■2014年6月29日 日曜礼拝メッセージより(辻 百合子牧師)

 光の警告  up 2014.6.29


初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。
すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
(ヨハネ1:1〜5)

 

 

 

 今年、私(百合子師)の思いの中に深く焼き付けられた色が黄色です。黄色は、ポジティブ、光輝く実り豊かさを表し、希望に満ち、光、幸福、喜び、躍動のイメージがあります。また明るく、朗らかな印象を与え、相手との心理的な距離感を縮めて、コミュニケーションを円滑にすると言われています。
 あるカメラの宣伝文句の「光はことばだ!光は時に重要なメッセージを伝え、時には私たちの心を震わせる。見慣れた光景が新しく輝き出す。朝の光は始まりと希望のことばだ。」に強く目が留まり、思わず聖書のみことばを思い起こしました。
 みことばにありますように、永遠のいのちのことばを持っておられるお方はイエス様ご自身です。そのことばは人の光であり、私たちに新しい始まりと希望を与え、重要なメッセージを伝えます。この宣伝文句は、さらに「光のことばを一つ一つ丹念に読み取り、心豊かな暮らしに役立てる最先端技術」と続けられており、なるほど信仰生活の中で人の心を豊かにし、生かすのは神のことばであり、そのことばを一つ一つ注意深く読み取るときに、心豊かな人生を送ることができると思わされました。そして「光学技術の進歩で、さらに貢献していきたい。」と結んでいました。
 黄色のイメージは光を表し、言葉をも表します。それを丹念に読み取るということを考えた時に、ことばなる神様が地上に人のかたちをとって来られ、その方の心と思い、言葉が読めるように見える形ではっきり表してくださったのが聖書であり、世界のベストセラー、光の神の愛のメッセージを読むことができるように全世界にプレゼントされました。それをさらに深く読み取り、知っていくことができるように、もう一つのプレゼントとして助け主なる聖霊様を私たちの心に遣わしてくださいました。聖霊様ご自身がみことばに光を当てて、私たちが悟れるようにしてくださったのです。これは「天の霊的光学技術」と言えるのではないでしょうか。
 人の光であるイエス様は私たちの希望であり、光です。人生の暗闇、問題を乗り越える力を主はみことばの中に宿してくださいました。そして、神様のことばは、光のことばであり私たちに希望を与え、私たちの魂を救う力があります。天の御国を相続できるように、私たちを栄光の姿に変え続けてくださるというすばらしい力を、神様はみことばを通して私たちに与えてくださいました。みことばを丹念に読み取れば読み取るほど、悟っていけばいくほど、語られた方の心を知ることができ、その方に近い心の姿を持つことができるようになります。「主のみ教えは完全でたましいを生き返らせ、主のあかしは確かでわきまえのない者を賢くする」ということですね。
 ところで、黄色には、注意を促し警告を与える、というもう一つの面があります。

★光のことば、光の警告を読み取るために
1.心の耕地を開拓する(エレミヤ4:3)
“まことに主は、ユダの人とエルサレムとに、こう仰せられる。「耕地を開拓せよ。いばらの中に種を蒔くな。…」”
A)心の耕地を開拓するとは「心に割礼を受ける」こと。
 イスラエルでは生まれて八日目の男子の体に割礼を施すことによって、神様の民のしるしとしました。旧約聖書には、大切なのは心の割礼だと書かれており、体の割礼は心の割礼を象徴しています。ですから、体に割礼が施されても心に割礼がなければ無意味です。新約聖書においては、心の割礼は水のバプテスマの真理、すなわち肉と霊の分離、正しい良心の神への誓いを表し、正しい良心がしっかりと築かれていくことを表しています。肉の感情で物事を測るのではなく、常に正しい良心に土台を置く必要があります。私たちは水のバプテスマを受け、古き人はキリストとともに死んでいることをいつも知って、新しくされた神とともに生きる希望ある人生を歩んでいることを心に焼き付けていただきたいと思います。
『心の肉の包皮』⇒『かたくなさ』を取り除く。
 そこで、生まれて八日目という新しいうちに、かたくなさを取り除くことが必要です。新しく生まれ変わった人は「変わりたい。」という願いをみな持っています。かたくなさをそのままにしておくと強情に変わり、悔い改める心をなくしてしまいます。傲慢、高ぶった心となり、試練を通っても、汚れは取り除かれず、廃物の銀となってしまいます。かたくなさを持ったまま信仰生活を送ることが問題です。まわりの人に対してでなく、神様に対してもかたくなになっていくとき、信仰生活の大変な問題になります。
 日々悔い改め、取り除く心が必要です。成長を願うならば、光のおことばをいつも受け取り、光が射して示される時に、かたくなさがはっきりしてきます。聖霊様が光を強くされて、自分はないと思っていてもかたくなさが示されてきます。問題を引き起こす悪い根を早く断つことが大事です。そのために正しい良心にしっかり立っていかなければ、石のようなかたくなさは取り除かれません。耕地を耕す戦いを日々していくことが大切です。主の前にひざまずいて祈り、礼拝をささげることが大切です。知らないうちにかたくなさを持ってしまっていることもあります。土台から暴いて取り去らなければ、神様の臨在に触れることはできません。あきらめずに主の御霊を求め続けていく時に、聖霊ご自身が急に心を柔らかくし始めてくださり、私たち自身を変える心にしてくださいます。

B)いばらの中に種を蒔くな⇒いばらや雑草を取り除く(マタイ13:22)
“「また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。」”
 ここでは、種を蒔くなというより、先にいばらや雑草を取り除くように言っています。
(1)『世の心づかい』
〜人間関係の中で傷つけられ、裏をかかれたり、欺かれたりして心が落ち込んだり悩んだり沈んだりすることがあります。人の目を気にして、人を恐れて正しい良心をできなくなることもあります。
(2)『冨の惑わし』
〜街中は富の惑わしにあふれかえっています。
 
 私たちは世の中に置かれているので、これらの影響を受けないことはありません。雑草が生える、つまり影響から逃れられない状況にいます。だから毎日雑草を抜く自己管理が必要です。雑草は早いうちなら抜くのに力はそういりませんし、抜いていけば広がりません。放置すると雑草も成長していきます。ですから、気づいたら、心からいばらや雑草を抜き続けることが大切です。

2.心を洗う(エレミヤ4:14)
“エルサレムよ。救われるために、心を洗って悪を除け。いつまで、あなたの中には邪念が宿っているのか。”
A)「邪念」を洗う。
『邪念』⇒悪意、うたぐり、たくらみ⇒心を汚し続ける
・企みを秘めたよこしまな考え、心の迷いから来る妄想、雑念
根拠なく想像する囚われの心、真実でないものを真実とする考え
 心を洗って救われるために、邪念を取り除いていくことがどんなに大事でしょうか。
B)『忌むべきもの』を洗い除く(エレミヤ4:1)
“イスラエルよ。もし帰るのなら、ーー主の御告げ。ーーわたしのところに帰って来い。もし、あなたが忌むべき物をわたしの前から除くなら、あなたは迷うことはない。”
『偶像礼拝』⇒『貪欲』⇒『魔術』
 神殿にバアル、アシュタロテなどの偶像を持ち込むのは、神様に対して不遜であり、冒涜です。私たちの体は聖霊の宮であり、神様の御霊を宿す神殿です。私たちの心の中の偶像礼拝とは、貪欲という自己中、自己愛であり、それからくる偏見的な物の考え方・見方を表しています。気づかずに心の中で自分が王となっており、人や物を自分の思い通りに感情のまま操ろうとします。人々を操ろうとすることを魔術と言っており、黙示録では外に出されると書かれています。心に暗闇の働きが動くことを許してしまっています。
(第1サムエル15章)ではサムエルがサウル王にこう言っています。
“「…見よ。聞き従うことはいけにえにまさる。まことに背くことは占いの罪。従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。”
 神様は偶像礼拝を嫌われます。私たちの心に宿る貪欲を聖絶し、十字架につけて、古き人はキリストとともに死んだという信仰に立つために、肉と霊を分けて、それらの感情、思い、考えを日々十字架につけることが大切です。

★光からの警告のメッセージとは何か?
1.婚礼の礼服を着けずに開場に入って来た人(マタイ22:8)
“「そのとき、王はしもべたちに言った。『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。どころで、王が客を見ようとしてはいって来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここにはいって来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』と言った。招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」”
(1)神は愛とあわれみと恵みの神
 さらに赦しに満ちた神であることを、このメッセージを通してしっかりと正しく受け取るために知っておくべきことです。
(2)大通りから人々を連れて来る
 最初宴会に招かれた人は、肉の忙しさによって、肉の思いを優先するため神様からの招待を断ってしまった、第一のものを第一としない人たちで、ふさわしくなかったと言われています。そこで大通りからやってきた人たちは、良い人でも悪い人でもとにかく連れてきたわけですから、婚礼の服は用意していません。つまり私たちが罪深い汚れた者であり、かたくなで頑固、どうしようもない者であることを主はご存じです。隠す必要はありません。
(3)ふさわしくない者たちが招かれた
 宴会場に入るにはふさわしくない身なりをしていた私たちが、資格関係なく愛とあわれみと恵みに満ちた王に招かれたということは、王の愛から出たものであり、参加できることは恵み以外の何ものでもありません。初めに断った人々はイスラエル人、大通りから招かれた人々は私たち異邦人を表しています。
 会場に入れるように体を洗い、礼服を準備してくださり、ふさわしい身なりで参加できるようにしてくださったのは、王の大きなあわれみと愛のゆえです。神様は罪人の私たちの罪を赦して天の宴会場に入れるように罪を洗いきよめ、美しい聖なる衣、義の衣を与えてくださいました。義とは神様の目から見て罪がないとされること、神様は、足らないところ喜ばれないところがたくさんある私たち罪人の罪ではなく、義の衣を通して私たちを見られ、義なる者と認めてくださっているのです。尊いイエス様のいのちを犠牲とされ、今私たちが義の衣を着せていただいていることに感謝し続けることが私たちにとっては必要です。
 それだけでなく、光輝く美しい天の衣、聖霊の衣を身にまとわせてくださったのです。これは恵みです。心に割礼を受けて神様のものと証印を押されて着させていただいた衣が、聖霊のバプテスマであり、その輝く美の衣をまとって、主の再臨まで、あるいは地上を去る時まで私たちは歩むことができます。ただへりくだり、感謝し、主のお心を読み取ることによって変えられていくことが、今の私たちにとって大切なことです。
(4)備えられた礼服を着用しないで入って来た
 王である神様の愛と恵み、主が犠牲された尊い血潮を無視してしまっているということです。自分の自由意志によって主から与えられた衣を脱ぎ捨てたのかもしれません。割礼を受ける心を捨て去って、肉のわがままな心のまま歩き続けることは、礼服を着用しないで入って来た状態に匹敵します。汚れた服のまま土足で入り込んで来るのは、神様に対して無礼で不遜で横柄です。
(5)王が理由を問う
 後から外に放り出されたのを見ると、わざわざ聞かれなくてもよいはずなのに、あわれみ深い主が彼に問われるのは、どうしてかたくななままでいるのか、邪念を取り除かないのかと、着用しなかったわけが何かあったのだろうといつくしみを施されたのです。情けをかけられ、悔い改め、へりくだって礼服を着てくるようにとチャンスをもう一度お与えになったのです。
(6)黙り込む
 かたくなな、悪意に満ちた心が潜んでおり、王の行為を無駄にし、宴会を台無しにする反抗が見てとれます。(王の願いは、彼がもう一度礼服を着させてくださいと願い出て来ることでした。)
(7)外に放り出す
 神様の愛とあわれみを故意に無視し続けた者に対し、もはや神のあわれみは残されていないということです。
そのような警告がメッセージを通して語られています。神様は、私たちがへりくだって悔い改めて、王のすばらしい宴会に出る者になってほしいと願われています。ですから、全部を準備してくださっているのです。自分を反省し、生き方を改めるようにとここで願っておられます。
 主は悪者に「生きよ。」と言われます。悪者に必ず死ぬと言っても、悔い改めて公義に帰るなら「決して死ぬことはない。」と言われるのです。それは悔い改めを通してです。

