■2014年2月23日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛の実りの喜び  up 2014.2.23


わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。
(ヨハネ15:11)

 

 

 

 「これらのこと」とは、15章1節から語られてきた農夫である
父なる神様、ぶどうの木であるイエス・キリスト、そのぶどうの木の枝である私たちという三者が出てくる話で、豊かな実を結ぶことを目的として書かれてあります。実を結ぶことは当然喜びであり、私たちのうちに喜びが満たされるために、神様はイエス様の口を通して、ぶどうの木と枝の話をされています。皆さん、悲しみにつらいことに、負けない、くじけない、根に持たない、過去を忘れてしまう喜びが欲しいですね。喜びがあると幸せに感じ、人生が楽に感じ、仮に重い物を持っていても楽に感じます。愛から来る喜びは私たちに変化をもたらします。愛が実ると大きな喜びがもたらされます。
 そのために、重要なポイントとして「とどまる」ということばが繰り返し出てきます。みことばは私にどのような意味があるのかを考えないままに安易に捉えたり、聞くだけに終わったりする落とし穴があることに気づいてください。知識を多く持つと憂いも増す、知識は高ぶらせるとも聖書に書いてあります。愛のためにこそ知識を活かしてください。

1.主題聖句より(ヨハネ15:11)“みことばは前述”
【内容観察】
「救い主はぶどうの木。救い主を遣わされた神は農夫。 そして、神の愛 を信じる者たちはぶどうの木の枝。この三者が愛によってつながっているなら、多くの実が枝に結ばれる。 神の愛を信じ、キリストの愛の中にとどまるたましいの実である。このような実が結ばれることは、最高の喜びである。」
○農夫である父なる神様が望んでおられる実の一つは、神の愛を信じるたましいです。
 神様は、人格的内なる実を結ぶ前に、まず神様の愛を信じる人として救われることを願っておられます。救われた人こそ「御霊の実(愛・喜び…)」という人格的実を結ぶ価値が生まれてくるからです。イエス・キリストを通して神の愛を見、触れることができます。神の愛を証しされたイエス・キリストを信じることと神の愛を信じることは同じです。神の愛を信じた人は、必ずイエス・キリストに至ります。

○人々との関係作りは、神の愛を信じることができる可能性を生み出すことになります。
 私たち枝にイエス・キリストを信じるたましいという実が実ってくるのは、私たちの関係作りによります。ともかく世の中の人
々との健全な関係作りをしておくことは、いつその人が実となられるのかわからないので大切です。健全な関係を作り上げておくと、あなたが信じておられるイエス様に関心を持ってこられ、キリストを信じる信仰に導かれると思います。私たちにとっても、関係のある人が救われることを願うことは大切です。ぜひ回りの方々に関心を持ってください。
【デボーション参考ポイント】
★神の愛を信じる人々が起こされるために祈る一週間としましょう。
(第2コリント2:15)
“私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。”
 神様にも、かぐわしいとお感じになるかおりとそうでないかおりがおありのようです。罪の行いが残っているあなたであっても、神の愛を信じているあなたの存在をかぐわしいかおりと感じておられるのです。神様にそのように思われていることをぜひとも喜んでください。
 このかおりは、主の愛にとどまる生活のことです。愛を基にしているので、行いの実が伴わなくても、その存在そのものが神に好まれるかぐわしいかおりとして喜ばれています。そして、あなたが主の愛にとどまる生活をしてこのかおりを放っていると、このかおりに同調する神の愛を信じる人が、かおりにひかれて集まってきます。これが「救われる人々の中でも」の意味です。その反対に、自己中心の愛を持った人々は、神様の愛に近づいてきません。得たい、愛されたい、自分の思い通りにしてほしいと要求する愛ですから、与える愛は受け入れがたいのです。当然、彼らはついてきません。
 とどまるとは戒めを守ることです。神様の愛の戒めである隣人を愛するということです。これは互いに愛し合うことを意味しています。隣人愛に生きていくことに努めていくことによって、かぐわしいかおりを放っていきます。また私たちは祈ることによって、いろいろな人々に愛を表していくことができます。身近な人々が神様の愛を信じることができるように。愛に対して閉ざされた心が開かれるように。愛への偏見が取り除かれて、素直に愛を受け入れることができるように、と。特に祈りたくない時に祈ることは、愛をもって祈るしるしです。祈れないという感情のもとで祈るのは、愛がなければできません。感情は愛ではないからです。祈れない人のために祈ることは、隣人愛を行動に移しているのです。敵に愛を注ぐ方法は、まず敵のために祈ることです。どうぞ、今週のデボーションの一つの課題として行っていただけたらと思います。

2.『五穀豊穣』を願って(詩篇126:5〜6)
“涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。”
◎『五穀豊穣』(ごこくほうじょう)の意味
 穀物が豊かに実ること。
【内容観察】
 『涙』『泣きながら』⇒愛の労苦。神の愛の証人たちの働き。
 愛の労苦の実を収穫する喜びは大きい。
 収穫とは、神の愛を信じる人々が多く起こされていることを願っています。普通、楽しみながら種蒔きをしますが、涙とともに種を蒔くとは、神様の愛を信じる人々の収穫だからです。この涙は愛の労苦を表現しています。
 もしあなたが救われてほしい家族がおられるならば、涙をもって祈りませんか。愛の労苦が救いの実を生み出していくと、ここで語られています。神の証人たちが、この愛の労苦をし、それによって喜びの収穫となるのです。この喜びは種蒔きをした人こそが味わえるものです。
 他の人が種を蒔いたものを別の人が収穫しても、そこまでうれしいとは言わないものです。しかし、種蒔きから収穫まで全部世話した人の収穫時の喜びはひとしおで、まるでこのみことばのようです。労苦の報いを見るからです。誰かの救いのために祈って、その祈りが応えられたとき、その喜びは祈った人にしかわかりません。
 また種蒔きは、直接的な伝道だけを言いません。基本的な種蒔きは「祈る」ということです。涙をもって、関係のある人から見知らぬ人にまで魂の救いのために祈ったならば、この教会に新しいたましいが加わった時、どれほどの喜びが与えられることでしょうか。私たちは自分の信仰を守り通そうとして、自分の信仰のことしか考えていないのではありませんか。  
 農夫は、まず神の愛を信じるたましいの救いを希望しておられるのです。愛を知ってほしいと父なる神様の強い思いがあります。イエス様は私たちが罰を受けなくてよいように、十字架で私たちの罪の身代わりに刑罰を受けて苦しまれ、涙だけでなく血を流してまでも、神様の愛の良い福音の種蒔きをしてくださったのです。ですから、あなたがたが救われたことに、イエス様はどれほどの大きな喜びを味わっておられるでしょう。天の御座で喜び叫ぶ思いで感動しておられるのです。それは、十字架でご自分が種を蒔いて実ったという喜びなのです。その喜びは、私たちも味わうことができます。すなわちあなたが見知らぬ人々のために愛をもって、涙を流すような祈りをするとき、人々が救われて来るときに感激する喜びです。人を、たましいを愛する喜びを味わうのです。(詩篇126:5〜6)は、この意味が表されているみことばです。
◎実を結ぶために涙を流すほどの愛の種蒔きをする愛の労苦◎
 最初からは涙は流せませんが、告白し続けることによって真剣な姿勢が生まれ、涙をもって誰らのために祈っていけるように変わっていくのではないでしょうか。

【デボーション参考ポイント】
★救いの喜びは神の愛を知る第一歩。(第1ペテロ1:8〜9)
“あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。”
 ペテロは、イエス様を直接見て、触れて、会話し、12人の弟子たちの中でも特に身近な3人の弟子の一人だった人です。ペテロはよみがえられたイエス様を直接見た自分と同じように、目の前にイエス様が現れていなくても、ペテロと同じ喜びにあふれている人を見たのです。
 みなさんはキリストを信じる信仰の結果、たましいに喜びを得たはずなのです。永遠の裁きを受ける罪から救われて、安心して神の国を相続する神の子とされているからこそ喜べるはずなのです。しかし思いわずらいやコントロールできない感情によって、栄えに満ちた喜びを素直に受け入れていなかったかもしれません。私たちは目先の思い通りにならないことに心悩ませて、本当に喜ばなければならない栄えに満ちた喜びを抑えてしまっているのではないでしょうか。
 救われていることに慣れてくると、思い通りになっていないことに不満が出て、救われていることが小さいことのようになってしまいます。それはまるで通帳に一億円入っていても、財布に10円しかないと思ってしまっているかのような信仰生活です。何か間違っていませんか。まずは罪が赦されていることを喜びましょう。この喜びの上に悩みが載っているのです。本来、この悩みは救われている喜びのゆえに軽いはずです。
 私たちは大きい救いの喜びを小さくしてしまって、小さいはずの問題を大きくしていませんか。このような状態ではキリストのかおいを放つことが難しくなりますね。今、どんな問題があっても、まず神の前に罪赦されている大きな喜びを忘れないようにしましょう。この喜びを人々に伝えられることが大事なポイントです。この喜びを忘れると、クリスチャン生活は苦しいだけになってしまいます。
 人生のすべての悩みは、罪の奴隷となってしまっている生活から生まれ、解決できず、行き詰まっているものです。しかし、イエス様を信じて罪の赦しを味わい、神様の力強い愛を知ったならば、人生の様々な問題は軽く受け止められ、立ち向かって、問題にとらわれることがなくなりさえもします。逆に問題を振り払えずつかんでいる人は、束縛されているのです。救われていることの喜びに心を向けた方が、どれほど私たちの心を明るくすることでしょうか。
 また神の愛を信じたことの実は、涙を流すほどの苦しみを忘れられるほどに大きな喜びです。ましてや神の愛を信じるたましいが救われたら、どれほどの大きな喜びでしょうか。私たちは神様の愛によって救いを体験し、たましいの解放を体験しました。神様の愛は、行き詰まっても必ず未来に良い実を結ぶことができるように、道が備えられています。これほど力強いものはないことを伝えるのが、私たちのクリスチャン生活です。それは問題にぶつからないと味わえないものです。イエス様が教えてくださった「試みにあわせず悪より救いいだしたまえ」という祈りがありますが、へりくだった人は試みにあうことが少ないのです。試みから逃げている人はきよめられず、試みられるのです。「互いに愛し合う」ことにチャレンジしていけば、試みは最小限になります。
 自分のたましいが救われている喜びを持ちながら、互いに愛し合うという愛に生きるときに、神に香ばしいかおりを放つ歩みとなって、人々があなたの愛のかおりに集まってきて、神の愛を信じる心へと導かれていきます。

