■2013年10月27日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛を惑わすもの  up 2013.10.27


なぜお願いするかと言えば、人を惑わす者、すなわち、イエス・キリストが人として来られたことを告白しない者が大ぜい世に出て行ったからです。こういう者は惑わす者であり、反キリストです。
(第2ヨハネ1:7)

 

 

 

『人と栗 愛の火加減 味を増す』
 
 焼き栗が火加減次第で味を増すように、人も厳しすぎず甘すぎず、バランスのとれた愛によって神のかたちへと導かれます。もし悪いところが出ているならば、神様の愛の火加減をうまく受け止めていないかもしれませんね。あなたは焼き栗のように愛の火加減によって、良くも悪くもなるのです。どんな愛を受けるかで、良いところが引き出されるか悪いところが引き出されるかが決まってきます。完全な愛を持っておられる神様の愛にいつも触れられていけば、すばらしい神の子どもとなっていきます。

●互いに愛し合う関係を失わせる行為に警戒する
 私たちは人の語る言葉を通して惑わされますが、惑わしを語る人の内にあるものが惑わしてくるのです。無意識に互いに愛し合う関係を失わせる言葉、行為を出してしまうと、互いに愛し合うことはむなしくなってしまいます。いくらメッセージで聞いても、しづらくなってしまいます。

1.愛を惑わすもの
A)勝ち負けにこだわる心(ガラテヤ5:15)
“もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます.気をつけなさい。”
 「かみ合う」「食い合う」とは、勝ち負けにこだわる行為であり、特に負けを受け入れることができない人の状態です。負けることは自分の存在を否定されることと印象づけられた環境に育ったためとも言えます。負けることは自分を認めてもらえず、愛される者でなくなる恐怖を避けるための自己防衛から出た反応です。
 教会の中で、かみ合ったり食い合ったりしていたら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。勝ち負けを意識する関係を兄弟姉妹の間で持ってしまうと、互いに愛し合うどころか滅ぼされてしまいます。教会は勝ち負けを競うところではないことをしっかりと意識づけてください。
 勝ち負けとは本来、同じゴールを目指して競うものであり、同じゴールを目指す限り、最後でもゴールインできます。罪を犯すことは負けではなく、的を外しているので違うゴールに行ってしまうのです。しかし、違うゴールに向かって行ったなら、順位どころか勝ち負けもつかない失格となります。
 私たちは順位を競ってクリスチャン生活を送っているのではありません。「あの人の信仰に負けた。」というようなことを考えてはいけません。そのような考え方は、正しい互いに愛し合う関係が崩れていきます。

B)優劣を比較する心(ガラテヤ5:26)
“互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。”
 比較社会の中で育ってきた私たちは、無意識に優劣を気にする心の動きがあります。優れているか劣っているかとクリスチャンは勝ち負け以上に比較することに陥りやすいと言えます。いったいそれを誰が見分けることができるのでしょうか。神様しかわからないことです。
 同じようにできないから劣っているというのは人間側の考えであり、神様は優劣を考えられてではなく、違いを意識されて創られたのです。違いがあるからこそ愛し合い、生かし合うことができるのです。
 教会の中が、優劣を意識したみな同じようなクリスチャンばかりで、本当にそれでいいのでしょうか。それでは、偏った人々の集まりです。人が見て優れているか劣っているかは、互いの違いに過ぎず、できるものとできないものが入り混じって、全部ができるようになるというキリストのからだとしての一人一人の存在の役割を意識することの大切さを気づかされます。
 あなたは、周りのクリスチャンを見て比較していませんか。優劣を考えてクリスチャン生活を送っていると、互いに愛し合うことが妨げられていきます。あなたもすばらしい、私もすばらしい。どちらも神様の前にすばらしいという心が、互いに愛し合う心です。
 いどむとは争い、そねみは嫉妬です。嫉妬からの競争心は自己満足からの虚栄を作ってしまいます。競争心が強く感情に表れて嫉妬となり、していないのにしているかのように虚栄をはってしまうなら、互いに愛し合うことを壊してしまいます。
 私たちはどんなクリスチャン生活を送っているかを自慢し合ったり競い合ったりするものではありません。この競い合う心が互いに愛し合う関係を崩していくわけですが、これは取り去ることのできない罪の性質です。地上にいる限り、比較、勝ち負けを意識せずに生きていくことは難しいでしょう。しかし、心の中にこの思いが浮かんできても、放っておかずどう処分するかが大事なのです。神様の愛に満足していたら、勝ち負けも優劣もあまり気にしなくなるのです。負けようが劣っていようが、神様の愛は変わらないと。
 互いに愛し合う関係は、勝ち負けや優劣にまさる神様の愛に満足していてこそできていきます。
 私たちは負けていたり劣っていたりする状態にまさるものを持っていなければ、自分の状態を支えられません。何もないというのでは支えられません。この世の人は、お金、才能、友人、自分の人間性…で支えますが、私たちクリスチャンは神様の愛で自分を支えます。

C)悪口(ヤコブ4:11)
“兄弟たち。互いに悪口を言い合ってはいけません。自分の兄弟の悪口を言い、自分の兄弟をさばく者は、律法の悪口を言い、律法をさばいているのです。あなたが、もし律法をさばくなら、律法を守る者ではなくて、さばく者です。”
 敵意、敵対心から出てくる批判を悪口と言います。批判は欠けたところ、悪いところを指摘するものですが、現実には存在否定を感じさせるものが多く、敵対心を持って攻撃される(壊される)世の中のイメージがあるため、正しい意味を捉えられていないようです。批判は悪いというイメージが強いのです。しかし、批判がなければ欠点を直すことはできません。
 正しい批判は、七つの良いところをほめて、三つの欠点を指摘してあげることです。優れた点を強調した中で、「この点を取り除いていったら、さらによくなりますよ。」という話し方は、建設的な批判です。子育てをしている方、一つ従わなかったところを取り上げて、「あなたはできていない!」と全面否定していませんか。私たちはこの世でこのような育てられ方をされたので、責められると壊されそうになるわけです。
 私たちは、悪口になる批判に気をつけましょう。相手が批判に敏感な人ならば、小さく批判を語らなければ、良い意味での批判も悪口に取り違えてしまいます。注意・忠告・批判は、よほどの信頼関係ができていなければ難しいものです。人の悪いところを指摘することは簡単ですが、直そうとする気持ちを起こさせるような批判が正しい批判です。世の中の人は、反発心を起こさせて成長を図りますが、上からの理不尽に思える鍛え方は反骨心を生み、傷つき歪みます。そして他にそれを発散させます。良い人格形成とは言えません。世の中をまねると、教会の中では愛がなくなってしまいます。できるだけ優しさをもって、自立、もしくは自己責任能力を養っていくことが大事だと言えます。

D)人への不平不満(ヤコブ5:9)
“兄弟たち。互いにつぶやき合ってはいけません。さばかれないためです。見なさい。さばきの主が、戸口のところに立っておられます。”
 つぶやきは、自己中心が満たされない不満から出てきます。イスラエルの人々は、荒野でパンと水がなくなった時に、モーセとアロンにつぶやきました。自分が欲しいものが手に入らないので、すぐ人を責め、ぶちまけるのがつぶやきです。言い方がどうであれ、自己中心が満たされないことが根本原因です。
 自己中心が強く表れてくると、互いに愛し合う関係がぎくしゃくしてきます。夫婦も同じで、自己中心を強く出されると、出された側は引いてしまい、心が遠ざけられます。互いに愛し合うならば、自己中心の思いを引っ込め合うものです。
 このつぶやきは、感謝ができない状況に陥っているわけです。満たされたいものが満たされていないからです。欲望が満たされる必要のない人はつぶやきません。祈ったけれど…聖書を読んだけれど…とそれでも願った状況にならないとき、試されています。神様を信頼しているのか、それとも欲求を満たすために神様を利用しているのか、を。
 イスラエルの人々が荒野に連れ出されたのは、神のみことばを学ぶためでした。彼らはつぶやかずに、モーセとアロンに相談すれば良かったのです。しかし、真っ向から「私たちを死なせるために荒野に連れて来たのか!」と感情的につぶやきました。
 不満をどう処理するかが重要になってきます。イスラエルの人々にとって、奴隷で死ぬことが幸せなのか、たとえパンと水がなくても荒野で奴隷から解放されて自由人として死ぬ方が誇り高く死ねるか、あなたはどちらを選びますか。人間として認められず奴隷として死ぬことは、不名誉なことです。たとえのたれ死んでも、奴隷から解放されて自由人としての人格を保つことができると考えられる人は、神様が生死を司る方であることを信じている人です。あなたは、自分は神様を第一にしてきたのに、地上ではお金も不十分で、生活も不憫なままで敗北的だと思っていませんか。
 神がネブカデネザルをバビロンの王にし、世界を統治させました。彼の力ではなかったのに、力と地位を得た時、彼は自分の力で得たかのように錯覚して、結果七年間動物のような暮らしをして、神のご意志が自分にその地位を与えたことを悟ったとダニエル書に書かれてあります。
 不平不満が出る状況に置かれることによって、神がなさることにどんなことでも感謝する心を持てるかどうかが試されるのです。あなたが、本当に神様を愛していると言うならば、不平不満はないはずです。神様に愛されていることが最も幸せなことであり、最も得たいことだったのではありませんか。極端なことを言いますが、神様が愛だけでこの人生を終わらせると思われますか。罪のために滅びてしまうこの体さえも、神の栄光のために用いることができるお方だということを証明するために、あなたを肉体のまま救いに導き、神の愛の力強さを証ししてくださるのです。
 すべては神の愛の栄光のため、この地上の時間をいただいているのです。そのような神の愛に対する気持ち、すべてのものを感謝する心に変えられるのです。
 今死んでも悔いはないと言えるほどに、神に愛されている価値を見出すことが、地上での人生の目的でもあると言えます。そこまで私たちの心を変えるほどにすばらしい価値をもたらすものです。

2.『目迷五色』(もくめいごしき)(箴言20:1)
“ぶどう酒は、あざける者。強い酒は、騒ぐ者。これに惑わされる者は、みな知恵がない。”
◎『目迷五色』の意味
色彩の鮮やかさに目が奪われて、本当の色が見えないこと。見かけに惑わされて、物事の本質や本当に大切なことを見失うこと。

