■2014年4月27日 日曜礼拝メッセージより(横路伝道師、小栗伝道師)
愛にふさわしい生活 up 2014.4.27
ただ、キリストの福音にふさわしく生活しなさい。
(ピリピ1:27)
1.“ただ、キリストの福音にふさわしく生活しなさい”
【横路伝道師メッセージ】
キリストにふさわしい生活と、愛にふさわしい生活を重ね合わせてみていきたいと思います。
キリストの福音とは、イエス様が、神のひとり子であられることと、私たちの罪を全部背負ってくださり、十字架の上で罪の処罰を受けてくださったこと、そして3日目に死人の中からよみがえられたこと。これらのことを、先週学んだように、心で信じ、口で告白することで救われること。これらがキリストの福音です。難行苦行をしてたどり着くものではなく、一方的に神の恵みによって、私たちが信じるその心のゆえに、神様からのプレゼントとして救いが与えられること、これが福音です。私たちはこの良き知らせをとても喜び感謝し、神様を賛美します。
このみことばの脚注には、「御国の民の生活をしなさい」とあります。キリストの福音を聞いて救われた者は天国の民ですから、それにふさわしい生活をしてくださいと言われているのです。
(ピリピ3:20)“けれども、私たちの国籍は天にあります。…”
ふさわしいとは、調和している、釣り合いがとれてぴったりと合っている、ということだと思います。例えば宮中晩餐会に呼ばれたら、それにふさわしい服装を着ることが必要です。天国の価値観の中に生きている私たちは、この地上の価値観で見れば、ふさわしくない生き方をしているかもしれません。世の中の影響ではなく、本来あるべき姿を喜んで、良い知らせの中に生きるようにと聖書は勧めています。
◎何を喜ぶのか
野球のファンやサッカーのサポーターは、そのチームのメンバーと一つの心になっているので、その中でみんなで喜ぶのがふさわしい姿です。しかし、野球やサッカーチームは時々負けます。それに対して私たちのイエス様は、死にさえ打ち勝たれた、負けることのないお方です。だから私たちは、いつも主にあって勝利する生き方ができるので、喜ぶことができるのです。現実には私たちの人生の中では幸せなことばかりではなく、辛いことも悲しいことも、病も経験します。その中で私たちは、御国の民としてどのように生きればいいのでしょうか。
★先日いただいた、「いのちの花が咲いてから」という中澤利江さんというクリスチャンの方の本は、とても励まされる内容でした。この方は7歳の時に、難病である「進行性筋ジストロフィー」という、だんだん身体が動かなくなる病気にかかられました。彼女は高校生の時に洗礼を受けました。しかし、洗礼を受けてからも多くの葛藤があり、どのように解放されたかが書いてあります。
「神様は愛だというのに、なぜ私の病気を治してくれないのか」と叫んだ時、神様はみことばをもって励まされていきます。「神様、お手上げです。こんな人を恨み神様を恨むようなみにくい心を変えられるのは、神様だけです。」と神様に頼り、みことばによって導かれていき、だんだんと変えられていきます。身体は弱っていくのですが、霊は強められて、神様の愛に目覚めていきます。
中澤さんは今は施設に入っておられますが、だんだん病気が進行し、利き手である右手が使えなくなり、左手で物事をするようになりますが、その中でも神様に感謝することを彼女は始めるのです。彼女は、神様のくださる一番の幸いは、健康で元気なことよりも、苦しみや悲しみが少ないことよりも、永遠のいのち、神の平安を受けることである、というところにまで行き着いたのです。病気による苦しみもすべてを働かせて益にし、一番良いものを与えてくださったと、すべてが感謝に変わりました。
彼女は、「人生の最後に主に問われるのは、『あなたがあなたであったか?自分の花を咲かせられたか?』ということですよ」と牧師先生に言われたそうです。彼女はわずかに動く左手の指で電動車を使い、パソコンのマウスを動かし、今は受刑者の人々を手紙で励ます働きをしておられます。ナースコールやマウスを動かすことも、左手でなんとかできるようになったことを感謝し、動かなくなった右手に対してがっかりするのではなく、長い間しびれや痛みに耐えてよくがんばってくれたと、ありがたく思う気持ちへと神様が導いてくださいました。できなくなったことを悲しむのではなく、できることを感謝できるようになられたのです。一番の喜びは、永遠のいのちを与えてくださった恵みを喜ぶことだと書いておられます。
◎いつ喜ぶのか
私たちは、過去の恵みを思い出して感謝するだけでなく、今与えられていること、今の現状を喜ぶことが大切です。神様の恵みがなければ、今の自分はありません。今生きていること、礼拝に来られていること、今与えられているすべてのことを感謝していきたいと思います。
◎花婿の期待は何か
花婿の期待は何でしょうか。きよい、美しい花嫁をもちろん喜びますが、一番喜ぶことは、花嫁が花婿のことを本当に愛して喜んでいることですし、一緒にいることが楽しくて幸せということが何よりも大切であると思います。
同じように神様も、私たちが100点であれこれできる立派なクリスチャンになることよりも、私たちが毎日神様に目を向けて、「神様、あなたを愛しています。一緒にいることが楽しいのです。」と神様を見つめることではないでしょうか。花婿の期待とは、やがて花嫁である教会を迎えてくださるイエス様の期待です。私たちは時には沈んでしまったり、状況を見て悲しむこともありますが、内に聖霊様をいただくなら、その御霊による喜びが、私たちをもう一度回復してくださると思います。
『参考聖句』(ローマ14:17)“なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。”
(ローマ15:13)“どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。”聖霊様が、私たちを喜びと望みにあふれさせると約束してくださっています。(第1ペテロ1:8)には“あなたがたは、栄えに満ちた喜びにおどっています。”とあります。皆さん、過去ではなくて今日、主との交わりを通して、栄えに満ちた喜びにおどるような心を、聖霊様に励まされ、持ちたいと思います。
2.私たちを見ておられ、知ってくださっている神を迎えていますか
<出会っておられますか>
【小栗伝道師メッセージ】
愛にふさわしい生活⇒罪人のために自らいのちを捨ててくださり、やり直しの人生を与えてくださった方(主)の愛に思いを合わせた生活
神様は、神様の目から見られたらふさわしい相手ではない私たち罪人がやり直すことができるようにと、イエス様を地上に遣わされました。私たちは、見た目にもかたちだけは整えることができるかもしれません。しかし、本当に神様と個人的に出会うことの大切さを思わされます。
(出エジプト3:7)
“…「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている…」”
神様は、私たち一人一人を「わたしの民」、ご自分に所属するものだと言ってくださいます。世の中を象徴するエジプトに置かれている私たちは、比較や弱肉強食、成功主義といった世の価値観との相違に葛藤をくり返します。私たちの悩み、心の叫び、痛みを知ってくださっている神様。
黙示録には、イエス様が(心の)戸をたたいておられる記述があります。どんな状態にあろうと、私たちから心の扉を開くなら、イエス様はありのままの私たちの心に入ってきてくださり、食事(交わり)をしてくださいます。まだ心が整っておらず、ふさわしくないと見える、その心に来てくださるのです。イエス様との出会いを決して過去の出来事とされず、今もお会いになっておられるでしょうか。
(ゼパニヤ3:14〜15)“シオンの娘よ。喜び歌え。イスラエルよ。喜び叫べ。エルサレムの娘よ。心の底から、喜び、勝ち誇れ。主はあなたへの宣告を取り除き、主はあなたの敵を追い払われた。イスラエルの王、主は、あなたのただ中におられる…。”
宣告〜罪を犯した私たちは、本来さばきの宣告を受けるはずの者
しかし、イエス様は私たち罪人の身代わりにご自分が流された血潮を父なる神様の前に差し出してくださり、私たちの罪はないものとみなされ、私たちは赦されるのです。
敵〜信仰の歩みを壊そうとしてくる悪魔に対して
イエス様は死を打ち破り、勝利されました。イエス様の血潮によって、信じる私たちは守られています。聖霊のバプテスマは、神様が汚れた罪人の心の内に来てくださるというものです。必ずしも求め続けているとは言い難い私たちの内に神様が来てくださるというのは、ありえないことです。だからこそ、内に来てくださった方を大切にしたいのです。
◎主を尋ね求めていこう
内に来てくださっている主をじっと見つめたことがありますか。動きが早く、クリスチャンと価値観も違う世の中で、クリスチャンはいったいどこで息継ぎをするのでしょうか。主のすばらしさを見出すためには、主ご自身と交わる時間が必要です。そしてイエス様その方と出会われたからこその喜び、感激、価値観の変化…があり、感謝の心も溢れてくるのではないでしょうか。
☆主の前に力の限り踊ったダビデ
ダビデは、主の契約の箱を自分たちのところに迎えられることを、本当にとび上がって喜び、力の限り踊りました。私たちはこの喜びを、決して過去だけのものとしたくありません。この喜びは現象によらず、現実に喜べる状況があったからというものではありません。内側から湧き上がってくるもので、計算できません。ただ人によっては、外に一歩出ると、その湧き上がってきたものを抑えてしまうかもしれません。
●ミカルの心
主が来てくださることを、主の前に心から喜び踊るダビデの喜びの姿を、妻ミカルは窓から見下ろして、高慢にも見下したのです。
主よりも人を気遣うと喜びが失せたり、半減したりします。またその喜びを理解することもできないでしょう。常識として人を気遣うことは必要ですが、それによって主を喜ぶことを抑えるのはマイナスです。喜ぶ時には、主の前に喜びを表したいですね。なぜなら、ふさわしくない者のところに来てくださったのですから。
◎喜びを奪い去る肉の働き(創世記26:18〜22)
