■2013年12月29日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
新年への愛の継続 up 2013.12.29
愛のうちを歩むことは今年だけのことではありません。新年を迎える心の準備として、いかに愛のうちに歩み続けることができるかを求める一週間としましょう。
「愛のうちを歩むことは今年だけのことではありません。新年を迎える心の準備として、いかに愛のうちに歩み続けることができるかを求める一週間としましょう。」
休みの日は聖書において「安息の日」と呼ばれており、聖なる日とされています。それは身体と精神を休める日であり、よい交わりを通していやされる日でもあります。
私たちは神の家族として集まり、神様の愛の中で聖なる休息をとり、いやされ、心の力を回復されます。世の人々はなぜ休みの日に教会に行くのかといぶかしがりますが、私たちは神様と神の家族の中に入ることによっていやされているのです。休みとはじっ
としていることではなく、心に平安と愛が満たされることなのです。平日は世の雑事に忙殺されているから、せめて週に一度は神様の愛に心を向け、その愛によっていやされて、聖なる日として自分の心を守る日とするよう、神様が私たちに勧めておられるのです。
この年末の休みを用いて、今年一年間の全てが新年に生かされるために振り返って反省し、新たなる思いをもって愛の歩みを続けていただきたいと思います。
1.主の愛にとどまる(ヨハネ5:9)
“「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。」”
このみことばが、2014の目標となります。
【内容観察】
「父なる神が、わたしをひとり子として御自分の身のように愛してくださったように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしが父なる神から愛されたようにあなたがたを愛するわたしの愛の中から出て行かないようにしなさい。」
イエス様は父なる神様の「ひとり子」と記されています。親がひとり子を愛し育てるという愛し方なのです。自分の身を守るのと同じように気配りし、必要なものを与え、不必要なものは排除し、その子の将来のために、今をどうするかに心を砕いて育てるのです。イエス様も私たちにそうしてくださっています。私たちはこの部分から何を教わることができるか、デボーションで各々教えていただきましょう。
【デボーション参考ポイント】
★自分が愛された経験によって人を愛することができる
私たちは互いに愛し合うように教えられていますが、その愛し方は自分の経験が基になります。イエス様も父なる神様がイエス様を愛してくださったことを基にして、私たちを愛してくださいました。
この地上での人からの愛を感じた人は、他の人から「心やさしい人」「愛のある人」とみられることが多いようです。なぜならその人は、自分が受けた愛を基にして人に接するからです。厳しく接するタイプの愛を受けた人は厳しく、やさしい愛を受けた人はやさしくなります。その愛に気づけば、ですが。気づかない人は愛することができません。
しかし仮に人からの愛を受けたことがないとしても、大事なのは人からの愛ではなく、神様からどのように愛されているかです。その愛を感じ、体験し、その温もりを感じ取って愛の何たるかを知り、私たちは互いに愛し合うことができるようになるのです。
私たちが気づこうと気づくまいと、神様は今も私たちに愛を注ぎ、気づくことができるようにと願って待っておられます。人の愛を目的とせず、神様に今愛されている愛を知ることを目的としてください。
★愛の神がどのように愛してくださっているのか
◎多くの罪を覆う愛をもって
これは十字架によって現された、一番大事な私たちへの愛です。愛するとはその人の罪を覆うことです。私たちが自分の罪によって未来が閉ざされている状態をあわれんで、神様は私たちの罪を身代わりに背負ってくださいました。それが覆うということなのです。親は子どものしたことの責任を代わりに負います。神様も私たちの失敗の全てを負ってくださっています。
どんな人でも誰かのお世話になっていると、世の人でも言います。こういう人はへりくだった人です。社会が相互依存によって成り立っていることを知った人は、身勝手な振る舞いを避けるようになります。周りの人々の道徳的親切、愛に心が触れて、心が穏やかになるからです。
◎神の国の相続人として⇒将来設計に応じた教育を施す
育てる側として、どういう将来をこの人が歩むのかという目標に応じて、今の方向性が決まってきます。神様は私たちを神の国の相続人としてふさわしく成長させるべく、様々な教育を施してくださっています。当然ふさわしくないものは取り除かれます。
神の国はこの世より遥かに高い品格、品性、道徳が必要とされます。伝統ある技術を継ぐ人たちに課される課題が時に厳しすぎるように見えるのは、その道から外れて落ちてはいけないからです。世の人は神様に向かって「私の将来を勝手に決めるな」と言っているのと同じです。せっかく神の国の跡取りになっているのに、自分からそれを捨てているのです。射的で全く違う的を当てておいて、一等賞をよこせと言うようなものです。
◎あきらめず希望を持って
私たちの将来に希望を持ち続けてくださっているのも愛の一つです。この他にも、どのような愛を持ち続けてくださっているかを、自分で見つけ出して行きましょう。
2.『形影不離』(けいえいふり)(第2コリント13:8)
“私たちは、真理に逆らっては何をすることもできず、真理のためなら、何でもできるのです。”
●『形影不離』の意味
「物と影とが離れることがないと言う意から、きわめて密接な関係の ことをたとえて言う。」
【内容観察】
「私たちは、真理であるキリストから離れては何をすることもできず、真理につながっているなら、どのような真理でも行うことができます。」
【デボーション参考ポイント】
★天の御座におられるキリストが真理の実体であり、私たちはその影 のようなものです。
◎実体あっての影の存在
「実体である神が存在されているおかげで影が存在できる。」
自分の力で生きていると考えるのは、影だけ一人歩きしている状態です。しかし、影が生き生きとしているのは、実体が正に「生きている」からです。私たちは実体に寄り添う影のようなものです。真理あっての私たちの人生です。
◎実体の存在を証明する
神様に似せて創られたとは、影のような存在であり、私たちの言動から神様を伺い知ることができます。実在する神様が愛であることが見えてくるのです。イエス様は今、天に帰っておられますが、そのお姿は地上にいる私たちという影を通して現されます。影があることは実体の証明です。もしあなたの言動からイエス様が見えないとしたら、あなたは誰の影なのでしょうか?違うものを神として見ているかもしれません。欲望の影として生きてはいませんか?キリストと私たちは「形影不離」のように、切っても切れない密接な関係にあることを、この休みの間にいろいろと考えてみてください。私たちが互いに愛し合うなら、神様が愛であられることがわかります。
「愛のうちを歩み続けることは、主の愛に留まることによって可能になる。」
主の愛に歩めなかったのは、愛のうちに留まっていなかったからではないかと、自分を省みましょう。
「主の愛に留まることは、形影不離の関係であることを暗示している。」
神様は私たちを、ご自分の影として大事に思っておられるからこそ、「わたしから離れてはいけない」と注意されているのです。パウロは(ローマ8:35〜39)“各自で参照”で、大胆に告白しています。“〜神の愛から私たちを引き離すことはできません。”
もし自分の影を引きはがせるならば、イエス様の愛からも離れることができるのでしょうが、ありえないことですね。私たちはイエス様から離されることのないすばらしい状況にあります。ただただイエス様を信じて付いて行けば、いつの間にか真理を行う者になれているのです。真理なるイエス様を証しする影として、私たちは存在しています。
「見えてくる 赦しの愛が 古日記」
日記を付けている人が年の終わりにそれを読み返してみる時、数々の神様からの赦しや恵みが思い出されてきて感謝します。
皆さんも、新年に入る前にぜひ、心の中の古日記を見て、神様の愛に感じ入るひと時を持っていただきたいと思います。「できない」ではなく、やり始めてみることが大事です。神の前に悪い自分を思い出すほど、赦されていることを知ることができます。そして神様からの新しい愛をさらに受け止めて歩んでいただきたいと願います。
■2013年12月22日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
お生まれになった神の愛 up 2013.12.22
きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
(ルカ2:11)
イエス・キリストは、新約聖書全般を読まれたらわかるように、愛そのもののお方です。
このみことばは、以前はクリスマスに一般的に使われていましたが、残念なことに今は見なくなりました。ただクリスマスのイベントだけがさかんに行われているだけです。
ダビデ王が生まれた町がベツレヘムです。また、エルサレムのシオンの丘もダビデの町と呼ばれています。ダビデの先祖アブラハムに神は約束されました。それは、彼が全世界の人々の父となるというものです。つまり将来、救いがアブラハムを通して全世界にもたらされるという預言でした。それゆえ、救い主キリストはアブラハム、ダビデ王の血筋からお生まれになりました。
なぜ、アブラハムが選ばれたのでしょうか。それは、彼がまことの神を心から呼び求めて生きていたからです。アブラハムと同じような心を持って生きている人は他にもいるでしょう。しかし、最近は人生の意義とか、意味、正義について、求めることも悩むこともしないで刹那的に生きている人々が増えているような気がします。
楽しかったらいいという生き方は、一見いいようですが、その楽しみが単に自分の楽しみだけであったなら、その楽しみが他の人には楽しくない、むしろ嫌なものであるかもしれません。それゆえ、皆が楽しむためにはルールが必要になってきます。
神様のルールは愛ですから、その愛に従って生きるなら、すべての人が幸せになります。このルールが自分勝手なルールではないということを学んでいきましょう。
イエス・キリストが地上に来られた理由が(ヨハネ1:18)にあります。
1.神を説き明かすため(ヨハネ1:18)
“いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。”
キリストは神を説き明かすために来られました。私たちにわかるように、見えない方が見える姿で人となって地上にお生まれになったのです。
【内容観察】
今まで誰一人として創造主である神を直接見た者はいない。愛の神である父の心におられるひとり子の神が、愛の神がよくわかるように、人としておまれになり、十字架の死に至る人生をとおしてさとされたのである。
【敬聴と適用】
キリストを通して、創造主である神をどのように説き明かされて来ましたか?
