■2013年6月30日 日曜礼拝メッセージより(小栗伝道師、辻和希伝道師、横路伝道師)

 6月聖会を振り返って  up 2013.6.30

 

 

小栗伝道師・辻 和希伝道師・横路伝道師 メッセージより

 有賀喜一師を迎えて行われた6月聖会(6/20〜6/23)の6回の聖会の中から、3回の聖会メッセージを主題としました。
 
 <主題>
(1)深みに漕ぎ出しなさい(ルカ5:1〜11)
(2)火のジェネレーションになろう(ルカ12:49)
(3)実りは多い(ルカ10:1〜9)

(1)『深みに漕ぎ出しなさい』(ルカ5:1〜11)
 《小栗伝道師メッセージ》 〜サーバントタイムから〜
◎今いるところから、少しでも神様に近づく歩みを始めましょう。

1.深い挑戦(ルカ5:4)
“話が終わると、シモンに「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりな
さい。」と言われた。”
 神様のことばを聞きたいと渇いていた群衆を尻目に、世通し何も取れなかった漁の網を洗っていた漁師たちはさえない心境だったに違いありません。私たちも自分のわざを行ったにも関わらず、実を見ない状況であれば、つらい話です。おもしろいことに3節には、イエス様は岸辺に止めてあった二そうの舟をご覧になり、シモンの持ち舟に乗られたと書かれてあります。つまり、選びは神様がなさるということです。私たちが神様を選んだのではなく、神様の方が私たちを選ばれたのです。
 それまで群衆に向かって話されていたイエス様は、話を終えられると、徹夜の疲れもあり舟の中で話を聞いていたかどうかは定かでないシモンに向かって、4節のことばを語られたのです。その人を選ばれた神様が、その人がどんな状態であろうと、疲れて何も収穫がなかったというような時にも、その人に必要なことば、主のことばを語られるのですね。
 漁師の経験豊かなシモンたちが一晩中かかって獲れなかった中で、「深みに漕ぎ出して…。」ということばは、まさにチャレンジです。主が言われたなら、「その通りにする」というのが私たちが受けているチャレンジです。
*常識をくつがえす〜
 深いチャレンジという時、今までこの世のやり方、自分の方法…等で考えていると、イエス様からのとてつもないチャレンジのことばを頭から無理と決めつけて、とりかかりもしないでしょう。自分の敬虔に基づいた判断は、尊い神様の働きを否定してしまうのです。
 シモンを見るとよくわかりますが、イエス様のことばに従った後、彼の人生は全く変わりました。神様のチャレンジにどう応えていくか。ひょっとして、自分を見て、自分の状況を見て、神様が語られていたのに払いのけてはいないでしょうか。神様は、神の視点から見られて、「あなたに今このことばをあげます。」と今その人に必要なことを語られることを、この4節から見ることができます。
 「夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。」というのは現状であり、人間的な見方です。しかしシモンは「おことばどおり(あなたの語られたことばを信じて)』、そのとおりにしました(大事なことばだと思います)。そして大漁となりました。イエス様は、大漁になることをあらかじめ示しておられたわけではありません。あくまで信仰の行動をもって行うことをイエス様は見られ、事実シモンがそのとおりにした時に、シモンの漁師としての経験値をはるかに超えた神のわざがなされたのでした。神様が語られた時に、いかにそれに従っていくことが大切かを思わされます。

2.深い聖別(ルカ5:8)
“これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」と言った。”
*主の圧倒的な深い主権を知る
 すべてを統べ治められる神様のすごいわざを目の当たりにして、一人の罪深い人間が立ちおおせるはずはなく、圧倒的な臨在の前には、ひれ伏して「罪人」であることを思い知らされるのです。
*自分の罪深さを知る
 ダビデは姦淫の罪、殺人の罪を隠して生き続けようとしましたが、神様は預言者を通して罪を指摘され、ダビデははっきりとそれを認めました。隠している罪をも認めていくとき、ますます深い聖別の過程へ入っていくと思います。
*主のあわれみの中で生かされていることを知る
 3度主を否んだペテロは、その記憶に打ちのめされ続けたに違いありません。そんなペテロによみがえられたイエス様は「わたしを愛するか」と3度も尋ねられ、ペテロの思いを確認された後、主の働きを言い送られているのは、ペテロへの赦しの意味に他なりません。

3.深い献身(ルカ5:11)
“彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。”
 イエス様に従うとは、イエス様の弟子になることです。漁師が他にとって変わるはずのない舟を陸に着けるとは、価値を捨てることです。自分がよしとし、すがりついてきた人間的な価値観を捨て、まず神様の愛の価値観、神の領域、神の視点に生きていくことこそ、何もかも捨てるということではないでしょうか。
 深みは当然足が届きません。神様の愛の深い領域に漕ぎ出した時に、私たちはイエスの価値観に学ぶ者として、失敗をしても十字架で赦し、やり直す人生をくださっていることを感謝します。神のことばに従う者でありたいと願います。

(2)『火のジェネレーションになろう』(ルカ12:49)
 《和希伝道師メッセージ》〜シャイニング・ジェネレーションから〜
“「わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。」”
◎あなたの心は燃えていますか?
 有賀先生のお姿に、まわりに炎があるかのような圧倒的な迫力と、みことばを土台にされて語られることばの力と、目に見えて心が燃えておられる様子を見せていただきました。
 (ルカ12:51)には、イエス様が地上に火を投げ込むために来られたのは、分裂をもたらすためとあります。この火の役割は、裁き(創世記〜ソドムの町に対して、黙示録〜終末のすべてを焼き尽くす火)、守り(出エジプト〜火の柱)、聖霊様(バプテスマのヨハネの「イエス様は火のバプテスマを授けられる」の発言)等々考えられます。イエス様がこの地上に来られたことによって、福音を聞いた人が信じるかどうかの二択に分かれるように、火によって心を燃やすかどうかの選択を迫られる状況に追い込まれるのではないでしょうか。
 マタイに出てくる10人の娘のたとえ話では、賢い5人の娘は油を準備しており、愚かな5人の娘は準備していませんでした。準備をしておかないと、火が降って来ても心が燃えないまま、自分とは関係がないような状態にすらなってしまいます。

1.神は、私たちに熱くあってほしいと願われる。(黙示録3:15〜16)
“「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。」”
 おわかりのように、中途半端が一番よろしくないということです。沸いていない湯を注いだカップラーメンは、中途半端で非常においしくなかったです。神様に対しての姿勢で考えると、頼ろうにも頼る力さえない状況の人ですと、神様もあわれみを注がれるでしょう、しかし、神様に対する姿勢、頼る信仰が中途半端で、自分の力で何とかやろうとしている状況の人には、神様も手を差し伸べにくいのではないでしょうか。神様に熱すぎるくらいでありたいと心から願っています。

2.御霊の一致を熱心に保つ(エペソ4:3)
“平和のきずなで結ばれて、御霊の一致を熱心に保ちなさい。”
 クリスチャン生活でなくても、熱心さは、趣味や家庭での生活の場面でもいろいろ見られると思います。しかし、ここで「御霊の一致を熱心に保つこと」を挙げさせていただいたのは、今のこの教会に求められていることだと個人的に思わされたからです。祈りの積み重ねをさらに続け、今までと違う聖霊様との体験が与えられる礼拝に必ずなっていくと思います。
 しかし、何もしないで御霊の一致を保つことができるはずもなく、維持するためには、何かの力を働かせることが必要です。こ
のみことばに「熱心に」とあるように、熱心を保たないと、すぐに世の中のものによって、熱心に保っていたもののバランスが崩れてしまいます。だから、心を燃やして熱心に御霊の一致を保とうではありませんかと、神様がメッセージをくださっていると信じて、このみことばを受け入れたいと思います。
 私の子どもたちは、大好きなおもちゃを買ってもらえることを信じて、発売の日まで父親の私にくどいほど念を押し続け、さらに当日も確認してきました。その姿勢に、念願のものを必ず手にするまで求め続けようとする熱心さを見る思いでした。

(3)『実りは多い』(ルカ10:1〜9)
 《横路伝道師メッセージ》 〜ミッションタイムから〜
〔3つの質問〕
●私たちはどこにいるのか
 〜終わりの時代、聖霊の時代、教会の時代、救いの時代、収穫 の時代
●私たちは誰であるか
〜神の子、祝福された者、収穫をする働き手、神の愛の証人
●私たちは何をすべきか
〜聖霊の賜物を用いて、神の愛に満たされて、証し人として出て 行く
◎神の(愛の)視点で見る(ヨハネ4:35b)“「目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。」”
 「実りが多い、チャンスがたくさんある」とは神の視点であり、現状を見て憂いを覚えるのは人間の視点です。アフリカに靴を売りに行った営業マンが、裸足ばかりの人を見て「売れない」と思ったのは人間的視点であり、社長は「売れるチャンス」と神様の視点に立っていました。
 特に救いに関しては、神の愛の視点で見てください。多くの滅んでいく人を見過ごしにすることはできない、親族に友人に知人に近所の人に…語らずにはおれない愛の思いは、神様の視点です。また、ある女の子は、すべてを所有しておられる神様の子として、まわりにあるすべてのものを自分の所有として見ていました。神様の視点で見ると、いつも幸せです。神様は、私たちに神様の視点で見るように勧めておられます。

◇ルカ10章に見る、イエス様の弟子派遣の4原則
1.祝福する(ルカ10:5)
“「どんな家に入っても、まず、『この家に平安があるように。』と言いなさい。」”
*救いは相手を愛し、祝福することから始まる
 出会う人に「神様の祝福が及びますように」と祈るのは、すごいプレゼントなのです。訪問する前に祝福を祈ると、その人たちに祝福が及び、拒まれても祝福は祈った人に返ってきます。