 互いに愛し合う関係を築いていくためには、ぶどう酒や強い酒に気をつけなければならないと言っています。当然自然的にも注意が必要です。実際アルコールのために、人生を狂わせた方がたくさんおられます。人は酔い心地の楽しさを味わいたいがために、アルコール類を正当化し、言い訳をしようとします。アルコールをいったん受け止めてしまうと、人を少しずつむしばんでいくと、ここで言っていると思います。
 百薬の長と言われても、制御する自制心がアルコールによって弱められていくと、飲む量が超えていくことが多くなる罠に陥るということを意味しています。油断させ慎重さを欠如させ、うぬぼれをもたらし、無作法にさせ、傲慢さを引き出す等の欠点がアルコールにはあります。正気を失わせる可能性のあるものですから、それをわきまえて自制していかなければいけません。これに惑わされる者はみな知恵がないと、神のことばは語っています。 自分はそうならないと言う人がいますが、飲酒運転者は自分だけは事故を起こさないと言うそうです。飲んでいなくても傲慢であり、すなわちむしばまれているわけです。結局、的外れを行わせてしまう、いざなうとはいつの間にか引き込まれてしまうことです。意識していなかったら、わからないところへ連れて行かれてしまいます。お酒もそうです。ごまかしさえも恐れずに罪を犯させる方向へと導かれてしまうのです。
 霊的アルコール類とは、A〜Dのみことばで紹介したものです。A〜Dは愛を惑わすぶどう酒のような、強い酒のようなものです。ちょっとした悪口、ちょっとしたねたみ、ちょっとした競争心、ちょっとしたつぶやき…これくらい影響ないと思うところに霊的アルコールに飲まれてしまう始まりがあるのです。これくらいいいだろうと愛が少しずつむしばまれ、惑わされていき、互いに愛し合う関係が全く成立しない教会になってしまうのです。教会が互いに愛し合うことがなかったら、教会ではありません。神の子として互いに愛し合うために、私たちは教会に来ているのです。教会に来ているのは、神を愛し兄弟姉妹を愛している証です。
 どうぞ霊的アルコール類にむしばまれないように、神様の愛にしっかり満足して互いに愛し合うことを進めていきたいと思います。

 

 

 

 

■2013年10月20日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛のうちを歩む  up 2013.10.20


愛とは、御父の命令に従って歩むことであり、命令とは、あなたがたが初めから聞いているとおり、愛のうちを歩むことです。
(第2ヨハネ1:6)

 

 

 

 命令とは、私たちが到達するべきゴールにたどり着くために必要なアドバイスです。私たちがどこに行くのかを想定したおことばなので、それを知らない人にとっては窮屈に聞こえるでしょう。個人的な別の目標を持っている人にとっては、聖書のおことばは厳しく、自分を束縛すると感じるはずです。
 たとえばプロスポーツの選手は、体を節制するために酒とタバコ、特にタバコは肺を傷めるために厳禁だといいます。何のためでしょうか?もちろんチーム(あるいは当人)の優勝のためです。
私たちの目標は神の国に入ることです。それを退けてしまったなら、聖書のことばは重圧と束縛のことばでしかありません。あなたがもしみことばを開いた時に「嫌だな」と感じたなら、行くべき目標からずれ始めているかもしれません。気をつけていただけたらと思います。
互いに愛し合うことが、愛のうちを歩むということですが、今日はその一歩一歩について考えてみたいと思います。

1.愛のための『下学上達』(かがくじょうたつ)
◎『下学上達』の意味
 身近で容易なことから学んで、だんだんに高度で深い道理に通じること。また、手近なところから学び始めて、次第に進歩向上していくこと。

 「互いに愛し合う」ということばは、あまりにも漠然としていますね。ですから、具体的には何をすればよいのか、何からなら取り組みやすいかを考えてみたいと思います。
 しかし、以下に挙げるA〜Gの項目をする前に、大前提としてご自分の心を吟味していただきたいことがあるのです。それは、「あなた自身が愛の神に愛されていることに満足する」ことです。これがない限り、「互いに愛し合う」ことはほぼ不可能なのです。
 神様の愛に満足しないまま愛のうちを歩もうとすると、「まず自分が愛されたい」という肉の欲にとらわれる恐れがあります。すると、「あの人は私に愛をしてくれなかった」と、人への不満を持つように考えてしまいます。
 聖書の「互いに愛し合いなさい」には「まず私を愛してほしい」という考え方は含まれていません。自分よりも相手を愛する、愛を流し出す、ということが中心です。
 愛を流し出す、という心の姿勢は、愛に満足することによって生み出されます。愛に満たされてなければできないことなのです。無いものを与えることはできません。私たちが愛し合うというその愛は、「神様から愛されている」という愛があってこそのものです。しかし、私たちはよくそれを忘れてしまいます。神の愛に満たされているはずなのに、それに満足できないで、肉のものを求めてしまいます。
 人から愛されることを優先しないためにも、まずいつも神様の愛に満足しましょう。そのために、神様が自分のためにどれほどの愛を注いでくださっているかをいつも思い起こすことが必要で す。親孝行は、自分が親から受けた恩を忘れないからできることですね。私たちも「すべてのことに感謝」するためには、神様からの愛に満たされることが絶対条件です。「いつも喜ぶ」ためにも、神様の愛に満たされた満足感が必須です。
 でも実は、愛は既に注がれており、与えられているのです。後は自分がそれを見つけ出し、感謝できるものとして受け止めるだけです。愛してくださった方のことを深く思い見ることが大事で、私たちの毎日のデボーションにおいても、できる限りまず神様の愛とご恩に対して深く思いを潜めながら、「もう生きているだけで感謝だ」と思えるような満足を心に持って、一日の仕事に出てまいりましょう。神様に誠心誠意仕えているのに、罪人のような苦しみが来ることもあるかもしれません。そんな時はヨブの体験を思い起こし、あなたへの神様の愛と信頼は揺らいでいないことを確信しましょう。
 私たちも、神様への愛、信頼、神様にどれだけ愛されているかという愛の大きさをいかに悟っているかによって、神様の愛に満足できないで、他のもので満足しよう、欲を満たそうという行動に誘惑されていくことがあるので気をつけてください。この肉の欲は、教会内で「あの人はしてない」「この人はできてない」と人を裁く心になります。自分が願う通りの愛をもらえなければ許せないのです。自分が望む愛を感じないことを、上から目線でダメだと決めつけます。
 ですから、私たちは、愛の注ぎ方によっては相手に認めてもらえない場合もあるということを知っておきましょう。また、自分が人の愛情表現に条件をつけていないか、自分を吟味しましょう。
もう一つ。聖書は「人から愛されているから、あなたもその人を愛しなさい」とは言っていません。「互いに」とは「同時に」であって、「愛を感じたら愛し合いなさい」ではありません。イエス・キリストにあって、まず兄弟に愛を表現しようというのが、「互いに愛し合いなさい」なのです。そのためにはどうしても、愛の神に愛されていることに満足する、ということを忘れないようにしていただきたいです。
 私は思います。神に愛される者として創られた私たちは、神の愛に満足せず、肉の欲望にかられて罪を犯しました。結果、サタンと同じ滅びのゲヘナに投げ込まれる運命となった私たちを救うために、神様が支払ってくださった「御子」という名の犠牲の大きさを。私たちの罪の赦しのために、神様はいわば無一文になられたのです。
 「これ以上はあなたのために駄菓子一つ買うことさえできない」と神様がおっしゃられても、私たちは感謝できるのではないでしょうか?この世の多くの人々は、その駄菓子一つのために、神様にそっぽを向きました。でも私にとっては、この世での生活が幸いでも不幸でもそう大した問題ではありません。二千年前の十字架でイエス様が天国への道を開いてくださり、ゲヘナの滅びを免れ、永遠のいのちと未来が約束されているのです。この世でこれ以上の何が必要でしょうか?ただ、神様ご自身がこの世界に神の愛を伝えることを願っておられるので、証して伝えるために地上に生かされているこのいのちを使うのです。自分個人には、これ以上神様に求めるものなどありません。全部の愛をいただいたのですから。
 この満足感があると、欲望を自制しやすくなります。「この地上だけのことだからまあいい」と自制心を働かせやすくなるためにも、愛の神に愛されていることに満足する心をもって、互いに愛し合うことに心を向けていくことが、実現に至りやすくする心構えだと思います。
 今お話したことを参考に、それぞれ神の前に祈って、示していただきましょう。

◎肉の欲にとらわれた人とそうでない人
 2年ほど前の朝日新聞から。ある中国人の豪農の畑で大根が大豊作だった。そのまま出荷すると赤字になるので、余った分は欲しい人にあげようと考えた豪農は、メディアで知らせた。配る当日は1万人の人が押し掛けるほどの大反響があり、約300トンもの大根がわずか半日で尽きてしまった。しかし手に入らなかった人たちが「だまされた」「ガソリン代を損した」と騒ぎ出し、近くのほうれん草畑やサツマイモ畑、ニンニク畑などから勝手に作物を盗み、持って帰ってしまった。その結果、この豪農は八万元(約百万円)の被害を受けた。
 肉の欲にとらわれた人は、望みがかなわないともっと凶暴になるのです。しかし、欲にとらわれてないこの豪農は「私の仕切り方も悪かった。次は出稼ぎ農民の子供たちが通う学校に寄付したい。」と述べました。彼は施す心を忘れなかったからです。
 私たちも「あの人は私を愛してくれない」などという思いにとらわれたら、醜くなるだけです。私たちは、もう神様の愛を一杯に注がれています。だからこそ「愛し合う」という愛を流し出すことができるのです。神様の愛に満足するということを、ぜひもう一度心に吟味してほしいのです。

「十三夜 贖いの銀貨 神の愛」

 「十五夜」は中国から渡来した風習ですが、その一月後の月
「十三夜」として愛でる風習が、古代の日本にはありました。
この句は銀色に輝く月を、イエス様の贖い(銀はきよめを意味する)とそのために支払われた銀貨に例えてみたものです。イエス様の売値銀貨30枚は、私たちの罪の代価の象徴です。十三夜の月の美しさを眺めながら、神様の贖いの美しさを思い浮かべるという意味で詠んだものです。
 人生のところどころで私たちは、忘れてはならない、不平を持ってはならない、と思い起こされる時があります。なぜなら、これほどまでに神様は私たちに愛を注いで、満たしてくださっているのですから。このように、ぜひ神様の愛に満足していく日々を選んでいただきたいと思います。

 さてA〜Gの7つのうち、まずA〜Cのみことばについて。

A)互いにあいさつをかわす(第1ペテロ5:14)
“愛の口づけをもって互いにあいさつをかわしなさい。キリストにあるあなたがたすべての者に、平安がありますように。”
 大事なのは、愛のこもったあいさつであること、です。

B)互いのために祈る(ヤコブ5:16)
“ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。”
 問題に気を取られて、自分の的外れに気づいていないかもしれません。根本に目を向け、原因に気づいたらその罪を言い表して祈ってもらいましょう。自分一人で祈るより誰かに知ってもらった方が、よりへりくだることができます。

