■2012年10月28日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
愛の力 up 2012.10.28
なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。
(第1ヨハネ5:4)
ここ数年の間にはやった言葉に、「勝ち組、負け組」というものがあります。しかし私たちクリスチャンは、神様から語られる勝利ということに心を向けて、この世の人々の価値観にすり替えられないようにしたいものです。私たちの勝利の要因は、愛の力です。
1.主題聖句について(第1ヨハネ5:4)“みことばは前述”
【内容観察】
★『神によって』⇒神の愛に触れられ、使命を与えられた。
★『生まれた者』⇒愛の天命に応えようと使命感をもった者。
★『世』⇒「貪欲」のシステムの世界。偶像礼拝の世界。
神でないものをあがめ、敬い、それに仕えていきます。世の人は貪欲を神として仕え、尊んでいます。「ここまでしなくても」と思うような技術やサービスは、もっと儲けるための方策であることが多いのです。
★『勝つ』⇒貪欲の力に勝っている。支配されるのでなく支配する側。
★『私たちの信仰』⇒神の愛に触れられ、動かされている心。
★『打ち勝った信仰』⇒支配することができる力の源。
「愛なる神からの天命を受けて、この世に遣わされた者はみな、偶像礼拝の根源である貪欲に支配されることはありません。むしろ、貪欲を制御できるのです。神の愛に満たされている私たちの心、この心こそ、貪欲を制御することができる力の源なのです。」
神様を思う愛の心は世に打ち勝っています。イエス・キリストのみ救いを通して私たちの心に触れられた神様の愛の力は、欲望を制御できる力を持っておられます。これを忘れると、貪欲に誘惑されます。エバが善悪を知る木の実を食べたのも、好奇心にかられて自制できなくなったためでした。これが貪欲なのです。制御できなくさせる欲はすべて貪欲と言ってもいいでしょう。
神の愛を動機として生きる人生は、世の生き方とは全く異なります。人は愛によって、いつも心を変えられていくことができます。そして、それは必ず良い方向へと導くものなのです。天命とは、使命を受け入れることです。私たちが生まれてくることにも、ちゃんとした神様のご計画があります。神様の強く大きな愛を受けると、私たちにも強い使命感が生まれてきます。それが勝利への道です。また、欲を制御することもできます。大きな使命の前には、いろんなことを自制するものです。父なる神様が私たちのためにひとり子をさえ捧げてくださった愛に感謝して、少しでもお応えしたいという心から出る使命感は大きいのです。そしてこの使命感達成のための欲は、自制心を働かせることのできる欲なので、貪欲にはなり得ません。また、神様への愛の動機は、たとえ自分が損をすることになっても、志を曲げることはありません。「〜してはならない」「〜しなければならない」という律法的戒めではなく、愛を動機とした自制は、多少の不満も愛の力が消し去ってしまいます。ぜひ、愛を動機して欲を節制することを、神の御前に求めていってください。
【敬聴と適用】
◎この聖句のどのことばに心がひかれましたか?
◎なぜ、そのことばなのかを、自分の心を探ってみましょう。
◎この聖句から、神はあなたにどのようなメッセージを与えておられるのでしょう。
◎神からのメッセージを適用するために、どのようなことから始めることができますか?
上の4つについての説明です。自分の心に残る聖句を見つけ、それがなぜ心に残るのかをよく考えてください。また神様との祈りの中で、よく観察してください。もしかしたら、この世の価値観に影響されている部分があるかもしれません。そして、これらの気付きを通して、神様からあなただけに贈られているメッセージを受け取っていただきたいのです。このメッセージは、自らの心を深く掘り下げる者でないと気づくことができません。みことばから学び、直接神様からのメッセージをいただくと、その命令は重荷にはならず、かえって自らのやる気を起こさせます。日々のデボーションで上記4つのポイントを押さえた学びを心がけてください。
◎失敗や成功の要因は何でしたか?
結果を反省して、次の成果のために役立てましょう。
2.秀でた『世道人心』(第1ペテロ3:9)
“悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。”
★『世道人心』(せどうじんしん)の意味
世の中の道徳と人の心。
世の中の道徳とそれを守るべき人の心のこと。
上に挙げたみことばのような道徳性と社会性を守ろうとする人の心は、平和で道徳性の高い社会に貢献します。クリスチャンが目指すのはこれです。まずは、教会の中からみことばに沿った行いを実行できるようにやり始めていきましょう。お互いに罪人であることを認め合った兄弟姉妹であるからこそ、赦すこと、善をもって返すことを練習していくことができます。
【内容観察】
「あなたがたは神の愛による幸せを受け継ぐために、神の愛の遺伝子が与えられているのですから、悪や侮辱に勝る愛の力によって、その人が幸せになるようなお返しをしてあげなさい。」
愛が根底にあるならば、相手の将来を思いやる心によって、その人が悪を続けないための祝福を返すことができます。これはやがて自分に返ってくる良い報いになるのです。
【敬聴と適用】
このみことばのような社会的状況が確立するためには、互いに愛し合う心が必要です。愛のない心に一方的に愛を注ぐには、大変な力を必要とします。最初は兄弟姉妹から始めましょう。また、みことばの実行を相手に要求するのはやめましょう。あくまで神様と自分の間にある約束であって、人に要求するものではありません。共に目指すべき神のみことばです。目標を同じくするからこそ、一致団結できるのです。
「なけなしの 松茸分かつ 隣人愛」
こういう心で、悪や侮辱に対して善を報いる者でありたいですね。
■2012年10月21日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
重荷を軽くする愛 up 2012.10.21
神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。
(第1ヨハネ5:3)
神様の愛を受けとめて、その愛に動かされて生きる人生。その愛を流し出す、神を愛するとは、兄弟姉妹を愛することだといろいろな形から示してくださっています。くどく聞こえているかもしれませんが、それほど大事なことだとヨハネが御霊に示されて書かれたこの手紙は、神様が私たちのために、新約聖書の一部に残されたといえます。この手紙はヨハネが相当年をとってからのものですが、イエス様の昇天後、クリスチャンは増えていても、知識欲、自己中心、名声名誉等、心の奥底に罪の働きかけの影響を受け、自分勝手なキリスト信仰の道を選んでいく流れがあったので、原点に戻って「大事なのは神の愛だ」とヨハネは、すべての教会に諭していると思います。
1.主題聖句について(第1ヨハネ5:3)“みことばは前述”
【内容観察】
★『神を愛するとは』⇒神の愛に報いる応答とは。
神様の愛を感じ取らずに神様を愛するのは、自分の思い通りに神様を動かそうとする身勝手な愛です。神様の愛を感じ取って神様を愛する心を持った人は、神様に動かされることを望みます。また神様の愛によって動かされていたはずが、いつのまにか自己本位の愛に変わっていないかどうか気をつけ、神の愛に報いる応答をしていきたいという気持ちから出てくる愛の行動を意味しています。
★『神の命令』⇒神の口から出る一つ一つの言葉、天命。
私たち人間は人格的、霊的に生きることが重要であり、神様からの命令が「いのち」として与えられてこそ生きるものだと、申命記のことばを通して、イエス様はサタンに対して宣言されました。私たちも、神様からの仰せつけであり、自分が自分らしく生き、まっすぐに歩むために、神様のおことばにのっとって生きることがいのちを受けることであり、それが「生きている」ことにつながると考えていただいていいのではないでしょうか。その命令の内容としてまとめられているのが(第1ヨハネ3:23)です。
“神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。”
ここには(1)「御子イエス・キリストの名を信じる」(2)「互いに愛し合う」の二つのポイントが見出されます。イエス様がパリサイ人から「聖書(当時は旧約聖書)の中で最も大切な戒めは何か」との質問を受けた時に、「第一に『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くしてあなたの神である主を愛せよ』」とまず答えられました。これが御子イエス・キリストの名を信じることと同じ意味を持ちます。なぜなら、愛なる神様がご自身を見えるかたちで現されたイエス・キリストを信じてこそ神を愛していると言えるのであって、神様が遣わされた方を大事にしない人は、遣わされた方をも大事にしていないことになります。神が人となって来られたイエス・キリストは、人々の罪をあがなうために、愛をもって救いのみわざを完成されました。他宗教の人でも、イエス・キリストのあがないのみわざを信じるなら救われます。これが真理です。神はご自分と同じ方として御子を遣わされたので、神を愛するとは遣わされた方を信じることです。また、自分を愛するように隣人を愛するように、と言われました。
★『守る』⇒愛をもって従う
強いられるイメージの強い「従う」よりも、「守る」の方が愛の関係がうかがえる。
★『重荷』〜束縛感、窮屈、不自由さ
「神の愛に報いる応答とは、神の口から出る一つ一つの言葉(天命)に従うことです。その天命は、決して窮屈で不自由なものとはなりません。」