○まとめ 黄色は希望・光だけでなく、警告を表す色である。みことばなる神は、私たちの心に希望の光を与えるだけでなく、私たち自身が世の光として輝き、世の人々に永遠の希望を示す者となるように。世の終わりが近づいていることを、私たちの生き様を通して人々が知ることができるように、闇の中でも光をますます輝き続けさせるように。その光は、人々に救いの道を示すだけでなく警告も示し、自分も光によって心がきよめられ照らされ、悔い改め、ますます主の御姿まで変化していくようにと語っておられます。
 「わたしは世の光です。わたしに従うものは決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光をもつのです。」とのみことばがあります。私たちはどのように従いますか。へりくだって耕地を開拓し、心に割礼を受けて正しい良心を持って、邪念や忌むべきものを取り除いて、ますますみことばの光に照らされて歩んでいくようにということを、主は今朝私たちに勧めてくださっていると思います。

※辻 秀彦牧師より 
   『みことばと 蛍の光 しみとおる 
       うるわしきかな 慈愛のいやし』
 みことばも蛍の光も、心の中にぐっと入り込んでくる魅力があります。その麗しさ美しさは、私たちに神様の愛によっていやしをもたらしてくださるものです。気に入った愛の言葉だけでなく、警告も愛のいやしの言葉であり、かたくなさをいやしてくださいます。神の愛には甘さだけでなく、力強さと共に厳しさもあることを忘れてはいけないと思います。すべて私たちを健康に導くためです。

 

 

 

 

■2014年6月22日 日曜礼拝メッセージより(横路伝道師、小栗伝道師)

 愛の割礼は救い  up 2014.6.22


見よ。その日が来る。――主の御告げ。――その日、わたしは、すべて包皮に割礼を受けている者を罰する。エジプト、ユダ、エドム、アモン人、モアブ、および荒野の住人でこめかみを刈り上げているすべての者を罰する。すべての国々は無割礼であり、イスラエルの全家も心に割礼を受けていないからだ。
(エレミヤ9:25〜26)

 

 

 

《横路伝道師メッセージ》
1.救いのしるしが心の割礼(エレミヤ9:25〜26)“みことばは前述”
【内容観察】
「このことが必ず起こる。注目して聞け。神の愛を信じない不敬虔な人々がさばかれる時が来る。その時には、からだに神の愛の民としてのしるしを受けていても、心に神の愛の民としてのしるしを受けていないすべての人をわたしは罰する。」
 イスラエルの民は、神から祝福の契約をいただいた民であり、「割礼」という、神がご自身の民として選ばれた契約のしるしを受けているのに、それにふさわしく歩まず、周囲の民と同じ偶像礼拝に走り、神の愛から離れ、神との契約を破った状態となったので、神様はとても悲しまれて、さばきを下すと言われたのです。

◎『割礼』⇒「神がご自身の民として選ばれた契約のしるし。」
 創世記17章に、神がアブラハムとその子孫を祝福し、空の星、海の砂のように増え広がらせる、という約束をされ、その契約のしるしとして割礼を命じられました。
“「…あなたがたの中のすべての男子は割礼を受けなさい。」”(創世記17:10)“「…わたしの契約は、永遠の契約として、あなたがたの肉の上にしるされなければならない。」”(創世記17:13)
 しかし、アブラハムによる奴隷のハガルの子、イシュマエルとその子孫や、中東のその他の主なる神を知らず、偶像礼拝をしている民の間にも、割礼の習慣が広がっていました。
 割礼は男子の包皮に傷をつけるという契約のしるしですが、霊的には私たちの心の中の肉の欲望を切り捨てるという意味もあります。
神様は特別にアブラハムの子孫を選び、割礼の契約を通して祝福しようと願われていたのに、イスラエルの民は偶像礼拝によって、この契約を無効としてしまったのです。神様は、まことの神を愛することを知らない形だけの割礼をしている他の民族と、イスラエルが同じ状態になっていることを悲しまれたのです。
 後に神様はイエス・キリストを地上に遣わされ、水のバプテスマと聖霊のバプテスマを受けることによる新しい契約を結ぶという、神を愛する人々を探して、救い祝福を与えようとご計画されました。
 水のバプテスマを受ける私たちが傷を付けられるのではなく、神の御子であるイエス様が傷を受けられました。そして、私たちに、この十字架の愛の救いを信じる者が救われるという新しい契約を与えてくださったのです。
 バプテスマについては、(第1ペテロ3:21)“…バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。”とあり、十字架の愛とイエス・キリストの復活を信じる、正しい良心による信仰告白こそが「心の割礼」であるとあります。
 「心の割礼」は、私たちの良心をきよめることと関連しています。
 水の洗礼を受けていたとしても、心に“信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。…”(ヘブル11:6)
 さらに信仰があったとしても、“…愛がないなら、何の値うちもありません。”(第1コリント13:2)“キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。”(ガラテヤ5:6)“割礼は取るに足らぬこと、無割礼も取るに足らぬことです。重要なのは神の命令を守ることです。”(第1コリント7:19)
 言い替えるなら、「心の割礼」とは、信仰による神への愛と、愛による従順です。神様の愛に対する応答として、私たちも神を愛し従う心がなければ、無割礼と同じになり、割礼は意味のないものとなるのです。
 また、聖霊のバプテスマを受ける時、主の愛が注がれます。御霊は神の愛そのものですから、私たちの内から働き、良心をきよめてくださるのです。

★良心のきよめについて
 私たちの正しい良心は神に創られた本物ではありますが、私たちの良心は世の中の罪の中で、汚されてしまいます。だから良心のきよめが必要なのです。
 正しい良心がすばらしいものであることは、世界中で証しされています。たとえばネイティブアメリカンのチェロキー族のお話があります。チェロキー族の知恵あるおじいさんが、孫たちを集めて座らせて話を聞かせるのです。
 「孫たちよ。人間の心には、2匹の狼が住んでいるんだ。片方の狼は悪者さ。この狼は怒りと嫉妬、傲慢、怠惰の塊で赦すことを知らない。もう片方は優しい狼だ。この狼の特徴は愛、親切、謙遜、節制だ。この2匹の狼は私たちの心の中でいつも戦っているんだ。」
 聞いていた孫たちのうちの一人が少し考えた後でたずねます。「おじいちゃん、それでどっちの狼が勝つの?」おじいさんはニッコリ笑って答えます。「それはね、お前が餌を与える方だよ。」
 このお話は、「身の回りに起こる出来事によって私たちの心に怒りや嫉妬、傲慢、怠惰な思いが顔を出した時に、それに同意してはいけない。それは悪い心に餌を与えることになるからです。それらを追い出し、神によって本来与えられている正しい良心からの愛、親切、謙遜、節制を行いなさい。」との教訓を与えています。
 なかなか自分自身の力ではうまくいきませんが、十字架の愛と救いを信じ、「心に割礼」を受けたクリスチャンとして、聖霊の力によって良いものを選び、勝利していきたいものです。

《小栗伝道師メッセージ》
 形だけの割礼で中身が伴わない状態について考えてみましょう。
2.『心無割礼』の状況(使徒7:51)
“「かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、父祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。」”

◎「心無割礼」(しんぶかつれい)の意味(造語)
 「心に割礼を受けていないこと。新生のない心。」
 過去はどうであれ、イエス様が血を流しいのちを捨て、すべての罪を処分してくださったことを信じた私たちは、今は神を愛して新しく生きる人生をいただきました。
 新生のない心とは、要するに「ただの人」で、肉の思い中心であり、イエス様が共におられるとは思えないような生き方の人です。
 (使徒7:51)のみことばは、初代教会の最初の殉教者ステパノが、ユダヤ人の指導者たちに偽証されて、議会で弁明している箇所です。そもそも「知恵と御霊によって語っていた」ステパノをねたみ、葬り去る企てがなされました。ステパノは彼らに悔い改めて神様のところに心から戻ってほしいと願い、語ってきた最後のことばです。ユダヤ人は割礼を受けた民という優越感を持っていましたが、心に神様を信じていたかどうか…。
 「心無割礼」の状況は、私たちもイエス様を信じて洗礼を受けても、新しく歩みを始めたつもりが形だけの洗礼になっていないかどうか…。神様の方へ向きを変えて、神を愛する生き方の決意表明の水のバプテスマ(洗礼)は、紅海を渡る出エジプトを表しています。洗礼を受けても心はまだ元のエジプトを愛する状況でないか…吟味しましょう。

【内容観察】
「自分を正しいとする頑固さと、心と耳で聞き分ける良心に神の愛を受け入れたしるしのない人たち。あなたがたは、父祖たちと同様に、いつも愛の御霊に従うことをしないでいるのです。」
★「心無割礼」の状況
○かたくな〜自分の意見を変えない、頑固に守る、意固地
 ⇒神に対する人間の反逆的態度
 ⇒みことばの意味、教訓を悟ることを不可能にする精神的状態。
 自分が正しいと思っているので、人に対してだけでなく神に対しても譲らないので、悔い改めの機会を失います。

○心と耳とに割礼を受けていないこと
 心は思いが生まれるところですが、神様を愛する思いから生まれる言葉ではなく、「心無割礼」の人は肉により頼む心、当然自己中心の言葉が出てきます。普段思い通りになっている時は治められていても、そうでない時に心の中の自己中心の思いがあらわになります。
また耳に割礼を受けてないとは、「原語訳:耳を閉じている(エレミヤ6:10)」ので、自分に心地よいことばや自分の欲を満たす情報は好んで聞きます。しかし、自分のしたいことに対してとどめられると思えば、聞こうとしません。忠告、注意を遠ざけます。
 罪は是正される必要があります。たとえ肉の心は痛んでも、直していかなければならない自己中心の誤りへの指摘を聞かないならば、当然神様から思いが離れ、霊的に危険な状態を思わされます。

