■2013年4月28日 日曜礼拝メッセージより(小栗伝道師、辻和希伝道師、横路伝道師)
至理名言の戒め(3) up 2013.4.28
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。
(ヨハネ15:12)
小栗伝道師・辻 和希伝道師・横路伝道師 メッセージより
『至理名言』の意味⇒道理にかなった適切な良い言葉。
「神の国は『互いに愛し合う』社会です。
では、どのように『互いに愛し合う』ことなのでしょうか。」
【小栗伝道師メッセージ】
神様は、祝福を命じてくださっているほどに私たちが「互いに愛し合う」状態をとても喜んでくださっています。逆にいがみ合っているならば神様は悲しまれます。私たちは、この「互いに愛し合う」状態を心から望んでいるだろうかと考えさせられます。そのすばらしい状態を心から求めていなければ、「互いに…する」ということを単なる知識としてとどめてしまうのではないでしょうか。
1.互いに祈り合う(ヤコブ5:15)
“ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。”
【内容観察】
「あなたがたは、互いに自分の弱さやいたらなさを言い表して認め合い、その欠点が愛し合うことの妨げとならないように祈り合いなさい。罪の呪いから解放されるためです。罪を告白して十字架を見上げる人の祈りには力があります。信仰によって義とされているからです。」
祈り合う目的は、愛し合うことができるようになるためです。
★愛し合うことを妨げるものを取り除く。
さまざまな集まりの中で、私たちの中に「愛し合うことを妨げるものがある」ことに気づかされます。自分の判断が思い通りにならなかったときにそっぽを向いてすねたり、無視したり、怒ったり、物にあたったり…いろいろな肉の反応が出ます。神様の祝福が命じておられるこの場で、愛することを妨げているものはないだろうか、しかも自分でどうしようもできない自己中心の心に気づいたなら、「愛することをさせなくしてしまうこの弱さが取り除かれるように、どうか私のために祈ってください。」と祈り合うことが、ここで勧められています。しかし、愛することを妨げている自分の状態を嘆かなければ、祈ってもらおうとは思わないかもしれません。愛し合うことが求められていることを知りながら、自分の思いを優先させることは、関わる周囲の人々も辛いことですし、何よりも神様が悲しまれます。
「愛し合う」ことは神の律法を全うしています。逆に愛し合うことを妨げるものを持っている状態は、せっかく注がれている神様の祝福が奪われ、祝福から外れ、健全でない状態です。いやされるとは、この状態から元の状態に回復されることです。
★義とされている人の祈りに力がある
「罪人の言うことはお聞きになりません(ヨハネ9:31)」と書かれています。罪という、的を外した、ここでは愛し合うことを妨げているものを持った状態にあるならば、その人の祈りは聞いていただけないと言うのです。義人とは、神が罪を赦され、神から正しいと認められた人のことです。つまりイエス様の十字架のあがないを信じて、十字架の下にひざまずいている人です。義とは神様からいただくもので、自分の行いによって得られるものではありません。(ルカ18章)にある神殿の前に出て来たうちの一人のパリサイ人は自分の行いを誇り、人を見下げていても自分は義人と思っていました。しかし、神様が義と認められたのは、もう一人の遠く離れて自分の罪深さを嘆いてあわれみを請うた取税人の方でした。私たちは十字架への感謝をおろそかにしたり、神様との関係を習慣化したり形式化したりすることのないように、気をつけたいと思います。
ここで、神様が義と認められた人の祈りは、大きな力を表すとあります。義と認められた人は、イエス様の十字架のもとで決して傲慢になることなく、行いを誇ることもなく、へりくだっているのではないでしょうか。義とされた人の祈りはストレートに神様に届くと思います。
私たちがいかに愛し合えない妨げを持っているかということに気づき、それを取り去れるよう祈り合っていく時、神様からの祝福が注がれ、必要な祈りが聞かれていくのではないでしょうか。
【辻 和希伝道師メッセージ】
2.互いにもてなし合う(第1ペテロ4:9)
“つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。”
【内容観察】
「自分の主観によって人を量り不満を持ち続けないで、神に愛されていることに満足して、まごころからの交わりのしるしであるもてなし合うことを互いに喜びとしなさい。」
「もてなし合う」とは、「相手を大事にする、そして大事にし合う」ことだと示されました。また具体的に「お客様を家に招いて、食事を提供する、もてなす…」場面を思わされました。「もてなす」とは「心を込めて客の世話をする」という意味があります。身近なところでは家族に対して、互いにもてなすということが実践できます。外から帰ってきたご主人を食事を用意して待っている奥樣方は、家事全般を持ってご主人をもてなしているわけです。夫婦、家族、兄弟、親子、仲間…喜ぶ姿が見たくて、何かしてあげたくなります。子ども同士でももてなしの心があるのを見る時、神の家族ではなおさらか、と思います。
もてなすことについて、気をつけなければならない点があります。それは、本来のもてなしを、また相手を大事に思って始めたはずのもてなしなのに、「これだけやってあげている」という思いにすり替えられてしまわないようにということです。(ルカ10:40)に出てくる姉のマルタは、イエス様のもてなしのために一生懸命準備をしています。マルタは、あのイエス様に、誰でもできることではない、もてなしというとても良いことをしていたのです。しかし、マルタはつぶやいてしまったのですね。イエス様のためにという動機が、見える現状(この場合は妹の行い)によってすり替えられて、つぶやきに変わってしまいました。私たちにもありがちな部分ではないでしょうか。
そして、礼拝とは、何よりも私たちにとって一番大事な方であるイエス様をもてなす場だと気づかされました。日頃、イエス様からいただいている愛に対して感謝をお返ししたい、賛美をもって主をほめたたえますと礼拝に参加しているわけですが、どうも準備不足のまま礼拝に参加していることが多いのではと思わされました。招く方が大事な方であればあるほど、準備もていねいにし、その方のためを思っていろいろ考えるはずです。この礼拝において、いったいどういう姿勢が神様に喜ばれるのだろうか、ということを忘れてはいけないと思いました。
互いに心が喜ぶことが、互いにもてなすことですが、私たちが喜びをもって神様をお迎えする時に、神様も喜びをもって私たちのところに来てくださるのが、私たちの神様へのもてなしと言えるのではないでしょうか。
日常生活の中で、私たちができるもてなしがあると思います。それを探していただいて、わなに陥らないように、しかも自分のできる範囲で力量に応じてしていただけたらと思います。大事なことは相手に喜んでいただくことであり、大事にしている心が相手に伝わることが大切なのですから。そういう心をもって、互いにもてなし合うことを愛し合う実践としていきたいと思っています。
【横路伝道師メッセージ】
3.互いに心を一つにする(ローマ12:16)
“互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。”
【内容観察】
「互いの心を神の愛に合わせて一つとなり、比較社会に染まっている間違った自尊心を捨てて、社会的弱者の気持ちに合わせなさい。自分は他の人と違うなどという高慢な気持ちを捨ててしまいなさい。」
心を一つにすることは、人の個性がそれぞれ異なることから、実はなかなか難しいものです。夫婦でも家族でも一つになるのは、時には困難です。しかしまず最も大切なことは、私たちがイエス様と一つになることです。イエス様を信じるということは、イエス様と一つになることです。栄光の神様が、私たちと一つとなってくださるとは、何とすばらしいことでしょうか。一つとなるとは一体となるということであり、結婚の真理に見られるように、相手に対して献身することです。「全てを相手に捧げること」が一つとなることです。
私たちは全てを神からいただいており、このことが本当にわかり感謝できると、私たちも喜んで神様に全てをお返しすることができるようになります。私たちは、全てを自分の力でやっていると思っていますが、よく考えてみると、水も空気も食物も私たちの命も、すべて神様からいただいているものであり、生活のための収入であっても、神様が今日私を生かし、そのところで生きる力を下さっているから収入があるのです。私たちを愛し、私たちの救いのためにイエス様がすべてを捧げて十字架の上で死んでくださったから、その愛に応えて、私たちもイエス様にすべてを捧げようと愛の決心をして、洗礼を受けたのです。これは献身です。
献身するとは、相手と一つになること、同化することです。私たちはイエス様と一つとなり、夫婦は相手と一つとなり、家族も一つ、教会はキリストを頭として一つになる、互いに愛し合い、全部を捧げ合い、一つとなる関係が最も麗しい関係です。
“あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。”(第1コリント12:27)
体の各器官が互いに協力して働かないと、問題が起きます。右足と左足が勝手な方向に歩こうとするなら、人は倒れてしまいます。食事をする時も、外出する時も、すべての器官が共に働かないと食べられないし、交通事故に遭う危険があるでしょう。
デボーションノートに、「なぜ一つになれないか、一つになるためには誰に心を合わせるか」について【内容観察】でわかりやすく説明してあります。
「高ぶった思いを持たず」とありますが、これは「比較社会に染まっている間違った自尊心を捨てなさい」ということであり、「かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。」とは、言い換えれば、「社会的弱者の気持ちに合わせなさい。自分は他の人と違うなどという高慢な気持ちを捨ててしまいなさい。」ということです。
現在の能力中心社会、比較社会の中で影響を受けて、いつの間にか私たちの中にも「まだ自分の方があの人よりマシだ。」と思ったりする偽りの高慢が入り込んではいないでしょうか。人と比べるのではなく、聖書のみことばに照らし、神様の御前に自分を見れば、正しい良心と愛が育ち、悔い改めと聖さに導かれます。
それは、弱い者、貧しい者にいつもその御目を留めてくださる愛の神様のみこころに合わせることです。
私たちも二人でチームで走る場合には、足の遅い人のペースに合わせて走りますし、良い子育てをする親は、子どもの目線とその成長に合わせて教え、育てて行きます。親のペースで子の未熟さを怒り、叱りながら引っ張って行くやり方はうまくいきません。神様も私たちの弱さ、未熟さ、遅い歩みにも合わせ、忍耐をもって寄り添ってくださる愛の神様です。
私たちは罪赦され、神に愛されている者同士ですから、この神の愛のゆえに、必ず一つになり、「自分は他の人とは違う」などという高慢な気持ちを捨ててしまうことができるのです。
