■2012年12月30日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛を持つ  up 2012.12.30




御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。
(第1ヨハネ5:12

 

 

 

 年に引き続き「愛を目指して」私たちの思いを愛なる神様に向けて過ごしてきたこの一年。その締めくくりでもある今日、目指してきた歩みの中で、すべての人が目指すべきゴールである神の愛を得てこられたでしょうか。私たちは神の愛ゆえに存在し、また全世界は造られ、この愛のもとに集まっています。

 愛を中心に(第1ヨハネ)を一年かけて、一節ずつお分かちしてきました。これからも人生の出来事を通して、さらに深く神の愛について知っていけると思います。

そこで今日は、神様がヨハネを通して、なぜ「御子を持つ」ということばを使われたのか、そこには意図が含まれているとます。それを考えてみましょう。
1.主題聖句について(第1ヨハネ5:12)“みことばは前述”

【内容観察】
★『持つ』ギリシャ語からの意味
 所有する、保管する、帯びる、抱く、とどめている。
★『御子を持つ』⇒御子をつかみ取って手中に収める。
 ⇒御子を信じる。

 つまり「心でつかみ取る」こと、「密接な関係がある」ことです。あえて「御子を持つ」ということばで、神の愛を信じるとはどういう意味あいがあるかを暗示していると思います。

「神の愛の証しである御子を心のうちにつかみ取っている者は神の愛であるいのちを手中に収めており、神の愛の証しである御子を信じない者は神の愛であるいのちを手中に収めていません。」

 ここで「イエス・キリスト」と「いのち」が同じことをさしていることを気づいていただくため、「神の愛の証しである御子」「神の愛であるいのち」と表しました。イエス・キリストを信じている人はいのち、すなわち神の愛を持っています。クリスチャンドクターの百歳を超えられた日野原先生は子どもたちに「いのち」を「時間」と説明されました。一人一人与えられた時間を無駄にしてしまうと、いのちを無駄にしている。死んでしまうと時間がなくなる…。時間の用い方がいのちを生かすことである…と。クリスチャンにとっていのちを生かすとは、神の愛を生かすこと。人生において愛することを中心に生きていくといのちを輝かせ、生かすことができると考えられます。夫婦でも親子でも、いがみ合っていたら、大事ないのちの時間を無駄にしてしまっていることになりますね。

【敬聴と適用】
 参考までに私(辻師)のデボーションポイントをご紹介します。私に「いのちがある」という証明は、「神の子イエス・キリスト」を持っていること、すなわち信じていることです。神が私たちを愛してくださっている証拠であるイエス様を信じることが神の愛を信じることだと、これまでお語りしてきました。

 愛されていることがわかればわかるほど、いのちの用い方、生き方が変わります。もし私がイエス様を信じていなかったら、どんな人生を歩んでいたことでしょうか。きっと自己中心でかたくなさを通し、妻のことより自分の願望を満たすことを中心に生きていたことでしょう。

 神の愛を信じることによっていのちを生かす生き方ができるようになります。それは愛がある生き方であり、真に生きることにつながると聖書を通して気づけるのではないでしょうか。例えば極端な話ですが、だまされている人は、信じ続けられる間は幸せです。神様は私たちをだます方ではありません。二千年前に歴史の中にその愛を刻まれました。罪のための裁きを受けなければならない私たちの身代わりに、二千年前に十字架で裁きを受けてくださいました。私たちを愛しているからです。

 せっかくいただいた愛のいのちを、むだな罪のための人生として処分されないために、もう一度生かすことができるように、神は人となってキリストの姿をとって地上に来てくださいました。私たちを愛しているから、そこまでしてくださったのです。

 この世の愛は快楽的な愛です。私たちが語っている自己犠牲の愛は、愛する者が幸せになることによって自分も幸せになれるという相互愛です。自分が不幸になってでも相手の幸せを願うことは自己満足の愛であり、本当の幸せとは言いません。

 「キリストを持つ」という信じ方を通して、私たちの人生がどのように導かれ、変わっていくかという点を考えていただくのが、このTの主題聖句からのポイントです。もう一度、愛について深く一年間を振り返っていただきたいと思います。

2.『持つ』ことと『信仰』と『誇り』(ガラテヤ6:14)

“しかし私たちには、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。”

○主イエス・キリストの十字架⇒愛を強調
○世界は私に対して十字架に…私も世界に対して十字架に…⇒ 死の強調

【内容観察】
「私たち罪人が唯一誇れることは、神の愛がかたちとなって来られた主イエス・キリストの十字架をとおして明らかにされた私たちに対する神の愛だけです。」

 この誇れるほどの神の愛を傷つけない、いやしめないために。

「キリストが私たちのために罪のさばきを身代わりに受けられて死なれたこの十字架によって、創造主を敬うことを軽んじるこの世は私に対して死んだも同然であり、私も不敬虔なこの世に対して死んでいるのです。」

 不敬虔の代表であるこの世は、私たちに対して死んだも同然、すなわち関わりが持てないということです。罪人がこれほどまでに愛をもって救いの道、罪の赦しを与えてくださったきよい神様との関係を守るには、この世との関係を薄くする以外にありません。それほどに大事なものであり保管すべきもの、壊されてはならないものなのです。不敬虔なこの世はあなたが持っている神への純真な心の愛を傷つけ、壊そうとし、不信仰をもたらしてきます。自己達成欲をあおり、それが生き甲斐だと惑わされると、あなたの純真な神への愛は保管できなくなります。持っていても壊れてしまうと意味がありません。

 ですから「世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられた」という姿勢をもって、自分の心に与えられているきよい神への純真な心を大事に抱き、保管し、守りましょう。

 ではどうして「誇り」ということばをポイントに挙げたのでしょうか。誇りと聞くと、傲慢、高ぶり…といったイメージがあります。人間の誇りは聞く人に嫌な感じを与えます。

 しかしこの(ガラテヤ6:14)は、自分のことではなく、神様が持っておられる愛を誇りにしています。「こういう私を愛してくださった…。」という証しをするほどの、神の愛に対する誇れるような信頼です。確信を持って恥ずかしがらないものです。どんな時でも、こんな私がきよい神様に関心を持ってもらえているという愛を感じたら、人々に自信を持って言うはずです。

 「戦後間もなく、大学教授の娘でミッションスクールに通っていた北原怜子さんは、ゼノ神父から『蟻の町』(東京)のことを聞いて感銘を受け、そこに移り住んだ。信仰を持っていた彼女は共に廃品回収等に明け暮れ、貧しい子どもたちに勉学を教えるなど尽くしたが、無理がたたり病気となり29歳で召天。」

 体を壊すほどに身を粉にして、9年間ですべてを使い果たす働きぶりだった彼女のことを、「蟻の町」の人々は誇りにしていると思います。自分たちのことを顧み、助けてくれ、共に生活してくれた彼女のことを言い伝えてきたのではないでしょうか。

 このように、愛されたことを誇りに思い、大事にされたことのすばらしさを思うと、親、先生、友人…と心動かされた人のことを、人に語るのではないでしょうか。あなたにとってはお金に代えがたい、大事な愛の体験です。人に自信をもって証しできるような愛の体験がまさに「十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません」ということです。誇りとするあなただけの、愛されたという愛の宝物。ご自分の人生を振り返って、そういう体験の方がおられるでしょうか。そのことと、神が人となって地上に来られ、罪を赦すために身代わりに十字架で裁きを受け、愛する者を守るために身を粉にしていのちを使われたことと重ね合わせる時、誇りに思える愛を感じるのではないでしょうか。その愛を信じているからです。どんなにすばらしい愛でも、受けとめなかったら感じません。

 私たちがイエス様を信じている大切なポイントは、誇れるほどの神の愛を信じており、それを通して「御子を持っている」と言い切れるわけです。

 愛を誇る⇔愛を信じている⇔愛を持っている
(すべての人が互いに誇っても争いにならない唯一の誇りは、罪人を赦される神の愛)

 今はまだ確信が薄く、欲望に自己中心に負ける弱さを感じていても、魂の願いは、十字架に表された神の愛を素直に人々に証しすることではないでしょうか。

 あなたにとって、十字架であなたの罪を赦し、愛の人生へと導いてくださった神の愛以外に、宝とするものがあってはなりませんというのは当然ではないでしょうか、という気持ちが(ガラテヤ6:14)にはあります。

 みなさんも愛を信じる生き方であったかどうか、今年を振り返ってみられ、新年を迎えていただきたいと思います。
「とこしえの 恩寵胸に 年を越し」

 

 

 

 

 

 

■2012年12月23日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 幸せの鐘(ベル)  up 2012.12.23




「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
(第1テモテ1:15

 

 

 

 どうしてイエス・キリストのご降誕をこれほど祝うのか、世間ではあまり認知されていないようです。まず主題聖句を参照してください。罪人ということばに抵抗を持つ人があるかもしれません。罪とはどこからか、何をすれば罪人なのか、良心の基準は人によって異なります。しかし聖書で言う罪とは、次の一文に表すことができます。
罪人⇒互いに愛し合うことが人間の存在目的であることが悟れていない人
 人は互いに愛し合うために存在しています。神という偉大な親の下で、同じように育っていく子どもたちと家族のように愛を共有するために、私たちは創られました。これが人間の第一目標であり、願いであり、最優先課題です。お金も健康も大切ですが、それよりも大事にしなければならないものであり、神がお与えになった人間の本分なのです。罪の根本は「的外れ」であり、愛の生活が的なのですから、それを軽んじて欲望のまま好き勝手に自分だけの幸せを求めるという、優先順位の間違いです。親たる神様から見れば、その的外れな生き方は「罪人」です。お金は便利なものですが、とらわれ頼ると、失われた時に醜くあさましい状態になります。対して愛は、貧しさも不足も影響を及ぼすことはなく、家族の間に平和をもたらします。ごちそうなどなくても、お互いをねぎらい合う家族間の気遣い、心配りに、幸せのベルが鳴るのではないでしょうか。
 愛が大事だと教わってはいても、実生活ではお金の力を思い知らされる私たちではありますが、あまりにも洗脳されすぎていて、愛がなおざりにされている、そんな社会です。ローマ時代もそうでした。そんな的外れな社会に、神様は降りてくださいました。私たちを救うため、私たちがまともな道に立ち返るようにと、ご自身が人となって手本の道を歩んでくださったのです。そして、子どもが未熟さのゆえに犯す様々な失敗をすべて親が償うように、神様も私たちがわがままや自己中心で与える損失を全部請け負ってくださっています。人は成長すれば自律し、何が良いことで優先されるべきかを判断できます。今の世は欲望を基とした経済社会なので、精神的に成長していない人々が大勢います。そんな人間の最大の罪「親(神)を親と思わない」的外れを、神ご自身が痛みと代償を受けられました。罪を犯す者は滅ぼされるのが神の律法です。しかし愛なる親であられる神様は、ご自分が人となって、十字架にかかられ、罪の裁きの痛みを代わりに負ってくださいました。ここに親としての私たちへの愛が示されています。「早く愛の道に立ち返るように」と、神は今も願ってくださっています。

