■2012年8月26日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
完全なものとなった愛 up 2012.8.26
このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。
(第1ヨハネ4:17)
この「私たち」は、読んでいる全員を指しています。「完全なものとなった」「キリストと同じような者である」とは、何とすごいことでしょうか。
1.主題聖句について(第1ヨハネ4:17)“みことばは前述”
【内容観察】
★『世界観』⇒人生や世の中をどう見ているか、どう解釈しているかということ。その人の人生を形作り、その人が歩み道を指導するものである。
「神は愛です」という世界観を持つに至ることによって、赦されている罪人の私たちにおいても、イエスのように愛が何一つ欠けることなく備わっている者となりました。それは私たちが、神のさばきの日にも神の愛を大切に歩んで来たことを確信できるためです。なぜなら、私たちもキリストと同じ世界観をもってこの世に生きているからです。
私たちは無意識に自分の世界観を持って歩んで来ています。それが判断と決断の基準になります。無神論者には、無神論という信念があります。すべての人は何らかの基準を持って世界を見ています。私たちクリスチャンは赦されている罪人ですが、「神は愛です」という世界観を持つことによって、イエス様と同じようになることができます。イエス様は「神は愛です」という世界観を持って歩まれました。地上のご生涯で神を「父よ」と呼んでおられました。それは、神がご自分を親として愛してくださっていると知っておられたからです。私たちも「父なる神様」と祈る時、イエス様が持っておられた父なる神、全き愛を持って愛してくださる父というイメージを持って祈ってください。
【敬聴と適用】
(1)「愛が完全なものとなる」とは?
完全なものとなった愛とは何でしょうか。
●神の愛を完全にすべて丸ごと受け止めたという状態です。
祈りがきかれないからといって、不信感を持ったり、人間的方法で手に入れたりしようとしていないでしょうか。それは応えてくださらないことも、神の愛として受け入れていないからであり、神の愛の一部分しか、受け止めていないからです。例えば、友人からお金を借してほしいと頼まれた時、何の疑いも持たず、理由を追求することなく貸せるのは、相手を信頼しているからです。神様を丸ごと信頼しているというのは、祈りが応えられるとか応えられないとかに関わらず、神は愛をもって自分を見ておられ、祈りも愛を持って聞いてくださっていると信頼できるということです。そういうふうに受け止められる人は人生において、神は愛であるということを重要視して歩んでいると言えます。
●愛の応答が完全となる
完全に受け止めているなら、どんなことも愛をもって応答できます。祈りに応えられようと応えられまいと感謝する心が持てます。愛を受け止めたなら、受け止めただけ応答できるようになります。
●愛の献身という信念が根付く
献身とは愛する心です。人を愛するとはその人に身を委ねる信頼を持つということです。神を愛するなら自然に委ねることができるようになります。少しずつでもその心が持てるようになりましょう。愛がわかっていくなら、自然に無理なく献身できるようになります。それは生活そのものが神に捧げられていくということです。行いではなく、愛をどれほど受け止められるかが大切です。
(2)「さばきの日にも大胆さを持つことができる」とは?
大胆とは、確信に満ちているということです。
●信仰による義への確信
本当に、この自分が救われているのだろうかと、疑問になることもあるかもしれません。しかし、信仰とは、愛を信じるということです。私たちが信じているのは私たちに対する神の愛です。その愛を信じることが義と認められるのです。私たちは罪人だからこそ、深く愛されているのです。羊飼いは99匹の羊を置いてでも、迷っている1匹を探し求めます。さらに、イエス様は「私は義人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」と言われました。こんなクリスチャンでも救われるのだろうかと不安になることはありません。罪が深いからこそ、神は深く憐れみ、愛してくださっています。行いに価値をもっているなら、それがわかりません。神の愛を知りましょう。愛を知るなら、愛に感動し、罪から離れるようになります。神は愛であるという世界観をしっかりと持ちましょう。世界観が違うと、罪を犯さないということも、さばかれるから、地獄にいくのは嫌だからという損得勘定になります。同じことをしていても、世界観によってその動機は全く異なるものとなるのです。
●愛に生きる報いへの確信
さばきの日というのは、報われる日です。人々に親切にし、愛してきたことが報われるのです。私たちは正しい方から正しく報われることを求めています。人から報われることを第一としている人は、教会に来ていても、人につまづいてしまいます。神に報われることを求めましょう。神は必ず報いてくださいます。
●永遠の希望への確信
私たちの将来は裁きで終わりません。むしろ、裁きは永遠への一つの区切りです。新しい天と地で、永遠に神と共に住むのです。
(3)「キリストと同じような者である」とは?
●動機がキリストと同じ
何とか神の愛に報いて生きたという動機を私たちは持っています。
動機の根本は世界観です。イエス様を信じている私たちはイエス様と同じ動機をもつのです。
●価値観がキリストと同じ
●目的がキリストと同じ
イエス様の目的は互いに愛し合うことです。そのために、十字架で罪のための贖いをしてくださいました。私たちの罪を赦して、互いに愛し合うという関係に私たちが入ることをめざして、十字架についてくださったのです。クリスチャン生活が安定していくためには、この神は愛であるという、すべてを愛に根ざして見る世界観を持つことが必要です。
2.「見性自覚」(第1ヨハネ4:6)
“私たちは神から出た者です。神を知っている者は、私たちの言うことに耳を傾け、神から出ていない者は、私たちの言うことに耳を貸しません。私たちはこれで真理の霊と偽りの霊とを見分けます。”
見性自覚のクリスチャン生活を送るために必要なのは、私たちの本性に気づくことです。私たちの本性は、神と同じ「愛」です。私たちは神から出た者だからです。今までのあなたのクリスチャン生活の世界観の元となっているものが何であるか知る為に、以下の質問を考えてみてください。
(1)自分はどこからきたのか?(宇宙、生命、人類の起源)
(2)自分は誰であるか?(アイデンティティー)
(3)社会の中で、自分がどう位置づけられるか?
(4)人生をどう送るべきか?(道徳観)
(5)自分にとって、価値あるものをどう決めるべきか?(価値観)
(6)人間の根本的な問題は何か?
(7)人間の問題をどう解決できるか?
(8)歴史の意味と方向性は何か?(歴史観)
私たちは神から出た者です。万物も神から出ました。主を畏れることが大切です。人生の最も大切なことは、主を畏れることだと聖書にあります。新約でヨハネは、『主を畏れることは、神は愛ですと信じることです』と言いました。私たちは、愛のことば、愛の権威になら喜んで服することができます。私を愛してくださっている神の愛を丸ごと信じることが、主を畏れることです。神は愛ですという世界観が確立すると、愛が私たちにおいて完全になります。ただ、実を見るまでは、時間がかかります。この世界観をしっかりと持ち続けるなら、私たちはイエスさまのようになっていきます。完全なものを持っているなら、完全な者になることができます。信じて歩みましょう。
■2012年8月19日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
愛を知り、愛を信じる up 2012.8.19
私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。
(第1ヨハネ4:16)
順調な生活や心おだやかに過ごせる日々には、自分の存在について深く考えることはあまりありません。何かの出来事とかで追いつめられて初めて、自分の存在が揺さぶられている状態に気づくことが多いように思います。そのような中でも自分の存在を支えるものは、神の愛だと思います。神様から、「あなたは生きていていいのだよ」という強い愛のメッセージをいただいて、私たちは苦難を乗り越えていくことができます。
1.主題聖句について(Tヨハネ4:16)“みことばは前述”
小栗伝道師メッセージ
【内容観察】
「私たちは、神が計り知れないほどの愛を、私たちに注いでくださっていることを知り、またその愛が個々に注がれていることを信じています。それによって解ったことは、神は愛そのものの方であるということです。神の愛をいつも意識している者は、神と共に歩んでおり、神もその人と共に歩んでおられます。」
心揺さぶるものが私たちには多くありますが、神様は私たちの想像を超えた、計り知れない愛を私たち一人一人に注いでくださっています。これまでも多岐にわたって神の愛を学んできましたが、神様との出会いも、私たちの裏切りに対する忍耐も、私たちの思い行い全ての過去への赦しも愛の中にありました。自分では最悪と思える状況の時も、神様はその人を拾い上げて「大丈夫。わたしの手があるのだから」といつもおっしゃるので、私たちはもっと神様の愛を知ることができ、また信じていることができます。ヨハネが人生で悟ったのは、神は愛そのもののお方であるということでした。「自分は愛されている」と思い続けているならば、多少のことがあってもブレません。が、いつの間にか自分の肉と手を組んで歩いていることが多くあります。最初のうちは、気づけば方向修正も少しで済みますが、大きく離れてしまうと、神様の愛がまったく解らなくなることもありえます。
【敬聴と適用】
(1)神の愛を見つけてみましょう。(知・情・意をもって)
感情によって愛をとらえることは非常な不安定をもたらします。それゆえ、この3つの分野から、私たちが神の愛をどのように見つけるかが大事になります。
★情報(歴史的証拠、証言)神様の愛を知的な部分でとらえること。
歴史的には、聖書の預言がすべて成就していることが挙げられます。神様の愛のご計画は、はるかな昔から記され、成就してきました。神様のDNAのみを持たれたイエス・キリストが、しかもまったくの処女から産まれること。十字架にかかられる前のキリストのむごたらしいお姿の描写。血まみれで、脇には槍を刺され、みじめに死なれることをあえて受け入れられたイエス様の私たちへの愛を、知的に見ることができます。証言として、たとえばマザー・テレサの人生すべてをかけた証にはみな感動します。神様の愛を知ったマザー・テレサは、一人一人に「あなたはこの世に望まれて生まれてきた大切な人」と、宗派を超えて神様の愛を注ぎ出す働きをされました。私たちはこの方の働きを通して、情報としての神の愛を知ることができます。
★みことばから感じ取る〜感情面でみことばから感じ取ること。
肉の働きによって思いがほんろうされてしまうことがあります。そのような時も神様が「あなたは愛されている。わたしが支えている。わたしはあなたを生かす。わたしはあなたを祝福したいのだ。」というお心を、みことばをもって伝えてくださいます。レーマと呼ばれる、その時々に個人的に語られる神のみ思いが表されたみことばをいただかれ、力を得られた方もおられることでしょう。光り輝く宝のみことばをぜひ大切にしてください。
★助け主聖霊様との体験(交わり)〜意志
聖霊様はきよい方です。神様は私たちをきよめたいと思っておられ、聖霊様はいつも私たちを導いてくださっています。その時に私たちが自分の意志をもって軌道修正できるために、自分をしっかりと見つめ直しましょう。何かとがめの心を感じるなら、それは聖霊様の豊かなお導きであることを覚えましょう。そして神様のもとに戻ろうという意志を働かせていただきたいのです。神の愛に近づき、神の愛をとらえるお一人お一人であってほしいと願います。
(2)愛を信じ続けるために、何が必要だと思いますか?
