■2012年2月26日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
愛がわかる up 2012.2.26
キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。
(第1ヨハネ3:16)
そう簡単に兄弟のために命を捨てることはできません。私たちは未熟だからです。しかし、愛を知っていくことで、私たちは成長していけます。愛がわかるほど、与えることができるようになります。
私たちの人生は神の愛、永遠の愛を知っていくためにあります。神様は、「求めなさい、捜しなさい、たたきなさい、そうすれば、与えられ、見出し、開かれる。」といわれました。私たちは愛を探求しているのです。なぜなら、その「愛」に私たちは魅かれるからです。私たちの人生は永遠であって、終わりはありません。この世の人生には終わりはありますが、魂には終わりはないからです。私たちは永遠の神の御国で、さらに深い神の愛を探求していくことができます。
1.愛がわかる(使徒12:11)
そのとき、ペテロは我に返って言った。「今、確かにわかった。主は御使いを遣わして、ヘロデの手から、また、ユダヤ人たちが待ち構えていたすべての災いから、私を救い出してくださったのだ。」
★『わかる』ギリシャ語からの意味
(1) 知識の中に取り入れる、知るようになる、知るに至る、聞き知る
(2) 気づく、知覚する、さとる
(3) わかる、理解する、心得ている
(4) 確かめる、認める、承認する
◎知らなかったものが、知るようになること。無知より知への移行。
ヘロデ王は民の人気取りのために、ペテロを迫害し捕えて、手かせ足かせで、しかも4人の看守をつけて、厳重に監視し、牢屋に入れました。しかし、神は御使いを送り、御使いによって、手かせ足かせは自然にはずれ、牢屋の扉も開けられ、誰にも気づかれることもなく、御使いの後をついて行くうちに牢屋を出られるという奇跡の体験を彼はしました。それは夢見心地のうちに、牢屋を出るという体験でした。神様はあっという間にペテロを牢屋から出すこともできる方ですが、あえて、御使いによって、時間をかけて、手順をもってペテロを牢屋から出されました。なぜでしょうか。それは、ペテロに「わかる」という体験をさせたかったからではないでしょうか。ペテロは何がわかったのでしょうか。彼は死を覚悟していました。しかし、この体験を通して、まだ自分の死ぬ時ではないこと、
まだ神様は自分にすべき務め、計画を持っておられるのだということがわかったのです。
私たちも「愛がわかる」という、「わかる」は、いつもの日常の中で、ある時ふと気付かされたり、そうだったのかと悟ったりするようなことかもしれません。ペテロのことばを借りると、「今、確かにわかった。愛の神は救い主イエスキリストを遣わして、サタンの手から、また、罪と死が待ちかまえていたすべての災いから私を救い出してくださったのだ。」ということです。それは、もし、神の愛を知らずに生きていたら、この世の比較競争や弱肉強食のなかで、疲れ、愛に絶望していたかもしれない、しかし、イエス・キリストに出会えたことで、神は、そのようなこの世の闇の中から、イエス・キリストの贖いの御業によって、罪にまみれていた自分を、ただ愛によって救い出してくださったとわかることです。
クリスチャンになる前に、いろいろな苦しみを通られた方も多いと思いますが、私は、家族にいじめられるという体験をしてきました。一番末っ子で、勉強はできないし、運動もできないということで、兄姉や叔父にいじられるというか、よくからかわれ、苛立たされたものです。また、担任の心ないひとことに傷つけられたり、友達にいじめられたり… なぜそんなところを通されたのかと思います。小学校の高学年の時には、もう人生に対する空しさを感じ、中学生になると、すすき野原で尺八を吹くといった、まるで若年寄のような状況になっていました。しかし、なぜなんだろうと思い続けていたことが、実は真理を見い出し、神に出会い、救われて真実な愛を知るためであったと、後になってわかったのです。それは、「わかった!自分の今までの人生はそのためだったのだ。」と、ペテロと同じように知る体験でした。しかし、それですべての愛がわかったわけではありません。クリスチャン生活を続けていくうちに、兄弟姉妹との関係やいろいろな出来事を通して、ますます神の愛がわかるようになってきました。