『ほほえみは うちなる春の きざしかな』
 たましいの救いを得たきざしとして、ほほえみが顔に現れてきます。

 

 

 

 

■2014年2月16日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛は戒めを守る  up 2014.2.16


もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。
(ヨハネ15:10)

 

 

 

 主の愛にとどまるとは、イエス様の戒めを守ることです。
1.主題聖句より(ヨハネ15:10)“みことばは前述”
【内容観察】
(1)戒めを守ることが、愛にとどまることである。
 愛にとどまるとは教えを行うことです。戒めとは、私たちに対する定めであり、私たちが存在する上での大事な規則です。
 イエス様が私たちに語られた、ただ一つの大事な戒めは、「互いに愛し合いなさい」ということでしたね。私たちはこのことを決して忘れてはいけません。
 互いに愛し合うためには、いろいろな内面の取り扱いや、聖書を通しての神様からのアドバイスが必要です。しかし、これらを受けつつなお、イエス様からの「互いに愛し合いなさい」とのみことばに思いを向け、ひたすらに守り通そうとすることによって、イエス様の愛の中にとどまっていることが証明されます。

(2)イエス様も御父の愛の中にとどまられている。
 イエス様ご自身も、神様の戒めを守ることによって、神様の愛の中にとどまっておられます。そして、ご自身が体験しておられることを、最も良いものとして私たちにも勧めてくださっているのです。世の人々は、自分がやりもしないことを人に押しつけることがままありますが、イエス様はご自分で実際に父なる神に従われ、すばらしいものであると確信された上で、私たちに勧めておられるのです。また、ご自分が従っておられるので、従う者の気持ちを理解しておられます。

(3)御父の戒めを守っておられるイエス様の戒めは、御父の戒めである。
 イエス様には父なる神様から受け継がれたものがあります。この愛の戒めを、イエス様は私たちにも受け継がせたいのです。なぜなら、そのすばらしさをよくご存じですから。イエス様が創作されたものではなく、神様からのオリジナルです。愛の源であられる方から受け継がれたものを、今度は私たちに受け継がせたいと、イエス様は願ってくださっています。
 これらのことを参考にしながら、この一週間を通してより深く今週のみことばを味わっていきたいですね。

【デボーション参考ポイント】
★戒めを守る⇒みことばを聞いて実行する(ヤコブ1:22〜25)
“また、みことばを聞いて実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。”
 「実行することを目指す」ことが強調されています。メッセージを聞いても実行する人が少ないのは、ヤコブが生きていた時代でも同じだったようですね。集会に出席して説教を聞くというかたちで、理解はしてもそこで終わってしまうのです。
 私たちも実際の生活にみことばを生かすことを目指していきたいものです。できなければだめなのではありません。しかし、実行することを励ましています。
 私たちが鏡を見る時は、人に会うために恥ずかしくないようにと、自分をチェックする時ですね。メッセージを聞くのは、自分の顔を鏡に映すのと同じです。気になる部分がない人は、見た(聞いた)直後に忘れてしまいますが、気になる部分を発見した人は、たびたび鏡(メッセージ)の前に立ち戻って自分を見返すことになります。
 たとえうまくできていなくてがっかりしたとしても、忘れてしまうよりはずっといいことです。良心がとがめているのは、覚えている証拠です。みことばに照らし合わせた心の顔に気になるところがあって、それがうまく処理できていないと気がとがめます。
これは実行するにあたって大事なポイントです。「こんなものだ」と受け入れてしまうと忘れてしまいます。しかし気になって、直さないと我慢できないと思う人は、どんな犠牲を払っても直すでしょう。
 あなたはあきらめますか?何とかしようとしますか?あなたが心の中に「良くないクリスチャンだ」ととがめを感じているなら、それは大事なことです。直さねばならない所を覚えているというのは、次に「直したい」という願いと「直そう」という行動につながっていくからです。
 主の戒めを実行する人は、必ずその報いを受けます。肌に浮き出たしみをなくしたいと思うように、私たちは罪のしみを消したいと思います。消すためにはしみの場所をチェックします。イエス様の血潮が、その愛が、しみを消してくださいます。イエス様の血潮に、神様の愛に、もっと近づこう、触れていこうというふうに受け止めていく人は、その行動によって祝福されます。みことばの力があなたをきよめるその実体験をぜひしてください。
★互いに愛し合うクリスチャン生活の初歩
(1)「祈る」こと。
 主が教えてくださった祈りを実行する(マタイ6:9〜13)
“『天にまします我らの父よ。
 ねがわくは御名をあがめさせたまえ。
 御国をきたらせたまえ。
 みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
 我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
 我らに罪を犯す者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。
 我らをこころみにあわせず、悪より救いいだしたまえ。
 国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。アーメン。』” 祈り方がわからないという方は、この祈りを心を込めて祈ってみましょう。何回も祈るうちに、だんだん意味がわかってきます。すると、祈りの実行によって祝福され、生活が変わってきます。

(2)「みことばを糧とする」こと。
 乳飲み子のように(第1ペテロ2:2)
“生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。”
 みことばを吸収したい、みことばを理解したい、みことばを通して神様を知りたいという純粋な気持ちを失わないように、聖書のことばに飢え渇いて心の耳を傾けていけば、成長して救いを得ます。
 あなたはみことばをじっくりと味わうためにどれだけの時間を割いておられますか。自分が成長しないと嘆くより、みことばを慕う時間をまず増やしましょう。私たちはいつでも聖書をそばに置いていられる幸運な時代に存在しています。昔の人々は、聖書を持つことさえ困難でした。また現代でも、迫害を受けている地域では聖書は手に入らず、みことばのメモを大事に保存しています。乳飲み子が乳を慕い求める気持ちを忘れないようにしましょう。

2.『有終完美』の心得(ルカ6:44)
“「木はどれでも、その実によってわかるものです。いばらからいちじくは取れず、野ばらからぶどうを集めることはできません。」”
◎『有終完美』(ゆうしゅうかんび)の意味
 何事も終わりが肝心であること。最後まで物事を立派にやり遂げること。最後まで成し遂げて見事な成果を上げること。

【内容観察】
(1)実を結ぶことによって木が判断される。
 一本の木には一種類の実がなるのが普通です。そして、なった実によって木の良し悪しや種類が判別できます。私たちはキリストにつながれたぶどうの枝であり、私たちがつけた実によって、世の人々はイエス様を判断します。私のせいで、何の落ち度もないイエス様が悪い木と判断されてしまう可能性があるのです。それが辛いと思うならば、イエス様から流れるすべての良いものを素直に受け止めて、みことばを行うことにチャレンジしていきましょう。良い実が必ずなります。
 イエス様の愛の中にとどまるなら豊かな実を結ぶと、みことばに約束されている通りです。

(2)期待する実を結ぶには、どの木にとどまるかによる。
 実はすぐには実らないものです。私たちは罪人ですから、最初のうちは、元木であるイエス様の良さが出ないかもしれません。でも、とどまり続け、実を結び続けていけば、だんだん良い実に変わっていきます。「今年が悪かったら終わり」ではなく、「まだ来年がある」のです。元木の良さが必ず枝に伝わって、いつの日かすばらしい実がなります。
 いつまで経っても良い実がならないのは、つながり方がおかしいか、あるいはつながっていないためです。そこをきちんと調べてみましょう。そして正しくつながれば、去年より今年、昨日よりも今日と、少しずつでも良い実を残せるようになっていきます。キリストを愛し、その戒めを守ること、みことばを実行するということを目指していけば、その行いによって祝福されるとの約束の通りに、あなたの生活の中に必ず良い実が生まれてきます。