“イサクは、彼の父アブラハムの時代に掘ってあった井戸を、再び掘った。それらはペリシテ人がアブラハムの死後、ふさいでいたものである。イサクは、父がそれらにつけていた名と同じ名をそれらにつけた。イサクのしもべたちが谷間を掘っているとき、そこに湧き水の出る井戸を見つけた。ところがゲラルの羊飼いたちは「この水はわれわれのものだ」と言って、イサクの羊飼いたちと争った。それで、イサクはその井戸の名をエセクと呼んだ。それは彼らがイサクと争ったからである。しもべたちは、もう一つの井戸を掘った。ところが、それについても彼らが争ったので、その名をシテナと呼んだ。イサクはそこから移って、ほかの井戸を掘った。その井戸については争いがなかったので、その名をレホボテと呼んだ。そして彼は言った。「今や、主は私たちに広い所を与えて、私たちがこの地に増えるようにしてくださった。」”
ここで語られている水は、人も含め、家畜のためにも欠かすことのできない、いのちを支える大切なものです。知識にとどまらない、愛ともいのちとも言えるものが水でした。知識としてでなく、神様からいただくものといってよいと思います。
アブラハムの時代、肉を表し敵の存在であるペリシテ人は、すべての井戸に土を満たして防いだとあります。土は地を表し、世を表すと思われますが、せっかく喜びがあふれ、神への期待があふれ、神についていこうと決心しても、ことごとくつぶされたわけです。
息子のイサクの代になって、それを掘っていったのですが、湧き出る水を見つけたにも関わらず、すかさず敵がやってきて、自分たちのものだと言い張ります。祝福されていたイサクがこれ以上祝福されてなるものか、と。
●争い(エセク)
イサクの祝福を喜ばない敵は喜びの出所を変え、見えるものによって喜ぶように仕向けてくるということです。本来ならば主がおられることだけで喜びにあふれていたはずが、世の価値がもたらされ、心配、不安、恐れ…が持ち込まれると喜びは吹っ飛んでしまいます。
●敵意(シテナ)
敵は要するに、神の民が喜ぶ姿を見たくないわけです。何とかして言葉、思いを持ち込んで喜びを奪い取ってきます。
◎あきらめずに井戸を掘りに行ったイサクの姿勢
イサクは心を知っておられる神様が、次も必ず与えてくださるという期待を、持ち続けていたのです。実際に井戸が見つかるまでに、時間を要し、忍耐も要求されたはずです。自分の考え、思いを捨てて、へりくだって掘り続けるところには敵はやってこなかったのです。このイサクの心の姿勢を学びたいと思います。今、喜びを探す時間が必要です。神の前に出るべく、みことば、祈り、賛美…ふさわしくない私にいのちを与えてやり直しの人生をくださった神様を内に迎えられて感謝します、と。
◎「しかし、もしそうでなくても…」に導かれる心へ(ダニエル3章)
王様が立てた金の像を拝まなければ、燃える火の炉に投げ込まれることを承知で、捕囚の三人の若者は、主への信仰姿勢を貫き、このことばを語りました。命を捨てるようなことがあったとしても、決して金の像を拝みはしません、と言い切った三人の若者の信仰姿勢に、神はお応えになり、炉に入れられても彼らは燃えることは一切ありませんでした。彼らのこの神への姿勢は、私たちも目指したいところですね。
ふさわしくない私たちを選んでくださり、必ず導いてくださる神様についていきたいと心から思います。
■2014年4月20日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
すべてを期待する愛 up 2014.4.20
なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
(ローマ10:9)
イエスさまが死者の中からよみがえられたと信じるのは、口で単にイエスは主と告白するよりも難しいものです。なぜなら、信じるには、心が動かされないと無理だからです。
死人がよみがえるとどうして信じられるでしょうか。クリスチャンでない人々にとっては、ありえないことです。どうして信じられないことが信じられるようになるのでしょうか。例え目の前で死人がよみがえっても、信じられないという人は信じないでしょう。
今アフリカのタンザニアで何百人という死者がよみがえっています。それを、日本の牧師や信徒の人々がわざわざ見に行ってますが、タンザニアだからよみがえるのだと、変に納得して帰る人もいるようです。
理屈によらないで、復活をどこまで真剣に信じられるでしょうか。これがクリスチャン最大の難関とも言えます。信じ切ることができるなら、もっと多くの御業が見られるようになるはずです。
イエス様が私たちのすべての罪を背負い、十字架の死のみならず、よみにまで下られたのは、私たちへの愛に他なりません。
このすべてを捨てられた愛に対して、私たちはすべてを期待する愛で応えるしかないのではないでしょうか。
1.主題聖句より(ローマ10:9)
【内容観察】
神の愛であるイエスがあなたの人生の主であると告白する生活を過ごし、あなたを愛してあなたの罪を贖うために死なれただけでなく、あなたが神の子として新しい人生を過ごすことが認められた証明として神がイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと神の愛に期待するなら、神の愛に応えたあなたの神への期待の愛ゆえに、神はあなたを神の子として受け入れ永遠のいのちへと導いてくださるのです。
私たちは十字架の死はよく意識しますが、復活に関してはそれほど身近に意識していません。なぜなら復活はこれ以上ない奇跡だからです。どうして復活が大事なのかを、今日は見ていきたいと思います。その前に「期待」とは何でしょうか。
★ 「期待」とは神への信仰である
神を信じるとは、神に期待することでもあります。不可能を可能にする全能なる神と私たちは信じ、それゆえ期待しています。そして、どんな状況でも期待し続けることができるのは、命を捨てるほどの愛が私たちに注がれているからです。
子供が親に期待できるのは、親がどれほど自分を愛してくれているかを知っているからです。
しかし、クリスチャンになってから、なかなか期待が実現しないという経験が重なっていくと、だんだん期待が薄れていくことがあります。そして、期待どおりにならない失望が不信仰になってしまっていないでしょうか。
私たちは自分のではなく、神の御心のスケジュールに沿った期待をすることが大切です。
神様は自己中心に気をつけるように、いつも注意されます。それゆえ、ある一定の信仰に達すると、あえてわがままに対してはすぐには応えられないという時期を設けられます。わがままは私たちにとって大変危険な状況を招きます。ルシファーはわがままゆえに堕落しました。
神は必ず与えてくださるのですから、その時がいつかは神にゆだねましょう。神は私たちに必要なものはすべてご存知だからです。
神は、私たちが自制できるようになるよう育ててくださっています。
◎ 法的面からの復活
(1) 罪をさばかれた者は刑務所から解放される。
罪に応じた裁きをイエスさまはご自身が私たちに代わって、受けてくださったので、私たちはもはや刑務所に入る必要はなくなりました。
(2) 心が更生されている
更生せずに世の中に出てもまた同じ罪を犯してしまいます。イエスさまはすべての罪を完全に処分されたので、刑を終えて刑務所である死からよみがえって来られました。もし、よみがえって来られてなかったら、まだ罪は完全には処分されていないということになります。それではまだ、新しい人生は始められません。しかし、イエスさまは復活されました。それゆえ、私たちは胸を張って神の前に出ることができます。
ただ、心が更生していないと困ります。人は正しい愛にふれると良心がきよめられます。しかし、欲から出た愛は、自制できないでむしろ自分中心の愛の為なら他人を傷つけても平気という心にしてしまいます。
私たちは愛に動かされた欲求を持っているので自制できるのです。
それゆえ、イエスさまの愛を通して更生された心になります。そして、悔い改めによって良心がさらにきよめられていきます。
復活を信じる者は、この二つの条件を満たす者であると神は認めてくださいます。そして、愛は奇跡を信じることができます。愛のみが理屈を超えて信じることができる力です。
2.『純真無垢』からの告白(第1ペテロ3:21)
“そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。”
【内容観察】
ノアの時の大洪水は、今あなたがたを永遠のさばきから救うバプテスマである洗礼をあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体にある罪の汚れを取り除くものではなく、神の愛の中にとどまることを強く願う純真無垢な良心からの告白であり、その正しい良心が受け入れられた証明は、イエス・キリストの復活によるのです。
今日のポイントは、神の愛の中にとどまることを強く願う純真無垢な良心からの告白ということです。この世の愛は自己中心の愛です。神の愛こそがきよい愛です。情的な愛の夫婦は浮き沈みがあり大変ですが、友の愛をもつ夫婦の絆はゆるがされません。最高の友としての愛を互いの間で育ててください。友の愛は信頼の愛です。友のために命を捨てる、それ以上の愛はないとイエスさまは言われました。
こういう愛を神の前に表明するのがバプテスマであり、また、そのような愛をしっかりと持つ者となるように私たちは成長しています。
★ バプテスマは信頼の証し、愛によって完成された罪の赦しを証明する復活に、愛をもって応えるのがバプテスマです。
神の愛によって良心がきよめられ、バプテスマをもって愛にとどまる人生を歩み続けましょう。この愛による決心がバプテスマです。また良心が咎めて悔い改めるのは愛の証しです。愛する方のために自分のプライド、自己中心を捨てて悔い改めて生きることこそが最高の人生ではないでしょうか。愛によって正しい道を選びましょう。
■2014年4月13日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
世から憎まれる愛 up 2014.4.13
もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。しもべはその主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。もし彼らがわたしのことばを守ったなら、あなたがたのことばをも守ります。
(ヨハネ15:18〜20)
正しいことを推し進めようとしても、憎み、反感を持つ者がいたり、真実やまことを受け入れず否定する者がいたり、世から憎まれるというのもこれらとよく似ています。イエス様もこの世の人に教え、勧めをされました。イエス様を歓迎する人もいましたが、社会的には、ねたみから憎まれるようになりました。
正しいことが憎まれるこの世は、なんと不条理だと思われたことはありませんか。真実な愛が受け入れられず、夫婦間の愛を切ってでも感情のおもむくままの愛を優先させる風潮があります。そればかりか同性同士が結婚する権利を主張するような流れにさえ、世の中が動いています。大変なことです。しかもこれを否定すると、人権問題に発展する様相です。いったい何が正しいかわからなくなってきます。これらの点で私たちは惑わされないように、守るべきもの、変えてはいけないものはしっかり守り続けると意志をかためるべきです。
神様の愛にとどまると、イエス様がそうであったようにねたまれて、最終的には十字架で処刑されたように、私たちも世から憎まれるということのために、心がけておくべきものを考えてまいりましょう。
1.主題聖句より(ヨハネ15:18〜21)“みことばは前述”
【内容観察】
「この世は神の愛であるわたしを受け入れず、信じることもせず、かえって憎みました。互いに愛し合うという神の愛にとどまるあなたがたを憎む者がいるなら、先にわたしを憎んだことを知っておくべきです。あなたがたは世のものではないので、世はあなたがたを愛さないのです。それは、わたしが世からあなたがたを選び出したからです。しもべはその主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。もし人々が神の愛であるわたしの存在を否定するなら、わたしの愛の中にとどまるあなたがたの存在も否定します。もし彼らがわたしの語る神の愛からのことばを守って神の愛にとどまるなら、あなたがたの語る互いに愛し合うということばを守って神の愛であるわたしの愛のうちにとどまるでしょう。」
イエス様は、見えるかたちで「神は愛である」ことを表してくださった方です。イエス様ご自身は神の愛そのものの人生です。「愛は神から出ている」と聖書に記されていますが、神から出た愛とそうでない愛があることにクリスチャンの方は気づいておられるでしょうか。すなわち欲から出る愛と神から出る愛があります。愛による欲求と、欲求による愛とは違います。愛による欲求は、徳を高め人を思うので欲望を自制できますが、欲求による愛は欲を満たすことが動機なので自制できません。私たちは創造主から出た愛、つまりきよく正しく、寛容で親切、礼儀に反することをせず…といった愛を聞いています。すぐにはできなくても、欲から出た愛との違いを少しずつ理解していっています。
それでは、なぜこの世はイエス様を憎み、神様にとどまろうとする人々を憎むのでしょうか。
イエス様が言われた「世」の意味を考えてみました。
〜この世の特徴 社会全体の風潮〜
○利己的〜支配を受けたくないが、支配したい
自分自身が一番正しい立場にいる人は、聖書からの話に反感を持つかもしれません。当然自己中心からの自由を主張します。たとえば誰を愛するかは自分が決めることだから、その人を愛することが罪だと言われても受け入れられないと、自由を強調します。伴侶がいても他の異性に好意を持ってもいいではないか、自分の気持ちに正直に生きていこう…と。こうなると「生涯、夫(妻)として…」という結婚の誓いは無意味になってしまいます。今、自由という言葉を通して、放縦が広がってきています。
真実な愛は、実は束縛するものです。私たちの心は一つの愛しか持てません。一方を愛するなら、他方は疎んじます。妻を愛していたなら、他の人に愛を持つことはほとんどないはずです。妻を愛してなおも「妻もこの女性も愛しています。」と言うのは、すでに心が移っています。だから夫婦が互いに愛を誓う結婚の誓いはとても大切なものです。まことの愛は束縛を受けることを、しっかりと理解しておいてください。
○貪欲〜不健全な欲、行き過ぎた欲、自制できない欲
この世界は欲をなくすと経済成長が止まってしまうので、自制することをあまりうるさく言いません。むしろ欲を駆り立てていかないと、物理的には豊かになりません。必ずしもなくてもよい便利なものもあります。自制できないこの世は、「自制するように」というイエス様のことばには反対します。神の愛の実に「自制」という実があります。正しい愛は自制をもたらしますが、欲を自制するとこの世から憎まれます。
○多数決が真理
みんながしていることが真理になります。本当は数が少ないのに、まるで多くがしているかのような情報をテレビ等のメディアが流して、国民を洗脳しそれを正しいかのように思わせ、正しい道徳性から間違った道徳性をもたらし、悪い影響を与えています。大都市でしている不道徳をメディアで流し、どこでもしているかのようなイメージを与えられてしまいました。ほんのごく少数の人であっても、みんながしているかのように思わせ、たとえば万引き等は罪ではない、ゲーム化していると言わせるくらいです。
神様の愛の正しさを語っても、否定する人が周りにたくさんいるから憎まれます。しかしそんな中でも、クリスチャンが正しい愛を表していくことが大切です。
○創造主を認めたくない
治められたくない人は、造り主の存在をナンセンスだと言って否定します。まことの愛を求めている人々のためにも、クリスチャンが地上でそれを証しする使命をいただいています。妥協しない人々がいる、と。憎まれても正しい事をしっかり守っていくのです。そうしなければ、世界はもっと混乱に陥り、強者が弱者を食い物にしていく進化論の中に生まれた弱肉強食という世界が創りあげられていってしまいます。気をつけなければ、私たちも正しい愛を間違った愛にすり替えてしまうかもしれません。
2.『左顧右眄』(ヤコブ4:4)
“貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。”
◎『左顧右眄』(さこうべん)の意味
「情勢を観察し、どちらに味方するかなかなか決断しない状態。周りを気にして、なかなか決断を下さないこと。他人の様子をうかがって、決断をためらうこと。」
【内容観察】
「移り気の多い不貞な人たち。世がもたらす欲に心を任せてしまうことは神に敵することであることがわからないのですか。神の愛よりも世の欲を優先してしまうことは、自分を神の敵としてしまっているのです。」
この世の欲を中心にした愛に心を向けてしまうと、神に敵することになるという厳しい表現です。キリストは私たちの汚れを取り除くために、十字架で身代わりに代価を払ってくださいました。それゆえに、罪人である私たちが神様に受け入れられるという赦しの愛の中で活かされているわけです。
それほど心の近い友として私たちを見てくださり、私たちの人生を導こうとしておられるお方に対して、友である神様を認めないこの世の流れを友とすることは、敵対することにあたります。このことにクリスチャンは気づいておかなければなりません。少しぐらいいいのでは、という問題ではありません。
なぜこの世が私たちの友になりえないのでしょうか。
○この世を友とすると、理性が失われる
欲望は理性を働かせることができません。理性を失わせる友は本当の友にはなれません。
○この世は、自制を嫌う
○この世は、犠牲を要求する
神様が友の場合、神様が犠牲を払ってくださいます。この世は私たちに犠牲を求め、従うことを求めてきます。一時的に誘惑のために与えても、後からその何倍も犠牲を払わせます。人生という大切な時間を欲望のために使わせます。
○この世は、真理を失わせる
神様を敬うことを理解させなくしてきます。
○この世は、罪(的外れ)へと誘惑する
この世は神に背を向ける価値観ですので、いつのまにか神のかたちに似せて創られた私たちが神の子らしくない動物のような生き方をするように誘惑してきます。
○この世は私たちに責任を負わせる
あなたが自分で選んだ人生だから、自分で責任を取るようにと…。 この世を友としている人は自分の罪を認めず、責任転嫁をする人が多いです。
これらのことのゆえに、私たちがこの世を友とすることは危険なのです。むしろ、これらは神に敵対する姿勢であると気をつけなければなりません。絶対に心して、この世を友としてしまう安易な姿勢を引き締めなければなりません。油断しないように気をつけてください。
ただし、こういうことから身を守ろうとすると、イエス様のようにこの世から憎まれることを覚悟しましょう。憎まれたくなかったら、罪に妥協するということです。すばらしい愛を示してくださっている神の愛を感じ取って、感謝して生きておられるなら、ぜひ「友のためにいのちを捨てる、これ以上の愛はない。」という愛を私たちにお示しくださったイエス様のために、この世に憎まれてもこの正しいきよい愛をしっかりと求めていきたいですね。今できていなくても、この気持ちを持つことがまず大切です。不可能と思えても、そこに助け主なる聖霊様が働かれ、私たちを勇気づけ、導いてくださいますから大丈夫です。神様の愛を敬う心が、神の愛の中にとどまることができるように守ってくださいます。あきらめないで、主の愛にとどまっていきましょう。
『キリストの 友となりける 別れ霜』
別れ霜を見て、この世と別れ、イエス様を信じてイエス様の友とされ、その関係を大事にするものとなったことを実感して詠んだ俳句です。
■2014年4月6日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
間違いを示す愛 up 2014.4.6
あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。
(箴言27:5)
はっきりと指摘することの大事さを学んで参りたいと思います。
