■2014年12月28日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
愛を着る up 2014.12.28
主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。
(ローマ13:14)
【内容観察】
「神の愛の見えるかたちであられる主イエス・キリストを着物として心をおおいなさい。肉の欲がもたらす貪欲を満たすために心を用いるようなことをしてはいけません。」
服を着るとは、裸を覆うことです。(創世記3:21)で、罪を犯したアダムとエバのために、神様は手ずから皮の衣を着せてくださっています。彼らは罪を犯して神の栄光が自分たちから去ってしまった時に、自分たちが裸であることを知って恥じました。すなわち、裸は罪の象徴です。そして、神様が動物の血を流して作る皮の衣を与えられたのは、罪の贖いに対する掟の表れです。
皮の衣は神様からの愛とあわれみであり、人間への裁きを猶予してくださいました。神様の前に悔い改め、心を入れ替えて歩むチャンスが与えられています。皮の衣による覆いのゆえに、アダムとエバは人生をやり直して、天国に行くことができました。
動物の血の犠牲による一時的な猶予は、イエス様の血による永遠の贖いを預言したものでもあります。
聖書的に言えば、服とは神様からの愛の覆いです。みことばにも、「愛はそむきの罪をおおう」(箴言10:12)と書いてあります。今、私たちに服が与えられているということは、私たちがこんなにそむく者であっても、イエス・キリストの愛の衣が与えられることによって、悔い改めの時間が与えられているということです。
イエス様を着るとは、神様の愛をしっかりと受け止めることです。そのいつくしみ、恵み、あわれみに心を向け、肉の欲には心を用いないように、と。
神様が私たちのために、こんなにも犠牲を払ってくださった愛の思いに、心を向けてまいりましょう。
1.『韋弦之佩』(いげんのはい)によってキリストを着る
★『韋弦之佩』の意味
「自分の気質や性格を戒め直すために、物を身に着けること。」
<中国の故事>
「中国戦国時代の西門豹(せいもんひょう)は、気短な性格をゆったりとした気質に改めようと柔軟ななめし皮を身に着け、春秋時代の董安于(とうあんう)は、のんびりした性格を引き締めようと、常に張りつめている弓づるを身に着けた。」
私たちが愛を身に着けるとは、罪の性質を戒めて、神様の性質を私たちの内に引き出すということです。私たちは神のかたちに似せて造られた者ですから、罪が取り除かれるならば、元々の神の子としての性質が引き出されてくるのです。
そのためのきっかけづくりとして、キリストを着るチャレンジをしてみてはいかがでしょうか。
A)(申命記6:6〜9)
“私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。”
神様のご命令「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」(マタイ22:37)が、新旧の聖書のまとめです。この戒めをあなたの心に刻め、と神様は言われます。目につくもの、肌で感じるもの、それら全部で私たちの心に刻むのです。一朝一夕ではできないことです。
申命記の時代、イスラエルの民はモーセを先頭に荒野をさすらっていました。文化的な生活を営めなかったので、「刻む」という行為が、人々の心に物事を印象づけるための大切な方法の一つでした。
石に絵や文字を刻むには時間がかかります。同じように、時間をかけて生活のさまざまな事柄から神様のことを学んでいくのです。「刻む」とは、みことばを意識し、いつも生活の中にチャレンジしていくことです。
イエス様の時代は、ローマ帝国が豊かな国を築いており、文化レベルも高く、人々はそれぞれの身分に合わせて服装などのおしゃれを楽しみました。現代とそう変わりません。私たちも服を着るのが日常であるように、心の目覚めを毎日心がけましょう。
B)(コロサイ3:12)
“それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。”
神様からいただく愛の衣には、「深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」という5つの特徴的デザインがあります。私たちはこれをどのようにして意識づけていったらよいでしょうか。
この5つの性質は、神ご自身が私たちに示してくださった愛そのものでもあります。十字架に、この愛が示されています。このようなすばらしいものを衣として着ているとは、なんという特権でしょうか。
良い衣を身に着けるとは、あなたの存在が高められ、美しさが引き立てられることです。神様から受けている愛の性質をあなたの身に着けていくならば、今度はまわりの人にそれを示していくことができます。人が服を着る時、大抵は周りの人がそれを見て何かを感じるものです。自分の着る服を自分で見るのは、着る時とトイレで直す時くらいです。あとは、見る人の目を楽しませているのです。
イエス様がくださった愛の衣も、私たち自身が受ける恩恵にも増して、周りの人々に与える恩恵があります。愛の衣を着ることに、皆様ますます興味を持って考えてくださったらと思います。
皆さん、良い服を着たいですね。自分を美しく見せたいですね。若く見せたいとは思われませんか。元気に見せたいと思われるでしょう。そういう期待をもって服を選ばれるのではないですか。
心の服装も同じで、「心が明るく元気で楽しめるようでありたい」と願ったなら、そういう服装を私たちは身に着けるのです。では、先述の5つの徳目をどうやって身に着けるのでしょうか。それぞれ祈りの中で、神様から教えていただいてください。
2.心の用い方
A)(ルカ11:41)
“とにかく、うちのものを施しに用いなさい。そうすれば、いっさいが、あなたがたにとってきよいものとなります。”
「施し」は関係作りであり、交わりです。「フェローシップ」のギリシャ語「コイノニア」が使われています。単に与えるのではなくお互いに良い関係を築く、関与し合うことを指します。そのような親しい交わりのために、「内のもの」を用いなさいと言っています。「内のもの」とは、あなたの心の内にあるものです。それを相手との関係作りに用いて、良い関係を作りましょう。神様からいただいた愛を、お互いの関係作りのために相手に施していきなさいということです。
B)(ガラテヤ6:8)
“自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。”
「蒔く」を「心を用いる」と置き換えて読むとわかりやすいかもしれません。
このように、みことばから学ぶことができる私たちの心の用い方。
「欲は大切だが、貪欲に至らないように愛をもって、自制心を働かせて、健全な欲の中で心を用いていくことが必要。」
貪欲は自制心を失わせてしまいます。これに陥らない自制した心の使い方が、神様の愛の力によって可能になります。愛は、セルフコントロールに対して大きな力を持っています。愛のためなら、人はどんな節制もすることができます。反対に言えば、お互いに我慢できない夫婦、親子、人間関係は、愛が薄れてきていると言えます。
御霊の9つの実(ガラテヤ5:22〜23)でも、最後に自制が記されていますが、自制はそれだけ難しく、かつ欠かせないものです。自制が、前8つの御霊の実をバランスよく働かせるための必須条件だからです。
イエス様に愛された愛をいっぱい心に満たすなら、私たちもあらゆる欲の働きに対して、自制心を働かせることができます。イエス様の十字架と、それによって与えられた罪の赦しと裁きへの猶予。あふれる恵みによる神様への感謝をもう一度、この年末年始にかけて思いみながら、新しい年に「愛を着る」人生へと、ぜひ向かっていただきたいと願っています。
『年の瀬に 愛を着る心 教えられ』
今、忙しいこの時期ではありますが、心を失ってしまわないようにしましょう。新年を迎えるにあたっては、この「愛を着る」で学んだことを思い出して、愛を着る年を過ごすことができるように、心を定めてまいりましょう。
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元旦礼拝メッセージ
2015年1月1日(木祝)元旦礼拝にて 辻牧師メッセージより
“喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。”
(ローマ12:15)
この一年、心がければ祝福がやってくる秘策をお話しします。
喜んでいる人が泣く人と一緒に泣いたり、泣いている人が喜んでいる人と共に喜んだりすることは、神様のことばとは言え、なかなか実践しにくいことです。
(ヤコブ5:13)に、そのヒントがあります。
“あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。”
苦しんでいる人は、その思いをすべて祈りとして神の前に語り、喜んでいる人は感謝をもって、その喜びを抑えることのないように、ということでしょうね。
○「共に賛美する」とは
●「おかげ」の心
・私一人でなく、いろいろな人のおかげである。
・まわりの協力がある。
・私たちの豊かさは、貧しい国々のおかげである。
※おかげの心は、救い主と人への感謝をささげること。
○「共に祈る」とは
・泣く人と共に、その苦しみを一緒に祈る、苦しみを共有する心。
・一緒に祈ってくれると、慰められ、励まされる。
愛を信じることができない人は、「祈れない」と言います。十字架に表された、永遠における神様の被造物への愛の事実を見逃してはいけません。この事実のゆえに、見えないけれど神が私を「愛してくださっている」ことは間違いないと、神の愛を信じて祈るのです。
祈らなければ神を知ることはできませんし、信じなければ祈れません。祈る時に、生きておられる神が、苦しみ、嘆きに応えてくださり、いやされ、励まされる体験をします。
○私たちの問題点〜心の葛藤
愛がわいてこないと、喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣くことは難しいことです。むしろ裁く、ねたむ、嫉妬するのは、愛がないからです。愛は大切なものを優先します。自己愛の強い人は、自分をまず優先します。しかし、与える愛を持った人は、自分より相手を優先します。愛は優先順位があります。
『自分を愛するように、隣人を愛しなさい」と聖書は語っています。見返りを求めるのは、自分を優先しているからであり、愛しているなら裏切られても愛します。
このみことばを、「自分を優先するように、あなたの隣人を優先しなさい。」と読んでください。
このことは、まず神ご自身が実践されたことにお気づきでしょうか。王の王、主の主である神様は、優先順位の最大の権威ある方ですが、そのまま神の隣人である罪人の私たちを優先されたのです。「ひとり子」ということばが、それを表しています。神が人となられたイエス・キリストは、神のひとり子と呼ばれ、最も大切な絶対に失われてはならない存在でした。この方を失えば未来を失うであろうひとり子を、私たち罪人の罪の身代わりに、罪なきいけにえとして差し出され、身代わりの苦しみを負わせられたのは、神はまさしく私たち隣人を優先されたということです。罪人が神の国を相続するためにひとり子を引き換えにされた神のお気持ちが、隣人愛の根本です。神様ご自身の計画の実現が、2000年前のイエス様の十字架によってなされました。
しかし、罪のないキリストが死の力の束縛を受けることは律法にかなうはずもなく、神はキリストをよみがえらされました。十字架の死と葬りと復活という、とてつもない愛の行動は、あなたを優先し生かすために向けられたものです。こんな罪人のいのちのために、罪なきキリストが十字架で苦しんでくださったという、そのように大切にされる価値がどこにあるのだろうかと反省しながら、愛に励まされ、愛のために生きていこうという心構えが、愛を感じた者には与えられます。
この愛によって「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く愛」が、内側に起こります。これだけでも、あなたの一年に大きな変化をもたらすチャレンジとなる神のことばです。
向上心を失うと、いのちのない生活になってしまいます。次々に前に進むいのちが与えられていることを忘れないで、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く」一年にしていきたいと思います。
『愛を持ち どうぞとゆずる 愛の餅』
■2014年12月21日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
愛が宿る up 2014.12.21
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。
(第1ヨハネ4:10〜11)
私たちの内に愛が宿るということがどんなに素晴らしいことであるかは、体験してこられた方も多いでしょう。しかし、神の愛が宿るということは、愛なる神様ご自身が宿られるのですから、どんなに素晴らしいことか言葉にならないほどです。
クリスマスは、神が目に見えない愛を見える形で、イエス・キリストというひとり子なる神を世に遣わしてくださった日を祝う日です。
毎年夏に24時間番組がありますが、「愛は地球を救う」というタイトルを目にした時、驚きました。クリスチャンでなくても、多くの人たちが、愛こそが人生を変え、世界を変えると感じているということであり、そうあってほしいと願っているということです。そして愛は救い主であり、その名はイエス・キリストだと聖書は教えています。お金も教えも人を救うことはできません。ただ愛だけが救うことができるのです。
1.『円頓止観』(えんどんしかん)
『円頓止観』の意味=人格を完成した究極の境地をいう。
これは悟りの境地を表したことばです。そして人格を完成した究極の境地をいいます。聖書では、私達のようないたらない者でも救い主のゆえにそのようになると言っています。
A)『私たちの罪』とは、どんな罪?
