■2012年4月29日 日曜礼拝メッセージより(牧師 辻 百合子 師)

 勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、
信仰を守り通すために 
 up 2012.4.29

 

 

 

 つい先日、私たちは愛する久富次子姉妹を天に送りました。彼女はこれまでの人生全てを通して自分の子供たちに教え、共に毎日祈り、また神様の御心の聞き方を主から学ぶことができるように、毎日子供たちと時間をもちました。彼女自身の苦しみや人生の戦いを、最後の息を引き取るまで走りとおした姿を自分の子供たちに見せました。この姉妹の姿を胸に刻んで、今日は次のテーマでお話ししたいと思います。
 ブライダルファッションデザイナーの桂由美さんのオートクチュールコレクションで、メイクアップアーティストとして活躍しておられる、木村さんという一人の女性がおられます。彼女は大変な競争率の厳しいテストに合格してスタッフになったのですが、最初の仕事は口紅のベースを下塗りすることだけ、でした。多くの人がすばらしいキャリアを背負ってつかんだ合格を、「こんな地味な仕事のために入ったのではない」とか、「私の方が先生よりも良いやり方を持っている」などと考え、せっかくのチャンスを捨てて去ってしまう中、彼女は下積みを黙々とこなし、経験を積んでいきました。何年もの歳月を経て今から四年前、ついにパリコレのアーティストとしての表舞台に起用されるというチャンスが与えられ、それからミュージカル、コンサート、オペラなどのスタッフとしても声がかかるようになり、現在の活躍に至ります。今はヘアーメイクも手がけるようになり、色々なことを学びながらさらに成長を続けている方です。彼女には三つの信条があります。この三つはクリスチャンたちも霊的な意味で大切なことだと思います。

1.自分はあくまでも黒子の存在だ。
 自分がメイクを担当した人々がどんなに輝く場所にいても、自分にはそのライトは一生当たらない。それを彼女は自覚し、これからもずっと心に刻み付けて自分を律するのです。
 歌舞伎や人形浄瑠璃などで、黒の衣装に身を包み、舞台を手助けする人々が黒子です。黒子の生き方は自分の存在を消すことであり、クリスチャン的には、自分の肉に死に、自我に死ぬことです。私たちは人々の目や関心を自分に向けたい誘惑にかられたり、スポットライトを浴びる人々をねたんだりうらやんだり、「自分のおかげで目立っている」と自分の功績にしたがったりします。そうしてこの世界には、人を傷つけたり蹴落としたり、見るに耐えない複雑で醜い、汚れた心の現れがそこかしこに存在するのです。心に苦い根が生じ、憎しみ、ねたみから出る競争心が、全然分野が違うにもかかわらず、相手を引き下ろす心になるからです。
 また、人と比べて日陰の存在である自分を見て悲しくなったり、感情的に落ち込んだりすると、舞台そのものが影響を受け、完成されることがなくなってしまうため、黒子としての存在意義もなくなります。人格が磨き上げられるには時間が必要です。黒子であることに撤することができたならば、黒子としてのすばらしい働きを全う出来るため、自分の働きを生涯忠実にやりとげることができるのです。もし黒子が自己欲に支配されて行動するならば、その心が舞台を成立させなくなってしまうので、その黒子は舞台から去らねばなりません。賞を受ける一本の映画にも、多くの黒子たちが一つのチームとして働いています。彼らが制作者の願い通りに作品を表現できなければ、人々に感動を与えることはできません。
 教会はキリストのからだです。教会では、キリストが私たちのスターであり、私たちはその黒子です。キリストが建て上げておられる教会を陰で支え助けます。教会において自分の肉を目立たせようとするならば、神様のすばらしい栄光と働きがつぶされてしまいます。私たちのヒーローはイエス様なのですから、イエス様に人々の目が留められ、届くように、私たちはどんな働きであっても、どんな状況であっても、そのために自分の働きを全うすることがとても大切になります。「自分は目立たないから、いてもいなくても同じ。意味がない存在なんだ。」と見た目には思えても、肝臓や腎臓が体を健康に保つために欠かせないものであるように、静かで目立たないものほど実は重要な役目を担っているものです。私たちにとって不必要なものなどありません。
“ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。”(第1コリント12:12)
 ここには記しませんが、(第1コリント12:14〜27)も参照しておいてください。私たちがキリストの各器官としてみな大事であり、互いを支え合い、いたわり合い、つながりが存在しているということを知っていってください。黒子としての存在は、ヒーローが誰かを示し、その方に栄光を帰するものです。聖書で黒子の手本としての生き方を示したのが、バプテスマのヨハネです。
“「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」”(ヨハネ3:30)
(ヨハネ3:22〜30)を参照してください。
 バプテスマのヨハネは、自分が「花婿の友人」であり決して主役ではないこと、そして主役であるイエス様が来られたからには、自分はその役目を退くことを知っていました。彼が役目を果たし終えた後、ヘロデに殺され、この世から去っていきました。私たちも黒子に撤するべき自分の人生に対しての覚悟をもう一度、一人一人が見直すべき時ではないでしょうか。

2.一度失敗したら次はない。
 彼女はいつもこのことを覚悟して、20sもある化粧道具のキャリーバッグを持ち、毎日現場へ向かいます。雨の日も風の日も、体調が悪くてもその姿勢は変わりません。一回一回の働きに対してどれほど真剣に取り組んでいるでしょうか。彼女にとっては一回一回が真剣勝負です。失敗が即失脚につながる彼女の業界と比べて、多くのクリスチャンたちがいかに甘えの構造の中に生きているかがわかります。「何度失敗しても赦される」からと、失敗に対して安易な考えを持っています。こんな考えのままでは、肉や罪との戦いがいいかげんなものになり、妥協的なクリスチャンが増えていきます。この世での生活には必死なのに、神様に対してはなんとなまぬるく、いいかげんで安易で怠け心を持ってのぞんでいることか。この甘えの構造はクリスチャン人生を台無しにしてしまいます。
“あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。”(ヘブル12:4)
 霊的な戦いはいつでも真剣勝負です。神様の敵は全勢力を投じ、全軍団を率いて、私たちを倒すために襲ってきます。それもいろいろな角度からです。時間も策略もしっかり練って、いつも私たちを倒す機会をうかがっています。たとえクリスチャンをやめなくても、実質的に何の役にも立たないクリスチャンにさせてしまうのです。このことによって、命がけの姿勢で主に近づき、罪や誘惑、この世の影響に勝利するために真剣な取り組みをすることがどんなに大事かということを思わされます。木村さんについてもう一つ思わされるのは、彼女が高いビジョンや目標を持っていたから、一回一回を真剣勝負で取り組むことができたのではないか、ということです。「これを達成したい」という高いビジョンや目標があればこそ、どんな苦しみにも耐え、へりくだって、決してあきらめないでいられたのではないでしょうか。
“幻がなければ、民はほしいままにふるまう。”(箴言29:18)
 神様からのビジョンや使命をしっかりと悟り、受け止め、そのために生きようとしなければ、踏みつけられ、また滅んでいきます。私たちは神様の目標や使命を持っていないと、すぐに怠け心が出るのです。学生たちも入学試験などが迫れば必死に勉強します。ところが本番まで時間ができると、とたんに怠け心に負けます。ですから、私たちに必要なのは自分の幻や願いではなく、肉の願いでもなく、神様からのビジョン、神様からの目標、使命、神様からの幻をしっかりと受け止めることです。口語訳では“幻なき民は滅びる。”とありますが、神様からの預言がハッキリと示されることが、どれほど私たちの人生において大事なことかを認識してください。それがないと怠け心が起きて、妥協したクリスチャンになり、人生を台無しにしてしまいます。この怠け心、妥協というものは、器にたとえるなら、汚れを落として清めるのをやめさせることです。
“ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。”(第2テモテ2:21)
 「大きな家にはいろいろな器がある。そして主に属する者を神は知っておられるのだから、その者は不義から離れなさい。」というおことばが、この前の節にあります。ですから私たちも怠け心や妥協して生きるなら、不義から離れない、器を清めないことになるので、自分をきよめようとしない生き方になります。すると良いわざに間に合わなくなり、器として未完成で終わるのです。私たちが最後まで走り抜いて、勇敢に戦い抜いていくためには、真剣勝負という心を持つことが大事であり、この心を持つためには、神様からのビジョンと使命を受け取ることがどれだけ大事かを思わされます。

3.いつも時代に敏感であること。
 木村さんの仕事にとって欠かせないことです。それはとても研ぎすまされた心であり、クリスチャンとしては目覚めた心、聞く心を意味します。
人々を抜きにして時代という言葉は語れません。ですから、人々のニーズに敏感になることは大事なことです。どう応答したらいいのか、どんなものがその人たちの要求にふさわしく応えられるのか。これは救霊に対しても同じことがいえます。私たちが自分のスタイルをいつまでも通していくなら、時代は変わっていって、私たちの時代に当たり前だったことがそうでなくなっているのに、ふさわしくない対応をしていることになります。もちろん心の必要は変わりません。人が永遠に求め続けているのはいつでも、「変わらない愛」です。しかし、それをどのようにして人々に紹介していくかが肝心です。イエス様は昨日も今日もいつまでも変わらない方ですが、日本ではちょんまげのイエス様かもしれませんし、サウジアラビアなどに行けば、ターバンを巻いたイエス様なのかもしれません。それぞれの国や必要性に応じたイエス様が人々に紹介されるためには、対象となる人々がどういうものを求め、どういうものに関心を持っているかよく知ることが大切です。
 もう一つ、大事なことがあります。時のしるしや、時代を見極めることです。今は悪い時代、罪の時代、やみの支配する時代ですが、同時に恵みの日、恵みの時、救いの時でもあります。今はこの二つが並行して存在する時代なのです。ですから、私たちは時代を見分け、時のしるしをしっかりと見極めることが大事になります。と言いますのは、かつてイスラエル、エルサレムの人々は主の訪れの時を見過ごしてしまったことにより、後は裁きしか残っていなかったという歴史的事実があるからです。
“「朝には『朝焼けでどんよりしているから、きょうは荒れ模様だ。』と言う。そんなによく、空模様の見分け方を知っていながら、なぜ時のしるしを見分けることができないのですか。」”(マタイ16:3)
“群衆にもこう言われた。「あなたがたは、西に雲が起こるのを見るとすぐに、『にわか雨が来るぞ。』と言い、事実そのとおりになります。また南風が吹きだすと、『暑い日になるぞ。』と言い、事実そのとおりになります。偽善者たち。あなたがたは地や空の現象を見分けることを知りながら、どうして今のこの時代を見分けることができないのですか。また、なぜ自分から進んで、何が正しいかを判断しないのですか。」”(ルカ12:54〜57)
“エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。やがておまえの敵が、おまえに対して累を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」”
(ルカ19:41〜44)
 時代のしるしを見分け、時代そのものを見分ける大切さ。何が正しいか、今どうするべきなのかをよく判断して行動していくこと。時を見逃してしまったら、もう後は裁きしか残っていない、とここでは教えられていると思います。私たちがそのように時代を見分け、時のしるしを見分けるためには、研ぎすまされた、霊的に目覚めた心を持つことが必須ですが、それは祈りによるしかありません。祈りなくして、神様とのパイプラインをしっかりつなぐことはできません。祈りのないままでは神様から何も聞くことはできず、状況が読めないままでこの世を過ごすことになります。それならば、今私たちが何をするべきなのか、どのようにしていったらいいのかは明確です。答えを持っているのは主だけなのですから、その主に聞くために、私たちは日々に祈り心をもって、主の御前に出て行きたいと思います。

 

 

 

 

 

 

