■2013年2月24日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛は堅固な城壁  up 2013.2.24


神によって生まれた者はだれも罪の中に生きないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。
(第1ヨハネ5:18)

 

 

 

「蛤(はまぐり)の 閉ざす堅固さ 愛ゆえか」
 蛤の貝がしっかり合わさっている力は、自分を守り内側を守るしるしです。イエス様が私たちを悪しき者から守ってくださる大切な条件は、「互いに愛し合いなさい」という大切な戒めに私たちが留まっていることです。その時に、まるで蛤のような堅固な守りが生まれるということを、今日はお話しさせていただこうと思います。

1.主題聖句について(第1ヨハネ5:18)“みことばは前述”
【内容観察】
「神によって生まれた者、すなわち、神の愛であるイエスを信じた者はだれでも互いに愛し合うという的を外す生き方をしないことを、互いに悟っています。神の愛を最も強く信じておられる御子イエスが、神から生まれた者を守っていてくださるので、悪霊や悪魔は神から生まれた者に触れることができないのです。」
 神は、愛がなければいのちを生み出せないということを、自然を通しても教えておられます。ヨハネは、神の愛であるイエス・キリストを信じた者は、神によって生まれた者(ヨハネ1:12)であり、神様の愛によって新しい人生を踏み出した者という意味を持たせています。
 
 また「愛がなければすべてがむなしい(第1コリント13章)」とは、人生、いのちの価値づけはすべて愛にあり、愛のない世界は欲望しかありません。クリスチャンも愛が弱ると、世の中の人と何ら変わりのない人生となってしまいます。神から生まれた方、すなわち最も神様から愛され、最も神様の愛を信じているお方であるイエス様が、神から生まれた者を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることはできないのです。
 
 しかし、私たちは完璧でないので、時に悪い者に触れられてしまうことがありますが、悔い改めて神様の愛に立ち返っていくならば守られるということです。愛が私たちの霊的な城壁、守りとなることを気づいていただくというのが、この主題聖句のポイントです。

★神の愛を悟っている者は、互いに愛し合うことに心を向け続けている
 私たちが互いに愛し合う中に神の愛が強く臨在することがわかってくると、イエス様が「互いに愛し合いなさい」と一つしか与えられなかった戒めが、どんなに重要かを知り、意識して「互いに愛し合う」ことを求め、それからそれたならばすぐ立ち返ろうという気持ちが起こされてくるという意味です。

★互いに愛し合うことが互いのために守りとなる
 イエス様の臨在、愛の強さに、私たち神を尊ぶ者たちの互いの関係が非常に大きな影響力を与えるということです。強く信頼し合っている夫婦は、堅固な城に守られているようなものです。家族も同じです。個の力量は他に比べ劣っても銅メダルを取った日本の400mのリレーチームの例にあるように、優れたチームワークを持っているチームは、その信頼が強いので大きな結果をもたらすのです。

★悪い者は、神の愛を中心に愛し合う者たちの関係を引き裂く
 ともかく悪い者は、私たちを利己的、自己中心に導き、互いの関係をぷつぷつ切っていく働きをします。一人一人はどんなに弱いかを知らされます。霊的な存在であり私たちの見えないところで働く悪魔・悪霊は、言葉は霊であるとあるように、否定的な言葉、悪い言葉で攻撃してきて、孤立させ、互いの信頼関係を切ってしまい、愛のない生活に追いやってしまいます。否定的な言葉、悪い言葉から守られるために、イエス・キリストが私たちの城壁となって、神様の愛が私たちを守ってくださるということです。

 中国に「三人虎を成す」という教訓があります。紀元前、魏(ぎ)という国が隣の趙(ちょう)の国と同盟のための人員交換に皇太子を送り出す時に、「厖葱(ほうそう)」という重臣を付き添わせました。その際に「厖葱」は「一人が『都に虎が出た。』と言っても、二人が『都に虎が出た。』と言っても信じない。」と言った王が、「三人が『都に虎が出た。』と言ったら信じるかも…。」と答えたのを聞いて、王に「自分の留守中、自分への批判者は三人では済まないはず。どうぞお察しください。」と申し出たにも関わらず、案の定「厖葱」のありもしない悪口を伝えてきた多くの家臣たちの言葉を王様は信用してしまい、数年後に「厖葱」が帰ってきた時には全く信頼できなくなっていたということでした。

 人のうわさは心に大きな影響を与えてしまい、信頼関係を断ち切っていくにはウソの情報を流すとてきめんです。サタンは欺く者であり、うそつきです。証言が偽りであっても三人を超えると、信頼がなくなっていくそうです。そのわなにはまらないために、どれだけ「互いに愛し合う」ことが大切であるかを、日常生活でも学んでいくことが必要ですね。

2.『金城湯池』(きんじょうとうち)(イザヤ26:1〜3)
“その日、ユダの国でこの歌が歌われる。私たちには強い町がある。神はその城壁と塁で私たちを養ってくださる。城門をあけて、誠実を守る正しい民をはいらせよ。志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。”

【内容観察】
「神の時、神に愛され選ばれた人々の国でこの歌が歌われる。私たちには崩れることのない絆がある。神は愛によって働く信仰で私たちを救ってくださる。まことの愛を求める敬虔な民に心を開いて迎え入れよ。神の愛から来る強い使命を持っている者を、あなたは平安のうちに安全に守られます。その人があなたの愛にまったき信頼を持っているからです。」

★『金城湯池』の意味
 非常に守りの堅いたとえ。
 また、他から付け入り攻め込みにくい堅固な備えのたとえ。
 
 堅固な城を象徴する金城と煮えたぎるお湯の堀を表す湯池があると、この城を攻めることはできないという意味です。
 
 偽りや欺きを持ってくる悪い者のしわざから私たちが守られるには、イエス様の愛(神様の愛)以外にはない、神様の愛を信じるとは「互いに愛し合いなさい」と言われたイエス様のおことばを守ることだとTヨハネで語られています。神を愛する者は兄弟も愛するべきと書かれてあるのは、神を愛しているというならば「互いに愛し合いなさい」という神の戒めを守るべきだということです。イエス・キリストなる神の愛を信じている者同士として、その人の行いや性格でなく神への愛、信頼の心を信じ合うようにと言われています。
 
 傷つけられる言葉があっても、単に未熟な無知な表現であり、本心から憎しみを持っているわけではないのです。国、地域でも文化の違いがあり、誤解されることもあり得ます。しかし、クリスチャンであればこそ、多少の失礼や至らなさをカバーしていただけ信頼を持ち続けることができます。

 「互いに愛し合う」という意味は、思い通りにしてあげることではなく、「信頼」「信じ合う」という愛です。イエス様は、私たちが神様の愛を信じる前から私たちを信頼して、十字架で身代わりにその罪を負ってくださいました。信じることは、愛の大きな特徴ですね。何があっても神の愛を信じている人は良い人であり、神の家族だと心を開いていきましょう。これを打ち砕いてくるのが悪い者です。私たちもそれに負けないように互いの関係をしっかりしていきましょう。

 中国の漢の時代、「李広 (りこう)」という強力な軍隊を持った優秀な将軍がいました。「李広」 は朴訥(ぼくとつ)な、私利私欲のない人であったと言われています。自分が受けた恩賞はみな部下に分け、全員に食事が行き渡ってから自分の食事をとり、水場に行けば兵士全員が水を飲んだのを確認しないでは自分は水を飲まなかったなど、本当に部下を大事にする将軍でした。だから、彼の部下たちは命をかけてこの将軍の命令に従う決心がしっかりできていたので、出た命令には即座に従い作戦を遂行し、勝利を重ねていったと記されています。

 イエス様は私たちを愛して、ご自分のいのちを分け与えてくださいました。どれだけ大事なものを私たちに分け与えてくださっていることでしょう。兵士ですら、自分を信頼してくださったこの人のために命を捨てて戦おう、という気持ちが起こったのです。

 私たちはどうでしょうか。神が天の栄光を捨てて私たちと同じ人のかたちをとって、血と肉を持って私たちの罪をあがなうために、不自由なこの三十数年間の生涯を地上で送られたばかりか、最後には嫉妬のために罵倒され嘲弄され、無実の罪で十字架にかかられる苦しみを受けてもなお、私たちの罪の赦しのため「彼らは何をしているかわからずにいるのです。」ととりなしてくださったのです。私たちを大事にしてくださっているイエス様が、私たちが永遠の滅びに行かないためにここまでしてくださったと思うと、どうして私たちがいのちを捨ててイエス様の愛に従っていくことはできないなどと言えるでしょうか…。

 自分だけが良ければいい、全体の幸せを考えなくなったこの時代、それだけ互いの関係がぷちぷちと切られてしまっているのは、悪い者たちの働きです。クリスチャンも影響されて、自分だけが損しているなどの否定的、悲観的考えに影響されていませんか。悪い者が触れ始めているのを追い出し、守るには、神の愛を信じている一人一人の神への愛の信仰を互いに信じ合おうという心を強めていくことです。

 これからもいろいろな悪い者の働きによって、クリスチャンの親子でも愛が断ち切られるような状況やうわさ、否定的な霊の働きが起こってくるかもしれません。しかし、私たちは互いをイエス様の愛によって良心がきよめられ、正しい良心を持って神を愛していると告白した人として信じ続けること、そして、その愛が自分自身の守りになることにも気づいていただきたいと思います。堅固な城壁は、私たちのきよめられた良心を守り、互いの信頼関係を守っていく強い絆となります。

 

 

 

 

■2013年2月17日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛のかおり  up 2013.2.17


また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。
(エペソ5:2)

 

 

 