(ローマ書12:15)には「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」とあり、(第1コリント12:25〜26)には「それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。」とあります。私たちが互いに喜び合い、互いに手を取り合って泣くほどの愛の一致を持ち、一つとなることはすばらしいことです。兄弟姉妹のため、家族のため、心を合わせ、一つとなって祈り合いましょう。
また、救われていない魂のために、広島のために、日本のリバイバルのために心を合わせ、一つとなって祈り合いましょう。私たちが互いに愛し合い、心を合わせ、一つとなる時、神の栄光が現れるからです。
■2013年4月21日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
眠った者たちへの愛 up 2013.4.21
眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。
(第1テサロニケ4:13)
眠った人々とは亡くなられた人々のことです。この眠られた方々と私たちとの関係について考えてまいりましょう。健全な関係は愛によって結ばれます。今の世界は、利害関係が優先された結果、非常に醜い事件が起こるようになり、大変悲しい気持ちにさせられます。そんな状態に陥らないで本心が目覚めているよう、私たちは毎週聖書のみことばを聞き、聖書の学びをしています。
1.主題聖句について(第1テサロニケ4:13)“みことばは前述”
【内容観察】
★『眠った人々のことについては』
⇒キリストにあって他界した愛する人々がどうなっているかについては
前提としてクリスチャンに語られたものであり、眠った人々もキリストを信じて神を畏れる敬虔な人です。「眠った」とは愛する人々を失った悲しみへの配慮のことばです。
★『知らないでいてもらいたくありません』
⇒何も知らないまま過ごすことのないようにしてほしいのです。
感情に任せたまま過ごしてほしくないのです。無知なままだと、人は感情に流されやすいものです。
★『他の望みのない人々のように』
⇒死後を左右するキリストの救いを 信じることをしない人々のように
今の科学の時代、死を考えること自体を愚かしいと放棄することは非常に残念です。死ねば終わりで何もないと考えると、今だけの楽しみを最優先して生きる人生になります。社会的秩序を保てるならば、多少の悪は許されると考えるのです。しかし個人の楽しみを追求する人が集まると、どこかで必ずあつれきが生まれます。自分ルールは他の人のルールと一致できません。社会的秩序は、自分ルールによって乱されます。この拡大版が戦争です。
平和のついての考え方も、なるべく事を穏便に済ませようとする、島国で農耕民族の日本と違い、大陸の人々は自己主張し戦って権利を勝ち取ります。和平も戦争も、自分の利益に沿うか否かで決まります。
このように、自分だけが善良に生きても他の人が悪を企んだら何にもならないと、善をあきらめる人もいます。しかし、社会的矛盾に対して、最後に全てを正しく裁かれる神がおられるのです。
「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)のです。
もし神がおられないのなら、私たちは集まりはしませんでした。人間性においてクリスチャンに何か特筆すべきところがあるわけではなく、「愛の神を信じている」ことに意味があるのです。自分の不出来を嘆きながらも、神様への期待のゆえに毎週教会に来ているのです。次子姉も、自分との戦いに勝利するために、神様の助けを期待して毎週来ておられました。この地上でも愛の力は偉大なものです。神様の愛の力はそれ以上です。ですから、愛に溢れた人は誘惑に強いのです。自分らしく生きる、自制的な人生のために愛の力は欠かせません。ですから私たちは、神様の愛を求めて教会に集まっています。
★『悲しみに沈むことのないためです』
⇒死別の悲しみ、二度と会うことができない悲しみで何もできなくなってしまわないためです。
(第1テサロニケ5:14〜18)は愛する者と今離れている人々への慰めと励ましのことばです。イエス様を信じることによって愛する者と再び会えると知れば、その約束を信じて待つことができます。その悲しみが深いほど、待ち望む心は強くなるのですから、悲しみ深い人にこそ、知っていただきたいのです。神様が私たちの代わりに罪の裁きを受けて、私たちの罪を赦して、もう一度人生をやり直すことができる救いを成就してくださったことが、再会の根拠になります。
永遠の未来に対して希望を持つことができるのが、十字架です。しかし、赦しにも一定の条件はあります。もし自分に対して罪を犯した相手が謝罪に来たなら、赦すために希望する条件があるでしょう。一番心慰められるのは、相手の人生が全く別の人のように生まれ変わることではないでしょうか。人を傷つける人生から人を助ける人生に変わったなら、あなたの心は少しでもなごむのではないですか。私たちがそうであるなら、愛なる神はなおさらそう思われます。
今、周りを見渡して、神様の前に再会したい人はどのくらいおられますか。こちらで体験した事柄を、再会した時に話し合える喜びがたくさんあることでしょう。神を敬うことの大切さ、なつかしい人々と再び会える幸せを約束されているのです。これも、イエス・キリストを信じたゆえの特権の一つと言えます。
永遠の別れを悲しむことのないために、愛なる神様を敬い、尊んで生きましょう。その愛なる神様、すなわちイエス・キリストとしてこの地上に愛をお示しくださった方を敬う心を持って。他宗教もしくはキリスト教という宗派のイメージではなく、『愛』を信じましょう。愛は神から出たものであると聖書に記されています。そして神の愛はキリストを通してこの世に表されています。すべての人は神の愛にかたどって創られており、愛を大事にする人は必然的に敬虔になります。自分の本性である神の愛を信じることは、本当の自分らしく生きることでもあります。
2.『寿山福海』(エレミヤ17:7)
“主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように。”
このみことばは、次子姉の愛唱聖句です。
★『寿山福海』の意味
寿が山のように高く、福が海のように深いという意味。
幸福で長生きをするということをあらわす吉語。
【内容観察】
★創造主である神を敬い畏れる敬虔な者こそ、祝福を受けるにふさわしい。
成功や富などの目に見える形での祝福がすべてではありません。本当の祝福は、創り主であり天の父である神を信頼し、敬い、頼みとする敬虔な者こそが受けるにふさわしいのです。これこそが神の目に価値のあるものです。人徳的な豊かさの祝福は、神を敬う心が基本であり、これは全世界的に共通するものです。どんなに成功しても、人の命や人格を尊ばないなら、そのような人は尊敬できません。
安倍首相が打ち出された道徳教育も、昨今廃れていた理由は宗教的だからです。善悪には必ず宗教が関わってきます。無宗教でなければならない日本の学校教育では、善悪を教えられなかった子どもたちが、利己的打算的に育ってしまっています。彼らには人の痛みがわかりません。悲しみを思いみることができません。勝つことがすべてであり、それゆえに問題が山積しています。そこから考えても、敬虔な心は祝福への近道です。
では祝福とは何でしょうか。愛のつながりがそこにあるということです。気遣いや世間体もあるかもしれませんが、それらを含めても、愛をすることに加わるのは愛がある証拠です。お互いへの心配りが表れたものが、礼儀ある行動です。人を祝福するとは、相手を自分よりも良い人、すばらしい人、将来に希望がある人としてお祝いすることです。「あなたは私よりすばらしい。あなたにはより幸いな未来が見える。」と相手に表現することが祝福することなのです。この世的なものではなく、人の存在、魂の価値を高く評価することです。
神様の祝福も、私たちの魂を罪人の汚れた無価値なものとしてでなく、「わたしの目には高価で尊い」とおっしゃったように、祝福を大事なものとして受け止めましょう。神様を信頼する敬虔な人こそ、祝福を受ける者にふさわしい人格者であるという意味が(エレミヤ17:7)には記されています。次子姉は、まわりの人が気づかなくても、自分自身に心の汚れや醜さがあることをよくわかっておられました。さらに、行いにおいては理想通りにいかないことだらけでも、主を信頼し、より頼む者は祝福されますようにと願う敬虔な心を持ち続けることなら、自分にも可能であると希望を持たれました。こんな自分でも愛の神であるイエス・キリストは受け入れる心を見てくださり、神は私を祝福してくださると。
皆さん、愛を信じるとは案外たやすいことでもあるのです。なぜなら、人が人を信じるのは、動機となる愛を信じているのだからです。人の心の中心は愛ですから、その変わらない愛の部分を信じるのです。しかし、愛の心を利用して悪事を企む人々もこの世界にはいます。彼らは、そこまでしてもこの世の楽しみを追い求めています。罪に染まっていることさえわからないのです。
今、私たちがここに集っているのは、自分の心を自分らしく保つための大事な時間だと言えます。次子姉も(エレミヤ17:7)を
通して、自分を見失わないようにしっかりと神の御前に歩まれました。
故人を偲んで、一緒に過ごした時間のことを思い出しながら、感謝を心の内に思い浮かべ、故人を悲しませることのないようにするのが、眠った人々への愛です。この地上にいないとしても、人を悲しませることほど心痛いものはありません。自分の悲しみばかりに心を向けていては、人の悲しみに気づきません。自分中心では故人を偲ぶことはできません。自分の愛する者が地上を去っても、その愛する者のゆえに自制するでしょう。ましてや、その霊がどこかで傷つき悲しむことになるなら、なおさらのことです。私たちは親兄弟を、周りの人々を愛するから、勝手な行いを慎むのではありませんか。
イエス様も私たちを愛して、罪の束縛、欲望の奴隷から救い出すために、自分の楽しみは何一つせずにこの地上の人生を送られました。あなたの罪を赦すために、自分勝手なことは一つもなさらず、不自由に過ごされたのです。
葬儀に際してご遺族の方々から故人への感謝の言葉が贈られましたが、これは故人がいかに自己犠牲して我がままを自重したかの表れです。多くの感謝は、自己をいかに犠牲したかに比例しています。受けた愛を思い起こせば自制できます。私たちも、受けた恩を忘れないようにしたいものです。
「春の風 偲びし人の 面影が」
暖かさも冷たさも味わう、この春の風。おおらかな時、冷たく厳しい時、激しく心揺さぶられる時。春の風に触れる度、故人の姿を思い出します。亡くなった人を偲ぶことは、心に優しさを呼び起こします。彼女の主への信仰姿勢は、すばらしい生き様であったと尊敬します。
■2013年4月14日 日曜礼拝メッセージより(横路伝道師、辻和希伝道師、小栗伝道師)
至理名言の戒め(2) up 2013.4.14
