■2012年6月24日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 神就是愛  up 2012.6.24

中国語聖書より、「神は愛だからです」という意味。
「就是」⇒意志や判断の確定を表す言葉で、
「どうしても、断固として、どうであれ」と訳される。




愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。
(第1ヨハネ4:8

 

 

 

「神就是愛」
中国語聖書より、「神は愛だからです」という意味。
「就是」⇒意志や判断の確定を表す言葉で、
「どうしても、断固として、どうであれ」と訳される。
「是愛」とは、神が愛であることを強く断定しており、ヨハネは変えることのできない事実だと確信をもって告白しています。

1.主題聖句を考える(第1ヨハネ4:8)
“みことばは前述”
☆「愛のない者に」に焦点を置いて
【内容観察】
(7節を受けて)神を知っているということは、愛を知っているということです。なぜなら、神は愛だからです。つまり、愛のない者には、神はわからないということなのです。
【敬聴】
「愛のない者に神はわかりません」という否定的な表現と、「愛のある者に神はわかります」という肯定的な表現にはどんな印象の違いがあり、何を訴えようとしているかを自分なりに考えていただきたいと思います。
※参考〜4章1節から語られてきた「霊を見分ける」ことから考えてみましょう。
◎神は愛であることに根ざして、キリストを語り、聖書を語り、生活している人は神から出ています。(「神は愛である」という枠から出ない)

(1)知識を優先して「神は愛」を抜きにして神を語るのは、神から出ていないこともある
・聖書には愛の神がおられることが裏付けになって、「すべて前向き、
 肯定的に」とビジネスに役立つ法則があるが、自分の成功的人生の
 ためにみことばを聞くと、神の愛から外れてしまう。
(2)「神は愛」を否定する人は危険
・愛は感情の一つの動きとしか考えない人は「神は愛である」と受け
 止めようとしないので、いくら語ってもわからない。
(3)「神は愛」を否定する人はむなしい生き方をする
・「神は愛」だと意味付ける必要はないと考えている。
・目的なく「自分の考えた通りに生きよ」とするのは、無秩序で
 放縦の社会となる。
・善悪もなく、本能のまま自分の利益のために生きるので、多くの
 摩擦を生む。
◎神様の本性は愛であり、すべての動機が愛から出ています。神は愛する万物を目的をもってお造りになりました。ですから、存在が目的の通り使われれば活かされ、満たされています。それが人であるならば、生きがいを感じ、充実感を持ちます。しかし、神の愛を無視すると、存在そのものに価値がもたらされないことになり、むなしくなります。
『神について語ろうとするなら、愛について理解しなければならない』
 私たちは、聖書の唯一の神について語ります。聖書はいろいろな国の言葉に訳されていますが、「神は愛です」ということを考えずに訳すと、国語の文法に縛られた内容になります。また、愛について語ろうとするならば、様々な愛(中には欲求を満たしたいだけの自己中心の動機から出た不道徳な愛もある)のある現在、神を知っていなければ、正しい愛を語ることはできません。愛によって欲望がコントロールされなければなりません。

2.深いあわれみが「神は愛だからです」を表明している
★(マルコ6:34)
“イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた。”
 あわれみの気持ちが湧いてくるためには、愛の心が必要です。
【内容観察】
 疲れが取り除かれる間もなく、群衆がイエスのもとにやって来た。それでイエスは舟から上がられた。そして、群衆を見ると深いあわれみがわき起こって来るのを感じた。それは、彼らがまるで羊飼いのいない羊のように見えたからである。そこでイエスは、彼らにいろいろと教え始められた。
 
 イエス様は、表面的にはわからない、目に見えない群衆の姿を見ることがおできになりました。イエス様の下に来た人の中には、裕福な人、パリサイ人や律法学者の系列の人々、女性の中にもヘロデ王の親戚の方もいました。しかし表面的なことにかかわらず、イエス様は群衆がまるで「羊飼いのいない羊」のようだと言われました。そこには、愛によって養われず、導かれず、群れの絆が断ち切られて、霊的に弱り果てている姿がありました。イエス様の下には、ローマに支配されている不自由さ、みことばと正反対のユダヤ社会への悲しみから、救世主を待ち望んでいた人が霊的に飢え渇いて来ていました。自然的にも食べる物がない等の困窮した姿を見るとあわれみを施したくなりますが、イエス様は、本当の愛を教えてもらえず、愛ある指導者から導かれず養われていない、羊同士の絆が断ち切られて群れが形成されておらず、ばらばらになっており、霊を満たす愛のことば、心を温める愛の衣服が与えられていないイスラエルの民の姿を見られたのです。愛をお持ちなので、そう見られたのです。深いあわれみは、神は愛であるという証です。私たちも神様の愛に満たされていたら、少なくともあわれみを向けることのできる相手に対しては、親切をし、自慢せず、高慢にならず、礼儀に反することをせず…等々の態度が自然にとれるのです。
●羊飼いのいない羊とは〜
愛の導き手がいない、愛の絆を結ぶ者がいない、愛の食物が与えられない(私たちの心を養うのは神の愛のことばです)、愛について手本となって教えるものがいない
 ところで、祭司たちはイエス様のもとに来ませんでした。大工の息子であって救い主ではないと、イエス様を否定していたからです。大工の息子から、神について教えられることはプライドが許さなかったからです。主観に合わないものを受け入れないのは、自己中心で傲慢です。「誰かこの人生を導いてくれないだろうか。」と、たとえきれいな言葉で訴えても、自分の願い通りになる神を求めているのであって、傲慢を隠しており砕かれていません。自分の願いが実現されない不満が動機になっており、神の愛を求めてはいません。傲慢な人は自分の間違いを認めたくないので、直そうとしません。どんなに理論だっていようが、行動しようが、結局のところ、まわりを思い通りに動かしたいという動機があるので、神様の愛を知ることは難しいでしょう。イエス様の下に来た人々は、真に救い主を求めて来ていました。私たちも主観的な愛ではなく、神様が教え与えてくださる愛への飢え渇きをもって、神様の前に近づいていきたいものです。
   『まことの愛を求める者に、深いあわれみを感じる神』

3.『神就是愛』を適用(マルコ1:40〜41)
“さて、ツアラアトに冒された人が、イエスのみもとにお願いに来て、ひざまずいて言った。「お心一つで、私はきよくしていただけます。」
イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」”
・ツアラアト=らい病人のこと
【内容観察】
「お心一つで、私はきよくしていただけます。なぜなら、あなたは愛だからです。」イエスは深いあわれみを感じ、彼に触れて言われた。「わたしは愛です。きよくなりなさい。」
「イエス様、あなたは神の愛そのもののお方ですから、あなた様の少しの愛だけで私はきよくしていただけます。」という気持ちが、ツアラアトに冒された人に含まれていましたから、イエス様は非常にあわれまれたのです。この人は「神はあわれみ深い方だから、救い主を送ってくださり、自分たちが住む村近くをイエス様は歩まれるのだ。」と思い、神のあわれみ深さを信頼しなければできない行動をとりました。彼は、救い主は「愛とあわれみをもって勇敢に人々を助けにいく人」だと素直に待ちこがれたのです。知識を持ってしまうと、外ばかり見てあわれみ深さが見えなくなってしまいます。イエス様は「わたしのことをよく理解しているね。」と彼をあわれまれ、そして当然いやされていったのでした。

【敬聴と適用】
私たちには、自分で理解できない様々な出来事が人生に起こります。予想もしえないようなことが起こったりした時…「神は愛だからです」と。
どうしてこのようなことが起こったのでしょうか。私たちの信仰、理屈、考えではどうしようもできないその時に、「神は愛だからです」と。それでもあなたが文句を言い続けるなら、あなたは神の愛を否定することになります。何が起ころうと神が愛であることには変わりありません。万物は愛によって創られ導かれているのです。私たちの地上の百年足らずの人生経験で、永遠の神の愛が理解できましょうか。私たちが少しでも理解できるために、神は人となってこの地上に救い主として来られ、肉体を持ってこの罪の世界を歩まれ、試みにあいながら、最後には私たちの罪を十字架で身代わりに受けてくださり、よみにまで下り、罪を処分してくださったのです。この方は、父なる神にとってすべてを意味するひとり子と言われる神です。あなたは神を知らなかったかもしれませんが、神はあなたを知っておられます。「なぜ私のために全財産を出してでも私の借金を返されるのですか。」「神は愛だからです。」私たちが神は愛だと知らない時から、神は愛であり、それを表してくださり、人類全てにご自分の愛を明らかにされて、一つも残さず愛を注ぎ出されたのです。そこまでされたのならば、何が起ころうとも神は愛に違いないという信頼の下に、矛盾と思えることをも受け止めることができるはずなのです。それほどに十字架は、意味のある大事な神の愛の証、しるしです。私たちがすべてを捨ててでも余りある神の愛が証しされている歴史的事実です。何が起こっても「神は愛です。」という視点からとらえると、90%以上を納得できるようになります。心の不安、恐れ、悩み、思いわずらい…この嵐を静めることができるのはイエス様だけで、ガリラヤ湖で実現されました。私たちの人生の嵐を、「波よ、風よ、静まれ。」と愛が静めると言ってもいい出来事だと受け止められます。私たちの心の乱れを治め、平安をもたらすことができるのは神の愛です。この出来事は、神の愛に信頼して、真正面から人生を受け止めていく強さ、安心をもたらしてくださるイエス様の愛の証です。それを私たちの内側に実感できるために、愛そのものである御霊を助け主としてお遣わしくださったのです。愛に生きる力を内側にとどめる、すなわち聖霊に満たされる(助け主を内側に迎え入れる)ことによって、多くの神の器たちが、アフリカの原生林の恐ろしい首狩り族のところに福音を宣べ伝えにいくことができたことでしょうか。深いあわれみのゆえです。
 ただし「全員に深いあわれみをもって…」と無意識に考えがちですが、それはゴールであって、今は不完全な状態もあることも受け止め、「神の愛」に信頼していきましょう。

 

 

 

 

 

 

■2012年6月17日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 神から出ている愛  up 2012.6.17




愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。
(第1ヨハネ4:7

 

 

 

 世の神は、その美しさの裏に貪欲を隠しています。しかし、まことの神は完全で真実の愛のお方であることを、ご一緒にみてまいりましょう。

1.主題聖句から(第1ヨハネ4:7)“みことばは前述”
 (第1ヨハネ4:1〜6)までのみことばも合わせて、下のようにまとめてみました。
【内容観察】
 愛する者たち。神から出た者である私たちは、互いに愛し合いましょう。なぜなら、愛は神から出ているのですから。神から出ている愛のうちに歩んでいる者はみな神から生まれた者であって、神を本能的に知っているのです。
 この(第1ヨハネ1〜7)を通して、神様が語ろうとしておられることは何でしょうか。参考として2つほどポイントを挙げておきます。決してこれだけではないのですが、他の部分を見つけるための参考にしてください。
【敬聴1】(第1ヨハネ4:7)“みことばは前述”
1)神から出た者にとって、愛し合うことはごく自然なことです。
 昔は一般的にもごく普通のことであった「人を気づかい大切にすること」が、今はなくなりつつあります。経済社会の影響によって、人々は自分の欲望を最優先し始めました。しかし、私たちの出身地は神様です。この世界と歩調を合わせる必要はありません。
2)女性は男性のあばら骨から取られました。
 それは神から人が出たことの型です。そして神からは愛が出ており、私たちには愛が入ってきました。つまり、神は私たちを愛し、私たちは愛されているのです。私たちは神の愛を求める心を本能的に持っています。赤子が母の乳を慕うように、です。過去の歴史において人々が様々な宗教を作り出してきたのは、神を求める本能のゆえです。どうして男と女は引き合うのでしょうか。女が男から取り出された存在であるがゆえです。アダムからエバが取り出された時のギリシャ語は、「内から外へ出発する」という意味があり、取り出されたものと元の部分とのつながりを示しています。これは絆です。そして取り出されたものに対して愛着を持ち、大事にするのはごく自然なことです。私たちは元々は平和を願っている者同士です。お互いが譲り合い助け合う平和です。しかし、「損をしたくない」という貪欲の思いがこれを妨げるのです。

【敬聴2】(伝道者の書12:13)
“結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。”
 愛を語るとき、創造主を考慮に入れずに語ることはできません。また創造主について語る時、愛を抜くこともできません。創造主と愛とは切っても切れない関係にあるのです。神様の動機はいつも愛であり、全ての思い、考え、行動は愛から出ています。これを受け入れるかどうかで、私たちの反応は変わってきます。マタイ25章のタラントのたとえで、1タラント預かったしもべは、主人を悪く見ていました。しかし他のしもべは主人を信頼していたので、大胆に行動できました。主人が言った「悪いなまけ者のしもべ」の「悪い」は、主人を正しく見ていなかったからです。また「なまけ者」とは、自己中心の考え方をしていたからです。なまけ者の動機は、いつも自分の考えを優先するところから来ています。もし自分なりに一生懸命やっているつもりでも、神様の御声をきちんと聞き取れていなければ、なまけ者になってしまうかもしれません。ともかく、「神は愛の方であり、すべては愛によってなされている」ということだけは、疑いようのない事実です。ゆえに、私たちにとって害と思われるようなことでも、神のご性質から言えば、永遠のいのちに至るための愛の恵みであり、全ては益に変えられます。自分にとっていいか悪いかを考える前に、神は愛であり、いつも神は私たちに愛を流し出しておられることを考えれば、すべてを感謝できます。
 また、私たちも神から出た者である以上、私たちの本質も愛です。子どもの時は愛されることに夢中だった人も、成長するにつれて自分の本性が湧いてきます。何かこの身と生涯をかけて生きるものはないかという気持ちは、愛を注ぎたいという心の表れです。私たちの本性は愛であり、愛することに価値を見い出すのです。心が成長してきた人は、得るよりも与える方が幸いであることに気づき始め、それを求めます。たとえ今の自分が愛されることを求めている状態だとしても、自分の奥底には愛を与えるという神様から授かった本性が眠っているのだということだけは、いつも心に覚えていてください。上に挙げた(伝道者の書12:13)は、「神の愛を畏れよ。神の愛を尊べ。神の愛の命令を守れ。これが人間にとって本分である。」と言っているのです。これは愛したいけれどもやり方がわからない私たちのために、神から与えられたものです。自分本位な愛は相手も自分も傷つけてしまいます。私たちの愛の本性を生かすために与えられているのが神の命令であり、み教えであるとわかれば、非常に感謝ではありませんか。

2.『本覚安行』(ローマ8:14)
“神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。”
 御霊に導かれるとは、神の愛の霊に導かれることです。私たちは愛を大事にしたいし、自分の愛も大事にされたいものです。神の愛は神性であり、神聖なものです。この愛に導かれる者が神の子であることは疑いようもありません。
★『本覚安行』(ほんかくあんこう)の意味《造語》
神の愛から出た者であることに目覚め、神の愛の心のままに行うこと。
「本覚」⇒本来人間に備わっている神のかたちに目覚める。
「安行」⇒心のままに行う。何の努力も無しに、人としての道を行うこと。
本心が神の愛であることに目覚め、その愛のままに行動していく。すなわち愛に導かれて歩む。ゆえに神に導かれて歩むことは、本覚安行の歩みである。
【敬聴と適用】
 このみことばから「神の子」について、どのようなことが教えられますか?また、御霊に導かれる生活へ整えられるために、今、あなたができることは何でしょう?
 神の愛に導かれる人は、常に神の愛に感じ入ります。本性にいつも意識がいくように、神様の愛を味わっていくことが大事です。この世界は愛の神様によって造られたものですから、どこを探しても神様の愛に感じ入ることができます。ほんのささいなことにも神の愛から出ているので、それに感じ入ることができるのです。そういう観点から毎日を過ごしていくのが、神の子です。皆さんはどのようにその愛を感じ取っていかれるのでしょうか。私たちはいつも、礼拝においてデボーションにおいて、神の愛を感じる時を持ち続けたいものです。それが、私たちの本性である愛をいつも目覚めさせていくきっかけになると思います。

 

 

 

 

 

 

■2012年6月10日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 神の愛を語る愛  up 2012.6.10




私たちは神から出た者です。神を知っている者は、私たちの言うことに耳を傾け、神から出ていない者は、私たちの言うことに耳を貸しません。私たちはこれで真理の霊と偽りの霊とを見分けます。
(第1ヨハネ4:6

 

 

 

 このみことばから、神の愛を語る愛という主題をとりました。私たちのことばによって分けられるとは、本当に重要な役割を担っていると言えます。また、ことばだけでなく、俳句や絵などを通して神の愛を表現したり、家族に感謝のことばをかけるのも「神の愛を語る」ということになるでしょう。

1.主題聖句を考える(第1ヨハネ4:6)“みことばは前述”
「神から出た者」=神の愛のうちに存在し、その愛から生まれ出た者。
「神を知っている者」=神の愛から生まれ出た、神の愛を求める者。
 求める者とは、生まれたての赤ちゃんがおかあさんのお乳を求めるような、本能的な意味での求めるということで、本能的に神を知っているということです。
「耳を傾ける」=関心を持ち、共感を覚え、飢え渇いた心。
「真理の霊」=御霊に属することば。御霊に属する愛のことば。
 ことばとは、神であり、愛です。
【敬聴】
 この世の中には、神の愛に関心のある人とない人とがいます。その中で私たちは非常に葛藤しながら生きています。それだけではなく、私たちの内にも、神を敬うことばと敬わないことばが存在し、それもクリスチャン生活の大きな悩みのひとつと言えます。その心の葛藤を避けていると、いつの間にか自己中心、主観的な見方で物事を見るようになってしまい、教会に来てもつまらなくなり、聖書を呼んでもつまらないという風に、神の愛から心が離れていくようになります。しかし、神はどうして、このようなうっかりすると堕落しかねないような環境に私たちを住まわせ、心の内に、自己中心と神への愛という異なるものを存在させられるのでしょうか。考えてみましょう。私は4つの理由を考えました。
 1)選択の意志表示をするため
 2)正しい良心を働かせるため
 3)血潮(愛)によるきよめを受け入れるため
 4)愛の御霊に触れられるため
 神は、私たちが意志を働かせるよう、自発性を持つよう願っておられます。キリストを信じるという決断は、感情や環境、対人関係などに左右されるものではなく、自分自身の意志決定である必要があります。神の愛を選んでいく為には正しい良心をもつことが大切です。本来の良心は神の御座があるところであり、神を畏れる心を働かせるところです。正しい良心はイエスさまの血潮で清められた良心のことです。イエスさまの流された血潮は神の愛であり、良心は神の愛を受けると復活します。愛に触れると良心は健全になります。愛の御霊に触れられることが重要です。そして、神は私たちに愛される人生よりも、愛する人生を送ることの素晴らしさに気付くように願っておられます。この世は愛される人生を教えます。しかし、神はさらにまさった愛する人生を教えてくださるのです。この世は愛されることを目的にして愛しますが、私たちは愛することを目的にして愛します。神がこれ以上にない愛をもって、私たちを満たしてくださっているのですから、私たちはこの地上の生涯を、もう、愛することに注いでいくしかありません。私たちはすでに神の完全な愛をいただいていますから、人から愛されることによって、心を満たす必要はないのです。人の愛には損得や妬み嫉妬がつきものです。