現代の人々に「あなたは罪人ですよ」と言っても、ピンとこないかもしれません。私が若い時は、自分の内面を深く考えることが多く、罪人ということばにもうなずく人が多くいました。
★ ここで言う罪人とは、刑法や法律を犯したという意味ではなく、的を外すこと、健全さからそれることであり欲に囚われることです。制御できる欲は健全ですが、制御できない欲は不健全であり、それを貪欲と呼びます。貪欲は利己的で自己中心です。欲によって隣人に害をもたらし、争っていくことで戦争が起きます。損か得か、優れているか劣っているかも欲に通じます。勝利を求めること自体は悪くありませんが、勝つことに貪欲になると、勝つためには手段を選ばない、どんな悪いことでもするということになってしまいます。裏から手を回したり、裏入学したり、ルールさえも破り、隣人を害するようになります。
★ 貪欲が支配し始めると秩序さえも乱れてきます。正直者が損をするかのように言われたりもします。それゆえ、健全な状況を保つためには罪を犯した者は必ず罰せられないとなりません。秩序が乱れていく状態を科学はエントロピーの法則と言っています。科学はそれゆえ進化論を否定します。全宇宙は、かならず秩序正しいものから秩序が退廃していくしくみがあるからです。悪くなっていく一方で良くなってゆくことはないのです。
無秩序な愛は貪欲です。そして自然の秩序を壊していくことになります。その根本にあるのは貪欲です。
B)『なだめの供え物』の意味
★なだめるとは怒りのある人、断絶状態にある人に対して使われることばです。
ただし神の怒りは裁きを表し、人間の怒りの感情とは違います。この裁きは罪を罰しそれ以上罪を犯さないようにさせるためのものです。その怒りを赦しに変えていただくためになだめの供え物がありますが、その供え物には価値が必要になります。価値がないと意味がありません。つまり大きな代価が必要なのです。罪はどういう形であっても罰せられないとなりません。ひとり子なるイエス・キリストが、その代価となって十字架につけられたのです。
★ また、なだめの供え物には、一時的に裁きの時を引き延ばし猶予を与えるという意味もあります。なぜ猶予を与えるのでしょうか。それは悔い改めるためです。つまりこの期間は更生の期間なのです。更生ができるなら裁きは中止されることもあるのです。私達はイエス様によって救いを与えられました。それは悔い改めて的はずれから方向転換して正しく生きるためなのです。裁きが来る前に更生する期間が今の人生です。
C)『ここに愛がある』とは?
★あわれみの愛とは、見捨てることができない愛です。例えば、もう破れてしまった服は捨ててしまおうというのではなく、なんとかほころびを直して使えるようにしたい、というような惜しむ心です。なんとかしてもう一度使えるようにしたいという思いです。
神は、私たち罪人をもう一度活かしたい、正しい状態に戻したいと願ってくださっています。それは惜しむ心、深いあわれみの愛を注いでくださっているからです。大切な子どもに対して、もう一度更生してほしいと注ぐ愛があわれみの愛です。
★ それゆえ、今与えられているこれからの人生は、神に立ち返り、正しい生き方をして、決して神の愛をおろそかにしないようにしましょう。自分の罪を悟り悔い改めて神に立ち返りましょう。
D)互いに愛し合う『べき』とは?
正しい方とは神様のことです。そして、罪人は私たちです。正しい方である神様との関係は愛によって実現しました。愛なる神さまと断絶していると、愛がないので欲が勝って心に働きかけてきて争いが生まれます。
愛ある神様との関係が改善されるなら、罪人である私たちにも愛がもたらされ互いに愛し合うという心が与えられてきます。それは理屈ではなく心が変えられた結果です。イエス・キリストは神の愛が見える形として来られました。私たちを救い、互いに愛し合うために私たちの心を変えてくださったのです。
円頓止観の意味は、 罪人の私たちを深くあわれんでくださった「愛」を私たちも心に宿すことです。人の愛でも人を変えるなら、まして神の愛は、私たちの人格を全く変えることができるはずです。
どうしたら愛を宿せるのでしょうか。「信じること」によります。疑ってしまうと内側から愛はなくなってしまいます。愛を信じるか信じないかで、 あなたの内に愛が宿るかどうかが決まります。そして、理屈抜きに変わることができるのです。
また、神は私たちにかけがえのない愛という大きな贈り物をして下さることによって私たちの争いをやめさせ、むしろ互いに愛し合うという心の変化を与えてくださいました。神様の大きな愛を内に宿す時に私たちは人を愛することができるようになります。ただ、愛は信じることによってのみ宿ります。神の愛であるキリストを信じるなら、私たちは救われます。
すでに神は、2000年前に十字架で愛を示してくださいました。その方を信じていく時に、私たちは変えられていきます。
■2014年12月14日 日曜礼拝メッセージより(横路伝道師、小栗伝道師)
愛に生きる時刻が来ている up 2014.12.14
あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。
(ローマ13:11〜13)
【横路伝道師メッセージ】
1.愛に生きる時刻が来ている(マタイ25:13)
“「だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。」”
二千年前のクリスマス、救い主を待ち望んだイスラエルの民は、イエス様の誕生が四百年も前に預言されていたのですが、具体的にその時がいつかは知らされていませんでした。
今、再臨を待ち望んでいる私たちクリスチャンにも、具体的に主がいつ来られるかは知らされていません。しかし、そのしるしについては、(マタイ24章)で、イエス様ご自身が次のように語っておられます。
“「人に惑わされないように気をつけなさい。偽キリストが現れ、戦争、飢饉、地震、迫害、裏切り、憎み合い、偽預言者出現、不法がはびこり、愛が冷たくなる。福音が世界中に宣べ伝えられ、悪の支配者が聖なる所に立つのを見たら、終わりが近いのです(要約)。」”
これらの終わりのしるしが今実現しており、いよいよ主が来られるのを間近に感じます。
二千年前にイスラエルの民は、自分の国の王にも、ローマ皇帝にも税を納めなくてはならない、とても苦しい状況にあり、メシアの誕生を切望していました。
今現在の私たちも、世界中に戦争、飢饉、地震があり、人々の愛が冷えて、殺人や諸悪がはびこることに心が痛んでいます。イエス様の再臨が早くあってほしい、この世界をきよめてほしい、と心から願っています。
イエス様の再臨を待ち望む私たちは、教会として皆と共に携挙されるよう祈っています。また私たち自身も、いつ自分の命が召されるかはわかりません。まだまだ先のことだと油断していて、突然思いもかけない時に召されるかもしれないのです。だから、目をさまして、準備をしておく必要があります。
イエス様の再臨の時と、私たちの召される時まで、時間は十分にはないかもしれません。眠り込んでいる場合ではないのです。このような時に眠った状態にされているのは、やみの支配者サタンによる巧妙な偽りと誘惑によるものです。
眠っているのはこの世の煩いで疲れている場合もありますが、世に流され、正しい良心が鈍感になり、麻痺していることもあります。
「赤信号、皆で渡れば 恐くない」と人々は、大きな門から入り広い道を歩み、滅びに向かっています。「皆で渡れば皆滅ぶ」のです。
「黄信号、まだ大丈夫は もう危険」であることに気づかないでいます。サタンの策略にやられてしまうことについて、次のようなお話があります。
ある所に、水がたっぷり入った大鍋がありました。これはよい水場があると、カエルが数匹飛び込んで水浴びを楽しんでいました。ところがしばらくすると、水が次第に温かくなってきました。鍋の底に人間が火をつけたのです。
カエルたちはしばらくは温泉に入った気分で、心地よさを味わっていました。そのうちカエルの一匹が、「これはそろそろ出なくては危ないのでは?」と言いましたが、他の一匹が「大丈夫。我々には強力な足があるから、いざとなればピョン!と脱出できるさ。」と引き止めました。しかし、しばらくするとすべてのカエルはゆでられ、死んでしまいました。
この話はサタンがこの世に大きな誘惑の鍋を仕掛け、私たちを巧妙に偽り、やがて死に至らせる策略と同じなのです。今はこの楽しみを続けよう、そのうち止めればいい、と悪習慣や依存を軽く見ていると、やがて取り返しのつかない結果を招いてしまいます。だから、「眠りからさめる時が来ました」と、警告されているのです。
○現状に気づくことが大切です。
(第1ペテロ4:3)には、“あなたがたは、異邦人たちがしたいと思っていることを行い、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。”
とあります。私たちは新しく造られた者、古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなった者です。
○それでは私たちはどうすればよいのでしょうか。
もう、時刻が来ています。私たちは捨てるべきものを捨て去り、自分を変えることで、愛に生きる生き方にチャレンジしたいと思います。
(第1ペテロ4:2)には、“こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。”とあります。
私たちはサタンの策略に気づいて目をさまし、悪いものを捨て、変えるべきを変え、自分自身と愛する隣人が滅びないために愛をもって福音に生きる、という神のみこころにチャレンジしていきましょう。
(第1テサロニケ5:9)“神は、わたしたちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。”
【小栗伝道師メッセージ】
2.昼間らしい愛の生き方(ローマ13:12〜13)
“夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。”