 香りというものは、私たちの心身に大きな影響を与えるそうです。イエス様がささげられた、神様のお心が落ち着き、なだめられる香りのように、私たちも周りの人々を落ち着かせるような香りを放つ人生であるなら、どんなに幸せでしょうか。
 愛のうちを歩めば、香ばしい愛の香りが漂います。しかし、愛のうちを歩むことを意識しなくなると、香りが切れ、人間関係がぎくしゃくしてきます。

1.主題聖句について(エペソ5:2)“みことばは前述”
【内容観察】
「互いに愛し合う日々を過ごしなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、この地上における人生を神へのささげ物、すなわち、罪に対するさばきをなだめるための愛の供え物として、十字架の死に至るまで愛という香ばしい香りをおささげになりました。」
 互いに、という関係によって、健全な愛は成り立ちます。この規範となられるのがキリストです。神へのささげ物とは罪赦されるための代価です。
 原始宗教では、天災などの人知の及ばぬものを自分たちへの怒りと解釈して、ささげ物をささげる行為はよくあることでした。自分への怒りをなだめるために、自分の大事なものをささげるというのが、供え物の意味です。ここには「私たちが悪いから」という思いが根底にあります。一般に広まっていたこの考え方を用いて、本当のささげ物の意味を諭すようにおしえてくださっているのが聖書です。
 ユダヤ教では、様々ないけにえについての取り決めがありますが、もちろん本当に人間の罪を贖うことはできません。羊や牛は象徴であって、イエス・キリストが人々を愛して、罪の赦しのためにご自分を犠牲にささげられることを予表しているのです。
 神様のお心が動かされるのは、愛によるささげ物だけです。それを成し遂げるために、イエス様はただ一度の罪も犯さぬよう、私たちのために細心の注意を払い続ける人生を送られました。私たちへの愛のゆえに、誘惑に満ちたこの世界で、人々の罵倒や挑発にも乗らず、神の前に正しくあり続けられたのです。
 ご自身をおささげになったとは、ご自分の人生すべてをおささげになったということです。イエス様の人生は、愛する者のための人生であられました。イエス様の愛のゆえに、神様は身代わりのさばきを受け入れてくださいました。神様は愛なる方だからです。

●罪「的外れ」について
 神様の愛に対して不正を行っている私たち。高位の方からのまごころを踏みにじることは、愛に対する不正です。それは厳しい裁きを受けて当然の行いです。そのまごころの表れが、もう二度と取り戻すことのできないほどの価値を持つものであれば、決して赦されることはないでしょう。
 心のこもった愛がなければ、人の心は動かないし、考え方を変えることもできません。心の傷や痛みも治まりません。神に似せて創られた私たちがそうであるなら、神様ご自身はなおさら、愛を踏みにじられた時、傷つかれるのは当然ではありませんか。
 人間の最初の裏切りは、エデンの園で善悪を知る木の実を食べた事件です。「食べたら死ぬ」という愛の忠告を、「食べたい」という欲望を優先して踏みにじりました。それゆえにエデン追放の裁きを受けたのです。
 この世界は損得勘定、優劣重視ですから、人との関わりが薄くなります。愛よりも欲を重視した方が、経済は発展するからです。しかし私たちは、愛がすべての生活において始まりであることを、肝に銘じておきましょう。
 さて、イエス様がご自分をささげられた理由は代価を払うためです。私たちのために、神様の傷ついた愛をいやす代価として、ご自分の愛をおささげになりました。これほど罪深い私たちを、イエス様は「大事な者たち」と言われ、「どうぞこの者たちの罪をお赦しください。代わりにわたしの人生をあなたのためにささげます。」という愛を示してくださったのです。その愛に神様は感動して、私たちの罪を赦してくださいました。身代わりが与えられたので、それで良しとされたのです。
 本人がやらなければならないことを、別の人が肩代わりしてくれるという事態を認めるためには、よほど心動かされる愛のできごとがあるはずです。イエス様はご自分を代価としてささげられました。
◎主権者である神様だけが結審をくだされるから、恩赦もこの方次第。
◎神様は愛の通じる方だから、愛のささげ物を正しく審判してくださる。
◎神様は愛にのみ心を動かされる方だから。
 あなたも上記のことをふまえて、愛を大事に生きるなら、神様のみこころ、お考えを変えていただくことができます。その時、正しい健全な愛によるものかどうかを神様は看破されるので、自己中心の愛に動かされることはありません。
 愛を神へのささげ物とするなら、万事が益と変えられます。すべてが益と変えられるために、どれほどの愛が神様から注がれていることでしょう。しかし、私たちがその愛を無視していたなら、どれほどの親不孝者でしょうか。クリスチャンであっても「自分の」ばかりの自己中心の信仰になってしまったなら、家族との関係を切ってしまいます。「親」は霊の親も肉の親も「敬いなさい」とある通り、敬い、大事にすべきです。

2.『香気芬芬』(こうきふんぷん)(第2コリント2:15)
“私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。”
★『香気芬芬』=良い香りがあたり一面にただようこと。
 私たちの生活が、周りに良い香りをただよわせるものでありたいとは思いませんか?それには愛が満ちあふれることが必要です。
【内容観察】
「私たち神の愛を信じる者は、神の愛に対する負債を赦される人々の中でも、神の愛を無視して自分勝手に生きる者への報いを受けて滅びる人々の中でも、愛の神の前に互いに愛し合うという家族愛の香ばしい香りなのです。」
 周りの反応がどうあろうと、神の家族として互いに信頼し合い、親切をし合うという愛し合う生活を送っていれば、それは神の前には香ばしい香りなのです。私たちは人の評価で生きるのではなく、神が喜んでくださる愛の香りを求めます。
 神様が喜んでくださる香りとは何でしょうか。ずばり、「互いに愛し合う愛の香り」です。
 神様の前に失敗しても、こらしめを受けないことがあったなら、その動機に愛の香りがただよっていたから、神様がお心をなだめられたのではないでしょうか。もしあなたがつい人を傷つけてしまったなら、そのことに対するまごころからの謝罪も愛の行為であり、愛の香りがするものです。神様は心をなだめてくださいます。けんかしても、仲直りすれば、その「仲直りした」という事実を認めてくださるのが神様なのです。
●なぜ愛が神への供え物なのか
 神は愛だからです。
●なぜイエス様は愛する対象の私たちにではなく、神様にささげられたのか。
 神様の好まれる香りを持つ愛は、欲望に動かされることがない、正しい良心からの愛です。欲望からの愛は人を支配することを求めます。自分の欲を満たしたいという思いは神様の介入を拒みます。愛し合う者同士が、お互いの主観でなく神様からの正しい良心に沿うきよい愛であることを認めるなら、仲介者として神様が立ってくださることに何の抵抗もありません。
 私たちと神を尊ばない人々の考えには違いがあります。この世の人々は自己中心的、利己的愛です。思い通りになることを求め、自分も盲目的になります。善悪の識別ができません。神様を認める愛は肉欲やわがままな動機でなく、きよい良心からの愛なので、公正さを保ち、客観的に物事を見ることができます。神様の前に、自分の愛が健全なものであるかどうか判断できる愛なのです。
 これらのことを覚えて、人々に喜ばれる愛の香りを放つのではなく、神の前に香ばしい愛の香りを放つように専心してまいりましょう。

「襟立てる 梅見の風に 春香る」
 まだ寒い風の中で、その中に香る梅の香りに春を感じる。
愛が冷える時代の中、私たちも「あの人が来ると、春が来たようだ」と言われるような存在になれたらいいですね。ぜひ良い香りを放つようになってください。

 

 

 

 

■2013年2月10日 日曜礼拝メッセージより(辻秀彦牧師・小栗伝道師・横路伝道師)

 愛に対する不正  up 2013.2.10


不正はみな罪ですが 、死に至らない罪があります。
(第1ヨハネ5:17)

 

 

 

【辻牧師メッセージ】
 今日は、神様の愛に対する不正について考えていこうと思います。「死に至る」とは、「人を生かす力」を失ってしまうことです。肉体的にも精神的にも霊的にも生かす力がなくなると、死が訪れます。また「死に至る罪」「死に至らない罪」についても少し考えてまいりましょう。

1.『不正』について 
A)律法的不正と道徳的不正と霊的不正とがある(ユダの裏切り)
 律法的不正と道徳的不正は永遠の滅びに至りません。しかし、霊的不正はそうではありません。ユダは上にあげる三つの不正を同時にイエス様に対して犯しました。
・律法的不正〜
 無実の方を逮捕するために手伝いをした、これは律法的には間違いです。
・道徳的不正〜
 弟子であるユダは、師匠であるイエス様を裏切り、祭司たちに売り渡したのは、不義です。
・霊的不正〜
 イエス様と弟子たちは、単なる師弟関係を超えた愛の関わりがありました。ユダは会計係でしたが、不正をしていたにも関わらず、イエス様は黙認し続けられました。イエス様は負い目を負うおつもりで不正を見過ごしておられたことでしょう。そのように愛され、赦されて、黙認されているにも関わらず、その愛に対して、ユダは裏切ったのです。神は愛であり、霊なる方。だから愛は霊的なものです。それを裏切ることは、愛に対する不正といえます。赦されたことを忘れて自分の身を守り、落ち度を隠すために、赦してくださっている方を責めるとは…。ユダには悔い改める心を与えられませんでした。愛に対する不正を行う者は悔い改める心が起こらず、悔いはしても改めず滅びの中に行ってしまい、神様の愛に対して、なんと大きな罪を犯してしまったのだろうとは思わなかったのです。同じようにイエス様の弟子でイエス様を三度も否んで自分の身を守り、イエス様の愛に対して不正をしたペテロは、鶏が鳴いた時に、泣きじゃくり、悔いました。しかし、自分でいのちを断たず、へりくだって神様に裁きを委ねました。
 神様の前に悔い改めの心を持つか持たないかが、永遠の滅びに行くかどうかの分かれ目となります。「不正」についてしっかり理解されることが大切になってきます。愛に対して心から改めていこうという気持ちを持つことが、神様の愛に報いていく正しい姿勢です。これは死に至りません。罪人が自分で責任を取ることは無理な話であり、権威者が決定した裁きを受けるべきであり、自分で決定を下すことこそ傲慢です。だから何事も自分さえ裁いてはいけません。主に委ねていくことが大事なことです。愛に対する不正をきちんと神様の前に処理していきましょう。