■2012年4月22日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛がうちにおられる  up 2012.4.22




神の命令を守る者は神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられます。神が私たちのうちにおられるということは、神が私たちに与えてくださった御霊によって知るのです。
(第1ヨハネ3:24)

 

 

 

 神が私たちの内におられるということは、実は大変なことです。普通一般的な考え方では、神と人との間は遠く考えられ、特別な人にのみ神が内に来てくださると考えられます。しかし、聖書では、神の命令を守る人の内には神がおられると言っています。今日はここから、「愛がうちにおられる」という主題にしました。愛は人格をもっているので、人格者であり、それゆえ「おられる」という表現にしています。教会に来るまでは、愛は感情であると思っていました。しかし、愛は感情だけではなく意志をもっているのです。愛が内にあると、今までとは違う意志が生まれることに気付くでしょう。

1.聖書が教える「愛」(第2ヨハネ1:6)
“愛とは、御父の命令に従って歩むことであり、命令とは、あなたがたが初めから聞いているとおり、愛のうちを歩むことです。”    
 「愛」とは命令に従って歩むことです。感情的に歩むことではなく意志を働かせて歩むことです。意志決定によって歩むことです。それは、「イエス・キリストを信じ、互いに愛し合う」ことです。互いに愛し合うことは、人がまず学ぶべきことであり、そこから人生がスタートします。つまり愛を内に迎え入れることが、人生の土台となるのです。すべての始まりは「愛」によるものです。愛が土台となることは重要なことです。神は愛ですから、愛を基にして命令をされ、私たちもその愛を信じて、命令に従うのです。こういう相互関係ができて、愛が生まれます。そして、その命令とは、その人の存在、霊魂、命を大切にするものです。この3つは人にとって最も大切なものです。
 また、「命令」という漢字の意味は「天からの声を聞くこと」とあります。天からの声は悪を行わせることはありません、善を行わせ、人の存在、霊魂、命を生かすために語られるものです。罪を犯している者には、悔い改めを語ります。それは、その人の命の価値が損なわれて、滅びないためです。例えば、子供が道路に飛び出しそうな時、母親はその子に「危ない!」と叱りつけるでしょう。そのような危険な時に「危ないかもしれませんよ。」と、優しく語る暇はありません。愛ゆえに、叱りつけ、命令するのです。しかし、人の場合は必ずしも愛ゆえの命令とは限りません。時として、自分の欲望を単に満たすためだけの命令もあるでしょう。それは自己中心の命令であり、本当の命令ではありません。本来の正しい命令とは、相手のことを思うゆえに、愛が土台となって出てくるものです。そういうところから、神は私たちに「敵を愛しなさい」と語られます。しかし、私たちの愛は自分の感覚に合うか合わないかという好き嫌いで左右されるので、自分の感覚に合わない相手は嫌いになります。自己中心的な愛だからです。自分にとって価値があると判断するものに愛を感じるのです。だから、そういう愛に、敵を愛するという命令は不可能です。しかし、本当の愛は相手の存在、霊魂、命を大切にするということを知り、その愛を内に迎える時、敵をも愛することができるようになります。
 礼拝の前に紹介された、あるノンフィクションの本の女性のように、ルワンダの民族紛争による大量虐殺で、今まで親しくしていた友人知人に、突然家族を殺され、相手を殺したいと憎しみに燃えていたのに、神の愛を内に迎えてから、相手を許せるようになり、刑務所に行って、実際に家族を虐殺した相手に対して「あなたを許します」と語るという、人間的には不可能な「敵を愛する愛」を実践できるようになるのです。彼女の耳に聞こえた「彼らもわたしの子である」という神の声が、彼女の心を変えました。彼女にとっては敵であっても、神にとっては、どちらも「我が子」なのです。この意味を彼女は頭ではなく、心で悟りました。殺された方は神の恵みと憐みの内に天の御国に行けるでしょう。しかし、憐みもなく最も大切な命を奪った者には、神の恵みと憐みは向けられず、滅びしか残されていません。本来何よりも価値がある神の形に創造された存在である人が、互いに殺しあい憎み合っていく、しかも、殺される方も殺す方も神の子どもたちなのです。神のお心はどんなに痛まれることでしょうか。
 本来は助け合うために発展してきた経済も、貪欲という自己中心の愛によって、むしろ弱肉強食の世界が生まれ、強者が弱者を顧みない世の中の仕組みが出来上がっています。今の経済発展のエネルギーは貪欲になってしまっています。そこでは正しい報酬が支払われず、正しく労苦が評価されません。農家の方が苦労して作られた野菜も安くたたかれてしまうのです。それゆえ、安くたくさん作るために、手間のいらない農薬がふんだんに使われることになります。好き嫌いで愛を考えていると大切な人を傷つけ、ともに生きることが難しくなっていきます。しかし、神はどんな人にもいつか本当の愛がわかるようになると期待して、地上の人生を導いてくださっています。生きているということは、改めていける時間が与えられているということなのです。この貴重な時間を無駄に使ってしまったら、本当にもったいないことです。神の御心を考えてみましょう。私たちも、敵を愛するというのは、敵の心が変わり、改められることを願って愛するのです。本当の愛が敵の心を包み、空しい人生から、人本来の愛に変えられていくことを願うからです。
 子育てでも、自分の思い通りに子供がなるように育てていたら、そうならない時に苛立ちます。しかし、子供の存在自体を愛していたら、苛立ちません。それは、明日に期待し、明日に備えるために、子供を育てていけるからです。私は子育てで苛立った時、この子は私の所有物ではない、神の命がさずかった、ひとりの人格者を育てているのだと、正しい良心の声に聞くようにしてきました。自分の都合や好き嫌いで人をみるのではなく、何がその人の存在にとって益となるのかと見ていくようにしましょう。

2.内住の神を御霊によって知る(マタイ7:16)
“あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。”
 私たちの内におられる内住の神をどのようにして知ることができるでしょうか。それは、(ガラテヤ5:22-23)にあるように、9つの御霊の実から知ることができます。「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」こういうものが内側に実ってくると、私たちの心は善悪に敏感になり、罪を犯すと咎めを持ちやすくなってゆきます。クリスチャンが成長してくると、自分がいかに罪を犯しやすい者であるかに気付くようになってきます。それは、神が内におられる証拠です。しかし、長い信仰生活を送る内になんの咎めも持たなくなっているなら、それは、せっかくの御霊の実が実らずに腐ってしまっていることであり、御霊がおられなくなってしまったということになります。これは怖いことです。咎めを持つと苦しいので、咎めをもたないように無視し始めます。そうすると、その実は腐ってしまい、ならなくなってしまうのです。良心の咎めを無視して逃れるのではなく、悔い改めていくことが大切です。それが神の子として成長していくことです。
 では、外から見て、その人に御霊の実があるとどうしてわかるでしょうか。それは、(第1コリント13:4-7)によります。例えば、ねたむということをしません。ねたましい感情が湧いてきても、自制して、心をそこに向けないようにします。また、礼儀にかなったことをしたいという思いが湧いてきて、それが行動や表情になって出てくるのです。内側にあるものがにじみ出てくるようになります。これらは、まとめて言うなら、赦しの愛です。徳が高まる時、人を赦すことができるようになります。それは、御霊の愛が私たちの知・情・意に働きかけ、徳を高めるからです。愛の中心は相手の存在の益になるように、徳が高められるように働きかけるものです。

3.『気宇壮大』(きうそうだい)(ローマ8:11)
“もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。”  
 気宇壮大とは、大きな愛の心ともいえます。神は霊であり、愛です。神は御霊であり、御霊は愛です。御霊が内におられることによって、死ぬべきからだ、役立たずで、自己中心で、マイナス志向になってしまうからだの方向が、逆に生かされる方向に導かれるようになります。徳が高められ、気宇壮大の心になっていくのです。愛に触れれば、人はそのように変えられていきます。神はそのために、キリストを遣わされ、十字架の贖いをしてくださいました。もはや、私たちが罪の裁きを受けないですむようにしてくださったのです。神は愛によって、私たちにチャンスを与えてくださっています。イエスさまが再臨されるまでに、心を入れ替えて、二度と罪の奴隷にならないよう日々悔い改めていきましょう。私たちはその大きな神の愛によって生かされています。それゆえ、私たち自身もその愛をもつ者へと変えられるよう、御霊に満たされることをもっと求めましょう。

 

 

 

 

 

 

■2012年4月15日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛は命令を喜ぶ  up 2012.4.15




神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。
(第1ヨハネ3:23)

 

 

 

 命令は必ずしも強いられるものではありません。愛があれば命令を喜ぶことができます。愛している人からの命令は喜ばしいものなのです。しかし前もって注意しておきますが、聞いたからといってすぐ実行できるとは限りません。まだ私たちはお互い未熟な者です。できないからこそ、ゴールを目指しているのです。

1.命令を受け止める心
A)(ローマ5:11)
“そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。”
 ギリシャ語では、「大いに喜ぶ」は「誇る」と訳することもできます。たとえば、広島に古くから住んでいる人々にとって、野球チーム「広島カープ」は特別な存在であり、たとえ弱くても、勝てない日があっても、広島の復興を共に支えてきた歴史の故に、ファンにとっては誇りであり、存在自体が喜ばしいものです。これが大いに喜ぶということなのです。
 私たちは神様、イエス様を大いに喜ぶべき存在として受け入れているでしょうか。誇れる方として関係を持つことができていますか。誇れる方からのおことばであれば、どんなものであっても、喜んで受け入れることができるはずです。とすれば、なぜ聖書のことばに対して反抗する気持ちが出てくるのでしょうか。それは、和解が成立していないからです。神様は和解成立のための条件をすべて整えてくださり、神ご自身が和解に同意してくださっています。それなのに神様の手を払いのけてしまう理由は、自己中心です。古き人は神様を無視し、敬わない不敬虔な思いであり、自分の思いのままに物事を進めたい心です。それは御利益宗教の中に見られるものです。本当の神様は、自己中心の心から出た願いは聞いてくださいません。自己中心は和解を妨げる問題点だからです。和解とは歩み寄りであり、私たちがイエス様を信じるという一歩を踏み出せば、神様は罪を赦すというとんでもない歩数の歩み寄りをしてくださいます。「神に近づきなさい。そうすれば神もあなたがたに近づいてくださいます。」というみことばは、実のところ、神様はすでに私たちのすぐそばまで歩み寄ってくださっており、後は私たちが一歩近づくだけの状態なのです。十字架はすべての隔たりを取り除いてくださっています。私たちは神様のお心を信じ受け止めるだけです。それなのに「それを受け止めたらわがままができなくなる。」という肉の心が邪魔をするのです。動機が肉の心から始まると、ガラテヤ書にあるように「肉から滅びを刈り取る」ことになるので、たとえ目的が神のみこころに沿ったものであっても、神はその願いを聞き届けられません。「みこころを実行しているのにうまくいかない」のは、その心の動機に肉的なものが隠れているからです。この世は欲望を動機としており、欲を起こさせ、成長し、発展していきます。これが経済社会の基本ですが、欲望は結果を追い求めるがゆえに、まわりに多大な迷惑をかけることが多いものです。対して愛を原動力とした意欲はあきらめることがなく、人を傷つけません。
 神との和解がないのに願いが聞かれるでしょうか。私たちはいつも和解が持続されているかどうかをまず吟味する必要があります。自己中心という肉の動機が中心になっていないか、よく考えてください。和解を受け入れる心は正しい良心から来ています。洗礼を受ける人は、正しい良心をもって神の御前で心を開き、和解のしるしであるキリストを受け入れます。もし、願いを聞き届けてもらいたいという肉の心で洗礼を受けたなら、救われることはないでしょう。神の愛、導きの手、神の支えを感じ、創造主が自分に心を向けてくださっていることを知り、この方の存在に心を開く、これは正しい良心の目覚めです。その心を持ってこれから神の愛に励まされ、神様の愛に従って歩んでいく決意を表すのが洗礼です。ただ、このことを最初から理解している人もいれば、だんだん理解していく人もいます。いずれにせよ、神様はその人の心の中にある救いへの魂の叫びをご存じです。だからこそ、隠れた自己中心、わがままの動機も神は見抜かれるのです。正しい良心に心を入れ替えるならば、あなたの願いは聞き届けられるのです。私たちは洗礼を受けた時から、イエス様の姿に徐々に造り変えられていくのですが、それは和解があるからです。助け主なる聖霊様が共に歩んでくださるというこのすばらしい約束も、和解あればこそです。私たちが幼い信仰の時には、神様への信頼を強めるために、多少のわがままも聞いてくださることがありますが、正しい良心を成長させるために限度を設けられます。和解を成立させないままクリスチャン生活を送り続けると、いつか行き詰まる時が来ます.祈りが聞かれなくなり、自分の努力で実を結ぶしかなくなります。それはもう信仰による歩みではありません。そういう飾りのクリスチャンにならないように気をつけましょう。

