■2013年8月25日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛の育成  up 2013.8.25


いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。
(使徒20:32)

 

 

 

『恵みのみことばが、私たちを神の子としてかたちづくる。恵みのみことばとは、罪人である私たちが聞くことができないいのちのみことばを、愛してくださっているがゆえに話しかけてくださる神の愛のおことば。』

 健康の第一の基本は食事ですが、私達の霊の食事はことばです。世の中にはたくさんのことばがありますが、罪の腐ったことばは害になります。たくさんのことばの中で何が良いことばであるのか、聞き分けていくことが必要になってきます。
 私達にとって最善のことばは、神のことばです。語られる神のことばを、愛を前提として、聞き分ける心の耳を持つことが大切です。愛を信頼しなければ、神のことばは、私達の内に生きて働くことができません。どんなに良いことばであっても、その語られた動機が重要です。
 私達は、どうして神のことばの動機である愛を信じることができるのでしょうか。それは、十字架の贖いという事実があるからです。私達はその十字架を通して、神の愛を信頼することができます。
 
 「愛の育成」
 「育成」とは、完成に向けて形作っていくことであり、徳を高めていくことです。私達は神の子として造られたゆえに、神の子として生きることが正しい成長です。その的から外れた生き方が罪です。人間が、存在目的からそれた生き方をすることが罪なのです。 ヒューマニズムはその神の御心よりも、人間中心の考え方をするので、各自がやりたいことを勝手に自由にすればいいという思想です。それゆえ、同性愛も認めます。しかし、それは、神の創造の目的からそれています。彼らの神は貪欲であり、自分の欲望がすべての中心になっています。貪欲は偶像礼拝であり、この世はこの欲が中心になって回っています。経済は欲が動機となっているために、経済社会は欲を中心に回っているのです。そして、それが、今の世の中では当たり前になっています。
 こういう世の中で、何が神にある生き方であるのかをはっきりと知るためには、聖書のみことばが不可欠です。
 
 今週はこの神のみことばから、みことばを心の食物として食べるということを試すために、4つの課題を設けてみました。是非自分でやってみて下さい。
 まず、私達は世の中の考え方にいかに影響を受けてしまっているかに気づいてください。今ちまたでは、健康食流行りで、多くの本が出版され、テレビでも連日いろいろな情報が流されています。バナナがいいと聞けば、みんながバナナを購入し、ココア、きなこ等、言われる食べ物はすぐ売り切れてしまうという有様です。今はチョコレートがいいと言われています。しかし、どれも長続きはしません。また、食事はバランス良く食べましょうと言われています。最近の日本人は日本食から洋食に変わってきており、その結果、アトピーが非常に増えてきています。日本の自然食材より、加工食品を多くとるようになったためです。加工食品にはどうしても添加物が入れられます。また、いろいろな色の野菜をとらないといけないということで、多くのサプリメントが出てきています。
 しかし、何千年も肉だけしか食べないのに、非常に健康に生きている民族がいます。それはエスキモーです。野菜など寒すぎる環境ではとれません。しかし、彼らはアザラシとシロクマの肉だけで、血液は世界中で一番さらさらなのです。これを聞いて納得できない方は、世の中の考え方に洗脳されていると言えます。彼らが健康で成人病にならない理由は、アザラシの頭の先から足の先までを全部、生で食べるからです。動物1匹の中に、必要な栄養素はすべて含まれているのです。国によっては、動物しか食べられない所もあります。しかし、その動物の全てを食べるので健康なのです。
 日本では、食材のすべてを食べることはありませんし、加工品に偏り、味をつけないと食べられなくなっています。一番良い食べ方は丸ごとすべて食べることです。
 みことばも、耳当たりのいいものだけを食するのではなく、聖書をまるごと全て受け入れていくことが大切です。

  『私たちを育成するいのちのみことばを食しましょう。』

1. 箴言11:2
“高ぶりが来れば、恥もまた来る。知恵はへりくだる者とともにある。”
 聖書では、高ぶりとへりくだりが必ず出てきます。罪の始まりは高ぶりであり、的外れを起こすきっかけは高ぶりです。ルシファーはこの高ぶりによって堕落しました。私(辻師)は、妻によってこの高ぶりが出ると、すぐに砕かれてきました。牧師にとっても、一番危険なのは高ぶりです。
 恥と知恵も出ていますが、恥とは、本人が傲慢で気づかない恥があります。周りが気づき、恥ずかしいと思うのです。それが一番問題です。恥を感じることが知恵です。恥を感じる心を持ってへりくだることが知恵なのです。

2. 詩篇107:17〜20
“愚か者は、自分のそむきの道のため、また、その咎のために悩んだ。
彼らのたましいは、あらゆる食物を忌みきらい、彼らは死の門にまで着いていた。この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救われた。主はみことばを送って彼らをいやし、その滅びの穴から彼らを助け出された。”
 愚か者とは、大人げない者という意味があります。子供は愚かな行為をしても、未熟なゆえに、愚か者とさげすまれることはありません。しかし、大人であるのに、まだ、子供のようなことをしているなら、それは愚か者なのです。しかも、それが愚かとさえ気づかないのです。まるでわがままな子供のように、当然の礼儀も守らないし、それを悪いとも思わないのです。礼儀を尽くすことは愛の行為であり、日本の文化でもあります。相手の心や存在を大切に扱う時に礼儀は自然に出てきます。
 愚か者のたましいは、ためになる良い食事も忌み嫌います。そして偏食が多いのです。自分の好むみことばしか聞きたくない、まちがっていないといつも自分を正当化するのです。しかし、そのような愚か者であっても、神は愛してくださるゆえに救ってくださいます。神はみことばを送っていやしてくださいます。神のみことばは健康な食べ物なので、それを食す時にいやされるのです。

3. 第1ヨハネ4:8
“愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。”
 愛がわかれば神を知ることができ、愛があれば神がわかります。
親切な施し、友情そのような良い愛の中にも神の愛が写されています。私は「神は愛です」というみことばに衝撃を受けました。万物の存在の元が「愛」なのです。そして、自然のバランスはすべて相互関係によって成り立っています。愛は単独で存在はしません。これは大きな真理です。

4. 第1コリント12:31
“あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。”
 よりすぐれた物を求めるということで、世の中は、自分のために求めます。しかし、パウロは単に自分のために、よりすぐれた賜物を求めよとは言っていません。私達の心の中に、他の人々よりも、他の教会よりもいいものでありたいという思いが浮かぶことがあります。しかし、それが目的ではありません。さらにまさる道をと聖書は書いてあります。何がまさるのでしょうか。私達をより良い者とする理由と目的は13章1節から書いてあります。
 
 この1週間、自分で神から愛のメッセージ、愛のことばを受けとってください。良い食事を食して健康になるなら、心は愛で満たされ、神のみことばをいっぱい食すことで、神の子としての、良い歩みができるようになります。大切なのは、神のおことばをたくさん食すことです。聴き続けていくなら、みことばに心を開いて、大人の聴き方ができるようになってきます。

 

 

 

 

■2013年8月18日 日曜礼拝メッセージより(辻和希伝道師、辻マリア神学生、小栗伝道師)

 愛という食物  up 2013.8.11


イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。
(マタイ4:4)

 

 

 

1.愛という食物と主題聖句
 ※辻和希伝道師メッセージ
 この箇所は、イエス様が最初に荒野で悪魔から誘惑を受けた時に、申命記のみことばをもってその誘惑を退けた場面です。私たちにとっても、非常になじみのあるみことばの一つだと思います。パンとは私たちにとって欠かすことのできない食物全般を表しており、肉体のいのちを保つために、必ず食物を摂っているわけです。しかし、それだけではなく、神の口から出る一つ一つのことばによって生きていると教えています。神様の口から出ることばは、私たちにどのような影響を与えるのでしょうか。
【内容観察からのポイント】
★肉体的いのちと霊的いのち
 肉体的いのちを養うために食事をするのと同様に、内側にある霊的いのちは、ことばという食事をとっていかないと死んでしまいます。
 (創世記1:29)には“「生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。…」”と書かれているように、そのいのちを取り入れることによって、私たちの肉体的いのちは保たれています。
では霊的いのちを考えてみましょう。生きておられる神(ヨハネ14:6)は、いのちあることばを語ってくださっています。聖書はいのちある神のことばが書かれており、それを取り入れることによって霊的いのちも継続させることができます。逆に言えば霊的食物をとらないと、私たちの霊は死んでしまいます。地上では肉体におおわれているので、霊的ないのちの大切さをついおろそかにしてしまいがちです。
★ことばという食物
 地上にいる間、人とのコミュニケーションを通しても、いろいろな言葉を交わして生活しています。人格を養うのに重要な言葉の働きもあります。ただの食物には、肉体の成長はあっても人格の成長には至りません。人格の形成のために、人からのあらゆる言葉が左右してきます。奥さんから、記念日等に「今までありがとう。これからもよろしく…」と手紙をもらった時、嬉しくなり、心が明るくなり温かくなります。子どもからの、つたない字で思いを寄せて書いた手紙であれば、この子のためにがんばろうという気持ちになります。文字、言葉、手紙は心に働きかけてくるものなのです。これが逆に、中傷ばかり書かれた手紙を目にしたとしたら、どうでしょうか。一週間、いや一ヶ月、その言葉によって気持ちをひきずるかもしれません。日常的に使っている言葉は、私たちの感情すら支配するほどに影響力のあるものだということです。
★神のことばという良質な食物
 罪人である私たちの言葉は完璧ではありません。唯一完璧な方は、全能なる神様だけです。このお方からのことばこそ、私たちの霊にとって最善の良質な食物だと心に留めておかなければなりません。この方の語られる一つ一つのことば、まさに聖書は神様からの愛のことばが詰まった、私たちへのラブレターです。中にはきついことばもありますが、愛の神様が私たちに語られることばはすべて愛のことばです。
 この肉体を養うために様々な料理法を考え、たくさんの時間を食物に費やしています。同じように、少しでも神様の愛の食物を取り入れるために、私たちにとってとても重要な神様からの愛のことばを取り入れることに今週チャレンジしたいと思います。