みことばには「御子イエス・キリストの名を信じる」ことと、「互いに愛し合う」ことという二つの命令は重荷となりませんとあります。実際には「互いに愛し合う」ことを真剣に取り組んでいくと、重荷に感じてきませんか。適当にしている人は軽いままでしょう。しかし、重さを感じて初めて、愛が試されていくのです。自分のしたくないことをすることに対して、理由づけを考えたり、みことばから優先順位をつけて言い訳を考えたりする悪だくみの心が働くことがあります。試みられた時、冷静に正しい良心をもって決断していくことが必要です。
【敬聴と適用】
「主題聖句と(箴言18:10)をとおして『御名を信じる』という命令を守る生活について考えてみましょう。」
“主の名は堅固なやぐら。正しい者はその中に走って行って安全である。”
ここに、主の御名とは「堅固な(くずれない、しっかりしたの意)やぐら」と書かれています。嵐が起こって、いざという時に丈夫な建物に逃げ込むように、人生における様々なアクシデントに対して、主の御名という安全な場所に逃げ込むことが必要です。イエス・キリストのお名前には、私たちを守る力があります。霊的な力であり「権威」という意味です。私たちを保護する権威を持ったお名前です。とどまることは、信じると同じ意味として受けとめられます。「私の助けは天と地を創られた主から来る」のですから、正しい人は何かある度に主の名前を呼んで、主に心を向けていく時、直面している人生の嵐、災難から守られ、安全に処理し、危険を回避していけるとここで書かれています。しかし、主の名を呼ばずに自分の考えで推し進めていこうとする時、解決できる人もあるでしょうが、安全でないところで災いを乗り越えることは、雨風に打たれ、相当の傷や問題を残してしまうことは考えられます。
また、自分でできるのに、わざままを通すために神頼みをするクリスチャンがいますが、ここは、危機が迫っている状態での時にイエス様のお力が発揮されるということです。いざという時、必ず主の名を信じて向かっていくことをチャレンジしていきましょう。
2.『魯之男子』(第1コリント9:25)
“また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。”
私たちは人生において、いろいろな負担を持っています。この世の人々は生きる重荷を持っていますが、クリスチャンは「生きる重荷+クリスチャン・神の子」という重荷も担がなければなりません。二重の重荷です。それは、「〜してはならない」という規制があるようなイメージが、一般に印象づいているからではないでしょうか。
◎《クリスチャンは禁欲主義ではない》
このみことばには、「栄冠を目指している人はあらゆることに自制する」と書かれています。喜んで自ら欲を制御していくというのです。目標、願いがあるからです。優れた価値あるものを得たいと思うからです。クリスチャン生活に目的を示さず、禁欲的なことだけを教えているのならば、欲求不満のストレスがたまる一方になり、教会から去って行く結果が必ず出てくるでしょう。自分の思い通りにして、優勝したり金メダルを手にしたりはできません。どんな人でも節制を強いられています。いや、自分からそれを選んでいます。あなたは何のために欲を節制し、この世に深入りせず付き合いをしているのでしょうか。金メダルを目指して練習している人は、練習ペースを崩して後退してしまうので、正月だからといって生活をだらけて休んだりしません。イチロー選手は、日頃から練習を積み重ね、節制してこられたから、大リーグで10年連続200本安打という至難と思える業を達成されたのではないでしょうか。
私たちクリスチャンは、神のかたちとして創られた本来の姿に立ち返るという、高貴な目標を持って歩んでいます。それなのに「凡人でいい」と言ってしまっては、私たちのためにいのちを捨ててくださったイエス様のあがないの犠牲が、あまりにももったいなさ過ぎませんか。「罪人が高貴な神の子」と完成されるために払われた犠牲、私たちを愛して、「必ず神の子となって完成してほしい、ゴールしてほしい」という神様の切実な願いが、ご自分が人々の罪の身代わりに十字架にかかられた苦しみに表現されているのです。あきらめていた私たちの人生に「そうだ。私たちは神のかたちに創られた者なのだ。その道から外れてしまったので、むなしい欲望を満たすだけの人生になっていた。今こそ目覚める時だ。」と心の目覚め、諭し、気づきを持つことが大事です。いやし、問題解決、平安を求めるといった、自分中心的な最初の信じ方だけでは、クリスチャン生活は続かないのです。これらは、神のかたちに創られた私たちが神の姿に変えられるためのきっかけなのです。知識だけでなく、実感を持って目指していくことに気づいたいただきたいと思います。
★『魯之男子』(ろのだんし)の意味
『優れた人物の行いは、行為そのものを手本とはせずに、その行いを 可能とした精神を学ばなくてはいけないということ。』
魯の国で嵐にあった村の一人暮らしの若い男性の家に、家が壊れた隣の未亡人が逃げ込んできた時に、その男性は戸も開けず「婦人を一人の男子の家に泊めることは礼に反する」と応え、「柳下恵(りょうかけい)という賢人が、高潔な人格の故に、婦人を泊めても誰もとがめなかった」という話を持ち出してきたその未亡人に、自分は柳下恵のような人格でないことを伝え、家に入れないことで柳下恵の人格に学びたいと話し、最後まで婦人を家に入れなかったという故事。
◎愛の栄冠のためにセルフコントロールする
この故事からも、私たちが学ぶ点が多くあります。私たちは神様から愛の栄冠を得るためにセルフコントロールする、欲を制御するという目標を持ってください。私たちが欲望を満たして好き勝手に生きて、人格者として最悪の状態の生き方をするために、このいのちがあるのではありません。神のかたちに創られた私たちは、高貴な高潔な人格者となる目的が与えられていることを忘れないでください。この目標からそれることを的外れ、罪と言います。この目標を目指すためには、愛されているという愛の動機が必要であり、この動機があれば、目標に対してあきらめることなく、倒れてもやり直そうと気持ちが湧いてきます。神様の愛なくしてこのような目標を掲げることは、難しいと思います。もともと罪人には不可能なことを可能にする力は、唯一神の愛だけです。神の愛のゆえに、罪人が創られた目的である、神のかたちにゴールインすることが可能になりました。ですから、ぜひとも目指していこうではありませんか。
「秋の暮れ 労苦の報い ひとしおや」
(ひとしお=染め物の専門用語。浸けるごとに色が際立つ様子。)
農家の方々の収穫を終えた満足感を表すような、澄み切った秋の夕暮れ。また、来年のために備えて行こうとされる農家の方々の思いと重ね、私たちクリスチャンも神の恵みによって一週間が終わり、この朝礼拝をささげ、また新しい一週間を神様の前に歩んでいきましょう、という思いを詠んだ句です。
■2012年10月14日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
命令を守る愛 up 2012.10.14
私たちが神を愛してその命令を守るなら、そのことによって、私たちが神の子どもたちを愛していることがわかります。
(第1ヨハネ5:2)
愛なしに命令を守るのは、とてもきゅうくつなことです。「命令」は天からのみことのりを与えられる、という意味を読み取ることができます。いのちが与えられるのと同意語なのです。聖書でも“「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』」”(マタイ4:4)とあります。人は、神のおことばをいただいて初めて、生きる者になると言えますね。
1.主題聖句について(第1ヨハネ5:2)“みことばは前述”
【内容観察】
☆『神を愛して』⇒神の愛による使命感をもって
私たちは、神様の愛に感じ入って、神様を愛していきます。「これほどに私を愛してくださった方に対して何かしたい。」という気持ちを、使命感という言葉で表現してみました。
☆『その命令を守るなら』⇒天命に従うのなら
「このために私たちは生まれてきた」と、その存在目的に従うのです。
☆『そのことによって』⇒生きる動機が愛なので
神の命令を守る動機は愛です。
☆『愛していることが』⇒心を一つにできていることが
愛の表現にはいろんな方法がありますが、「心を一つにする」のも、その中に含まれています。自分中心に物事を考えるのは愛ではありません。お互いを理解し合えるという関係が、互いに愛し合う姿の一つです。
「私たちが神の愛による使命感をもって天命に従うなら、生きる動機が愛なので、私たちが神の子どもたちと心を一つにできているということは明らかなことです。」
自分の好みではなく、神が全世界をお造りになったその目的のために、すべての人にいのちが与えられているのだという観点から、心を一つにできるということなのです。神がすべてをお造りになったその目的を果たすために、私たちにもいのちが与えられています。その天命に従う時、皆の心が一つになることに気づきましょう。
○命令とは、神を愛する心によって実行に移されるもの。
信頼や尊敬によって従うのは、世間的にもあることです。
○命令を守ることによって、兄弟を愛していると証明される。
一つの目的のために一致団結して、各々の役割を果たします。これはお互いを愛していることになるのです。神様は私たちが団結して、その全体の働きをとおして神の国の大きな存在をやみの世に輝かすことを願っておられます。私たちも心を合わせてまいりましょう。
【敬聴と適用】
「主題聖句と内容観察をとおして、どのようなことに気づきが与えら れるでしょうか?」
○命令を与える存在と自分との関係についてよく考える。
自分はこの相手をどう思っているのか、自分の考え方を客観的に見たらどうなのか、考えてください。反抗心や従えない心は、愛から出てくるものではありません。
○命令を守る心と感情の動きは別問題である。
私たちは感情で愛を計り、「愛されてない」とか「愛してない」とか判断しがちです。正しい判断をするためには、可能を横に置かなければならないことがあるのです。たとえそれが敵であっても、飢えれば食料を、渇けば水を与えることが愛です。感情はどうであれ、いのちの大きさ、人権の重さを尊ぶのです。ナイチンゲールが神に示されて、敵味方の区別なく負傷した兵を助けていったように、です。