2.神の愛である福音を大胆に語る(第1テサロニケ2:2)
“ご承知のように、私たちはまずピリピで苦しみに会い、はずかしめを受けたのですが、私たちの神によって、激しい苦闘の中でも大胆に神の福音をあなたがたに語りました。”
 激しい苦闘を突き抜けるような大胆さをもたらすのは、神の愛です。しかし自由な環境に生活していると、いつの間にか妥協していることがあります。むしろ迫害された方が神の愛の価値を再認識できるかもしれません。恋愛感情でも、親が反対するほど燃え上がるものです。愛は反対されると強くなります。
【敬聴】
 私たちもよく反対されたり、否定されたりします。しかし、その時に自分の信仰を説明できるよう学ぶものですね。それが愛です。反対されて心が萎えてしまったり揺らいだりせず、自分が信じている福音についてどのように話せるでしょうか。
1)創造主に愛されていること 
 これ以上にない最高の愛を私たちは受けています。しかし、惑わされて、世の中の愛に向かうことが、ある時期あったとしても、私たちを造られた造り主の愛以上の愛はないと気付くでしょう。創造主に愛されていることは本当に良き知らせ、福音なのです。
2)史実による愛が現わされたこと
 神の愛をことばだけでなく見える形で、神は歴史の中に刻んでくださいました。イエス・キリストの十字架の史実を良き知らせ、福音として語れるようにしましょう。
3)愛の助け主、御霊とともに歩むこと
 さらに、私たちの人生をいつも導き、共に歩んでくださる御霊を、事実として、自分の経験を通して語れるようにしましょう。
 イエス・キリストは神の愛を地上に現された方です。イエス・キリストが実在されたことは誰も否定できません。この福音を私たちは持っているのです。

3.『忠勇義烈』をもって語る(使徒11:20)
“ところが、その中にキプロス人とクレネ人が幾人かいて、アンテオケに来てからはギリシヤ人にも語りかけ、主イエスのことを宣べ伝えた。” 
  ★『忠勇義烈』(ちゅうゆうぎれつ)の意味
    忠義の心に厚く、正義感も強いこと。
    忠勇?忠義と勇気のこと
    義烈?義を守る正義の心が強いこと。 
 最初はクリスチャンはユダヤ人だけでした。しかし、多くのしるしや奇跡により、他のユダヤ人たちから妬まれ迫害を受け、多くのクリスチャンたちがいろいろな国へ散っていきました。そして、アンオケという大きな都市に着いて、初めてユダヤ人以外の人々にも福音が語られるようになりました。彼らはどのような心で福音を語り続けたのでしょうか。その心が忠勇義烈です。いくら忠義の心があっても正義感がないと意味がありません。神の愛に忠勇義烈であるべきです。そのように愛を語りたいものです。迫害の中で忠勇義烈を持って神の愛の福音を伝え続けた彼らから、何を学べるでしょうか。
1)迫害に勝る神の愛の経験
2)みことばに基づく強い確信 
 みことばが生活の中に実現しています。その結果が出る出るともっと確信できます。何度でもチャレンジして、みことばが実現することを経験しましょう。
3)恐れのない愛 
恐れをはねのけ、影響されない愛の力を内側にもっていました。それゆえ、大胆に語れたのです。この状況の人をキリストの証人と呼びます。
(まとめ)
 神の愛の福音である主イエスを、忠勇義烈をもって宣べ伝えるなら、それが神の愛を語る愛である
 神の愛を語る愛にチャレンジしていくうちに、だんだん大胆に語れるようになっていきます。語ることで、私たちの内なる愛はますます強くなっていきます。内にある愛を表現するなら、その愛はますます輝いてきます。もっと愛を語っていきましょう。そうすれば、愛は心に満ちてきます。

 

 

 

 

 

 

■2012年6月3日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 この世の愛  up 2012.6.3




彼らはこの世の者です。ですから、この世のことばを語り、この世もまた彼らの言うことに耳を傾けます。
(第1ヨハネ4:5

 

 

 

 「ことばは霊であり、イエス・キリストが語られたことばはいのち」である、と聖書にあります。同じことばでも、いのちでないことばもあります。神はことばなる神であると同時に、神は愛であると記されており、「ことばなる神は愛なる方である」と受け止められます。この世のことばを語るとは、この世の愛を語るとい言い換えれば、焦点が絞られてきます.「この世のものである彼らは、この世の愛を語り、人々はこの世の愛に耳を傾けていく」とつながると思います。私たちは、この世の愛が満ちている生活環境で生きています。キリストを信じるとは、その生活環境で、神の愛のうちに生きることを選んで生きることです。まわりは神の愛とは違うこの世の愛ですから、その影響を受けやすい環境にあります。ですから、気をつけていくことを心に思いながら、今日のみことばをご一緒に見ていきましょう。
1.主題聖句について(第1ヨハネ4:5)
“みことばは前述”
【内容観察】
 この世の愛は自己中心です。最終的に自分の思い通りに事を進めようという思惑があり、自分を支配者の立場において、まわりを動かし、満足していくものです。しかし、本来、愛を動機として物事を考え、語っていくことが一番理想的です。自己中心が動機となると、相手を支配しようとしてぶつかり合いが生じ、争いとなり、法律的な違反が生まれてきます。虐げたり虐げられたり…やがて戦争へと発展します。
 動機を自己中心の愛か、神の愛におくかで人生は違ってくる
●自己中心の愛が動機のことばの特徴〜心に満ちているものが外に現れる
○怒り〜思い通りにならないことへの感情的な乱れ(自己卑下は内側に怒りを向けたもの)感情を抑えても投げやりな言葉や傷つける言葉を放つ
○批判〜冷静さを保った理論的な批判の言葉を語る
○頑固〜かたくな、自分を変えようとしない
○人をさばく〜自分が正しい、あなたは間違っていると考えている
○自己満親切〜自己達成のため、相手に関係なく、自分のペースで身勝手な親切を施す
 私たちは、知らず知らずのうちに、自己中心愛が動機となったこの世の影響を受けています。ジェット機は気流の影響を、航海する船も海流の影響を計算して軌道修正しながら、目的地へ向かいます。この世の愛の中で神様の愛の中を歩もうとしている私たちにとっても、多少なりとも影響を受けて、ずれてしまうことがあります。だからこそ、礼拝で神のみことばを通し、心の軌道修正を図る時間が必要です。軌道修正までの時間が長いほど、ゆがみが大きくなってしまいます。決め細かく修正すれば、ずれが少ないので楽です。神様のことばを素直に受け入れず、自己中心を1年2年と続けてしまうなら、元に戻すのに相当の努力がいります。だから、この世の愛から神様への愛へと、いつも立ち返る祈りやデボーションの時間が必要です。そこで、以下のようなことを心がけていただきたいと思います。
●神の愛のゆえにいつも喜ぶ〜
 愛されていることは大きな喜びです。小さな子どもは人々から愛されていることを喜びます。神様は、私たちへの愛を変えられることは決してありません。
●救いの恵みのゆえに絶えず祈る〜
 神様の愛を信じるだけで罪が赦されるという、神様の大きなおこころに思いを潜め、神様の恵みを思い巡らしましょう。
●約束されている幸せのゆえに、すべてを感謝する〜
 聖書が示している、神様を愛する者にとっての幸せは、神の国の相続者になり、神の家族として受け入れられ、永遠の人生が始まることです。今、感謝できないことが起こっても、必ず幸せになれるゴールを見て、感謝を忘れないようにしたいですね。(今幸せかどうかにこだわり、今でなければ神様を批判するような、自己中心の愛にごまかされないように気をつけていただきたいものです)

2.「この世」について
(1)(マタイ18:7)つまずきを与える
“つまずきを与えるこの世は忌まわしいものです。つまずきが起こることは避けられないが、つまずきをもたらす者は忌まわしいものです。”
 つまずくとは、純真なものを汚し、壊すことです。このことばはイエス様が子どもたちを祝福したときのことばです。素直な子どもたちの心をつまずかせる者は、首に石臼をつけて海に放り込まれたほうがましだと言われるくらい、悪いことだということです。この世の自己中心の愛は、多くの純情な青年や子どもたちの心をつまずかせ、傷つけ、自分の益になる自分を愛する自己中心の考えに変えてしまいます。この世は本当に忌まわしいもの(あっては困る、呪いのようなイメージ)だという感覚がうかがえます。

(2)(ヨハネ15:18)神を愛する者を憎む
“もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。”
 自己中心の愛が自分にとっては本当の愛なので、それよりも優れた愛があっては困るわけです。この世で神様の愛を優先して自分の生活を築き上げようとする時に、地域や職場から「クリスチャンは自分勝手」と言われることがあります。この世の愛と神の愛とは世界が違うからであり、私たちが神の愛の中に生きることを選んだためです。天地の創り主の愛に応えていくことを選んだからこそ、彼らからしてみれば、私たちは自己中心に、見えるかもしれません。違うものへの同調はありえず、かえって憎まれることもあります。しかし、この世の愛を優先して合わせていけば、自己中心の考えが入ってきて、わがままがなかなか取れず、困った心の状態になります。自己中心は、愚かな欲望に捕われた精神的に未熟な状態です。このままで人生を終わりたくありません。

(3)(ヨハネ17:25)愛する神様を知らない
“「正しい父よ。この世はあなたを知りません。しかし、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知りました。」”
 正義の神様を知ろうとしない、理解しようとしないのがこの世です。自己中心の人は、相手を知ろうとしません。この世も、神様のすばらしさを理解しようとしません。(相手に合わせて自分を変えたくない人は、忠告を受け入れようとしません。忠告の内容よりも、相手に合わせることをしたくないからです)

(4)(第1コリント7:31)過ぎ去ってしまうもの
“世の冨を用いる者は用いすぎないようにしなさい。この世の有様は過ぎ去るからです。”
 過ぎ去ってしまうものには、ほどほどにしておかないと無駄になります。つぶれることがわかっていて投資する人はまずいないでしょう。消え去るとは、シャボン玉のようにいかにきれいであっても消えていく、はかない、むなしいものです。一時的に楽しめても、シャボン玉の中で生きる人生ではありません。この世も、シャボン玉のようにきれいに見える楽しみはあっても、それが人生の中心ではないことに気づくことが大切です。富にとらわれすぎてしまわないように…。この世と調子を合わせすぎることによって、この世の自己中心の愛の影響を受けて、神様の愛から出てしまうことにならない程度にいましょうという忠告です。

(5)(第1コリント11:32)罪に定められるもの
“しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。”
 罪とは的外れを決定されたものであり、戻りようがありません。それについていったなら、的外れで人生を終えてしまい、神の裁きを受けて処分されることを意味します。そんなむなしい終わり方をすることのないように、この世の自己中心の愛ではなく、神様の愛の中を歩んでいくことが大切だと勧めてくださっています。