2.健康は良い食物による(第1テサロニケ2:13)
 ※辻マリア姉メッセージ
“こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。”
 皆さんは、健康維持のために努力しておられることがあるでしょうか。私(マリア姉)は、一日に必ず野菜をとるようにしています。健康を保つという時、食生活を気にするように、健康食品、オーガニック(3年間、農薬や化学肥料を使用しない土地で栽培されたもの、または原則として化学合成や化学肥料を使用しない、遺伝子組み換えや原材料を使用しない、放射線照射をしない、合成添加物の使用制限等、自然の環境システムを守った化学物質の自然環境への負担を軽くするもの)は、体にも環境にも優しく健康になれるというのは本当に良いことですね。
【内容観察からのポイント】
★良い食物はからだの中で良い働きをする
 良い食物を食べると、からだに良い影響を与えます。たとえばビタミンCは美肌効果、生活習慣病予防効果があり、鉄分と一緒に摂ると吸収率がより高くなり、ビタミンA&Eととると抗酸化作用が高まります。これらの栄養素を含んだ野菜がほうれん草であり、冬場は特にビタミンCが3倍も含まれています。ビタミンCは熱に弱い性質があるので、より工夫して接種することをお勧めします。
 このように、良い食物を摂取すると、からだに必要な栄養分を取り入れることができます。からだの中で必要な働きをして健康を維持していきます。体内に良い影響を与えると、体力がつき、血色も良くなり、健康に見え、まわりに良い影響を与えていきます。しかし、悪いもの(腐ったもの、菌がついたもの)を取り入れると、内側から吐き出したり、まわりに影響を与えて移してしまったりということも起こります。
 良い食物とは、私たちにとっては神のことば、愛のあることばのことです。私たちがそれを体内に入れると、内側に影響を与え、健康になります。しかし、愛のないことばを体内に入れてしまうと、汚れ、悪いことばが口から出て、神のことばを汚すようになります。
良い食物が良い働きをするには、隣人に愛のことばを語ることが、語る側にも受ける側にも大事なことです。
★効果的な食事は、神のことばとして受け入れること
 テサロニケの前半に「神の使信のことばを受けたとき、人間の言葉としてではなく、神のことばとして受け入れてくれたことです。」
 私(マリア姉)は、英語が好きだったのですが、担当教諭の指導方法等に心が開けなくなって、やがて英語の成績が落ちていきました。イギリスに留学した時に、英語をまじめに学ばなかったことを後悔しました。神のことばは、神様のことば以外に基準を満たすものはありません。しかしパウロは神のことばとは私たちのメッセージだと宣言しています。つまり、メッセージを語る人の語った言葉が神のことばだというのです。ユダヤ人にとっては、旧約聖書が神のことばでしたから、その権威に自分たちが語ったメッセージを並べることに憤慨したかもしれません。テサロニケの教会の人々は、パウロのメッセージの中に表された救い主イエス様の福音を聞いて信じ、パウロがいなくなっても信仰が確実に育っていきました。パウロはこの手紙も含め、自分が語ったイエス様の福音が彼らの中に着実に働いていることを、後々に何度も確かめたのではないでしょうか。これは、パウロのことばが神様のことばそのものとして用いてくださっていることからもわかります。私たちは、牧師先生が神のことばの代弁者として毎週語ってくださることばを神のことばとして聞くことは当然であると思っています。しかし、今回私(マリア姉)を幼少期から知っておられる方にとって、また私をあまりご存じない方にとっても、そして私自身も信仰の先輩方を前にして、とても語る者ではないことを自覚しております。しかし、私を見るのではなく、神のことばに焦点を当てるなら、誰が語っていようと、事実聖書に書かれた神のことばが存在していることが見えてきませんか。人の言葉として聞いてしまうと、語る人自身や学歴、話し方の上手下手を見てしまい、受け入れたくない人が語れば、神のことばであっても聞き入れなくなってしまいます。それは語られた神のことばを拒否することになってしまうのです。
 人のことばではなく神のことばとして聞く時に、神のことばが私たちのからだに効果的に良い食物として入り、健康状態を保つことができます。私たちの健康は良い食物によります。語る側も聞く側も神のことば、愛あることばとして食物を得ることが大切です。さらに人を見て判断せず、神のことばとして聞いて、それを食べて、ますます健康を保っていきたいと思います。

3.良い食物の働き(第2テモテ3:16)
 ※小栗伝道師メッセージ
“聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有効です。”
 神様は私たちにありのままの自分を認め、受け入れさせる自己肯定の力がある愛をくださり、存在の目的に沿って生きることを選べるようにしてくださいました。良い食物をくださるのは神様ですが、神様との関係作りがなされていないと、いくら愛のことばを提供してくださっても吐き出してしまいます。好きなものばかり食べていては健康のバランスが崩れるように、内側の霊的な面にも同じことが言えます。私を愛し知ってくださっている神様の意図を汲むときに、苦みを感じても口にするのではないでしょうか。霊的な面で言うならば、神の愛はすべての栄養素を取り入れていると思います。神様が私たちをいとおしんでくださり、惜しみなく愛を流し出したいと願っておられることを背景として、内容観察を考えてみましょう。
【内容観察からのポイント】
★霊的食物の働き
 聖書を見られて、いろいろなところから「教え」「戒め」「矯正」「義の訓練」をそれぞれ考えられると思います。
 一例として、(ガラテヤ2:20)からそれぞれのポイントを考えてみましょう。
(1)教え「私はキリストとともに十字架につけられました。」
 このみことばは水のバプテスマの真理を表しています。罪人、古い人、肉の私はキリストとともに十字架につけられたのです。「キリストは私がまだ罪人であったときに、私たちのために死んでくださった…(ローマ5:8)」という神の愛を、この箇所で教えとしてみることができます。食べるとは、今の自分にとって、神様がどんな愛を表してくださったか…神様はどんな方か、自分に何をしてくださったか…と具体的に考え、受け入れていくことです。
(2)戒め「もはや私が生きているのではなく」
 戒めとは、辞書でも悪いことを起こさせないように注意することとあり、ギリシャ語でも、罪の叱責、罪を自覚させるためとありました。聖書には「〜してはならない」と明らかに語られているように、罪人の私たちに神様が語られていると心の反応がある時、(とがめを持つことも)は、大きな栄養を含んでいるとも言えます。愛の神様は単に罪の叱責に留まる方ではなく、私たちが罪から離れることを願っておられます。自分にある罪を自覚させるために戒めを与えられます。もし戒めがなかったら、好きなもの、すなわち励ましのみことば(もちろん必要ですが)だけしか食べない状態です。悔い改めをしないで霊的健康は得られないのではないでしょうか。この世と調子を合わせてこの世の価値観を持ったり、神様に喜ばれない思いになったりする私(罪人、古い自分)は、死んだと語っています。欺かれないようにしたいと思います。戒めは私たちを建て上げます。
(3)矯正「キリストが私のうちに生きておられるのです」
 欠点・悪習などを正常な状態に直すこと、と辞書にあるように、ギリシャ語では誤りの矯正(従順の規律)を意味します。医療にも歯や姿勢を一時期固定して、良い状態を維持させる矯正があります。私たちの中に、死んだはずの古い人の考え方が残っていて出てくることがあります。キリストが私のうちに生きておられるとは、神の愛そのものが私のうちにあるということであり、自分にとって痛いみことばであっても、受け止め吟味し食べていくとき、「否定的な私は死んでいる、イエス様が私のうちに生きておられる」と戻ることができます。この良い状態に戻る作業が大変ですが、良い状態になるとイエス様をいつも提示してくださり、背後に神の存在があることを認めることができるようになります。
(4)義の訓練「今、私がこの世に生きているのは、私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです」
 義の訓練とは「きよい生活、目的、行動において、神のみこころにかなうことができるようになる修練」のことです。これは、自分を喜ばせる肉を切り捨てる訓練です。肉が生きている以上、自分を喜ばせることと、御霊によって神を喜ばせることの葛藤がいつもあります。両立はできません。私のために十字架にかかってくださったイエス様の御思いを感じ取っていくならば、神様を選んでいくことに導かれていくと思います。
 私(小栗師)は改心した後も趣味のサッカーを続けていました。ある時、当時の青年部の集まりとサッカーの試合が初めて重なり、私は後半には試合に行くつもりで、ユニフォームをカバンに詰めていました。その集まりでコロサイ書のデボーションをしている時に「主にかなった歩みをし、あらゆる点で主に喜ばれ…」というみことばに心を刺され、神様が自分に願っておられることが示され、断腸の思いで試合に行かないことを決心しました。これが、みことばを食べるということだったのです。
 あなたは、今の自分の肉の喜びを満たすために生きるのか、イエス様が十字架にかかってくださってあなたを義の生活に導いておられることを受けて生きるのか、さあどちらを選びますか。食べ物と同じですね。肉においては決して食べたいものではないけれども、神様が愛をもって食するように願っておられる神の愛にあふれた良い食物、栄養素のあふれた神の愛のことばを、この一週間まんべんなく食してまいりましょう。