C)互いに励まし合う(第1テサロニケ5:11)
“ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに得を高め合いなさい。”
 励まされると力が沸いて、再び立ち上がることができます。全を求める方向に心が動くのです。

 以上、A〜Cは、身近で容易な段階の「愛し合う』具体的行動です。今すぐにでもできます。D〜Gは、すぐには実行できにくい、ワンランク上の具体的行動です。

D)互いに受け入れ合う(ローマ15:7)
“こういうわけですから、キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい。”
 イエス様がされたように心の奥まで受け入れることです。例えば自分の家の中を、余す所なく案内してみせるように、です。自分の心の中の秘密を明かすのはなかなか難しいことですね。

E)互いに尊敬し合う(ピリピ2:3)
“何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。”
 私たち人間は、自分を優れたものと思いたい性質があります。その逆を行いなさいというこの命令は、私たちにとってかなり難しいものではないでしょうか。

F)互いに赦し合う(コロサイ3:13)
“互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。”
 不満を持っているのに、それを赦すことの難しさをご存知ですか。不満とは自分の願いどおりにならないことから来る欲求不満であり、神様の愛に満足している人なら「まあいいか」と思えるものです。

G)互いに仕え合う(ガラテヤ5:13)
“兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。”
 私たちに与えられた自由は、善悪のどちらを選ぶこともできます。世の人は欲に縛られているので、仕え合うなどというのはほぼ不可能ですが、クリスチャンはイエス様を信じて洗礼を受け、罪から解放されたら、善悪どちらをも選べるのです。中立の立場に心が置かれています。
 しかし、また欲望の道を選ぶと、そこから戻ってくるのは容易ではないことを心しておきましょう。

 『下学上達』の「愛のうちを歩む」一歩一歩を、これからも積み上げていきましょう。

 

 

 

 

■2013年10月13日 エンパワード21合同聖日礼拝より
(大川従道師、ニコ・ニジョトラハルジョ師)

 エンパワード21合同聖日礼拝メッセージ  up 2013.10.13


 

 

 

【大川 従道先生】 
 私は40歳の時にインドネシアに宣教に行きました。ワニのいる恐ろしい川でボートが壊れ、一緒の安海宣教師が「トーロー!」と叫びました。これは、インドネシア語で、「助けてくれ!」という意味です。私たちは声の限り叫び続け、宣教師の到着を待っていてその声を聞いた青年が、別のボートに乗って助けに来てくれました。神に助けを求めるなら、神は助けてくださいます。
 
 使徒行伝1章で、イエス様が天に昇られた後、弟子たちは恐れの中で生活していました。「エルサレムを離れず祈っていなさい。」というイエスさまのおことば通りに、エルサレムの家でみんなが集まり一心に祈っていたのです。120人が心を合わせて祈っていたのです。
 
 今日この大きな会場をお借りして、様々な教会が集まって共に礼拝していますが、リバイバルが起きると、各教会がそれぞれに大きな会場を借りて礼拝を持つようになることでしょう。
 
 マタイ27:61でマグダラのマリアと他のマリアが墓に向かって座っていたとあります。心を合わせて祈っていたのです。墓とは死を表します。日本は宣教師の墓場と言われていますが、心を合わせて祈るなら、墓が動くのです。
 
 使徒3章で、使徒たちは祈りの時に祈りに行っています。祈祷会を重んじましょう。
 
 4章では、しるしと奇跡を求めて祈ったところ、地が揺れ動き、一同は聖霊に満たされました。
 
 12章では、ペテロが捕らえられ牢に入れられ、2本の鎖につながれて二人の兵士の間に寝かされていました。教会では、必死の祈りが熱心にささげられていました。その時、天使が遣わされ、第1の衛所、第2の衛所が開かれ、最後に町に通じる鉄の門が開かれ、ペテロは解放されたのです。
 
 クリスチャンになると、この第1の衛所、第2の衛所は簡単に開かれます。しかし、最後の鉄の門はなかなか開きません。聖霊に満たされた熱心な祈りが必要になります。
 
 16章ではパウロとシラスが第2の伝道旅行で捕まり、牢に入れられますが、この時は大地震が起こって獄舎のとびらが全部開い
てしまいます。二人は足かせはしていましたが、両手を挙げて祈りと賛美をし続けていました。パウロは使徒ではなかったので、なかなか他のクリスチャンに受け入れられない状況がありました。しかし、ここで祈った時に奇跡は起きたのです。
 
 私は福音派の牧師で聖霊派とは違いましたが、聖霊を求め、ペンテコステの教役者大会に行きました。その時、聖霊体験はできませんでしたが、ある方のお祈りで受けることができました。

 これから日本中が聖霊に覆われて、ペンテコステ以外のどの教会でも聖霊の働きが活発になり、このような集会が日本中の教会で行われるようになるでしょう。エンパワード21の働きはそこにあると思います。奇跡が起こってすべてのとびらが開かれたとあります。このすべての戸、あらゆる教団教派宗派を超えて、すべての戸が開かれると信じます!
 
 ボンケ先生は地獄の人数を減らすために頑張っていると言っておられますが、(ヨハネ3:16)で「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」とあり、(第1テモテ2:4)「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」とあります。(第2ペテロ3:9)「〜ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」というように、神はひとりも滅びることを望んでおられないということを心にとどめておきましょう。
 
 使徒2章で、ペテロは11人とともに立って福音を伝えていますが、まず、ヨエル書が開かれて、そして詩篇が開かれています。ここで、ダビデは「私はいつも、自分の目の前に主を置いた。」とありますが、70人訳では、「見ていた」と訳しています。羊は目が悪く近くしか見えません。ペンテコステは遠くではなく近くで主を見ることです。また、透かして見る、先を見通すという意味のギリシャ語です。どんなに問題が山積みであっても、それを透かして主を見ることが大切です。
 
 私は、小学校の修学旅行にクラスでただひとり参加できませんでした。貧乏な牧師家庭だったからです。それで、母親とケンカしました。その時、母は「京都に行けないくらいでぼやきなさんな。今にあなたは聖書を手に持って、京都どころか世界中を回るようになるから。京都になんて何回でも行けるから」と言ったのです。そして今日、京都でメッセージをしています。 
 
 主は、私の右手をとって歩ませてくださいます。主が教会を建てると言われているのです。大木秀夫先生は、イザヤ53:11を意識的に組み直され、「わたしは苦しみの向こうに主を透かして見る」とされました。イエス様は産みの苦しみの向こうに光を見て満足されたのです。その向こうにリバイバルを見ておられたのではないでしょうか。
 
 3週間前に、私は大分県に伝道に行きました。飛行機に乗って行ったのですが、空港に着く間際、夕方の美しい雲を見ていました。6時30分でした。しばらく見ていると突然雲が真っ赤に異常なほどの赤に染まりました。三浦綾子さんも小説「氷点」で、血に染まる氷河を表現しておられますが、私もまるで血に染まったような雲を見て、この日本がイエス様の血潮で覆われているかのようなイメージが与えられたのです。日本の99%の人々が地獄に行くことがありえるでしょうか。世界の70%の人々が地獄に行くことがありえるでしょうか。ひとりひとりに、すべての人にイエス様の血潮がつけられているのです。 
 
 イエス様は産みの苦しみの向こうの光の中に、この21世紀の素晴らしいリバイバルを透かして見られて満足されたのではないでしょうか。

 使徒行伝2章でペテロが福音を伝えた時、「人々が救われるためにどうしたらいいのか」とききました。その時、ペテロは「悔い改めなさい。」と言っています。今日、皆さんに提案させていただきます。プロテスタントは、以前カソリックを異端のようにみなしていました。それを悔い改めてお詫びする必要があると思います。今はお互い協力し合っていますが、過去の罪を言い表すことは大切です。日本では昔26人のカソリックの人々が京都から九州まで引かれて行って殉教し、その道程で多くのひとびとに証しをしました。
 
 また、戦争でアジアの人々に多大な迷惑もかけました。悔い改めをして、このメッセージを終えたいと思います。皆さん共に「主よ!」と三回叫び、悔い改めて、すべての教団教派の人々を受け入れて、みんなで共にリバイバルを求めていきましょう。

【インドネシアのニコ先生】
 手を挙げ、主を礼拝し、主を崇めましょう。主よあなたは今私たち一人一人にふれてくださっています。主は非常な喜びをもって、ここに来てくださっていると信じます。なぜなら、教団教派いろいろな背景を持った方が同じ心をもって主を礼拝しておられるからです。

 (使徒1:8)に「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そしてわたしの証人となります。」とあります。証人となるのです。エルサレム、ユダヤ、サマリヤ、地の果てにまで証人となるのです。そう願っている人はアーメンと言いましょう。聖霊が下られた後、一人一人が聖霊に満たされ異言が語られ、ペテロが立ち上がって宣教し三千人の人が救われました。多くのしるしと奇跡が行われました。この終わりの時代に、私たちは第3のペンテコステと呼ばれるものを待ち望んでいます。それは、以前のペンテコステに勝る激しい油注ぎがあるでしょう。日本は必ず変わると信じています。
 
 バプテスマのヨハネが牢獄に入れられました。そして弟子たちをイエス様のもとに送り、「私たちが待ち望む方はあなたですか。」と質問させます。その時、イエス様は「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。目の見えない人が見、足の悪い人が歩き、ハンセン氏病の人がきよめられ、耳の悪い人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者には福音が伝えられています。」イエス様はこのような奉仕をなされました。
 父なる神が、イエス様を聖霊なる力でおおい、大いなる御業がなされたとあります。私たちにも聖霊が臨まれ、神ご自身の力で包んでくださるなら、あなたが用いられるのです。
 
 二千年前イエス様によってなされた奇跡の数々が、今現在もあります。そのひとつが、私にも与えられました。7年前、主は私に臨まれ、それから多くの奇跡としるしをなされて来ました。今、本でも同じことが起きるようになります。日本は変わってきます。信じる人はアーメンと言いましょう。
 
 7年前、主は「あなたはこの町々国々を巡り、そこにあるいろいろな教派の教会を集め、教えなさい。貧しい人々、病気の人々を招きなさい。わたしが彼らをいやすから。」と私に語られました。そして、その貧しい人々の交通費をすべて私が支払うようにと言われました。それから、今まで225の大きな集会を開いてきました。その集会の中で、二千年前と同じ癒しと奇跡が起きることを見てきました。それを見た他宗教の人々もキリストを信じるようになりました。
 
 この聖霊の分与をあなた方、日本の方々にも分け与えるようにと主に言われて来ました。今まで見たことも聞いたこともないような御業がこの日本に、あなた方のために備えられているのです。