2.交わる(ルカ10:7〜8)“「その家に泊まっていて、出してくれる物を飲み食いしなさい。」…”
*出される物を飲み食いするとは、相手を受け入れること。
*柔らかい心は、霊の交わりから。
 食べ物に限らず、相手から提供されたものをそのまま受け入れるのは、相手の気持ちを受け入れることです。内容ではなく、交わりをすることがポイントです。

3.病人をいやす(ルカ10:9)“「そして、その町の病人をいやし、…」”
 こうして良い人間関係ができて、必要が語られてくるようになります。
*霊的権威の実践〜愛がいやしと解放の原動力

4.福音を分かつ(ルカ10:9)
“「…彼らに『神の国が、あなたがたに近づいた』と言いなさい。」”
*愛によって福音は伝わる
 神様はその人をいやしたいと願っておられますが、そのためには相手が柔らかい心になり、受け入れられてから初めてスムーズに行くということではないでしょうか。またこの流れでなくても、聖霊様がその人にピッタリの導きをなさることもあります。要するに神様の視点で考えることが大切であり、視点を変えて困難な状況でもチャンスと思えるように肯定的に思いを変えられていくことが大事です。多くの人が神様から離れている状況を、神様に帰るチャンスだと…。うまく行かない時も、祈って神様のすばらしさを見るチャンスだと受け止めましょう。
◎可能性のある人からまず始める。
 一人から始めましょう。誰に愛を伝え、親切をしていきましょうかと祈りましょう。
◎もっと多く、質のある祈りを(確信、宣言、感謝の祈りを)
 「こうなりますように…」の祈りから、「神様は、○○さんを救われます。」と宣言し、確信をもって前進し、感謝に変わる祈りになります。これが質のある祈りです。
◎愛の人となる(聖霊の実と賜物の両立)
 愛によって用いるために、これらは与えられています。人間の視点では難しいことも、神の視点では「できる」と言われています。神の視点にかえりましょう。

 

 

 

 

■2013年6月23日 日曜礼拝メッセージより(有賀 喜一師)

 主の恵みの年を告げ知らせるために  up 2013.6.23


それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。
「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、
主の恵みの年を告げ知らせるために。」
イエスは書を巻き、係りの者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。
イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」
(ルカ4:16〜21)

 

 

 

 三つの挨拶のことばをお互いに交わしましょう。
 「主は最善をなされます!」
 「祈れば変わります!」
 「あなたは歴史の主役です!」
 ロシアのノーベル賞受賞者のアレクサンドル・ソルジェニーツィン氏が日本に来られたことがあります。彼は熱心なクリスチャンでした。
 ロシアの厳しい共産圏下で、彼は強制収容所に入れられ、何年も厳寒の中、過酷な労働を強いられました。体力が弱まり、ある時、血痰を吐き、もう駄目かと思ったその時、見知らぬ老人が突然現れ、目の前の地面に、黙って十字架を描きました。その十字架を見た時、「十字架のことばは滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力です」という聖書のことばが鮮明に心に浮かび、その瞬間に彼の結核と癌は癒されたのです。彼は、その後アメリカに亡命します。後に、ソ連が崩壊し、ベルリンの壁も壊されるという誰も想像すらしなかったことが起き、彼は祖国に、正式に招待され、栄誉をもって迎えられるという素晴らしい経験をしました。
 彼が日本で、講演をした時、日本には3つの節目があると語りました。まずは、明治維新の時で、鎖国から国を開いたとたん、日本はいかに他の国に遅れているかを知り驚愕します。その時日本が頼ったのは「軍事力」でした。二番目に戦争に負けた結果、日本は「経済力」に頼ります。そして見事に日本は敗戦から復活します。しかし、バブルがはじけ、様々な問題が起きてきた今、初めて日本の人々は大切なのは心ではないかと考えるようになりました。彼は、今度こそ日本の人々は「心の力」を求めてくださいと語りました。
 人の心は変わりやすく弱いものです。しかし、聖書はみなさんの心の力となります。その聖書からルカ4:16〜21を読んでみましょう。この箇所は、イエス様が30才で公生涯を迎えられた時、最初に語られたことばです。これから、どんな働きをされ、どんなことが起こるかを最初に宣言された箇所です。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」と宣言されたのです。
 私たちは、イエス様が宣言された、まさにその「恵みの年」の中に生きています。聖書の一番はじめ、創世記一章一節には「はじめに神が…」とあります。
 同志社大学の創設者、新島襄は、このことばで救われました。
聖書は真理です。みなさん、聖書のことばを実践してください。
天地万物を造られてから、神は人間を創造されましたが、人間は堕落し罪を犯してしまいました。しかし、その直後に、神は既にイエス・キリストによる人類の救済を計画されていたのです。そして、時至って、イエス・キリストは処女マリアより生まれられ、十字架ですべての人類の罪を背負って贖罪の業をなさり、三日目によみがえられました。そして、今新しい神の御国の建設にとりかかっておられます。
 このことを通して、どのような暗闇、どのような試練にあっても、神は必ずすべてを光へと変えてくださり、新しいものを創造してくださるお方だとわかります。これは聖書的事実です。そればかりでなく歴史的事実でもあります。
 かつて、イスラエルはエジプトで奴隷であった時期があります。しかし神はモーセを遣わし、エジプトから民を引き出し、ついにはヨシュアによって、今のイスラエルの土地に導かれました。まさに歴史は神がつくっておられ、導いておられます。神は応える方であります。
 クリスチャンはこの旧約、特に出エジプトを読んで、神がいかに歴史に介入されるかを知ることができます。民のために、神は紅海を分けられたり、いざという時には超自然的な力をもって解決してくださったりされる方であるとわかります。
 そして、今、私たちクリスチャンにとって、イエスさまの十字架と復活こそ、救いのよりどころです。私たちの人生にも、神は不可能なことを可能としてくださると、個人的事実として、知ることができるのです。
 三浦綾子さんの講演会に行った時、彼女は開口一番、「私にとって、毎日が感動の連続です。」と言われました。「私にとって不可能であったことを、キリストが可能にしてくださったからです。」と。なんという新鮮なすばらしいクリスチャン人生でしょうか。
 
 私は6人兄弟の末っ子でした。12才のとき、親友が突然死しました。その時、私は死んだらどこにいくのかと心配になったのです。神道と仏教しか知らず、極楽に行けるようになるために、私は早朝から始めて、一日中考えつく限りの修行に励みました。しかし、2年間の修行後、神主さんにきいてもお坊さんにきいても、死後どこへ行くかは、死んでみないとわからないと言われるばかりだったのです。悩んだ挙げ句、遂にそれなら死ぬしかないと決心し、鉄道自殺を図りました。汽車の前に「殺せ!」と飛び込んだのですが、私は小柄でレールの間にうまくはさまってしまい、汽車は私の上を素通りしていきました。私は無傷で助かったのです。しかし、私は絶望しました。
 やがて、大晦日に、寺に向かって歩いていると、私の前に上級生が立ちふさがり、「おまえはどこに行くところだ?」ときいてきました。「お寺です。」と言うと、「何のためだ?」ときいてきます。「罪を赦されて救われるためです。」と説明すると、「それなら教会に来い。」と言うのです。嫌だと逆らうと、とうとう有無を言わさず、武道に達者な先輩に組み敷かれて、まるで連行されるかのようにして、私は教会に連れて行かれました。
 こうして、初めて行った教会で、初めて聞いたメッセージで、私は4つのことがわかったのです。それは、一つは、神はただひとりであるということです。父はひとりであり、八百万もいないということです。そして、2つ目は、人間はいかに外見を装っても、内側は醜く、罪深いものであるということです。3つ目は、目に見えない神が人間になって表れてくださったのがイエス・キリストであるということです。この方が十字架で人類の罪を負ってくださり、黄泉に下られ、三日目によみがえられた生きた救い主であるということです。最後に、難行苦行ではなく、贈り物を頂くように、信仰によってイエスさまを受け入れるなら、その瞬間に救いが実現するということでした。何年修行しようと、死んでみないとわからないと言われていた救いが、聞いて、信じた瞬間に実現するということ、なんと素晴らしいことでしょう。
 私はその晩、イエス・キリストを救い主であると受け入れました。そして、「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪はゆるされたのだ」というみことばを与えられて、救われました。その日から今日まで、66年間、一度も後悔したことはありません。一度もつまづいたことはないのです。神さまの恵みの中に守られ、今、親類70名がクリスチャンとなっています。これが、個人的事実です。「主の恵みの年」は、聖書的、歴史的、個人的事実なのです。