1.一粒の麦として(ヨハネ12:24)
“「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」”
【内容観察】
「神を証人として、あなたがたに真実を伝えます。多くの幸せの実を結ぶことができるいのちを神が与えてくださっている一粒の麦が、一粒のままを保とうと地に落ちないでいるならば、それは一つのままです。しかし、神が与えてくださっている多くの幸せの実を結ぶために、一粒のままでいることを捨てるなら、豊かな愛の実を結び『幸せの鐘』が鳴り響きます。」
★一粒の麦⇒個人。神のひとり子イエス。神のかたちに造られた人間。
★地⇒受けとめる心。人々の集まり、社会、この世。
★落ちる⇒委ねる。ささげる。役立てる。
★死ぬ⇒自己中心や利己主義、自己義を捨てる。
★実を結ぶ⇒いのちを正しく用いれば、愛の実を結ぶ。
 あるアメリカ人女性の留学時の話です。彼女は、日本の女性は差別されていると思っていましたが、四年間の名古屋の大学留学時にホームステイした家での「お母さん」の役割を見て、目からうろこが落ちたそうです。専業主婦である「お母さん」の存在は、その家庭に安心と安定感をもたらしていることを知ったのです。家庭ごとに暮らし方は様々に異なりますが、平和をもたらしているのは、家庭の間に流れる思いやりと自己犠牲です。ステイ先の「お母さん」は自己犠牲と思いやりを持って、仕事や学校から帰ってくる家族のお世話をしていました。また、世界でも指折りの清潔さを誇る日本の衛生環境も、この「お母さん」たちの役割がいかに大きいことでしょう。一人一人の健康に気を配った献立も、専業主婦ならではと言えるかもしれません。仕事をしていれば、忙しくて配慮する余裕も時間もなかなかありません。彼女はこれらの生活を通して、「本当の家族はこうなんだ」という実感を持ちました。
 ここで大事なことは、家族がそれぞれの役割分担を果たすために配慮、気配りをしているということです。自立へのこだわりは親子、夫婦の絆を切ってしまいます。本来、日本の家族は、いたわり合い寄り添い合うことによって、健全な依存を形成してきました。健全な依存とは家族愛です。それは大上段に構えるのではなく、自然に形成されていくものです。さっき述べた「お母さん」のように、他の働きを支える裏方に回って、自分の時間など投げ捨てて尽くしていく姿は、一粒の麦の姿でしょう。自我を捨てて、家族を思いやる気持ちを持って、自分の時間をその人たちのために蒔くのです。これが、時至って実を実らせるのです。そういう日本の良い文化が、この経済社会における欲望という力で壊されていって、幸せのベルがお金にすり替えられてはいませんか。誰でも幸せになりたいものです。夫婦でお茶を飲んで話すことはなくても、共有する時間と空間が心地よい、そういう何でもない場面で感じるつながりを、神様は私たちの世界に復活させようとしておられます。手本としてイエス・キリストが地上に来られ、聖書に手引きを残されました。毎日の生活の積み重ねが、愛のベルを奏でることができるための道を備えることになります。そういう一週間として、クリスチャンはできる限り教会に来て聖書のことばを聞いています。あなたも一粒の麦となる人生を一度考えてみてはいかがでしょうか。家族、地域でいつか必ずその実を結び、「良かった」と言ってもらえる人生、感謝してもらえる人生を報いとして受け取ることができるのではないでしょうか。

2.「幸せの鐘」のために(箴言4:23)
“力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。”
 心を大事にすることは良いことだと知っていても、現実に実行するのは難しいものです。自分の望みをかなえるには、心重視は不向きだと社会で学んでいるかもしれません。何事でも自我を前面に出していくことを是とし、周りに配慮することを考えなくなってはいませんか。
【内容観察】
「正しい良心のために心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、けがされないように心を見張りなさい。そこから、幸せの鐘を鳴らす神の愛が泉のようにわいてくるからです。」
 心を守らなければ、幸せのベルは聞こえて来ませんし、鳴らすこともできません。愛とは何かをもっと深く考えていく必要があります。
 アメリカ、メリーランド州のエピソードをみてみましょう。メリーランド州には感染症を持ち込む可能性のある動物を入れてはならないという決まりがありますが、クリスマスの定番トナカイもそれに入っていました。このことにショックを受けた10歳の少年の嘆願から運動が始まり、州知事が「12/24の深夜、良い子にプレゼントを届ける目的に限り、赤鼻のトナカイがメリーランド州上空を飛行することを許可する」という声明を出しました。これは子どもの心を守ろうとする、愛の行為です。私たち大人の心も現実ばかり見ていないで、心を守らなければいけません。現代の子どもの心がすさんでいるのは、大人の心がすさんでいるからです。よその子の行いが悪いと苦情を言いますが、言っている本人の子どもが同じ悪い行いをしている事実には気付きません。「お金が大事」「自分が好きに生きられる人生こそ幸せ」だと、家庭で無言の内に印象づけているのです。心を守るとは、大人の心も幼子の心も守ることであり、それが未来の社会を守ることにつながっていくのです。大人になってからの矯正は難しいのですが、子どもの頃から愛の大事さを学ばせていくならば、それが根付いて、大きくなっても判断ができるようになります。
 最後に、大阪府の脳性マヒの女性の証をしましょう。彼女に立て続けに両親の離婚、仲の良い友人の死去と続いた時、落ち込む彼女をなんとか元気づけようと、母親が役所に頼んだ電動車イスで彼女が見つけた心のオアシスは、ある特別養護老人ホームでした。入所者たちや職員たちにお世話になった彼女は、恩返しとして、アルミ缶集めでお金を貯めることを思い付きます。付き添う母に手伝ってもらい、また近所の人たちの好意を受けながら、雨の日も風の日も空き缶を集め、業者に引き取ってもらっては貯金しました。半年後、集めた3万6千個のアルミ缶の代金は、ちょうど車イス一台分でした。これが空き缶運動の始まりになり、車イスを全国の様々なホームに送った台数は百台以上に及びました。彼女がこの活動を始めたのは40歳前だったそうですが、40年近く悩み続けてきた彼女に、老人ホームの方々との交わりの中で触れた温もりが、彼女の心をいやし人に奉仕するまでに彼女の心を強めたのです。経済社会の中で、私たちは自分に都合の良いものしか関わらない生活を送ってはいないでしょうか。本当の幸せを求めているはずなのに、心が耳をふさいで幸せのベルが聞こえてこないのです。お金の力に洗脳されないよう、自分の心を力の限り見張りましょう。愛の泉がそこからわくからです。お手本として神が示してくださった「愛に生きる」ということを、一緒に歩めればと、いつも私たちは願っています。まだまだ私たちは至らぬ者で、完全ではありませんが、だからこそ愛が必要なのではないでしょうか。至らない者同士だからこそ、互いに愛を行うチャンスが与えられます。大事なことは愛だと気付いてくると、相手の至らなさも自分の至らなさも、かえってすばらしいと見えてくるはずです。それが幸せのベルが聞こえ始めている証しだと思います。

 

 

 

 

 

 

■2012年12月16日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛は永遠のいのち  up 2012.12.16




そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。
(第1ヨハネ5:11

 

 

 

「愛は永遠のいのち」
今日は永遠のいのちに目を向けて考えてみましょう。

1.主題聖句について(第1ヨハネ5:11)“みことばは前述”
【内容観察】
「神が御子についてあかしされたあかしとは、神が私たちに永遠のいのち
 であるご自身の愛を与えられたということ、そしてこのいのちである神の愛が御子のうちにあるということです。」
 永遠のいのちということばは具体性に乏しいため、興味が示されにくく、また時間的な長さの意味で受けとめやすいようです。「健康で幸せと思える良い状態の時」には、未来に希望を持ち、永遠のいのちに関心を持つようです。しかし、今日は、永遠のいのちが愛に結びつくものであることを紹介したいと思います。
A)永遠のいのちとは、愛の神を知ること(ヨハネ17:3)
“その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。”
 永遠のいのち、すなわち健康、健全さ…よい状態を生み出すには、神様の何を知る必要があるのでしょうか。ヨハネは、「義なる神様、裁き主なる神様、救い主なる神様」を強調するよりも「愛なる神様」を強調しました。愛が私たちを健康にし、幸せにするのです。霊的存在者である「ひと」は、病気をしていても魂が平安であることによって幸せを感じます。こころが健全な人はこころが健康です。この世の中が言う欲がもたらす幸せには限界があります。欲は満たされなければ心を歪め、満たされると人を蔑んだり見下げたりして心を傲慢にします。欲は人の関係に格差をもたらしますが、愛は格差を縮める働きをします。人の徳を立てる愛は人を幸せにします。愛なる神様を知ることは、私たちを健全に保ち、永遠のいのちに結びつけます。
B)永遠に存続する中で最も偉大なのは愛(第1コリント13:13)
“こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で 一番すぐれているのは愛です。”
「いつまでも残る」とは、ずっと存続することです。最後に残る方は、創造主である神様です。神は初めであり、終わりである方だからです。だから、永遠ということばがふさわしいのは神様だけです。ここで永遠ということばを「信仰」「希望」「愛」に使っているのは、神様と一体性があります。また、その中で愛が最も優れているとあります。全宇宙でほめたたえられるべきお方は唯一神様であり、最も偉大で優れておられるお方も神様です。最も優れているお方である神様にしか使えないことばを愛に対して使っているということは、最も優れたお方と愛とは同じだということです。(ヨハネ17:3)と(第1コリント13:13)をつなげると、愛は永遠のいのちだということがわかります。神は永遠のいのちを持たれたお方であり、永遠に存在されるお方です。愛も永遠に存在するものであり、最も偉大なものであるということです。
【敬聴と適用】
「主イエス・キリストを信じることと永遠のいのちを得ることとのつながりを考えてみましょう。また、永遠のいのちが与えられたことを、何をもって確認できるでしょう。」
キリストを信じることと永遠のいのちを得ることとのつながりについてはいうまでもなく、キリストを信じることは神の愛を信じることです。その神の愛とは、永遠のいのちを信じること、それは永遠のいのちを得ること、とつなげられます。「御父と御子を知ることは、永遠のいのちである」とヨハネは言っています。愛の神を知るということは永遠のいのちを得ることと同じ意味です。人の愛でなく神の愛で愛し合うとはどういう意味でしょう。人間の愛は個々の主観的な判断によりますが、神様の主観をもって愛し合うとは、神の愛によって愛し合うということです。それは自分の主観よりも神様の主観を優先します。愛するとは、「親切をする」「赦す」等が含まれています。好み云々ではありません。「自己中心である主観を十字架につけるように」と神様は言われます。主観をなくすというよりも神様のお考えが最も正しいと知っているのだから、自分の考えよりも正しい神様のお考えを優先して当然ではないですか、というのが神様が言わんとしておられることです。主観さえ譲ることができたら、私たちは本当に良い関係を保つことができるはずです。神様の主観によって、夫婦が、家族が理解し合うのが一番平和な解決法です。たとえば「私が夫で家長だから夫に従え。」というのは、人間的な束縛の愛、人格を奪う愛です。世の中は、まさっているかどうかで従う関係ができますが、「従い合うように」という聖書とは世界観が全く違います。神様が言われている世界観がどれだけ私たちに平和と幸せを生み出すか考えてみてください。それは理想的な話と言う人がおられますが、それだけ価値を認めておられるということです。とはいえ、自分が神様でありたいがゆえに、聖書に従うことを拒んでいるのです。
 神様は心から信頼できるお方です。なぜなら神は愛であり、その愛は一番理想的で完璧な社会構造を生み出すからです。力の優劣、考え方の違いは問題でなく、愛があればみな心を一つにできるからです。すべてを結ぶのは愛だからです。互いに愛し合う神との交わりによって、愛の神を知っていくのです。自分の主張が通らなくなってくると、信仰から離れたり、距離を取ったりする人がいます。祈りに応えられなくなるとつまずく人も出てきます。欲を健全に保つ力は敬虔な愛だけです。強く神様の愛に触れられる人は、互いに愛し合い、赦し合い、譲り合うことが最も平和を保つコツだと諭されてきます。自分を主張すればするほど平和がやってこないものです。自分の失敗、苦しみを通して、神様の愛を知り、同時に永遠のいのちも得ることができていると結びつけていただきたいと思います。愛を受けるとは永遠のいのちを受けるということに等しいと言えます。