 この2013年に入ってから主はこう語られています。この年、主の栄光が濃厚に表され、今まで起こったことのないような創造の奇跡の業がなされるようになります。様々な病気、混乱、迷い、家族、人間関係の悩み、経済の問題、そのような様々な病や問題から主の打ち傷によって癒されるのです。みことばによって人々は癒されてきます。自分の病気、問題だけは無理だと思っている人がいますか、主の前において、希望や望みがないと決して言ってはいけません。私の奉仕で、どれほど多くの難病の人々が癒されてきたことでしょう。主にできないことはありません。主はあなたを癒したいと願っておられます。主の癒しを体験し、あなた自身が証し人となるのです。
 
 今日奇跡を求めている方はどれ程おられますか。立ち上がりましょう。主は今日、癒してくださいます。今、自分の声で自分の必要を主に求めましょう。また、自分の罪も主の前に告白し、赦しを求め、癒しを求めましょう。主に求めましょう。今、創造的な奇跡が行われます。奇跡を受けましょう。癒しを受け取りましょう。イエスの名によって癒しを受けましょう。

 

 

 

 

■2013年10月6日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛は真理の柱また土台  up 2013.10.6


そこで夫人よ。お願いしたいことがあります。それは私が新しい命令を書くのではなく、初めから私たちが持っていたものなのですが、私たちが互いに愛し合うということです。
(第2ヨハネ1:5)

 

 

 

 この手紙が書かれたのは、だいたい西暦90年前後です。イエス様が十字架にかかられてから60年の間に、エルサレムからアジア、ヨーロッパ、北アフリカやアラブ、さらにインドへと福音は広まっていきました。新しい教会がたくさん生まれていた時代でもあります。
 一人の夫人に宛てたように見えるこの書簡ですが、実は迫害のさなかにあった各教会と信徒たちを指していると、多くの神学者は考えています。
 60年経ってもう一度、姿勢を正して伝えられたことが、最初の「互いに愛し合いなさい」という命令であることを、私たちは深く考えてみたいと思います。
 偽者のクリスチャン、偽者の教師たちがはびこって教会を荒らしていることが、この書簡の中に記されています。異端や惑わしがはびこる中で、「互いに愛し合う」ことがいかに基として重要であるかがわかります。

1.再確認するほど重要なこと(第1テモテ3:15)
“それは、たとい私がおそくなったばあいでも、神の家でどのように行動すべきかを、あなたが知っておくためです。神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。”
 
 キリスト教はユダヤ教の異端であるという認識の時代に、このみことばは非常に大胆で力強いものです。ユダヤ教徒の中でもエリート中のエリートであったパウロが、超自然的なかたちでお目にかかったイエス様は、彼のそれまでの聖書観を一変させられました。「神の教会は生ける真理の柱、また土台」なのです。家は柱と土台で支えられているものです。
【内容観察】
★教会とは、互いに愛し合っている者たちの集まりである。
★教会とは、真理の柱また土台と表現されるほどの真理を支える存在。
★よって『互いに愛し合う』とは真理の柱また土台、つまり中核である。
 中核とは最も重要なものです。万物の中心は教会であり、万物の存在理由は教会にあります。そして教会はキリストのために存在しています。
 では教会とは何でしょうか。「互いに愛し合う」というキリストのことばを実行し守ることによって、キリストが存在されるのが教会です。ここが一番大切なところです。
 たとえば宇宙万物が持つ引力は、お互いを引き合い愛し合うためのバランスを取っています。天体のような大きなものから、原子核のような小さなものまで、全てが調和を保っています。どれか一つでも我を通せば、たちまち崩れ去るような絶妙のバランスです。人間だけが我を通して、世界の調和を乱していますが、真理は「互いに愛し合う」ことにあります。
 民数記にこんな出来事が記されています。エジプトから出て一年ほど経った頃、イスラエルの民が「マナに飽きた」と文句を言い始めたのです。何もない荒野で、イスラエルの民を健康に保ち続けた神様からの食物がマナです。しかし、イスラエル人は、エジプトの奴隷だった頃には口にしたこともない、金持ちたちのぜいたくな食物を欲し、マナを侮辱しました。
 現在私(辻師)は愛について語り続けていますが、これはマナを食べ続けている状態に似ています。毎日神のおことばによって生きていくための、最も心と霊の健康のために必要な栄養素が含まれているのが、「互いに愛し合いなさい」なのです。“…『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」”(マタイ4:4)とイエス様がおっしゃった通りです。私たちが互いに愛し合うための方法が、全てのみことばに記されているのです。神の愛のみことば、マナに飽きてはいけません。この世はいつも目新しいものに心を向けさせようとしますが、流行に流されないように気をつけてください。
 教会は目新しいもの、耳に新しい内容を得るために集うところではありません。マナの役割、大事な存在価値を見失わないでください。「飽きる」とはこの世からの洗脳であり、本当に必要なものには当てはまらないのです。生活のどんなささいな出来事の中にも、「互いに愛し合う」ことが真理であることをぜひ体験してください。
 「互いに愛し合う」とは、神の口から出た、私たちの魂の食べ物、マナです。これを毎日食し、味わうことを、生活のあらゆる局面で目指しましょう。互いに愛し合うという真理かが成り立っているところは平和であり、幸せがあり、喜びが生まれてくるはずです。反対に言えば、それがないところからは真理が取り去られているのです。「互いに愛し合う」という柱と土台がないのです。「互いに愛し合う」という、一つの戒めがいかに大切なものであるか。マナの本当のおいしさをぜひ味わってほしいと思います。

2.真理に向かい命令のうちを勇往邁進する(第1テモテ1:4〜7)
“果てしのない空想話と系図とに心を奪われたりしないように命じてください。そのようなものは、議論を引き起こすだけで、信仰による神の救いのご計画の実現をもたらすものではありません。この命令は、きよい心と偽りのない信仰とから出てくる愛を、目標としています。
ある人たちはこの目当てを見失い、わき道にそれて無益な議論に走り、律法の教師でありたいと望みながら、自分の言っていることも、また強く主張していることについても理解していません。”
  「互いに愛し合う」ことの実現のために、どこにおいてもその実が生み出されていくために、それぞれ「勇往邁進」してまいりましょう。このみことばのどこに心が動いたか、なぜそこなのかを心探ってみましょう。
 人は新しい知識を得ることに心を奪われるほどになると、「互いに愛し合う」ことの本質から外れてしまいます。たとえば有名な大学で神学を学ぶほど信仰から遠ざかってしまうのは、文法や語句の国語的研究、哲学的な見地からの信仰の解釈などによって、生きた神様を遠ざけてしまうからです。
 大事なのは言葉の端をつつくことではなく、神の愛を見つけることです。人々の生活や言葉は変わっていっても、愛が変質することはありません。現代人は多くのまがいもので心を埋めようとしますが、人には神(愛)のかたちに似せて創られた魂があるので、本当の愛に憧れ、本当の愛を味わいたいという願いを魂、霊は持っているのです。ですから本当の愛がわかります。ましてや聖霊様が来てくだされば、もっと明らかに聖書の中のことばに記されている神様の愛を感じることができるのです。
 神の愛である御霊によって私たちは、聖書に知るされた数千年前の神様の愛を、現代でも同じように感じ、理解することができます。神は愛であられます。ゆえに、全てのものは愛に結びつけることができる。「互いに愛し合う」というマナはとても大事です。決して欠かせないものであることを絶対に忘れてはなりません。そして、マナのおいしさを本当に知りましょう。それを知ったら離れようとは思いません。このマナのおいしさは、基本中の基本です。主食にふさわしいものです。
 「互いに愛し合う」ことをつかんでいただくために、目当てを見失うことのないように、みことばを味わっていただきたいと思います。「この道こそ真理である」と、ますます「勇往邁進」して、神様の国の実現を味わっていきたいですね。

 

 

 

 

■2013年9月29日 日曜礼拝メッセージより(横路伝道師、小栗伝道師)

 愛は命令であり真理である  up 2013.9.29


あなたの子どもたちの中に、御父から私たちが受けた命令のとおりに真理のうちを歩んでいる人たちがあるのを知って、私は非常に喜んでいます。
(第2ヨハネ1:4)

 

 

 

1.愛は真理(ヨハネ14:6a)※横路伝道師メッセージ
“イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」”
 道も真理もいのちも、神の愛に基づいて備えられています。

◎真理のうちを歩む
 神の愛の中に、互いに愛し合うことが神のみこころであることを知って、それを実行することが私たちの人生の目的であり、真理だと言えます。私たちは、進化論者が言うような猿から進化して人間になったわけではありません。目的があって神様は創られたのです。
◎福音の汽車
線路〜いのちに至る道 線路が引かれていないところを列車は走れない
   神の愛によって引かれた
列車〜福音の列車 乗客が交わりをもって互いに愛し合うことを実践し
   ている列車
   愛のエネルギーで走る 信仰によって乗り込む
目的地=天の御国 愛によって用意された
 もちろん列車の中は愛でいっぱいですから、私たちは天の一部を味わっているわけです。列車に乗るとは、主の救いにあずかり、互いに愛し合うことをすることであり、真理のうちを歩むことです。
(創世記1:27)
“神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。”

◎神のかたちは愛のかたち
 私の内に神の愛が生きていて、愛の神が生きておられ、その神の愛が、愛の神がいのちを私に与えておられると言った人がいます。神の愛に生きるいのちを与えられています。

◎サタンの偽り(ヨハネ8:44a)
“「悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。…なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。」”
*偽る目的
 真理の反対は偽りです。サタンの偽りの目的は、私たちを福音の列車に乗せないことです。自分と一緒に、滅びに私たちを道連れにするためです。

*偽る方法
・誘惑
 肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢、貪欲…貪欲は偶像礼拝ですが、サタンは上手に引っ張ろうとします。
・偽り
 事実を曲げてきます。進化論。無神論。私たちが猿から進化したと思わせてしまいますが、私たちは神様のご計画によって神様の愛によって、神様と交わり、互いに愛し合う者として特別に創られた者です。それを信じさせまいとして、サタンが偽って事実を曲げてきます。
・疑い
 神様から私たちを離す方法です。神の愛は?聖書は真実か?奇跡は本当にあるのか?イエス様の救い以外に天国には行けないのか?と。上手に私たちの内に入って来て、目で見たこと、耳で聞いたことだけが本当だと言うのです。「神を見せてみよ。」と言うわけです。しかし、私たちは目に見えないけれども神を知っています。現実に電波、音、光…全部は見えなくても実際に存在します。目に見えない神の神性は被造物を通してわかると聖書に書かれています。ごまかされないようにしたいです。