○父祖たちと同様(出エジプト16:8)
“モーセはまた言った。「夕方には、主があなたがたに食べる肉を与え、朝には満ち足りるほどパンを与えてくださるのは、あなたがたが主に対してつぶやく、そのつぶやきを主が聞かれたからです。いったい私たちは何なのだろうか。あなたがたのつぶやきは、この私たちに対してではなく、主に対してなのです。」”
 イスラエルの民はエジプトを出て、神様のすばらしいみわざによって紅海を渡りましたが、彼らはエジプトの奴隷状態から救い出されたことを忘れてしまったようです。私たちで言うなら、一度しかない、二度もあるはずがない、いのちをお捨てくださったイエス様の十字架の愛の下に導かれながら、まだ自分の欲が満たされるところに心が戻っていないだろうか、ということになります。
 「心無割礼」の特徴の一つに「つぶやき」があります。民は神様の方に向きを変えて歩んでいたのに、水がない、食べ物がない、肉が食べたいとつぶやき、苦しいところに置かれると「エジプトが良かった」と主に対して言い放ちました。つぶやきはモーセに対してでなく主に対してだと、モーセは語っています。
 さらにモーセが十戒を授けていただくためシナイ山に上っている時に、「私たちは主に従います」と言っていた民は、モーセがなかなか下りてこないのを見るや、金の子牛の像を作り、「これが私たちをエジプトから救い出した神だ。」と言って、拝み、たわむれたとあります。
 民を愛し、紅海を分け、導いて来られた神がおられるのに、自分たちの手で作った金の子牛を神だと言ってのけるのを見られ、神様のお心はどんなに痛まれたことでしょう。しかし幼い子どものような民のつぶやきに、すべて神様は応えておられます。つぶやきは不信仰の言葉です。思い通りにならないとわめく民の姿は、まるで幼い子どものようです。
 また、イスラエルの民は「私たちをここで死なせる気か」と脅し文句を口にし、神の愛のわざであるマナを「飽き飽きした」とも言いました。
 神様のわざをたくさん見ている私たち。神様は真剣に私たちを愛してくださり、その愛を表してくださっています。つぶやきは主への侮りの心の表れ、「死なせる気か」とは「神様、あなたにはできませんね」という不信の言葉です。金の子牛を拝み、つぶやき続ける彼らを見られる神様は、ご自分をおろそかにされる痛み、悲しみを覚えておられるのではないでしょうか。それでも彼らを愛し続けてくださっています。

○「聖霊にいつも逆らっている」
 肉の心に従っているので、「肉の願うことは御霊に逆らい(ガラテヤ5:17より)」とあるように、神の御思いに逆らいます。心の中心は肉が居座っている状態です。しかし神様は、神様への愛を持ち続けてほしいのです。「イスラエルよ、どうしてあなたを見捨てることができようか(ホセア11:8より)」と待っておられます。

【デボーション参考ポイント】
★心の割礼を消し去るものが何かを見極め、どう対処するか?
 自分から主を捨てることとも思われました。「主よ」と言っていても、神を愛することを貫かず、心がいつの間にかエジプトに戻って、自分の肉を喜ばせる生き方を選んでしまうことです。
 「取捨選択」⇒多くの情報(欲を駆り立てさせる)があっても、神を愛する思いを持ち続けるようにしたいです。心の方向は少しずつ、すき(これくらいいいかな)、生温さ(今でなくても…)、おごり、高ぶり(…得たと思っている)によって世の中のものに触れていき、純真さが失われて、いつの間にかエジプト(世)に戻ってはいないでしょうか。
 神様は、私たちの心が世に向いていて(愛していて)、神に敵対する(ヤコブ4:4より)自己愛の状況にある時、まだ神様の方に心が戻っていないのに、無理やりご自分の方に引っ張っていかれることはされないお方です。心が向いていないのに自分の方に来てもらっても、神様は全然嬉しくないのです。
 私たちが心からの愛をもって神を愛していく時、天の御国にまで神様に導かれていくのではないでしょうか。今は神様が私たちに、「向きをもう一度変えてほしい。待っているよ。」と言われている時なのです。「イスラエルよ。もし帰るのなら、わたしのところへ帰って来い。(エレミヤ4:1より)」と。
 選ぶのは私たちです。その神様のお気持ちを考える時に、形だけでなく心から、自分の神を愛している契約のしるしを持ち続けたいです。だから、自分の神様に対する純真な愛を奪う環境(聞くもの見るもの)に無防備になって、いつのまにか世の方へ心を向けてしまい、聖霊様が心の中にいられなくなってしまわれないようにしたいです。
 イエス様の十字架の愛と赦しを知っている私たちにとって、「悔い改め」は、大きなポイントです。ぜひぜひ、心の割礼を消し去るものを、各々お考えになっていただきたいと思います。神様への愛を心に思い続ける時に、肉の意志のコントロールを超えた聖霊の満たしによって、神に敵対する世を愛する欲の誘惑の手を免れるのではないでしょうか。これは積み重ねによると思います。心に割礼を受けた者としての歩みを心がけてまいりましょう。

 

 

 

 

■2014年6月15日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛を知っていることを誇れ  up 2014.6.15


主はこう仰せられる。「知恵ある者は自分の知恵を誇るな。つわものは自分の強さを誇るな。富む者は自分の富を誇るな。誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは主であって、地に恵みと公義と正義を行なう者であり、わたしがこれらのことを喜ぶからだ。――主の御告げ。――
(エレミヤ9:23〜24)

 

 

 

 私たち人間には、何か人に対して誇れるものを持っていて初めて、安心して生活ができるという一面があるのではないでしょうか。
 社会的地位、学歴、経歴、肩書き、様々な資格等の、ある種、選ばれた人々だけが持つもの。あるいは何はなくともお金だけは持っておきたいなど。
 今日のポイントは「罪に気づく」ことと、自分がこの世で自慢できる何かではなく、「神様の愛を誇れるようになろう」ということです。
 誇れるとは、安心できるということでもあります。それほどに神様の愛を知りたいとは思われませんか?
 パウロはキリストを知っていることのすばらしさのゆえに、その他のことを「ふん土(口語訳)」のように思っていると記しています。またそれゆえに、自分の罪深さに気づいて、「私は罪人のかしらです」とも告白しています。
 神様の愛に触れると、不思議な変化が私たちの内に起こります。パウロはユダヤ人の中でもパリサイ人という超エリートでしたが、それを誇るのではなく神様の愛を誇りとして、ヨーロッパへと出て行き、数多くの教会を建てました。
 どんな災難や迫害や苦しみをも乗り越える強さは、彼の内側にあった神の愛への感動から生まれています。
 心に不安があり、消極的で控えめでおっくうな弱い自分を感じておられるなら、ぜひ神様の愛によって強くなってください。神様の愛を知っている喜びを誇れるようなクリスチャン生活を目指していただきたいと思います。

1.人の輝きは『愛』を知っていること(エレミヤ9:23〜24)
                      “みことばは前述”
◎誇る⇒輝く、光をぱっと表す、たたえられる。
【内容観察】
「創造主である愛の神がこう仰せられる。「思慮深い者は自分の知力を誇るな。勇士や権力者は自分の力を誇るな。金持ちは富みや財産を誇るな。誇る者は、ただ、このことを誇れ。万物を創造された主であられる神は、愛の神であると知っていることを。」

 この世は比較して勝った者が誇ります。しかし聖書の言う誇りは「輝き」です。他の人にはない、その人だけが持つすばらしさが「輝き」なのです。それは能力ではなく、人格的なものであり、自慢するものではなく、安心と幸せと充実感に満ちた誇りです。
 たとえるなら、他の人が100点満点を取った中で自分一人99点でも「初めて99点とれた、うれしい!」と喜ぶことができるもの、あなたらしい「輝き」なのです。これなら誰とも比べ合いませんから、安心することができますね。
 クリスチャン同士でさえ、立派なクリスチャン像などの条件をつけた途端、人と自分を比べてがっかりすることはよくあります。しかし、有名な伝道者の本を読んでも、その人と自分は違う存在なのです。あなたにはあなたにしかできない証があります。神様は一人一人にそれぞれのすばらしさをお与えになっています。それを引き出し、それを見分けることができるのが「愛」です。「愛」があれば、その人のすばらしさを見つけることができるのです。
 この世での誇りは比較してのものであり、表面的なものでしかありません。しかし、この場に集っておられる皆さんは、それぞれ違うすばらしさを持って輝いているのです。この輝きは人を魅きつける魅力的なものです。「私の魅力に気づけない人は、神様の愛を知らないのだ」と思ってもいいでしょう。
 もし自分でもわからないと思われるなら、もっと神様の愛を知ってください。自分に与えられている神様からの賜物、神の子としての魅力的なものに気づくことが「自分を愛する」ことです。
 自分を愛することができたなら、周りの人のすばらしさにも気づくことができます。これが、「自分を愛するように隣人を愛する」ことです。
 すべては神の愛を知ることから始まります。自分の内に眠るものを、もっと輝かせましょう。神様の愛のすばらしさに気づいた人は、「神様が愛であること」を誇れるようになります。さらに、自分がクリスチャンであることに自信が持てるようになります。能力や持ち物や肩書きによらず、神様の愛というすばらしいものを知ることができた、ということを支えに生きる自信ができてくるのです。
 自分の内に眠っている輝きを引き出すために、神様をもっともっと知ること、神は愛であることをもっと深く理解していくこと、感じ取っていくこと。私たちはそれを目指す途上にあります。どれだけ愛を知っているかと、人と比べ合うのはやめましょう。まずは自分が、神様の愛を少しでも知っていくことが大事です。そうすれば自然と隣人を愛し、隣人を敬う心が生まれてくるのです。
 あなたの内に隠れている神様のかたちが引き出されてきます。神様の愛の誘い水で、あなたの心の深いところにある愛の井戸が汲み上げられてくると言ってもよいくらい、神の愛を知れば、あなたは必ずすばらしい愛の人へと成長していくことができます。

2.『目食耳視』に気づく(エレミヤ2:23)
“「どうしてあなたは、『私は汚れていない。バアルたちには従わなかった』と言えようか。谷の中でのあなたの道を省み、何をしたかを知れ。あなたは、道をあちこち走り回るすばやい雌のらくだ、…」”

【内容観察】
「どうしてあなたは、『私は主を信じている。的外れなことをしてはいない。』と言えようか。この世から孤立することを恐れて何をしたのか思い出してみよ。あなたは、主を畏れることよりも人の目を恐れ、道を行きつ戻りつする、すばやい雌のらくだのようだ。」
 神様の愛を知ることを妨げる問題点が、現代を生きる私たちの中にあります。クリスチャンの本質から離れて、見栄えのいいものや、世間の人が語っていることに心が向いてしまって、クリスチャンとして人としての本質から遠ざかってはいないでしょうか。これから起こりうることでもあるので、参考としても聞いてください。
 エレミヤの時代、イスラエルの人々は神に対する背信が甚だしい状態でした。偶像礼拝の本質は貪欲であり、自分の思い通りになる状態を求めることです。わがままを通し、欲望を神とし、それに従っているということになります。自己中心とわがままは罪の性質です。
ここで注意していただきたいのは、罪の性質とその人本来の性質は違うものだということです。罪はあなたの思考、感情、意志をコントロールしようとします。
 クリスチャンは少なくとも、イエス様を信じて神様の愛によって良心がきよめられて、新しい人生を歩む心が与えられました。以前は何も感じなかった細々とした出来事での心の動きで良心が責められるのは、良心がきよめられた証拠です。きよめられたことに価値を見出すのは、この世の価値観と違っている証拠です。これらのことを通して、「自分はまだ十分ではない」という否定的な見方を捨ててください。
 しかし反対に、世の中の人々の基準に慣れてしまって「罪を感じることは弱いこと」とごまかす生活にならないようにも気をつけましょう。