(6)(ヘブル11:38)聖徒にふさわしくない所
“  この世は彼らにふさわしい所ではありませんでした。荒野と山とほら穴と地の穴とをさまよいました。”
 (ヘブル11章)には、信仰の勇者たちの話が出てきます。神を敬う彼らを、旧約聖書では聖徒と呼びました。この世は彼らにはふさわしくない所であり、いつまでもそこにいるべきではないということです。神の愛に生きる私たちも、自己中心の満ちたこの世はふさわしくないことを理解しておきましょう。ふさわしくないので、楽なことよりもつらいことのほうが多いかもしれません。クリスチャンが自己中心の世界の中でふさわしく生きることは無理がある、という意味です。ですから、神様の愛から自己中心の愛へと変われば、この世にふさわしく生きることができるでしょう。しかしそれは、争い、優劣等、つらいことが身に起こり、苦しむことになります。 それではなぜ私たちがふさわしくない場所にいるのでしょうか。まことの神、真実な愛を求めている人のため、神の愛があり、キリストの救いがもたらされることを証言するためです。また、ふさわしくない場所で耐えて生活することによって、きよめがもたらされ、人格的に磨かれるためです。熟練した楽器奏者は、卓越した技術と練習量のゆえに、安っぽい楽器でもすばらしい音を出せます。私たちも、神の国に行った時に、地上で労し磨かれてきた、神の愛の中に歩むという知恵と力をさらに生かすために、一時的にふさわしくないようなこの自己中心の世界に置かれていることを、理解しておきましょう。
 このように、この世とは私たち神様を愛する者にとっては、あまり好ましいものではなく、たいして力を入れて結果を得ようとするだけの価値があるとは思えないのではないでしょうか。皆さんは、今のみことばから、この世に対してどのような印象を持たれているでしょうか。愛する神様のみことばから、この世に対してどういう印象を持つべきかは、あなた自身が決めていかれることです。

3.『永遠偉大』(第1ヨハネ2:17)
“世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行う者は、いつまでもながらえます。”
【敬聴】
 永遠に存続するものは、信仰と希望と愛、その中ですぐれているものは愛だと聖書は教えています。このすぐれているというのが「永遠偉大」という意味です。神は愛であり、神は愛だから永遠に偉大なのです。神の愛のうちに生きるとは、神のみこころを行うということです。それは、永遠に存続する愛の中にとどまる者は、いつまでもながらえるという意味です。
『永遠偉大』(えいえんいだい)の意味
 永久に立派なさま。いつまでも変わらずに、優れて大きく立派なさま。
★「滅びさる」⇒むなしい存在。不安定。退化していく。
★「いつまでもながらえる」⇒高価な存在。安定。前進し続ける。
「滅び去るもの」と「ながらえるもの」の違い
(1)永遠と一時的(時間的な長さ)
 一時的とは、一定の期間だけであり、むなしいものです。何も残りません。10年くらいで壊れる家は買いません。一生住める家を買います。そういう違いです。
(2)霊とその天幕
 いつまでも残るものは霊です。永遠の滅びの中に投げ込まれても、私たちの霊はそこに存在します。神の愛に生きず、自己中心の愛に生きた人は、ふさわしいところとして、永遠に自己中心の苦しみの中に追いやられてしまいます。そこでは自己中心で張り合い争っています。私たちは神の愛にとどまることを求めているので、神の愛のあふれた神の国で永遠に存在します。最後の審判では、神の愛にふさわしい者は御国に入り、自己中心の生活をするにふさわしい者は火の池に入ります。自己中心をいつまでも続けないように気をつけましょう。
(3)見えないものと見えるもの
 霊的な存在は目で見えるものではありません。この世の自己中心の愛は、見える愛に頼り、影響されます。触れることも含まれた五感に頼った愛は自己中心であり、肉体に感じる欲求を満たす愛を中心に求めます。私たちの求めている神の愛は目には見えませんが、見えない霊に感じることができる愛です。
  私たちの決断⇒この世の愛に同化するか、
         永遠偉大な愛に同化するか
 私たちは、永遠偉大な愛と一つとなっていきましょう。

〜たましいの すくいのあかし ころもがえ〜

 

■2012年5月27日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 あの者より力がある愛  up 2012.5.27




子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。
(第1ヨハネ4:4

 

 

 

 私たちの内には、愛なる神様の御霊様がおられます。この方は神様そのものであり、神の本質である愛でもあります。今日はペンテコステです。この神の霊、すなわち愛に満たされることを求めていきましょう。私たちの内におられる方の愛の強さに信頼しましょう。私たちに力はありません。しかし、その弱い私たちの内におられるのは、力強い愛の神です。この愛がどれほどの強さを持っているのか、ぜひ体験してみてください。

1.主題聖句を考える(第1ヨハネ4:4)
“みことばは前述”
『彼ら』=反キリストの霊(愛)
『うちにおられる方』=キリスト=御霊=愛の神
『この世のうちにいる、あの者』=貪欲の神=悪霊、悪魔
『力がある』=強い。負ける事はない。
 私たちが勝ち負けを考える基準は、「神の愛」対「貪欲」に関してであるべきです。人の間で争うのは神の前に良くないことです。光の世界とやみの世界について勝ち負けを意識しましょう。負けとはやみの世界に落ちることであり、貪欲の神に従わせられることです。
【内容観察】
子どもたちよ。あなたがたは愛から出た者です。そして反キリストの愛に勝っているのです。あなたがたのうちにおられる神の愛が、この世のうちにいる、貪欲の愛よりも力があるのです。
 貪欲はこの世で最も御しにくいものであり、それを制するのは神の愛しかありません。貪欲の愛に打ち勝つために、神様は私たちのうちに、愛の御霊をお遣わしになりました。
【敬聴】
貪欲の背後には罪の死の力が働いています。それに打ち勝てるものは、神の愛だけです。罪の誘惑にどのように対処すべきかを、祈り求めましょう。
 この世界は誘惑に満ちており、完全に避けることは不可能です。それは常に、神様の愛よりも大事なものがあるとささやき続けています。欲望を引き出そうとするこの誘惑に対して、対抗できるのは神の愛しかないと、私たちは絶対的信頼を持つことが大事です。神の愛の満たしによって、貪欲に対抗できます。聖霊充満は貪欲に打ち勝つことができるための神様からの力の注ぎかけであって、非常に重要なものです。聖霊充満のためには、神の愛への関心を深める必要があります。神の愛には力があるので、私たちがその愛にもっと関心を持っていくことによって、その愛を用いることができます。私たちは関心のあるものに対して探求し、研究するものなのですから。

2.うちにおられる方(使徒2:15〜17)
“「今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません。これは、預言者ヨエルによって語られた事です。『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。』」”
“彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でパプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」”(使徒1:4〜5)
◎愛に満たされると、酔っているように見えます。愛によって心が解放されて、自分のうちに隠れていたり抑えたりしていたものを、外に出すことができるのです。恋愛に夢中な若者たちのように、愛に満たされると回りの事が気にならなくなります。そして、自分自身のうちにあるものが出やすくなります。苦しみを抑えていた人は涙を流し、神様の愛によっていやされる体験をします。別の人は自分でも理解できないほど笑いがあふれて止まらず、また他の人は踊り始めたりします。愛によって正しい方向に解放されたからです。酒による解放感は悪い事を行わせることが多いのですが、神様からの愛は解放をもたらし、その解放感をもって、愛の特性であり、愛する者へ大きな犠牲を払う力を与えます。

◎神の霊がすべての人に注がれるとは、一人も漏れることがない、例外は存在しないということです。アダムの子孫すべて、神のかたちに造られた人は神の愛を注がれる対象者です。「私のような者が」と自分を卑下して心を閉ざさないように気をつけましょう。

◎父の約束を待ちなさい、とありますが、愛には必ず約束が伴うものです。愛は約束によって、その真実と誠実を証明します。約束は自分にとって大切なものを相手に渡すことによって説得力を持ちますが、これに似せて貪欲へと引き込もうとする罠には注意してください。

◎聖霊のバプテスマとは、水のバプテスマを受けた時のように、聖霊様なる神の愛によって全身をつけられ、浸されることです。水から上がった時びしょぬれで、そこかしこから水がしたたり落ちるように、神の愛によって同じ状態になります。愛びたしですね。神の愛に浸されると、心の中まで神様のことで一杯で、神様のことばかり考え、話すことも神様のことばかりになります。愛に満たされ、神を愛しているからです。ぜひ皆さんも、愛に満たされることを求めていただきたいと願っています。この世の人は新鮮な愛を求めています。人に愛を求めるのは、欲望にあやつられる愛を求めることです。しかし本当の愛を神に求めていくならば、貪欲に動かされるような不潔な愛ではなくて、きよさ、誠実さ、美しさを持った愛を、神様との関係の中で得ていくことができます。神様の愛は無限なので、果てもなければ、飽きることもありません。
 私たちは対象のすべてを知ったと感じる時に愛が冷めますが、もっとすごいすばらしいものがその相手のうちにあると思うなら、熱心に探し求めるでしょう。神様との間に、尽きることのない愛を探し求めていただきたいと思います。そのために何度も聖霊の満たしを受けてまいりましょう。

3.『取捨選択』(ヨハネ6:63)
“「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」”
★『取捨選択』(しゅしゃせんたく)の意味
悪いもの、不必要なものを捨てて、良いもの、必要なものを選びとること。
 私たちは常に何かを選び取っていく人生であり、選択肢によって結果が変わっていきます。いのちを与えるのは御霊、すなわち愛なる神の愛です。聖書の言ういのちは単なる活動やエネルギーのことではなく、その人が活かされているということが含まれています。その人が本来あるべき姿にあることを、「いのちがある」と言うのです。ですから、私たちは盗んだり殺したりのためではなく、人に与えたり人を活かすために生きているのです。与える心や人を大事にする心の源は愛です。貪欲が動機の場合、与えることも人を活かすことも、自分を活かすため、自分がさらに良くなるためのものでしかありません。欲が隠れているといつかは化けの皮がはがれ、その関係は崩れ去ってしまうことが多いものです。