2.命令と従順について『沈思黙考』する(ヘブル5:8)
“キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、”
★『沈思黙考』(ちんしもっこう)の意味
黙ってじっくりと深く物事を考え込むこと。
この現代社会にあって、人々はなかなかこういった時間を確保しにくいものです。しかし私たちの人生においては、じっくり考え込む時間が必要ではないでしょうか。思春期〜青年期には、自分の存在やいのちについて悩むことが多くあります。しかし社会人になると、そういった事柄に対する思考を止めてしまいます。それは、生活することだけに心を向けてしまうからです。「何のために生きるのか、なぜ自分はここにいるのか、人生とは何か、宇宙とは何のために存在しているのか」私たちはこれらのことを捨てずに、もっと追求していくべきではないでしょうか。
○命令と従順について
神様と私たちという関係において、天命とそれに従うことについて、深く考えてみましょう。(ヘブル5:8)に挙げてあるのは、お手本としてのイエス様です。
【内容観察】
「キリストは御父に愛されているひとり子であられるにもかかわらず、乙女マリヤのうちに宿られたときから、人が計り知ることができないような多くの苦しみによって従順を学ばれ、」
特にお勧めしたいのは、神の愛を一身に受け、完全な存在であられる方なのに、従順を学ばれたというところです。天では体験できない従順の学びがこの地上にある、ということではありませんか。地上には様々な誘惑があり、イエス様をけなす人々がいます。神に反するやみの力が支配しており、それに動かされている人々がほとんどなのです。そんな中に、神の愛を一身に受けたお方が来られました。不自由な肉の身体に制限されながら、人生を送られた神の御子のご苦労はいかばかりでしょうか。現在の私たちが、みことばに従順であることを難しく感じるのと同じように、イエス様も人として天命を全うすることの難しさに直面していかれました。「学ぶ」とはそれを身に受けて体得していくことであり、実感していくことです。ですからイエス様は、罪人の私たちが神のことばに従うことがどんなに難しいかを、思いみてくださることができるような体験をされた方なのです。本当は従順になり得ない私たちが、従順になろうとしているこのクリスチャン生活は、大変なことなのだと、私たちはもっと自分をほめてもいいと思いますよ。これは大変やりがいのあることであり、生きがいのある人生です。
また、イエス様でさえ多くの苦しみを通られている、ということは重要です。多くの苦しみを受けずに、本当の従順を学ぶことはできません。誰しも労苦より楽をしたいと思うものですが、愛がある時にはこの労苦を忍び、従順になることができます。この世の流れは、神様の御心に反しています。私たちはその流れに逆らっているのです。地上にいる限り、大変に苦労が多いことは間違いありません。むしろ、その苦しみこそが正常なクリスチャン生活を物語っているとも言えます。多くの苦しみは、神様の愛に応えていくチャンスなのです。
【敬聴と適用】
「イエス・キリストは、地上での人生から『従順』について、何を学ばれたと思いますか?」
従順について、さらに具体的な内容を考えてみましょう。神への従順を続けていく中で困難さを感じたり、何かに気づかされていく時、かつてイエス様も同じように感じたり、気づいたりされたのだと言えると思います。
一つ参考までに。「天命=神様からの命令=聖書のおことば」に従うということは、神のかたちに造られた自分が、もっとも自分らしく生きられるということです。世の流れに反して、苦しみながらも神の子として生きていくと、そこに神の子としてのすばらしさが見えてきます。これが自分らしい生き方だと気づけば、イエス様が、ご自分に逆らう世の中で、ますます神の御子としての栄光を輝かされたように、自分の内側を表現していけます。イエス様が多くのいやしをされると、パリサイ人や律法学者たちの反感を買いましたが、彼らとの会話を通して、多くの人々に神の国のすばらしさを伝えることができました。災難や難問を通して、能力や才能、自分らしさなどが引き出されてきます。
もう一つ。「完全な従順をもたらすのは愛だけである」愛し合うとは仕え合うことであり、従い合うことです。相手に尊敬できるところ、信頼できるところを見つけていきましょう。これが見つけられない従順は、この上ない苦しみになります。愛をする生活は難しいのですが、難しいからこそ、私たちの内に眠る神様のかたち、愛が引き出されてきます。今年も残り少ないですが、愛を目指すためのもう一歩を踏み出す機会として、愛を見つけ尊敬できる所を見つけ出していく、あるいはあわれみをもって相手の必要を満たしていく、といったいろいろな方法で、良い人間関係を築き上げてまいりましょう。身近な人から広げていき、ノンクリスチャンの人へも愛を注ぎ込んでいけますように。
「秋風に ゆれるすすきの 天命は」
すすきの存在の意義は何か、転じて自分の天命について「沈思黙考」する時間を持ちましょう。
■2012年10月7日 日曜礼拝メッセージより(横路伝道師・小栗伝道師・辻秀彦牧師)
愛の使命感 up 2012.10.7
イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。
(第1ヨハネ5:1)
○横路伝道師メッセージ
みことばの最後にある「愛します」ということばは、「当然そうなる」という意味で断定的に書かれています。なぜこのように断定できるのかを、ご一緒にみてまいりましょう。
1.主題聖句について(第1ヨハネ5:1)“みことばは前述”
【内容観察】
『イエス』⇒肉と血を持った私たちと同じ人間。
『キリスト』⇒油注がれた者。創造主が遣わされた唯一の救い主。
私たちと同じように母の胎から生まれ、人間の身体を持たれたイエス様を、生けるまことの神が遣わされた唯一の救い主として信じることは、実はこの罪の世界の中においては大変なことです。隣国である韓国、中国のクリスチャン人口に対して、日本におけるクリスチャン人口は1%に満たない状態です。しかし、少ない日本のクリスチャンはそれゆえ、特別に神に愛され、選ばれ、教会に導かれていると言えます。聖霊に触れられてイエス様を信じ、洗礼を受けたとは、なんとすばらしいことではありませんか。
『神によって』⇒天命によって。愛によって。
『生まれた』⇒遣わされた。使命を受けた。
私たちの神を求める探究心、努力、修行、あるいは善良さとか良い行いによって救われるのではない、ということを示しています。私たちは神様に愛され、選ばれ、神の愛によって一方的に救われました。しかし「生まれた」とは、目的を持ってこの世に遣わされたということであり、使命を受けたということであると書いてあります。神の愛のDNAが私たちの使命のために与えられてこの世に遣わされているのが、私たち教会に集っている者と言えます。
“だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。”(第2コリント5:17)
私たちは天命により、神の愛によって生まれて、神様と同じ愛の性質を持った者として全く変えられたということです。古い罪の性質、自己中心であった価値観、世界観ががらっと変化して更新されました。そして愛の人となり、神が人間を造られた目的を果たすために、この世に遣わされたのです。
「私たちと同じ血と肉を持たれたイエスを神から油注がれた唯一の救い主であると信じる者はだれでも、愛の神からの「命」によって遣わされ、使命を受けたのです。遣わされた方を愛する者はだれでも、その方によって遣わされた者をも愛します。」
神を愛する者は、神からの愛のDNAを受け継いでおり、当然神に愛されている方々、兄弟姉妹を愛するのです。私(横路伝)は、神様が人間を創造された目的は二つあると思います。
(1)神様を愛する者となるように造られた。
もちろん自由意志をもってです。神様は決して束縛も強制もされませんが、ご自分を愛してくれるようにと痛切に願っておられます。キリストの花嫁として天に迎えられる教会を、神は望んでおられます。偶像やこの世のことには目もくれず、一心に神様を愛する、きよい、賢い、美しい心の花嫁。キリストのすばらしさにふさわしい花嫁となるとはすばらしいことで、私たちの目標ですが、何よりも神を愛するきよい心が必要です。神様の目的は、ご自身の栄光の中に迎えるにふさわしい、神を愛する民、きよいクリスチャンの教会を地上に送られることです。そのために私たちは選ばれ遣わされ、神のDNAをあらかじめ与えられています。
(2)神の子どもたちが互いに愛し合うこと。
人々が憎しみ合い、争い、お互いを傷つけ合うことを神様は大変に悲しまれます。憎しみ、ねたみ、怒り、党派心などは、神の国には全くありません。ですからその準備段階を地上でするように、神様は目的を与えられています。神と同じDNAを与えられた私たち、神に愛されているすべての人たちが、父なる神を愛するようにお互いを愛し合うことができるようにと願われているのです。そのためにこそ、神様はわざわざ御子を私たちのために遣わし、聖霊を与えられたのです。
【敬聴と適用】
「主題聖句から『互いに愛し合う』ことについて、どのようなことに気づきが与えられるでしょうか?」
実は「互いに愛し合う」ことが難しいからこそ、何度も勧めとして書かれているのではないでしょうか。私たちは愛のDNAを与えられた者であり、当然兄弟姉妹を愛せる者であるにもかかわらず、なぜ難しいのでしょう。世の中の影響を受けて、3つのことを忘れているからではないかと考えることができます。
(1)初めて神様を信じた時の思いと決意を忘れている。
(2)自分以外の兄姉一人一人も神に愛されているという事実を忘れ、自分だけにしか興味がない無関心さ。
近所の人や友達とは違う、もっと深い愛の交わりを、神様は求めておられると思います。それを練習していかないと、他の人たちを深く愛することはできないのではないでしょうか。このことを忘れないようにしましょう。
(3)聖霊様との交わり、神様との交わりを忘れている。