 「主の恵みの年」には三つの原則を見つけることができます。第1番目、それは、聖霊の原則です。(ルカ3:21、22、4:1、14、18)イエスさまは神の子ですが、いつもご自身によらず、聖霊によって実践力をいただいていました。人間の努力ではどうにもならないことがあります。原爆や地震のような災害、また、必ずやってくる死があります。また、心にある罪も、わかっていてもやめられません。神が与えられる霊によってのみなされるのです。イエスさまもこの聖霊さまのご人格である聖さ、愛によって歩まれました。私たちもこの聖さ、愛によって整えられます。
 また、聖霊はいのちです。私はクリスチャンになって1年間迫害されました。母は「二度と家の敷居をまたぐな。」と言ったのです。しかし、その後神学校にいる私に手紙が来ました。母はなんと救われていたのです。実家の隣の若奥さんが病に倒れ、亡くなる時、「助けて、地獄に堕ちて行く!痛い!辛い!」と叫び続け、ご主人がおまえをそんな所には絶対行かさないと抱きしめていたのですが、遂には「ああ〜!地獄に堕ちて行く〜!」と断末魔の叫び声を上げて息絶えてしまったのです。母はそれをかたわらで見ていて、仏教を信じているのに、いざという時、何も言えない自分、大丈夫、地獄には行かないからとも何も言えないことに打ちのめされたのです。息子の信仰を迫害していたのに、自分は仏教を信じていても何も言えない、その時、教会に本物があるのかもしれないと思い、教会に行って、メッセージを聞いて、その一回で救われたのです。
 次に、御霊は力です。神の力です。無限の超自然の力です。求め、信じ、従っていく時に聖霊が与えられ、力が与えられます。
 ジョン・ウェスレーは御霊に満たされた人でした。彼が路傍で伝道していた時、三人のひとが、レンガを投げつけてやろうと、待ち伏せしていました。ところが、その三人のうちのひとりが「あいつはウェスレーだけど、ウェスレーじゃないみたいだ!」と言いだし、二人目は、「神のようだ!」と言い、三人目は「神のようだが、人だよ!」と言い始めました。そして、三人ともレンガを置いて立ち去ったのです。彼らは、聖霊に満たされて、福音を語っているジョン・ウェスレーに神の栄光を見たのです。
 私たちも聖霊によって、人格が輝き、いのちを受け、力にあふれることができます。聖霊に満たされましょう!
 次に、イエスさまは福音を伝えるように言われました。福音は良い知らせです。人間は、先ほど言いましたが、「運命・罪・死」に誰も勝てません。しかし、これらに勝利されたのがイエス・キリストです。イエスさまは馬小屋で生まれ、処女マリアから結婚前に生まれられました。罪の遺伝を受けないために、処女降誕が必要だったからです。そして、何の罪もない超自然的な人生を歩まれました。完璧にきよい人生を歩まれたのです。それゆえに全人類の罪を負うことができました。そして、十字架で死なれ、復活されたのです。これが、福音の絶対性です。母はこの福音に出会って、仏教は良い教えにすぎない、しかし福音には絶対性があるとわかったと言いました。
 
 2つ目は福音の究極性です。仏教では供養し続けなければなりません。それは、ひとりの人では人生で全うできないので、残った人が代わりにその人の追善供養ということで、供養し続けなければならないと考えるからです。ところが2番目の人も亡くなると、今度は3番目の人が供養し続けないとなりません。いつまでたってもいたちごっこで、完成しないのです。仏教に究極性はありません。そのため、輪廻転生という仏教の教えが出てきたのです。しかし、イエス・キリストは一回限りで救いを完成されました。これが福音の究極性です。何一つ付け足す必要などないのです。
 次に、福音の独占性があります。私たちの身代わりとなり、イエス・キリストだけが、救いを全うして下さったのです。キリストの十字架と復活の勝利です。つまり、福音は十字架と復活による救いであり、聖霊によるきよめです。
 また、福音は生けるキリストによるいやしであります。母がクリスチャンになっても、父はなかなか救われませんでした。そして、喉頭癌になったのです。その時、私は母と一緒に父の癌がいやされるように祈るから、いやされたらイエスさまを信じるかと父にききました。父はいやされたら信じるしかないだろうと言ったのです。そして、見事に父はいやされたのです。医者がびっくり仰天して、奇跡だと言いました。
 また、福音は力ある聖霊による解放です。いい人ほど悩みます。しかし、思い煩いは良くありません。そういう悩みや、また過去の傷のどうにもならない痛みをも、聖霊が臨まれる時、解放が与えられます。この福音の全部を信じ、生き、伝えていきましょう!
 
 最後に、恵みとは、無条件です。この世では結婚相手を選ぶとき、条件をつけます。しかし、イエス・キリストの救いは無条件に与えられます。そして、無差別であり、無代価に与えられます。
 A・D300年、アウグスティヌスという人がこの恵みによる救いを、初めてカソリックで発表しました。彼は堕落した生活を送っていた時、子供たちの取って読めという遊び言葉を聞いて、思わず聖書を開きました。その時開いた箇所もみことばから彼は罪を捨て去り、新しくされるという経験をしたのです。
 恵みによる救いとは、聖書から知っていても、私たちはともすると、恵みではなく、努力による救いにすり替えてしまいます。最初はイエスさまを信じて始めたのに、いつの間にか、何かをしないと、すべきという努力に変わってしまうのです。しかし、信仰は最初から最後まで「恵み」です。恵みは努力ではなく、神がキリストを通して、無限に顧みてくださるということです。
 
 私たちの人生は、この「聖霊・福音・恵み」というキーワードで祝福されるのです。すべての領域において、霊、心、身体、経済、家庭、国家、等祝福されるのです。それゆえ、心配を捨てて、恵みによって神に求め、積極的に祈っていきましょう。できないではなく、できると確信を持っていきましょう。神はあなたを通して、あらゆる領域で祝福してくださいます。

 

 

 

 

■2013年6月16日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛を待ち望む  up 2013.6.16


ヤコブよ。なぜ言うのか。イスラエルよ。なぜ言い張るのか。「私の道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている。」と。
あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。
疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。
若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。
しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。
(イザヤ40:27〜31)

 

 

 

 愛は相手の望みをかなえることではなく、相手の徳を高めるものです。聖書ではそれを「永遠のいのち」と言っています。「永遠のいのちとは神ご自身を知ること」ともあります。神は最も徳の高い方であり、崇高な方です。そして愛そのもののお方でもあります。愛は心を喜ばるものであり、快楽の欲求を満たすものではありません。人の徳を高め、人格を高め、永遠のいのちに至るように働きかけていくものです。自分の願いをかなえるために相手を選んだり使ったりするものは、決して愛ではありません。それは変化し、消費されていきます。相手がどういう能力や性質であっても、その人ができるだけの精一杯をなせるように手助けし続けるのが本当の愛です。
 この健全な愛を持つためには、まず自分自身が愛されて、その愛がどんなものかを知ることが必要です。愛されてこそ、愛することができるようになるのですから。だから私たちは、聖書のみことばの知識と共に、人生の体験を通して、神がどのように愛してくださったかを学びます。それは親に育てられていく子どものようです。この神様の愛を待ち望むというのが今日のテーマです。

「愛は新たな力をもたらし、大空の王者である鷲のように力強く愛に生きることができる。だから、神の愛である御霊に満たされるように待ち望む。」
 
 愛のうちを歩み続けるには、新たなる力が湧き上がってくることが必要です。私たちには神様のような無限の愛がありません。周りの人々を愛し続けるには、神様からの愛を常に受け続けることが必要です。
 世の人々も常に新しい愛を求めています。慣れてしまったものは古くなり、新しい楽しみを求めてさまよい続けるのです。しかし、私たちは既に創造主から愛されており、愛そのものである方から愛を受けています。私たちのなすべき事は「愛をする」ことだけ、です。全ての人はこの事実に気づくべきです。
 愛に満たされた人は、その愛をもって他の人や物事に対して親切をしたくなるものです。神様の教えは、本来あるべき人の姿に戻すためのもので、決して特殊な生活を求めているのではありません。今の社会は欲望をかき立てるものでできていますが、欲望には自制心がありません。正しい愛は、自制心を働かせつつ、社会を発展させることができます。この違いについて、各々の心をしっかりと見つめて、いつも健全な動機、健全な愛で、良い人生を送ることができるように、愛を追い求め、待ち望んでいただきたいと思います。

1.『匪石之心』で待ち望む(イザヤ40:27〜31)“みことばは前述”
 あなたが人生に疲れる時、同時に愛も弱ってきています。人が生きるためには、愛の力が必要です。飲み食いも、仕事も、勉学も、すべては愛するため、愛する者のためになしています。もっと大きな視点から言えば、すべての人が愛し合うことができるために、私たちの自然の営みは行われています。
 この目的を見失うと、自分の欲望を目標に置かざるを得なくなります。私たちに与えられたすべての「差」は、お互いを助け合う愛の実行のためです。愛を知った人はこのように捉えることができます。たとえ言葉やはっきりした思いにならなくても、神様の愛を心の内に感じることができれば、愛をすることができる人になります。神様の愛は、的外れな生き方をしている私たちを救うためのイエス様のご生涯によって証明されています。
 この愛は非常に理性的であり、道徳的にも優れたものです。この愛を目指すということは、世の中の人々からすれば、驚くべきことなのです。神様の純真なきよい愛の力を私たちの上に湧き立たせるために、大事なポイントが「匪石之心」です。

★『匪石之心』(ひせきのこころ)の意味
 節操が固く揺れ動かない心を指す。
 石ころのようにころころ転がっていく無節操なものではない、ということです。
 私たちに置き換えると、「イエス・キリストを通して表された神の愛を、節操をもって固く信じ、主を待ち望むこと」となります。神様の愛は、イエス・キリストの人生を通して現実に現されました。その愛に対して、素直に純真な気持ちをもって、節操を保ちましょう。神様は変わることのない純真な愛をもって、あなたを今も愛してくださっています。「私の出来不出来ではなく存在そのものを愛し、愛を注いでくださっているお方だ」と信じ続ける心で、神の愛を待ち望む姿勢をこの四字熟語で例えてみました。
 このように神を信頼し待ち望む心に、神は新たな力を与えてくださるというのが、重要なポイントです。

【内容観察】
◎27節
「軽んじられている→疲れておられて、ほったらかしにされている。」
 人は疲れてくると、大事なことをおろそかにしてしまいます。そのように神様が疲れておられるから、自分のことをかまってくれないのではないかと疑う気持ちです。その根底には、自分の思い通りにならないことへの不満があります。
 神様の御手を待てるかどうかを、神様は試されます。願いがすぐにかなうと、人はわがままになります。人が互いに愛をもって自制することを願う神様は、わがままにならないよう、愛によって教育をされます。「神はいない」と言うことは、「愛などない」と言うことに等しいのです。子どもがわがままなまま大人になると、欲望が制御できません。現在その状態の大人が多くいますし、クリスチャンでも霊的にわがままな子どもである人がいるのではありませんか?神様は賢い親なので、わがままはかなえられません。
◎28節〜29節
「主に対する正しい知識を持つように励ましている。」
(1)永遠の神であられるお方
(2)地の果てまで創造されたお方
(3)疲れることのないお方
(4)たゆむことのないお方
(5)測り知れない英知を持っておられるお方
(6)疲れた者に力を与えられるお方
(7)精力のない者には活気を与えられるお方
 