◎愛がいのちをもたらす
 この御霊はイエス様が話したことばであると、(ヨハネ6:63)に書かれています。
◎神のことばは愛のことば
 イエス様が話したことばは霊であり、愛です。ですから、神のことばは愛のことばなのです。語られたすべてのことばに、私たちへの愛が込められています。
“その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。”(創世記2:7)
 このみことばの「息」は、ヘブル語やギリシャ語では「霊」や「風」と訳すこともできます。アダムに吹き込まれたいのちの「息」、いのちの「霊」そしていのちの「愛」と解釈してみたらどうでしょうか。神が土地のちりで人を形造られた時、そこに生物学的命は存在していたのです。心臓は鼓動し、体は完全に生命活動を始めていました。そのアダムの鼻にいのちの息・霊・愛を送り込まれました。いのちのことば、愛のことばです。想像してみましょう。鼻に息を吹き込むとは、それほど近くに顔を合わせて、「愛しているよ、アダム。」と言われたということなのです。それは鼻に息をかける結果になりました。息がかかるほど顔を寄せるのは、よほど親しい関係でないとあり得ない行為ですが、神様はアダムに対してそれほどに近く寄って愛の息をかけられたことがわかります。顔を間近に寄せて、真正面から「アダムよ、愛しているよ。」と語られたそのおことばによって、アダムは生きた者になりました。彼は吹き込まれた息を受け入れたのです。神様の愛のことばを信じて受け入れた人は、人としてあるべき姿になり、いのちを得ます。正しい状態に生きることができるのです。自分を愛していない人からあれこれ言われても、あまり元気にはなれませんね。しかし長い付き合いのある親しい友人なら、そばに来て肩に手を置き、なぐさめと励ましを与えてくれるでしょう。愛のことば、その人を大事にすることば、その人の心やいのちを生かすようなことばは、近づいて親しい状態の中で、それこそ、息がかかるくらいの近い状態で語られます。たとえば夫婦はできるだけ近くで語り合うことが大事ではないでしょうか。子育てのスキンシップも、ただ触れ合うだけでなく、息がかかるほどの近くで語りかけることによって、子どもは深く愛を実感します。人はそのように愛のことばを吹き込まれて、生きる者となっていくのです。
“そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」”(ヨハネ20:22)
 この出来事は、復活されたイエス様が弟子たちに40日間姿を現されて、ご自分が生きておられることを証明された時のことです。イエス様は息(霊)を吹きかけ、愛のことばを吹きかけ「聖霊を受けなさい」といわれました。聖霊を受けることの意味は、弟子たちにあまり理解されていなかったかもしれません。しかしイエス様はそんな彼らに、愛のこもったことばを吹きかけられたのです。私たちは、言葉自体の意味がわからなくても、その語られた言葉のニュアンスや、込められた気持ちを受け止めて理解することができます。ここでイエス様が言われた「聖霊(愛)を受けなさい。」は、愛が込められた、弟子たちへの深い愛の凝縮されたものでした。弟子たちはそれが何なのか問うことをしませんでした。現代人なら知識で理解しようとして、頭でっかちな状態になったかもしれませんね。しかし、それでは真実にたどりつけません。神は私たちに、預言者たちを通して愛のことばをかけ続けてくださり、ついにはイエス・キリストという人のかたちをとって私たちのところに来られ、最後は私たちの代わりに死なれることを通して、「私はあなたを愛している」と語られています。では私たちの選ぶべきものは何でしょうか?それをきちんと心に持っておいてください。
【敬聴と適用】
 私たちにいのちを与えるのは霊(愛)です。上記のみことばから一つだけ選ぶべきものについて、どのようなことが教えられますか?
 愛を選ぶことです。聞くにしても語るにしても、神の愛に立ったことばを選ぶのです。愛のことばを選ぶとは、愛に根ざした生き方を選ぶことです。私たち教会の今年のテーマ「今日も愛を目指して」は、まさに「愛に根ざした人生を歩んでいきたい」という私たちの思いの表れです。「一切のことを愛をもって行う」ことは、現実にはなかなかできませんが、だからこそ、その目標を持つのです。取捨選択は人生に大事なことです。欲を選ぶか、愛を選ぶか。「私の思い通りのことをしてくれない。」とか、「あの人は神様の教え通りに全然やっていないではないか。」とか、私たちが人を裁く場合に、愛からではなく、欲望から出た見方で人を裁いているのではないでしょうか。それらの批判は「私に対してしてくれない。」という意味ではないですか?自分に対して得になるような何かをしてくれることを望むのは、欲望から出た見方です。私たちは心の奥底をよく探らねばなりません。人から愛の行為を受ける受けないは問題ではなく、神様が言われているのは、私たちが愛を与えることなのです。私たちはもう神様から愛を受けていますから、人から受ける必要は本当はありません。人からの愛よりもすぐれた愛を神様から受けている私たちは、あとは人に対してその愛を流し出していくだけです。ですから、あらゆる批判は自己中心から出ており、結局自分の欲望を満たせないがゆえの不満にすぎません。「してくれない」ではなく、「していこう」という愛を、私たちは神様から学んでいます。愛を目指すとは「与える愛」を目指すことであり、神様から受けた愛を流し出していくというものです。心の底まで自分の動機を探って、欲を選ぶか愛を選ぶか決めましょう。毎日この選択が続きます。ぜひ良い方を選べるように心掛けましょう。
 先日金環日食がありましたが、そこにベイリーリングという婚約指輪のかたちが現れました。

天空に 金の輪光る 婚姻の
 この天に現れたリングは、神様から人類への愛の証しではないでしょうか。今回の金環日食はかつてない範囲で、日本の人々に現されました。皆さんも、これを神の愛の証しとして受け止めていただきたいのです。十字架を肉眼で見ることはかないませんでしたが、今回の天体ショーを通して、神はご自身の愛を示してくださっています。

 

 

 

 

 

 

■2012年5月20日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 反キリストの愛(霊)  up 2012.5.20




イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。
(第1ヨハネ4:3)

 

 

 

 霊を愛という言葉に読み変えるとわかりやすくなります。愛にもいろいろあり、神の愛と、それに反する愛があります。神の愛に反する愛に対抗する心構えをしっかりと持っていないと、油断して、それを受け入れてしまい、私たちの純粋な神への愛が汚されてしまうことになりかねません。

1.羊の皮をかぶった狼(マタイ7:15)
“にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。”
 狼は蛇と同等の狡猾さがあることを表しており、さらに、蛇よりもどう猛な凶暴さがあります。怒り、嫉妬などの悪い感情をも表しています。狼は羊のように穏やかそうに近づき、私たちの神への純粋な愛を、この世の欲望の方へとすり替えようとしてやってきます。今、世の中では、自己中心な愛を、個人主義ということばに変えて、さも良いことであり重要であるかのように吹聴するきらいがあります。その風潮に流されないように気をつけましょう。
【敬聴】(第2ペテロ2:14)
“その目は淫行に満ちており、罪に関しては飽くことを知らず、心の定まらない者たちを誘惑し、その心は欲に目がありません。彼らはのろいの子です。”
 (第2ペテロ2:14)を参考に、神の愛と反キリストの愛を見分けるための方法を見ていきましょう。反キリストの愛には、その奥に貪欲が潜んでいます。
 貪欲な狼の特徴、「その目は淫行に満ちており」です。非常に強い、強烈に貪る心です。どんなに表面は美しく装っていても、その目をじっと見るなら、実は深い欲望が渦巻いていることがわかります。「罪に関しては飽くことを知らず」は、罪意識をもたない、悪いとも思わないということです。いくら罪だと諭そうとしても、そういう人は言い逃れるばかりで、決して罪意識を持ちません。そういう人の愛は危険ですから、受け入れたら大変なことになります。「心の定まらない者たちを誘惑し」で、心の定まらない者とは、自制心が弱く、感情に振り回されやすいひとのことです。そういう人は、貪欲の狼に餌食にされやすいのです。感受性の強い人は気をつけないと、相手の貪欲な愛の影響をいつの間にか受けてしまい、そのような愛こそいいものだと思い込まされてしまう可能性があります。「その心は欲に目がありません」は、欲に飢えていて、すべての動機が自分の欲求を満たすために他ならないということです。「愛している」と言っても、その愛は自分の欲求を満たすためのものです。「彼らはのろいの子です」つまり、神を恐れないということです。彼らは神聖さを無視します。私たちが神から出た愛かどうかを見分ける一番のポイントは、キリストを告白するかどうか、つまり、神を敬う敬虔さがあるかどうかです。不敬虔な人の心の奥底には貪欲が潜んでいます。それに気をつけましょう。相手だけではなく、自分の心も貪欲な狼の影響を受けてしまっていないか点検し、いつも敬虔な心を失わないようにしましょう。この貪欲な狼の働きかけのしるしは、次の「群れを荒らす」ということです。

2.群れを荒らす狼(使徒20:29)
“私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中にはいり込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。”
 群れをちりじり、ばらばらにしてしいます。羊は、団結して群れでいるならば安全ですが、一匹だけで孤立してしまうならば、いつでも攻撃できる対象になってしまいます。夫婦の間の神聖なつながりが貪欲な狼によって汚されていくなら、夫婦の愛は感情的な愛になり、好きか嫌いかで愛を判断してしまい、自分には愛がないと、夫婦の絆を断ち切ってしまうことになります。この貪欲な狼は、感情が起きるかどうか、好きか嫌いかで判断するように私たちを惑わし、夫婦の間を裂いてきます。親子関係でも同じです。貪欲が動機となった愛、貪欲が動機となった人生は人を孤立させてゆきます。人は孤立すると羊のように弱い存在になります。孤立した人はいつでも狼の餌食になります。ですから、狼は団結した羊の群れをばらばらにするように攻撃してきます。例えば、「互いに愛し合いなさい」と教えられている教会に攻撃してきたり、絆が強いと言われる夫婦ほど攻撃を受けたりします。パウロによって励まされた一致団結している教会にさえ、凶暴な狼がやって来るということは、避けられない現実なのです。神の愛によって結ばれていればいるほど、それを壊そうとやって来ます。狼がどのようにして、入り込んでくるかを、【敬聴】で考えてみましょう。