 

 

 

 

■2013年8月11日 日曜礼拝メッセージより(フィリピン宣教師 横川 知親師)

 最後まで耐え忍ぶ者は幸い  up 2013.8.11


しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。
(マタイ24:13)

 

 

 

 「ああモンテンルパの夜は更けて」(呼称はNHKによる)という歌があります。この歌を作ったのは、フィリピンのモンテンルパ刑務所に入れられていた日本軍の死刑囚です。彼はクリスチャンでした。
 昭和28年7月22日、横浜港に到着した108名。彼らはフィリピンでの戦争犯罪者であり、うち56名が死刑囚でした。彼らを救うために、渡辺はま子という有名歌手が歌ったのが、「ああモンテンルパの夜は更けて」だったのです。この歌は大ヒットし、結果的にフィリピン戦犯たちの命を救うことになります。
 モンテンルパはフィリピン最大の刑務所です。戦後の昭和20年代、100人以上の日本人戦犯たちがここに服役していました。戦争中、主にフィリピンの住民を殺害、虐待した罪で裁かれたBC級戦犯でした。太平洋戦争中、フィリピンを統治した日本軍は、戦争末期に米軍の圧倒的戦力の前に壊滅。フィリピン戦での日本軍の死者は47万人にものぼり、生き残りはみな捕虜になりました。そのうち特に、フィリピン人住民を殺害、虐待した罪に問われた者が、モンテンルパの受刑囚たちです。
 この中の死刑囚、代田銀太郎はクリスチャンでした。明日をも知れぬ日々の中でつづった日記帳のうち3冊だけが、今も残っています。
「昭和26年1月1日。『されど終わりまで耐え忍ぶ者は救われるべし。』1951年の第一日を迎え、今年こそは良い法治を祈る。」
 憲兵であった代田氏はルソン島より敵前上陸。昭和17年1月、日本軍第一陣としてマニラ入城します。日本軍はフィリピン人のための国家建設を謳いますが、実際には大東亜共栄圏の盟主としてフィリピンを支配しました。日本語教育を行い、カトリック教徒の多いフィリピン人に天皇崇拝を強いたのです。代田氏は一般人の中に潜んで、フィリピン政財界の人々やゲリラの内情を探っていました。
 昭和19年10月、米軍の猛攻が始まり、マッカーサーはレイテ島に上陸しました。フィリピン人の多くはゲリラとなり、武器を取って戦い、日本軍の動向を米軍に知らせました。日本軍は密林に追い込まれ、住民を巻き込んでの戦闘がゲリラとの間に度々起こりました。
 またマニラでは、最後の抵抗をする日本軍と、市街地への徹底砲爆撃を行った米軍の間で、10万人ものフィリピン人が殺されました。代田氏たちはこれらのことで戦犯として裁かれることになったのです。
 山下奉文大将が最初に処刑されました。米軍の裁判で69人が処刑された後、今度はフィリピン共和国による裁判が行われました。モンテンルパの戦犯たちはこの裁判で裁かれました。代田氏自身、やっていない罪に問われて死刑の宣告を受けます。
 戦前「蘇州夜曲」や「支那の夜」の大ヒットによって大スターとなった渡辺はま子は、戦後も多くのヒット曲を出し、大活躍していました。そんな時彼女は、来日していたフィリピン国会議員からモンテンルパ受刑囚のことを聞きます。そして彼らの助命運動を続けていた加賀尾教誨師により日本に送られたこの歌を知り、世に広めたのです。
 当時フィリピンを治めていたキリノ大統領は、妻と、5人の子どものうち3人を日本軍に殺されていました。キリノ氏は戦前の米国統治時代、すでに内務大臣として活躍するなど、有望な人材でした。しかし日本に統治されていた間は苦難の日々を送り、危険人物として逮捕されていたこともあります。娘のビクトリアさんの証言によると、母も姉も、まだ赤子であった自分のすぐ下の妹も、日本兵士に殺されたそうです。
 このキリノ大統領の心を動かしたのが、鎌倉彫の箱に納められたオルゴールの音色でした。奏でられる曲は、死刑囚が作った「ああモンテンルパの夜は更けて」。人の心を揺さぶるこの曲は、昭和28年5月15日、加賀尾教誨師によって、マラカニアン宮殿のキリノ大統領に届けられました。
 キリノ大統領はオルゴールが奏でる曲について尋ね、モンテンルパに投獄されている死刑囚が作ったものと知ると、「日本人を二人釈放しよう」と言いました。そして、それは後に、モンテンルパ受刑囚全員を帰国させる命令に変わったのです。
 私(横川師)がフィリピンに行く前に、友人に猛烈に反対されました。友人はインドネシアを熱心に勧めました。オランダ軍を追放するためにゲリラとして戦った日本兵は、インドネシアでは大変に親しまれていたからです。
 私(横川師)の伯父も飛んで来ました。現地で実体験してきた伯父から、フィリピンでは日本人は憎まれているから絶対行くなと説得されました。
 しかし、クリスチャンである「カナンパン」の社長は、当時を思い起こしてこう励ましてくださいました。「クリスマスの民家に入ってきれいな飾り付けを見た時、クリスチャンのくせに外国に攻め入って人殺しをしているこんな国は絶対滅びると思った。私たちは鉄砲を持って行ったが、あなたがたは聖書を持って行ってくれ。」この方は召されるまでずっと、私(横川師)を援助してくださいました。
 フィリピンはこのような有様であったのに、その日本人を赦したキリノ大統領の行動は、まさにキリストの愛です。
 また現地に行かねばわからないことが沢山あります。私(横川師)が33年前フィリピンで見学した山下大将の墓は、半分えぐれた土まんじゅうでした。墓守の老人の話によれば、村人が夜にやって来て、大将の骨を掘り出して叩くからだそうです。それほど憎しみは深かったのです。それで今は米軍が骨を引き取り、墓の中には何も無い状態だとのことでした。
 隣にはもう一つ、花で一杯のきれいな墓がありました。それは本間中将の墓で、彼がクリスチャンであって、住民たちに愛された証拠だそうです。
 死刑執行時に山下大将は軍服着用を許されず、囚人服のまま絞首刑になりましたが、本間中将は軍服を着て銃殺刑になりました。フィリピン人の嘆願の結果です。
 おそらく本間中将は戦争向きの責任者ではなかったのでしょう。戦争には愛も正義も必要ないのに、本間中将が最高責任者の頃は正しく真っ当に戦ったのではないかと思われます。結果、本間中将は本国に更迭され、代わりに着任した「マレーの虎」山下大将は、あっという間にフィリピンを征服しますが、今二人の墓は対照的な扱いを受けています。私(横川師)は、クリスチャンであることを心から嬉しく思いました。
 先ほどの「ああモンテンルパの夜は更けて」の作詞者代田銀太郎氏にお会いして、いろんなお話を伺ったことがあります。「(マタイ24:13)のみことばがあったから、自分は長い抑留生活に耐えられた。」と代田氏はおっしゃっていました。彼自身は殺人を犯していなくても、証人のフィリピン人が指差せば死刑になる裁判でしたから、無実の罪を着せられたのです。辛い死刑囚としての日々を、みことばを支えに乗り切ることができた、と。
 キリノ大統領の娘ビクトリアさんは言います。「父はこれからのフィリピン人が、日本人とどう接していくかを示したのです。」仇を討てば、また憎しみが返って来ます。どこかで赦さねばなりません。大統領自身が家族を殺されたのに赦しているならば、クリスチャンとして生きるフィリピンの人々も矛を収めざるを得ません。
 これらの証を静岡の教会でしていた時、一人の老人が叫び声をあげて出て行きました。後に牧師から聞いたところ、彼はフィリピンで多くの罪を犯してきた事実に心を責められていた元兵士でした。復員後、クリスチャンだった彼の妻が、夫に教会に行くことを勧め、イエス様の救いをいただきました。教会の役員を務めるほどの人でしたが、それでも証を聞いた時、過去の罪がフラッシュバックして、たまらず飛び出していったとのことでした。
 戦争に聖はありません。戦争は何があってもしてはならないのです。8月15日は敗戦の日であり、日本はこの日から平和国家になりました。この日本が戦争に行くことがないように、皆さんおひとりおひとりが祈ってほしいのです。