礼拝で主と交われる時間は、一週間の中では短すぎます。家で自ら聖書を開き、祈り、賛美ができたら本当にすばらしいことです。聖霊の賜物である異言を語って交わりだせば、愛のDNAが活性化します。祈りの中で神を、人を愛する思いが湧いてきます。他の人のためにとりなしの祈りをする時、私たちの愛のDNAはますます活きて働き始めます。愛の人に帰って力づけられ、励まされていくのです。そのような神様との交わりの時が少なすぎて、私たちは問題を持つようになるのではないでしょうか。愛のDNAを受けていない世の人々と同じようになってはいけません。
2.愛は使命感を湧き立たせる(イザヤ6:8)
○小栗伝道師メッセージ
“私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」”
できたら、(イザヤ6:1〜8)まで読んで、このことばに至る経緯を知ってください。ウジヤ王は、晩年は傲慢になり罪を犯したけれど、業績を残した王であり、ユダ民族にとっても彼が亡くなることは衝撃だったでしょう。しかしイザヤの幻に現れた主は「ここにわたしがいるではないか」と、ご自身の変わらぬ栄光を示しておられます。私たちがどんな状態の時も、共におられるのです。それを忘れて人間的なものに頼ると、主を見上げることが難しくなります。
(:3)「聖なる」が3回。これは神様が絶対的聖のお方であるということです。本来は罪人が御前に出ることなど不可能な聖さです。(:5)イザヤは罪人の自分が御前にいることに絶望しました。
(:6〜7)祭壇はイエス様の罪の赦しを表します。私たちのどうしようもない罪の縛りから解き放つための十字架、この恵みと赦しは神様からのものです。敬聴と適用にもありますが、炭火は神の愛の御霊です。祭壇のいけにえを焼く炭火をもって、私たちのすべての不義を焼き尽くし、罪を赦されるのです。神を自分の前に置いている人は、いつも自分の罪深さを知りますが、忘れた人は他人を裁き始めます。しかし自分を罪人だと悟っている人は、「自分には何も良いところがない」と、神様の前に存在を無にして、自分の意志や考えを手放します。すると神様が触れてくださいます。我を張っている間は、神様の赦しが全面的に注がれることを妨げます。
(:8)神様のきよめを受けて、イザヤは神の御声に気がつきました。主が嘆いておられます。きよめられることを拒むと、主の御声が聞こえないので、嘆きもわかりません。今さえ楽しければいい、と罪にまみれた自分のみじめさに気づかないまま、適当にくすぶったままの状態に留まりたくありません。何のために、主は私たちを救ってくださったのでしょうか。なぜ、ご自身のために働く者を探し求めるような状況にあるのでしょうか。イザヤが言ったように「ここに私がおります。」と応える者になりたいと願います。
【内容観察】
「熱い神の愛によってきよめられた私は主の言われる声を聞いた。『わたしはだれを新しく生まれさせよう。だれがわれわれの熱い愛の思いを受けとめて彼らの所に行ってくれるだろうか。』そのとき私は言った、『あなた様の愛を受けた者がここにおります。全身全霊をもって使命をまっとうします。どうぞ私をお遣わしください。』」
具体的な何かを指示される前の、「自分の全身全霊をささげていきます」という意志表示であり、決意です。神様のお気持ちを聞いて、とても黙ってはいられない状態です。自分だけ楽をしようという考えがはびこる昨今にあって、自らの命を惜しまずに差し出すその行為の高潔を、誰が否定できましょうか。イザヤのように自らをささげることを妨げているものは何なのか、を吟味してください。世の中に影響されて、今さえ良ければという考えに染まってはいませんか。人の評価を気にするあまり、本当に大切にするべき神様を置き去りにしてはいませんか。この世も神も手にしたいという、二心はありませんか。中途半端な生き方は、神様に申し訳ありません。神の御思いを知る者として、イザヤのような心構えで歩んでいきたいものです。そのために神様と向き合ってまいりましょう。
3.赦されている罪人の『大義名分』(ルカ7:47)
○辻牧師メッセージ
“「だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』」”
★『大義名分』(たいぎめいぶん)の意味
人として、君主に仕える者として国家や君主に対して守るべき道理、本分や節義(節操を守り、正道を踏み行うこと)。
ある行為のよりどころとなる正当な理由や道理。
クリスチャンがこの言葉を使う時には、自分の願望や思いを正当化するような理由ではいけません。使命感から来る、正しい大義名分を持ってください。クリスチャンの社会生活は何よりも神を第一とするために、他の人とのまさつが起きやすいものです。彼らの一般常識は、私たちには当てはまらないことが多々あります。
【内容観察】
「だから、わたしは言います。『この女の罪は多く赦されています。というのは、彼女は愛を多くの形をもって現しているからです。つまり、多くの罪を赦されたことを知った者は、多く愛するのです。』」
パリサイ人の家にイエス様が招かれた時、イエス様の後をついてきた汚れた女が家の中まで上がり込んで、イエス様の足にまとわりつき、涙で足を濡らし、髪でふいた有名なエピソードです。この女性には大義名分がありました。パリサイ人からすれば軽べつされさげすまれる存在であり、イエス様がこの女にさわられているのを許すのも理解できないし、自分の家にこんな女がずうずうしくも上がりこむことはありえない暴挙なのでしょうが、彼女は多く赦されたことへの感謝を、多くの愛で表現するためにここに来たのです。そしてこれが私たちクリスチャンがなすべき大義名分であり、道理、本分なのです。赦された罪人が生きる理由は、赦してくださった愛に応えるために他なりません。だからこそ、非難されても収入が減っても、自分を赦してくださった方のために生きることを最優先するのです。
今、世界のあちこちで行われている戦争も、元を正せば「自分の大切な人たちを守りたい」という、ごく当然の思いから始まっています。自分の大事なもののために、命さえ捨てて戦いに行くのです。この人々の持つ大義名分よりも重い大義名分を、クリスチャンは持っています。それが「多く赦された者は多く愛する」ことです。国の罪、家族の罪、世界中のすべての人の罪を赦すために、神から人となって十字架にかかられ、救いのみわざを完成してくださいました。ここまでしてくださった方に対して、救われた者が恩に報いるために、命がけで礼拝を守ることのどこが間違いと言えましょうか。
愛の使命感は、多く赦されることによって増えていき、力強くなっていきます。赦されていることに気づくためには、罪深さに気づかなければなりません。罪深さがわかり、それを赦されていることがわかり、赦されていることが愛されていることにつながっていく時に、「なぜ罪人の自分が今ここに存在できているのか」と問います。それは愛に生きるためです。これが私たちの大義名分です。この罪深い女を、批判されることの多い彼女の人生を、それでもイエス様は彼女の神様への愛を見抜くことのできるお方だったので、汚れた女性であっても、足を洗わせることを何の拒絶もなく受け入れられたことをぜひ考えてください。イエス様にとっては彼女のしていることは決して心地の良いものではなかったはずですが、それでも「NO」をおっしゃらなかったほど、彼女の赦され愛されている喜びは大きかったのです。そこまで神様の愛を受け継がせていただくために、さらに愛を目指してまいりましょう。
■2012年9月30日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
愛の命令 up 2012.9.30
神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。
(第1ヨハネ4:21)
「すべき」ということばや、命令ということばは、大変厳しく嫌な印象を受けがちです。しかし、そういった偏見を持たないよう少しでも柔らかいイメージを持てるように考えて、今日は「愛の命令」というテーマをつけました。
1.主題聖句について
【内容観察】
『〜するべき』⇒本来の行動、当然の行い、自ずとそのように行動する
『命令』⇒存在の目的や創造の目的にそった言いつけ。
「〜すべき」ということばは、本来の行動、当然の行いというような意味があるように、自然な動きを表します。人として、無理なくそれが自然な行いであるということです。それからはずれると、あなたらしくないということです。命令という漢字には、命を受ける、天からの仰せを受けるという意味があります。私たちが生まれてきたのは、天からの仰せによっているということであり、それは大変聖書的な意味です。私たちはキリストにあって選ばれ、目的をもって生まれてきました。命令とは存在の目的であるということです。警察官には警察の仕事があり、例えば警察官に、上司から「今日はスーパーのレジでも打って来なさい。」と、単にレジ打ちの仕事を言いつけられるとしたら、これは全く的はずれな命令となってしまいます。しかし、「犯人を捕まえるために見張っていなさい」という命令であったら、それは警察官としてふさわしい命令です。神からの命令も同じです。私たちが人として、本来あるべき姿、ふさわしいことをするようにというものなのです。神に造られた目的にふさわしく行動することは、実は喜びです。命令ということばに偏見、束縛観を持たないようにしましょう。また、神の命令と言われた時に、肉にある罪は神に従いたくないと抵抗します。それゆえ、あなたの内側に葛藤が生まれてきます。しかし、その葛藤、反抗心はあなたの肉にある罪からくるものであり、あなた自身のものではないのです。その心のからくりをよく知って、惑わされないようにしましょう。神は、兄弟を愛するとは、自然なあなた本来のあり方なのだから、そこからはずれ、道からはずれないようにと願って、あえて、命令という形で私たちに語っておられます。その御心をくみましょう。
【敬聴と適用】
平和を愛し、幸せを願う心は、どこから湧き上がってくるのでしょう?