◎『目食耳視』(もくしょくじし)の意味
「見た目にとらわれ、味よりも外見が豪華な食べ物を選び、世間の評判を気にして服を選ぶこと。衣食の本来の意味を忘れて、ぜいたくな方向に流れて行くこと。」
 料理はおいしく栄養をとるためにあります。見た目だけで、まずくて栄養のないものでは意味がありません。
 私たちも、自分の徳が高められ、神の愛を知ることができるためならば、あなたの能力、力、財産を用いるべきです。あなたの内に神の愛を知ることのために、です。
 この世の基準を優先してしまう私たちの生活習慣が、この四字熟語に引き込まれる原因となりやすいので、気をつけましょう。この世に生きているとついつい世の人々の言葉が心に残って、「私はまだましな方だ」という変な安心感を自分で作り出してしまい、そこからだんだん心の目が見えなくなっていきます。すると愛よりも他のものを求めるようになります。
 このように巧みな誘惑も私たちにもたらされるので、ぜひ気をつけていただきたいと思います。人生の本質(神の愛を知ること)を見失ってしまわないように。「愛がなければすべてはむなしい」と聖書に書かれています。
 たとえば人がその親から独立して自活できるようになった時、自分を育ててくれた親の恩を義務としてとらえて感謝もしないならば、そこに愛はありますか。進化論的に言えば、「老いれば死ぬ」だけであり、世話をする理由はありません。「親を大事にする」ことは、愛を知っている人でなければ理解できません。どんなに年老いて衰えても親を大事にするのは、神の愛を知っているからです。
 「世話が大変」「お金がかかる」と、老齢者の長生きをいやがるのが、ノンクリスチャンの本音でしょう。
 しかし苦労して愛を感じてきた人々は、小さな親切心やすばらしいことに、大きな感謝を感じることができます。愛を知っていると、どんな小さなことにでも感謝と喜びを感じるようになるのです。
 「愛を知って終えることのできる自分の人生は、本当に幸せだった」と言うことのできる人生を、皆さんも目指そうではありませんか。
世の人々は、この「愛を大事にする」ことを、理想であり無理な話だと言います。「それを大事にして何の得がある」というのが本音です。できてないあなたを皮肉る言葉が返ってくるかもしれません。けれど「教会は罪人が行くところであり、今批判された自分のような出来損ないが行くところなのだ」とはっきり言い返しましょう。 自分のような者が行って希望を見い出せるのが教会なのだ、と。「批判するあなたは神様が必要ないほど、とても幸福な人なのですね。私は神様がいなければ生きていけません。」と、誇れるようになりましょう。この世の人々の誇りとは違うことを意識し、比べ合わないようにしましょう。

『世の光 愛の輝き 月下美人』
 夜の間だけきれいに咲く月下美人は、まるで世の光のようです。罪の世界は夜であり、私たち神の子どもたちは闇に輝く光です。
世の光は愛の輝きです。私たちから溢れ出てくる光は、神の愛を知っている喜びと感謝の輝きであり、まるで月下美人の花のようだという意味です。
 あなたの美しさが罪の世において輝くために、神はこの世においておられます。美しいことはすばらしいことです。この神の愛を、皆さん、誇れるようになりましょう。

 

 

 

 

■2014年6月8日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛の力を着せられる  up 2014.6.8


さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。
(ルカ24:49)

 

 

 

 人を倒す、人より勝る力ではなく、人を愛し、人を守る力を神様が私たちに与えてくださるという約束が、聖霊のバプテスマ(満たし)なのです。
 神の愛そのものである聖霊が私たちに注がれると、力を着せられます。それは奪い取るものではなく、与えられるものです。しかも、力の着物を着せられるのです。

1.着せられることと、とどまること
A)着せられる(ルカ24:49)“みことばは前述”
 「上から覆いかぶせられ、包まれること。」
 外套やコート、オーバーは、一番外側から、今着ている服や体を覆い、その人自身を自然環境の変化から守ります。コートなしでスコールにあい、夜露に濡れ続けていては、体が衰弱して旅は続けられません。このコートは分厚く丈夫な布地でできており、その身を守るためには、当時旅人に欠かすことのできない必需品でした。
○守る
★自分の身を守るための力
★愛する者を守るための力〜自分を愛するように隣人を愛する〜
 自分を守る神様の愛のコートがない人は、自分の愛する者さえも守れません。神の愛で自分を守れる人は、その愛で、愛する者をも守ります。その力を神様は着せてくださるのです。プレゼントされるのです。
 とにかく外的なものから守られるため、「力を着せられる」という表現がされます。神様の力、聖霊の力が、私たちを覆い、満たしてくださる神様からのプレゼントなのです。

B)とどまる(ヨハネ15:5)
“「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」”
 都にとどまるの意ではなく、「主の愛にとどまる」の意です。着せられることと、とどまることには共通点があります。まず、枝の支えはぶどうの木にあり、ぶどうの木につながってないと、枝は生きることができません。いのちを内に満たしてくれるのは、ぶどうの木からの栄養分です。私たちのいのち、生き続けるための力はぶどうの木であるイエス様からいただきます。もしぶどうの木から離れてしまったなら、生物学的に生きられないということよりも、人格的に神のかたちに創られた、神の子として生きていけなくなるということです。
 人が人格者として生きていくためには、キリストにつながり、キリストから徳を高められる栄養分である愛をいただくことが必要です。
 また、枝として単にとどまっているだけでは、栄養分を注ぎいのちを注がれている価値がなく、当然、枝として実を結ぶ役割があります。
 だから、ぶどうの木にとどまって枝が生き続けるための力(成長のためのいのち)と、実を結ぶことのできる力をいただくのです。
(ぶどうの木に枝がとどまることによって、必要なものが内に満たされる)

C)まとめ
「外側からは聖霊の力に満たされ、内側からは聖霊のいのちに満たされることは、聖霊にバプテスマ(内も外も浸される)されることである。」
 バプテスマというギリシャ語は、バプテストという、内も外も浸され、しみわたるの意味があります。
 聖霊のバプテスマとは、内なるいのちに満たされること、守るための神の愛の力の着物を着せられること。
 ただ異言を語ることだけでなく、枝としてぶどうの木にとどまっていたら、いのちに満たされ、神の愛に満たされるという、現実的なクリスチャン生活があります。どちらも欠けてはなりません。守りがなければ攻撃され続け、疲れ果ててしまいますし、いのちがなければ、いつか死んでしまいます。
 クリスチャン生活が続かないのは、ぶどうの木にしっかり留まらず、神様の愛の樹液をいただかないからです。キリストにしっかりつながっていれば、愛は人の徳を高めるという神様の愛が内に働きかけて、いのちを満たしてくださいます。
 「神は愛である」という証しのためにも力が必要です。神は力の神、神は愛だからです。力のない愛は役に立たず、愛のない力は無意味です。愛と力は表裏一体、愛していても力がなければ、愛する者を守れません。愛は言葉だけでなく力を伴います。この世にも権威、肉体的力、能力、知的力、経済力…と様々な力があるように、愛にもいろいろな力があります。あなたはどんな力を着せられたいですか。お金では天国に行けません。永遠の神の御国に持って行けるものは、信仰・希望・愛と三つあります。その中で最も優れたものは愛です。愛を求めるなら、信仰も希望も伴ってきます。
 ともかく聖霊に満たされるとは、神様が私たちを神の子としてふさわしい者であることを表す、神様からの愛の力のプレゼント(賜物)です。これを放っておくことはないですね。
 私たちを幸せにする力は愛の力だと、気づいておられますか。愛の力がすべての力を活用する源です。この愛の力を与えてくださるという父の約束が成就したのが、ペンテコステのイスラエル暦の祭りの時で、12弟子と120名が集まっていた時に、神の愛の霊が力強く下って、それから奇跡としるしが起こり始めたのでした。
 私たちも神の愛のために、そのような大きな力が流し出せたならどんなにすばらしいことでしょう。しかし私たちが行き詰まるのは、心構えがきよめられていないからです。自分に栄光を取って、人々に賞賛され、よい気持ちになりたいという肉の欲が隠れているからです。罪人のゆえです。愛の力は存在への確信になりますが、罪人の確信は、傲慢に誘惑されるきっかけになります。よほどへりくだって砕かれていなければ、愛の力を活かしきれません。

2.『判官贔屓』による満たし(第2コリント12:9)
“しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。”

◎『判官贔屓』(ほうがんびいき)の意味
 「弱者や不運な人に同情し味方になること。」
 神様は私たちを判官贔屓され、何の価値もない者に、価値ある神様の愛の力を与えてくださるのです。
 神の愛が見える形でこの世に来られて、神の愛を証されたキリストの力が私をおおうため(着せられるため)の秘訣は「私の弱さを誇る」ことです。これが聖霊に満たされる大事なポイントです。

【内容観察】
「しかし、主は、『あなたへのわたしの愛の恵みは、何一つ欠けたところのないものとして与えている。というのは、わたしのあらゆる力は、あなたの弱さを完全に補ってあまりあるほどの実を結ばせるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストによって私のために用意されている神の力が完全におおうことができるために、むしろ、大いに喜んで私の弱さをさらけ出しましょう。」
 日本文化は恥をかかないようにする習慣があり、つい弱さを隠してしまいます。しかし、弱さを隠すことは、「助けは必要ありません。欠けたところはありません。」と言っているのと同じです。
 神様が私たちに恵みを施されるとは、欠けている部分を満たして一杯にしてくださることです。あと2目盛りで一杯になる人と4目盛りで一杯になる人が、それぞれ一杯にしてもらった時に、いただいた恵みの量を比べて量が少ないと感じた人が、神様から除外されていると錯覚することがあります。
 私たちは、キリストの姿という一律の満たしをいただくのです。「私の恵みはあなたにとって十分」とは、キリストの姿に何目盛り足りませんかということです。神様からいただいた量、奇跡としるしの数を比較する必要もなく、通帳の残高で注がれる恵みに差があると考えてはいけないのです。タラントの違いに文句を言うのではなく、差をわきまえ、いただいたものを十分生かすことが、神様が恵みを与える基準です。
 神様は、弱い人ほど、空っぽの人ほど、能力のない人ほど助けると、このみことばは言っています。神様は弱い者の味方です。強い人でも持っている弱さを助けてくださる神様です。人と比べることなく自分自身をしっかりと神の前に出してください。それがあなたらしく生きる大事なポイントです。
 ではなぜ神様は弱い人の味方なのでしょうか。弱さを認める人は、本当に心砕かれてへりくだった者だからです。弱さの中に、神が共にいてくださいます。弱い人でも強がっている人は、神は共にいてくださいません。ないのに「ある」と言っているわけですから。見栄を張らないようにしましょう。
 創世記に、神は人を「土地のちり」で創られたとあります。なぜ人が土地のちりで創られたのでしょうか。
 本来掃除して捨てるちりは、ゼロで無価値であり、器の中に何の良いものも入っていないのです。神の愛だけに満たされるものです。
堕落した天使ルシファーは、創られたものの中で最も優れており、90%の自分の能力の故に神様の愛が見えなくなって、傲慢になってしまいました。私たちも、神様の恵みを小さく測ると傲慢になってしまいます。気をつけてください。神の恵みと言いながら、この働き、この仕事、この給料は私の能力の結果だと言うことのないように。
無きに等しい自分を卑下し、劣等感に悩まされている人、自信を持ってください。あなたのゼロの器に神の愛が一杯にされる時が、聖霊のバプテスマを受ける時です。心を空っぽにし、「すべて、あなたの愛で心を満たしてください。私には何の誇るところも、才能もありません。私の力はあなたの愛が注がれてこそ生かされます。」と、そうして聖霊に満たされていただきたいと思います。

『神の愛 噴水のごとく ほとばしり』

 異言が出るとは、神の愛に満たされ愛があふれて、御霊が語らせるままに自分の知性を超えて神のことばを語ることです。愛に満たされたという実感が、聖霊の満たしの体験です。言葉に変えられない、いい知れない力が湧いてきて、積極的肯定的思いと考えに満たされ、確信に満ちた力強い平安な思いに満たされ、みことばに対する喜びと希望があふれるわけです。いつもこの状態が保てるように、このような神様の愛の働きかけを求めていきましょう。

 

 

 

 