2.永遠のいのちである愛を捉える(第1テモテ6:12)
“信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。”
 「イエス・キリストを信じ神様の愛を信じたら、永遠のいのちを得ている」と言いながら、ここでは「永遠のいのちを獲得しなさい。」と語っています。信じる者は「神の愛を得ている」はずなのに、「愛を追い求めなさい。」と言われると、矛盾があるように思えます。ふつうは全部は得ていないと考えます。
 「獲得しなさい」とは、永遠のいのちを獲得する信仰生活を送り続けなければ、それを失う可能性があることを示唆します。戦うとは、負けない、持っているものを奪われない、自分のいただいているものを確保する必要があります。放っておいたら神の愛を奪われてしまいます。
【内容観察】
「愛を目指して前進して行くための絶え間ない努力を日々続け、永遠のいのちである神の愛を手中におさめなさい。あなたがこの世から呼び出され救われた目的は、永遠のいのちである神の愛を受け継ぐためです。そこで、あなたは神の家族たちの前で立派な信仰告白をしたのです。」
○獲得する〜ギリシャ語で「手中にする」「つかみ取る」の意味。
 ここでは取り扱いの難しいものを自由に使えるようにすることと考えました。信仰の戦いは難しく、困難を覚えます。獲得するには、精神的にも技術的にも奪い取られないためのいろいろな工夫、体験の積み重ねが必要です。永遠のいのちを手中に収めるとは、あなたのものとして自由に扱えるようにしなさいということです。例えば、高級なパソコンと高度なソフトを持っていても、自由に扱い切れないことがあります。神様の愛も自由に使いこなせるような鍛錬した熟練者になることを、戦いということばで表現されています。神の愛を持っていても、「赦すことは難しくてどう使ったらいいかわかりません。」と言っているようです。しかし熟練者は「赦す」ことを知っていますし、さらに難しい「赦す」問題にチャレンジできます。信仰の戦いをして、神の愛をあなたの手に取って自由にその愛のすばらしさを生かせるようにしなさい、ということです。勇敢な戦いとは「良い戦い」と直訳できます。つまり、日々努力を積み重ねていきなさい、という意味です。パソコンの新しいソフトを自由に使いこなすために時間がかかるように、神様の愛を自由に扱えるようになるためには、戦いという時間がかかります。経験、体験が必要です。神様の愛は自販機のように「信じる」というコインを入れたら、3秒後に欲しいものが落ちてくるようなものではありません。自販機に入っている製品は一から作るという時間がかかっているのに、それをその値段でしかも3秒で手にするという非常に幸運な立場にあなたはいます。そのジュースにどれだけの人力、時間、エネルギーがかかっていることでしょうか。ケーキを作るためにオーブン付きレンジを購入しても手間を面倒くさがって単に食べるだけを目的にしている人と違って、自由に自分の意志通りのケーキを作れる技術を身につけることを目的にしている人は、ケーキ作りが楽しみです。神様の愛も同じです。神様の愛は、聖霊様であり、私たちが互いに愛し合うためにご自身を用いてほしいと願っておられます。しかし私たちが自己中心で自分の主観に頼る人生を歩んでいるため、私たちの願いに応えにくいのです。願いはかなえてあげたいと思っておられても、心を痛めておられます。まるで人を見透かす観察力の鋭い名馬のように、神の愛を用いるにはむちゃくちゃをすると本人が傷つくので、祈りに応える時を考えておられます。聖霊様は人格者なる方、神の愛も人格者です。御霊と愛は一つ、神様と一つです。愛の扱い方を学ぶために、信仰の戦い、すなわち愛を目指して前進していく絶え間ない努力をしていきましょうということです。
 また、「このために召された」とは「永遠のいのちを獲得するため」であり、愛の継承者ということが含まれていると思います。愛を捉えて、愛を自由に扱うことができる熟練者となることが、愛の神の国を相続するにふさわしい神の子と言えるわけです。「愛を捉える」というよりも「愛に捉えられる」と訳した方が正しいと思います。私たちよりも愛の方が優れているからです。
 競馬で勝率の高い馬は鋭い観察力を生かして、騎手よりも自分の判断で勝負をかけるという話を聞いたことがあります。騎手は賢い馬になら勝負どころを任せることができるわけです。私たちは愛を捉えるよりも、むしろ愛に捉えられて、愛の賢さに合わせていける熟練者に成長していくことが望ましいと思います。
 今週、ぜひ永遠のいのちである愛について、神様の愛を感じながら、教えられていただきたいと思います。

「木の葉散る その行くすえも 主にゆだね」 (投稿作品)
 木の葉でさえ一つとして無駄なく活かされる大自然をお造りになったのなら、神様から見放されたような木の葉のような自分でも、私の未来を考えてくださっているに違いない。ご自身のかたちに創ってくださった私たちを、どうして木の葉が落ちてしまうままに放っておられることがあるだろうか。苦しみが続く人生であっても、行くすえを主の愛に委ねていこう。

 

 

 

 

 

 

■2012年12月9日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 心にある愛の証し  up 2012.12.9




神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています。神を信じない者は、神を偽り者とするのです。神が御子についてあかしされたことを信じないからです。
(第1ヨハネ5:10

 

 

 

「愛の三つの証し」
 5章10節の前半部分には、神様の愛に触れられたこと、神が生きておられることの証しとして私たちの内に与えられているものがあるとあります。それは、神の愛である御子イエス・キリストを愛する者に与えられた「このあかし」〜7、8、9節にある御霊と水と血という三つの証しです。信じるとは愛するということばにも置き換えられ、さらに、尊ぶ、敬うとも置き換えられます。ですから神の御子を尊ぶ者は、このあかしを自分の心の中に持っており、それは自分自身だけが確認できるものです。毎日の歩みの中で、みことばに照らし合わせて結果が伴わないために、これで信じているのだろうかと不安になることがあったとしても、神様は心の中の証しをもって、決して信じる心がなくなったわけではないと励ましてくださっています。今日は、この三つの証しが私たちの内にあることを示していきたいと思います。

1.主題聖句について(第1ヨハネ5:10)“みことばは前述”
【内容観察】
私たちは、贖いのいけにえを意味するキリストの死に合わせられた洗礼によって、キリストとともに的外れの人生を終えたのです。それは、キリストが御父の栄光を現わす御霊によって死者の中からよみがえらされたように、私たちも、御霊によってよみがえらされたいのちにあって、神とともに生きる新しい歩みをするためです。
 聖書のことばは、一言一言神様が御思いを込められた、選び抜かれたことばです。その一言に神様のどんな思いが込められているかを知れば知るほど味わい深いものとなります。

2.信じるものが持っている三つの証し(第1ヨハネ5:7〜8)
“あかしするものが三つあります。御霊と水と血です。この三つが一つとなるのです。”
A)御霊⇒神との交わりという証し
★キリストとともに復活した新しい交わりの人生(ローマ6:4)
“私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。”
 祝祷で「…聖霊との親しき交わり…」と言われるように、なぜ聖霊様と交わりが結びつくのでしょう。(ローマ6:4)をみてみましょう。この箇所のバプテスマは主に洗礼(水のバプテスマ)のことです。イエス様が私たちのために十字架にかかり死なれ、三日目によみがえられたということがなければ、私たちは人生をやり直すことができませんでした。新しく始めるためには「終わらせる』必要があります。神様とともに歩まなかった人生に終止符を打ち、愛なる神様とともに生きる人生をやり直すためです。創世記に書かれてある、「神が人をご自分のかたちに創造された」とは、神様がご自分の家族を持たれ、当然交わりが生まれたということです。私たちが的外れの欲望に振り回される人生から180度向きを変えて神様の家族としての歩みを回復するために、キリストをお遣わしになりました。私たちが罪の人生を終わらせ、新しい人生を送るためには、罪を処罰しなければなりませんでした。神のお心に反する私たちの罪のために、イエス・キリストは身代わりに十字架にかかり、死なれ、ハデスに下り、霊的な裁きをも身代わりに受けてくださいました。キリストには罪はありませんでした。当然義人が罰せられてハデスに置かれたままであるはずはありません。だから、キリストは単に罪の身代わりに死なれただけではなく、新しい人生を義人が生きるしるしとして、よみがえられたのです。義人〜罪赦された者に新しい人生が与えられる証として、キリストの復活は絶対に必要だったのです。(ローマ4:25参照)
 キリストをよみがえらせたのは御霊です(ローマ8章)。私たちに神とともに歩む新しい人生を与えてくださるのも御霊です。その目的は神と交わること、最初創られた神様の計画に戻ることができるためです。交わりのない家族には愛は存在しません。愛なる神は、愛する対象者が必要でした。神が、ご自分のかたちに似せて創られた私たちは「神の子ども」です。愛は相互間に表されるので、私たちの存在は必要だったのです。
◎神との交わりを私たちにもたらす聖霊様は、私たちの心にどんな証をもたらしてくださったでしょうか。
(1)愛の神とともに生きる願いが起こされる
 願い事だけを聞いてもらえる神様の存在を求める思いが強くなっている時は、神の御子を信じる力が弱ってきています。本心が目覚めてくると、神とともに歩むことは一番完全な人生の歩み方だと気付きます。人として完璧な歩みだという意味です。どの世界の人のゴールも、最終的には神の領域です。私たちが凡人であっても、神とともに歩む最高の人生を歩めるということです。キリストを信じている心があれば可能です。成績に基づきません。良い人生かどうかの基準は、創造主に認めてもらえる人生かどうかです。この基準に反発する人には、神の御子を信じる気持ちは全くないでしょう。御霊に触れられた人は、神とともに歩むことは理想的な歩みだと感じますし、またそうありたいと心が渇いてきます。長年クリスチャン生活を送っている人で、神とともに歩む人生は疲れると思うのは、御子を信じる心が弱ってきています。
(2)創造主なる神への畏敬の念〜神を畏れる心が生まれてくる
 信仰を持っていなくても、神仏を敬う心がある人は、神に近いと言えます。聖書の話もよく通じます。こういう人に神の御子を信じるようにと、御霊は働きかけておられるのですね。信じた皆さんもノンクリスチャンの時よりも信じる気持ちは強くなってきていませんか。結果によって、神への畏敬の念が弱っていると思わないでください。神の御霊は、御子を信じて敬う心を与えておられるからこそ、あきらめる気持ちさえ起こってくるのです。
(3)愛の神との内なる会話がなされてくる
 神様を信じる前は、悩みは自分の心の中で問答していました。しかし、神様を信じてからは、神様が目の前におられるかのように、自然に神様に向かって祈り心を持って語っているのではないでしょうか。逆に神様に向かって語らなくなった時は、御子を信じる心から離れてしまっていると言えるかもしれません。神に心が向けられている状態は、神の御子を信じる証です。