神は平和を愛し、幸せを願う方です。それゆえ、私たちも平和を愛し、幸せを願います。なぜなら、私たちは神のかたちに創造された者だからです。造られた目的が互いに愛し合うようにだからです。互いに兄弟になるということは、家族として互いに赦し合い、平和であることを意味します。そして、創造主なる神が全世界の人々の共通の父なのですから、その兄弟として、互いに受け入れ合うなら、平和は実現するはずです。その意識がない時、争いが起こります。教会で、互いに「兄弟姉妹」と呼び合っていても、無意識に「他人」という気持ちでいたなら、共有し合えない、赦せない問題が起きてきます。同じ創造主を父と呼んでいるのですから、もっと強く家族という意識をもって、共有していく心をもつようにしましょう。そこに、平和が訪れ、幸せがやってきます。
このような兄弟という心を持つことを阻むものが、私たちにはあります。それは何でしょうか。
(1)個人主義…全体の利益に優先させて個人の意義を認める態度です。議会政治で言うと多数決の与党の中に、少数であっても意見を認 められるように作られた野党の存在のようなものです。利己主義とは違います。個人を大事にするという考え方で、ただ、それが行き過ぎると、言論の自由の中、何でも発言してしまい、社会秩序を奪うような意見ですらセーブできなくなるというやっかいな面が表れてきます。
(2)利己主義…社会一般の利害を念頭に置かないで、自分の利益しか考えず、他人の意見をいっさい聞かない主義です。独裁という方向に向かいます。
私達も自分を守るために、いつの間にか利己主義に向いていないかを自己吟味する必要があります。この世がやっているような人間関係にとどまっているなら、いつまでたっても本当の神の家族としての、兄弟姉妹の交わりは実現していきません。自分を守るという価値判断では、なかなか兄弟姉妹としての深い関係作りはできていきません。私たちの判断の根底は、神の愛であり、個人主義でも利己主義でもありません。ケースバイケースで、愛をもって判断していくことが大切です。それは易しいことではなく、時には複雑で判断する必要が出てくる難しいものがあります。それゆえ、みことばによる人生経験を深め、多くの体験と悟りを持つことが必要になります。私たちは一生という時間をかけて、神の愛に基づいた世界観を広げていくことが求められていると言えます。永遠に備えて良い基礎を備えていきましょう。
2.「夜雨対牀」(やうたいしょう)(第1ペテロ1:23)
“あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。”
★『夜雨対牀』の意味
兄弟関係や友人関係が良好で、仲むつまじい事のたとえ。
雨の夜は外に出られず宿屋で過ごしますが、その時ベッドを連ねて休む、仲の良さを表します。私たちもそのように仲の良い兄弟姉妹でありたいものです。
【内容観察】
『朽ちない種』⇒神と共に永遠であるもの⇒愛
『生まれる』⇒同じ親
『神のことば』⇒愛のことば⇒御子⇒神の愛の現われ
「あなたがたが新しい親のもとに生まれたのは、神と共に永遠に存在する偉大なもの、神の愛のことばによるのです。」
新しく生まれたというのは、新しい親のもとに生まれたということです。人が生まれてくるのは、愛があってこそです。愛とは、肉体的なものではなく、よりスピリチャルなものです。すべての人は愛によって生まれてきます。例え両親が望まず、愛をもっていなかったとしても、母の胎内で神は愛をもって、その子を形成されるのです。神は胎内を通して、ひとりの人をこの世に遣わされるのです。すべての人が神の愛によって生まれていることを、イエスの十字架を通して信じてください。それゆえ、神の愛によって、天命を生きるという決心ができます。自分の生まれた環境を否定的にとらないようにしましょう。
【敬聴と適用】
互いは、神の愛によって生まれた神の家族の兄弟です。肉的な兄弟関係ではなく、神の愛による霊的兄弟関係について考えてみましょう。
肉的な兄弟関係には損得勘定があります。しかしあるべき兄弟関係は違います。どういう心構えが必要でしょうか。
☆「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳をたてる」とあります。弟は兄を敬愛し、いつも尊敬でき、手本となってほしいと願います。兄は弟に自分を超えるようなすばらしい人になってほしいと願います。これが愛の関係です。この愛を「憐れみ」と聖書はいいます。憐れみは上から見下すわけではなく、徳を高める助けをしたいという、思いやる心を表します。世の中が言う憐れみとは違います。この世は自分が自分がと互いの足を引っ張り合います。しかし、神の国はお互いの徳を高め合うことに心を向けます。
☆「わたしがあなたがたを愛したように」
イエスさまがいつもお手本になります。イエスさまは神の兄弟の長子です。自己中心でわがままな私たちの罪を身代わりに背負って、まず罪という借金を返してくださり、私たちが罪の負い目をもつことなく、一からやり直せるように道を開いてくださいました。私たちも互いに励まし合い、祈り合い、みことばを分かち合い、徳を高めあう交わりをしていきましょう。
『まとめ』
豊かな憐れみをもって、互いに徳を高めあう関係を築いていきましょう。
ほめあうことも大切です。ほめことばはモチベーションを高めます。挨拶の後に、そういった一言を添えてみてください。
■2012年9月23日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
神を愛する者 up 2012.9.23
神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。
(第1ヨハネ4:20)
1.主題聖句について(第1ヨハネ4:20)“みことばは前述”
【内容観察】
★福寿敬愛(敬老の日)にちなんで以下のように表現。
「神を愛すると言いながら老人を疎んじているなら、その人は偽り者です。目に見える老人を尊敬しない者に目に見えない神を愛す ることはできません。」
「兄弟」とは、同じ親や師匠の下にある者を指します。血のつながりがなくても、同じ先生の下にいる門下の人々も兄弟と言いますね。私たちも天の父なる神様を共に父として敬っているわけですから、私たちは兄弟なのです。その中の高齢者の方々も当然、兄弟です。世の中は高齢者を邪魔者扱いしています。私たちは決してそうであってはならないことは、道徳的にわかりますね。しかし、同じ父の下にいる兄弟としての親近感を持つことができるでしょうか。この世の価値観である「高齢者は自分たちに利益をもたらす存在ではない」という考え方が入り込んではいませんか。兄弟とは互いに敬い合う関係であるべきです。お互いを自分にとって大事な存在であると受け止め、兄弟がいるからこそ、愛弟子同士の交わりや、家族としての交わりが持てるのです。また、神の愛の絆で結ばれているものです。メインのみことばの「兄弟」を、他の言葉に入れ替えてみましょう。「夫」や「妻」あるいは具体的な人名など、身近な存在に置き換えてみます。すると、自分では納得しかねる人の存在に気づき、神様を愛するはずが、神様の大切な人に偏見を持ってしまっていることを反省するでしょう。醜い心、罪の性質に勝利するのです。「憎む」という言葉の中には、疎んじる、軽んじる、敵対心また競争心、ねたみや嫉妬などが含まれます。自分に害を加える者、損失を与える者、思い通りにならない者に対して起こる気持ちが「憎む」です。私たちは高齢者の方々をどう捉えているのでしょう。この方々への心の向け方が、そのまま神様に通じていくということを、(第1ヨハネ4:20)から教えられるのではないでしょうか。
★要点をまとめた表現。
「目に見える者に対して愛をすることができてこそ、目に見えない神に愛をすることができるのです。」
○あわれみを示す言行。
私たちの言うあわれみは、決して上から目線ではありません。兄弟を大事に思う心です。大事な存在だから助けが必要だ、という気持ちが湧いてくるのです。年長者に対して、上から目線であわれむのではなく、年長者の存在の大切さを心に感じて、手助け、親切を施していきましょう。ここで考えてみてください。自分個人にとって、年長者はどれだけ大切な存在として考えることができるかを。年長者が自分にとって本当に大切な存在であるという立場から考えれば、どういう意味で大切なのかが見えてきます。たとえば、実家に90歳のおじいさんがいるとして、そのおじいさんは自分にとってどんな存在で、どう大切なのかを考えてみましょう。私たちは世の中の考えに影響されて、年長者の大切さを忘れ、疎んじてはいないでしょうか。老人は歴史の生き証人であり、私たちに知恵をくださいます。老人の存在は、家族の歴史が刻まれてきた証しであり、先祖の大切さを実感させてくれます。そういう意味では、クリスチャンは先祖をとても大切にします。これは兄弟を大切にすることと通じています。今世の中では、老人を養うために、将来の自分たちはもらえない年金を納めていることへの不満が出ています。今納めている年金は将来の自分のためではなく、これまでの日本を支えてくださった方々を支えていくためだという気持ちに徹すれば、尊く生かすという心で用いられるのではないでしょうか。隣人を愛するという基本に立てば、同じ日本国民としてのあわれみを持って、喜んで年金を納めることができるのではないかと思います。特にクリスチャンから見れば、年長者は最も身近な隣人です。サマリヤ人が強盗に襲われた人を助けたように、純粋に助けてあげたいという気持ちでそれを実行する時に、隣人になれます。愛をするとはそういうことだと、イエス様はこのたとえ話で語られています。年長者はすばらしく大切な愛をするための、神の家族です。
【敬聴と適用】
「あなたができることで、年長者の方々に何ができるか(愛をすること)をリストアップしてみましょう。年長者の方々も、互いに愛をすることを考えてみましょう。」
自分が今できることは何か、少なくとも私たちは、高齢者に精一杯の笑顔をもってあいさつをしましょう。それは年長者に対する敬いの心、親しみの心、家族として尊敬しているとの思いの表現です。年配の方々は、若い人々との交わりで元気が出ると言われます。ならば私たちは、あいさつなどを通して、いのちを流し出していこうではありませんか。これは一般の高齢者の方々に対してもできることで、あいさつ一つでも喜んでくださいます。
2.『典謨訓誥』(てんぼくんこう)(第1テモテ6:19)
“また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。”
★『典謨訓誥』の意味?聖人の教え。教典全体を示している。
パウロは「聖人の中の聖人」と言われるほどの存在ですが、そのパウロが弟子のテモテに語っている、このことばに注目してみたいと思います。「愛をすること」が、未来のために良い基礎を築き挙げていくことだと、みことばは指し示しています。
【内容観察】
『まことのいのち』⇒イエス・キリスト⇒唯一の神⇒愛
『未来に備える』⇒必ずやってくる明日のために必要な事を整える⇒希望
「希」は数少ないという意味があります。本物は少ないものです。未来に託すとは、その一点の希望に懸けるということです。
『良い基礎』⇒崩れない望み⇒希望が実現するためのしっかりとしたもの。
『自分自身のために』⇒自分を大切にする⇒自分を愛する⇒隣人愛へ
自分を大事にすることを、まずきちんと悟りましょう。
『築き上げる』⇒向上心を持つ。前進する⇒完成への動機を保つ。
基礎は建築において最も重要な部分です。良い基礎は未来を確立するものです。良い基礎は、その上に良い家が建つことを確信させます。私たちもこの人生の暮らし方で、天国に建つ家が予想できます。築くとは、積み重ねを想起させます。良い基礎は一朝一夕にはできません。また、建てるための順番もあります。それを踏まえて積み重ねていくことが、良い基礎へのポイントとなります。
【敬聴と適用】
「あなたの未来とは何でしょうか?その未来のため備えるとは、何をすることでしょうか?」
時間的な未来というよりも、目標、目的の中で、今の自分に一番近いものは何かを考えてみましょう。たとえば半年後に結婚式を控えている人は、その目標に向けて様々な準備をします。結婚した後も思い返す度に初心に戻れるような、そういう記念になる結婚式となるように心を砕きます。このように、近い将来に結果を出すために、人は計画を立て、実行していくものです。あなたはどんな目標を持ち、どんな結果を出すことを願っていますか?また、目標があれば、問題もやってきます。災害も、学生たちの進路選択も、それらを過ぎた後の老後の生活も。神の家族としての結びつきから未来を考えて、今をどうするかが鍵です。将来的に国からの援助が見込めないなら、神の家族として、今、体が動くうちに私たちは何をすべきでしょうか。お金は頼り切るには危険です。それよりも、高齢者を敬い、大切にしてくれる若い人たちとの関わりを深めることの方が大切です。人が生きている限り、社会と関わりを持ち、誰かに迷惑をかけているとすれば、こころよく迷惑を受け入れてくれる関係づくりを目指すべきでしょう。それは愛の関係であり、家族のきずなの関係です。自分の品性、徳を高めて生きることによって、若い人たちの尊敬の気持ちが生まれてきます。良い未来を迎えるためには、良い人間関係、愛をする人間関係を、どの年代の人とも作り上げていく時に「さすが」と言われる老後を過ごせます。老いた時に、若い人から慕われる最後を迎えたいなら、今愛をすることにもっと励んで、良い基礎を作ることを心がけましょう。与えられているいのちをフル活用して、良い人間関係を作っていくための建徳の時間を積み上げていきましょう。そのために私たちは、毎週教会に来てメッセージを聞いているのではないでしょうか。たとえ動けなくなっても、そのあなたを頼って誰かが教えを乞いにくるような、それほどの存在になりたいものだと思うなら、今からすぐ基礎を積み上げる必要があります。与えられているいのち、時間を真に活かすために、今からすぐ基礎をきちんと作ってまいりましょう。