【デボーション参考ポイント】
★神様が私たちに期待しておられること
“「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」”(ヨハネ13:34)
“私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。”(第1ヨハネ1:3)
 まずイエス様を手本とする愛をしっかりと観察することが必要です。いつもイエス様を手本としましょう。次には、イエス様が罪人である私たちに対してどのような関係作りをしてくださったかを手本として、お互いの関係を築き、協力し合うことが大事です。相手だけ、自分だけ、ではなくお互いに関係作りのための協力をし合うことが、愛し合うための大事な要素です。
 そして私たちの交わりは、最後を目指して磨きあげていくことです。「これでいい」ととどまらずに、地上の命が続く限りは交わりを磨き続けていくのです。夫婦も親子も関係作りは大事であり、磨きあげていくことが必要です。そして良い関係が築かれるのです。
 これらすべてのことは愛から出ています。そして私たちがこれらのことを実行しようとする思いの源は、イエス様を愛することから来ています。なぜならイエス様は全てをもって私たちを愛してくださったからです。私たちの罪を除くために全てを捧げて私たちを救ってくださるほどの愛を、私たちに向けてくださいました。その愛あるゆえに、私もその愛を信頼してイエス様を愛していこうという思いが、戒めを守る動機です。みことばを実行するという第一歩の力になるのです。愛を忘れてしまうと動機づけも失われ、気力もなくし、信仰の意味や価値さえも見失ってしまいます。
 ですから、ことばとしてだけでなくそこに愛を感じるように、祈り、また賛美の中で神様の愛に触れていく、そういう心を失わないでいただきたいと願います。

『見えぬとも 春立つごとく 愛も立つ』
 立春の日はむしろ寒く、春ははっきりと現れてくるわけではありませんが、確実にやってきています。
 愛も見ることはできませんが、神様の愛に私たちが触れていると、必ず立春のごとく愛も実を結んでくるのです。

 

 

 

 

■2014年2月9日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 神の栄光となる愛の実  up 2014.2.9


あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。
(ヨハネ15:8)

 

 

 

 ぶどうの木と枝に欠かせないのは農夫の役割です。農夫の存在なくして、枝は実を実らせることはできません。農夫である父なる神のぶどうの枝に対する深い愛を、今週は学びます。

1.主題聖句より(ヨハネ15:8)“みことばは前述”
 まず、ぶどうの木の愛を受けて、私たち枝はその愛に染められたからこそ、ぶどうの実を結ぶことができます。ぶどうの木からみかんやりんごはなりません。ぶどうの木から流れてきたすべての良いものに満たされて、枝はぶどうの実を結びます。

(1)ぶどうの木の愛を受けて、愛に染められ、実を結ぶ。
 私たちは、心を開いて、神様の愛を信じ受け入れ信頼することによって、その愛に染められます。染められるとは、ぶどうの木の栄養が枝に行き届くことであり、その結果実が結ばれるのです。

(2)実を結ぶことはキリストの弟子としての証しである。
 多くの実を結んだその状況が弟子となっていることの証明です。ぶどうの木と枝は師弟関係に例えられます。師の教えを受け継いで、師のようになり、その実を継承していくのです。

(3)枝に多くの実を結ぶために、働かれたのは農夫の父なる神である。
 農夫の働きは影の働きですが、その働きは多くあり、休みはありません。剪定だけではなく、枝に栄養が十分いくために必要なことは、全部農夫が整えていきます。神様は、願っているぶどうの実を結ぶために必要なことはすべてしてくださるのです。

(4)農夫が願う実を結べば、農夫は喜びに満たされ人々から称賛される。
 一番の喜びは、願った通りの実が結ばれることです。そのために、働いてきたからです。そして、周りの人々もその農夫の働きに称賛を与えます。農夫の働きによって、どのような実がなるかが決まります。どんな実でも実ればいいというのではありません。神様は、より良い実を結ばせたいと願って働かれています。

【デボーション参考のポイント】
★農夫である父なる神は、枯れるばかりの罪人の私たちが良いぶどうの木の枝として実を結ぶことができるために、どのような働きをしてくださっているかを考えてみましょう。

★ (ピリピ1:5−6)
「あなたがたが、最初の日から今日まで、福音を広めることにあずかって来たことを感謝しています。あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」
 農夫である神様は、滅びるばかりの私たち罪人を救ってくださっただけでなく、ぶどうの木に継ぎ合わせてくださり、その私たちから実を見ることまで、神様は期待してくださっています。
 ぶどうの実とは、ひとつは魂の救いを意味し、もうひとつは、御霊の実(9つ)を意味します。これらすべての実は(内なる実と外に現れてくる実)私たちの内に良い働きをもたらしてくださった神さまと、その福音を伝えてくださった多くの方々の働きによります。この教会がここに建っているのもその実の結果です。
 私たちが伝道するのは、自分が救われるためではありません。救われた喜びのゆえに伝えているのです。しかし、世の中の多くの宗教は自分自身が救われるため、より高い天の位につくために伝道します。
 私たちが神を証しする原動力は、神の愛を知り、救いの喜びに満たされた体験によります。そして、そのために、自分の命すら捧げて伝道する人もたくさんいるのです。
 また、聖霊は、互いに愛し合うという実を多く結ばせてくださいます。

2.『朝耕暮耘』(ちょうこうぼうん)(ヨハネ5:17)
“イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」”
 この熟語の意味は、農業に励んでいる勤勉な姿です。
 イエス様はベテスダの池で38年間、ひたすら水が動くのを待ち続けてきたひとりの病人を訪ねられました。水が動いて一番早く池に飛び込んだ人は癒されるという不思議な池の側で、彼自身は、どうしても一番には入れないという悔しさと落胆の中で、38年間もそこに居続けるしかなかったのです。イエス様は彼のその悔しさと失望、弱り果てた心を知っておられました。そのような彼のもとに来たイエス様は、「床を取り上げて、歩きなさい。」と声をかけられたのです。
 しかし、その癒されて歩いている彼を見て、律法学者やパリサイ人たちは、今日は安息日だから床を取り上げて歩いてはならないと言い張りました。そして、イエス様が癒されたことが分かると、「安息日に癒してはならない」と言ったのです。それに対するイエス様の答えがこの箇所です。安息日を制定された父なる神は、今も働かれているので、ご自身も同じように働くと答えられました。
 農夫に休みはありません。曜日に関係なく、農夫は収穫の時まで休み無く働き続けます。父なる神もそうなのです。それは、最上の良いぶどうの実を収穫するためです。
 また、安息日とは、肉を養うための働きを休むことにあります。昔は自給自足でしたから、毎日大変な労働をしていました。それゆえ、その肉の働きを休み、魂と霊を養うための時をもうけたのが、安息日です。肉体に関係するすべてのものを休み、魂と霊のために働くとはどういうことでしょう。それは与える喜びです。与える喜びは、魂と霊に力を与え、魂と霊を養います。人々が元気になることを通して、自分も元気になるのです。イエス様はそれゆえ、愛の業である癒しを行われました。
 互いに愛し合うという愛の関係で互いの魂と霊が養われます。

【デボーション参考ポイント】
★肉を養うための働きを休むことが安息日。そのかわりに、イエス様のように、働くことを考えてみましょう。
(第1テサロニケ5:11)
“ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。”
 農夫は最高に良い実を結ぶための働きを今日もしておられます。それゆえ私たちも、愛を与える働きをしていこうではありませんか。
 また、私たちは、兄弟姉妹の徳が高められ、励みとなるような愛の実を結ぶことができる枝にすでになっていることを信じましょう。枝がぶどうの木にとどまっているなら、農夫は良い実を結ぶように、いつも働いてくださっているのですから、徐々に自分も変えられているということに気づいてください。

 最後に、世界で初めて、無肥料無農薬でりんご栽培に成功した木村秋則さんのお話をしたいと思います。昨年映画にもなりました。彼が無農薬を目指したのは、奥さんが農薬に対してアレルギーをもっていたからです。りんごは虫にやられやすく、いくら努力しても10年間全くりんごをならせることができませんでした。野菜は簡単にできたのですが、りんごは本当に難しかったのです。彼は日夜休むことなくりんご農園につききりで、やっと11年目に花をつけたのです。最初は「ひとつでもいいから、実を実らせてちょうだい」と願いつつ育てていましたが、どんどん枯れていくのを見て、最後には「とにかく枯れないでちょうだい」と必死で願って育てたそうです。やっと実を実らせたこのりんごの木を増やして、今はたくさんの収穫ができるようになりました。
 この無肥料無農薬のりんごはその切り口が全く酸化せず、色が変わりません。また、糖度が他のりんごより甘く、生命力にあふれています。そして、国連から正式に認められ、木村さんは今や国内にとどまらず、世界のいろいろな所に呼ばれ忙しくされています。
 この方の苦労から、父なる神の農夫の姿を見るような気がします。無肥料無農薬でりんごは絶対ならないと言われ、いわば、奇跡というりんごの実を実らせ、しかも、このりんごの木がいとおしくてたまらないと言っておられる木村さんに、父なる神の姿が重ね合わせて見られるような気がします。神様は私たち罪人をぶどうの枝として、愛し期待してくださっています。
 農夫がお世話してくださっているのですから、必ず良い実が結ばれます。しっかりとぶどうの木であるイエス様にとどまっていきましょう。
「愛信じ 御国に入る 受験なし」
 キリストを通して神を信じるなら誰でもぶどうの枝となれます。そして、父なる神は良い農夫である御方なので、必ず実がなるように、お世話してくださいます。

 

 

 

 

■2014年2月2日 日曜礼拝メッセージより(横路伝道師、辻和希伝道師、小栗伝道師)

 愛に染められる  up 2014.2.2


あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。
(ヨハネ15:7)

 

 

 

【横路伝道師メッセージ】
1.ぶどうの木の性質を受ける
 ぶどうの枝がぶどうの木にとどまるように、私たちがイエス様の愛にとどまるなら、という条件のもとに「求めるものは何でもかなえられます」という約束のことばです。
 
