■2014年8月31日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛にはわきまえがある  up 2014.8.31


私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。
(ローマ12:3)

 

 

 

 慎みのある考え方をしていく根本は愛です。愛を中心に考えていくなら、出過ぎず引っ込み過ぎず、自分の力量に合わせた判断、行動をしていくことができます。

【内容観察】
「神が私に教会を建て上げる務めを恵みによって与えてくださっていることをわきまえたうえで、ひとりひとりに言わせていただきます。各自がキリストにあってどのような立場にあるのかを悟って、その領域を越えた考え方を持たないように気をつけてください。神があなたに恵みによって与えておられる領域に合わせて、わきまえのある考え方をしてください。」

 パウロは今回の勧めをするにあたって、ローマ教会に非常な配慮をしていることが伺えます。「自分にあたえられた恵み」とは、パウロに与えられた務め、仕事、働きのことです。仕事があることは幸いですね。仕事をこなすことができるのは感謝なことです。仕事を探せる、好きな仕事を選べるのはさらに幸いなことです。
 パウロも、神様のために働ける仕事を与えられたことを、恵みと感じていました。「私のような者が、神様のための働きをさせていただけるなんて本当にありがたい。」という恵みの気持ちをもって、「あなたがたひとりひとりに言います」と伝えているわけです。すごく謙虚ではありませんか。
 パウロはリーダーであり、ローマ教会の人々を頭ごなしに叱ってもいい立場の人間です。しかし彼はとてもへりくだった態度で、自分を上げもせず下げもせず、わきまえた姿勢をもって、彼らの反発心を起こさせないような配慮をしながら、「思うべき限度を越えて思い上がってはいけない。」と忠告しています。
 パウロ自身がへりくだることによって、ローマ教会の人々に見本を示しているのです。上からの押しつけでないパウロの態度を私たちも見習って、愛の配慮をもってお互いに言い合えるようになりたいものですね。そうすれば争いや傷つきがずいぶん減ることでしょう。
 愛がわきまえをもたらして、争いや比較による憎しみから平和へと変えて行く大事な働きをしていることを感じ取っていただければと思います。

1.慎み深い考え方(ローマ12:4〜8)
“一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。私たちは与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれをしなさい。”

【内容観察】
★私たちはキリストのからだとして『一つ』である。
 私たちクリスチャンは、離れることのできない、からだの各器官のような関係にある者です。
 気にくわないなら別れればいいというのがこの世の関係ですが、私たちは受け入れ合わなければなりません。お互いにイエス・キリストを信じ、神様の愛を信じている者同士として、キリストにあって一つのからだです。何が何でも離れられない、神の愛によって一つとされている者なのです。

★各自はからだの一つの器官。互いに異なっている。
 もともと異なっているのですから、同じになる必要はないのです。「あの人のようになりたい」とうらやむことは、あなたのためになりません。からだの中でお互いに違いを認めることは大事です。ただし「同じからだに属している」という意識まで取ってしまわないように注意してくださいね。
 できる人とできない人が存在する時に違いを認めるのは難しいことですが、追い立てたり、あるいは引き下げたりするようなことをせず、適材適所であることを認め合いましょう。

★各自、恵みによって異なった賜物が与えられている。
 働きも内容も力もそれぞれ異なっているのが当然なので、比べ合うことができない者同士であることを悟りましょう。目と鼻と耳と口を比べる人はいません。どれが欠けても困ります。
 神様にとってもからだの各器官は大切なものであり、どれも欠かせないのです。このように、離れることのできない一つとなった関係の私たちが、手、足などの異なった者であることを受け入れながら、異なる者同士が比較し合わないように気をつけましょう。世の中は優劣をつける習慣がありますが、教会内でそれをしてはいけません。体の器官に優劣などないからです。

★預言、奉仕、教えること、勧めをすること、分け与えること、指導すること、慈善をすることなど。
 これらのいろいろな働きの違いが意味するものは、全て建徳のために与えられているということ。体全体の益となるために、あなたの小さな力が与えられています。大きな能力の人ばかりでなく、強弱(他の器官と比べた場合)があってこそ、手は手らしく、足は足らしく働くことができます。
 このように周りが見えてくると、自然に慎み深い考え方になるのではないでしょうか。この世では利益を生み出さない者は邪魔者扱いされますが、神様が造られる国は愛の国です。全ての人は必要とされるのです。
 互いの違いを認め尊重し合うのが、慎み深い考え方です。

2.『知足不辱』(ガラテヤ6:4〜5)
“おのおの自分の行いをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう。人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。”

◎『知足不辱』(ちそくふじょく)の意味
 「自分の分を知り、それで満足をすれば辱めを受けないということ。
 『足るを知れば辱められず』と訓読みする。」

【内容観察】
★自分の行いをよく調べる。
 自分をよく知ることによって、他の人のこともよくわかることができるようになります。私たちは人間であり、罪の力の影響を受けた罪人です。的を外しやすい力に影響されている者です。罪によって悩まされている人生である、という部分では皆共通しています。
 ですから、自分の心での罪の動きを知れば、同じ罪人である他の人の思いもわかってくるはずです。わかってくれば批判などできなくなってきます。自分をよくわきまえる人は、他人との関係においてもわきまえられます。

★人に対して誇れるものはない。
 異なるものは誇れません。違いは比べ合って自慢し合うようなものではありません。たとえば、講壇にある本とマイクが、お互いの特性を比べ合っても不毛なだけです。人のからだの各器官も同じです。どちらが正しいか、優れているかで争うなら病気になってしまいます。違いを認め合わなければ、わきまえは出てきません。

★負うべき自分自身の重荷がある。
 私たちにとって一番の重荷は「生きる」ということです。パウロは「キリストの一つの器官として与えられた賜物を通して、キリストのからだの中で生き続ける」という重荷を示しています。あなたが死ねば、からだは不完全、不健康になってしまいます。自分のために生きるのではなく、からだ全体のために生き続けなければならないという重荷があるのです。
 自己中心な考え方から見れば苦痛でしかありませんが、「私の人生の務めは、からだ全体の益となるためにあるのだとしたら、私が受けている苦労は私の人生の損失ではなく、からだ全体の益として私の負担がある」と考えられると、「苦労のしがいがある」という愛を感じられます。
 からだの中には相反する働きも数多く存在していますが、各器官はお互いに忍耐をもってそれを受け入れ、許しています。寛容と忍耐と柔和がそこにあります。自分にとって受け入れ難い人こそが、自分にとって必要な人なのです。
 私たちはお互いに負うべき人生の重荷を負い続けましょう。あなたを愛して、永遠の滅びから救い出し、愛なる神様の愛のからだの一器官として入れてくださった方のために。
 「私は愛の中に生き続けるために、この人生の労苦を甘んじて受けていこう」という愛ゆえの動機が、私たちの内にわいてきます。この動機なしには苦痛ですし、利害関係を見るようになってしまいます。

☆「私だけに与えられている、キリストのからだの一器官としての人生に目覚める」ことが、「わきまえを持ち、慎み深い考え方が実際にできていく人生へと変えられていくための大事なポイント」ではないかと思います。

※参考聖句
(民数記12章)
 モーセの姉ミリアムと兄アロンが、各々に与えられた限度をわきまえず、神の立てられた指導者モーセに言い逆らった時、神が選ばれた指導者を愚弄した罰として、ミリアムは一週間らい病にかかりました。辱めを受けるためです。彼女は砕かれました。
(民数記18章)
モーセのしゅうと、ミデヤンの祭司イテロがモーセのもとに来て助 言をした時、モーセは指導者たる自分の立場に固執することなく、年配者であり義父でもあるイテロの勧めを受け入れました。
※上の二つを読み比べて、思慮深いわきまえのある考え方、姿勢、態度をぜひ教えていただきましょう。

『盛り皿の 梨を最初に 誰が取る』

 周りに配慮ができる人がわきまえのある人です。周りへの配慮は、自分をよく知り、周りの人々をよく知るほど、よりよい配慮、慎み深い考え方と行動になります。子どもは真っ先に梨を取るものですが、あなたは周りの人をよく見て、自分の順番を考えなければなりませんね。
 しかし、周りの人をよく知っていれば、自然と愛をもった配慮ができてくるものでもあります。

 

 

 

 

■2014年8月24日 日曜礼拝メッセージより(横路伝道師、小栗伝道師)

 師である愛のみこころを知るために  up 2014.8.24


この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
(ローマ12:2)

 

 

 

【横路伝道師メッセージ】
1.この世と調子を合わせてはいけません。(ローマ12:2a)
 先週の礼拝メッセージで、(ローマ12:1)から、“…あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。”と、学びました。
 愛の弟子継承者として人生を歩んでいくにはどうすればいいかについて、今週は(ローマ12:2)から学びたいと思います。
 「この世と調子を合わせてはいけません。」とありますが、「この世とは何か」を考えてみると、万物を神様が良いものとして創造されたのに、現在この世界は愛のない罪の世界、自己中心でわがままで汚れた、やがて滅びてしまう世界となってしまっています。
また、「調子を合わせてはいけません」と言われている「調子を合わせる」とは、どのようなことでしょうか?
 「調子を合わせる」とは、同調する、迎合する、妥協することであり、合わせすぎると、協力する、同化する、加担する、共犯者となるところまでエスカレートする危険性があります。
 また、「なぜこの世と調子を合わせてはいけない」のでしょうか?
それは、この世の悪い価値観に同調し、迎合し、妥協するなら、私たちクリスチャンも世の人々と同化し、この世の悪に加担する者となってしまうからです。
 私たちは「この世の調子」ではなく「神のみこころ」に調子を合わせる者として、この世から選び出された者です。私たちは「この世に属する者」ではなく、「神の御国に属する者」だからです。
リビングバイブル訳にはこの箇所は「世間の人々の生活態度や習慣をまねてはいけません。」となっています。
 私たちが御国の民としてどのような生き方をすれば良いかについて、(マタイ5:13〜15)には次のように書いてあります。
『参考聖句』(マタイ5:13〜15)
“「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れることができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。」”
 塩は料理の味付けに欠かせないものですが、ほかにも聖める働きに用いられたり、防腐剤として食品を腐らせないようにする働きがあります。
 また、光は暗やみを追い出し、隠れた部分を明らかにします。光の前にやみは逃げるしかありません。(ヨハネ1:5)
“光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。”
 「この世と調子を合わせる」とは塩けをなくし、光を枡の下に隠すようなもので、御国の民としての役割を捨て、無駄にしてしまうことになるのです。だから私たちは調子を合わせてはいけないのです。

 それでは具体的に、地の塩、世界の光として私たちがこの世にあって生きるために、どのようにすれば良いのでしょうか?
いくつかの例を挙げてみましょう。
 たとえば、世の中で(あるいは兄弟姉妹や家族の中で)、数人で話をする交わりの中で、次のような会話になることがあります。

(1)その場にいない人の批判や陰口を言う人がある場合
 これは私たちがよく経験する、世の悪い習慣の一つです。
こんな時、一緒になって「そうだそうだ」と同意するのではなく、かえって陰口を言われている方を弁護し、とりなすことです。
「その方のために共に祈りましょう」というところまで会話を導きたいものです。
 ある方がこのように言っておられました。陰口を言う人に対して「私は、『あなたがこういう話をしていたよ。』と、ついその人に話してしまうくせがあってね。」と言えば、その人はもう私の前では、決して人の陰口を言わなくなる、というのです。聖書では直接忠告をするように勧めています。

(2)不平不満をつぶやく人がある場合
 不平不満は突き詰めて行けば、誰かに責任を負わせ、ついには「神様が悪い」とする、やみの働きです。こういう時は視点を変え、かえって感謝できることを見つけ出し、つぶやきから感謝の心に向けるようにするのが、「光」の役割ではないでしょうか。