皆さんも今一度、ご自身の過去を思い返して、神の愛を知る時をもってみてください。
2.『一旦豁然』(いったんかつぜん)(詩篇145:5)
私は栄光輝くあなたの主権と、あなたの奇しいわざに思いを潜めます。
★『一旦豁然』の意味
あるとき、突然迷いが消え、悟りが開けるさま。
「一旦」⇒ある朝
「豁然」⇒疑いが無くなる悟るさま。
ある時、突然、神の愛に気づく、そのような時をもつために大切なポイントがあります。私たちは、あることが過ぎ去ったあと、振り返ってみて初めて、ああそうだったと理解することがよくあります。たとえば、子供の時わからなかった親の気持ちが、子育てをするようになってわかったりというようにです。私は、父が大変な戦争体験をしている中で、いかに耐えて生き抜いてきたか、その父の人生に思いをひそめることによって、父のがんこさも理解できるようになりました。
神様に対しても、この思いをひそめることは大切です。神様の愛を知るために、神様に思いをひそめ、祈り静まる時を持つことが大切です。忙しさの中にあって、不可能に思えても、できるという可能性をみつけてください。それが愛がわかるための一歩です。毎日はむずかしくても、時間と場所を求めて、ぜひ、神さまの愛に思いをひそめ、神様の愛の充電を受けてください。そのためにも、デボーションがあります。その例として、次の二つのみことばを挙げておきました。
【敬聴】
次のみことばに思いを潜め、神の愛について悟りを得ましょう。
(1)(ローマ8:34)
“罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。”
神のくすしい御業に思いをひそめましょう。私たちは赦され、義とされている罪人です。赦されているということは、愛されているということです。イエスさまは今も私たちのためにとりなし続けていてくださるのです。それがわかると、頑張ろうと前向きにやる気が出てきます。私が小さかった時、通知表は1と2の競争でした。その通知表を見て、父や叔父があきれて騒ぎ立てましたが、母は間に入って、「まだまだ小さいのだから」ととりなしてくれました。その母親のために、自分は頑張ろうと思ったものです。とりなしの愛はモチベーションをあげます。このみことばは、罪に定めようと責めてくるものがたくさんいる中で、イエスさまが私たちのためにいつもとりなしてくださっているということを教えています。そのことに思いをひそめてください。自分の名声名誉のためではなく、自分を愛し、とりなしてくださる方のために、生きたいという思いが湧き上がってくるでしょう。イエスさまはその愛を、とりなしという形で表してくださっています。
(2)(ガラテヤ3:13)
“キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。”
イエス様は、私たちののろいを身代わりに引き受けてくださいました。それゆえに今の祝福された自分がいます。これらの愛の御業こそ、くすしい御業です。滅ぶべき罪深い自分を救い生かすために、神は愛の配慮をいつもしてくださっています。この神の愛に心をむけて、罪に引き込む欲望に心がとらわれないよう、今週もしっかりと歩んでください。
■2012年2月19日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
愛は憎まない up 2012.2.19
兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。
(第1ヨハネ3:15)
「愛と憎しみは表裏一体と言われるが、それは、愛を知らない不敬虔な考え方である。神の愛は決して『可愛さ余って憎さ百倍』という愚かなものではない。」