 私たちがぶどうの木であるイエス様にとどまるなら、そのいのちを受け、愛に染められ、良い実を結ぶことにつながります。
“私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。”(ローマ6:4)
 
 私たちは、キリストの死と葬りと復活によって新しくされ、ぶどうの木にとどまる者とされる、つまり、イエス様と一つとされたのです。その「一つとされる」ことについて、(ガラテヤ2:20)には、“私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。…”と書いてあります。
 
 永遠の祝福を受ける、イスラエルの民の台木に接ぎ木された異邦人である私たちが、イスラエルの民(神の祝福の民)と同じ祝福を受ける者となった、一つとされたのです。
 
 水を入れたコップの中に草花を入れ、そこに赤い色素を入れると、草花はその赤く染まった水を吸い上げて、白い花も赤くなってきます。私たちはイエス様と一つになり、いのちと愛を台木であるぶどうの木から供給され、いのちと愛に染められ続ける幸いな者となっているのです。
 
 イエス様と一つにされる水のバプテスマを受けた後は、「聖霊のバプテスマ」を受け、日々力と愛の聖霊様から導かれていくことが大切です。

  そのように、イエス様から豊かないのちと愛の水分、養分を受け取り、聖霊様に導かれ続けるなら、必ず良い愛の実を豊かに結ぶことができます。御霊の実は愛の神のご性質の表れ、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」です。
 
 先日、ある方から「ありのままに生きるとはどういうこと?」という質問をいただきました。私は、「人と比べないで個性的に生きること、またクリスチャンとして神の子らしく生きることでは」と答えました。
 
 水野源三さんの詩に、「あまがえるは、あまがえるのように
かたつむりは、かたつむりのように 私は、私のように生きる。」という詩があります。私たちの「ありのまま」は、神の愛のご性質に染められた神の子らしく生きることではないでしょうか。
 
 また、川野すすむさんの詩に、「どんな不幸を吸っても、私から吐く息は全部、神様への感謝でありますように。すべては恵みの呼吸なのですから。」という詩があります。そのような生き方をしたいと思います。

【辻和希伝道師メッセージ】
2.キリストのことばをとどまらせる  (ヨハネ15:7a)
“「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。…”
 
 主題聖句をみますと、「とどまる」ということばが二カ所出てきます。

◎キリストにとどまるとは
 とどまる〜進行している状況から一旦とどまる
 私たちはキリストにとどまる者です。なぜなら、今もこうして礼拝をささげていますし、またキリストを受け入れて、他の選択肢よりも礼拝をささげることを選択しているからです。しかし、礼拝出席だけがキリストにとどまることだろうかと思わされます。

※(マタイ25章より)
 ここに有名なタラントの話があります。主人がしもべにそれぞれ5タラント、2タラント、1タラントと預けていきました。この中で1タラント預かったしもべは、隠して損失を与えないようにしました。主人のためにと、1タラントを減らさないようにとしたわけですが、主人はその行動を良しとはしませんでした。反対に、自分の能力に応じて5タラント、2タラント預かったしもべは十分にそれを活用した結果、実を実らせ、主人からほめられました。
 
 私たちは、それぞれキリストのからだの各器官であると聖書に書かれています。神様は私たちにできること、私たちにしかできない賜物を与えておられます。私たちがそれぞれに応じていただいている賜物を教会のために、愛する兄弟姉妹のために、神様のためにどう活かしていこうかと考えることこそ、キリストにとどまる本当の歩みではないかと思いました。礼拝出席を選ぶ段階か
ら一歩進んで、私たちに与えられているものを十分に活かしていこうとすることも、神様に喜ばれる歩みだと思います。

◎キリストのことばがとどまる
 みことばがとどまるために、極論はみことばをいつも告白し、暗記することでしょう。しかし、知識としてみことばを覚えることだけが、そのみことばにとどまっていると言えるでしょうか。
 
 今は受験シーズンですが、受験のためだけに丸暗記したものは応用力がついていないため、問題を解く力が自分の身についているとは言えません。困難なとき、感謝なときに、さっとみことばを告白できるようになってこそ、みことばにとどまっていると言えるのではないでしょうか。
 
 さらに、私たち自身にみことばがとどまるわけですから、いかに生ける神の宮(第2コリント6:16)である私たち自身がどうあるべきかを考えることも必要です。みことばをとどまらせるにふさわしい宮だろうか、と今週考えていきたいと思います。

  せっかくみことばを覚えて活かせる状態にあっても、一週間を世の人と何ら変わりのない歩みをしていたとしたら、果たしてみことばが神の宮で生きてくるでしょうか。私たちは、いつも神様の前に正しい生活の仕方をしているかどうかを考えていきたいと思います。
 
 今週も皆さんと一緒に、キリストのことばをどのようにとどまらせ、さらにキリストのことばによってどのように愛に染められていくかを共に考えてまいりましょう。

【小栗伝道師メッセージ】
3.枝が求めるものは
 「染められる」とは
・人の影響で特定の考えや思想になること。人に感化されて影響を受けること
 
 私たち枝は、イエス様を罪人のために差し出してくださった神様の愛に染められたいと思います。この主題聖句の「何でもあなたがたの欲しいものを求めたら、かなえられる」ということばに目が向きがちですが、それには1、2の段階を経ることが前提です。

◎ぶどうの木と一体となり、ご性質に預かった(染められた)枝が 求めるものは何でも与えられる
 「染まる」とは、枝の皮をむくと中身が全然違うものだったということはなく、枝のどこを切ってもぶどうの木の養分が100%流れているというものです。染められていくとは、受ける側が心を開いている状況があると言えます。全面的には委ねていない状態になると、20%くらいしか栄養分である神の愛が流れてこないということもあるでしょう。一体となったとは、愛があり信頼があり、ぶどうの木と私たち枝が全く一つとなった状態です。重ね合わされて思いが一つとなった枝が求めるものは何でも与えられるということです。

  私たちは神様に選ばれ、イエス様のいのちと引き換えにそのいのちをいただいた枝として、何を求めましょうか。自分の願いは、神様の思いを受けたものだろうか、欲からだろうか、キリストのぶどうの木につながっている枝の願いかどうかといつも吟味したいと思います。神様は私たちが成長するまで忍耐してくださっていることを感謝します。

*エステルの場合
・ペルシャの王であるアハシュエロス王⇒神様の型
・初めの王妃ワシュティ⇒ユダヤ人の型
・エステル⇒異邦人の教会の型

○おとめたちが王様のところにはいっていくための12ヶ月の準備の期間
・6ヶ月…没薬の油〜死体の臭いを止める効果〜自我へのこだわりがなくなるための期間
・6ヶ月…香料と婦人の化粧に必要な品々で化粧〜聖霊に満たされる
 
 王様のところに迎えられる花嫁の姿がエステルであり、つまり主に迎えられる婚宴のために、肉の性質が全く砕かれる没薬の6ヶ月の期間、さらに聖霊に満たされ、喜び、主に従順になる6ヶ月の期間を通して、主に出会う花嫁の教会としての準備がなされます。

(エステル2:13)
“このようにして、おとめが王のところに入って行くとき、おとめの願うものはみな与えられ、…”
 王のところにはいっていくおとめたちには、自分の好きなものを何でも持って行くことが許されました。

(エステル2:15)
“…彼女(エステル)は、女たちの監督官である王の宦官ヘガイの勧めたもののほかは、何一つ求めなかった。…”
 
 エステルはヘガイ(聖霊様の型)の勧めたもののみ持っていきました。完全に自我が砕かれて、聖霊に満たされて神の愛を100%受けている枝にとっては、聖霊様が勧めてくださるものだけが自分の求めるものとなり、自分の欲による願望は捨てられて(没薬の期間ですべてなくなり)、神様の愛でいっぱいとなり、自分に関わることは関係なくなっているということです。
 今、イエス様のぶどうの木に連なっている枝として、自分の願いはどこにあるかを探るときに、完全に神の愛に染められたら、肉の願いは起こってこないということではないでしょうか。私たちは今、主の花嫁として迎えられるまで、喜びをもって主が来られるのを待ち望み、神の愛に染められたいと思いました。

◎枝は、ぶどうの木につながるため(神の愛に染められるため)に必要なものを願う
 イエス様のいのちが犠牲となって与えられたいのちを受けた枝は、互いに愛し合うために必要なもの…赦す心、ありのままの自分を認める心、また自分にこだわる心を捨て忍耐を与えてください、と求めてよいのです。すべて神の愛に染められるための願いです。
 
 神様の愛を受けていることをわかりもってなお、肉に走る私たち枝であっても、神様、イエス様は、そんな枝を受け入れてくださり、神の愛の栄養分が100%流れるようになるまで枝の成長を待っていてくださいます。それほど、イエス様にとって、枝は大切な存在なのです。

 やがて主が迎えに来られるまで、肉が砕かれる没薬の期間も受け止めて、神の愛に染められていくことを心からの願いとし、喜びとする枝となっていきましょう。

 

 

 

 

■2014年1月26日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛からの戒め  up 2014.1.26


だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。
(ヨハネ15:6)

 

 

 