 神様を正しく知っていないから、不平不満を持つのです。(1)〜(7)をまとめると、「世界は愛なる創造主を中心に動いている」と言えます。決して自分という一人の人間中心にはなり得ないのです。万物は愛によって存在し、機能する原則からすれば、病気さえこの原則に従っています。
 神様が愛なるお方であることは永遠に変わらない真実です。このことを悟るために、時間という試金石が存在します。時間は余分なものをそぎ落とし、願いを確固たるものにします。人が誰かを待つのは、相手が約束を守ると信じているからです。神様は約束を必ず守る方ですから、時間を決めてなくても待ち続け、信頼を確固たるものに純化させていきます。自分勝手な思いや疑いは、時間を経ることによって試され、偽物は流れ去ってしまいます。そして正しい動機に戻った時、神様は新しい力を与えてくださいます。私たちは創造主なる神様に正しい理解をもつことが必要です。信頼する心が定着すれば「匪石之心」となり、鷲の翼をかって舞い上がっていくことができます。
◎30節
「どんなに活力が満ちている者でもいずれ疲れ、つまずき倒れてしまう。」
 もう一つ気づかされるのは、若者ゆえの未熟さです。彼らは人間の弱さを、本当の意味では悟れていません。たとえば年配の方の辛さが理解できません。しかし、熟練者は、人には限界があることをよく知っています。弱さを知った人はあわれみ深くなります。神様は私たちに弱さを味わわせることで、互いにあわれみを持つようにしむけられます。自分の限界を周りが受け止めてくれれば、人は安心できます。他の人も同じで、自分の限界を認めてもらいたいし、認めてもらえれば安心できるのです。限界を認めることは、あわれみを施すことです。弱さを知り、限界を悟った人は、自然にあわれみ深くなります。
◎31節
「主を知っている者は、主を待ち望む。なぜなら、神は愛であるお方であり、鷲のように若返らせてくださるお方であることを知っているか
らである。待ち望み続けて新しく力を得た者は、走ってもたゆまず、歩いても疲れてしまうことはない。」
 主を待ち望み、愛を待ち望む人とは、創造主が愛であられることを固く信じている人です。神が愛であることを信じているなら、私たちも待ち続けることができます。
 クリスチャンは皆、一度はその愛に会っています。しかし、愛に触れ続けないと疲れてしまいます。神様の更に大きな愛に目が開かれて行くように、待ち望むことが必要です。
 「匪石之心」をもって主(愛)を待ち望むと、鷲のように新たな愛の力が湧き上がってきます。これが原則です。自分の周りの人に対しても、信頼してあげることが相手にとっての大きな力になります。それは盲目的な思い込みではなく、相手を良きものへと成長させるための、根本への信頼です。神様が愛であることを信じられなくなれば、神様の存在自体も信じにくくなります。自己中心なものの見方は、格差や不公平を受け止めることができません。
 問題解決の糸口は、創造主なる神様の愛を信じることです。愛をもって創られた世界であることを基として世界を見直せば、様々な疑念や不満が解消されます。どうぞ試してみてください。

「愛ゆえの 主を待ち望む 尊父かな」
 
 今日は父の日です。本当に尊敬できる父親とは、すべてを愛の動機をもって愛していく父であり、そんな心の大きい父親こそ、本当に尊敬できる父親でしょう。ですからそのために愛を得ようと、主の前に出て祈る、待ち望む父の姿勢を見る時に、尊敬できるのではないでしょうか。
 「子どもは親の背中を見て育つ」と言いますが、クリスチャンの子どもは「親の祈る姿を見て育つ」のです。愛ゆえの主を待ち望むその姿こそ、尊ぶべき父親です。父親の方々、奥さんも子どもも期待しています。祈る姿をもっと見せましょう。家族のために労苦している父が、疲れている中で、どこかでそっと聖書を開き、祈っている姿を偶然子どもが発見したなら、父のその姿に感動するでしょう。

 

 

 

 

■2013年6月9日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 神の知恵である愛  up 2013.6.9


私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。
(第1コリント2:7)

 

 

 

 パウロは、聖霊に示されてこの手紙をコリント教会に送りました。そして、この手紙はコリントの教会の人々に読まれ、その内容を、長老の人々がメッセージとして解き明かしたものと思われます。その内容である「神の知恵である愛」について、今日は学んでいきたいと思います。

1. 主題聖句について(第1コリント2:7)
 知恵というのは賢さとも言えます。この世では、どれだけ多くの知恵をもっているか、また、どれだけその知恵を用いて、能力を発揮することができるかで、賢さを評価しますが、聖書で言っている知恵とは「愛」のことです。

【内容観察】
『私たちが語っているのは、神の知恵であるキリスト、すなわち、隠された奥義としての神の愛であって、世界の造られる以前からみこころのうちに、神の愛の栄光ある知恵の力が私たちを通して現われるように定められていたものです。』
 
 これは本当にすごいことです。語るとは、単に語るのではなく、人生そのものが神の知恵を語るのです。あなたの人生の歴史、物語が神の知恵を語るということです。
 
 隠された奥義で、「隠された」というのは、誰にでも公表されるというものではありません。「奥義」とは真髄、核心であり、本質的な秘密です。そして、神はこの隠された奥義を、人にだけ知らされようとされたのです。神の隠された奥義、「キリスト」が現れ、神の愛を表されました。キリストが現れるまで、どれだけの年数がかかったことでしょう。キリストによって、神の隠された奥義はすべての造られたものに、全宇宙に明らかにされました。
 
 神の「秘密の本質」とは、キリストのことです。それは神の知恵です。それは単に賢さではなく愛であり、愛そのものです。そして、その愛は人を生かすものです。ひとりひとりの品性が神のご性質にまで高められていくために、神の知恵、愛は、キリストによってはっきりと現されました。
 
 イエス様は罪人である人々の徳を高める為に、様々な方法で語ってくださいました。秘密であった神の本質を表すように、私たちは定められています。これは大変な奥義です。私たちにしか、神はご自分の隠された本質である愛を表されませんでした。天使や天に存在するどんな霊的存在にも、この愛は、ことばの概念でしかわかりません。ただ、堕落した存在である人間だけに、神の愛は形をとって明らかに表されました。ただ、人の為にのみ、初めて、神の愛が見える形で全宇宙に表されたのが、キリストです。私たちの罪を贖うためにキリストは来られました。キリストは、ただ人の為にのみ、来られたのです。ルシファーや天使のために贖罪の業はなされませんでした。それは、神がその愛をしめされるのは、ご自身の形に創造された人にだけであると、最初から定めておられたからです。私たちにだけ、ご自分の本質である愛を表されました。これが、世界が造られる前からのご計画だったのです。そして、すべての被造物は私たちに表された神の愛に驚嘆し、感動するのです。私たちは、すべての被造物がうらやむ、この神の愛の本質を体験しているのです。
 
 この隠された奥義が、いかに素晴らしいものであるかを悟れば悟るほど、日常の肉的なものは一過性であり、虚しいものであるとわかるようになります。そして、この奥義を、もっと語る者になりたいと願うようになるのです。食べることも神の愛を語るためであり、日常の生活も、神の愛を物語るためになります。あなたの人生のひとコマひとコマが、実に神の愛の物語となるのです。

2. 愛からの『思索生知』(マタイ15:26-27)
“すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と言われた。しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」”
 
 真理をよく追求して、真理に従ってよく考えて行う時、知恵が生まれてきます。そのような姿勢で、この女性とイエス様の会話をよく考えてみると、何がわかるでしょうか。神の愛という視点から考えてみましょう。
 
 この女性が語った言葉も、イエス様が語られた言葉も、実は愛から出ています。この女性は小犬と言われているところからみると、ユダヤ人でなく異邦人であることがわかります。イエス様の奇跡や癒しの噂を聞いて、彼女は自分の子どものために必死でイエス様のもとに来ました。ここまでは、激しく叫び続けたユダヤ人の盲人バルテマイの時と似ています。しかし、このユダヤ人の盲人バルテマイの場合は、イエス様は「何をしてほしいのか」ときかれましたが、この女性の時は、私にはできないと拒否されたのです。なぜ、愛のあるイエス様がこのような言葉で断られたのでしょうか。
 
 もし、ここを読んで失望するなら、それは私たちのイエス様への信仰が弱いと言えます。神は愛だと知っているはずだからです。どのような言葉であっても、イエス様が語られる言葉はすべて愛から出ていると信じられなければ、それは、その人のイエス様への信仰(信頼)が弱いということになります。
 
 イエス様の本心は助けてあげたい、異邦人でも直してあげたいというものです。この世的な考え方で判断していると、言葉の表面しか見られなくなります。そして、つまづきが起こるのです。
イエス様は、なぜ冷たく受け取られるような言葉を返されたのでしょうか。そこに、イエス様が何かを意図しておられるに違いないとみることができます。当時、ユダヤ人たちは異邦人を汚れていると嫌っていました。律法的にも、ユダヤ人を差し置いて、異邦人を助けるということは正しいとは言えなかったのです。

 しかし、イエス様は、カナの結婚式でぶどう酒が足りなくなった時、母親がなんとかしてほしいと頼んできて、言葉では、そのような個人的なことに神の力を使うのは良くないと言われつつも、その家の人たが恥をかかないために、水をぶどう酒に変える奇跡をなされました。それは、憐れみのゆえです。イエス様は律法にではなく愛に従われました。これが知恵なのです。律法の本質は隣人を愛するということなのですから、憐れみがあふれてきた時は、律法に勝る恵みのルールに従うことが、知恵であり、本当の意味での律法を守るということになります。
 