キリストを通して、創造主である神を、私たちはどのように説き明かされてきたでしょうか。最低3つのポイントは理解して頂きたいと思います。
1) 唯一の創造主である
★万物を目的をもって創造された
物を造るときに、何人かでやることはありますが、バラバラではなく統一したものを造るためには、必ず誰かが中心になる必要があります。
この天地のすべてのものを造られた方はおひとりであり、そのアイディアの源は神ただおひとりなのです。この御方が様々なものを造られたので、すべてのものには共通点があります。また、造られたものにはすべて、目的があります。その目的をもって人間も造られたのですから、その造られた目的にそって生きる時に真に価値のある生き方ができると言えます。そのために唯一の神、創造主を私たちが知るように、イエス・キリストは地上にお生まれになりました。
2)正義と公正を愛される方
★この世だけの人生ではない
神はわがままな方ではありません。すべての人に対し、正義であり、公正な方なのです。それゆえ、私たちの人生はこの世だけで終わるのではないと知る必要があります。この世だけでは、様々な不公平があるからです。
私たちは永遠の存在として、神に似せて造られました。この肉体から離れた時も人生があります。永遠という人生の中に神の正義と公正があります。この地上での不公平が後の世界で正されることを、イエスさまは諭されるためにも地上に来られました。
その永遠に備えて、今の人生があるのです。神の前に隠されているものはひとつもありません。その証明をイエス・キリストはしてくださいました。
3)神は愛である
★万物の存在目的の根源である
愛とは自分ひとりだけで生まれるものではなく、相互関係の中で生まれるものです。万物があってこそ愛は成り立ちます。
星々もそれぞれがバランスを保ってこそ、そこに存在できます。同様に私たちも、それぞれ心と心のバランスをとることで、良い社会ができます。そのバランスをとるための考え方が、神様のもっておられる愛です。この愛を中心に考えていけば、どんな国のどんな民族であれ、それぞれがバランス良く、ひとつになることができます。
イエス・キリストを知れば知るほど、この3つのポイントに目が開かれ、この世の競争社会で傷ついた心が癒されるはずです。この地上で報われなかったものは、次の新しい人生、永遠の世界で取り戻すことができるのです。
2.『学知利行』(がくちりこう)(ヨハネ14:6)
“イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。”
◎『学知利行』の意味
人が踏み行うべき人倫の道を後天的に学んで理解し、その正しさを知り認めて、初めて実践すること。
【内容観察】
イエスは彼に言われた。「わたしこそ人が生きるための道であり、人が存在していることの真理であり、人に価値をもたらすいのちなのです。わたしをとおしてでなければ、的を射た人生である父なる神とともに歩むことはできません。」
宗教は洗脳であって、自分では考えられなくするものと思い込んでいる人がいますが、神はそのようなお方ではありません。自分で考え行動するように、神は人に自由意志を与えてくださっています。この自由意志に価値があり、愛が生まれてきます。私たちはイエスさまを知り、自らお手本として、神の御心を悟って行動していくことが大切です。
【敬聴と適用】
キリストをとおして『学知利行』ができているだろうか?
なぜイエス・キリストのもとにすべての人が行かないといけないのでしょうか。それは存在の目的がそこにあるからです。
神を父と呼ぶというのは、私たちは子であり、神と家族の関係にあるということです。神がどのような御方であるかを知ってこそ、正しい親子関係が築けます。神はなんでもかなえてくれる魔法使いではありません。
父なる神と子である私たちの関係が回復されるためにイエス・キリストは来てくださいました。この尊い命を、さらに尊く用いる生き方も卑しく用いる生き方もあります。この命の価値の尊さを知り目が開かれたら、誰も卑しいものに無駄に命を用いたりはしないでしょう。この価値を知る必要があります。
イエス・キリストはその命の尊さを教えてくださる御方です。そのことをしっかりとキリストから学んで身につけてください。そのために必要なことが二つあります。
1)みことばを正しく学ぶ
★聖書全体を良く読む
文章を正しく理解するためには、まず全体を知らないと無理です。
★ 神の本質をふまえて学ぶ
神の本質は「愛」です。その観点から聖書を読むようにしましょう。聖書を書かれた神の動機は愛なのです。
2)みことばを体験する
★できなくても挑戦する
一回読んで聖書は理解できるものではありません。時間をかけて、わかろうとして、チャレンジしていくことが大切です。
★ 失敗から多くを学ぶ
誰も完全ではありません。愛に生きることは本当に難しいことです。愛を学び始めて三年目になりますが、そのメッセージを聞いても、周りの兄弟姉妹への批判としてしか聞いていないなら、その人は成長しません。あなたの主観的な観点で周りを批判しても意味はありません。批判するというのは、愛を受けることばかり考えていて、愛に生きるという生き方をしてはいないということになります。
人を批判するよりも、自分自身がどのように愛に生きようかと考えましょう。その為に私たちは学んでいるのですから。
愛に生きることは苦しむことでもあります。イエス様の人生を通して、私たちはそれを学ぶことができます。愛を行った結果、イエス様は国の指導者から妬まれ迫害されました。しかし、苦しむところに価値があるのです。それほど愛には価値があるからです。愛には喜び、希望があります。
イエス様は、「私の愛にとどまりなさい。」と言われました。来年もさらに、この愛を追求し、学んでいきたいと思います。この愛の深さ広さ高さを、さらに学んでいきましょう。
私は信じて間がない頃は、ただ自分のことを求めていました。しかし、人のために祈ることを示され、祈り始めた時、私は「愛」がいかに必要かを知り、求め始めました。神の愛こそ、一生をかけて学んでいくものであり、価値があるものだと悟ったからです。
この愛こそ今までの信仰生活の集大成であり、また、尽きることのない大きなテーマです。人が求めるのは変わることのない永遠の神の愛だからです。さらに求めていきましょう。
■2013年12月15日 日曜礼拝メッセージより(横路伝道師、辻和希伝道師、小栗伝道師)
クリスマスの愛 up 2013.12.15
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
(第1テモテ1:15)
【横路伝道師メッセージ】
罪人を救うために、主イエス様がこの世に来られた日であるクリスマスが迫っています。このみことばの中の「罪人」という言葉から(ローマ3:23)“すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、”というみことばを思い出します。
また(ローマ3:10)には“…「義人はいない。ひとりもいない。」”とあります。(詩篇14:1)(詩篇53:1)にはそれぞれ“善を行う者はいない。”とあります。つまり、神の目から見れば、私たちすべての人が罪人であり、救われることがなければ永遠の滅びにいたる者であるのです。パウロは「私はその罪人のかしらです。」と大胆に告白していますが、このような罪人としての自覚が、救いのために不可欠ではないでしょうか。
1.へりくだって来られた愛(ピリピ2:6〜7)
“キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。”
◎イエス様の謙遜
天の栄光の位を捨てて、馬小屋の飼葉おけに生まれられたイエス様は、私たちの苦しみと弱さをわかるため、人間の不自由さ、貧しさ、すべての苦しみを味わわれたのです。私たちの苦しみと弱さをわかるため、また私たちのために人となり、その血を流して身代わりに十字架にいのちを捨てられるためでした。その大きな愛のゆえにご自身の立場を主張されず、へりくだってこの世に来てくださったのです。ここに美しい謙遜の姿があります。
◎マリヤの謙遜(ルカ1:38a)
“マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりにこの身になりますように。」”
御使いにこのように謙遜に答えたマリヤには、いいなづけのヨセフの信頼を失い、世間から石打ちの死刑に処せられるかもしれないことも受け入れ、主にすべてを委ねた見事な神への従順と謙遜がありました。「神にとって不可能なことはありません。」と宣言した御使いのことばを、自分の考えや世間の常識ではなく、信仰によってすべて受け入れたのです。
◎ヨセフの謙遜
(神のご計画により)ダビデの家系から選ばれたヨセフは、マリヤの受胎を知り、マリヤに姦淫のそしりを受けさせないため、密かに婚約解消を考えていました。しかし夢に現れた御使いから、マリヤの胎に宿っているものは聖霊によるのである、マリヤを妻として迎えなさい、と告げられた時、そのままへりくだって疑わずに信じて、そのとおりにしたのでした。
◎博士たちの謙遜
遠い国から、王の誕生のしるしの星を発見した時、旅支度を整え、高価な宝物を準備し、はるばる礼拝するために出かけたのです。そこには謙遜な心がありました。彼らは初めての異邦人の礼拝者であり、イエス様が全世界の王であられることを明らかにした人々でした。
◎羊飼いたちの謙遜
彼らは貧しい小さな存在である私たちを代表しています。彼らはパリサイ人のようなプライドや傲慢さ、ヘロデ王のような保身のためには赤子をも殺すことも平気でする自己中心な性質はありませんでした。名誉や財産に欲のないへりくだった人々でした。御使いは、救い主の誕生の喜びを、このような謙遜な羊飼いに真っ先に伝えたのです。羊飼いたちは最初にイエス様にお会いし、ベツレヘムの人々にその喜びを伝える最初の証人となり、「神をほめたたえながら帰った」最初のクリスマスキャロルを歌った人々となったのです。
◎私たちの謙遜(イザヤ57:15b)
“「わたしは高く聖なる所に住み、心砕かれてへりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。」”
(ヨブ22:29b)“主はへりくだった者を救われるからだ。”
神様はへりくだった者を救い、霊と心を生かされるお方です。主イエス様の謙遜とマリヤやヨセフ、博士たち、羊飼いたちの謙遜に習い、私たちもへりくだって歩みたいと思います。私たちが謙遜にならなければ、聖書が神のことばであり、イエス様が人となられた神であり、十字架の贖いが自分のためであったと信じることはできませんでした。
また、イエス様の復活、再臨を信じることも、へりくだって互いに愛し合うことを実践することも、謙遜さがなければ難しいのです。
教会に仕え、神と隣人を愛して仕えるためには、謙遜な心が不可欠です。自分が現れることは謙遜ではありません。自分の内に葛藤を与えるのは、謙遜が足りないからです。神様に、教会に隣人に仕える時、「謙遜」ということばを忘れないようにしたいものです。
2.救いのために来られた愛(第1コリント9:22〜23)
【辻和希伝道師メッセージ】
“弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。私はすべてのことを、福音のためにしています。それは私も福音の恵みをともに受ける者となるためです。”