■2014年6月1日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 さらに主の愛を知る(2)  up 2014.6.1


また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。
(エペソ1:18〜19)

 

 

 

 さらに主の愛を知るための条件として、「心の目がはっきり見えるようになる」とありますね。自動車や飛行機を操縦するためには優れた視力を必要とするように、神様をはっきりと知るためには心の視力が必要です。はっきりと見えれば見えるほど、神様のすばらしさがわかるようになります。
 心の視力は良心がきよめられることによって上がります。主の前に良心がきよめられることをもっと求めて生きましょう。
 今日は、「信じる者に働く神の力」とはどのようなものか、みてまいりたいと思います。

3.信じる者に働く『十全十美』の力を知る
◎『十全十美』(じゅうぜんじゅうび)の意味
 「完全でまったく欠点のないこと。すべてがそろって完全なさま。」

A)土の器の中にある(第2コリント4:7)
“私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。”
【内容観察】
「私たちは、神の栄光を知る知識を輝かす光という宝を、ちりで創られたからだの中に入れているのです。この計り知れない力が神のものであって、人間にはとうてい持つことができないものであることが明らかにされるためです。」

 人としての力ではなく、明らかに神からのものである力が、クリスチャンの行動などを通して表れてくることを指します。イエス様ご自身も、モーセの再来かと人々が話すほど、偉大な奇跡を多く行われました。この奇跡は神ご自身がイエス様を通して行われたものです。私たちの内にも、この偉大な力が入れられています。
 創世記で神が最初に語られたことばは、「光あれ」でした。これは私たちに対しても言われていることばであり、神様の栄光を知る知識を輝かす光なのです。この世は神の栄光を知る知識が隠されている闇の状態です。私たちはこの闇から救い出されただけでなく、光をも内に入れられているのです。見えなかったものが見え、悟れなかったものが悟れるようになる力です。
 神様のことをもっと知ろうと思うなら、この「光を創造する力」がもっと必要です。「もっとあなたの愛を教えてください」「私の薄暗い心にあなたの光を創造してください」と、神様の愛についてもっと求めていただきたいのです。すでにあなたの内にはその力が与えられています。このことを忘れないでください。
 詩篇で「死の陰の谷を歩むことがあっても、私はわざわいを恐れません」と歌ったダビデは、闇の内から光を創造された神の力を知っていたから、恐れずにいられたのです。もしあなたが希望を失っておられるなら、この力を活かしていただけるように、何回もチャレンジしてほしいと思います。

B)復活の力(コロサイ2:12)
“あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。”
 「よみがえり」は、現代社会ではなかなか受け入れられにくいことばです。しかし以前にお話ししたように、法的に考えても、よみがえりには十分な正当性があるのです。
 イエス様は私たちの身代わりとして刑罰をお受けになりました。十字架で死なれ、葬られ、ハデスに行かれて身代わりとして苦しみを負われました。これは罪の償いです。その次に、刑期を終えた罪人が刑務所から出てくるように、イエス様はハデスからよみがえられました。刑の執行は終わったのです。
 ただし、新しい人生を生きるための改心は、私たち自身に委ねられています。心が更正されていることが、刑務所から出てくるための大きなポイントだからです。
 私たちはイエス様が身代わりに完全なさばきを受けてくださって、晴れて刑務所から出てこられた時に、その大きな愛に心動かされて「もう罪を犯さないようにしよう」と心を入れ替える部分だけは、自分でやる必要があるのです。身代わりとなってくださった方に対して、愛の応答をしていくのが私たちのクリスチャン人生です。
 「罪が処分されてラッキー。また何か悪いことをしても大丈夫。」と考えるような人のために、イエス様は苦しまれたのではありません。罪の力のために悪習慣や悲観的思考から離れることができない人々が、心を入れ替えることができるために、十字架の贖いはあるのです。
 イエス様が身代わりに苦しんでくださったほどの愛を知ることが、私たちを罪の奴隷からイエス様の愛の奴隷に変えるのです。これが私たちのよみがえりです。まず、心がよみがえることが必要です。神様の愛の犠牲に対して、深く心をしずめて考えましょう。心がよみがえったら、キリストと共に新しい人生を歩むことができます。このよみがえりは、何度も悔い改めることを通して、「キリストと共によみがえる」体験を重ねていきます。そしてついには、罪に対して完全な勝利をおさめることができるのです。
 こんなに私たちが失敗しても、悔い改める度に受け止めてくださる神様。新しいよみがえりの人生を歩ませてくださる。こんな都合のいい話があるものでしょうか?愛に感動しない限り、心を入れ替えることはできません。クリスチャンはいつも「私の罪のために愛をもって、その永遠の罪をおおってくださった。それを処分してくださった。もう私たちは苦しまなくていい。ただ神様の愛に心動かされて心を入れ替えて、『ではやり直します。』という気持ちを持って取り組んでいけばいい。失敗してもまた心を入れ替えて取り組んでいく。」と、このようによみがえりの日々を送っていくことができる救いを得ています。
 ポイントは心を入れ替えるかどうかです。心を入れ替えなければ、よみがえりは起こりません。罪はそのまま残ってしまいます。心を入れ替える人々のために、イエス・キリストは死んで葬られ、3日目によみがえられました。
 悔い改めはたくさんする方がいいのです。ただし、悔い改めとは「改心すること」であり、「心を入れ替える、心を新たにする」ことが重要なポイントになります。口先だけの悔い改めではなく、決意のこもった改心は、十字架を見上げ、御霊様に心触れられる体験による感動からやってきます。
 悔い改めに対して抵抗のある人は、悔い改めがよみがえりの結果をもたらすことを覚えて、ぜひ一度心から悔い改め、復活にあずかっていただきたいと願います。

C)サタンに勝利する力(ルカ10:19)
“「確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。」”
 私たちの敵は人間ではありません。霊的存在者、闇の世の主権者、悪霊やサタンが私たちの敵です。
 人間の罪の行動の裏には、その人自身のもの以外に、サタンや悪霊の働きもあります。この霊的存在者であるサタンに対して、私たちは勝利する力を与えられています。サタンは元々天使であり、被造物の中で最もすばらしい存在でした。対して、私たち人間は地のちりで創られており、最も低い存在です。人間には、サタンに勝てる能力、力、才能はありません。力のない者が力のある者に勝つための唯一の方法は、さらにすぐれた存在からの権威を授かることです。自分の力ではなく統治者の力を借りて、敵を倒すことができます。
 もし私たちがサタンのように優れた力があったなら、神様の偉大な力を知ることはなかったでしょう。ちりで創られたがゆえに、神様の偉大な力がどのように表されるかを、私たちは身をもって体験することができるのです。
 蛇やサソリは毒を持っています。私たちを神様の愛から引き離して永遠の滅びに追いやろうとするサタンの働きと力を表しています。神様の権威をいただくならば、それを打ち破ることができます。
ただし権威をいただいた者は、権威を濫用してはなりません。それはすべての人の平和のために用いられるべき力です。私たちが互いに愛し合うために、この権威をもって、私たちの間を引き裂こうとする力に打ち勝つべきです。
 たとえば夫婦の仲が悪いなら、その悪しき思いは家庭を崩壊させ、子どもたちを不幸にし、社会の秩序を乱します。神様の権威を用いて、「この夫婦の内に働く離婚の悪しき霊よ、出て行け」と、その力を打ち砕き、夫婦の間の妨げを取り除いていくことにより、私たちのかたくなな心が変えられていきます。悪霊に囚われていた怒りの霊や傲慢の霊が砕かれていきます。そういったことを見ていくことができます。
 多くの人々はこれらのことを知りません。自分の心がかたくなになった時、どうしてこうなったのかがわからないのです。誰かにつつかれると出てくる反抗的で強情な思いは、すでに霊的な束縛と働きがあることを示しています。自分の意志ではないような心の動きが見られる時、それはあなた以外の者があなたの心や感情を捕えてしまって、破壊へと導いている可能性があります。
 そういう時にこそ、神がイエス・キリストを通して、私たちに敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けられていることを思い出してください。目には見えないけれども、結果や状況から考えてみて、心静かに「この悪しき者の働きを、イエス・キリストの御名によって打ち砕く。解放しなさい。退きなさい。」と命じていくという権威を用いたクリスチャン生活の歩み方もあります。

 「闇の中に光を創造する力」「悔い改めによる復活の力」「敵のあらゆる力に打ち勝つ権威の力」、このような3つの大きな力を私たちに与えてくださった神様は、本当に私たちを愛してくださって、私たちを守ろうとしてくださっています。これらのことを知っていくことによって、さらに主の愛、神様の愛を知ることができます。
 今日学んだこれらの力は、これから知っていくものです。これから試していくもの、これは神の約束です。これを与えられているということを、このみことばをちゃんと裏付けにしてやってみてください。チャレンジしてみてください。すぐにはうまくいかないかもしれませんが、やり続けることによって、私たちはだんだんコツをつかみ、学んでいくことができます。
 今まではこのような力を用いていなかったのではないでしょうか?復活のイメージも今までは「もう一度新たにされて、真っ白にされて、一からやり直す」とは違っていたかもしれませんね。今日学んだ心持ちを、悔い改めの時に心に描いて進んでほしいと思っています。
 多くの人は、この世で勝つための力がほしいと願います。しかしこの世は、神様に裁かれると運命が定まっています。永遠に残る神様の御力を手にして、私たちは神様が用意してくださっている、新しい永遠の人生に対する備えを、しっかりとこの世でしていきたいと思うのです。
 この世で私たちの人生が終わりではありません。今は訓練中、与えられた力を用いることができるための訓練の場であると受け止めて、まず失敗してみましょう。そして失敗した理由を分析し考え、工夫していくのです。そこで「正しい良心を持たなければいけないこと」に気づいたなら、どのように神様の前で良心をきよく保つことができるのか、と工夫をしながら、私たちの心は成長していくわけです。そして最後には、「ああ、これが神様の愛なんだ」と感謝できる毎日を送ることができます。

 

 

 

 

■2014年5月25日 日曜礼拝メッセージより(小栗伝道師、横路伝道師)

 さらに主の愛を知る(1)  up 2014.5.25


また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。
(エペソ1:18〜19)

 

 

 

※小栗伝道師メッセージ
 私たちの心の目がはっきり見なければ、自分の判断や人間的な価値判断では、主の愛を知ることは難しいかもしれません。ですから、イエス様の愛の血潮で良心がきよめられて、正しい良心に基づいて主の愛を受け止められるようにしたいですね。

1.神の召しによって与えられる望みを知る(ピリピ3:9)
“キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。”
 望みが見えなくなってくると、やっていることがむなしくなってしまい、がむしゃらに事を進めても次第に疲れてしまいます。
 神の召しによって与えられる望みとは、結論は「神から与えられる義を持つことができる」ということです。

【内容観察】
「父なる神が御子イエスを愛されたように、私たちをも愛してくださるキリストの愛のうちにとどまっていることを認められ、自分を正しい者とするための律法の行いによる義ではなくて、御父と御子の愛を信じる信仰による義、すなわち、神に愛されていることを信じてその愛に答えようと神を愛する神との関係に基づいて、神との愛の絆が結ばれているという義を持つことができる、という測り知れない価値ある望みを知ったからです。」
 召しの意味=人を呼び寄せる、招く、取り寄せる、呼び出して任ずる
 「ラザロよ、出て来なさい」とのイエス様の呼びかけに、墓の中に葬られていた、死んだ状態のラザロは出て来ました。
 死んだ状態とは、私たち罪人が肉にあっては神の前に役に立たないことを意味すると思います。しかしそんな私たちがイエス様に声をかけられ、立ち上がったからこそ、今ここに来ておられるのではないでしょうか。
 信仰を持っていても、波にもまれ、嵐にあって座礁しそうなこともあり、信仰の上がり下がりを経験するものですが、神様は愛を持ってそれを見守り続け、引っ張り続けてくださっています。
私たちは自分のできうる限り、主の愛のうちにとどまることを心から願っています。人間的能力、目に見える状況…でなく、神の愛こそが、圧迫・煩い・不意のできごとを超えて私たちを支え、いのちを与えてくださるものだと実感しておられるのではないでしょうか。まさに神の愛、いのちによって、注がれた愛に目覚めて、主の愛にとどまる決心をなさったのではないでしょうか。