 イエス様は、この女性に深い憐れみを感じておられたので、まず初めに律法を語られました。それは、彼女の子どもへの深い愛情を、さらに引き出されるためでした。イエス様の言葉に対して、この女性は子どもを助けたい一心で、さらにへりくだり、自分を飼い犬ではなく、ただの野良犬同然にして、「小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」と、知恵の言葉で返したのです。落ちるパンくずとは、飼い犬でもなく野良犬にすぎないような恵に縁のない者だが、それでも、こぼれ落ちる(すべてのユダヤ人がイエス様をメシアとして受け入れてはいないゆえ)恵は受けられるでしょうという、イエス様の憐れみの心にすがる、深い知恵の言葉です。彼女はイエス様の言葉ではなく、その憐れみの心にすがったのです。あげようという気持ちがなく、ただ、落ちるというだけの恵みであっても、それを受けたいという、娘ゆえに、自分を卑しめ、さらにイエス様の権威は、例えパンくずであっても大きな力があるという信仰の告白でもあります。イエス様の憐れみはさらに深まったことでしょう。こういう愛から出た知恵の会話が、この箇所なのです。
 
 私たちはどれだけ、深く神様の愛を信じていることでしょうか。表面的な出来事の中に、どれだけ、神の愛を疑うことなく信じ切ることができているでしょうか。イエス様は、すべての罪の代価を十字架で贖ってくださったのです。それ以上の愛があるでしょうか。神は愛です。この愛を本当に信じているなら、例え、事業が失敗しようと、路上生活を送ろうと、つまづくことはありません。確かに、様々な出来事によって、私たちは試されます。どれだけ、神の愛を信じているかを試されるのです。信仰年月が長くなるほど試されていきます。「たとえそうでなくても…神が愛であることは変わらない」という告白、これがあなたの人生の物語となるのです。
 
 また、お互いの神を信じる信仰心を信じ合いましょう。どのような性格の兄弟姉妹であっても、その人の内にある愛を信じて、愛し続けましょう。そうするなら、あなたの人生はますます輝いてきます。そして、最後の神の審判の時、すべてを正しく裁いてくださる神があなたに報いてくださいます。

 

 

 

 

■2013年6月2日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛によって賜物を知る  up 2013.6.2


ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜ったものを、私たちが知るためです。
(第1コリント2:12)

 

 

 

 普段、抽象的に捉えられている恵みを感じ取るためには、愛によって感じ入ることが必要です。愛を感じとった人は、日々のさりげない出来事にも神様の愛のプレゼントを感じて、感謝することができます。いつも神様の愛に触れられていることが大事です。

1.(第1コリント2:12)“みことばは前述”
【内容観察】
「ところで、私たちは、欲望から出た自己中心の愛を受けたのではなく、神の本質である愛を受けました。それは、資格や権利があるからではなく、ただ、神から愛されているがゆえに与えてくださっている賜物を、私たちが神のみこころにそって正しく使うことができるためです。」
 愛の視点によって神様からの多くの賜物を見出すことのできる一週間であってほしいと願います。日常生活を細かく観察していくなら、どれほど多くのものを神様からいただいているかを、もっと感謝をもって受け止めていくことができます。
 受けたもののうち、最も重要なものの一つに「滅びから救われる」ことがあります。それは罪が赦されることです。この罪からの赦しを感じるか否かで、愛を感じる度合いも全く違っていきます。この世界では罪人は嫌われ、さげすまれ、存在自体を否定されるものです。私たち自身も、自らを罪人と認めることは難しいと感じます。しかし私たちは罪人であっても、その罪の責任を負うことを赦された者なのです。赦された罪人として今生きていることに、感謝が湧き上がってくるわけです。
 現実的には罪人であり、実際に罪を犯すこともありますが、神様の前には赦された者であり、罰を受けることはありません。ただし、罪の種を蒔いた結果としての刈り取り、報いは慎んで受けなければなりません。受けるべき報いは当然のことであり、私たちにふさわしくない「恵み」が絶やされるわけではありません。私たちには自由意志が与えられており、犯罪を犯すことも、人々の幸せのために生きることも自分で選択できます。
 神様ご自身は、私たちが自主的に愛をもって自分の意志を神様に向けることを願っておられます。このご恩を感じた人は、自分に与えられているものを精一杯大事にしようと思うでしょう。神様も私たちにこのような心を望んでおられます。謙遜やへりくだりは、神様からの賜物を見つけることができる大切なものです。クリスチャンが全体的におとなしいのは、自分は罪を犯す者であるという自覚があるからです。罪の自覚があれば、良心が生きている人はみんな謙遜になるものです。そして御霊、すなわち神の愛は傲慢な心には見つけにくく、謙遜な心には様々なかたちで見ることができます。
 聖歌「おどろくばかりの」を見てみましょう。
  「驚くばかりの 恵みなりき」
 →『本当にこんな恵みをいただいていいのだろうか。』
  「この身の汚れを知れる我に」
 →『自分はこんなにも罪ばかり犯したひどい人間なのに。』
 自分の罪深さがわかればわかるほど、与えられている恵みの深さ、大きさが理解できます。そしてこの歌詞をメロディーがより深いものにしています。
 しかし、大きな罪を犯した人ばかりでなく、心の中で悪いことを考えていたくらいであったとしても、神様はその罪の代償としては大きすぎるイエス様のいのちを支払ってくださっています。このような罪の自覚を持って毎日を送るなら、愛の神様から賜った多くのものを見出して行くことができると思います。

2.『人事天命』(じんじてんめい)の心掛け(第1ペテロ4:10)
“それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。”
★『人事天命』の意味
 人事を尽くして天命を待つとは、人間の能力でできる限りのことを したら、あとは焦らずに、その結果は天の意志に任せるの意。

◎みこころを行うために与えられている賜物を、十分に用いて後悔しないこと。
 自分が精一杯のことをしたなら、結果がどうであれ、不平不満はもたないことです。結果は神様にお任せするもの。神様はいつも最善をされると信頼しましょう。
 自分はこれだけのことをしたのに、願う通りの結果が出ないと不満を漏らす人は、私たちが本来何の報いも受けられない罪人であることを忘れています。赦されているが故に聞いていただける機会がある、というだけのことで、当然の権利ではありません。万に一つでも願いがかなえられるなら、それは全く思いがけない幸せであると感じるのが、自分を知っている罪人の考え方です。
 神様は私たちになぜ賜物を与えてくださるのでしょうか。私たちがお互いに愛をすることができるためです。ペテロも、賜物は互いに仕え合うためだと言っています。神様が愛しておられる隣人のために、自分に与えられたものを使って愛をするのです。ペテロ自身、大きな過ちを犯しましたが、イエス様は彼の犯す罪を最初から知っておられ、あらかじめ赦してくださっていました。イエス様の恩情になかなか応えられずにいたペテロでしたが、聖霊様という神の愛が下って来られた時、彼の弱さは打ち壊され、力ある使徒へと変わったのです。
 パウロも“…もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる…”(ガラテヤ2:20)と告白しています。神様の愛は自らの罪深さを自覚させ、なおかつ大胆に神を証しする者へと人を変えます。
 私たちが与えられた賜物を自分のために使う時、その考え方は世の中の影響を受けています。人と自分を比べるのもそうです。私たちは各々が、自分に最適な賜物を神様から授かっています。人間が賜物をほめようがけなそうが、深い知恵によって定められた神様のお考えに間違いはありません。自分に十円、人に一万円の賜物があるなら、自分は十円で何かをすることができ、自分にはその十円が最善の賜物なのです。
 身の丈に合った自分を認識するのは大切なことです。自分に与えられた役目は自分にしかできないことです。皆さん、自分をもっと大事にしましょう。賜物に貴いとかいやしいとかはありませんし、優劣もありません。比べるとしたら、以前の自分より賜物を活かせているかどうかです。このことをしっかりと心に留めて、精一杯生きましょう。

「一つ傘 譲り合う愛 梅雨はじめ」

 自分にできる心づかいによって、人の心をうるおしていきましょう。そういうところに気づくのは、神様からの愛の賜物で心をうるおされた人々です。

 

 

 

 

■2013年5月26日 日曜礼拝メッセージより(横路伝道師、小栗伝道師)

 神の愛とその力(2)  up 2013.5.26


しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。
(使徒1:8)

 

 

 

【横路伝道師メッセージ】
 先週のペンテコステ礼拝では、“しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。”から、愛をするためには聖霊の力が必要であること、“そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。”から聖霊による愛の力について語られました。
 今回はそのパート2として、二つのみことばから聖霊の力について更に深く学びたいと思います。
1.神の国は力である(第1コリント4:20〜21)
“神の国はことばにはなく、力にあるのです。あなたがたはどちらを望むのですか。私はあなたがたのところへむちを持って行きましょうか。それとも、愛と優しい心で行きましょうか。”
 「神の国」は、神の愛の力のご支配の中にあります。いのちと愛の力が保たれており、聖さと光、平和と正義があります。御霊の実である愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制のあるところです。イエス様は「神の国はあなたがたのただ中にある」(ルカ17:21)と言われました。つまり、聖霊に満たされた人々の間に、「神の国」はあるのです。
 また、「神の国は、ことばになく、力にあるのです。」とはどういうことでしょうか?
 先週のメッセージで“あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。」と言っても、もしからだに必要なものを与えないなら、何の役に立つでしょう。(ヤコブ2:16)”から、愛をするためには「力」が必要であることを学びました。みことばも、聖霊の賜物も、愛も、それを知っているだけで実際に用いなければ力がないのです。
 (マルコ16:17〜18)には、“「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」”とあり、信じる私たちが聖霊の賜物を受ける約束があります。(ルカ11:13)には“「…天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」”と、求めるなら必ず聖霊を下さるとの約束があります。
このような約束があるのに聖霊の力を求めず、イエス様の御名によって行動することがなかったら、神の国の力は働かないのです。強力な武器としての刀剣があっても、飾っておくだけだったり倉や倉庫にしまっておいたのでは、戦いの役に立たないのです。用いてこそ、その力が発揮できるのです。
 また(マルコ9:1)でイエス様は“…「まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまでは、決して死を味わわない者がいます。」”と言われました。ペンテコステの日に聖霊が弟子たちの上に下り、弟子たちは聖霊の力によって大胆な証し人と変えられ、いやしと奇跡をもってエルサレムを揺り動かしました。
 また、信者の美しい交わりに愛の力を見た人々は次々に救われていき、やがて福音はユダヤとサマリヤの全土、地の果てにまで伝わっていきました。神の国が力をもって到来したのです。