クリスマスと聞いて、どんなことをイメージされますか。ケーキ、キャンドル、ツリー、クリスマス会、イルミネーション…。小さな子どもは、サンタさんからプレゼントをもらうことを考えています。私たちクリスチャンにとって「イエス・キリストのご降誕をお祝いする日」として当たり前すぎることが、イメージとして一番に浮かんでこないこともあります。
ちなみに私の6歳の長男に、クリスマスの意味を聞いてみると「クリスマスは、イエス様が生まれた日でしょう。」と答えました。子どもは知識は持っているのですが、自分の欲しいものをもらう願いが優先されているようです。私たち大人は、日常に追われてしまうことなく、イエス様が地上に来られた意味を、この時期だからこそ考えることができるのではないでしょうか。一方で世の中はクリスマスにちなんだクリスマス商戦の影響も大きく、ツリーやケーキに思いが向けさせられています。それらはイエス様の誕生と一切関係はありません。ちまたのイルミネーション一つとっても、十字架が掲げられているものはまずありません。
日本ではクリスマスが経済効果を生み出す一イベントになっていることに、クリスチャンとしてもどかしさを覚えます。そして、そこに生きている私たちは、いつの間にか同じような流れになってしまって、クリスマスの祝い方を間違っていないだろうかと考えさせられました。イエス様は経済効果を生み出すために来られたのではなく、私たちの救いのために来られました。
◎一番弱い者として来られたイエス様
19節にあるように、その人にイエス・キリストのすばらしさを知っていただくために、パウロはその人のようになったと受け止めることができます。実際にイエス様が地上に来られたとは、私たちと同じ、人のようになられたという意味です。そして、私たちが救われるために目に見える肉体をもって来られたのです。
今年イギリスの王室に新王子が誕生された時には、大々的に報道されました。もしイエス様が同じように王室に迎えられるにふさわしい待遇ならば、私たちにとって遠い存在になってしまったことでしょう。しかしイエス様はひっそりと馬小屋でお生まれになりました。そこにいたのは三人の博士と数名の羊飼いたち…。イエス様が人として来られることもすごいことですが、大工の息子という、当時では低い身分でお生まれになることを神様はされました。一番弱いところまで、神様が下りてくださったということです。このことをまず思い返したいです。このイエス様がお生まれになったことを、私たちはお祝いするわけです。
◎救いのためのクリスマス
各個人、各家庭での祝い方はそれぞれあると思いますが、教会としてクリスマスを考えた時に、一人一人の心構えを見直したいですね。何のためにこのクリスマス会をするのか。私たちの楽しみはもちろんですが、しかし、これが第一の目的では惜しい気がします。パウロはすべてのことを福音のためにしていると言いました。私たちはとてもそこまではできませんが、せめてクリスマスの時期にはチャレンジしてもいいのではないでしょうか。自分の楽しみのみでなく、私たちの救いのために来られたイエス様のことを知っていただくことを、ぜひとも優先してイエス様のご降誕をお祝いしたいと思います。
*静かな喜び
内面的な喜びを表します。世の中のどんちゃん騒ぎでなく、内側に喜びをもってクリスマスをお祝いしたいという意味です。
(箴言15:13)“心に喜びがあれば顔色を良くする。心に憂いがあれば 気はふさぐ。”
内面に喜びがないまま喜びを演じるのではなく、イエス様がお生まれになったこと、私たちのために地上に来てくださったことが、私たちにとって本当に喜びになっているかどうか非常に考えさせられます。イエス様のことを知っていなければ、慕っていなければ、本当の喜びは生まれてこないのではないでしょうか。
クリスマスはイエス様のご降誕を考えられる時期であり、何のために地上に来られたかを考えることができる時期です。それを受け止めて、クリスマスイベントに来られる人々に証をしていきたいと思います。心からあふれる喜びが表情に出て、自然とクリスマスの喜びが伝わっていくのではないでしょうか。喜びを流し出すクリスマスをご一緒に迎えてまいりましょう。
3.神の御子が、この世に来られたという愛
【小栗伝道師メッセージ】
(1)聖い神の愛が、悪に満ちた罪の世界にかたちとなって現れた。
神様は見えるかたちで、御子イエス様を地上に送られ、私たちに愛がわかるようにしてくださいました。この神の愛こそ私たちの模範とする愛です.神様は、愛・聖・義なる方です。愛と正しさの両方をお持ちの方です。そして、イエス様がこの地上に来られたのは「私たち罪人のため」です。私たちは決して罪を犯さないことはなく、汚れており、罪が宿っているこの体は自己中心の思いをいくらでも考えます。そのような私たちのために、イエス・キリストは来てくださったのです。
(ヘブル9:26b)
“しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。”
アダムとエバが罪を犯して後、神様と人はつながりが切れました。人が与えられた自由意志を自分の欲のために用いた結果、神様から離れなければならなくなってしまったのです。神様は私たちを愛してくださっています。しかし罪を持ったままの私たちを、神様の正しさは迎えることができません。そこで、罪人の罪を処分するために、聖い神様が人となって地上に来られて、いけにえとなってくださいました。あざける者に対しても身代わりとなって死ぬために来られたのです。
悪に走り、滅びの道を突っ走り、律法の違反を犯した私たちに対して、違反を帳消しにするために、。キリストはご自分をお捨てになりました。(第1ペテロ2:19〜24参照)神様としての価値を自ら放棄されたのです。罪人の罪の身代わりになるためです。罪とキリストの犠牲に対して無頓着で肉に走ることも多いのですが、そんな私たちの代わりに死ぬ使命を持ってこの地上に来てくださったのです。ありえないような神様の完全な赦しの姿です。
ビリー・グラハム先生は、イエス様が人として地上に来られるイメージは、まるで人間が蟻になるようなものだと話されたそうです。それは不自由で、動きが制限されて大変です。イエス様は、そのような制限のあるからだに喜んでなってくださいました。
この世とは、悪に満ちた罪の世界を表します。きよいお方がこの地上に下りてこられることは本来あり得ないことですが、例えば肥だめの中に、聖い方が足を踏み入れるような状態ではないでしょうか。あえて愛を持って、その場所に下りてきてくださったのです。私たち罪人を救うにはそれしか方法がなかったのです。私たち罪人は、自分で罪を償うことも、神に近づくこともできませんでした。
◎飼葉おけに寝ておられるみどりご
これは、まるでこの世の中にすばらしいキリストがお見えになった状態と言えます。飼葉おけは私たちの心です。イエス様ご自身は神の栄光の現れ、本質の現れです。そのお方が、私たちの罪汚れた自己中心で満ちた心に来てくださったのです。今も、です。これは神の恵みです。私たちができることは、このような心にキリストが来てくださったことを信じるだけです。飼葉おけは、神様には似つかわしくない場所です。しかし、ダビデの子孫として系図に載せられた、実在される神様は、イエス・キリストとなってこの地上に来てくださり、飼葉おけに置かれることを選ばれたのです。
◎どうしても私たち罪人を救い出したい神のお心を知る
(2)時を示される愛のみわざ
(マルコ13:33)
“「気をつけなさい。目をさまし、注意していなさい。その定めの時がいつだか、あなたがたは知らないからです。」”
◎神の救いの計画が進められてきている
旧約時代はまだメシヤ(油注がれた者)、救い主は出てきていません。旧約聖書の預言書はイエス様のことを表していますが、捕囚となったイスラエルは、自分たちを救い出してくれる救い主の出現を今か今かと待っていました。時至ってイエス様がお生まれになり、十字架にかかられ、よみがえられて天に上って行かれました。そして聖霊が働かれる時代、教会時代が来て、今起こっている天災等を知るにつけ、私たちは聖書に書かれている世の終わりの状況に近づいていると思わされます。その後に、救いの完成がやってきます。
◎ノアの箱舟の戸が開かれている間に
旧約時代に私たちがいるのならば、救い主の誕生を待っている状況に過ぎないのですが、かたやいよいよイエス様が誕生され、十字架にかかられてよみがえられた今、救いの完成に近づいています。まさにノアの箱舟の戸が閉まる前の状態と言えます。
創世記6章を見ますと、ノアがいた時代は暴虐な時代で、神様は人を創ったことを悔やんだと書いてあります。神様は心込めて創った人間に罪が入ったとたん、自由意志を用いて争いをしている状況を嘆かれ、大洪水から逃れるために、ノアに箱舟を作るように言われました。そして箱舟が完成した後、7日後に大洪水を起こすことを語られました。結局、箱舟に入った人間はノアと奥さん、ノアの息子たちとその奥さんたちだけでした。
ノアは神様のことばを人々に伝えたはずです。しかし、人々はそれをあざけって相手にもしませんでした。イエス様の十字架を表したノアの箱舟は救いを表しています。救いの戸は7日経ったら閉まることを、神様は知らされました。神様は決して不意打ちをされる方ではなく、前もってこのことを語られています。神様の願いは、ご自分が創られた人がもう一度ご自分のところに戻ってくることです。箱舟に入ることを待っておられるのです。
楽しむこと自体はよいことです。しかし、神様が言われる愛し合うことよりも自分の肉の思いを優先し、喜ばせる思いを優先したい時、イエス様の十字架の救いが表されている箱舟の戸が開かれている間に、神様が待ってくださっている間に、自分のしたいことがあるからと言って、まさか箱舟から下りることのないように。私たちには目に見えることや自分の思いを満たすことを優先したい気持ちがありますが、その中で地上で生きる意義を考えてまいりたいと思います。
神様が私たち罪人のためにイエス様を差し出されました。イエス様は、クリスマスでお生まれになってくださり、十字架にかかって死んでくださいました。神様のこのような愛以上に何を求めますか。神様が表されたイエス様のいのちの愛以外に、私たちを満たすものはありません。この邪悪な時代、「今心が満たされることが大事だ。」と言ってくるこの世の思いが惑わしてくるでしょう。かたやイエス様の十字架の救いを示した箱舟も示されています。
私の思いを探ります。こんな私の内に来てくださったイエス様の前に、大事な生き方をしていきたいと思います。もし仮に肉の思いが出て、例えば愛し合えない状況が起こった時、悔い改めて、やり直すことを神様は語り続けてくださっており、愛することをやめないように、あきらめないように勧めておられます。なぜなら、神様ご自身が私たちを愛し続けられ、愛することを決してあきらめておられないからです。
■2013年12月8日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
愛の喜びが全きものとなる up 2013.12.8
あなたがたに書くべきことがたくさんありますが、紙と墨でしたくはありません。あなたがたのところに行って、顔を合わせて語りたいと思います。私たちの喜びが全きものとなるためにです。選ばれたあなたの姉妹の子どもたちが、あなたによろしくと言っています。
(第2ヨハネ1:12〜13)
私たちは愛の喜びをもっと味わい、開拓していく必要があると思います。そこで、「互いに愛し合う」ことが全きものとなるために、「互いに顔を合わせる」ことを提案したいのです。「顔を合わせる」とは親しさの表現であり、顔を背け、反目し合うことの真逆であります。それは口には表せない、宝のような喜びなのです。
1.信愛の言葉を交わす(ヨハネ6:63)
“いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。”
【内容観察】
「人の徳を高めるのは、神の愛そのものである御霊です。イエス様が話されたことばを聞くことは、いのちを受け徳が高められる愛を受けることになるのです。」
徳が高められるのは、いのちを受けているのと同じことです。いのちには成長させる力があり、前向き、肯定的に働きます。それを与えられた人も同様です。愛は私たちの内なる人格の形成を高めていきます。愛を内に持つ人は、失望も絶望もしません。イエス様は神様の愛を証しされ、語られたお方です。そのおことばは愛のことばであり、私たちにいのちをもたらしてくださいます。
私たちが目指している教会においての信仰姿勢は、御父及び御子イエス・キリストとの交わりです。神のおことばを中心とした交わりと言えます。みことばを用いた交わりによって、みことばといういのちをいただき、私たちの徳は高められていきます。そして栄光のキリストの姿へと変えられていくのです。
この世における交わりにはいろいろな形がありますが、楽しいだけでなく愛のある交わりこそが、人の徳を高めることができます。私たちが神の子として徳を高められていくためには、神様の愛のみことばを用いた交わりが必要です。
「信愛のみことばを互いに語り合いましょう。」
信愛とは、◎信じてかわいがること◎信用して大事に扱うこと
◎信仰と愛、これらの意味が込められています。私たちの交わりがみことばに対する信頼、神に対する信仰、神様の愛をもって語り合う交わりでありますように。そのために神のことばやキリストのことばを用いて、交わりをしていきましょう。
その中の具体例の一つとして、「みことばを用いた祈り」があります。私たちは特に、いやしのための祈りをすることが多いでしょう。また「〜をしてほしい」という願いの祈りをするときに、みことばを用いて祈るのです。
神様はなぜ、私たちの病をいやすことがおできになるのでしょうか。もともと病は罪の実であって、的外れをすることによってもたらされる結果だというのが、聖書の霊的な意味からの判断です。健康が害されるのは罪を犯しているからです。どんな罪かと言えば、不健康な生活をするという罪です。
しかし神様は、いやしに対する約束のみことばを与えてくださっています。イエス様の十字架によって、私たちの病はいやされます。イエス様の十字架は、贖い、罪を赦すための十字架ですから、罪が取り除かれたら病も消えるのです。
イエス・キリストの打たれた傷によって、あなたがたはいやされたとみことばにありますから、そのみことばを用いて祈るのです。すると信仰が働いて、信じる力が強く内側に起こってきます。誰かのために、感情だけでなく神様の約束のみことばを用いて祈る時、祈る私たちもみことばなる神様との接点を持つことができ、神様の愛のご人格に対する信仰が湧き出ます。そしてますます神様の前に思いを込めて祈ることができます。
病は信仰によって取り除かれるのが原則です。みことばを受け止めた人の信仰によって、いやしは起きます。祈った人は自分に自信がないかもしれませんが、神様にいただいた約束は絶対ですし、受け止める人の信仰によって、みことばは働くのです。
その他にも救いの確信や、いろんな場面でそれぞれに与えられたみことばに沿って祈れば、私たち自身もさらに愛が湧き上がってきますし、神様もご自身のみことばに沿ってお力添えを下さいます。ですから聖書を読んでいて心に留まったものには必ずチェックをして、そのことばを用いて祈るようにしてみてください。
具体例その二としては、みことばの証をすること、があります。
みことばの体験の証をすると、人々は励まされます。神はみことばなる方です。聖書に記されているみことばや励ましの言葉が、あなたの身に起こったことを語るということを通して、それを聞いた人々を励まし、希望を持たせるのです。
救いの体験を話をする時があればぜひ、どういうふうに救われたのか、どういうところが特に強調されてあなたはそれを感じ、受け取ったのかを、みことばを用いて証するといいと思います。みことばを用いることによって自分自身も高められますし、聞いている人も神様のおことばに対する信頼を強めていけます。
また日頃デボーションノートで得たことも、兄弟姉妹との交わりの時に証として用いることができます。かっこうの良いことばかりでなく、自分が気づかされた反省すべき点なども、純真な心で証する時、聞く人の心を励ますものになります。
私たちにはまだまだ足りないところがたくさんあるのですから、これからやり直す自分の生活のあり方を証することも、まわりの人々への大きな励ましになります。できていないからクリスチャンなのであり、できるようになるという奇跡を体験していくのが信仰生活です。いつもこれを忘れないようにしていただきたいと思います。
できるようになるためには、みことばへの信頼が必要です。ですから、みことばをしっかりとつかんでそれを信じていくという神様との交わりを続けていただきたいのです。自分に対して失望したり、落胆したりするのは、みことばと交わっているからです。自分のできてなさが、みことばによってはっきりわかるから辛いのです。でも止めないでください。問題が解決しないなら、自分が何か思い違いをしていることを、みことばとの交わりの中で見つけ出していきましょう。
このようにみことばを用いて生活すると、この世では決して体験できない喜びが内にあふれてきます。みことばを語り合う関係づくりに努めてまいりましょう。
2.『至福交際』(しふくこうさい)(第2コリント12:14)
“今、私はあなたがたのところに行こうとして、三度目の用意ができています。しかし、あなたがたに負担はかけません。私が求めているのは、あなたがたの持ち物ではなく、あなたがた自身だからです。子は親のためにたくわえる必要はなく、親が子のためにたくわえるべきです。”
◎『至福交際』(しふくこうさい)の意味
この上ない幸せなコミュニケーションを持つ。
パウロにとっての至福交際は、自分がイエス様と聖霊様によって生み出した神の教会との交流でした。
健全な親子の交わりで、親はいつも「子どものために」ということを考えます。子どもがどんなに大きくなってもその愛は変わりません。パウロも同じように、子どもたちである神の教会に何かしてあげたいと、いつも思っていたのです。
子どもも親の気持ちを感謝して受け止めつつ、親孝行していくなら、それは至福交際と言えるでしょう。私たちはこれを目指しています。
(エペソ2:19)“こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。”
この時季に思い出す童話に「マッチ売りの少女」があります。彼女がもし現在のあなたの前に現れたら、あなたはどうしますか?マッチを買ってあげるのも、温かい食事を提供してあげるのもいいでしょう。でも彼女にとってもっと喜ばしいのは、彼女を家族として迎え入れてあげることではないでしょうか。
私たちも罪人として神様と無縁の人生を歩んでいましたが、イエス様が神の家族として愛のうちに入れてくださいました。冷たい世界から暖かい家に入れられて、「もう外に出なくてもいいんだよ」と言ってくださったのです。
そう思うと、もう十分に感謝ではありませんか。家の中にいじわるする子がいたとしても、凍える寒さの中、裸足でマッチを売ることに比べたら、天国みたいなものです。守られているのですから。けんかをするのも子どもの頃だけで、大人になれば家族内で助け合うようになるのが普通です。父なる神は愛なる方であり、そのお姿を見て育つのですから、成長すればなおさら、お互いを思いやるようになるのです。
しかし父なる神様の愛に反抗し、その愛を信じないで出て行ってしまう人々とは家族になれません。せっかく迎え入れられたことを無駄にしないよう気をつけましょう。
「冬木立 家族団らん 時近し」
冬になって自然の風景は寒々しいものに変わりました。この冬木立が広がる頃には、年末の休みに離れていた子どもたちやその家族が家に戻ってくるしるしでもあります。外は寒いですが、家の中は一家団らんの暖かい時間が近づいているんだな、と心が温かくなってくる。そんな親の気持ちを表した句です。
私たちクリスチャンにとっての一家団らんの日は、イエス様の再臨であり、御父はこれを待ちわびておられます。
ただし、この再臨の前には、世の愛は冷えると聖書にあります。世の愛が冷えるほど、再臨が近いことがわかるのです。聖書に記された人々や、歴史に残った聖人たちに家族として会える日は近づいています。
■2013年12月1日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
損なわれる愛の習慣 up 2013.12.1
そういう人にあいさつすれば、その悪い行ないをともにすることになります。
(第2ヨハネ1:11)
先週の10節と合わせて読み返せば、よりわかりやすいでしょう。「互いに愛し合いなさい」という愛の教えを持ってこない人には、あいさつすることさえも避けるべきなのです。それは神様に対しての純真な心、貞潔を万が一にも失わないためです。
皆さんそれぞれに、大切なもの、汚されたくない宝物をお持ちだと思います。ここぞという時にしか使わないような、自分にとって本当に価値あるものです。
神様にとって私たちは価値あるものだったのに、罪を犯して汚れてしまいました。でも神様は私たちを惜しまれて、主イエス様の十字架での贖いの犠牲をもって、もう一度私たちを新品のようにきよくしようとされました
神ご自身が天より下り、私たちの代わりに罪の裁きを受けて、私たちのいのち、魂をきよくしてくださったのです。今、全世界の人々が持っているいのちは、イエス・キリストによってもう一度代価を払われてきよめられたいのちなのです。
しかし、その事実を受け入れずに、せっかくのいのちを汚している未信者の人たちが多くいます。ですから、私たちは良い愛の習慣が損なわれることがないよう、心がけていかねばなりません。私たちの自制は、私たちにきよいいのち、価値あるいのちをもたらすために、私たちの受けるべき罪の裁きを身代わりに負ってくださった、イエス様の尊い犠牲を無駄にしないためです。
「あいさつしてはならない」とはずいぶん厳しいことばに聞こえますが、そこまでしても守らねばならない尊いものを内にいただいていることを自覚していただきたいのです。私たちは、自分に与えられた尊いいのちを大事にする習慣をもっと重要視していきましょう。
現代は24時間どこかが働いていて、クリスチャンも決まった時間に祈ったり聖書を読んだりすることが難しくなっています。しかし「好きな時間にやりたいことをする」のは自由ではなく放縦です。神様を愛しているなら、内側に与えられたきよいいのちを大事にしましょう。規則正しい霊的な良い習慣を失わないように、保っていきたいですね。体の健康は規則正しい生活から始まりますが、霊的健康にも同じことが言えるのです。
1.思い違いをしない(第1コリント15:33〜34)
“思い違いをしてはいけません。友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます。目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめなさい。神についての正しい知識を持っていない人たちがいます。私はあなたがたをはずかしめるために、こう言っているのです。”
神様の御前では恥ずかしいことなのですが、世に染まっていて気づいていないことがあります。
【内容観察】
(1)友としてのあいさつをかわすべき兄妹を、思い違いしていないか?