B)(第2ペテロ1:2)
“神と私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。”
 恵みは、要求していただくものではありませんね。神様の前に願ったことが聞き届けられた時に、願った以上のものが加えられてきた時に、それを豊かな恵みと言います。本当は欲しかったけれども贅沢だとあきらめていたものが与えられたなら、誰しもうれしいでしょう。こんな豊かな恵みを受けるためには、より深く相手を知ることが必要です。主イエスを深く知っていくことによって、恵みと平安がますます深くなっていくとペテロは私たちに言っているのです。思いもよらない恵みが与えられるには、良い関係が必要です。相手がどういう人なのかよく知り、行動し、関係を結んでいたなら、思わぬプレゼントをいただけることが多いのです。私たちも神様をよく理解していたら、喜んで私たちの願いに応えてくださり、プラスアルファをしてくださる方だということを理解しておいてください。断食などでわがままを通すこともできないわけではありませんが、神様に「何が欲しいのか。」ときいてもらえるのがベストでしょう。そのためには聖書をよく読んで、父なる神様、イエス様がどんな方かを知ればいいのです。祈りによく応えられる人は、神様のことをよく知っています。みこころにかなう願いを持つためには、キリストをよく理解しておくことが必要です。そうすれば、神様は願い以上のものをかなえてくださいます。(Tヨハネ5章)に出てくる「みこころにかなう願いをするなら何でも答えてくださる」というみことばがありますが、私たちはみこころと自分の願いはいつでも違っていて、自分の願いを変えねばならないと思いがちです。しかし、正しい良心からの願いは、みこころにかなう願いになるのです。願いの大小に関わらず、自己達成の欲望を満たす動機から出た願いは、たとえ神様のお考えになった計画であっても、あなたの祈りによってそれがかなえられることはないでしょう。私たちが物事について正しい良心をもって考えていく時に、今どうするべきかによって自分の願いがかなえられる、ということを、正しい良心をもって考えていくことが大切です。
 肉から出た欲望と正しい良心とは、全く違う部分があります。肉は今すぐに願いがかなえられなければ満足できず、延ばされたり忠告を受けたりすると、怒り、いらだち、非協力的になります。正しい良心は時をわきまえるので、決して反抗的になりません。このような見分け方なども含めて、イエス様を深く知っていくことによって、自分の心を、みこころに沿った思いによって願うことができるようになっていきます。自分中心に神を動かそうとするから、聖書を難しく感じるのであって、愛があれば「やってみよう」という気持ちがずっと続いて、失敗を重ねながらも一歩一歩ゴールに近づいていくことができます。正しい良心に意識を持たせるよう、日々心掛けていきましょう。

C)(第1ヨハネ3:16)
“キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。”
 「いのちを捨てる関係」は、命令を受け止める上で最も完成されたかたちです。「いのちを捨てる」のは、愛がわからなければ絶対に実行できません。歴史の中でキリストのために殉教していった多くの方々がおられますが、彼らには愛がわかったのです。肉の思いは「自分の好きなようにできない」「いのちを捨てなければいけないなら、神様の愛をわかろうとしない方がいい」と考えます。「神の愛をわかりたくない」と無意識に思うと、「十字架がわからない」「愛がわからない」とうそぶくのです。この反応を見ても、肉の心で聞いているか、正しい良心で聞いているかを判断することができます。今の話を聞いて反抗的な気持ちがわき起こった人は、完全に肉の心に意識が向いています。これを制しないままでいると、肉の種を蒔くことになり、死を刈り取る結末を迎えます。正しい良心に意識を切り替え、愛に触れる心に変えていかなければ、喜んでみことばを聞くことは難しいでしょう。そういう傲慢さ、心のかたくなさが染み付いてくると、その人をこれ以上悪い方へ向かわせないために、神様はその人を窮地に追い込まれることがあります。神様の愛は、窮地においての助けによって、最も良く知ることができます。そして「私はこんなに愛されていたんだ」と気づくのです。愛がわかると心も変わります。しかし、いのちを捨てるほどの愛がわかるには時間がかかりますから、焦らないようにしましょう。聞いたからしなければならない、というわけではありません。でも、神様の愛によってそういう思いが込み上げてきたなら、主のために献身しようという行動が出てきます。このように、愛によって動かされる歩みをしてください。
 私たちは心砕かれた時に愛がわかることが多いものです。ですから、つらく苦しい時は心が一番砕かれ、へりくだっている時なので、神の愛に触れやすい時といえます。こう考えると、困難やつらい時は神様の恵みである、と受け止めることができるような心に変えられると思います。

2.『良禽択木』(りょうきんたくぼく)(詩篇119:47〜48)
“私は、あなたの仰せを喜びとします。それは私の愛するものです。私は私の愛するあなたの仰せに手を差し伸べ、あなたのおきてに思いを潜めましょう。”
★『良禽択木』(りょうきんたくぼく)の意味
 賢い鳥は、すみやすく外敵や食物の心配のない、良い木を選んで巣を作るという意から、賢者は立派な主人を選んで仕える事のたとえ。
 神様の命令のおことばに目を向け、思いを潜める、そこに神様の思いが含まれていることを感じていけば、私たちは命令さえも喜びに変わります。あなたは賢い人でしょう。それならば、あなたのためにいのちを捨てて罪の贖いを成し遂げてくださった方を、あなたの生涯の神、王の王、主の主として選びましょう。あなたをお作りになった方は、あなたを100%活かすことのできる方です。そういうすばらしい賢い主人として選んでついていこう、その愛を信頼していこう、という心がある人は、その仰せを喜びとし、それを愛するものとして受け止めます。
 たとえを挙げてみましょう。野球部の新入部員は最初、ランニングと球拾いと道具の後片付けくらいしかさせてもらえません。しかしこれには意味があって、ランニングは基礎体力づくり、球拾いはボールが飛んでくる方向を瞬時に見定めるための訓練なのです。これらの意味を知っている者は喜んでランニングや球拾いをします。彼らはレギュラーになるという目標を持っていますから、その訓練は心地よいものとなります。
 では私たちの神様の命令はどんな目的をもった命令なのでしょうか?私たちがレギュラー選手になることができるための基本的な教えです。それはキリストの姿に変えられる道としてあります。キリストの姿に変えられる以外に人間の道はないのです。神のかたちである私たちは、神のかたちであるキリストの姿に到達することが本分です。いろんな道で成功してきた人々が、なぜか最後には精神的、内面的な徳を欲するようになるのは、やはり人が神のかたちに似せて造られているからです。
 いろんな仕事や技術を極めていくのも、キリストの姿に変えられていくための神様から与えられた道です。正しい良心からこのように受け止めていかなければ、自分勝手で自己満足な道を選ぶことによって、いずれ挫折を味わい、あるいは永遠のいのちから離れてしまいます。キリストの姿に変えられる道として神様のおことばを捉えるなら、私たちは手を差し伸べ、その命令に心を潜めていきます。みことばは義務ではなく、私たちが目指しているものを手にするための道筋としての神様の仰せなのです。そう受け止めることができれば、神様の仰せは愛するもの、喜ぶべきものとなります。そこに至るために、最初の3つのポイントを点検しながら、少しずつ聖霊様の取り扱いによって変えられていただきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

■2012年4月8日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛が復活をもたらす  up 2012.4.8




イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
(ヨハネ11:25〜26)

 

 

 

 みことばの「わたし」を「愛」に置き換えて読んでみますと、ニュアンスが変わってきませんか。救い主イエス・キリストは、神の愛の見えるかたちだと聖書は教えています。結婚式での指輪の交換でもわかるように、愛が言葉だけでなく形を通して表されると、その愛を信じることができるようになります。神様は、イエスという人のかたちとなって、その愛を表してくださいました。「この愛を信じる者は死んでも生きる」とは、よみがえるということです。人が生きる喜びを一番感じるー言うなれば幸せな時は、愛を信じることができた時です。しかし愛を信じられなくなった時に複雑な思いが生まれ、損得勘定で人を量る関係は、死んだ関係と言えるかもしれません。今日は、「愛があるからこそよみがえる」ことを、聖書からお話させていただきます。

1.『復活祭』の豆知識
A)イースター(Easter)
ゲルマン民族にある神話の春の女神の名「エオストレ」(Eostre)、または、ゲルマン人が用いた春の月名「エオストレモナト」(Eostoremonat)といわれている。また、イースター・エッグやイースター・バニーが復活祭のシンボルとされているのも、ゲルマン人の祭りに由来している。
B)パスカ(Psicha)=ラテン語
ラテン語系の地域で呼ばれている。
ギリシャ語のパスハは、おもに正教会が大復活祭として呼んでいる。
この言葉は、旧約聖書にある「過ぎ越の祭り」ペサハ(Pesach)に由来し、
アラム語「パスハ」⇒ギリシャ語「パスハ」と使われるようになった。
「過ぎ越の祭り」⇒【参照】出エジプト12:21〜27
この祭りは、キリストの死と葬りと復活を象徴した祭りである。