世の中で言う愛は本物の愛ではありません。ご自分を信じなかった人々が滅ぶことでさえ、神様は残念に悲しく思っておられるのです。地獄に神様が追いやられるのでは決してありません。神の愛をないがしろにし、「愛なんて」と馬鹿にし、軽んじた不敬虔な人々が最終的に行き着いた場所が、永遠の滅びだということなのです。神ご自身は、その滅びを免れさせるために、イエス・キリストを信じただけで救われるという福音を用意してくださいました。「この愛を受け取ってくれさえしたら」と思いながら、神の愛を退けた人々に対して義の裁きを行わなければならない、愛なる神様のお気持ちを察してください。そのことを思いみながら、まだイエス様を知らない人々に対して、健全なあわれみをもった祈りをささげていくことが大事です。
1.第1ヨハネ3:15は、大罪への警告である
【内容観察】
「兄弟を憎む者はみな、人殺しです。」⇒主の戒めの真反対。
「憎む」ことは、互いに愛し合う関係を破壊する大罪である。
理由はどうであれ、兄弟に対して悪い思いや感情を抱くことによって永遠のいのちが留まらなくなる。大罪に気づくための忠告と警告。
上に挙げたみことばはとても厳しいものに聞こえます。ねたみや嫉妬から始まった、兄弟姉妹に対する憎しみに似た感情を感じることは誰しもあるはずです。注意や叱責を受けた時、その痛みから自分の心を守ろうとして生まれる敵対心など。しかし、ここで言われている「憎しみ」はそれとは違う類のものであることを、今日はお話したいと思います。「憎しみ」を私たちから取り去ることはできません。私たちは罪人ですから。しかし放っておかずに処分しなさいと、みことばは言っているのです。憎しみを放っておくと、とんでもない的外れを引き起こし、人生を思いもしない方向に追いやる可能性があるので、これに対する注意と忠告がなされています。憎しみに支配されると、人殺しになってしまうのです。憎しみの芽を処分しなかったがために、それが少しずつ成長していき、やがて一番最初に憎いと思っていた誰かではなく、目の前で自分を注意した別の誰かに対して暴発を起こすまでに、捕われてしまいます。今まで自分が過ごして来た日々に憎しみの芽を見つけた人は、「もうダメだ」と早合点してあきらめないでください。聖書はあなたを励まし支えるためのもので、否定することは決してないのです。
【敬聴】大罪を避ける三つの買い物を考える(黙示録3:18)
“「わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。」”
「三つのものを手に入れるための代価を支払う覚悟が必要。それぞれを手に入れるためには、どのように代価を支払う必要があるのかを考えてみましょう。」
みことばに挙げられた三つのものは、それを手に入れるために私たちがしなければならないことがあります。罪の赦しは神の恵みであり、信じるだけで何もしなくても赦していただけますが、これらはじっとしていては手に入らないものです。
(1)豊かな者となるための火で精錬された金(第1ペテロ1:7)
“信仰の試練は、火を通して精錬されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。”
「火で精錬された金」は象徴で、信仰の試練によって精錬された信仰を指しています。精錬された信仰は、より純粋な信仰になります。「神の友」と呼ばれたアブラハムも、その前に試練を受けました。彼は神の約束によって与えられた100歳の時の年寄り子、しかも90歳の愛妻が産んだひとり子イサクをささげよとの命令を受けました。普通の人なら「悪魔の言葉に違いない」と退けたであろうその言葉も、神の御声を何度も聞いていたアブラハムは聞き間違ったりはしませんでした。彼は自分には理解できないことも神には深いお考えがあってなさること、間違いは決してあり得ないことを信じてついていくと決め、実行に移しました。そして愛するイサクを正に殺そうとした瞬間、神は彼の信仰を認めてくださり、彼は「神の友」と呼ばれるようになったのです。試練が与えられると、不信仰という名のいろんな不純物が浮かび上がってきます。それらと正しい良心とが向き合い、「神様はそんな方ではない。意味のないことをされるような事は絶対ない。」と、正しい良心をもって、自分の内側から出てくる不信仰なことばを全部払いのけていきます。そして実行に移すのです。「神は何を考えておられるのか」と、神の前に正しい良心をもって見極めていくこと、これが信仰の試練であり、精錬されるということです。あなたの内に隠れている不純物を取り除くために、神はあえて不信仰な出来事に出くわすことを許され、不信を抱かせるような人々をあなたの前に置かれます。