夜が明ける直前は、一番真っ暗な時だそうです。私たちが今置かれている時代も、やみのような状況の中ですが、次には光であるイエス様が来られるということです。昼がもうすぐそこまで来ています(原語訳)。
◎私たちは、光とやみのどちらに属する者か(エペソ5:8)
“あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主によって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。”
年齢、環境を問わず、イエス様の十字架によって罪が赦されたことを信じた人は光の子どもです。しかし、すべて光に照らされているはずの光の子どもであっても、「やみのわざ」を行っている状況があることがみことばから示されているのではないでしょうか。
今サタンが支配している、真っ暗なこの世の価値観(肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢といった生活のむなしい誇り)(第1ヨハネ2:16参照)を追い求め、さらに(ローマ13:13)にある遊興、酩酊(ゲームなどにとらわれてしまったり、お酒を飲んで理性を失ってしまったり)、淫乱、好色(神様が定められていない、聖さのない汚れた性的な関係、またそれらに関する情報を見たり)、ねたみ、争い(比較する考えから生まれる対人関係の悪い思いを抱いたり)という、すべて貪欲・自己中心の流れの中に置かれています。振り向けばいつも、貪欲を引き出す誘惑にさらされているのです。
イエス・キリストを信じて生まれた新しい人にはサタンは手を出せません。肉の性質の弱さにつけ込まれて、私たちが行ってしまっているやみのわざを捨てるように、ここで語られています。私たちの心の内にあるこだわりは何でしょうか。心から離れない思いは何でしょうか。
黙示録を見ますと、「悪魔は自分の時が短いのを知って激しく怒り(黙示12:12)」「…神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たちと戦おうとして出て行った(黙示12:17)」つまり、悪魔は光の子どもたちを何とか自分の方に引っ張ろうとして、卑劣な手段を使ってきます。(この世の情報を見聞きすることで引き出される私たちの肉の欲求、計算ずくです。)
エバは悪魔に対して無防備であったがゆえに、蛇の巧妙な「神のようになる」ということばに見事にひっかかって、食べたいという思いが行動となり、善悪を知る木の実を食べてしまいました。アダムもその実を食べ、人類に罪が入りました。
悪魔は、イエス様を信じて純真さを持った私たちの心を汚すために、様々な方法を持ってきます。
(第1ヨハネ2:9)“光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいるのです。”
自分の心の中にやみのわざを生み出す動きがあるならば、自分は光の中にいると思い込んでいても、やみの中にいるとみことばは語っています。また、エペソの教会に対して「初めの愛から離れてしまった(黙示2:4参照)」と指摘されているように、今私たちの思いは、イエス様を慕う心から離れていませんか。地上にある束の間のむなしいものに、心を留めていませんか。「自分は弱いから」「今はまだいいでしょ」などの言い訳をもって、神が「目覚める時刻が来ている」と言われることを受け止めていないことはありませんか。
*光の武具=神の愛の武具を着ける(エペソ6:11〜18)
“悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。…”
この戦いの中で、光の武具を着けるように神様は願われています。私たちだけでは無防備で、悪魔に負けてしまいます。
神様から光の子どもである私たちを引き離そうと悪魔がわなを仕掛け、戦いを挑んでくる中で、神様は私たちに光の武具を着けるように願われています。
イエス・キリストがお生まれになり、寝かされた馬小屋の飼葉おけは、 家畜の餌が入っていました。しかし、それ以上に汚れている私たちの心であっても、イエス様を信じる心に、イエス様がお生まれくださったのがクリスマスです。神であるイエス様が、肉体をとって地上に来られ、十字架におかかりになって身代わりに死んでくださるという贖いのみわざを信じて、私たちは救われました。だから神に愛された者として心を守ります。
(エペソ6:13)以下の神の武具すべては、「神によって愛されている」ことが基盤です。そしてこの武具は、私たちのからだを覆います。戦いが思いの中でされるように、救いのかぶとは頭だけでなく耳までも覆って、私たちの思いを守ります。耳から入ってくるこの世の情報からの価値観や、神様を信じさせまいとする言葉から守ります。
さらに真理の帯を腰に着け、正義の胸当て(イエス様の十字架によって罪が赦されたことを信じて与えられる神の正しさ)を着け、また信仰の大盾によって、際限なく飛んで来ては私たちの感情を揺さぶってくる悪魔の強烈な火矢を防ぎます。そして個人的に支えられている神のみことばの剣をもって攻撃します。これらの神の愛の武具を身に着けて、御霊によって祈っていく時、悪魔は手を出すことができないのです。
ですから、私たちが光に照らされ続けることが大切です。
(ヨハネ3:20)“悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。”というみことばがあります。しかし、光の子どもは心を主の前に開き、主の愛の光に照らしていただき、やみのわざを行って直すべきところは悔い改め、新たに立ち上がります。
モーセは、顔と顔を合わせて、主と語り合いました。「私の心はこんな状態ですが、神様どうぞ語ってください」と。神様との交わりの時を持って、なおかつ武具を着けて武装する必要があります。
(エゼキエル18:32)“わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。…だから、悔い改めて、生きよ。”と言われる神様は、私たちが「まだいいだろう」とやみのわざをくり返している時も、悔い改めることを待っておられます。
ジョン・ベイリーの祈りの言葉
「イエスが一緒に行ってくださらないようなところに、今日行くことがありませんように。イエスがのぞかれて困るようなことを、心の中に描きませんように。」
神様は、私たちの心に語られたいのです。クリスマスを前に、主を慕う者としての心を準備してまいりましょう。
■2014年12月7日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
律法を全うする愛 up 2014.12.7
だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。
「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」ということばの中に要約されているからです。
愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。
(ローマ13:8〜10)
私たちがずっと学んできている愛は、神の愛です。それはきよく神聖な愛です。この愛を全うするためには、律法が必要になります。
この世では「ルールは自分を縛るもの」というイメージがありますが、それは不敬虔な者の考え方です。律法は、互いが健全に愛し合うことができるためのルールです。ルールのないところに、本当の愛は存在しません。
1.主題聖句より『遏悪揚善』(あつあくようぜん)
『遏悪揚善』の意味=悪事を戒めて、善行を薦めること。
A)どうしてだれに対しても、何の借りもあってはいけないのか?
また、どうして互いに愛し合うことについては別なのか?
★キーワード『利害関係』
貸し借りにおける問題です。貸す方には所有権があるので、自分でも意識しないままに条件をつけていることがよくあります。
自分のものを使う時と違う緊張感を借りたものに対して持つのはこのためで、貸してくれた人の言外の条件を考えるからです。自分が貸した何かが壊されたり汚されたら、怒ったり困ったりするのは、「きれいに大事に使う」条件を付けているからですよね。条件があれば、損失が生じた時に問題が起こります。そして、損失を覚悟して貸す人は多くありません。貸し借りは、お互いの利害関係を抱えているのです。利害関係は人間関係を壊すもとです。
しかし、愛にはそもそも貸し借りがありません。「与える」のが神様の愛です。見返りを求めるのは欲の愛です。私たちは貸す時に、あげてしまうつもりで貸しましょう。所有権を相手に渡して、管理責任も渡しましょう。旧約聖書でイスラエル人同士の貸し借りが無利息なのは、兄弟の間に利害関係を作らないためです。
愛は損得を考えません。相手が良くなることのみを考えます。
B)戒めの要約は何だと書いてあるか?
自分の隣人を自分自身のように愛するとは、どういうことでしょうか。基本的に、人は自分のためになるように行動していくものです。クリスチャンが人のために愛を注ぐのも、ある意味自分のためと言えます。「神様のように、愛を与える者になりたい」という向上心のなせるわざだからです。また、自傷行為や自殺でさえも、自分のためです。目の前の苦しみから逃れるためにやっていることだからです。
向上心から来るものと、自己中心から来るものとの違いはありますが、自分のためである部分では同じとも言えます。
これと同じように、隣人のために考え、行動しなさいと聖書は教えています。いつも心にかけている「自分」を「隣人」にすればいいのです。お互いに心にかけていくならば、この世に平和が実現するでしょう。これが、神様がお考えになっている愛の律法です。もちろん一方通行では報われませんが。
私たち一人一人の価値観や善悪の基準は、あまりにも不安定で統一性がありません。神様の律法によって統一される必要があります。
C)律法の働きは、愛の働きと同じだとあるが、それは何か?