(3)怒りを表す人がある場合
 感情的な人との交わりは本当に難しいと思います。そんな感情になっている状況を理解して、「そんな気持ちなのですね。」と一旦受け止めて、心を落ち着かせる必要があります。たとえばご主人が怒っているなら、奥様はお茶やコーヒーを出し、一息入れて冷静になるのを待つことも一つの方法です。

(4)疑いや不信仰を語る人がある場合
 これは聞く人につまずきを与えるやみの働きです。
聖書の中から信仰のことばを語ることで賢く切り返して、肯定的なことばを告白するように光を照らしましょう。共に祈り、心を信仰に向けることが必要です。

(5)汚れた話題を持ち出す人がある場合
 こういう人からは、悪影響を受けないため不快感を表し、その場を去るくらいの勇気が必要です。塩を撒いて聖めることになるからです。

 また、「この世と調子を合わせずに生活できるでしょうか」という質問があります。答えは「できます。」です。
 クリスチャンは、時には世間の目を恐れて「この世に調子を合わせないと、特別な目で見られ、嫌われ、のけ者にされる。」と誤解していますが、私たちは主に守られるので大丈夫なのです。
 法律的にも「信教の自由」が認められているため、世の中に強制的に合わせられることもありません。
 世間と調子を合わせなくても、私たちがクリスチャンらしく正しい良心を持ち、愛をもって周囲の人々とつきあっていれば、人々から馬鹿にされたり、疎外されることはありません。普通におつきあいできます。
 たとえばスポーツ選手、芸術家、学者なども、みな世間と調子を合わせて生活してはいません。その人々は自分なりの食事、訓練、製作、研究の調子を(リズムを)大切にしています。クリスチャンである私たちも、クリスチャンらしく生き生きとして、自分の調子で生きています。
 クリスチャン詩人で体が全く動かない、「まばたきの詩人」と言われた水野源三さんの、「生きる」という詩があります。
「神様の大きな御手の中で、かたつむりはかたつむりらしく歩み、
蛍草は蛍草らしく咲き、雨蛙は雨蛙らしく鳴き、神様の大きな御手の中で、私は私らしく生きる。」
 全身マヒという重病の人が、この世の調子に合わせて生きることは難しいことです。
 しかし、水野源三さんの信仰と詩を通して、その存在が周囲の人の「光」となって輝いています。
 私たちも、この世と調子を合わせるのでなく、神の愛に調子を合わせ、地の塩・世界の光となりたいものです。

【小栗伝道師メッセージ】
2.心の一新によって自分を変えなさい(ローマ12:2b)
 デボーションノートの問いかけにあるように、今の自分は内側を変えたいと思っているかどうかを考えた時に、「別に…」と問題にしない選択もあります。
 しかし、罪人の自分のために、御子を十字架にかけるほどに愛してくださった神様への応答として、今は不十分であっても、完全に愛せるように成長を願ってくださる神様のみこころを知るために、心の一新(すっかり新しくする、全く新しくなるの意)によって、「自分を変えなさい」〜リビングバイブル訳:全く新しい別人となりなさい、詳訳:全体的に刷新することによって異なった人になりなさい、と語られています。
 古いページが全く新しくなるように、イエス様の血潮によって、つい今しがたのこともまっさらにされて、罪は帳消しにされて、新しく歩めるように神様がしてくださいました。私たちが神様を愛するがゆえに内側を変えられていきたいと願うことを、神様は導いておられるのではないでしょうか。

○どのように変えることが必要でしょうか。
 イエス様と出会った頃は、思いが非常に新鮮で、感動をもって日常生活を過ごしていたのに、時間が経つにつれ「初めの愛から離れてしまった(黙示録2:4エペソの教会)」り、「なまぬるく(黙示録3:16ラオデキヤの教会)」なってしまい、神様への思いが薄れてしまっていないでしょうか。
 また、「モアブは…、じっとたまっていて…(エレミヤ48:11)」「…よどんでいて(ゼパニヤ1:12)」との表現にあるように、変わることを願わず、あきらめてしまうのは、世と調子を合わせたことにも関係があると思われます。
 しかし、私たちは、古い人、肉の働きから一転して、先週も学びました愛の弟子の方を目指しているのです。その愛の弟子の心には(Tコリント13:4〜7)に出てくる「愛は寛容、親切、ねたまず、自慢せず、高慢にならない。礼儀に反することをせず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばず、真理を喜ぶ。すべてをががまんし、信じ、耐え忍ぶ」愛が詰まっています。神の愛があふれている愛の弟子を目指して、自分を変えていくことを願って行きましょう。

○心を一新させる方法
 初めの愛から離れ、なまぬるくなり、変わることを望まなくなった状況から、愛の弟子を目指して変わるためには、心を一新させることが不可欠です。
・霊的な面〜みことばに生きる(例)
“私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。”(ローマ6:6)
“その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖とをもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。”(エペソ4:22〜24)
 (ローマ6:6)のみことばは、洗礼の説明で用いられます。水のバプテスマの真理が表しているように、キリストにつくバプテスマを受けた人は、神の愛から離れさせ、自己中心に戻らせようとする古い人がいくらでものさばってくるからです。「人を欺く情欲」とありますが、いないはずの感情(怒り、自己れんびん、絶望…)が自分の本心であるかのように欺いてきます。しかし、それらの古い人は死んだ、自己中心の私は十字架について、もはや存在しないのであり、今や新しい人を、キリストを、その愛を着ているのです。そして私たちの新しい人は、まさに神のかたちそのものの愛があるのです。

※参考『いのちの御霊の原理』(ローマ8:2)
“なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。”
 これは(ローマ8:11)にも通じますが、神の愛であるキリストを死者の中からよみがえらされた全能の神の御霊が私たちの霊に注がれたならば、外側の古い人に影響を与え、やがて自己中心を制していくことを表しています。
 私たちの新しい人は、神の愛に生かされており、古い人に圧迫される必要はありません。神様が愛してくださったから、この愛に生きていきますと、いのちの御霊の原理を生かしていただきたいと思います。
・環境的な面
◎偶像を取り除く
 旧約聖書に出てくる神様に従った良い王様は、例外なく王の宮をきよめ、偶像を取り除いたと記されています。私たちに置き換えるならば、思いは新しくされたことを宣言しても、見える環境に、肉が引き出され古い人が囚われるものを残さず、自分が捨てることを意味します。残しておくことによって、一新されたことを無駄にしかねないからです。
 神様を愛するがゆえに、神様を愛することを妨げるものを、時を失せず手放すことが大切なことではないでしょうか。
◎環境を変える
 耳にする音楽等、日常生活で目や耳に入ってくる情報に気をつける必要があります。自分自身(小栗伝)、偶然目に入ったみことばによって、自分がいかに神様から心を離した状態かを指摘され、気づきを与えられた貴重な体験があります。
 いずれにしても、神様との関係を薄くさせ、引き離すものを取り除いていくことの重要性をここで教えられます。
 神様が、イエス様を十字架にかけてまで私たちを愛し、新しく生きるように与えられたこの人生。
 今週も心を一新させて、神様が教えてくださっていることを心に留めて、愛の弟子を目指して、神様に導かれていきましょう。

 

 

 

 

■2014年8月17日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 クリスチャンは愛の弟子  up 2014.8.17


神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。
(エペソ1:5)

 

 

 

 昨日まで、若い世代が集まってキャンプをしたのですが、彼らがそのキャンプのテーマに選んだのが、この「愛の弟子となるために」でした。私たちは今、神様の愛を土台に学んでいますが、「愛の弟子」とは、言い換えればクリスチャンのことであると言えます。

1.主題聖句より(エペソ1:5)“みことばは前述”
【内容観察】
「愛の神は、ご自分の本質である愛のお気持ちから良しとお考えになられたままに、罪深い私たちをイエス・キリストによってご自分の愛を継承する我が子にしようと、私たちが生まれる前から決定しておられました。」
★「弟子」の意味⇒弟や子のように従うこと。
  ↓
 「習う。学び身に着ける。継承者として習得する。」
【デボーション参考ポイント】
★神の愛を継承(相続)する者として、あらかじめ定められていた。

 現代では、「弟子」と言うと、厳しい修行をして社会から孤立した特別な学びをするというイメージがありますが、弟子とは、本来は信頼を持って目上の人たちに弟や子のように従うという意味です。
弟や子どもは教えられる立場であり、「学ぶ」という位置づけにあります。「学ぶ」とは、言われた通りやってみる、ということです。
 (エペソ1:5)を見直してみましょう。天地万物を造られた愛の神様のお心は、「愛」が動機になっています。その「愛」という本質からお考えになったご計画から、わがままで的外れをする罪深い私たちを、その失敗の罪の裁きを身代わりに負ってくださった救い主イエス・キリストを通して、相続人である我が子にしようと、神様のご性質である愛を受け継がせたいと、私たちが生まれる前から決定しておられたのです。
 私たちが相続人とてふさわしく成長して行く時間が、この人生なのです。それはまるで弟子のように従い学ぶために、この地上で様々な出来事を通して、愛なる神様から「愛」を継承していく学びの時、修練の時、弟子のような生活なのだと考えていただきたいと思います。
 神様は私たちが生まれる前から、神様のものを継承するために選ばれたので、私たちはそのために学び、従うことが大切です。神様の愛の弟子として、神様の愛を継承するために計画されたこととして、今あなたはここに存在しています。
 人生の目的、目標がない歩み方はむなしいものです。しかし私たちは、生まれる前から定められた人生があります。それは運命という意味ではなく、あなたが存在する目的、ゴールがあるのです。
 神は、私たちをご自分のかたちに似せて創られました。それは、同じものになれる可能性があるものとしてです。神様の本質は愛であられるので、それを子どものように私たちに受け継がせたいという気持ちを持って、私たちをお創りになったのです。
 人は、愛があれば、様々な環境で幸せに生きていくことができます。欲望が動機になった愛は幸せだとは捉えにくいのですが、本当の愛は環境や状況に左右されず、幸福感を持つことができる人間関係を見出すことができます。
 ですから、「私たちの本当の幸せは愛なのだ」と心のどこかでみんな感じているのですが、その愛を満たすために、お金で楽しみをしていくという代用をしてしまい、なかなか心を満たす愛に出会うことができていません。しかし、あらかじめあなたを愛を継承する者として定められていた神様のご計画によって、イエス・キリストによって、神の子どもとして愛を学んでいく者としての生活を、私たちは始めているのです。それは明確な計画の元にあるのです。
 ある人は、「目標やゴールは自分で見つけるものだから、教えてはいけない」と言われますが、ゴールがあるからこそ、そのゴールに向けてすべてのことを準備してやって行くことができるのであって、無駄があっても無駄にはならないのです。しかし、ゴールも見つけられなかった人はどうなるのでしょうか。
 神様は私たちがご自分の子になるように、愛を継承するようにと、最終ゴールをはっきり決められて、そこに向かって私たちが進んでいると教えておられます。
 しかし、そのプロセスは一人一人によって違います。ゴールが定められているのであって、プロセスが定められているのではなく、私たちの反応、応答によってプロセスは違ってきます。
 神様が私たちに定めてくださったゴールを、あなたが自分の人生のゴールとして受け止めるかどうかです。このゴールを受け止めると決めたなら、このゴールを立ててくださった神様の愛を信じ、ゴールに近づいていくために、弟子という心構えが大切です。
 神様のきよい愛を継承するのにふさわしくないと思っても、神があなたを相続人として選んでくださったのです。私たちがふさわしい相続人となるようにと、今弟子として訓練してくださっているのです。
(第2ペテロ1:4)
“その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。”
 神様は私たちを、神のご性質にあずかる者となるようにと、私たちを訓練してくださっています。漁師であったペテロは、イエス様に出会って、神のご性質にあずかる者として、人間を獲る漁師としての人生に変えられました。目先のことではなく人生の終着点を知り、全世界に出て行って神の愛を伝える人生へと変えられたのです。
 神様の愛を継承する神様の子になることが終着点であると、自分の今の人生を考えていくと、あなたが今通っている苦しみや問題やむなしさや矛盾などに対して、いろんな解決が見えてくると思います。