「それでも神は愛なる方です」とあなたが信じ通すことができるための精錬として、そういう場面に出くわすようにされます。その時、私たちが一番大事にしなければならないのは、「赦す」という愛です。イエス様が私たちを赦してくださったように、私たちも赦し合うのです。赦すことをせず憎しみを持ったままでいると、その相手の言葉を受け入れられなくなります。それは憎しみに支配され始めている証拠なので注意してください。次にはその人を否定したり、傷つけたりする言葉や行動が出てき始めます。憎しみは突然爆発するものではなく、じわじわとあなたの考えや心をしばっていきます。そしてあなたの意志力でとどめられなくなった時、人殺しが起きるのです。憎しみを早く処分するために、私たちは「金」である「神の愛に対する純粋な信仰」を磨いていくことが必要です。どんなことがあっても「神は愛です」と信じ続けていくことによって、憎しみの芽を刈り取ることができます。また「その神に造られた私は、そんなことは絶対しない」と、神のかたちである自分を維持しようと努めます。それをしない場合、感情のままに心が引っ張られていってしまうので気をつけてください。皆さん、この十字架に現された神の愛を信じ通すという信仰をぜひ磨き続けていただきたいのです。それが憎しみから自分を守る、まず第一のポイントです。
さて、この働きは聖霊様が火となって私たちを精錬してくださるというものですが、この時私たちが支払うものとは何でしょうか?
それは試される過程で浮き上がってくる不信仰という不純物です。不信仰をささげる時に起こる葛藤、肉の思い中心の感情が、正しい良心に圧力をかけてきますが、正しい良心の方が本物の自分であるとしっかりとそこで確信していくならば、この不信仰という不純物は必ず十字架につけることができるようになります。自分で何とかしようと思っているうちは不信仰を委ねることができません。私たちにはできないことがたくさんあるのですから、ぜひ自分の思い悩みはすべて神様に委ねていきましょう。
(2)裸の恥を現さないための白い衣(第1ペテロ4:8)
“何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。”
裸は罪の象徴です。神様も、アダムとエバが罪を犯して裸になった時、皮の衣で彼らをおおわれました。人間と言うのは結局、的外れをしやすいそんな存在なのです。こんな私たちは、愛のおおいを受けないと人生を全うしていけません。神様は完全な方で義を全うできますが、私たちは不完全な者で、精錬されながら完全へと近づいていくのだということを忘れないようにしましょう。罪の姿をおおうための白い衣は「義とされる」ということであり、それは行 いによらずイエス・キリストを信じることによって認められるものです。神様は私たちの動機を見て正しいと言ってくださいます。ですから今行いができていなくても、「できるようになるまで赦し続けましょう。」と言ってくださっています。この神様を信じている証拠が「互いに愛し合う」ことであり、それは「互いの罪をおおう」ことでもあります。キリストが示してくださった愛は私たちを赦す愛なので、人を赦す気持ちを持っている人は義とされます。逆に赦せない気持ちを持ち続けるなら、義と認めてもらえません。「赦したいが赦せない」と葛藤している人の場合は、「赦したい」気持ちが本心としてあるのですから、義と認めてもらえます。神様の愛を信じる人は、絶対に人を赦したいという本意があるのです。それを自分の内側に見つけてください。憎しみという感情が目隠しをして、自分の本当の心を見ないようにさせているという、罪に欺かれている状況が私たちの内には起こりやすいものなのです。まず信仰が精錬されることが必要です。そうすれば白い衣を買うことができます。最初は無代価でいただいた白い衣ですが、いつの間にか憎しみを持ってしまい、それを脱いでしまっているという状況が起こります。すると、次は犠牲を払って買い戻さなくてはなりません。その犠牲は「赦し合う」ことです。この時の葛藤は苦しく大きいものです。しかし、神様が下さる義の衣はとても高価なものですから、つらい思いをするだけの価値があります。つらければつらいほど、その衣の価値は高いと言えるでしょう。兄弟を赦すための愛の労苦、心の痛みが、白い衣を買う時の代価となります。神様ご自身でさえ、私たちを赦すためにどれほどの霊的、精神的、肉体的苦痛を受けられたでしょうか。霊はハデスに下り苦しみを受け、精神は人々からつばきされて傷つき、肉体はむち打たれ釘づけられて、すべてに苦しみを受けて最高級の義の衣ができたのです。