2.みこころにかなった復活(第1コリント15:42〜44)
“死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。”
 ここにはっきりと死者の復活と書かれています。死とは体の死を意味し、それが別の体としてよみがえるという、神様のすばらしい約束があります。しかし「死者」とは、肉体が死の状態にある人だけを言うのではありません。落とし物の180万円を着服していた巡査部長は、生きていても、警察官としては死んだ者だと言えます。一方、復帰は困難といわれるほどの大けがを乗り越え、見事に復帰した高橋大輔選手は、大けがをした時はフィギュアスケーターとしては演技ができない死んだ状態でしたが、手術、リハビリを経てみごとに復活を果たしました。最近では、ひん死の猫が獣医さんの手によって復活したニュースがありました。聖書には、街で一旗揚げようと、父親の制止を振り切って、財産の分け前をもらって出て行った弟息子が、誘惑に負けてすべて使い果たして惨めな状態になって間違いに気づき、父親にあやまりに戻ったところ、父親は「死んでいた息子が生き返った」と迎え入れてくれたというたとえ話があります。心が離れていた時の息子は親にとって「死んだ」状態でしたが、父親の愛の温もりに気づいて帰ってきたことで「生き返った」のです。
また昨年召天された、やくざ歴20年の高原義郎氏は、父親のひどい酒癖、女性問題で、母親は夜逃げ、兄と自分だけ残されて、食べる物もない本当に苦しい人生の中で、「まじめに生きても悪く生きても最後は死んで灰になるだけなら、好き勝手に生きよう。」とやくざの世界に入りました。妻との間に息子をもうけたものの悪行を重ね、家族に迷惑をかけ続けたそうです。そして覚せい剤に手を出し、錯乱状態になって強制入院。その時生別したお母さんが教会に行っており、高原氏のために教会の皆さんと必死で祈ったところ、奇跡的に一週間で退院。その後、お母さんに勧められるまま、教会に行った時に、理屈抜きに「イエス・キリストはあなたの罪を赦すため十字架で身代わりに苦しまれた。あなたは赦されている。」と霊魂、心で受け止めたのです。自分が赦されるために代価を支払ってくださった方がいるーこんな愛が内に起こされ、覚せい剤もやくざもやめようとして一緒に教会に行った組長も、聖書の話に感動して組は解散になりました。足を洗うことができた高原氏は、心がどんどん変えられ、奥さんとも復縁。ミッションバラバの信徒伝道者として、全世界を回って神の愛を伝えました。これも復活です。このように地上でも私たちは復活が味わえるのです。それには愛が注がれていることが条件です。ひん死の猫を助けようとした人、高橋選手のリハビリを支えた人がいたように、あなたを応援する人がいたはずです。愛は人の心を変え、よみがえらせてもう一度やってみようという気持ちを起こさせます。
 神様は私たちの心だけでなく、心にふさわしい体も与えてくださるという意味で「みこころにかなった復活」としてこのみことばを紹介しました。神様は私たちの人生を種のように例えておられます。種の中には、蒔いてなった実を見て初めて、何の種かわかるものもあります。たとえ朽ちるもの、卑しいもの、弱いもの…で生まれてきたとしても、蒔かれると、強い栄光あるものに収穫されるのです。種の殻としてこの肉体があり、内側に神のかたちが与えられています。神のかたちの実が結ばれて、神のかたちが表れてくるためには、今の卑しいこの肉体が死ななければなりません。
(ヨハネ12:24)
“まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。” 
 死は、完全になくなってしまうものではありません。種の中にはいのち(魂、霊)が宿っていて、外側が破られて内側から本当の姿が出てくるのです。そのためには苦しむことがありうるのですが、それを乗り越えると芽が出て成長して、豊かな実を結びます。だから、死は復活のためにあると考えてはいかがでしょうか。優れたものへと復活するために、死というプロセスを通ることを神はお考えになったのではないかと思われます。「死ななければ、生かされないものがある」というのは、熟練した達人の名言でよく耳にします。「死と復活」は神が定められた原則です。人生の悟りを開くときに、死は未来に望みを開く大事なプロセスだと受け止められるのではないでしょうか。死は決して忌まわしいものではなく、聖書ではすぐれたものによみがえるという希望だと言っています。もし今みなさんが試練を通っておられ、自分では何もできない死のような状態を感じておられるのなら、よみがえりが待っています。しかし同時に、家族、友人による愛の水が注がれる必要があります。永遠の神の御国へのよみがえりは、神の愛によってなされます。しかも、あなたの心の状態の姿でよみがえるというのです。私たちは蒔かれた人生でどのように歩むかで、どんな実が生まれてくるかわかります。心のみにくさがあっても、死の苦しみを通して、人々からの愛、神様からの愛に気づき、心入れ替えられて、やり直そうとする気持ちが与えられます。その人の思いどおりになることが愛ではなく、愛はいのち、人徳になることを考えていくことです。なぜなら、その人徳がよみがえった人生の刈り取りの実のかたちとなるからです。みにくい心を育てたら、みにくい実を刈り取ることになります。 
 亡くなられた方々がどのような人生を送られたかは、見ている部分でしか判断できません。しかし、すべてを見ておられる神様が、クリスチャンであってもなくても一人一人その行いに応じてさばきをなされる、つまり人生の種蒔きの刈り取りをするということです。みなさんは先祖を大事にする心が根付いておられるわけですから、立派な人徳ある生き方をすれば、故人は喜びます。亡くなられた方々は、悪い思いを持たせる肉体から魂が離れて本心に目覚める時に、自分がしてきた行いの当然の報いを受けていると、後悔しておられるのではないでしょうか。私たちは、亡くなられた方々を礎として、その方の生き方を反面教師としたり、手本にしたりして、その方より立派な人徳を目指すことが大切ではないでしょうか。その方々を偲ぶことは、私たちの将来に大きな助けになります。「死んでからわかる親の愛」ー親孝行ができなかったなら、せめて親の恩に報いる生き方へと心を変えていただければ安心されるのではないでしょうか。亡くなった方々は、今は体はありませんが、霊魂として存在し、私たちを知っています。そして再び会う時まで、今よりもっとすぐれた者となるため、今をどう生きるか考えていきましょう。

3.『万能一心』(ばんのういっしん)をもって愛し合う
(詩篇126:5〜6)
“涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。”
★『万能一心』(ばんのういっしん)の意味
 何事をするにも、心を集中してしなければならないということ。また、あらゆる技芸をこなせても、真心が欠けていれば、何の役にも立たないということ。万能よりも真心が大切なことをいう。また、真心を込めてする意に用いられることもある。
 この真心を聖書では愛と呼びます。本来、愛は人と人をつなぐ絆でしたが、今の経済社会ではこの絆が損得勘定に変わってしまいました。自分の思い通りに事を進めて生きたい自己中心は、正しい愛を持つことができません。本当の幸せを願うなら、絆を結び合うことです。いろいろな事ができても心の冷たい人は、自己満足の人生となっていることでしょうね。幸せを分かち合うところに本当の喜びがあるのではないでしょうか。できるだけ、人の真心を信じていくことによって、「多くの人から心配してもらっている」という気持ちが、未来への希望を生み出していくのです。
 昨年の東日本大震災で、佐藤彰先生が牧会される福島第一バプテスト教会の新会堂は、建てて間がなかったそうですが、原発5q以内にあったため、避難をよぎなくされました。信徒さんと一緒に流浪の旅をされる中で佐藤先生はすべてをなくしたことで、裸一貫の自分を支えてくださる神の家族の存在がいることと、クリスチャンから引き出された愛に触れることが出来た幸せに気づかれたそうです。絶望の淵におられた佐藤先生は、その支えに力づけられて、その後、以前の教会よりもさらに広く大きい会堂を今建築中だそうです(老人ホームも合わせて)。会堂を失った教会が、世界から、日本の他の教会から支援されて、建てられていっています。愛が注がれて、死んだ状態から復活、よみがえりができるということです。「以前よりもすぐれたものによみがえる」というのが、神が計画された復活です。そのために涙とともに種を蒔く愛の労苦が必要です。神は罪人のためにご自分の愛を、ひとり子という全財産というかたちの種を蒔いてくださいました。この涙があるから、喜び叫びながら刈り取る時がやってきます。労苦が多いほど、収穫の喜びは大きいのです。どれだけ自分に創造主の愛が注がれてきたかに気づく人は、今どんな状態であっても必ず良い方向へよみがえることができます。涙をもって種を蒔く愛の労苦によって、喜びをもって刈り取る人生をぜひ体験していただきたいと思います。神様も、私たちが心入れ替え、神のかたちとしての正しい状況に立ち返って実を結ぶために、今も涙をもって種入れをかかえて、泣きながら愛の種を蒔くという愛の労苦をしてくださっています。

 

 

 

 

 

 

■2012年4月1日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 神に喜ばれる愛  up 2012.4.1




愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです。
(第1ヨハネ3:21〜22)

 

 

 

 正しい良心をもって自分を見つめないと、私たちはついつい自分の願望を満たすために、自分の心が責められることを見ないようにしてしまいます。罪の働き、すなわち貪欲は、「神様に関連していれば大丈夫」というように、自分の内にある思いを正当化しようと働きます。しかし、神様は私たちの動機が何であるか見抜かれる方なので、たとえみこころに沿った祈りであっても、動機が悪ければ聞かれません。今日はそのことを踏まえて話を進めていきたいと思います。
 さて、上に挙げたみことばには、「何でも神にいただける」という実に魅力的なことばがあります。「神の命令を守って、神に喜ばれることを行っていれば何でも!」と考えるなら、その動機は完全にご利益宗教であって、神様との愛の関係、信頼関係といったものはすべて二の次になってしまっています。「どうして祈りが聞かれないの?」「どうして道が開かれないの?」といったつまずきの心を神様の前に持ってしまうのは、隠れた自分の心というものをハッキリと見ていないところにも起因しています。「神様に喜ばれる愛」という動機の部分を考えていけば、自分の欲望を満たそうとする心にごまかされないで、純真に求めるものを選んでいくことができると思います。