2.『衣鉢相伝』(ローマ12:1)
“そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。”

◎『衣鉢相伝』(いはつそうでん)の意味
 「弟子が師の教え、道を継ぐこと。教法や奥義を伝え継承すること。」
【内容観察】
「神の子として定められている兄弟たち。滅びるべき者を深くあわれんでくださる神を知っている者として、あなたがたにぜひとも実行してほしいことがあります。あなたがたの人生そのものを、神の期待にそった、聖い神の愛に所属する、神の目に高価で尊い供え物となるための愛の弟子となりなさい。神の愛を継承するための愛を習得する生き方こそ、神があなたがたに願っておられる実体としての礼拝なのです。」
【デボーションの参考ポイント】
★霊的な礼拝とは、愛の弟子として生きること。
 
 私たちの実体は、霊です。霊的礼拝とは何かをここで語っています。教会に日曜に来ることだけが礼拝ではありません。礼拝とは「神に捧げる」ということです。心を捧げていくことです。それは、心を捧げるほどのものを、私たちが受けたからです。気持ちを込めて賛美をし、ささげものをします。それらの見えるものの実体は、神様の愛に対して、愛をもって応えるという心から表されているのです。これが礼拝なのです。
 愛の相続人として私たちは選ばれています。しかし、それにふさわしいものとなるために、弟子として学んでいく時がこの人生です。それは強制ではなく、神様の愛に応えて自ら進んで従って行く愛の応答であり、それこそが礼拝なのです。その定めに従うことが、委ねるということです。委ねるとは、神様の定めに身を捧げることです。これが礼拝です。私たちの人生はすべて礼拝なのです。神様は、この定めに従う人をとても喜ばれます。神様の愛に応えて、喜んで捧げて礼拝する人を、心から喜ばれます。
 皆さんは、この愛の継承者としての人生に身を委ねていきたいと思いませんか。そのような礼拝の人生、愛の弟子となる人生を進んでいきましょう。

『愛の弟子 天父の目には 花火のよう』

 愛の弟子の人生を歩んでいるあなたを見て、神様はまるで花火を見ているように、わあーっと喜んでくださるのです。失敗しても、何かこれで学んで成長しているなと、花火のように喜びをもって見ていてくださっています。

 

 

 

 

■2014年8月10日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛は恵みを生む  up 2014.8.10


主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。
(詩篇103:8)

 

 

 

1.主題聖句より(詩篇103:8)“みことばは前述”
【内容観察】
「創造主は、愛である方なので、深い思いやりをもって見つめ、すべての成り行きを知って優しく対処される。それゆえに、多くの寛大な処置という恵みを施される方なので、さばきの時を遅くされる。」
 新改訳で「恵み」と訳している単語は、原語的には「恵む」という意味がありません。これは、「神様のあわれみと情けから来るもので、『恵み』ということばは意訳がなされています。新共同訳では「恵み」の動機から「いつくしみ」と訳されています。愛の心から、施す行動が生まれます。
 原語での本来の「恵み」は、(創世記19:12〜22)に記されているようなものです。
“ふたりはロトに言った。「ほかにあなたの身内の者がここにいますか。あなたの婿やあなたの息子、娘、あるいはこの町にいるあなたの身内の者をみな、この場所から連れ出しなさい。わたしたちはこの場所を滅ぼそうとしているからです。彼らに対する叫びが主の前で大きくなったので、主はこの町を滅ぼすために、わたしたちを遣わされたのです。」そこでロトは出て行き、娘たちをめとった婿たちに告げて言った。「立ってこの場所から出て行きなさい。主がこの町を滅ぼそうとしておられるから。」しかし、彼の婿たちには、それは冗談のように思われた。
 夜が明けるころ、御使いたちはロトを促して行った。「さあ立って、あなたの妻と、ここにいるふたりの娘たちを連れて行きなさい。さもないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽くされてしまおう。」しかし彼はためらっていた。すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。ー主の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。
 彼らを外のほうに連れ出したとき、そのひとりは言った。「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう。」ロトは彼らに言った。「主よ。どうか、そんなことになりませんように。ご覧ください。このしもべはあなたの心にかない、あなたは私のいのちを救って大きな恵みを与えてくださいました。しかし、私は、山に逃げることができません。わざわいが追いついて、たぶん私は死ぬでしょう。
ご覧ください。あそこの町は、のがれるのに近いのです。しかもあんなに小さいのです。どうか、あそこに逃げさせてください。あんなに小さいではありませんか。私のいのちを生かしてください。」
 その人は彼に言った。「よろしい。わたしはこのことでも、あなたの願いを入れ、あなたの言うその町を滅ぼすまい。急いでそこへ逃れなさい。あなたがあそこに入るまでは、わたしは何もできないから。」それゆえ、その町の名はツォアルと呼ばれた。”
 神様から祝福されたアブラハムとロトが二手に分かれた時、ロトが選んだのが、ソドムにつながる豊かな低地でした。ソドムは神の前に罪深い町だったので、やがて滅ぼされることになりました。しかしアブラハムのとりなしによって、ロトとその家族は御使いに手を引かれて逃がされたのです。
 ロトが助かった理由その1
 アブラハムが、神の友と呼ばれるほど神様と親しかったから
 アブラハムがロトのためにとりなしをしたからこそ、ロトとその家族は御使いたちに引き出されて、ソドムの滅びから救われました。心では主を畏れていても、世の中に妥協しているクリスチャンたちのために、他の信仰の強いクリスチャンたちのとりなしが大事です。私たちも、なかなか教会に来られないクリスチャンのためにとりなしをしてまいりましょう。
 ロトが助かった理由その2
 御使いが「彼の言い分を聞き入れられた」という恵み
 ソドムから山までいのちがけで逃げろと言われたにもかかわらず、ロトは近くの町までにしてくれとわがままを言いました。御使いがそれを許してくださったように、私たちもいろんなわがままを許されています。このあわれみに甘え過ぎないよう、私たちは自分に注意しようではありませんか。
 さて、御使いがロトたちを超自然的な方法で(おそらく瞬間移動している。家の外は町の人間がうろうろしていて危険)町の外へ連れ出された時、あえて目的地の山に置かれなかったのはなぜでしょう。それは自助努力をする必要があったからです。信仰を働かせて自ら動くことが、ロトたちにも必要だったのです。これが「恵み」の対応の特徴です。
 イエス様のとりなしによって、私たちへの取り扱いには寛容な処置が与えられています。広い心での親切心が、聖書で言う「恵み」です。不信でも肉的でも心の奥底に信仰があれば、主の働きでその人から寛容さが表されます。寛容さのない愛は、自己中心から出ています。欲望を満たす自己満足は、神の前に意味がありません。それはイエス様のとりなしのおかげいただいているものであるにもかかわらず、それを無視しているからです。
 この神の寛容により、まだ生かされている自分を知ると、恩を感じて感謝できるようになります。
 「恵み」は、神を敬う心から出て来ます。人々への寛容さある親切は、ここから出てくるのです。
 わがままなロトでさえ、神様はここまで受け入れてくださっているのです。ましてや、イエス様が私たちのために表された犠牲を伴う寛容を知れば、自分の肉や罪深さを恥じ、敬虔な心で神様に仕えたいと誰しも思えるのではないでしょうか。

2.『情状酌量』の恵み(詩篇103:14)
“主は、私たちの成り立ちを知り、私たちがちりにすぎないことを心に留めておられる。”
◎『情状酌量』(じょうじょうしゃくりょう)の意味
「事情を汲み取って、同情のある扱いをすること。裁判官などが諸事情を
考慮して、刑罰を軽くすること。」
【内容観察】
「愛の神であられる創造主は、御自身が創られた人の成り立ちをよくご存知なので、人はちりにすぎないことに深い思いやりを向けられ、つねに寛容をもって対処することを心得ておられる。」

 神様は、私たちが何者であるか、よくご存知です。私たちがちりに過ぎないことを、いつも心の中に考えておられます。
 私たち自身にも、それぞれいつも心の中に留めているものがあるでしょう。何かと言えば、すぐ頭の中に浮かんでくる事柄です。
 私たちを「ちりで造られた」のは、神様は深いあわれみと寛容を受けることができる位置に、あえて私たちを置かれたとも言えます。御使いでは味わえない、神様の本質がそこに注がれます。人がか弱いちりであるからこそ、神様の愛が大いに注がれているのです。
堕天使ルシファーは最高の被造物でしたが、神のあわれみも情け深さも味わうことがなかった(あわれまれる存在ではなかった)ために、傲慢になって堕落してしまいました。
 弱さとはすばらしいもので、パウロも弱さを誇ると言っています(第2コリント12:9参照)。人がちりに過ぎないからこそ、大きなあわれみと愛が注がれているのです。サタンがねたむほどに、人の不完全さは神様によって補われています。私たちはこの罪深い世界と共に、あわれみによる「情状酌量」を受けています。深い神のあわれみによって、それはもたらされています。
(エペソ2:8)“あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。”
 パウロは、私たちがただ恵みによって救われていると告白しました。信仰も恵みによってもたらされています。ちりに等しい私たちには、何一つ正しいことはできません。ただ神の恵みに対する信仰によって義と認められるのです。
 私たちはこの「情状酌量」の愛を通して、父・御子・御霊を知ることができます。これは神様のご計画でもあります。神様はご自身を知ることを願っておられるのですから。
 私たちはゼロに近い者なので、100%に近い神の愛を受け、知ることができます。ルシファーのように完全に近い者であるなら、神の愛をほとんど知ることはできません。あなたはどちらがいいと思われますか?

『もう立秋 恵みの果実 かみしめて』

 霊的な恵みのことと、実際口にできる収穫の果実を重ねてみました。これをしみじみとかみしめて味わおうではありませんか。

 

 

 

 

■2014年8月3日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛は幸運を呼ぶ  up 2014.8.3


主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた。
(創世記39:2)

 

 

 

 ユダヤ人は小さい時から、創世記をはじめ出エジプト、レビ、民数記、申命記のモーセ五書を読み聞かせられ、暗唱するほどに徹底して学びます。その創世記に出てくるヨセフの物語は、自分の思い通りにいかなかった人生から、最後に神様が大逆転の人生を与えてくださったということで有名です。ここを通して、「愛は幸運を呼ぶこと」、なぜそのような逆境の中で、ヨセフは幸運な人となっていったのかを見てまいりましょう。
 このテーマは先週、先々週のメッセージの流れも引き継いでおり、以前のものも含めて週報や聖会の「安息について」の週報をお読みになって、悟っていただきたいと思います。
●幸運〜
 ヘブル語訳は前進する⇒栄える方向に進む⇒発展する⇒成功する
※この箇所だけ「幸運」と意訳されている
●幸運とは、逆境においてもなお前進、発展し、成功すること。
 聖書での幸運とは、順風満帆を言うのではなく、逆境の中で前に進むこと、逆流を切り開くこと、問題が起こらないと現れてこない、苦しんでいる時にこそ体験できるものです。ヨセフは幸運な人でした。
 12人兄弟の11番目に生まれたヨセフの一度目の苦しみは、兄たちから妬まれたことです。父ヤコブにかわいがられ、相続の祝福を受けていたヨセフが、自分の麦の束に兄たち11本の束がおじぎをする夢、太陽、月と11の星(父と母と家族の意味)が真ん中の自分の星を拝む夢を見たままに話しました。
 その結果、兄たちから殺意を持たれるほどの妬みをかい、後日、父の使いで兄たちの様子を見に行ったヨセフは、兄たちに穴へ突き落とされて、イシュマエルの商人に売られました。砂漠を何日も裸足で歩かされ、奴隷市場で売られ、ポティファルに買われました。これが、主題のみことばの箇所です。
 奴隷に売られた時点では、幸運な人となるとは言い難いです。私たちは、問題なくすんなりと物事が進んでいくことが幸運と考えがちです。しかし、このヘブル語は、逆境の中から始まる幸運のことです。逆戻りするような状況から回復し、前に進んでいく状況を描いてください。それこそ本当に幸運な人です。
 どうしてうまくいかないのだろうという状況、環境にあると感じている人は、まさに幸運な人となるチャンスが来ています。今日は、試練、逆境の中におかれている人への、神様のすばらしい御教えだと思います。