【敬聴】(民数記25:1-3)
“イスラエルはシティムにとどまっていたが、民はモアブの娘たちと、みだらなことをし始めた。娘たちは、自分たちの神々にいけにえをささげるのに、民を招いたので、民は食し、娘たちの神々を拝んだ。こうしてイスラエルは、バアル・ペオルを慕うようになったので、主の怒りはイスラエルに対して燃え上がった。”
 イスラエルの民を神にのろわれるために、散りじり、ばらばらにしようと狼は入ってきました。それは、モアブの娘たちを用いることによって、民の欲望をかきたてるという方法によったのです。これは欲望の罠の代表的なものです。現代では、神の愛よりも、金銭的なもの、持ち物の誇りに走ったり、自分の思い通りになるものに、心を傾ける、例えば、自分の家族よりペットが可愛いというのは、ペットが自分の思い通りになるからという欲望がひそんでいたりします。そういう欲望を満たすような罠が私たちの周りに仕掛けられていて、神の愛によって心を満たそうという一致した群れから、ひとりひとり離そうとやってくるのです。これが入り込んでくる始まりです。そして、何をさせるかというと、モアブの娘たちが民に偶像を礼拝させたように、自分たちに従わせ、遂には偶像礼拝へと導くのです。まことの神、愛なる神さまから、欲望の神へと心を向かわせ従わせようとするのです。さらに、敬虔さを失わせます。イスラエルの民はまことの神を知っていながら、欲望を満たし続けたいために、相手の言いなりになり続け、その結果、神聖なきよい神に対する敬虔な心が失われていきました。何故「この世と調子を合わせてはいけない」というみことばがあるのでしょうか。それは、神聖なきよい愛が汚されてしまうこがどれほど大変なことかを神は知っておられるからです。この世と調子を合わせるということには、心の中に欲望を満たしたいという動機が隠れていることを知っておきましょう。こういうことを通して、凶暴な狼は私たちの人間関係を断ち切って、欲望をかなえられる相手とだけ、つながらせようとしてきます。そして、敬虔さを失うことで、神の愛から欲望の愛へとすりかわり、その時、イスラエルへの神の怒りが燃え上がったのです。私たちも最初はイエス・キリストを信じて敬虔な心で喜んでいても、世の中の多数決で決まる中に生活しているうちに、その影響を受けてしまうかもしれません。そうならない為にも、最初の決心をしっかりと持ち続けることが必要です。

3.『疑事無功』(ぎじむこう)(ルカ10:3)
“さあ、行きなさい。いいですか。わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に小羊を送り出すようなものです。”
「疑事無効」の意味
 疑いながら、ためらいながら事を行うようでは、成果は期待できないと いうこと。一度決めた事は決然として断行すべきであるという戒めの語。
 私たちは今年の目標である、「愛を目指して」から、それないように気をつけましょう。どんなに礼拝で恵まれても、世の中に出ると、疑いやためらいが出てしまうようでは、クリスチャン生活に、何ら成果は期待できません。世の中の影響を受け、神を信じて生きることを、人々の前で恥ずかしく思うような心では、「愛を目指して」生きる実は実ってきません。人は実が実らなければ、期待が弱り、ますます世の中の考え方に影響されてゆきます。狼は私たちの弱点をよく知り、巧妙に攻撃をしてきます。しかし、そのような世の中に、神はあえて「遣わす」と言われました。遣わすということばの意味を理解しましょう。まず、小羊とは、純粋に神聖な神の愛を信じた者たちのことです。それは、清くて愛らしくて神の愛を一心に受ける存在のことです。私たちはこの世に神の愛をもたらす者として、神によって遣わされています。小羊のように外側は弱々しいかもしれません。しかし、内側は、どう猛な狼の汚れた愛を清める力があるのです。狼はずる賢く私たちを惑わしてくるので、気をつけないといけませんが、私たちが神の愛を伝えるという、しっかりとした使命感をもつなら、決して恐れる必要はありません。油断できない厳しい環境に私たちはあります。油断すると、すぐに惑わされてしまうような環境です。それゆえ、油断せずしっかりと立つように、このみことばは語られています。いつも神の愛への強い確信を得るように心掛けましょう。意識して神の愛を感じ取っていくために、その十字架の愛をいつも思いめぐらしましょう。このきよい神の愛に生きることが、どんなに素晴らしいことかを悟り、確信していきましょう。その確信がなければ、私たちは誘惑に弱い者ですから、いつの間にか、この世の神、貪欲に引きずり込まれてしまうでしょう。教会に来たらクリスチャン、職場ではこの世の人というような、カメレオンクリスチャンでは、何のためにクリスチャンになったのかわかりません。しっかりとキリストの証人としての使命感を持って生きましょう。その理由は「愛の証人」となるということです。まことの愛、神の愛の存在を証しすることが、人生における使命です。私たちは洗礼を受けた時に一度決心をしました。それをゆるがないものに保っていくために、こうして集まって礼拝をし、互いに励まし合っています。
【敬聴と適用】
 疑わず、ためらわず、神の愛に生きる使命を実行していきましょう。
油断せず、キリストの証人として、この世の中で生きるのです。多くの反キリストの愛があります。私たちはその中で神の愛をはっきりと証ししていくために、しっかりとした強い確信をもちましょう。

 

 

 

 

 

 

■2012年5月13日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 人となられた愛  up 2012.5.13




人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。
(第1ヨハネ4:2)

 

 

 

1.へりくだりの愛(ピリピ2:6〜7)※小栗伝道師メッセージ
“キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。”
 以前にも学びましたが、この当時グノーシス思想が入り込んで、見えない神が人のかたちをとられる受肉、さらに神の愛を否定する考え方に惑わされていたようです。今の時代を見ていく時に、愛よりもまず自分の存在価値がどうであるかを量り、「できるできない」「持っている持っていない」で自分の位置を確かめるような世の流れに、いつの間にか親しんでいることはないでしょうか。教会の中であっても、神の愛と切り離された流れとなることのないように、ヨハネがここで忠告していると思います。
◎人となって来られた神(ピリピ2:6〜7)
 見えない神が人となって来られたのがイエス・キリストだということを、私たちはよく聞いています。無限の、全能の、あらゆるものを超えたすばらしい存在の方が、ちりに等しい私たちと同じかたちになって来られることを選ばれること自体、その決断(英断)は何と大きいものであったことでしょうか。それをされた神のみ思いを思う時に、みことばのように、神様が大きくへりくだってくださったからだとわかります。そのくらい私たちは、神様に愛されているということです。キリストは、私たち罪人が神様を認めない生き方をしたり、神様を知っていても不遜な態度で、まるで神はいないかのように、自分が神であるかのようなふるまいと思いをしているにも関わらず、私たち罪人を救うための身代わりに十字架にかかることを承知で、人となって来てくださったのです。イエス様がまず人となってきてくださらなければ、私たちは神の元に帰ることはできません。ここに神様の大きなへりくだりの愛があることを、改めて確認していただきたいと思います。神がご自分の価値を全く捨てて、奴隷のように自分を低くして制限のある姿になられた、比類のない神の愛が今日も注がれています。神様が自らへりくだられて、私たちを呼んでくださっていても、それを拒んで、世の中の価値観で自分を支えることのないようにしたいと思います。
★へりくだる者(ピリピ2:3)
“何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。”
 自分の価値がゼロとなっているので、そばにいる方々をほめる、賞賛することができます。他と比べて「自分は何もない」とする自己卑下は、うらやんでいるものが手に入ると高ぶる可能性が隠れており、結局自分で自分を価値づけていることになります。自分を無にするとは、自分のことを忘れて神様のみ見上げて、主が私を見てくださったことだけで十分とすることです。他人と比較して自分の価値を量ろうとする世の考え方に振り回されていないかどうか、自分の心を点検し、へりくだって来てくださったイエス様だけを見続けていきましょう。その思いに満たされる時に、自分の価値はどうでもよくなり、へりくだりに導かれます。。
(参照)(第1ペテロ4:8)“何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。”
 愛し合うことは赦し合うこと。赦せない心は常に私たちの心につきまとい、「愛すること」を聞けば聞くほど赦せない自分の状況がよく出てくるものです。聖書の中にダビデが、亡くなった先代の王サウルの血筋のシムイから呪いの言葉をかけられ続ける場面が描かれています。思いあまったダビデの家来は「やっつけましょう。」と言うのですが、ダビデは主が赦されたこととして受け止めました。へりくだりがなければ、赦すことはできません。その後、シムイはダビデの前に謝る場面が出てきます。日常生活の中で、人の言動で自分の心がいらつく時、それはへりくだりがないことを神様が示してくださっていると思ってください。多くのそむきの罪を受け入れるには、自分の価値をなくし、どんな場面でも主に愛されている自分として主を見上げ続けることが大切です。兄弟姉妹、まだ信仰を持っていない人も主が愛されたと主の思いで見る時に、へりくだりの思いを自分の中に受け止めていけるのではないでしょうか。このへりくだりの思いは神からのものです。嫌な思いが引き出される状況から、自分のへりくだりがないことに気づき、へりくだる思いを持っていく時に、すばらしい品性が私たちの中に作り上げられ、私たちをを通して「主がおられる」ことを現していけるのです。
【敬聴】
神であるキリストが、罪人を救うために御自身を低くされ、制限のある人のかたちをとり、地上に来ることを選ばれた。すべての人は、神の前に「無きに等しい者」である。自分よりも他の人がまさっていると評価し、他の人を赦し続ける生き方を、キリストが現された愛は願っておられる。