B)水⇒ことばなる神が心に住まわれる証し(コロサイ3:16)
“キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。”
【内容観察】
神のことばであられるキリストを、あなたがたのうちに快く迎え入れ、いつまでもとどまっていただけるように交わりを保ちなさい。そして、互いに神の愛のうちを歩む者として、みことばからの知恵を用いて互いの徳を高め合うように教え合い、戒め合いなさい。また、みことばからの感動によって、詩と賛美と霊とにより、感謝にあふれて心から神に向かって、ことばなる神との交わりを喜び歌いなさい。
 ことばを住まわせることを勧めているということは、それができる状態に私たちは救われているということです。私たちはよく、人の言葉を心に住まわせることをしています。(思い出、記憶、格言等々)
●宿すとは、諭されること、心の中に記憶すること
 考えていただきたいことは、聖なる神のおことばが罪深い私たちの心に届くことができようか、ということです。イエス・キリストの救いのおかげです。すべての人々が知っても知らなくても、二千年前にイエス・キリストが十字架で全世界の人々の罪を赦すために犠牲を払われました。ノンクリスチャンでも、神のことばが心に留まるような状況を与えてくださいました。それほど神様の心は大きいのですね。誰でもみことばに触れて、御子を信じる心を与えられるのです。でなければ、キリストを信じることはできません。聖なることばが、その人の霊、魂に触れるからです。ましてや信じている皆さんは、聖書を読んでいて悟らされることがいくつか出てきているのではないでしょうか。
◎神のことばを心に宿すと、私たちの心にどんな証がもたらされるでしょうか
(1)神ご自身が私たちの世界観となられる
 価値観、歴史観、様々な善悪の判断等々を、神ご自身のことばによって人生を生きる方向に変えられます。皆さんは、いつの間にか神様のことばを決断の時に使っているのです。いろいろ反応するのは、神のことばが宿っているからです。拒絶する人は、開き直り拒否しますが、心がとがめる皆さんは、世界観がみことばによって形成されているしるしです。
(2)神のことばによって心が取り扱われる
 すでにとがめることがしるしです。とがめることが多い人は感謝です。イエス様を信じている証です。とがめることもなく、平気で罪を犯して教会に来ていたなら、それは御子を信じる心を持っているとは言いがたいですね。とがめがなくなったら、クリスチャン人生はおしまいです。
(3)英知と諭しを宿してくださる
 神のことばを通して、賢くふるまえるようになり、知恵深く世の中との対応ができるようになります。自分のできる分をわきまえます。できない自分を認めず、100点満点を取ろうとする、かたくなな生真面目さは悩み、挫折して、教会に行きたくなくなります。

C)血⇒神の愛によるきよめの証し(第1ヨハネ1:7)
“しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。”
 イエス・キリストの血は、神が私たちを愛してくださった証しです。この愛が私たちに触れると心がきよくなります。愛には人の心を変える力があります。人がまずきよめられなければならない部分は、良心です。良心の働きが私たちの人生を左右します。私たちはみな同等のいのちの価値を持っていますが、その価値を高めるのも卑しめるのも良心の働き次第です。だから、良心がきよめられなければ、神とともに歩むのは不可能です。この良心をきよめるのが愛なのです。人の愛でさえ、人の心をきよくするのならば、神の愛はなおさら私たちの良心を力強くきよめてくださいます。
 神が私たちに語っておられるきよめとは、結果によらず、神に属する者になることを語っています。良心がきよめられてくると、罪から離れようとします。こんな罪深い私たちのためにどうして神が身代わりに苦しみを受けられたのか、何と畏れ多い神様だろうという良心のきよめを持つと、そんな愛を示されたことによって与えられたこの人生を、どうして汚していいだろうか、畏れ多いことだという思いが出てきます。良心のとがめを失うと、神との関係が切れてしまいます。このとがめを消し去ろうとするのが欲望です。欲望は自分だけが正しいという思いをもたらしてきます。そして人の意見を聞かず、自己中心的な生き方に変わるか、逆に励まされても立ち上がろうとしない生き方に変わるか、です。これもかたくなな、きよめられていない状態です。神の愛を知り、「救われる価値のない私ですが、あなたは私を愛してくださいました。どうぞあなたの自由にしてください。」というのが本当に砕かれた心ではないでしょうか。
(第1ヨハネ1:7)にある「交わりを持つ」ことと「すべての罪からきよめる」こととどんな関係があるのでしょう。このみことばにある「光」を、今日は内容観察にあるように、「神が愛によって治められている御国」としました。神が愛によって治められている御国とは、天国の出張所である教会です。教会は、「互いに愛し合う」という神の愛によって治められている人間関係の社会です。私たちが足りないなりに「助け合う、赦し合う、親切にし合う、与え合う」等々の互いの小さな愛の施し、神を敬う愛が基になった愛の交流です。私たちの愛の交わりには、神の愛が存在しています。神の愛を感じて交わりをしていると、良心がきよめられます。悪いことを考えないのが普通です。神への愛が弱いクリスチャンが、神への強い愛を持ったクリスチャンと交わることによって、汚れていた良心がきよめられるのは、神の愛を受けるからです。相互愛はきよめに留まることです。イエス様が、新約の唯一の愛の戒めである「互いに愛し合う」ことを守るように言われたのは、神に属する者として、きよい状況に、神の愛の中に、留まるためです。いかがでしょうか。今お話ししたようなことを多少なりとも感じておられたり、見出したりしておられるならば、あなたは神の御子を信じる者です。神の愛に動かされている自分の霊・魂に気付いて、その本心を持って生きる方向を誤らないように進んでいきましょう。

「しらゆきの まいおりる美は 聖なるかな」
 舞い降りる美とは、互いに愛し合う交わりの美しさ、きよさを表しています。心からよかったと思える神の家族の交わりを作り上げることが、神様の願いです。

 

 

 

 

 

 

■2012年12月2日 日曜礼拝メッセージより(牧師 辻 百合子 師)

 神の救いの摂理  up 2012.12.2


 

 

 

ルツ記に登場するルツ、ナオミ(ルツの姑)、ボアズ(将来、ルツと結婚)の三人が私たちとどのように関係があるのか、一人ずつに焦点を当てて考えていきたいと思います。

1.ナオミ「回復される教会の型」
 旧約聖書はすべて新約聖書に対する型と言われています。ナオミは回復される教会の型、クリスチャンの型とみることができます。「回復」とは、エデンの園ですばらしい生活を営んでいたアダムがサタンに誘惑されて堕落してエデンの園を追い出されたときに、神様が動物の血を流して作った衣を着せてくださり、「生きる」ように道を備えてくださったように、教会もすばらしい恵みの状況から、いろいろな罪や失敗等を通って堕落し、もう一度神様の祝福されるところまで導かれることであり、クリスチャン人生でも多々あることだと言えます。

A)「飢饉」ベツレヘムからモアブの野へ(ルツ1:1)
“さばきつかさが治めていたころ、この地にききんがあった。それで、ユダのベツレヘムの人が妻とふたりの息子を連れてモアブの野へ行き、そこに滞在することにした。”
 モーセに率いられてエジプトを出た40年後に、ヨシュアによって目的地カナンに導かれたイスラエルの民が、指導者を失うとめいめいが自己中心の状況に走っている時代がさばきつかさが治めていた時代です。自己中心の生活に入ることによって今までの守りが取り除かれ、敵の侵入にあって苦しむときに神様に向かって叫ぶと、神様がさばきつかさを遣わされ、敵をけちらして守ってくださる、しかしさばきつかさが死ぬと、また罪の方向へ走って行く状況が繰り返されていました。聖書では士師記の時代にルツ記が著されています。このルツ記は単なる物語ではなく、実話です。
★信仰の試練とどう向き合うか
 「ききん」があったというところに注目してみましょう。私たちの人生は多くの場合、突如として試練がやってきます。その時に二つの姿勢が考えられます。
(1)あまりに大きすぎる試練なので乗り越えることは不可能だから逃げる
(2)神様を信じて忍耐して立ち向かう
 信仰の試練は、すべて神様の許しの中で起こります。火のような試練も目的があります。この苦しみを通り抜けることによって、私たちの心の中にきよい神様のかたちができあがります。神様のみすがたに変えられるためには、この試練が必要です。この試練はきよいかたちができるための訓練と学びのプロセスであり。神様が意図され、よしとされているのです。脱出の道も備えてくださる恵み深い神様です。

B)夫と二人の息子の死
★試練を逃げることの結末
 しかし、ここにはこの試練に耐え切れず逃げ出した人が出てきます。ベツレヘム(パンの家の意味)とは、いのちのパンであるイエス様がおられるところです。しかし、そこを離れてモアブに行けば、この世の妥協の中に自分の生活が流れ、この世的価値観、この世の方法によって、この試練を脱出していこうとしてしまいます。結局、信仰の戦いを拒んで神様から離れてしまうのです。
 彼らはモアブで10年過ごしたと書いてありますので、移った当初はききんだったベツレヘムに比べ、満ち足りていたことでしょう。しかし、いのちのパンである主から離れる時、すなわち主の臨在から離れる時に、その神様の守りから自分から出ていくことになり、神様がされたのではなく、もっと大きな苦しみが覆ってきたということです。神様から離れて平気だと思っていても、その守りがなくなったときに、どのような状況が待ち受けていることか、どのようなことが立ちはだかってくるかに気付いていないことがあります。

C)ナオミからマラへ
★不信仰を放置しておくと神を恨み憎む心に捕われてしまう
 ナオミは自分のことを「ナオミ(楽しみ)からマラ(苦しみ)と呼んでください。」と言いました。信仰の試練から逃げ、不信仰を放置しておくと、心が神様を恨み憎む思いに捕われていき「全能者が私をひどい目にあわせた。全能者が私を苦しめている。」と怒りや苦々しさが満ちた心境になったのです。大切なことは、「なぜこういうことが起こったのだろうか。」と原因を考えてみることです。多くは、その原因が昔にさかのぼっていることがあります。ナオミの場合も10年前にパンの家を離れ、信仰の戦いをしなかったことが問題でした。
どこから落ちたかを反省し、悔い改めて初めの愛に立ち返ることが大切。
 ナオミの夫エリメレク(神はわが王の意味)が亡くなったとき、ナオミは、自分の心からも神が消えてしまったという心境になりました。しかし、ベツレヘムがもう一度神によって祝福されていることを聞いたとき、ナオミは「ベツレヘムに帰ろう〜もう一度初めの愛に立ち返ろう」と決意しました。