1.愛の神がともにおられる(創世記39:23)
“監獄の長は、ヨセフの手に任せたことについては何も干渉しなかった。それは主が彼とともにおられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださったからである。”
 幸運の第一の条件は、愛の神がともにおられるということです。
 ヨセフは、主人のもとで家のものを全部管理する信頼を得た奴隷としての頂点から、今度は無実の罪を訴えられて、犯罪人となって監獄に入れられるというどん底に突き落とされました。しかし、そんな逆境のときも「主はヨセフとともにおられ、成功させてくださった。」エジプト人の主人の家では、「主がともにおられて、幸運な人となられた。」
 この「成功」と「幸運」は、同じヘブル語です。
【内容観察】
「主は、ヨセフの愛によって働く信仰を見られ、彼とともにいることが安息となったので、すべてを成功させられた。監獄の長は、ヨセフの不思議な魅力に惹かれて信頼をして任せた。」
 ヨセフの愛によって働く信仰は、ヨセフのひいおじいさんのアブラハムから継承したと思われます。ヨセフはかわいがられていたヤコブから、ひいおじいさんのアブラハムのこと、おじいさんのイサクのこと、またヤコブ自身のことを通して、あわれみ深い神様の話を聞いていたと思われます。
 お父さんのヤコブが兄エサウからの迫害を受けたこと、イサクおじいさんが妬まれて井戸を奪われたことや、おじいさん自身が神様のいけにえになったこと、ひいおじいさんが100歳、ひいおばあさんが90歳でおじいさんが生まれたこと。信じられない出来事を聞き、家族から離れてエジプトにやられ、孤独になった大変な不幸な状態の今こそ、聞いていた神様に思いを向け、「アブラハム、イサク、ヤコブの神様」に信頼すべき時だと。
 見上げることができるのは神様だけ。この先祖の神はあわれみ深い愛の神様、という心が養われたと言えます。
 私たちの信じている神様は、どんな神様でしょうか。この世の人は損得によって働く信仰、自分の思い通りにならない神様を退けます。しかし、イエス様はお金で動く方ではありません。天地を創られた神様は、愛によって働く信仰によって神様を信頼する心に応えてくださる方です。弱い、心砕かれた者とともにおられる神様です。
 ヨセフは、最悪の弱い状態の中で、主によって成功させられたとあります。逆境の中で、神様がともにおられたので、すばらしい結果を生み出していきました。
 さらに今度は獄屋に入れられる大変な状況になっても、あきらめず神様を信じて、務めを果たしていきました。(夢を解き明かした相手に、夢が実現したら監獄から出られるようにお願いしていましたが、忘れられてしまいました。)表面的についていないように見えますが、主がともにおられたので、監獄の中でも成功をおさめました。
監獄の長はだいたい気が荒く、犯罪人相手にまともには信じられず、きびしく治めていたでしょう。ところがヨセフによって、人を信じ、犯罪人に管理を任せる心に変えられたのです。犯罪人のヨセフに心を開くとは、ヨセフにどんな魅力があったのでしょう。
 それは、神の愛による安息の心の魅力です。神様の臨在は人に心を開かせ、和ませます。ヨセフに神様の平安の魅力があったのでしょう。私たちでも、主がともにおられる心は内側から主の魅力があふれ、まわりの人を潤すことがあり得るということです。
 神様がともにおられるために、神様を愛しているという、愛によって働く信仰が必要です。しかし、これは試されます。逆境で神の愛を信じ通すかどうかを。
 先週お話しした「あらゆるときに主をほめたたえた」ダビデは、小さい時から旧約聖書を読み聞かせられ、特にヨセフの話は魅力的だったろうと思われます。ダビデに、神様が私とともにいてくれたらとの願いがあったからこそ、サウル王が神様のお心に逆らった時に、神様は次の王としてダビデを選んでおられました。「アブラハム、イサク、ヤコブの神はいつくしみ深く、あわれみ深い神。」と、心を主に向けていたのです。
 あなたは困った時にだけ神様に心を向けていませんか。ふだんから、十字架に表されたいつまでも変わることのない愛を信じ続ける愛を私たちに見て、神が憩いの場所としてやって来てくださいます。十字架は神が私たちを愛してくださっている証です。その愛を見て、どんなに試練や逆境が訪れても、あなたをあわれみ、いつくしんでくださる愛の神であることを信じ続けましょう。

2.『枉法徇私』は幸運を逃がす(第1ヨハネ4:12)
“いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。”
◎『枉法徇私』(おうほうじゅんし)の意味
 「規則に従わずに個人の利益のために働くこと」
 規則に従うことが大切であり、良い結果を出したとしても、規則に従わず自分勝手な行動をとることは忠実ではありません。愛には忠実という性質があります。たとえ結果が出なくても、規則を守っていることが信頼の基準になります。規則を破って出した良い結果は信頼しにくくなります。どこでどのように、自分勝手に物事を判断するかわからないからです。愛は忠実です。

【内容観察】
「愛の神を直接見たことがあるひとはだれもいません。しかし、私たちが、主の戒めである互いに愛し合うことにとどまっているなら、愛の神は私たちのうちに安息を見いだされ、私たちとともにおられて愛のわざを成功させて下さるのです。」
 私たちは、神が成功をもたらしてくださることを願っています。
 規則に準ずること、すなわち「互いに愛し合う」ことは、イエス・キリストを通して神が与えてくださった新しい戒めです。これは、旧約を一つにまとめたことで、神様のすべての戒めの中心です。この規則に従うことが神とともに歩むことのポイントであり、幸運を得る条件になります。互いに愛し合うことにとどまっているなら、愛の神は安息を見いだされ、ご自分が憩われる場所として選ばれ、住まいを設けられます。この安息からの賛美が、神がイスラエルの賛美に住まわれるという先週のメッセージですね。そして私たちの愛のわざを成功、前進、発展、栄えさせてくださるのです。今は小さいかもしれませんが、だんだんと広まって行くということです。神が成功させてくださるとは、今は1でもやがて2へと前に進めさせてくださるということです。皆さんも、全部はできていなくても、神様の愛を信じてあきらめずに「互いに愛し合う」というおことばを守ろうとチャレンジしておられると思います。
 では「互いに愛し合う」ことは具体的にどういうことでしょうか。(ヨハネ13:34)には“「わたし(イエス様)があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」”とあります。イエス様の愛は罪を赦す愛、身代わりに罪の裁き、苦しみを受けられるというものです。罪をおおい、私たちが罪の苦しみを負わないようにされました。こうして、罪の赦しが実現しました。互いに罪を赦し合う愛をもって赦し合います。これには、豊かなあわれみが働いています。イエス様は私たちが罪のために滅んでしまうことのないように、強いあわれみの思いによってご自分が苦しんででも何とか助けたいと思われたのです。動かせない事実として神様は歴史的に十字架で神の愛を表されました。このしるしは疑う余地がありません。どんなに苦しい状況でも信じるに価する証拠です。だから、迫害されて殉教に至る時でも信じ続けられるのです。
 家庭や職場で逆境に立たされる時がしばしばやってきます。その時につぶやくならば、愛によって働く信仰が薄れてきているようです。何が起ころうとも神が愛であることは間違いありません。逆境の中で、神に信頼をもって歩みましょう。
 ただし、「愛する」と言う時に、個人的な利益のために自分勝手な愛し方をしがちです。ですから、聖書から、イエス様の赦し方が基準であることをしっかりと見つけ出してください。こんなものでいいだろう、とはまだ自分の基準が残っています。少しでもイエス様に近づけるように。
 ペテロのイエス様への赦しの回数の質問「7回までですか。」には、完全数の7回を超えたら、8回目は赦さなくても神様は認めてくださるだろうとの思いが含まれていました。しかし、イエス様は「7の70倍、すなわち無限に赦しなさい。」と言われたのです。イエス様は私たちを無限に赦してくださっています。クリスチャンであっても罪を犯し、失敗することを知りつつ、神の愛を信じて前に向かって歩むことを神様は応援してくださっています。自分で「ふさわしくない」と決めつけないようにしてください。それは自分勝手な赦し方です。イエス様はあなたを赦し続けてくださっていますから、「互いに愛し合う」ことに一つでも前進していこうではありませんか。
 ヨセフは、神の愛を基準にして自分を評価しました。そのことは、ヨセフが神様から与えられた夢を解き明かす能力を通してエジプトの総理大臣となり、エジプトの大ききんを乗り切る知恵が与えられた時に、故郷から兄たちが食糧を買いに来たのを見て、家族にやっと会えた胸が詰まるような思いをこらえて、やがて兄たちに自分の身を証しした時にヨセフが発した言葉でわかります。
 すなわち、「私がエジプトに奴隷として売られて来たのは神のご計画です。神は、大ききんの前に私を先に遣わされたのです。」と自分の人生の評価を、憎んでもおかしくない兄たちに対して少しの憎しみもなく、素直に告白できたのです。
 このように神を畏れる心をヨセフが持っていたので、どんな逆境の中にヨセフが入っても、いつも主がともにおられ、祝福、成功、前進、栄えさせました。
 あなたが職場でおとしめられても逃れようとするのではなく、その中で自分に与えられたものを忠実に歩んだらよいのです。神は見ておられます。恨みを忘れていきましょう。あなたが罪を一つも犯していないのならまだしも、人からも恨みをかうような罪を犯していることに気づいていますか。
 神の基準で評価した時に、赦してもらえないような罪を犯しているかもしれないと、謙虚なへりくだった心を持つところに、神がともにおられる秘訣があります。
 もしあなたに赦せない心があったら、安息ではないはずです。赦す心は怒りを静め、平穏にします。私たちは裁く立場になく、ただ神とともに歩むことを一生懸命考えていこうとするのが、幸運な人となる秘訣です。愛は幸運を呼ぶ〜これは愛によって働く信仰によります。神の愛を信じ続ける心が、幸運を呼ぶのです。
 ヨセフは、苦しみの中で恨んでもよい結果をもたらさない、それならば、愛に信頼していこうと、神とともに歩む人生を決心しました。それでもポティファルの妻から無実の罪を着せられました。私たちも神の教えに従った結果、ヨセフのように無実の罪を着せられることもあるのです。しかし、神の愛を見失わないようにしましょう。愛を信じることが試されています。
 逆境の中におられる方、このメッセージを聞かれたからこそ試みが来るのです。あなたが愛によって働く信仰を心に働かせるかどうかを。

  『愛神(愛の神の意味)と 
     猛暑を過ごす 夏休み(安息の意味も含む)』

 猛暑でも、神の愛を信じたら安息となり、暑さをしのげます。
猛暑に限らず、逆境の時に神の愛を信頼していきましょう。

 

 

 

 

■2014年7月27日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 賛美こそ愛の安息  up 2014.7.27


私はあらゆるときに主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。
(詩篇34:1)

 

 

 

 この詩はダビデによるものです。ダビデはあらゆる戦地で勝利を得、賞賛を受けていたことを、王サウルにねたまれ、ついに殺意を抱かれるまでになりました。そして国を追われて逃亡を始めた頃に、この詩を記したことが記録されています。
 ダビデは、この状況の中でも「いつもほめたたえる」と言っており、これが賛美の特徴です。自己暗示や自己洗脳の信仰とは違い、愛によって働く神への信頼なのです。
 しかし、難しいところもあります。自分に言い聞かせてできるものではないからです。心からの賛美には神への愛が必要です。利益を求める心がある場合は、本物の賛美とは違います。
 「魂が救われる」ことの根本は、神様の愛に包まれ、いやされ、健全な状態に戻ることです。私たちは欲望の人生、愛を裏切る罪からもう一度救い出されました。奇跡は信じ続ける力になりません。けれど愛は恩義であり、いつまでも残ります。人は愛に報いる、という気持ちを持つのです。
 人は普通、嫉妬やねたみを受けては幸せを感じません。上司からいのちを狙われたダビデが、文句も言わずに主をほめたたえられたのは、彼に与えられた安息のおかげです。