B)不正に対する報いを必ず受ける(コロサイ3:25)
“不正を行う者は、自分が行った不正の報いを受けます。それには不公平な扱いはありません。”
 「死に至らない罪がある」と安易にならないでください。「永遠のいのち」という神の御国に対する資格はなくなりませんが、悔い改めても不正の後始末は必要です。不正を行って苦しみを受けるのは当然であり、苦しみを逃れるために悔い改めるのは動機が間違っています。

C)不正を行う動機(第1コリント13:6)
“(愛は)不正を喜ばずに真理を喜びます。”
 愛が動機であれば、不正を喜ばず、拒絶していきます。不正を行っているときは欲望が動機になって誘惑されてしまっています。だから、動機から悔い改めなければなりません。神様の愛を心に思い浮かべて欲望や自己中心の動機を追い払って、愛を動機として悔い改めていかれれば、仮に不正があっても死に至らず、新たに神の国に向かって歩んでいく新しい決意ができると言えるかもしれません。しかし、「死に至らない罪がある」といって安易な気持ちで警戒心を解かないように気をつけてください。

2.愛に対する不正(ルカ13:23〜27)
“すると、「主よ。救われる者は少ないのですか。」と言う人があった。イエスは、人々に言われた。「努力して狭い門からはいりなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから。家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってからでは、外に立って、『ご主人さま。あけてください。』と言って、戸をいくらたたいても、もう主人は、『あなたがたがどこの者か、私は知らない。』と答えるでしょう。すると、あなたがたは、こう言い始めるでしょう。『私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました。』だが主人はこう言うでしょう。『私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行う者たち。みな出て行きなさい。』」”

A)救いへの不正 【小栗伝道師メッセージ】
 「救われる者は少ないのでしょうか。」との問いに、イエス様は具体的に答えられていないところから考えると、今はまだ、私たちは神様に生き方を導いていただいている時だと考えられます。問題が解決してまもない時は主への感謝を表せても、時が経てばその感動も薄れ、次第に救い自体が当然のような反応になってはいないだろうか、イエス様の身代わりの十字架への感謝は鈍っていないだろうか…と思わされます。
●不正とは、正しくない事だとわかっているのに意図的に選ぶこと。
 神様から与えられた自由意志を明らかに正しくないことをわかりながら意図的に選ぶのは、ごまかしや悪意があるかもしれません。そこには、隠すという罪の性質も働いています。不正の根本は自分を愛するがゆえに、自分の都合の良いよう動かす自己愛です。また神様を畏れない心もあり、今の能力を受け入れられない傲慢もあります。第一ヨハネに書かれてある「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」を優先する神に敵対する世界の流れに影響され、純真な心がつぶされてしまうのはとても残念なことです。クリスチャンもその影響を受けることは十分考えられます。しかし、神様を畏れる者として、たとえ失敗したとしても神様に愛されていることを心に留め、自分の生き方は、神の前か、人の前か、どちらに立っているかを確かめていただきたいと思います。

★良きサマリヤ人より(ルカ10:30〜37)
 神の律法に通じている祭司もレビ人も、倒れている人が同胞のユダヤ人でありひん死の状態で助けが必要なことはわかっていたのに、反対側を通り過ぎて行きました。彼らは反対側、すなわち助ける力があったのに、愛することを拒絶したと言えるでしょう。自分は助かりたかったのかもしれませんが、今するべきことに気づきながら、意図的にそれを拒んだところに、不正の心を感じます。愛は知識ではなく、行いに通じていくものです。神様から与えられたあわれみの心を、彼らは用いようとはしなかったのです。また神様は、自分以外に誰もいなかった彼らの状況で、彼らの愛の本質をお調べになられたのかもしれません。「他の人を愛する人は律法を完全に守っている(ローマ13:8)」と書かれています。互いの関係でも、神様は愛することを導いておられます。しかし、サマリヤ人は、自分たちを見下した敵対関係にあるユダヤ人の窮状を見て駆け寄りました。つまり、愛を現したのです。イエス様も同じく、世に流され神様の愛の願いを知りながら背いている私たちをご存じで、十字架にかかられ死にまで臨まれました。私たちが不正のままでいることのないようにと、今はまだやり直すチャンスがあると語ってくださっているのではないでしょうか。
●(マタイ25:40)
“「すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』」”
 このみことばは、世の終わりに永遠のいのちか永遠の滅びかの二つに分けられることが書かれてある箇所に出てきます。そして、ここに出てくる人たちは「…水を与え、着るものを着せ…。」等々の愛の行いを、報いを考えられない相手である、最も小さい人たちのひとりに、しかも本人たちもいつしたのかわからない無意識にしました。そこには何らのお仕着せがましさもなく、ただ相手の必要への愛の反応の現れがありました。あわれみの心をもって臨んだのです。この方々に対して「祝福された人たち。あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。」のことばがかけられました。天の御国に不正があるはずがありません。

◎神様に与えられた愛をどう生かすか〜
 自分を認めることは大切ですが、与えられた神の愛を私腹を肥やすような、自分の良いようにするために用いるのではなく、まわりにおられる人々への愛の行い(例えば笑顔など…)のために用いていけたら、どんなにすばらしいことでしょうか。
 他者に対する愛を問われるとは、正しくない方を意図的に選んだ生き方をしていないかどうか吟味することであり、恵みを無駄にしないとは、「神様、わかっていて意図的に、神様が願っておられることを選んでいないことがありました。方向を変えます。」という思いを持って生きていくことです。そのときに神様は実を結べるように導いてくださいます。不正とは、人の前以上に、神様の前に大きな裏切りなのではないでしょうか。私たちを救いに導いてくださった神様を裏切りたくありません。

B)努力への不正 【横路伝道師メッセージ】
 質問に対するイエス様の応えは、「努力して狭い門から入りなさい。」でした。
(1)狭い門から入るとは?
a)「神の前にへりくだり、悔い改めて十字架の救いを信じる者となること」 当時、イエス様の教えを直接聞いた多くの人々が皆、救われたわけではなく、信じて弟子となった者はまだ少なかったのです。特にパリサイ派の人々の多くは、自分の行いを義とし、その偽善と高慢により、へりくだってイエス様を神の御子と信じることができませんでした。
b)「聖霊を受けること」
 イエス様を信じて水のバプテスマを受けるだけではなく、(エペソ1:14)にある御国を受け継ぐことの保証であられる聖霊のバプテスマを受けその導きに従う者が、狭い門から入る保証をいただいた者なのです。
c)「愛し、赦す者となること」
 (マタイ18:23〜25)には、主人に1万タラントもの巨額の負債を免除されたのに、わずか100デナリを貸している人を赦さなかったしもべのことが書かれています。主人の愛と赦しの心を理解せず、それを無駄にしたそのしもべは、「愛に対する不正」をしたのです。
d)「努力しないで狭い門から入ろうとする者」
 一人でも多くの人が狭い門から入ってくるようにと待っていた主人も、立ち上がって門を閉めなくてはならない日が来るのです。それまで自分勝手な生き方をしていた人々は、門の中に入れないのです。彼らは、主人と交わり教えをただ聞くだけで、自分たちの罪を悔い改めることも従うことも何の努力もしなかったのです。このように、努力もせず門の中に入ろうとする者が「努力への不正の者」なのです。
(2)「努力して入る」
 「努力」という言葉は、競技用語からの言葉で、「全力を尽くして戦う」という意味があります。使徒パウロは、「私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。(第1コリント9:2)」と、全力を尽くして戦うことについて語っています。
a)「何を努力するのか?」
 「自分を変える」努力、戦いをすることです。狭い門に入れず、「不正を行う者たち」と拒絶された人たちは、門が閉められるまでに猶予があったのに、聞くだけで、罪を悔い改めて自分を変える努力をしなかった人たちです。
b)「愛に応える努力」
(ア)「日々、悔い改める努力をすること」
 「悔い改めること」に悪いイメージを持たないでください。悔い改めれば、イエス様の十字架の血潮によって、必ず赦されることを知っている私たちは幸いなことです。悔い改めは嫌なことではなく喜びと感謝に変わる恵みです。
(イ)「日々、聖霊に従う努力をすること」
 自分の知恵と悟りに頼らず、いつも何をするにも「主よ、今このことをこのようにして良いでしょうか」と聖霊に聞き、聖霊に従う努力をすることです。
(ウ)「日々、赦す努力をすること」
 赦せない心があるなら、「主よ、私にあの人は赦せない、という心があります。赦せるよう心を変えたいのです。どうか助けてください。」と、心から赦す努力をするのです。
(エ)「日々、愛する努力をすること」
 赦せたら、「愛する」という次の段階へのチャレンジが始まります。愛せない人を愛することは大変な戦いです。私たちが互いに愛し合うことを、主がどんなに願っておられるかを悟るなら、私たちも「あの人は愛せない」と決めつけないで、愛する努力をするべきでしょう。
(オ)「日々、罪と戦う努力をすること」
 自分勝手な理屈をつけて、肉のほしいままに罪を犯し続けてはいけません。悪い思いが頭をよぎったら、その瞬間、それを捨てる努力をしましょう。
(カ)「日々、神の愛を証しする努力をすること」
 言葉で証しすることが苦手であっても、その敬虔な生き方で証しすることができます。私たちの人生の目的は、「神様の愛と、その救いを証しすること」にあります。そのための努力、戦いを続けましょう。
c)門が閉ざされる前に
 今は恵みの時、救いの日です。門をたたけば開かれる時です。やがて門が閉じられる時が必ずやってきます。今は門が開かれているのですから、私たちも、神の真実な愛に対して「不正な者」にならないで、「神様の愛に応える」という正しい動機をもって「努力して」神の国の狭い門に入る者となるよう、互いに励まし合い、手を取り合って前進しましょう。

