■2014年10月26日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 悪に打ち勝つ愛  up 2014.10.26


悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。
(ローマ12:21)

 

 

 

 このみことばは、子供にも薦めたい大切なみことばです。悪に打ち勝つまで戦い続けるための支えは、神様の愛です。
 負けることがあっても、何度でも挑戦していきましょう。一度の失敗で不合格というのは律法の考えであり、私達は諦めないでやり続けることが許されています。父なる神様は何度でも許してくださる方です。それは、御子なるイエス様の贖いの御業が成し遂げられ、今もとりなし続けてくださっているからです。

1.『善』と『悪』(イザヤ5:20)
“ああ。悪を善、善を悪と言っている者たち。彼らはやみを光、光をやみとし、苦みを甘み、甘みを苦みとしている。”
 これは神様の立場から見た時に、善を悪と言い、悪を善という人たちがいるということです。

(1)『善』と『悪』はどのようにして区別されるのか?
 主軸があるからこそ、周りのものが成り立ちます。善とは主軸とするものです。悪はその主軸に対して対立するものです。
 主軸とはその人の信念であり、世界観です。この主軸を中心にして、すべての人は人格が形成されます。主軸が徳の高いものであるなら、その人は徳の高い人になります。それゆえ、善とは内容ではなく、何を基準にしているかによります。主軸にしているものが、即ちあなたの善になるのです。
 ひとりひとりは自分なりの善を持ち、その善に対して対立するものを人は悪と感じます。善と感じるものは、そこに自分の主軸と共感するものがあるからとも言えるでしょう。
 これにより先週語りました敵意、敵対が生まれます。悪は受け入れがたいと感じるので、そこに敵意、敵対という感情が生じてくるからです。
 敵対するものを受け入れると自分の善が崩れてしまうように感じるので、自分の主軸を守ろうとして敵意を感じるとも言えます。
これらのことから、善とは決して内容ではないということを覚えて下さい。 

(2)私たちの『善』である主軸とは何か?
 私たちの教会の主軸とは何でしょうか。それは(第1ヨハネ1:3)のみことばです。
“私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。”
 このみことばが私たちの信仰の基準であり、主軸です。これを妨げるようなものを悪とみなすのです。もっと、大きく言うならば、私たちクリスチャンの主軸は「神の愛を信じる」ということになります。それゆえ神の愛に反するものはすべて悪であり、闇なのです。
しかし、この世の人々は主軸が違います。例えば共産主義の人々や資本主義の人々はいくら相手を説得しても同じになることはなく、むしろ力の強い者が相手を抑えて自分の主軸に従わせるという事になります。これは家庭でも言えることです。ご主人が強ければご主人の考えが主軸になり、奥さんが強いと奥さんの考えが主軸になります。
 主軸同士を変えるというのは、本当に難しいものです。しかし、共通の主軸を持てば、そこに平和がきます。結婚もお互いの主軸に相手を合させようとするのでなく、神への信仰・愛を共通の主軸とするならば、その共通の主軸のゆえに互いに協力しあえるようになるのです。
 教会の共通の主軸であるみことばをいつも中心としていくならば、綿菓子のように割り箸を中心として巻いていくと、大きな立派な綿菓子になります。
 もし、主軸がしっかりしていないなら、私たちはその場しのぎで判断し、中途半端な何も完成できない人生を歩むようになってしまいます。
 私たちが自分の主観を中心にして、みことばを綿菓子として巻いてゆくなら、それは間違いです。中心が自分の主観であり、それによってみことばを判断していくなら、的はずれの人生になっていくでしょう。
 神は万物の創造者であって、すべての被造物の主軸となるお方ですから、私たちの主観が主軸となるのなら、善となることはありえないのです。
 神様のみこばが主軸となって、人生の様々な体験や経験が綿となって付いていくのが私たちの歩むべきクリスチャンライフであり、そこに本当の平安が生まれます。
 みことばを自分の人生の中心としましょう。しかし、対立する主軸(この世の)をもうひとつ作ってしまい、心のなかに2つの主軸ができるなら、信仰は弱り、聖書を読んでも理解できなくなります。
 この世の基準の善悪の判断では聖書のみことばは理解ができないことが多いからです。
 旧約聖書には、現代の価値基準の愛とは異なる記事が多くあります。しかし、私たちはそこにも神の愛を見ることが出来ます。それは主軸である神の愛から出る信仰のゆえです。

2.『陰徳陽報』を信じて(マルコ13:13)
“また、わたしの名のために、あなたがたはみなの者に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。”
 善をもって悪に打ち勝つ戦いをし続けるなら、必ず報いがあります。
 カインとアベルの話があります。なぜ、あのような事件が起きたのでしょうか。カインの捧げ物がなぜ受け入れられないのかを、神はカインに忠告しました。その時、神は「正しく行っていたのであれば」と語っておられます。アベルは神が正しいとみられる方法で捧げ物をしましたが、カインは神のお考えではなく、自分の判断でこれでもいいではないかと捧げました。カインは違う主軸を自分の中に持ってしまったのです。当然、それは神に受け入れられませんでした。
 すると、カインは神を恨み、神に従った弟アベルさえも憎むようになったのです。カインは自分が正しいという心を譲らず、アベルは対立する悪となりました。対立するものを人は排除しようとします。それゆえカインはアベルを殺害したのです。自分の正しさと反するものを人は認めたくありません。強い善(主観的な)の意識を持つ時、それに反する人をどうしても許せなくなるのです。
 カインは神の前にへりくだるべきでした。万物を創り、成り立たせておられるのは神であるということを、カインは認めてへりくだることができなかったのです。カインは自分の善のほうを神の善より優先したのです。
 こういったことは日常生活によく表れます。ちょっとしたことでも相手のやり方が違うと苛立ち、相手を裁いてしまったり。また、神の愛に基づいた主軸をしっかりと持たないと、周りの悪の影響を受けてしまいます。しかし、主軸をはっきりさせると対立者もはっきりしてきます。これがクリスチャン生活の苦しみでもあります。神こそが万物の創造者であり主権者であるという主軸をはっきりと出すと、無神論の人が進化論で応戦してきたり、神が愛ならなぜこんなことが起きるのかと嘲ってきたり…。 
 クリスチャンであると宣言したために批判的に見られたり、日曜日の礼拝を厳守しようとすると身勝手だとか狂信的とか言われたりもします。
 しかし脅しにのらないようにしましょう。神の愛を基準にして隣人愛をもって判断し、知恵をもって対処していくことが大切です。
そして、その判断に関して誰も相手を裁かないようにしましょう。神のみが正しく裁かれるからです。
 自分が判断するということに悩み、牧師に相談しに来られる方もいます。しかし、牧師の意見を聞いてその通りにするかどうかはあなたの判断ですから、その結果に対しては、あなた自身が責任を負うことになります。教える立場の牧師も責任をとりますが、受け止める方も責任があります。善悪の判断である主軸をしっかりと持ちましょう。その主軸である神はどのようなお方でしょうか。

“主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。”(出エジプト34:6-7)
 このみことばに、神ご自身のご性質が書いてあります。私たちの愛に関する理解はあまりに情け深さや憐れみにばかり左右され、怒りや裁きを受け入れ難く思うものです。しかし、神は怒るに遅い方です。愛の聖さを守るために、必ず最後の裁きがあります。神は悪がはびこっていく中で、救われる魂を待っておられます。神は忍耐し、愛の故に裁きの時間を延ばされているのです。そのことをしっかりと考えてください。神の裁きが延ばされているのは自分の救いの完成のためだと考えるなら、もっと真剣に神に向い生きようと思うはずです。このみことばをしっかりと黙想しましょう。

 

 

 

 

■2014年10月19日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 敵への隣人愛  up 2014.10.19


もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。
(ローマ12:20)

 

 

 

 先週は、神様の「復讐」が私たちの「仕返し」とは違って「完全な裁き」を表すこと、私たちは個人で復讐して神様の領域を侵す罪を何としても避けねばならないことを学びました。神様を信頼するならば、神ご自身が私たちを裁くことになってしまう「個人的復讐」という罪を犯さずに、神様にお委ねしよう、ということでしたね。
 今週も先週に引き続き、達成困難に思えるみことばですが、私たちは自分一人ではなく、主と共に同じくびきを負っていることを思い出しましょう。イエス様が常に助けてくださるならば、徐々にでもできるようになっていくと、信頼と期待を持つことができます。
 たとえ今はできなくとも、「信じる」ことは将来できるようになるという確信であり、私たちの信仰そのものです。あなたは敵に対してさえ愛を注げるほど、神の子として成長したいと思われますか?「無理だ」とささやく罪の力に惑わされないようにしましょう。

1.『敵』とは?
(1)『敵』の意味
★嫌う、憎むべき、非常に不愉快な、ひどく嫌な憎しみに満ちた、
 反感を持った、言い争う。
 言い争うなら、どんなに親しい間柄でも「敵」と言うことになります。ですから、こういった思いや感情には気をつけましょう。一歩引いて冷静に観察し、これが本心ではない罪の性質から出ていることを見極めてください。