D)ルツの美しい友情により、回復される(箴言27:9)
“香油と香料は心を喜ばせ、友の慰めはたましいを力づける。”
 二人の息子の一人の嫁オルパは自分の家に戻っていきましたが、もう一人の嫁ルツは「決してあなたのそばを離れません。」と姑ナオミについていくことを伝えました。ルツ(友の意味)は姑を励まし、力づけていきました。ナオミは友の自己犠牲愛に触れて、回復していきました。神様は、私たちが罪を犯したからといって裁く方ではありません。ナオミを心からあわれみ愛してくださっていることがわかります。神様は一人として滅んでいくことを望んでおられません。

2.ボアズ「愛と親切さを持った救い主の型」
A)畑の所有者ボアズ
 大麦刈りが始まった頃ベツレヘムに着いたルツは、大麦刈りが終わり、小麦の刈り入れが終わるまで落ち穂拾いの仕事をし続けました。落とされている落ち穂を拾って売りに行って生活する落ち穂拾いの仕事は、貧困の人々に与えられた恵みの仕事といわれ、ルツがこれ以外に生活を支える手段はありませんでした。しかもイスラエル人の中にモアブ人が出かけて行くことは、当然さげすまれる対象であり、恥ずかしい思いをすることも承知でした。そして、ルツが初めに働きに行った畑の所有者がボアズでした。ボアズの目には懸命に働く健気なルツの姿が止まり、ルツの事情や人物像を聞き及んでおり、彼女が決して恥をかくことのないように深い親切心を表したのです。

B)神の摂理ボアズ
(1)夫エリメレクの一族に属する近い近親者
(2)買い戻しの権利のある親戚
 大麦を手に一杯に持ち帰ったルツに、親切にしてくれたボアズの名を聞いて、ナオミは夫エリメレクの一族の近親者であり、自分たちの土地を買い戻す権利がある親戚だと話しました。ボアズは刈り入れが終わるまで、ルツに他の畑に行かずにこの畑にとどまること、自分のところの若者の間で仕事をするように、さらに若者たちにはルツが困らないように落ち穂を落としておくようにと伝えました。

C)キリストの型「ボアズ」
(1)近い近親者イエス(ヨハネ1:1、14)
“(1節)初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。(14節)ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。”
 神ご自身が人となられたイエス様のことを表しています。
(2)買い戻し(あがない)の権利をもたれたイエス
“ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。”(第1ペテロ1:18〜19)  誰かの手に渡ってしまった自分のものを買い戻すことを「あがなう」と言います。誰かの手に渡ってしまっているエリメレクの土地をお金を払って買い戻す権利のある人が定められていたわけです。
 私たちをサタンの手から買い戻すために、イエス様はご自身の尊い命をお捨てになられました。血は私たちのいのちをあがなうことができると聖書に書いてあるとおり、それにのっとって、神のもとにくる全世界の人々をあがなうために、イエス様はご自分の尊い血潮を流してくださったのです。
(3)買い戻しの意志をもたれたイエス(第1ヨハネ4:10)
“私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。” 
 収穫が終わって打ち場に下っていったルツは、ナオミが言ったようにボアズのところに出ていきました。そのとき「何をしてほしいのか。」とボアズに聞かれ、「あなたの衣のすそで私をおおってください。」すなわち「妻として迎えてください。」との意味をルツは表しました。買い戻すというとき、意志、すなわち愛が必要です。そして、ボアズはルツをあがなうという意志をはっきりと表しました。みことばの「ここに愛があるのです。」とは、神が私たちを愛してくださって、そこに犠牲が払われたということがはっきりとわかります。

D)恵みの律法の型ボアズ
 恵みの律法の型であるイエスは、私たちへの愛とあわれみのゆえに自分の天の嗣業と天の位を捨てて、ご自分を無にし人となってこの地に来、私たちを救うために喜んでご自分のいのちをお捨てくださった。
 ボアズの前に買い戻しの権利のある親戚がいましたが、その人は律法の型を表していると思います。土地は欲しかったのですが、異邦人ルツを愛してはおらず、ルツをめとれば自分の嗣業も名誉も財産も失ってしまうと言いました。律法は異邦人を妻とすることはできません。しかし、イエス様は異邦人である私たちを買い戻してくださったのです。イエス様はルツである教会をご自分のいのちと引き換えにするほどに愛されたのです。

3.ルツ「教会の型」
 ルツは教会の型であり、喜びに満ちたクリスチャン、私たちの型です。
A)主の翼の下に避けどころを求めて来た(ルツ2:12)
 私たちはどういう状況で主のもとに来たのでしょうか。夫に死なれ、故郷(モアブ)を離れて、何のバックボーンもない自分はいかに弱く、何もできないものかということをルツは自覚していました。だから、主の元に来て身を寄せ「私をかくまってください。ただあなたを愛します。」と言ったのです。私たちは高慢な状態のままでイエス様を信じることはできません。それは知識だけに終わってしまいます。自分がどんなものかを悟って、「私をおおってください。避けどころとしておらせてください。」とすべてのものを捨て去って主のもとにくる心が、ルツの、教会の、姿です。

B)あなたの民は私の民。あなたの神は私の神(ルツ1:16)
 ナオミについていかないと、イスラエルの神に出会えない、「あなたの神は私の神であり、あなたの民(教会、クリスチャン)は私の民です。」と、ルツは堅い決意をもってついていくことができました。まっすぐな神様への信仰を持っていたのです。

C)堅い悔い改めの決意(ルツ2:11、1:6〜13)
 ベツレヘムに戻るときに、ナオミはルツに自分の故郷に帰るようにすすめました。貧しいナオミについていけば生活の保障もないのに、安定も捨て、また故郷の親に頼らず方向転換して、ルツは、翼の下に避けどころを求めてイスラエルの神、主を求めてナオミについていくことを願ったのです。悔い改めとは、方向転換することであり、自分の過去、罪に背を向けて神に向かって生きることです。ルツの故郷はモアブでした。この世への妥協、この世の価値観、すべてを捨てて、神様に向かって生きていくことを彼女は選んだのでした。

D)隣人愛に一生ささげる決心(ルツ1:18)
 ルツは、支えや助けの必要な人、特に彼女にとっての一番の隣人である姑を助ける心を持つことができました。あなたにとっての隣人を助けることに一生をささげていきます、と言っていると思います。肉体的、精神的、霊的に自分のすべてをもって助けていくことであり、ベツレヘムに戻ったときに落ち穂拾いに朝から晩まで休むことなく働いたのです。隣人への愛ゆえです。

4.神のご計画「ボアズの花嫁ルツ」
A)キリストの花嫁となる教会の型
 ルツは、やがてやってくる新しい天と新しい地、すばらしい神様の新しいエルサレム、花嫁となる教会を表しています。

B)ボアズとの結婚により、身の落ち着きどころを得るルツ
 神を求めてきた私たちに、神様は幾倍にも祝福を与えてくださることができます。心の苦々しさを取り去ったナオミも共に祝福を受けました。心の中の憎しみ、怒り、恨み、呪いを捨てて、悔い改めて主を心から愛する生き方に戻ることが大切です。
息子オベデが生まれ、孫エッサイまで見ることができた。エッサイの息子の一人が第2代イスラエルの王となる。その名は「ダビデ」。
イエスは、このダビデの子孫としてマリヤの胎をとおし、神が人となってお生まれになる。クリスマスは、この救い主イエスのご誕生をお祝いする日である。
 このクリスマスはルツがいて、ナオミがいて初めてなされたということです。どんなにすばらしいことか、また神の恵みがあるか、ということを伺い知ることができます。しかも、イスラエルの民がヨルダン川を渡って最初に難攻不落と言われたエリコに遣わされた二人の斥候をかくまった遊女ラハブ(イスラエルの神への信仰の故に家族が守られた)がユダの王子サルモンと結婚して生まれたのがボアズだったのです。
 神様の深い深いご計画が摂理として、歴史を通しても流れているのを私たちは知ることができます。主は恵み深く、あわれみ深いお方です。私たちの罪を赦し、罪をあがない、私たちのことをいつもやさしく心配してくださるお方です。あるときにはむちを与えて教え諭してくださって、私たちの人生が守られ、キリストのような心の姿に創り変えられていきます。神様のすばらしいご摂理に心から感謝し、また救い主なる主に感謝いたします。

 

 

 

 

 

 

■2012年11月25日 日曜礼拝メッセージより(横路伝道師・小栗伝道師)

 神の証しは愛  up 2012.11.25




もし、私たちが人間のあかしを受け入れるなら、神のあかしはそれにまさるものです。御子についてあかしされたことが神のあかしだからです。
(第1ヨハネ5:9

 

 

 

「愛の三つの証し」
(1)『水』⇒人となってこの世に来られた神⇒『愛はへりくだる』
(2)『血』⇒永遠のいのちのための犠牲⇒『愛は犠牲を払う』
(3)『御霊』⇒義のゆえに復活をもたらす⇒『復活は愛の力』