私たちが通りかかる人にあいさつするのは社会的常識であり、誰が相手でも別に問題ありません。むしろ良いことです。
問題は、クリスチャン同士での、兄弟姉妹として心を開いた親しいものです。信頼し、全人格で受け止めるのがクリスチャン同士での挨拶です。そういうわけで、愛についての教えをしっかり語らない人に対しては、交わりをしてはならないのです。
特に、欲にかられないよう注意しましょう。神様は地上での繁栄など気にされません。神の国に至る道、愛の道をひたすら願っておられます。ですから、私たちは互いを愛し、思いやる生活を目指していれば、必ず神の国にたどり着けます。
教会で兄弟姉妹と交わる時、相手があまりにも愛から外れた生き方をしていると感じたなら、深入りしない方が自分のためになります。明らかに愛以外のものを強調したならば、あいさつさえもかわすべきではありません。私たちはそれほどまでに、周りの影響を受けやすい存在なのです。
(2)良心が目覚めていないと思い違いをしやすい。
良心が目覚めているかどうかは、キリストにあって赦し合う心があるかないかで判断できます。私たちの良心が目覚めたしるしは、イエス・キリストの血潮を受けたことによる(ヘブル9:14)と記されています。この血潮は神様のあわれみによる罪の赦しです。この大きなあわれみと愛を受けて、私たちは罪の裁きの代わりにいただいたいのちを汚さないように、しっかりと守っていく人生を歩んでいるわけです。
イエス様のあわれみは、野良猫に食べかすを与えるようなあわれみではなく、私たちを回復させ、力づけるあわれみです。よきサマリヤ人のように、神様は私たちを永遠の救いに至らせるほどのあわれみを与えてくださいました。
サマリヤ人に助けられたユダヤ人は、彼に心から感謝し、人種的偏見など捨て去ったのではないでしょうか。あわれみは私たちに正しい心をもたらします。知識ではなく、あわれみによって心が動かされて、赦そうという思いが湧き上がってくるのが、正しい良心が目覚めた状態です。1万タラントの借金を赦されたしもべが、百デナリを赦せなかったのは、損得で勘定していたからです。愛の観点からすれば、赦された者は赦す者になるのです。あなたがなかなか人を赦すことができない場合は、神様の愛による良心のきよめが不十分かもしれません。
神様のあわれみを知り、深く触れることを、私たちはもっともっと求めていくべきです。
(3)神についての正しい知識がないと思い違いをする。
神の本質が愛であることを知る、ただこのことだけです。神様を思う時、描く時、どんな時にもこの事実を忘れてはなりません。
神様は聖であられ、神様の本質である愛もまた聖であられます。
この範囲から出ないように気をつけましょう。
神は光である(第1ヨハネ1:5)から、愛も光であり、暗いところは少しもありません。これらのイメージを保ちつつ、世の言う愛に惑わされないよう、気をつけていきましょう。
2.『志操堅確』(しそうけんかく)(ガラテヤ5:6〜10)
“キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。あなたがたはよく走っていたのに、だれがあなたがたを妨げて、真理に従わなくさせたのですか。そのような勧めは、あなたがたを召してくださった方から出たものではありません。わずかのパン種が、こねた粉の全体を発酵させるのです。私は主にあって、あなたがたが少しも違った考えを持っていないと確信しています。しかし、あなたがたをかき乱す者は、だれであろうと、さばきを受けるのです。”
少しの悪い考えや習慣が何もかもだめにしてしまう危険を招くと、パウロも警告しています。「少しくらいいいではないか」という油断は禁物です。神様への思いを薄れさせ、この世の価値観をもたらして、良い習慣を損なわせます。神を第一にする気持ちを失わせる破れ口になり、時間が経てば、全体を腐らせる結果になります。
◎『志操堅確』(しそうけんかく)の意味
志や考え、主義などを固く守り、何があっても変えないこと。
私たちはできるできないで物事を考えるのではありません。「互いに愛し合うこと」がキリストの教えであるという確信を捨てずに、進もうとすることが大事なのです。これが私たちにとって最も大切な教えなのですから。今は不完全でも、将来に希望を持ちたい、という強い意志を保ちましょう。
「互いに愛し合う」というキリストのおことばを中心に、自分の人生を考えていくことを、神の御前に求めていこうではありませんか。
「愛によって働く信仰」はあわれみを知っています。ある宣教師が、沈没した船から海に投げ出された時、溺れていた二人の男女に自分の浮き輪を与えて溺れ死にました。しかし、その二人は自分たちを助けてくれた宣教師の葬儀には出席しませんでした。恩を知識としてしか知らない人の反応です。
私たちもイエス様から測り知れない愛と恩義を受けていますが、その深いあわれみも恩義も感じとらずに、自分のやりたいことばかり優先してはいませんか。私たちの信仰は宗教的なものではなく、愛によって働くものです。救われたという愛が私たちの動機です。あわれみは自発的な行動をもたらします。あわれみを感じる度合いによって、人にあわれみを示せる度合いも変わります。あわれみを感じていないのに無理をすると、心が歪んでしまいます。
また、わたしたちは不完全な者です。その私たちが愛し合うには、赦し合うことは不可欠です。お互いに未熟なことはわかっていても、神を信頼して歩んでいる人なのだという信頼のゆえに、相手の神への信仰を見て、赦すことができるのです。夫婦も家族も、お互いにあわれみを豊かに注ぎ合うことによって、家庭の一致が出てきます。
そしてあわれみを知っている人は、神様を知っている人です。これからももっと神様を、イエス様を知っていくために、よく黙想し、考えながら、悪い習慣にあずからないように、互いにあわれみ合うという良い習慣を損なわないように、努力し努めていきたいと思います。そしてさらに強めて、建て上げていきたいと願います。今できていないからこそ、願い求めてまいりましょう。
「湯豆腐を 冷ややっこと 思い違い」
ありえない思い違いをすることです。愚かな人は、湯豆腐を冷ややっこのように口に入れて、やけどをします。常識からはありえないと思うことも、思い違いをすればありえるのです。
「思い違いをしていると大変なことになるよ。」という忠告です。世の中の常識が入り込むことによって、いつの間にか大事なものを見失ってしまいます。
■2013年11月24日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
愛の心を保つ up 2013.11.24
あなたがたのところに来る人で、この教えを持って来ない者は、家に受け入れてはいけません。その人にあいさつのことばをかけてもいけません。
(第2ヨハネ1:10)
この(第2ヨハネ1:10)だけ読むと大変厳しいみことばですが、先週学んだ、前の節のみことばの学びから言えることは、「この教え」とは、イエスさまが私達に語られた唯一の戒めである「互いに愛すること」であることがわかります。
たくさんの大切なみことばがありますが、最も大切な教えは「互いに愛し合う」ということなのです。これが、この聖書全体を通して語られていることです。
しかし、何故これほど厳しい態度で臨む必要があるのでしょうか。それは、この「互いに愛し合う」ことを妨げてくるものに対しては、ある時は厳しく応じることも愛であるからです。
愛とは何でしょうか。私達は「愛とは天地を造られた創造主である」とも答えることができます。神は「愛」そのものであるからです。そして、この万物は神の愛を表しています。愛なる神は、全能なる力をもっておられるだけではなく、きよい愛をもっておられる方です。
私達はこの神のきよい愛を注がれているのです。この愛を私達はイエス・キリストを通して内にいただくことができました。その愛の心を保つ(維持する)ことが本当に大切であるということが、この節で強調されているのです。
1.厳しく戒めるのはどうして?