(2)(詩篇69:4)で『敵』とはどのような者だと言っていますか?
“ゆえなく私を憎む者は私の髪の毛よりも多く、私を滅ぼそうとする者、偽り者の私の敵は強いのです。それで、私は盗まなかった物をも返さなければならないのですか。”
 人にとっての敵は、その人を滅ぼそうとする者であり、偽り者です。正しい者にとって偽りは難敵です。ゆえに敵は偽りとあざむきをもって惑わしてきます。その最たる者がサタンです。エバをだまして罪に引き入れたのも、偽りの父たるサタンのしわざでした。
 問題は、自分は偽ったつもりがないのに、誰かに「あの人は偽り者だ」と思われている場合です。教会の兄弟姉妹の中に、このような敵対関係がないように、信頼するということが大切です。
 「あの人の言うことは信用できない」と、兄弟姉妹に対して思うなら、また思われるなら、敵対関係がそこにあります。気づいたなら、まずその敵意を神様の前にお話しして、どちらが正しいかではなく敵意を持ったこと自体を悔い改めましょう。神様の前で自分の愚かしさを認めてへりくだれば、悪い思いは自然に小さくなり、治まっていきます。自分の罪を認められないから、へりくだるどころか、ますます憎しみが燃え、ついには爆発することになるのです。

(3)(箴言10:12)で『憎しみ』のもたらす行動は何だと言っていますか?
“憎しみは争いを引き起こし、愛はすべてのそむきの罪をおおう。”
 争いは絶対に避けるべきものなので、最初の怒りは人間として仕方ないとしても、神にあいされ赦されたことを知るクリスチャンとして、「以前は自分もそうだった」と、相手にあわれみの気持ちを持ちましょう。そうすれば赦すことができます。

(4)(第1コリント3:3)で『争い』をする人についてなんと言っていますか?
“あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。”
 争いに移行してしまった時点で、肉の人として動いてしまっています。それは正しい良心から、自己中心の意識に移っているのです。
 私たちクリスチャンはただの人ではありません。ノンクリスチャンなら普通のことですが、自分を人よりすぐれた者としたがったり、誰かよりはましだと比較したり、とにかく自分の間違いを認めない罪の性質は、気づいた時点で反省して「赦されている罪人」の地点に立ち戻りましょう。「こんな私でも赦されている」ことを思い出し、きよい良心の判断に任せましょう。

(5)(ヤコブ4:1)で、『争い』の原因は何だと教えていますか?
“何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。”
 「我先に」と思う欲望が争いのもとになっています。だから私たちは、相手に何を言われようが、何をされようが、無抵抗でいることが、争いをしないための究極の方法になります。自分が正しいかどうかには関係なく、争いは互いを断罪する神の領域ですから、絶対に争わないのが至上命題になります。自分が被害を黙って受けていれば治まるのなら、黙って受けるのがベストです。
 しかし、これができる人はまずいません。だからこそ、私たちは神様に祈るのです。ダビデも詩篇の中で苦痛と憤怒と悲哀を神様に申し上げています。(詩篇69:4)も、筆者の祈りの一つです。
 敵に仕返すのではなく、神様に申し上げるのが大事です。人同士で争えば、お互いに大変な傷を負うことになります。そして、本当の平和は決して訪れません。
 神様だけが絶対正義であるという立場に立って、私たちは先を見据えた行動をしましょう。自分の言い分を神様に祈り、聖霊様とみことばによって諭していただくように取り組むことが一番安全です。

2.『七擒七縦』の神の慈愛(ヨナ4:10〜11)
“主は仰せられた。「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。”
◎『七擒七縦』(しちきんしちじゅう)の意味
 「『檎』は、捕える。『縦』は、放してやるの意。敵を七度捕え、わ ざと七回逃がしてやる。そうすることで恩義に感じさせて、敵を 心服させること。」
【内容観察】
 「ヨナ書全体を通して、神の慈愛の深さを教えています。イスラエルの 敵であるニネベの町をあわれむ神に、敵対する主のしもべヨナ。
 神は、むやみやたらに人を生かしたり、滅ぼしたりされる方ではないと いうことを教えている。」
 預言者ヨナは、イスラエルを苦しめ続ける敵、ニネベの人々を救えと言われる神様に逆らって逃げました。そのてん末を、ヨナの心情や行動に思いを馳せながら、もう一度読んでいただきたいと思います。
 ここで皆さんに悟っていただきたいのは、神様の慈愛が『七擒七縦』であるということです。罪を赦されていることに気づいて心服し、従うようになるのを待つには、知恵と忍耐と寛容が必要です。神様は私たち罪人に対して、まさにこの態度で接してくださっています。
神様の律法に照らし合わせたら、私たちはしょっちゅう牢屋入りですね。出たり入ったりの繰り返しです。でもここで考えなくてはならないことは、「神様の愛はどうやっても私を生かそうとしてくださっている」ということです。
 この神様の愛に恩義を感じて、「神様、降参です。これからはあなたのしもべとしてお仕えします。」と、完全に敬服する関係の絆は、非常に強いものになります。愛による絆を深め、信頼を強めるために、神様はこんなにも私たちを赦してくださっているのです。
 赦しは、赦された実感の大きさによって、相手に与えることができるものです。自分が赦されたことを見なければ、人を赦すこともできません。自分が赦されたことをしっかりと味わって、あわれみを受けた者があわれみを施すという「愛のルール」に従って、赦しを施しましょう。「愛のルール」は、神様が自分にしてくださったように、人にもしてあげることです。それを実行していくようにと、日々の信仰生活があります。
 私たちは毎日、数え切れない赦しを神様からいただいています。罪人である自分の立場と、神様が施してくださっている「七擒七縦」の愛の恩義をしっかりと感じていくことによって、敵への隣人愛を示していくことができるように成長できます。そういう意味で、今回の四字熟語を選びました。

【デボーション参考ポイント】
★心服に至る神への愛と信頼について思いめぐらしましょう。
 心から服せるほどの神様への愛と信頼というものを、あなたはどう捉えているのでしょうか。永遠の裁きを赦され、永遠のいのちを得ることができるという、イエス・キリストを信じる者に与えられている救い。これにあずかっている人が、地上で100年を苦労したとしても、救いの価値に比べれば取るに足らない苦しみに過ぎないのです。これが見えてきた人は、地上でどんなつらい苦しいめにあったとしても、救われている喜びのゆえにいやされます。
 今はそれができてなくても、「そうなれたらどんなにいいだろう」と、望み続けましょう。心が平安になれる、救いの喜びを保てるように、願い続けたいですね。

『秋の馬 ご慈愛に肥ゆ わが霊も』
 秋は馬が成長する季節です。私たちの霊も、神様のご慈愛により、その与えられる食物によって肥え太って豊かになります。

 

 

 

 

■2014年10月12日 日曜礼拝メッセージより(小栗伝道師、横路伝道師)

 愛は復讐しない  up 2014.10.12


愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」
(ローマ12:19)

 

 

 

【横路伝道師メッセージ】
1.復讐は神の領域(ローマ12:19)“みことばは前述”
【参考聖句】“復讐と報いはわたしのもの。それは、彼らの足がよろめくときのため。”(申命記32:35a)
『復讐とは』ーひどい仕打ちを受けた者が、その相手に恨みをもって報復すること(辞典)
 辞典には上のように書いてありました。誰かに受けたひどい仕打ちに対して、悔しいから復讐したい、という反応が湧いてくるのは当然だと思います。自分と同じ苦しみを与え、わかってほしいという気持ちです。
 しかしみことばは、神様が復讐されるから私たちはしなくていいよと語られています。その中に、私たちに復讐をさせたくないという神様の愛が含まれています。復讐は相手に痛みを与えることです。それは私たちがするのではなくて神様がしてくださいます。公平な裁きをしなければ、秩序を保つことができません。

 ある王国の王様が、国を滅びに至らせる犯罪をなくそうと厳しい法律を作りました。ある年の元日から、もしこのような罪を犯したなら、その人の両目をくり抜いてしまうという法律です。しかし、初めに連れて来られた犯罪人は、その王様のたった一人の息子でした。王様はとても悩んで、決心したのは、王子の目を一つだけ取り、もう一つの目の代わりに王様の片目を取るという決断でした。

 神様も、このような方法で私たち人間を助けられました。十字架にひとり子イエス様をつけられ、代わりに私たち人類をお救いくださいました。イエス様は全部を私たちのために投げ出してくださいました。
 このように、罪が処分され、悪が処罰されないと正義は全うされない、ということです。

◎人は正しく復讐できない
 正しい復讐をするためには、全部のことがわかっていないとできないのです。正しく裁くためには、相手の、そのような害を与える原因について、そうしなくてはならなくなった経緯、人生の背景、状況をすべてわかっていないといけません。
 一方神様は、被害者のことも加害者のことも全部ご存知ですから、公平な判断と裁きができるのです。だから、この公正な裁きをされる神様に全部任せなさい、それが間違いないですよ、ということです。
人は間違えてしまうからです。

◎もし自分で復讐したら…
(1)越権行為である
 正しい裁きは主がなされることですから、権限のない者がすると、それは罪となります。旧約聖書には、サウル王が、祭司であるサムエルがする、いけにえをささげるという行為を待てなくて、自分でしてしまう罪を犯した記事が載っています。これは権限がないのにやってしまったという罪です。
 また、カインは弟アベルをねたんで、殺人事件を起こしました。この「殺す」という行為は裁きであり、神様がされるべきことを勝手にしてしまうという、越権行為です。

(2)神のみこころを悲しませる
 神様は、自分で復讐するという越権行為の罪を私たちが犯すことを悲しまれます。また、加害者に対しても愛を持っておられるので、勝手に復讐をすることを悲しまれます。
 また、いつ報復するかという最善の時を神様がご計画されているのに、自分勝手に今だと復讐してしまうと、神様を信頼して時を待ってほしいというお心を裏切ることになるので、神様を悲しませることになります。