 

 

 

 

■2013年8月4日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 人を生かすのは愛  up 2013.8.4


いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。
(ヨハネ6:63)

 

 

 

 イエス様が語ってくださることばは、愛のことばです。愛のことばによって、私たちは励まされ変えられます。メッセージの背後にある愛に気づく時に人は変えられていきます。
 人が生きる上で生きる動機を与えてくれる基本中の基本は「愛」であり、それは主を畏れること、敬うことでもあります。愛のある人生こそ幸せを感じる心を与えてくれます。そして、どんな環境状況にあっても感謝し続けることができるのです。

1. 主題聖句について
【内容観察】
 神のかたちとして創造された者にふさわしくするものは、神の本質である愛の霊です。的を外させる不健全な欲望を宿している肉は、神のかたちに至ることを妨げるだけです。わたしがあなたがたに話したことばは、神の本質である愛の霊であり、また神のかたちというまことのいのちです。
 いのちとは何でしょうか。このいのちとは、その人が存在目的にそった生き方をしている時にあると言われます。神のかたちに創造されたので、そのかたちにふさわしく生きていくことがいのちになります。御霊とは神の本質である愛の霊であり、この方が私たちを神の創造の目的に仕上げてくれます。
 肉は何の益ももたらさないとは、肉は不健全な欲望を宿しているので、神のかたちとして歩むのを妨げるということです。エバは欲望によって、神のかたちとしての人生を踏み外してしまいました。ですから、私たちのクリスチャン人生のキーポイントは、この欲望をいかに節制しコントロールしていくかにあります。
 いのちとは神のかたちであると言えます。毎週礼拝に来ることで、このいのちをしっかりと形成していけますね。この神の愛の霊の働きをしっかりと受けるためには、良心がきよめられることが必要です。曲がった心だと正しく受け止められないからです。良心がきよめられるためには愛に触れていくしかありません。

〈良心のきよめのために〉
(1) イエスの御名によって集まる
 聖なるイエス・キリストを意識して、告白することが大切です。

(2) 賛美をする
 歌うだけでなく、ほめる、感謝する、崇めるということです。感謝のことばの中にほめるという思いが含まれます。感謝の心をもつことによって、良心がきよめられてきます。不服ばかりある時には、心は重く、暗くなります。感謝することに心を向けましょう。

(3) みことばを読み暗唱する
 読んで覚えていくことで、文章が心の中に入り、私たちの心に大きな影響を与えます。量よりも触れる時間が大事です。みことばに触れる時間をなるべく多く持ちましょう。意味を考えながら、知性的にみことばを解釈しつつ読むよりも(そうすると、自分の主観的、体験的な解釈になってしまいます)素直にただ読んでいくときに、神のことばとしてのみことばの力が表され、心に神の聖さがふれて良心がきよめられていきます。心の中の声で読むと、ことばを告白することになり、文字が霊として存在するようになり、みことばの臨在によって、心が変えられていき、自分が変わっていくことがわかります。ことばは霊なのです。ぜひ、15分・30分と聖書を毎日読んでみてください。そして、読んだ後の自分の変化を試して見てください。心の状態が変わったことに気づくはずです。
 みことばの力を体験するとき、良心がきよめられます。そして、良心がきよめられると、みことばを正しく受け止められるようになり、「いのちを与えるのは御霊です」を体験するようになります。
肉は何の益も持たらさないとあるように、自分(肉)でみことばを、勝手に解釈して、知識で読んでいくなら、みことばのいのちに触れて、自分が変わるという体験ができなくなります。素直に偏見なく読んでみてください。
 良心がきよめられると神の愛がわかるようになり、感謝の心があふれてくるようになります。ただ、短時間ではそのようにはなりません。ぜひ、聖書を読む時間を増やしてみてください。長く触れるとその聖さに影響されるようになります。ぜひチャレンジしてみてください。良心のきよめのための時間をとりましょう!

2.『嘉言善行』を目指す(ルカ6:43-45)
“悪い実を結ぶ良い木はないし、良い実を結ぶ悪い木もありません。
木はどれでも、その実によってわかるものです。いばらからいちじくは取れず、野ばらからぶどうを集めることはできません。良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。”

★『嘉言善行』(かげんぜんこう)の意味
 良いことばと良い行い。
【良いことばと良い行いの原則】
〈原則〉
(1)木の種類は何か 
  木の種類によって、結ぶ実は異なります。
(2)心の倉に何があるのか 
 (1)との共通点があります。実は内側から出てきます。それは、心の倉から何かを出してくるのと同じです。中身を良いものに変えれば、良い木になり、良い倉になります。中身さえ変えればいいのです。つまり、良心を神の愛によって変えてもらえばいいのです。そうすれば、良い木になり良い倉になります。

(3) 心を良いもので満たす
 例えば、ペットボトルに良い水と悪い水が入っていても、良い水をつぎ足し続ければ、徐々に良い水に変わります。クリスチャン生活は、良い水に入れ換える途上にあり、これを良心がきよめられる作業といいます。これをやり続けていくと、最終的に良い水になります。良心をきよめるためには、初めにお伝えした、(1)イエスの御名によって集まる、(2)賛美をする、(3)みことばを暗唱することによってなされます。

【嘉言善行の実践】(コロサイ4:6)
“あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。”
 
 親切な塩味のきいたことばは、すぐに出てくるものではありません。まずは、中身を変えるという日頃の心構えが必要です。良心をきよめて、神の愛のことばで満たしましょう。すなわち、(ヘブル9:14)の神の愛の象徴である、イエス・キリストの血潮に触れていく環境作りが、第一のポイントであり、そこにみことばに触れる〜聖書を読み続けることが重なると、親切で塩味のきいたことばを一人一人に語ることができるようになります。みことばがあなたを教えていきます。みことばがあなたをつくりかえ、きよめ、キリストの姿につくりかえていきます。ただ、実験(実践)はいつも成功するとは限りません。
 今回、子供たちのキャンプで実験をしましたが、事前に練習して、何回か失敗し1回成功したので本番でやってみました。しかし、見事に失敗してしまいました。同様に、実践も何回かやって1回成功するということもあります。しかし、1回でも成功するならそれは本物なのです。何回かの失敗で、どこが悪かったかがわかり、それを直していくことで、ついには100%成功するようになるでしょう。まずはひとつから始めてみましょう。

 

 

 

 

■2013年7月28日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 医者としての愛  up 2013.7.28


イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」
(マルコ2:17)

 

 

 

 「愛と言えばイエス様」というイメージを、皆さんお持ちだと思います。ヘブル書には神の愛の現れ、愛の本質と記されています。イエス様は神の愛が見えるかたちで現れた方なのです。
 主題のみことばは、世間的に汚れているとされている人々と交わるイエス様に対して、パリサイ人が弟子に質問した場面です。神の愛は病人に対して現されたと言えるのではないでしょうか。
 日本では今、深刻な医師不足、特に外科医不足があり、過疎地ではヘリコプターで患者を運ぶなどの対応を余儀なくされています。もし医者がいなければ、多くの人が病気などで死んでしまいます。もし神の国からの医者であるイエス様が来てくださらなければ、すべての人が罪という病で死んでしまうのです。しかし神様は、現実にイエス様を遣わして、全ての人に救いをもたらしてくださいました。
 有名なシュバイツアー博士がもしアフリカに行かなければ、アフリカの伝染病で亡くなる人は後を絶たなかったでしょう。