「雪割草 春の訪れ 愛の花」(投稿作品)
 
 愛が冷えると言われる、冬のようなこの終わりの時代に、神様の愛に触れられた時に、内に愛の花が咲き、イエス・キリストの再臨と新しい神の国の訪れの予感とともに、希望を持って生きていこうという句です。

 

 

 

 

■2013年2月3日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛のとりなし  up 2013.2.3


だれでも兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば神はその人のために、死に至らない罪を犯している人々に、いのちをお与えになります。死に至る罪があります。この罪については、願うようにとは言いません。
(第1ヨハネ5:16)

 

 

 

1.主題聖句について(第1ヨハネ5:16)“みことばは前述”
 さて、14〜15節で語られてきたみことばを受けて、この16節に続くわけですが、互いに愛し合うという、みこころにかなう願いに当てはまるのが、とりなしの祈りであり、私たちへの基本的みこころに準ずるものです。この「みこころに沿った願いをするなら絶対に聞いてくださる」という流れの中で、「誰でも兄弟が」ということばが出るということは、互いに愛し合うという神のみこころに基づいて、その兄弟のために兄弟愛を示していくのがとりなしであるということだと、16節を捉えていくことができます。
【内容観察】
「だれでも兄弟が、欲に惹かれ惑わされ欺かれているのを見たなら、その罪から離れるように彼のためにとりなしを神の前にしなさい。そうすれば神は、とりなしをする人のために、欲に惹かれ惑わされ欺かれている人々に、いのちを与える御霊をお遣わしになります。人を生かす力を失わせる罪があります。この罪については、とりなすようにとは言いません。」
(1)祈りによる兄弟愛⇒神にとりなす。
(2)兄弟愛は神のみこころ⇒みこころにかなった祈りは聞かれる。
(3)祈りは、人の自由意志を支配するものではない。
 とりなすべきは死に至らない罪を犯している兄弟、欲に惹かれ惑わされ欺かれている状態の人々です。私たちは各々弱さをもっているので、その肉の自己中心の欲を動機として惑わされ欺かれて、この世の欲中心の考え方、多数決の考え方に影響を受けてしまいます。そういう状況の兄弟姉妹を見た時、その人のために神に求めましょう。罪から離れて立ち返るように。そうすれば神様は、とりなした人の兄弟愛のゆえに、死に至らない罪を犯している人たちにいのちを与えてくださいます。このように、どんな人でも兄弟姉妹に愛を示すことができる方法が、とりなしの祈りであるということができます。
 兄弟愛によるとりなしとは、自分の欲望を入れないことです。相手が変わってくれるように祈るのは、(3)のように人の自由意志を支配しようとする心が混じっていないかを吟味する必要があります。正しい良心は悪い部分を直したいと願っているのにうまくいかない、そんな心の本音を見分けられるのは神様だけです。私たちにできるのは、信じてその相手のためにとりなすことだけであり、兄弟を愛する方向に心を向けることです。兄弟のためにという愛は神様のみこころにかなっているので、その祈りは必ず聞かれます。
 とりなしとは弁護士のように一歩離れた立場から人を弁護するだけではありません。相手のために自分が恥を身代わりに受けて罪をおおうという意味をも含んでいます。(箴言10:12)や(第1ペテロ4:8)には“愛はすべての罪をおおう”とあります。明らかな罪と恥を共に負う、または自分が代わりに恥をかくこと、これが愛から出たとりなしです。
 あなたは兄弟の恥を共に受け、彼をかばうことができますか。彼の借金を共に背負えますか。この世に影響された状態だと、「なぜ他人の恥を私が一緒に受けなければならないのか」と損得で考えてしまいます。イエス様が目指しておられる兄弟愛、愛のとりなしとは、兄弟の罪をおおうということが含まれていることを考えに入れてください。
 難しくても、本当に愛している者のためであれば、自分は恥をかいてもいいと思えるのではないでしょうか。まず自分が一番愛している相手のために、そこまでの愛を示したことがあるかを反省しましょう。神様が私たちに示してくださった罪をおおう愛について、今日からまた少し考えを自分の心の中に入れていただきたいのです。愛のうちを歩むことは確かに大変ですが、神は必ず私たちがそれを成し遂げることができるようにと、助け主聖霊様を遣わしてくださっていることを信じて、御霊と共に歩むことを目指していきたいと思います。

2.『古木竜吟』(こぼくりょうぎん)(ヨハネ6:63)
“「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」”
 肉は欲のかたまりであり、「肉」と呼ぶ時には貪欲をも意味しています。人は欲望だけで本当の人生を送ることはできません。人を生かすのは全人格的に生かす力であり、それをいのちといいます。聖書もこう言っています。心、霊、魂、肉体をも含め、人として道徳的に徳の高い人格に至らせるのがいのちなのです。
「霊であり、またいのち」とあるのは、霊は神であり、神は愛なる方であり、愛なる方はいのちであるから、「愛なる神様の愛が込められた愛のことば」と読み取れます。(マタイ4:4)のイエス様のみことば“「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るひとつひとつのことばによる」”も、パンが肉体を養い、みことばが霊を養うことから来ています。
 神様の愛のことばが私たちの霊を養ってくださいます。聖書のことばに神の愛を信じて読まなければ、それは律法であり、いのちをもたらすことはありません。愛を信じて読む時、どれほどの愛が詰まっているかに気づかされるのです。
 放蕩息子に出てくる弟息子は、父の愛からの引き止めに気づかないで出て行きましたが、すべてを失った時、父の愛に気づくことができました。だからこそ、彼は帰って父に謝ろうと思ったのです。私たちも聖書のおことばを神様からのものと感じ始めたら、心地よいものに変わっていきます。イエス様のおことばは私たちにいのちを与える霊であり、いのちそのものであり、愛のこもった気遣いのあるおことばです。私たちも気をつけて語っていきたいものですね。

★『古木竜吟』の意味
苦境を脱して生を得ること。生命力を回復すること。
古木⇒枯れた木。竜吟⇒雅楽の竜笛の別称。笛の響き。
枯れたように見えていた木が風に吹かれて勢いよく鳴る様子。
 死んで何の役にも立たないと思われる古木が、雅楽で使う竜笛のような音を出している。そのように、罪で死んでいくようなクリスチャン生活でも、いのちのおことばであるイエス様の愛のこもったおことばに触れられていけば回復し、いのちがもたらされます。いのちを与えるのは御霊すなわちイエス様のことばです。
【内容観察】
「人を全人格的に生かす力をもたらすのは御霊です。肉だけでは本当に人が生かされることはありません。わたしがあなたがたに話したことばは、人を全人格的に生かす霊であり、またいのちです。」

(1)死に至る罪と至らない罪は、神のことばによる。
 神様の愛のことばに留まりつつも、罪を犯している状態の人は死に至らない罪と言えます。しかし、これは動機の部分が探られるものです。正しい良心が目覚めている人ならば、みこころに沿えず罪を抜けられない事に対して悩み苦しむはずです。
 神がおっしゃることを理解し、道徳的にもわかりながら、あえてそれに背を向けて進んでいくのが死に至る罪です。良心を捨てた人、良心が麻痺した人は、死に至る道を進んでいきます。
 しかし、あくまでその人の正しい良心が神様の前に恥じるところがないかどうかの問題であり、兄弟を愛するが故に、彼らがつまずくようなことはしないのが基本です。結局各々が、神のみことばに照らし合わせていけばわかってくる問題と言えるでしょう。

(2)私たちにいのちを与えるものは、みことばである御霊。
 神様のあなたに対する愛を信じて、そのおことばに耳を傾けていく時、それはあなたにいのちをもたらす聖なる神のことばです。
イエス様は私たちの恥をさらす代わりに、ご自分が裸の恥を受け、十字架で罪の裁きを受け、なおかつ私たちのためにとりなして祈ってくださいました。この方の前に罪を隠したり横柄になるのはおかしいですね。正直に自分の醜さや罪を打ち明けましょう。
 そして、私たち罪人同士が仲良く暮らすためには、お互いの恥をお互いに受け合って、神の前にとりなしていくことしかありません。この関係が、罪人である私たちの愛の絆です。「なぜあいつのために自分が恥をかかねばならないのか」という損得勘定の価値観から私たちが創り変えられていくために、今このTヨハネから神様の愛について聞いているのです。
 今できていないことは重々承知です。しかし今できていないからこそ、少しでもできるようにと、神様の愛の対する私たちの気持ちを表していきましょう。これが私たちのクリスチャン生活だとは思いませんか。自分の期待することが相手から得られない状態であっても、愛があればそれをおおいます。そんな愛の心に成長したいとは思いませんか?ぜひそうなるように、共に歩んでまいりましょう。
「雪景色 愛の衣に おおわれて」
 イエス様が私たちの罪の恥を身代わりにおおってくださいました。そして神の前には罪なき者として認めていただけるような真っ白な者へと創り変えてくださったのです。それは愛のおおいで雪のように、私たちの人生をおおってくださっているからです。
 雪が降る度にその白銀の美しさを、神様の愛の衣として感動します。雪が溶けてしまうと、前より汚くなってしまうので、溶けないようにしたいものですね。神様の愛をいつも留めておきたいと思います。