(3)目が見えるようになるための目薬(ヨハネ9:39〜41)
“そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」”
これは生まれつきの盲人がいやされた時のおことばです。自分の正しさを主張する人々に対して、「見えない心」だとイエス様は言われました。見える人は自分の罪が見えるのです。「私は見える」というパリサイ人たちの主張は「私は正しい」という意味であり、神からの義でなく、自分で自分を義とすることなので、実は盲目なのです。ちなみにユダヤでは盲人は積み重なった罪の結果であり、反対にパリサイ人などは宮で律法を教え、自分も守っている正しい人だと思われていました。パリサイ人は常に人と比べた正しさを追求していましたが、本当の正しさは人と比べるものではありません。もしイエス様の言われる「見える状態」であったなら、パリサイ人は盲人を見て、「同じ罪人なのに」とその人をあわれみ、助け、守ろうとするでしょう。現実に起こっている状況よりも、同じ罪の遺伝子を持っていることの方が重要です。罪人は罪の実しか結べません。神様からご覧になれば、殺人者も私も同じ種類の植物です。人と比べて自分が正しいとか、自分の方がましだとかいう考えはひどく自己中心です。そこに気づかないまま憎しみに勝利することはひどく難しいでしょう。たとえ殺人は犯していなくても、自分も殺人を犯す可能性のある者だということ、それを神様が赦して受け入れてくださっているという感謝。これがあって初めて、人を赦すことができます。自分が赦されていることの大きさを感じれば感じるほど、人を赦すことがやさしくなります。その大きさがわからない人は、人を赦せません。1万タラント赦してもらったしもべは、その価値がわかってなかったのです。赦されてホッとしたけれど、そんなことをしてもらえるような価値のない自分をよくわかっていたなら、仲間の小さな借金など簡単に赦せたはずなのです。目薬は悔い改めです。これを私たちは買わねばなりません。支払う代価は、自分の罪深さを認める砕かれた心です。自分は正しいと主張し続けると、争いを引き起こします。また片方にだけ譲らせて他方が押し切るのも、聖書的には正しくありません。常に「お互いに」という心を大事にしましょう。この目薬は一滴つけるだけですぐ見えるようになる優れものです。自分を砕くことのできる人が本当に自分を愛している人です。へりくだるとは、神を恐れ敬うことであり、それは神を愛することです。そして神を愛するとは兄弟を赦すことであり、それは「自分もあの人と同じ罪深い者」と自分の非を認めることです。そうしなければ、赦しは心の中に湧き上がってはきません。むしろ憎しみが心を支配します。気をつけてください。
2.「憎む」を『反面教師』とする(箴言15:17)
“野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる。”
★『反面教師』(はんめんきょうし)の意味
悪い見本として反省や戒めの材料となる物事。そのような人物。
(中国の毛沢東が演説の中で使った言葉)
日本のことわざ「人のふり見て、我がふり直せ。」
憎しみを抱いた時には、自分が最もなりたくない人の姿を思い出して、「あんな風になりたくない」と心を変えましょう。そのために赦せないこと、憎むことがどんなにみにくいものかを、目にしっかりと焼き付けておいてください。このみことばの「肥えた牛」は経済力の象徴です。経済的豊かさは傲慢を生みます。人の心に傲慢さが生まれてくると、コントロールしたいという気持ちが強くなり、このコントロールしたい気持ちが止められると憎しみが湧いてくるのです。嫉妬やねたみは憎しみの仮の姿です。思いどおりにならない自分と、自分の思い通りにならない世界を認めましょう。すると自分の心を守りやすくなります。また、自分に憎しみを向けてくる人のみにくさを目の当たりにすると、憎む心を処理しやすくなります。