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。
(ヨハネ15:12)
『至理名言』の意味⇒道理にかなった適切な良い言葉。
「理想の社会構造は『愛』が基盤である。
その『愛』とは、キリストが私たちを愛された愛である。」
《横路伝道師メッセージ》
先週は、互いに愛し合うために、互いに赦し合い、へりくだる愛について学びましたが、今日はその続きを学びたいと思います。
1.互いに受け入れ合う(ローマ15:7)
“こういうわけですから、キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい。”
ローマのクリスチャンたちの中には、異邦人の改宗者がたくさんいたと思われますが、教会全体が一致して神をほめたたえるよう、争わないで互いに受け入れなさいと勧め、互いの間に対立関係や不一致があるなら、それは神様の栄光を妨げるものと教えています。「互いに愛し合う」前に、「互いに受け入れ合う」段階があると思います。愛するのはすぐには難しく感じる時、まず受け入れるところから始めましょう。どのように受け入れるかを学びたいと思います。
【内容観察】
★『こういうわけですから』
⇒隣人愛は父なる神にすべての栄光が帰されるためなのですから、
★『キリストが神の栄光のために』
⇒愛の救い主であられるキリストが愛の神の最大の愛のために
★『私たちを受け入れてくださったように』
⇒決して受け入れることができない罪人である私たちを最大の愛をもって受け入れてくださったように
神様がそのひとり子イエス様を、罪のため滅ぶしかない私たちの救いのために、十字架につけられるほどの愛を示されたこと、それが神の栄光、愛の神の最大の愛です。神様は罪人の私たちを受け入れてくださったのです。
最近はあまり見られませんが、以前には、田舎の田畑のそばには肥だめがありました。そこにもし転落したら、汚く、臭く、とてもひどいことになりました。罪の汚れに染まった私たち罪人は、神様の目から見れば、まるでこの肥だめに落ちた者のようです。汚く、臭く、吐き気を催すほどのひどい存在でした。それは、聖なる神様には決して受け入れることのできない状態です。
もし自分の幼い子どもが肥だめに落ちたとしたら、親はこれを汚いから臭いからと言って放置するでしょうか。必ず手を差し伸べ、助けに行くと思います。このように愛する子を助ける親の愛は「親の栄光」であり、もし助けることをしないなら「親の恥」です。
神様はご自身の聖さを損なうことを嫌って、汚れた臭い肥だめに落ちてもがき苦しんでいるような私たち罪人を助けられなかったとしたら「神の恥」であり、愛の神とは言えません。しかし、あえてその中に飛び込んで助けられたら「神の栄光」です。神様は私たちのために大きな犠牲を払い、飛び込んでくださったのです。私たちはこの神の最大の愛『神の栄光』のゆえに、永遠の滅びから救われたのです。感謝します。
★『あなたがたも互いに受け入れなさい』
⇒あなたがたを受け入れてくださった愛の神の最大の愛を証明するためにも、互いに受け入れ合うようにしなさい。
私たちは一体何を受け入れるのでしょうか?まずその人の存在を受け入れることです。受け入れるのが難しいと感じているその人も、神様の創造された「高価で尊い人である。」と受け入れるのです。また神様のご計画があり、その人の役割と使命があるからこそ、あなたのそばに置かれていることを受け入れることです。
それを嫌い、無視するなら、神様の創造とご計画を嫌い無視する「傲慢」となるのではないでしょうか。(第1コリント12章)には「あなたがたはキリストのからだであり、ひとりひとりはその器官である」とあり、目が手に向かって「私はあなたを必要としない」、また頭が足に向かって「私はあなたを必要としない」と言うことはできません、とあります。私たちが神の国を建設していくためには、お互いが必要な存在であると受け入れ、助け合い、良いチームワークによって前進しなくてはいけません。一人一人の違いと役割、使命があるのです。お互いが必要不可欠な存在であると気づき、受け入れ合い、一致して前進するところに「神の栄光」が現れます。難しいから、嫌いだから、人を受け入れないと言わずに、できるところから互いに受け入れることにチャレンジしていきましょう。自分の好き嫌いや基準で人を見るのではなく、神様の視点で見ることです。
また、神の前にへりくだって「互いに受け入れなさい」というみことばに従うことです。イエス様も父なる神様のみこころにへりくだって従われ、十字架につけられることを受け入れられました。使徒ペテロも、受け入れ難い異邦人を受け入れ、百人隊長コルネリオの所に出向きました。神様の御声に従ったのです。私たちもみことばに従い、へりくだって愛の神の最大の愛を証明するためにも、互いに受け入れ合いましょう。
《辻 和希伝道師メッセージ》
2.互いに励まし合う(ヘブル3:13)
“「きょう」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。”
私たちは交わりを通して「互いに励まし合う」ことをします。みことばの「日々互いに励まし合って」は「日々互いに交わりを持って」とも言い換えることができます。
【内容観察】
★『きょうと言われている間に』
⇒御霊に示されたことは明日に延ばさないで今日のうちに。
当然のことですが、今日という日は今日しかありません。また今日しかできない交わりがあるとも言えますね。「いつ励まし合うのか」と言う時、某有名予備校講師が語っている「今でしょ!」という言葉は、実にクリスチャンにとってもインパクトを与えます。私自身、「いつ祈るのか。いつ聖書を読むのか。」との神様からの示しに対して、「明日でも5分後でもない。今だ。」と思わされています。
私たちは、日常生活の中で優先順位をつけて物事を行っています。その中でも今日しなければならないこと、今しなければならないことを先延ばしにすると、後になって大変になります。それでも宿題とかはがんばればできますが、「御霊に示されたこと」については「今示されたこと」を先延ばしにして、はたして翌日も同じ「示し」が来るかどうかわかりません。神様は私たちに、「今、その時に」必要なことだからお語りになると思います。せっかくの神様からのコンタクトを先延ばしにすることによって、神様の声を聞き逃してしまうことは、自分にもあると思わされています。「互いに励まし合う、互いに交わり合う」という時、教会でも日曜日に集まったり、各曜日に部会で集まったり、単位を小さくすると家族や親子での交わりがあったりします。これらのことをこのみことばで考えるならば、「日々互いに励まし合うことを怠れば、罪に惑わされてかたくなになりますよ。」ともとらえることができるのではないでしょうか。それくらい交わり、心を通わせ、互いに励まし合うことは、クリスチャンにとって神の家族にとってとても大切なことだと思わされました。互いの交わりを怠って先延ばしにして、神に近づくはずはありません。同時に、「今日と言われている間」という「今日一日」を大事にしたいですね。
「ときを大事にする」姿勢は、「再臨を待ち望む」姿勢に似ています。(マタイ24:42)には、「目を覚ましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。」また(マルコ13:35)「…家の主人がいつ帰って来るか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、わからないからです。」(ルカ12:40)には「思いがけない時に来る。」ともあります。再臨を待ち望む姿勢はすごくシビアで一秒一秒心を向けていないと、気づいた時には主が来られていたということになりかねません。「何をするにしても主のためにしなさい。」というみことばがあるように、本来毎日一秒一秒を神様との時間として持つように、神様は望んでおられるのではないでしょうか。しかし、いろいろな環境状況におかれていて、なかなかできにくいものです。だから、励まし合うことについては「今日と言われている間に」という24時間の猶予があるのかもしれません。私たちが与えられている同じ時間をどのように使うかは、それぞれに委ねられています。神様のために使うか、肉欲のために費やすかを正しい良心をもって判断していただきたいです。その交わりが日々積み重なって、互いに愛し合う過程ができるのではないでしょうか。今日一日、徳の高め合う交わりを通して「互いに愛し合う」ことを神様の前に実行していきたいと思います。
《小栗伝道師メッセージ》
3.互いに仕え合う(ガラテヤ5:13)
“兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。”
私たちは主に呼び出された者であり、主を畏れ、愛し、主への愛を優先する心があることを主は知ってくださっています。(第2テモテ2:19にあるように、神様は私たち一人一人を個性豊かに創られ、ご自分のものだと語り続けてくださっています。)
【内容観察】
★『自由を与えられるために召された」
⇒貪欲の欲望から解放されて、愛を自由に働かせることができるため
にキリストによって愛の神のもとに集められたのです。
召される(身分の高い人が、下の人を呼び出す場合の尊敬表現)〜創造主なる神が私たち罪人を呼び寄せてくださいました。自分ではいいと思っていても、神様から見られたら、神様から遠く離れて目を背けたくなるような私たち罪人の惨状を神様はあわれんで、キリストを地上に送って十字架にかけられたのです。イエス様は、自己満足に生きる命令に背けない罪人の貪欲による束縛を断ち切ってくださり、私たちが自由を選ぶことができるようにしてくださいました。すべてのことはしてもよい自由が与えられても、すべてが有益になるとは限らない中で、罪人の選び方によっては被るかもしれない犠牲も払うことを神様は承知で、罪人に自由を与えられたのです。それほどまでに、私たちを愛し続け、呼び続けてくださった神様の前に、私たちは何を選んで生きるのでしょうか。
★『肉の働く機会としないで』
⇒自己中心の貪欲をのさばらせることをしないで
肉は、たえず自分の思いを満足させ、自分の欲求を満たすために働きます。また、のさばらせるとは、まるで主人のようにいばり、大きい顔をすることです。せっかく自由になった私たちの心に、貪欲が働こうとします。私たちも自分を満たしたいという本来の罪の性質がありますので、「自分のために」心を使おうとしてきます。さらに「…神よりも快楽を愛する者になり…(Uテモテ3:4)」といった貪欲への誘惑を引き出す世の情報もあります。聖霊様は「何を見、何を聞き、どこへ行き、何をしますか。」と自由を与えられた私たちの思いを知りたいと思っておられます。何を選んでも良い自由が与えられた私たちですが、自由を与えてくださった神様の思いを考えたいと思います。自分に自由が与えられるために支払われた犠牲を知ってなお、自己中心を選んで生きることは、犠牲を払ってくださった方の思いを考えていないのではないでしょうか。貪欲がどのようにのさばってきても「肉よ。貪欲よ。おまえの指図は受けない。」と断言すべきです。また行動する動機に、自己実現を美化する貪欲が隠れていることもあります。これくらいはいいだろうと貪欲が引き出される誘惑はいつもあります。私の心に貪欲がのさばっていないだろうか、自己満足のために生きていないだろうかと、常に自分の心の動きを調べてみる必要があるのではないでしょうか。