イエス様は「ぶどうの木とその枝」という話から発展させて、「友」という関係を私たちに示してくださいました。私たちは、まだまだ神様のおっしゃる「友」という意味を理解しきっていないと思います。聖書のいう「友」は、深い関係の友を指しています。「友」の元々の言葉は「近くにいる人」「隣人」を意味することがあります。一番心に近い存在、また実際に近くにいる人間を指す言葉から発展して、「友」という言葉ができました。イエス様は私たちを近しい存在として受け入れてくださっています。
ではあなたは、イエス様をどんな存在として受け止めているのでしょうか。もしイエス様を近しい存在として接しているなら、「友のためにいのちを捨てる」という信頼関係を築いていることになります。それは「間違いを指摘する愛」とも言えます。自分の、あるいは相手の何らかの行動によって不利益を与えた、あるいは被ったということで壊れてしまう関係は、本当の友とは言えません。
愛なる神様は、私たちのわがままさを見てもなお、友として側に置きたいと思ってくださっています。そして聖書のみことばを通して、私たちのイエス様への信頼を高めていくことができます。いのちを捨てるほどの愛を持つ大切な友達ならば、間違いを指摘することもあります。大切に思えばこそです。本当に大事な時に間違いを指摘して、正しい方向に戻るようにと戒めます。
欠点を指摘されるのは誰も好きではありません。誰しも罪深いプライドがあります。しかしそれでも注意する側は良くなってほしいと願うからこそ、愛をもって指摘するのです。そして注意された側は、注意してくれた友への思いのゆえに自らを正していくものです。
友という関係を、ぜひイエス様と結んでいただきたいと思います。
1.主題聖句より(箴言27:5)“みことばは前述”
【内容観察】
「神の愛から離れようとする状況をあからさまに間違いを指摘するのは、黙っていて為すがままにさせて見守っているよりも正しい愛である。」
信頼している友だからこそ、あからさまに間違いを指摘します。しかし強固な信頼関係はすぐに築けるものではありません。たとえクリスチャン同士でも、信頼関係なしにしょっちゅう注意すれば争いになってしまいます。注意は本当に大事な時、「自分のいのちを捨てる」覚悟で、大切な友を責めるのです。
【デボーション参考ポイント】
★友であるイエス様は、神のことばとして私たちを戒められる
(第1テモテ1:9〜10)
“すなわち、律法は、正しい人のためにあるのではなく、律法を無視する不従順な者、不敬虔な罪人、汚らわしい俗物、父や母を殺す者、人を殺す者、不品行な者、男色をする者、人を誘拐する者、うそをつく者、偽証をする者などのため、またそのほか健全な教えにそむく事のためにあるのです。”
律法を守れていない、できていないことに気づいていないからこそ、責め、戒め、指摘が与えられます。私たちの現実は罪人なのです。
しかし「赦されている」のです。「赦されている」のは、愛されているからです。「赦されている」罪人に、もっと良くなってほしいと働きかけておられる神様は、この聖書を私たちに残してくださっています。友として間違いを指摘することばとして、聖書は存在します。
今的外れに生きているすべての人々に対して、道を外れていることを示すために、イエス様が指摘してくださっているのが聖書のことばです。
私たちは「赦されている」からといって、何をしてもいいわけではありません。友として良い関係を築いていきたいからこそ、たった一つでも的外れの考えや歩みを直してほしいという、友としての愛が込められたおことばが聖書です。これを書かれたお方は、私たちを愛してくださっていることを忘れてはいけません。またこれを語らず黙っていたら、私たちはイエス様の友の心から離れていき、自己中心の心を優先させてしまいます。
イエス様は、私たちの罪を負うという負債を十字架で負ってくださいました。友を失いたくないからと、私が払い切る事のできない罪の損失を、ご自分が「身代わりに払いましょう」と、受けてくださったのです。そこまでしても私たちを心の近い者としておきたいという思いが、二千年前の十字架の歴史に示されています。
そこまでしてくれる友のためになら、自分を変えていこうと努力することができるのではないでしょうか。自分の自我を砕いていけるのではないですか。それが、私たちが神様に対してできる唯一の方法ではないかと思うのです。もちろん決して簡単なことではありません。しかし、指摘を受けた事柄に対して真摯に受け止め、神様の前で自分をよく吟味し、自身のかたくなさを省み、こんな罪人の自分を赦してくださる神様の寛容と柔和に感謝する日々を持ちましょう。
人間同士なら、最高の友達になれる可能性が高いのは夫婦関係です。夫婦でも友人でない場合には、夫婦の愛が弱る時、関係自体も弱りますが、夫婦愛と同時に友愛も築いていくなら、情が弱っても友としての信頼関係のゆえに、夫婦はかたく結び合わさることができます。友愛は何よりも強い愛のかたちです。
神様の愛を畏れ敬う良き友を育てていけるような、私たちの人生でありたいと願います。
(第2歴代誌34:14〜21)「(要約)ヨシヤ王という、神を畏れる王がいた。彼は神に対して熱心だったが、神殿から発見された律法の書を読ませた時に、自分が本当の律法をいかに守れていなかったかを知って大いに嘆いた。」
私たちがもし、聖書のみことばで少しでも心が騒ぐことがあるなら、それを見逃してはいけません。肉はみことばに盲目であろうとしますが、みことばは生きておられ、私たちの心に働きかけられるのです。
みことばは友なるイエス様からの愛の戒めです。聖書を読んでいく時に、励ましも喜びも恵みも多くいただきますが、時として罪を指摘される部分もありますから、ぜひそれに耳を傾けて、正直に間違いを認め、受け入れましょう。友なるイエス様の愛に応える悔い改めへと導かれてほしいと願います。
2.『前車覆轍』(ローマ15:4)
“昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。”
◎『前車覆轍』(ぜんしゃふくてつ)の意味
「前を行く人の失敗は、後へ続く人にとっての良き戒めとなると言うこと。過去の失敗を今の戒めとすること。」
【内容観察】
「多くの時間をかけて書かれた聖書は、すべて私たちをキリストの愛にとどまらせるために書かれたのです。それは、聖書にしるされていることをとおして忍耐と励ましが与えられ、キリストの愛にとどまることへの希望を持たせるためなのです。」
聖書の教える内容は古くて、現代日本に生きる私たちにはそぐわないのではないかと疑念を抱く人もいるかもしれません。しかし神様の教えられる価値観は、時代や文化などに左右されないものです。聖書は罪人のために与えられたのですから。どの時代でもどんな文化でも私たちは罪人であり、罪の性質を持っています。的外れをしてしまうところは変わっていないのです。槍で戦おうと、最新兵器で戦おうと、罪の性質から起きる争いという本質は同じなのです。
ですから、聖書は今も昔も変わらず、神様から友としての愛の忠告です。この中には神の愛にとどまった人、去ってしまった人などが記録されていますが、彼らの姿を通して、私たちも自らの間違いを正していただきましょう。
聖書を読む時には物語を読もうとするのではなく、歴史を築かれる神様から私たちへの友としての教訓として、信頼の愛を込めて語って下さっていることを念頭において読んでいこうではありませんか。
聖書の中に流れている友愛を見逃さないようにしてください。
『亀鳴くの 間違い正す 友の愛』
春の季語「亀鳴く」は、首を伸ばしている状態を、鳴いているみたいだとイメージしたもので、のどかさの表現です。
のほほんとしている自分を正そうとしてくれている友の心。神様の裁きの日までに悔い改めてイエス様を信じ、神の子として創られた在るべき姿に戻って、御国に入ってほしいと願ってくださっている父なる神様の愛のお気持ちです。
私たちはこのお心を周りの人々に伝えることが必要です。「裁き」や「地獄」を持ち出すキリスト教は、なんと偏狭で性質の悪い教えかと思う人が多くても、私たちは真実を伝えねばなりません。
黙って影の祈りを重ねるだけでなく、キリストの再臨が必ずあることと、神の裁きが地上にもたらされる時が近づいていることを言わなければなりません。しかし、それがいつかを人は知ることができません。
ともあれ、罪を放っておくなら秩序が乱れ、混乱が起こります。宇宙は神様の秩序によって保たれ、美しく調和しています。しかし人だけは神様と同じように善悪を自ら選ぶことのできる完全な自由と人格が与えられました。これは愛を目的としています。愛は自由意志から生まれてくるものだからです。
人は完全であるがゆえに、「罪を犯す」という間違った道を選んでしまいました。しかし「元に戻る」という自由意志も持てるのです。だからこそ神は、「悔い改めなさい」「意志を変えなさい」と言っておられるのです。
私たちが自らの罪で滅んでしまわないために、救い主イエス・キリストが身代わりに罪を負うから、心を入れ替え神と同じ自由意志を生かす生き方を選ぶようにと、キリストの十字架によって語られています。
この自由意志のゆえに、私たちは誰にもキリストへの信仰を強制できません。しかし友と思う相手がいるのならば、「神を認めない罪」について愛をもって語ってあげてください。
パウロは同胞であるイスラエル人のために、自分が呪われた者になることさえ願いたいと思っていました。友としての愛を伝えていたのです。
私たちはこの点においてまだまだ未熟な者ですが、交わりを持ち、友としての信頼関係をお互いに、時間をかけて築いてまいりましょう。また自分が望む相手に選ばれるかどうかは相手次第ですから、それによって悪い思いを持たないように気をつけましょう。
特にイエス様との絆を強く結んでいくことに心を向けましょう。神を敬う愛が根底にあるからこそ、信頼を置けるのです。
■2014年3月30日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
友愛としての命令 up 2014.3.30
あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。
(ヨハネ15:17)