(3)限度を超えてしまう
 人が復讐してしまうと、限度を超えてしまうことがあります。人の貪欲から「こんなにされたのだから、もっと復讐したい」と、どんどんエスカレートしてしまいます。

(4)復讐の連鎖が起こる
 やられたらやり返す、やり返されたらまたやり返す、と、きりがありません。やり返していくと、次々と大きくなって、最後には大変なことになります。これはサタンの喜ぶ方法です。

◎どうすればよいのか
*みことばに従う
 自分で復讐しないためには、「このようになるから神様に委ねて、自分ではしてはいけない」というみことばに、わかりましたと受け止めることです。正しく裁かれる方に委ねなさいということを守ることです。
(ローマ12:14)“あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。”

*イエス様の模範にならう
(ルカ23:34)“その時、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」”
 神様はあわれみ深く、イエス様をいじめ、迫害し、殺すような人をもあわれんで、「わからずにしているのですから」とあわれんでくださいます。
 (ルカ22:42)では、ゲッセマネの園でイエス様は、“「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」”と祈られています。神様のみこころに委ねるということを実践されたお方はイエス様です。私たちもこのことを実践していきたいと思います。

2.復讐心を治める 【小栗伝道師メッセージ】
(イザヤ35:4)“心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。」”
 復讐心という、きつく響いてくる言葉には、自分にとって不条理な対応をされたことへの怒り、憎しみが根本にあり、その感情を持ち続ける時に、隊長への影響が指摘されることがあるほどです。
 聖霊に満たされて、何が起ころうとも「感謝」できる心境を誰もが維持できるわけではありません。肉の思いは、自分がされたことに対してはことのほか、「よくもやったな。」と、心の真ん中にイエス様ではなく、自分にそんな態度を取った相手の言葉、態度を置き続けていることがあります。せっかくイエス様の血潮で聖められた心が、赦そうとしない憎しみや悔しさによる復讐心を持ち続けることによって汚されてしまいます。受けた私たちの側が、無視する等の対応をしてしまうのは、復讐心の現れです。
 心騒ぐ状況は平安ではありません。いつも周りの人が自分にどのような態度をとるか気になったり、過去の出来事で神様にも矛先を向けてしまったりします。
 そのように心が落ち着かない人に、「全てを支配しておられ、統べ治められる神様を見るように」とこのみことばは勧めています。
また「復讐が、神の報いが来る。」ということばには、次の「救われる」ということばと合わせて、神様の「さばき」があることを示しています。確かな、絶対的な方である神様が、復讐すると言われているのです。私たちに時を待つように語られています。
 ところが私たちは神様の時を待てないので、自分で動いてしまいます。復讐心の行き着くところは「相手を抹殺する」ことです。「兄弟を憎む者はみな、人殺しです(第1ヨハネ3:15)」とあります。しかもそれは、神様の愛の領域ではなく、真反対に相手を自分の思いから除外している状況にあることを、私たちは知らなければなりません。

◎神様が願われること
 神様は、神の子どもとして召された私たちが、たとえ一方的にされたこととは言え、復讐心を煮えたぎらせて、自分の手で復讐をしようとすることは決して願われません。復讐心を持つこと自体、互いに愛し合うことを願われる神様の思いから離れてしまいます。
 レビ記においても「復讐してはならない。…隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。」(レビ記19:18)と律法に記され、箴言にも「悪に報いてやろうと言ってはならない。主を待ち望め。」(箴言20:22)と語られている通りです。

◎イエス様の姿(第1ペテロ2:23)
“ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。”
 ののしられたら、ののしり返したくなるのが、私たちの肉の性質です。しかし、イエス様はそのままにされました。殴られ、つばを吐きかけられ、鞭で打たれ、十字架にかかるほどの苦しみを受けられても、復讐心によっておどすようなことは一切なさいませんでした。むしろご自分に手をかける者のために祈られました。そして、正しく(公平にの意味)裁かれる父なる神様にお任せ(委ねるの意味)になられました。

*復讐心を治めるために
 私たちの肉の心には、一方的にされたことに対して、自己憐憫の思いから、復讐心を持つことを肯定する動きがあります。この思いに促されないように注意する必要があります。
 
そこで、心に湧いてくる復讐心を治めるためには、
・十字架につける(水のバプテスマの真理に立つ)〜肉の思いを十字架につけ、新しい人として生きる
・十字架を見上げる〜罪人を赦すために十字架についてくださり、すべてを完了してくださったイエス様の姿を見て、何を受け取るか。
・神の子としての自覚を持つ〜正しい良心を意識する、愛の弟子の生き方をする、赦された罪人であり、心を聖く守ることを心がける

○感情を取り扱う(詩篇のダビデの祈り)
 復讐心の根本にある憎しみ、怒り等は知識でわかっても、なかなか治めにくい感情と言えます。
例)(詩篇55:15、23)
 詩篇を見ると、ダビデが不条理に追いかけられ、心を痛めていたことがわかります。持ちこたえられない感情を、祈りの中ですべて神様に打ち明けています。
 私たちも祈りの中で良い格好をする必要はなく、心の内をあからさまに語って良いのです。「今、このような思いの中に私はありますが、どうぞあなたが私を見続けてください。私の避けどころはあなたしかありません。このような思いを解決できるのはあなただけです。」と神様に話し続けましょう。でなければ、感情部分は治まりにくいと思われます。この感情は何もないかのように隠されていても、どこかで爆発して形を表します。
 さらには、その人が神様の側にはっきり立っているが故に、ある時思わぬ一方的な態度を取られて心がかき乱されることもあります。このような時も、この出来事も神様のいつくしみの計画の中でされたこととして受け止めることができるのではないでしょうか。
 創世記に出てくるヨセフは、異母兄たちのねたみをかって穴に突き落とされ、奴隷となり、波瀾万丈の人生を送った後、エジプトでパロ王に次ぐ立場となりました。やがて、幼い時に自分が見た兄たちが自分にひれ伏す夢が実現した時に、「あなたがたは私に悪を図りましたが、神はそれを良いことのための計らいとなさいました。」と兄たちに語りました。ヨセフは神様がなされることを、ただ待ち続けた人でした。
 私たちが非情な仕打ちを受けることがあったとしても、神様は生きて働いておられて、決して私たちをそのままで放っておかれる方ではないことに信頼したいですが、いかがでしょうか。
例)(詩篇37:33)“主は、彼をその者の手の中に捨ておかず、彼がさばかれるとき、彼を罪に定められない。”
 悔い改めて神の前に正しいとみなされる人は、神様が悪者の手に渡されず、罪に定めることもなさいませんし、守ってくださいますという意味です。ですから、「一方的にやられた」という状況で、神様がなさる前に私たちがやり返したのでは、さばきの時に弁護されづらいですが、神様に委ねている状態ならば、さばきの時にこのみことばの通り、罪に定められることはありません。いかに、神様を信じて歩み続けるかが大切です。神様は、当然心の痛みも知ってくださっています。復讐心を隠したまま、抑えていることは、本当の意味では復讐心を治めていることにはならないのではないでしょうか。
 この感情部分をいやしていただくためには、聖霊の満たしを求めて出ることが必要だと思います。同時に、知識的な面での理解も大切です。
 冒頭のイザヤ書のみことばの後半には、人のいやし、土地のいやしと続き、さらに天につながる大路は聖なる道と呼ばれ、汚れた者は通れないとあります。ただあがなわれた者、すなわちイエス様が十字架で自分の身代わりに罪の代価を払ってくださったことを信じる人が通れるのです。この人は、もはや他の人の動きに囚われず、ただイエス様だけを見続けて、十字架のもとにへりくだり、ひれ伏す人です。
 確かに肉のアンテナは、人が自分に何をしたかにこだわらせます。自分の価値を人の対応で量らず、イエス様を十字架にかけるほどに価値があると見てくださっている神様の思いに立ち、究極的には自分がされた悪を赦し、神様に委ねる領域に入れていただきたいと願います。
 終末に生きる私たちは、愛の弟子として心を守り、復讐心を治めていくことを心がけ、ひたすら神の時を待って備えてまいりましょう。

 

 

 

 

■2014年10月5日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 隣人愛をしめす  up 2014.10.5


聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。
あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。
喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。
互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。
だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。
あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。
(ローマ12:13〜18)

 

 

 

 (ローマ12章)は、霊的なささげものについて語られています。私たちの人生を神にささげる具体的な方法が、この「隣人愛に生きること」です。
 贈り物は、相手に喜ばれるものを選びますね。私たちが神様に贈ることができる最上のプレゼントが、「隣人を愛する人生」なのです。
親が子どもたちの仲むつまじい姿を見て喜ぶように、神様も、ご自身が創られた人が仲良く暮らすことを望んでおられます。

1.隣人への愛の対応(ローマ12:13〜18)“みことばは前述”
(1)クリスチャンの入り用に協力し、旅人をもてなす。
 自分の力量に応じて、助けられる部分を助けていきましょう。また、「旅人」とは当時の状況から考えるに、非常に大切な用事があって出かけている人と捉えることができます。また、流通が未発達な時代のことですから、衣食にも泊まる所にも大変な不自由を強いられていることも察せられます。そのように困窮している人たちに親切をする、手を差し伸べるという意味です。

(2)迫害する者を呪うのではなく祝福する。
 人に対して悔しいという気持ちを持ったら、もう半分呪っている状態です。迫害する者を呪えば呪うほど、迫害されます。これは罪人の性質です。
 迫害する人に正しい指摘をしたとしても、相手にとっては自分を傷つける攻撃に過ぎず、自分の身を守るためにますますかたくなになってしまいます。私たちはそんなかたくなな心を溶かしていくための祝福を示し、祈ってまいりましょう。
 迫害する人は、何らかのねたみや嫉妬に動かされている場合が多いのです。「私たちより立派になってください」と祝福を祈れば、ねたみや嫉妬の原因が消えるので、私たちを呪わなくなります。