★『愛をもって互いに仕え合いなさい』
⇒愛の動機を自由に働かせて仕え合うようにしなさい。
「仕える」とは自分よりも他の人を優れていると見る心がへりくだった姿勢です。イエス様は神様ですのに、弟子たちの足元にひざまずいて、弟子たちの汚れた足を洗われました。十字架での姿もそうです。罪人が果たして信じるかどうかもわからない中で、イエス様は先に私たちに仕えてくださいました。私たちの愛の動機は、神様が私を愛してくださり、イエス様の十字架の犠牲により自由にしてくださったので、その神様を悲しませたくない気持ちから出ています。貪欲は主を無視すること、主からのコンタクトを無視して、自分の満足に生きることを選びます。
「互いに仕え合う」という時に、自分に仕えてくださった主の姿を思いみて、自分にできる分で、教会に、兄弟姉妹に、まだイエス様を受け入れておられない方に対して、自分を与えることだと思います。しかも「〜ねばならない」ルールではなく、嫌々で行うものではありません。嫌々になること自体、仕えているように見えても「愛の動機」ではありません。あの放蕩息子の兄は放蕩して帰ってきた弟が歓迎されているのを見て「長年の間、私はお父さんに仕えたのに、報いを受けていない」と不満を訴えました。良い動機で始めても、してきたことへの報いを考えてしまうようになると、もはや「仕える」心から外れてしまいます。仕えていると言いながら不平が出るならば、結局自分の満足のため、自分を喜ばせるために仕えているという形を取ったに過ぎないとも言えます。報いの言葉が相手から返ってこなくてもいいのです。神様が報いてくださるのですから。仕えるというのは、人に見られているとか認められようとかの肉の思いはさらさらなく、ただ人のために自分を与える思いがあるだけです。私たちの周りには仕える場面がたくさんあります。奉仕に限らず祈ることもそうです。
神様に召されて神様に方向を向けた私たち。イエス様によって与えられた自由を感謝します。私たちが仕え合うことができるようになるまでイエス様は十字架で犠牲を払ってくださり、導いてくださっていると信じます。
■2013年4月7日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
至理名言の戒め up 2013.4.7
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。
(ヨハネ15:12)
「桜散る 嵐の先に 虹を見る」(投稿作品)
※桜が春の嵐によって散って行く姿を見た。人生も良かったと思ったことが、はかなく過ぎ去って行く。しかしその先には、いつも神様のみことばの約束がある。
『至理名言』の意味⇒道理にかなった適切な良い言葉。
「理想の社会構造は『愛』が基盤である。その『愛』とは、キリストが私たちを愛された愛である。」
損得や優劣も人間関係の要素に含まれていますが、神様の理想は愛の絆を互いに結び持つことです。会社でも地域でも教会でも。神様の戒めは、良い社会のために与えられました。「互いに愛し合いなさい」という戒めは、社会生活において重要な人間関係の基礎です。そしてその「愛」は、「キリストが私たちを愛された愛」なのです。
1.キリストが愛されたように(コロサイ3:13)
“互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。”
【内容観察】
★『互いに忍び合い』
⇒互いに自己中心や我欲からの自己主張を通さず。
私たちの自己中心の主張を通したい心を自制し、欲望を抑制していきます。これは愛の表れでもあります。
★『ほかの人に不満を抱くことがあっても』
⇒たとえ自分が正しいと思えることがあったとしても。
不公平を感じた時が、一番不満を抱く時です。私たちは罪人であり、完全な正しさを持つことはできないので、相手の方がはるかに悪の度合いが高いとしても、という意味です。
★『互いに赦し合いなさい』
⇒互いに自己義を主張して言い争わず、平和を保つようにしなさい。
愛は争いを避けます。争いは勝敗によって幸不幸を作り出すものです。互いに赦せば、どちらも幸せになれるのです。
★『主があなたがたを赦してくださったように』
⇒自分の罪のためにではなく、罪人の罪が赦されるために、赦しの苦しみを負われるほど私たちを愛されたように。
主は私たちの苦しみを代わりに負われました。私たちも、人を赦す時には苦しみを負うのです。
★『あなたがたもそうしなさい』
⇒赦しの苦しみを互いに負い合い助け合いなさい。
赦すことは楽ではありません。イエス様は罪を代わりに負う苦しみと、私たちを赦すという苦しみの2つとも受けられました。赦すことには非常な精神的葛藤が伴います。しかし、それをあえて負うことが愛であると、イエス様の十字架から学ぶ必要があります。
【敬聴と適用】
★『赦す』力はどこからもたらされるのでしょう。
愛は是非や善悪を決める争いをしません。人間の感覚を基に判断すると、常に争いが起きますが、本来神様が創られたすべてのものは良いものです。神様の大きなお心からのご判断なら、優劣などはありません。
「愛するとは赦す苦しみを負うこと」ということから思い起こされるみことばに、“…「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」”(ルカ9:23)“「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」”(マタイ10:38)などがあります。
十字架にはいろいろな意味がありますが、赦すための苦しみもその中に含まれます。毎日の社会生活の中でも、平和を保つためには赦し合うことが最善です。そのために赦すという十字架を背負うのです。多く赦された者は多く愛します。(ルカ7章)に出てくる罪深い女性が、イエス様について来て行ったことが記述されていますが、人は愛を感じたら、他人を赦す心が生まれてくるものなのです。
赦せない場合は、損得の考えがその人の根底に残っているのです。内容観察で挙げた★のポイントの逆を心に持っているから、争いが起こるのではないでしょうか。愛は、私たちの考えを根底から創り変える力があります。愛に触れた人は心が砕かれ、へりくだることができ、人を赦すことも可能になります。
2.キリストがへりくだられたように(ピリピ2:3)
“何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。”
人が謙遜する時には、自分のプライドを保てるだけの根拠があるものです。しかし、イエス様は神様の位から何もできない人間になられました。テストで満点を取れる方が十点しか取れない者になられたのです。
【内容観察】
★『何事でも』⇒事を行うにあたって。物事の大小にこだわらず。
★『自己中心や虚栄からすることなく』
⇒周りを見ないで自分本位に行動したり、人の目を気にして自分を良い者のように見せかけたりしないで。
★『へりくだって』⇒自分を過小評価するほどに。
★『互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい』
⇒おのおのが相手に対して、自分よりもすぐれていて尊敬できる人物であると受け止めなさい。
上記の事柄をイエス様が私たちに対して、してくださいました。私たちをご自分より価値がある者として扱われました。愛とは隣人の存在を尊ぶことにつながります。尊ぶと仕える心が生まれます。仕えるとは、その人の成長を助けその人の徳が高められるために手を貸していくことです。
【敬聴と適用】
★愛は、どうしてへりくだる心をもたらすのでしょう。
今回は「赦す愛」と「へりくだる愛」の二つについてデボーションを重ねていただきたいのです。少しでも神様の愛が自分の内に湧き上がってくるようにと。そして神様の愛に動かされて、赦しの苦しみを負うことにチャレンジし、神様の愛に触れられて、人を自分より尊い者として認めていくことにチャレンジしてください。できるか否かではなく、挑戦していくことが大事です。キリストが私たちを愛してくださったように私たちも互いに愛し合う、というこの戒めは、本当に理想的なすばらしい社会構造のための基盤となります。
ここで一つ注意していただきたいことがあります。愛についてみことばを学ぶと、私たちは無意識のうちに、その戒めを使って人を裁く罠に陥りやすいのです。戒めは自分が愛をするためにあるもので、決して人を裁くためではありません。人を注意する前に自分を吟味してください。へりくだりの心が見られるところには、神様の愛が伝わっていることがわかります。
「花冷えに 近づく終末 重ね見て」
「世の終わりには愛が冷える。」と、イエス様はおっしゃいました。花を見ようと外に出ると寒いこの状態は、経済が繁栄している中でも愛が冷えている、この日本社会のようです。教会の中では、キリストの再臨を待ち望む、暖かい愛を保ち続けていただきたいと願います。
■2013年3月31日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
よみがえりの愛に生きる up 2013.3.31
また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。
(第2コリント5:15)
今日は、愛という視点から復活についてみていきます。キリストが十字架にかかって死なれたのは、クリスチャンのためだけでなく、生きているすべての人々のためであるとあります。どういうことでしょうか。愛とよみがえりの深いつながりについて、ひとつひとつのことばから考えてみましょう。
1.主題聖句について(第2コリント5:15)“みことばは前述”
【内容観察】
★ 『キリストが』
⇒愛の神が私たちを永遠の滅びから救うために遣わされた救い主が。
キリストに、愛の神は権威と力を与えられました。私たちを救うために権威をもって遣わされた方がキリストです。
★ 『すべての人のために死なれたのは』
⇒私たちの罪を処分するために、私たちを愛して身代わりに
刑罰を受けられたのは。
私たちが罪の裁きを受けず、永遠の命を受けるために、キリストは身代わりになって十字架で罪を負われました。
★ 『生きている人々が』
⇒この世に生を受けて生まれて来た人々が。
全世界の人々が対象です。
★ 『自分のためにではなく』
⇒自己中心で我欲のままに貪欲を満たす自己満足な生き方でではなく。
この世の人々はほとんどの場合、自分のために生きます。特に経済社会では、欲を満たすことに焦点がいってしまい、自分の願いがかなって、思い通りに生きることが人生の目的であるかのように考えてしまいます。
★ 『自分のために死んでよみがえった方のために』
⇒豊かな恵とあわれみをもって私を愛してくださった方への愛のために。