*野生人
 「狼少年」「狼少女」狼に育てられた人のことです。救出されても、自分が人間であることを忘れてしまい、生肉を食べ、四つ足で走ります。狼だと思い込まされているのです。
 私たちは神の子であり、神のかたちに創られたものであるのに、神の子ではないと思っておられる方はありませんか。神のかたちに創られた私たちが、猿から進化したほ乳類の霊長類のトップだという偽りをサタンから入れられているのです。私たちは神の子であることを感謝いたします。この偽りの言葉に惑わされないようにしたいです。愛されている神の子であり、互いに愛し合う者として、もともと創られています。サタンは自分を愛することを優先させます。それは偽りです。
 福音の列車には、グループはなく、弱いものも強いものもみな一緒に愛し合っています。偽り者であるサタンの言葉に耳を傾けてはいけません。私たちが神様の中に生き、動き、存在しているのです。(使徒17:28)これが真理です。

2.愛は命令 ※小栗伝道師メッセージ
 神様は愛なる神様であり、神様が愛された者の幸せを願っておられます。(申命記参照)支配的な神ではなく、私たちの最善を計画してくださっています。永遠の御国へ私たちを導きたいと願っておられます。黙示録にあるように、私たちの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださり、死、夜といったものが全くないところへ私たちを迎え入れるために、神様は待ってくださっています。
 神様の愛を受け継いだ私たちでしたが、アダムとエバがサタンに欺かれて罪が入った時から、自分を愛する愛へと偽られてしまいました。暗闇であるこの世では、何が正しいか見えないまま、自分がよいと思っていること、自分を愛することをも良しとして歩んでいくわけです。
(ヨハネ14:23a)
“「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。」”
(ヨハネ15:10)
“「もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。」”

◎神の命令とは、神ご自身が愛しておられる者と共に歩むために神が語られることば
 真理が光として輝く一方で、私たちが置かれているこの闇の世は、いったい何が正しいことなのかわからず、自分を愛する生き方でいいではないか、貪欲を重ねて自分の利益を求め、他の人を踏みにじっても自分さえよければいいという流れがあります。私たち神様に創られた者がその流れに同調して歩んでしまうことを、神様はとても悲しんでおられます。

*神の命令が持つ意味
 命令については、「厳しい、守らなければならない…」という生かされ方をしてきました。しかし、神様が与える命令は、神ご自身が愛しておられる者を永遠の御国に迎え入れるために、また暗闇の世界の中で灯を与え、この道を歩んでほしいという願いです。神の願いがつまったもの、真理の中に導き入れるもの、私たちがあるべき姿に戻れるものが神の命令です。信号でもおわかりのように、神の命令を守っていれば本当は安全です。しかし、世の中は自分勝手に進むことを導いています。
*神の命令を守る動機を考える
 守る動機を考える以前に、守りたくないという反抗、あるいは無視などの思いが現れることがあります。結局、命令を出される方と受ける側との関係が大きいと思います。神様は、私たちの最善、幸せのために命令を与えられ、真理に導き、しかも支配的ではなく、自由意志を尊重されています。ですから、神様から生まれた者がしてしまう無視や反抗は、神様の愛から生まれ、愛を持っていることがわかっていない、自分勝手な人生を望む思いが働いています。
 また守ったとしても心はつながっておらず、これ以上言われたくないので形だけしぶしぶ守っているということがあります。守らなければならないという命令に対するイメージがあるならば、神様の愛の理解が乏しいとも言えます。守らなければ罰せられるという心の状態があっても、神様は権威を振りかざして命令を聞くようにとはされず、この状態も任せてくださっています。
 そして心から喜んで、というのが神様が導いておられる状況だと思います。守りたい、そうすると当然神様の愛の中に留まるということが成り立っていきます。今日、私たちは命令に対して、どのような思いを持って立っているのでしょうか。
 一方、命令を出された神様の側から考える時に、イエス様を与えて最善をもって私たちが愛の中、真理の中を歩むようにしてくださっているのに、私たちがその命令に思いを向けないことは、神様が非常に悲しんでおられると思わされます。
 神様のことをあまり考えない自分勝手な時代は、束縛されたくない、自分の思いで生きていきたいと的外れのままでいることを良しとしました。闇の中にいて自分の姿を見たいとも思いません。しかし、愛なる神様の思いに目を向ける時に、私たちが愛の道から外れ真理の道から外れていくことを、神様が願っておられるだろうかと考えさせられます。神様の思いをどう受けとっていくかが問われます。愛を受け取らない生き方を神様は悲しんでおられます。イエス様を与えるほどに愛してくださっている神様が言われているのではないでしょうか。
 「あなたはこの愛では満足されないのでしょうか。あなたの心を満たすものは何ですか。」
 神様は、地上でも私たちと一緒に手を取って歩かれたいのです。なぜなら愛する子どもだからです。愛する子どもを他のものに渡したくないのです。私たちを待ってくださって、外れた状況をイエス様の十字架で全部赦してくださり、帰ってくるまで神様の大きな大きな忍耐が示され続けています。これが今です。今は救いの日、恵みの時です。力づくで引っ張ろうとはされません。私たちがロボットではないからです。愛は相手を支配するものではありません。
(ヨハネ15:17)
“「あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。」”
 神の愛の命令をまとめたみことばです。
 神様が目の涙をぬぐってくださるその場所は、イエス様に赦された者たちが集まっているところです。赦されていることを本当に感じたならば、赦してくださった方の命令(願い)を受け止めたいと思う正しい良心の働きがあるはずです。世の中に染まってしまって、自分が今満たされることの方が大事だとサタンに偽られた状態のままでいる時には、神様が声をかけられても聞こうともしません。
 「互いに愛し合う」ことが難しい状況に気づいた時に、立ち止まって本来のあるべき姿を思い起こし、悔い改めて向きを変えることが必要なのではないでしょうか。私たちの本当の姿は互いに愛し合う姿です。イエス様の十字架をもって、他の人のために自分を与える生き方を神様は見せてくださいました。神の愛があり、聖霊様がおられ、神様の愛によって創られた私たちは、イエス様と同じ歩みをすることができるようにされていることを感謝します。できなかった時、失敗した時、やり直せるように神様はチャンスを与えてくださっています。
 神様に創られたものとして、あるべき姿に意識をもって、神の命令に導かれて歩んでまいりましょう。

 

 

 

 

■2013年9月22日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛は古くまた新しい  up 2013.9.22


新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません。また、だれでも古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みはしません。『古い物は良い。』と言うのです。
(ルカ5:38〜39)

 

 

 

 愛には、古い良さと新しいすばらしさが共存しています。ぶどう酒を作る時、発酵させていく間に炭酸ガスが発生してふくらむので、のびしろが大きく柔軟性のある新しい皮袋に入れます。新しい皮袋は、発生した炭酸ガスに応じてふくらむのです。のびしろのない古い皮袋では、ふくらみに耐えきれず破れてしまいます。新しいぶどう酒は意気盛ん、いのちあふれる、発展性があるという意味あいを持っていると思います。
 目を転じて、古いぶどう酒を見ると、やはり古い方が新しい物よりも価値があります。中東では水質が悪いので、消毒のためにワインを少量入れるのが常ですが、祝い事のために使われる酒は、古い良いワインです。人間も熟成されていくものであり、古いものには価値があるのです。

1.『革故鼎新』(かくこていしん)(ヨハネ12:24)
“「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」”
★『革故鼎新』の意味
 旧来の古いしきたりを改め、新しいものに変えること。

【内容観察】
◎「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れる」
(1)地に落ちて死なない一粒の麦⇒古いことに固守している
 自分を変えようとしない、新しいものを受け付けない状態です。それは自己中心愛であり、自己義です。これが古いことのマイナス面です。年をとると新しいものを受け入れ難いのは、すでに熟成しているからです。しかし、新しいものを受け入れることに前向きであってほしいのです。

(2)もし死ねば⇒旧来の古いものを改める
 自己中心愛から隣人愛に改めていくのです。一粒のままだと、視野が狭い状態に留まってしまいます。神様は「自分を愛するように」隣人を愛することを勧めておられます。
 決して「古さ」が間違いなのではありません。それに固執することが問題なのです。熟成した私はもう変わらないのだ、という態度が周りの人々との間にあつれきを起こします。

(3)豊かな実を結ぶ⇒以前よりもさらに良いことがもたらされる
 自分を含め、関わる周りの全ての建徳に至ります。自分も相手も人格的良い実を実らせることができます。自分が得た経験、知識、技能などを生かして周りの人々に分け与えていくなら、豊かな実を結びます。
 イエス様の自己犠牲の象徴のみことばである(ヨハネ12:24)ですが、愛を一粒の麦である自己愛に留めていては、決して多くの実を結ぶ人生にはいたらないということも、教えているのではないでしょうか。

2『老成円熟』(ろうせいえんじゅく)(箴言23:22)
“あなたを生んだ父の言うことを聞け。あなたの年老いた母をさげすんではならない。”
★『老成円熟』の意味
 経験が豊富で、人格、知識、技能などが十分に備わり豊かな内容を持っていること。
 「父の言うことを聞け」とは、自分を生んだ父の人生全てが語っている内容に耳を傾けよ、という意味です。良い親でなくても、そうなった経緯をみることによって学ぶことはいくらでもあります。見ることを止めてしまったら、その父の人生は無駄になってしまいます。
 私(辻師)は、故村田師から戦中戦後の体験談を聞くことによって、出兵体験のある自分の父親の思いが理解できるようになり、尊敬の思いが深まりました。

【内容観察】
◎「古いものは良い」
(1)ぶどう酒は古いものが良い⇒熟成している。豊富な経験。
 年長者の話に耳を傾け、その体験から学ぶことによって、自分の今を考える豊かさをいただけます。
 熟練者は、経験が豊富であり、色々なことに対して参考になります。年を重ねた人は、だてに生きてはいないのです。若い人の知らないことを知っています。若い人はそこを踏まえて尊敬を払うべきですし、年長者自身も衰えていくことを人生の体験の一つであるととらえて、前向きに生きてほしいと願います。
 与えられているものを精一杯使って生きていく姿も、熟年者の豊富な体験の一つです。その苦労、苦痛が自分を磨き、神の国に入る時には、本当に老成円熟者として尊敬され、尊ばれます。
「年をとったから辛い」のではなく、神の国に入るためにすばらしい体験、経験となると、ぜひ前向きに受け止めて肥やしにしていただきたいのです。