『戒める』⇒過ちのないように注意する。用心させること。
(1) 急を要する事態である(箴言19:20)
“忠告を聞き、訓戒を受け入れよ。そうすれば、あなたはあとで知恵を得よう。”
事態が差し迫っているときは、長い説明をする余地はありません。相手の命がかかっている場合、例えば、子どもが道路に飛び出そうとしているようなときは、ただ、「危ない!」と叫んで止めようとするでしょう。この時代、そのような事態が起きていました。
多くの教会が悪い影響を受けて、イエスさまの教えの真髄から的を外しかかっていたのです。それゆえ、厳しい口調で危険を回避させる必要があったと言えます。
戒めはあまり受けたくないものですが、戒めは、損失や害を受けないためになされる忠告です。
例えば、東北大震災が東海大震災より先に起きました。さらに、次は南海トラフ地震が起きると言われています。大震災が起きた2年前は防災グッズがよく売れたそうですが、今はあまり売れていません。危機感があまりないのです。教会でも準備として、防災グッズを選定しつつありますが、なかなか進みません。
地震が起きるから早く準備をするようにいくら言われても、うるさく思ったりムッとしたりしてしまいます。しかし、実際に起きた時には、準備していた人は、戒め、忠告を受け入れて準備していて良かったと思うはずです。それが、「あとで知恵を得よう。」という知恵です。
(2) 汚されないために(第2コリント11:3)
“しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。”
私自身子育てでは、神への純真な心を失わないようにと子どもを注意深く育ててきました。子どもの時に正しい健全な習慣をつくっておきたいと思ったからです。
純真なものが汚されるという損失はいかに大きいことでしょうか。汚れない神への愛が汚されないために、ヨハネは人々を心配し心を配ったのです。
一度、罪の汚れから、キリストの尊い血潮によってきよめられたのに、そのきよめられた魂が汚されてしまう。それはなんという損失でしょうか。その純真なきよさを守るのは、単に自分のためだけではありません。そのためにひとり子なるイエス・キリストを犠牲にされた神の愛に報いるためでもあります。
それほどの犠牲をもってきよめられた魂を、どうして汚していいものでしょうか。愛の源である神を愛するゆえに、これほどの厳しさも必要なのです。
神の愛への忠実さゆえに、いっさいの汚れから身を守ろうとする厳しさが生まれてきます。きよい神の愛から離れてしまうと、あとは自己満足の愛しか残りません。私達は愛してくださった方への愛の応答をする人生を喜んで送っているのです。汚されないために、神への忠実な心を守るために、厳しさもまた愛なのです。
2、『良薬苦口』(りょうやくくこう)(第2コリント6:12−13) “あなたがたは、私たちの中で制約を受けているのではなく、自分の心で自分を窮屈にしているのです。私は自分の子どもに対するように言います。それに報いて、あなたがたのほうでも心を広くしてください。”
パウロは、コリントの教会の人々が神の前に正しく歩めるようにと心から願って忠告したのですが、それがかえって「責められた、裁かれた、傷つけられた」という受け取り方をされたために、もう一度手紙を書いたようです。
戒めがくると、その内容よりも先に、感情を刺激されてしまうことがあります。そして、自分で自分を窮屈にしてしまうのです。
それは、一般社会で受けた影響とも言えます。自分の存在を否定されたかのように受けとめてしまうのです。
しかし、パウロは「自分の子どもに対するように言います。」と優しく語りかけています。
戒めは神の愛から出たものです。そのことを信じて、心を開いて受け入れる必要があります。痛いながらも、受けとめていこうという気持ちをなくさないようにしましょう。自分のためを思い、愛によって語られたものであると、後になってわかるものです。
また、愛の関係が深まるほど忠告は受け取りやすくなります。つまり忠告を受入れ合うという関係は、愛の成熟した関係とも言えます。ただし、互いの間で忠告することは、気をつけないといけません。お互いの愛の関係が出来上がっていてこそ、できることだからです。
また、愛を信じて心を広くすることが、忠告を受け入れやすくします。
唐の李世民の治世の時、魏徴という有名な家臣がいました。魏徴は皇帝に対して、「私を良い臣下、良臣として全うさせてください。夢々忠臣としては全うさせないでください。」と言ってきました。それで、李世民は「良臣と忠臣とはどういう違いがあるのか。」と質問しました。すると魏徴は、「良臣とは、自分が世の人々に良い臣下であるという評判を得るのではなく、君主が世の人々に名君であると誉れを得させる者です。そして、子々孫々に至るまで君主と臣下が共に繁栄していくものです。忠臣は君主の命令に忠実に従うために、その従順において、人を罪ある者として、裁き、殺して恨みにあうことも起きます。そして、もっと悪いことに、君主も極悪非道に陥り、国も滅び、ただひとり忠臣がいたという評判だけが残ります。」とその違いを語りました。
人は権勢権力を持つと横柄になり権威を使い、遂には国を滅ぼしてしまうことがあります。魏徴は、こういう風にして、君主を諭したのです。それゆえ、李世民は中国史上最高の名君のひとりとして、称えられています。魏徴が亡くなった時、李世民は、「人は銅を以て鏡と為し、衣冠を正すべし、古きを以て鏡と為し、興替を見るべし、人の為す鏡を以て、得失を知るべし。魏徴の沒、朕亡くせし一鏡矣。」(『資治通鑑』巻一九六)と嘆きました。
私たちも愛なる神を知っているのですから、互いに愛し合うということに心を向けていきましょう。今できていなくても、そのようになりたいと心を決めてあきらめずに努めていきましょう。
まずは、忠告を受け止めるという、心を磨いていきましょう。
■2013年11月17日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
愛にとどまる up 2013.11.17
だれでも行き過ぎをして、キリストの教えのうちにとどまらない者は、神を持っていません。その教えのうちにとどまっている者は、御父をも御子をも持っています。
(第2ヨハネ1:9)
愛なる神様にとどまるとは、その教えにとどまることです。それは「互いに愛し合う」という教え、ただ一つです。
1.主題聖句より(第2ヨハネ1:9)“みことばは前述”
「行き過ぎ」ということばが最初に出てきます。行き過ぎていることに気がつかなければ、とどまっていると思い込んでいるかもしれません。行き過ぎは見逃すことも含んでいます。他のことに気を取られて、大事にすべき目的の場所を見逃して行き過ぎてしまうことがあります。キリストの教えに留まろうとしていても、他のものに心が奪われていると見逃してしまうことがあるという忠告です。
また、行き過ぎる⇒見逃す⇒軽んじている姿勢があるということです。知識では理解していても、重要性に気がついておらず、自覚がない状態です。礼拝で「互いに愛し合う」ことが重要だと聞いていても、その重要性に気がついているかどうか…。重要性に気がついておられたら、絶対に忘れないものです。軽んじているがゆえに、行き過ぎという行為が生まれてくるとき、「愛し合う」ことを軽んじる受け止め方をしているとき、重要性を本当には感じていないのではないかと考えることができるわけです。
行き過ぎとは「互いに愛し合う」ことについて度が過ぎるという意味ではありません。軽く見て見逃して通り過ぎたり、日曜日には耳にしても月曜日には他のものに気をとられて見逃したりしていませんか、という忠告を心に持ちながら、愛にとどまる大切さを見ていきたいと思います。そして、見逃すことなく、軽んじることなく行き過ぎないクリスチャン生活を過ごしていただきたいと思います。最初から全部できるわけではなく、失敗しながら学ぶものであると、一つ一つ重要性を実感していってください。
とどまる=一時停止ではなく、終着点を表す。
最終点であり、目的地である。
=定住する。腰をすえ、生涯をかけて取り組む。
そこで人生を送る。
「つまり、キリストの教え『互いに愛し合う』が人生の目的である。私たちが生まれてきたのは、互いに愛し合うためである。この教えからどこにも行く必要はない。これこそ人が目指すべき生き方である。」
平和、安心、喜び…いろいろな良いものは互いに愛し合って生まれてきます。憎しみ合ったり、敵対していたり、競争し合っている中にはありません。
歴史を考えても、互いに愛し合うことが最善であり、重要な教えだと気づく必要があります。またとどまるという言葉の様々な意味からも、互いに愛し合うとは重要な教えだということです。「互いに愛し合う」教えにもっととどまる人生を送りたいと思います。「互いに愛し合う」ということが行き過ぎないように、見逃さないように、軽んじないように、という忠告を踏まえながら、仕事、家庭を築く、人間関係すべてに通じる教えであると、皆さんは気づいてきておられるでしょうか。
【内容観察】
新しいものに好奇心を持つことは、成長のためには必要です。しかし、互いに愛し合うことを追求するための好奇心でなく、他に目的があるのではという好奇心は行き過ぎてきます。同じことを繰り返して聞くと、嫌気がさしてくることもあります。
しかし、さほど目新しいものを使ってはいない食材が味付けで違ってくるように、「互いに愛し合う」ことをどう味付けして調理するかがポイントです。
みなさんは、数年語られ続けている「互いに愛し合う」という知識を得るためではなく、実際生活に表されていくために、聞いておられると思います。「互いに愛し合う」ことに関心があり追求しておられる人は、集中して聴かれますが、関心の薄い人は聞き流してしまい、実はなりません。その関心の薄い人の姿を見て、世の人は、キリスト教の愛は単なる知識にとどまった教えとしてしか見ません。
過去、隣人を愛するすばらしいキリスト教の影響があったのに、「互いに愛し合う」クリスチャンの質が落ちてきて、世の中の経済社会の価値観によって自己中心の愛にすり替わってしまってきています。
まず大切なことは、人々に注目されるための存在でなく、一番近くの隣人である家族に「互いに愛し合う」ということが実ってきているかどうかです。それらをないがしろにして仮に震災のボランティアにいそしんだとしても、単なる自己満足に終わってしまいます。身近な家族に愛を注いで実を結んでいくことによって、正しい愛が増え広がっていきます。
このことは難しいからこそ、とどまる気持ちが大切です。良いものほど時間がかかります。価値あるものほど時間をかけて作り上げるものです。すぐにはならないことを覚悟して、定住するつもりで「互いに愛し合う」ことに心を向けてください。
2.『属毛離裏』(ぞくもうりり)(ヨハネ15:5)
“わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。”
◎『属毛離裏』(ぞくもうりり)の意味
親と子の関係の深いこと。
子が父親を手本とし、母親に愛育されて成長することをいう。
【内容観察】
「愛の源である創造主とその方に似せて創られた人とは、ぶどうの木とその枝のように深い関係にあります。人が創造主からの愛を受け入れ続け、愛の源である創造主もその人に永遠の愛を注ぎ続けるなら、そういう人は愛をする生活の結果を見ることができます。愛の源である創造主を離れては、その創造主に似せて創られた人は何の愛の結果も生み出すことができないからです。」
(1)木の存在〜枝の存在の支え〜ぶどうの木があって枝が存在する
子の存在は親の存在を証明するものであり、私たちがいることは神の存在があるということです。神様がおられて私たちが創られたという、存在の原則がここにあります。ぶどうの木と枝の深い関係…神様あっての万物という重要性をどのくらい感じておられますか。「先祖を大切にする」とは、先祖あっての今日の私であり、先祖を通して自分の存在がもたらされた…最終的に神に通じます。