横路伝道師メッセージ
信じ続けるとは感動や確信を保ち、他の人の言動に惑わされないことです。神の愛を知ることと信じ続けることは両輪であり、どちらも欠かせないものです。この世の中は神様抜きの生き方をしている人で一杯であり、その中でクリスチャンは過酷な生活を強いられていると思います。ではその中で愛を信じ続けるには何が必要でしょうか。邪魔するものはまず「疑い」です。祈りがなかなか聞かれない、ノンクリスチャンの方が祝福されているなどの理由で、神様に叫びたくなる時は不信仰、つまずきの危険があります。この時に2つの対策を考えることができます。
1つ目はあきらめないこと。人間は忍耐して待つことが苦手ですが、いつまで待てるかが勝負の分かれ目です。遭難した人の生死を分けるのも、救助を信じて生き延びる努力をするかどうかにかかっています。アブラハムも、そのあきらめない心が百歳にして念願の跡取り息子を得させました。何が何でもあきらめない姿勢が大事です。神様は私たちがどんな状況にあっても、どんなに老いても、必ず救いに、永遠のいのちに導こうとして、あきらめずに今も働いておられます。守ってくださっています。
2つ目は変わらない、揺るがないものを持ち続けることです。世の中にあるものはすべて変化するので、最後には何一つ残りません。人間が本当に求めているのは、決して変わることのない愛です。そして私たちには神のみことばがあります。聖書があります。“「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」”(マタイ24:35)イエス・キリストの愛は変わりません。この変わらない愛を、十字架による犠牲をもって証明してくださいました。十字架の救いとイエス様の愛は決して変わることがないのです。私たちは信じ続けるためにあきらめない人になり、永遠に変わらない神の愛を信じ続ける人になりましょう。こういう人が「神のうちにおり、神もその人のうちにおられる』人なのです。
(3)あなたにとって「神は愛です」という結論は、どのような意味をもたらしますか?
辻牧師メッセージ
★愛が『天人冥合』(てんじんめいごう)をもたらす。
『てんじんめいごう』の意味
天意(神のみこころ)と人の言行が自然に一致すること。
『冥合』⇒知らず知らずのうちに合致すること。
神様の愛を意識して生きていくと、自然に天意を行うことができます。「互いに愛し合いなさい」という神のみことばが、自然にできていくようになるのです。
“あなたを造り、あなたを母の胎内にいる時から形造って、あなたを助ける主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだエシュルンよ。”(イザヤ44:2)
エシュルン=(神の目から見て)正しい者、高潔な者。
イスラエルに対する愛称。
ヤコブ=人間臭い。罪が多く、失敗もよくし、肉的な考えが頭を占めることの多い、肉に属する者。
あなたは「ヤコブ」だが、神の目からは「エシュルン」であり、とても愛らしい者だとおっしゃるのです。これらのことから何が言えるのでしょうか。
○私は神の愛によって生まれた。
神は女性の胎を用いて、私たち一人一人を造られました。私たちが何かを作る時、思いを込め、誠心誠意作っていきます。人は神のかたちに似せてあるのだから、それはもう細心の注意を払って、愛を込めて造られているのは間違いありません。
○私の父は創造主
○たとえ肉の親に愛がなくても、神の愛によって私は生まれた
自分の父と母の間に愛がなくても、母の子宮で子どもは自然に育っていきます。育つとは、神がお造りになっていることに他なりません。ですからすべての人は、神が愛をもってこの地上にお造りになったと言えます。身体的障がいや知的障がいなどは機能的問題であり、神はその方々を生み出されておられるのは、その方々を愛しておられるからです。神はご自分の思われた通りに人をお造りになり、障がいを持つ人がいるのは、その人を通してこそ現れる神の愛があるからです。神の愛を見つけるか否かで、人の人生はまったく違ったものになります。神の愛に気づいた人は喜びをもっていのちを輝かせることができます。環境や能力や力や状況に関係なく、人の幸せは神の愛にのみあります。これに気づけば、「自分は生まれてよかった。いのちはなんてすばらしいのだろう。」とすべてのことを感謝できる愛に満たされます。それが私たちの目指すゴールでもあるのです。神様の愛をしっかり考え、感じ取り、これが愛なんだとしっかり意志決定して、しっかりと神様の愛を知り、最終的には「やはり神は愛です。」とあなたも結論を出してほしいと願います。これからの一週間でつかみきるのは難しい内容ですが、これからずっと続けていくこととして、夏のひまわりをお手本にがんばってください。ひまわりは太陽に向かって常に花の向きを変えることで有名ですね。
「ひまわりや 変わらぬ愛に 思い向け」
このように私たちもすべてを差し出してくださった神様の愛に思いをいつも向け、この人生を歩んでいけたらいいですね。心に疑いや不信仰が出てきたら、ぜひ神様の愛に顔を向けてください。
■2012年8月12日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
愛を告白する力強さと美しさ up 2012.8.12
だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。
(第1ヨハネ4:15)
1.主題聖句について(第1ヨハネ4:15)“みことばは前述”
【内容観察】
「だれでも」⇒例外なくすべての人
イエス様は特に罪の泥沼で悩み苦しむ人に心を砕かれました。
「イエス」⇒私たちと同じ人間のかたちを持たれた方
「神の御子」⇒神の愛を一心に受けている、神にとって最も大切な存在
「告白する」⇒神の愛を表す人生、神の愛のうちに生きること
聖書での「告白」は、生活そのものをも指します。
「神はその人のうちにおられる」⇒心が神の愛で満たされている
「その人も神のうちにいます」⇒神の愛に守られ導かれる環境にある
「美しく力強い神の愛に触れてリニューアルされた人は、神の愛と美しさを内に持ち、神の愛による力強い人生を歩んでいる」
皆さんも、それぞれ強調されていると感じる部分を、この中から見つけ出してください。
【敬聴と適用】
★内容観察をとおして「イエスを神の御子と告白する」ことの中に、どのような深い意味が含まれているかを瞑想しましょう。
参考として下に3つのポイントを挙げてみました。
(1)預言の成就⇒旧約のメシアが地上に現れたことを認める。
(2)創造主が遣わされた唯一の救い主⇒救い主を唯一と認めないから争いが起こる。認めれば人類は一つになれる。
(3)神は愛であることを証明⇒愛なる神様のすべてを証しするために生きた人間がイエス様。
この3つのポイントを参考に聖書を読み進め、自分との関わりを考え、瞑想することによって、さらに深い悟りが開かれ、もっと違ったイエス様に対する心の向け方が生まれてきます。
2.『革故鼎新』は告白から。
★『革故鼎新』(かくこていしん)の意味
古い物事をあらためて、新しいものにすること。⇒リニューアルする
『革故』⇒古いことを改める
『鼎新』⇒新しいことを取る
口の告白は行動を変え、変化した行動はあなたをリニューアルします。
A)力強さを告白(詩篇71:7)
“私は多くの人にとっては奇蹟と思われました。あなたが、私の力強い避け所だからです。”
【内容観察】
全能の神の力強い御手が、今日まで私のいのちを守ってくださった。それは多くの人にとって驚くべきことに見えるでしょう。
私たちにとって神様は、どういったことからの避けどころでしょうか。それは罪の誘惑、罪の力からあなたを守ってくださるものです。誘惑がやって来た時、それからさっと身を避けることができるところなのです。その避けどころは強いので、決して誘惑に負けることがありません。
【敬聴と適用】
★神の力強い愛の御手が、あなたの避けどころになっていることを考 えてみましょう。
幼い子が親の守りの手を知らないままあちこち歩き回るように、私たちも神様の守りの御手に気づかないで、自分の思うままの行動をすることがよくあります。子どもは大きくなると分別がつき、親に心配をかけないように自分で制限します。今の自分はどうであるか省みてみましょう。この罪の世界で、神の愛を信じる敬虔な人生を歩み続けていることが、皆さんそれぞれにとっての奇蹟です。あなたがクリスチャンであるとわかった時に、周りの人がどう反応しますか。もし感心されるのなら、それは奇蹟である証です。世の人には絶対できないことをしているのです。1つでも多く、世の人と違うところを証ししていけるようになりたいものですね。神様の愛に守られているからこそ、純真な心をもって生きていきたいという気持ちが支えられて、できなかったことができるように、弱かったところが強められるように、少しずつ養われていきます。最初から完全にはなれません。人によって成長の度合いもさまざまですが、私たちは人と競争しているのではなく、神様の愛に歩んでいくための毎日の生活であることを忘れないようにしましょう。ぜひ、「あなたが人と違うのは、毎週そうして教会に通っているからなのですね」と認められるほどになりたいものですね。
B)美しさ、麗しさを告白(詩篇27:4)
“私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。”