○義には「律法による自分の義」と「神から与えられる義」があります。
 義=正しさ、正しいと見られる、正しい身分
 律法を守ることによって、自分を正しい者とし、自分の正しさを得ようとするのが「律法による自分の義」です。私たち罪人に神様がお与えになった(私たちを)育てるはずの律法を「守る自分はよし、守れない者はよくない」と比較を持ち込み、さらには、できている時は、できていない人を裁き、律法によってまわりを裁く材料にすらしてしまいました。自分の力で守ることができていれば自分を正しいとするわけですから、守れなくなると、この正しさは揺らいできます。
 「大切な君」を著したマックス・ルケード氏が、「神の恵みの手」という著書に描いています。
 父親(神様)から注意を受けていたにも関わらず、従順な長兄(イエス様)以外の4人の息子たちは急流に巻き込まれ、気がついたら見知らぬ土地に流れ着いてしまいました。その内の一人はお父さんに赦してもらうために自分の手で石を積み上げては、上流のお父さんの所まで何とかたどり着こうと努力します。どう考えても到底不可能に違いありませんが、この息子のように、神に近づくために、自分の努力で自分の正しさを得ようとするのが、「律法による義」です。できなければ自分を嘆くなど、自分で自分を価値づけます。
 罪人が本来守り通すことが決してできない律法による自分の義は、罪人にとっては危うく、得られないものではないでしょうか。
 
「神から与えられる義」(ローマ3:24)
“ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。”
 罪人の私たちが、行いによって正しいとされることはありませんが、イエス・キリストを信じることによって神から与えられる義があるのです。
 これまでも何度かこの問いかけをさせていただきましたが、『イエス・キリストは私たちに何をしてくださったのでしょうか?』
 もしかすると無駄になるかもしれないのに、与えたい一心で、罪人に戻ってきてほしいと切実な思いで、父なる神様は罪のない御子イエス様に、私たち罪人の罪を十字架で負わせられることまでしても、罪人を愛されました。
 罪人の私たちは、神様の前に何もできません。信じるだけです。能力に劣ることを感じていてもそれらはまったく問題なく、ただ神様が罪人のためにイエス様をささげてくださったこと、イエス様の十字架はわたしの身代わりだと個人的に信じる人は、神の子として正しいと見ていただけるのです。
 現実には罪を犯す者であっても、私たちに隠れているか否かを問わず、罪・咎・過ち、すべてをイエス様に負わせられました。それを個人的に自分のためだと信じた人は、神様から正しいと見ていただくことができ、正しい者としての身分を持つことができるというのが、私たちの望みです。
 しかし、自分を、神様に近づきたくてもそれすらできない者だと悟らずに、当時のパリサイ人たちは、人前でわざわざ祈りをするなど、良い行いをしようとしました。そんな人目につく行いは、何の役にも立ちません。罪人ができることは信じるだけです。
 神様は今も、それこそ罪人を「帰ってくる」と信じ、召して待ち続けておられます。神様から与えられる義は、神との愛の絆に結ばれている義です。
 私たちは時々、その手を振り払っているかもしれませんが、神様は絶えず手を差し伸べ続けてくださっています。今一度、地上の体が終わるまで共にいてくださいと願います。
 
 旧約時代、まだ律法のない時代にノアは、神様が自分に語られたとおりに箱舟を造りました。それは当時、人間の目から見れば嘲られるほどに、人間の思いをはるかに超えた内容でした。しかし、きっと神様の愛を感じ取っていたノアは、その神様が語られることをさせてくださいと、箱舟を完成させました。
 神様が語られたことを言葉通りに行ったノアの心を、神様は「あなたがわたしの目の前に正しいのを見た」(創世7:1より)と神の義を与えられたと評されました。
 アブラハムも、「あなたの子孫はあの星のようになる」と言われても、現実にはその兆候すらない時に、神の約束を信じました。これを神に義と認められたのです。
 今、私たちに聖書のことばをもって導いてくださる神様が、私たちを正しいとしてくださること、本当に貴重なこととして受け取って参りましょう。

【デボーション参考ポイント】
★神から与えられる望みを持つことが、いかにすばらしいことかを知る。
 神様がわざわざ呼び出してまで、御子イエス・キリストを十字架につけてまで、あなたに語ろうとされている、神様がくださっている望みについて思いを巡らす一週間としていただけたらと思います。 えこひいきなく、すべての人に与えられた「神から与えられる義」受け取るかどうかは、私たちが信じるかどうかにかかっています。

※横路伝道師メッセージ
2.受け継ぐものがいかに栄光に富んでいるかを知る(エペソ1:11)
“私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです。”
【内容観察】
「私たちは神の愛であられるキリストの愛を信じて愛にとどまることによって、神の愛による統治がなされている理想の国を受け継ぐ者ともなっているのです。私たちは、神の愛から出た計画のままをすべて実現される神の愛そのものであられる方の目的に従って、神の愛のうちにすでに予定され決められていたことなのです。」
 
 御国というと天国の様子を思い浮かべます。(黙示録21〜22章)には、壮麗な新しいエルサレムの様子が書いてあります。
○“都には神の栄光があった。その輝きは高価な宝石に似ており、透き通った碧玉のようであった。”(21:11)
○“城壁は碧玉…都は混じりけのないガラスに似た純金…都の城壁の土台石はあらゆる宝石で飾られ…十二の門は十二の真珠…大通りは透き 通ったガラスのような純金…”(21:18〜21)
○“…水晶のように光るいのちの水の川…両岸にはいのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができ…木の葉は諸国の民をいやした。” (22:1)
 また、多くの人々が幻や夢の中で天国の一部を示され本に書いた証を見たことがありますが、それぞれすばらしいものです。(第2コリント12章)には、パウロも第三の天に挙げられ、人間には語ることが許されないほどのすばらしいことばを聞いたとの告白があります。
 しかし天の御国のすばらしさは、その都の美しさもさることながら、その中心におられる主ご自身の麗しさ、慕わしさ、愛の輝きの内にあります。
 私たちは都の美しさに感動するだけでなく、麗しい主の御顔に心と目を留め、満ち足りるのです。美しい音楽が絶え間なく流れ、温かい主の愛に包まれ、主をほめたたえる賛美の歌の中で永遠を過ごすのです。
 先日、私(横路伝)は、韓国の賛美宣教チーム「オンギジャンイ」の12人のメンバーに混じって、夕方のデボーションの時間を一室で共にする機会に恵まれました。その時聖書輪読と祈りの前に、彼らは静かな美しい礼拝曲をアカペラで歌いました。
 わたしはその時のハーモニーと、主の臨在のすばらしさに、まるで天の御国にいる心地を味わいました。
 イエス様ご自身は、天の御国の栄光の詳細は語られませんでしたが、ご自身が天の栄光そのものであられることを、その愛と奇跡のわざをもって示されました。イエス様は言われました。
“「しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。」”(マタイ12:28)
 私は毎週の礼拝の中で、天の御国の一部を味わうことができると思います。みことばを聞き、賛美をもって霊とまことをもって礼拝を捧げる時に、神様の栄光と臨在を体験できるからです。
 また私たちは、御子イエス様の十字架の愛と救いを信じる信仰のゆえに義とされるだけでなく、
“神の子どもとされる特権”が与えられ、神の子とされています。
                     (ヨハネ1:12)
“愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。…”
                     (第2ヨハネ3:2)
 そして、神の御国を受け継ぐ相続人ともされています。
“もし子どもであるなら、相続人でもあります。…” (ローマ8:17)  

“よく聞きなさい。愛する兄弟たち。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束されている御国を相続する者 とされたではありませんか。”(ヤコブ2:5)
“…主は、生まれる前から私を召し、母の胎内にいる時から私の名を呼ばれた。”(イザヤ49:1)とあります。
 さらに私たちは神様のご計画のうちにあらかじめ定められていたというのです!
“神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。”(ローマ8:30)

 天の御国にふさわしくない罪人であった私たちが、測り知れない栄光の御国の相続者としてあらかじめ定められていたとは、何と驚くべき恵みでしょうか。

 

 

 

 

■2014年5月18日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 待ち望んだ愛の神  up 2014.5.18


その日、人は言う。「見よ。この方こそ、私たちが救いを待ち望んだ私たちの神。この方こそ、私たちが待ち望んだ主。その御救いを楽しみ喜ぼう。
(イザヤ25:9)

 

 

 

 主を喜ぶことが力になる理由は、私たちの意識よりも奥にある私たちの霊・魂が、本心からの願いとして待ち望んでいた「愛の神」がおられるというところから来ます。
 
 人間もお互いをよく知り合うことによって、良い関係が生まれてきますが、神様のことも、知れば知るほど、どんな嵐が来ても安心して過ごすことができるようになります。このことをよく悟って、命令としての喜びではなく、自ら喜べるようになっていただけたらと願っています。
 
 測り知れない大きな奥深い愛を持った神様が本当に生きておられ、天地を創られました。私たちが思い描くことのできる最高の神様は、常にイエス様のお姿になります。そのことに心を向けて、「イエス様を信じて良かった。」と言えるような喜びをもっていただきたいのです。

1.私たちが救いを待ち望んだ神(ヘブル2:14〜15)
“そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。”

【内容観察】
「一生涯死の恐怖のうちに私たちを奴隷にしていた、死の力を持つ悪魔を十字架の贖いの死によって滅ぼし、私たちを解放するために、主は私たちと同じ肉体を持ってこの世界に来られました。それは、私たちが罪を宿している血と肉を持っているからです。」

 人が願いを持つと、その願いをかなえてくださるのは神です。しかし、人の願いは内容が自己中心的で主観的なことが多いのです。この場合、神様ではなく自分が中心になっています。「私の思い通りに私を救ってほしい」ということです。
 けれども私たちが信じるイエス様は、「私が思う通りの救い」ではなく(そんなやり方は不可能です)、神様の定められたやり方の救いによって救ってくださいます。私たちはどちらの考え方を持っているのでしょうか?
 