(2)古いぶどう酒を飲んでから⇒悟りを得る。
 豊富な経験が、熟成への愛であると言えます。人が悟りを得てくると、体を養うものでなく人間関係を求めるようになります。
 寝たきりになった人の一番の願いは、誰かがそばにいてくれることだそうです。たとえ自分が話せなくても、語りかけてもらえるのが幸せだ、と。それらのことを考えれば、人生最後に残るのはやはり愛でしょう。
 悟りを得るとは、家族の大切さを悟ることであると言えるのではないでしょうか。なぜ老いた父母を敬い、大切にするのか。家族の絆の大切さ、家族のように親しい友との関係の大切さ。人生で何よりも大きな財産は友を得ることであると、多くの熟練者もおっしゃっているではありませんか。「良い友」を目指して、皆さんも歩んでいただきたいと思います。
 愛が最も重要であるという悟りが、年を重ねるほど実感されてきます。この時代、なかなか愛を得られずあきらめてしまう人々が多いようです。人の価値が財産で測られることの多い現在ですが、私たちクリスチャンは、決してそのような状態で終わりたくないですね。良い友を作り、家族のような人間関係を目指しましょう。

(3)新しいものを望まない⇒悟りのないものに戻らない。
 古い良いぶどう酒を飲むと、もう新しいぶどう酒には戻れません。本当においしい物を食べれば、以前の食事には満足できません。人生においても悟りを得た人は、元の生活には戻りません。
 私たちは、この世の考え方から老人に対して「何もできない」とさげすんでしまうことがあります。しかし、もっと悟り深く高齢者の方々を見抜いていかないと、自分自身も愚かになってしまうことを、若い人には心に刻んでいただきたいのです。
 また高齢者の方々も、普段から、有用な言葉を出せるようにしておいていただきたいと思います。「この人に相談したい、知恵を貸してほしい」と、いつまでも頼れる人であるように。
 残された人生を好き勝手には使わず、一粒の麦を多くの子孫のために蒔くことを心がけましょう。自己中心を改め、子や孫たちのために、自分の人生のすばらしさを、良いことも悪いことも含めて種を蒔いていくということが正しいことではないでしょうか。

 ぜひそれらのことを心がけて、若い人々の良き相談相手となっていただきたいのです。そのためには、聖書のみことばの悟りが必要になってきます。今までの経験は、全てみことばを深く悟ることに非常な助けになります。高齢者にとって、みことばの理屈ではなく、経験として心の中にしっかりと見えてくるものです。
 年をとることは決して悪いことではありません。使い方が正しければとても良いものになります。

「美しく 白髪輝く 名月や」

 月光に輝く白髪の麗しさは、なんとすばらしく年を重ねた証であろうかと、年長者の月見風景を思い描いたものです。

 

 

 

 

■2013年9月15日 日曜礼拝メッセージより(小栗伝道師、辻和希伝道師、横路伝道師)

 真理と愛のうちにあるもの  up 2013.9.15


真理と愛のうちに、父なる神と御父の御子イエス・キリストからの恵みとあわれみと平安は、私たちとともにあります。
(第2ヨハネ1:3)

 

 

 

1.創造主からの平安(ヨハネ14:27)※小栗伝道師メッセージ
“「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」”
 平安は「平和」という意味のシャロームという言葉でも表されます。主題聖句は「心の平和」と訳されています。
 さて、「平安」というタイトルの絵画展でタイトルとかけ離れた「嵐」が描かれた絵があったそうです。よく見ると、嵐の描写の中で一本の木に親鳥に抱かれて、何の心配もなく眠っているひな鳥が描かれていました。このひな鳥の心境こそ、平安に違いありませんでした。
 さて、今日私たちは平安を持っているだろうか、また何によって平安と言えるのだろうかと吟味していただけたらと思います。

◎世が与える平安
 世の価値観に立った平安。持ちもの、環境、能力…目に見えるもので、将来の見通しを図って自己満足による平安。自分を愛する愛に基づく。これらのものは変化していき、いつまでも頼れるものではなく、偽りの平安になっている。
 この平安が失われる根本原因は、先ほど挙げたものの見通しが立たなくなったことから生じる「自分の存在不安」によると思われます。ものと存在価値がつながっていて、その結果、恐れ、心配、いらだち…が出てきます。また、ある時には人の言葉によって深く傷ついたことが原因で、それ以上傷つきたくないために自分をかばい、人の目を気にして人に受け入れてもらうようにふるまうこともあります。この世が与える平安の判断基準は、自分の思いにあり、心配、恐れ…を握って離さずに生きていくことになります。そこに傲慢さを見ます。

◎創造主からの平安
 永遠のいのちに結びつく、どんなものにも揺さぶられない創造主が与える平安。
 嵐の中、海の上を歩いて来られたイエス様の姿は、弟子たちにとっては想定外の驚きであっても、イエス様ご自身はすべてを創られた創造主であり、嵐を静める権威をお持ちの方であり、嵐は問題にされていません。
 ユダヤ人の目を恐れて不安一杯の弟子たちの真ん中で、よみがえられたイエス様はお現れになりました。その時に弟子たちに喜びが走ったように、私たちが嵐(問題、困難)の不安定な中でイエス様(聖霊様)を迎えることが大きなポイントです。
 創造主からの平安を持つには、神様との正しい関係が問われます。イエス様が自分の罪の身代わりに十字架にかかられた愛を信じ受け入れた私たちは、信仰による義をいただいて、神様に正しいと見られています。この関係こそが平安の基です。地上でどのような状態になったとしても満足できるのは、聖霊様が内に来られている以外にはないのではないでしょうか。問題はあったとしても、創造主に創られた者として、愛された者として「あなたは生きていていいのです」と言われる主がおられるという思いに立てば、価値観が変えられてくるのではないでしょうか。逆に内におられる主を忘れて、自分の思いに捕われて平安を失っていることもあります。創造主からの平安は、自分の思いを主に委ね、へりくだる時に与えられます。そして創造主からの平安は地上に目を留めず、天の御国に思いを馳せることも導かれます。
*参考聖句(第2テサロニケ3:16a)
“どうか、平和の主ご自身が、どんなばあいにも、いつも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。”
 創造主からの平安のスペシャルは殉教だと思われます。かつてローマ帝国時代、クリスチャンたちはコロシアムの猛獣の中に投げ込まれても、主の平安と喜びで顔が輝いていたそうです。今、現実に恐れ・心配・不安…を抱えているその時に、みことばにより、主の臨在により聖霊の満たしによって創造主からの平安をいただいてください。

2.創造主からの恵み(エペソ2:8)※辻和希伝道師メッセージ
“あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。”
 実体験として、いろいろなところで神様の恵みを感じていらっしゃることでしょう。私たちにとって偉大すぎるお方である創造主から差し出される恵みは、それは大きいものです。中でも最大の恵みは十字架です。

(1)十字架の恵み(ローマ3:24)
“ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、値なしに義と認められるのです。”

◎十字架は自分にとって恵みとなっているでしょうか?
 最近、わが子は親である私の要請に対し、自分の願いの実現という交換条件を切り出してくるようになりました。もちろん親として、子どもの願いはかなえてやりたいという思いはいつも持っています。また親は子ども本人よりも、どのタイミングで願いをかなえてあげるのがよいかをよくわかっています。親として、子どもが願いがかなって喜ぶ思いを共有したいものです。
 しかし、何かをしたら何かをもらえるというのは、報酬であって恵みではありません。恵みとは、何もしなくても一方的に与えられるものです。神様は、私たちに一方的に恵みを施されました。十字架という恵みです。創造主なる神様が、私たちをどうすれば救えるかを考えられ、たどり着かれたのが十字架だったのです。これしかなかったのです。これが最善の方法でした。神様はまた「時」も用意されました。それは二千年前だったのです。この大きすぎる恵みですが、恵みとして感じているだろうかと考えさせられました。
 食べ物、住まい、衣服…日常的なことを神様の恵みとして結びつけるのは簡単ですが、今の自分があるのは神様の恵みだと考えることが少ないことを反省しました。あまりにも日常的なことに目を置いてしまい、もっと大きな十字架という恵みに目が行き切っていなかったと気づかされました。この恵みを忘れずに、これからも生きていかなければと思います。

(2)恵みによる賜物(ローマ12:6)
“私たちは、与えられた恵みに従って異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。”
 十字架は全人類に対して共通する大きな恵みですが、個人にも恵みを賜物としてくださっています。

◎クリスチャン人生の中で、創造主からの恵みを探してみましょう。
 日常的な恵みというよりも、あえてクリスチャン人生としたのは、神様が何のために恵みを与えられたのでしょうか。犯罪に結びつくための技術を賜物として神様がお与えになるはずはありません。良い方向に進むために自分を活かしきるために、賜物を与えておられるのです。神様が願っておられることをこの地上で自分自身を通して現すために、恵みによって与えられたのです。今まで、ご自分がどのようにして良い方向に変えられてこられたかを考えていただきたいと思います。
 自分(和希伝)は、今回キャンパスクルセードの伝道に同行する機会が与えられました。最初は苦手意識があったはずの直接伝道に徐々に慣れ、メンバーが帰った後も同世代の教会のメンバーででも伝道に出かけられたのは、神様の恵み以外にないと思わされました。今までの自分からは想像できない姿であり、神様の「時」「タイミング」「キャンパスクルセードのメンバーの来広」と考える時、まさに神様の恵みだと思わされました。決して自分から願ったことではありません。
 みなさんもぜひ、恵みの体験を、またどのように変えられてきたかを思い起こしていただきたいと思います。その根底にイエス・キリストの十字架という恵みがあることをもう一度深く思い出して、今週もこの恵みにあずかっていただきたいと思います。

3.創造主からのあわれみ※横路伝道師メッセージ
リビングバイブル訳
“父なる神と、そのひとり息子イエス・キリストが真実と愛と計り知れないあわれみと平安とを注いで私たちを祝福してくださるのです。”
 ここでは私たちはすでに祝福されていることがまずポイントです。
参考聖句(詩篇145:8〜9)
“主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵みに富んでおられます。主はすべてのものにいつくしみ深く、そのあわれみは造られたすべてのものの上にあります。”

◎計り知れないあわれみ
 私たち創られた者が一人として滅びることなく永遠のいのちを持つために、罪が満ちていつ滅びが来てもおかしくない今日、今なお神様は世界を保ち、裁きを遅らせておられます。
 御子イエス様は病人をあわれんでいやされ、人々から嫌われている罪人にあえて近づいていかれ、大きなあわれみを表されました。ペテロに代表されるように、多くの失敗をも赦し続けてくださっています。十字架の上で、ご自分を罵倒する人々のためにさえ、彼らへの赦しのとりなしをされました。疲れを覚えておられても、群衆たちをあわれんで教えられました。