つい争いになってしまったとしても、一旦冷静になって相手を観察することで、それ以上の争いを回避できます。一時的に相手を負かしても、それは何の得にもなりません。それよりも、早いうちに憎しみを処理するために、そのみにくさを目に焼き付け、印象に残しておきましょう。正しく意識を持ち直すための反面教師です。そのみにくい自分さえどうでもよくなるほど憎しみに捕われてしまったら、もはや永遠のいのちはその人のもとに留まれません。憎しみが生まれた最初の時点では、まだ永遠のいのちはとどまっています。憎しみが幅を利かせて永遠のいのちを退けてしまう前に対処しましょう。十字架にかかられる直前のイエス様の姿は、現代の私たちにはもはや想像もつかないほどみにくく、人が顔を背けるほどであったと書いてあります。しかも、全裸で十字架に付けられ、排泄物も全部垂れ流し状態でした。それが私たち罪人の姿だとわかったら、「もうそんな姿になりたくない」と、憎しみをパッと捨て去ることもできるでしょう。憎しみのとりこにならないように気をつけましょう。
■2012年2月12日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
愛こそいのち up 2012.2.12
私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。
(第1ヨハネ3:14)
「神とイエスを知ることが永遠のいのち(ヨハネ17)を得られる」ということは、愛することが永遠のいのちに至ること、すなわち死からいのちに移ることだと言えます。
1.死からいのちに移っているとは(ルカ19:8)
“ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」”
ザアカイはなぜ、ユダヤ人から嫌われる取税人という仕事を選んだのでしょうか。彼は、人よりもお金の方が愛せる、安心できる、つまりお金は自分の思いや願いをかなえる力があるが、人は裏切り、傷つけてくる…とユダヤ社会の状況から人への不信に陥り、人を愛せなくなっていったと言えます。私たちも、人生でこのような状況にあうことがあると言えるのではないでしょうか。クリスチャン同士でも行き違いが起こると、不信感を持つなどして人を愛せなくなり、それは死の状態に引き込まれていくことになります。ザアカイはそういう人生を選んでしまったのです。
【敬聴】
イエス様をとおしてザアカイの心がはっきりとしました。いのちに移ったのです。何をもってザアカイは、死からいのちに移ったと言えるでしょうか?自分自身にも照らし合わせてみましょう。
「人など愛せるか」と愛さないと決めていたザアカイの心は、イエス様と触れ合うことを通して、「愛したい、愛していこう」という心に変えられました。私たちも、互いの絆が断ち切れそうな時に気持ちを変えるには、イエス様に触れられる以外にありません。一人で悩まず、ザアカイのようにイエス様にお出会いして、イエス様に心を造り変えていただくことは大切なことです。あなたの「人を愛せない、信じられない、死んだ心」をいやすことができるのは、イエス様との出会いにかかっています。そして変えられた後の第一歩が大切です。「愛していこう」と心に決めても、思っただけでは実を結ぶことができません。ザアカイはイエス様に出会って心が変えられた後、貧しい人たちへの施しと、だまし取ったものを4倍にして返すという償い(だまし取ることで関係を断ち切った相手に、何倍もの償いをして関係改善を図る)をすることを告白しました。これがザアカイの愛する証しでした。愛をお金に代えて表すことが、自分のできることだったのです。
2.いのちに入る招きにあずかっている私たち(ローマ5:5)
“この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。”
○いのち=愛し合う関係に入っている
招いた人にはもれなく「愛する」という神様ご自身の、ご自分と同じ愛の力を与えてくださるという約束です(旧約ヨエル書)。それは愛しにくい人でも愛せる力です。
○神の愛が心に注がれている⇒使命が与えられている