律法は愛と同じように、隣人に害を与えない役割をします。律法に反する者に懲らしめを与え、愛の道に立ち返らせます。裁かれるのは、懲らしめても立ち返らない人だけです。私たちは各々、「隣人に害を与えないように生きていく」決意が必要です。そして「害を与えない」ための指標が、神の律法に記されています。
では神様の目から見た「害」とは何でしょうか?「神聖な神の愛から遠ざかること」です。
神様の御教えを守らないことは、神様の愛から遠ざかることです。神様は「互いに愛し合うこと」を通して、ご自分に近づくことと、ご自分の子として交わりを持つことを計画しておられます。律法に背を向け、互いに愛し合うことに反するのは、愛から遠ざかることです。自分であれ他人であれ、このことは御思いに反しています。
(ヨハネ17:2〜3)
“それは子が、あなたからいただいたすべての者に永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。”
永遠のいのちは、御父と御子を知ることと書いてあります。御父も御子も愛なる神様です。神様の神聖な愛を知ることが、永遠のいのちを得ることなのです。永遠のいのちを得たいならば、神様の愛に近づいていけば、そのまま永遠のいのちを得ることができるのです。これが「律法を守ることによって神に近づく」ことの実際的内容です。
ですから、律法を軽んじたり無視してはいけません。愛をなくした律法では縛られて自由がありませんが、愛を基にした律法は、神聖な愛を得ていくために必要なルールなのです。このことに気づけば、喜んでこのルールに従い、神様に近づいていくことができます。
ぜひ愛と律法の関係を正しく理解していただきたいと思います。信仰による義は、決して律法を否定するものではありません。パウロはこれを「自由の律法」と表現しています。自由にはルールがあります。ルールのない自由は「放縦」と言うのです。人は肉の欲を満たすために放縦でありたいと思います。これを自由という言葉でごまかす手口にだまされないでください。
愛には必ず律法が必要なのです。また律法には必ず愛がなければいけません。これらのことを深く探っていく一週間としてほしいと願います。
【デボーション参考ポイント】
★『愛』にはどうして『律法』が必要なのか。
(第1ヨハネ4:7)“愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。”
神から出ている愛だけが本当の愛です。人間の内側から出る愛は本物ではありません。
(神聖な愛)⇒(私たちに注がれている)
(第1ヨハネ3:1)“私たちが神の子どもと呼ばれるために、ーー事実、いま私たちは神の子どもです。ーー御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。”
このみことばにあるように、十字架によって、神はその愛を証明されました。私たちはこの愛を受け止める時に初めて、本当の愛に気づきます。
しかし、私たちの内には神聖でないやっかいな愛があります。罪のからだに宿る「欲望の愛」は、神様の愛が注がれる以前から存在しています。これは自己中心の愛です。
⇒神聖な愛と欲望の愛の見分け方。
(ローマ7:13)“では、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。絶対にそんなことはありません。それはむしろ、罪なのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされ、戒めによって、極度に罪深いものとなりました。”
神のことばである律法によって区別ができます。律法にことごとく反発するのが罪の性質です。それによって、善悪を判別することができます。善を教えられないままだったら、何が貪欲かわかりませんでしたが、みことばは隠れた罪をあらわにします。
(ヘブル4:12)“神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。”
ですから、神様の愛に生きたいと願うなら、聖書のみことばをしっかりと学んで、内側に罪の存在がわきあがってきた時に、「これが貪欲か」と客観的に自分を見られるようにしたいですね。さらに「それを私は、キリストと共に十字架につけた、もはやそれに囚われることはない、新しい自分としてここにいるのだ」と、冷静に客観的に、みことばを通して自分の心を整理します。
この繰り返しを続けることによって、私たちの心はより神様のことばに拠る習慣が身につき、貪欲の愛に振り回されることが段々少なくなり、神聖な神の愛に生きる人生を選び取ることができるように、正しい良心が強く成長していきます。
ぜひチャレンジして、貪欲の愛と神聖な愛の判別ができるようになり、神聖な愛を選び取っていただきたいと思います。
「木枯らしに 母のひと言 『風邪引くよ』」
親の戒めは愛の表れです。神様も、この冷たい世界で私たちをいつも気にかけてくださり、罪に引っかからないように助言してくださっています。
■2014年11月30日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
愛をもって義務を果たす up 2014.11.30
同じ理由で、あなたがたは、みつぎを納めるのです。彼らは、いつもその務めに励んでいる神のしもべなのです。
あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。
(ローマ13:6〜7)
「義務」という言葉が与える、心が伴わない行いだけの冷たいイメージと違い、聖書からの意味は「真心からの愛の応答」です。
1.主題聖句より(ローマ13:6〜7)“みことばは前述”
【内容観察】
「神の愛によってきよめられた良心を汚さないという同じ理由で、あなたがたは、みつぎや税を納め、恐れ敬わなければならない人を、恐れ敬いなさい。それは、負債のある者が必ず負債を返さなければならない責任があるのと同じです。そのようにして義務を果たしなさい。彼らは、律法がむなしいものとならないように、その務めに励んでいる神のしもべなのです。」
◎義務の意味
《日本語》
「自己の立場に応じてしなければならないこと、してはいけないこと。」
行い中心。立場に応じた行動がある。してはいけないことも含む。
民間人が道路で交通整理をしてはならないことからもわかります。
《ギリシャ語》
「負債がある、借りがある、責任がある、〜しなければならない。
負債のある者を聖書では罪人という意味を持たせている。」
「負債がある』という言葉には「返さなければならない」という隠れた意味があります。「誰にでも負債を返しなさい」ということです。社会生活は互いに負債を負っています。すべての人がすべてのことをできるはずはなく、自分のできないことを代わりにしてもらっています。そのために、義務として負債を返しています。たとえば、私たちができない国を治める仕事をする人に、義務として私たちは税金を納めます。これには、借金を返さなければならないという意味と同じ強制力があります。義務を怠ることは、借金を返さないのと同じです。税金を納めることで、治安が整いインフラも整備されています。
愛の観点からは、「負債がある」とは一定の猶予があることを意味します。すなわち、借金をして返すまでの猶予があるように、その猶予によって私たちは助けられています。助ける、親切をする、これらは愛の行為です。助けを受けた私たちは、感謝すべきです。銀行から融資を受けたならば、利息を払って義務を果たします。感謝を込めて返すのは当然ではないでしょうか。このように、心から感謝を込めてお返しすることが、健全な義務です。心が伴っていないのは、単なる利害関係です。義務とは、貸していただいたことを感謝をもってお返しするという意味があります。心のない義務は、受けた負債に対して、気づいていない、感謝が足りないのだと思います。負債があることに対して、ある一定の猶予、許しが与えられていることは感謝です。
私たちの神様は、返済できない私たちの罪を、救い主イエス・キリストを愛する、信じることによって免除してくださいました。私たちはこういう救いを受けています。そればかりか神様から借金しているのに、なおも神様が私たちのためにご自分で支払って、借金を帳消しにしてくださいました。しかもその負債は返さなくてよいので、義務として「救い主イエス・キリストを信じなさい。愛しなさい。」というものでした。まさに「信じる者は救われる」です。これはすごいことです。本当は忘れてしまうような感謝ではないはずです。忘れられない感謝なのです。ただイエス様を信じるだけで、神様は二重払いの負債をないものとしてくださるという、永遠に心に留めておくべき神様への感謝…。何回聞いても感動、感激が起こされてくることが必要です。その感動がないのは、借金した実感がなく、罪の借金へ目が開かれていないのでしょう。ひょっとして、神様に利害関係で信仰を持っているかもしれません。損か得か、自分の思い通りになっているか…これらは損得勘定からくる自己中心愛です。私たちは助けられたのです。
2.『心機一転』が日々必要(マルコ2:21〜22)
“だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんなことをすれば、新しい継ぎ切れは古い着物を引き裂き、破れはもっとひどくなります。また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるのです。”
(ローマ12、13章)には、不可能と思えるような内容もあったかもしれません。みことばに対して「できない」という考え方は、どこからきているのでしょうか。それは、神様を信じる前の神様を敬わない不遜な世界の価値観の古い考え方が心の中にずっと残っていて断ち切ることができないので、自分の能力や意志力で量ってしまい、できないという不信仰の心が根ざしてしまったためです。そして、やろうともしない、聞いただけでできないと言ってしまい、まるで食べず嫌いのような状態です。まるっきり過去の出来事を忘れてしまえたら新たな気持ちでチャレンジできるわけですが、過去の様々な考えや思いや価値観が今の私たちの生活に影響を与えて、新しいものを受け入れることができないという状況があるのではないでしょうか。
◎『心機一転』(しんきいってん)の意味。
「ある動機をきっかけにして、すっかり気持ちがよい方向に変わること。また、あることをきっかけに、すっかり気持ちや心をよい方向に入れかえること。」
新しいものと古いものを合わせるのは非常に無理があると、ここで言っています。特にぶどう酒の扱いは、私たちの生活にはなじみがないため、よくおわかりにならない方もおられるかもしれません。発酵前のぶどう酒は発酵する時に膨らむので、伸び切った古い袋に入れるとはじけてしまい、新しいぶどう酒も古い皮袋もだめにしてしまうので、新しいものは新しいものへという教えです。私たちも、過去の古いものを引きずっていたら、新しい神様の御教えを素直に受け止めにくい、たとえ受け入れても古い考え方の影響によって不信感が残ったままではみことばを大胆に実現できず、失敗することが多いということです。