愛を注いでくださったゆえに、私たちはその愛のゆえに生きるのです。
★ 『生きるためなのです』
⇒この人生を神の愛のうちに歩むためなのです。
結論です。
この★印を続けて読んでいただくと、この聖句がよくわかるようになります。私たちの人生の意味は、愛に対して愛に報いる生き方をすることです。そのために、まず、神が愛をもって、私たちの内に愛を目覚めさせてくださいました。私たちは本来そのように、愛に対して愛をもって応えられるように形造られたからです。被造物はすべて、愛に応えるように造られています。動物も植物も愛されるとその愛に応えます。愛に対して愛を報いる人生は、最も生き甲斐を感じさせる人生だと言えるでしょう。
【敬聴と適用】
★愛してくださっている人(両親や恩師など)の愛のために、
どのように応えていますか。
まず、人との関係において、実践してみましょう。特に愛してくださっている人、両親に対してです。
十戒で、神様は「あなたの両親を敬え」と言われています。隣人愛で、まず初めに十戒に出てくるのが両親です。親の愛に対して、子供は尊敬の愛をもって応えていきなさいとあります。尊敬する心があると、自発的に従う事ができるからです。尊敬する人のことばには従えるものです。
例えば、牧師のメッセージを聞くとき、どこに尊敬の心をもつでしょうか。外見でしょうか、話し方でしょうか、能力でしょうか。そうではなく、私と神との関係の深さに尊敬の気持ちをもって頂けたら、それは本当に幸いです。クリスチャンとして、イエス様との信頼関係の深さをほめられたら、どんなに嬉しいことでしょう。
親に対してどういう尊敬の心を持つでしょうか。まず、育ててくれたということに尊敬の心をもつことは大切です。(エペソ6:1〜4)を読んでみましょう。この聖句を「愛」抜きに考えると、子供は親に従わなくてはならないという律法の教えにしか聞こえなくなりますが、愛をもって考えると、まず、親は「主を畏れる子供に育てる親の愛」を持ちます。それは、心の品性、徳の高さをもつように育てるということです。
人として、大切なことは、品性、人格の良さであり、それは道徳心を持っていることであり、その道徳心は、神を畏れる心から生まれます。神を畏れる人の心は自然に高い道徳心を持つようになります。そして、そのように育てられた子供は、やはり、親の神を畏れる心に尊敬の気持ちをもつようになるのです。ここに強い親子の絆が結ばれます。尊敬の心を持って、両親の愛に応えていきましょう。
2.「飲灰洗胃」(ローマ6:4)
“私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。”
★『飲灰洗胃』の意味
心の奥底から悔い改めて再出発すること。心底から改心するたとえ。灰を飲んで胃中の汚れをきれいに洗い清める意から。
【内容観察】
私たちの身代わりとなって十字架で罪のさばきをお受けになったキリストと合わされるバプテスマによって、キリストともに死に葬られ、貪欲の奴隷となっていた人生の終わりを告げたのです。それは、キリストが御父の力強い愛の支えによって死者の中からよみがえられたように、私たちも、御父の力強い愛に支えられながら、神の子として新しい人生を歩み始めることができるためなのです。
これは中国の斉(さい)の時代、ひとりの家臣が罪を犯し、王様がこの家臣をどのように扱ったら良いかを、忠実な家臣にきいた時、その家臣が答えたことばです。もし、王様が彼を許したら、彼は灰を飲んで胃を洗うように、深く悔い改めるでしょうという意味です。腹の底から自分の心を清めて、悔い改めるということを表しています。
よみがえりの新しい歩みと真の悔い改めは深いつながりがあります。今までの生き方にピリオド、終止符を打ち、新しい生き方をするというのは、死んでよみがえるということと同じです。それは、死と葬りと復活を表します。
イエスさまは「悔い改めよ。天国が近づいたから。」と言われました。悔い改めるということは、一端その人生を終わらせ、今までの生き方に死ぬということです。そして、やり直すということは、終わった人生から全く違った新しい人生をやり直すことであり、それはよみがえりということです。イエス・キリストの復活は私たちにそのような悔い改めの人生を象徴しています。
しかし、そのような悔い改めをもつには、180度思いを変える程のきっかけが必要です。ほとんどの場合、何か大失敗をしたり、悪いことをしたということがきっかけになりますが、クリスチャンの心底からの悔い改めは、「御父の栄光によってもたらされる」ものなのです。愛の神の栄光とは何でしょうか。
【敬聴と適用】
愛の神の栄光(輝かしいほまれ)によって、キリストが死者の
中からよみがえられたことを考えてみましょう。
★ の、内容は、簡単に分かる内容ではありません。デボーションで深く考えてみる必要があります。ひとり子であるイエス・キリストを、この世に遣わされた御父は、子を思う深い愛をもっておられます。そして最も神様の愛が輝かしく表されたのは、罪人の罪を贖う贖罪の愛においてです。
百点とってほうびをあげる親の愛よりも、例え十点であっても、将来もっと良い点を取れるようにと期待して、報いをあげる親の愛の方が大きいでしょう。
神様は、私たち罪人が、将来悔い改めて永遠の命に至るようになるために必要であると、イエス・キリストを遣わされました。それは、私たちの罪をおおう親としての愛です。愛なる神様の愛は「赦し」の愛です。
私も母親から、そのような愛を受けてきました。兄や姉と違いあまり成績が良くなくて、父が自転車を買ってくれなかった時、母は助産婦の仕事でもうけたお金を、三年かけて貯めて、私のために自転車を買ってくれました。その時、私は母親の愛に応えるためにも勉強しようと思えました。そして、私は愛する母親に絶対悲しい思いをさせまいと決心しました、今もそのように心がけています。
愛だけが人の心を動かします。イエス様の十字架をとおして表された父なる神の愛は赦しの愛であり、私たちの未来のために支えていこうとする愛です。それに気づくと、どんなに失敗しても、何回でもやりなおそうと従っていけます。そこに希望があります。
復活は、愛によって罪が取り除かれたというしるしです。
黄泉とは罪人が行く所です。ですから、黄泉から帰る、よみがえりというのは罪がないというしるしです。罪のないキリストに、黄泉の力は働きません。黄泉の力は罪人にのみ働きます。それゆえキリストは黄泉にとどまられませんでした。そして、私たちが、イエス様は、私たちの為に死んで黄泉から帰って来てくださったということを、心から受け入れ、感謝して悔い改めるとき、私たちのすべての罪は清められて、もはや黄泉の力を受けない義人とされるという原理が働きます。これがよみがえりの力です。心底悔い改めた者の罪はキリストが負ってくださったからです。
ですから、逆にあなたの霊がよみがえったしるしは、心底悔い改めることができるということでもあります。口先だけ、あるいはうわべだけの悔い改めとは違います。意図して、人間的にこの悔い改めをすることは不可能です。神の愛に触れた心からの悔い改めこそ、全き深い悔い改めになります。つまり、愛によって悔い改め、愛によってよみがえらされます。愛とよみがえりは深いつながりがあるのです。
キリストのよみがえりとは、御父としてのひとり子イエス・キリストへの愛の証です。罪のない御子を黄泉にとどめておくことは決して御父は望まれません。また、イエスさまが地上の33年間罪を犯されなかった動機は、私たちのためでした。イエスさまは、ご自身を喜ばせることは、何ひとつなされませんでした。何故でしょう。それは、私たちの罪の贖いをするため、ご自身を守られねばならなかったからです。その動機は私たちへの愛のゆえです。イエスさまの人生は節制の人生であったとも言えます。ご自身の欲求を満たすことを考えず、ただ、私たちへの愛ゆえに、欲に惹かれず、罪のない人生を歩まれました。そのイエス様のひたむきな愛の人生に、御父は、単に罪を犯さなかったという以上の、愛にある御子の正しさを見られたのです。それゆえ、御父と御子の私たちへの愛の証しがよみがえりなのです。
よみがえりがなかったら私たちの信仰はむなしいとパウロは言いました。神の愛は十字架だけでなく、復活をとおして完成されます。その復活の愛にふれることによって、私たちは真の悔い改めができるのです。
例話)三人の幼なじみがいました。二人の男性と一人の女性です。この女性は二人から同時にプロポーズされます。Aはイケメンでスポーツもできましたが、Bは、見栄えも能力もAに比べると、どうしても見劣りしてしまうのでした。ある日この三人で登山することになりました。険しい道を歩いていて、ふいに女性は足を踏み外してしまい、かろうじて、突き出ていた木の枝にひっかかるという事態になりました。その時、Bはためらうことなく、自分のロープをそばの岩につなぎ、女性の元に降りていき、自分を縛っているロープをほどいて、彼女の腰に結び、上にいるAにロープを引かせ、自分は後ろから支えて、彼女を助けあげることにしました。やっと女性が上に上がれた時、悲劇が起きます。木の枝が折れて、のっていたBは谷底に落ちてしまったのです。山を下りて捜索願いをし、みんなで探しましたが、Bは見つからず、女性は絶望します。しかし、三日後にBは傷だらけになりながらも、自力で帰って来ました。そして、この女性は、Aに対する愛は表面的なものにすぎず、本当に自分を愛してくれるBこそが自分の夫であると悟り、二人は結婚して幸せな人生を過ごしました。
欲に惹かれ、自分中心な愛で互いが結ばれても、結局は破綻してしまいます。相手のために、自分自身をも惜しまないという与える愛に出会い、その愛に気づき結ばれるなら、その愛はいつまでも続きます。
イエスさまの愛も同じです。実際に命をかけて助けてくださる愛をもって、愛してくださっています。そして、その愛が、傷もしみもない完全な愛であるということが証明されたのが、よみがえりです。
Bの、傷だらけになっても、どうしても生還しなければならないという不屈の精神の動機になったのは何でしょうか。それは彼女への愛です。もし、自分が彼女を助けたために死んでしまったとなったら、どんなに彼女が苦しみ一生悔やみ続けるかと思った時に、そのような目に彼女を遭わせたくないという一心で、Bは帰って来たのです。彼女が夫として、例えAを選んだとしても、とにかく彼女を苦しませたくないという思いがBを突き動かし、奇跡の生還をさせたのです。これが真実の愛の証しです。
イエス様も、私たちへの愛を証明するために、よみがえってこられました。よみがえりはこの真実な愛の証しなのです。このイースター、よみがえりに示されている神の深い愛に触れてください。
■2013年3月24日 日曜礼拝メッセージより(小栗伝道師・横路伝道師)
十字架の愛 up 2013.3.24
その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。
(コロサイ1:20a)
【小栗伝道師メッセージ】
今週は受難週として、イエス様が十字架にかかられるまでの特別な週として覚えていきたいと思います。イエス様は、エルサレムに先頭に立って入城されたと書かれているのは、十字架にかかられる覚悟をもっておられたからです。神様のいのちそのものと言っても過言でない十字架の愛を見上げる時として、この一週間を過ごしていきましょう。