 変化が激しい現代社会の中で、「とどまる」というのは非常に難しく力がいることです。神様の愛の中にとどまるのを押し流そうとする不敬虔な世の中の流れに負けないように、神様の愛にしがみついて(しがみつく=信仰の意)いきたいと思います。
 一人一人の心境によって、(ヨハネ15:6)のみことばの響きは違うかもしれません。これを語られたイエス様のお心を考えると、これは「愛から出た戒めの言葉」としてご紹介したいのです。みことばの中の「もし」には、そうなってほしくないという気持ちが表れています。
【内容観察】
「次のようなことがあってはならないことですが、だれでもわたしの愛を受け入れてわたしにとどまり続けなければ、不健康な枝として取り除かれ捨てられてしまい、枯れてしまいます。枯れ枝は火で焼くために寄せ集められ、火に投げ込まれて燃えてしまいます。」
 栄養分が流れなくなった病的な枝は、農夫が見ると、切り取ってしまい投げ捨てられますが、枯れるまでは火に燃やしません。つまり、完全に枯れる前に再度ぶどうの木に立ち返る方法はないのかと、枯れるまでにチャンスが与えられているとも考えられます。
◎枯れ枝になることを避けてほしいというイエス様の強い愛の願い
 枝が枯れることはイエス様にとっても大変な痛みであり、イエス様の愛にとどまるようにと切実な思いが込められています。

1.『烏之雌雄』(からすのしゆう)(マタイ13:29〜30)
“「だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」”
 ここは、神様の最後の審判のことを語っておられます。主人は畑に良い麦をまいたはずが、夜に敵がまいた毒麦も出てきたので、毒麦だけを抜き集めようと言ったしもべに、主人が毒麦と一緒に良い麦も抜き取る可能性があり、判別が難しいので収穫のときまでおいておこうと言ったのです。収穫の時は、実が完全に実っているので、実を見れば麦か毒麦かはっきりわかるのです。
 イエス様は、この収穫の時を新しい天と地が与えられる直前の神様の「最後のさばきのとき」として語られています。世の中から悪人が取り除かれない理由もそこにあります。現に過去にあくどいことをし続けてきた人々がイエス様に出会って改心し、救われてきた事実もあります。

◎『烏之雌雄』の意味
 物事の是非や善悪などがまぎらわしくて、判断がつきにくいこと のたとえ。
●人を主観で毒麦と量らないように。

●人を量ることがおできになるのは創造主だけ。

【内容観察】
「本当の毒麦が誰であるかを見分けることは完全にできません。ですから、収穫のときである神の最後の審判までそのままにしておきましょう。そうすれば、その実によって間違いなく見分けることができるからです。」

【デボーション参考ポイント】
●人(自分も含め)を評価して裁いてしまわないように気をつけましょう。
 最後の最後まで主への思いを持ち続けることをあきらめないようにしていただきたいですね。

●愛の戒めに耳を傾けるよう
 神様は枯れ枝になってしまうことを望まれません。だから(ヨハネ15:6)に忠告のことばがあり、さらにそれを理解するために(マタイ13:29〜30)のみことばを紹介しました。

●最後の審判である収穫の時が存在することを、軽んじてはいけないと思います。
 
 すべての人が量られ、永遠を確定する時が必ず訪れる、その時に神の裁きに巻き込まれないためにも、しっかりとぶどうの木であるわたし(イエス様)につながっていなさいと、神様がイエス様を通して語ってくださっています。そのときが必ずあるから、戒めがあるのですね。
 必ずやってくるものに対しては心づもりをし、準備をしておく必要があるのではないでしょうか。人は感情をぶつけて支配的な心からの戒め、忠告をしますが、神様の戒め、忠告は感情的に責めたり傷つけたりされず、愛から出ています。

2.悔い改めの機会(エゼキエル18:21〜24)
“しかし、悪者でも、自分の犯したすべての罪から立ち返り、わたしのすべてのおきてを守り、公義と正義を行うなら、彼は必ず生きて、死ぬことはない。しかし、正しい人が、正しい行いから遠ざかり、不正をし、悪者がするようなあらゆる忌みきらうべきことをするなら、彼は生きられるだろうか。彼が行ったどの正しいことも覚えられず、彼の不信の逆らいと、犯した罪のために、死ななければならない。”

【内容観察】
「過去が悪者であるか正しい人かによらず、現時点において神とともに歩む人生の方向に向いているなら、枯れた枝のように火に投げ込まれて燃えてしまうようなことはない。」
 
 ここで、悪者が心改めて罪から立ち返るならば、生きて死ぬことはないということへの慈悲深さは理解できます。しかし、正しい人が最後の審判の一日前に信仰心を翻して、正しいことを放棄し、欲望どおりの生活をしていったならば、それまでの正しいことは覚えられず、不信の逆らいのゆえに死ななければならないというのです。それならば若い時に好き勝手をして、ある時期に信仰を持つのが得策と考えるような人も出てくるかもしれません。私たちは人生をいつ終えるかわからないのですから、まだ今日は罪を犯しても大丈夫というような心構えの人が、正しいはずがありません。正しい良心を持っている人は悪だくみの計算をしません。両者の大事なポイントは、悔い改めの機会を通して、今という時を神様とともに歩む人生を維持していくことです。

【デボーション参考ポイント】
●悔い改めのすばらしさに目覚める〜悔い改めの機会が与えられていることは幸せなことです

(1)悔い改めの価値…御子の代価あっての悔い改め
 悔い改めて罪が赦されるのは、代償が支払われているからです。私たちが代価を払わなくても悔い改めるだけで実が実ります。悔い改めは自分を責めたり、悲観したり、無理やり間違いを認めさせられて「失格者」と決めつけられたりするものではありません。神様は「愛の悔い改め」を強調しておられるので、「あなたがやり直すための代償が支払われているので、悔い改めることはイエス様のいのちの価値を受けることです。」と言われています。

(2)悔い改めの重要性…救いには必ず悔い改めが必要
 バプテスマのヨハネが「天国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ。」と語りました。いいニュースだと受け入れても、悔い改めなかったら救いはそこになされません。そういう重要な分岐点なのです。神様とともに歩む人生か、神様から離れていく人生のどちらを選ぶかです。神様を信じる前の自己中心の生き方から、神様の愛に導かれて間違いに気づき、今までの自分が向かっていた方向から真反対に、神様の愛に導かれ、神とともに歩む方向に変えることが、最初の救いに至る悔い改めです。ですから、最初の悔い改めが弱いと救いの確信もはっきりしないこともあるかもしれません。

(3)悔い改めの力…罪人を義人とする
 罪人が方向を変えると義人と認めて頂けるのが悔い改めです。悔い改めは世の中では責められるイメージがありますが、実際は喜びであり、解放であり、すばらしいものです。神様は、私たちに枯れ枝になってほしくないので、御子の代価をもってあなたを再びぶどうの木につながる準備をしてくださいました。そのための悔い改めです。悔い改めがないと、元のぶどうの木に戻ることはできません。枝にとって不信仰とは、キリストから離れかけることです。しかし悔い改めるならば、また元に戻るのです。心を入れ替えれば、またぶどうの木に接がれるチャンスがあるということです。やり直しができるとはこういうことです。すぐに枯れ枝とは決めつけられません。

●悔い改めのすばらしさ
◎悔い改めは生長点…悔い改めるほど私たちは生長する
◎悔い改めは霊的、精神的節目…悔い改めが人生の節目としてのしるしが
 心に刻まれる。神様の方向に向いていると確認できる
◎悔い改めは軌道修正…クリスチャン生活は神様とともに歩むことを意識
 していても、世の中の不敬虔の流れに影響されてずれてい くこともあ
 りうるので、そのたびに軌道修正の悔い改めが必要である。
◎悔い改めは心の一新…(※ローマ12:2)より、悔い改めの心をもって
 リセットし直す。
◎悔い改めは良心の掃除…世の中にいると良心にホコリがたまり、感性が
 鈍り、みことばや善悪に対して鈍感になるので、小さなことでも悔い改
 めると、きよめられる。良心が敏感に働くようになるため。

 ぜひ悔い改めへ、心が開かれていただきたいと思います。悔い改めをする人は成長していきます。

『厳寒の ふくらすずめに 励まされ』

 ふくらすずめは枝にとどまり、寒さをしのいで耐えて過ごしています。どんな季節があろうとそこで生涯を過ごす姿に、クリスチャン生活も刈り込みを避けては過ごしたくないと思わされます。

 

 

 

 

■2014年1月19日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛のきよめ  up 2014.1.19


あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。
わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
(ヨハネ15:3〜4)

 

 

 

 農夫がぶどうの木を世話するのは、その実を収穫するためです。実のならないぶどうの木は、その存在価値がありません。人間も神のかたちに似せて創られている以上、何らかの実を結ぶことを神様は期待されています。農夫は、自分が願う実を結ぶようにと、ぶどうの木を世話します。
 先週は2節の、“もっと多くの実を結ぶために刈り込みをされる”部分から、父なる神様が私たちに愛を注いでくださっていることを聞きましたね。そして、ぶどうの木がイエス様であると紹介されました。本来は一つのものとして扱われる「ぶどうの木と枝」をあえて別のものとすることで、イエス様と私たちの関係を表しているのです。枝は木がなくては生きていけないものです。ぶどうの木は、枝にとっては救いなのです。神ご自身が御子イエス・キリストという姿をとってこの地上に下られ、私たちにも実をならせることができるという希望をくださったのが、イエス様の救いです。これらの出来事は全部、私たちへの愛が動機となっています。神様は愛によって枝の不要な部分を刈り込まれ、より良い実を豊かに実らせることができるよう、働きかけられます。
★2節の「刈り込み」というギリシャ語は、3節の「きよい」という
 ギリシャ語を語源としている。
 汚れを取り除く、物理的に汚れていない状態を表す言葉だそうです。