1.『沈著痛快』な賛美(詩篇22:3)
“けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。”
◎『沈著痛快』(ちんちゃくつうかい)の意味
 「落ち着きがあって、きわめて心地よいさま。」
 悪い状況での賛美は難しいものです。まわりの環境に左右されやすい私たちですから。ダビデは心を捕われることなく、もっとすばらしいものに心を向けていたので、賛美があふれてきたのです。神様は、そのような心に住んでくださいます。

【内容観察】
「私の呼び求める声にいまだに応えて下さらなくても、あなたはあわれみ深いきよい愛なる方であられ、神の愛を信じ続ける者たちが歌うあなたへの賛美を、心地よい安息の場所としてその賛美の中にいこわれるお方です。」
 
 (詩篇22:1〜2)には、神様に近づいても応答がない苦しみが記されています。疑問や不信感が湧いてきますが、ダビデは聖なる神を信じ続けました。「この方はあわれみ深いきよい方だ。いつくしみ深い方だ。」と信頼し続けたのです。
 この方は、神を信頼する人の心を住まいとされます。住まいとはいこう場所、安心できる場所、うれしい場所です。見える状況に左右されず愛を信じ続ける人は、神の安心できる住まいになれます。
信仰抜きに考えても、いろんなものに心を向け、いやしを求めるのが人間です。日頃の疲れを好きなものによっていこわせるのです。しかし、それらは長続きしません。一番いこうことができるのは、愛のある場所です。神様の愛こそが、私たちのいやしであり安息です。
(詩篇23:5)“私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。”
このみことばから、もう少し説明してみましょう。
 敵とは、「苦難、逆境、災難」です。その前での豪勢な食事とは、「勝利への絶対的確信と余裕」を表します。油は「権威、力」を指し、杯つまりぶどう酒とは「喜び」を表しています。
 敵の前でも神様への信頼を持つ人は、神様がその人の心を住まいとして来てくださいます。信頼こそ、最大のポイントです。
 信頼の愛は心に平安を与えます。神様への信頼の心から賛美が生まれ、そこに神様が住まわれるということです。
 主に来ていただきたければ、環境に関わらず神の愛に信頼しましょう。ぜひ十字架を見上げていただきたいのです。十字架は神様の愛の確たる証です。
 ダビデにとって、主だけが頼りでした。彼には自慢すべきものが何一つなく、プライドもありませんでした。彼は自分をよく理解していたのです。
 一方サウルは、神様より人間を頼りにしてしまいました。それで神様は、サウルの心にはお住まいになりませんでした。私たちも、かたくなにならないように注意しましょう。

2.『重煕累洽』による賛美(詩篇63:3)
“あなたの恵みは、いのちにもまさるゆえ、私のくちびるは、あなたを賛美します。”
◎『重煕累洽』(ちょうきるいこう)の意味
「天子の功績が積み重なって、その恩恵が広く行き渡ること。」
 「いのちにもまさる恵み」とは何でしょう。いのちはお金では買えないものです。それほどにいのちは重いものですが、神様の恵みはいのちより重いというのです。

【内容観察】
「罪人の私たちを永遠のさばきから救うために成し遂げられた十字架による罪の贖いは、いのちの重さよりもはるかにまさった恵みです。世界の隅々まで伝えられている神の愛の福音は、賛美しても賛美し尽くせないほどに素晴らしいものです。」
 
 私たちの主への賛美は、いのちにまさる恵みを受けたがゆえのものです。罪人のいのちを救われた、赦しの恵みです。私たち罪人が思い思いに生きることによるいのちの無駄遣いは、裁かれるべきものです。しかし、神様はもう一度チャンスを与えてくださいました。「神の愛を信じたら赦してあげる」という恵みです。これは罪人のいのちよりも大きいものです。この赦しなしには、私たちのいのちは価値なのですから。
 このことをよく悟れば、賛美せずにはいられないはずです。「恩を受けた」と感じるのは、心の大事な部分です。
(第1テモテ1:15)“「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに価するものです。私はその罪人のかしらです。”
 ここで、パウロは自分を「罪人のかしら」と言っています。一番悪い奴だとの認識、罪の自覚は、キリスト・イエスの証を確信させ、賛美となります。自分の罪が自覚できるほど、感謝の心があふれます。それが神への賛美になるのです。良心のきよめは、罪の自覚をもたらします。
(ヘブル9:14)“まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。”
 イエス様の血潮が、私たちの良心をきよめてくださいます。愛の犠牲が、血潮の意味です。私たちがその愛を感じ取ると、罪の自覚が深まり、感謝を持って賛美ができるようになります。
 ここで、人との交わりが大切になってきます。人の恩がわからないと、神様の愛もわかりません。十字架の功績を通して、どれほどの恩恵が注がれているかを、交わりを通して知ってまいりましょう。

『日盛りに 聖日礼拝 真っ盛り』
 
 夏の暑い時間帯、外も礼拝も熱く燃えています。

 

 

 

 

■2014年7月20日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 夏期聖会 〜一息つきましょう 主の愛のもとで〜  up 2014.7.20


すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
(マタイ11:28)

 

 

 

7月18日(金)第一聖会にて
『休むことは重要』“みことばは前述”
安息を与える
(レビ16:31) 安息は神の永遠のおきて
“「これがあなたがたの全き休みの安息であり、あなたがたは身を戒める。これは永遠のおきてである。」”

○安息とは、「終わる、やめる、休息する、中止する、解放する、安心する」
・土地にさえ、七年目は休ませるように律法に記された
・70年捕囚の裁き〜7年×10、土地への安息を神が取り戻された
<安息の目的>私たちと主との関係を表している
(出エジプト31:17)
“「これは、永遠に、わたしとイスラエル人との間のしるしである。それは主が六日間に天と地とを造り、七日目に休み、いこわれたからである。」”
 創造された後、七日目に休み、いこわれた(「一息つく」の意味)
(出エジプト23:12)
“「六日間は自分の仕事をし、七日目は休まなければならない。あなたの牛やろばが休み、あなたの女奴隷の子や在留異国人に息をつかせるためである。」”
 労働者にも一息をつかせる休みがある(第2サムエル16:14)
“王も、王とともに行った民もみな、疲れたので、そこでひと息ついた。”
 ダビデも逃亡の途中、一息ついた

『一息つく』とは
・将来に備えて働きを続けるため、気分を一新して元気を回復するため、「区切りの中で一息つく」「力を取り戻す」「次のことを考えることも、いこうこと」
・生き生きとよみがえらせるため
・癒しを受けてリフレッシュするため

「何かを新たに始めたり、成長し続けるためには、休みを得て一息つくことが欠かせない」

○イエス様が一息つかせてくださるとは、
(ピリピ4:6〜7)
“何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。”
守る〜正しい、健全な状態を維持する、傷ついていたらいやされる
「何事も思いわずらわないで」とは〜思いわずらいは心が混乱し、結論が出せず、思いがまとまらない
「あらゆるばあい」とは〜感謝の動機=愛が必要であり、神様の私たちへの罪の赦し、永遠の滅びからの救い、御国を相続できる救いを与えてくださったイエス様への感謝

「神の愛の道を生きることを選ぶことによって、徳の高い人格者として育つことが大切」
『知っていただく』とは〜神の前に願い事を知っていただくだけで良い。それ以上は神に判断を任せる
『まさる平安』とは〜何をやめて一息つくかがわかってくる
※祈りの中で神様に告白していくように
・神の平安である聖霊様が心と思いを守ってくださり、気づかせてくださる
・気持ちをわかっていただき、通じ合えるような祈りの関係が必要
(神様を動かす祈りをしない)

『やめるべきこと』
(第2列王18:1〜8)
“…ユダの王アハズの子ヒゼキヤが王となった。…彼はすべて父祖ダビデが行ったとおりに、主の目にかなうことを行った。…彼は主に堅くすがって離れることなく、主がモーセに命じられた命令を守った。…”
・ヒゼキヤ王は、国の不幸の原因となっていた、ソロモン王が取り込んでいた偶像をすべて取り除き、国の元気を取り返した。
(コロサイ3:5)
“ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。”
・偶像礼拝とは、むさぼりという自分の欲求を満たす神をあがめること。神を従わせる者となってしまっている。
・むさぼりを起こすものを取り除くように、警戒するように
(ローマ8:13)
“もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。”
・からだの行いとは、むさぼりを動機とした行い
・御霊による⇒神の愛に満たされると、きよい良心が強められて、からだの行いを殺す

※(ガラテヤ5:12)
“あなたがたをかき乱す者どもは、いっそのこと切り取ってしまうほうがよいのです。”
・信仰の故に、切り離さなければならない世の人も出てくる
・神への信仰をかき乱す人と距離を置く
・神の愛のゆえに捨てるべき人間関係も出てくる

○(ピリピ4:6〜7)のみことばのように、神との関係が安息をもたらし、肉の働きをやめさせ、心を整える
・安息をもつとは、神様の前にいこうことであり、これをしっかり保っていく時、むさぼりから自分を守り、からだの働きをやめていける。
・クリスチャン生活の中で、一息つく時間をぜひ持ってほしい。

7月19日(土)第二聖会にて
『解放されないと休めない』(ルカ13:16)
“「…この女はアブラハムの娘なのです。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。安息日だからといって、この束縛を解いてやってはいけないのですか。」”
・いやされても疲れがぶり返すのは、慢性化しており、束縛されているから。
<安息日はいやしと解放の時>
・ユダヤ人は何もしないで、会堂に集 って聖書の話を聞く。
・イエス様は「安息日は本当の休みのときだから、束縛されている人も休むべきである。解放されるべきだ。」と言われた。

○安息日にいやされた病人の例
(1)片手のなえた人(マタイ12:9〜13)
“…そこに片手のなえた人がいた。…イエスは彼らに言われた。「…安息日に良いことをするのは、正しいのです。」…「手を伸ばしなさい。」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は直って、もう一方の手と同じようになった。”
・片手が使えなくなっているとは、片手がこの世をつかんでいる生温い人(信仰者に対して)。神様のために両手を用いることができない。
(2)水腫を患っている(ルカ14:1〜6)
“…ある安息日に…水腫をわずらっている人がいた。イエスはその人を抱いていやし、帰された。…「自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者があなたがたのうちにいるでしょうか。」…”
・後々死に至る内容のできものとは、悪癖(中毒性の)に縛られて離れられない(肉的、精神的、ゲーム)。
 とどめられないことが問題。
(3)38年間病気の人(ヨハネ5:2〜9)
“…ベテスダという池があって、…三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。…イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。”
・自立できない重病人とは、過去にこだわり、過去に縛られて、何もできなくなっている人。
(4)生まれつきの盲人(ヨハネ9:3)
“イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」”
・生まれつき罪に縛られ、的外れを起こす欲望と自己中心の働きがある人。
(5)腰が曲がった病(ルカ13:10〜16)
“…十八年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全然伸ばすことのできない女がいた。イエスは…「あなたの病気はいやされました。」と言って、手を置かれると、女はたちどころに腰が伸びて、神をあがめた。すると、それを見た会堂管理者は、イエスが安息日にいやされたのを憤って、…”
・悪霊に縛られて、感情的で自制心が弱い人。