神様がご自分が持っておられるそのご性質、力等すべてのものをお与えになった御子イエス様が十字架にかかられて流してくださった血は、すべてのものとの平和を創られ、イエス様を信じることによって罪人は神様との和解(仲直り)できるようにしてくださったものです。私たちにとって、十字架はどのような意味をもっているのでしょうか。
1.十字架の赦しの愛
〜十字架を掲げて、あがなわれた者としての道を歩む〜
神様は、私たち罪人をもう一度ご自分のもとに引き寄せるために、御子を十字架にかけるという最大の決断をなさいました。
こんな話を聞いたことがあります。列車が通る時に、機械を操作して吊り橋を下ろす仕事をしていた父親が、幼いわが子の姿を線路の中で見つけた時には、列車が近づいて吊り橋を下ろす時間が迫っておりました。わが子を助ければ、吊り橋を下ろす時間に間に合わず列車の大惨事は免れない…、列車を無事通過させればわが子は助からない…。究極の選択を迫られた父親は、わが子の命に代えて、列車の乗客の命を救うことを決断したのでした。
これは、父なる神様が御子イエス様を十字架にかけられた思いを表しています。私たちの罪の赦しのための父なる神様の私たちに対する熱い愛を悟らなければ、十字架の意味が薄れてしまうのではないでしょうか。与えられた自由意志を必ずしも神様のもとに帰ってくることを選ぶかどうかわからない罪人のために、イエス様を犠牲にされた神様の大きな決断が、十字架に表されています。この十字架は「血を流すことがなければ罪の赦しはない」律法の赦しを成就するものです。ユダヤ人はこの極刑の十字架の姿を神に呪われた姿として忌まわしいものとしましたが、その姿を神自らがとってくださったのです。
◎十字架を誇る歩みをする(ガラテヤ6:14)
“しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。”
【内容観察】
「私たち罪人を赦すために、惜しげもなく天の御位を捨てて、人のかたちをとって地上に来られ、私たち罪人の身代わりに十字架で罰を受けて死んでくださったイエス・キリストの愛以外に何を誇ることができましょうか。」
私たちが御子イエス様を十字架にかけるほど神様に愛され、赦されていることを自慢し、名誉に思うことは健全です。ところが、私たちの肉は自分に関わる能力、持ち物、立場…を誇りたがります。パウロは、永遠のいのちという魂の救いのこと以外、秀でていた能力も含めこの世の何ものもちりあくたに過ぎず、イエス様が自分を愛してくださって十字架にかかってくださったこのことだけを誇りとすると語っています。
イエス様がご自分の受難の計画を語られた大切な時でさえ、天の御国でのイエス様の右と左の席を要求する肉の思いを話した弟子たち(兄弟の母親が要求した記述の箇所もある)がいたように、私たちもイエス様の十字架を知りながら、自分の欲にしがみついて地上でのことをことさらに思い続けるならば、「十字架の敵として歩んでいる」と聖書には書かれています。私たちの本心はどこにあるのか、イエス様の十字架がご自分に何を表しているかを個人的に考えていただけたらと思います。永遠のいのちは神様から用意されたものであり、自分から作り出せるものではありません。赦しも神様から出ており、すべてのものは神様が先に用意してくださっています。
また、水のバプテスマの真理からすれば、古い人は十字架について処分されており、新しい人しか十字架を誇ることはできません。自分の罪深さを示された時に、十字架について血を流し続けてくださっているイエス様を見て、平気で罪を犯せるだろうか…。逆に十字架のもとに来ないのは、自分の罪を認めたくない、欲の中で生きていたいからかもしれません。
*参考のみことば
「…あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し…。」(黙示録2:5)
霊的に優れた教会であったエペソの教会に語られた主のことばに、今の私たちに通じる忠告があるように思われます。マンネリのまま、何となく賛美し信仰生活を送り、また適当に過ごして一日が終わることも、神様の前に可能なことでしょう。イエス様の十字架も知っていますが…まあ私には私の生き方がありまして…と。そんな時に、神様が「初めの愛から離れてしまった。」と言われていないでしょうか。
「離れる」には「捨てる、初めの愛であるイエス様を捨てる」との原語の意味があります。赦されていることを忘れてしまって、自分の力で何かできていると誇っていないだろうか。十字架をないがしろにしていないだろうか、それは神の愛をないがしろにするとも言えるかもしれません。
「どこから」とは「どんな高いところから」という意味があり、イエス様にすがりつき心から愛する状態は、良い意味で天上の高潔な位置を表すと思います。しかし、マンネリとなり、肉そのものを追いかけている時には、残念ながら地に落ちたと言っていいかもしれません。そこから立ち上がってほしいと神様は願っておられます。
「思い出し」とは「思い起こす」わけですから、十字架を掲げた真理の道からずれた、いつのまにかそれている状態にあるかどうか、時間をとって考えてみる必要があります。またマンネリ状態に陥るのは「飢え渇き」がなくなってきていることを表します。
自分の力ではどうしようもない、どうしても解決が必要なこと、また主にある大切な目標に向かっては必死で祈るはずです。神様の前に眠った状態とは、十字架を忘れて、神様に求める必要はないと自分で思っている状態、こんなものだときよめを求めない状態です。神様にもっと近づきたいという渇きなくして日々を過ごせるのは、怠惰のわなにはまっているように思います。
赦しということから考えれば、「私には赦すことができませんが、赦す力をください。赦せない自分を認めます。」と自分の非を認めて十字架の前に出るならば、主は時間がかかっても赦す力をくださると思います。その渇きに応えてくださいます。ですから、追い込まれる必要もあります。そして立ち返るまで、神様は赦しをくださいます。
◎十字架に込められた神様の願いを考えてみましょう。
*参考のみことば
「…神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」(エペソ4:32)
イエス様は、私たちをサタンがどう訴えようと、私たちが罪なき者としてみていただけるように「この人のためにいのちを捨てた」証拠の血を神様の前に表してくださいました。神様はご自分が創造した私たちとの間に和解を願っておられます。十字架は赦しのしるしです。同時に創られた者同士が和解することも願っておられます。どうしてこんなことが…ということが人間関係の中で起こりえます。赦せない感情は、プライドを持ってへりくだれないところから起こるとも言えます。
十字架にイエス様をかけられた神様の思いはどうでしょうか。十字架を除いて私たちの信仰生活に何の意味があるでしょうか。私たちは自分の目に梁があるのに、人の目のちりを取ろうとしていないでしょうか。私たちがここに来るのは、神様が愛してくださった赦されたお互いとして、また世にない神の愛の溢れるこの場所だからではないでしょうか。
今週はぜひ、十字架で赦された自分を思い、十字架をいつも思いの真ん中に置くことを進めていただきたいと思います。
2.十字架はとりなしの愛
“そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。”
今週は受難週、金曜日はイエス様が十字架につけられた日とされています。十字架上でイエス様は「父よ。わたしを十字架につけた人たちを罪に定めないでお赦しください。」と、苦しい息の中からとりなしの祈りをされました。イエス様は誰のためのとりなしを祈られたのでしょうか?
情け容赦なくイエス様の手足に太い釘を打ち込んで十字架につけたローマ兵たちは、無神経にもイエス様の着物を目の前でくじ引きにしていました。
第一に、「この兵士たちをお赦しください。」ととりなされたと思います。兵士たちは、イエス様がまさか、まことの神の御子であるとは知らずに十字架につけてしまったのですから。
第二に、イエス様を十字架刑に追いやった張本人は、祭司長たち、律法学者たち、当時のユダヤ人の宗教的指導者たちでした。彼らはイエス様がまことの神の子とは信じることができず、神を冒涜(ぼうとく)する者と決めつけ、ねたみと嫉妬のために腹が煮えくり返るほどの怒りで、イエス様を殺害しようと企んだのです。また、彼らのイエス様の殺害が、人々の贖いの供物となり、復活のために必要なことであったことなど、思いもよらなかったのです。
“この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。”(第1コリント2:8)
イエス様は彼らのためにもとりなしの祈りをされたのです。
第三に、イエス様がとりなしを祈られたのは、多くの群衆のためでした。彼らはイエス様の奇跡を見ようとして、イエス様の行かれる所どこにでもついて行った人々であったと思います。この時にも、十字架につけられるイエス様を一目見ようと傍観者としてそこに立っていた人々でした。彼らは、自分たちの救いのために、イエス様が今まさに目の前でいのちを落とそうとしておられるのを悟らず、何もわかっていなかったのです。この時イエス様が「彼らをお赦しください。」と祈られた祈りは、後にペンテコステの日から実現していきました。多くの傍観者であった群衆は、聖霊に満たされた弟子たちの伝道によって、どんどん救われていきました。
第四に、イエス様の「とりなしの祈り」は、逃げて行った弟子たちや私たちクリスチャンに対しても祈られているように思います。私たちクリスチャンも弱さのゆえに、罪の世界の中で貪欲の悪い影響を受けて、いつの間にか初めの愛から離れてしまうことがあるかもしれません。
十字架の下で、イエス様の着物をくじ引きで分け合った兵士のように、イエス様からの恵み(着物)だけに心を向けているような私たち。イエス様はそのような私たちを「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」ととりなしてくださったのです。
“彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。”(イザヤ53:12b)
私たちは今年、「愛のうちに歩む」という目標を掲げて学び、実践するようチャレンジしています。「愛のうちに歩む」ことと「とりなしの愛」には密接な関係があります。「愛のうちに歩む」者は、隣人を赦し、愛し、とりなすからです。神様は自分自身のために祈る祈りよりも、隣人のために祈る祈り、「とりなしの祈り」を喜ばれます。主イエス様にならい、『とりなしの祈り』をしていく者となりましょう。
『救われし うららかな日々 受難ゆえ』
■2013年3月17日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
愛の偶像は貪欲 up 2013.3.17
