、すばらしい食事になりますね。

1.神の栄光を現す『三薫三浴』(さんくんさんよく)
★『三薫三浴』の意味
「何度もからだに香を塗ってよい香りをつけ、何度もからだを洗い清めること。人を待つ時など相手を大切に思う情を言うことから、相手を大切に思う心を表す語として使う。」
 
 きれいになるのは自分のためでなく、大事な人のためという、相手への気持ちを表現した四字熟語です。

A)最も優れているのは愛(第1コリント13:13)
“こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。”

★永遠なるものは、『信仰』『希望』『愛』=創造主であられる神
 初めであり、終わりである方とは、永遠なる存在ということを表現しています。「信仰」も「希望」も「愛」も初めであり、終わりであり、いつまでも残るものです。これらは創造主なる神様の内に存在していたものです。

★永遠に存在するもののなかで最も優れているのは『愛』=神は愛
 それは神の本質が愛だから、愛こそ最も優れているのです。信仰も希望も愛の中に含まれており、愛=父なる神、信仰=子なるキリスト、希望=聖霊なる神と、それぞれのご性質、お働きから、あえて三位一体の神に当てはめることもできます。

★神の栄光とは、永遠に最も優れている『愛』の御栄えのこと。
 栄光とは、誉れ、偉大さ、価値あるもの、繁栄です。本来は見えるものとして現れた時に、栄光と言います。ですから、神のご臨在が私たちの心に、肌に、目に見えるかたちで現れたり、いやされたりすることで、神の偉大さ、すばらしさが現れたりすることが神の栄光なのです。

 あなたの持っている才能・力が、何らかの働きの結果として現れたなら、それはあなたの誉れであり、栄えです。これを栄光と言います。つまり、神が最もすばらしいものとして価値づけておられる愛が現れると、奇跡、しるしなどの様々な現象よりも、本当の神の栄光と言えるでしょう。

★御栄えとは、その優れたものが見えるかたちで現れること。
 神の愛が見えるかたちで現れた時、それは最も優れたものとして神の栄光としてほめたたえられるべきものです。
 皆さんは、愛よりも、いやしや水の上を歩く方が神の栄光と思いますか。神の本質である愛は、永遠に存在するものの中で最もすぐれています。これが栄えです。

B)偉大な『愛』の奥義(第1テモテ3:16)
“確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です。「キリストは肉において現れ、霊において義と宣言され、御使いたちに見られ、諸国民の間に宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。”
 
 このみことばは、神の子イエス・キリストが人となって来られ、罪人のいのちを贖い、罪人が罪のために滅びないで、永遠のいのちを持つことができるための救いを成就するために十字架にかかられ、苦しみを負われたという愛の現れとして、全世界に宣べ伝えられ、二千年経とうとしている現在も信じられており、さらに三日目によみがえられ、神の愛のみ救いの成就した復活を成し遂げて、最後の審判の時まで天におられるという、イエス様の生涯を短く表したことばです。

★敬虔さとは、他の人を大切に思う愛の心から出て来るもの。
 敬虔とは、神の前にも人の前にもへりくだることです。神に属する愛は、愛する者の前に敬虔さを生み、へりくだらせます。敬虔の奥義は愛と関連しており、愛が大きいと敬虔さがさらに深くなっていくというつながりに気づいてください。

★罪人である私たちを大切に思う愛から実行された贖いのみわざ。
 キリストは、罪人である私たちを大切に思う愛から、神であられたのに、ご自分が神の姿であることを捨てることができないとは思わず、私たちのために人となってこの地上に来られたと聖書にあります。
 
 神が人となられるとは、よほどのへりくだりであり、敬虔です。完全であられる神が、どうして人となる必要があったのでしょうか。単に罪人を救うために、ここまでへりくだれるでしょうか。それは罪人を愛しておられたからです。愛していたから、三十三年の生涯で一つも罪を犯されず自制され、神のことばに従順に従われ、罪の赦しのためのいけにえとして私たちの身代わりに罪の裁きをお受けになられたのです。
 私たちを愛していない限り、こんなことは義務や務めであってもできないことです。愛があるから、お出来になったのです。

★「自分を愛するように隣人を愛する」=偉大な神の愛の奥義
 旧約聖書で、「神を愛せよ」と「自分を愛するように隣人を愛せよ」の二つの戒めでまとめられていたことを、パウロは新約聖書で、「自分を愛するように隣人を愛せよ」これ一つにかかっていると言いました。自分を愛するように隣人を愛するためには、まず神の愛を知らなければできないことだとパウロは悟っていたからです。

 「自分を愛するように隣人を愛すること」は、神ご自身が実行されました。神は、ご自分をこよなく愛され、御子も愛し、御霊も愛しておられました。
 神にとっての隣人とは、ご自分のかたちに似せて造られた人、罪を犯した人々、私たちだったのです。神は罪人である私たちを、ご自分を愛するように愛されたので、十字架のみわざを実行することがおできになったのです。
 このことによって、私たちは悔い改めて人生をやり直す猶予が与えられました。「今は恵みの時、救いの日」という、裁きが来るまでの猶予期間なのです。今のうちに信じなければ、どんなに悔い改め、泣き叫んでも、聞き入れられないからです。猶予がある間に悔い改めるように語られていたのに、自分でチャンスを逃したからです。後で悔い改めたら良いという不敬虔な心が、神の救いを本当には知らずに過ごしてしまうことになります。

 「自分を愛するように隣人を愛する」ことは、他のどの神にも見られない、真似のできない、唯一の創造主なる神、三位一体のイエス・キリストなる神のみわざです。神が神の姿を捨てて、罪人のためにご自分を犠牲することはできないと考えるのが、この世の神です。

 しかし、創造主なる神は、愛が本質です。罪人を救わないわけにはいかないという、この神の本性が、不可能を可能とする力となりました。この力を秘めた愛が、敬虔の奥義です。ですから、聖書の愛を追求していくことが、神の奥義を解き明かす道となります。

★隣人愛の実践が神の栄光を現すことになる。
 肉体のいやしはすばらしいものですが、いつまでも残るものではありません。けれど愛はいつまでも存続します。あなたが人を赦した愛によって、この地上だけでなく永遠に残る愛として、神の前に誉れある者として、あなたは神様から賞賛されます。

 だから、愛の方が偉大であり、奇跡を現すよりも隣人を愛する方が偉大なのです。預言、いやし、奇跡はすたれても、愛はいつまでも絶えることがありません。この愛が、イエス・キリストを人とならしめた力、根源、動機であり、これこそが神の奥義であり、栄光です。

 この愛を紹介する一年にしたいと思います。あなたが聞いたこと、見たことを紹介するだけでいいのです。私たちができているいないは関係なく、「私の信じている神はこういう方なのです。この敬虔の奥義を実践された方です。私たちを愛してくださったお方です。」と。

 そのために、紹介する方への尊敬が必要です。私たちは現実でも、「主は真実な方」というのを、出発点としていきたいです。
 
 また、紹介の内容の裏付けがあなたを通してできるなら、それにこしたことはありません。あなたが紹介した方の影響を受けて変わってきていたら、もっと確かなものになりますね。しかしまずは紹介だけでもできます。神の愛をぜひ、勇気をもって、メッセージを聞いた後に知識だけでも語っていただきたいですね。

 神の愛について知っているものをリストアップするなりして、自分はどこまで目が開かれているかを確認するところから始めてください。
 これからがスタートです。できていないからこそ、チャレンジしていきたいですね。

『新年は 愛を紹介 する年に』