○人として来られたまことの愛(第1ヨハネ1:1) 
 横路伝道師メッセージより
“初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、手でさわったもの、すなわちいのちのことばについて”
【内容観察】
★初めからあったもの⇒天地創造以前からおられたお方
★いのちのことば⇒生けるみことばである神の子キリスト
「ヨハネは、生ける神の御子であられ、いのちのことばであるイエス様と3年間、他の弟子たちと寝食を共にし、間近にそのみ声を聞き、じっと見、みからだに触れるというすばらしい体験をし、感動をもって証ししました。」
 聖書には、キリストに対する多くの証言が満ちています。この(第1ヨハネ1:1)を見る時に、ヨハネの感動が伝わってきます。皆さんも有名なスターやスポーツ選手に出会って握手できたら、どんなに感激し感動することでしょう。ペテロやヨハネをはじめとする弟子たちは、偉大な天地の創造主である神の御子キリストが、目もくらむような栄光の天から地上に下りて人間となってくださり、身近に話をし、目で見、手で触れるところに来てくださった、ということを体験した人たちでした。初めはわからなかったのですが、だんだんと奇蹟を体験し、その人柄とすばらしさに触れる時に、神の御子に違いない!と感動、感激し、確信に満ちた歩みをし、聖書を書き記しました。弟子たちは実際にイエス様と間近で顔を合わせ、その慈しみ深い目を見、優しくりんとした声を聞き、手で触れ合い、時にはハグをしたかもしれません。一緒に食事をし、そのみからだに触れ、体温や息づかいを感じるほどに近くに過ごした弟子たちは、まことに幸いな人たちでした。私たちも今、直接見て触れることはできませんが、聖書と聖霊を通して同じ感動と感激を味わうことができるように、神様が備えておられます。これを私たちは証ししたいと思います。
 先日、タンザニアのガジマ先生の集会に行きました。400人の人がよみがえっている教会の先生ですが、そのことを自慢されるような方ではありませんでした。力のあるメッセージとすばらしい祈りをされました。終わった後、握手をしに行きましたが、温かい手と優しいまなざしの、へりくだった普通の人でした。私(横路伝)は、それに感動しました。イエス様も、初めは人々にはわからなかったのですが、弟子たちが最初に気付き、いろんな奇蹟としるしとその教えにより、人々はこの人は普通の人ではない、すごいお方だと気付いたのです。
 ポンテオ・ピラトという当時のローマの総督がいました。彼はイエス様が十字架につけられる時、ユダヤ人の訴えに対して最初は、「この人には罪がないから罰せられない」と言いましたが、すごい圧力を受け、とうとう十字架刑を許した総督です。そのポンテオ・ピラトが、実はその裁きの前にイエス様を見たという証言が書いてある書物に出会いました。ポンテオ・ピラトが当時の皇帝であるテベリウスに書いた手紙の一節です。
『皇帝陛下。ガリラヤに一人の人物が現れました。初めはローマ人に対して敵対し、人民を挑発する者ではないかと思いましたが、私の心配はすぐに消えました。私がある日、シロエという所を通りがかった時です。群衆の中心に、一本の木に寄りかかりつつ、静かに群衆に向かって語っている人物を見ました。私は、彼と群衆とのあまりの違いに驚きました。彼のうるわしい頭髪とひげ。その容貌はまさに天の人のようでありました。その歳は30歳ほどに見えました。私はそれまで、これほど優美ですばらしい目鼻立ちの容貌を見たことは一度もありません。私は彼の説教を妨げてはならないと思い、そのまま通り過ぎ、代わりに書記官マンリアスを残して、後に報告を聞きましたが、これまで読んだどの哲学書にも、イエスの教えのようなものはありません。むしろ哲学者のはるか上を行く、すばらしい内容であることを知りました。…』
 二千年前の当時、イエス様との出会いの感動を味わった人々は弟子たち以外にもたくさんいました。クリスマスの時には、羊飼いたちが御使いの御告げと天の軍勢の大合唱を聞きました。そして人類最初の救い主イエス様の礼拝者となりました。また、東方の三人の博士は、不思議な星に導かれて、王であるイエス様にささげ物をし、礼拝しました。いろんな人がイエス様に出会い、感動し、感激し、確信していきました。
(マタイ27:50〜54)には、イエス様が十字架につけられた時、空は暗やみにつつまれ、地震があったと書かれています。イエス様は、イエス様が十字架につけられた時、最後に大きな声を出して死なれました。医学的には、とても声など出せる状態ではないそうです。これらの出来事に、百人隊長は「この方は、まさに神の子であった。」と告白しました。それは弟子たち以外の第三者としての証でした。
これらの人々の感動の証に満ちた聖書を信じ、また私たちに対する神様の直接の語りかけを信じて、私たちも神の愛の証人となろうではありませんか。救いやいやし、奇蹟の体験を、皆さんはもっておられると思います。礼拝の賛美やメッセージの中で、聖霊様の臨在と感動を受けることもあります。私たちは喜んで、感動と感激を持ちながら、愛の応答として証し人としての生活を目指していきましょう。その中に祝福があります。 

○示された神の愛の証しへの応答(使徒5:29)  
  小栗伝道師メッセージより
 “人に従うより、神に従うべきです。”
 私たちは、神様の愛が他の何ものにもまさって絶対的なものだと認めます。地上に神が人となって来てくださったへりくだりの愛、罪人のために十字架にかかり血を流し死んでくださった犠牲の愛、そしてよみがえりをもってあきらめない愛を現された神に対して、あなたはどのような生き方をして応答しますか、というのが、ここで考えていきたいことです。
【内容観察】
「人(の愛)に従うより、神(の愛)に従うべきです。」と考えて、証に現された神の愛に対して、神と愛によるつながりを持つことを第一優先に求めていく思いを育てる。
 従う=心からついていきたいという愛の意志表示。
 もししぶしぶ私たちが神様についていくとしたら、神様はどのように思われるでしょうか。この箇所は聖霊の満たしを受けた使徒たちが、二度目の議会で留められていたのに、イエス様を再び証したことへ尋問されて、応答した時に語ったことばです。
※人の愛に従うときと神の愛に従うときの違いを考えてみましょう。
 最終的に人の愛に従っていく時、私たちの肉の欲が引き出されてしまいます。人への依存の状態であり、人にどう思われるかに心が捕えられ、先週も学びましたが、虚栄に走らせます。よく思われようとする行動をとったり、賞賛を受けて傲慢になったりします。存在の依存の対象を人に求めて自分のご都合主義に走り、感情に振り回されます。しかし、神の愛についていって傲慢になることは、まずありません。「みじめな自分」とされてズタズタに心が引き裂かれることはなく、ありのままの自分を喜べます。「存在」そのものを支えていただけるからです。この世にある、神を認めず人から称賛を受けることを目的とする流れに影響されると、いつの間にか自分を喜ばせてもらうことが主体となったり、また自己義に立って自分の正しさを主張したりするようになることがあります。貪欲から貪欲へと引き出されてしまい、純真に神様を求めていたきよい思いから離れていないでしょうか。そこで自分の心を探り、人につながっていることはないだろうか、心の真ん中に神以外に欲を引き起こす心ひかれる存在(この世の人や物…)がおかれて、離れることが難しいほどに依存していないだろうか、と考える必要があります。依存の度合いが高いほど、振り払うには肉の痛みがありましょう。(ローマ8:9)には「肉の思いは神の思いに反抗する」とあるように、純真さを求めているにもかかわらず、惜しんだり先延ばししたりすることを叫ぶ肉の思いが自分の内にもあることにも気付いていただきたいと思います。肉は神でなく自分につけるのです。
例)ノアの生き方(創世記6:9b)をみてみましょう。
“ノアは正しい人であって、その時代にあっても全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。”
 ノアの生き方の中に、人の愛以上に神の愛に心底ついていきたいという思いを汲み取ることができます。「正しさ」とは、罪を全く犯さない完璧な状態を言っているのではなく、自分の罪の身代わりに十字架にかかってくださったイエス様の愛を信じる信仰によって正しいと認められる信仰による義(ヘブル11:7)を表しています。
また「全き人」とは、品性において完全に成熟したきよさを持ちたいと願いを持っている人のことだと思います。この願いを持つ人を神は愛され、災いの時に恥を見ず、守りの中に置かれ、ききんの時には満ち足りるようにしてくださると詩篇に書かれています。神の前に思いをいつも正していく生き方をしていったノアを神は非常に喜ばれ、神の計画を語られたのです。一般の人からは嘲笑されようが、ノアは、神様への愛ゆえに神様が言われたことを選び取っていきました。ノアの純真さーすなわち、ノアがどのように神様を見ているかを神様は見られて、ノアに語られました。ノアは自分を愛してくださっている神様のことばを、喜んで行動に表していったことでしょう。それは人の愛に従っていたらとてもできないことです。私たちが神の愛を選び、ついていくとき、世の中には自分に同調しないことをさげすむ人も出てきます。人の愛以上に神の愛を選べるのは、自分への神の愛をいかに感じ取っているかによります。神はやり直そうとする人を喜んで受け入れてくださいます。
さらに、悪が増大したこのノアの時代、神はどのような思いで見ておられたでしょうか。今、私たちが罪に走る時、どのような思いでおられるでしょうか。きっと身代わりのキリストを示されると思います。「あなたの代わりにキリストを十字架につけました。あなたの罪は赦された。だから早くやり直してほしい…」と。
私たちがこの愛の証をしっかり握っているならば、肉の思いに捕われることはないでしょう。さらに実際にイエス様が自分のことを「この人は私が愛する人です」と語られたら、どんなに感激することでしょう。揺るがされることなく、現された愛の証に対して心からお応えする歩みでありたいと願います。
(第1ペテロ4:2)
“こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。”

 

 

 

 

 

 

■2012年11月18日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛の証し  up 2012.11.18




あかしするものが三つあります。
御霊と水と血です。この三つが一つとなるのです。
(第1ヨハネ5:7〜8

 

 

 

 「愛の三つの証し」
(1)『水』⇒人となってこの世に来られた神⇒『愛はへりくだる』
(2)『血』⇒永遠のいのちのための犠牲⇒『愛は犠牲を払う』
(3)『御霊』⇒義のゆえに復活をもたらす⇒『復活は愛の力』 
 この三つが一つとなる救世主こそ、まことの愛のキリストである。
私たちも人を愛する時、上の三つの証を心に確認して、人を愛するという心を育てていきたいですね。私たちはイエス様から「互いに愛し合いなさい」という一つのおことばをいただきました。これは守り抜くべき、ただ一つの戒めです。その証が「互いにへりくだりあい」「互いに犠牲を払い合い」「あきらめずに何度も愛のうちを歩む」ことなのです。感情的にではなく神様の愛にあって人を愛するということを、自分自身のためにも愛する相手のためにも、確認していく必要があります。確認していくことによって、私たちの間に愛が存在しているということを見出していくことができるのです。神様をどれほど愛しているかを知ることができるのも、兄弟姉妹に対する愛の姿勢によります。次に挙げていく3つのみことばによって、それらをみてまいりましょう。

1.『恐惶謹言』の心(ピリピ2:3)
“何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。”
★『恐惶謹言』(きょうこうきんげん)の意味
 つつしんで申し上げることの意。特に、書状などの末尾に書き添え、相手に敬意を表する語。
【内容観察】
「互いに愛し合うというキリストの律法が成就するためには、互いにへりくだることが重要です。」
 一方だけがへりくだるのでは、そこに愛の関係は成立しません。たとえば神様が人となって来られたへりくだりに対しても、私たちがそれを信じるというへりくだりをもって対応しないなら、愛は成立しないのです。人に対してへりくだるのが難しいと感じる時は、自分は神様の愛の前にへりくだっているという意識を持てば、「人を自分よりすぐれた者と思う」ことができるようになります。
ごうまんさが取れない人は、ぜひ神様の愛に触れていただいて、自分が優れていると思っていた部分などどうでも良いことであると気付いていただきたいのです。相手の存在そのものを敬うということは、能力やその他、人間的な誇れるものにはよらず、同じ神様からいのちをいただいた等しい存在として敬意を表すのです。世の風潮で注意していただきたいことがあります。前向き肯定的に生きることが何でも良いとは限りません。行き過ぎてしまうものは自己中心と虚栄から出てきています。これらは実を結びません。人の前で良いものでありたいと願う心が虚栄に走らせてしまいます。「できる、やれる」と自分の力より上に見せようとせず、神の前に着実に実行していきましょう。私たちは神の愛に触れ、愛に励まされて身を低くすることができます。このポイントを忘れないでください。