1.主題聖句について
【内容観察】
★医者⇒不健全を健全へと導く⇒救い主イエス⇒神の愛
★病人⇒不健全な者⇒罪人⇒的外れの人生を歩んでいる者
★招く⇒歓迎している。分け隔てがない⇒あわれみ深い。注ぎ出す愛。
★来たのです⇒病人のために来た⇒病人に声をかける⇒病人とすごす。
 イエス様の社会的立場をハッキリと表しています。イエス様の言動は医者としてのものです。しかしパリサイ人や律法学者たちは、イエス様の家柄を見て、そのことばを受け入れませんでした。私たちも自分なりの条件をつけて人を区別していると、イエス様に対しても偏見を持ってしまうかもしれません。イエス様は医者という言葉を用いて、この世での働きの内容を明らかにされました。すなわち、健全さを取り戻させるための専門家です。ゆえに、対象者は健康者ではなく病人=罪人です。イエス様は「招く」ということばによって、歓迎することを表されています。24時間態勢で病人を受け入れる病院のように、それは隣人愛で成り立っています。
 ここでは医者という言葉は隣人愛の代名詞として使われています。患者の健全さが取り戻されるために自ら病の中に飛び込むことは、隣人愛なくしてはできないことです。こういう意味あいが、主題聖句から読み取れるのではないでしょうか。
 クリスチャンたちは罪という病を癒された人たちです。癒された人は感謝と喜びに溢れています。重い病であればなおさら、喜びは大きいでしょう。イエス様によって罪赦されたという実感の大きい人ほど、感謝と喜びに溢れます。
 次に、癒された人は、自らの健康管理に気を使うようになります。もう二度と同じ病気にならないように。たとえば虫歯になって痛い目にあった人は、歯のケアに気を使うようになります。放っておけばまた虫歯になる可能性が高いからです。クリスチャンも霊的メンテナンスを怠ると、罪を犯すことになります。毎週礼拝に参加するのもメンテナンスの一つです。痛くなるまで放っておかないでください。みことばにきちんと耳を傾け、主の愛に信頼して心を開くことが大事です。
 次に、癒された人は、病の重さに比例して、人の役に立ちたいと思う気持ちが強くなります。野口英世も、医師を志したのは自分の手を治療してもらったからです。やけどで握りこぶしのまま固まってしまった指のせいで、辛い思いをした野口の子ども時代。大きくなってから、手術によって指が開けるようになった彼の喜びはいかばかりであったでしょうか。その感激が野口に医師を志す思いを与えたのです。
 国際飢餓対策機構の現地スタッフが子どもたちから聞いた夢の職業も、トップは医師だそうです。不衛生な環境でつらく苦しい思いをしていた人々が、飢餓対策のスタッフや医師たちのおかげで病気が治り、衛生的な環境のすばらしさを実感して、「近隣の人々にも、このすばらしさを伝えたい」と、医師を夢見るのです。
「人の役に立ちたい」と思うのは、自分が人に助けられたことを感謝しているからです。同様に、「私は神様のおかげで罪赦された!」と感激する体験をした人は、神様のために働きたいと願うのです。
しかし、すぐに良くなるわけではない人々もいます。生活習慣に原因がある人などは、時間をかけて治療する必要があります。救われたという実感の少ない人、パッとしないクリスチャン、中途半端なクリスチャンは教会と家での生活との違いが大きい人です。罪に染まりやすい生活習慣が日常にあって改善されていないなら、病院である教会の中でいくら聖書を読んでも祈っても、家に戻れば元の木阿弥です。また、入退院を繰り返す人の場合は、自分の都合によって神様の優先順位が変わるので、困った時に来て問題解決されれば去る、のくり返しです。
 これらのことについて、医者であるイエス様と私たちの関係はどのようなものであるかを反省しながら、ぜひ丈夫な者として「イエス様のように人助けができる者になりたい」という気持ちがわき起こってくるように、罪の赦し、神様の愛の癒しを体験していただきたいと思います。

2.『魚質竜文』を砕く(ヨハネ9:41)
“イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」”
★『魚質竜文』(ぎょしつりゅうぶん)の意味
 実質は魚であるのに、外見はあたかも竜のように見えること。転じて、正しいように見えて、実際には間違っていることのたとえ。また、表面は立派に見えるが、内実は無いことのたとえ。
【内容観察】
★「盲人であったなら、罪はない」
 目が見えないことを自覚している者は、自分を偽っていない。
★「私たちは見える」というものは、罪が残る。
 罪を認めない⇒悔い改めることができない⇒罪は残る
 クリスチャンらしく見せていても中身は変わってないとしたら、残念ですね。ドイツのNGO団体が毎年世界各国で行う調査で、今年の質問に「自国で最も腐っていると思うものは何か」というものがありました。日本では「政党、国会、宗教団体」の順で回答が寄せられたそうです。外面だけもっともらしく見せていても中身は変わっていない、という評価をされたということです。クリスチャンもこの中に入っているとは嘆かわしいことです。
 私たちの信頼しているイエス様が、腐敗していると見なされるのは心外ではありませんか。それを堂々と口に出せるような、私たちの日常生活でありたいものです。かたちだけのクリスチャン、かたちだけの洗礼や聖餐式ではなく、真心こめて神様の愛に応える心をもって、すべてのことをするのが大事です。「魚質竜文」にならないために(ヨハネ9:41)は警告しています。見せかけのクリスチャン生活を打開するために、私たちは罪を罪と認めることが大切です。目が見えないのに見えると言い張ること、見えないという事実を認めないのは嘘つきであり、偽善者です。
 罪人(病人)である自分の現状を認めることは、罪ではありません。むしろ認めることによって正直者となり、罪人でなくなるのです。罪を犯す状態(病人)が罪そのものではありません。それを隠すことが罪なのです。
 祭司もパリサイ人も律法学者も、知識を山のように持っていても罪人なのです。霊的にはやはり盲人なのです。なのに彼らは自分の得た知識によって目が見える(ここが偽善で、うそ)と言ったのです。クリスチャンになったら、目が見えるのでしょうか?今、異端の教えが日本に広まる中で、最も危険視されているのは、「一度悔い改めたら、後は悔い改めが必要ない」というものです。聖書ではむしろ、イエス様を信じた時から悔い改めの人生が始まると語っています。私たちは治療を続けなければならないものを持っているのです。もしくは病気にならないためのメンテナンスを続ける必要があるのです。病気になる(罪を犯す)前に改善(悔い改め)するのです。病人が自分の病を認めることはへりくだりです。私たちが見せかけから脱して真の健康的なクリスチャンになるために問題となるのは、赦せない心が見えていない(盲目である)ことです。なぜなら、真の愛は考えや価値観や、その他のいろんな食い違いを抱えてなお、それらを赦すことが大前提だからです。罪人同士が赦しなくして愛し合うなど不可能です。しかしそれぞれの健康度に応じて、赦せる度合いは異なります。
 「神が愛されている人だから、私も赦します。」と思えるのは、本当に健康な人です。そこまではできない健康状態の人もいます。神様はすべて赦し合える健康な社会を望んでおられます。罪をはねのける、汚れを受け付けない健康さが理想ですが、私たちの身勝手な解釈により、完成されていないことが多いのです。なぜ赦せないのでしょうか?愛の治療を受けていないからです。本当の名医は、相手の全人格も含めた治療をするものです。そして患者も受けた恩を忘れず、いつまでも尊び慕います。イエス様は私たちのために命を捨てられましたが、そこに愛を感じることができないなら「当然だ」などと言い出すでしょう。その人の心は変わりません。ですから、愛を感じることが大切なのです。
 愛を感じないのは重篤な霊的病気であり、その特徴は赦せないことです。愛を受けた人は相手の心を思い見ることができるようになり、赦せるようになります。赦せない人を赦すためには、神様の愛をもっと知ることです。これは理屈ではわかりません。神様に愛されていることが見えるようになることが、唯一の解決策です。

 

 

 

 

■2013年7月21日 日曜礼拝メッセージより(横路伝道師、辻和希伝道師、小栗伝道師)

 知恵の正しさ  up 2013.7.21


この時代は何にたとえたらよいでしょう。市場にすわっている子どもたちのようです。彼らは、ほかの子どもたちに呼びかけて、こう言うのです。
『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。』
ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、人々は『あれは悪霊につかれているのだ。』と言い、人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』と言います。でも、知恵の正しいことは、その行ないが証明します。
(マタイ11:16〜19)

 

 

 