 旧約聖書に出てくるイスラエルの民は、わがままな願いの連続でした。これは人の罪性を示しています。彼らのように自己中心な願いを持つなら、神様に対して期待外れを感じるでしょう。しかし神様は、私たちの奴隷ではありません。自分の願いがかなわないからといって、神様を信じなくなるのは失礼です。
 
 人間にとって共通の願いとは何でしょうか?それは死の恐怖と束縛からの解放です。古来より数多の権力者たちが永遠のいのちを求めてきました。「自分は自由だ」と称する人も、死からは逃れられません。宗教も哲学も、死の存在ゆえに発展してきました。

 イエス様は死後のさばきがあることを証しされ、そこからの救いをお示しになりました。私たちはイエス様の与えてくださった赦しのみわざを受け入れて生きているでしょうか?受け入れたならば、死の恐怖から解放されます。
 
 死んで終わりではない、その後のご計画もあり、すばらしいことが用意されていると知れば、誰もみな「ああ感謝だ」と思うはずですね。そして、こんなすばらしい救いを与えてくださった方の代わりに、その方の願われた人生を歩みたいと考えるのではないでしょうか。神様は、良い歩みができるようにと、私たちを励ましてくださっています。

 この神様のみこころに触れた人は、罪に対して良心のとがめを感じ、悔い改めて心を入れ替えるはずです。愛を感じない人は「何をしても赦される」と自己中心に生き、心を入れ替えることをしません。
「やり直しができる」救いを与えてくださった神様。本当に私たちのことを考え、現在から永遠の未来に至るまでの計画を用意してくださっている方。私たちが神様をどう捉えているかによって、「いつも主にあって喜んで」いられるかどうかが変わってきます。

 ぜひ、死の恐怖にさらされている状態から、平安に移される喜びを味わっていただきたいと願います。

2.待ち望んだ『開雲見日』の主(第1ペテロ2:6)
“なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」”
 「主」は主人、持ち主です。私たちはイエス様を「主」と呼びながら、その実奴隷のように扱っていないかを注意しましょう。

◎『開雲見日』(かいうんけんじつ)の意味
「暗雲を押し開いて再び光明を見いだすこと。また、暗雲が払いのけられて前途に希望が持てるようになること。」
【内容観察】
「しっかりと悟る心を持って聞きなさい。わたしを愛する者たちのために選んだ救いの石、まことの神殿のための土台となる石を据える。彼の愛を信じる者は、思いもつかないほどの希望が与えられる。」

 私たちにとってイエス様は希望の全てです。死の向こうにさえ望みを持たせてくださる方です。この世にだけ望みを持っているなら、目の前の願いがかなうかどうかに一喜一憂してしまうでしょう。でもクリスチャンにとっては、この世の出来事は大したことではありません。神様の前に正しい良心をもって生きることだけが大事なのです。正しい良心のゆえに落ち込むこともあるでしょう。それは良心が働いた結果ですから、大事なことです。
 
 ここで「主は私の希望」と信頼を向けることによって、私たちの心を入れ替えることができます。それができるようにとあわれんでくださる主人であると、神様を信頼しましょう。ただし、それは私たちの思い通りになるという意味ではありません。
 たとえば、人にだまされて借金を背負ったとします。奇跡的にお金が転がり込んで返済することができるようにと祈っても、かなうとは限りません。それは神様の責任ではありません。
 コツコツと借金返済をしながらも、だました人の救いを願う愛の気持ちが起こされてくるのが、神様のお働きです。恨みつらみを抱いて生きるより、よほど幸せな人生を送れると思いませんか?こんな考えを持てるようにしてくださる神様であることを感謝しましょう。

 死からよみがえられたキリストに、失望するところは何一つありません。人類最大の恐怖を克服された唯一の方です。なおかつ、この方は、あなたという一人の取るに足りない人間を選んで、友としてくださった愛のお方です。皆さんそれぞれ自分の身を省みた時、イエス様に友と呼ばれる資格があるかどうか考えてみてください。
イエス様は友であるあなたのために、いのちさえ捨ててくださったのです。こんな主人が他にありましょうか?しかもあなたは罪人なのです。
 「世には良き友も」という聖歌がありますね。この中で「罪人のかしら」と自分を呼んでいます。イエス様はそれをご存じで、あえて選んでくださったのです。

『大輪の みごとな牡丹 歓喜満つ』

 大輪の牡丹を見る時、もし自分が育てたものであれば、いい知れぬ喜びがあるだろうと考えました。
 
 神様に対しても、「こんなすばらしい神様なんだ」と待ち望む心をもって祈り、正しい良心をもってクリスチャン生活を歩んだ後に、期待した通りの方だったのを見て喜びに満ちることができます。

 

 

 

 

■2014年5月11日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛による救いの喜び  up 2014.5.11


いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
(ピリピ4:4)

 

 

 

 主の愛にとどまっていれば、その愛の中で平安な喜びが内に湧き上がってくるものです。しかし、自己中心を通していくと、そういう喜びもなくなり、心が騒いでいろいろな怒りやいらだちがやってくるのではないでしょうか。愛の救いの喜びのうちに、私たちの魂を安らぎのなかに持ち続けたいものです。
 
 表題のみことばについてですが、くり返して強調されているということは、よほど「喜ぶ」ということが大事なことであり、自分の思い通りだからという自己中心からの主観によって喜ぶというのではなく、「主にあって喜ぶ」こと、つまり自分では好ましくなかったり不幸に感じられたりすることがあっても、主にあって喜ぶことが勧められています。

 クリスチャンが増えていったために、ローマ帝国や社会からクリスチャンたちがねたまれて迫害されていったこの時代に、パウロはピリピの教会に「喜びなさい。」と勧めました。

1.活力の源(ネヘミヤ8:10)
“さらに、ネヘミヤは彼らに言った。「行って、上等な肉を食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。何も用意できなかった者にはごちそうを贈ってやりなさい。きょうは、私たちの主のために聖別された日である。悲しんではならない。あなたがたの力を主が喜ばれるからだ。」”

《新共同訳》
“彼らは更に言った。「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」”

《口語訳》
“そして彼らに言った、「あなたがたは去って、肥えたものを食べ、甘いものを飲みなさい。その備えのないものには分けてやりなさい。この日はわれわれの主の聖なる日です。憂えてはならない。主を喜ぶことはあなたがたの力です。」”

【内容観察】
「律法を聞いて泣き悲しんでいた民にネヘミヤたちは正しく理解できるように解き明かして言った。『主の回復の時がやって来たのだから、喜びなさい。主を喜ぶことは全ての力の源だからです。』」
 
 当時、イスラエルという国は、先祖アブラハム、イサク、ヤコブと神様の祝福を受けました。そのヤコブの時代に大飢きんでエジプトに移動後、400年近くイスラエルは奴隷状態になりましたが、神様に叫び求め、神様が立てた指導者モーセを通して、奴隷状態から解放され、悪かった現地住民を神様が追い出して、イスラエルの民を今のパレスチナに導かれました。
 その後、神様はイスラエルの民の求めに応じて初代の王サウル、ダビデと立て、その子ソロモンの時代、彼が途中神様に従わなくなったためにソロモン没後、国は二分しました。最終的に北王国(イスラエル)はアッシリヤ帝国に、南王国(ユダ)はバビロン帝国に滅ぼされ、国がなくなるという運命をたどりました。
 
 ユダ王国の民はバビロン王国に「罪のために70年懲らしめ(捕囚)」された後、神様は約束通り、それまでの罪を全部処分して、彼らを約束の地に戻すようにされました。それも彼らから出たことではなく、当時支配していたペルシャ帝国のクロス王が神様から啓示を受け、彼らを援助して帰し、神殿を再建せよとの勅令を出しました。こうして帰還したイスラエルの民が神殿再建にあたった時の話です。
 
 神殿再建の前に城壁が完成し、イスラエルに定められた三代祭りの一つ、第7の月になされる仮庵の祭りの時に、ネヘミヤは民を集め、神の律法を読み聞かせました。それを聞いた民は、今の自分たちは律法にそぐわない状態にあり、また裁かれるかもしれない、未来はないと悲しみました。
 
 そこで、ネヘミヤが再度、アブラハムを通して与えた祝福がこれからあなたがたに注がれるという、未来に希望をもたらす受け止め方をするようにと律法から理解するように解き明かしたことを、民が理解したときに語った言葉です。

○「主を喜び祝うこと」なぜ律法を聞いて、主を喜び祝えるのか
 まず律法を正しく理解することが大切であり、そのためには「神は愛」という解き明かしの基本を忘れてはいけません。聖書を書かれた愛の神は、すべての人の幸いのためにルール(律法)を作られたということです。
 
 イスラエルの民は、最初神は愛ということがわからず、律法だけを聞いて、違反している自分がまた裁かれてしまうと自分の罪の状態を悲しみました。しかし、ネヘミヤは今は悲しむ時ではなく、愛なる神は、神を敬う正しい人が幸せに生きるための社会ルールとしてモーセの律法を作られたのであり、違反する者は当然罪を裁かれても、決して滅ぼすためにルールをお作りになったのではなく、更生(改心)させて再度皆と一緒に平和な社会に協調できるようにされたのだと、神様の動機から説明していきました、

○悲しみが喜びに変えられたのは、律法を通して神が愛であること を理解したからである。
 
 神を敬わず欲望に従った結果としての70年の罪のさばきが終わったということです。さばきを受けた人は、罪が赦されて取り除かれています。

 ネヘミヤは民に、「バビロン捕囚から帰って来たことは罪が全部処分されてもう一度神の律法のもとにやり直すためです。ここに来ていることは感謝であり、神のすばらしい恵みだから喜びなさい。」と解き明かしたので、民は「過去は処分されて、神がモーセに語った律法に従ってもう一度やり直したらいい。」と希望に満ちた思いが与えられ、「主よありがとうございます。再建していきます。」と悲しみから一転、喜びにあふれた思いに変えられたのです。
 
 活力の源を今の私たちに当てはめるならば、イエス・キリストは私たちの罪を赦すために身代わりに十字架で苦しみを受けられ、刑を受けられ、三日間よみに下られ、私たちの全てのさばきを終えて、私たちの罪が完全に処分しきったことを表すために、よみがえってきてくださいました。だから、私たちも自分の罪深さに悲しんで終わるのではなく、十字架で私の罪を負って完全に処分してくださったイエス様に感謝し、改心してもう一度やり直しますと喜ばしい救いの中に、天の父なる神様がイエス様を通して導いてくださったことを感謝します。
 
 私たちの罪を処分してくださった救いを与えてくださった神様は、イエス様しかおられません。地上に立派な教えはたくさんあります。しかし悟りで人は救われず、悟っても犯した罪は赦されず、その罪は裁かれなければなりません。犯した罪を償うというさばきを受けてこそ、罪は消えます。

 私たちが二度とやり直しができないような滅びに行ってしまわないように、罪なき神の子イエス・キリストは身代わりにそれを負ってくださいました。イエス様には罪がなかったからこそ、私たちでは出て来れないような終身刑から出てこられました。罪のない方が罪人の代わりに罰を受け続けることは正しいさばきではありません。 神の子の罪なき血潮は、人類の終身刑のさばきを受けても余りある尊いいのちなのです。だから、よみがえられたのです。創造者であるイエス様が、私たち被造物を愛して代わりに苦しみを受けてくださり、しかも終身刑のままでおられることがふさわしくないのは当然です。それくらいに神のいのちは尊く力強いものです。
 
 罪人を赦し、やり直せるようにする価値あるいのちを私たちのために差し出して、三日間よみで苦しみをお受けになることによって私たちの罪が赦されるほどの尊いいのちを犠牲にされたという、ここに私たちのいのちと神様のいのちの価値の差があるわけです。

 私たちが今与えられているいのちは、私たち何億人以上のいのちをあがなうことができるほど尊いものです。少なくとも、罪なき神が、罪人というレッテルを貼られて三日間でもよみに下られることは、神の正しい自尊心を傷つけます。それをもいとわず、あえて受け止めて私たちを救うために私たちを愛してプライドを捨てて、三日間よみでその苦しみに甘んじてくださったのです。
 