新しい神様の恵みを受け、新しい聖霊様の満たしを受け、新鮮な神の国の喜びをいただくためには、私たちの古い心、今までのクリスチャン生活のままの心では、どちらもだめにしてしまいます。心を新しくしないと、新しい喜びにあずかれないということです。もしクリスチャン生活が長い方で、信じた頃の新鮮なクリスチャン生活の始まりを取り戻したいと感じているならば、それだけ皮袋が伸びきって古くなっており、その古い皮袋の心のままで神様の新しい恵みを受け取ろうとしたら、両方ともだめにしてしまうので、神様は注がれません。圧倒的な聖霊の満たしを受けられない理由は、古いクリスチャンとしての考え方にとどまっていることに気づいてほしいというのが、2番目のポイントです。今までのクリスチャンとしての経験を持ったままでは、神様の新しい喜びの恵みにあずかることは無理です。心を一新して、心も思いも無にして、最初にイエス様を信じたときのような「すべて委ねます。ただただあなたの愛を信じます。」という純真な心をもって神の前に求める時に、みことばから新しい皮袋の心には新しい聖霊の油注ぎ、喜び、恵みが満たされるということが、みことばからできます。古いクリスチャンほど喜びが少なくなる原因は、これです。信仰年数が長くなると心の解放感がなくなっていくのは、古い皮袋の状態が続いているからです。新しくなる必要があります。
そこで、「新しくなる」という神様のおことばを挙げてみます。
(第2コリント5:17)“だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。”
(第2コリント4:16)“ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人が衰えても、内なる人は日々新たにされています。”
誰かから働きかけを受けて、新しくなっている、私たちが自分でする必要はありません。これをしてくださるのは神様の方であり、(第2コリント5:17)の「すべてが新しくなりました。」という神様のみわざは毎日毎日行われていて、外なる人〜肉体は衰えても、内なる人〜正しい良心、霊は日々新たにされています。日々その人はキリストのうちにあって、新しく創られているものですと言えるのです。それなのに、私たちは新しく創られたということばを信じようとしません。歳をとれば滅びる、信仰も年を重ねれば古びるというこの世の考え方が影響していないでしょうか。
信仰の世界は違います。歳を取るごとに若くなっていきます。この世と法則が反対で、毎日若返っていきます。この約束のみことば、みわざが受けられるのです。しかし、古い考え方のゆえに、その新しい考え方についていけず、入っていけないのです。結局、古いままなのです。知らず知らずのうちに、この世的な神様を敬わない死の方向に向かわせる罪の世界の法則の考え方が無意識に根ざしていたからです。しかし私たちは『心機一転』することが必要です。神のことばがこう言っているではないかと。
神様の愛を信じて、新創造の働きかけを私にもしてくださっているという、神様への信頼を持ってください。その持ち方として、
(ガラテヤ2:20)“私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。”
「もはや私が生きているのではない」となぜ言えるかというと、今私が得ているこの人生は、イエス様が身代わりに十字架で罪の裁き、苦しみを受けてくださったおかげであり、私のいのちは処分されてイエス様から注がれるいのちで私は生きている、イエス様のいのちが私の内で生きておられ、私の人格を形成してくださっているという感謝の捉え方を表しています。罪の赦しを与えて贖ってくださって負債を代わりに負ってくださった神の愛への義務として、パウロは受け止めています。パウロにとって神様への愛の応答として、「自分が生きているのではない」と言うほどに、自分の人生を感謝しているのです。それはするべき当然の愛の行為という義務なのです。神様の贖いのみわざがわかってくると、ここまで心は動くということです。パウロは特別な人ではありません。確かに能力はあったでしょう。しかし、赦されていることに目が開かれ、豊かな聖書の知識によって気づいたのです。それまで彼を傲慢にしていた聖書の知識が、イエス様の十字架につながっていることに気づいて、自分の聖書の解釈の誤りも、クリスチャンを迫害していた自分がダマスコ途上まで赦し続けてくださった神様の愛の大きさに気づいたからこそ、義務として当然のこととして、このように語り、神に心をささげる決断ができたのです。
私たちは、神様の愛を信じる信仰によって生きるのです。みなさんもご自分で、求め、捜し、門をたたいて神様に与えていただき、見出すように導かれ、門を開けていただき、啓示を与えられるといった自ら神に近づく体験を通して、神様の愛をしっかりと心に抱いていただきたいと願っています。心を新しくして主に求めましょう。
『落葉に 古きを捨てる 真理見る』
次の新芽のために、どんなに美しいきれいな紅葉も古いものとして、捨て去っていくのは真理です。どんなに今日がすばらしかったとしても、また明日は明日として、新しい一日として心を心機一転して歩む気持ちが、句に込められています。
旧約聖書は、新約聖書の時代に生きる人が新しい契約に至ったことを学ばなければ、信仰による救いの恵み、愛の深さを悟れないからです。古いものを残すのは、新しいものに気づくためです。新しいものに至ったプロセスを学ぶことによって、新しいものの良さを悟るためです。みことばは、旧新約聖書両方とも必要です。
毎日、日々新しくされるというみことばを信じて、新しい心を持って、新しい恵みを受けて、新しい喜びに満たされたクリスチャン生活を味わっていきましょう。
■2014年11月23日 日曜礼拝メッセージより(小栗伝道師、横路伝道師)
愛による良心からの従順 up 2014.11.23
ですから、ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも、従うべきです。
(ローマ13:5)
【小栗伝道師メッセージ】
【内容観察】
「ですから、権威者からのさばきである怒りが恐ろしいから従うのではなく、神の愛によってきよめられた良心が汚されないためにも、従いなさい。」
ローマ書13章に入ってからは、聖書的な権威について学んできました。一般的に、権威には「人を上から支配する」世の中のイメージがあります。しかし、本来権威は神様から預けられたものであり、「夫と妻」「上司と部下」「親と子」…の間に、「互いに愛し合う」という律法が成り立ち、調和をとるためのものということでした。
神の権威を畏れない人は、神様から預かった権威を、言葉や態度で人を支配する武器にしてしまいます。「○○ハラスメント」等は、自分の思い通りに支配権を用いている状況を言い当てていますが、あくまでも世の中における権威のイメージです。
しかし、私たちが互いに愛し合うことができるように、イエス様は私たちの罪の赦しを成し遂げられて、神の秩序ある調和のとれた国に導いておられることを感謝します。
「ただ怒りが恐ろしいだけでなく」とありますが、最高権威者であられる神様の怒りである最終的さばき(互いに愛し合うという律法に回復されるための懲らしめによっても悔い改めなかった時)に遭わないための恐れの故に、権威に従う状況が生まれることもあります。この「恐れて」「おどおどしながら」「何か言われるかも」という状況を、神様は願われていません。
1.良心が汚される(第1コリント8:7)
“しかし、すべての人にこの知識があるのではありません。ある人たちは、今まで偶像になじんで来たため偶像にささげた肉として食べ、それで彼らのそのように弱い良心が汚れるのです。”
【内容観察】
「すべての人に唯一の神イエス・キリストだけがおられるという知識があるのではありません。今まで多神教の偶像になじんで来たため、偶像にささげた肉という意識を持って食べてしまい、それで彼らの良心が弱いので間違った良心のとがめを強く感じ、良心が汚されてしまうのです。」
みことばにある「この知識」とは、唯一の神イエス・キリストがおられるだけで、他の偶像は神ではないということ。当然、偶像に供えた肉も意味をなしません。ところが、偶像の神への供え物の習慣に親しんできた人は、それを食べたことで良心が責められて、汚されてしまうのです。
例えば、狭くても信号がある歩道を前に、自己判断で信号を無視して渡る人々は、「他の人もやっている」「急いでいる」等、他の理由が優先されます。これが「互いに愛し合う」という律法が語られていたとしたらどうでしょうか。
弱い良心とは肉の良心とも言えますが、目に見える人々の反応、世の価値観によって揺さぶられます。愛の権威に対しても、それが私たちを調和に導くものと知りながら、「自分は正しい」とする自己義によって自分の考えを基準にして、自分が納得する部分とそうでない部分を持ちます。「自分の正しさ」からくる、上から見下すような言葉遣いからもわかるように、神の秩序を無視した状態となり、権威を持つ方に対して、自分の思い通りにすることを良しとする状況も起こります。
結局自分の思いで動く弱い良心は、神が建てられた権威を認めず、高慢さによってその権威を侮り、良心が汚されてしまうのです。(“正しい者の心は、どう答えるかを思い巡らす。”(箴言15:28)とあるように、徳を高める言葉を考えて語るのと対称的です。)
自分(小栗伝)の最初の職場で、手厳しい対応の連続だった上司に対して、感情がついていかなくても、みことばの故に自分の態度を思い直していった時に、この上司が心を開いてくださるように変えられた体験があります。
結局「良心が汚される」とは、自分の中にある神様の愛を100%信じていた純真な思いが、見える、触れるものによって揺るがされて、そのパーセンテージが下がり、純真さが失われていくことだと思います。
【デボーション参考ポイント】
★汚されない強い良心について考えてみよう
神様はあなたのために何をしてくださいましたか。
(第1ヨハネ4:11)“愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた愛し合うべきです。”
神様がまず私たちを愛してくださいました。私たち罪人の罪のために、御子イエス様が身代わりとなって十字架にかかられ、尊いいのちをお捨てになるほど愛されている私たち。しかも、まだ罪を犯す者ですのに、赦し続けてくださるという、もったいないほどの恵みが注がれています。
汚されない強い良心とは、目に見えるところでの揺さぶりに反応することなく、「私は私を愛し続けてくださっているイエス様を愛し続けます。それゆえに、そのみことばに堅く立ち、心を留めていきたいです。イエス様、今日も私を導いてください。」との思いで支配されていると思います。
当然、(第1ヨハネ4:20b)“目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。”というみことばのように、見えるところで自分の上に置かれた権威を持つ方に、いかに形だけでなく心から従えるかということも問われます。絶対的に信頼のおける神様が、今自分が従うようにと与えられた権威を敬うこと、またトップにおられる権威を預かっておられる方は、自分の上にある権威者である神様を純真な思いで畏れることが、汚されない強い良心と言えます。それには心からの愛の尊敬を持つことが大きなポイントです。弱い良心から、汚されない強い良心に導かれるため、「神様、あなただけを見上げられるようにしてください。」と祈りたいですね。
そして、権威を預かっておられる、目に見える方が完全ではないことを踏まえて、その立場を敬う心を失ってはなりませんし、また権威を預けられている方も(親であれば子の、上司であれば部下の)不備を覆うことが、互いに赦し合い愛し合う関係を築き上げていくことになるのではないでしょうか。
神様が与えてくださった愛による良心によって、神様に対する心からの純真さを汚されることのないように、互いに受け入れ合い、さらに従うことをぜひとも学んでいっていただきたいと思います。
2.『一世木鐸』(いっせいぼくたく)を敬う(第1ペテロ2:18)