1.人の無関心と拒絶(マタイ11:16〜19)
 ※横路伝道師メッセージ
 同じ聖書のリビングバイブル訳にはこのように書いてあります。
“あなたがたイスラエル人のことを、何と言えばいいでしょう。まるで小さな子どものようです。あなたがたは友達同士で遊びながら、こう責めているのです。「結婚式ごっこをして遊ぼうって言ったのに、ちっともうれしがってくれくれなかったよ。だから葬式ごっこにしたのに、今度は悲しがってくれないじゃないか。」つまりバプテスマのヨハネが酒も飲まず、また何度も断食していると、「やつは気が変になっている」とけなし、メシヤのわたしが、ごちそうを食べていると、「大食いの大酒飲み、最もたちの悪い罪人の仲間だ」とののしります。もっとも、賢いあなたがたのことですから、うまくつじつまを合わせるでしょうが、知恵が正しいかどうかは、行いによって証明されるのです。”
 この時代、イエス様が神の働きを始められる直前に、バプテスマのヨハネが、荒野で「悔い改めよ。天の御国が近づいた。」と叫び、イスラエルの人々に悔い改めを迫りました。これを神のことばとして真剣に受け止め、心刺された多くの人々が神の前に悔い改めの洗礼をヨルダン川で受けました。
 しかし一方、自分の罪に無関心で、悲しみ悔い改めることをしないで、ヨハネの悪口を言う人々も大勢いたのです。
 またイエス様が福音を宣べ伝え、癒しとしるしを伴う目覚ましい働きを始められ、人々はメシアの到来と大喜びでイエス様のところに行きました。イエス様は、特に人々から敬遠されていた病人、罪深い者の代表とされていた取税人、遊女たちも受け入れ、あわれみと愛を示され、救い、解放されました。そこにはまるで結婚式の祝宴のような素晴らしい喜びがありました。
 しかし、一方ではそれに対して一緒に喜べず、イエス様の愛と赦しを理解できず、批判し拒絶した人々もたくさんいたのです。
このような無関心で批判する人々を、「幼い子どものようです」とイエス様は言われたのです。
 そして、イエス様は、それらの無関心で高慢さをもって拒絶している人々に対し、「その知恵が正しいかどうかは、行いによって証明される」と言われました。今の社会も同じで、これではいけないと、悔い改めてイエス様に救われる人が少なく、正しい良心に従ってまじめに人生に取り組む人を批判する人が多いのです。神様は人の心の内側を見られます。「愛」が、行いの動機であることが大切です。いろいろと理屈を言ってつじつま合わせをするような人間の知恵は、決して良い実を結びません。
 神様の知恵とは、私たちが悔い改めに導かれ、イエス様の十字架の救いを受け入れ、罪の人生から神の子とされた新しい人生に歩むことです。無関心、無感動、見せかけの遊び事ではなく、「愛」を動機として生きる真実な生き方が、神の知恵を証明する、と言われたのです。

2.クリスチャンの生き方 ※辻 和希伝道師メッセージ
 主題聖句全体を見た時に、一方が一方を批判している場面があります。この批判される方がクリスチャンの生き方だと思わされました。何をしても批判される状況は、実際には起こりにくいことですが、もしそのような状況になった時にどう応対すべきなのでしょうか。
 「愛のメッセージを聞いているので…言い返してはいけない。」と正しい良心の反応をもって、忍耐する方が多いかもしれません。そうすると押しつぶされたような感じになり、そこばかりに視点を向けていると、クリスチャンは「いつも窮屈で忍耐を強いられる。」ということになりがちです。イエス様はいかがでしたか。十字架にかかられた時、罵声を浴びせられ、一部を除いてほぼ敵ばかりの中で、何一つ言い返すことはなさらず、逆に「彼らは何をしているのかわからないのです。」と天の父なる神様にとりなされました。私たちが模範とするイエス様がそのようにされているわけですから、私たちも似たような状況になった時には、ぐっと忍耐することが大事だと思います。
 しかし、自分を抑制しすぎる人生はつらいイメージばかりが残ってしまい、「クリスチャンにならなければよかった。」までに思いが走ってしまうかもしれません。忍耐は大事なことかもしれませんが、今回はもっと別の視点から「クリスチャンの生き方」について、三点挙げてみました。

(1)主の御名に生きる勇敢な生き方(使徒5:41)
“そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。”
 イエス様が天に上がられた後、聖霊を受けた使徒たちは力を受けて、外に出て福音を語り、いやしを行い、みわざを行いました。人々がどんどん救いに導かれる状況を見て、ねたみに燃えた律法学者たちは、自分たちは何も被害を受けることはなかったのに、使徒たちを捕え、ムチを打ちました。使徒たちにとっては全く理不尽なことです。しかし、その後の使徒たちの態度は「これは耐えなければならない。」といった悲壮的なものはなく、むしろ「御名のためにはずかしめられるに値する者になったことを喜びながら議会から出て行った。」とあります。なんとかっこいい使徒たちの姿でしょう。改めて自分が理想とする生き方だと気づかされました。語れば語るほど迫害されていく…。実際に迫害されればされるほど、信じる人が増えていったようです。使徒をはじめ、この時代のクリスチャンたちは、まさに主の御名に生きる勇敢な生き方をしていたようです。理想の姿として紹介します。

(2)知恵にふさわしい柔和な生き方(ヤコブ3:13)
“あなたがたのうちで、その知恵のある、賢い人はだれでしょうか。その人は、その知恵にふさわしい柔和な行いを、良い生き方によって示しなさい。”
 ただ勇敢に生きることだけがクリスチャンの生き方ではありません。知恵にふさわしい柔和な、良い生き方を示す生き方があると、ここで教えられます。仮に自分が理不尽なことで罵声を浴びせられたり、ひどい仕打ちを受けることがあったりした時に、相手に同じように返してしまったならば相手と全く同じであって、神様が願っておられる状況ではないですね。
 (ローマ15:1〜2)には、自分のためではなく、他の人のために、兄弟愛をもって互いに愛し合い、尊敬を持って自分よりも優れたものと思いなさいとあります。単にみことばを語って突き進んでいく勇敢な生き方だけでなく、教会内で兄弟姉妹との間で柔和な行いを示し、がまんしなければ、忍耐しなければいけないという窮屈な生き方でなく、相手のために祈っていこう、何かしていこうという良い生き方をするなら、クリスチャンの生き方はすばらしいというところに目を向けることができます。

(3)何事も主に対して心からする生き方(コロサイ3:23)
“何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。”
 「人に対してでなく」とは、見返りを求めないことではないでしょうか。見返りを求めて人々と交わりを持つ生き方は苦しいです。相手も下心を察知して苦しいでしょう。
  先日、結婚式とレセプションがありました。私自身、『お二人を心から祝福したい』思いで、お手伝いさせていただきました。多くの方の参加がありましたが(参加できなかった方も含め)お二人を祝福したいその思いは、まさに主に対してしていることだと言えると思います。その祝福の思いこそが祝宴に神様の愛が訪れをもたらし、またイエス様によって思いが一つにされてすばらしい祝宴となったと言えるのではないでしょうか。
 主題聖句の最後の「知恵の正しいことは、その行いが証明します」とあります。知恵とは、神様のことば、愛だと思います。それによって人生を歩んでいますが、その正しさは生き方そのもので証明されていくとここで語っています。今回三つ挙げたクリスチャンの生き方を私たちがすることによって、神のことばそのものが、神の愛がこの世の愛よりも勝っていることが証明されることを信じて、歩んでいきたいと思います。

3.愛によって働く信仰が大事 ※小栗伝道師メッセージ
◎この時代とは
 当時、ローマ帝国の支配の中にあったユダヤ民族は、ローマ帝国からの解放と独立を期待していました。この状況を何とか脱却させ、ユダヤ王国を建ててくれるメシヤの登場を待っていました。バプテスマのヨハネは、メシヤが来られることの道備えをするようにアピールをしましたが、「箕をもって、裁きをされるメシヤ」が来られるから「悔い改めるように」という強調がされていたようです。