「互いに愛し合う」ということばが何回も出てきます。(12節)にも出てきますが、その違いは友愛という言葉に関係してきます。
2.主題聖句より(ヨハネ15:17)“みことばは前述”
【内容観察】
「あなたがたがわたしの友としてわたしが願っていることは、あなたがたが互いに愛し合うことです。ですから、あなたがたに戒めとして命じます。互いに愛し合いなさい。」
私たちには、友達から命令されるという感覚はありません。友達には横並びだけでなく立場が違った関係もありますが、心の近さは一緒です。イエス様は、見えない神様が見えるかたちをとってこられた天地の創造主なる方、統治者ですが、その方が私たちを心の近い者として友と認めてくださって、人生を共に歩んでくださるのです。非常に光栄なことです。
それでは、なぜ友であるイエス様は私たちに命令をされると書かれてあるのでしょうか。
聖書のことばは、イエス様が私たちに友として命じておられることばです。私たちは友と言われる心のつながりから、聖書のことばを聞くことによって、イエス様の愛、信頼、友情を見ることができます。
たとえば、警察官の友達がいたとして、悪い友達は、あなたの信号無視の違反を見逃し、うやむやにする対応をします。しかし、良い友達は、自分の違反を見逃してくれても警察官として違反を見た以上、罪は放っておけず身代わりに罰金を払い、免許証の点数も引かれてくれる人です。そのようにして「これからは絶対に赤信号では止まるんだよ。」と命じるのではないでしょうか。
いくら慈悲深さが語られても、違反は放っておかれ実際に犯した罪の処分がされず、結局私たちの側が修行を要求されて罪の償いをすることになっている宗教もあるのではないでしょうか。しかし、イエス様は私たちに本当の友としての態度をとってくださっています。イエス様が違反を赦されるとは、違反の身代わりをイエス様ご自身が背負われ十字架にかかられるということを表しています。罪は罰しなければならないものであり、放っておくものではありません。誰が罪を処分するかは、とても大切なことです。
イエス様が私たちの友であるという証は、私たちが犯した違反をイエス様が友として身代わりに十字架で裁きを受けられたからです。イエス様こそ真の友となり得るお方です。イエス様は、こういう救いを私たちに与えてくださっているのです。
主題聖句の「与える」は、本来、「命令する、指示する」等の権威を含んだことばです。上位になる本当の友達が権威を用いて「互いに愛し合いなさい。」と命令するのは、二度と違反をしてほしくない、罪をないがしろにしてほしくないという気持ちからです。友愛からの命令です。
イエス様は正しいお方で、秩序を作られたお方だからこそ、親しい友達にはルールを破ってほしくないのです。イエス様は、友として私たちに手を差し伸べてくださっていても、私たちの側が、イエス様を罪を赦していただける都合の良い友達としてしか受け止めていないかもしれません。
友だからこそ戒めを命令されるのです。守るべきルールを破るなら損失を被り問題が起こるからこそ、命令が下されているのです。どちらでもよいというものではありません。信号無視によって社会秩序が崩れるように、例えば十人の仲間のうち、「互いに愛し合う」というルールを一人でも破っていくと、互いの関係がだんだん崩れていきます。戒めはみんなが守ってこそ効果があるのです。
私たちは、イエス様と友という心のつながりを持ちました。イエス様は、友である私たち一人一人に、けんかせず愛し合ってほしいという希望を持っておられます。それを理解できない人たちに対して、一つだけ守るべきルールを与えておられます。「あなたがたはわたしの友であるがゆえに『互いに愛し合いなさい』」と。
(17節)は、友の関係を続けるために、ただ一つの「互いに愛し合いなさい。」の戒めがあることを強調しているのです。できるかできないかというものではなく、やっていかなければ互いの関係は崩れてしまい、友達関係がなくなっていくということです。あなたがイエス様の友と自覚されるならば、イエス様の友であるまわりの方と敵対したり、争ったり、妬んだりするのではなく、互いに仲間として愛し合い、受け入れ合い、赦し合うという「互いに愛し合う」という一つのルールをチャレンジし続けてまいりましょう。
2.『雷陳膠漆』(ピレモン1:17)
“ですから、もしあなたが私を親しい友と思うなら、私を迎えるように彼を迎えてやってください。”
◎『雷陳膠漆』(らいちんこうしつ)の意味
友情が堅く厚いことのたとえ。きわめて親密な付き合い。
中国後漢の雷義と陳重との友情から。膠漆⇒にかわとうるしは接着剤。
【内容観察】
「私はあなたのことを親しい友として心を開いて交わってきました。もしあなたも私を親しい友として受け入れているなら、私の分身とも言える彼を私のように迎えてやってください。」
自分の家を集会場に提供していた、またパウロとも親しかったピレモンの使用人のオネシモが、パウロの牢獄に送られてきました。面識があったパウロは、オネシモを回心に導き、いよいよ出所するにあたって「もはや以前のようなオネシモではないので、クリスチャンとして迎えてほしい。」との手紙をピレモンに出しました。ここには、信仰者の主人のピレモンが施した親切を裏切って投獄されることになった使用人のオネシモを、もはや受け入れたくないピレモンの心痛い胸中を察しつつ、パウロが送った内容が記されています。
ピレモンの複雑な思いを払拭させた決め手のことばが、(17節)の「私を親しい友と思うなら…。」でした。
パウロはピレモンに対して、教職者の権威としてではなく、親しい友として接してきたことを語り、「ピレモン、あなたもそういう気持ちですよね。」との思いを込めています。こうしてパウロからの近しい友としてのピレモンへの信頼と愛と友情が、ピレモンの心をいやし、裏切ったオネシモを一から信頼する心へと変えていくのです。力で服させるのではなく、あくまで友という愛によって喜んで受け入れていけるようになっていきます。
●親しい友としての関係の構築をしていく必要がある。
神様は私たちが礼拝に来て、神様とだけ親しくなるのではなく、互いに愛し合う者に、誰かと少しずつ親しい友と呼べるクリスチャンの関係を増やしていってほしいと命令を下すほどに、願われています。そして、イエス様との友達関係のルールをもって、私たちが互いの友達関係を築くことができるとみられています。
パウロとピレモンは、そういう親しい関係を築き上げてきた指導者と信徒でした。役割の違いがあっても、友は互いに心を近づけることができます。パウロはイエス様を見習って行ったことでしょう。イエス様の方から、私たちをふさわしくないのに「友」と読んでくださいましたね。パウロもまだ問題があったかもしれないピレモンを友と呼び、手紙を書いて心の傷のいやしを願い、霊的成長を導いたと言えると思います。
●苦境にあるときの親切が親しい友の関係を築く
イエス様は私たちが神の子として元の姿に戻るために、いや友だからということで天の栄光を捨て私たちを愛し、人の姿をとって私たちこの地上に来てくださいました。そればかりか、私たちの罪のために、身代わりに十字架にかかられ、死んで、ハデスで三日間苦しまれ、死からよみがえられた、すばらしい友なる方です。人生の行き詰まりをもって苦境の中にいる私たちに、未来と希望を与えてくださいました。まずイエス様から、友として愛を表してくださいました。これに気づけば気づくほど信頼できるのではないでしょうか。今も苦境に立たされる時に、イエス様が真実をもって助けてくださり、罪を赦し、自らの犠牲を払ってでも私たちを助けたいと願われる方なのです。その方の愛を私たちはクリスチャン生活で味わっていくわけです。
その方が私たちに命じておられるのです。「互いに愛し合いなさい。」このルールを守ってほしいと。
『ともに咲く みくにの桜 ともに散る』
咲くときも散るときもみくにの桜である私たちは、友として一緒に歩んでいきましょう。
■2014年3月23日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
選んでくださった愛 up 2014.3.23
あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。
(ヨハネ15:16)
「選ばれる」ということばには、何か特別なものを感じます。神様に私たちが愛されているという事柄には、「選ばれている」ことも含まれています。
人が誰かに親切心や好意を抱くときは、その人が「選んだ」ことになります。「愛する側」に選択権があるわけです。ちなみに「愛された側」には、その選びを受けるか拒否する権利があります。
大抵の場合「選ぶ」のは上位の側であり、ゆえに選ばれた者への価値が見出されることになります。私たちは最上位の方から「愛され」「選ばれた」存在です。
1.主題聖句より(ヨハネ15:16)“みことばは前述”
【内容観察】
「あなたがたがわたしを愛してわたしを選んだのではありません。まず、わたしがあなたがたを愛してあなたがたを友として選び、友であるあなたがたを信頼して神の愛の証人として任じたのです。それは、あなたがたがどこにおいても神の愛を信じる人々という実を結び、その実が神の愛の証人として人々の救いのために生きるようになるためです。そして、あなたがたがわたしの友として父に求めるものは何でも、父があなたがたをわたしの友と信頼してお与えになるためです。」
「選び」と「友」という流れが根底にあることを踏まえて見てまいりましょう。イエス様が友として私たちを見てくださることの根底には、愛による選びがあります。
全世界の創造主たる神様にこそ、何のために誰を選ぶかという選択権があります。私たちが自分の意志でイエス様を選んだように思っていても、その前に神様が私たちを愛して選んでくださったという事実があるのです。神様は私たちの人生でイエス様に出会うチャンスを与えてくださいました。この選びに対して私たちがどう応えるかは自由意志に任されており、何の強制もありません。
しかし、私たちを選ばれた相手が全宇宙の統治者であること、そのような地位の方が私たちを見てくださるその目を考えると、これは非常に光栄なことと思われます。