 

 

 

 

■2013年1月27日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛の心に合わせた願い  up 2013.1.27


私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。
(第1ヨハネ5:15)

 

 

 

 14節の「みこころにかなう願いは必ず聞いてくださるという確信」があるならば、15節の「神に願ったその事はすでにかなえられたと知る」とさらに一歩進んだ神様への信頼の大きさを語っています。

1.主題聖句について(第1ヨハネ5:15)“みことばは前述”
【内容観察】
「神の愛の心にかなう願いを神が聞きとどけてくださると確信できれば、神の愛の心にかなう願いを神に願ったその事は、もうすでにかなえてくださったという大きな喜びと感謝をもたらすのです。」

 ヨハネが語った「すでにかなえられたと知る」の「知る」は、非常に積極的な表現であり、意味の深いものです。現実にはまだ願いがかなえられていないけれども、心のうちにはかなえられたという大きな喜びと感謝が湧き上がってくることを表します。15節は私たちと神様の関係を「互いに信頼し合っているという愛のかたち」として表現していると思います。
 
 私たちは第一ヨハネの手紙を通して、神様は愛であり、お心は愛そのものであり、神様のすべての行動の動機は愛だと教えられてきています。私たちの人生は、神様の愛の心に合わせていこうとする人生です。合わせていこうとするから、神様の愛の心が少しずつわかってきますし、その愛のお心に沿った歩みをしたい思いから出てくる願いが神様の願いと同じとわかってくると、この願いは聞いてくださるという確信に至ります。ですから、持っていなくても持っているかのように喜びと感謝にあふれるのは、信仰と同じ状態です。神様との間に信頼関係があり、自分の願いが神様に届いていることを知れば、聞かれているという喜びが湧き上がってきます。

(1)幼児の時期と親との関係⇒本能に沿った信頼関係
 幼児は親に対して、無条件の信頼を持っています。生まれつき「信じる力」があって疑うことを知りません。無知な信頼ともいえます。幼い分、考える力、判断力もありません。

(2)青少年の時期と親との関係⇒互いを理解し合う、信頼を築く関係
 この思春期には信頼する力が弱まり、つまずきさえ起こります。大人の心に変わっていく変化の時期は、親との関係でいえば、互いを理解し合う、信頼を築く練習が始まります。小さいときのように、自分の言うことを全部聞いてもらえない年齢に成長したこの時期に、信頼するとはどういうことか、信頼できるものとそうでないものの区別をすることを学んでいきます。

(3)成人者の時期と親との関係⇒互いを理解し、信頼を深める関係
 信じるものとそうでないものを選ぶ時期です。親と同じような立場や環境に置かれることによって、理解できなかったものができるようになります。

 私たちは、みこころにかなった願いを聞いてくださるというところまで、神様への理解を進めていかなければなりません。神様はすでに私たち罪人の気持ちを理解してくださっています。私たちの力で罪から解放され、永遠のいのちを取り戻すことはできないことを知っておられるので、神ご自身が御子のかたちをとって、愛の大きな犠牲を払われたのです。私たち罪人が神の子として立ち返り、歩み始めるためにです。神様が私たちをどれほど理解してくださっているかを、私たちが理解することが大切です。理解し合うことによって、信頼関係が深まっていくのです。

 100年も前に、シド・ファーラーというフィラデルフィアのフィリーズに8年間所属した大リーガーがいました。大した記録は残していません(8年間で打率:253、本塁打18本)。彼にはチームのマスコットになった歌の上手な娘さんがいました。ある時、迷子になって泣いている娘さんと一緒にシドを捜すと、試合が終わった球場の外野席でなんと空き缶を拾っていました。娘さんを音楽学校へ入れるための学費に充てるためでした。

 その話に感動したチームメイトもみな空き缶拾いに協力したということです。そして時至って音楽学校に入った娘さんは「ジュラルリン・ファーラー」という、押しもおされぬ有名なオペラ歌手になったそうです。

 ここに娘の特技を伸ばしてあげたいという一途な親の思い、そして自分に対する親の思いを理解して、親の愛に応えていくという信頼関係、親子の絆をみることができます。

 人間の親でさえそうなら、私たちの神様はなおさら、一人一人の賜物、才能、力を活かしてあげたいと思ってくださっています。罪人であるにも関わらず、ご自分のかたちに創られたわが子たちのそれぞれ良いものを活かすため、神であることを捨てることはできないと考えないで、人間と同じ姿になられたばかりか、私たちの将来のために罪を赦すための代価、いのちをおささげになりました。
 
 シドが娘の将来のために空き缶をこつこつと集める愛の努力を積み重ねていったその姿に、私たちも神様の愛の心を少しでも理解することができるのではないでしょうか。その理解をもとに、今自分の人生をどう生きるか、それで神様の愛の心に合わせて生きる中で起こってくる願い事は当然、神様はかなえてくださいます。

 留学もできるくらいの娘の能力を、学費がないためにだめにしたくない、どんなことをしてでもその才能を活かしてあげたいという親心であり、あきらめたくなかったのです。神様も私たちが神の子として回復することをあきらめておられません。その愛の心に合わせた願いが自然に神様の前に湧いてくるように、神様の愛を理解していただきたいと思います。

2.『肝胆相照』(かんたんそうしょう)(マルコ14:36)
“またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」”

★『肝胆相照』の意味
「お互いに心の底までわかりあって、心から親しくつき合うこと。心の 底まで打ち明け、深く理解し合っていること。」

 ゲッセマネの祈りは、イエス様が十字架にかかられることをとても苦しまれた、物悲しいイメージを持ちます。しかし、父なる神様とイエス様の親子の関係をよく知らなければなりません。御子は父なる神様の愛の心を知って、その愛に合わせて、「みこころのままをなさってください。」と言われたのです。
【内容観察】
A)『アバ、父よ』⇒いかに親しみ深いかが伺える。
 親しい、ざっくばらん、心を開いた呼びかけ

B)『あなた…』⇒その偉大さへの畏敬の念を表した、父への愛。
 神様はわたしの気持ちをよく理解してくださっているので、わたしが思う気持ちをかなえてくださることは間違いありません。

C)『…取りのけて…』⇒素直な気持ち願いを正直に告白。
 一人格者として遠慮なく自分の気持ちを知っていただく神への信頼の表れ

D)『…みこころのままを…』⇒御父の愛の心に合わせた言葉。
 仕方がないので十字架にかかりますというのでは愛になりません。神様の気持ちを自分の気持ち以上に優先するほどに、神様の愛を理解しておられた、ということです。

 自分を守ることよりも、神様がどんな思いでこのあがないのみわざを完成しようとしておられるかという罪人たちへの愛の気持ちを、イエス様はわかっておられたのです。だから、「わたしの願いよりもあなたの愛の願いを優先してください。」と言われたのです。神様の愛の気持ちを理解しなければ、十字架にかかれるはずがありません。
 
 では、イエス様の本音はどこにあるのでしょうか。「この杯をとりあげてください。」が本音だと思っている人がいるかもしれませんが、これは本音ではなく、神様の愛の心とは関係のない個人的な気持ちです。十字架にかかりたくないというのは、神の子として当然ですし、それが言えるほど神への心開かれた信頼を表しておられます。
 
 しかし、本音は「父の愛の心に合わせたい。」というものです。イエス様は、父なる神様の願いと杯を取りのけることが違うことはわかっておられました。そしてひとり子イエス・キリストを罪の代価として差し出すことはしたくないと思っておられる父なる神様の気持ちもわかっておられました。

 それ以上に、神のかたちであるにも関わらず、神に愛されている者であるにも関わらず、欲望の奴隷となりむなしい状況の中で裁きを受けてしまわなければならない私たち罪人を放っておくことはできないという愛の方が大きいことをイエス様は感じ取られたのです。だから「みこころのままになさってください。」と言われたのです。私たちが愛の気持ちを正確に理解していくと、願いが確実にかないます。

 喜劇王チャップリンの秘書は広島県出身の「高野寅市(こうのとらいち)」という人でした。15歳で飛行士目指して渡米した高野さんは、生活費のため運転手募集に応じたところ、チャップリンの運転手だったそうです。誠実さを買われ採用された高野さんは本当に骨身惜しまず働いたそうです。

 チャップリンの心を理解していた高野さんはチャップリンに信頼されて「何でもする男」と評され、「撮影所の支配人」とまで呼ばれたそうです。高野さんの指示で撮影所のすべての準備がされ、注文なく、チャップリンはすぐ演技に入れたそうです。そこまで、高野さんはチャップリンの気持ち、癖、行動、考えを理解していたということです。

 高野さんの主人への誠実さが与えた絶大な信頼は、有名になったチャップリンの使用人17人がみな日本人だったことでもうかがえます。

 この後、高野さんはチャップリン夫人の浪費への忠告をして夫人の機嫌を損ね、解雇されたそうです(会社や株を与えられての解雇でしたが。解雇したチャップリンも後悔したそうですが、高野さんは年齢のこともあり帰国したそうです)
 チャップリンと高野さんとのこの関係が、『肝胆相照』です。チャップリンは高野さんに頼んだら、安心していたそうです。言ったことは必ずその通りにすると…。またチャップリンも高野さんの意見を受け入れたそうです。(初来日の際、暗殺が噂されたチャップリンが皇居で一礼することを進言し、その写真が大きく取り上げられ、親日派としてチャップリンが見られたことによって守られた一件があった)