主を仰ぎ見ることの幸せ感は、そこに愛が溢れてくるからです。
【内容観察】
主の麗しさ、きよき美しさは、私の人生にとって喜びと希望です。一生涯、私の愛する神のきよさの中に過ごすことが、私の一番の願いです。
世の中しか知らなかった頃はきよさとは無縁でしたが、イエス様を信じたことによって、きよさのすばらしさを初めて実感し、その価値と、きよさの中にいることの幸せを教えていただきました。礼拝に来ることが病みつきになるほどに、主のうるわしさときよさの中に過ごすことが一番の願いであると言えるような、イエス様のきよさと美しさに感じ入る毎日を過ごしていきたいですね。
【敬聴と適用】
★主の麗しさ美しさを、どのようなところに見い出すことができるでしょうか。
まず私たちの身の回りから実感していくことが大事です。
(1)整えられている大自然
自然の中に神様の麗しさ、美しさ、きよさを見ることができます。もし自分がきらいなものがあったなら、それが罪人である自分の姿であり、神様はそんなふうに人に嫌がられる存在である自分を愛してくださっていることを思いみましょう。ムカデやゴキブリなどをお創りになった神様は、汚れた罪人である私たちの中にも神のかたちを見つけ出してくださいます。
(2)救い主の十字架の姿
かつては最も重罪を犯した者を罰するための刑罰であり、忌みきらわれるものの象徴でしたが、救い主イエス様が十字架にかかられた時から、神様の愛を象徴する、麗しく美しいものに変わりました。
あなたは血まみれのイエス様を見て、神様の愛をどんなふうに感じるのか、ぜひ祈り求めてください。
(3)私たちの内に遣わされた霊なる神様、聖霊様の美しさ
こんな汚い家に、あんなきよい方が住まいに来てくださいました。聖霊様が来てくださったことによって、罪のゴミが一杯で悪霊という害虫だらけだった私たちの心が、聖霊様の手によりゴミを捨てられ、掃除をしていただき、聖霊様が住まわれるにふさわしい住まいへと変えていただいています。聖霊様は時間をかけて私たちの心を変えてくださいます。美しいものを内側に持つと、その美しさは他のものにも影響を与えます。神様の力強い美しさは汚されることなく、かえって汚れをきよく変える美しさです。愛はそのように力強いものなのです。
最後に夏の積乱雲を見て一句。
「真理見ゆ 積乱雲の 美と力」
真理とは神が創られた法則であり、規則です。そして大自然の中には必ず神の定められた法則があります。水滴の集まりである雲が高度1万mにも及ぶ高さに達し、その重さは何万トンにもなるという不思議が、積乱雲にはあります。旅客機の高度8千mよりも高いのです。しかし、そこには真理があり、自然の法則が働いています。
私たちの人生も「こういうのは無理だ。不可能だ。」と思えるようなことも、神様によって可能とされます。現に罪人を救うという不可能と思えるわざを、神の真理によって成就してくださいました。私たちが良いものへと変えられることも、真理によって可能となります。自然現象の中にある真理を知ることにより、人間が技術を発展させてきたように、霊的真理を知ることによって、神のかたちとしてますます完成に向かって歩んでいくことができるのではないでしょうか。
■2012年8月5日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
愛を証しする up 2012.8.5
私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、今そのあかしをしています。
(第1ヨハネ4:14)
愛を証しするというのは、宗教活動の一部ではなく、生活の一部であり、自然に出てくるものです。私達は生活を通して、ごく自然に神は愛であるということを証ししているものであると、このみことばは語っています。
1.主題聖句について(第1ヨハネ4:14)“みことばは前述”
このみことばには、本当に深い意味があります。まず、このひとつひとつの言葉の意味から考えてみましょう。「私たち」とは赦されている罪人です。実際はまだまだ罪を犯す未熟な者ですが、神はイエス・キリストの十字架によって赦してくださり、それゆえに義と見てくださっています。そのことを忘れると、いつの間にか感謝の心がなくなってしまいます。「御父」とは、父という呼び方には、親のような愛のある方を表しています。私たちの信じている神は、親のような愛のある創造主です。「御子」とは、神にとってかけがえのない最も大切な存在であるということです。「世の救い主」は、一般的には、この世が滅びないように救う方という意味ですが、聖書では、罪の赦しをもたらすためにいけにえとなられ、私たちの罪を贖ってくださった方です。イエス様は、私たちの罪を負って死ぬために、地上に来てくださいました。このような救い主はイエス・キリストのみです。「遣わされた」のことばには、御父の断腸の思いが表されています。かけがえのないひとり子を、私たちの救いのために地上に送られ、十字架の死をも見守られるという身を裂くような苦しみを味わわれたということを知りましょう。「見る」とは、そこまでしてくださった御父の愛を感じ取り、しっかりと受け止めてという意味があります。「その証しをして」には、神の愛に応える歩みへの決意が表されています。証しとは、しるしであり、存在そのものです。私たちの生活そのものが神の愛のしるしであり、証しなのです。私たちは赦されています。まだまだ罪の中にあっても、赦されていることを感謝して、へりくだっているなら、その生活自体が証しなのです。毎日の深い悔い改めと感謝の中に、心は砕かれて、神の愛と憐みを知り、さらに、敬虔さが表されていきます。自分の罪がいかに赦されているかということを悟る時、心は自然にへりくだり、神への感謝の思いに満たされていきます。そして、その時、神の愛に共鳴し、愛に応えたいと心から願うようになるのです。それが私たちの証しです。
【内容観察】
むなしい人生を過ごしていた私たちは、あわれみ深い父なる神様の最も大切なひとり子を、すべての人の罪を赦すための犠牲として断腸の思いをもって遣わされたことに深く感銘し、一生涯を御父の愛のうちに歩むあかしの人生を決意しているのです。
この決意は愛に動かされたものです。
【敬聴と適用】
★このような決意に至る心の動きが、あなたのうちにわき起こってくるためには、どのようなことが必要でしょう?
人は何によって、最も心を動かされるでしょうか。自分の要望に完璧に応えていただけなかったら心を動かさないというような思いが潜んでいないでしょうか。自分の思うような癒しや奇跡が起きないとだめだとか…そのような高慢な自己中心な思いでいては、決して神の前にへりくだることなどできません。心の内にあるものを探り、自ら心を変えていきましょう。あなたの霊と心と身体が神の愛に感動することが必要です。人は神の愛を感じたら、必ず心が変わります。愛として受け止めていなかったら、変わりません。愛を感じるゆえに、愛するもののために自分を変えていけるのです。
★そのためには、まず、何から始めることができますか?
そのためには、時間が必要です。聖会でも話しましたが、くるぶしから始まって、泳げるほどに満たされていくには、時間がかかります。考える時間を持ちましょう。そうするなら、さらに深い神の愛に気付かされていきます。自分の生活の中に神様に思いを向ける時間をとることが秘訣になります。
2.神への『束帛加璧』(第2コリント8:1-2)
“さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。”
★『束帛加璧』(そくはくかへき)の意味
最高の礼物を意味する表現。(礼物⇒謝礼としての贈り物)
『束帛』⇒束ねた絹織物 『璧』⇒玉、宝物の意
『束帛』とは、束ねた絹織物のことで、中国では、10反をひと束と数えたそうで、本当に高価なものです。さらに、『璧』とは宝物であり、宝石です。つまり、神への最高の贈り物を意味しています。このみことばは、献金を脅迫しているものではありません。マケドニヤの教会の人々は、極度の貧しさの中でも捧げたいと心から願えるような心の感動を受けたので、自発的に誰からも強制されなくても捧げたのです。彼らがそうだから、あなたも捧げなさいと強制するために、このみことばを用いるのはよくありません。
【内容観察】
神の愛による満ちあふれた喜びは、極度の逆境にもかかわらず、惜しみない愛の施しとして証しが現れた。
マケドニヤの教会にとって、神の愛に触れた喜びが、愛の施しとなったと、パウロは語っています。これは、神の愛に触れた喜びが、どれほど命にあふれた考えや行動に至らせるものであるかを証ししています。あなたの心は何によって動かされるでしょう。お金に対する欲望で動かされるなら、信仰からはずれていくでしょう。そうならないよう、私の心を動かすのは神さまだけだと決心していたら安全です。自分の心が変わる為に必要なのは、主題聖句で詳しく語りました。マケドニヤの人々はこの御父、御子の神の愛を、御霊によって啓示されて、その愛に動かされて、自分自身をも捧げる行動にでたのです。そういう決断ができるような心の変化を経験したいですね。確かに、欲がはらんでいるのか、神の愛に飢えているのかが問われるみことばではあります。
【敬聴と適用】
このみことばから「愛を証しする」ことについて、どのようなことに気づきますか?