(3)喜ぶ者とともに喜び、泣く者とともに泣く。
 日本社会の中ではなかなか難しいときもありますね。「泣いている人の前で喜ぶなんて不謹慎だ」という考えが普通ですから。しかしクリスチャンは、「喜んでいる人が泣いている人に会ったら一緒に泣き、泣いている人が喜んでいる人に会ったら一緒に喜ぶ」のです。隣人を愛する心はそうなのです。
 この時「何をしてもらったか」ではなく、「何をしてあげられるか」を重視して、愛されるより愛することを優先していきましょう。「愛されなかった」と人を批判するより、「愛してあげられなかった」自分を反省する人生へ。そうしたら、人を恨んだりねたんだり裁いたりすることなく、自分を反省し神様の前にへりくだって「もう一度やり直していこう」という謙虚で敬虔な歩みをすることができます。
私たちは隣人に愛を注いでいく人生を目指してまいりましょう。

(4)へりくだって、互いに一つ心になる。
 へりくだるのは、一つ心になるために絶対必要な心だからです。
上下関係は秩序を守るために必要なものですが、優劣をつける意味合いではありません。たとえば、会社の上司が客観的に見て能力が自分より劣っていても、会社全体の秩序を保ち正常に機能させるためには上司に従い、自分の役目を果たします。大きな目的のために自分を低くすることも、隣人愛の一つです。

(5)高徳な判断につとめる。

(6)すべての人と平和を保つように努力する。

(5)、(6)は私たち誰の心にもある、良いことに対する思いでもあります。

【デボーション参考ポイント】
★素直にそのまま行動してみましょう。
 「素直さ」とは、正しい良心ではないでしょうか。正しい良心をなかなか働かせられない人は、素直になりにくいものです。歪んだ感情や、すさんだ否定的な知性や思い、考え方を持っているからです。傷や痛みを正しい良心によって上手に制御することが必要です。
 素直な心は正しい良心の中に存在します。いつも神様を見上げる
という、神の愛へのまったき信頼が、正しい良心の素直さを心の内に満たすためには必要です。十字架は、信頼できる神の愛の証です。「神は愛であり、私たちを愛してくださっている」という安心感と平安を保つことにより、正しい良心からの素直な、神のみことばに対する従順な行動を示すことができるのではないでしょうか。
 私たちは、神様の愛への信頼を心に持つ時、最終的望みは神の国にあるというところに思いを潜めます。この地上の損得や優劣にこだわっている間は、素直になれません。クリスチャンは、この世界で報われなかったものを、次の世界で必ず神様に報いていただけます。この世での得と永遠の世界での得と、あなたはどちらを選ばれますか。神様が用意されているものは、この世のものとは比較にならないすばらしいものばかりです。御国にあるそれらのものに思いを潜めて、隣人愛のための努力を惜しまずに進めていただきたいと思います。

2.『困知勉行』(こんちべんこう)(ルカ10:28)
“イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」”

◎『困知勉行』の意味
「苦しみながらも努力を重ねて実行すること。才能に恵まれない者が発奮し、ひたむきに努力を重ねること。」
 神様はこのような人を喜ばれると思います。できるかどうかではなく、「ひたむきに努力を重ねる」というその姿勢が、神様に喜ばれるのです。
 上に挙げられたみことばの前には、イエス様のたとえ話があります。ひどいめにあわされた旅人を、神に仕える祭司やレビ人が助けず、普段差別と迫害を受けているはずのサマリヤ人が助けたという話です。
 Tで挙げた項目を全部クリアしているのが、このサマリヤ人と言えるでしょう。
 そして、イエス様に質問されたパリサイ人の答えは「あわれみをかけた人が旅人の隣人」でした。彼の答えに対してイエス様は、上記のみことばのように彼に勧められたのです。
 誰にあわれみを施すかによって、誰の隣人になるかが決まります。相手に隣人としての条件を求めるのではなく、自分があわれみを施したいと思う人に近づき、その思いを表すことが隣人になることです。あわれみが湧かなければ、隣人になることはできません。
 今回、広島での土砂災害に義援金が寄せられていますが、「みんながしているから」と自分も寄付をしても、隣人愛がないなら隣人にはなっていません。しかし、たとえば、小さな子どもが「かわいそう」とあわれみの心をもって、自分の少ないお小遣いをささげたとしたら、それは隣人愛であり、被災者の隣人になっていると言えるのです。
 その行動や結果の大小ではなく、あわれみの心をもって手を差し伸べること。イエス様は良きサマリヤ人のたとえを通して、「実行すること」を勧めておられます。私たちも理論的にどうこうではなくあわれみの心を持てば、隣人愛を示すことができます。ここに目を向けていただきたいと思います。
【内容観察】
「あなたの答えたとおりあわれみをかけた者が、強盗に襲われた者の隣人になったのです。自ら進んであわれみをかけることが隣人を愛することなのですから、あなたが答えたとおり実行しなさい。そうすれば、いのちを体得します。」
 「体得する」というのは、「ああ、これがいのちか」という体験を霊・魂・体に感じることができるということです。隣人を愛する愛を実行すると、愛の実感、いのちの実感をします。ボランティア活動をする喜びはそこにあります。
 ボランティア活動にたずさわる人たちは、かえって自分たちの方がいやされ、恵まれるという不思議な体験をしますが、それが「いのちを得る」ことなのです。隣人愛を通して、私たちは自分のいのちをさらに輝かせることができます。いのちが輝いていない時は、隣人に対する愛とあわれみが施せていないかもしれません。
 与えるより受けることを求めて、「足りない。もらってない。」と自分のことばかり考えていると、いのちを輝かせることができません。ボランティアも、自分のためにしているのではありません。隣人に愛を注ぐことによって、結果的にもたらされる内なる愛の喜び、いのちの輝きというものを体験しますが、それが目的ではないのです。自分が喜ぶためでは、そこにあわれみは存在しません。
 私たちは愛をすることによって、いのちを知ることができます。

【デボーション参考ポイント】
★隣人愛とは何か
(1)隣人愛とは私たちの根本的性質です。
 愛の神に似せて創られた私たちは、あわれみ深い神のご性質を宿しています。欲望という力に封印されてしまって、欲を優先する生活を植えつけられているのが、今の罪の状態です。しかし、キリストの愛を通して根本的性格が目覚め、肉の欲望から解放されて、隣人愛に生きることに対する魅力、関心に心を向けられるような心の解放を、今の私たちは受けています。

(2)私たちの人生のあり方そのものです。
 隣人を愛するという生きざまですね。

(3)世界観の中心です。
 自分の人生は何のためにこの世界において存在しているのか、というところから、自身の内面的な動きに至るまで、あなたの人生における物事への考え方の中心が、隣人愛に基づく判断になります。クリスチャンの価値観、歴史観、道徳観は、 隣人愛からの判断によります。
 これら3つの事柄から考えるに、隣人愛は神の子にとって当たり前のこと、自然なことです。「困知勉行」にある「ひたむきな努力」は、クリスチャンたちにとってごく自然なことです。小さな子どもがいろんな体験を通して成長するように、私たちもイエス様を信じてから、隣人愛を中心に人生を歩んでいくことを考え、実行し、体験して学びながら成長します。赦された罪人には、これが普通の人生です。素直に実行していけば、いずれイエス様のようにできるようになります。
『秋風のいやしを受けて 再挑戦』

 秋の冷たいさわやかな風を受けていやされ、夏の疲れから立ち直って、「もう一度がんばろう」という気持ち。私たちも神様の愛の風に触れられて、隣人愛をすることをまた始めましょう。愛されるより、愛することを求めていきましょう。

 

 

 

 

■2014年9月28日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛による熱心  up 2014.9.28


勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。
望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。
(ローマ12:11〜12)

 

 

 

 二つの節に共通しているのは「熱心」ということです。貪欲による熱心さはよくありますが、私たちは、神の愛につながる、神様の愛による熱心さを求めていきましょうと語られています。

【内容観察】
「霊的な礼拝は、神の愛の炎が霊に燃えていて、主を知ることを熱心に求め続けることである。また、愛の炎が燃え続けていると希望の喜びにあふれ、その熱心さがどのような患難にも耐えることができる力となり、増々、主との交わりである祈りを続けることができるのです。」

 (ローマ12:1)には、私たちの人生そのものが神に仕える霊的礼拝であり、私たちの存在は神様と交わるためにあり、礼拝するものであると語っています。霊的礼拝は、神の愛によって心が燃やされた熱心さをもって一歩一歩進めていくことが必要という意味合いで捉えていただきたいと思います。
○熱心さ=激しい感情の現れだけによるのではない

1.熱心とは『不眠不休』の覚悟(詩篇121:1〜4)
“私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。”

◎『不眠不休』(ふみんふきゅう)の意味
 「眠ったり休んだりしないこと。休まず事に当たることをいう。」

【内容観察】
「私を助けてくださるお方は、熱心に私を愛してくださる愛の神、天地の造り主です。本当に驚くべきことに、神の愛を信じる者であるイスラエルの砦となっていてくださる方は、不眠不休の熱心な愛のお方です。」