◎市場にすわっている子どもとは
 市場にすわっている子どもの状況が、この時代の様相に当てはまるようです。本来子どもは未熟、不完全であり、思い通りに事を動かしたい性質があります。同じくこの時代は、自分の成功や自己愛を基盤にした生き方をした時代であり、メシヤに対しても自分が思い描いていたイメージがあったわけです。イエス様はメシヤでしたが、人々の救い、病人のいやし…という神様の愛を現されましたが、国を統治した王として君臨する姿にはほど遠いものでした。自分が思い描いていたイメージを貫くために、この子どもたちは何と言っているでしょう。
 「笛を吹いてやった」とは、自分のしたことに対して踊ってくれて当然であり、笛を吹くという自分の行動には必ず自己実現という目標があります。極端かもしれませんが、18節にありますが、嫁入り遊びとして楽しもうと笛を吹いた時に、厳格な信仰生活を送っていたバプテスマのヨハネがおそらく思い通りの反応をしなかったために自己達成ができなかったことに対して、「あれは…(見下げた表現ととれます)」と酷評し、引き下げた批判をしています。
逆に弔いの歌を詩って、悲しみを引き出し大声で泣いてくれるはずが、飲んだり食べたり楽しんでおられたイエス様に対しても「食いしん坊の…」と批判をしています。
 自分の予想とのギャップが批判の言葉として出ているのですが、どうあっても子どもの心の根底には、自分の思い通りにしようとし、自分の思いにそぐわなければ受け入れない自己愛があり、まさに「自己愛の時代」と言えます。自己実現、自己満足のためにしても、思わしくない反応にはそっぽを向くこの子どもの様子は、自分の行動に伴うはずの結果を愛することを表しています。自分が投げかけた内容に対して起こってくる反応を愛して待っているのです。そしてそうならなかったら、ひどい言葉を並べています。目の前でイエス様を見ても王国を建てるメシヤ以外考えられず、イエス様をメシヤとは捉えられず、異邦人が先に救われていく経緯となりました。要するに、思い通りにしてくれる神様が自分の幸せにつながる…という捉え方は、結局自分の思いが神様ということになります。それはいのちをかけて真剣な愛を示されたイエス様の愛に対して、「遊び」であり「ごっこ」に過ぎません。

◎「知恵の正しさ」が意味すること
 (第1コリント1:24)には「キリストは神の力、神の知恵」とありました。十字架にかかられたイエス様は、神の永遠の計画の実現となられました。神の愛そのものであるイエス様が、最終的にご自分をすべて捨てて、罪人を救うためにご自分を犠牲にして十字架にかかられた、その姿こそが、究極の愛の生き方です。いかに神の愛を表していくかが、知恵の正しさを証明します。だから、私たちは自分を愛するのではなく、イエス様がしてくださったように自分を他の方のためにささげる生き方を表すことが、知恵の正しさを表すということではないでしょうか。ですから、私たちはまず自分のできうるところで、まわりの方と愛の関わりを持っていこうとするのではないでしょうか。
 (マタイ11:4)には、バプテスマのヨハネが、獄中から自分の弟子たちに、イエス様に「メシヤかどうか」尋ねさせた時に、イエス様は「聞いたり見たりしたことを伝えるように。」言い送られました。イザヤ書でイエス様のことが預言され、事実その言葉どおりのことをイエス様はなしていかれました。みことばとその働きによって、ご自分がメシヤであることを知るようにされたように、神の愛を聞き、触れている私たちがどのような生き方をするかを神様が言われているように思います。

◎このたとえの意味すること…今の私たちへの適応
 思い通りの結果が手に入ったとしても、自分のわざにしか過ぎません。自己満足と自己実現のために生きるのかと、ここで語られているように思います。自己愛を別の言い方をすると「うぬぼれ」であり、うぬぼれて品性が磨かれるということはありません。痛みを持ったり、思い通りにならなかったときにこそ品性は磨かれるのではないでしょうか。
*参考のみことば(ガラテヤ5:6)
“キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける、受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。”
 他の方を愛する人は「〜してあげた」という言い方はしません。イエス様が「十字架にかかってあげた…。」という言い方はなさるはずもなく、私たちも自分を愛する自己満足の愛から、イエス様に愛されて他の方を愛する生き方に変えられているから、今からその生き方をするようにと、導かれているのではないでしょうか。

 

 

 

 

■2013年7月14日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 神の愛にあって  up 2013.714


正しい者たち。主にあって、喜び、楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ。喜びの声をあげよ。
(詩篇32:11)

 

 

 

 今年も半分過ぎました。愛によって歩むという目的を、皆さんどれほど意識しておられるでしょうか。ユダヤの格言に、「カリフラワーに住む虫は、カリフラワーが全世界だと思っている。」というのがあります。自分の小さな世界の習慣や物の考え方を変えられないで、その中に安住してしまうことを言います。身についた考え方を変えるのは、本当に難しいものです。クリスチャンも、自分の信仰はこのくらいでいいのだ、と自分を変えようとしなくなっていないでしょうか。
 しかし、聖書はどの時代、どの世界にも通じる神の知恵です。それを土台にしているユダヤ人達は、どんな境遇にあっても何百年もユダヤ人としてのアイデンティティーを決して失わず、しかもどんな分野でも抜きんでた優秀な民として、生きてきました。
彼らは様々な国で、いろいろな迫害を受け続けてきました。それゆえ、財産に固執するのではなく、むしろ財産をつくる知恵と技術を身につけることを教育してきました。身についたものは、決して奪われることはないからです。みなさんも、聖書のみことばにもっと興味をもって、メッセージを聞いてください。

1. 主題聖句について(詩篇32:11)(みことばは前述)
【内容観察】
 創造主の神を畏れ敬う者たち。私たちを救われた主の愛を信頼して、いつも喜び、すべてのことを楽しめ。きよい良心をもって歩むすべての者よ。神に愛されていることの喜びをあげよ。
 「主にあって、喜び、楽しめ」とありますが、この表現は、どのような意味があるのでしょうか。「主にあって」とは、「私たちを救われた主の愛を信頼して」と言い換えられます。また、楽しみとは、感謝するとも言い換えられるでしょう。快楽の楽しみではありません。どんなことでも、災いさえも、感謝することができると捉えられるのは、まさに「主にあって」なのです。
 また、「主にあって」とは、主に属する者とも言えます。神の愛の心の中に、私たちが抱かれることが可能となったのは、イエス・キリストを信じ、心が変えられたからです。つまり、良心がキリストの救いによってきよめられ、正しくされたからです。そのためにイエスさまの血が注がれました。自分中心に生きていた私たちが、神さま中心に変えられたのです。つまり、「主にあって」とは、「良心に血の注ぎを受けて」とも言えるでしょう。それは、神の愛によります。
 神の愛に触れられて、考え方が変わると、さまざまな人生の出来事に神の愛を感じ、神の知恵とわざが見えてくるようになります。そうなると喜び方や楽しみ方も変わってきます。
 (詩篇33:1)を読んでみましょう。「正しい者たち。主にあって、喜び歌え。賛美は心の直ぐな人たちにふさわしい。」とあります。賛美は、自分が音楽や歌を楽しむのではなく、自分が体験してきたことを通して神を誉め讃えることですから、良心に血の注ぎを受けた者として、神を喜び、誉め讃える楽しさを味わうことができるようになるのです。
 (詩篇35:9)「こうして私のたましいは、主にあって喜び、御救いの中にあって楽しむことでしょう。」これは、神さまの愛に触れられて、感動して、喜び楽しむという姿です。
 (詩篇56:10)「神にあって、私はみことばをほめたたえます。主にあって、私ははみことばをほめたたえます。」 自分本位で読んでも、神の御心を知ることはできません。主にあって、良心がきよめられて初めて、みことばにある神の御心を知り、喜ぶことができるのです。
 (エペソ4:17)「そこで私は、主にあって言明し、おごそかに勧めます。もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。」パウロは「主にあって」言明しています。それは自分の価値観によらず、正しい良心による、神と同じ思いをもっての言明ということです。
 (エペソ5:8)「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。」私たちは良心がきよめられたゆえに、光の子と変えられました。この世の比較社会や利己的考え方ではなく、すべては神あっての世界であり、神こそが崇められるべきお方であるということ、すべては神の愛のゆえに造られたのだという心の姿勢が光であり、光の子なのです。
 (エペソ6:1)「子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。」とあります。この子どもたちとは、幼い子どもではなく、むしろ成人前の子どもと言えるでしょう。例えば、アル中で問題のある親だったとしても、主にあって、良心に神の愛が触れた者として、その親の問題行動の背後にある親の苦しみや、受けてきた様々な傷を思いやり、親をいたわり顧みることができるようになります。
 両親だけでなく、上司やいろいろな人々に対しても、そのような優しい愛と憐れみの心で接することが、「主にあって」できるのです。

2.『異類無礙』の秘訣(第1コリント7:22)
“奴隷も、主にあって召された者は、主に属する自由人であり、同じように、自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。”