わがままができたり、罪を犯したりできるのは神様の存在あってのことです。
日本社会においては、暴走族や犯罪者もいますが、全体の比率からすれば、ルールを破る人は少なく、大半の犯罪を犯さない人によって社会は成り立っています。もしみんなが同じようにルールを破ったならば、暴走族はいなくなります。ということは、まじめな人によって、悪いことをする人が、その悪が支えられている社会なのです。だから、まじめな人は神様の前に尊ばれるのです。
私たちの神の前に生きる敬虔な姿勢が、社会道徳を支えているといっていいほど私たちは、社会に影響ある存在です。
神を尊ぶ心を持って生きていく姿勢が、人々に良い影響を与えるのではないでしょうか。良き神様の存在は、枝である私たちの生活の存在を支えていくものであり、私たちの神を敬う敬虔な生活が、愛なる神様の存在を証明する、ぶどうの木と枝はそういう関係です。
(2)木の養分は実りのため
ぶどうの木と枝は一体となった関係であり、枝が伸びて実がなることがぶどうの木が健康であるといえます。神様の力強いいのちは、ご自身のためではなく、私たちのためです。これはすごいことです。ぶどうの木は、枝に実が実るのを喜びとし、存在の目的としています。神様も、枝である私たちが互いに愛し合うという愛の実を実らせることに、ご自分の存在の価値と喜びを感じておられます。
◎親の愛は子が実を結ぶためである
親が持っている愛は、自分だけを喜ばせる愛ではなく、子が成長して社会の中でさらにその愛をもって「互いに愛し合う」という人間関係の中で愛の実を結ばせるためです。
神と人との関係が、互いに愛し合うという実を生み出すということを、ぶどうの木とその枝、親と子の関係である神様と私たちの関係、属毛離裏の関係と関連づけ、この一週間、愛にとどまる、神の教えにとどまること、互いに愛し合うこと、その教えの中に生きていくことを心がけていきましょう。
「ふるさとは 愛し合う群れ 渡り鳥」
渡り鳥の故郷である安心して生涯を送ることのできる安住の地は、場所ではなく、互いに愛し合う彼らの群れの中にあります。 そのように互いに愛し合うという教えこそ、私たちの安住の地があるという意味があります。互いに愛し合うことが重要な教えであることに、まずそれに気がつくだけでもすばらしいことです。その重要性をデボーションの中で聖霊様に示していただきたいと思います。
■2013年11月10日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
愛の労苦 up 2013.11.10
よく気をつけて、私たちの労苦の実をだいなしにすることなく、豊かな報いを受けるようになりなさい。
(第2ヨハネ1:8)
『互いに愛し合うという愛の労苦を、途中で諦めてしまうなら、それまでのことがすべて無駄になってしまいます。だから、最後までやり遂げるようにとあなたがたを励ますのです。』
愛の労苦によって結ばれてきたせっかくの実が、台無しになってしまうことがあります。七節まででヨハネは、「互いに愛し合うこと」を大切にすることを強調しています。
イエス様が昇天されて70年、様々な教えが、本筋である「互いに愛し合うこと」を隅に追いやろうとしていました。日本で70年前を考えてみると、ちょうど戦時中で今とは何もかも違っていました。現代に70年前の考え方を持ち出せば、人々は笑って相手にしないでしょうが、ヨハネに対しても当時の人々が同様に対応したであろうことは、想像に難くありません。いつも人々は、目新しいものに飛びつくのです。
しかし真理は発展や成長をするものではありません。「昨日も今日も、いつまでも変わらない」ものこそが真理です。聖書は真理であり、その根幹をなす「互いに愛し合うこと」も不変の真理なのです。
今の時代に人々が言う真理は多数決で決まるものであり、賛同者の数によって真理が変化してしまいます。聖書の教えに古くさいイメージを抱く人は本物の真理を持っていません。自分が何者であり、何のために存在しているかを知らない人です。
この世界は偶然の積み重ねで存在しており、善もその時々に合わせて変化すると考える彼らに屈することなく、絶対的善を信じるクリスチャンが「互いに愛し合う」という真理を長年続けていくためには、愛の労苦が必要です。
世には様々なかたちの労苦がありますが、私たちが労苦するならば、愛のために愛の動機を持って労苦することを選ぼうではありませんか。それこそ価値あるもの、報いを得られるものだと、ヨハネは主張しています。
私たちクリスチャンは、全ての労苦を、私たちを愛してくださっている神の愛のためであると考えて受け止めています。苦労すること、苦しむことを甘んじて受け入れます。愛は労苦の中にこそ輝くものです。喜び楽しむパーティーの中での愛よりも、貧しくともお互いを思いやる日々の中での愛の方が、より愛情を深く感じられます。
愛の労苦は宝のようなものだと、私は思います。その宝を嫌がらないようにしましょう。愛は労苦の中にこそ輝くものなのですから。
この世は労苦を厭い、楽して自分の願望を満たそうとします。楽して豊かになろうとするのは不法です。報酬にはそれに応じた労苦があります。それは神様が定められた原則です。どんな仕事でも、楽したいと思いながらでは成功しません。それなりの労苦があってこそ、実を結ぶものです。種を蒔き、芽から成長までの世話、そして刈り取りが、収穫を得るまでの労苦です。毎日の試練、困難、苦しみは愛の実を結ぶための労苦であると受け止めましょう。
1.『艱苦奮闘』の歩み(コロサイ1:29)
“このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。”
◎『艱苦奮闘』(かんくふんとう)の意味
悩み苦しみながら精一杯頑張ること。また、力いっぱいに努めること。
【内容観察】
労苦⇒労する、疲労する、骨折って一所懸命する、弱り疲れ果てる。
奮闘⇒競技する、戦う、一心に務める、苦闘する。
初代教会の時代、使徒から五役者に至るまで全員が愛の労苦をしながら奮闘していていました。
パウロは疲労困憊の中でも、戦い続ける姿勢を崩さなかったのは、よほど強い欲望か、よほどすばらしい愛かが彼を突き動かしたからに他なりません。家族で寝込んだ時、母親が自分の高熱をおして子どもを看病するように、パウロも倒れてなどいられなかったのです。
ましてや、イエス様を私たちの身代わりに送られたほどの父なる神のお気持ちはいかばかりか。私たち罪人のために、どれほど労苦して永遠のいのちに導いてくださっているのでしょうか。私たち一人一人にそれぞれ見える範囲での労苦がありますが、それら全てを支え、導き、永遠のいのちに至るためのことを考えて、父なる神様は聖霊様を通して、あなたのうちに何倍もの労苦の働きをしておられます。
旧約聖書で神様はイスラエルの民について「なんとうなじのこわい民だ」と評されましたが、決して見捨てられはしませんでした。彼らのかたくなさ、反抗に手を焼きながらも、現在に至るまで導いておられます。同じように私たちも、箸にも棒にもかからないような者ですが、神様は大事に導いてくださっています。あなたが今受けている苦しみは、神様も共に受けてくださっているのです。申し訳ないことです。神様のお姿を見て、あなたも今の困難を受け入れ、乗り切っていこうとは思いませんか。神様の愛を受ければ、逃げない勇気をもらうことができ、励まされます。これが愛の関係であり、共に労苦して励まし合うという気持ちになれます。
私たちが世の常識と合わせられずに被害を被るなら、それは愛の労苦であることを覚えていてください。この世は戦いの場であり、傷を受けるのです。
A)愛の労苦に無駄はない(第1コリント15:58)
“ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分の労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。”
神様の愛を知った人は、愛のゆえに全ての行動は無駄にならないのです。たとえ失敗に終わっても、です。なぜなら神は愛なる方なので、愛によってなされた事には愛の実を報酬として与えられるからです。
福音書の中で一人の女がイエス様に、今の金額に換算すると300万円にもなる高価な香油を注いだことが記されています。弟子たちはそのお金を貧しい人たちに分けなかったと憤慨しましたが、イエス様は彼女の行為をほめられました。彼女は自分が多く赦されていることを知っていたから、多く愛しただけなのです。神様が自分の罪を贖うためにどれほどの労苦をしてくださったかを考える時、私は神様にぜひ報いたいと思った、それが愛の労苦です。イエス様に報いたい気持ちがそれほどないと思う人は、まだイエス様からの愛に気づいていない人です。たとえば自分の財布に100万円入っていても気づかなければ、その人は自分が知っている金額の中でやりくりするしかありません。しかし気づけば、それに対しての感謝と喜びが溢れてきます。
私たちは喜ばねばならないのではなく、神様の愛に気づかなければならないのです。そうすれば、愛の労苦もクリスチャン生活の辛さも喜んで受け止められるようになります。クリスチャンの労苦は世の人の労苦と違うものが多くあります。それぞれが神様の愛に対してどれほど心が開かれたかで、決断も行動も異なります。今できないからといって自分を責めてはいけません。強いられているのではないからです。
イエス様に香油を注いだ女は、自分の感謝と喜びを精一杯表すために、全財産をはたいてあの油を買ったのです。私たちもそれぞれが、いくらかの香油の壷を持っていることでしょう。自分のできる分だけの香油にしておきましょう。無理をして多くささげても、愛のない行為になってしまいます。献金などのささげものもそうです。どれにしても多すぎず、少なすぎず、心に喜びをもって捧げられるだけのものをささげましょう。
B)愛に根ざし、愛を基礎とする(エペソ3:17)
“…また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、”
愛に根ざし、愛を基礎とする心がけが必要です。これなしで艱苦奮闘のクリスチャン生活は難しいでしょう。当時エペソの教会は、非常に成長した教会と言われていましたが、パウロは彼らに対しこのことばを用いて、エペソの信仰の土台は愛であると評価したのです。
私たちクリスチャンの生きる土台は愛です。愛という土台の上に家を建てているから、愛の家ができるのです。これがクリスチャンにとって大事な根本的な姿勢です。
以上の二点をどうぞ心に留めて、今受けている苦難、患難、苦しみを、クリスチャンとして奮闘しながら、前に向かっていただきたいと思います。すると神の愛の力によって前に進むことができるということを体験されるはずです。
2.互いに祈りをもって戦う労苦(コロサイ4:12)
“あなたがたの仲間のひとり、キリスト・イエスのしもべエパフラスが、あなたがたによろしくと言っています。彼はいつも、あなたがたが完全な人となり、また神のすべてのみこころを十分に確信して立つことができるよう、あなたがたのために祈りに励んでいます。”
【内容観察】
『励んでいます』⇒苦闘しています。戦っています。
「エパフラスは、コロサイの教会が完全な人となることを妨げる者や神のすべてのみこころを十分に確信して立つことを妨げる働きをする者に向かって祈りをもって戦っています。」
祈ることは戦いであり労苦です。苦しみが伴い、犠牲があります。それでも続けていくならば、そこが愛の労苦として実を結んでいくのです。愛のない祈りは、極論を言えばですが、聞かれることはありません。
奇跡は、神様のうちにあわれみが溢れた時起こされることが多いのです。奇跡も祈りも、愛による労苦が一番効果があります。ここで大事なことは、自分のための労苦では愛の労苦にならないことです。愛は誰かのために注ぎ出すもので、その人のために時間を取り、あらゆる精神的、肉体的、環境的な圧迫を受けても祈り続ける、これが愛の労苦ということです。