2.霊(愛)による告白(マタイ16:16〜17)※横路伝道師メッセージ
“シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」”
 ここでのペテロは、実はすごい事を宣言しています。他の人は誰も、イエス様を人間として見ているのに対して、彼は「あなたは人ではない。神の御子です。」とハッキリ告白したのです。イエス様が祝福されたペテロの告白について、詳しく調べてみましょう。
『生ける神』⇒いのちのない偶像の神ではなく、今、生きておられる愛の神様である。
 世には多くの「神」と呼ばれるものがありますが、そのほとんどは人が作ったものであり、「目があっても見えず、耳があっても聞こえず、口があっても語らず、足があっても歩けない。」(詩115:4〜8参照)と、信頼をおくに足るものではありません。天地を造られ、今私たちを支配され、今生きて働いておられる神様こそが、まことの神であられます。
『神の御子』⇒イエス様が、受肉された神の御子である。
 天の神様が人の体に住まわれるとはすごいことではありませんか。2千年前にイエス様と実際に出会えた人たちは、イエス様と同じ空気を吸い、同じ水を飲み、同じ場所を歩きました。彼らは直接イエス様に触れ、御声を聞き、みわざを見たのです。彼らは実際の神様に触れた人々です。私たちは実際には体験していませんが、聖書からしっかり教えられて、当時の人々のように今も神様を信じることができます。生ける神を地上で見たいと思う私たちに現された神の御姿、それがイエス・キリストだと、私たちも言うことができるのです。
『キリスト』⇒イエス様こそ、救いを成し遂げるために、世に現れた待望の救世主である。
 私たちを罪と死から救い出すお方は、このイエス・キリスト以外にありません。なぜなら、イエス様は私のために十字架にかかって、私の罪を全部取ってくださったからです。それゆえに、私たちは天に引き上げられる罪のない者へと変えていただけます。他にそんな神や仏はいません。イスラエルの人々の長年の願いである「救い主の到来」それはイスラエルだけのものではなく、全世界の人々に及びました。正義と救いを待ち望んでいる世界中の飢え渇いた人々に。自分の罪のために「私はダメだ」とあきらめている人たちを救い上げ、赦してくださり、神の家族にしてくださる方。救世主は、このイエス・キリスト以外にはありえません。皆さん、確信を持ってください。
《天啓告白》(てんけいこくはく)※造語
「天啓」=神から人知を超えた真理を現し示すこと。
 この天地宇宙を造り、支配し、生きておられる神が、イエス・キリストとなって地上に来られるということは、私たちがミミズやウジ虫になるよりも、もっとひどいことです。救いの方法も、神の御子を身代わりに殺して、そのいのちの代償として私たちを救うというものであり、こんな救いは私たちの知恵では出てきません。聖書も66巻を40数人で記していますが、神様が聖霊によって一人一人の筆者に示された内容が書かれており、私たちは聖書について、神からのものとしてもっとすなおに受け取ることが必要です。聖書には私たちには理解できないこともたくさんありますが、無限の神が私たちの小さい脳に収まるはずがないのです。今の科学技術の進歩によって、発見された天体や自然界の神秘は、偶然できたものでなく、神様の知恵によって創造されたものです。人間は今あるものを発見しているだけであって、何もないところから造ることはできません。こんな偉大な神様が私たちにご自分を明らかにされたのがイエス・キリストです。私たちはこの方をすなおに受け入れるべきです。
「告白」=心の中の思いや秘密を隠さず打ち明けること。
 私たちはイエス様が自分の神様であること、また、自分がイエス様を愛していることを告白していますか。毎日の生活の中にも、そのときどきに合わせた告白が大事です。神様の主権を認め、神様に従うこと。神様の御心は何かを知り、自分がどうであっても従う告白をして、それを行動に移します。そうして私たちの信仰は成長していきます。イエス・キリストを「生ける神の子、私の主」、と告白したペテロの信仰。この信仰の土台の上に教会を建てると、イエス様は約束されました。今日、世界の教会を形作る土台は、イエス様を「生ける神の御子である」と告白したペテロの信仰告白の上にあります。
【敬聴】(第1コリント12:3b)“聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です。」と言うことはできません。”
 神様は、「イエス様こそ私の神であり、人生の主である」と告白する人を、礼拝者として今日も捜しておられます。多くの人がそのことをするようにと願っておられるのです。イエス様を神の子として告白することだけなら、実はサタンも言っていることが福音書にたくさん記されています。悪霊につかれた人たちがイエス様の姿を見ると、「神の子よ、私に近づかないでください。」と叫びながら逃げていくのです。霊的存在である私たち人間は、その霊によってイエス・キリストを告白することができます。私たちは神に選ばれた者です。神に従うのが当然の者です。また幸いな者です。人間的な考えで、神様を利用しようとする思いがあるなら、それはよくないことです。「主」とは「主人」なのですから、従います、が当然のことです。王様としもべ、殿様と家来以上のものがそこにはあります。殿様が通る時には民みなが脇へ避け、平伏するように、神様は恐れ多い方です。もちろん人の王とは違い、神様は愛の深い良い主人なので、私たちを愛し、本当に大切にしてくださいますが。この神様を知っていることは、私たちにはとても感謝なことですね。この方を、聖霊様によって「イエス・キリストは私の生ける神の御子です。私の主人です。」とペテロのように告白する者になり、毎日そのように歩みたいものです。

3.(愛)をためすポイント(第1コリント6:15〜17)※辻牧師メッセージ
“あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか。キリストのからだを取って遊女のからだとするのですか。そんなことは絶対に許されません。遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。「ふたりの者は一心同体となる。」と言われているからです。しかし、主と交われば、一つ霊となるのです。”
★『人となって来たイエス・キリスト(愛)を告白』
 先に「へりくだり」と「告白」という2つのポイントについて聞いてきましたが、今度は、「試して見分ける」ことを考えましょう。
A)その目的「あなたがたのからだはキリストのからだの一部」
 「キリストのからだの一部」とは、人のあるべき姿を意味しています。これには霊もたましいも含まれます。私たちの姿はキリストの姿であるべきで、私たちの本当の姿はキリストの中に見い出されるべきです。あなたの自分らしさは、キリストの中に見い出すことのできるものなのです。そこにすべての人の自分らしさが現されていると言っても過言ではありません。なぜなら一人一人はキリストのからだの一部だからです。またこのことから、人のあるべき姿である神のかたちを取り戻すこと、愛そのものの姿を取り戻すことが、人となられた愛の目的です。神が愛を私たちに現された目的は、私たちが愛のかたち、愛の姿に立ち返るためです。
B)その理由「そんなことは絶対に許されない」
 目的には必ず理由があります。遊女というのは貪欲の象徴であり、欲望のかたまりを意味します。私たちはキリストのからだなのですから、欲望のからだにするのは絶対に許されないと言われているのです。それはかけがえのない存在だからです。絶対に遊女になるなど許可できない、そうなってはならないと言われるほどに、あなたは大事な存在なのだというのが、神様の理由です。愛だけに立ち返るべきもの、それ以外の何ものにも変化させてはならない絶対なものとしての存在の大切さです。なぜならあなたは神御自身の分身だからです。女が男から取られたという創世記の記事は、人が神から取られたものであることも示しています。女性が男性の分身であり、絶対にかけがえのない存在だから、遊女と同じになってはならないように、神様の分身である人間が遊女と同じものになってしまったら、それは神御自身の価値をも遊女と同じものに引き下げてしまうことになるのです。ですから、欲望と一体になることは絶対に人には許可されません。
御自身の分身であるということは、互いに存在を支え合っているということであり、神様は創造主であるのに、「人間あっての神」とお考えになっておられます。これはすごいことではありませんか。ですから私たちも、「互いに愛し合う」とは「あなたあっての私」ということを、互いに受け入れるのです。
C)その行動「主と交われば、一つ霊となる」
 さらに「人となって来たイエス・キリストを告白する」行動は、「互いに交わりを持つ」ことです。遊女と交われば一つ体になり、主と交われば一つ霊になるのです。遊女、すなわち欲望は、からだの欲望にのみ、その全てが向けられ、欲望に捕われ、欲望中心になる、という意味です。つまり欲望のとりこです。しかし霊なる神様と交われば、一つ霊、一つ愛となるのです。そして互いに愛し合うこと、互いに愛し合う行動が、交わりというかたちで現されていきます。交わりを持ち互いに愛し合うという行動は、互いを大事にする交流です。それは、自分の欲望を満たすための、この世の交流とは違います。私たちは相手の徳が高められ、永遠のいのちに至るよう、その人らしくキリストのからだに成長していくために交わりを持つのです。このような与える愛の交わりが私たちの交わりであり、人がすばらしく成長するには、育てるという交わりをすることが必要なのです。育てるように交わりをすると、育てる人も成長します。世の中でも、教えられるよりも教える方が成長が早いという、この法則に気づいている人は多くいます。与える愛が育てる愛ですから、自分が成長したいならば、相手の徳を高めるように愛を注いでいくことによって、あなた自身が成長していくことができます。「人となって来たイエス・キリストを告白する」とは、そういう行動が伴っているのです。
【敬聴と適用】神からの霊である愛を見分けてみましょう。
(1)愛の目的を試す
 自分を愛してくれる人の目的は何か。誰かを愛している自分の目的は何か。自身の欲望を満たすためか、自分の支配の中に、自分の思い通りになるようにと相手を縛ろうとしてはいないか。このように、人の愛も自分の愛もどうぞ試してください。欲望が動機か、神の愛が動機かで、この目的は大きく変わります。
(2)愛の理由を試す
 存在価値をどれだけ高く評価しているかを試してください。子どもは「親あっての自分だ」と悟ってくると必ず親の手伝いをしたり、親を大事にしようという気持ちが起こりますし、また親も「子どもあっての自分」とわかってくると、子どもを立派な人格者に育てようと一生懸命心を使います。どんな愛する理由を持っているか見分けるのは、私たちにとって大切なことです。
(3)愛の行動を試す
 人のことをとやかく言うより、まず自分自身の内から出てくる愛について試してください。愛の目的、愛の理由、愛の行動。この3つのポイントが正しく伴っていれば、あなたの内側から湧いてくるこの愛は神からの霊、神からの愛と判断していくことができると思います。家族の方、夫婦の方、自分たちの今のつながり、関係は神から出た愛かどうかを確かめましょう。肉の愛が支配してはいけません。肉にある者にとっては肉の愛も必要ですが、土台は常に神の愛でなければならないのです。人の好き嫌いは非常に不安定で、愛とは言い切れません。愛とは存在そのものの価値を見い出すことですから、私たちはこれからもっといろんなクリスチャン生活の体験、経験を通して学んでいけます。そういう意味で今日も愛を目指して歩みましょう。