【内容観察】*参考のみことば
“「そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵に支えられず、神の力に支えられるためでした。」”(第1コリント2:4〜5)
 パウロは(第1コリント2:4)で“そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。”と言っています。
(第1コリント4:20〜21)に戻りますが、「あなたがたは『むち』と『愛と優しい心』のどちらを望みますか?」とあります。
◎どちらを望むのか?
*むちを持って行く
 『むち』はコリント教会の中の、高慢な人々の姿勢を叱り、処罰することも辞さないパウロの「愛のむち」、コリント教会の生みの親として悔い改めを迫る、本気の愛の表現であり、
*愛と優しい心で行く
 『愛と優しい心』は、罪や高慢さがあったとしてもそれを悔い改め、へりくだるものを赦し、大きな愛の力で包み、やり直す機会を与える親の心を表しています。いずれも聖霊による愛の力をもって、パウロはコリントの教会に行くことを前もって伝えたのです。
今日、イエス様も私たちに、同じように愛をもって迫っておられます。再臨はまだ先のことであると油断して眠っている者、神の聖霊の働きを軽んじてその力を用いない者や、悔い改めのない高慢な心が隠れている者には、神様は「むち」を持って来られるかもしれません。私たちを愛するゆえに、救いから漏れて滅びないためです。しかし、日々神様の前にへりくだって聖霊を待ち望む敬虔な者には、「愛と優しい心」で来られるでしょう。
イエス様はやがて力をもって再臨されます。私たちに「どちらを望むのですか?」と語っておられます。

【小栗伝道師メッセージ】
2.新しい力を得る(イザヤ40:31)
“しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。”
 私たちは、神様が働きになることがおできになるのに、自分の判断を優先させて、神様を小さく考えていることはないでしょうか。ここに出てくる「しかし」ということばはどういう状態であれ「神様に思いを向けよ」と語っておられる接続詞だと思います。事実、このイザヤ書が書かれた当時のイスラエルは、バビロンに捕囚にされた状態でした。出エジプトを遂げたすぐ後からつぶやきを重ね、その度にその叫びに神様が応えてくださる奇跡も見…。イザヤ書40章には神様の偉大なわざが列挙されていますが、天地をお創りになった創造主なる神様を、人の手で作った偶像になぞらえることができるはずもないのに、それを堂々とやってのけるイスラエルの民たち。主の摂理の中で導かれているにも関わらず、神様を忘れた状態のイスラエルの民でした。しかし40章全体は、イスラエルの民の状態がどうであれ、神様は回復すると約束のことばを与えられた箇所です。神様は愛をもって、どんな状態の私たちでも見放される方ではありません。一方イスラエルの民は、神様の御思いを悟らず、自分たちがしたことは棚に上げて神様に文句を言っているのに、神様は彼らを「回復する」と愛のことばを語り続けてくださっています。
 ここに「新しい力」ということばが書かれています。古いものではなく、すべてを新しくしてくださる、過去ではなく未来、この新しい力とは、肉ではない、聖霊の満たしによって変えられていく、神の愛の力だと思います。
 また、「鷲」は大きな種類は羽を広げると3mにもなるものがいるそうで、気流に乗ってスーっと流れるように飛んでいる姿こそ、私たちが聖霊の満たしによって新しい力を得て、神の愛の中で自由に飛び回っている姿と重なります。地上の束縛を受けることはありません。その束縛を解いてくださったのがイエス様です。身代わりに十字架にかかって死んでよみがえっておられるイエス様は、「あなたが束縛されているものを持ってくるように。」と言ってくださっています。
 鷲は自分の巣を高い崖のところに作り、巣立ちの時にはせっかく作ったその巣を壊してしまうそうです。私たちはどうでしょうか。居心地の良さが手放せず、安住しがちです。地上に思いを向けて、飛び立つのを遅らせてしまっているかもしれません。しかし、この世の寄留者であり神に選ばれた人は、過去を振り向かず、神様が導いておられるところに入るのです。
 新しい力とは神の愛の証人となる力だと思います。新しい力を受ける前は、人の反応を気にします。「人を恐れるとわなにかかる」のみことばのように、人の反応によって行きていくならば、神の愛を全うすることが難しくなるとも言えます。新しい力は、大胆に愛する側に回ることができます。
 アメリカの学校で銃を持ち込んだ男子学生に「イエス・キリストへの信仰を捨てるなら助けてやる。」と、胸に銃口を押しつけられたクリスチャンの女子学生は、「あなたもイエス・キリストを信じてほしい。」と信仰姿勢を貫いたゆえに、撃たれて命を落としました。しかし、周りにいた多くの学生たちが、彼女の姿を見て信仰をもったという実話があります。
 新しい力に満たされると、神様のために命を捨てても惜しくないというところに導かれます。なぜなら、イエス様の方が私たちより先にいのちを捨ててくださったのですから。日本の殉教の比率は世界で歴代二位と聞きました。イエス様のために、死んでも信仰を貫いた人々が多かったということです。今の私たちはどうでしょうか。切羽詰まった中にあるとは言い難いのではないでしょうか。だんだん待ち望む姿勢も薄れてしまっていないでしょうか。

【内容観察】
「たとえ愛することに困難さを覚える状況に置かれようとも、主への望みを持ち続ける人は、やがて主からの新しい力をいただき、主の愛によって雄大な鷲のように自由自在にこの世界を飛び回り、主への愛を表し続けることができるようになる。しかも疲れたり、あきらめたりすることがなく、愛し続ける力がわいてくる。」
 愛することに疲れたり、あきらめたりするのは、これだけしたのに…と肉で行っているからです。新しい力は「愛したい…」だけです。キリストは私たちの束縛を解くために、私たちがイエス様を愛するかどうかもわからないのに、先に十字架にかかって愛を表してくださいました。私たちの肉の力では及びません。主の愛をいただき新しい力に満たされたら、私は歩むことができますと、主を待ち望む心が浮かんでくるのではないでしょうか。残念ながら、真剣勝負をする日々が私たちには少ないです。物質的な満たしが多すぎて、物もあふれ返って、心が神様の方に向かないことも多いです。巣を壊すことをせず、現状に甘んじていることも多い日々です。
 長血の女は、主の衣に触れさえすればいやされる、と主に近づきました。盲人バルテマイは目が見えるようになりたいために叫び続け、主に近づきました。さあ、私たちも新しい力を得るために主に近づこうではありませんか。本来、毎日がペンテコステでありたいです。神様はすべての人々にたゆむことのない(弱らない、衰えないの意味)愛を注ぎたいと願っておられます。すべての人にわたしの霊を注ぐ、とみことばの約束があります。
 
 今週も新しい力を受けて、神様の前に日々を歩んで行きましょう。私たちのうちに良い働きを始められた方は、必ずキリストが来られる日が来るまでに完成させてくださいます。

 

 

 

 

■2013年5月19日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 神の愛とその力  up 2013.5.19


しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。
(使徒1:8)

 

 

 

 このみことばから2つのポイントにしぼってご紹介したいと思います。まず「愛には力が必要」というのが第一のポイントです。神の愛なる聖霊が臨まれるのには共通の条件があります。次に力を受けると証人になります。当時の証人というものは、偽証した場合には命を失うという重大な責任を負って、真実を証しする者でした。ゆえに原語には「殉教者」という意味もあります。命を懸けるほどに神を証しする者となる動機は愛の力です。証人となる覚悟というものが、聖霊の力、神の愛の力を受ける共通の条件と言えます。
【内容観察】
「しかし、神の愛そのものである聖霊によってその愛に触れられたあなたがたが、悔い改めと神の愛に生きる強い決意に至ったのなら、あなたがたは神の愛の力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、神が愛であることを証明したわたしのことを、いのちをかけて証言するものとなります。」
 聖霊に動かされて決心を固め、愛に動かされた人には素直に受け止めることができます。反対に言えば、愛のない人には受け止められません。教会に来る人も、愛に動かされて来る人と、自分の願いをかなえたいために来る人の二種類があります。神様の願いは、ご自分の愛を人が知ることです。愛を知って動かされていくことに心を向けていただきたいのです。