私たちが挑戦しやすい、祈りというこの労苦から始めてみましょう。ただし、戦いとしてきちんと準備をし、神様の愛にしっかりと根ざして祈ってほしいと思います。
『高級柿 苦闘の末の 愛の味』
神様の愛は安っぽくしてはいけません。神様の愛は本当に値うちのあるものなのです。高級な果物も、育てる人の心身をすり減らす労苦の賜物です。私たちも罪人でしたが、イエス様の救いによって高級柿に生まれ変わりました。高級柿(神の子)として歩んでいく苦闘の末に、味わいある(愛のある)クリスチャン生活があります。果物を育てた人の苦労を思う時また、イエス様がどれほどの思いを持って労苦し、十字架で苦しんでくださったかをも考え、その苦闘の実が自分のクリスチャン生活に滲み出るということを覚えてほしいのです。
■2013年11月3日 日曜礼拝メッセージより(小栗伝道師、辻和希伝道師、横路伝道師)
愛の香ばしいかおり up 2013.11.3
また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。
(エペソ5:2)
イエス様ご自身が私たちを愛して、私たちの代わりに十字架にかかられ、ほふられた供物、犠牲としてご自身をささげられたいけにえが香ばしいかおりとして、神の前に立ちのぼりました。そのように、私たちも神様に対して、香ばしいかおりをささげるために、今回は三つのポイントが挙げられています。
1.互いに励まし合う(ヘブル10:25)【小栗伝道師メッセージ】
“…かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。”
私たちは、日々の生活の中で、励ましの力がどんなに自分を支えてきたかを知っています。
【内容観察】
◎励ましとは
「互いに励まし合う」ところには、香ばしいかおりが神様の前にたちのぼっています。しかし、(第1コリント13:3)にあるように、たとえからだを犠牲にしても、神の愛からではなく自分を誇る思いから出た励ましは何の益にもなりません。
ここでは、その人を気遣って、ただその人自身を受け止めてあげたい、わかってあげたいという、内側から出てくる愛による励ましを指しています。そこには 、上から目線でなく同じ位置に立ってわかってあげることができたなら、受け止めてあげることができたなら…という神の愛が土台にあります。神様も決して上から目線ではなく、神である方が人の形をとってこの地上におりて来られて、十字架という罪人に対する極刑という悲惨な姿になってしてでも、「あなたをわかってあげたい、あなたの罪からくる苦しみをわかってあげたい」といって十字架におかかりになりました。十字架は、私たちに対するイエス様の励ましの姿です。
神の愛を受けた者が、身近な人に対して「もしかすると傷ついておられるのかな、苦しんでおられるのかな」と存在を大切に思い、神の愛から出る励ましをするとき、神様の前に香ばしいかおりとしてたちのぼっています。
◇いのちに意味を与える
励ましは、単に外見や能力をほめることではないと思います。その存在を、すなわちありのままを受け入れ、無条件の愛を表すことに他なりません。しかも、励ましを受けることによって、今まで否定されて生きて来た人の内側にある可能性を引き出すお手伝いをしていることにもなります。
◇霊的成長につながること
見える肉(能力、外見等)に対する励ましは、一時的なものにすぎません。
励ましの原語には、戒める、警告するの意味もあり、痛くても
その人の霊的な成長に必要なことを語らなければならないこともあります。肉への単なる励ましは、肉の安住をもたらしたり、傲慢に至ったりします。
*励ましは闇を照らさずにはおれない神の愛の力
励ましが必要な状態は、失望、落胆、絶望、迷い…等、先が見通せない暗い状態とも言えます。イエス様が闇の世に光として来られたのと同じく、そのような心に神の愛から出た光は闇を照らさずにはおれない、どんな暗闇でも励ましという言葉は照らしていくのです。私たちが沈んだ状態で生き続けることを神様は願っておられず、愛を送られるのです。
●励ましの具体例として
・ただ聞く
・ことば〜人を養う、いやす、親切
「〜しかできない」と人を否定的に評価して、制限を与えてしまっていることばでなく、「〜ならできるよ」と可能性を広げる、神様の視点に立ったことばを用いていきたいものです。
・魂を支えるみことばを送る
救いを得させる神の力であるみことばを、いかに人に対して励ましとして使っていくかが大事です。
・肯定的な態度(笑顔…)
笑顔は、受け止められているという思いを与えます。
・苦しみや痛みを伴った経験は、同じ苦しみを味わった人の思いが理解できる大きな励ましとなります。
このようにして、互いに励まし合うところに、神の前に香ばしいかおりがたちのぼっていきます。
*私たちは、教会において、また世の中において、神の愛の励ましを運ぶ器なのです。
2.互いに祈り合う(マタイ18:19〜20)【辻和希伝道師メッセージ】
“「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」”
神様に祈ることこそ「香ばしいかおり」であり、ましてや「互いのために祈る」ならば、愛の香ばしいかおりそのものである、と結論づけられます。
◎かおり=祈り
旧約時代に全焼のいけにえがささげられたときにたちのぼったかおりも祈りも、神様にささげられるものです。みことばにある「地上で心を一つにして祈る」のも、天におられる神様に対してです。日常、何気なく行っている祈りが誰に対してなされているかは、とても重要なことだと教えられました。
さて、祈りには、満たし、いやし、戦い、とりなし…といろいろな種類の祈りがありますが、愛の香ばしさが出る祈りはどんな祈りだろうと考えたとき、(マタイ18:20)の祈りだと思わされました。
◎(マタイ18:20)“みことばは前述”
香ばしいかおりには、上にスゥーッとたちのぼっているようなイメージを私は持ちました。
「二人でも三人でもわたしの名によって集まるところにわたしもその中にいる」と言われる神様。一人は一つの点、二人は線、三人は図形になります。二人、あるいは三人の中に神様がいらっしゃるというイメージを持ちました。
先日あるセルに参加させていただきました。単なるお茶会ではなく、イエス様の御名によって集まっているとき、そこに神様がおられることを感じました。
互いに祈り合うということになれば、さらに神様を感じていくのではないでしょうか。実際これまでそうでした。互いに祈り合う場面では、よく知らなかったとしても相手のことをとても考えます。しかも祈り終わったときには、実は愛があふれている自分に気づかされます。このように、相手のために祈ることは、愛が自然と表される行いなのです。そして、「イエス様のお名前によってお祈りします。」と言って締めくくっています。20節のことばと同じく、「イエス様のお名前によって集まり」、そして祈ったときにイエス様もその中におられ、その祈りに働かれるのですね。だから、祈り終わった時にその祈りの輪は、すがすがしさも感じさせられます。
相手のために祈ることは「励まし」にもなります。また、相手が自分のためにも祈ってくれていることも、とてもうれしいことです。
互いのために祈ることは、愛が引き出されていき、自分も励まされる、まさに神様にとって愛の香ばしいかおりそのものだと言えます。
それから、祈りで気をつけたいことは、人よりも長くとか上手に…ではないということです。自分が思っている「いい祈り」が香ばしいかおりなのではありません。愛があれば、すべて神様の前に香ばしいかおりになるのです。私の子どもが祈りのことばを間違えていたとしても、一生懸命する祈りを神様はうれしく思ってくださいます。神様は心を見られるお方だからです。
「互いのために祈り合う」まずは身近な人から、家族からでもいいと思います。今週どこかで互いのために祈り合うことをチャレンジされて、その後にあふれる愛を体験したいと思います。そして、その愛をもってこの場所に集まった時の祈りは、香ばしさを通り越してすさまじい祈りとして、神様に喜ばれる祈りになると信じます。
3.互いに尊敬し合う(ピリピ2:3)【横路伝道師メッセージ】
“何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。”
まず、互いに尊敬し合うことは、香ばしいかおりをたちのぼらせることになります。それは互いに愛し合うことで、神様が喜ばれることだからです。
一方、自分の思い通りにしたい自己中心や、人よりも自分がすぐれているようにふるまう虚栄からすることは、悪臭をもたらすことです。
そして、大切なことは「互いに」ということです。一方がへりくだっていても、片方がわがままやごうまんなふるまいをするなら、香ばしいかおりも悪臭で半減するでしょう。
◎どうすれば、人を尊敬できるのか?
*「人を自分よりすぐれた者とする謙遜」(香ばしいかおり)
互いに尊敬し合う関係はとても麗しく、神の御前に香ばしいかおりとなります。それではどうすれば、人を尊敬する心をもつことができるのでしょうか。その答えが(ピリピ2:3)にあります。このみことばは、人を自分よりもすぐれた者とする謙遜(へりくだり)によって、人を尊敬することを教えています。
「短を指して人を評すれば、天下何処にも完人なからん。
長を挙げて人を賞すれば、天下何処にも廃人なからん。」
ということわざがありますが、これは「人の短所を見つけて悪く言うなら、世の中どこにも完全な人はいない。また、逆に人の長所を見つけてそれをほめるなら、世の中どこにもだめな人はいない。」ということです。
生まれながらの人は皆罪人ですし、欠点のない人はいません。また同時に、人は神の作品ですから、全ての人にすばらしい何かを与えられていることは事実です。そのことを心得て、人の良いところを見つけて尊敬し合い、自分の欠点に気づいて謙遜になるよう教えているのです。
「すぐれた者と思いなさい。」とは、「すぐれた者とみなしなさい。」「すぐれた者としなさい。」とも訳されています。実はすぐれた人であるのに、それを見つけることができない自分の高ぶりやごうまんさを捨て、へりくだることだと教えているのです。
へりくだり、尊敬し合うためには、イエス様の規範にならうことだと思います。(ピリピ2:6〜8)にある{イエス様の七つの謙遜}から学びましょう。
(1)神のあり方を捨てられた…神様の栄光を捨てて地に降りてくださったことから、私たちは自分の立場やプライドを捨てることを学びます。
(2)ご自分を無にされた…すべてのことに充足し、全能者として何不自由ない神の位を捨てて、ゼロに等しい状態になられたということから、私たちは自己中心やわがままを捨てることを学びます。
(3)仕える者となられた…全宇宙の支配者として天使に仕えられる立場を捨ててへりくだられ、弟子の足を洗い、罪人、病人をいやすため仕えられました。私たちもへりくだって人に仕えることを学びます。
(4)人間と同じ姿になられた…不自由と制限の中にある人間と同じ苦労を忍ばれたことを思い、私たちも不平不満を捨てることを学びます。
(5)ご自分を卑しくされた…汚れた私たち罪人を友と呼んでくださったへりくだりから、私たちもどんな人であっても嫌わず、友となるべきことを学びます。
(6)死にまで従われた…父なる神様への従順は、そのいのちを与えるほどの究極の従順でした。私たちもみこころであれば自分のいのちをも友のために与える神への従順を学びます。
(7)十字架の死にまで従われた…人の受ける極限の恥辱と苦しみの十字架を忍ばれたそのへりくだりから、私たちも人から受けるどんな侮辱やあざけりをも甘んじて受けるへりくだりを学びます。
イエス様に見習い、同じようにへりくだるなら、互いに尊敬し合うことができ、神のみ前に香ばしいかおりをたちのぼらせることができると思います。これは容易なことではないかもしれませんが、私たちの目標です。「互いに愛し合う」というみこころを実現するため、一つずつチャレンジしていきたいと思います。 |