○解放後の注意(マタイ12:43〜45)
“「汚れた霊が人から出て行って…休み場を捜しますが、見つかりません。…帰ってみると、家はあいていて、掃除してきちんとかたづいていました。…自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みな入り込んでそこに住みつく…後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。…」”
・掃除された私たちの霊には住まわれるお方(聖霊様)が必要。そうしないと、心、体を占領される(クリスチャンになる以前より多くの罪を犯させる)。
○解放後の防御(ヨハネ5:14)
“その後、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。」”
・罪を通して多くの悪霊に束縛されないために、特に同じ罪をくり返すことのないように、気をつける。
・誘惑を感じている人は、以前よりも悪くなる危険性を感じてしっかり心構えをしてほしい。
○縄目を断ち切る
<サムソンの例>
・生まれる前からナジル人(神に生涯をささげる)であるサムソンは、髪の毛にかみそりをあてないという神への誓いと戒めを守っていた。
・私たちも洗礼を受けてナジル人となった。愛によって働く神への信仰を持ち続ける限り、怒り等の感情をコントロールする力を持っている。
・この世の誘惑、人の言葉によって、捨ててはならないものを捨ててしまわないように。
「神様が与えてくださった愛を、絶対に捨てないように、疑わず信じ通すこと⇒束縛から解放される秘訣」
 回復するまで時間をかける必要がある(元の状態に戻るように)
<サウル王の例>〜災いをもたらす主からの霊
 イスラエルの初代の王となって権威が与えられたにも関わらず、サウルは民に影響され、神のみこころを行わず、従わなかった。
 やがて見境なく感情的になり、自制心を失った状態となった。神の霊が注がれたのに追い出すと、神の懲らしめとして災いの霊が神から送られてくることもある。

○神から人の上に立つ権威を与えられている人は、正しく行使するように。軽んじないように、注意することが大切。

○気をつけておくこと
「症状がくり返されて行く時、最終的に悪霊に縛られやすくなるので、早いうちに罪を認めて解放していただくため、神の前に出ることが必要。」

○縛られることのないために
(1)罪に服従しない(ローマ6:16)
“あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義にいたるのです。”
・服従するとは委ねてしまうこと。
・罪に対してあきらめずに、抵抗し続けること。
・「あきらめない」という愛によって働く神への信仰を守り続けること。忍耐が必要。
(2)まことの自由を守る(ガラテヤ5:1)
“キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。”
・キリスト=神の愛が、まことの自由を得させる(悟らせ、実行できる)ことができる。
・不可能を可能にする神の愛の心に満たすために様々な工夫が必要
・神の寵愛(特別に愛されている)をいつも心に思い、感謝する。
・自制心を伴った高い徳と自由を見出せる。
・神の愛を疑わなければ、真の自由を持つことができる。

(ローマ8:35〜39)
“私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊と見なされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。”
・愛によって働く信仰とは「神の愛から私たちを切り離すものは存在しない」ことを信じ通すこと。
・疑っていたとしても、切り離されていない(最後の審判の時まで)
・神に反する様々な思い、考え、行動に対して、「従わないぞ」と反抗し続ける心をもち続けて抵抗し続けるその力は、私を神の愛から離すものは何一つない」と、神の愛を信じ続けるなら、縛られたように感じても、断ち切ることができる。

7月20日(日)第三聖会にて
『「安息日」について』(出エジプト31:13)
“「あなたはイスラエル人に告げて言え。あなたがたは、必ずわたしの安息を守らなければならない。これは、代々にわたり、わたしとあなたがたとの間のしるし、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、あなたがたが知るためのものである。…」”
(1)安息の語源「終わる、やめる、中止する(終わらせるための休み⇒一息つくの意)、休息する、解放する、安心する」
(2)安息日の始まり(出エジプト20:11)
“それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。”
・神が創造のわざを終え、七日目に休まれたことがお手本。
(3)安息日の位置づけ〜聖なるものとしての位置づけ
 神に属するもの、天的なもの
(4)安息日の目的(出エジプト31:17)
“「これは、永遠に、わたしとイスラエル人との間のしるしである。それは主が六日間に天と地とを造り、七日目に休み、いこわれたからである。」”
 辞書より〜気分を一新して元気を回復すること。
・1つのことを終わらせた区切りに、一息ついて次の段階に移るための
・新鮮さを得る
・神がいこわれたのは、ご計画のみわざの実行が力強く進められるため
(私たちも七日目に休むことは大切なことである)
(5)安息日の必要性※安息がどれほど重要なものであるかを考える
・十戒の一つとして記されているほど必要なことである
・日にちでなく休むことの重要性が書かれている

 

<神を愛する者と安息>(出エジプト31:13)〜みことばは前述〜
安息日は神様と私たちの関係を表す証(つながりを表す)
・神を愛する者のいこいは、他のことは一切やめ、神と共に過ごすこと。
・人は愛する者によって回復を得る。
・神は歴史に刻まれた十字架の犠牲によって、私たちを愛してくださっていることを信じていきながら、神への尊敬、信仰を高めていく。
・安息日が結婚指輪(特定の男性と女性が、神の前に誓い合った相手とのしるし)とすると、礼拝を守ること、(安息日)にこだわるのは、結婚指輪によって、愛している方を自覚できるから。
・私たちを聖別される方を知るためのもの。
・交わりを通して、互いを知っていく。
・神を愛する者が、時間を合わせて共に集まることで、父なる神との霊的コミュニケーションを持つ。
・神と親密に交わるため、安息という特別な日にちを神が設けられた。
・束縛から解放され、愛の憩いを体験するように。
・いこう(愛する者と共に過ごす)という重要なものとして定められた。

7月20日(日)第四聖会にて
『勤勉という安息』(ローマ12:11)
“勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。”
 「勤勉」(ギリシャ語)⇒目的に向かって急ぐ、どうしても完成したい強い意志、真剣・たゆまぬ努力、我先にと一途に成し終えるまで完成目指して進む
聖書の例(マルコ6:25)
“そこで少女はすぐに、大急ぎで王の前に行き、こう言って頼んだ。「今すぐに、バプテスマのヨハネの首を盆に載せていただきとうございます。」”
「望むものを与える」とのヘロデ王の言葉に、「バプテスマのヨハネの首」と願い出た娘が、どのような頼み方をしたか想像する。
(王様に)「大急ぎで、熱心に、早急に、積極的に、意欲的に頼んだ。」
「霊に燃え」⇒霊にあって燃える、沸かす、煮る、炊く、熱くして用いる、霊における闘志、勢い、力、前に進む
聖書の例(使徒18:24〜25)
“さて、アレキサンドリヤの生まれで、雄弁なアポロというユダヤ人がエペソに来た。彼は聖書に通じていた。この人は、主の道の教えを受け、霊に燃えて、イエスのことを正確に語り、また教えていたが、ただヨハネのバプテスマしか知らなかった。”
 アポロは御霊の力に満たされてでなく、感情的闘志によって、みことばによって霊に燃えた人であった。
《主に仕える》とは
・「奴隷になる」捕われている人
・「勤務する」もてなし、奉仕
・「従う」「服従する」「屈服する」
○例(ヨハネ8:33)
“彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる』と言われるのですか。」”
 ユダヤ人のプライドは、今まで神以外誰にも屈服させられたことはない選民であること。
・砕かれてないと屈服できない。
・主に仕える時にプライドをもって仕えることはできない。
「仕える」の性質(マタイ6:24)
“「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」”
・二人の主人に同じように仕えられない。仕えることができるのは 一人の主人だけである。

○間違った仕え方
(1)(ルカ15:29)放蕩息子の兄の姿
“「しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。』」”
・弟は心配してくれている父の愛に気づいたので、屈服して砕かれ、恥を忍んでへりくだって帰ってきた(成功よりも、父の元に帰ってくる愛に、弟息子は目覚めた)
・兄はルールを守っていることがプライドを高くし、屈服する心がなかった。
※仕えるとは、愛に屈服すること
 勝ち負けにこだわるのは、愛がない屈服
(2)(ローマ16:17〜18)
 学んだ教えに背いて、分裂とつまずきを引き起こす実。
“兄弟たち。私はあなたがたに願います。あなたがたの学んだ教えにそむいて、分裂とつまずきを引き起こす人たちを警戒してください。彼らから遠ざかりなさい。そういう人たちは、私たちの主キリストに仕えないで、自分の欲に仕えているのです。彼らは、なめらかなことば、へつらいのことばをもって純朴な人たちの心をだましているのです。”

・互いに愛し合うことを学んだ人がどうして分裂するだろうか。
  良い分裂⇒細胞分裂〜同じ性質の健全なグループを作り出す。
  悪い分裂⇒自分を正しくして他を悪くする
  分派⇒1つになろうとしない、秘密主義
       ⇒自分の欲に仕えていることが特徴
○良い仕え方(使徒20:18〜21)
“彼らが集まって来たとき、パウロはこう言った。「皆さんは、私がアジアに足を踏み入れた最初の日から、私がいつもどんなふうにあなたがたと過ごして来たか、よくご存じです。私は謙遜の限りを尽くし、涙をもって、またユダヤ人の陰謀によりわが身にふりかかる数々の試練の中で、主に仕えました。益になることは、少しもためらわず、あなたがたに知らせました。人々の前でも、家々でも、あなたがたを教え、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張したのです。」”
・主に仕えたパウロ⇒神の愛に霊と心が燃えて仕えた
 (ひとり子キリストの贖いのみわざにより、神が願われた全世界の人の救いのために仕えた。)
・主人の願いを汲み取れるのがよいしもべ
  主人に長く仕え、主人をよく知る(深いコミュニケーション)必要がある。
 しもべは主人に喜ばれることこそ楽しみ、安心、安息。
 主人を心から敬う愛の関係があるので、仕えることはまるで休みのようになり、疲れない。

 (ローマ12:11)のまとめ
○愛によって働く信仰なくして、(ローマ12:11)は実現しない。
・律法的に(ローマ12:11)を行うと疲れて重荷となり、倒れてしまう。
・「互いに愛し合う」という神の戒めを背負って、イエス様の下で「休ませてあげよう。安息の使い方を教えてあげよう。」とイエス様は言われた。
・イエス様から学んだなら、そのくびきは軽いと言われ、(マタイ11:28〜30)は、(ローマ12:11)につながる。
・イエス様は、クリスチャン生活が、神の愛のみことばが重荷となっている人に「イエス様の下に来るように」と言われている。

○愛によって働くイエス様への尊敬、信頼、信仰によって、熱心さ勤勉さが生まれ、霊に燃え、仕えることができる。このことは、キリストと1つになる愛のこと。この愛がなければ(ローマ12:11)は実現しない。
・神と自分を別々にするクリスチャン生活は疲れてくる。1つになる愛を求める人は、聖霊様の愛によってリフレッシュされ、安息の中で仕えるから、疲れない。

キリストに自分をささげること
・まず神様は私たちと愛を1つにするため、御子を罪人のためにささげてくださっている。後は私たちが神にささげる事が残っている。「礼拝は安息の時」(ローマ12:1)
“そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。”
・霊的な安息とは、神に人生そのものを、生きた供え物として神様の愛と1つになるためにささげよ、ということ。
・からだによって地上のすべての働きがなされている。からだとは人生すべてのことーそれを、神に受け入れられる聖い生きた供え物としてささげるところまで、進んでいけたらいい。
・そのために、神様とのコミュニケーション(交わり)が必要。
・みことばの中にある神の愛の配慮を読み取っていくことによって神とのコミュニケーションが確実に成立していく。

 

 

 

 

■2014年7月13日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛によって義とされる  up 2014.7.13


そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」
彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
(創世記15:5〜6)

 

 

 