【横路伝道師メッセージ】
“しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。善良で優しい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい。”
●『一世木鐸』の意味
「世の人々を教え導く人のたとえ。社会の指導者のたとえ。」
「一世木鐸」を敬うとは、世の人々を教え導く人、社会の指導者に尊敬を払いなさいという意味です。
「木鐸」(ぼくたく)とは、金属の鐘に木製の舌がついていて、新しい法令を人々に触れ知らせる時に、これを鳴らしながら歩いたものです。
【内容観察】
「しもべたちよ。主人を愛している証である尊敬の心を表して従いなさい。神を畏れる善良で優しい主人に対してだけでなく、わがままで乱暴な主人に対しても尊敬の心を表して従いなさい。」
*「しもべたちよ」とあるのは、召使いの立場にある人たちに語られた教えですが、私たち「神を敬うクリスチャンたちよ」と、私たちに対して語られていると思います。
私たちが、すべての上に立つ権威が神様から与えられた権威であることを覚えて、「その権威に対して、しもべのように従順でありなさい」という語りかけです。
*「尊敬の念を込めて従いなさい」これは、心の内は相手を軽べつしながら表面だけの服従をする、「慇懃無礼」(いんぎんぶれい)であってはならないということです。口語訳・文語訳の聖書では「心からの畏れをもって」「大いなる畏れをもって」となっていますが、現代ではこのような「畏れ・畏敬・畏怖」ということがわからない時代となっています。
イエス様がペテロに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われた時、ありえない状況で大漁となったのを見てペテロは畏れ、イエス様の足もとにひれ伏して「主よ。私のような者から離れてください。私は罪深い人間ですから。」と言いました。(ルカ5:4〜8参照)
また、イザヤが栄光に輝く主の御顔を見た時、畏れおののき、
“「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」と言いました。”(イザヤ6:5)
このように「畏れる」とは、すぐれたものに圧倒され、自分の存在の罪深さに立つことさえできない状態であると思います。
私たちは聖い全能の神様の前に、顔を上げることもできない畏敬の念をもって服従する姿勢があるでしょうか。
「善良で優しい主人に対して」でなく。
優しい主人には従いやすい一方、甘えが出て怠けたり、向上心をもって自分を磨くことができなくなるおそれもあります。
*横暴な主人に対しても従いなさい。
「横暴」は「気難しい」とか「情のない」とも訳されており、たとえそうであっても、神が立てられた権威を敬う心から従うよう、勧められています。
主人の権威を軽んじて従わない者は、権威者からその不従順のゆえに罰せられますが、一方、横暴な権威者は更に上の権威者(権威)の下にあり、その行動を更に上位の権威者から正しく裁かれます。
(第1サムエル25章)に良い例が記されています。
サウル王の妬みを受けたダビデとその部下たちが、逃亡生活を送っていた時のことです。カルメル地方で多くの家畜を持つ富豪ナバルの財産である羊や山羊を、ダビデたちは外敵や盗人から守っていました。その恩を無視してダビデをののしったナバルに怒ったダビデは剣を帯び、部下400人を率いてナバル一族を根絶やしにすべく出発しました。
しもべから事のてん末を聞いたナバルの妻アビガイルは、急いで贈り物を用意し、ダビデの部隊がナバルの住んでいたマオンの地に到着する前に出かけました。道の途中でダビデたちに会った彼女は地にひれ伏して謝罪し、賢くダビデの怒りをなだめました。
ダビデはこのアビガイルの機転を誉め、賢明なとりなしを受け入れ、怒りを収めて陣営に引き返しました。
アビガイルは、夫のナバルに事の次第を話そうと帰りましたが、宴会で酔っていて話にならず、翌朝酔いが醒めてから話しました。ナバルは自分のみならず一族が全滅の危機にあったことを聞いた時、発作を起こし気を失って倒れ、10日後に死んでしまいました。
ダビデの権威を侮辱したナバルは、神の御手により命を取られてしまったのです。一方アビガイルは、横暴な夫ナバルに忠実に従いましたが、更にナバルに代わってその上の権威者であるダビデにも服従しました。
「ただ怒りが恐ろしいからだけではなく、良心のためにも従うべきです。」とあるように、権威を軽んじる高ぶり、反抗心、怒りから、自分のきよめられた従順な正しい良心が汚されることのないようにしましょう。
私たちも、たとえ気難しく横暴な主人であったとしても、神を愛するゆえにみことば通り権威に服従することが、自分の正しい良心を守ることです。尊敬の心をもって神によって立てられているすべての権威に従いたいと思います。
■2014年11月16日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
呪いの感情に勝利する up 2014.11.16
しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
(ローマ8:37)
私たちは「圧倒的な勝利」を得ることができます。ぎりぎりではありません。この勝利の秘訣は、神が注がれる私たちへの愛です。
1.イライラの原因(ヤコブ4:1〜3)
“何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。”
(1) 欲望をコントロールできない心
すべての戦いや争いの原因は、からだの中、心の中にある欲望です。「欲しい、欲しくない。」という葛藤が内に起こります。相手がいなかったら、自分自身に失望するだけですが、相手がいる場合は、対立して問題が起きてきます。
欲があって、しかも自制心が強い人は非常なストレスになります。そしてストレスがたまると不安になります。世の中はそれゆえ自制を勧めません。
しかし、ストレスをためるような自制心は不健康な自制心です。私たちは、不健康ではなく健康な自制心を持つ必要があります。
自制心を失ってしまったのは、実はアダムとエバの事件にさかのぼります。エバは、食べてはいけないという実に興味を持ちました。これは好奇心です。好奇心自体はいいものですが、この欲求をサタンは上手く利用しました。「食べてはいけない」という神のおことばを軽くとらえ、重要ではないかのように錯覚させて、「食べてみたい」という欲望を強く刺激したのです。
エバは、神のおことばを守ることが重要だという認識が低かったと思えます。神から直接忠告されたのは、アダムだったからです。アダムが厳しくエバに伝えていたら、違ったかもしれません。
エバの行為によって、何が起きたのでしょうか。彼女の行為によって遺伝子に「欲に服する」というデーターが刻まれてしまいました。行動することによって、遺伝子にはそのデーターが刻まれていきます。それゆえ遺伝子は人間の歴史とも言えます。真っさらな遺伝子に刻まれる最初のデーターの影響は深く、それ以来人間は欲に逆らえなくなり、罪の力が宿ってしまったのです。さらに欺きと偽りにも服することになってしまいました。自制心は、こうして欲に支配されることになりました。
(2) 背後にいるサタンの霊の働き
欲を利用し罪を引き出す背後には、必ずサタンの霊の働きがあります。サタンは私たちに敵対心を与え、戦いや争いを引き起こすための欺きのデーターを与えてきます。
(ヤコブ3:14.15)“しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。”
もし人との比較によりイライラの感情が内側に起きてきたら、それはサタンがあなたの欲望を用いて人と争うように仕向けてきているということです。悪霊に属する者として、あなたをコントロールするために欲望を用いてきているのです。このサタンの手口はアダムとエバの時から変わっていません。
ただし、欲望そのものは悪くありません。サタンは欲望を用いて限度を超えさせ、貪欲という不健全な欲望をもたせようとしているのです。健全な欲と不健全な欲の境目を、神のおことばが境界線となり示してくださいます。みことばにより、今の自分の立ち位置がはっきりとわかります。悪霊に属すると、その言いなりになってしまいます。貪欲によって不道徳に走り、その罪を正当化するために人は言い訳を作ります。アダムとエバの罪の繰り返しになるのです。
2.呪いと罪の原理と解放
(1) 内に住みつく罪(ローマ7:15〜20)
“私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。”
人は遺伝子の中に罪の原理が組み込まれてしまったので、無意識に罪の方にいってしまうのです。
罪は肉のうちに住んでいます。つまり遺伝子です。そこで葛藤しますが、罪の原理が強いので、貪欲の領域に踏み込ませてしまい、なかなか罪をやめることができません。この罪は欲をいつも貪欲の方向に引っ張っていきます。そして、サタンは例えば節食したいと願っている人に対して「今食べるのをがまんして、1時間後に食べたら大丈夫」というふうに偽り、思いの中にことばを入れてきます。もちろん1時間後に食べようとカロリー摂取の量は代わりませんが、食べたいという貪欲を引き出すために、サタンは偽りのことばの言い訳によって働いてくるのです。この思いや考えが許可を与えるので、ストレスがたまらず食べてしまいます。そして、良心は痛み始めます。ある人はあきらめることで、ストレスをためないで良心の呵責からさえも逃れてしまいます。これはとても危険な状況です。
(2) 解放して下さる主(ローマ8:1〜2)
“こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。”
原理というのはあなたの努力や才能とは違う別の力の存在です。このいのちと御霊の原理の方が強いので、罪と死の原理を飲み込んでそれを働かせないようにすることができるということです。
あなたの内にはこの2つの原理が存在しています。しかし、いのちと御霊の原理の方が強いのです。ただ、この原理が弱ると罪と死の原理があなたを覆うようになってきます。ですから、いつもいのちと御霊の原理が自分を覆うようにしておかないといけません。それは、イエス・キリストを信じる信仰によります。私たちの意志をイエス様への信仰に持っていくことに向けましょう。罪をやめようという方に意志をいくら向けても負けます。しかし神の愛を信じ、「いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放した」と信じるなら、罪から解放されて自制心を働かせることができるようになります。努力によるのではありません。祈るという努力でもありません。信じるということに意志を向けましょう。
この原理を働かせようして、努力するのではありません。信じることに心を向けましょう。努力によらずに酒やタバコから解放される人は、そのように信じたからです。まだやめられないという人は「飲みたい、飲みたい」という欲望を自ら手放したくないからです。口でいらないと言っても、気持ちが欲望に同調しているからです。しかし、その欲望は爆弾のような物です。いつまでも持っていたらいつかは爆発して命を失いかねません。それで神は懲らしめによって、ある時は手放すようにされます。早くその欲が必要ないと認め、手放しましょう。欲望にまさる神の愛の素晴らしさを体験しましょう。そうしたら必ず罪から離れようとします。
もっとキリストを知り、神に対する好奇心を持ちましょう。神のことをどれだけ求めていますか?