子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。
(第1ヨハネ5:21)
愛について、神様のすばらしさについて語られてきたこの書簡で、最後のことばが「偶像を警戒しなさい」である意味を考えてまいりましょう。
この手紙が書かれた時代、福音はヨーロッパにまで広がっていましたが、いろんな惑わしも入ってきました。その中でヨハネが一番心配したのは、偶像による惑わしでした。目に見える偶像に引っかかるクリスチャンはいませんが、貪欲は気づきにくいものです。健全な成長のために欲はあるのですが、度を超えて制御が効かなくなると、貪欲になります。
1.主題聖句について(第1ヨハネ5:21)“みことばは前述”
【内容観察】
愛を装っていても、その動機はコントロールできない欲望です。強い愛の欲求と貪欲とがすり替わっている可能性があります。それを見抜かねばなりません。
★偶像⇒本物に似せて作った像。神の像、異教の神、偽りの神。
★警戒する⇒見張る、番をする、保護する、遵守する。
自分の所有物を外敵の襲撃から守り、物品を盗難から守る。
『いとしい子どもたちよ。悪霊に奪われないため自分の心をよく見張っ て神の愛を盗まれないようにしなさい。』
どんなに似せて作っても、人形は本人とは違うものですね。愛と欲望も似て非なるものです。偶像は創造主に似せて形作ったものです。人は見えない神を見たいがゆえに、己が想像するかたちにしました。神は霊的存在です。創造主に似せてかたちにするとは、霊的な存在である神様をかたちにしたという意味で、霊的に似せて肉的に表現したものということができます。神は愛なる方なので、愛も霊的存在なのですが、偶像は愛の部分を貪欲に置き換えるものです。
愛なる神様を信じて愛を求めているはずなのに、神様に認められたい、ほめてほしいという気持ちが強すぎて、人々の前に自分を現そうとしてしまうのは、自己達成に目的が変わってしまっているからです。
【敬聴と適用】
★貪欲は愛に偽装する。両者はよく似ているようでまったく違うもの。
日常生活において、その違いを感じ取っていただきたいと思います。歴史を顧みれば、栄えた国が必ず滅びるという事実に気づきます。中国での隋から唐への政権交替をみると、暴君から名君への交代劇がそこにあります。隋の煬帝という暴君は、栄えたことに慢心して、重税を課して民に不満をもたらしました。この時煬帝の義理の弟、李淵(唐の初代皇帝)が、反乱軍を治めながら、将軍たちを招いて正しい政治のために改革を考えます。その荒れた中で煬帝は暗殺され、国は戦いの時代に入ります。この時、李世民という唐の二代目皇帝となる人物が、彼の父李淵を支えて国を統一します。李世民は煬帝の悪政から学び、富と権力におごることなく民のことを一心に考え、政治改革を行うことに尽くしました。これを「貞観(じょうかん)の治」と呼び、良い政治を行ったという意味で歴史に残っています。欲を中心にすると、栄えていた国も滅びて、欲を制御すれば国は安定し、長く保たれます。人はなぜか、思うままに欲望を満たせる立場に立つと、欲望を制御できなくなります。ですから、自分の願いが何でもかなう状態に置かれた時が、人にとって一番危険な時と心得ましょう。
教会においても同様です。愛によって始めたことを欲望によって仕上げてしまう、といった状況に陥ってしまわないよう、警戒しましょう。自分の身の回りで許されている権限を欲望のために使っていないか、省みてみましょう。たとえば、親の権威を使って、子どもを頭から押さえつけてはいませんか?貪欲とは、自己中心で利己的で、欲求に対して自制力がなく、精神によくない影響を与えるものです。貪欲が内にある人は、それをコントロールする力が不十分なために、精神的にも肉体的にも病気になってしまいます。不安定な状況が起こるのです。精神的に不安定な人、感情の起伏が激しい人は、もしそこに貪欲が隠れていた場合、落ち着いた生活ができません。神様の愛を動機にしていた場合には決して起こらないことです。
自己中心の反対は神中心です。利己的の反対は利他的であり、自制心が非常に強く、その精神は安定しています。辛い環境にあっても、愛があれば心は落ち着きます。子どもが不安に駆られている時に、親になだめられながら眠りにつくように、人の心は愛によって安定を得られるのです。あなたの心が不安的なのは、貪欲を動機にしているからではありませんか?愛と欲がすり替わっていないかという点に留意して、デボーションをしていきましょう。怒りっぽいとか、落ち込みやすいとか、不健全な状況がある時、その心の底には貪欲が潜んでいるのではないでしょうか。ぜひ神様の前でみことばによって光を照らしていただき、自分の見えない部分をあらわにされて、神様の前に罪を告白し、改めていっていただきたいと思います。
2.『多蔵厚亡』(たぞうこうぼう)(箴言6:23〜25)
“命令はともしびであり、おしえは光であり、訓戒のための叱責はいのちの道であるからだ。これはあなたを悪い女から守り、見知らぬ女のなめらかな舌から守る。彼女の美しさを心に慕うな。そのまぶたに捕えられるな。”
★多蔵厚亡の意味
あまり欲張っていると、そのうちすべてを失うという戒め。
悪い女、見知らぬ女とは貪欲を指します。これらから守られるために命令と教えが必要です。叱責も同様ですね。
【内容観察】
「あなたを愛する父と母からの愛の命令はともしびであり、その愛の教えは光であり、訓戒のための叱責は愛の道である。
これはあなたを貪欲から守り、欲に引かれ誘惑してくるなめらかな言葉から守る。愛の偶像である貪欲な偽りの美しさを心に思いめぐらすな。誘惑に意識を向けるな。」
だまされることの多い現代ですが、その原因は欲に引かれることにあります。欲をかき立て、貪欲を起こさせて、罠にはめるのです。そこで、行き過ぎた欲に陥らないための重要ポイントを紹介しましょう。
●命令や教えは、子を愛する愛から来ています。また訓戒や叱責もです。しかし、その中に真実な愛を見出さないなら、灯や光になることはできません。それどころか、私たちの心をかたくなにし、さらに欲求を強くさせてしまいます。
人は禁じられたものほど欲しくなるという罪の性質を持っています。ですから、本当に愛をもって語られていると感じない限り、命令と教えと叱責は何の役にも立ちません。まず愛を感じることが一番最優先です。
親の愛を感じられなかった子どもは、愛による忠告も自分の意志を邪魔するものと感じ、自分の貪欲をなんとかかなえようとします。この貪欲は、自身の人生をダメにしてしまいます。世界中で起きている様々な事件は、ほとんど貪欲が引き起こしたものです。深いあわれみと赦しの愛だけが、これをいやすことができます。
○「花咲か爺さん」の話
あるところにやさしいおじいさん夫婦と、よくばりじいさん夫婦がいた。やさしいおじいさん夫婦は一匹の犬を飼っており、シロと名前を付けてかわいがっていた。
ある日、畑仕事のおじいさんをシロがワンワンと呼んだ。呼んだところを掘ってみると、大判小判がザクザク出てきて、おばあさんと大喜び。それを見ていたよくばりじいさんが、シロを貸せと連れて行った。自分の畑で無理やりシロを吠えさせて、そこを掘っても出てきたのはがらくたばかり。腹を立てたよくばりじいさん夫婦はシロを殺してしまう。
とても悲しんだやさしいおじいさん夫婦は、シロをていねいに葬り、小さな木を墓に植えた。すると不思議なことに、小さな木は一晩で巨木に成長する。この木を切って作った臼で餅をつくと、宝物がわんさか湧いて出てきた。
これを見た欲張りじいさんがまた、臼を貸せと持っていってしまう。しかし欲張りじいさんの家で餅をついても、石ころやがらくたしか出て来ない。業を煮やした欲張りじいさん夫婦は、臼を壊し、灰になるまで燃やし尽くした。
やさしいおじいさんはシロの形見の臼が燃やされたことを知り、せめてもと灰を集めて持ち帰って、形見がなくなったことを悲しむ。しかしこの灰が風に吹かれて枯れ木に付くと、枯れ木に花が咲く。やさしいおじいさんはあたりの枯れ木に灰をまいて花を咲かせ、それを見かけたお殿様からほうびをいただいた。
それを見ていた欲張りじいさんがまた、灰を貸せと持って行き、自分もマネをして灰をまいたが、灰はそのままお殿様の目に入り、怒りをかって牢屋に入れられてしまった。
「愛と貪欲」の観点からこの物語を見ると、深いあわれみと赦しの心を持っている人は、辛く悲しい出来事があっても、一つ一つ着実に良い結果、良い実を結んでいくことができる、ということがわかります。逆に貪欲な人は、すぐに欲求を満たそうとするために、人のマネばかりして努力を怠り、その結果、良い実を結ぶことができず、最後には我が身を滅ぼしてしまうのです。自分のうちで愛と思っていたものが実は貪欲であったということがないよう、度々我が身を見直していきましょう。
「うららかや 幼子の手を にぎる母」
春のおだやかな情景の中に立つ母と幼子。春の温かさと親子の温もりが重なって見えました。
まだ幼く未熟な神の子である私たちも、愛の日差しの中に育まれて、愛の神様にしっかりと手を握ってもらって、共に歩んでいます。幼子は自分の危険を顧みません。親が周りに気を配り、子どもを守るための手を離さないのです。神様もしっかりと手を握ってくださっています。
■2013年3月10日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
神を知る理解力は愛 up 2013.3.10
しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。
(第1ヨハネ5:20)
私たち個人についても、データを知るだけでは理解したことになりませんね。神様も、知識だけで推し量ることはできない方なのです。愛の心で接してこそ、人にも神様にも真の理解を深めていくことができます。
1.主題聖句について(第1ヨハネ5:20)“みことばは前述”
【内容観察】
「神の愛の証である御子がこの世に来られて、真実な方である天の父なる神を知る理解力を私たちに与えてくださったことを体験しています。それで私たちは、真実な父なる神であり、御子イエス・キリストである方の愛のうちにいるのです。この方こそ、まことの唯一の神、永遠のいのちなる愛です。」
私たちは神様を知る理解力を与えられたことを体験しています。イエス様を信じてからの方が、困難なことが度々起こっているかもしれませんが、その順番や難易度は、あたかも私たちの成長に合わせているかのような絶妙さです。それは神の愛によることだからです。
★真実な方を知るための理解力とは愛である。
★愛を知ってこそ、まことの神を知ることができる。
★なぜなら、神は愛だからである。
真実な人について、歴史から見てみましょう。
徳川家康の十男で御三家紀州の祖である頼信に仕えた奈波加慶