1.愛の刈り込み(第2テモテ3:16〜17)
 刈り込みときよめは同じ意味あいにとることができます。
“聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。”
 神のことば、聖書の教えは、神の人が十分に刈り込まれた状態になるために有益なものです。
【内容観察】
「聖書はすべて、神の愛の霊感によるもので、ぶどうの木の枝が農夫によって刈り込みされて整えられるように、教えと戒めと矯正と義の訓練という刈り込みに有益です。それは、ぶどうの木にしっかりととどまっている神を愛する人が、農夫が願っているぶどうの木の実を豊かに結ぶ者となるためです。」
 聖書のみことばによって、さらに良い実を、さらに豊かに結んでいく私たちのクリスチャン生活があります。神様はわがまま(自己中心)の実がついてしまうことを心配されます。世の中でも、わがままな人がいると、周りの人は迷惑をこうむります。わがままは熟すことのない実です。これがつかないために、神様は私たちを剪定され、わがままを刈り込まれます。私たちにとって辛いことではありますが、必要な処置でもあるのです。
 聖書の教えは、このわがままを取り除くために有効だとあります。聖書を読みたくない、みことばを聞きたくない人は、無意識にわがままを助長させてはいないか、自己点検をしてみてください。
 世の中はわがままし放題ですから、教会の高い道徳性を不自由に感じることも多くあるでしょう。それは、神様が剪定をされているしるしです。救いは、病気の枝が元気になるところで終わりではなく、豊かな実を実らせるところまで続いています。好き勝手に生きて、わがままの実をつけることは、イエス様が来られた目的にはそぐわないものです。
 作物が見事な実を実らせた時、それを味わう人だけでなく、世話をした農夫も喜ばしく誇らしいものです。神様も私たちを毎日世話してくださり、すばらしい実が実るのを待ち望んでおられます。私たちも、手入れされることは痛くとも、立派な実のために喜んでそれを受け入れてまいりましょう。
★「刈り込みをする」⇒未来への可能性を意味している
★愛は、十分に整えられた者となることを目指している

2.『同声異俗』(どうせいいぞく)(マラキ3:14〜18)
“あなたがたは言う。「神に仕えるのはむなしいことだ。神の戒めを守っても、万軍の主の前で悲しんで歩いても、何の益になろう。今、私たちは、高ぶる者をしあわせ者と言おう。悪を行っていても栄え、神を試みても罰を免れる。」と。そのとき、主を恐れる者たちが、互いに語り合った。主は耳を傾けて、これを聞かれた。主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前で、記憶の書がしるされた。「彼らは、わたしのものとなる。ーー万軍の主は仰せられる。ーーわたしが事を行う日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。あなたがたは再び、正しい人と悪者、神に仕える者と仕えない者との違いを見るようになる。」”
◎『同声異俗』(どうせいいぞく)の意味
「人の生まれながらの性質、素質は同じだが、環境や教育といった後天的な要素によって、人物に差が生じること。」
 最近は、学校や職場なども、先天的な素質より、後天的な環境や学習を重要視し始めています。
(マラキ3:14〜18)“みことばは前述”
 マラキ書は、バビロニアに滅ぼされ、バビロンの捕囚となったイスラエル人が、神の御手によって解放されて帰ってきた時期に記された書物です。バビロン捕囚から帰って来られたのにもかかわらず、多くの人は「神に仕えるのはむなしい。」と心の底では思っていたというのです。
 私たちクリスチャンも心の底で同じことを思ってはいないでしょうか。「苦しいことばかりで、世の中の人の方がよっぽど輝いて見える。」と、神様に従うことを疎んじてはいませんか。
 世の中の人は剪定を拒み、枝を伸ばし放題で、わがままの実を結びます。クリスチャンは、わがままを切り取られるのですが、その後に良い実を実らせれば、世の人をうらやむ理由などなくなります。私たちに残っている枝は神様の愛の実を実らせるための枝ですから、わがままの実はなりません。比較のしようがないのです。私たちは立派な実を実らせるために、農夫であられる神様の手入れを忍耐して受け続ける必要があります。世の人と同じ実を結びたいなら逃げ出してしまうしかないのですが、わがままの実はとても食べられません。世の中の人の見た目に振り回されないように気をつけましょう。私たちは、さらに磨かれた実を結ぶという目標を持って、みことばを通して手入れされるクリスチャン生活を重ねてまいりましょう。
 神様が約束された「違いを見るようになる」とのおことばを信じましょう。わがままの実は切り取られ、何の益にもなりません。すべての人に尊敬され立派だと言われる、神の前に喜ばれる実を目指しましょう。「ああ、本当に良かった。」と、結ばれた実を見て思う時が必ずやってきます。
【デボーション参考ポイント】
★神のあわれみにとどまる者と、そうでない者との違い
 参考として挙げておきます。
◎12弟子の一人ヨハネから直接教えを受けたポリュカルポスという司教が、2世紀ごろに存在しました。彼は86歳で殉教しましたが、そのAC115年はちょうど、クリスチャンが大迫害を受けていた時期でした。ポリュカルポスは現トルコにあったスミルナの教会を牧会していたのですが、彼の妥協のない信仰姿勢のゆえに、ローマ政府に捕えられました。闘技場に引き出され、大群衆の前で信仰を捨てれば命を助けると言われたポリュカルポスでしたが、『神様は公平な方ですから、どんな死に方をしても神様のもとへ行く方が幸せです」「本当に恐ろしいのは、死後に待つ裁きと刑罰です」と宣言し、群衆の怒りを買います。
 大量の柴をくべられ、火あぶりになったポリュカルポスはしかし、燃えませんでした。柴の火は彼に近寄らず、周りをアーチのように覆ったのです。執行官は部下に命じて、ポリュカルポスを槍で突き殺させましたが、驚くべき奇跡を見た群衆は心を打たれ、静かに散っていったそうです。ポリュカルポスが執行官に残した言葉に、「86年の間でキリスト様は私に一度の不幸もお与えにならず、恵みのみをお与えになりました。このような方をどうして否み、呪うことができましょうか。」とあります。ポリュカルポスは、自分がいかに神様に愛されてこの地上にいのちを授かって生きているかを知ったのです。
 神様の愛に目覚めれば、自分が意識していない時から、いかに恵み続けてくださっていたかがわかります。迫害の最中にもかかわらず、「一度も不幸をお与えにならなかった。」と断言しているのは、神のあわれみの愛の中に留まり続けたからです。
 ただ、私たちは「この人のようにならなければいけない」と思わなくても大丈夫です。結ぶ実も、人生の終わりも、人それぞれですから。ここで注目するところは、「86歳のか弱い老人でさえ、キリストの愛に心を置いている時に、どんな事にも動じることのないしっかりとした人生の終わりを迎えることができ、人々への確かな証となれる」ということです。少しでもそのような良い実が結べるように、神様の愛のきよめ、刈り込みに対して受け止める心を持っていただきたいと願います。一緒にがんばって刈り込みを受けて参りましょう。
 私たちはわがままが通る時代に生きているがゆえに、自制の心が本当に大切になっています。

 

 

 

 

■2014年1月12日 日曜礼拝メッセージより(小栗伝道師、辻和希伝道師、横路伝道師)

 すべては愛の実を結ぶため  up 2014.1.12


わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。
(ヨハネ15:1〜2)

 

 

 

1.農夫である父なる神に対する愛の働きかけ(ヨハネ15:16)
【小栗伝道師メッセージ】
“「…わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、…」”
 父なる神の視点から、枝である私たちに対する愛の働きかけを考えてまいりましょう。農夫である父なる神様は、ぶどう畑全体の管理者とも言えます。枝が実を結ぶために成長を見守られ、お世話をしてくださいます。
☆神の愛の実を結ぶために
*お選びになる(=信頼して)
 枝である私たちがキリストという木につながるように、選んでくださっているということです。当然、実を結ぶことができると信頼してみてくださっています。私たちが人間的に自分をみて「実を結んでいない」と判断し「取り除かれる」と決めるのは早計であり、それをお決めになるのは父なる神様だけです。「選び」という言葉には「任命する、植える」の意味があり、神様は枝に厚い信頼を置いてくださっています。また神様は失敗のない、完全なお方なので、その選びは間違いがないと言えます。さらに、父なる神様にとって、枝は愛の実を結ぶために必要な存在なのです。神様は、ご自分ではなく、また木であるイエス様ではなく、私たち枝が愛の実を結ぶように選ばれました。救いを見据えて、キリストの木につながる枝として、神様は私たちに計画を持っておられました。
*世話をされる(=いつくしんで)
 神様は、御自分が選んだ枝が愛の実を結ぶために、いつくしんで世話をしてくださっています。そして、その愛の実は、神様の愛、木に流れる赦しへの感動が詰まった実です。