忙しい忙しいと言い訳して、他の肉を喜ばせるものには多くの時間を割いていないでしょうか。それがサタンの霊の惑わしです。
いろいろな霊の働きがありますが、「教えの風(霊)」というものがあります。これは思想的なものです。私たちは意外に鈍感になってしまい、世の中の多数派の考え方に影響を受けていないでしょうか。霊はことばです。世の中のことば、思想、価値観の影響を受けてしまうと、自分の全人格までもその影響下に置かれてしまい、恐ろしい縛りの中にいつの間にか入れられてしまいます。私たちは霊的な存在者なので霊に影響を受けやすい者です。
しっかりと油断をしないで、罪と死の原理に覆われないように気をつけましょう。解放の原理はいのちと御霊の原理で、束縛の霊は罪と死の原理です。
3.私たちがするべき事(ヤコブ4:7)
“ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。”
(1) 神のみことばに立つ
格闘技の試合の前に、自分に肯定的な自信をもたせるため「できる、できる」と告白します。能力よりも確信をもつことが大事だからです。
神のことばに確信を持ちましょう。神の約束のみことばをしっかりを告白しましょう。
(2) 悪魔に立ち向かう
みことばの確信を基に、悪魔に立ち向かいましょう。不信仰な考えや否定的な考え、多数決の考えに立ち向かいましょう。
4.解放を妨げるもの
—悪い感情を正当化する心「見えると言いはる所に罪は残る」—(ヨハネ9:39〜41)
“そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。”
罪人が罪人であると認めるなら、罪ではありません。しかし、自分を欺き、偽るなら罪となります。常に神の前に何が良いことで何が悪いことかを、私たちはみことばをもとに判断します。しかし、いくら正しいことをしたと思っても私たちが罪人であることに変わりはありません。しかし、自分を偽らせるのが自尊心です。自尊心を持つと争いのためのプライドにつながり、比較し、自分を正当化し、争う心が芽生えます。
そして、間違っているものは抹殺すべきという人殺しの原理が罪と死の原理から働き始めます。ヨブの正しさも、神の前には立てるものではありませんでした。罪人であることを忘れて、自分の行いにおいて義人であるとヨブは錯覚してしまいました。神の赦しによって義人とされていることを忘れていたのです。成功していると、いつの間にか自分は正しいと思い込みがちです。私たちは人の意見を違うと否定し裁いてはいけません。神様のみこころに基も近いものを私たちは選んでいますが、それは主観的に正しいからだとかではありません。教会はいろいろな方がいます。強い人弱い人がいます。神が願われるのは、一点から百点取る人が一つのチームの中で争わず、見下したり卑下したりせず、互いに愛し合うことです。神は、結果ではなくチームワーク、愛を大切に見られます。どんなに弱い人でも大切です。一人でも欠けてはいけません。
毒麦の例え話を思い出してください。神様は、毒麦もいい麦も最後の裁きまで一緒に育てられます。毒麦でも悔い改めていい麦になることを期待されているからです。自分はダメだと決して判断しないようにしましょう。また、中途半端なクリスチャンとして安易な気持ちを持つこともやめましょう。神はすべてを裁かれます。
5.悔いて、砕かれた魂となるーその時、呪いの感情に勝利できるー
“神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。”(詩篇51:17)
ここに完全な勝利の秘訣があります。神は砕かれた悔いた心を大切にされます。(マタイ23:12)「だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。」とあります。宴会に招かれて上の座に自分で着いて、主人がやって来てもっと下がってほしいと言われたら、本当に恥です。最初から末席に着いていたら恥にはなりません。それゆえ、私たちはへりくだった謙遜な心が大切なのです。自分を義とするのは、上座に着くようなものです。私たちは罪人なのです。神が赦してくださっているというだけなのです。それをしっかりとわきまえていれば、呪いの感情に支配されることはなく、ストレスもたまりません。少しでも自分はましな方だと思う時に、心が騒ぐのです。高く引き上げて下さる方は、ただ神のみです。能力があなたを義とはしません。能力は隣人のために用いるために与えられます。自己義を捨て、赦された罪人として正直に神の前にいつも出る者となりましょう。
■2014年11月9日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
愛の定めを固くする up 2014.11.9
したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。
(ローマ13:2)
社会のルールは、すべての人が等しく幸いを得るために存在しています。神様が与えてくださったルールは、「互いに愛し合うこと」です。この定めを固くするためにあるのが「権威」です。
「『権威』は、異なったものを調和のとれたものとするだけでなく、それを維持するためにさばく力も有している。」
すべての定めは、権威によって成就されます。
1.権威に逆らう者(ローマ9:20)
“しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。」と言えるでしょうか。”
自分の生い立ちや置かれている環境、姿形や性質に対して不満を抱く方もおられることでしょう。しかし、それらを含めて歴史の中にただ一人の存在であることが、既に価値を持っているのです。
それゆえに神様は一人一人に対して、「わたしの目にはあなたは高価で尊い」(イザヤ43:4)と言われます。人の間では優劣をつけますが、神様の目にはその本質、「たった一人の尊いもの」が見えているのです。
【内容観察】
◎その国の最高権威者は、建国者であるように、万物の最高権威者は、創造主の神である。
権威は神によって建てられています。宇宙万物も神の定めに従い、お互いを愛して調和を保っています。権威に逆らうことは神に逆らうことです。
では権威者が悪人であった場合は、どうすればよいのでしょうか。
例1(マタイ23:1〜3)
“そのとき、イエスは群衆と弟子たちに話をして、こう言われた。「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行い、守りなさい。けれども、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。”
律法学者、パリサイ人たちは権威者であり、教えている内容自体は正しいものでした。ですから彼らの教えを守ることは正しいことであり、価値あることだったのです。私たちは人にではなく、権威に従います。権威者の自己中心な命令に従う必要はないのですが、愛の律法を保護するための権威には従います。
例2(使徒5:29)
“ペテロをはじめ使徒たちは答えて言った。「人に従うより、神に従うべきです。」”
人が人のために建てた権威があります。習慣や常識と言ったこの世に属するものがそうです。しかし、私たちが優先させるべきは、神様に属するものです。「互いに愛し合いなさい」というみことばに準ずるものに従います。みことばを実現しようと努力している人々は、神様の権威の下にあります。そして、みことばにのっとった命令を下すはずです。それならば従うのは当然でしょう。
あくまで神様に属する権威であって、人に従うのではないことに注意してください。世界のどこに行っても法律の根っこは同じで、「互いに愛し合うこと」を目標にしているはずです。権威者がそれを悪用してしまうだけなのです。
2.定め(律法)を守成させるための権威(ローマ13:3)
“支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行いなさい。そうすれば、支配者からほめられます。”
【内容観察】
◎支配者が定めた律法を守っているなら、権威を怖がる必要はありません。むしろほめられるのです。そのようにして、定められたことが固 く建てられて平安を保つのです。
◎神の国の定めは、主なる神を愛することと、隣人を自分を愛するように愛することです。これが固く建てられるために権威が必要になるの です。
3.さばきを行使するための権威(ローマ13:4)
“それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。”
【内容観察】
◎さばきは、神の定めに逆らう者たちを懲らしめて立ち返らせる役割
◎さばきは、神の定めを妨害する者たちを取り除く役割
◎これらを行使するための力が権威である
裁きでさえ、愛の現れです。完全なる決定の前に、正しい道に立ち返らせるために、神様は何度も懲らしめられます。
すべての人の幸せを最大限守るために、お互いに幸せの関係を保つためのルールが法律であり、それを維持するための力が権威であり、妨げとなるものを取り除くのが、裁くための力です。
ヒューマニズムによると、人が人を裁くことはできないらしいですが、本来人は自分の都合で裁きを行うのではなく、神様から授かった権威によって、法律にのっとった裁きを行うのです。ゆえに、それは人の裁きではありません。旧約聖書での聖絶も、神様の定めによって断ち切られるべき人々を、命じられたしもべが実行しただけです。
4.『賞罰之柄』を持つ方(箴言9:10)
“主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。”
◎『賞罰之柄』(しょうばつのへい)の意味
「ほめることと罰することを行う権力のこと。」
【内容観察】
「人がまず知識を得、知恵を着けるためには、創造主への畏敬の念と主権を認めることが第一である。それによって物事の善悪を区別することができるようになる。これが悟りである。」
私たちの神様は「賞罰之柄」を持っておられます。この方に背を向けるのは愚かなことです。私たちは本当にそのことをわかっているでしょうか。簡単に罪を犯す。簡単に人を裁き、人をねたみ、人をうらやむ。これらは神を畏れる心が弱いために起こります。聖なる方を畏れることができていません。
この方が罪に対してどれほど厳しい方であるか、同時にどれほどあわれみ深い方であり、罪を赦すことのできる方であるか。これを悟っていない人は、セルフコントロールができなくなります。神様の裁きも、永遠の火の池に行くこともわかっていません。だから罪が止められないのです。地獄に行った人の証ならば、何冊も本になっていますから、読んでみられると良いと思います。
◎賞罰之柄を持つ方⇒善悪の基準は神にあります。そして神が定められた律法が、善悪の基準です。この律法は「互いに愛し合うこと」ただ一つ。神様はこのことを最優先されるお方です。結果の優劣よりも、互いに愛し合うことを喜ばれます。この世は結果を優先します。劣っている者は排除されます。しかし、神の律法はすぐれた者も劣っている者も共に幸いを得るように、と与えられたものです。
実際、神様が結果を欲されたならば、思うがままの結果を出されたことでしょう。実現する力を持ったお方だからです。だからこそ、求めておられるのは結果ではなく、互いに愛し合う「愛」なのです。
私たちはこの世のルールもわきまえておかねばなりませんが、それよりも重んじるべき「互いに愛し合う」という神の定めを優先する生き方を目指しましょう。
それは難しいことではあります。(箴言17:1)にも“一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。”と書いてあります。お金のために、互いに愛し合う関係を崩さないように、個人的利益や名誉のために家族の愛を壊さないように、努めてまいりましょう。
【デボーション参考ポイント】
★自由と権威とは、矛盾するのでしょうか?