「豊作は 土づくりから 人生も」
■2012年9月16日 日曜礼拝メッセージより(伝道師 横路満弘師、小栗恵子師)
神の真実な愛 up 2012.9.16
1.神の真実な愛に対する応答とは (第1ヨハネ3:16a)小栗伝道師
“キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。”
神様は真実なお方で、私たちに真実を尽くし続けてくださっています。しかも、的外れでそむいてしまう私たちのために、御子イエス様を十字架にかけるという事実をもって、ご自身の真実な愛を示されました。
※罪人が神に対して、どれほどの真実を尽くせるでしょうか。
神様は、決意が続きにくい、取るに足りない私たちをよくご存じです。そんな私たちに、少しでも神様の真実な愛にお応えしたい、という真実な思いが表れるのを待ってくださっています。そして、その思いを持てるのは、私たちが「神から出た者」だからです。私たちは、神から愛され選ばれた者であり、神の声を聞き分けることができます。神様のDNAが宿っており、神様の真実の崇高さに気づき、心が開かれる時が来ます。決して見せかけではなく、心から神様にお返ししたいと思えるようになるのです。
◎ヨセフ(創世記37章〜)の人生から、神の真実の愛への応答について考えてみましょう。
ヨセフは、父ヤコブから、自分だけそでつきの長服を着せてもらうような溺愛をされて育ちました。父に兄たちの告げ口をし、また「自分の束に兄たちの束がおじきする」「太陽、月、11の星が自分にひれ伏す」という夢(将来を示唆した神様からのものでしたが)を平気で兄たちに自慢そうに語るような性質でした。最終的にはエジプトの総理大臣になっていくのですが、神様は、まずヨセフの肉を御霊(神の愛)に触れさせ、彼自身を新しい器に創り変えるという神様の真実を現されたのでした。
●肉から御霊(神の愛)へ
(創世記37:23〜24)
“ヨセフが兄たちのところに来たとき、彼らはヨセフの長服、彼が来ていたそでつきの長服をはぎ取り、彼を捕えて、穴の中に投げ込んだ。”
ヨセフがそでつきの長服をはぎ取られ、兄たちから落とされた穴の中こそ、肉を断ち切る大きなポイントであったと思います。お兄さんたちの裏切りに対する叫び、最も支えてくれていた父親への悲痛な叫びの声も届かない状況。神様は、私たちが人につながり、人や状況に依存している状況から脱却させ、神様を見るようにされるということを、今日お伝えしたいと思います。自力でははい上がれない、誰にも助けてもらえない、将来が閉ざされたこの失意の穴で、何もない穴の中で、ヨセフは何をつかんだでしょうか。お兄さんたちへの恨みを募らせた時もあったでしょう。それらが過ぎて、自我が死に、どうしようもできない中で、ヨセフは主を見たのです。
私たちも信仰生活を送る中で、霊的な穴に落ちることがあります。あがいてあがいて、「神様はおられるのだろうか。」というような時があったとしても、神様は「ここにいるよ。」と真実を現してくださるのです。失意の穴の中で、おそらくヨセフに「大丈夫だよ。どんな中にあってもわたしが共にいるよ。」と声をかけられたのではないでしょうか。恵まれた中にいると、神を見ることは難しいかもしれません。何もない状況だからこそ、「主よ。」と叫んだ時に、「愛するわが子よ。」と声をかけ続けてくださるのです。ヨセフにとっては、彼に対する神様の計画のため磨かれ、大人として成長するため、御国で栄冠を受け取るためにこれらのことが起こされたと思います。
※どんな状況でも神の愛に信頼する
ヨセフはすべてを失いましたが、自分を創ってくださった神の前に立ち、神が何を望んでおられるかを思い巡らし、どんな状況でも神と共に生きることを決心したのです。神のみこころならば、穴の中にいることは本望だと…。もっと言うと穴の中で人生を終える覚悟ができるほどに、人生の主権を神に渡した思いこそ、真実な応答の姿勢ではないでしょうか。環境へも、まわりの人々へも、そして自分自身へも…。それらすべてに神が真実を現しておられる、自分に必要としておられることをつかむことが大切ではないでしょうか。この地上でいかに神とともにいることができるか、「神様、どこにいても共にいてくださいね。」という真実な思いが、私たちを神の愛の中でまったく新しく創り変えると思います。ヨセフにこの決心ができた時、どん底状態の穴から引き上げられたのでした。そして、ヨセフは奴隷としてスタートしました。奴隷の立場を通して「従う」ことを学んでいったのです。そもそも奴隷であろうが何であろうが、神が置かれたところで心を込めて神の前に生きることが、神の真実な愛に対する応答の姿です。ヨセフにとって立場は問題ありませんでした。世のものは、立場やいかに物質を手にしているか、優秀かどうかといったことを重要視しますが、その価値観に惑わされてはなりません。「私のために十字架にかかってくださったイエス様の真実な愛にお応えしたい」そういう思いで、置かれたところを喜ぶことができるかどうか、ですね。兄たちへの恨みを心に留めていなかったからこそ、主はヨセフと共におられ、主人から信頼され、奴隷としての働きが祝福されました。この後、主人の奥さんから誘惑されましたが、「神の前に罪を犯すことはできません。」ときっぱり断ったため、神の前に正しいことをしたにも関わらず、ぬれぎぬを着せられ、牢に入れられてしまいました。しかし、牢獄でも神様を認めて精一杯働きましたので、ここでもヨセフの働きは祝福されたのでした。
※自己愛は神の愛を否定する
同じ牢獄に入ってきたパロ王の献酌官長と調理官長の二人とも夢を見て、その解き明かしをした時にヨセフは、「私がここから出られるようにしてください。私は牢に入れられるようなことは何一つしていません。」と自分を弁護し、自分の救出を願い出ました。穴に入れられたときは主に全き信頼を持ったヨセフが、ここでは人に期待しました。しかも神から与えられた尊い賜物を、自分のために利用することは真実とは言えず、神はお喜びになりませんでした。二年間忘れられました。彼が真実に生きようと決めたからこそ、神様がもう一度神様に思いを向けるようにされた二年間だったでしょう。この後、ヨセフはパロ王の夢を解き明かし、エジプトの総理大臣となり、父との再会、兄たちとの和解がなされて、兄たちに「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。」と語っています。(創世記50:20)
神様は私たちの人生に真実を現され、いのちをかけて私たちを救おうとされました。肉が痛まない適当な人生を歩もうとなさいますか。
【参照】(ローマ5:3〜5a)
“そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。”
天の御国には患難はありません。患難はこの地上だけです。患難に対して苦しみを覚えるのは肉でしょう。肉は際限なく自分に対して訴えてきますが、患難が忍耐を養い、また御国をあずかるにふさわしい練られた品性を作り出し、御国への希望を生み出すので、感謝しますと心を向けることができます。そしてこの希望は失望させられるものではない(欺くことはない)とあります。
【敬聴と適用】
これまで、神様はどのような真実な愛を現してくださったでしょうか。ふりかえって考えてみましょう。また、神様にどのような応答をしたいですか。
※『真実一路』(真実のみ信じて、貫くこと)
神様が個人的にくださった尊い人生です。現された神様の真実の愛を信じて、真実を現すことを貫いてまいりましょう。
◎井深八重(いぶかやえ)さんの生涯から〜日本のマザー・テレサと言われる
良家の子女として育てられた八重さんは、英語の教師をしていた時に、ハンセン氏病の診断を受け、施設に移されました。仕事、結婚…将来の希望を失い、一週間で一生分の涙を流し尽くしたそうです。その施設で献身的に世話されるレゼー神父の姿、さらに大変な苦しみの中にあるはずの患者さんたちのおだやかな笑顔をたたえる姿に、自分にないものがあると感じ、それがイエス・キリストとわかり、八重さんは信仰を持ったそうです。施設で手伝いをしながら兆候が出ないので再診したところ、誤診だとわかりました。しかし、八重さんはそのまま施設に残り、看護士の資格を取り、そこで一生、患者さんたちのために尽くし続けられました。亡くなる前に「どうして、この生涯を選んだか」の問いに「応えずにおれなかった」と語ったそうです。神様の真実な愛を信じ、お応えしていく人生でありたいですね。
2.行いと真実による愛(第1ヨハネ3:18)横路伝道師
“子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。”
『ことばや口先だけの愛』(ヤコブ2:15〜16)
“もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また毎日の食べ物にもこと欠いているような時に、あなた方のうちのだれかが、その人たちに「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。”
続く17節には“それと同じように、信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです。”とあります。言葉だけで、行いのない愛も死んだものなのです。
言葉だけ、口先だけということは、時々私(横路師)にもあります。「旅行に行きたいね」「いつか行こうね」と言いますが、なかなか実現しないのです。また、愛が口先(言葉)だけで行いがなければ役に立たないように、行いがあっても愛がなければ何の役にも立ちません。(これは第1コリント13章にあります。)愛と行いに車の両輪のようで、どちらか片方の車輪がなければ車は走れません。
イエス様は、行いと真実な愛をもって隣人となることについて、「良きサマリヤ人」の愛について語られました。
【良きサマリヤ人の愛】(ルカ10:33〜35)
“「ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来あわせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、わたしが帰りに払います。』」”
・敵対して普段つきあいもない、見ず知らずの人にためらわずに近寄り、自分も強盗に襲われる危険も恐れず介抱したこのサマリヤ人は、行き届いた手当をしました。
・自分のロバにけが人を乗せ、宿屋に連れて行き、おそらく徹夜で看病したのではないかと思われます。
・次の朝は2デナリ(当時の宿賃から言えば24日分にあたる)も出して、宿屋の主人に介抱を依頼し、「もし費用がもっとかかったら私が帰りに支払います。」と、行き届いた配慮と負担を引き受ける真実な愛を示しました。
・イエス様は「隣人とは何か?」と質問した律法学者にこの話をされた後、「あなたも行っておなじようにしなさい。」と、このサマリヤ人を模範とされ、行いと真実をもって愛する隣人になるよう命じられました。
・このように行いと真実をもって愛するとは、
(1)深いあわれみと愛の動機から、助けの必要を見た時は、逃げずに勇気を持って決断・実行すること。
(2)自分の時間・労力・お金等を惜しまない犠牲の心を持つこと。
(3)介抱する心、つまり、つきそい、寄りそう心を持つこと。
(4)自分が好ましい人だけの隣人となるのでなく、どんな人の隣人となれるかチャレンジして、愛の領域を広げることも必要なことではないでしょうか。
また、イエス様とこのサマリヤ人とを重ね、介抱された人と自分を重ねて考えてみましょう。このサマリヤ人はイエス様の姿をあらわし、介抱された人は私たちの姿をあらわしています。
(1)イエス様は深いあわれみをもって天から下り、私たちのそばに近づいてくださいました。
(2)十字架の犠牲を惜しまず、私たちの罪を負ってくださり、救いを成し遂げてくださいました。
(3)聖霊様を遣わし、私たちに寄り添い、共に歩んでくださり、行きC再臨の日に、私たちのなお足りない部分を引き受けて、私たちを赦し、天に引き上げてくださいます。
このイエス様の行いと真実な愛を、心から感謝します。ハレルヤ!