◎農夫である父なる神にとって、枝に神の愛の実が結ばれることは
この上ない喜びである
 神様は「見てください。」と言わんばかりに、誇らしげに枝に結ばれた愛の実を喜んでくださっているのではないでしょうか。
*もっと多くの実を結ぶために、それを妨げるものを刈り込まれる
 (=きよめ)
 (ローマ8:28)“神を愛する人々、すなわち、神のご計画によって召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。”
 「刈り込む」を他の訳の聖書では「手入れをする」「きれいにする」とありました。ぶどうの性質上、元の枝から他にもたくさん枝が伸びたりつるが伸びたりして、実を結ぶのを妨げることがあります。実際に農夫の方がぶどうの枝を剪定するように、父なる神様も、枝に流れる『互いに愛し合う」という愛の力、情熱を枝自身が他の方へ流してしまうことがあるために、剪定されます。私たちで言うならば、枝に流れている「互いに愛し合う」というせっかくの愛の養分を、例えば「世を愛する」〜世の心づかい、富の惑わし、貪欲、また行き過ぎた「自分を愛する」〜自己顕示欲、自己実現、虚栄といった動機にすり替えた状態に見えた時に、神の愛の実を結ぶために神様が枝の刈り込みをなさいます。地面に這っていった枝も持ち上げたり、枯れているように自分は思っている枝さえも、イエス様の愛を通して生き返るようにされたりして、何とか実を結ぶようにされる神様なのです。
★霊的な刈り込みとは…
・思いがけないできごとは、私たちにはわからなくても神様には意図が
 おありです。闇雲にできごとが起こったのではなく、何か目を覚ます
 必要があるのかもしれません。留まって自分自身を見る状況と言える
 かもしれません。
・みことばを示されることで、自分の思いを探ることができます。
 (ローマ8:28)のみことばのように、神様がなされることは、その時には私たちにはわからなくても「後にわかる、悟らされる」ことがあります。神の愛の実を結ぶためにこの事が起こったのだ、このみことばが示されたのだ、と。神様は失敗のない、否定のないお方です。安心して、神様にお任せいたしましょう。神様に信頼を持って待ち続ける姿勢は、神様との大切な愛の関係ではないでしょうか。
 またお世話をする中には、できてきた実を鳥につぶされないために袋をかける作業もします。いうならばイエス様の血潮の力、御名の力によって、神様はできてきた愛の実をつぶす働きから守るようにされます。私たち枝に神の愛の実が結ばれるために働きかけ続けてくださっている農夫である父なる神様の思いに、心を向けて参りましょう。
◎農夫である父なる神は、枝が神の愛を実を結ぶまであきらめない で世話をし続けてくださる方

2.ぶどうの木であるイエス様の枝に対する愛の働きかけ
 (ヨハネ15:1〜2)【辻和希伝道師メッセージ】
“みことばは前述”
 ぶどうの木と枝の関係は、イエス様と私たちの関係を表していることは、よくご存じだと思います。その関係をイエス様の視点から見ていきましょう。

◎枝は木の一部である⇒いつもともにおられるイエス様の愛
 枝と木は決して別の物ではなく、枝は木の一部です。大きな目で見ると枝も木と言えます。そして、枝がつけた実を「木の実」とは言っても「枝の実」とは言いません。木であるイエス様は枝である私たちといつも共におられる、ということなのです。
(ヨシュア1:5)“「あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」”
 ヨシュアに神様が言われたことばです。モーセからイスラエルを導くリーダーとして引き継いだヨシュアでしたが、非常に不安な思いはあったと思われます。枝が単独でがんばらなければ…という感じだったかもしれませんが、しかし神様がヨシュアに「あなたを見放さず、あなたを見捨てない。」と力強く語られています。同じように神様は私たちにも語ってくださいます。
 枝だけでは独立して生きていくことはできず、ましてや実を結ぶこともできません。その木につながっているからこそ、実を結ぶことができます。そして、実を結ぶことは木にとっての繁栄であり、喜びです。枝が太くて長くて、大きければ大きいほど、たくさんの実を結べば結ぶほど、木全体の大きな実りです。イエス様はそのことを非常に喜ばれました。
 (ヨハネ15:2)には「…枝で実を結ばないものは取り除き…」とありますが、イエス様は枝が切り落とされることを決して望んではおられません。父なる神がそれを行われた場合、枝が木の一部ということから考えますと、それは枝だけの痛みに終わらず、木全体の問題です。イエス様も痛みを覚えられ、悲しまれるということを表していると思います。
 「ともに喜び、ともに悲しむ」私たちは自分のことを考えるだけで精一杯かもしれませんが、大元の木であるイエス様は、枝のささいな状態も気にかけてくださっています。なぜなら、木と枝は一体であり、いつも共にいるわけですから。枝の喜びを共に喜んでくださり、枝の悩みも知って共に悩んでくださっています。そのくらい枝のことを気にかけてくださっているイエス様の愛、ぶどうの木としての愛を見ることができます。

◎枝は木に支えられている⇒イエス様の愛に支えられている
 枝は独立して生きていけません。木に支えられている、つまりイエス様の愛に支えられていることをみることができます。支えられるとは、助けられる、土台、という意味もあると思います。私たちの土台は何でしょうか。この世の常識、この世で得た知識、自分の力、冨、名誉…。神の愛でしょうか。私たちは、イエス様の愛が土台であるべきと言えます。イエス様の愛を土台として生きたいと願うからこそ、毎週このようにして皆さんと共に集まり、神のみことばを聞いています。イエス様の愛が土台だからこそ、周りの人にイエス様の愛を伝えていくことができるのです。もし他のものが土台でしたら、口では語っても実のない言葉だけのイエス様のあいです。私たちはしっかりイエス様のぶどうの木につながっている枝としてもう一度見返すとともに、イエス様の愛に支えられイエス様の愛が土台であるということを、みなさんと一緒に考える一週間としていきたいと思います。
 
3.枝である教会の愛を受けての働き【横路伝道師メッセージ】
(1)なぜ農夫は、ぶどうの木を畑に植えるのか(ヨハネ15:8)
“「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」”
“「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。」”
 この2つのみことばにあるように、農夫がぶどうの木を植える目的は、その美味しい実を豊かに収穫することです。父なる神様は、多くのクリスチャンが、豊かな愛の実を結ぶことを願われ、ぶどうの木であるイエス様をこの世に送ってくださいました。そして、豊かに結んだその実を見て、神様ご自身と、イエス様と私たちが共に喜びに満たされるためなのです。

(2)枝である私たちはどんな実を結ぶのか(使徒2:46〜47)
“そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心を持って食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。”
 (ガラテヤ5:22〜23)には「御霊の実」について書いてあります。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。これらの実が、私たち一人一人のクリスチャンの人生に結ばれ、教会に、広島中に、日本中に、世界中に、豊かに結ばれるならどんなにすばらしいことでしょう。特に「愛の実」については、(第1コリント13章)に具体的に書いてあります。
 「使徒の働き」には、イエス様復活後の初代教会の美しい愛の交わりの状況が描かれています。それを見た周囲の人々が好意を持ち、仲間になる人が日々加えられたとあり、『弟子の実』を豊かに結んだのです。(使徒2:46〜47は前述)
(3)愛の実を結ぶために(ゼパニヤ3:17a)
“あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。”(参考聖句ガラテヤ2:20)
 このような豊かなぶどうの実(愛の実)を結ぶためには、枝が木に留まり、愛を受け続けることが必要ですが、既に私たちは神様につながっている、いや神様が私たちの中におられる、とみことばは教えています。(ゼパニヤ3:17a参照)
 主が私たちの中におられるとは、私たちの中に愛が満ちているということです。たとえば、家庭の各部屋に電気のコンセントがあります。電気機器をそのコンセントにコードでつないでおけば、スイッチを入れるだけで電気機器は動き始めます。電気の力は家の中に充満しており、私たちはスイッチを入れるだけで、必要な電気の光やエネルギーを動かして使うことができるのです。これと同じように、私たちの中には既に愛の神様がおられ、いつでも「神様…」と心を向けるなら(スイッチを入れる)、神の愛の力が働き始めるということなのです。
 ここでアメリカのシカゴで起きたできごとの話をしたいと思います。ジョン・Qという男性と、妻、息子の9才の少年マイクが暮らしていました。貧しいながらも愛し合う良い家族でした。
 ある日曜日のことです。マイクは少年野球チームの選手として試合に出ていました。礼拝後に応援に行った両親の前で、マイクは走塁中に胸を押さえて倒れたのです。マイクはすぐに救急車で病院に運ばれ診察を受けたところ、とても重い心臓病で、心臓移植を受けなければ助からない、ということがわかりました。しかし手術のためには2500万、移植待機者リストに載せる費用だけでも750万もかかるというのです。父親のジョン・Qは家財を売り、教会を始めあらゆるところから募金を集めましたが、必要な額が中々集まりません。そんな中、マイクの容態は次第に悪化していきます。
 ジョン・Qは息子を助けようと、病院で心臓手術を担当するターナー医師に直接会い、待機者リストに名前を載せるように必死に頼みますが、「理事会が決定する」と言われ、らちがあきません。
 そこでジョン・Qは隠し持っていた拳銃を取り出して医師に突きつけ、数人の人質と病院の一室に立てこもり、待機者リストに名前を載せ、手術をするよう強要します。自分が今自殺するから、自分の心臓を息子に移植せよと迫ったのです。問答のすえ、息子を愛する父親としての固い決意を知った医師ターナーは、ついにジョン・Qの心臓をマイクに移植することに同意のサインをしたのです。
 その時ジョン・Qは自分の息子マイクに遺言のように語ります。
「お母さんの言うことを聞け。お母さんに毎日、『愛している』と言え。」
「約束したことは必ず果たせ。これはとても大切なことだ。」
「悪い友人とは遊ぶな。タバコは身体に悪いから吸うな」等々。そして最後に、息子マイクの胸に手を当てると、次のように言うのです。
「いつもお前と一緒だ。ここにいる。愛してるぞ。」それからジョン・Qは自らベッドに横たわり、拳銃で自分の頭を撃とうとします。
 その時、奇跡が起きます。丁度その時、病院に交通事故で亡くなった人があって、その人の心臓がマイクにのみ適合する、という遺体が運ばれてきたのです。マイクは助かったのです…。
 これは実話を元に映画化された、驚くべき父親の愛の物語です。聖書に書かれているように、イエス・キリストの十字架の愛の犠牲も、このこととよく似ています。
 私たちの父なる神様は、私たち罪人が永遠に滅んでしまうことを望まず、その大きな愛の故に、ひとり子のイエス様を私たちの身代わりとして、そのいのちを差し出してくださいました。
 ジョン・Qは息子に遺言のように、「お母さんに毎日『愛しているよ』と言え」「正しく誠実に生きよ」と教えました。そして胸に手を当て、「いつもお前と一緒だ。」と言いました。神様も私たちに、聖書を通して語られます。「主を愛するように」「正しい良心をもって生きるように」そして「私はあなたのただ中にいる。」と。
 私たちはこのような大きな神の愛を受けており、生ける神が私たちの中に共にいてくださっていることを感謝します。しかしなお私たちが豊かな実を結んでいない状況があるとすれば、それはなぜなのでしょうか?どこに問題があるのでしょうか。今週一週間、日々、各自のデボーションの時に思い巡らせてみましょう。