 だから、私たちは主を喜ぶのです。活力の源です。ここまで愛してくださった主を忘れないようにしましょう。毎週日曜日、お祝いしてもおかしくないはずです。

2.『喜躍抃舞』することが安全(ピリピ3:1)
“最後に、私の兄弟たち。主にあって喜びなさい。前と同じことを書きますが、これは、私には煩わしいことではなく、あなたがたの安全のためにもなることです。”
◎『喜躍抃舞』(きやくべんぶ)の意味
 「喜びのあまり手を打って舞うこと。
 喜びきわまって身の置きどころのない形容。」

【内容観察】
「くどいようですが、あなたがたにもう一度言いますが、主にあって喜びなさい。なぜこのように強く勧めるのかというと、信仰の破船に会うことのないためです。」
 
 安全とは、安全に人生の船出をして、航行して目的地に着くことです。嵐にあっても安全に乗り越えていくために主にあって喜びなさいと、安全な人生の歩み方の秘訣をパウロは紹介しています。ここでも、主にあって喜ぶことをくどく勧めています。

○主にあって喜ぶことと正しい良心とは関連している。
 正しい良心がないと、主にあって喜び続けることはできません。主にあって喜ぶことは、良心がきよめられて正しい状態にあるということです。パウロはテモテへの手紙の中で「正しい良心を捨てて信仰の破船にあった者たちがいる。」と書かれているように、安全は破船にあわない意味です。安全運転のクリスチャン生活は、喜ぶことです。

○霊的安全な生活の秘訣は、喜躍抃舞の意味が持っている喜び
 喜びは否定的、悲観的思いを壊していく力があります。キリストのあがないの力を喜んでください。賛美を通して、喜びを表現していただきたいと思います。

○神様の愛によって良心がきよめられて、いつまでも霊的安全な生 活ができる(ヘブル9:14)
“まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。”
 
 キリストの愛の血潮に触れると良心がきよめられ、鈍っていた良心が敏感に健康になり、善悪を正しく判断するようになります。また悪を行っても悔い改めへと心を変えられていきます。

○罪の赦しを実現された方を喜び祝い、いつまでも変わらない愛の ゆえに、喜躍抃舞する
 主にあってとは、主が私を愛して罪のあがないを完成させてくださった、もう私は罪赦されて改心してもう一度やり直すことができるということです。
 
 神の愛に触れられた人は、良心がきよめられ、死んだ行いから離れます。愛に触れられない人は良心がきよめられておらず、罪の赦しを表面的にしかとらえない愚かな人は、好きなことをしてかまわないと言います。神の愛に触れられて良心がきよめられなければ、本当の救いに至りません。神を畏れない、愚かな人は神の愛をなおざりにしてしまいます。この世界も、不道徳が認められるほどに傾いています。残念なことです。私たちも惑わされないように、神の愛によってきよめられた正しい良心をしっかり保って、いつも主にあって喜びましょう。
     
    『ほととぎす 神の愛への 讃歌かな』

 

 

 

 

■2014年5月4日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛はまことの食物  up 2014.5.4


わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。
(ヨハネ6:55)

 

 

 

 ここで言う食物とは、もちろん霊的なものを指しています。私たちの身体の健康は、何を摂取するかによって変わってきます。
 内なる健康も同じです。欲望にとらわれ、内なる魂の健康をなおざりにしていると、だんだん人格的にも道徳的にも低下していきます。罪に対してマヒしてしまうのです。ですから、私たちにも内なる食物が必要です。ぜひ実践してまいりましょう。

1.『質実剛健』を作る食物(エレミヤ15:16)
“私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ。私にはあなたの名がつけられているからです。”

◎『質実剛健』(しつじつごうけん)の意味
 「飾り気がなくまじめで心身とも健康であること。」
 エレミヤは神様から任命された真の預言者でした。当時のイスラエルは堕落しており、偽の預言者たちが支配者や民に耳障りのいいうそを語る中で、彼はただ一人「欲望を捨てよ。自己中心をくだけ。」と神様からのおことばを正確に伝え続けました。神の裁きが来る前に悔い改めよとの神様からの警告はしかし、目の前に危機が見えていないイスラエルには受け入れられず、エレミヤは嫌な預言者として嫌われ、しいたげられ、迫害されました。
 そして、弱り切ったエレミヤが食べたのは、主のみことばでした。私たちにも元気の出る食物が必要です。

【内容観察】
「人々からそしりを受けて弱っている私は、創造主であり愛の神である方のみことばを見つけ出し、そのみことばを食物のように私の心で食べました。それによって主なる神のみことばは、私にとって食味をするときのように楽しみとなり、元気を取り戻す喜びとなりました。万軍の神、主よ、私があなたのものであることのしるしとして、あなたの名がつけられているからです。」

 人が自分の持ち物にしるしをつけるように、エレミヤには主の名が記されていました。その証拠が、みことばを食べると元気になることだと、エレミヤは気づきました。私たちの霊・魂も、食物をいただかねば疲れ果て、不信仰になってしまいます。疑いや不信仰が尽きないのは、魂が弱っているからです。霊・魂に力をもたらすのは、神様の愛がこもったおことばです。

<参考>(マタイ4:4)
“イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」”
 イエス様が40日間の断食で身体を弱らせておられる時に、悪魔は断食を止めるよう誘惑してきました。しかしイエス様は神のおことばで心を強め、誘惑に打ち勝たれました。不信仰や誘惑に勝利するためには、霊・魂に力が必要です。神のおことばを食物として、私たちは罪に立ち向かいます。体も魂も霊も健康であってこそ、人は生きていると言えるのです。
 ヨハネ伝の最初には、イエス様が体を持って地上に来られた神のみことばであることが記されています。神の愛のみことばである方が、「まことの食物、まことの飲み物」としてご自分を紹介されるのは自然なことです。

(箴言16:24)“親切なことばは蜂蜜、たましいに甘く、骨を健やかにする。”
 古来より蜂蜜は非常に効き目の高い栄養食とされてきました。実際の栄養価の高さも証明されています。その蜂蜜のように、親切なことばには心を強くする力があります。心だけでなく肉体にも、その効果は及びます。親切なことばは愛から出ています。親切な愛のことばは、心身ともに健康をもたらすのです。

(ヤコブ1:21)“ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。”
 救いとは、「非常に悪い環境や危険な状態から、良い環境や安全な状態に移されること」を言います。この世で心が打ちひしがれている時に、神様の愛のおことばが心に食物のようにもたらされて、それをしっかりと受け止めることによって、心の内側の環境がまったく変えられます。神のおことばが救いをもたらしてくださるのです。
心の強い人は、どんな逆境にも立ち向かう力が内から湧いてきます。愛の神のことばは救いです。皆さんもぜひ多くの体験を重ねていただきたいと願います。

2.潤いを与える飲み物(ヨハネ4:13〜14)
“イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」”
 サマリヤのスカルという町で、イエス様が井戸のそばに座って休んでおられた時のことです。誰も表に出ない時間帯なのに、水を汲みに来たサマリヤ人の女性がいました。水汲みは、本来なら朝一番に女性がする仕事です。他人と顔を会わせられない立場の人間ということが推察されます。しかも、ユダヤ人にとってのサマリヤ人は、激しい侮蔑の対象でした。声をかけることさえ恥ずかしい相手です。しかし、その女性にイエス様は声をかけられました。自分で好きなだけ水を飲む力がある成人男性が、こともあろうに異邦人の女性に「水を飲ませてください」と言ったのです。ここの会話は不思議ですね。
 この女性はもう他人と顔を会わせたくないほど、魂が渇き切っていました。イエス様は、ご自分が持っておられる霊的ないのちの水を、彼女に知らせるために来られたのです。

【内容観察】
「肉体に必要なこの水を飲む者はだれでも、また渇いて飲まなければなりません。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、渇いてしまってまた飲まなければならないような水ではありません。なぜなら、わたしが与える水は、その人の霊のうちで泉となり、永遠のいのちへの愛の水が湧き出るからです。」

 この女性は5回も結婚生活に失敗し、今はあきらめた状態で同棲をしていました。変わらぬ愛で愛し続けてくれる夫を得ることは、女性にとって人生の夢でした。愛によって潤される人生が欲しかったのです。しかし、渇きは一時的にしかいやされませんでした。

<参考>
(箴言19:22a)“人の望むものは、人の変わらぬ愛である。”
 このみことばが言っているのは人間的な愛のことですが、人は良い人間関係、変わらぬ愛によってこそ、潤されます。ゆえにそれらを求めます。誰しも渇かない愛を求めているのです。しかし人からは得られないものでもあります。イエス様は渇かない愛をスカルの女性に与えようとされました。

(第1コリント10:4)“みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。”
 荒野での40年間、岩から噴き出した水が、おおよそ200万とも推測される大群衆を養い続けました。モーセが神のいのちで打った岩から噴き出た水です。この岩はイエス・キリストを意味しています。岩は不動であり、砕けることがない固さをもち、家の土台になります。岩なるイエス・キリストが共におられたから、イスラエル人たちは荒野で40年も生き続けることができました。神様からの愛の水に潤されて過ごせたのです。
 エジプトから出てきた人たちはエジプトの水の味を知っており、エジプトの水を期待しました。そして神の岩から噴き出る水に不満を言い、結果として約束の地には入れませんでした。神の岩からほとばしり出た水しか知らない世代が、約束の地に入ることができました。
 「この世的な愛の方が刺激的でおもしろい」「聖書の言う愛はくそまじめでおもしろくない」と感じる人もいるかもしれません。この世の水は欲望を満たすことができます。しかし毎日炭酸飲料やジュースをとっかえひっかえ飲んでいては、体がだめになってしまいます。人には純粋な水が必要なのです。みことばは、私たちの心を潤すことのできる愛です。
 あなたは霊的存在者です。神様の霊は愛です。神様の霊をいただくと、あなたも愛の存在者になるのです。
 道徳的に高い愛、純真できよい愛を考え、ますます高めていけるのは人間だけです。それは愛なる神様に似せて創られたがゆえなのです。動物の持つ愛には純化も堕落もありません。人間の愛だけがそれを持ちます。この愛=霊を飲んで、私たちは潤されます。

(コロサイ3:12)“それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。”
 このみことばにある性質を身につけるためには、まず健康になる必要があります。不健康なままではできません。自己中心であり続ける理由は、本当の自分が愛によって潤され、力を与えられる状態になっていないからです。愛に満ちあふれた時には、赦し合うこともできます。まずはまことの食物、まことの飲み物をきちんと摂取しているかを、ご自分で吟味してみてください。

 以上に挙げたみことばを参考に、霊的食生活を整えていくデボーションを、皆さんの生活に合わせて作り上げてみてください。自分なりのやり方を見つけ出して、健康になる体験を積み上げ、渇いている人たちへの良い導き手になっていただきたいと思います。

<まとめ>
○みことばを食するとは?
 神様のおことばを黙想し、味わうこと。ちなみに他人の言葉や行いも、黙想すると味わい食べることになります。純真なみことばを選んで、食べていきましょう。

○愛を飲むとは?
 丸ごと信じることです。水を口の中でより分けることはできませんね。愛の水は丸ごと飲んで受け入れるものなのです。十字架に現された、私たちの罪のための犠牲。あのみわざの苦しみは私たちへの愛だと、丸ごと信じて「受け入れます。」と飲み込むのです。みことばも同様に受け止め、神様の愛で潤されてまいりましょう。

『目に新緑 霊のいやしは 愛ことば』

 神様のいやしには、情緒的なものだけでなく、法律的な完全さも備わっています。法律的ないやしとは、「手術をして患部を完全に取り除いた」という、健康になるための手順を全部踏んだいやしを指しています。神のことばは生きていて力があるので、私たちをいやすことがおできになるのです。