神の愛は自然なものです。力んで証しするようなものではなく、神の愛を受けて、自然に感謝があふれ、証しとなっていくものです。それはごく身近な生活の中で起きることであり、受けたと分かれば自然に応答するのが証しです。「惜しみなく施す富んだ心の美しさは、神の愛の美しさである。」美しくありたいと誰でも願うでしょう。それは健康でありたいということと同じです。健康は美しく見えます。心の美しさは、神の愛に反映されて表れます。神の愛によって創造されたゆえです。神の愛を求めていくなら、身も心も活性化され、健康に美しくなっていきます。
また、惜しみなく施す富とは、神への最高級の捧げものです。それゆえ、この四字熟語を使いました。愛を受けた時、愛によって生きることが、神に喜ばれる最高の生き方です。私たちは人から愛を受けたら、返したくなるものです。互いに愛し合う時、互いが元気になります。
<例>
1)松山の捕虜収容所では6000人のロシア人捕虜を収容していました。(日露戦争)彼らを当時の日本人達は厚く保護し、丁重に扱いました。その時の捕虜のひとりは感動し、日記に、「敵地におけるこれほどの愛は神聖で、不滅な、キリストの愛のようだ」と書いています。
2)終戦後、日本政府は亡くなったロシア兵のために、自分の国の兵より先に忠魂碑を建てました。その時参加したロシアの要人のひとりは、今まで、敵国の兵士のためにこのような忠魂碑を建ててくれるような国は、世界中捜しても日本しかいないと心から賛辞を述べています。
3)第一次世界大戦が終わるまでは、ポーランドは三つに国が分けられ、独立のために働いた人々は次々に強制収容所に送られていました。中でもロシアの収容所は悲惨な状況でした。ポーランド独立の後でも、ロシアは人々を解放しませんでした。そのような中、ポーランド政府は様々な国に助けを要請しましたが、全く事態は改善されませんでした。そこで救済行動に移ったのが、唯一日本の赤十字と、シベリアに潜入した日本陸軍の兵士でした。彼らは命がけで救出に向かいましたが、ポーランドの人々の状況は余りに貧しく弱り果てており、遂に、子供たちだけでも助けてほしいという彼らの願いを聞き入れて、三年かけて、765人の子供たちをやっと救出することができました。そして、日本に連れて帰り、東京と大阪で世話をし、腸チフスで弱っていた子供たちの治療に専念しました。(看護婦が感染して殉職しています)数年後元気になった彼らを本国に送り返した時は帰りたがらず泣く子もいたそうです。そして、75年後、神戸の震災の時、一番に救助に駆け付けてくれたのが、ポーランドでした。彼らは、この時の恩返しだと語っています。彼らは震災の孤児をワルシャワに連れて行き、手厚く接待してくれました。
このように身を捧げて尽くす心を日本人はもってきたのです。あるイスラエルの指導者は日本に来て、「ここは神の国のようだ」と、日本の治安の良さと人情をほめたたえました。施す心は私たちの内に、もともと持っているものです。戦後この良い心を失ってしまっていないでしょうか。その心を目覚めさせるのが神の愛です。
■2012年7月29日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
与えられた愛の御霊 up 2012.7.29
神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。
(第1ヨハネ4:13)
ヨハネは、神の御霊が与えられて「私たちが神のうちにいる」ことと「神も私たちのうちにおられる」という二つのことに気づいたと言っています。
1.主題聖句について(第1ヨハネ4:13)“みことばは前述”
【内容観察】
愛である神は私たちに愛の御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが愛のうちにおり、愛も私たちのうちにおられることがわかります。
愛という言葉におきかえて、内容観察として表現しました。以前からお話ししていますように、愛は神様の本質であり、神が霊であるならば愛も霊であり、人格を持っています。愛も人格を持った存在として敬うことが必要です。この内容観察を見える形で紹介したいと思います。
←この水槽は、私たちの人生、生活領域、
この世とも言える、神の愛が注がれる水槽
←御霊が与えられた
・世を愛された神は、世に愛の御霊を注がれた
ということ
・使徒2章の五旬節の祭りの日に神の御霊が初め
て下り、しかも一度に多くの人に下った
…ヨエル書の預言の成就(聖霊の降臨)
←イエス・キリストを信じるまでは水槽の中に
入っていませんが、イエス・キリストを信じ
その愛を受け入れることを通して、神の御霊
が私たちのうちに下ってこられるときに、私
たちの人生が水槽の中にどっぷりとつけられた
←同じ愛の御霊が私たちの外も内も覆い満たして
くださっている。
あなたが、イエス・キリストを信じて神とともに歩んでいると言うならば、あなたの行くところどのような環境でも、神様の愛に包まれた環境です。あなたのうちにおられる方は、あなたがどこにいても同じようにあなたの内に神の愛が満ちてともに歩んでくださるという意味です。内も外も神様の愛に満たされた私たちの人生であるということが、御霊が与えられたことによってわかるというのです。教会だけでなく、家に帰っても神様の愛は、あなたを中心に包んでいるということです。ですから、あなたに起こってくるすべてのことは、神の愛あってのこととしてすべてを感謝できるわけです。神の愛ゆえの私たちの人生の導きの御手があるのです。すべての人々の祝福の基と言われたアブラハムは、神様に愛され、神様の愛に包まれていたので、すべての人々の祝福の中心となり、彼がどこへ行っても神様の愛に包まれていたので、彼がどこへ行っても神様の愛によって祝福されました。ヨセフも無実の罪を着せられ牢獄に入れられても、神様の愛は変わらず、牢獄にいながら、神様の愛に祝福され、まわりの人も祝福されました。ヨセフを大事にする人を神は大事にされました。このように内も外も神の臨在に満たされていることを「御霊によってバプテスマされる」と言います。短く言うと、聖霊のバプテスマです。何か超自然的な体験に心が向けられてしまい、いつも超自然的なことが起こらなければ、聖霊に満たされている実感が持てないというのは誤りです。私たちが意識してもしなくても24時間神は愛によって包んでくださり、私たちは神の中にいるのです。外側とは環境的なもの、内側は精神的な領域です。
【敬聴と適用】
★私たちの存在は、『神の愛』という環境の中にあります。そのことで、どのようなことに気づきが与えられますか?
トマトやお米が育った環境によって味が違ってくるように、私たちも神様の愛という環境にいることに気づかなければ、神様の愛のよいものを吸収して育っていくことができません。食物の種は自由意志がありませんので、環境に100%左右されてしまいます。人間は自由意志がありますので、神様の愛の環境の中にいるにも関わらず、それを受け入れるかどうかで、クリスチャンとしての成長が左右されてきます。私たちは神様の愛の環境の中に入れられているという事実をしっかりと確認していくことが必要です。そのために十字架を通して罪赦されて神の御霊が助け主として遣わされて信仰の歩みを共にしてくださっているという神様の愛を信じることが土台となって、どんなところに行っても神様の愛に包まれているという目で見ていけるようになれば、神様の愛によってどんどん成長していけるようになります。これを、パウロは「すべてのことについて感謝しなさい。」ということばで表現しました。神様は全て愛をもってなされ、導いてくださっていると神様の愛を少しも疑っていないので、たとえ石につまずくことがあっても感謝することができるのです。嵐も日照りも全て私たちが味わい深い人間となるための神様の導きです。楽ばかりしていては、そのようにはなれません。思い通りにならないからこそ、神の子として成長でき、たくましさを身につけるチャンスといえるのではないでしょうか。キリストを信じているならば、どんな人も神の愛の環境の中に育っていることをしっかり信じていきましょう。
●私が私らしく育つためにもっとも適した環境が、
愛の中に包まれていることである
神の愛のかたちに創られた私たちは神の愛のかたちが現れてこそ、自分らしさが生まれてきます。自分の願い通りに生きることが、自分らしさではありません。人間が何のために創られたのかということに向かって歩んでいる人がもっとも自分らしく生きることができます。すなわち、神様の愛を受けて生きるために、神の愛を受ける存在として創られた私たちは、神の愛のうちに育まれることがもっとも自分らしい生き方だと言えるのです。
★私たちのうちにも『神の愛』が存在しています。そのことで、
どのようなことに気づきが与えられますか?