豊臣秀吉に仕えた石田三成の「三献の茶」から〜鷹狩りの途中、立ち寄った秀吉に、一度目は一気に飲み干せるよう、大きな茶碗にぬるめのお茶、二度目は前より小さめの茶碗に少し熱めのお茶を半分、三度目は小さい高価な茶碗に熱いおいしいお茶を少し出した三成の状況判断の賢さに、秀吉は彼を召し抱えたといいます。そして三成は秀吉の天下統一の思いに合わせて、助けていく使命を持ちました。愛され、かわいがられると、自分を生かしてもらう愛が使命感をもたらします。愛は私たちの内側から使命感をもたらす力があります。
【敬聴】
死のうちにとどまることは、聖霊様を悲しませることであり、使命を受け入れないことになります。
神の愛から湧き上がってくる神様からの使命を見いだしましょう。
聖霊に触れられることによって、自分を愛するように隣人を愛するという使命を抱きます。神様を愛する心が与えられた人は、必ず隣人を愛することができるようになってきます。なぜなら神は「互いに愛し合いなさい」という思いを強く持っておられるので、自分を愛してくださった方の願いを実現したいという使命感が、内側に湧いてくるのです。宣教師が、海外で大変な環境の中で福音を伝えるという力、勇気は、神の愛に触れられたところから湧き上がってくる、愛していこうという使命感からのものです。福音を知らない人にぜひとも届けたいーと愛が動機となった使命感から出てきます。ですから心が弱ったりやる気がなかなか起こらなかったりした時、もう一度与えられた聖霊様に心を向けて、神様の愛に触れていただき、「そうだ、私はこのために神様が地上に置いてくださっているんだ。」という思いを湧き立たせていただきたいし、それをつかんでない人は、もっと神様の愛に触れられ、具体的なものをいただきたいという願いを起こさせていただきたいと思います。
3.死からいのちに移った人(ルカ15:24)
“「『この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。」”
【内容観察】
自分のことしか考えず、罪の中に陥り、死んだのも同然であった息子が、悔い改めて帰ってきたのは、死者が生き返ったのと同じなのです。それで父は大喜びで祝宴を始めた。
いのちに移った大きな証しは、理由なき喜びが湧き上がってくることです。私たちは、愛せない心が愛する心に変わってきた喜びを内側に感じる必要があります。またそれ以上に、愛せない肉の感情の反発の時期にごまかされないようにしましょう。新しく造り変えられた正しい良心は、少しずつ赦せるようになり、愛する心が成長していくのに伴って喜びが強くなっていきます。小さな喜びの芽が出たことが、いのちに移ったことの一つのしるしと受け止めて、いばらや雑草にごまかされないように気をつけていっていただきたいと思います。息子が死からいのちへ移った行動は、父のもとに帰ろうと決心したことからです。帰るのに要した日数は書かれていませんが、楽して死からいのちに移るという甘い考えはやめましょう。古き人の心の葛藤があるということです。しかし、神の愛への信頼の方が大きいのです。イエス様の十字架に現された神様の愛に信頼を働かせて、放蕩息子が父の愛を信じて帰ったように、私たちも愛せない心と戦いながら、神の子として心を入れ替えていく辛い旅路をしっかり歩んでいきましょう。その労苦が神の愛に対する信頼の強さを増し加えていくと思います。
4.死のうちにとどまっている人(マタイ18:33〜34)
“「『私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。」”
赦された自分の罪の大きさと、人が自分に犯した罪の大きさを対比することは、良い意味で必要です。人間同士を比較して裁いてはいけませんが、このように違いを比較して、自分の罪の大きさを知る必要があります。1万タラント赦されたあなたは、100デナリの罪を赦せないのでしょうか。この100デナリの価値を小さくするためには、1万タラントという巨額の自分の罪深さの大きさを知ることです。そうしなければ赦せないと思います。
【敬聴】
「死からいのちに移った人」と「死のうちにとどまっている人」との違いを見極めて、(第2コリント5:17)の意味を考えてみましょう。