この世では、自分の自由しか考えません。しかし人との間に平和を保つためには、定め、秩序、権威が必要です。これが真理に基づく自由です。これは互いの自由を保護し合います。
他人の自由を侵害するものは、本当の自由ではなく、自己中心であり放縦です。互いの自由を守り合うために定めを決め、定めに伴う権威に従い、秩序を保ちます。定めを守らないことは本当の自由を侵害することであり、無法です。
今週のデボーションを、正しい良心をもって「真理に基づいた自由」をよく悟ってください。聖霊様の助けを求めましょう。
『濃紅葉 散りゆく定め 明日のため』
今、みごとな紅葉を見ることができる季節ですね。この紅葉も散りゆくのが、神の定めです。しかし、散ることは滅びではなく、復活のためです。私たちも永遠のために死にます。肉体の滅びは魂の永遠の幸いのためです。「互いに愛し合いなさい」という神の定めを全うするため、私たちのいのちは紅葉のように輝き、その後永遠の御国に行けるのです。
■2014年11月2日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
権威は愛ゆえのもの up 2014.11.2
人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。
(ローマ13:1)
今日は、権威が愛とどうつながりがあるかをお話ししたいと思います。私たちは、聖書的権威について、正しく理解する必要があります。権威の成り立ち、権威の存在目的をしっかりと押さえていただけたらと思います。
【内容観察】
「どのような権威ある者も、自分の上に立つ権威に従うべきです。というのは、愛であられる神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、愛の目的のために神によって立てられたものだからです。」
・権威は神によって、イエス・キリストにあって存在している。被造物の一つであり、造られたもの。
・権威は善悪を見分けられないので、手にした人の意志に従う。
〜世の中は自分の好き勝手に用いていることが多い。
・見える神の御子イエス(見えない神様の見える愛)によって、愛を動機として愛のために権威を造られた。
・個人的願望、欲望を満たすための力ではない。
なぜ権威に愛が必要なのでしょうか。調和ある愛の関係のためです。調和は、秩序という言葉にも置き換えられます。秩序は調和をとるために必要です。秩序は上下関係を表すものではなく、違うものが一つとなるために必要であり、それぞれが生かされるためのバランスを取るつながりをします。このつながりを維持する力が権威です。
世の中には、自分中心の動機で権威を使っている親、先生、リーダーたちがいます。しかし、権威は愛のために用いることが大前提です。
1.愛ゆえの権威(第1コリント11:3)
“しかし、あなたがたに次のことを知っていただきたいのです。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。”
◎かしら⇒ここでは、からだはかしらに従うものという意味で使われています。
◎神が権威を立てられた目的
男と女は愛によって結び合わされるものであると、創世記から見ることができます。ですから、結婚は神様が認める神聖な愛によって、二人は一つになると神が見られて契約します。肉の愛は、欲を満たす関係であり、神聖な愛が崩れてしまいます。神聖な愛を約束し合うのが結婚式です。これから結婚しようという人、このことをよく考えて相手を選んでください。結婚している人は、自己中心の肉が土台となった愛に変わっていないか考えてみましょう。
★キリストと人間との関係は、神聖な愛で結ばれている。
罪人である私たちが、神様と元の親子関係に戻るためには、神聖な愛に立ち返るしかありません。自己中心の愛は、神様の下に立ち返れませんし、神様と関係を結ぶこともできません。
神様が歴史の中に刻まれたイエス・キリストを通して表された神聖な愛に、自分の魂が触れると、正しい良心が目覚めて神様を敬うことに心が向きます。その決心は洗礼(正しい良心の神への誓い)で表されます。ですから、神様から注がれた神聖な愛を信じ、受け入れなければ回復できません。
★御父と御子の関係は、神聖な愛で結ばれている。
神様は、御父・御子・御霊と三つの人格が一つになられた人格者です。私たちの心もたとえて言うならば、知・情・意がバランス良く働くと、徳の高い人間になります。しかし、人の心には秩序がはっきりとできていませんので、時や状況で変わってしまい、行動や考えが一貫していないこともあります。自制心のある人は、知・情・意をバランス良く働かせ、徳の高い生活を送ります。
神様も、父、御子、御霊という秩序を持っておられるので、バランスの取れた完全なみわざをなさるのです。福音書を見ると、イエス様は御子だからこそ、御父に完全に従われました。子なる神のことばによって、聖霊なる神が行動されます。そして現実が現れてきます。すなわち、御父が計画を持っておられ、その計画に合わせたことばを御子が発せられ、そのことばに従って御霊が動かれるという秩序が常に成り立っているので、万物は統一されているのです。
権威、秩序を嫌がる人は、それらの本当の意味を理解していません。いやいや従わせられるイメージしかなく、頭から押さえつけられる力としか捉えていないのです。上下関係を秩序とは言いません。秩序は調和なのです。違う者たちが一つのことを仕上げるために、どうしても秩序が必要です。秩序は権威がなければ生まれてきません。力の順番が必要です。このように正しく理解してください。その目的は、愛の律法を行うためです。
●愛の権威を使うのはなぜか。
愛の律法を守るための忠告として、権威が使われます。すなわち律法から外れた時に忠告します。忠告する者は、上に立つ力ある者です。下から上に忠告というのはないですね。だから、「上に立つ権威に従いなさい。」と書いてあるのです。
権威ある者は、律法を守らせる忠告を与えることのできる力があります。そして、忠告に従わない者を違反者として罰する力も与えられています。罰するのは、秩序に戻して保つためです。つまり罰して心を入れ替えて、初めの律法に戻すための権威です。違反者を裁いて、永遠の火の池に投げ込むことができるのは、神様だけです。 神様の下に置かれたすべての権威は、律法の下に立ち返ることを目的として権威が与えられています。
神様から出ている権威なので、権威ある者は神のしもべです(ローマ13:2〜)。それゆえに、そのしもべは神から厳しい裁きを受けるものであることも忘れないでください。権威は個人の所有物ではなく、神様から預かった神聖なものです。それを自分の所有物のように使うならば、当然厳しく罰せられます。大きな権威を持つことは、神からさらに厳しい裁きを受けることも覚悟していなければなりません。
また、権威の使い方が悪いからといって従わないのは、神に従わないことと同じ意味を持ちます。律法を守る力である権威を、自分の欲のために用いているからと言って、その権威に従わないのは間違った考え方です。その行いをまねしないというのはいいことですが、律法を守るためにその人に与えられた権威に従うことは大切です。人に従うのではなく、権威に従うとはこういうことです。たとえば警察官がスピード違反したからと言って、自分もスピード違反をしますか。違反をすれば当然捕まります。権威の本質は律法を守る力なのです。どうぞ権威に従うことを理解してください。
もし間違った使い方の権威に服しておられる方がおられたなら、上に立つ方の権威の使い方に対しては、助言をするのであって、自分が上に立つ言い方をしてしまうと秩序を乱します。少しでも間違いを見つけると、上の権威を軽んじて自分が上に立っていくようになってしまうと、世の中は秩序が乱れて、やがて憲法が成り立たなくなります。
律法(法律)は、強い者も弱い者も、富める者も貧しい者もみなが幸いを得るために与えられているルールです。力の強い者を中心に社会を作ったら、とんでもない社会になります。権威は、隣人のための力であり、愛と結びついていないと正しく行使できません。
2.神の国は『安寧秩序』(ローマ13:7)
“あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。”
◎『安寧秩序』(あんねいちつじょ)の意味
「国や社会が落ち着いていて、乱れていないこと。平和で不安がなく、秩序立っていること。」
【内容観察】
「あなたがたすべての人は例外なく、権威の連結を乱さないために義務を果たしなさい。納めるべきものを納め、恐れるべきものを恐れ、敬うべきものを敬って、愛によって立てられた権威を秩序正しく守り、神の国を愛で満たすことを心がけなさい。」
平和で落ち着いている社会は、秩序が正しく成り立っている⇒権威が正しく働いている⇒律法(法律)が成就している、という流れがあります。
律法のために権威があり、その権威が健全な使われ方をしている証は、秩序が正しく成り立っているということです。この秩序を保つためには、それぞれの立場で義務を果たす必要があります。義務はしてはならないことも含んでいます。子どもの時は、後に社会貢献ができるようになるために勉強すべきであって、働いて稼ぐ時ではありません。それぞれ立場をしっかりわきまえて、事を行う必要があります。義務が守られていると、律法が成就している社会になります。
互いに愛し合うという神の律法が守られるために、牧師はじめリーダーに権威が与えられています。権威が健全に働いている証拠は、互いの間にある権威に従うという秩序が生まれていることです。下の人は助言というかたちで伝える必要がありますが、受け入れるかどうかは上に立つ人が決めることです。
よくあるケースで、間違った上司に対して、正しい方を判断した部下が上に立ってしまうならば、秩序は混乱します。親が間違っていたとしても、子どもが代わって家庭を治めることはありません。調和は、愛が一つとなるためのものであり、これを秩序と言います。この世の中の権威の使い方に影響されないように気をつけましょう。互いに愛し合うために権威はあるのです。
『月出ずる 秩序の正しさ 主を畏れ』
自然の秩序正しさが、月によってみられます。月は気分によって形を変えることはありません。
神様は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、雨を降らせるお方。人間が悪いからと言って、秩序を乱すことをなさいません。本当に権威と秩序を理解しておられるお方がとられる行動です。
私たちも自然の秩序正しさを見て、律法である互いに愛し合うことをしっかりと成就するために、上に立つ権威に従っていこうと心を定めていただきたいと思います。 |