 神様は、どれほどに私たちのことを愛してくださり、どれだけ心配してくださっており、どれだけ私たちに心を注いでくださっていることか…それは、不眠不休で、ご自身の愛の腕のうちに私たちを集めてくださり、いろいろな災いから守ってくださっています。
 ところが、私たちの側は、助けが必要な時にしか神様に目を留めていない状況ではないでしょうか。しかし、主は助けが必要な時だけでなく、安全な時もずっと私たちに目を留めてくださっています。
 「山」とは「不動」の意味があり、神などの信仰の対象を表します。私の助けは、地上の神々ではなく、天地を造られた主から来るということですが、ここでは助けの必要な時にしか神を呼ばない身勝手な私たちであっても、四六時中守ってくださる神様との違いを、お伝えしたいのです。

【デボーション参考ポイント】
★『熱心さ』は、『関心の度合い』に比例します。
 熱心さは自分でもり立てることはできません。心の底から湧いてきて、患難に耐え、勤勉で怠らない熱心は、どうやって私たちのうちにもたらされるのでしょうか。それは、関心の度合いによります。

○今、一番の関心事は何でしょう。
 私たちは何らかの関心事があるのですが、それがない人は心が冷え、むなしさが漂います。しかし、何かの関心事を見つけていくときに、心が熱くなり、力を注いでいけるようになり、生きがいと思える時間になっていくのではないでしょうか。
 神様に熱い心が向けられないのは、神様への関心が薄いからです。「みこころは何だろうか…。私が創られたわけは…」と考え、聖書を読み、祈り、信仰の書物を読み…、関心があるとそのような行動が出てきます。ぜひ人生の関心事とともに、神様へイエス様へ関心をもって、神様への熱い愛の心を持っていただきたいと願っています。

●関心が強ければ、熱心さが生まれる。本当の熱心さは、絶対にあきら めない行動をもたらす。
 熱心さのもう一つの特徴は、あきらめないということです。途中であきらめるのは感情的な熱意であって、心の底から湧いてきたものではありません。何がなんでも天国へ行くというあきらめない気持ちは、神様の愛を信頼して持ち続けることによって、行いでなく信仰によって義とされて、天国に入れるのです。
 ですから、この熱心さは「得たい」という気持ち、信仰と同じくらい、神様から喜ばれる姿勢です。私たちの信仰もあきらめない熱意が必要です。この気持ちを持ち続けて、新しい天と地へ凱旋していきたいと思います。

2.心の炎による全焼の供え物(ヨハネ2:13〜17)
“ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。そして、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、また、鳩を売る者に言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
弟子たちは、「あなたの家を思う熱心が、わたしを食い尽くす。」と書いてあるのを思い起こした。”

 これは、聖書の中でも有名な「宮きよめ」という出来事です。当時、遠く地方から宮に「傷のない全焼のささげもの」をささげに来る人は、地元でささげものをお金に換え、宮に来てそのお金をいけにえと換えて、ささげものをしていました。宮のそばにいる牛、羊、鳩は必要不可欠のものでした。ところが、両替商たちは、宮に来た人たちが地元で換えた値段に水増しして、自分が儲かるようにしました。 このように、神にささげるいけにえを商売にする心を、イエス様は「神の宮を汚す」と言って、追い散らされたのでした。表面に出ない「欲望」という動機の見えない部分のいけにえの汚れがあるということです。
 さて、「あなたの家を思う熱心が、わたしを食い尽くす」ということばがイエス様ご自身の人生を表し、そのまま霊的礼拝を意味しています。いろいろなささげものがありますが、全部「焼き尽くして」神にささげるものです。イエス様は、神様の家である宮を思われるあまり、その宮を聖く保ちたいというお気持ちが心の中に熱く燃えて、ご自分自身を食い尽くすような状況まで熱心さが進まれたという意味であり、だめになるという意味ではありません。
【内容観察】
神の家⇒神の愛を信じる者たちの集合体
神の家を思う熱心⇒心に炎が燃えているような熱い愛を向けている
わたしを食い尽くす⇒神の家への熱い愛ゆえに、全焼の供え物として自分の人生を愛の炎で燃やしささげる。
 十字架は、イエス様が燃やし尽くされた姿です。人生を生きたそなえものとするというのが、(ローマ12:1)でした。からだは、この地上での人生すべてを表し、神は私たちを愛の家族の交わりを持つことができるように創られました。神との交わりが礼拝です。そして、いけにえは必ず火で燃やされます。この祭壇でいけにえを燃やす火は、神様の熱い愛の炎を意味します。私たちの人生は、神様の愛で焼き尽くされるべきささげものとして、用意されています。愛によって心を燃やす人生は、神に完全にささげる愛のささげもの、神の愛への応答を、祭壇とその上にささげられたいけにえ、さらに燃やす炎に象徴的に表されています。
 旧約聖書では、いけにえをささげた時に、天から火が下って、いけにえを焼き尽くしました。イスラエルの人々はその火を種火として、何十年、何百年と祭壇でいけにえをささげ続けたのです。

【一例】(第1列王記18章参照)
「エジプトから連れ出された神を忘れて偶像の神を拝むように成り下がったイスラエルの民に、預言者エリヤは、本当の神に従うように最後通告をしました。そして、「天から火を下していけにえを焼き尽くした方が本当の神だ」とバアルの預言者と対決した時に宣言し、一日何をどうしてもどうにもならなかったバアルの預言者たちを尻目に、エリヤは夕方自分側のいけにえと祭壇のまわりに水を浸しました。人手では火を起こせる状況は不可能な場面で天から火が下り、それらを焼き付くしました。天から下る火を象徴的に表された場面です。」
(ヘブル12:29)“私たちの神は焼き尽くす火です。”
 私たちの神様は、焼き尽くす火の神様です。この火が、熱意、熱心を表し、神様は愛する者に愛を注ぐ熱心なお方、焼き尽くすほどに心が燃えたお方だということです。
 神様は、エリヤの時に天から火が下っていけにえを燃やし尽くしたように、私たちにも愛の熱い炎を下して、私たちの良心に目覚めを与えてくださいました。天から火を下すという神様の熱い愛は『十字架』による愛の炎であり、福音を意味します。罪人の私たち、神に背を向けた私たち、道を外した私たちを、なおも見捨てることなく愛し続け、私たちを救うための熱心な熱い愛を注いでくださったということです。
 十字架によって、私たちは神様の愛の炎を心に持つことができます。私たちが自分の人生を、神様にささげるために祭壇にのせる時、神様は私たちの心に十字架から愛の炎をつけて、最後までその愛によって生き続け、燃え尽きる人生を与えてくださっています。⇒愛の炎に焼き尽くされる人生
 (ローマ12:1)には「あなたがたのからだをそなえものとささげなさい。それこそ霊的な礼拝です。」とあるように、ささげるように語っています。神様がそのいけにえを受け入れてくださったしるしが、天から炎が下っていけにえを焼き尽くすことでした。あなたが受け入れられたしるしとして、聖霊のバプテスマを通して、心に愛の炎がもたらされ、その炎によってあなたの人生は、最後まで全焼のいけにえとして愛によって焼き尽くされる人生を送ることができるということです。
 このような霊的な意味が含まれているので、わざわざ(ローマ12章)に旧約の礼拝の行為が書かれているのは、それが神様の愛の炎によって、キリストとともに愛に焼き尽くされて神にささげきることのできる人生を送ることができることを、新約の私たちにも教えるためです。
 あなたの心が神の愛の炎に燃え続けるように。小さくても良いのです。初めは小さくても、神の愛の炎は山を焼くほどに大きくなるのです。この愛の火を消さないように、絶対に捨てないようにしましょう。
『秋の声 耳を澄ませば 御声をも』

 空気が澄み切った自然界の音を聞いているうちに、神様の御声も聞けるようになるのではないでしょうか。

 

 

 

 

■2014年9月21日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 福寿敬愛  up 2014.9.21


彼ら(正しい者)は年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう。
(詩篇92:14)

 

 

 

 今日は,教会として、高齢者の方々をお祝いしたいということで、「福寿敬愛」と名付け、お祝いをします。
 年を取ると、弱り衰退していくという一般的なイメージがありますが、元気な方もおられます。日野原重明先生は100歳超えても今もなお、元気に活躍しておられる方です。海外を飛び回り講演しておられます。神の前に心正しく医師として、大人として歩んでいこうという熱意の中で、肉体だけでなく精神的にも人々を励ましておられます。正に今日のみことばぴったりの実を実らせている方と言えるでしょう。
 私達もこのような人生を願っています。今日のみことばの「彼ら」とは、前の節にある「正しい者」です。
 この「正しい者」が今日のメッセージのキーワードとなります。
正しい者にとって老いることは、若い時とは違う楽しみがあるのです。見えるだけでなく、見えないものにおいての実を実らせる楽しみです。
【内容観察】
 霊的とは真理に基づいた実態であり、本来の造られた目的に沿って生きることが霊的に生きるということになります。神の前にごく当たり前のあるべき生き方とも言えます。霊的な実を実らせるとは、熟練者であるからこそ到達できる人生の輝きです。

1.『正しい者』について
A) 良心に神のみおしえがある(詩篇37:30〜31)
“正しい者の口は知恵を語り、その舌は公義を告げる。心に神のみおしえが あり、彼の歩みはよろけない。”
 
 失敗をしても、心正しい者はその失敗を通して知恵を得ていきます。そして老いていくほどその経験が実を結んでいくのです。さらに人生の経験から、本当はこうあるべきなのだという公義を語ることができるようになります。
 また苦しみを通して、人は小さい存在であり、神の大きな存在に守られているという悟りが生まれてき、晩年はゆるがされることのない確信に至ることができるのです。
★ 神を畏れて良心を働かせる人が「正しい者」と言える。