◎あわれみとは
 苦しんでいる人への深い同情心
 あわれみは人を生かす力であり、愛です。神様からあふれたあわれみを私たちに注がれていることは感謝です。あわれみは上から目線でなく、同じ目線に立って自分の身を切って他の人のためにしようとする愛です。
 神様は同情心だけでなく、いのちも祝福もみな恵んでくださる方です。あわれみは神から来る愛の力です。神のあわれみがなければ、私たちは一日たりとも生きていくことはできません。あわれみによって今日生かされていることを考えましょう。あわれみから、大自然、生活環境等々、私たちを生かすために恵みが下ってきていることをおぼえましょう。

◎自分の人生に見る主のあわれみに気づく
 私自身(横路伝)は中国で生まれましたが、三歳の時終戦となり、当時住んでいた家にソ連軍が侵入してきて隣家の主人も撃たれて亡くなりました。なぜか私の家に上がってきたソ連兵は震えている両親たちにも銃を撃つことはせず、病気で寝かされていた私に将校はピーナッツを枕元に置いてくれる一コマもあったほど、私たち家族には手を出さずに去ったのです。もしかするとその将校は信仰を持っていた人だったのかもしれないと言われた人がいましたが、神様はあわれみによって、私のいのちを生かしてくださいました。
 少年期には、近所に引退した牧師がおられ、クリスマスにはキャンドルサービスがありヨハネの分冊とキャンディをもらい、イエス様につながる段取りをしてくださいました。
 さらに青年期には、非常な落ち込みの中にあった私の元にクリスチャンが遣わされて来て、教会に仕方なく出かけた半年後にはなんと洗礼を受けていました。
 神様からたくさん目を留めていただいたあわれみから今日の私たちがおり、今日のいのちがあります。みなさんも不思議な神のあわれみと助けがあって、今日がおありなのではないでしょうか。神様は一人一人を愛して選んで、今日この場所に集めてくださっています。
 また自分に対する創造主のあわれみを知る人は、他の人をもあわれむ心が与えられます。創造主の計り知れない愛とあわれみに感動して、その祝福の中に生きるのがクリスチャンです。神の子として他の人をあわれむことができるように、私たちは変えられています。
 
 真理と愛、つまり創造主のうちにあるのは、豊かな恵み、計り知れないあわれみ、揺るぎない平安だと今日学びました。神様は、これらのものをもって私たちを祝福してくださっています。

 

 

 

 

■2013年9月8日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 真理と愛と創造主  up 2013.9.8


真理と愛のうちに、父なる神と御父の御子イエス・キリストからの恵みとあわれみと平安は、私たちとともにあります。
(第2ヨハネ1:3)

 

 

 

 願いがかなわない時、人は疲れていきます。しかし「神のみこころにかなう願い」が必ずかなえられるのであって、そうでなければかなう確証はありません。私たちの心を変えて、みこころにかなったものに変えなければならないのです。
 
 神様は、私たちの願いをかなえられる前に、その動機を試されます。たとえば私たちの健康を神様は喜ばれますが、それによって傲慢になることを心配されます。心が神様から離れてしまうのです。神様は私たちが傲慢になることを、何よりも警戒されます。天使の堕落も傲慢からでした。
 世の人々は結果の成否だけ見て判断しますが、神様は動機とプロセスをもっと大事にされる方です。成功のために滅びるよりは、失敗して永遠のいのちを獲得する方がその人のためになると考えられる方なのです。なぜなら愛なる方だからです。
 
 道に迷った時には「神は造り主で、愛なるお方で、真理に基づいて私たちを導いてくださっている」ことを思い出してください。そこから自分を省みて、真理から外れていないか、神の愛に背を向けていないか、創造主なる神に対して傲慢でないか、を点検しましょう。気づかないまま、永遠のいのちを失ってしまったら、たとえ全世界を手に入れても何の意味もないと、イエス様も語られました。

1.主題聖句について(第2ヨハネ1:3)“みことばは前述”
 真理を求め、そのうちに留まる人は、恵みとあわれみと平安にあずかることができます。
【内容観察】
「創造主は真理であり愛です。そして、創造主は父なる神であり御父の御子イエス・キリストです。この創造主からの恵みとあわれみと平安は、真理と愛を知っている私たちの交わりとともにあります。」
 
 恵みとあわれみと平安は個人だけに与えられるものではなく、むしろ真理を知る者たちの交わりにおいて表されるものです。交わりによって浮かび上がる自己中心を、真理を知る者として砕き、神様の愛によって心を結び合わせることができるのです。
 
 しかし、私たちはまだ完全に真理と愛と創造主に対して目が開かれていない部分があるために、思い通りにいかない時、行き詰まりをおぼえます。それが自分にとってどれだけすばらしい苦しみであり、難問であり、試みであるかは、真理と愛と創造主を知れば見えてきます。
 
 自分は自己中心だと思わない人ほど自己中心です。「目が見える(罪人ではない)と言い張るから罪が残る」とイエス様が言われています。聖書を知るほど、自分の罪深さ、愚かさ、視野の狭さ、自己中心が見えてきます。

 聖書は、鏡のように私たちの見えない心の内をはっきりと映し出します。皆さんも鏡である神のみことば、真理に近づいてください。すると、もっとはっきりと自分の姿が見えてきて、神の御前にへりくだることができます。主を賛美している自分がいかに恐れ多いことを許されているのか。本当はそんな図々しいことができる立場ではないことに目覚めてくる時、本当の敬虔さが生まれてきます。それが真理を知ることです。だからこそ、クリスチャン生活が長くなるほど、みことばをしっかり読むことをしなくなります。自分の正体が見えてしまうからです。しかし肉体の自分をチェックするために鏡を見るのなら、神様の前の自分をチェックするために聖書で確かめるのは当然でしょう。そして何をどうすれば良いのかも教えてくれる聖書は、とても大事なものです。
 
 考えてみてください。一週間一度も鏡を見ないで過ごしたら、どんなふうになっているでしょうか。鏡無しで化粧できますか?ヒゲ剃りはどうですか?鏡を見るとは、このように生活に欠かせないものです。聖書を読み、みことばの真理を悟れば、鏡に近づいて細かく自分を観察、手入れすることができます。

【デボーションのために】
★創造主の中から真理と愛が出てきている。

★父なる神と御子イエスは創造主である。
 創造主は宇宙を造られました。意志を持って計画的に全てのものを造られています。宇宙が維持されているのは、真理が生かされているからです。ちなみに人が死ぬことになったのは、真理から外れて真理でないものを受け入れてしまったからです。父なる神と御子イエスは真理、私たちを導くものであり、道理、あるべき道を持った方です。
★恵みと平安とあわれみと私たちは、創造主と共にある。
 以上のことについて洞察を深めていっていただきたいと思います。
【敬聴と適用】
(ヨハネによる福音書6章)から、『真理と愛と創造主』についてのデボーション
 この中から真理と愛と創造主についてどういうことが見出されるでしょうか。
*例
(:1〜15)男だけで5千人いた群衆が、5つのパンと2匹の魚によってみな満腹になった。

 祝福されたパンは弟子たちから人々に配られ、人々の手を渡る間にどんどん量が増えるという奇跡が起きました。イエス様は肉を養うためだけにこの奇跡をなされたわけではありません。人々がみんなで分かち合うことによって、大群衆の隅々にまでパンと魚が行き渡りました。分かち合いの真理がここに表されているのです。分ければ分けるほどふくらんで、人々を満たす。神様の真理、得た悟りも、自分一人の胸にではなく、誰かに分かつことによって、愛が生まれます。神様は物理的な出来事を通して、私たちに見えない真理を悟らされるのです。
 
 人は神のかたちに似せて造られたので、造り出す能力を持っています。私たちの心が永遠のいのちに至るための食物を分かち合うことを通して、生み出していく力も与えられています。黙って聞くだけよりも、語った方が心は恵まれ解放されます。五千人の男を初めとする群衆に配られたパンは、12のかごに一杯になりました。分ければ分けるほど増えていくというのが、霊的食物の原理です。物理的な食物と違い、神の真理のおことばは、分かち合うほど増え広がり、ありあまるほどの喜びが内側にもたらされます。
 
 あなたに喜びが少ない、愛が弱い、小さいと感じるなら、分かち合いの真理から外れているのではないでしょうか。分かち合わないから、互いに愛し合うという愛の満たしが得られていないのでは?1つのパンを分け合うことによって、そのパンはまた大きくなるのが、神の霊的食物の真理です。

(:16〜27)イエス様について来た群衆について。
 この群衆は、自分の腹を満たすためにイエス様について来ました。働かなくても説教を聞いていれば食物までもらえると思ったのです。ついて来た群衆にイエス様は厳しい言葉を投げかけられました。ここで自分の動機に気づかされます。イエス様を自分の都合の良い存在、自己中心からの神様としてとらえていたと。真理と愛の創造主としてとらえてはいなかったと。
 
 イエス様は真理であり、道であり、いのちであられる方ですから、本当に真理の歩みを続けていのちを得たいと願う人々のために語っておられます。真理と愛と創造主を悟らなければついて来れないことを、イエス様は群衆にお示しになったのです。
 
 今日、あなたは、真理と愛と創造主がどれくらい心に見えてきているでしょうか。見えるようになったら、霊・魂の満足で喜びをもって礼拝から帰り、一週間を過ごすことができるでしょう。
 
 (:28〜最後)は、まことの食べ物とまことの飲み物について、イエス様ご自身がそれであると証したために、多くの弟子たちが去ったとあります。そこからどんな真理を見つけ出し、愛を見つけ出し、創造主なるお方がどんなお方であるかを見出すことができるでしょうか。今週の(ヨハネ6章)からのデボーションは、このような視点から探ってみてください。1日1回6章を読んで
も到底読み尽くせない真理が隠されています。
 
 ヨハネ伝自体、特に啓示が重要になる書簡です。深い霊的洞察力を必要とします。少々堅い食物かもしれませんが、ぜひチャレンジしてください。今以上に真理について愛について創造主について目が開かれていただきたいと願います。
 あなたのうちにおられる神の霊が必ず教えさとしてくださるので、誰でもそれを感じ取ることができます。求めていなかったから受け取れなかっただけです。ぜひやってみましょう。一日のうち30分の時間を、聖書を読み黙想するために取りましょう。時間がないと言う人は、のんびりする時間を少しずつ削ってでも作りましょう。この30分からでも、必ずあなたの霊、魂に違いが出てきます。この世から離れて神様と一対一で向き合う時間を重ねていけば、だんだん心が慣れていき、みことばの真理に対して、神様の愛に対して、霊と魂が理解しはじめます。こういう体験をすると、「みことばを読みたいなあ」という気持ちがますますわいてくるのです。