2.愛ゆえの犠牲(イザヤ53:5)
“しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。”
【内容観察】
「罪から来る不安と恐れや傷や痛みから解放するために、愛の救い主は、愛する者のために自らを犠牲として贖いのいけにえとなられた。」
 上のみことばを、皆さんもそれぞれの観点からまとめてみてください。犠牲となるとは、身代わりになるという意味が含まれています。たとえばあなたができないことを誰かが代わりにやってくれたら、それは犠牲を払ってくれたことになります。人が払うことのできない罪の負債を、ご自身は払う必要のない神が、代わりに払ってくださいました。犠牲を払い、身代わりとなられたのです。私たちも犠牲を払う時、相手の代わりに何かをしていることが多いのではないでしょうか。聖書ではこれを「罪をおおう」と表現しています。罪を隠しているのではなく、罪を犯した者の前に立って、代わりに償いをするから、「おおう」ということばを使っているのです。
「自分のことは後回しにして、罪を犯した人の後始末をする」これが犠牲を払うことであり、愛がなければできないことです。義務を果たすことさえ、愛の現れの一つです。互いに犠牲を払い合うところに愛が存在しています。そのためにはへりくだりが非常に重要になってきます。へりくだりの心をもって犠牲を払うところに、すばらしい愛の交流が生まれてくると言えます。こういったことを心に持ちながら、夫婦、親子、教会の兄弟姉妹の間で互いにへりくだり、愛の犠牲を払うことに心を使いましょう。

3.復活は新しい歩みをあきらめない(ローマ6:4)
“私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。”
 死という状態がやってくる度ごとに、私たちは復活にあずかることができます。絶望し、失望した時に、愛がある人は「もう一度やってみよう」という気持ちがわいてくるものなのです。皆さんのあきらめる心はどういうところからやって来ているでしょうか。「もう愛を感じられない」からあきらめてしまっているのではないですか。私たちは限界を持っているので、あきらめてしまったこともあるでしょう。それは罪の結果もたらされるものですが、クリスチャンはそこでは終わりません。もう一度、神の前に人生をやり直すという道があるのです。生きることに対してあきらめる心を、神様の愛によって乗り越えることができます。失敗を過去のものとして、神がもたらしてくださる未来に、さらに希望を持っていくのです。その未来は、神様の愛を信じているがゆえに見ることができる未来です。罪を犯したクリスチャンたちは罪を悔い改めて立ち返ると言いますが、愛なしで本当の悔い改めは起こりません。愛を感じない悔い改めはその場しのぎの逃げでしかありませんが、愛をもって悔い改める人は実を結んでいきます。
【内容観察】
「『罪の人生という過去』をキリストとともに葬った私たちは、罪人を救うた めに死なれたキリストのあきらめない父なる神への信頼のように、復活を意味する新しい歩みを常に繰り返していくのです。」
 聖書でいう過去は、単純な時間の経過を指すものではありません。「罪を犯す私」すべてが過去になるのです。なぜなら十字架で、私たちが生まれる前から、神の前におけるすべての罪を贖い、赦してくださっているからです。未来に犯すであろう罪をも贖ってくださっている、という点で、その罪をもう過去形で取り扱うということなのです。この見方から言えば、罪人としての存在そのものがもう過去の代物になります。ですから、失敗してしまったことに対しては、それはもう過去のものとして十字架で処分されているのですから、あなたは復活するべきなのです。復活の時、心を入れ替える必要があります。失敗の続きを取り戻そうとするのではなく、一旦全部打ち切るのです。そして一からやり直すというのが、悔い改めです。心を一新するのです。
私たちは復活のいのちの時間を歩んでいるのです。その中で罪を犯しても、それらはすべて「過去」として扱われていきます。罪を犯した時に「ああ、これはもう過去のことで、神は既に二千年前に処分してくださっている。だから後ろのものを忘れ、前のものに向かって愛を目指して歩んでいこう。」と心を一新していく、これが復活です。そういう復活を私たちは一生の間に何度となく繰り返していかなければ、神の国にゴールできません。一つの失敗にこだわっていると、その過去とともに処分されてしまいます。神はあなたの誰にも知らせたくないような過去を、全部あなたと関係のない人生として十字架で完全に切り離されていることを認めてください。それは神様の愛を信じることと同じ意味を持っています。なぜなら神はあなたを愛して、そのような罪のあなたは全部過去の代物だとして、過ぎ去ったものとして認めておられるのですから、あなたは過去を振り返る必要がないのです。その記憶はあってもいいのです。しかし、その失敗をやり直し取り替えるための代価は、イエス様の愛の十字架によるいのちの犠牲で支払われていますから、あなたが二重に代価を支払う必要はありません。あなたの心苦しさが残っても、その感情によって神様があなたを有罪とされることはないのです。
ぜひこのように「新しく始める」という意識を持って、復活に対するイメージを持っていただきたいと思います。それは挫折や絶望から立ち直ることです。肉の欲望によって立ち直る姿は醜いものですが、愛によって立ち直る姿は美しく価値あるものに変わっていきます。愛は死の状態の中で、心をよみがえらせるという本領を発揮します。あなたの内に愛がないといって心配しなくていいのです。神はイエス・キリストを通してあなたに愛を与えておられます。あなたの意志とは関係なく、感情とも関係なく、神の愛はあなたを立ち直らせます。これが愛の力、復活の力です。神の愛を信じるということはそれほどに、あなたの意志とは関係なく、内側から力が湧いてくるものなのです。

「秋桜 我らの心 ささげもの」
 コスモスは秋桜ともいい、桜のような花の形が特徴です。花言葉を調べると、「乙女の純潔さ」「真心」「愛情」など、純真無垢な清らかさな心を象徴するものが多いようです。あなたのうちに神の愛が触れられると、コスモスの花のように乙女の純潔な心、きよらかな真心がよみがえります。
“まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。”
(ヘブル9:14)
 良心がきよめられると純潔さがよみがえり、神の前における真心がそこに復活します。これを体験しなければ、私たちはへりくだりと愛の姿勢とやり直しという、復活の愛の人生を歩み続けることは難しいのです。たとえば今日の礼拝において、賛美の中で神様の愛に触れ、メッセージを通してまた触れ、さらに家に帰ってデボーションを通してさらに深く触れていく、個人的に神様の愛の霊と深く交わって触れられていくことによって、新しい自分としてきよめられた真心をもって一日一日を進めて前進していくのです。そういう意味合いをもって礼拝する状態を、今日の俳句にしたためてみました。あなたの内にはコスモスの花が咲いています。

 

 

 

 

 

 

■2012年11月11日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛が来られた  up 2012.11.11




このイエス・キリストは、水と血とによって来られた方です。ただ水によってだけでなく、水と血とによって来られたのです。そして、あかしをする方は御霊です。御霊は真理だからです。
(第1ヨハネ5:6

 

 

 

 今回挙げたみことばは、神学的にも解釈が難しい部分として有名です。水と血ということばの中には、神様のはかり知れない愛が詰まっているのです。

1.主題聖句について(第1ヨハネ5:6)“みことばは前述”
【内容観察】
(1)水⇒人として来られた神の子⇒人としてのイエス
(参照ヨハネ1:32〜34)“またヨハネは証言して言った。「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。私もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。『聖霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。』私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです。」”
 神より遣わされた預言者であるバプテスマのヨハネは、かねてよりお告げのあった「聖霊が下られる方が救い主である」ということばが、イエス様の上に実現されるのを見て初めて、イエス様が神の御子であることを知りました。
「水のバプテスマを受けるのは人間だけである。イエスが水のバプテスマを受けられたことによって、ご自身が人であることを表明された。そして、バプテスマのヨハネは、キリストが人として来られるしるしとして天が開け、聖霊が鳩のように下られると告げられていた。」
 イエス様が洗礼を受けることで人間宣言をされた結果、聖霊様が下られました。イエス様は罪を犯してはおられませんが、罪人なる人間と同じように、洗礼を受けられたのです。それは、私たちがゴキブリを救うためにゴキブリになる、という行為以上のものです。
「神の姿であられる方が、人となられて来られたところに愛がある。」

(2)血⇒御子イエス・キリストが人として死に、罪のない神の子として死者の中からよみがえって来られた。
(参照ローマ1:4)“聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。”
「御霊が、人として死なれたイエスを、罪のない方であると認められたのでよみがえらされた。不死の神の子としてよみがえって来られた。」
 イエス様は、私たちの救いのかたちを示されました。私たちの罪を償うために地の底に下られましたが、ご自身は罪がないのでよみがえられたのです。罪を処分された者は、よみがえることができるのです。
「私たちのために苦しみを受けられてよみがえられたところに愛がある」

(3)来られた⇒外に出て来られた。見えるかたちで現された。遣わされたまことの救い主であり、創造主から遣わされた唯一の方であることを強調している。人として歴史の中にご自身を表し、神が愛であ ることを信じることができるために来られた。

a.イエス様は天において神としてのお姿であられたけれども、
  人となって地上に来られたという意味があります。
b.地の底からよみがえって、墓から出て来られたということ。
  罪のない愛は、復活の力を持っているのです。イエス様の愛は、
  天上からも地の底からも来てくださっています。
 私たちの霊の故郷も神様のみもとにありますが、この地上における肉体は欲望が強く、私たちの本来なすべき歩みを妨げる要素を持っています。それでも、この地上に現れるためには肉体が必要なのです。また、罪の宿る肉体を何らかの手段で赦されなければ、御霊は来てくださることができません。イエス様への十字架上での裁きは、罪の宿った肉を処罰し、私たちへの贖いを成し遂げてくださったものです。
c.神と人との距離が近くなったということです。
  救い主がイエス・キリストだけであることの意味は、
  神の愛による救いをされる方だということなのです。
  その証明は、水と血によって来られたことです。水も血も、
  神の愛の証であり、他の偽物はこれを持っていません。
  神が愛なるお方であることを、さまざまなできごとから
  感じていくうちに、私たちは真の信仰を持つことができます。