B)隣人を大切にする(箴言11:9)
“神を敬わない者はその口によって隣人を滅ぼそうとするが、正しい者は知 識によって彼らを救おうとする。”
 心に神のみおしえが豊かになってくると、良心が成長し、人の心の痛み、苦しみを理解することができるようになります。しかし神を敬わない者は自己中心であり、自分の意見に合わないと隣人を否定していきます(滅ぼそうとする)。そして自分が正しいと自己義を主張し続けるのです。
★ 不敬虔な人は、自己義を通すために人を滅ぼす批判や非難を続ける。しかし、正しい人は隣人へのあわれみの心がある。

C)わきまえのある成熟した心(箴言21:29)
 “悪者はあつかましく、正しい者は自分の道をわきまえる。”
 心の成長ができてくると、わきまえが出てきます。出過ぎたり、消極的すぎたりという失敗を通して、自分の分を学ぶことができるからです。愚かな人は学びません。むしろ「せっかくやってあげたのに〜」とか相手のせいにしてしまうからです。それがあつかましさになってしまいます。
 わきまえという自分の境界線を学ぶことは大変難しいことで、失敗を通してこそ学べるとも言えます。
 心の働きは、知性、感情、意志と3つあります。良心なしで人生を歩んでいる人は、その場その場の反応で生きるしかありません。知性が発達した人は、知性を重視し情に薄い生き方になり、感情が発達した人は、感情的で不安定な生き方になり、意志が発達した人は頑固者になりかねません。知情意だけで心を動かしていくと、こういった弊害が色々でてきます。この心の動きにバランスを与えるのが良心です。この良心を中心に、知情意をバランス良く働かせることが大切なのです。この良心には、神のみおしえがあります。そのみおしえから知識を受け、感覚を働かせ、意志としてみことばを行うという流れをバランス良く行っていくのです。知性のデーターを分析して神の前に善悪を判断していくのが、良心です。このところに神のみおしえである隣人愛、互いに愛し合う愛があり、この愛に生きるときに良い社会関係のつながりができ、いずれは自分にもその愛が回ってきます。
 この「互いに愛し合いなさい」という神の基準が良心にあるなら、これが知性に働きかけて、神の前に良い自分か悪い自分かのデーターを分析し、どのように心を守り正しい良心を守るかという意志力を発揮できます。また、何を基準に喜び、悲しむのかも、コントロールされ、正しい良心によってバランス良い生き方ができるようになるのです。
 年老いても良心を働かせなかったら子供のような反応をしてしまいます。本来なら様々な経験によって、もっと熟練した者としての反応ができるはずなのに、良心を働かせないばかりに欲望を満足させる方向にばかり心が向き、良心がどんどん鈍くなってしまうようになります。そして、年寄りだから我がまま言ってもいいとなってしまうのです。
 しかし、良心的な高齢の方は美しく見えます。謙虚で正しいことをしっかりと語ってくれ、美しくみずみずしくさえ感じます。良心を豊かにさせることで老後も美しく生きることができるのです。正しい良心をしっかりと守っていきましょう。

2.『帰正反本』(マタイ13:39〜43)
“毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫とはこの世の終わりのことです。そして、刈り手とは御使いたちのことです。ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。人の子はその御使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行なう者たちをみな、御国から取り集めて、火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。そのとき、正しい者たちは、天の父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。”
 ◎『帰正反本』の意味
 悪い状態を改め、正しい本来のあるべき状態に戻ること。
 年老いた正しい者は、最終的には天の父の国で輝くのです。
 この世の中では、悪い人たちが繁栄したり祝福されているかのように見えます。しかし、いずれ最後の神の審判の時、毒麦とそうでない麦との違いは明らかにされ、毒麦は裁かれます。今はその違いはわからず、むしろ毒麦の方が羨ましく映るかもしれません。しかし、必ず裁かれるのですから、私達は毒麦のふりをしたり、決してまねたりしないようにしましょう。
 毒麦の種が、心の中に蒔かれる瞬間があります。それは、彼らの方が神を畏れて生きる自分たちよりも得な人生を送っているのではないかという思いがよぎる時です。しかし、最後の審判の時が来ます。私達はさらに、ますますきよく良心的な生き方をするべきです。心の中に敵によって蒔かれる毒麦の種を見分けて、育たないよう気をつけましょう。
 畑を私達の心と考えてみます。神の良い種が蒔かれて救われたクリスチャンとしての良い麦が育っていきます。ところが、世の中から影響されて毒麦が育つような誘惑の毒の種が蒔かれます。そうすると世の中の考え方や多数決の意見が良心に影響してきて正しい良心でなくなってきます。正しい良心でなくなると、その麻痺した良心の影響が知情意にも現れてきて肉的なクリスチャンになってしまいます。そして、毒麦化したクリスチャンとなり、神のきよめに関しても、なぜそこまでしないといけないのかと反感が定着してしまうようになります。
 それではせっかく良い麦として種を蒔かれたのに、毒麦になってしまうことになるのです。そうならないように自分の心を守り、神のみことばを良心にしっかりと留めましょう。
 今は悔い改めてやり直せる恵みの時です。しかし、収穫の時、世の終わりの時にはやり直しは出来ないのです。
 正しい良心をもった人は悔い改めます。神を敬わなくなったら心を改めることもしなくなります。そして、「もうどうでもいい。」と投げやりになってしまいます。
 しかし、悪い自分だからこそ礼拝に来なければなりません。罪人である悪い自分だからこそ、礼拝で悔い改めて心を入れ替え、新たにされて癒されやり直す必要があるのです。
 そのように神の前にへりくだり、神の前に出てくる人こそ正しい人です。自分の罪を自覚し苦しんでいる人こそ救われるのです。

 

 

 

 

■2014年9月14日 日曜礼拝メッセージより(小栗伝道師、横路伝道師)

 尊敬し合う兄弟愛  up 2014.9.14


兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。
(ローマ12:10)

 

 

 

【小栗伝道師メッセージ】
 今日は、「尊敬し合うことの大切さ」にポイントを置いて、お話しさせていただきます。
1.尊敬と愛(ローマ12:10)“みことばは前述”
 兄弟愛〜同じ家族のように互いに受け入れ合える関係
 尊敬をもって〜上位を譲り合う
 尊敬=(辞典による)他人の人格や行為を高いものと認め、頭を下げるような、また、ついていきたいような気持ちになること。
 
 尊敬ということを考えるときに、自分にはまねのできない神の愛を表されたことに対して思いが向きます。
 国籍、宗教を越えて人々に神の愛を表したマザー・テレサ、日本において、ぜいたくな暮らしに振り向くことなく魂の救いに生涯を捧げられたポール・ブローマン先生…。
 私たちは人の何を見て尊敬しているのでしょうか。少なくとも自己顕示欲がみられる状態には、尊敬の思いを持つことは少ないように思います。
 信仰を持っておられなくても、立派な記録を打ち立てるに至るプロセス(経過)に対して、精神的に耐え抜かれ、たゆまない努力を重ねられ、向上心をもって取り組まれた品性・品格に、尊敬の思いが向くのではないでしょうか。

【内容観察】
○この世の尊敬(マタイ13:55〜57より)
 「この人は大工の息子ではありませんか。…」
 「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、家族の間だけです。」
 神の子であるイエス様が、マリヤの胎を通して地上にお生まれになり、育てられた故郷に戻られた時に、故郷の人々が言った言葉です。
 この世の尊敬とは一言で言うと、外的状況による条件つき尊敬です。能力、立場、地位、成績、記録、技術…。比較による優劣をつけた判断がされています。公生涯に入られたイエス様は、大胆に神の国のことを伝え、神のわざをなしていかれました。しかし、故郷に入られたイエス様に対して語られる言葉、なされるわざ以上に、故郷の人々はイエス様の背景、環境、状況を見て、これらの言葉を発していることがわかります。
 ここでは先入観によって、あのイエス様に対してすら尊敬の思いを持っていないことを見ることができます。
 私たちも先入観をもって身近な兄弟姉妹を見てしまっていることはないでしょうか。また自分に対してよくしてくれ、受け入れてくれていることがわかれば尊敬しても、一つ気に入らないことが起こる、と尊敬の心を閉ざすという、あくまでも自分の基準中心の主観で測るこの世の影響を受けた自己中心の尊敬になっていないでしょうか。
 また、あら探しをする人は、尊敬する心を持とうとしないので、今語られている愛の弟子として、神様が願われている「互いに敬い合う」ことからも、大きく外れてしまいます。

○神様が表された尊敬(ローマ5:8)
“しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。”
 この世の中は、人が持っている能力、立場等…外見的なことを評価し、尊敬の対象としますが、神様は私たち自身、私たちの存在そのものを愛してくださっています。
 「まだ罪人であったとき」とは、自分は願っていてもなかなかできない(赦せない、きよめられてない)状態であるにも関わらず、その時にですらイエス様は私たちのために死んでくださいました。イエス様のいのちが私たち罪人と同等ということです。敬う心があると、本当に大切にします。神様は私たちが罪を犯す者であっても、かけがえのない存在として愛してくださっているのです。
 「大切なきみ」(マックス・ルケード著)に出てくるパンチネロは、互いを比較して星シールやダメシールを貼り合う社会の中で、ダメシールばかり貼られ続けました。そのパンチネロが、自分を作ってくれた彫刻家エリ(神様を表す)の所へ行った時に、一生懸命やろうとしても失敗し続けたパンチネロの気持ちをエリがよくわかってくれている場面があります。
 同じように私たちが愛の弟子を目指してチャレンジしても到達していない今の状況にあって、神様はそのことをよくわかってくださっています。
 そんな私たちが互いに尊敬し合うことを、神は願っておられます。そして、ちりに等しい者であっても、神様は私たちをかけがえのない存在として見てくださっています。
 私たちが互いを尊敬できないと思えるときに、主観、先入観が働いていないでしょうか。それらは出来事によって引き出されてくる肉の感情です。さらには出てくる結果を見て、私たちは尊敬しようとするのでしょうか。
 兄弟姉妹は、キリストがいのちを捨てるほどに愛された存在です。
 先入観、主観を働かせようとする自分の思いを砕いて、愛の弟子として神が表された尊敬をもって、互いに尊敬し合うことを目指してまいりましょう。