★『異類無礙』(いるいむげ)の意味
 互いに異質なものが、何のさわりも無く相互に通じ合うこと。

【内容観察ポイント】
 互いがどんなに違っていても、お互いに理解し合うことができるのはただ一つ、神の愛に属する者同士であるからです。
 社会的に、例え奴隷であっても、主にあっては自由人として生きることができ、自由人でも、主にあっては、キリストの愛の奴隷と言えます。それゆえ、どちらの立場であっても、クリスチャンは何のへだてもなく親しくでき、また、両方の立場で生きることができるのです。
 各自はイエス・キリストの身体の各器官です。目と耳という異質のものが同じ身体に属し、何の違和感もなく、むしろ互いに必要であるように、私たちは主にあって、神の愛に属する者同士として、お互いが理解し合えるのです。主にあってという前提は、良心が神の愛によってきよめられたので理解できることです。
 互いに必要であるという考え方は、愛によって初めてできます。
ひとりひとり、神は必要な存在、大切な存在として、この世に生まれさせられました。ひとりひとりが違います。しかし、ひとりひとりが互いに必要なのです。主にあって、愛する者となりましょう。

 

 

 

 

■2013年7月7日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 6月聖会を振り返って2  up 2013.7.7


「救恩神愛」(きゅうおんしんあい)
★神の愛を迎え入れ、その愛を信じきるなら、豊かな救いの恵みを受ける。

 

 

 

 先週のメッセージでは語られなかった、夏期聖会での残り3ポイントについて語りたいと思います。

「救恩神愛」
★神の愛を迎え入れ、その愛を信じきるなら、豊かな救いの恵み  を受ける。
(1)神の愛を迎え入れる
(2)神の愛を信じきる
(3)豊かな救いの恵みを受ける

1.あらゆる人が神の救いを見る(ルカ3:4〜6)
  〜ブレイクスルーアワーより〜
“そのことは預言者イザヤのことばの書に書いてあるとおりである。「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。すべての谷はうずめられ、すべての山と丘とは低くされ、曲がったところはまっすぐになり、でこぼこ道は平らになる。こうして、あらゆる人が、神の救いを見るようになる。』」”
 「救いを見る」とは神の愛を実感することであり、それが私たちの救いの実感になります。有賀先生は4つの「しなければならないこと」を挙げられました。

【内容観察】
◎あらゆる人が神の救いを見ることができるのは、
 (1)不信仰の谷を埋める
 (2)高慢と高ぶりの山と丘を低くする
 (3)不正直の曲がった道をまっすぐにする
 (4)優先順位の狂った、でこぼこ道を平らにする
★これらの共通は『悔い改め』である。
 谷を埋めるとは不信仰の悔い改め、山と丘を低くするとは傲慢の悔い改めです。不正直をまっすぐにすることも悔い改めですし、優先順位を正すことも悔い改めです。これなくして主を見ることはできません。
○否定的で、かたくなな不正直の曲がった歩みと、優先順位が定まらない心を悔い改めるなら、愛の救いを見ます。神の救いは愛の救いです。神は愛をもって私たちを顧みられたからこそ、あがないのみわざを成就してくださいました。しかし、悔い改め無しに愛を見ることはできません。
【敬聴と適用】
A)個人の悔い改めによって、その人自身、神の救いを見る
 悔い改めは方向転換です。神様の方向を向かないと愛を見られないのはそのためです。世の人々は、わざわざよそを向いているので見えないのです。
B)クリスチャンの悔い改めの生活によって、この世が神の救いを見る
 教会は悔い改めの模範です。悔い改めたらそこに希望がもたらされることの証人としての役割を、世の人々ははクリスチャンに期待しています。対して私たちは、あまりに期待外れなクリスチャン生活をしていることが多すぎます。
 悔い改めによって現される変化が世の中の人に見えて初めて、証になります。そうすれば彼らも個人的な悔い改めを通して、その救いを受けたいと希望を持つことができるのではないでしょうか。
 広島の救いは広島のクリスチャンにかかっていると言っても過言ではありません。一つ一つ悔い改めを進めていく人生の歩みを、世の中の人も知りたいと思っています。この世界では悔い改め=罪を認める=存在価値の否定、と思われがちなので、悔い改めを拒むことが多いのです。
 しかし、私たちの生活を通して、悔い改めが多いほど幸せになれると証明する事ができます。世の流れに逆らい、しかも勝利を得させてくださる神様は、力強いお方です。
C)世界が悔い改めるとき、再臨のキリストを見る
 イエス様が再臨される時、ご自身の愛の犠牲によって救われた人が一人でも多いことを願っておられます。人の世界でも裁判官や大臣などの人々は、罪人に死をもたらす事のできる自分の職務を快く思ってはいません。ましてや愛の神様は、みなが救われて天国に入れることを心から願われています。全世界に福音が宣べ伝えられてから終わりが来るのは、そのためです。イエス様を悲しませないために、良い悔い改めの証を、神の前に歩んでいきた
いものですね。

2.おことばどおりになりますように(ルカ1:45)
  〜プレイヤーアワーより〜
“主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。”
【内容観察】
「主が真実な愛をもって語られたのだから、その事は必ず実現するに違いないと、神の愛を信じきった人は、幸せの絶頂の中で神の愛にあふれることでしょう。」
【敬聴と適用】
あなたは、どのようなときに『信じきる心』を決意できますか?
(1)信じきるしか手段がない。
 苦しみもだえ、人生が頭打ちでさまよってきた人がイエス様に出会うなら、「これ以外に頼るものがない」とすがるでしょう。しかし、信じ方としては△くらいです。「他にないからしょうがない」は、良い信じ方ではありません。
(2)権威と秩序を重んじて信じる。
 誰か上位の存在からの言葉であるから、という信じ方です。これは信じ方としては☆くらいですね。
(3)愛による絶対的信頼。
 愛している相手からの言葉なので100%信じるという信じ方です。たとえ結果が望むものでなくても、信じ続けます。これは◎の信じ方です。
 私たちの理由は神様が愛だからです。結果は関係ありません。マリヤは結果を恐れずに「おことばどおりになりますように」と言いました。神様を愛していたから、処女にもかかわらず妊娠するという、世間から見れば死刑間違いなしの結果が推測できても、受け入れました。神を愛する敬虔な心がそうさせたのです。この愛以外に恐れを締め出す方法はありません。反対に、欲に動かされてそれを信じきって行動するなら、その実に破滅をもたらすでしょう。

3.主の恵みの年を告げ知らせるために(ルカ4:18〜19)
 〜セレブレーションより〜
“わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。”
【内容観察】
「主の愛そのものである御霊がわたしのうちにおられる。貧しい人々に神が愛を注いでおられるという良い知らせを伝えるために、愛の力を注いでくださった。主はわたしを遣わされた。罪の奴隷となっている人に赦免を、真理に対して盲目な人には開かれることを、弱肉強食の世界で軽んじられている人々を解放するという、無条件で差別がなく無代価の愛の賜物が与えられることを告げ知らせるために。」
 恵みの三原則は無条件、無差別、無代価です。イエス様ご自身も、御霊を注がれ、愛によって恵みについて宣べ伝えられました。私たちはイエス様の使命を引き継いで、この世界に留まっているのです。主の愛があなたに注がれたのは、あなたが遣わされるためです。捕われ人、盲人、しいたげられている人々に、無条件、無差別、無代価の神様のすばらしい愛を受けることができるという良い知らせを語るようにと、遣わされます。神様の愛を知らない人にはできないことです。ですから神様は、愛であられる御霊を注がれるのです。
★神の愛を受け取っている人が、このことを告白すべきです。
 私たちはキリストのからだなので、イエス様にそうされたように、私たちの上にも御霊がおられます。(ルカ4:18〜19)のみことばは、そっくりそのまま私たちにも当てはまるのです。今自分に与えられている持ち場、立場、環境は、福音を宣べ伝えるためにあります。「こんな私などに宣べ伝えることができるものか」という人のためにも、神様は愛を注いで、罪のあがないのために御子を通した裁きを身代わりに受けてくださいました。決して立派な人たちだけが対象ではなく、立派でない人も対象にしっかり入っています。
 その愛をあなたがたが知れば知るほど、確信を持って語ることができます。神様の愛をよく知るためには、「おことばどおりになりますように」と信じきることができる体験が必要になります。信じきることができるためには、神様の愛を見ることが必要です。すなわち、方向転換をして、「ああ、神様の愛はこれなんだ」と自分自身で心の目で見ることが肝心なのです。すると世の中の人は、自然にあなたの生き方を見て、「福音って本当なんだな」と悟ることができます。
 神様の無条件で無差別で無代価の愛を告げ知らせるために、私たちは今ここで神の愛に満たされています。満たされない人は、悔い改めの方向転換をしていないことが原因ではありませんか?
神の前にへりくだって、自分の罪を教えていただきましょう。主の恵みの年を告げ知らせると、愛に励まされた心ができます。励まされた心は、その心をさらに一新させていきます。そして最後には、その愛の力に満たされるのです。これが主の恵みの年を告げ知らされた者が歩む3段階です。
それぞれ愛の力に満たされるところまで、主の恵みの年をしっかりと受け止めていきましょう。