■2012年9月9日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
愛をすること up 2012.9.9
私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。
(第1ヨハネ4:19)
単に人を愛するということではなく、私たちの生活そのものが「愛をする」という状態だと考えてみてください。これからの私たちの生活が「愛をすること」に取り組んでいく人生となるように、考えてまいりましょう。
1.主題聖句について(第1ヨハネ4:19)“みことばは前述”
誰を愛しているかについて記述していないのは、何か特別な見方があるからではないでしょうか。「愛を毎日する」という考え方からまとめてみました。
【内容観察】
★『私たちは愛しています』⇒神と人を愛している。愛を毎日している。
「私たちは『愛』をしている毎日を過ごしています。それを可能としてくださった神が、まず私たちに、ご自身のうちにある真の愛を注いでくださったからです。」
イエス様の地上でのご生涯は、まさに毎日「愛をする」人生でした。罪人、病人、貧しい人など、あらゆる人に愛を流し出していかれました。イエス様の存在そのものが愛でした。私たちも神に似せて創られた者ですから、そのような生き方を選ぶのは自然の流れです。
【敬聴と適用】
主題聖句を基に(第1コリント10:31)から、どのようなことが教えられますか?
“あなた方は、食べるにせよ、飲むにせよ、何をするにせよ、すべて神の栄光のためにしなさい。”
食べたり飲んだりは意識せずに行いますね。そのように自分の生きることそのものを、神のためにするということです。このみことばと、まず神が愛してくださったというみことばはどう関連づけられるでしょうか。神の栄光と愛との関連付けを探ってみます。(第1コリント11:7)において、「男は神の栄光の現れ」とあります。男性に神様のすばらしさが凝縮されて表されているのです。罪のために歪められていますが、本来はそうなのです。そして女性は男性の栄光の現れです。つまり、女性も神様の栄光の現れといえます。イエス様は男性の姿で地上に来られ、完全に罪のないお方であるゆえ、正真正銘神の栄光のお姿を示されました。イエス様が地上に来られた理由は、神様の愛を現すためであったことと考え合わせると、神の栄光と愛とは共通のものであることがわかります。奇蹟やしるしは神の力の現れであり、神様の栄光の一部です。しかし愛は神の本質であります。だから十字架こそが、神の栄光の一番の現れであり、神の愛が最も現されたものなのです。すべての力は愛ゆえに行使されていくものです。(ヘブル1:3)“御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。”私たちは「すべて神の栄光のために」という意識を働かせる事が大事です。まず神の愛を見せているでしょうか。罪人の習慣から神の子の習慣に直すための、意識の切り替えが必要です。神様に愛されているから、この愛にお応えしたいという動機が生まれます。動機づけができると、持続して自分を制していくのに、非常に助けになります。
しかし、これを自己満足にしないために、私たちは気をつけるべき事柄があります。相手に正しく伝わるために、相手に対する気配りがとても大切なのです。自分の気持ちばかり押しつけないように注意しましょう。相手に合わせた愛の表現に努めましょう。
「神の愛を信じることができたおかげで、『愛をする』毎日が意識できる。」
意識できない場合は、まだ愛の動機づけが足りません。愛する者のことは自然に心が向くものですし、何かで愛を表現したいと思うはずです。私たちは毎日デボーションをして、神様がどれほど私たちに注目し、配慮してくださっているかを知る必要があります。いのちも時間も自分にあるものはすべて賜物です。今自分がしていることが愛にどうつながるかを考えましょう。呼吸さえも神の栄光のためにできているんだと気づく時、そこには大きな感動があるはずです。自制が働き、有意義な時間をもたらすことでしょう。
2.愛の修練『十年一剣』のごとく(第1コリント13:4〜7)
“愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。”
これらの項目をすべてクリアしている人がいたなら、その人は間違いなく神の栄光を現しているといえます。もし奇蹟としるしを行っても、人格に問題があったら、心から尊敬することは難しいでしょう。反対に何の特別な能力もなくても、人格が優れているなら、その人は尊敬されますね。
★『十年一剣』(じゅうねんいっけん)の意味
長い間、武術の修練を積む事。また、武術の修練を積み、力を発揮する 機会を待つこと。十年の間、ひと振りの剣を磨く意から。
初めから真剣を使いこなす人がいないように、私たちも愛の修練が必要です。神様の愛を完全にいただいていても、私たちにそれを使いこなすことは難しいものです。だからこそ、今の人生で愛の修練をすることが必要なのです。この人生は愛の修練の時です。愛を会得し、愛の達人として、本番である神の国で愛を完全にすることができるためです。そう考えれば、生きる目的、生きがい、何かの希望が湧いてきませんか。目先の欲望にかまける人生ではなく、神の愛そのものを私たちが身につけるのが、この人生という時間です。
【内容観察】
(1)『寛容』(2)『親切』(3)『ねたまない』(4)『自慢しない』
(5)『高慢にならない』(6)『礼儀に反しない』(7)『自分の利益を求め ない』
(8)『怒らない』(9)『人の悪を思わない』(10)『不正を喜ばない』
(11)『真理を喜ぶ』(12)『すべてを覆う』(13)『すべてを信じる』
(14)『すべてを期待する』(15)『すべてを忍耐する』
【敬聴と適用】
「修練と受け止めて、『愛』をする毎日にチャレンジしましょう。」
修練に際してのポイント
◎愛が芽生えなければ、動機が起こらない
神ご自身が、愛せるはずもない罪人の私たちを愛してくださったことを考えましょう。皆さんそれぞれが修練を積み、悩み苦しみ、いろんなことを試して、特に自分を敵とする者を愛することができるためにどうしたらよいかを会得していただきたいのです。もちろん、それはつらく苦しいことですが、正しい動機があれば、それを乗り越えることができます。まずはこの人生の修練を積むにあたって、素直な気持ちでそれを受け止めることができるために、神様への愛を芽生えさせることを通し、人を愛する気持ちへと成長していくことを考えに入れておいてください。
◎愛の言動を磨き上げていく
相手に正しく自分の気持ちを伝えるために、言葉や行動を洗練されたものに変えていきましょう。人や文化や地域によって、実に様々な礼儀や常識があります。
以上の2つに注意して、修練を重ねていってください。
●修練を継続するための心得。
・修練はこの世でしかできないことをわきまえましょう。練習は十 分に。うまくいかなくてもやり直しができるのは今だけです。赦 されるのもです。今、できうる限りの実験をし、うまくできるた めの方法を見つけましょう。どんな時も、ひどい状況でも、イエ ス様のようにちゅうちょなく愛を流し出せるようになりましょう。
・修練は総じて長い期間を必要とするものです。個人差はあるにせ よ、時間をかけて磨き上げる必要性に変わりありません。自分は すぐれた者ではないと感じるならばなおさら、人の何倍もの修練 が必要になります。しかし、世の楽しみに費やす余裕がないのは かえってありがたいことではないでしょうか。才能があっても、 空いた時間を世の楽しみに費やしたら、その人にとって良いとは 言えません。
・修練は同じことのくり返しではなく、あらゆる事態に対応できる ように経験を積み重ねるべきです。昨日の失敗を繰り返さないた めに、別の方法を試すのです。
この3つをわきまえていくならば、皆さんは優秀な神(愛)の子としての修練を通して身につけていくことができます。そして教会も、愛に満ちた人々であふれるでしょう。私たちは元々愛をすることができない罪人であるのに、愛をすることができるようにと、今そのままを赦して、神様は受け止めてくださっています。愛をする毎日を目指してまいりましょう。できないことが当たり前だったのですから、できないからこそ、できるようになりたいのです。
(第1コリント13:4〜7)の内容と、ある条件の人にはできている場合があります。それは自分が愛している相手に対してです。愛する者には親切をしたくなるものです。できないのは愛を感じないからです。もちろん、不完全な私たちが世界中の人々を愛することは実際できません。しかし、身近に愛の絆が結ばれた兄弟姉妹にならできるはずです。ですから、訓練次第でその輪を広げることも可能です。神様の愛を信じ続けましょう。目標に向かって挑戦し続けるには神の愛が必要です。くじけそうになったら、神様がどのように愛してくださったかを思い出してください。まず神の愛で心を満たしていただいて、踏み出してください。
「暑さ耐え はじける石榴 美味たるや」
固い皮に守られ、暑い夏を乗り切った石榴は、秋に熟して皮をはじけさせ、おいしい果肉を食べさせてくれます。私たちも石榴のように、この人生を乗り切って、おいしい熟した果実になりましょう。