 チャップリンは高野さんの誠実誠意さを通して、とても日本を愛したそうです。私たちも神様の愛のお心は、誠実さ誠意がなければ知ることはできません。互いの人間関係においてもそれは大切です。すぐにはできません。御霊様の助けにより、近づいていける希望が与えられていることを感謝します。

 

 

 

 

■2013年1月20日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛はみこころ  up 2013.1.20


何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。
(第1ヨハネ5:14)

 

 

 

 このみことばの「願いを聞いてくださる」という部分だけを強調して、自分の願望をかなえようとすることが、私たちにはあります。しかしそれは肉の欲から来たものです。大事なのは「確信」、私たちの心の姿勢であり、神に対する信頼の度合いです。
 第1ヨハネは「神は愛である」と全編で語っており、神は愛であることを悟った者の願いを、神が退けられることはありません。必ずかなう願いとはみこころにかなう願いだからです。
 ではみこころにかなう願いとは何でしょうか?それを知らなければ確信を持って祈ることは難しいですね。
 パウロは確信を持って祈る人でした。彼が祈りに答えてもらえなかったのはただ一つだけであり、「三度も祈った」と言及していることから、たいていは一度でかなえられたことがうかがえます。パウロの神に対する確信、神の愛に関する理解の高さがわかりますね。

【内容観察】
「様々な願いを神様の愛のお心に、正しい良心をもって照らし合わせ、神様の愛のお心にかなうものであれば必ずその願いを聞き入れてくださるという確信に満ちた私たちの神様への信仰と希望と愛です。」
 パウロの確信の強さは、神が自分をどれだけ愛してくださっているかと同時に、自分も神様とどれだけ心を一つにしているかというところから来ています。しかしパウロにできて私たちにできないことはありません。なぜならパウロと同じく私たちも、神のかたちに似せて創られた一人一人だからです。信じる、選び取るところは誰も同じですから。これは能力云々ではなく魂の問題ですので、価値はみんな同じなのです。

1.『大悟徹底』(たいごてってい)する(エペソ5:17)
“ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。”
★『大悟徹底』の意味
 すべての迷いを打ち切り、煩悩を離れて悟りきること。
 
 私たちは神様のお約束を疑ってしまうことが度々あります。しかし神様の約束は絶対であり、私たちがどう反応しようが必ず成就します。ですから、疑うよりむしろ素直になって、よく受け止め考えるべきです。また神様は、私たちが自分の意志で決めるべき部分も残してくださっています。そこはきちんと自分の心で決めましょう。

A)「みこころ」の意味
★意志、意図された内容、意欲、思い、望み。
◎「そこには、意志を働かせる強い動機があり、その動機により発展していく具体的な心の動きが存在している。」
 最初は漠然とした思いであるかもしれませんが、それらには必ず動機が存在しています。神様はその動機に対してみこころを示していってくださいます。動機がなければ意志の働かせようがないのです。

B)『神のみこころ』を悟るために(マタイ21:28〜31)
“「ところで、あなたがたは、どう思いますか。ある人にふたりの息子がいた。その人は兄のところに来て、『きょう、ぶどう園に行って働いてくれ。』と言った。兄は答えて『行きます。お父さん。』と言ったが、行かなかった。それから、弟のところに来て、同じように言った。ところが、弟は答えて『行きたくありません。』と言ったが、あとから悪かったと思って出かけて行った。ふたりのうちどちらが、父の願ったとおりにしたのでしょう。」彼らは言った。「あとの者です。」イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国にはいっているのです。」”

  大事なのは「父の願った通り」にしたか、です。ここでの「願った」はギリシャ語では「御心』とも訳されることばです。このたとえで父の願いを正しく受けとめたのは弟の方でした。それは父の心をどう受けとめたかによります。弟は悪かったと思い(悔い)出かけていきました(改め)。弟には父を愛し敬う心があったからです。
 私たちも弟のように「無理、できない」と神様の前に否定する心が出ることもあります。そこで弟のように悪かったと思えるかどうかは、神様への尊敬と愛情により変わります。尊敬があれば「申し訳ない」と過ちを認めることができます。敬愛の心とは、みこころを悟るということです。
 私たちは常に、自分が正しい者ではあり得ないことをわきまえる必要があります。だからこそ神様の愛とあわれみが注がれ、自分がここに存在できているのです。同じようにとなりにいる人も、神様に心配され、気配りされ、愛を注がれています。

 このようにお互いを理解し合うと、良い関係が築かれます。どちらか片方でも「自分は正しい」と言い張るなら、この関係を保つことはできません。今の社会では、自分が間違っていると認めるとたちまち不利益を被るので、たとえウソでも間違っていないと言い張るのが常ですが、神の国の勝利者になりたいのであれば、神を畏れ敬愛する心がなければ、その指導に従うことはできません。
C)神のみこころを示すみことば

(1)(ヨハネ6:40)
“「事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」”
★神の愛を信じる者が、永遠のいのちである神の国を持つことである。
 
 子を見て信じるとは神の愛を見て信じることとイコールです。子とはイエス・キリストであり、神の愛を証するためにこの地上に来られました。歴史の中に刻まれた事実をもって私たちは神の愛を見ることができます。そして信じた人が永遠のいのちを持つことは、神のみこころです。愛を大事にする人が罪によって滅ぼされることがないようにと、神は願っておられます。愛を大事にするからといって、なかには怒りっぽい人等もいるはずです。神はそういう人たちにも救われてほしいのです。なぜなら愛を大事にしておられるからです。

(2)(第1テサロニケ4:3)
“神のみこころは、あなたがたがきよくなることです。”
★聖くなることである。
★それは神様専用のものとして、特別に指定されたものという意味である。
 たとえば、神様しかお座りにならない専用のイスがあったとしたら、それが聖別です。特定の者しか関与できない者が聖別、聖なる領域です。あなたが聖くなるとは、神様専用の存在になるということであり、神様だけがあなたを独占し、カスタマイズ(※造り変えること)されます。しかも各々の特性に応じて最高のカスタマイズをされるのです。

(3)(第1テサロニケ5:14〜18)
“兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うよう務めなさい。いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。”
 
 ここでの「望んで」は「みこころ」と同じギリシャ語です。では「これが」はどこを指しているのでしょうか。(:14)の「兄弟たち」ということばから察するに、「気ままな〜」から後のすべての事柄を指していると思われます。挙げている内容は「互いに愛をする」ことと合致します。(第1コリント13:4〜7)にある愛の14項目を参照してください。
 互いに愛をする、愛し合う状況にはいつも喜びがあります。愛は苦難を打ち破り、内側にはいつも喜びがあります。愛し合う関係をお互いに確認できるなら、どんな苦しい時にも喜んでいられます。祈りは相手のことを思う心の問答ですから、常に祈り心が生まれます。そしてどんなできごとにも感謝することができます。愛をする相手がいることによって動機が生まれます。そして一方通行でなく、互いに愛の関係を持つ相手が一人でもいれば、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝できるのです。私たちはこの愛の関係を目指しています。これらのことをふまえて「愛はみこころ」というテーマを、もう一度考えて直してみてください。

2.神のみこころときよい良心(使徒23:1)
“パウロは議会を見つめて、こう言った。「兄弟たちよ。私は今日まで、全くきよい良心をもって、神の前に生活して来ました。」”
 長くクリスチャン生活を送っていて、自分の生活に変化がない、新鮮みがない、その問題点は、みこころときよい良心とのつながりが見えなくなってしまっているからです。神のみこころを見極め、理解するには、きよい良心が欠かせません。(ヘブル9:14)に、キリストの血によって私たちの良心がきよめられ、死んだ行いから離れさせ、生けるまことの神に仕える者とする、と書いてあります。血潮は愛の象徴です。いのちをかけて愛してくださったその大きな愛に触れると、きよくなります。
 ここでの「きよく」は「汚れをはぎ落とす、取り除く、元の姿を取り戻す」という意味です。私たちは本来、神様の愛やみこころを感知するように創られています。それが罪の影響で、汚れ、鈍くなり、麻痺してしまっています。それで自己中心という心の動きが生まれてしまうのです。
 本当のあなたの心は、上についた汚れを全部落とした時に出てきます。世の中の『自分らしさ」は個々の思いや感情のままに生きることですが、本当は共通のかたちがあり、それは神様のかたちに似ているのです。神のかたちである本当のあなたらしい性質や良さは、良心についている貪欲さ、わがまま、自己中心という汚れをはぎ取ることによって、表われてきます。

 きよい良心とみこころは関係が深いので、良心がきよめられないままみこころを求めても、ハッキリとつかむことはできません。みなさんもぜひ、みこころときよい良心とのつながりを、他のみことばからも考えていただきたいと思います。

「枯れ山に 愛のない日々 重ね見て」
 
 愛のメッセージを続けていく中で、自分自身なんと愛のない人間であろうかと省みて、弟息子のようにやり直そうと思う気持ちを詠みました。春の日差しのように暖かい神様の愛を受けると、この枯れ山も緑に変わるのです。

   

 

 

 

 

■2013年1月13日 日曜礼拝メッセージより(辻秀彦牧師・横路伝道師・小栗伝道師)

 愛への諭し  up 2013.1.13


私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。
(第1ヨハネ5:13)

 

 

 

『諭し』⇒目下の者に、ことの道理を理解できるように言い聞かせる。
      神仏のお告げ。神託。

《辻秀彦牧師メッセージ》
神様は、聖書全般を通して「愛なる神様」を、特にヨハネを通して、第1ヨハネの手紙ではそのポイントを集中して語っておられます。ヨハネは、愛を神様と同じととらえており、無限の神様を言葉で諭すことは十分にできるはずはなく、一人一人が神様に出会って永遠のいのちを得ていく(※注ヨハネ17:20「永遠のいのちとは、御父と御子イエス・キリストを知ること」)ことが大切です。理論的に神様を知ろうとすることは限界がありますが、魂・霊で神様を愛を知っていくことは可能です。霊なる神様は霊で知っていくことが大事です。