1.神に喜ばれる愛
 私たちは「互いに愛し合う」という愛を目指して歩んでいるので、聖書のみことばを「愛によって書かれ、互いに愛し合うために書かれた神様の教えである」という解釈の土台があります。この土台に従って、下の七つのみことばを自分なりに解釈してみてください。解釈例をそれぞれ挙げておきます。
(1)(箴言11:1)
“欺きのはかりは主に忌みきらわれる。正しいおもりは主に喜ばれる。”
 欺きのはかりは、自分にだけ利益をもたらそうとする考え方、正しいおもりは、すべての人に利益をもたらす考え方です。正しいおもりは人も自分も同等に扱うので、関係の健全さをもたらします。もしあなたの信頼する友人があなたに対して、うそ、偽り、欺きを行っていたことを知った時、友人への気持ちは完全に断たれてしまうでしょう。お互いの関係が正しいはかりによるものなら、お互いの立場を公平に理解します。それは良い関係を保つ大事なポイントです。
(2)(箴言11:20)
“心の曲がった者は主に忌みきらわれる。しかしまっすぐに道を歩む者は主に喜ばれる。”
 心が曲がった原因は人によって異なるでしょうが、素直に物事を受け止めることのできないような歪んだ心は、常に自己防衛をし自分が正しいという立場をとることが多いものです。そのために、本当は曲がっているのに「自分は曲がっていない」と思い込んでいる利己的な考えの人は、神様が願われる「互い」という関係を結び合わせることができなくなってしまい、神様から忌み嫌われることになります。心が曲がっているゆえに、互いという関係が持てなくなって、互いに愛し合うということが成立しない、それを神は悲しまれるという意味です。決して心が曲がっている人自身を嫌われるのではなく、すべての人を愛しておられる神様は、心が曲がっていても愛しておられます。互いに愛し合うという関係を自ら断ち切ってしまっていることが問題であり、そこが神様に忌み嫌われるのです。
(3)(第1テモテ2:1〜3)
“そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。”
 「すべての人」とはクリスチャンか否かを問わず、全部の人を指します。「王とすべての高い地位にある人」とは、世の中を治める権威者。そういう人たちのためになす願い、祈り、とりなし、感謝は、私たちが敬虔に、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためなのです。ここで大事なのは「私たち」ということばが個人個人をさすのではなく、私たち全員を指すということです。すなわちクリスチャンという一つの群れ、キリストを信じる一つの社会です。それは「互いに愛し合う」という一つのコミュニティが、敬虔に、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためと言えます。ノンクリスチャンの人のために祈ることは、私たちのためにもなるということです。互いに愛し合うという環境を整えられるために、私たちは政治家のため、大企業などの経営にたずさわる人たちのためにも祈らなければなりません。この間、AIG生命の経営破綻によって多くの人たちが被害を受けましたが、このような事態を招かないために祈ることも、私たちが互いに愛し合うという神様の愛の中に留まる生活のためにプラスになる、と理解することができます。
(4)(第1テモテ5:4)
“しかし、もし、やもめに子どもか孫かがいるなら、まずこれらの者に、自分の家の者に敬愛を示し、親の恩に報いる習慣をつけさせなさい。それが神に喜ばれることです。”
 習慣とは、当然のこととしてその人の心の内にあるということです。親を大事にするのを当然とする状態であり、よく気にかけている心が習慣と言えるでしょう。ここでのやもめとは、伴侶を失った一人暮らしをしている人を指しますが、その子どもや孫に対して親の恩に報いる心を教えるのは、互いに愛し合うことの基本だからです。私たちは、家族によって互いに愛し合うことを学びます。親に愛され、親を愛するのが最初の愛し合う経験です。ですから、親子の良い関係が築けなければ、子どもは親の恩に報いるということがわかりません。親のすることを見て、子どもは同じことをまねします。親がいろいろな犠牲をして子を育てることによって、その愛を受けた子どもが「親は大事だ。」と心で感じ始めるのです。心が成長していくと、「大事な存在」が「恩を受けた」ことにつながっていき、どんなことがあっても親は大事にしなければという気持ちが心に残っていきます。「親を大事にする」ことは、モーセの十戒にも記されているほどに重要なものです。「互いに愛し合うこと」の始まりが、親子の交わりによって学ばされていくと言えます。父なる神に愛され、神を愛していくことも「父と母を敬う」ことの中に含まれています。親の恩に報いる心が芽生えない人は、父なる神様が自分を愛してくださっているということに対してもなかなか理解できません。「親切をしてくれた」「病をいやされた」「いのちを助けられた」など、奇跡を体験して神様を愛することはできても、「親から受けた恩」という愛情とは違うという考え方があります。しかし私たちは、親の恩に報いる心を持たなければ、「父なる神様」と呼んでもそのみ教えを守っていこうという動機さえも起こってこないはずなのです。「親の恩に報いたい」「親を大切にしたい」「親を悲しませたくない」「親に負担をかけたくない」という気持ちの中で、親の恩に報いる心が、神を敬う心につながっていきます。十字架の犠牲を通して現された神の恩愛に対して報いる人生、すなわち神に喜ばれる人生でありたいと思うわけです。これが愛されて育ってきた者の、愛の心の動きです。皆さんも愛されてきた者として、この受難週に際して、自分ができる父なる神様への恩返しとして、互いに愛し合っていこうと思いを定めることを神様は望んでおられます。
(5)(ヘブル11:6)
“信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。”
 なぜ信仰がなくては神に喜ばれないのでしょうか。信仰とは、神の愛に対する私たちの信仰なのです。互いに愛し合うためには神への信仰を土台とした赦し合いが不可欠で、神の愛への信仰なしに赦すとしたら、自分の思いどおりになるならという損得基準しかありません。神の愛を知り、どれだけ自分が赦されているかを知ったからこそ、私たちは兄弟姉妹を赦すという心に造り変えられていくのです。まだできないことも多いのですが、それぞれの範囲で赦せるようになっていきます。その赦せる力は、神が私を愛してくださっているという神の愛に対する信仰です。キリストを信じる信仰とは、神の愛を信じる信仰なのです。キリストは、教祖ではなく救い主であり神の愛そのものなのですから。だからこそ、自分中心に物事をとらえる人を神は喜ばれません。
(6)(ヘブル13:16)
“善を行うことと、持ち物を人に分けることとを怠ってはいけません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです。”
 たとえば、献金は実際には教会の様々な入用に用いられます。牧師も霊のものを蒔いた報いとして、給与のかたちで分け前をいただいています。皆さんのささげものが神に喜ばれるものとなるその心構えは、「これは誰かに分け与えるために神が用いられるもの」という、持ち物を人に分け与える行為の一部としての認識です。人にあげたものに対して未練を残したり、所有権を主張したりするのはやめましょう。分け与えたものに対する責任はその人にあり、神様が正しく裁かれるのですから。
(7)(第1ペテロ2:19〜20)
“人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行っていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。”
 不当な苦しみの相手がノンクリスチャンならともかく、兄弟姉妹であった場合の考え方です。愛し合うという相互関係において、一方が手を差し伸べている間は、他方が拒絶していてもまだ可能性はあります。しかし手を引いてしまえば可能性は消えます。ですから、たとえ苦しみが兄弟姉妹からであっても、手を差し伸べ続けなければ、交わりの回復が不可能になってしまうので、手を差し伸べ続けるのです。誰かと仲違いするのは、キリストのからだに病を持ち込むようなものです。不当な苦しみを受けているというなら、自分の正しさを証しするためにも、相手を赦し続ける苦しみの忍耐が大事です。あきらめてしまったら、相手が自分の非に気づいても交わりの回復ができず、互いに愛し合うという神様のみこころを切ってしまいます。不当な苦しみを受け続けることは、互いに愛し合うという心を失わずに待ち続けているという意味につながります。兄弟姉妹に限らず夫婦間でも、このような行き違いは往々にして起こり、しばしば最悪の結末をもたらします。ですから、私たちは不当な苦しみを受けることになっても、相手が気づくまで待ち望むということが大事な姿勢です。(ただし相手が信仰を失ってしまった場合は、私たちの責任範囲を超えていますから、それはそれで置いておくより他はありませんが。)私たちの一番の願いは互いに愛し合うという神様の愛の中に留まる関係を保つことであり、その願いゆえに不当な苦しみを受け入れる心が大事です。すぐできるかどうかは人によって違いますので、ぜひ神の前に祈って葛藤をしながら、神様との一対一のやりとりをしていくことが必要だと思います。そこまでいってないと思われる方は、イエス様が不当な苦しみを受けておられることに思いを寄せてみてください。私たち自身、十字架においてイエス様に不当な苦しみを与えています。ここを忘れてはいけません。

2.『温文爾雅』(おんぶんじが)の交わり(詩篇133:1)
“見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。”
★『温文爾雅』の意味…態度や言動が穏やかで、礼儀にかなっていること。
「温文」⇒心が温和で、態度が礼にかなって立派なこと。
「爾雅」⇒言葉などが正しく美しい意。
 詩篇133篇には神様が最も喜ばれる情景が描かれています。神様は兄弟が仲むつまじく暮らしている姿を見るのがうれしくてたまらず、そこに祝福を命じられます。互いに愛し合うことは神様が最も喜ばれることです。詩篇133篇は理想的な教会の姿であり、理想的な交わりです。この教会のモットーである(第1ヨハネ1:3)も、土台はここから来ています。楽しいとは、必ずしもラフさやカジュアルさを指すものではありません。若い人のうちには、礼儀正しさの良さをを知らずに嫌う人もいますが、型にはまること、昔ながらの伝統に対して、その意味も知らないまま批判するのは、食べないでまずいと言うことと同じです。温文爾雅は日本らしいすばらしい言葉で、私たちの交わりの間に礼儀にかなった立派な態度、温和さがあるなら、これは磨かれたかたち、成熟したかたちです。礼儀やしきたりは、磨かれ考え尽くされた完成されたかたちです。儀式は、いかに敬虔な心を表し、敬虔さをもって神の前に自分たちの信仰を捧げ、礼拝を捧げていくかということを極めたルールです。しきたり、礼儀、儀式は一つ一つ意味があります。カトリックやギリシャ正教などの伝統的な教会の儀式の1つ1つの意味を聞いた時、深い思いをもってなされていることを感じ、その良さを理解しました。もちろんそれが全てではなく、もう少し自由に私たちの感情の動きを表せるようなことも必要でしょう。礼儀にかなって、態度がおだやかで、言葉が正しくて美しい、そういう交わりを体験することも大事なことです。日本語には非常にきめ細やかな表現が含まれています。また正しい言葉を使えば、ことばは霊ですから、霊も正しくされます。私たちにこのようなすばらしい詩篇133篇の交わりを可能としてくださったのが、イエス様の十字架の苦難です。兄弟が共に住む幸せは赦し合うことなしには成立しません。赦し合えるゆえの幸せ、楽しさなのです。前向き、肯定的なことにのみ心を向けて、お互いの失敗は見ないで良いことだけを見ていく、私たちに赦す心を与えてくださったのは、イエス様の十字架の赦しの愛のおかげです。赦せない人は、ぜひイエス様がどんなにあなたを赦しておられるかに気づいてください。すぐには理解できなくても少しずつでも理解していくことです。あのパウロでさえ、「私は罪人のかしら」だと自分の罪深さをひしひしと感じていました。実際の行いの罪深さではなく、神の前における自分の罪深さを認め、感じることが、どんなに大きな愛をもって赦されているかということに気づく一つの大事なポイントです。皆さん、ぜひ交わりの目標として、詩篇133篇に向かって歩んでいきたいと思いませんか?ぜひ味わいたいものですね!まず温和な態度と言葉に気をつけていきたいと思います。
        
「桜咲き 温文爾雅の 語りかけ」
 咲き始めの桜は、大きく開いたものもあれば、つぼみもあり、桜の花から正に温文爾雅の、おだやかであたたまるようなイメージを受けます。美しさと礼儀正しさをも感じます。この俳句は、桜の美しさを通して、温和でおだやかな霊で私たちに直接語りかけてくださる神様のいのちのみことばは、神様のきよらかであたたかい愛の語りかけだということを句にしたものです。桜をじっと見つめる時間をもってみられませんか。近くにあれば、一度、1つ1つの花に注意を向けて、そこに何かを感じていただきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

■2012年3月25日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛は偉大  up 2012.3.25




たとい自分の心が責めてもです。なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです。
(第1ヨハネ3:20)

 

 

 

 愛の偉大さに気付き、ふれる一週間としましょう。20節の御言葉は17節から19節までの御言葉に関連しています。今日のテーマは「神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存知だからです。」からきています。

1.「自分の心が責める」とは?
 神は私たちに平安をもたらしてくださっているのに、どうしても、その平安の中に入れず、悲観的、マイナス的な心でいる人がいます。なぜでしょう。そこにはからくりがあります。そのからくりに気付きましょう。

(1)(第2コリント6:12)
“あなたがたは、私たちの中で制約を受けているのではなく、自分の心で自分を窮屈にしているのです。”
 パウロは、そんなに厳しく言ってるつもりはなくても、コリントの教会の人々はパウロは厳しいというイメージをもっていたために、パウロが語ることばに身構えてしまい、実際以上に厳しく受け取る傾向がありました。同様に、私たちも生活習慣や親との関係、あるいは以前に受けた傷や何かで、実際以上に厳しいイメージを膨らませてしまい、自分を責めたり、マイナスに受け取ったり、さらには自分で自分を追い詰めてしまうという習慣を身につけてしまっているかもしれません。それは自分で自分を窮屈にしているということです。

(2)(コロサイ2:14)
“いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけて、十字架に釘づけにされました。”
 なぜそんなに悲観的になるのでしょう。ここに出てくる「債務証書」とは罪のことで、「罪を犯した者は罪の裁きを受けないといけない」ということです。パウロは、それを「借りたら返さないといけない」という、貸した借りたという関係に例えて書いています。私たちは、心にそういう罪の債務証書を持ってしまいがちです。「自分はまだ弱くて罪を犯してしまう、感情が高ぶって暴言を吐いてしまったり、相手を傷つけることを言ってしまったり、怒ったり、批判したり、まだまだいろいろな悪いところがあるのに、どうして安心できよう、罪を犯したら裁かれてしまうのに。」という責めを、ついつい持ち続けてしまうのです。このように罪を犯したら裁かれるという債務証書を心に持ち続ける限り、安らぎを感じることはできません。いつも自分で自分を責め続けることになります。しかし、「すでに債務証書は無効にされている。」とパウロは言っています。