■2012年9月2日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
恐れを締め出す愛 up 2012.9.2
愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。
(第1ヨハネ4:18)
1.主題聖句について(第1ヨハネ4:18)“みことばは前述”
【内容観察】
★『恐れ』?処罰や懲らしめられることへの心配。
結果に対しての評価、しかも否定的な評価を心配しています。何か嫌いなものを見て恐いというのとは違う、否定的な疑惑の感情を抱くという意味を持っているのが、ここで言う恐れです。
「愛には処罰されるという心配の気持ちはありません。完全なものとなった愛は、結果の良し悪しを気にする気持ちが起こらないのです。罰せられるかもしれないという恐れは、愛を信じきれていないからであって、まったき愛となっていないしるしです。」
皆さんも、育ってきた過程において叱られたことが何度もあるかもしれません。どなられたり叩かれたりにらまれたりは本来、幼子が悪いことをしないための恐怖心を植えつけるために行われます。しかし、子どもが成長して、もはや幼子ではないのに恐怖を与え、縛り続けると、子どもは何かするたびに「叱られるのではないか」という恐れにとらわれることになります。親、教師、上司など接するすべての人に対し心が萎縮してしまい、大胆さが出ません。結果、持っている力を出し切れないのです。本番に弱いタイプの人などは正にそれで、失敗を恐れる気持ちが実力を出させなくしています。恐れを植えつけたが、愛を教えなかったためにこのような結果を招いたと、みことばから考えることができます。皆さんの中に「本番に弱い」タイプの方がおられたなら、もしかして結果に対していろんなことを言われたきたそのことが、あなたの心を不完全にさせている可能性があります。しかし、これらは愛によって締め出すことができます。全き愛は不安や否定的な思いを締め出す力を持っていることを、今日皆さんに知っていただきたいと思います。
【敬聴と適用】
「愛がまったきものとなっていない」ということについて、どのようなことが教えられますか?
★「愛を信じる」というポイントから。
私たちはどんな愛を信じているのでしょうか。
・御子を犠牲とした罪の赦し
私たちを救うために、御子という最も大事なものを差し出して、私たちの罪をお赦しになりました。それは最高の代価であり、取りかえられるものが何もないという、神様にとっての最高のものを、私たちの罪のために差し出されました。そこまで愛してくださっているというその愛を、私たちは信じているのです。これは精神的慰めなどではありません。私たちは神様の愛を信じる動機について、自分で理解する必要があります。世の人は、信仰に対して「洗脳されているのではないか」という疑いを持っています。私たちは神様の私たちへの愛を知ったから、この方のおことばを信じられるのです。
・永遠の滅びからの救い
イエス様の十字架での死は歴史的事実であり、口先だけのことばでなく事実をもって、神様は私たちに愛を証明してくださっています。神様がもし人間を愛されなかったら、人間が自己中心にわがままな欲望のとりこになって滅びの道を進むことに、待ったをかけたりはされなかったでしょう。愛すればこそ、滅びの道に進まないようにと、罪の赦しと永遠の神の御国に導いてくださったのが十字架です。皆さんは、愛する人の将来を心配されるはずですね。親は、子どもが立派に生活できるようになるために教育やしつけを施します。神様も私たちの将来をいつも気にしてくださっています。この地上の幸せが永遠においても実を結んでいくために、罪を処罰しなくてはいけないということで、罪を裁かれると助からない私たちのために、身代わりに処罰を受けてくださいました。
・神の国の相続人となる
神様の偉業を私たちが受け継ぐのです。大事なもの、全財産をです。相続人を任命する時、愚か者は選びません。となれば、神様がご自分の後継者として私たちを選ばれるにあたって、きよめの試みにより責任を果たしうる器へと成長させるのは当然と言えます。せっかくのすばらしい資産を有効に活用できる能力が、愛する者に備わるようにとのお気持ちからです。私たちの信仰生活における苦しみは、受け取るべきもののすばらしさを意味しているのです。神様はすべてのクリスチャンを合格者として受け止めてくださっているがゆえに、各々の足りない部分を訓練によって引き上げられます。そういう愛を私たちは信じています。
・父なる神と子である私たち
親子という愛が、私たちが神の愛を信じる上で一番大事なポイントです。父親に対するイメージは、皆さんの家庭環境などによっていろんなイメージがあると思いますが、神様は本当に子どもに対する愛を注ぎ続ける理想的な親として信じてよい方です。子どもは未熟であり、また十分成長しておらず失敗も多いものですが、「こんな私でも立派な親である父なる神様は、寛容と柔和と忍耐の限りを尽くして育ててくださっている。」のです。このような、親としての神様の愛を信じているわけです。この立派なお父さんとしての神様を信じているなら、私たちはお父さんに近づく時、怖がる必要はありません。また、自分にとってマイナスだったと思われることも、愛を通して見ればすべてプラスに変わります。愛は否定的なものを締め出す力があります。ぜひ皆さんも、父なる神様に対して、この方がどれだけの愛を私たちに注いでくださっているかに気づく時に、もっと身近にこの神様を感じ取っていくことができるのではないでしょうか。
2.『貧者一灯』を心がける(ルカ16:10)
“小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。”
★『貧者一灯』(ひんじゃのいっとう)の意味
真心のこもった行いの尊さのたとえ。「長者の万灯よりも貧者の一灯」の略。金持ちが金にものをいわせて捧げる一万の灯明よりも、貧しい者が苦しい中からやっと捧げる真心のこもった一つの灯明の方が尊いという意味。
【内容観察】
『小さい事』⇒赦されている罪人として生きる人生。
『大きい事』⇒新しい天と地における神の子として生きる人生。
『忠実』⇒愛の神に愛されている『愛』を一番大切にしている。
『不忠実』⇒愛されている愛よりも自己中心愛を優先している。
誠心誠意真心を込めるとは、愛に忠実であるということです。しかし愛されていることがわからなければ、忠実さは私たちの心に湧いてきません。たとえば、上司の部下に対する信頼が強いほど、部下は上司に忠実になろうという動機が心の中に起こってくるものです。部下が上司に尊敬できるものを見い出したなら、それは一つの愛の現れです。尊敬すれば自然に忠実な思いや考え方が行動が出てきます。このように、私たちが人に忠実である時には、何らかの尊敬できる部分に触れて、感動して、その人の言葉に従っていくものです。従いにくい相手には何か尊敬できない部分があります。ただし、尊敬の基準はその人の世界観、価値観によるのですが。
私たちは神様を怖がって従っているのではありません。神様のお心次第で天国でも地獄でも行く事になるのだから、言うことを聞かないと大変だ、という考えは、神様が望まれた関係ではありません。神様の愛にどのくらい気づいたかが、忠実さの度合いに表れます。忠実さは、愛を信頼して大胆に仕事ができるものです。この世は結果が全てなので、どんなに一生懸命にやっても結果が出なければ評価されません。しかし神様の国では結果は大事ではありません。結果が出るまでの過程で、その人がどれほど真心込めてやったかが大事になります。一生懸命やったのなら、それで100点なのです。それを見抜く事のできる上司がいたら、部下はどんなに真心込めて忠実に仕事をするでしょう。
参考(マタイ25:21)
“「その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』」”
5タラント預けたしもべにも、2タラント預けたしもべにも同じ言葉が与えられました。良い忠実なしもべと評価されたポイントはどこだったのでしょう。1タラントを隠したしもべは、主人をひどい人だと思い、信用していなかったことがうかがえます。反対に5タラント、2タラントを預けられたしもべは主人を信じて大胆に運用したのです。彼らは失敗を恐れませんでした。自分に財産を預けてくれた主人の愛を信じたかどうかの違いがここに出ています。忠実なしもべとは、主人の心を理解している人であり、それゆえに恐れがありません。主人が旅に出る時に商売しなさいと言ったのを、「利益を出せるようにがんばれ」と取ったか、「損したらひどい目にあわせるぞ」と取ったかで大違いです。私たちは失敗を恐れて立ち止まるよりも、失敗を重ねてもいいから少しでも成功に近づくようにと願って受け止めてくださる神様であることを理解し、また信じましょう。それが忠実なしもべです。神を敬わない欲望という心は失敗を恐れます。失敗は損だと思うからです。主人にいいカッコしたいと思うのは損得の考え方です。神様のお心を正しく受け止めて良い忠実なしもべになりましょう。結果はまだまだ足りませんが、真心込めて「貧者の一灯」を心がけるクリスチャン生活を送ってください。
「湯来の空 銀河を見上げ 何想う」
秋の夜空を見上げながら、大自然を創られた父なる神様のきよい愛に心を向けましょう。 |