★真理と愛と創造主は三位一体。
 創造主は愛であり、真理です。真理は愛であり、創造主です。愛は真理であり、創造主です。

★霊と心と体は三位一体。
 人の本質は霊ですが、表現力としての精神があり、表現力を見えるかたちで表すための体があります。どれが欠けても自分ではなくなります。

★父と御子と御霊は三位一体。
 万物は三位一体の神から創造されています。神様の心の中にあった様々な思いや考えが、ことばなる神を通して表された時、聖霊なる神がことば通りのものを形造りました。そして万物は創造されました。ですから創造物には必ず三位一体のかたちが見出されます。それらを見て、私たちは真理なる神様、愛なる神様、創造主なる神様を自然の中からも悟っていくことができます。そういった心の洞察力、霊的洞察力を養うことができます。その霊的洞察力を通して、聖書のみことばを読み取っていくと、さらに聖書のおことばの真理に、私たちの心は食物のように力づけられていく、という現象が起こります。
 
食事を摂るために時間を取るように、霊的食物を摂るためにぜひ時間を取っていただきたいと思います。

「天高し 真理と愛と 造り主」

 秋の高い空のように、真理も愛もどこまでも続きます。造り主も無限なお方です。この青空を見るたびに、限界のない果てしない永遠なる存在というものを感じる、という意味です。
 
 造り主の「造」という字をよく観察すると、一から道が出て、そこに「告げる」という字が加わります。一なる神様から道ができ、そのおことばによって世界が造られたことを感じずにはいられません。「造」という漢字には、無から有を生み出すという意味があります。真理に沿って告白すると、物事がなるという道理ですね。

 

 

 

 

■2013年9月1日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 本当に愛する  up 2013.9.1


長老から、選ばれた夫人とその子どもたちへ。私はあなたがたをほんとうに愛しています。私だけでなく、真理を知っている人々がみな、そうです。このことは、私たちのうちに宿る真理によることです。そして真理はいつまでも私たちとともにあります。
(第2ヨハネ1:1〜2)

 

 

 

 ここしばらく(第2ヨハネの手紙)を通して、愛について語らせていただこうと思っています。人は「本当に愛してもらっているかどうか」を確認したくなってくるものです。感情は大事なものですが、感情的な愛を基準に量ってはいけません。今日は、何を根拠に本当に愛すると言えるのか、本当に愛されていると認めることができるのかを考えてみましょう。

1.主題聖句について
【内容観察】
  「みことばを教え人々を導く者として神の信任を受けた長老から、世界の基が置かれる前からキリストにあって選ばれた夫人とその子どもたちへ。私はあなたがたを神の前における正しい良心をもって心から愛しています。私だけでなく、真理そのものであられるキリストと彼の御霊を知っている人々がみな、そうです。神の前に偽りのないきよい愛をもって愛し合うことができるのは、私たちのうちに住んでおられる真理そのものであられる方によることです。そして真理そのものであられる方はいつまでも私たちとともに存在されます。」
 
 感情は触れるものに左右されやすい不安定なものですから、感情で人を愛しているといつも不安になります。他のものを感じると、今まで感じていたものが変わってしまうこともあります。感覚的なもので愛を量ろうとすると、傷つけたり傷つけられたりするのではないでしょうか。クリスチャン同士であっても感情で人の心を量ると不安定です。
 
 表面的に愛ということばを世の中のイメージで量ってしまうことがあり、愛するということばの用い方が難しい面があります。また、誰から「本当に愛している」と語られるかはとても重要で、みことばでは「長老」から「夫人とその子どもたちへ」とあります。本来、家長である夫(父親)の守りがあって安心できる夫人とその子どもたちですが、それが書かれていないということは、社会的には弱い立場にあると想像できます。その彼らをヨハネは、長老という父親代わりのような霊的にカバーする責任ある立場から自分を紹介して、彼らを決してなおざりにしていないことを強調しています。教会一番の長老であり、イエス様直属の12弟子のうちのたった一人の貴重な存在であるヨハネからのことばは、彼らのおおい・守りとなっています。
 
 「夫」「主人」は家族を幸せに導く大事な責任があります。神様がモーセを通してイスラエルを導かれたように、夫・主人も妻、子どもたちを御国へ導く大きな責任を神様からいただいています。冒頭に「長老から」とあるのは、弱い立場の人たちを忘れていないことを表現した愛の表現です。
 そして一番のポイントは、「本当に愛している」ことを告白できる人は、真理を知っている人々だということです。ヨハネだけでなく真理を知っている人々は、あなたがたの弱い立場を気にかけて支え守りたいという思いであなたがたのことを本当に愛していますと語っています。感情ではありません。
 
 あなたを愛してくれる人が本当に愛してくれているかどうかを見分ける根拠は、真理を知って愛してくれているかどうかです。真理はいつまでも変わらないので、真理に基づいた愛は冷えません。真理に基づかない愛は死んだ後が大変です。人の罪の本性は必ずどこかで暴かれます。それをご存じなのは神様だけです。どんなに良く見える人でも、罪人であることを忘れてはなりません。神の目には罪深い者なのです。よみの世界で神を呪ってしまう罪の状態が表れ、醜いものが出てしまうのです。神の目は節穴ではありません。神の目をごまかすことはできません。私たちは、自分のうちに醜い罪の性質が宿っている事実を謙虚に認めて、神の前にへりくだることが必要です。そこに神の救いと助けが成就していきます。真理を知っている人々がみな本当に人を愛し、本当の愛を見分けることができるというのがみことばからの教えです。
 
 では真理とは何でしょうか〜キリスト(ヨハネ14:6)、御霊(第1ヨハネ5:6)、みことば(ヨハネ17:17)のいずれも真理であると記されています。定義した言葉上での真理を考えてはいけません。真理という存在があるのです。キリストも御霊もみことばも人格を持った存在であり、真理は辞書にある言葉ではなく、人格者なのです。(ヨハネ14:6)の「わたしは真理であり…」にある「わたし(キリスト)」は人格者です。私たちの霊も人格を持っており、言葉は人格の表れであり、霊の現れです。とにかく真理とは人格を持った存在であるという意味であり、この人格である真理を知っているものはみな、「本当にあなたがたを愛しています」という心を持っているということです。真理はどのような働きをするのでしょうか。(第1ペテロ1:22)
“あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。”
 真理は、魂をきよめる働きをします。キリストは(御霊は)(みことばは)あなたの魂をきよめます。私たちの魂は人格があり、さらにまさった人格者でないと私たちの人格をきよめることはできません。キリストは(御霊は)(みことばは)私たちの人格をきよめる存在、真理であると言えます。人の心がきよくなると偽りのない兄弟愛が生まれてきます。その純真な心で、兄弟愛、家族愛…親しいコミュニケーションを持ちたいという思いが内側から強く湧いてきます。
 
 真理とは辞書に道理とあります。道理の「道」には真理という意味が含まれており、人が歩むべき正しい道を指しています。この道を歩んでいる人は「生きている」「いのちがある」と言い、その道から外れている人は、存在はしていてもいのちがない「生けるしかばね」です。イエス様が(ヨハネ14:6)で言われた「道」「真理」「いのち」は同じ意味を表しており、それらの行き着くところは万物を創られた神のみこころを示しています。また「道」「真理」「いのち」は天地を創造された神を意味しています。人が歩むべき道をゴールすると、神に至ります。真理の行き着くところは創造主です。いのちを求めて行き着くところは、いのちの源である神です。だから「わたし(キリスト)を通してでなければ父のみもとに行くことはできない。」とみことばは続いています。
 
 真理は、魂をきよめ偽りのない兄弟愛を抱かせるので、真理を知っている人すなわちイエス・キリストを(御霊を)(みことばを)知っている人の「本当にあなたがたを愛しています」ということばは、信頼できるということです。神聖を知った心は自ずと神性さが表れてきて、本当に愛することができます。食物としてみことばをいただくことは、魂をきよめていくことであり、神の子として成長し、キリストのようなきよさに至るということです。それは、友のためにいのちを捨てる愛を内側に湧き立たせることができるのです。(第1ヨハネ3:16)のみことばには「神がひとり子をこの世に遣わし、あなたの罪のための裁きを身代わりに受けて、あなたはきよめられました。」の意味があります。きよめられたら、友のためにいのちを捨てる愛が湧き上がってくるのであって、努力ではありません。努力は愛ではありません。愛は自然に湧き上がってくるべきものです。
 
 真理である御霊を知っている(味わい知るの意味)ならば、永遠のいのちに至る愛をするようになるのです。本当の愛を注ぐ目的は、愛するものが永遠のいのちに至るためです。自分の利益ではありません。滅びに行こうとしている人、永遠のいのちから外れている様子を見て「その方へ行かないで」という気持ちが湧き上がって来て、永遠のいのちを知らせ導きたいという思いで手を差し伸べるのが本当の愛です。
 
 夫婦も同じです。夫は妻が永遠のいのちに導かれるように指導し、妻も夫が永遠のいのちに導かれるように援助します。子どもに対しても、永遠のいのちに導かれるようにしつけします。常に永遠のいのちを失わないように心を使っていくことが愛です。そのために真理を知っていなければ導くことができません。日頃からみことばを味わい知ることをしていかなければ、自分自身さえも永遠のいのちに導くことはできません。みことばを定期的に心の食物として消化していかなければ、自分も愛する人をも永遠のいのちに導くことはできません。もし自分の態度が家族を永遠のいのちに行かせない状況となってしまうなら、何のための家族でしょうか。真理を知ることが本当に人を愛し、自分を愛することができるのです。

2.『微妙玄通』のクリスチャン
★『微妙玄通』(びみょうげんつう)の意味
 緻密(ちみつ)で奥深く、すべてに通じていること。
 真理を体得した者の様子をいう語。
【敬聴と適用】
★ヨハネ1章1節から18節において、真理を見出しましょう。
 例)1節より
「万物が存在しないときに、ことばが存在していた。これを神と呼ぶ。」
 万物が存在する前からおられる神が本当の神であり、これは真理です。この神は言葉だと記されています。万物が存在する前から言葉が存在したので、万物が創り出されました。物事が創り出されるためには、必ず思想・考え・意思表示が必要になります。それらは言葉のかたまりです。言葉があったので万物は創り出されたのです。何も考えずに作品ができあがるということはなく、必ず言葉が優先しています。万物は言葉の前に存在することは絶対にありません。これが真理です。

 あなたの言葉によって作り出されるものがたくさんあります。良い言葉は良いものを生み出し、悪い言葉は悪いものを生み出します。言葉は物事をかたちにしていく始まりです。神の真理に基づいて言葉を告白していくと、良いものが生み出されていくという良い習慣を身につけていきましょう。