(3)(黙示録12:10)
“そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。”
 ヨブ記1章、2章を見てください。ヨブ記で、サタンが神の御前でヨブを訴えているところがあります。サタンは、旧約の時代は神の御前で人々のことを訴える者でした。しかし、サタンは地に落とされた時から、もはや神の御前に出ることはできなくなり、人々を神に訴えることができなくなりました。それは、イエス・キリストの十字架の贖いによって、人々の罪が赦されたからです。それで、サタンは別の策を講じたのです。神の御前に訴えられなくなったので、今度は、その本人、人々の心に対して、直接責め立てるようになったのです。無効である債務証書をまだ効力があるかのようにふりかざして、今もなお、罪の奴隷であるかのように、サタンは私たちの良心に罪の咎めを与え続けています。そして、人生を楽しまないようにしむけているのです。クリスチャンは、神の子として本来は人生を喜び楽しむべきなのですが、サタンはそれを妨げようと責め立ててきます。なぜなら、サタンは人間をひどく妬んでいるからです。なぜ妬むのでしょうか。それは、創造の初めにまでさかのぼります。元来サタンはルシファーという天使の長として、被造物のなかで、最も美しい存在として創造されました。しかし、その美しさが彼を惑わし、高慢にさせ、遂には自分を神と同等の者にしようと神に反逆するに至りました。それでは、人はどのように造られたのでしょうか。サタンと違って、人は塵から造られたとあります。しかし、塵からであっても、神は人を「神の形」に創造されたのです。ここが大きな違いです。人はサタンのように美しくは造られませんでしたが、神ご自身の形に創造されたのです。ここに、サタンが嫉妬する原因があります。万物の中で最も価値のあるお方が神です。私たちは、その神に最も近い者として造られたのです。どんなに美しいものも、その価値には比べものになりません。それゆえ、サタンは嫉妬に狂ったのです。なぜならサタンは神になりたかったのに、そのようには造られなかったからです。神の形に造られるということがどれ程価値あることかを、サタンは知っています。私たちはどうでしょうか。それほど自分に価値があるとわかっているでしょうか。背が高いとか低いとか、顔立ちがどうとか、外見のことにばかり気持ちがいって、本当の価値に気付いていないのではないでしょうか。悪人は自分の欲しいものが手に入らなかったら、どんなことをしてでも手に入れようと躍起になります。私たちも心が神から離れ、世の中の影響を受けていたら、自分にないものを手に入れようと必死になってしまいます。律法は隣人の者を欲しがってはならない、盗ってはならないとあります。あるもので満足しましょう。私たちは既に、神の形なのですから、それ以上に何が必要なのでしょう。だまされてはなりません。どれほど素晴らしい存在として造られたかを悟りましょう。

2.心が安らかであるために
(1)(第1コリント1:25)
“なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。”
 神が例え、解けない問題があったとしても、人である私たちにはなおさら解けるはずはありません。神と人とは違うのです。私たちは敬うべき方を敬うということを、しっかりと知る必要があります。神がどれ程偉大であるか。神を人のように決して考えてはなりません。負けていても負けを認めたくないという愚かさが私たちにはあります。小さなことにあまりにこだわって、自分で解決出来ないことに心を奪われていくら頑張っても、それは無駄です。神にゆだねましょう。神は全知全能なる方で、心の大きな方です。自分の罪にこだわって嘆き悲しみ、いつまでも引きずって生きるよりは、大きな心をもたれた神の赦しにゆだねて、早く立ち直って、感謝しつつ前向きに生きる方を神は喜んでくださいます。

(2)(詩篇139:16)
“胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている。まだその一日も造られないうちから。”
 私たちには、おなかの中にいる胎児を直接見ることはできません。しかし、神は直接見て知っておられ、しかも、私たちの一生を、始まる前から、既にすべてご存知なのです。私たちは無意識に、時間の制約の中に生きていますから、神が将来と言われる時、私たちの将来を、運命として知っておられるのかと誤解してしまいます。しかし、神は時間を造られた方なので、時間の外側に存在されています。それは、私たちの人生が一冊の書物であるかのようです。その始まりから、何ページでも、いつでも神は開いて読むことができるのです。もちろん、私たちの過去も未来も自由に読まれます。聖書に「いのちの書から名が消される」ということがあると書かれています。つまり、書かれていたのに、書き直されたということです。書き直すとはどういうことでしょう。神がいくらその人の人生を書かれていても、その人と神との関わりの中で、物語は発展していくのですから、変わっていくのです。それは運命ではありません。私たちの人生は神との関わりの中で、もっと良い方向にも、悪い方向にも変わっていくことができるわけです。神はすべての人が救われ、永遠の命にいたるように望まれていますが、ある人々は神との関わりの中で、それを拒否して、永遠の滅びの道を選んでいます。未来を私たちは神との関係によって造りあげていくことができます。

3.「鳶飛魚躍(えんぴぎょやく)の福音」
★意味 万物が自然の本性に従って、自由に楽しんでいることのたとえ。
 また、そのような天の理(ことわり)の作用。また、君主の恩徳が広く 及び、人々がその能力によって、それぞれの所を得ているたとえ。
 鳶とはとんびのことです。鳶が空を飛び、魚が水の中を踊るように泳いでいる、これは自然が定めたありのままの姿です。そのように、神が造られた目的に従い生きているなら、自由に楽しみ、満足して生きることができます。また、君主の恩徳が広く及び、とは、キリストの十字架の赦しの恵みが私たちに広く及んでいるということです。その恵みの中で、私たちはそれぞれの賜物を生かして、用いて生きることができます。鳶は決して魚をうらやみませんし、魚も鳶をうらやむことはありません。それぞれが与えられた環境の中で、精いっぱい喜んで生きています。キリストも私たちがそのことに気づいて、それぞれの持ち場立場で、能力を生かしあって愛し合うようにと神の子としてくださっています。違いがあることが大切なのです。個々の違いによって、私たちは結び合わさっているからです。違ってないのは「神の形にすべての人が造られている」ということです。あなたにはあなたにしかない神の美しさがあります。自分の主観で、美の基準を設けて、人と比べるのはやめましょう。私たちが比較したり、責めたりしたりして窮屈な生き方をしないように、神は十字架で債務証書を処分してくださいました。(コロサイ2:14)“みことばは前述”
 また、訴える者を無力にしてくださいました。(ローマ8:33)“神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。”
 それは、最高裁で決まった判決はもう誰もくつがえせないように、最高権威者である神が私たちを義としてくださったということです。いくらサタンが罪を責め立ててきても、神が決められたのです。どちらを信じますか?十字架が歴史に刻まれた以上、疑う必要はありません。神を信じましょう。私たちは義とされているとしっかり信じるなら、例え心が責めても、神に信頼して安心しましょう。この安心とは、神の形として、自由に喜んで、楽しんで生きることができるということです。そして、自分の居場所で満足できるのです。
 第1ヨハネ3:17 から20節までの流れを要約すると、「兄弟を愛する→兄弟を赦す→心を安らかにする→神が義とされる」となります。あなたの行いによって義とされるのではなく、赦された者として赦す時に、神は義としてくださいます。今週、神の愛の偉大さに、もっと心を向けていきましょう。

 

 

 

 

 

 

■2012年3月18日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 心を安らかにする愛  up 2012.3.18




それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです。
(第1ヨハネ3:19)

 

 

 

 この19節は、先週先々週と学んできた17、18節を受けて語られています。今日は、ここから「受ける側だけでなく、与える側も心安らかにされる」ことをお話ししてまいります。愛される側が心安らかになるのはわかっても、愛する側も心安らかにされることに対しては、見落とされることが多いように思います。この19節は、愛する側のことを言っています。神様の愛は、相手が自分の思うような反応をしてくれなくても、愛を注いでいるという自分に関して神の前に責められるところがないという意味で、安心を得ることができます。私たちは人を見て自分の心を騒がしてしまいがちですが、そうではなく、いつも神の前に自分を見ていきましょう。

1.行いと真実による愛がもたらす平安(第1ヨハネ3:19)

【内容観察】
「それによって」⇒兄弟を行いと真実をもって愛すること
「真理に属する」⇒造られた(存在の)目的にそっていること
 神様と自分だけでなく、人とも互いに愛し合うことが大事です。
「知り」⇒疑いを退け、そのとおりであると確信する(信じる)こと
「神の前に」⇒さばきの神であり、愛の神である方の御前に。
 裁きの神の前に心を安らかにされるとは、何の隠し事もないということです。裁くとは、無罪の宣告を与えることでもあります。罪が赦されていれば、愛の神の前でも裁きの神の前でも恐れることはありません。自分のあら探しをしてしまう人は、愛の神が罪を赦される神であることを思い出してください。キリストを通して赦されている愛によって、安心して過ごすことができます。この体験をぜひにお勧めします。私たちは自分を責めて裁くために罪を見つけるのではありません。直すためであり、もう二度と同じ過ちを繰り返さないためです。また、気づかなかった罪に気づいて直すためです。愛を受けた者は自ら気づいて悪いところを直していこうとします。それが愛されている者としての応答です。ですから、神様の愛は改めることができるための赦しの愛なのです。しかし、忘れてはならないのは赦されていることは悪いままでいるためではない、ということです。できるできないではなく、直そうとすることが大事です。私たちはできないと思った時に、直す努力をやめてしまいます。しかし神様はあきらめておられません。私たちも神様のお気持ちに応えようではありませんか。
「心を安らかにされる」⇒罪の責めを持つことがないように慰められる。
 神様が赦しておられるのに不安が去らない人は、自分で自分を赦すことができないのを、神様のご判断よりも重要視しています。それは傲慢です。
★上記を参考に(第1ヨハネ3:19)を自分のことばで文章にしましょう。
参考文「兄弟を行いと真実をもって愛することにより、私たちが造られた目的に沿って歩んでいることを確信するなら、裁きの神であり愛の神である方の御前に心を安んじることができる。」
 ご自分でもまとめてみてください。
【敬聴】
『今日も愛を目指して』のテーマをもとに、このみことばからどのようなことが教えられますか?
(1)真理に属する者としての確信を持って歩む。
(2)神の御前に心を安らかにされる。
 特に悲観的な、自己否定の強いものの見方をする人は、いつも恐れと不安と悲しみがあって安心できません。こういう人には、悪いところを正す励ましより、できたところを認めてほめる励ましの方が効果があります。後述しますが、「慰める」には、不安定な心を静め、安心させるという意味もあることを覚えていてください。この観点からすると、怒っている人さえも慰めることが可能なのです。
否定的な人の場合は、自分がいつも否定されてきたことへの心の痛みを持っています。ですから、「大丈夫。先に進んでいいんだよ。」との励ましが必要です。責める言い方をすると、「もうダメだ。」と思ってしまいます。神様は「イエス・キリストによって過去は処分されているから、明日に向かって進んでいこう。」と励ましてくださいます。安心して次に進んでいこうという気持ちを持たせてくださる神様の励ましを私たちが受けて行くなら、疲れることもたゆむこともなく歩き続けることができる、というみことばが成就します。