1.『躡足附耳』(じょうそくふじ)(第1ヨハネ5:13)
“私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。”

【内容観察】
神が人となられて私たちとともに住まわれ贖いのみわざを成し遂げられた方の御名を信じているあなたがたに、御父と御子と私たちについての手紙を私が書き送ったのは、あなたがたのうちに究極の愛である永遠のいのちが内住しておられることを、あなたがたによくわからせるためです。

 一章からずっと「御父と御子と私たち、すなわち、父なる神と救い主と罪人」との関係について、書かれてきました。愛とは何かを、魂に触れられていくことによって、悟ってこれたのではないでしょうか。その人を知るには時間がかかります。そして人の心に寄り添った知り方が大事です。

★『躡足附耳』の意味
人に諭す時には相手の立場に立った思いやりのある仕方で臨むことがことが大切であると言うこと。
 一方的に自分の価値観を押しつける諭し方は、絶対に受け入れてもらえないということです。人に道理をわきまえるように諭そうとするときに、相手の立場に立った思いやりの心が大切です。愛を示せば、諭しを受け入れてもらえるようになります。ただ、すぐさま受け入れてもらえるかどうかは相手にもよりますが。

【敬聴と適用】
あわれみ深い『躡足附耳』をもって書かれたことをふまえ、正しい良心をもって1章からもう一度読み直してみましょう。

 神様は私たち罪人の立場を思いやって神様(愛)を諭してくださっていることを一章から読み取っていただけたらと思います。
●諭しを受け入れられない原因
 ○生い立ち(人生経験)の違い
 正しいことを言っても、怒り、拒絶等の反応があり、逆に憎しみをぶつけられ、傷ついて両者に心の溝ができてしまうことがあります。出てくる反応の裏には生い立ちの影響があることを知っておく必要があります。
・道徳観〜礼儀や社会常識などの違い
  地域、国家、民族間の違い
・能力の違い
 仕事が早い遅い、結果の良し悪し等、劣等感が強く成功体験が 少なく低い評価で育ってきた人は能力の違いに心を閉ざします。
・価値観の違い〜優先順位の違い

 以上のようなことを個人的に持っているので、なかなか一致しにくいものです。一致できるには「神から愛された罪人」という共通認識を持つことです。そうすれば、互いに忠告し合い、教え合えます。つまり「諭し」を与え合って徳を高める交わりが可能になるということです。罪人として差を考えるのではなく、「同じ」と考えることができるかどうか…。神様からどんなに憐れんでもらったかという体験が、能力や常識を越えて、他の人を憐れむ心を生み出します。「人の立場に、人の心に寄り添う…」。寄り添うことができたとしても問題解決に至るわけではありません。大事なことは、神様がまず私たち罪人の立場に立って思いやりのあるやり方でご自分の愛をお示しくださった(十字架)ことから、私たちは互いに寄り添い、躡足附耳の姿勢をもって徳を高める交わりを持っていくことができたらと思います。

2.「御子を信じる」と「御子の名を信じる」との違い
 《横路伝道師メッセージ》
 「イエス」はギリシャ語で「主は救い」という意味で、「キリスト」はヘブル語で「油注がれた者・メシア」という意味です。
 私たちの信じ方にも、いろいろな信じ方があります。まず第一は、
A)「御子の存在を信じる」段階です。
(1)イエス様が歴史上に確かに実在された方であると信じる信じ方。
 これは疑いようのないことです。

(2)一人の聖人、偉大な宗教家として信じる信じ方。
 学校の教科書にも、釈迦、孔子、ソクラテスと並べられ、イエス様は世界四大聖人とされています。このように信じている人は多いのです。

(3)聖書を通して、その教えの道徳性の高さ、イエス様の愛の素晴らしさを称賛する信じ方。
 クリスチャンでない方々にも多いです。

(4)イエス様を神の御子として認める信じ方。
 (ルカ4:41)に「悪霊どもも、イエスがキリストであることを知っていた。」とあります。イエス様が単なる聖人・愛の教えを説いた偉人としてではなく、神から遣わされた神の子として信じる人は少なくありません。

 次に
B)「御子の名を救い主として信じる」信じ方があります。
「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」(ローマ10:13)のです。
 
 まず、(1)「私の救い主」として信じる段階です。イエス様が、自分の罪のために十字架で死なれ、三日目によみがえってくださったことを信じ、告白して洗礼を受け、クリスチャンになる人々です。

 次に(2)「私の人生の主として信じる」信じ方があります。
 私たちはイエス様を自分の人生の主として信じているはずですが、いつの間にか、自分自身が人生の主として、心の王座に座り、自分の思い通りの人生を歩んでいないか、注意が必要です。

 そして(3)「私を愛してくださっている方」として信じる段階です。

 (1)「私の救い主」と信じ、(2)「私の人生の主」として信じていても、イエス様を厳しい神様と誤解し、距離を置いてはいないか、ということです。そうではなくて、イエス様を、「私を愛してくださっている、優しいお方」として、日々慕い求め、交わりをもつ「愛の関係」にある段階です。

 そして最後に
C)「その御名の権威を用いる」の段階があります。単にイエス様を神の御子と信じるだけでなく、御子の名の権威を信じる段階です。

“信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。”(マルコ16:17〜18)

 歴史上の皇帝や王、天皇等の権力者の名によって発令された文書は、絶対に逆らうことのできない権威がありました。しかしイエス様の名は、皇帝や王、天皇に勝るものです。イエス様の名は、「すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。」(エペソ1:21)とあります。イエス様の御名を信じるクリスチャンは、その名の権威を用いて、「罪」「悪霊」「病」の力から、人々を解放することができるのです。

 私たちは、B)の「イエス様を救い主として信じる」段階から、更に、永遠のいのちであるイエス様の愛をすでにいただいているクリスチャンとして、C)の「御名の力を信じて、愛によって用いる」段階に歩みたいと思います。

3.「よくわからせるため」(ガラテヤ5:13)
“兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。”
 《小栗伝道師メッセージ》
 これほどくどいまでに、ヨハネが語っているのは、永遠のいのちを持っていることを知っていることが大切だからです。私たちは自分にとって大事なことのためには、時間等を犠牲にします。大切な永遠のいのちを持っていることを意識しているでしょうか。
★私たちは、神ご自身の愛である永遠のいのちを持っている
“そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。”(第1ヨハネ5:11〜12)

 この永遠のいのちは、あっけなく外れて落ちるものではなく、うちに持っているので、離せないはずです。神様は、罪人の私たちにどうしても「永遠のいのち」を持ってほしい、神の子どもにしたいという願いを持っておられるのです。神様の情熱です。私たちは罪人ですが、私たちを愛して十字架にかかってくださったイエス様の愛を受け取るなら、永遠のいのちが与えられるのです。

【ガラテヤ5:13bの内容観察】
ただ罪と欲望に生きていた私たちの罪の罰を神の御子イエス・キリストが身代わりに十字架で受けて死んでくださったことにより、私たちはこれらの束縛から解放されて、自由になりました。その与えられた自由を、与えられた神の愛によって、肉の欲を満たす生き方を選ばず、むしろ互いの弱さを補い合い、おおい合うことに心を向けなさい。

 イエス様が十字架にかかってくださり、信じた私たちは罪の奴隷ではなくなり、何でもすることができる自由が与えられました。しかしクリスチャンでも世の影響を受けて、自己中心、自己満足、自己顕示欲など自分の欲を満たす生き方を選んでしまうこともあります。また良い結果を出すことにあせることもあります。自由は放縦に変わったりもします。イエス様の愛を見て、私たちはどう生きましょうか。罪人に自由を与えられた神様、何という罪人への信頼でしょう。失敗することもあるのに赦しを与えて、永遠のいのちを生かすことができるようにしてくださいました。

●永遠のいのちを表すことに私たちはどこまで、本気になっているでしょうか。
 神様は私たちの魂を常に心配してくださっています。神様は私たちの魂をご自分の最優先としてくださっているのです。
 
 すでに語られていますが、第1コリント13:4〜7の愛の14項目にどう取り組んでいかれますか。他の人の必要に気づいているのに、肉の思いを優先して、あえてその必要を見過ごすことはありませんか。今年のテーマの「愛のうちに歩む」とき、今の私たちは、成長の途上にあり、未熟なところから、次第に成長していくことをぜひとも心に留めておきたいと思います。
 
 「たいせつなきみ(マックス・ルケード著)」に出てくるパンチネロは、他からの評価を表した、だめシールをはられまくり、作ってくれた彫刻家のエリのところに行きました。「自分はシールに表されている通り、価値がない。」と思っていたパンチネロは、エリから自分の存在を「大切」と言われ、その言葉を疑いました。しかし、自分のことを思いやってくれるエリの愛を受け取って信じたとき、そのだめシールは一つぽろっと落ちていったというのです。同じように私たちにとって大切なことは、永遠のいのちをくださった神様がどう思っておられるかです。神様は、私たちに神様の絶対的な評価に生きてほしいと願っておられます。また愛の品性には引退はないと思います。「愛のうちに歩む」…神の赦しの中で永遠のいのちを活かした人生を送ってまいりましょう。

 

 

 

 

■2013年1月6日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛のうちに歩む  up 2013.1.6


また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。
(エペソ5:2

 

 

 