私たちの内にある思いは、私たちの行動や言葉、考え、決断に大きな影響を与えています。心に否定的なものがあったり、心配事が満ちていたりする人は、そういう考え方や言葉になるでしょう。喜びのある人は、楽観的にとらえることができます。感情的な面だけでなく、どういう知識を持っているかという知性でも、また意志によっても変わってきます。普段はゆっくり運転する人が、急ぎの用であせってスピードを上げて運転するということもあります。内にあるものに影響される私たち…気分の良し悪しでその1日も変わってきますね。外からも内からも影響されるということですね。ですから、内も外も神様の愛で満たされていたら、もっとも安全ということではないでしょうか。神様は御霊を与えてくださり、神も私たちの内におられることがわかるというのは大事なことです。神様がおられるなら、その本質である神の愛もおられます。神の愛があることに気づいていないために、感情に振り回されることが多いのです。思い出しましょう、神様の愛が私たちの内にあふれていることを…。イエス様は「平安あれ!」と私たちの心の中に平安があることを願っておられるお方です。神に愛されている人よ。あなたのうちにある愛があなたに平安をもたらしていますよ、気づきましょう、と。
●心にあるものの影響を受ける私たちに愛があれば、すばらしく変えられる
愛の畑にいるにも関わらず、不信仰な心をもって愛の環境を受け入れない状況を受け入れないと、水も栄養分も受け入れないので当然、枯れてしまいます。神の愛に包まれていることを信じて、ゆだねましょう。失敗もいずれ益と変えてくださる環境にいると。そうすれば安心して、なんとすばらしいところに植えられ、育てられているのだろうか、と本当の自分らしさに気づいていくクリスチャン生活になると言えます。愛を感じるかどうかを言う前に、愛されていることを見つけ出していきましょう。神はこんなに心配りをしてくださっていると…。そして、内にも外にも私たちの人生が神様の愛で満ち足りて包まれていることを確認するデボーションをもっていただきたいと思います。
2.『一宿一飯』のありがたさ(第2コリント7:1)
“愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。”
★『一宿一飯』(いっしゅくいっぱん)の意味
ちょっとした世話になること。ちょっとした恩義でも忘れてはなら ないという戒めの語。
社会生活で恩を大事にすることは道徳的にも徳の高い行為として、みなが認めています。しかし、欲望と言う動機のもとでは恩義は価値のないものに引き下げられ、利益にならない恩義は必要はない、損してまでも恩義に報いる必要はないという世の中の価値観にクリスチャンでも影響されていないか、考えてみなければなりません。
「聖きを全うする」とは、一般的に商売している人の中には金儲けできないと考える人もいるかもしれません。しかし、私(辻師)は聖さを全うできない商売をすることはない、自分を汚してまで成功しようとは思いません。なぜなら、成功することが第一ではなく、神の愛の恩義を第一にしているからです。どちらを神は喜んでくださるでしょうか。言わなくてもおわかりだと思います。
殉教していった聖徒たちはどんな心構えで殉教していったのでしょうか。この世で神様のみこころからそれた人生を長生きするよりは、今死んだ方が神の愛に報いることができると考えたからではないでしょうか。踏み絵についても踏まなかった人々は、踏み絵をすることが神の愛を、恩義を踏みにじることにつながると感じていたからです。神様からいただいた広島エルサレムプランが成就するために、聖さを全うしなくてもよいとは、神様は一言もおっしゃっていません。聖さを全うできないまま、ビジョンを達成しても神はお喜びにならないと思います。聖さを全うするためにビジョンが達成できなかったとしても神は喜んでくださいます。どちらが大事なのか忘れてはいけません。神様の愛、ちょっとした恩義にでも感じ入って、それに報いる心を失わないようにしましょう。
【敬聴と適用】
★今までに「与えられてわかった」という経験があるでしょうか。では、愛の御霊が与えられたことによって、どのようなことがわかりましたか。
与えられて気づくものがいろいろあります。
【内容観察】に書かれていることを忘れているかもしれません。
愛する者たち。私たちは、愛の神から、息子娘として愛されているという一宿一飯の恩義どころではない約束が与えられているのですから、この世から受けた霊肉の汚れを切り離し、神を尊ぶ聖き愛の心を失わないようにしようではありませんか。
「聖きを全うする」とは「神を尊ぶ聖い愛の心を守り続ける」こと。
行いが聖いという結果を出すためには、ごまかしをしたのでは、何の意味もありません。大事な恩義を忘れない聖い愛の心を何よりも価値ある大事なものとして歩むことです。愛は神の本質であり、神は愛だからこそ、恩義という愛を大事にしたいのです。あなたは神の恩義を感じていますか。ひとり子という犠牲をあなたの罪のために支払われて、神の息子娘として受け入れてくださる神様の恩義に対して、あなたは肉のいのちを捨ててでも守り通すという決意がもてるほどに神の愛に対して目が開かれているでしょうか。このような大きな約束を神が十字架で果たしてくださったならば、永遠のいのちが得られているのですから肉体の心配をする必要はありません。神の愛が与えられたことによってわかることは、永遠のものを失わないために一時的なものを捨てるのは当然ということに目が開かれるということです。
●一宿一飯のありがたさが、神の愛の仁義に目覚める
仁⇒慈しみ深い、愛、あわれみ
義⇒道理にかなった方法、道徳的、法に逆らわない正しいことをする
神様の私たちへの愛の仁義は十字架に表されています。どれだけ深く私たちを慈しみ、もっとも正しい方法で私たちの罪をあがなってくださったことか。何の不正もありません。神が罪のない肉体をもって、罪の苦しみを身代わりに受けられるという慈しみ深さと道理にかなった罪の赦しの方法をもって、私たちのうちに神がおられるという環境を作ってくださったのです。この一週間、与えられてわかるものについて、ご自分の経験から考えながら、神様の愛が与えられていることに深く心を向けていただきたいと思います。
与えられてわかったこと〜
人生最大の発見は、愛である創造主から愛されていること
■2012年7月22日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
愛を見る up 2012.7.22
いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。
(第1ヨハネ4:12)
私たちの動機はすべて、「神がこれほどまでに私たちを愛してくださっているのだから」ということにかかっています。このことを踏まえた上で、今日取り上げた12節につなげていきます。
1.主題聖句について(第1ヨハネ4:12)
“みことばは前述”
【内容観察】
人が誰も見ることができないほどの聖なる方が、罪人である私たちの相互愛の中におられることによって神の愛を見ることができ、神から出ている愛が私たちが互いのうちに実現しているのです。
上記のみことばから、今は見ることができない神様を、愛の交流の中で見ることができ、将来的にはキリストの姿に至ることができるという希望が語られています。今、目に見える現実がいかにかけ離れたものであったとしても、私たちのうちに神の存在があるならば、必ず愛は私たちの内に全うされるという希望もうかがい知ることができるみことばです。
【敬聴と適用】
(1)見ることのできない神
・空間を共有できないほどきよいお方である。
逆に言えば、罪人である私たちは、神様を決して目にすることができないほど汚れており、罪深いのです。私たちがもし近寄るなら、神様はその場所からたちまち消えてしまわれるほど、私たちは相容れない存在です。このことをきちんと理解できれば、自分が神様に願い事を許されていることの幸いを、もっと感謝することができます。
(2)相互愛の中に住まわれる神
・この、存在する空間が異なる神様が、私たちの心の中に住んでくださる奇跡。
私たちは義とされていますが、実際のところ、罪人には変わりありません。「それでも義と認めていただいている」ことにもっと目を留めるべきです。現実には罪を犯し続けていてもなお、赦されていることへの感謝が非常に大事になります。そんな罪人たちが愛し合う関係の中に、神様がおられるというのです。本来、神様と私たちは空間を共有できないほどのきよさの違いがあります。それなのに、罪人同士の愛の交わりに、赦し合う中に神様が住んでくださるとは、なんという奇跡でしょうか。先日、宇宙ステーションに日本人宇宙飛行士が到着しましたが、4ヶ月もの長期滞在を可能にしたのは、何とかして人の住める環境を作り出そうとした人々の努力の賜物です。神様も同じように、住めるはずのない罪人のところに住まうために、赦し合う愛の間という居住空間を造られました。条件が揃うと、不可能なことでも可能になることを私たちは知ることができます。ですから、あきらめずに可能となる条件を神に求めていくことが大事です。
(3)愛が私たちのうちに実現される
・見ることのできない愛の神様を、愛を通して見ることができる。
神様の本質は愛ですから、私たちが愛を感じることができれば、それは神様を見ていることになります。「人はうわべ(外側)を見るが、神は心を見る」とみことばにあるように、その人の本質は内側にあります。神は霊であられ、神のご本質である愛も霊であられます。ですから、私たちは赦し合うという愛の中に神様を見、また感じることができます。赦し合うのは非常に難しいことですが、人が宇宙ステーションを作ったように、いろんな犠牲を払っても「何とか赦せないだろうか」と取り組むことが、愛の犠牲として神様が喜んでくださる態度だと思います。私たちはいかに赦せるかを、いつも神様の前にお互いに考えながら、赦し合うということに気を配ったおつきあいをクリスチャン同士として持っていけば、安心できる人間関係になれるのではないでしょうか。人は失敗をするものですが、この関係なら必要以上に失敗を恐れずにすみます。私たちが完全に達するまでの不完全な時期を認めてくれるような、赦し合う関係を持つ人々の集まりは、進歩せずに終わることはありませんし、今の状態を赦してもらえるがゆえに、安心感を持って次の目的にチャレンジしていけます。神様が「これほどの愛」をもって私たちを受け入れ続けてくださるのですから、私たちも互いに赦し合ってチャンスを与え合いましょう。
2.『唯一無二』の神とその愛(第1テモテ2:5)
“神は唯一です。また、神と人との仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。”
★『唯一無二』(ゆいいつむに)の意味
この世でただ一つしかないこと。他に同類のものがなく、その一つ以外に並ぶものがないこと。
神はただお一人であり、神の愛も唯一です。その唯一の神を、唯一の愛を、私たちは知ることができ、またこの神様との関係を持つことができています。今回は特に、仲介者も一人であることに注目してみましょう。
【内容観察】
神はただお一人であってほかに神はいません。また、その神であられる創造主と私たち人間との間に立って便宜をはかってくださる方もただお一人です。それは、神の愛を表すために人となられたキリスト・イエスです。
【敬聴と適用】
(1)この聖句から『愛を見る』ことについて、どのようなことに気づきますか?