1.愛をするための愛の力が必要(ヤコブ2:16)
“あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。” 
 信仰と愛は表裏一体であり、信仰について語られていることには愛も含まれています。このみことばから考えれば、行いのない信仰も死んでいると言えます。
【内容観察】
「神の愛に触れられ愛にあふれて、貧しい兄弟姉妹に『神は愛です。その愛を信じなさい。そして、暖かになり、十分に食べなさい。』と言っても、もしからだに必要な物を与えることができなかったなら、その愛の心は何の役に立つでしょう。」
 愛の心が溢れているのに、実行する力がないことで悔しい気持ちになったことはありませんか。それは愛の本質です。自分に苦痛や損害があっても、愛する者のために何かしてあげたいと思うのです。人間には何の力もありません。しかし聖霊様は私たちに「力」を与えてくださいます。聖霊様が、つまり神の愛が臨まれる時に、です。そのために私たちには飢え渇きが必要です。弟子たちが聖霊様を本気で待ち望んだことが、十日という数字で象徴されています。彼らは食事を取ることも投げうって祈りに没頭していました。愛の神の御国には愛の力が表れなければ、証しにはなりません。かといって力だけを現しても、ご利益宗教になるだけで、本来の神の目的である、「神の愛を知ってもらう」ことになりません。
“「永遠のいのちとは、…神であるあなたと、…イエス・キリストとを知ること」”(ヨハネ17:3)とあります。神を知れば愛を知り、愛を知れば力を受け、愛を行えるようになっていくのです。
 ですから、自ら愛をうけて自発的に行えるようになってない人を責めてはいけません。イエス様は十字架上で愛を知らない人を責められはしませんでした。かえって私たちをあわれみ、赦されるように祈ってくださったのです。十字架上のイエス様のお姿は、私たちに余すところなく神の愛をお示しくださったものです。このお姿に込められたものが見えてくれば、じっとしてはいられなくなるでしょう。これが「聖霊が臨まれる」という意味です。真にへりくだった心は飢え渇きをもたらすものです。ここでもし傲慢な心が残っていると、「自分はダメな人間。クリスチャンとして失格。教会にはもう行くまい。」と思います。自分の力を見、それに失望しているからです。神様がそんな自分を救うために犠牲を払ってくださったことを認めない姿勢は傲慢です。真に自分には何もないと知ったなら、与えられるものが何であっても感謝して受けることができます。えり好みは傲慢です。自分の愛を注意深く観察すれば、単なる欲望に過ぎないことがわかります。そこで本当の愛を求めてへりくだるのが、謙虚な心での受け止めるという姿勢です。
 神様の前に正直に、自分が何の愛も持ち合わせていないことと、神様なしにはこれからも持ち得ないことを認めましょう。貪欲からの愛はいつも何かを欲しますが、神様からの愛は満足を伴うものであり、誰かを、何かを助けたくなるものです。さらに助けたことを批判されても、かえってへりくだって素直に謝ることができます。動機を間違わないように、常に吟味してまいりましょう。

2.『志操堅固』(しそうけんご)の覚悟(ルカ24:46〜48)
“こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。」”
★『志操堅固』の意味
 志や考え、主義などを堅く守り、何があっても変えないさま。
 愛の力を受けるためのもう一つの条件が、志を堅く保つ覚悟です。
【内容観察】
「神の愛を証明された方の生き様によって心が変えられるという、神の深い慈愛による悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国民の人々に証明されて行く。あなたがたは、この神の愛のための真実な証人としていのちをかけて証言する者です。」
 神の深い慈愛に触れたなら「この愛のうちに生きていこう。」という覚悟ができるのは必然です。それでこそキリストの証人と言えるでしょう。この真実の愛のためなら命を捨ててもいい、という覚悟が、いつの間にかできているのです。これらのへりくだりと飢え渇きと覚悟が生まれる度合いは、神様の愛に触れる深さに比例して違ってきます。弱い自分に失望したまま過ごすのか、そんな自分を愛の証人として用いていただくかは、みなさん次第です。
 一つの証しをお話ししたいと思います。日本人の妻を持つスイス人アルベルト氏は、東京へ行っている大学生の娘と、自宅には妻と次女がいる四人家族でした。しかし9年前、翌日には引っ越すという夜中に自宅が全焼。次女と妻を失いました。数日後、絶望に打ちひしがれる彼のもとに舞い込んだのは、家に放火した犯人が逮捕されたという知らせでした。PTSDによるフラッシュバックに悩まされながらも裁判を傍聴してみれば、放火魔は前科8犯であることが判明。アルベルト氏は極刑を望みましたが、下された判決は無期懲役でした。
 そこでアルベルト氏は、終身刑の導入を求める運動を立ち上げました。亡くなった妻と次女への愛の表現として、バイクで全国を回りながら、現在も署名活動を続けています。ある新聞記者の問いに彼はこう答えました。「私が生き残ったのはこのためなんだ。妻と娘を失ったのに、放火犯がその前歴や凶悪さに関わらず無期懲役で済まされるという法の不備を目の当たりにして、終身刑の必要性を訴えるためにここにいるんだ。」と。これは愛の犠牲から生まれた彼の使命、天命です。
 私たちは愛なる神様を、自分の罪のために二千年前に十字架で苦しめ、ハデスにまで下って私たちの霊的な罪までも負わせました。「私」が苦しめたのです。それなのにイエス様は、自己中心でわがままで不遜な私のためにも「何をしているのかわからないのです。」ととりなしてくださいました。いつか人生の悩み苦しみに出会い、本当の愛や生き方を探し続けて、神様に出会う日が来ることを期待しながら人生を導いておられます。この飢え渇きは真実なので、欲望からではなく真理を求める心として、神があなたの心を見てくださいます。そしてあなたは救いを得、希望を持ち、力に満たされて人生を歩むことができます。
 最初が中途半端だと信仰も中途半端になってしまいます。室町から江戸時代、クリスチャンへの迫害は凄まじく、無惨に殺されていく罪もない人々が何十万人もいました。しかしその中でも信仰告白をする人々が新しく生まれ続けたのは、クリスチャンが互いに愛し合う姿を見て、そのような愛の社会を求めたからではないでしょうか。私たちは愛よりも、自分の欲望を満たすことを求めてしまいがちです。しかし愛なくして死ねば元も子もありません。自分にできる限りの愛をしていこうではありませんか。自分と人とを比べなくていいのです。自分と人ではなく、自分と神様との愛の関係をしっかりと築いてまいりましょう。自分の小心さを乗り越えることのできる愛の力が欲しい!とぜひ飢え渇きを持ってください。

 

 

 

 

■2013年5月12日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 神の愛に満足(2)  up 2013.5.12


私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。
(第1テモテ6:7〜8)

 

 

 

 このみことばの前半は誰にでも当てはまり、世界共通の死生観です。どんなに富んでいても、誰一人あの世に物を持って行くことはできません。しかし、世の中の考え方と違うのは次のみことば、「衣食があれば、それで満足すべきです。」とつながるところです。世の中の考え方は、どうせ何一つあの世に持って行けないのなら、この世では贅沢三昧し、やりたい放題したいとなるでしょう。この食い違いはどこからくるのでしょうか。
 クリスチャンは神の愛に満たされています。それゆえ衣食があれば十分という考え方ができるのです。神に愛されているということが、私たちの共通の主観になれば、お互いの間にいつも平和があり、不満も愚痴もなくなるでしょう。
 兄弟喧嘩を母親が仲裁できる理由は何でしょう。二人にとって、母親は愛を注いでくれる大きな存在、という共通の認識があるからです。共通の価値観があれば和解ができます。それが「神の愛」です。

1. 主題聖句について(第1テモテ6:7-8)(みことばは前述)
【内容観察】
 私たちは、何が必要で何が必要でないかなどと考えることなく、父なる神からいのちをいただいて生まれてきました。なので、いただいたいのちだけを持ってこの世から去るのです。この世のものは何一つ持って行くことができないのです。こういうわけで、この世では着るものと食するものがあれば、それで十分幸せだと感謝して過ごすべきです。何よりも素晴しい愛の神に愛されているのですから。

 神の愛以外に、これさえあれば人生幸せに過ごせるというものはありますか?お金があれば…主人がいれば…子供がいれば…等。なかなかひとつに絞れないのではないでしょうか。いくつも必要なものがあるかもしれません。主人がいても、しっかり働いてもらわなくては、とかいろいろ条件がふえてきます。
 同様に、いくら集会では神様さえいてくださったら後は何もいりませんと告白していても、いざ日常生活に戻ると、どんどん欲しいものが増えてくるものです。家に帰ると、神様第一ということは棚に上げて、まずは食べ物飲物を買う為にはお金がいるといったように、すぐに心を切り替えてしまっていないでしょうか。
この「衣食があれば」というみことばの意味は、衣食がなければ困るというように衣食にとらわれ、心を持ち物に向けてしまい、それで心を満たそうとしないようにということです。持ち物によって、満足感を測らないようにしましょう。こういう物はすべて地上だけの物です。貪欲に注意しましょう。このみことばの理由を悟れば、生き方が変わってきます。
 私たちが地上に生まれる理由は何でしょうか。生まれてくるときは、純粋無垢で真っ白です。しかし人生を歩むうちに多くのしみや汚れがついてきます。それがわかっているのに、何故神は私たちを地上に送られるのでしょうか。
イエス様はこの地上のあらゆる罪を処分するために、救いを与えてくださいました。地上で犯すあらゆる罪は地上でしか処分できません。天国に持って行くことはできないのです。罪のあるままで天国には入れません。
 地上で人生を歩み、全ての罪は地上で処分されて天国に行くとしたら、天国に持って行くのは何でしょうか。それは、永遠に存続するものです。いつまでも存続するのは、「信仰・希望・愛」です。生まれてきた時は持っていなかった「信仰・希望・愛」を、私たちはこの地上で得て、天国に持っていくのです。汚れたものゆがんだものはすべてイエス様の十字架の血潮で洗い、ただ、愛(信仰も希望も愛に含まれます)だけを天国に持っていけるとは、なんと素晴らしいことでしょうか。
 たとえ地上で偉大なことを多くしたとしても、イエス様の救いを受けず、罪を洗い流せていなかったら、罪を持ったままで天国に行くことはできません。罪が清められなかったら、せっかく積んだどんな徳も、天国に持って行くことはできないのです。ただイエス様の十字架の救いだけが、罪を洗い流すことができます。どんな宗教の人でも、イエス様の贖いなしには天国に入ることはできません。イエス様無しには、すべての修行は無駄になります。罪の贖いはイエス・キリストによってのみなされたからです。あなたの罪の身代わりになって死んでくださった方はイエス・キリストのみです。キリスト教という宗教があなたを救うのではなく、イエス・キリストのみがあなたを救うのです。哲学や思想をいくら論争しても、人は救われません。パウロは、それゆえ、キリストのみ宣べ伝えようと決心したのです。
 神の愛に満足している魂を、神は迎え入れるため、地上で私たちが愛を学ぶことを願っておられます。逆境や苦難の中でこそ体験できる神の愛があります。束縛がなければ解放される喜びはわかりません。憎しみがなければ、許すという体験はできません。それゆえ、地上の人生は必要なのです。どんな物を手に入れるよりも、神の愛に満足するという経験を手に入れることを求めましょう。むしろ、豊かさが神の愛を求めることを妨げ、富を持つことによって神の愛が見えなくなり、神の愛によって助けられるという体験が少なくなるのです。
 地上での人生の目的は「神の愛に満足する」ということを悟ることです。その時、衣食があれば満足すべきということばの意味がわかってきます。