 愛によって働く信仰は私たちを神の前に義とすることをみていきたいと思います。
 アブラハムはなぜイスラエルの先祖となったのでしょうか。愛によって働く信仰の始まりとして、神様がアブラハムを選ばれ、その「愛によって働く信仰」を継承する民をイスラエルとされました。もちろんそれまでも「愛によって働く信仰」自体は存在していたのですが、はっきりとことばにして契約のかたちをとったのは、この時が初めてです。旧約時代の人々はすべて、その「愛によって働く信仰」に基づいて歴史を紡いできました。
 アブラハムについて簡単に説明します。アブラハムとサラの夫婦には子どもがありませんでした。他にも子どもに恵まれない夫婦は多くあったでしょうが、神はアブラハムを選ばれました。彼が神様を敬う愛を持った信仰の人だったからです。
 神様はアブラハムを非常にあわれまれ、彼に子孫をお与えになりたいと思われました。アブラハムは死んだも同然の自分のからだを知ってなお、神様があわれみを注いでくださったことを非常に喜び、「子孫を与える」との約束に表されている神様のあわれみを信じました。彼が神様の愛のあわれみを信じた時、神様はアブラハムを義(正しい者)と認められたのです。信仰の中には愛する気持ちが込められています。信仰の動機は愛です。

1.義とされることの大切さ(ガラテヤ3:11)
“ところが、律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる。」のだからです。”

◎『義、正しい』⇒主権者の正しいとする基準に合致していること。
 主権者が誰であるかによって、義の基準は変わります。道徳観によっても変化します。極端な話、首狩り族の男にとっては他部族の首を狩ることは正義であり、多く狩るほど英雄とされます。しかし、私たちの社会ではそれは犯罪であって、狩れば狩るほど重罪人になります。では、全知の主権者である神の義とは何でしょうか。
『主権者である神の義』
「律法に現されている。要約すれば、主なる神を愛し、自分を愛するように隣人を愛することである。更に要約すれば、イエス様が私たちを愛されたように、私たちも互いに愛し合うことである。」
 律法学者に律法で一番大切なことを質問されたイエス様がお答えになったこと。ヨハネも神を愛するとは兄弟を愛することと記しています。
【内容観察】
「ところが、律法を守り行うことによって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。愛によって働く信仰によって神の前に正しいとされる人こそ、本当に生きているのです。」
 律法では99の決まりを守っても、たった1つを破ったら全体を守っていないのと同じになります。人は法律全体を守ることができません。自分だけで一所懸命守ろうとしても、まわりに邪魔されて結果的に守れないこともあります。それでも神様の前に違反であることは間違いないのです。人間は行いによって正しいとされることができません。
 そこで神様は、行いよりもその動機をさらに重要視されました。愛という動機をもって事を進めていく志を持った人を、神様は義と認めてくださいます。では、愛に生きることが私たちにとって正しいと言えるのはなぜでしょうか。
 愛に生きることが、神のかたちに創造された目的に生きることだからです。義とは存在の目的に従っている状態を指します。神様は愛のお方、また義なるお方です。この方の本質は愛であり、愛の現れが義です。十字架は神の愛と共に神の義が表されているのです。
神様は私たちにも、神のかたちに創造された目的に沿って生きることを願われています。神様と愛の交わりを持つことが、私たちを創られた目的です。
 ただし、愛による行動の結果ではなく、愛の動機による行動によって義とされるのが重要なところです。この世の中では、結果で義かどうかを判断しますが、神様は愛の動機による行動を義と認めてくださるお方です。結果が外れていても動機が正しければ、その人は義(正しい)です。存在目的に沿っているとして、神様は認めてくださいます。
 ここで「では結果を出さなくてもいいのか」と考える人は、動機がまちがっています。神様がおっしゃりたいのは「結果も大事だが、動機はもっと大事である」ということなのです。皆さんは「愛のかたち」として創られたのですから、愛に生きること、愛に留まること、愛のうちを歩むという志が、あなたが創られ、存在している理由に沿った状態になります。
 たとえば、互いに愛し合うのはなかなか難しいことですが、しかし現にそのための努力をしている人がいるでしょう。まだ結果が出ていなくても、そういう人は義と認められます。あきらめてしまったら、もうそこに信仰は働きませんが、あきらめなければ、神への信仰は続いているのです。
 アブラハムのように、「現実的には不可能だけれども、約束の通りに子孫を増やしてくださるに違いない。神はそのように私をあわれんでくださったのだ。」と。
 私たちも、正しい結果を十分に出すことができてない今のクリスチャン生活ですが、正しい結果を出すことができるように変えられ成長していくことができると、神様の愛を信じてみことばに従っているわけです。神様を尊ぶという愛のかたちに、皆さんぜひ気づいていただきたいと思います。尊ぶとは、自分の願いよりも、尊んでいる方の願いを優先することです。私たちにとって自分の願いがかなうか否かは大した問題ではありません。見捨てられていたごみのような罪深い私たちを、もう一度神様の愛をもって拾ってくださり、創り変えて尊いことに生かしてくださるという愛のゆえに、今私たちは神様を尊んでいます。
 どうぞ「尊ぶ」という愛を、聖書の中や日常から見い出してください。そうすれば、神様を尊ぶことから親や隣人を尊ぶことへと、尊ぶ愛が広がっていきます。そして皆さんの心が豊かな愛に満たされていきます。

2.『翻邪帰正』(ローマ4:19〜24)
“アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。しかし、「彼の義とみなされた。」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。”

◎『翻邪帰正』(ほんじゃきせい)の意味
 「よこしまな思いを捨てて正しい考え方をすること。」
【内容観察】
「神への愛の信頼ゆえに、自己中心でよこしまな肉の考えを捨てることができたアブラハムの信仰が神の前に義と認められた。私たちも神の愛であるキリストを信じる信仰が義と認められるのである。」
 よこしまな愛は自己中心愛から出ています。自己中心愛は、自分の思い通りに事を進めていきますから、それを止めようとするような力が働くと、よこしまな悪い思いが出てきて、何とかして相手をやっつけてやろうとします。
 正しい考え方は、神を尊ぶきよい良心からの考え方です。クリスチャンはいつも、この自己中心愛ときよい良心からの考え方とが葛藤します。
 アブラハムも同じでした。今週の聖句から実に25年後、アブラハム99歳にしてやっと、「来年サラがあなたに男の子を産む」とのおことばをいただくのですが、彼の妻サラも90を迎える歳です。「なぜもっと早くしてくれなかったのか」と思うのが、自己中心愛から出てくる思いです。「今頃言われても無理。25年前でも無理な話だったのに、百歳とかあり得ない。」と考えるのです。確かに、人間的には完全に不可能な状態です。この自己中心な思いと、神様を尊ぶきよい良心の思いが、アブラハムの中で戦っていました。「その信仰は弱りませんでした」とは、愛によって働く信仰であったことを、皆さん覚えていてください。
 自己暗示のように、呪文のように、「神は与えてくださる」と言い聞かせるのではなく、「神様が25年前に私をあわれんで、あり得ないような約束をしてくださった。神様にとっては私が75だろうが100だろうが関係ない。神様はこの約束を守ってくださる方に違いない。」と、アブラハムは正しい良心によって考えたのです。
 「そんなばかな」という思いと、先ほどの考えとが常にぶつかるのですが、アブラハムは「愛によって働く信仰」を弱らせませんでした。「神が私をあわれんでくださるのであれば、100歳になればもっとあわれんでくださるに違いない。」「神の奇跡と言うには、75では若すぎたのだ。100歳だからこそ、神の愛の力がいかに大きなものであるかを証明できる絶好のチャンスではないか。」と、アブラハムはきよい良心で考えました。
 神様のあわれみに対する信仰をもって、そう考えたのです。彼のこういった愛による捉え方、信仰を継承するのが、イスラエルの人々でした。
 そして今、同じような神への信仰を持つ人々をすべて、神は義と認めてくださいます。イスラエル人だけでなく、その他の人々にも範囲を広げてくださったのです。そこでアブラハムは「信仰の父」と呼ばれるようになりました。アブラハムに習い、愛によって働く信仰を持つすべての人の父です。
 「私は特別に神から愛されている。だから子どもが生めない状態の中で子どもを与えると、神様はあわれんでくださったのだ。私はその愛を信じよう。」とアブラハムは決心したのです。この決心こそが、「きよい良心をもって信じる」こと、すなわち、神を畏れ敬う心をもって信じるということです。愛と信仰とを、これからもぜひ結び合わせて考えていただきたいと思います。
 アブラハムの信仰に習う私たちも義とされると、24節には書かれています。アブラハムと同じく、私たちも特別に愛されていることを、福音によって知りました。
 ではアブラハムがなぜ選ばれたのでしょうか?神様の愛を信じる心が彼にあったからです。
 私たちも、全世界の罪人の中から、神様の愛に心動かされた者としてここに来ました。反対に言えば、特別に愛されているにも関わらず、心動かされない人が数多くいることになります。
 イエス・キリストの死と葬りと復活が神の愛から出たことであると信じること。私たちが十字架を信じると言う時はイエス様を信じるという意味であり、イエス・キリストの私たちへの愛を信じるという意味でもあります。これに気づくことが大事です。気づいた時というのはきよい良心によって応えている時なのです。良心がきよめられた応答ができない間は、クリスチャンになる決心ができません。
 洗礼は、正しい良心による神への誓いであり、神様の愛に反応する心からの神様への愛の誓い、応答です。愛の動機なしに正しい信仰は働きません。自己中心愛から神中心愛に変わっていくポイントは、十字架に現された神様の愛に心動かされていくことです。神様の愛に対する約束を信じて「翻邪帰正」していくことを心がけましょう。
アブラハムは心を入れ替えました。よこしまな心を捨て、正しい良心を選びました。だから彼の信仰は弱らなかったのです。私たちも、十字架に現された神の愛を信じて邪念を取り去り、愛ゆえに神の約束を信じ続けるという、愛を動機にした神への信頼を持ち続けます。これが人間にとって正しい健全な状態です。
 私たちはいつも、よこしまな心と葛藤します。しかし葛藤がないのは神様を全く信じていないか、100%信じ切っている人かのどちらかです。イエス様は完全な信仰を持った方で、よこしまな考えが一切ありませんでした。いつも正しい良心の方にだけ意識を持っておられました。しかし私たちは、まだ愛に対して強く心動かされる体験が少ないので、欲望の方に心が傾くことがままあります。感情に左右されることもあります。そんな時こそ、「翻邪帰正」をするのです。
 自己中心的な状況、いらだちや怒りが強くなってきた時に気づいたら、「悔い改めよう」と心を入れ替えるのです。それが正しいあり方だと、神様はおっしゃいます。愛によって働く信仰が大事なのですが、その「愛」があなたを神の前に正しいと認められるためのポイントです。
義とされることの正しい意味とその基準はどこにあるかということを、あなた自身の心の中でよく吟味し考えながら、聖書のおことばを正しく読み取ってください。できていないからといって悔やむのではなく、その悩みや葛藤がきよい良心の働きのゆえであることを認めましょう。葛藤は義人のしるしです。その悩みがだんだん少なくなっていくことが成長につながっています。どうぞ、くよくよするよこしまな心を捨てて、「それだからこそ、神様の愛は豊かに私に注がれている」と、現実をひっくり返してくださる神様の手腕に期待してください。
 アブラハムは自分の努力では何もできないところまで打ち砕かれました。もはや神様にしかより頼めなかったからこそ、彼の信仰は弱りませんでした。
 窮地に追い込まれている人は幸いです。後は神様の愛を信じるしかないのですから。まだ自分により頼めると思っている人は、その失敗を通してへりくだることができるでしょう。

『あっあそこ 福音の虹 心にも』

 聖書の虹は、神様の約束を意味しています。私たちの内にも神様の約束の虹がかかっています。罪の赦しと永遠のいのちの約束が掲げられていることを、忘れないようにしましょう。

 

 

 

 

■2014年7月6日 日曜礼拝メッセージより(小栗伝道師、横路伝道師)

 愛によって働く信仰  up 2014.7.6


キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。
(ガラテヤ5:6)

 

 

 

《小栗伝道師メッセージ》
 形でなく心の割礼が大切なこと、また罪人を赦してくださっているイエス様の愛をいただいて、心からあふれる行いに至らせる信仰が大切ということです。