便宜をはかってくださるとは、仲介者のことです。この方は、私たちがお目にかかることのできない神様にお会いできるように、便宜をはかってくださいました。私たちは罪人なので、どうしても神様に直接お会いすることはできません。必ず仲介者に便宜をはかってもらう必要があります。イエス・キリストは愛なる神様の現れ、見えるかたちであられます。愛を証しし、見えない神を見せてくださった方です。この愛が私たちと神様との間をとりもって、神を見ることができるように便宜をはかってくださる、という意味です。不可能な出会いを可能にするための偉大な力を、愛は持っています。(第1テモテ2:5)は仲介者が愛であると語っています。「唯一の仲介者イエス」というメガネをつけましょう。太陽を観察するのに専用グラスが必要なのと同じです。イエス様という愛を通してしか、私たちは太陽である神様を見ることができません。イエス様をよく見ていけば、神様を見ることができる、という意味でもあります。
(2)また、『愛を見る』ために、どのように適用すればよいでしょう。
神がこれほどまでに愛してくださっているということ。これが、私たちのメガネのために忘れてはならないことです。私たちはまずこのことを心に準備して、神様を見ていきましょう。それから、赦し合うという視点で兄弟姉妹を見ていくと、神様が見えてきます。なぜなら、イエス様を通して現された神の愛は赦しの愛だからです。そして与えられた恵みは、罪人のうちに罪を認めないという恵みです。これほどまでに愛され、赦されているという神様の恵みに感じ入って、自分でも赦そう、愛そう、とチャレンジしてみると、以前より赦せる気持ちが生まれてきます。神はあなたをどれほど愛してくださっているかを考え、自分が赦せないでいる人をも、神がどれほど愛しておられるかを考えれば、イエス・キリストの赦し合いのメガネをかけることになります。赦しは神様ご自身の心です。そして私たちが互いに愛し合う時に、神様のご臨在が現れます。自分と誰かの間に共有する赦しの心が、神様の存在、すなわち幸せ・喜び・満足をもたらします。私たちは自分と相手を比べて、どちらが正しいかとか優れているかなどと競い合うのはやめて、勝ち負けで悲しみを作らないようにしましょう。問題があったとしたら、それを突き詰めるよりも、和解をする方が大事です。相手の言葉を聞き、受け止めてあげること、認めてあげることのほうが、よほど幸せになれます。和解の心地よさ、幸せをぜひ皆さんも味わってください。そして、自分が神様の心に触れているのだということを知ってください。そのことによって、神様がこういう方だと知ることができ、赦すということにもっと期待と希望を抱いてチャレンジできます。人は願いを叶えるために努力して、いろんなことを成し遂げてきました。神様もあきらめることをされなかったからこそ、罪人と和解するという奇跡を成し遂げられました。それほどまでに私たちを愛してくださる方がおられるのですから、私たちも互いに赦し合うことにチャレンジしていきましょう。
「赦し合う 心に十字の 色メガネ」
この色メガネは真実を見ることができるメガネです。神様の愛というレンズを通すと、全部神様の愛であることがわかります。それはとても幸せなことです。神様はあなたの心に合った、真実を見ることのできるメガネをくださっています。
■2012年7月15日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
一つの流れとなる up 2012.7.15
川がある。その流れは、いと高き方の聖なる住まい、神の都を喜ばせる。
(詩篇46:4)
この世界で言われる弱肉強食は、本来神のみこころのルールではありません。神の願いは互いに共存する世界です。「主を知ること」、すなわち創造主なる神が愛なる方であることを知ることによって、弱肉強食のルールが砕かれてしまうのです。強いものが弱いものを助け、補い、交わる社会を願っておられることを動物を通して語っておられるのです。神の平和が行き渡って真の平和がやってくる時がきます。なぜなら、神がご計画されたことだからです。ですから、「愛の大河」は主を知る流れを通して、愛が大河のように全世界に流れていき、全世界の人が神の愛を知り、神を中心に交わりの社会が築き上げられる神の国をイザヤ書11:6から表現しています。イエス・キリストを信じているならば、このような世界が来ることを信じることが必要です。神様がこんなすばらしい世界をつくろうとしておられるならば、私たちもこれに協力していく使命が与えられているのです。金儲けや自己達成ではなく、願望を満たして幸福感を得るといった自分中心でもなく、「すべての人類が」という考え方のもとに「愛がすべての人を結びつけていく」ということに、もっと目を向けて人々に伝えていくことが必要ではないでしょうか。
第4聖会『一つの流れとなる』(詩篇46:4)
“川がある。その流れは、いと高き方の聖なる住まい、神の都を喜ばせる。”
1.Observation【観察】
川がある?水路、大きな流れ。川の存在を強調している。大河(共同訳)。
その流れ?生きていること。力のある流れ。
聖なる住まい?教会、キリストのからだ。
神の都?大きな町または苦しいほどの興奮状態を表す語。
別訳)苦しいほどの興奮状態をともなう喜び。
『大きな流れ、大河の流れがある。いのちに満ちている愛の流れは、創造主である愛の神が住まわれる聖なるキリストのからだを苦しいほどの興奮状態がともなうほどの喜びをもたらす。』
まず「川がある」ということばには、神殿から流れてくる愛の川は一つだけということが、強調されているようです。しかもその流れがある教会は喜びが、笑いが、楽しみがあるというのです。
『いのちの流れ、喜び満ちる』
クリスチャンに限らず「人生、生きている」というときには、喜びを伴っています。ですから喜びを伴っていないのは不健全な状態があるということです。私たちが教会に行って、愛の川に触れ、健康を取り戻し、また愛のないこの世に出て行き、愛を流し出す者として歩んでいくことができる…という内容が、この詩篇46:4からうかがえます。
2.Target【目標】
『交わりが流れをひとつにする』
交わりを流れにたとえて表現されています。
(1)あなたがその川の中にいる(第1コリント1:9)
“神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。”
真実な神が私たちを召してくださって、イエス・キリストの十字架の罪の赦しのみわざによって、私たちが愛の川の中に入れるようにしてくださいました。自分自身から愛の交わりの中に入っていくことを意識することが必要です。交わりを断とうとする人は、愛を感じることができなくなります。交わりを好まない人は、交わりによって傷ついてきた人です。私(辻師)は本心が出せない建て前のむら社会にいて、交わりを好む方ではなかったのですが、イエス様を信じて初めて、クリスチャンはありのままの自分で安心して交わりを持てるということを教会で体験しました。そんな愛の交わりの中に招き入れられているのです。もし入っていない人がいたら、神は招いてくださっているので、ぜひ安心して入ってきていただきたいと思います。
(2)私たちがその川の流れの中にいる(第1コリント12:13)
“なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。”
神様とだけでなく、横の交わりもあります。「一つの御霊を飲む者とされた。」とは、友と同じものを食するという、一緒に営みをするという意味です。共同体の意識であり、人種や能力による差別は一切なく、神様の愛によって共同体という交わりに入っているということです。
(3)教会がその川の本流である(第1ヨハネ1:3)
“私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。”
私たちは単なる人間同士の交わりを持っているのではありません。クリスチャンの集まるところには必ず御父と救い主イエス様が同時に存在されます。それは神秘的な存在ではなく、私たちが互いに愛し合う神様の愛から出た愛の心で集うところには、神様もそこにおられると受け止められます。聖書は「愛は神である」と書いてあります。この愛は神からしか出てこないと言っています。私たちが神のかたちに創られているので、愛らしきものを感じるようにはできています。しかし、感情だけで愛の本体がないことが多いのです。愛の本体とは「神の存在」です。あなたが愛を感じるときに、父なる神、イエス・キリストを思い浮かべることができたなら、本物の愛と言っていいでしょう。しかし、神様を感じず、むしろ神様のことを考えたなら冷えてしまう愛は、あなたの心から出た感情的愛です。
3.Solution【解決】
『相互愛が流れをひとつにする』
(1)これほどまでに愛されていることを知る(第1ヨハネ4:11)
“愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。”
「べき」と言ってしまうと強制的に聞こえますが、愛は強要されたり請求されたりするものではありません。愛は自発性を生みます。あやつられて動く愛は愛ではありません。愛は「これほど」といわれるものを感じ取る人から、愛する力を引き出す自発性を生み出します。ですから「これほど」というものが伝わらなければ、その相手には愛は湧いてきません。心に染み渡る親切に対して、何か返したいと思うように、感じ取れば愛の行動は私たちの内側から自然に湧いてくるものです。神がこれほどまでに愛してくださったことを私たちが感じたならば、応答したくなって当たり前ですというのが、「愛すべきです。」という表現に表されています。ですから、神様の愛を感じないまま、神様と個人的な交わりは持てないでしょう。神様はすべての時代の人々にイエス・キリストの生涯を通して、はっきりと見えるかたちで愛を示されました。十字架にこれほど愛しているという意味を凝縮して表しておられます。神様が私たちに、どれほど思いを向けて、心配し、配慮してくださっていることか…。それを見いだし、感じることによって神様への感謝が生まれてきます。先祖へのありがたみは、恩恵を感じているから出てくるものです。恩恵を受けたという愛を感じなければ、先祖を大切にする気持ちは湧き上がってはこないでしょう。
今回60周年を祝えるのは、この教会において、すでに召された諸方々が、イエス様を通して神様の愛を信じて留まり続けてくださった(神の愛を知ったがゆえに、祈り感謝をささげることを生涯続けてくださった)からです。このように先祖への思いを持つことが先祖を大切にするしかたです。お金や形ではなく、人生そのもので先祖を敬うことが大事なことです。親御さんが神を敬う敬虔な生き方をされていたのなら、その心を引き継いでいくことは先祖を敬うことにつながるのです。召された方々も、業績の立派さよりも品性がすばらしかったと言われた方がうれしいのではないでしょうか。
『愛をしたくなる流れ』
〜神様からの働きかけで「愛がしたくなる」流れが私たちの内側に起こってくることが大事な解決方法です。
(2)御霊を飲んでいる(第1コリント10:3〜4)
“みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。”
イスラエルの人々は、神がお立てになったモーセというすばらしい指導者を通して、エジプトから神がアブラハムに約束してくださった今のパレスチナの地域に導き出される途上で、荒野で生活をしました。そこで神様は彼らに食べ物と飲み物を与えられました。みなキリストを象徴した岩から水をいただきました。同じ釜の飯を食べた家族という意味です。そのように私たちは家族のように近い親しい交わりの関係にあることを互いに意識する時に、私たちは交わりを保つことができます。同じ神様の愛を飲んでいる者、同じ神様のみことばの釜の飯を食べた者ではないかと。少なくともこのジーザスフェローシップ広島の霊的食べ物は、私(辻師)がみことばを洗って出しているようなものです。このように、家族のようにざっくばらんに素直な気持ちを出し合える関係の集まりであり、私たちの教会における社会です。こういうことを意識していくことが、一つの交わりの流れを保っていく大切な要素だと思います。