 

 

 

 

 

 

■2012年5月6日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 信じてはいけない愛  up 2012.5.6




愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。
(第1ヨハネ4:1)

 

 

 

 このみことばの「霊」ということばを「愛」に置き換えて読んでみると、少しわかりやすくなるかと思います。聖書には、「神は霊である。」「神は愛である。」と書かれてあり、愛も霊的存在と言えます。神と愛が一つであるところから、私たちは信じられる愛と信じてはいけない愛を区別できるようになります。誰もが信じられる愛を求めていますが、愛について、霊的世界について、情報がいろいろあって惑わされてしまいます。私たちは聖書から、「霊とは、すなわち愛とは何なのか。」をはっきり心につかんでおくことが必要ではないでしょうか。

1.にせ預言者が多く起こる時代(マタイ24:11〜12)
“「また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。」”
 聖書では、救い主イエス様が来られてからの時代を終わりの時代と言い、それから二千年経った今は、終わりの終わりの時代とも言います。その終わりの時代には、にせ預言者が多く起こると言うのです。ヨハネがこの手紙を記した時に、すでにイエス様が言われたことが成就して、たくさんのにせ預言者が出現しました。今でも何千という宗教、悟り、教えが出ています。預言者は、神からおことばを授かったメッセンジャーですが、
『にせ預言者』=神からの言葉だと偽って、自己中心愛の教えを説く。
『不法』=すべては自由。何ものにも束縛されてはいけないという考え。
 本当の自由は、自分も他の人も自由ということを自覚します。自分の欲望を満たすことが自由と思いがちですが、秩序を乱し、不法の社会を築く原因になることに気がついておられるでしょうか。
『愛が冷える』=隣人愛から自己中心愛へと変わっていく
 欲望の力が、自己中心愛へと変えていきます。ボランティア活動も、表面的には人に喜んでもらえることをしたいとしながら、自分のむなしい心を満たしたい自己中心の思いが動機になっていることも多いのではないでしょうか。私たちも、この動機の部分を探っていかないと、愛がわからなくなってしまいます。
「自己中心愛と秩序を破壊する自由を教える偽預言者によって誘惑された人々の愛は、利己的なものとなる」
 クリスチャンも気をつけなければいけません。「自分はだめになっても、人が良くなってくれさえすればいい。」という考え方が少なくなってきているような気がします。農村では、田植えの季節に単独で田植えをすることはなく、村全体で段取りして行います。「互いに支え合う』良い習慣があります。いうなれば、教会も同じく一つの村であり、「手伝って…」と気軽に言える関係になれることを神様は願っておられると思います。
【敬聴】
愛とは何ですか。
●愛とは神の本質
●愛とは神性かつ神聖〜神の性質であり、きよさがある
●愛とは存在の根源〜すべてのものは神の愛が動機となってできた
※愛には人格的意志がある
  どんなに強い願望があっても、内に神の愛があると、「道が外れているよ。」「行き過ぎだよ。」と、まるでとがめをもたらすような人格的働きかけや声を、「きよめられた良心(とパウロが呼んでいます)」が感じます。内に神の愛が注がれると、あなたに愛をもって注意・忠告をして導くのは当然のことです。

2.愛に偽装する欲(第1ヨハネ2:16)
“すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。”
 ここに挙げた3つの欲は、いずれも良くない欲です。
『肉の欲』⇒生物的欲求が健全さを超えたもの。
 肉の自然的欲求は生きるためにあるべき欲求であり、決して誤解されるような禁欲主義ではありません。罪の欲は度を超えるという意味です。
『目の欲』⇒精神的、知性的欲求が健全さを超えたもの。
 目は心を表します。精神的欲求として、たとえば支配欲を考える時に、「人を思い通りに動かそう」とするのは健全さを失っています。しかし、国の統治から支配力という治める力はとても大切で、よい意味を理解しておくことも必要です。また、知的欲求と言いながら、他の人のプライベートなところを知ろうとするのは、分を超えています。
『暮らし向きの自慢』⇒自己評価欲が健全さを超えたもの。
 この世の中には、持ちもの(能力、才能、財産、金銭、資格…)によって、人の存在価値を量る習慣があります。初代教会でも、金持ちとそうでない人の席を分けたことがあったようです。自分の劣等感を持ち物で補い、また劣っている部分を隠し、自分の評価を高めようとします。神様が立派だと言っても、自己評価が低い人は、自分の評価を高めるために「何かを持たなければならない」という思いに縛られている可能性があります。人を持ちものや生活環境で決めつけないように気をつけてください。
 これら3つの欲は、貪欲と言って、むさぼり、限度がない、とどめられない欲であり、欲望が愛にまさるという、この世の考え方が定着してしまっていることから発していると思われます。欲が土台となった愛は偽りですが、それを区別できていない可能性があります。自分の目にかなった人を愛するのは、欲求からです。この世の人々の「欲求があって、愛が存在する」という考え方を、「欲は愛に偽装する」という点として紹介しておきたいと思います。世の中は「欲望が優先して次に進む」という考え方ですが、聖書からは、愛と欲の問題はどう考えたらいいでしょうか。

?愛があって欲望が起こる
  愛があるので、愛したい、愛されたい欲求が起こる。
?神聖な愛の欲求=制御できるもの
  制御できない欲求は、愛が土台になっていない。
 愛を土台にした生き方をする人は、自制心をしっかり働かせることができます。同じ罪を繰り返す人は、愛を土台にしたクリスチャン生活になっているかどうか、心を探っていただきたいと思います。
?神性な欲望による向上心
 この世の人は、向上心をもたらすために欲求が必要だと言います。一方、愛は人の徳を高めます。神性(神のご性質)はさらにすぐれたものへ成熟し、成長していくので、私たちに神に近づくように求めておられ、向上心を促されます。神様からの向上心は欲望のためでなく、徳を高めるものです。人格的なこの欲求は、とても健全な欲求です。神の愛も感情的なものではなく人格的なもの、という理解は、私たちをとても冷静にします。神の愛は、忠告を与え、したい放題にさせるものではないことを理解すると、理論的には、愛によって自分の心をコントロールできるようになっていくはずです。

3.『探求神愛』(たんきゅうしんあい)(箴言8:17)
“わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見つける。”
 「わたしを愛する者を、わたしは愛する」とは、たとえ愛してほしくないような相手が愛してくれる時も、全部受け入れることを示し、本当に深い意味があります。
★『探求神愛』(たんきゅうしんあい)の意味 ※『探求神愛』は造語です。
 『まことの愛』である『神の愛』を熱心に追い求めること。
●『わたしを愛する者』とは『わたしを熱心に捜す者』という意味。
       熱心に捜す⇒存在価値が高い。
 失ったものの価値を高く評価しているので、熱心に捜すのです。「わたしを愛する者」とは、存在価値を非常に高く感じているという意味です。みなさんは、神様に対して熱心に捜すほどの価値評価を持っておられますか。自分にとって神様が熱心に捜すほどの存在であるかどうか、いつも点検することが必要です。
●『わたしを愛する』とは『わたしを見つける』という意味。
 見つける⇒存在の喜びを実感。
 今日みなさんは、神様を見つけておられますか。見つけておられる割には喜びが少ないのは、捜していないからです。教会に来れば神様がおられると思っていると、捜さなくてもよいので、神様がおられてもさほどうれしく感じないでしょう。しかし、問題があって絶対に礼拝で神様に求めようと探し求めて来た人は、恵まれる確率は高いです。見つけて、喜びがあふれるからです。この見つけ出した喜びを、クリスチャン生活で感じておられますか。「愛の神様の存在が、私の存在の支えである」という神様への価値評価を持つことが大切ではないでしょうか。神様は、ひとり子イエス・キリストということばで、罪人である私たちの存在を、どれほど高い評価を持っているかを表されました。罪人である私たちの存在が、神の目には高価で尊いのです。そればかりか、私たちの存在があってこそ神様の存在が成り立っているとお考えになるほど、私たちを愛しておられるのです。神様が生きておられる価値は、私たちがいるからと言われるほど、私たちのことを思っておられるのです。(現実は、神様あっての万物なのです!)それほど私たちを高く評価してくださっているということです。
創造主を愛するとはー
   ?愛の存在を大事にする
   ?互いの存在を大事にする
   ?大事なものを与える
 神様は私たちが互いに愛し合うところに存在されます。夫婦の愛が結び合わされていると、常に夫婦の間に神様が存在されるということです。そこにきよい愛を育んでいくことができます。神の家族も「互いに愛し合う」信頼関係を築き上げるにあたって、大事なものを与える行為によって表現します。
 創造主なる神様を愛していると言いながら、神様に私たちは大事なものをささげているでしょうか。神様に喜んでいただけるあなたの大事なものとは、存在そのものであるいのちです。それを神様に与えるとは、神様に喜んでもらえるものに、いのちを費やすことです。今日みなさんがそのいのちをもって賛美し、ささげものをし、互いに交わりを持つ時に、神様に大事なものをささげているという気持ちでしておられるかどうか、ですね。このように考えていくと、私たちも神様を愛することができます。
 
 <注意点>
 ●愛は自己中心を助長させることをしない
  ・願い通りになるのは間違った愛の考え方
  ・言いなりになるのは、自分に注目してほしい欲求から出た愛で偽物。
 
 ●愛は「神性」かつ「神聖」であることを忘れない〜愛は徳を建てる
  ・本当の意味で間違いを正す愛を信頼するように。
 
 ●「好き」と「恋」と「愛」を区別する
  ・「好き」…一人一人の価値判断が基準
  ・「恋」…感情中心。理性を乱す。
  ・「愛」…存在そのものを認める。(意志表示する)
 
 キリストのからだとして、みなが大事な存在として認め合う。
 神は罪人であっても私たちを大事な存在として認めてくださっている。