2.『温言慰謝』(おんげんいしゃ)(コロサイ4:6)
“あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。”
 先週は、「ことばや口先だけでなく、行いと真実をもって愛し合おうという時に、暖かな言葉だけでなく行いの実が見られると、聖書は私たちに気づかせてくださっている」とお話ししました。どんなことにチャレンジしてみられましたか?難しいでしょう?今学んでいることは、これからもずっと必要なことなので、すぐにうまくいかなくてもがっかりせずに挑戦し続けてください。
 上に挙げたみことばで注意してほしいのが、ことばは口から出るものだけではないということです。ボディランゲージという言葉もあるように、ことばの内容がかたちとなって表れてこそ、そのことばに信頼性が出てくるのです。親切なことばとはまず音声や顔の表情など、からだ全体のことばが大切になります。相手にわかりやすいような工夫をした表現ですね。
 さらに「塩味のきいたことば」について言えば、これといった決めぜりふがあるわけではなく、相手によって適切な言動を選ぶということが大事です。塩はメインの味を引き立てるために必要なものです。ですから、相手の心境や状況に適した言動を選ばなければ、本当に塩味のきいたことばにはなりません。たとえば、疲れている相手へのいたわりの気持ちを、お茶一杯、飴一個にでも表したなら、ことばだけよりもずいぶん相手の心に伝わりやすいのではないでしょうか。ですから、大きなものやきちんとしたものにこだわる必要はありません。自分の持てるもの、自分では処分しきれないようなものを分かち合い、お互いをねぎらうことによって、もっと心を近くしていくことができると思います。
 第一礼拝後、こんな気付きを話してくださった方がいます。「イエス様ご自身も、自ら民の中に入っていかれ、彼らとふれあいの場をもたれたのではないか。そうして直接、行いと真実を彼らの間で示されたのではなかろうか。」と。そのように私たちも、真実をかたちを通して現すことを、これからチャレンジしていきましょう。

「元気づく 愛の温言 春雨や」
 私たちのつらい思いや疲れた心が、優しいことばを何回も聞いていくうちに少しずつ元気になっていく。春雨のように、という意味です。一度に力を取り戻させるのは難しいことです。何回も何回も春雨のように慰めを注いで、四月五月の花咲く時期を待つのです。私たちも互いに慰め、励ましを何回も重ねていけば、必ず愛は伝わります。あきらめないで、互いに真実と行いのこもった親切なことば、塩味のきいたことばを見つけ出していきたいものですね。これはメッセージを聞いたり本を読んだりするよりも、案外失敗を重ねて覚えていくものです。「こういう人にはこのことばは禁物」と、失敗を通してわかってきます。また、私たちはクリスチャンなので、まず赦し合うことを前提としておきましょう。失言等があっても、それは決してあなたを傷つける意図から出たものではありません。ですから、適切でない、塩味の聞いてないことばに出会っても、互いに赦し合いましょう。そして、相手にわかってもらうために、「そのことばは私にとっては痛いです。」と言ってあげることも大事で、愛の行いです。そのようにして、互いに赦し合い教え合いながら、イエス様がリバイバルを起こして多くの魂を寄せてくださった時に、実戦で役立つように、親切で塩味のきいたことばを身につけておきましょう。今がちょうど訓練の時だと思います。口にすることばをよく吟味しながら、人々になぐさめと励ましになることばを語っていきたいと思います。今朝のあいさつで実行したように、「あなたは高価で尊い」と、神様の価値観でお互いを見るのも一つの有効手段です。神様は「わたしの代わりにあの兄姉に言ってほしい」と思っておられます。あなたの気持ちはどうであれ、それを伝えることはできます。この時、口先だけでなく、神様のお気持ちを正確に伝えることが大事です。嫌な顔で「愛しているそうです」と伝えても、相手にはわかりません。「私の代わりに語ってほしい」というお心を受けて、お互いに親切で塩味のきいたことばを語っていけるよう、自ら訓練しましょう。やらないと上達しません。今日、今すぐチャンスを見つけて実行していきましょう

 

 

 

 

 

 

■2012年3月11日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 行ないと真実による愛  up 2012.3.11




子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。
(第1ヨハネ3:18)

 

 

 

 ここは、17節を受けて続けているみことばと思われます。ヨハネは、各教会に「とがめられるものを感じたとしても、あきらめず、ことばや口先で終わる愛ではなく、行いと真実をもって愛するよう、励みましょう。」とすすめていると思います。なぜなら冒頭に加えられた「子どもたちよ。」ということばには、「小さい者、未熟な者、理解度の乏しい者…」と見てくださる思いやりと励ましが表れているからです。世の富を持っていても困っている兄弟にあわれみの心を閉ざしてしまうような、肉的なところがある私たちに、「今できていなくても、できるようにと行いと真実をもって互いに愛し合っていきましょう。」と、ヨハネの気遣いが伺えます。

1.ことばや口先だけの愛(ヤコブ2:15〜16)
“もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。”
 少なくともクリスチャンは、口先だけで愛を終わらせることはないと思います。「安心して…暖かになり…食べなさい。」とは、当然するべき行為を表現した正しい理論です。感情的に動くとむだも多いので、正しく物事を考えることは大切です。「安心して行きなさい。」とは、内面的な思いを精神的に支えているという気持ちを伝えています。さらに、「暖かになり…」とは、外部から守られるように身の安全を確保する意味であり、「十分に食べなさい。」とは、食物をもって健康を支えるという、「霊・心・体」の3つの助けが表されています。
【内容観察】
「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。」⇒正しい理論。
 正しく高度な理論でも、実証されなければ何の役にも立たないのです。
 正しい理論を打ち立てることは大事です。しかし、打ち立てられたからといって、すぐさま実行できるわけではありません。時間がかかることを知っておかねばならないと思います。さて、愛を施す  救援するという時に、災害が起こって、打ち立てた理論が通じなければ、その理論は意味がないものになります。実験して、正しくむだのないものに造り上げていくことが必要です。これを「みことばを実行する」というふうに言います。「できる」という意味でなく、みことばができるようになるよう、くり返し実験するようなものです。霊的、精神的、自然的にも条件が整えられ、生活の中にみことばが実現していくために、今のうちにいろいろとみことばを実験しておくことが大事なのではないでしょうか。すぐに実行できないからと言って、落胆しないようにしましょう。

2.行いと真実による愛(ピレモン7)
“私はあなたの愛から多くの喜びと慰めとを受けました。それは、聖徒たちの心が、兄弟よ、あなたによって力づけられたからです。”
【内容観察】
あなたが聖徒たちにしたことによって、彼らの心(愛情、あわれみ、内臓)が力づけられました。あなたの行いと真実による愛は、私に多くの喜びと慰めをもたらしたのです。 
 ピレモンは、コロサイの教会の熱心なクリスチャンで、彼の家で集会がもたれていたと言われています。集会に提供できる家があったことから、その地域の有力者だったということも伺えます。聖徒たちへの霊的励ましだけでなく、パウロが「あなたの愛から多くの喜びと慰めとを受けた」と言っているような出来事があったのではないでしょうか。単なる言葉巧みな手紙では、パウロのこの表現は生まれないでしょう。確かに言葉には力があります。被災地に寄せられた多くの励ましの手紙の言葉は、物資と共に送られて、真実性が証明されたとも言えます。寒い時期には毛布が、またトイレットペーパーが、水が…折りにかなった具体的物資の助けによって、励ましの言葉以上に心も体も元気づけられるということが起こります。ピレモンによって力づけられた聖徒たちの心は、精神的なものだけでなく、内臓につながっています。健康面でも力づけられるような助けがピレモンによってなされたのではないでしょうか。私たちの助けが、助けを必要としている人の必要の内容とマッチングしたときに、その施しは、受け取った人の全身を励まし力づけるものとなるということですね。
 私(辻師)自身、三次在住の頃の、自営業を立ち上げた直後の収入のない3ヶ月間、教会の方が自宅横に畑を作ってくださり、そこから収穫した野菜をいくらでも食材に使いました。その後、仕事が入り始め、助けが不要になるまで、神様が兄弟姉妹を通して助けてくださった思い出は、忘れることはありません。「助けられて身も心も元気になる」と教えられた一つの証しです。このような折りにかなった助けは、精神的だけでなく、体も力がわいてくるような大きな喜びと感謝を与えます。こういう施しをピレモンはしたのです。

3.『安分守己』(あんぶんしゅき)(ローマ12:3)
“私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。”
 助ける側として、私たちは分相応の助けをすることが必要です。
『安分守己』⇒「分に安んじ、己を守る。」
 意味⇒自分の身の程をわきまえて生き、高望みしないこと。
 見栄を張ったり、虚栄心で行ったりする愛の施しは、思うべき限度を超えており、信仰の量りに合わないとまずは受け取れるでしょう。
【内容観察】
「思うべき限度」
他の人と比較したり競ったりして、自分や相手を批判したりさばいたりすることは、思うべき限度を超えることである。
 人の施しをとやかく言うのは分を超えています。つい人と比べて、助けの内容や金額を聞いては、助けを評価することがありますが、愛とあわれみと施しに対して、自分の力と比べて他の人を裁いてはいけません。
「信仰の量り」⇒神が与えてくださる資源を信じること。
「慎み深い考え」⇒自分に与えられている範囲での考え。
 信じるとは、心で神様の資源をつかむということです。信仰の量りとは、神様が与えてくださる資源をつかむことで、漠然としていません。神を信じるというとき、「天地を造られた神」を信じていることですし、イエス様を信じているとは、イエス様の救い、恵み、罪の赦し…を信じているというふうに、はっきりしたものです。聖書の中の約束ごともそうです。例えば、「信じる者が手を置けば病人がいやされる」という約束をつかむかどうかは、信仰の心の働きによります。信仰の量は、どのみことばを信じることが出来るか、どのみことばを信じにくいかで分かります。
 ここで「信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をする」とは、「信じることが出来ないのに、無理やり信じることをする必要はないですよ。慎み深くありなさい。」ということです。感謝を押しつけても、感謝は出来ません。その人の信仰の量があります。自分の信仰の量をはっきり認めて、足らない分を「神様、あわれんでください」と正直に明らかにすることが、慎み深い考え方ではないでしょうか。ペテロも、終わりの時代に慎み深く祈りに励むことを教えています。つい虚栄に走ったり、自分も出来たからといって、それを相手に要求したりしてしまうような、無謀な態度に陥らないように気をつけましょう。私たちはわきまえをもちながら、与えられた分に応じた施しや助けをすることが必要です。
【敬聴と適用】
与えられている信仰の資源やあらゆる賜物をもって互いに愛し合うことを実践してみましょう。
 今もっているものでは、兄弟姉妹を力づけることは難しいと考えてしまう人もいるかもしれません。ある一人の女子高生は、マザーテレサが言った「物を持っていない人は多くをささげることができる。」という言葉の意味が分からなかったそうです。しかし、昨年の3. 11の震災で、裕福な国々の支援はともかく、紛争中の一日一人平均2ドルの生活という貧しい国であるアフガニスタンから、約400万円という義援金が送られてきたことから、マザーテレサの言葉の意味が分かったそうです。それまでは、小さな自分に何が出来るのかとあきらめが先行していたのに、私にも何か出来ないものかと思い立ち、ボランティアで街頭募金活動をしたそうです。そして、自分のようなものでもその募金で、バングラデシュの子どもたちに、6セットの文房具をささげることができる、小さな働きでも、一人でも助けられるということに気づいたのです。
 私たちは、あまりにも大きなものを見すぎて、自分の小ささの故に何もしなくなってしまうのは、自分の分を果たしていないことにもつながります。多くしすぎるのも分を超えますが、何もしないのは、分を果たしていないのです。特に兄弟姉妹の心を力づける助けと愛の励ましとして、少しでも元気になっていただけるのではと、少なくとも声をかけ、笑顔を返し、時には小さなプレゼントを添えるなど、小さなことから始めていかれてはいかがでしょうか、ということを今日はおすすめしたいわけです。毎日ということではなく、祈っていて、「疲れているのでは」と思わされたら、声をかけてみられるなどされてはいかがでしょうか。素直な心で、互いに愛し合う、施し合うことを実践していきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

■2012年3月4日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 あわれむ心に愛がある  up 2012.3.4




世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。
(第1ヨハネ3:17)

 

 

 