イエス様は、私たちを愛して「あなたがたは神の愛を証しするのに大丈夫な者だ」と信頼してくださいました。あなたのいたらなさや失敗を通しても神様の愛は表され、能力や力を通しても表されます。成功でも失敗でも人生すべてにおいて、神の愛の証がたてられるのです。そのようにあなたを信頼してたてられたのです。
部下なら利害関係や上下関係がありますが、神様が選ばれた「友」という関係は、お互いが心の真意を察知しあい、気づき合うことのできる関係です。命令で強制的に何かをさせられるのではなく、友だからということで自発的にそのことを受け止めます。してほしいこと、役割をあなたに与え、友として任じてくださるのです。
すると、受けた私たちも「友として応えていこう」とする、愛の信頼からの上下関係が生まれてきます。単なる上位からの選びではなく、「友」という観点からの選びを受けました。それはあなたがたがどこにおいても「神の愛を信頼する人々」という実を結び、その実が神の愛の証人として人々の救いのために生きるようになるためです。
これはみことばにある「あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり」の部分です。
神様は私たちに友だちを作ってほしいと願っておられます。神を友とし、イエス様を友として歩む人々という関係を作り、そしてその実によってまた他の友だちが神様、イエス様を友として歩む、そういう人々が生み出されてくるためにです。言い換えれば、私たち「ぶどうの木の枝」に「友」という実を結んでほしいと思っておられるのです。そして、「わたしの友だからやってくれるだろう」と期待して、私たちに語ってくださっているのです。
さて、みことばの最後の部分を見ると、それまでの「選び」と「任命」と「実を結ぶ」の流れと違うものを感じます。「父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるため」とはどういう意味でしょうか。
これを「友」という観点から考えると、「私たちがイエス様を友としているのならば、息子が選んだ友の願いだからということで、父なる神が応えてくださる」と考えることができます。イエス様の友という立場は、父なる神さえ動かすことができるのです。どこかの有力者の息子と友だちになれば、彼と親しくなるほど息子の友としての信用と配慮を受けられるように、イエス様の友となることは絶大な威力をもちます。しかもイエス様の方から私たちに近づいて、心を開いてくださっている、こんな幸運が他にあるでしょうか。
私たちは悪い罪人の習性があっても、それ以上に良いお方であるイエス様が友として、私たち罪人に対して義人のように友だち付き合いをしてくださるのです。
人は出会いによって人生が決まると言いますが、イエス様との出会いと、この方との友人関係によって、私たちの人生は本当に変えられます。
単なるご利益宗教的な神様としてではなく、もっと身近な「友」としてのイエス様に思いを向けて、もっと理解し知っていただきたいと願います。「友」であるがゆえに応えられるのであって、あなたが良いか悪いかではないのです。父なる神のひとり子イエス様の友であることのすごさ。「良いことを行う」のも大事ですが、ひとり子イエス様との友の絆をもっと深めていけば、自然に祈りは答えられていきます。「何かノルマをこなして祈りに答えてもらう」という生活ではなく、イエス様との心の絆を結んでいくことが、祈りに答えられる一番の条件と言えると思います。
こんな罪人を選んでくださったイエス様と一緒に、人生を歩んでいきましょう。こんな良い知らせを私たちにもたらしてくださった救い主イエス様と聖書、そして多くのクリスチャンたちの証。そういう出会いが与えられたことを本当に感謝する一週間にしましょう。
2.『益者三友』(箴言12:26)
“正しい者はその友を探り出し、悪者の道は彼らを迷わせる。”
◎『益者三友』(えきしゃさんゆう)の意味
「有益な友人に三種類あること。
(1)正直者 (2)誠実な人 (3)知識があって賢明な人」
このような友人はあなたの人生を有意義なものにしてくれます。そしてイエス様はすばらしい友人の最たるお方です。
【内容観察】
「正しい方であるキリストはその友をたずね求め、自己中心でわがままな罪人は友に迷惑をかける。」
イエス様は心のつながり、信頼関係を築ける相手としての「友」を求めておられます。「探り出す」ということばは、誰にも気づかれないうちに調査するという意味があります。人の視線を感じると体裁を整えますが、イエス様の視線は人が見ていないところに注がれています。私たちはいつも神様に正直かつ誠実でいよう、そのような賢明な判断ができる者でありたいですね。
ではキリストにあっての友の関係を考えてみましょう。
(ルカ7:1〜10)を読んでみてください。ある百人隊長のしもべが病気になったので、イエス様にいやしをお願いした出来事です。この百人隊長は、まずユダヤ人の長老たちにとりなしを願いました。彼はローマ人で異邦人ですが、ユダヤに貢献してきた人でした。ですから、偉大な預言者と言われているイエス様にしもべのいやしをとりなしてくれるように、長老たちにお願いしたのです。長老たちはユダヤ社会での社会的信用を表しています。しかし、イエス様は社会的信用などでは動かれなかったようです。長老たちは「熱心に願った」とあります。百人隊長を「いやしていただく資格のある人」と熱心に推したので、イエス様はようやく動かれ、目的地の近くまで来られました。すると、今度は百人隊長の友人たちが来ました。社会的権威や熱心な願い方は、世間一般のやり方ですが、この三番目が違いました。彼らが百人隊長の心に浮かんだ思いをイエス様に知らせると、イエス様は百人隊長の信仰のすばらしさに驚いて彼をほめ、祈ることなく帰られたのです。そして友人たちが百人隊長の家に戻ると、しもべはいやされていました。
本日注目していただきたいのは、友人の役割についてです。長老たちのとりなしよりも、友人たちのとりなしにイエス様は反応されたのです。どんな友だちがどんなとりなしをするかによって、違う結果が出ます。百人隊長の友人たちは彼の真意をつかんで、彼の気持ちをもっと正確にイエス様に伝える役割をしました。イエス様は友人たちの百人隊長に対する愛と信頼関係のつながりを見て、その友のことばを信じ、感動されたのです。友という愛の関係がイエス様をさらなる偉大な働きに動かす役割を果たしました。父なる神と私たちの間に立っておられる友なるイエス様の役割と一緒です。
私たちは罪深く至らない者ですが、イエス様は友として神様の前にとりなしてくださっています。友だちとしてのとりなしは、相手のいいところをたくさん言うものです。父なる神様はイエス様のとりなしを見て、その友としての愛のゆえに、罪人である私たちに答えてくださるのです。
イエス様が、私たちのために罪の赦しのいけにえとなって十字架の上で罪の赦しを実現してくださいました。そこまでして罪人を友として受け入れてくださっているひとり子イエス・キリストが、その私たち罪人のためにとりなして「ぜひ彼らの願いにこたえてください」と頼むなら、神様が答えてくださらないはずがないのです。
イエス様が友として私たちを選んでくださった愛を、本当に大事にしようではありませんか。
今もあなたは選ばれています。イエス様は「立派なクリスチャン」ではなく、良かろうが悪かろうが「友」として絆を結びたいと願ってくださっています。この選んでくださった愛に心から感激を持って、与えられたクリスチャン生活を歩んでまいりましょう。
『山笑う ごとく友愛 芽生えたり』
春が訪れるしるしとして新芽が出ることを、古代中国のある画家が「山笑う」と表しました。ちなみに冬は「山眠る」、秋は「山装う」だそうです。
新芽が芽生えるごとく、イエス様との友愛に私たちの心が芽生え始めていく、そういう信仰生活。罪の世界の暗い季節から、春の訪れの新芽が芽生えてくる、そんな(これからいいことが起こってくるよ)と思わせるイエス様との友情は、春の山笑う情景に似て、喜びが湧いてきます。
■2014年3月16日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
友と呼んでくださる愛 up 2014.3.16
わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。
(ヨハネ15:15)
イエス様が言われた私たちとの関係は友という関係です。天地の主なる神が罪人の友となる。考えられないような奇跡です。聖歌にそのことをよく表した歌があります。歌ってみましょう。
(1)世には良き友も かずあれど キリストにまさる 良き友はなし
つみびとのかしら われさえも 友とよびたもう 愛のふかさよ ああわがため いのちをも 捨てましし友は 主なる君のみ
(3)こころみの時も 病む日にも 死ぬる間際にも そばにいまして 力あるうでを われにのべ やさしくのたもう いとやすかれと ああわがため いのちをも 捨てましし友は 主なる君のみ
人がその友のために命を捨てる。これほどの愛は誰も持っていません。イエス様は私達を友と呼んでくださいました。そのイエス様の愛を考える1週間でありますように。
イエス様は私たちを友と呼ぶのに妨げとなっている罪を取り除くために、十字架で贖ってくださいました。そして、新しく生きるためのよみがえりの命を与えるために、死からよみがえってくださいました。神の愛は死からよみがえり、新しく命を与えてくださる力強い愛です。神様自らが私たちを友と呼んで近づいてくださるのです。
1.主題聖句より(ヨハネ15:15)みことばは前述
【内容観察】
わたしはもはや、あなたがたに対して言いつけられたことを忠実に行うだけのしもべのようには見ません。しもべは主人の言いつけに従うだけで、主人が何を思い、何を考えているかを知ることが許されていないからです。わたしはあなたがたをもうすでに友と呼んでいます。なぜなら、父なる神から聞いたみこころの真意をみな、あなたがたに知らせたからです。
【デボーション参考ポイント】
★ひとり子を遣わされた父なる神の真意を知った神の友であるあな たは、友である神のために何をしますか?