(なわかけ)という名医の逸話です。彼が江戸から戻ったとき、紀州一番の富豪である、鴻池孫右衛門が重病で苦しんでいました。孫右衛門は使者を遣わし、ぜひ診てくれと頼みました。加慶が承知すると、使者はさらに「主人は紀州一の金持ちであるから、他の病人よりもていねいに診察してください。」と願いました。途端、加慶の機嫌が悪くなり、彼は診察を断ってしまったのです。理由を尋ねる使者に加慶は、「重病人でお困りと聞いたので、行って診ようと思ったのです。ただ今のお言葉だと、大変金持ちであるから、丁重に診察せよとのこと。私は今日まで病人は診察してきたが、金銭を診察したことはありません。」「医は仁術」を地でいく奈波加慶らしいエピソードです。私たちも、相手の肩書きや財産に惑わされることなく、愛を向けていくよう気をつけたいものですね。
また、愛の人として吉田松陰も挙げることができます。彼の松下村塾は多くの実力者を輩出しました。たった二年半の小さな塾での学びが、彼らの人生を大きく変化させたのです。彼の塾には受講料がなく、各々が手弁当で来ることだけが条件でしたが、弁当を忘れた子には自分の分を分け、自分に与えられた差し入れはその日のうちに受講者に均等に分けたそうです。この分け隔てのない愛の姿勢が子どもたちに影響を及ぼしたのは間違いありません。私たちは彼らほどの真実さに至っていない者ですが、だからこそこうして今共に学んでいます。あきらめずに続けていきましょう。
2.『微妙玄通』(びみょうげんつう)(ヨハネ15:9)
“「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。」”
★微妙玄通の意味
物事の真理を知ること。緻密で奥深く、すべてに通じていること。真理を体得した者のようすをいう。
【内容観察】
「天の父がひとり子であるわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛して愛を表しました。わたしの愛のうちを歩みなさい。」
私たちのクリスチャン生活は、真理を体得していく人生です。
真実な方とわかるとついて行く気持ちになり、考え方や価値観に影響を受けます。すると愛のうちに留まるという行動に移るのです。イエス様の愛のうちに留まるとは、イエス様のお心にある愛の思い、志を引き継いでいくことであり、実現のために動いていくことです。聖書的観点から言えば、「真実な人」とは「天の父がイエス様を愛されたような心」が基準となります。イエス様は神のひとり子です。ひとり子として神に愛された愛を、イエス様ご自身は私たち一人一人に向けてくださっています。あなたという個性は永遠の中でただ一人です。大事な、たった一人のイエス様を引き換えにされるほどあなたの価値は大きいと、神様は証明してくださいました。イエス様が苦しみを忍んでくださったのも、オンリーワンであるあなたを決して失わないためです。
このように、愛に心を向けて物事を見ていくなら、私たちの心に神様の愛が伝わってきます。そしてイエス様に愛されている愛がわかるから、愛の中に留まることができるのです。イエス様の私たちへの愛がわかると、神様のイエス様への愛がわかり、万物が愛によって創造されたことがわかります。万物は御子のために創られ、御子によって創られ、御子のために存在しているのですから。
●ポール・ブローマン先生は日本に帰化して、日本の伝道のためにいのちをささげられました。イエス様が神のみ姿を捨てられたように、日本に属して日本人と同じように過ごされました。自動車にスピーカーをくくりつけての伝道から始まった働きは、心動かされた人々の献身によって栄えていき、幼稚園ができ、会社を作り、今は世界中に宣教師を派遣されています。その中の一人の女性は、日本国籍を捨ててインドに帰化し、インド人しか許されない国内宣教の働きについています。伝道の働きも今や全国に広がっています。その莫大なトラクト代も自分たちでまかないながら続けているのです。ポール・ブローマン先生は「微妙玄通」を体得されていた、と言えるのではないでしょうか。
神の愛の真実さに触れたなら、私たちも同じものをもって隣人に流し出すのが大切なことです。ポール先生も、聖書を読み続けるうちに神様に導かれ、その愛に動かされて日本に来られました。私たちも愛を受けないでは、働きをすることはできません。
「紅梅に なごむ心へ 愛の風」
紅梅は春の息吹を感じさせるものです。春の風は御霊の息吹であり、愛の風でもあります。いつも神様の愛に感じ入る心を持ちたいものですね。
■2013年3月3日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
やみに輝く愛 up 2013.3.3
私たちは神からの者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。
(第1ヨハネ5:19)
愛について私たちは学んでいますが、それは愛される為ではなく、愛する為です。人に愛されたいと求めると、時に失望したり、傷つくことがあります。特に弱っている時には、自分の期待通りの愛でないと、相手を裁いてしまいます。それは、私たちがまだまだ、自分本位の考え方をしてしまうからです。しかし、私たちは神様に十分に深く愛されています。愛の学びを、互いに裁き合うために使わないように気をつけましょう。
どんな小さな光でも、闇が深いほど、ますます輝いて見えます。光の大きさに関係はなく、光であるということ事態が大切なのです。どんな困難な状況であっても光である愛があれば大丈夫です。教会では一人一人の光は目立たなく思えるかもしれませんが、世の中に出て行くと、その闇の中では、あなたは光として、輝く存在であることがわかるはずです。
1. 主題聖句について(第1ヨハネ5:19)“みことばは前述”
【内容観察】
私たちは愛の神から生まれた神に愛されている者であり、この世界はすべて神の愛に不敬で貪欲な悪い者の支配によって制御されていることを知っています。
このみことばでは、神からのものと、悪いものの支配という闇の世界が、対比して書かれています。闇の世界で私たちは輝く者です。闇だからこそ、光は輝いて見えるのです。そしてその輝きは、神に愛されているという輝きです。その愛の光の輝きは決して、闇に負けることはありません。闇はあなたの内にある神の愛に決して勝てません。
神様に愛されているということを確認していくことが、心を光で満たし、闇が入り込まないように防ぐ方法です。その神の愛に疑いを持つと、心に闇が入ってきて、欲望に負けてしまうのです。ですから、デボーションで、神の愛に心を向けることが大切です。一日に一回は、落ち着いて神様の愛に触れる時を持ちましょう。そうでないと、この世の多くの出来事に心を騒がせたまま、闇が心に入り込んでしまい、一日を終えることになってしまいます。
第1ヨハネとヨハネの福音書を読んで頂きたいのですが、そこには、光は命であり、命はキリストであり、キリストは神の愛であるとつながっていることがわかります。
ひとりのクリスチャンの生涯からこの愛を見ていきたいと思います。
《浅川巧の生涯》
彼は朝鮮民芸陶芸研究家で、朝鮮半島の緑化運動に大変貢献された方です。明治から昭和初期にかけて活躍され、日本が戦争中、朝鮮半島を併合していた時に、荒れ果てた痩せた土地を変えるために、1911年から30年間かけて、約6億本の植林をしました。痩せた土地でなかなかうまくいかない中研究し、五葉松と唐松を植える方法をあみ出しました。
彼は、本当に心から朝鮮の人々を愛した人で、当時、下級役人で高給取りではなかったにも関わらず、自分の給料から奨学金を出し、朝鮮の子どもたちが学べるように支援しました。このことは妻も知りませんでした。また、野菜売りの人から野菜を普通よりも高く買い、彼らの生活の一助にでもなればと配慮したり、また、服装も彼らと同じ物を着たりして、その生活の中に溶け込もうと努力しました。後に、日韓交流の代表の方が、日本人の中で彼ほど慕われた日本人はいないと賞賛しています。浅川巧は41歳で亡くなりました。風邪をこじらせた急性肺炎でした。それはいかに彼が質素に暮らし、体力を失っていたかを思わせます。それほど彼は人々に施していたのです。彼のことは小説になり、昨年映画化されました。彼は日本の圧政という闇の中で隣人愛をそのまま実践した人です。
神様は、あなたに注いでいる愛を、廻りの人々に注いでほしいと願っておられます。憐れみの心や親切心を素直に表していきましょう。闇の世界では、そういった行為自体が批判されたり、いじめの対象になってしまったりするかもしれません。しかし、それを恐れるのではなく、むしろ、こんな罪深い自分を赦し愛してくださっている神様の愛に感謝し、その愛を少しでも廻りの必要としている人々にお返ししていきたいと願って、憐れみと親切の行為を惜しまないで表していきましょう。どんなに批判されても、闇は光に勝つことはできません。愛の行為は消し去ることはできないのです。
愛の光…互いの足らない所を互いに補い合う、そこに輝くものです。
ひとりで何もかもできるのではありません。お互いが補い合い、励まし合うところに、愛の光が輝きます。
2.『羨望咨嗟』(せんぼうしさ)(マタイ5:14-16)
★『羨望咨嗟』の意味
遠くをのぞみ見てその素晴しさにため息をつく。
高貴な人などを敬慕しうらやむこと。
美しい光景を見ると心から感動するものです。また、人となられたキリスト、父なる神様を敬慕し、その後に従っていくことも同じ意味です。何にも勝って、キリストについて行きたいと願うのは、キリストに、引きつけられる魅力を感じるからです。
私たちはそれほどの魅力をイエス様に見い出しているでしょうか。
【内容に対する質問】
1)この世での私たちの役割は何でしょうか?
私たちは世界の光です。
世の中には、自分とは何かと悩んでいる人がたくさんいます。しかし、私たちは闇に輝く光だと知っているのですから、人生の迷いは消えます。
2)その役割にはどのような働きがあるのでしょうか?
光の働きは人々を照らすことです。
光は希望を見出し、人が本当に必要なのは実は愛であると、証ししていきます。文明を進化させるのは、欲ではなく愛です。欲は争いを産み出していき、破滅へと導くからです。あなたの内にある光を輝かせることによって、廻りの人々はそのことに気づいていきます。
3)その結果によって、どのような目的を達成できるのでしょうか?
父なる神があがめられます。
私たちは、心から尊敬している師匠がいるとしたら、その師匠の働きを広めるために、人々に宣伝し、その人々も同じ心で師匠の働きを広めてくれたら、本当に喜ぶでしょう。
それと同様に、神の大きな愛に気づき、闇の世界の光として、共に生きていく人々が出てきたら、本当に嬉しいことです。その改心の気持ちを、あがめるという言葉に表す事が出来ます。あがめるとは羨望咨嗟の心です。その魅力に心が満たされて、神の愛の心に動かされていないとしたら、いつの間にか、損得勘定があなたの動機になってしまい、光としての歩みが阻害されていることになります。
赦しの愛、赦されて今の私があるということを知りましょう。何かが出来たから今の私があるのではなく、いつも赦してくださる神の愛に支えられて、今の私があるのです。それがイエス様の十字架の意味です。その愛にいつも立ち返りましょう。赦されている神の愛に支えられて、その愛に素直に生きる時、あなたの歩みは自然に光の歩みとなり、その光を見て、父なる神が人々から自然にあがめられるようになるのです。私も毎週、メッセージをすることを通して、神の赦しに触れ、愛の支えを受けています。 |