【敬聴と適用】『愛が来られた』ことについて
A)(ピリピ2:6〜8)
“キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。”
 罪なき方が人間として来られたことを私たちが自分に当てはめるならば、その動機は貪欲か愛に二分されます。あなたはどちらを選んでいるのでしょうか?愛のために受ける恥や批判ならば、後で必ず、まわりの人々にわかってもらえます。
◎この聖句のどのことばに心がひかれましたか?
 みことばをまとめると、「神の愛が人として来られた」ところに心がひかれると言えます。そこに自分の心に隠れた状況があるのです。それはどんなものなのでしょうか?自分のあり方を捨てられない自尊心は、人の評価を気にし過ぎています。人を愛する時、相手の考え方を受け入れればよいのであって、自分のものにする必要はありません。
◎なぜ、そのことばなのかを、自分の心を探ってみましょう。
◎この聖句から、神はあなたにどのようなメッセージを与えておられるのでしょう。
 謙遜とへりくだり。これらの実現のために何から始めることができるでしょうか。
“心の高ぶりはその人を低くし、心の低い人は誉れをつかむ。”
(箴言29:23)
 自分を良い者としたいのであれば、人の意見を聞き、自分を低くすれば、周りが自分を高くしてくれます。腹が立ったら、「心の低い人は誉れをつかむ」と告白してみましょう。
◎神からのメッセージを適用するために、どのようなことから始めることができますか?
◎失敗や成功の要因は何でしたか?
B)(第1ペテロ3:9)
“私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生きる望みを持つようにしてくださいました。”
 死んでよみがえることは、復活を理解しなければわかりにくいものです。イエス様が死によって罪を完全に処分された後、復活されて新しく生きられたように、私たちも罪を処分していただいたので、新しい者として生きることができるのです。赦しの愛によって心動かされて生きる人は義人です。そういう人は罪に対して警戒し、正しく生きようとします。神様のあわれみは、私たちに希望をもたらすのです。人生には、うまくいかないことが多々あり、望みを完全に失ってしまうことさえあります。しかし、死んだような失望の状態があるからこそ、よみがえるというすばらしい体験につながります。神はあなたが成功するまで、罪なき神の子としてよみがえるように励ましておられます。今、うつむいているすべての人に「あなたは決して失敗者では終わらない。イエス・キリストが罪なき者としてよみがえられたように、あなたも罪なき神の子として、その絶望からよみがえってきなさい。」と、神は愛を向けてくださっています。ですから、失望している人ほど、心の奇蹟を体験できるのです。神様がこれほどまでに自分を愛してくださっているなら、自分の生きる道は神様のみこころに応えていく道しかあり得ない、と立ち上がることを、神は望んでおられます。これに気付いた人は、キリストと肩を並べる、あわれみ深い霊的成長を受ける段階に入ります。自分の力で何とかしようとする前に神の愛を受け、その愛に触れていただきたい。触れて初めて力が出てきます。足を止めてしまっている人は、神様に触れた数がまだ少ないのです。無きに等しい者である私たちは、何度でも神にすがりましょう。
“聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」”(ローマ10:11)
 あきらめる人と復活する人の違いは、神の愛に信頼を置いているかどうかです。イエス様は失望を知っておられる方ですが、神の愛に信頼し、すがり続けられました。今、失望している人は、神様が人となられた愛に、死からよみがえって来られた愛に、信頼しましょう。そうすれば、必ず心が立ち上がります。

「冬来たる 山に田畑に 姿見ゆ」
 冬は直接には見られないけれど、自然を見て知ることができます。神様も直接には見られないけれど、イエス様を通して見ることができるのです。

 

 

 

 

 

 

■2012年11月4日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛こそ勝利者  up 2012.11.4




世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。
(第1ヨハネ5:5

 

 

 

「秋深し、寒気は神の 絵筆かな」
寒気がくる度に山々は色づいてきます。私たちの人生のキャンパスも神は彩ってくださいます。

1.主題聖句について(第1ヨハネ5:5)
私たちに勝利をもたらすのは神の愛であり、この愛こそが勝利をもたらします。
【内容観察】
クリスチャンが勝利すべきことは、あらゆる貪欲に対してです。その勝利は、神の愛が見える形となってこの世に来られたイエスを、神が私たちを愛してくださっていることの証しと信じて愛のうちに生きることによって得ることができるのです。
★真の人生の勝利者とは、『世』(貪欲)に勝つ者である。
★世に勝つ者とは、イエスを神の子と信じる者である。
★イエスを神の子と信じる者とは、神の愛を信じる者である。
貪欲に打ち勝つ勝利は、 イエス・キリストこそ神の愛の証として信じることによります。本当の人生の勝利者は、社会的に成功することではありません。どんなに成功しても神を信じない不敬虔な人生を歩むなら、それは敗北者です。人生の勝利者は、神の形として造られたひととして、最後まで人生を全うすることです。神を敬わず不敬虔な人生は的はずれであり、神に造られたあるべき姿、敬虔な人生を全うすることこそ勝利者です。貪欲はこの敬虔な生き方を妨害してきます。しかし、貪欲を倒すことが人生の目的ではなく、それは通るべきプロセスです。貪欲を乗り越えて、神に従って最後まで人生を全うすることが大切です。人と比べる必要はなく、また、互いに競争して、競い合うことは無意味です。ただ、最後まであきらめずにやり遂げることこそが大切なのです。その秘訣はイエスを神の子と信じることです。イエスは神の愛の証です。この方を信じるということは、神の愛を信じるということであり、この愛こそ勝利者です。そして、その愛を信じる私たちこそ勝利者なのです。
【敬聴と適用】
自分なりに実践するために、今週も四つのポイントの流れでデボーションをしていきましょう。一つの例をあげて、このポイントでみことばを見ていきます。
◎この聖句のどのことばに心がひかれましたか?
(例)「勝つ者」ということばにひかれます。 
◎なぜ、そのことばなのかを、自分の心を探ってみましょう。
(例)途中であきらめる弱さがある。
 私自身を振り返ってみると、なぜか完成が近づくと放り出してしまうという癖がありました。最後までやり遂げられず、途中でやめてしまうのです。プラモデルも、もう少しで完成というところで、放り出してしまい、結局完成できませんでした。
◎この聖句から、神はあなたにどのようなメッセージを与えておられるのでしょう。
(例)「あなたは勝利を得ることができる、なぜなら神の愛であるイエスを信じているのだから。愛があなたに力を与えているのだから、最後までやり遂げることができるよ。」という、励ましや希望を与えてくださいます。あなたが、もし自分の心がわからないと、神様はあなたの心に語ってくださるのですから、そのメッセージがわからないという事になってしまいます。
◎神からのメッセージを適用するために、どのようなことから始めることができますか?
(例)私には常に愛の励ましが必要だと気づきます。この世には、否定的、批判的なことばが氾濫しています。本当に励ましを与えてくださるのは、神のみことば以外にはありません。ですから、この励ましのことばがいつも心にあれば、しっかりと前向きに歩むことができます。
(1)励ましのことばを暗唱する。 
 いくつか、自分にとって、励ましとなるみことばをリストアップして、暗唱します。いつも聖書を持ち歩いたり、メモを持ち歩いて読むことは大変難しいです。それよりも、暗唱する方がいつもどんな時でもすぐに助けになります。神のことばを告白することは、神があなたに直接語ってくださっていることと同じです。
(2)暗唱したみことばを日に10回告白する。
 このように数を決めるのは、具体的に実行する助けとなるからです。このように告白してゆくなら、みことばに力があることを知ります。一度告白したくらいでは、なかなか心に浸透しないものです。何度も告白して、現実に力を頂くという体験をしていくなら、ますますみことばに信頼して力強く毎日を過ごすことができるようになります。
(3)その暗唱したみことばを人に証しする。
 自分が体験したみことばの励ましを、人に証ししていく時、自分の心が解放されることを感じるはずです。与えていくと解放されますが、与えていかないと便秘のような症状になります。月、火、水で神から与えられ、励まされたみことばの証を、木、金、土で、誰かに語ってみてください。例え、失敗した証しであっとしても、語ることであなた自身が恵まれます。
◎失敗や成功の要因はなんでしたか?
 失敗も実は大切な学びとなります。それによって、あなたに合ったデボーションの方法がわかるようになるからです。最後までやり通すことが大切です。最初は0勝10敗かもしれません。しかし、スポーツもそうですが、だんだん勝率が上がってくるはずです。日本のサッカーも以前は本当に弱くて、世界のサッカーに見向きもされませんでしたが、「いつか勝つ」と試合をし続けてきた結果、今や、日本のサッカーは世界でも強豪なチームと言われるようになりました。あきらめずにやり続けたからこそ、結果が出たのです。みんな最初は弱いのです。しかし、強くなりたい、勝利を得たいという心を持ち続けていくなら、負け続ける中で実力がついていき、隠された才能が引き出されてきます。ただし、負けるだろうというあきらめた気持ちでチャレンジしてはいけません。勝つことを目標にして頑張りましょう。どんなに年を取ってもです。辛さや逆境は、さらに多くの学びのチャンスです。

2.「鎧袖一触」(コロサイ3:1-2)
“こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。”
★『鎧袖一触』(がいしょういっしょく)の意味
相手をたやすく打ち負かしてしまうたとえ。鎧の袖がわずかに触れただけで、敵が即座に倒れる意から。
 貪欲との戦いにおいて、相撲のように組み合って戦っては危険です。このことばは、鎧の袖で振り払っただけで、敵が倒れてしまうという圧倒的な勝利を表しています。誘惑にあっさり負けていませんか?
【内容観察】
今、あなたがたは、神の愛に触れられて新しく生まれ変わっているのですから、天的なものを求めなさい。そこには私たちの愛の救い主キリストが、神の権威をもって万物を治めておられるのです。ですから、キリストを愛しているのですから、キリストと同じように天にあるものを思いなさい。そうすれば、地上に属することに関心がなくなります。
 誘惑を振り払えない理由は、実は貪欲の誘惑に関心があり、ひかれているからです。欲望はあなたが関心のあるものでもって誘惑してきます。それは、地上のものです。ですから、地上ではなく、天にあるものに心を向けなさいと言っているのです。しかし、例えばお金に魅力を感じながら、天のことに思いを向けようといくら頑張ってもただ辛くなるだけです。それよりも、天の魅力を知ることです。なぜ誘惑に負けやすいのでしょうか。それは、あなたの心に地上的なものにひかれる思いがあるからです。例えば、いつも人との勝ち負けを意識していると、すぐに嫉妬やうらみの感情が支配的になってしまいます。また、確かにお金も必要です。しかし、いくらお金を稼いでいても、お金に心がとらわれないですむこともできます。それは、関心がもっと霊的なことに向いているからです。優先順位は関心の強い方に向きます。失敗しても関心が天にある人はすぐに悔い改めて立ち直ることができます。天にあなたの魅力を見つけてください。
【敬聴と適用】
 天には、あなたが願っているものがあるでしょうか?
 天では、私の愛する方、イエス・キリスト、神がいつもほめたたえられています。「御名があがめられますように」と、自分の愛する方が崇められているということは、本当に喜びです。また、「御国が来ますように」と、天になされているようなことがこの地上にも、私たちの家族にももたらされたらどんなに素晴らしいことでしょうか。家族の中に神の国が訪れたら、どんなに素晴らしいでしょう。それは希望です。「御心が天で行われるように地でも行われますように」また、「日ごとの糧を今日もお与えください」と主の祈りは続きます。例えお金がなくても私たちは神に養っていただいています。例え餓死したとしても、神の御国に行けるならそれは感謝なことです。みなさんはそのように思えるでしょうか。お金があなたの生活を支えていますか?神に支えられていますか?あなたの本当に大切にしているものは何でしょうか? それは、試されます。しかし、一度でそのような境地に到達することは難しいことです。あなたの関心がどこにあるかによって、貪欲を振り払うことができます。地上があるから、天国があるのではありません。私たちは天で命を与えられて地上に来ました。それゆえ、天に帰ると言えるのです。天国があるからこその地上の生活です。
 私たちは弱い者であり、なかなか誘惑に勝利できない者であるかもしれません。しかし、それゆえ、神は愛の励ましを与えてくださっています。この愛こそが望みであり、生きる力なのです。この愛に励まされていきましょう。神のみことばはあなたを癒し、励まし、造り変えてくださいます。私たちの魂の真の関心は、実は天にあるということに気づきましょう。