友達にだけは話せるという内容があります。心の秘密でさえ打ち明けられるそのような友達は最高の宝です。私たちは神のしもべとして、へりくだりますが、イエス様は友として、私たちに心を開いてくださっています。
友達には、何かしてあげたくなるものです。友であるイエス様に何をしたいでしょうか。
参考として、(第2サムエル23:15〜17)を読んでください。
ダビデの周りには多くの勇士たちがいましたが、その中でも、特に三人の勇士が最も偉大な勇士として語られています。なぜでしょ
うか。
その頃、ダビデの故郷であるベツレヘムをペリシテ人たちが占領していました。その故郷を思慕し、思わず「誰かベツレヘムの門にある井戸の水を飲ませてくれたらなあ」とつぶやいたダビデの心の痛みに動かされ、この三人は、なんと敵の陣営を突き抜けてまさにその井戸からダビデのために水を運んできたのです。
この三人は兵士ですから、上官の命令なしには動いてはいけないことは、十分知っていたはずですが、その規則を破ってでも、また命をかけてでもダビデに水を届けました。その気持ちにダビデは感動して、その水を飲むことはせず、神の前に注いだのです。そこには、もはや上官と兵士という関係以上の深い友情が結ばれていたことがわかります。ダビデもこの三人の心情を、何にも勝る友情として受け取り、敬愛の心を示しました。
あなたは友なるイエス様に何をしてさしあげたいと思うでしょうか。
新約聖書には、中風の友人のために驚くような行動をとった4人の友人たちの話がでています。(マルコ2:1〜5)
せっかく癒していただこうと中風の友を運んで来たのに、群衆のために近づけなかった4人は、そこで諦めるどころか、今度は屋根に登り、その家の屋根をはがして大きな穴を開け、イエス様の真ん前に着くように、この中風の友を寝かせたまま床をつりおろしたのです。なんと前代未聞の大胆なやり方でしょうか。このようなやり方まで彼らを駆り立てたのは、まさに、彼らがこの中風の人の友であり、なんとか治ってほしいという深い友情以外の何物でもありません。友のためには、大胆になり、向こう見ずにもなれる、誰でも感動するはずです。
2.『雲霞之交』(ヤコブ2:23)
“そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。”
◎『雲霞之交』(うんかのこう)の意味
世俗を越えた交友。俗気を脱した交友のこと。
【内容観察】
そして、「アブラハムは神の真意を理解して神を信じました。その神への信仰が彼の義とみなされました。」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。
(神に義とみなされる⇒存在が正しいと神に受け入れられること)
【デボーション参考ポイント】
★どのような神との交わりを願っていますか?
アブラハムは神から直接「わたしの友」とまで呼ばれた人です。
神に義と認められるとは、その存在が正しいと受け入れられ、造られた目的にそって存在していると神に認められるということです。
アブラハムは神の真意を理解し、神を信じたので、その信仰が義と認められました。神の真意とは、憐れみと愛です。
私たちも神の愛の証しであるイエス様を信じることは、神を信じその愛を信じることと同じなので、まだ行いは完全でなくても神はその信仰を義と認めてくださいます。神の愛を信じて生きることが、人としての義であり、健全な状態なのです。
雲霞とは、中国では仙人の世界であり、悟りのある人の世界です。
神と友の交わりをするというのは、どういうことでしょうか。アブラハムは99才の時に子供が生まれると神に約束されました。サラは89才でした。その年で子供が生まれるとはどういうことでしょう。それは、神様しか言えない言葉です。人が語ったのならばかばかしいと否定したでしょう。しかし、神が語られたので、アブラハムは神のことばを信じたのです。それは、神と友のように心が通じていたからです。
神と人間という単なる上下関係ではなく、友という心のつながりができているなら、そこには信頼関係があり、神が言われたのだから必ず約束を守ってくださると信じられたということです。
この信仰は世俗的な友の交わりでなく、世俗を超えたものです。
聖書のいう友とは、
(1) 世の常識を超越している…常識にとらわれない
(2) 友ゆえの超越した信頼
(3) 超越した悟り…主を畏れることです
天地を創造された御方なら、99才を越えた自分でも子供ができてもおかしくないと考えられる、これは創造主への敬意の心があるということです。そこに、人間の常識を超越した信頼が生まれます。
このような神様との交わりはこの世的なものとは違います。ただいつまでも子供のような関係ではなく、大人として神さまの愛に応える交わりを、神は願ってくださっています。一般常識的な会話ではなく、全知全能なる方を信じた、不可能を可能とする神様との会話ができているでしょうか。
あなたの達し得た今の信仰の交わりを、日々神さまとしていきましょう。
■2014年3月9日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
真意を理解する愛 up 2014.3.9
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。
人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。
(ヨハネ15:12〜14)
神様の真意を理解するためには愛の心が必要です。人との間も同様です。
1.主題聖句より(ヨハネ15:12〜14)“みことばは前述”
【内容観察】
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。この戒めを守り行う者は、わたしの友なのです。そして人は、その友のためにいのちを捨てるという最も尊い愛を持つことができます。これは人が持つことのできる最高の愛です。」
(ヨハネ15:1〜11)までで語られた「ぶどうの木と枝」というたとえは、つながることの大切さを表しています。本来はひとつのものとして扱われるぶどうの木とその枝をあえて別にしたのは、私たちがぶどうの木の一部となるという一体感を強調しています。そこからさらに発展した関係として、今度は「友」ということばが使われています。
「わたしの中にとどまる」とは「戒めを守る」ことで、それは「命令を行う」ことになり、「わたしの友」となれるのです。イエス様は友としての愛のつながりを私たちに示してくださっています。ぶどうの木と枝は友なのです。もちろんあいさつや雑談程度の友ではなく、命令を守るほどの深い関係です。真意を理解し、共に歩む者です。
親が子どもに危険な場所で遊ぶことを禁じたなら、その真意は「遊ばないように」ではなく、「危険な目にあわせたくない」なのです。私たちは、「神は愛です」という大前提を踏まえて、いろいろな命令を理解しなければ、真意がわからなくなってしまいます。
そのために愛の心を持つことが必要です。これなしに相手の真意はわかりません。夫婦の関係になぞらえるとよくわかります。
夫婦はお互いを理解しあえる年月を重ねれば、最高の友だちになることができます。たとえ自己主張がぶつかってケンカをしても、離れることがないのですから。本当の友はあからさまに自分を見せることができ、それを理解し合えるものです。信頼がその根底にあります。
相手の真意を理解していれば、命令も戒めも喜んで従うことができます。皆さんもお互いに夫婦、家族、兄弟姉妹へと、この信仰の友人関係作りを広げていっていただきたいと思います。そうしたら、もっとクリスチャン生活が楽しくなるはずです。
2.『一知半解』で終わらない(コロサイ2:1〜2)
“あなたがたとラオデキヤの人たちと、そのほか直接私の顔を見たことのない人たちのためにも、私がどんなに苦闘しているか、知ってほしいと思います。それは、この人たちが心に励ましを受け、愛によって結び合わされ、理解をもって豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを真に知るようになるためです。”
◎『一知半解』(いっちはんかい)の意味
「少ししかわかっておらず、十分に理解していないこと。生半可な知識や理解しかないこと。一つのことを知っているが半分しか理解していない意。」
神様を知るというクリスチャン生活の目的が、生半可なもので終わらないように、この生涯を尽くして神様の愛を知っていこうではありませんか。
【内容観察】
「愛の労苦による苦闘の証しが、神を愛する人々の心を励まし、愛によって結び合い、理解をもって豊かなまったき確信に達し、神の奥義であるキリストを真に知ることができるほどの影響を与える。」
愛の労苦を証しすることがどれほど効果の大きいものか、パウロは知っていました。決して自分のためでなく証しをするなら、以下の4つの効果が表れます。
(1)「心の励まし」聞く人の心に励ましがもたらされます。
(2)「愛による結びつき」という関係作りができます。
(3)「理解による強い確信」私たちの信仰生活は間違いではないと理解することによって得られるものです。
(4)「キリストを真に知る」神様の愛がどのようにパウロに現され、多くのみわざをなされたか。
良い結果だけでなく挫折しそうなところまで追い込まれたこともパウロの働きにたくさんあります。これらの証を聞いて、イエス様のすばらしさに思いを巡らすのです。
一般のクリスチャンである自分には、こんな証しは無理だと思われるかもしれません。しかし、ほとんどの人はあなたと同じ一般人であり、パウロのような体験をする方がごく小数で特殊なのです。むしろ普通のクリスチャンの苦労話の方が効果が大きいものです。自分と同じように普通の社会人生活をしている人の、普通ゆえの戦いを聞けば、非常に参考になります。
たとえばクリスチャンであることを表明するだけでも、相当の苦闘があるはずです。自分を通してクリスチャン全体が判断されてしまうのですから。
このように、愛にとどまるための日頃の労苦をお互いに語り合うことは、前に挙げた4つの効果を聞く人にもたらします。また成功よりも失敗の体験を聞く方が、聞く人たちへの励ましが大きいものです。同じ仲間の苦労話、信仰の苦闘の証しは実際生活の役に立ちます。
ですから、互いの苦闘を分かち合い真意を理解する、愛による信仰の友となるように励んでまいりましょう。これが“「…わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」”(ヨハネ13:34)とイエス様がおっしゃった「友」という関係を作り上げることになります。
初めから親友にはなれません。相手の真意を愛をもって理解するように、自分の家族や兄弟姉妹に対して耳を傾けていきましょう。そうすれば自然に友の関係が生まれてきます。
『窓の外 今頃なぜに 春の雪』
ついこの間雪が降って、「梅ももう咲いたのに降るとは」とおどろかされました。しかし、神様は物事を複雑なまま美しく存在させることのできる方であり、季節の変わり目の良さ、美しさを私たちに再認識させてくださる方です。「こんなものはめったに見られない」と。
私たちは物事の表面だけ見て「なぜ」と驚くことがあります。その時、物事の真意に深く思いを潜め、考えてみることをせずに、不平・不満・不信感を抱いてしまうことが多いのではないでしょうか。
これを「とても珍しいことに出会えた」と捉えられたらすばらしいですね。そして前向きな心で神様に祈るのです。創造主の真意を察していく時、あなたにしか理解できないようなものが見えてきます。