1.百人隊長の愛によって働く信仰(マタイ8:5〜13)
“イエスがカペナウムに入られると、ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願して、言った。「主よ。私のしもべが中風で、家に寝ていて、ひどく苦しんでいます。」イエスは彼に言われた。「行って、直してあげよう。」しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします。」イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。」…それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。”
 今回は権威と愛という観点から、百人隊長を通して愛によって働く信仰を考えてみましょう。一個師団六千人はいると言われたローマ軍兵士の、百人ずつに分かれたグループを統括するリーダーが百人隊長です。この箇所から百人隊長の品性、人となりがうかがえます。

○しもべをとても大切にしている
 しもべの一人が中風(脳卒中の後遺症で体がマヒしている)で寝ていて、しかも苦しんで、死にそうになっているのを何とか直してほしいと、隊長自らイエス様に懇願しに行ったのです。(ルカ伝の百人隊長の記述は、人を介している)。
 兵士は体が動けて当然、体がマヒしてしまっては兵士としての働きがなされません。現代の社会では、休養を言い渡されるか交替させられるかです。しかし隊長は、自分のことではなくこのしもべを何とか助けたいと思い、自分が出向くほどにしもべを大切に思っていた、愛していたことがわかります。まるで百匹の羊のうちの迷った一匹を捜しに行くかのようです。

○謙遜
 さてイエス様が「行って直してあげよう。」と言ってくださったのに対して、普通なら喜んでお受けしそうなものですが、隊長の返事は違っていました。「私にはイエス様を私の屋根の下にお入れする資格はありません。」それは、律法から言うならば、神の選びの民であるユダヤ人からとても嫌われていた異邦人の自分のところに、(神様ですが)ユダヤ人であるイエス様が来られるならば、イエス様に迷惑がかかってしまうと考えたのでしょう。
 だいたい「神の前に出る資格」を考えてみたときに、私たち罪人にそのような資格はありません。ふさわしい者ではありません。イエス様が尊い血潮を私たち罪人に流してくださって、十字架で死んでくださったことを信じる人に、神様から資格が与えられるのです。
百人隊長は「ただおことばを下さい。そうすればしもべは直ります。」と答えました。その言葉に続いて「私も権威の下にある者」と自分の立場を謙遜にとらえて説明していますが、百人の兵士を従えているという言葉ではなく、自分自身上官の言葉に従い、また自分の部下も自分の言葉に従う愛の関係にあり、身をもって「権威」の中にいる者として謙遜に語っています。
 「権威」とは、世の中では優れた者として他人を威圧し、自分に従わせる威力を言い、力やお金で命令して人を自分の思い通りに動かすイメージがあります。しかし、真の権威の源は創造主なる神にあります。この神様は愛の神であり、権威は愛から出ています。愛が動機です。
 創世記1章には、何もないところに神様が「光よ、あれ。」と一言発せられたことばから始まって、次々と世界が造り出された出来事が記されています。宇宙万物すべてのものが神のことばに聞き従い、秩序が保たれてきました。人には「地を従え、すべての生き物を支配するように」権威が与えられました。神がお造りになったすべてのものを「非常に良かった。」と言われたように、それぞれの存在価値を認め、相互を生かし合う愛の世界がありました。神の愛の権威で治められている世界は非常に良かったのです。
 ところが、悪魔は支配権を与えられた人に目をつけ、人は悪魔の言葉に惑わされ、罪が入り、世界の秩序が崩れました。存在そのものを生かし合う愛の世界から、力(持ち物)を評価する世界にとって変わりました。現在に至っては、親の子に対する虐待が後を絶たず、DV(ドメスティック・バイオレンス)の例のように伴侶に暴力を振るう事件など、権威の誤った用い方がされ、自分の願望を満たすために利用さえしている例があります。秩序が狂い、神様が本来持っておられた権威が意味をなさなくなってしまいました。

○神様への絶対的信頼、尊敬を持っている
 さて、百人隊長はすべてを支配しておられる神様の権威あるおことばによって、しもべはきっと直ると信じて疑いませんでした。神様の支配は絶対的で、そのことばにはすべてのものが聞き従いますから、と。
 ですから、「その権威ある愛のことばをください。」と言ったのです。「イエス様にできないことは何一つない。愛をもって全てを統治されている、絶対的権威を持っておられる神様が一言言ってくだされば、私の愛するしもべはいやされます。ぜひおことばをください。」と求めた百人隊長の信仰姿勢を「このような信仰をイスラエルのうちの誰にも見たことがない。」とイエス様は評価されました。
 この世の権威は人を支配する力を求めますが、神様の愛の権威は人を覆い、育てます。この神様の愛の権威を表されたのがイエス様です。イエス様はすべてを支配される権威をお持ちなのに、人のかたちをとって地上に来られただけでなく、十字架にかかるという、人から最もさげすまれる刑を自ら受けられました。罪人を救うため、クリスチャンでも自分の罪に気づいていない罪人のため、十字架から下りる権威をお持ちであったにもかかわらず、兵士たちからあざけられても、一番ひどい屈辱的な姿をあらわしても、愛の権威を用いられたのです。罪人を愛し、十字架にかかって死なれました。十字架は神様の愛の権威の象徴とも言えるかもしれません。
 しかし、すべてを従わせ、支配する権威をお持ちのイエス様はよみがえられ、死の力を打ち破る権威があることを実証されました。人に与えられた本来の支配権を取り戻すためです。神様の願われる平和な世界にするために、愛の権威を用いられたのです。
 百人隊長が、自分のためでなくしもべのためにとりなした、そのあわれみの心を神様が喜ばれたと思います。
 私たちも愛する兄弟姉妹、家族のために、窮地に立たされておられる方のために、「あなたのおことばをください。」と権威ある神のことばを求めるならば、この祈りは必ず解決が与えられると信じます。
 この後、イエス様が百人隊長に「神様の権威を絶対的に信頼したあなたのために、あなたが信じたとおりになるように。」とおことばを語られたちょうどその時間、空間を超えて、しもべはいやされたのでした。
 私たちのために語られた権威あるお方のことばは「互いに愛し合いなさい。」です。私たちも、互いを覆い合い、また愛する兄弟姉妹、家族のために、おことばを求める者でありたいですね。

○水野源三氏の詩(まばたきの詩人)
 神様、今日もみことばをください。一つだけでけっこうです。
私の心は小さいですから、たくさんいただいてもあふれてしまい、
もったいないので。
 今週、私たちのたましいを生かす、神の権威あることばを愛する兄弟姉妹、家族のためにも求めてまいりましょう。

《横路伝道師メッセージ》
2.長血の女の愛によって働く信仰 
(マルコ5:34)“ところで、12年の間長血をわずらっている女がいた。この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。イエスもすぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と言われた。そこで弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか。』とおっしゃるのですか。」イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。そこでイエスは彼女にこう言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」”

○どのような愛を働かせたのでしょうか。
 この長血の女は最悪の状況の中にいました。ひどい出血と痛みが12年も続いていたのです。当時は、病は罪から来ると言われ、律法でも長血の人は汚れているとあり、彼女は人々からうとまれ、疎外されておそらく、親族や友人からも見放されたような、さみしい状況にあったのではないかと思います。そして最後の頼みの財産も、医者にだまされて、全財産をつぎ込んでも直らずに、かえって悪くなる一方であったというのです。絶望のどん底の状況でした。
 しかし、彼女はそこであきらめてしまいませんでした。何か助かる方法はないかという気持ちが内にありました。ちょうどそんな時にイエス・キリストがすばらしいいやしと救いのみわざを表しておられるといううわさを聞いたのです。
 イエス様が、幼い子ども、弱い者、貧しい者、病気の者、罪人と言われ、きらわれているすべての人たちのところに行って、優しくその人に触れ、愛して、助けてくださるということを聞いた時に、彼女はこの方に助けていただこうと思ったのです。
 彼女は、イエス様の愛に触れていやされることを切に求めました。他の望みがすべて絶たれていたので、もうイエス様しかないということを知っていました。しかし彼女はその病気のゆえに、汚れた罪人とされ、人前に出ることをはばかる生活を12年間も続けてきたので、イエス様の前に進み出ることはできませんでした。しかし彼女は、イエス様の衣のすそにでも触れたら、恵みをいただいていやされるに違いない、という信仰を持ったのです。
 イエス様のそばに行くということだけでも大変なことでしたが、その愛だけを信じて、残る力を振り絞ってイエス様のところに近づいて行ったのです。

○イエス様の愛にふれた長血の女 
 ところがイエス様のまわりには群衆がひしめいていました。みんなすばらしいイエス様のお顔を見たい、お声を聞きたい、実際にいやされる人の姿を見たいと押し寄せていたのです。
 ですから、このふらふらになっている女性が近づくのはとても困難な状況でした。しかし最後の力を振り絞って、彼女は近づきました。人々には突き倒され、あるいは踏まれたり、はうようにしてイエス様のそばに泣きながら近づいたのだと思います。
もうこれしかないと、最後のいのちをかけた行動でした。
 そして、やっとイエス様の衣のすそに触れた瞬間、驚くべきことが起きました。彼女は電流が全身を走ったような衝撃を受け、神様のいやしの力がイエス様を通して流れて来て、病気の源が枯れて、直ったということがハッキリとわかったのです。奇跡が起きたのです。その時、たくさんの群衆がひしめいていたのに、イエス様は「誰がわたしにさわったのか」と言われました。イエス様には、いやしの力が流れて行ったのがわかっておられたのです。多くの群衆が触れている中で、彼女一人だけに神様のいやしの力が流れていきました。愛を求めて、いのちを振り絞って近づいていったこの女性一人だけが、いやしの恵みを受けたのです。
 私たちも神様の前に礼拝に来ます。この長血の女ほどではないかもしれませんが、いろいろな問題や苦しみの中にいます。しかし私たちも、イエス様に触れなければ、この奇跡を味わうことができません。来て触れるということが大切です。
 イエス様は誰がさわったかを知ろうとされました。彼女はこっそりと帰ることもできましたが、イエス様は個人的に目と目を合わせ、ことばをおかけになりたかったのです。神様は生きておられるので、私たちと人格的な交わりをしたいと願われるのです。
 彼女は隠し通せないと思って、恐れながら進み出て、自分の身に起きたことを告白しました。

○イエス様の長血の女へのことばから
 イエス様はこの時、「あなたの信仰があなたを直したのです。」とまず、彼女のイエス様の愛への信頼に対していやしの力が注がれたことを言われます。信仰とは信頼です。イエス様の愛に信頼して、近づき、触れることを、イエス様は求めておられるのです。
 この女性は病気のいやしと共に、罪の赦しの宣言も受けました。
もう人々から隠れて生活をすることはありません。イエス様は優しく「安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」と、祝福のことばをかけてくださいました。この女性は主に近づき、触れ、告白した時に、イエス様からいやしと保証のことばをいただきました。
 私たちも確かなおことばを聖書からいただく時に、それが私たちの力となり、実現するものとなります。もし彼女が正直に「はい、私です」と進み出ることをしていなければ、このように直接祝福のおことばを聞くことはできなかったかもしれません。この女性のことはなんとその後2千年もの間語り継がれることになったのです。
 私たちはもしかすると、この長血の女のような立場にあるかもしれません。ぼろぼろになって教会に来ている方もおられるでしょう。イエス様に近づいて、霊において触れてほしいと願っておられます。
私たちが神様の前に愛の信頼を持って近づく時に、主の方からいやしの力、解放の力をくださるのです。主がそのようにしたいと願ってくださっています。
 本当に心砕かれてボロボロになった時に、この女性は主に触れました。彼女はひどいめにあわせた医者を恨まず、こういう環境状況に置かれた神を呪わず、ただ、イエス様の愛を求めていきました。その愛の中に救いがあると、イエス様に近づいていきました。
 今週、私たちも、イエス様に近づき、霊によってイエス様に触れ、みことばをいただき、いやしと生きる希望の力をいただくようにしたいものです。