 このみことばを聞くと、自分のできてないところを責められている気がする方も多いかもしれませんね。しかし、できてない自分を責める前に、まずできてないことを認めることが大事です。開き直るのではなく、「私はできてないな。そこまで行ってないな。」と現状を認識しましょう。それだからといって、突然神の愛が留まらなくなるわけではありません。「あわれみの心を閉ざす」とあるように、誰でも持っているあわれみの心をかたちとして現すことを、何がしかの理由をつけて実行しないという私たちの心の動き、その中に神の愛が留まり続けるのは困難だ、ということなのです。あわれみを閉ざす心は、結果的に神の愛をも締め出してしまうのです。兄弟姉妹に対してあわれみを示せない自分にとがめを感じているなら、まだチャンスは残されています。とがめを感じなくなれば、教会に来なくなるでしょう。この瀬戸際にぜひ勇気を持って、大きなことは無理でも、自分にできることを精一杯やりましょう。その小さな愛の行動の中に、神様の愛は確かに存在するのです。

1.あわれむ心に愛がある(第1ヨハネ3:17)“みことばは前述”
【内容観察】
『世の富』⇒経済、物資、能力才能、権力地位、その他肉的なこと。
『困っている』⇒窮している、行き詰まっている、貧困、困窮。
 私たちは、「自分は貧しい。」と言っている人でも、捨てることのできるものをたくさん持っていますね。アフリカや東南アジアの貧しい人々は、捨てるものを持っていません。持っていなければ何も考えることはありませんが、たとえば災害時にあなただけ非常食を持ち出すことができ、他の人はできなかったなら、あなたはどうしますか。避難所で非常に困りはしませんか。しかし現実に私たちは少しでも何かを持っており、国内にさえ分け与えるべき人々がいます。東日本大震災からもうすぐ一年が経ちますが、被災地は未だ傷が癒えず、助けを必要としている多くの人がいます。彼らの場合は、お金よりもむしろ労力としての人材を求めています。このように世界には様々な必要があるのに、「自分には分けられるものがない」と目を背け続けることが、あわれみの心を閉ざすという問題につながっているのです。できる事柄の大小はあれども、差し出すことのできる何かがあるのなら、私たちは豊かなのです。そんな社会状況の国に暮らせていること自体が裕福であると言えます。ですから、兄弟が困っているのを見たならば、どんな小さなことでもいいから、あわれみの心を持って、自分のできることで助けていくことにチャレンジしてみてください。
【敬聴】(第2コリント8:2〜4)マケドニヤ教会の「施す富」から、「あわれむ心」について何を学ぶことが出来るでしょう。
“苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。”
 マケドニヤ教会の人々は、自分たちも救援を必要とする状態であるにもかかわらず、エルサレム教会の窮状を聞いて、助けたいと願いました。「惜しみなく施す富」とは、彼らの心の豊かさです。彼らには、実際にささげられる物質的な豊かさはありませんでしたが、「持っていないが何とかしたい。」という気持ちが、あわれみの心を開いたのです。「ないからできない。」と心を閉ざすのではなく、「ないなりに何かできないか。」と考えるのが、あわれみの心を開いた状態です。私たちはこのことを忘れているのではないでしょうか。使徒行伝に出てくるアナニヤとサッピラは、バルナバという金持ちの人が自分の畑を売ってささげたことを真似しました。しかしバルナバは神の愛によって兄弟たちに抱いたあわれみゆえにささげたのですが、アナニヤとサッピラは人の目を気にしてささげたのです。自分に栄光を帰そうとした彼らは、神に打たれてその場で死にました。人の評判ではなく、あわれみに動かされて助けの手を差し伸べるという、「あわれみの動機」を忘れないでください。金額や持ち物の多い少ないではなく、施す富の心が重要です。マケドニヤの人々は、神のあわれみを感じました。そのあわれみを受け、救われた喜びがそこにありました。それらをつなげて考えてみてください。次に彼らは、「聖徒たちを支える交わり」にあずかりたいという気持ちが出てきました。自分たちにささげられるものは何もないけれど、他教会の兄姉たちのささげものに、自分たちのも加えてほしいと願ったのです。みんなで助けて行こうという施しの交わりに入りたい、という気持ちです。他教会の兄姉たちも、今の自分が助けられ、罪を赦されてあるのだという共通の喜びがあるので、その喜びを分かち合いたいという意味です。
 私たちも広島の教会全体で協力しあって、昨年、被災地の子どもたちに義援金を送りました。こういった交わりに参加したいと思うことは誰しもあるはずですね。自分たちが微力であればこそなおさら、そういった働きに参加したいのです。それがいかに尊く価値ある交わりであるかを理解しているからです。私たちもそういった交わりの輪を形成していくことは大切なことだと思います。

2.あわれむ心を閉ざす(マタイ18:33)
“「『私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』」”
 1万タラントと100デナリをわかりやすく、2億円と200万円と置き換えてみましょう。200万円は2億円の1%に過ぎません。しかしその金額には心動かされます。それは欲がはらんでいるからです。私たちクリスチャンでさえ、どこかで欲がはらんで罪を生む状態にあるのです。環境がそうでないから明らかにされていないだけで、実際に同じ状況に陥った時、あなたは人を赦せますか。人と自分との問題は、神様と自分との問題とは別だと捉えてしまうのではありませんか。神様は裁きの時に、律法の裁きよりも愛とあわれみの裁きを優先される方です。そして私たちはあわれみの裁きによって赦されたのに、兄弟に対しては律法の裁きによってガッチリ利益を得ようとするのです。人を律法の裁きにかける者は、自分も律法の裁きを受けます。自分が恵みの律法によって生きるのなら、人に対しても恵みの律法で同じように接するべきです。キリストに生きる者は、赦しと恵みの律法のもとに生きています。自分が赦されたことだけを恵みとして、人はその外の律法によって裁くというのは矛盾しています。天国に国籍を置く者は、天国の法律に従って生きるものなのですから。
 別の言い方をしましょう。2億円を今持っている人が200万円の借金を赦すことはさほど難しくありません。しかし2億円すでに使ってしまった人が、200万円を赦すのは難しいのです。これはもはや欲の問題です。赦されたとは使ってしまったということです。ここに私たちの貪欲さが表されています。醜い自分をここでしっかりと認めて、砕かれることが必要です。いい格好をするクリスチャンにはならないようにしましょう。今現在の自分という、1人のクリスチャンのあるがままの姿を、神の御前で受け入れてください。そういう恥ずかしい自分なのです。自分が赦されていても、人を赦すことができない事実を、神様の前に正直に告白しましょう。このように自分をよく吟味して、あわれみの心を閉ざすという無意識下で働く欲望の力を見つけ出し、欲望に縛られたり動かされたりしている原因や問題を突き止めて、「ああ私はなんて醜いのだろう。」と現状を認め、へりくだることです。そして、自分に施せる力量というものを認めましょう。そこが正直さという点で大事な部分です。
【敬聴】あわれみの心を閉ざす原因や問題点を考えましょう。
 1万タラント赦された人がそれをどう受け止めたかです。1万タラントは罪の象徴であり、自分の罪が2億円もの大きな罪であるという自覚があるかないか。次にしもべ仲間がひれ伏して頼んだ姿と自分が王様の前でひれ伏して頼んだ姿は同じであったはずなのに、王様に赦された自分の恵みだけ特別なものとして受け取り、同じ仲間の人を切り捨てました。神様は王様でお父さんで、しもべたちは子どもです。お父さんはみんな仲良くしてほしいのに、子どもたちはお父さんの気持ちを無視して、自分が徳をすることばかり考え、財産争いをしているのです。愛を受けても感謝を持たない人は、神様に裁かれることになります。欲望はあわれみの心を閉ざさせます。本当に気をつけなければいけません。

3.『怜恤有福』(れいじゅつゆうふく)(マタイ5:7)
“あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。”
★『怜恤有福』⇒あわれみ深い者には幸福がある。
『怜』⇒心が澄んでいて賢い。動詞=あわれむ
 人格的なもの、魂や霊におけるあわれみを指します。
『恤』⇒気の毒な人に思いや情けをめぐらす。気を配る。人の難儀を 気の毒がって金品を恵む。あわれむ。感情面からのあわれみです。
【内容観察】
人の難儀を気の毒がって金品を恵む、きよい良心をもった人はなんと幸いでしょう。その人のうちには、神からのあわれみの愛があるからです。
 新改訳では「あわれみを施した後、あわれみを受ける」と感じられることばですが、実際には「あわれみを受けたから、あわれみ深くなって、その人は幸いです。」という、逆の表現が正しいのです。人は神様のあわれみを経験してこそ、あわれみ深くなれるのです。それを知らないうちは、思いどおりの報いが来ないと憎しみに変わってしまいますが、本当のあわれみを受けた人はそんなことにはなりません。救われてメッセージを聞き、聖書を読むほど、人は自分の罪深さを知ります。自分の罪深さをよく知らないままの人は、聖書の聞き方に問題があります。知るほどに自分の罪深さ、愚かさを示され、クリスチャンであることさえ空しく感じるほどの責めがやってきます。それが神のみことばであり、光だからです。光に照らされた時、見せられた自分のやみを正直にさらけ出し、現状を認めるなら、やみは光に変わります。それをへりくだりと言います。私たちも罪深い自分に対する責めを感じつつ、「自分があわれみを閉ざしてしまう理由は、まだあわれみを知ることが足りないんだな。」と責められながら、それでも「神様のあわれみを少しずつは受け取っているんだ。」というところに希望を持って、あわれむ心を閉ざさないようにしましょう。あわれみの心をもって生きることが、最も自分らしく生きることができます。イチロー選手は野球で活躍をしているだけでなく、今回の義援金によって、彼の心の思い、あわれみの心を表し、私たちの目に輝いて映りました。人はみんなあわれみの心をもって施す時こそ、一番自分らしく美しく、力強い姿が見えます。人は誰も強く美しくありたいと、自分の人生に対して望むものです。弱かったらこわれてしまうし、汚れてしまっては意味がないのです。しかし私たちは自分を、「強くも美しくもなれない者」としてあきらめてしまっています。外側の強さ、美しさではなく、神のかたちである内側の強さ美しさに目を留めましょう。神様は強く美しい方なのですから、私たちも強く美しく変えられていくことができます。今は弱くて醜いとしても大丈夫です。地上に生かされている間は、まだ時間があります。明日は今日よりももっと強く美しくなれる可能性を秘めています。あわれむ心を開くと強く美しくなり、閉ざすと弱く醜くなります。あわれみ深い人が幸いなのは、最高に自分を生かせる人生を歩むことができるからです。幸いとは至福、幸福の頂点であり、それをつかむのはあわれみ深い人です。お金や地位、能力や才能、自分に与えられたものをもってあわれむ施しをするその人は、最高の幸せに到達する道を歩んでいるのです。あわれみ深くなって、その幸せを実感していきたいものですね。そのためには神様にどれだけあわれまれたかを、いつも意識することです。神様にあわれまれたから、今の私があるのだということを忘れないように、デボーションや日々のみことばや礼拝において、本当に感謝して賛美をささげ、奉仕をささげていきましょう。教会の奉仕というのは、イエス様にあわれまれた感謝の気持ちを表現できるものです。「私はこんなにやっているのに、あの人ときたら。」と思っているなら、意味のないものになります。神様のへの感謝の場が裁き合いになったら、教会は砂漠になってしまいます。しかし、あわれみを忘れなかったら、人のすることには左右されません。あわれみを受けた感謝をどういうかたちで神様にささげるか、だけでいいのです。このように考えて、もっと平安な教会生活を、皆さんと共に過ごして行きたいと思います。ぜひ、あわれみを行動に移し、小さなものからでいいので、やり始めましょう