2.『情緒纒綿』(じょうしょてんめん)(ヨハネ14:18)
“わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。”
★『情緒纏綿』の意味…情が深くて離れがたいさま。
 情緒…何かことがあるごとに思い出される感情、心の動き。
 纒綿…心の中にまとわりついた忘れられないこと。

【内容観察】
 わたしは、どのようなことが起ころうともあなたを見捨てて、助ける人のいないひとりぼっちのみなしごになってしまうようなことはしません。わたしは、あなたがたをわたしの愛のうちに、とこしえまでも導きたいのです。 
 
 神は、私たちのことが心にまとわりついて離れられないほど、私たちを愛してくださっているのです。どんなに利己的でわがままな私たちであっても、むしろ、それゆえに私たちを放っておけないと思ってくださっているのです。その気持ちがイエス様の33年間の人生に表されています。イエス様は私たちを救うために、地上の人生で、何一つご自身を満足させようとはなさいませんでした。すべては私たちへの愛のゆえです。
 以下のことを告白しましょう。

「人から愛されることをもう求めない→神に愛されていることに満足します。→それゆえ、積極的に愛をすることを求めます。」

 神の愛に満足していたら、例え人から傷つけられても、癒されます。神の愛以上に最高のものはないからです。

 

 

 

 

■2013年5月5日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 神の愛に満足  up 2013.5.5


金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」
(ヘブル13:5)

 

 

 

 後でお話しますが、「金銭を愛する」の本当の意味を理解しなければ、このみことばは受け入れにくいことばかもしれません。周りの人々と自分が同じでないと安心できないという、日本社会の特徴があります。その中で、自分が今持っているものだけで満足せよというのは難しいことでもあります。しかし、今あるもので満足することの麗しさも、私たちは発見することができます。「神の愛に満足」というテーマは、あなたにとって神の愛はどれほどの価値があるか、の問いです。自分の価値観と照らし合わせた時、神の愛は上から何番目でしょうか。
 神の愛が自分にとって第一の価値を持つと考える人は、今持っているもので満足できるでしょう。それ以外を第一にしている人々の間で、争いや競争が起こっているのです。こちらは弱肉強食の法則に支配され、弱い者、敗者はしいたげられます。

1.主題聖句について(ヘブル13:5)“みことばは前述”
【内容観察】
「欲に惹かれて金銭を第一にしなければならないと思い込んでいる生活をしてはいけません。神が愛をもって与えてくださっているもので満足しましょう。あなたの罪を贖うために十字架で苦しまれた神の愛であられる主イエスご自身が、まごころからこう言われているのです。『わたしはどのような状況になってもあなたから離れない。あなたがどのような者であろうと、わたしはあなたを捨てない。』」
 
 お金がなければ生きていけないと思い込む生活をしてはいけません。大多数の人は、お金が第一の洗脳を受けています。たとえば、東京で華やかな暮らしを送る1%の人々の足もとには、そこにたどりつこうと夢を見てあがく99%の搾取される側の人々がいるのです。今、この教会に来られているあなたは、何を求めてここにおられるのでしょうか。毎月、毎週来られる理由は何ですか。義務や義理を果たすためでしょうか。
 (ヨハネ6:26)“イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。」”
 群衆がイエス様に求めたのは欲望を満たすことであり、神の国を求める気持ちからではありませんでした。しかし、自分の欲望を満たすことはこの人生の最終目的ではありません。
(マタイ6:33)“「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」”
とあるように、生活に必要なものは添え物として与えられます。神様の愛を求め、それを第一とすることによって、です。神の愛は人を生かし、欲望の愛は人をダメにします。「互いに愛し合いなさい」とのイエス様のおことばを第一に求めてさえいれば、何の問題もなくなるのです。聖書での愛は「隣人を大事にする愛」で、欲望の愛は「隣人を通して自分を大事にする愛」です。欲望の愛は本当の愛ではありません。
 しかし、第一にすべきものも、その本当の価値を知らなければ大事にすることは難しいでしょう。
 神様は私たちのような未熟な罪深い者を、罪の永遠の裁きから救うために、愛をもって私たちの代わりに十字架で裁きを受けてくださり、苦しみを負ってくださいました。イエス・キリストはその生涯を通して、私たちの罪が赦されるための罪のない人生を送られ、自分のしたいことをせずに、私たちの罪を赦すために1つも罪を犯さないようにと気を使いながら一生を過ごされ、十字架でご自分のいのちを差し出されました。そんなお姿を見ていたら、これ以上の苦しみをイエス様に負わせたくないと思うのは当然の心の動きですね。
 神様の愛をあなたはどこに位置づけていますか。この世にはいろんな愛がありますが、キリストの愛は、永遠というあなたのいのちのために、神であるお方が人となって不自由な姿をとられ、苦しまれるためにわざわざこの地上に来てくださったのです。私たちを愛し、私たちの未来のためにです。今の自分も今の世界も、この犠牲の上に成り立っています。神は裁きの前に一人でも多くの魂が愛に立ち返るようにと、今も愛を注ぎ続け、証しし続けておられるのです。周りからいただいている愛に気づき、謙虚な心になって神の愛を求める者になりたいですね。

2.『飲河満腹』(いんかまんぷく)(第1テモテ6:6)
“しかし、満ち足りた心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。”
★『飲河満腹』の意味
 自分の分に安んじて満足すべきこと。
 どぶねずみが頑張って大河の水を飲んでも、その量は小さな腹を満たすにすぎない意から。
 
 人にはそれぞれの役割があり、自分の欲のために分不相応なものを求めても、結局身になりません。心を歪めさせるような痛みや苦しみがあるなら、それは意味のないことです。愛のゆえに傷つき苦しむのであれば、その人の魂に価値を与え、大きな幸せをもたらす要因になると言えます。(第1テモテ6:6)にある「満ち足りる心」とは分をわきまえることであり、それが大きな利益を受ける道なのだ、ということです。
【内容観察】
「しかし、神に愛されていることだけで幸せだと満足する正しい良心を伴う敬虔こそ、高徳な者として人々から尊ばれ、幸運な者と呼ばれ、人々に幸せをもたらすという、真にあなたの利益となる道です。
 これはクリスチャンに限定されない、生き方における原則です。満ち足りる心を伴う敬虔は、誰にでも大きな利益をもたらすのです。
(ルカ9:24〜25)“「自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。」”
 この地上における全ての憧れるものを実際に手にしても、自分が何者で何のために存在しているのかがわからないままなら、意味がないのです。欲望のままに使うなら、自分を損じる結果を招きます。
 皆さんは乙武洋匡氏をご存じでしょうか?「五体不満足」というベストセラーの本の著者です。彼が生まれて一ヶ月間、両手両足のない赤ちゃんを見てショックを受けないようにと、彼の母親は赤ちゃんに面会できませんでした。しかし、両手足のないわが子を初めて見た母親の感想は、「まあ!なんてかわいい子!」ぬいぐるみのようなかわいい子とも言ったそうです。この肯定的認識が、後の乙武氏の心を積極的肯定的思考に育んでいきます。
 そして先日の4月13日には、台湾野球の始球式に招かれ、多くの観衆に感動を与えました。YOUTUBEなどに動画がありますので、機会があればごらんください。これが与えられているもので満足している姿です。自分の置かれている状況で精一杯の努力をしたのです。満ち足りる心を伴う敬虔とはこれです。
 乙武氏の母親が彼の体を個性として受け止め、良いものとして喜んだからこそ、この結果が訪れたのです。神様も私たち一人一人の出来不出来や性格など全部ひっくるめて個性と認め、罪人でも愛してくださいます。私たちが、与えられたもので一生懸命生きることを願っておられるのです。競争社会では、ありのままの自分を認めるのは難しいことです。私たちは、まず神様の愛に満足することが必要です。自分がどんな方から愛されているのかを知り、人からの愛はもう求めないようにしましょう。人からの愛を求めることは、傷つきや期待はずれを多く受けます。
 神に愛されていることに満足していれば、人の対応は赦すことができます。その価値を知っているからです。与えられたもので精一杯生きることが、自分らしく歩むことであり、自分を損じない生き方です。そのためにも、神様の愛への順位づけを自分の内で挙げていっていただきたいのです。まだまだ他のものに目が行くことの多い未熟者であるがゆえに、本物に目を向けることができるようにと、このクリスチャン生活があるのだと思います。

「風受けて 大空を舞う 鯉のぼり」

※風はヘブル語、ギリシャ語では「霊」を指します。人は鯉のぼりのように霊(神の愛)を受けて生きなければ、泳ぐことはできません。神様の愛を受けて、私たちの人生を舞うのです。神様の愛の風に吹かれて、私たちは本当の意味で人生を生かすことができます。神様の愛で満足する生き方を選びたいと思います。