 「愛をめざして」過去二年間をかけて、第一ヨハネの手紙から私たちが歩む方向性をお話ししてまいりました。みなさんは、このように方向がはっきり決まっていますから「愛のうちに歩む」道のりを外れないようにすすんでまいりましょうという思いで、この主題をつけました。

◎元旦礼拝から
・私たちは愛の神のかたちに似せて創造されたものである。
・「互いに愛し合いましょう」というのがヨハネの手紙の中心。
・どんなすばらしい親から私たちは生まれ、創られたかを知ることは幸せなことであり、愛なる父なる神様にならうことが最も幸いなことである。
・最も幸いである「愛の神様にならう愛の道」とは、第一コリント13章4〜7節にある14の項目を心がけることである。

1.『凌雲之志(りょううんのこころざし)』(イザヤ26:3)
“志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。”

★『凌雲之志』の意味
 俗世を超越した志。
 凌雲⇒雲より高く上る⇒俗世間を超越するの意。
 俗世間⇒求道・修行に無関心な世俗の世界。
 出家しない者の世の中。
 
 あなたが自分をどう評価しようとも、高貴な神の子であり、愛なる神に形創られた神の子であることを自覚しないと、「愛のうちに歩む」ことは難しいと思います。「愛のうちに歩む」ことは俗世間を超越した志といっても過言ではありません。自分の能力によってするのではなく、神のかたち〜すなわち、あなたの内には神のDNAがあるので目覚めるならば可能だということです。

【内容観察】
「主なる神に信頼する者は、みこころを行うという堅固な志を持っている。主はその人を、ご自身の愛による平安によって守られる。」
 
 主なる神に信頼する者は「みこころを行う」という堅固な志を持っています。弟子は師から志をも学び、受け継ぎます。技術だけ受け継いで志が悪いと、悪用されて、築き上げてきた良い伝統も汚されてしまいます。武道は、究極は人を活かすために用います。ただ強くなりたい、人に復讐したいだけの願望では、多くの人々に傷を与え、人生も間違ってしまいます。
 私たちが教会に来ているのは、金儲けのためではなく、志を全うした結果与えられた成功的人生を歴史に残すためでもありません。私たちは、「愛の頂点」を目指しているのです。父なる神様のような愛を身につけることです。しかも競い合ってもいません。愛は比べ合うものではありません。愛の神に形創られた私たちは、父なる神の愛の後継者として頂点を目指して、その神の愛にならう人生を上り始めたところです。

 そのために、私たちの心を支える堅固な志が必要です。その志を神様を信じて持ち続ける時に、神様はその信頼の故に平安のうちにその人を守られます。一時的に動揺することがあっても、その志の故に、平安を与えて、志の道を全うするように導き、守ってくださいます。
 
 あなたの迷いは、志が中途半端だからではないですか。クリスチャンとして生きるか、この世の中で生きるか…。中途半端な思いが、いずれも中途半端にさせているかもしれません。愛よりもお金がすばらしいと思っている人は、ここに長くとどまれないかもしれません。

【敬聴と適用】
・堅い志と神への信頼との関連から教えられるもの
◎箴言16:3より
“あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。”
 
 あなたのしようとしていること、すなわち志を主にゆだねるとは、信頼しなさいという意味です。神様が認めてくださるあなたの志を、主に信頼して持つように、そうすればその計画は揺るがないということなのです。

 神様の前にゆだねることができるほど、信頼をもった自分の志を、正しい良心をもって告白できるでしょうか。ゆだねている人は自分の欲望から出た自己中心的な名声名誉欲を心に隠した志かもしれないと、肉の思いを神様の前に明らかにして、本当に正しい良心をもってこの志を全うしようとしているのかどうかと神様に量っていただきます。そうすると、聖霊様(御霊)があなたの正しい良心に働きかけて、例えば「その志には誘惑があり、それを戦い抜けば大丈夫だよ。」と語られます。神様の愛に心を向けた人に、神の愛の御霊は必ずあなたの正しい良心にわかるように語ってくださいます。

 しかし、ゆだねきれない人は自分の我を通そうとして、神様の愛によってきよめられた良心からの声を聞こうとしません。なぜなら、無意識のうちにその志を否定されることを知っているからです。ここのところの心の観察を正しくしていかなければ、ゆだねることがわからないと思います。神様はストップさせるわけではありません。愛のうちに歩む道から逸れることを願っておられないのです。大きな志であればあるほど、誘惑も大きいと思います。

 たとえばこの教会に与えられたビジョンの広島エルサレムプランのエルシャダイの働きについて言うならば、「隣人愛」という志にありながら、金儲け、名声名誉欲、支配欲…私たちが気づいていないいろいろな欲望が心を支配してしまうことがあります。それを見抜く心でなければなりません。広島エルサレムプランが町を変えられるほどの影響力を持つキリストの愛の証をしたいのであれば、とても大きなことであり、誘惑が多いのは当然で、正しい良心をしっかり維持し見張る、日頃の神様との関係が大事です。
 
 志が大きければ大きいほど、私たちはきよめられ、磨かれ、正しい良心が強められ、へりくだらなければなりません。「これ以上、何を直せばいいのですか」といらいらし腹を立てたり、祈りに応えてもらえないからと原因を捜し続けたりする中にも傲慢があります。もし私たちが一つも欠点がない人間になってしまったら、「神様に栄光を帰します。」と口では言いながらも誇るわけです。

 あの完璧主義のパウロでさえ、神様は一つのとげを与えられ、完璧を狙うことへの危険性を示されました。神様はとげがなくなるように祈ったパウロに、神様の愛を証することに専心しているはずが、自分の問題点をなくして完璧であることを目的にしている間違いを指摘されました。「わたしの恵みは弱いところに完全に現される、あなたに欠点があり問題があるからこそ、わたしの愛が現れるのだ。」と示されました。もし、パウロが全く欠点のない完成された人になったならば、神様の愛ではなく自分の愛を現すことになってしまいます。

 神様は不完全な者たちの心をよくご存じで、自由意志を与えられた被造物の一番の弱点は、神のように完璧になると必ずルシファーのように傲慢になってしまうことです。人が完璧になったときはへりくだれない者となり、神様の完璧さを私たちは教えられる必要があります。
 
 あなたは能力、才能…において欠陥のない人間になろうとする必要はありません。神様の愛に対して、完璧であろうとすべきです。これは魂の問題であり、神様との関係だけの問題であり、これこそ一番土台となるべきものです。これができて初めて成功的人生を築いても、決して傲慢に陥ることはありません。神様との愛に対して頂点を目指していけば、自ずと結果が現れてきます。神様は、その人の力量にふさわしく内容を受け入れ、生かしてくださいます。

○『凌雲之志』が「愛のうちに歩む」ことであるとなぜ言えるのでしょうか
・愛の神のかたちに創られた私たちには、愛のうちに歩むことは俗世を超えた志であり、ふさわしいことである。
・キリストによって救いを受けているから〜私たちのいのちは、尊い神様の愛の犠牲によって、生かすように変えられたので、たやすく価値のないものに使うことのないようにすることは大切である。
 
 クリスチャンの神への熱心さを見て、世の人はついて行けないと言います。私たちは特別ではなく、当たり前の生活を送っています。震災の時に、被災地では外国の人ほど大切にされたこと、被災された方々が、まるで家族のように自分が持っている物を等しく分け合っている姿に世界中の人々が驚いたそうです。現地の方々にとっては普通の姿勢であったようです。クリスチャンが俗世間的でないように見られがちですが、俗世間にいる彼らこそ当たり前になっていないことを気づかせてあげる必要があります。

2.『愛のうちに歩む』にならう(エペソ5:2)
“みことばは前述”
A)愛する対象者の存在
 あわれみ(助けが必要も含む)を注ぐ対象者。目上の人に対しては、受けている尊敬が崩されないように手助けをすることも意味します。

B)目的は愛する者のため
 自分本位の自己満足の愛し方と、相手の存在を大事にした愛し方は違います。永遠のいのちに至る愛し方は、罪のために神様の怒りを受けて裁きを受けないためにどうしたらよいかを思って、愛の忠告、親切を与えます。これは大事なポイントです。

C)愛の犠牲は、神へのささげ物、供え物である。  
 クリスチャンの愛の犠牲は、神へのささげ物です。ここが愛がきよいかきよくないかの分かれ目とも言えます。神にささげられる愛になっているかどうかで、欲望が土台となった肉的な愛か神の愛に基づいた愛かどうかを判断できます。

 ささげ物とは、罪人が神の前に義と認められる宗教的儀式の行為です。イエス様は罪人ではありませんでしたが、ご自分がお手本として罪のかたちである人のかたちをとって来られました。被造物は単体では存在の意味がないと聖書では捉えられており、目的を持たない罪の姿ですが、神様と関連づけると目的を回復し、的を射て義と認められます。そのしるしは神様に認められたら、神様との関係が存在目的が回復し、ささげ物が受け入れられるということです。

D)神への香ばしい香りとなる愛の犠牲。
 香は良い香りを放つためにあります。香り高き香とは、あなたの存在が神様の前に「的を射ている」ことを意味します。あなたの愛の行為が神様から良い香りだと言っていただけるならば、その愛は神様と同じ質の愛だということであり、正しい愛だということです。

 価値判断は神様がされます。私たちの課題は、香り良き愛の香を炊く愛の犠牲はどうしたらよいかを考えることです。それは聖書から教えられています。

☆人としてのキリストは模範であり、手本である。
 これからの一年を(第1コリント13:4〜7)の14項目を心に留めてチャレンジされ、愛のうちに歩んでいただきたいと思います。

「門松を 心に据えて 主をむかえ」
 松は、神様を迎え待つという意味があります。「愛の神様、とどまってください。心を開いています。」という思いを表しています。