これからも人生には何が起こるかわかりませんし、私たちが罪人である以上、災いは必ず訪れるものです。今こうして無事に礼拝に来ることができている現状を感謝し、何か災いが起こったとしても、春の雪のように前向きに捉えたいですね。
■2014年3月2日 日曜礼拝メッセージより(小栗伝道師、辻和希伝道師、横路伝道師)
主の愛にとどまる心得 up 2014.3.2
父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。
(ヨハネ15:9)
主の愛にとどまることの難しさを感じますが、日頃どのようなことに注意し、努力しているか、心がけていることを三人がそれぞれ分かち合わせていただきます。
1.主との関係をいつも新鮮にする【小栗伝道師メッセージ】
信仰年数に関係なく、神様への新鮮な思いが今も私たちのうちにあるかどうかはとても大切なことだと思います。過去の産物でなく、今現在、主が私のために十字架にかかってくださったという感動を持ち続けていること、そして、思いを十字架に戻すことができることが主の愛にとどまるポイントです。
“信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。…”(ヘブル12:2)
救われること、主が十字架にかかられたことが当然であるはずがなく、いかに私たちが神の恵みの中におかれているかを思わされます。しかし、ここで「イエス・キリストから目を離さないでいなさい。」と強調されているのは、「心を散らすいっさいのものから目をそむけて」(詳訳聖書訳)との訳があるように、イエス様から目を離させるものが私たちの回りにたくさんあるということです。私たちの五感によって、イエス様以外のものに思いをすりかえられることが多くあります。
そこで私たちが新鮮さを保つために必要なこととして
◎ぶどうの木の枝としてのアイデンティティを持ち続ける
・私は神様に愛されたぶどうの木の枝である〜
木を押しのけた枝になっていないだろうか
・神のあわれみによって、本来あるはずがないぶどうの木につがれた枝である〜
恵みを忘れて自分で生きているような思いに陥っていないだろうか
◎目を離させるものとして
・外からの影響〜
世の中に流れている考え方によって、不純なものでも自分の思いが満たされればそれで良いとする考え方が認められているようなふしもあります。発信者の偏見が一方的に入った情報を耳にします。私たち自身が影響を受けることを知りつつ、好んで神の愛の養分でないものを取り入れることもあります。いずれも神様の願われるきよさから遠ざけられるものではないでしょうか。
・内面の心〜調べる(=自己吟味)必要がある
車でも点検を定期的にします。私は違和感を感じながらも調べることなく、結局続けて運転したために痛い体験をしました。私たちは、絶えず自分の心を調べる必要があるのではないでしょうか。順調な時にも油断をしていることがあります。また葛藤を放っておくことは、ぶどうの木から枝に流れてくる愛の養分を結局とどめてしまうことになることを身を持って示されました。
結論は、肉の思いを捨てることです。
たとえば、外側はキリストの木につながっている枝には違いありませんが、心の内は神の愛100%かどうか、愛を流させない不純なものがとどめていないでしょうか。イエス様からは愛が流れてきているのに、枝が肉の自分の思いを主張している状態にあるときに、自己吟味は欠かせません。
私はある出来事に対する心のうちを調べていく時に、表面的には出していなくても自分の正しさを主張し、神の愛をはねつける石の心の存在を見ました。
また、枝自身が正しい状態にないことを感じ、実は苦しんでいるからこそ葛藤しているとわかりました。しかし、肉の思いがあるときは、主から心を離しっぱなしです。主が見えていません。そればかりか枝に伝えようとしている木の思いを拒否します。
(詩篇37:7)“主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。…”
その砕かれない心のままであっても見過ごさず、私たちはとどまって、すなおに主の前に出る必要があります。感情がいくら動いたとしても変わらない神の愛の前に出るのです。実際、私は「神様、私はどうしたらいいでしょうか。」と聞きました。そして神様の前に自分の心を差し出す、すなわち自分の弱さを認め打ち明けた時に、その時「わたしはあなたの恥をおおったよ。」との主の思いを与えられました。
イエス様は枝が仮にここでは自己義に立っていたとしても、その枝のために離れてしまうことのないようにとりなしてくださっています。自己中心に立って肉の思いに埋もれると、愛の栄養分を受け付けなくなり、枝が弱ってしまいます。他のもので一時的にごまかしても解決にはなりません。私たち枝がとどまるための自己吟味とは、主の前に出るということです。
さらにマンネリの状態になって新鮮さがなくなってきて、いつのまにか主との関係が儀礼的になってしまっていないだろうか、今日自分はどんな思いでいるのだろうかという自己吟味が必要なのではないでしょうか。実際にマンネリを打ち破るチャレンジも求められます。
パウロは「毎日が死の連続です」と言っているように、主の愛にとどまることを妨げる肉の思いを日々十字架につけ、悔い改めをして方向を変えることが求められます。そして枝として、主の愛にとどまりたいという本心を確認します。
決して私たちは主の愛にとどまるために追いつめられている状況にはなく、むしろ選択肢がたくさんあるがゆえの葛藤もあります。しかし、主は自分に何をしてくださったのかということをいつも考え、枝にぶどうの木にとどまり続けてほしいという主の願いを受け止めながら、心を吟味しいつも新鮮な主との関係を維持してまいりましょう。
2.兄弟姉妹の一致を保つ(ピリピ2:1〜5)【辻和希伝道師メッセージ】
“こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。”
「同じ愛の心をもち…」とみことばにあるように、主の愛をもって私たちは一致をしていくことができます。一致を保つことをしていくことが主の愛にとどまることになると言えます。
◎1万タラント赦されたしもべ(マタイ18:23〜24参照)
28節にはこの赦されたしもべが100デナリ貸している同じしもべ仲間に出会った話が出てきます。本来、「人を赦さないなら、天の神様もあなたをお赦しにならない」ということが書かれている箇所ですが、今回は一致を保つということに焦点を絞って、この箇所を見ていきます。
ここには「同じしもべ仲間」と書かれてあるところから、普段は同じ主人のもとで仕える仲間だったと想像できます。しかし、自分は1万タラントを赦されたにもかかわらず、このしもべは、自分の仲間であるしもべを顧みることができませんでした。同じ主人に仕え、その主人の愛のもとに志を一つにして主人のもとで一緒に働いていたと思いますが、そのような愛の行動をとることができませんでした。つまり赦さなかったしもべの方は一致できていなかったということです。ふだんは一致していたかのように見えても、実は一致ができていなかったということがこの行動でわかります。
私たちも神様において一致することができます。しかし、誰一人完璧な人はおらず、私たちがどれだけ赦されているかということが盲目になっていたならば、相手のできていないところをついつい悪く思ってしまうかもしれません。
ピリピ2章の後半に「自分のことだけでなく、他の人のことも顧みなさい。」と書いてあります。まさにここがポイントであり、自分が気をつけている点です。自分のことばかり考えていたら、回りは見えず、気がつけば自分だけが群れから外れて違うところに立っていたということが起こり得ます。だから、一致を保つということは、主の愛にとどまることにつながることであり、クリスチャンにとって大事なことだと言えます。
一致を保つことには本当に難しさがあります。自分は一致できていると思っていても、実はそうではないということも起こります。自分の意見を持っていても、いったんその場の流れに合わせてくれていることが、一致していると勘違いしてしまうこともよくあります。その原因を探った時に、やはりお互いのことを知っているようで知らなかったということがあると思いました。相手のことを知らないまま、自分の中で描いた相手が良いと思っていることもあったと思いました。当たり前のことですが、一致を保つにあたって、交わりを大事にすることが本当に必要です。
一致することが簡単でないならば、当然主の愛にとどまることも簡単なことではありません。だからこそ、チャレンジし続けるかいもあります。一致が簡単にできてしまったら信仰生活はこんなに苦労しません。なかなかできないので、毎週メッセージを聞くわけです。
今週も交わりを大切にした一致を保つことにチャレンジし、主の愛にとどまることにチャレンジしていきたいと心から願います。
3.みことばに生きる 【横路伝道師メッセージ】
主の愛にとどまるために私は、みことばを思い巡らせることにチャレンジしています。私たちの神様は、みことばなる神だからです。「主の愛にとどまる」とは「みことばにとどまる」ことだと思うからです。
(ヨハネ1:1)“初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。”
私たちは聖書のことばを単に記憶しているということではなく、生きて働かれる神様、そのみことばをいつも思い巡らせ、みことばに生きる生き方をしたいのです。
(詩篇48:9)
“神よ。私たちは、あなたの宮の中で、あなたの恵みを思い巡らしました。”
とありますが、私たちは教会の礼拝の中で、みことばを賛美し、みことばを聴き、思い巡らせます。いつも、救いのみことば、恵みのみことば、慰めと励ましのみことば、約束のみことば等は、私たちに働いてくださいます。
私たちはそのようなみことばの中から、特に自分にとって大切なみことばを握り、いつも思い巡らせていますが、私の場合の一例として「愛」についてみことばを思い巡らせる時、次のようなみことばとそのみことばに対する応答が浮かんできます。
(第1コリント13:4〜6)には
“愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。”
とあります。これを思い巡らせる時に、この中で「人のした悪を思わず」というみことばを実際にどういう応答するかということですが、私は更に関連したみことばをまた思い巡らせるようにしています。
人のした悪を思いにとめてしまうと害があるので、思わないようにすることが安全なのです。
テレビや新聞等の悪いニュースからも、人のした悪が目や耳に飛び込んできて、私たちの心を汚し、怒りや不安、痛みを覚えるような悪影響を受けてしまいます。だからそのようなものを心に留めず、むしろイエス様が十字架上で祈られたみことばを思い出し、同じように祈り告白するのです。
(ルカ23:34)“…「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」…”
また他のみことばを思い巡らせます。「人を罪に定めてはいけません」「さばいてはいけません」「赦しなさい」というみことばを思い巡らせ、「人を罪に定めることはしません。」「さばきません。」「赦します。」と告白するようにしています。
人のした悪を思う代わりに、みことばは私たちに心に留めるべきものを教えています。
“最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。”(ピリピ4:8)
いつもみことばを思い巡らせ、良い応答をし、みことばに生きる毎日でありたいと思います。
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