(3)互いを結び合わせる帯(コロサイ3:14)
“そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。”
私たちの心をつなぐものとして、神の存在は完全なものです。もし利得で私たちの心が結び合わされていたなら、損得で関係のつながりを考えますので、完全ではありません。神だけがあらゆる格差を超えて特別な状況の人を一つにまとめることができます。なぜなら神は愛だからです。私たちの間にすばらしい健全な人間関係を築くためには「敬虔な心」がとても大切です。戦前の価値観が残っている時代に生まれた私は、古い考え方かもしれませんが、「敬虔な交わり」は「ラフな交わり」よりすばらしいと思います。礼儀・儀式は、最大限無駄なものを取り除いて、敬虔という気持ちを集中してかたちに表したものです。上司に対して軽くあいさつする人は、大事にし合う心が薄れているのではないでしょうか。相手の存在を尊ぶあいさつがないところには、へだたりがない形に見えても、心は離れてしまっているのではないでしょうか。人のいのちを大事にするというならば、大事にする表現をしましょう。自分が大切にされていると感じた人は態度が変わってきます。愛なる神様を敬う者同士として私たちは、自分なりに互いのいのちを大切にしているあいさつや声のかけ方をする交わりをしていきたいと思いませんか。
自分よりすぐれた者として人を見るとは、私のいのちよりあなたのいのちの方がもっと価値があると思うことであり、そこには健全な相互愛が成立してきます。そこに「愛され、愛する」という愛のキャッチボールがなされてきます。相手が変わらないと自分を直さないと言い張るなら、それはできません。プライドによって相手の存在を見下げる横柄さが、相手に気持ちをうまく伝えられなくしてしまっているかもしれません。
相互愛の持ち方で、社会生活のたくさんのものが解決していきます。なぜなら愛は結びの帯で完全なものだからです。これを目指していきたいと思います。
『相互愛の成立』
■2012年7月8日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
これが愛です up 2012.7.8
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
(第1ヨハネ4:10)
1.人知をはるかに越えたキリストの愛
(エペソ3:18〜19a)横路伝道師より
“すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。”
神様の愛を表現するために使われた、この4つのことばに着目してみました。
【内容観察】
「広さ」⇒全世界すべての民族に及ぶ、無差別・無制限の愛
今、福音は世界の果てにまで宣べ伝えられています。
「長さ」⇒天地創造から永遠の御国に至るまで変わらない愛
私たちの感覚で「長く愛する」と言っても、その一生くらいの長さであり、どうしても限りがあります。しかし神様の愛は、永遠の昔に私たちの誕生を、あらゆる状況を含めて計画されたところから始まり、ずっと愛の目は注がれ続け、恵みによる救いに導かれて後も変わらず注がれています。
「高さ」⇒天の栄光にまで至らせるきよめの愛
神様の高さとは「気高さ」であり、また「きよさ」です。私たちはアダムとエバの罪以来、罪に汚れて地をはうような人生を送る、みじめで無価値な存在に落ちてしまいました。しかし神様は最初のご計画において、子にしようと決めておられた私たちを回復するため、わざわざ天から下りて私たちを引き上げてくださいました。そして救ってくださり、天にまで導こうとされています。これはきよさにあずかることであり、私たちはきよいものに変えられ、栄光の天にまで、御国に属する者、神の家族、天の国民として引き上げられていきます。これは人の考えでは思いもつかないことです。人知を越えた神様の気高さにあずからせていただくことになったのです。
「深さ」⇒十字架から黄泉にまで下られた深い愛。御霊を遣わされ、助け導かれる深い愛。
イエス様は至高なる天より下り、私たちのところまで来てくださいました。しかも最後は、人として最低の罪人として十字架にかかられました。さらに、よみがえられるまでの二日間は霊としてもっとも深い苦しみの場所であるハデスにまで下られ、イエス様の福音を聞くことができなかった魂にも福音を宣べ伝えられました。これは私たちでは考えられない、人知を超えた神の愛の為せる業です。私たちがその深さから引き上げられるまで聖霊様を遣わしてくださり、教えられ導かれ、力を受けて成長するようにしてくださったことも、深い愛のご配慮です。この深さに私たちは感動をおさえることができません。
これらの「広さ」「長さ」「高さ」「深さ」は、歴史を通して永遠まで、また地の底のハデスや全宇宙にまでキリストの愛が満ち満ちていることを表しています。ある人は言いました。「十字架の縦木の上は天の高みを指し、地に据えられた下部は地の底への深さを指し、いっぱいに広げられた横木は世界中に差し伸べられた広さと長さを指している。」と。私たちのイエス様の十字架は、象徴として、その愛のゆえにすばらしく広く長く高く深いものであるということが言えると思います。
<参照>
★恵みによる救い(エペソ2:8〜9)
“あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。”
「私たちが神を愛したのではなく」⇒「自分自身から出たものではなく」
「神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わしました」⇒「神からの賜物です」
「ここに愛があるのです」⇒「誇ることのないためです」
たとえるなら、生まれてきた赤ちゃんが親に愛されるということです。まず親が、何もわからないわが子を世話し、愛します。神様も同じように私たちを世話し、愛し通してくださいます。子どもがある程度大きくなると、自分一人で大きくなったかのように思い違いをして、親を軽んじたりすることがありますが、そんなことをする私たちに対しても、神様は変わらぬ愛を注いでくださるばかりか、イエス様の十字架というこの上ない犠牲を払ってくださいました。この方の愛を見て、「ここに愛がある」と私たちは言うのです。
神様の愛には特徴が2つあると思います。1つ目は、神様が能動的に積極的に私たちを愛しておられ、私たちを何とかしたいという気持ちで、最初から最後まで導かれる方だということです。私たちも相手の反応いかんに関わらず、こちらから進んで愛を示していく必要があるのではないでしょうか。
2つ目は、神様が大切なひとり子を私たちに渡してくださったということです。これにならうならば、私たちも自分にとって大切なものを誰かのために用いることがふさわしいのではないでしょうか。それはかっとうと大きな犠牲を伴います。勇気と決断が必要になります。しかしチャレンジしましょう。自分の方から謝り、手を差し出し、和解をするのは自分のプライドをささげることです。自分の立場や時間、好きなことを捨てて誰かを愛するのが、神様にならうことなのです。人知をはるかに越えたキリストの愛にならう者になりたいですね。
2.愛は神から出ている(ローマ8:32)小栗伝道師より
“私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。”
今日の主題聖句をリビングバイブルから参照してみます。
“この神様の行為によって、私たちは何が本当の愛か知ることができました。真の愛とは、神様に対する私たちの愛ではなく、私たちに対する神様の愛なのです。それは私たちの罪を責める自らの怒りをなだめるために、神様がひとり息子を差し出された愛に尽きるのです。”
人はその愛する者についての様々な価値判断基準を自分の中に持っています。神様は人に自由意志を与えてくださいましたが、自分本位の基準で相手を取捨選択してしまっています。しかし神様は、そんな身勝手な私たちのために御子をおささげになるという、とてもまねのできない偉大な愛を示してくださいました。私たちにすべてのものを与えるために、御子を犠牲にされた神様のお気持ちを思い返してみましょう。
「神は、他の人を生かすために、自ら(あるいは御自分に等しい最も大切なもの)を差し出す(与える)ことをいとわない愛を現してくださったのです。」
神様の信頼を裏切り、自由意志を自分のために使う罪人を、神から遠く心が離れてしまっても、神はなお愛しておられます。
<参照>(第2コリント5:21)
“神は、罪を知らない方を、私たちのために罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。”
罪は裁かれなければなりませんが、人には罪を償う力がありません。そこで神様は、ご自分の身を切ることを選択されました。相手は罪を犯し続け、自分の方には向きもしないで、せっかくの自由意志を悪のために用い続けているのに、です。私たちだったら、そんな相手のために自分のいのちを渡せるでしょうか?御子を苦しみの十字架で死なせることを選ばれた神様は決して私たちを忘れませんし、見捨てません。私たちがどんな苦しみの中にあっても、大きな傷を受けても、神様は御子を犠牲にされたほどの愛で私たちを心配しておられます。私たちの罪の性質ももちろんご存じで、イエス様の代価によって既に償いをしてくださり、「あなたはもうわたしのものだから、早く帰って来なさい。」と待っておられるのです。
イエス様は何一つとがめられるところのない潔癖な方であられたのに、私たちの罪を着せられ、「罪がある」と決めつけられました。私たちなら、そんなことをされたら、たとえ本当に罪を犯していても、罪などないと反発するでしょう。しかしイエス様は主なる神様の御思いを受け入れ、罪を受けてくださいました。この方のゆえに私たちは赦されています。私たちが神の御前に出る時、神様の目に映るのは私たちの素の姿ではなく、イエス様が流された血によっておおわれている状態、言い換えればイエス様の御姿です。私たちはイエス様に、神様に感謝して信仰生活を送ってまいりましょう。
【敬聴】
これまでどんな愛を現して来たか、また、どんな愛を受けて来たかを思い返しながら、罪人の私たちが「互いに愛し合う」ことを願っておられる神様のお気持ちを考えてみましょう。
自分が人からしていただいたこと、また自分なりにがんばって人にしてきたことを思い出してみましょう。神様は私たちにひとり子を与え、罪をお赦しになりました。そして愛し合うことを私たちに望んでおられます。神様のお心を考えながら、自分がするべきことを思い巡らしてみましょう。
3.『恩沢洪大』な愛は唯一(第1テモテ2:5)辻秀彦牧師先生より
“神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。”
★『恩沢洪大』(おんたくこうだい)の意味
注がれるいつくしみや恵みがきわめて大きいこと。特に、王や皇帝などの寵愛によるものをいう。
神様の愛は最高であり、また唯一です。
【内容観察】
本物の愛(神)は唯一です。他には存在しないのです。同じように、愛(神)と人とを結び合わせる者も唯一であって、本物の愛、唯一の愛を現すために見える愛となられたキリスト・イエスです。
『愛は神だけにある。神から出た愛だけが愛である。』
人の愛も、姿が似ていても実のところまがいものに過ぎません。ゆえに人の歴史の中で多くの願いと失望とが繰り返されました。実在する確かな愛は神様のもとにしかあり得ないのです。
【敬聴と適用】
第1ヨハネ4章9節「ここに神の愛が示されたのです」という表現から10節の「ここに愛があるのです」という表現に進展していることから何を学ぶことができますか?