【横路伝道師メッセージ】
2.互いに尊敬し合う交わりを築くために
“何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。”(ピリピ2:3)
 このみことばは、主題聖句と同様に、へりくだって互いに相手を尊敬することを勧めています。

(1)「すぐれた者」⇒「まさっている者」ということ
 神様は私たち一人一人を個別に、個性豊かな者として創造されました。もともと互いに違いのあるものを比較することはできないことです。 
 自分にないすばらしいものを互いに与えられていることを知るなら、相手をすぐれている、自分よりまさっていると思うことができます。
 広島で起きた大規模土砂災害へのボランティア活動が始まり、この教会からも若い世代を中心に参加しておられます。その作業に出かける人、お弁当を作って送り出す人、祈りで支える人、義援金で支える人等、皆が何らかの働きに関わり、協力して、教会全体の働きとして支援しています。
 それぞれが自分にできる働きをしておられ、皆尊い、なくてはならないすぐれた奉仕であり、それぞれが尊い教会のからだとしての働きだと思います。

(2)「思いなさい」ということ
 人を自分よりすぐれている、自分よりまさっていると「思いなさい」とは、リビングバイブル訳では「みなしなさい」とあり、「そのように決めなさい」ということばです。
 そうすることが正しい間違いのないことであるから、真理だから、(すぐれていると)「思いなさい」とあるのです。
 すべての人は、各々が神様からいただいたすぐれた個性、宝を持っているので、そのすばらしいところに対して「自分よりすぐれている、まさっていると思いなさい。」と勧められているのです。
 大体私たちは、自分に甘く人に厳しい評価をしがちです。「自分と同等レベルかなと思える人は、実は自分よりかなり上のレベルで、自分より少し劣るかなと見える人が自分と同レベルである。」と、ある方が言っておられました。
 (ガラテヤ6:3〜4)にはこうあります。
“だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。おのおの自分の行いをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう。”

(3)「互いに」の大切さ
(ヨハネ13:34)“「…互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」”とあるように、神様のみこころは、私たちが互いに愛し合うことです。
 しかし、互いに愛し合うこと・互いに尊敬し合うことは、そう簡単なことではありません。自分から一方的に相手を尊敬し、愛することは可能でしょう。しかしその相手が自分を尊敬し愛してくれるかどうかは、別な問題です。一方的に愛するのは片思いですから。
 神の国は互いに愛し合う者たちの国、両思いの者たちの国です。誰かを拒絶したままでは神の国に入ることはむずかしいのではないかと思います。だから私たちは、相手から尊敬と愛を受けるにふさわしい者となるために、自己中心や虚栄を捨て去り、へりくだって謙遜を身につけることが必要なのです。

(4)尊敬し合うことへのチャレンジ
 それではどのようにして、互いにへりくだり互いに尊敬し合うためチャレンジをしていけばよいのでしょうか。

(4)-1神の視点で見る(ルカ21:2〜4)
“また、ある貧しいやもめが、そこにレプタ銅貨二つを投げ入れているのをご覧になった。それでイエスは言われた。「わたしは真実をあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。」”
 (第1サムエル16:7)には“…「人はうわべを見るが、主は心を見る。」”とあります。イエス様はこの貧しいやもめの心の中をご覧になりました。あり余る中から多くの献金をした金持ちよりも、(今日で言えば20円ほどの金額であっても)この貧しいやもめが神の愛に感謝し、信頼して、思い切ってふところに残っていた全額をささげたその心に目を留められ、高く評価されたのです。
 神様は私たちの、未熟であっても今はできていなくても「赦したい」「誠実でありたい」「忠実でありたい」「感謝の人・愛の人になりたい」「きよくありたい」という願いを持ってチャレンジしている人の心をご覧になり、評価してくださいます。
 私たちも人を見る時、うわべではなくそういう心を見て尊敬し愛していく、神様と同じ視点で見たいものです。
 私たちは人の悪い点を見つけて悪く思うことには慣れていますが、そうではなく、人の良い点を見て愛し交わることが必要です。
 人は皆それぞれが力を持っている、という見方にこういうものがあります。
○集中力のある人はすばらしいが、集中力の弱い人には、分散力、散漫力がある。
○持続力のある人はすばらしいが、持続力の弱い人には、切り替え力、転換力が
 ある。
○行動力のある人はすばらしいが、行動力の弱い人には、慎重力がある。

(4)-2神様の心で接する
 神様のご性質は愛です。 「神は愛です。」(第1ヨハネ4:6)
 (マタイ18:14)には「この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。」とあります。私たちはこの愛の神のご性質を持っている者です。
 誰に対しても人をえこひいきして「あの人は嫌い」と拒絶することなく、愛と尊敬の心をもって接していきたいと思います。
 たとえ、どうしても今は受け入れられないと思うほどに難しい苦手な相手であっても、「私にはとても無理」と拒絶し続けないでください。今は難しくても、願いがあり、神様の愛の心でチャレンジしていくなら、神様は必ず、互いに愛し合うことができるように導き助けてくださると思います。

(4)-3身近な人から始める
 聖書は、兄弟愛を持つように、また父母を敬うこと、夫は妻を愛し、妻は夫を敬うこと等を教えています。
 身近な夫、妻、子、親、兄弟姉妹に対して尊敬をもって愛し、互いに自分よりまさっていると思う交わりをしていきたいと思います。
「そのように尊敬をもって愛し交わっています。」と即答できる方は幸いです。しかし、これはやさしいようで実は難しいこともあり、家族、親兄弟の間がうまく行かずぎくしゃくしているケースもかなりあると思います。
 尊敬し合う兄弟愛を持つようチャレンジするために、まず身近な家族から始めることが良いのではないでしょうか。

 

 

 

 

■2014年9月7日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛にあってはならないこと  up 2014.9.7


愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。
(ローマ12:9)

 

 

 

 今年の8月後半から「愛の弟子」というテーマで、(ローマ12章)からお話させていただいていますが、今日はその中で、(ローマ12:9)からお話させていただきたいと思います。
 弟子とは、師匠と24時間一緒に生活するようなものです。私たちの人生を霊的な礼拝として、神様の前にすべて捧げるという姿勢で歩むというのが(ローマ12:1)でした。(ローマ12:2)では、その弟子の学びを無駄にしないように、妨げとなるものを取り除くという意味で、「この世と調子を合わせないように」というポイントがありました。そして、(ローマ12:3)では、私たち一人一人異なっている者であり、皆同じようにする必要はないこと、一人一人神様から愛を継承するための違いを持っており、賜物も性質も違うそれぞれの個性を認め合って学びを受けてまいりましょう。からだという例を通して、聖書は私たちを諭してくださっています。
 今日のみことばは「神の愛を受け継ぐにあたって、あってはならないことがある」「絶対に避けねばならないことがある」、それは「偽り」であるということを学びたいと思います。
「偽り」の意味⇒不誠実。
 愛はいつでも誠実、忠実、正直であることが大事です。
 きよい愛の大前提です。
【内容観察】
「愛を継承する愛の弟子であるなら、まず悪への強い拒絶の態度をとり、あらゆる善を身近に置くことを心がけなさい。これから継承する愛は、自己欺瞞があってはならないからです。」
 自己欺瞞は、自分の良心に対して正直でないことを指します。世の人は欲望に忠実であることが正直であると勘違いをしていますが、正しい良心にそむく考え、行動こそが自己欺瞞なのです。