 

 

 

 

■2014年1月5日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

とどまり合う愛の関係  up 2014.1.5


わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
(ヨハネ15:5)

 

 

 

 今年は(ヨハネ15:9)のみことばを年間の目標としています。
「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。」
 イエス様は人となって地上に来られ、父なる神の愛がどのようなものかを示してくださいました。そして、その愛の中にとどまりなさいと言われました。今年はこの「愛の中にとどまる」ということをテーマに語っていきます。
 今日はその一回目で、「とどまり合う愛の関係」について学びます。
 父がイエス様を愛されたように、イエス様も私たちを愛してくださっています。それは、自分勝手な主観による愛し方とは違います。自分の主観だけで愛するかどうかを考えていたら、それは自己中心的な愛なので、必ず問題や争いが起きてきます。

 私たちは主観によるのではなく、神様を基準とした愛し方をする必要があります。なぜなら神は愛だからです。神の愛を手本とするなら、本当に真実な愛し方ができるようになるからです。

1.『相互依存』関係(ヨハネ15:5) 〜みことばは前述〜
◎『相互依存』の意味
 お互いに、相手がいなければ物事が成り立たないような状況にあるさま。
 これは健康な依存の形です。お互いの存在を支え合って健全な社会生活を営んでいけます。

【内容観察】
わたしとあなたがたの関係は、ぶどうの木とその枝のようです。一人一人がぶどうの木であるわたしに枝のようにつながり、わたしもぶどうの木のように、枝であるその人のうちにいのちを注ぎ続けるなら、そういう人は多くの価値ある実を結ぶことになります。ぶどうの木と枝がつながっていてこそ、互いを生かし合うことができるのです。
 
 これは、ヨハネ15:5のみことばを相互依存という形から考えた内容です。このみことばは一見、高びしゃなことばのように思えますが、そうではありません。枝がぶどうの木にとどまるということはわかりますが、ぶどうの木が枝にとどまるというのは、普通の表現ではありません。しかし、あえてイエス様がそのように言われたのは、同等性を示そうとされたからです。

【デボーション参考ポイント】
A)ぶどうの木と枝の役割の違いを考えてみる
☆枝を支えているぶどうの木
 枝が存在するために必要なあらゆる物を、木は提供しています。枝の存在はぶどうの木によって全面的に支えられているということです。

☆ぶどうの実が実るところ
 ぶどうの木の存在に意義をもたらす、ぶどうの実を枝はならせます。ぶどうの木になぜ直接実がならないのでしょうか。それは、ぶどうの木も枝もともになくてはならない相互依存の関係であるということを示すためです。
 ぶどうの木があってこその枝であり、また、ぶどうの木にとっても枝は大切なのです。どちらが大切かを比べることは無意味です。どちらの存在も互いになくてはならない存在なのです。
 同様に、神様にとって私たちもなくてはならない存在です。なぜ神様は全世界を創造されたのでしょうか。なぜ神に似せて人を造られたのでしょうか。おひとりの方がはるかに楽ではないかと考える人もいるでしょう。しかし、もし全宇宙で何一つ創造されず、ただ神様だけが存在されるとしたらどうでしょうか。
 万物が存在するからこそ、神の全能性、普遍性、絶対性、そして愛が表されるのではないでしょうか。
 神様はぶどうの木のようであり、人は枝のような存在です。互いに大切な存在なのです。

B)各自の存在の違いは不平等、不公平だろうか!
☆違いの必要性
 神様と被造物である私たちとは確かに違います。しかし、その違いが必要なのです。完全な存在とは、違いの集合体です。完全さとは役割分担がそれぞれ集合し働いている状態であり、身体を見ればわかるように、強いところも弱いところもあります。そして、そのそれぞれの力の差のバランスが身体全体の行動、結果をもとらすために働いて、健康を保っています。

☆まことの平等と公平
 聖書では、違いに関係なく永遠の命に至るための愛が注がれることです。その人の存在が、造られた目的にそって、あるべき状態であるために愛が注がれることです。
 よくできる子に、できるからという理由でよくできない子の時間まで削って教育していくことは、不平等、不公平です。できる子もできない子もともにできるようになるために、教育し力を注いでいくのが、平等であり公平さです。
 ただ自分自身の損得で平等、不平等を言ったらきりがありません。主観で判断していたら、人に対して不信感を持ち、神が愛であるということが分からなくなってしまいます。主観は妨げになります。

C)各自の違いが生みだすプラスとマイナスを考える
☆マイナス
 比較、争い、優劣、競争、利己的などの自己中心愛

☆プラス
 互いの違いを互いのために用いるという隣人愛です。あなたと私との違いをマイナスにするかプラスにするかはあなた自身の責任です。育った環境をプラスに変える創造力を人は与えられています。

D)主題聖句より「とどまる」という意味を考える
☆ぶどうの木が枝にとどまる
 枝としての自分を受け入れ、ぶどうの木の一部としての自分を自覚することで、ぶどうの木の遺伝子があなたという枝に及びます。イエス様を信じるとイエス様の価値観等影響を受け、内側にイエス様が入り込んで来られます。それは、イエス様が私たちを枝として受け入れてくださったからです。イエス様が私たちの内にとどまられ、そのご性質が私たちのうちに流れ、私たちがイエス様のようになっていくということです。それは、接ぎ木された枝が幹に受け入れられ、その幹と同じようになるということです。

☆枝がぶどうの木にとどまる
 存在目的としての献身、信頼をすることです。それは、ぶどうの木になりきることです。ぶどうの木の実を結ぶための枝であるという自覚をもつことです。

☆互いに消えないように相手を刻むこと
 刻むとは消えないということです。イエス様も私たちも互いに心に刻み合っています。

E)身近な人間関係を『相互依存』という観点から見直す
 元旦にも語りましたが、聖書のことばで言い換えると、「互いに愛し合う」ということです。

☆夫婦、親子において
 依存症、共依存症、相互依存、どの関係でしょうか。相互依存なら健康的な関係と言えます。簡単に説明すると、依存はあるものがなければ自分は生きていけないとすがってしまうことで、それだけ自分自身の存在に対して不安があるということです。(アルコール依存、ネット依存等)こういう病的な依存者には、共依存の人の存在があると言われています。依存されることに依存する状態です。強く依存症の人に心を向け、必要以上に助けようとする人です。興味のある人は調べてみてください。
 私たちは互いの役割を果たすことで、それぞれの利害ではなく愛による相互依存が必要です。

☆社会的上下関係
 自分の分を果たし、分を越えないことが大切です。相手がとるべき責任までは取らないように気をつけましょう。但し子どもは別です。子どもが成長するまでは、依存を親は受けて当たり前です。依存には段階があり、成長が必要です。いつまでも必要以上の責任をとりすぎると良い結果になりません。

☆教会における兄弟愛において
 依存的でしょうか、共依存的でしょうか、それとも愛による相互依存でしょうか。神様と自分、自分と周りの人々、一人格者として、それぞれが分を果たす必要があります。自分の弱さだけ前面にだして、いつまでも依存ばかりをしていては、相手に対しても、また、神様に対してもよくありません。何もかも神様にやってもらおうという姿勢は一般の人にいやがられます。自分が果たすべき責任もあるのです。
 互いに愛し合うという相互依存がそれぞれの関係において実を結ぶために、ぶどうの木であるイエス様にとどまることが大切です。
 あなたがいることによって、神様は、ご自身がとどまる所があると、語ってくださっています。そこには何の差もなく、ご自身と対等に私たちを見てくださっているという、考えられないような親しい愛の関係があります。あなたが神様を必要としているように、神様もあなたを必要としておられるということなのです。それが分かったときに互いの間にその愛を表していくことができます。健全な正しい神様との関係をもちましょう。
 何もしてくれないとすぐに愚痴不平が出てくるとしたら、そこには依存症的な神様との関係があります。神様は、最も大切な、実を結ぶという役割を私たちに委ねてくださっています。そして、良い実を結ぶようにと期待してくださっています。
 自分から実を結ぶことは不可能だと判断しないようにしましょう。実を結ぶ責任は私たちにあります。しかし、神様は必要なものを与えてくださり、助けてくださいます。