「ここに」とは十字架の贖いのみわざのことであり、それは見えるかたち、実際に感じることができるものとしての愛の表現です。そして2度も繰り返しているのは、強調する意図があるからです。「これは」唯一のものだからです。そしてこの本物の愛は、キリストの生涯の中にありのまま現されています。
○イエス様を通してだけ現された神の愛
神様は誰であれ御自身を求める者には真実をもって応えてくださる方ですが、「神は愛である」ことを証明されたのは、イエス様ただお一人です。
○イエス様を通してだけ存在する神の愛
神様の本質である愛を私たちに伝えてくださるのも、イエス様だけです。
「人が織りなす愛は作られるものであり、不安定なものだが、神の愛は存在し続ける不変のものである」
「織りなす」ものは人がその感情や考えのままに作り出すもので、神の愛のかたちに似せて作られた、まがいものです。それゆえ不安定で壊れやすく、次の新しいものを求め続けて、際限のないさまよいが続きます。しかし神は初めからおられた方であり、この方の愛は作られたものではありません。神が永遠に存在されるように、神の愛も永遠に存在します。この不変かつ不動の愛は、これを土台として生きる人々にとって絶対的な支えとなります。この「実在する愛」を受け止め、感じ入り、深く味わい、心動かされて進んでいきましょう。実際の生活に当てはめていくと、具体的にはどういうことになるのでしょうか。何を考え、どう判断するにしても、神が私たちに示してくださった愛と、そこに愛があるという事実から、常に十字架を通して物事を見ることになります。十字架には輝く真実の愛があることを信じ、受け止め、それを基にして、今日自分が何をすべきか判断し、日々を建て上げていくことができます。十字架を見上げると、私たちの正しい良心が目覚め、動き出す。そんな見上げ方になるように訓練し、欲望に振り回されることのない毎日を送るよう、心がけていただきたいと思います。
「雷鳴が 思い出させる 十字架の
最期のことば 鳴り響きけり」
■2012年7月1日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
いのちを得させる愛 up 2012.7.1
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
(第1ヨハネ4:9)
この愛が示されたことによって、私達の心は動かされていきます。
1.主題聖句を考える(第1ヨハネ4:9)
★『ひとり子』とは、かけがえのない大切な存在です。
★『世に遣わし』とは、私たちの時代だけでなく、アダムが造られてから今日に至るまでのすべての時代の人々のために遣わされた ということです。
★『いのち』とは生かされた状態のことで、単に生かされているというのではなく、存在の目的にそった状態にあることです。
★『得させて』は、受ける資格がないにも関わらず与えられたということですが、このことばは今日の重要な課題になりますので、 後で詳しく学びたいと思います。
★『ここに』とは、御子を遣わしてくださったというところですから、大きな愛の犠牲を表しています。
★『示された』とは、はっきりと明確に、誰でもわかるように表され、否定できないということです。
これらのことばを組み合わせて、みなさんが自分なりに、このみ言葉を表現してみてください。例えば、「神は最も大切なひとり子を、すべての時代の人々のために遣わし、その方によって、私達が存在の目的にそった状態へ立ち返るようにしてくださいました。このような大きな愛を見せられることによって、神の愛が私たちにはっきりとわかるようにされました。」とも言えます。ヨハネは御霊に示されて、このように書きましたが、神の愛によって、私たちの心がどのように動くかがとても大切なことです。偽りでも、一時的なものでもなく、すべての人に変わることなく表されている確実な愛、真実な愛を、見て、触れることによって、私たちの心、考え方は影響されていくものです。
【敬聴】
主題聖句からどのような神のメッセージを感じ、それに対してどのように応答したいと思われるでしょうか。
私(辻師)は、「神の手助けがあるので、恐れず神のみことばを実行するように励ましておられる。」と感じます。「得させる」ということばには、特に大きな意味を感じます。私が孫とボール投げをする時、小さな孫が受けとめ易いように、配慮しながら投げます。そのように相手が受け入れやすいように相手のことを配慮することが、「得させる」という言葉に表れています。それは、神が私たちが受けとめやすいように、配慮し、助けを与えてくださっているということです。また、子供と遊ぶ時は、その子が楽しめるように、親は工夫して一緒に遊びます。相手のレベルに合わせて遊具も用意し、できるように、楽しめるようにすべてを配慮します。そのように、神は私たちができるように、配慮して与えてくださるのです。つまり、いくら不可能と思えるみことばの約束も、神は私たちが手にすることができるように助けてくださいますから、みことばを行うようチャレンジしていくことができます。ゆえに、「出来ない」と思わずに、「やってみよう」と、心を切り換えていきましょう。神は得させようと願っておられるのですから、必ず助けてくださいます。自分ができることをするだけというのではなく、出来ないことにチャレンジして、神の助けによって出来るようになることが、成長であり、成熟です。これこそが、神が私たちに与えたいと願っておられることなのです。
2.愛が示されている(ローマ5:8)
“しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。”
この明らかにしておられるということを、もっとわかりやすくするために、【内容観察】を参考にして、皆さんも考えてみてください。
【内容観察】
しかし私たちがまだ福音を聞かず自分勝手に生きていた時に、キリストが私たちを罪の奴隷の状態から救い出し、神の家族として立ち直ることが出来るように罪の贖いをしてくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を疑うことの出来ないまでにはっきりと表されています。
多くの信じない人々がいます。しかし、キリストの存在は誰も否定できません。キリストのたくさんのみわざを、神からのものでない、復活もなかったと多くの人々が否定しようとしてきました。しかし、今もなお、キリストの御名によるたくさんのしるしと奇跡が行われています。人には不可能な癒しも、神はしてくださいます。私達が不可能と思っていても、神は可能にしてくださるのです。私達の信仰が不可能にチャレンジできるよう、神は助けてくださいます。神は癒しを得させたいと願っておられるのですから、私達はチャレンジしていけばいいのです。この力強い神の証しが福音です。この福音の根本は「神は私たちを愛してくださっている」ということです。大事な存在、失いたくないものとして、見てくださっているのです。
【敬聴】
神からの愛が示されている今、私たちが気づかなければならないことは何でしょう。
もし、ある人からお茶をすすめられたらどのように受けとめるでしょう。よく知らない人であったとしても、その人の親切な心に気付いたら、むやみに断らず、素直にその親切を受け入れるでしょう。愛というのは、示されたら断れないものです。
★愛は無視できません。
もし、無視したとしたら、それは礼儀に反することであり、大変失礼なことで、相手の心を傷つけることです。
★愛を示されたら、愛をもって応えることが自然です。
人の小さな親切に対してもそうであるなら、まして、神の大きな犠牲の愛に対して、どうして応答しないでおれるでしょうか。
★愛を受けると、自己中心を手離すことができるようになります。
神の愛を受け入れるなら、正しい良心が呼び覚まされて、心が癒されます。
★愛するとは、理解してくださっているということです。
愛するとは相手の心、思いを理解することです。理解して、愛を注がれるのです。相手の必要を感じて手助けするようなものです。神はあなたの心を理解してくださっています。神は私たちが罪人であり、自分からは何もできない存在であることを理解しておられたからこそ、ひとり子を十字架で身代わりとし、罪の赦しをご自身でしてくださったのです。
3.『失道寡助』(しつどうかじょ)を悟る(ローマ1:16)
“私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。”
★『失道寡助』の意味
道理にかなった行動をとっていなければ、人から(神から)の助けを得ることが出来ず、孤独とならざるを得なくなるということ。
人として、道理にかなった生活をしている人は、周りからも援助を受けやすいものです。あまりに自己中心の生活をしていると、周りから孤立していきます。「最も幸せな状態へと導く」のが、福音であり、神の愛の助けです。福音を信じ、恥じない人(周りから反対され、少数派であっても、神の愛に応える正しい道と信じる人)には、神は愛の助けを与えてくださいます。愛がすべての根本であり、神ご自身です。神は愛によってすべてを造り、存在させてくださっています。もし、私たちが、孤独を感じ、周りから孤立していると思えるなら、愛を受けることに固執してしまって、愛を与えることがおろそかになっていないか考えてみましょう。私たちはすでに、神から愛されています。最高の愛で愛されているのですから、人からの愛を求めるよりも、与えていく、愛するという姿勢をもつようになりたいものです。
【敬聴と適用】
「得させる」には、どのような道理があるのでしょうか。
★愛の配慮
★愛には不可能がない
欲望ではなく、愛によって努力していくなら、すべては可能になります。
★「愛」を「する」こと
愛は神です。愛することは、あなたがイエス様ならどうされるだろうかと考えて行うことです。私たちは神の子であり、キリストの姿に変えられていきます。それが愛をすることです。
神の愛を信じて、あきらめないで、前向きに進んでいきましょう。神が助けてくださいます。 |