1.『遏悪揚善』(あつあくようぜん)(箴言3:7)
“自分を知恵ある者と思うな。主を畏れて、悪から離れよ。”
◎『遏悪揚善』の意味
 悪事をとどめて、善事をすすめること。
 悪事には刑罰を加えてその悪を禁じ、善事には報奨を与えて官職に上 げ用いること。
 「良心を欺くか否か」が「自分を欺くか否か」につながることを、ここからみていきましょう。
 クリスチャンは、意識的に自分を知恵者だと誇ることはないでしょうが、「あの人よりは優れている」という思いは、誰しも心の片隅に持っているのではないでしょうか。これは「自分は知恵がある」と思っていることに他なりません。誰かと自分を比べて誇っているのです。
 誰かを注意、批判する時は、「自分の方がその人より優れている」と思っていることが多いのです。誰も自分よりできる相手には意見しないものです。本当に知恵のある者を、箴言では「主を畏れる者」と言っています。
【内容観察】
「人と比べて自分をわきまえのある賢い者とほんの一瞬でも思うことのないように。本当のわきまえのある賢い者とは、隠されていることさえあらわにして裁くことができる天地の主を知っているので、あらゆる悪から離れて滅びないように自分を守るのです。」
 裁き主がおられて、善悪を完全に裁かれ、悪には処罰、善には報奨を与えられます。一つとして裁かれない悪はなく、報われぬ善もありません。この天地創造の神がおられるという確信を心にしっかりと持っている人こそ、知恵ある者です。この神を無視するなど、他のどんな優れた才能を持っていても愚か者としか言えません。
良心がきよめられると、罪や悪に対して敏感になり、それらを強く嫌がるようになります。悪を憎めば悪から離れ、近づかないようにする心へと自然に変わって行きます。
 しかし、「裁き主」としての捉え方が強すぎると問題も起きます。クリスチャンは「してはいけない悪」に対して敏感な人が多いので、禁止令で自らを縛ってしまう場合があるのです。禁止令は罪の欲求を強めてしまうので、かえって悪を行ってしまうことがあるのです。悪を意識することで、悪に近くなってしまうのです。これは落とし穴です。律法的なもの、律法的なルールに従おうと意識するほどに、私たちの内に宿る罪の性質が余計に好奇心や欲求を強め、自制できなくなってしまうことを、パウロは(ローマ7章)で教えています。
悪を意識するよりも、愛や主を畏れることを意識すれば、善を意識し、近づくことになります。
 みことばの“悪から離れよ”を律法的にとらないように気をつけましょう。“主を畏れて”ということばから、善に親しむようにとの勧めを読み取ることができます。私たちが神様を敬うのは、贖いのみわざによる神様の愛を知ったからです。この赦しの愛、あわれみの愛を知ったからこそ、心からの尊敬を持って神様を信じることができます。愛なる神様を敬う心を持つと、悪から離れることができるのです。それどころか、もうすでに離れているとさえ言えます。
 主を畏れることに意識を置いていれば(愛を行うことを意識していたら)、悪から離れようという意識がなくても、頭の隅にさえ浮かばなくなります。このやり方の方が、より安全に歩むことができます。
【2つのタイプのクリスチャン】(マタイ21:28〜30)
“「ところで、あなたがたは、どう思いますか。ある人にふたりの息子がいた。その人は兄のところに来て、『きょう、ぶどう園に行って働いてくれ。』と言った。兄は答えて『行きます。お父さん。』と言ったが、行かなかった。それから、弟のところに来て、同じように言った。ところが、弟は答えて『行きたくありません。』と言ったが、あとから悪かったと思って出かけて行った。」…”
 兄は父なる神が仕事を頼んだ時に、「はい。」と肯定的返事をしたが、その後は日常に埋没して忘れてしまいました。しかし、私たちが仕事をするのが生活のためであるように、例えばデボーションも神の子としての生きる糧であり、放置していたら死んでしまいます。何を優先するかによって、もたらされる結果は大きく異なってきます。その場だけ神様に良い顔をしようと取り繕っても。
 簡単に「はい。」と言えない弟のタイプは、最初自分の気持ちを主張して、父なる神の頼みを断りました。世の中では自分の感情通りに動くのが正直らしいですが、クリスチャンの正直は違います。弟は悪かったと思って、出かけて行きました。自分を愛してくれる父の愛に応えたいと願う息子としての愛が、そう思わせたのです。「行きたくない」という悪を一旦は表した弟ですが、心が落ち着き、良心が働いた時に、悪を悔いてそれから離れる気持ちが出てきました。愛を感じる人に対して、愛を思いみることをすると、悪から離れる考えが出てくるということに、ここで気づくことができます。
 兄は「正しい答え」をしたので、自分を悪いと思いませんでした。結果的に父の願いに応えられなかったのは、その願いよりも優先する自分の用事がたくさんあったからです。優先順位を間違えていることに気づかず、父の願いをないがしろにしているクリスチャンがたくさんいるのではないでしょうか。「良い返事」「良い顔をする」という、上べつらの心が優先順位を狂わせていると考えることができると思います。
 もし父のことを本当に思っていたなら、父への愛の気持ちからいろんなことを配慮して、優先順位がしっかりと決まっていたはずです。愛が弱いと優先順位は下がって行きます。そういう私たちの安易な「良い返事」や、その場しのぎの「良い態度」が欺きであり偽りなのです。
 愛は約束を守ります。しかし無理に従うというのもまた、動機が悪いことになります。動機を良くするためには、愛を考えることが大事です。全ての動機の元が愛から出れば、最優先は何かというわきまえが見えてきます。

2.良心を欺かない(ヤコブ4:17)
“こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です。”
 知っていて実行できないことが罪であるなら、知らなければ良いのではないかと考えるなら、それは悪だくみです。私たちは、根本的な「主を畏れる心」がきちんと働けるように、良心を欺かないように注意していきましょう。
【内容観察】
「あなたがたは御霊に教えられているので、主を愛する正しい良心のうちに何が正しいことであるかを知っているのです。にもかかわらずその事を行わないなら、正しいことを知っていたとしても、あなたは的外れの状態となるのです。」
 愛を考えると、隣人を愛することを考えることになります。良心が生かされてきます。愛を考えると、良心が働きやすくなるのです。良心こそが私たちの本心であると、あなた自身が捉えるかどうかが大事です。
 自分の欲望か、良心か、どちらが本当の自分か決めるのは自分自身です。私たちは愛なる神様を信じて、良心を正しく働かせることができるように変わってきました。この良心を自分の本心と認めるのが、本当のクリスチャンです。良心からでない思い、願い、願望に対しては、「自分の本心ではない」と区別することができます。これがわきまえです。
 この良心を無視することを「良心を欺く」と言います。これが「自己欺瞞」です。たとえば早弁する人は、本当の食事時間を知っているのに、空腹に負けて決まりを破ります。肉の欲望に負けたのです。
実生活では、良心と欲望の境目はもっと見分けにくいものです。私たちは良心をだますために、原因説明を考えます。「なぜこうなったか」に心を向ければ、良心から知識へと目を逸らさせ、良心の優先ができなくなるのです。この動機は、責任転嫁して自分のせいではないとするためです。少しでも自分が悪いとされるところから逃げるのです。たとえば、「親のせい」とか。しかし人は、変わろうと努力すれば変わっていけるものです。まずは責任転嫁する自分を変えなければ、本当の自由、成長はできません。
※参考聖句
(創世記3:12〜13)
“人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」そこで、神である主は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」”
 善悪を知る木の実を食べてしまったアバムとエバはそれぞれ、アダムはエバに、エバは蛇に責任転嫁しました。どちらも神様の質問に対して答えず、自分の罪を認めませんでした。私たちには自己保身の心が働きやすいので、自分の非を認めることを意識しなければいけません。理由など関係なく、罪を犯した事実は認めねばならないのです。原因追及に逃げないよう注意しましょう。これは愛のない行動です。神を愛するより、神からの責めを受けたくないという反応です。
 愛は誠実であるべきです。アダムとエバがどう答えるべきだったのか、デボーションしてみましょう。誠実な、神を敬う者としての正しい答えとは何でしょう。
 ここでの神様の質問から感じることは、(神が裁きよりも愛を重んじられる方である前提を踏まえれば)、神のあわれみの愛を、罪を犯したアダムとエバに注ぎたかったのではないでしょうか。正直に誠実に応答したら、あわれみは注がれたのです。しかし彼らは罪を認めず責任転嫁したので、あわれみを注げませんでした。
 うそをついたり、責任を取らない人、言い訳ばかりして人のせいにする人には、あわれみの心を持ちにくいものです。しかし正直に罪を認め、「自分が一番悪い。自分の心で決断したのだから。」と謝罪したらどうでしょうか。神様は赦しとあわれみの神です。誠実さが見えるかどうかが赦しの鍵です。愛の心は誠実というかたちで見分けていくことが必要です。
 良心を欺くとは、誠実さがなくなることです。良心は自分の非を認める心を持っています。できてない自分であることを認めるのは良心です。
 自己中心と肉の欲望の心は、自分の非を認めたくないという、罪の反応をします。良心を欺くと、あなたはますます悪い考えに傾倒していき、言い訳に言い訳を重ね、うそと欺きを続けなければならなくなります。それを断ち切るのは、その場で正直に「自分は罪を犯しました。間違えました。」と非を認め、告白して、心から謝ることです。そして「どうぞあわれんでください。」と願いましょう。「あなたのあわれみなしには、私はやり直すことができません。」
 世の人は「元に戻せばいいんだろ!」とよく言います。「金を払えばいいんだろ!」とか。ここに誠意はありません。
 私たちクリスチャンは理論や理屈や哲学などではなく、愛を中心としています。なぜなら愛は良心を正しく働かせることができるからです。愛にあってはならないこと、良心を欺くようなことのないように、誠実さを失わないようにしましょう。罪を犯しても誠実さが消えるわけではありません。罪に対する弱さは持っていますが、良心は誠実をもってその罪を認め、裁きに甘んじる姿勢を取ることができます。
 神様は私たちを愛してくださっているので、誠実な態度に対しては四角四面な裁きではなく、あわれみをもって裁いてくださいます。そして赦してくださる方でもあります。
 イエス様が身代わりに、私の罪を背負って十字架で死んでくださったから、赦していただけるのです。罰の軽減ではなく、赦しなのです。感謝します。
『偽らぬ 季節の流れ 秋の空』
 
 大自然は誠実な創造物であり、ごまかしはありません。そのように私たちも神の前に造られた、誠実な愛の神の子として、正しいものは正しい、間違っているものは間違い、「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」と、誠実さを持った神への尊敬の愛をもって、ありのままの自分を神の前に歩んでいきたいと思います。また、兄弟姉妹のありのままを互いに認め合い、赦し合いましょう。