放蕩息子は父の愛に気づき、新しく変えられましたが、1万タラント赦されたしもべは、王様の恵み、あわれみに気づかず、心を変えることができませんでした。心が変わらないまま、同じしもべ仲間の借金を赦すのは無理な話です。人を赦すためには、自分が変わる必要があります。新しく造られたとは、愛によって「なんて私は愛されているのだろう」と、心が目覚めることです。
5.『飲馬投銭』をもって愛し合う(マタイ24:45〜46)
“「主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。」”
忠実な思慮深いしもべのこの箇所は、単なるリーダーシップの話に終わらず、「互いに愛し合う」真理が含まれています。
◎しもべ=私たちクリスチャンを意味する。しかも根っからのではない、義人と認められている罪人。これは大事なことで、息子になる前の未熟な状態を意味する。
家のしもべとの違いは、忠実な思慮深さがあるという点のみです。同じ赦されている罪人の中にも、忠実な思慮深いクリスチャンがいるということです。皆さんもぜひ、忠実な思慮深いクリスチャンに成長しましょう。この思慮深い忠実なしもべが、食事時に「食事をきちんと与える」とは、単にやるべきことをやるという視点ではなく、同僚をいつも気にかけて健康な状態に管理する、つまり大切にしているということです。さらに47節以降を見ると、不忠実で思慮のないしもべは、まわりのしもべ仲間のことを考えず、自分を楽しませ自分を生かす、自分のことだけしか考えていないのです。そして支配的に指示し、自分は仕事もせず飲み食いしているというのです。「任される」とは支配することではなく、今の健全な状態を保ち続けるということであり、権威を思いどおりに使うことではありません。主人がしもべを大事に扱っていたように同じように扱うことを任される権威を委ねられたということを、きちんと理解しなければなりません。
私たちは互いに神様から委ねられた者です。きちんと互いの健康管理をすることが、「互いに愛し合うこと」です。時間が来たから食事を準備するのではなく、愛をもってその人の健全さのために準備する働きが、互いに愛し合うコツです。そしてこの思慮深さをみんなが持っていると、「互いに愛し合う」ことが成立していきます。
※『飲馬投銭』とのつながり
★『飲馬投銭』の意味
馬が水を飲むたびに、その水の代金として水中に銭を投げ入れること。転じて、心が清く、行いが正しいことのたとえ。
馬が水を飲むたびに、水中に銭を投げ入れているこの人の気持ちを想像してみてください。「こうして馬のために水を飲ませる小川があることは何とありがたい」と、大自然の恵みに対する感謝、大自然の仕組みの中で自分たちは生かされているという、天を敬い神を畏れる心を持った人です。「水中の銭」については、貧しい人が見つけて使ってくれたらいいと思うわけです。このように、水への感謝の気持ちを銭で置いていくー心がきよい、正しい人というイメージですね。神様は銭を水に投げる気持ちが欲しいのだと思います。しかし恵みを内側に感じなければ、その気持ちは湧き上がってこないでしょう。言われたからでなく、心に感じて行うよう心を磨いていただきたいと思います。そのためには忠実な思慮深いしもべのように、周りを良く見て、愛されていることを感じていくことです。そうすれば自然に「飲馬投銭」の心が動くのではないでしょうか。
「敬聴と適用」
私たちは互いに赦されている罪人です。互いの罪を見るたびに、自分の罪が愛なる神様に赦されていることを思い、その赦しの愛に感謝して、互いに赦し合うことが、赦されている罪人の清さであり正しい行ないと言えるでしょう。「愛こそいのち」について、忠実な思慮深いしもべの『飲馬投銭』の行動から、どのようなことに気づかされますか?
「赦されている罪人のきよい心と正しい行い」とは、ただ一点、「愛されているから赦されている罪人として、赦されたように赦す」という愛し方だけです。これ以外に、きよいとか正しいとかはありません。私はイエス様のようには愛せないが、赦されたから赦していこうということ、これだけが唯一神様に喜んでもらえ、きよいと言っていただけることだと。ですから、「飲馬投銭」とは、いたらない私を神は生かしてくださり、互いに生かしあえるように、この銭も誰かのために生かしていただきたい…と。いただいた水への感謝を、喜んで感謝をもって銭に代えて水中に投げる心は、まるで私たちが、神から赦される愛を受けたことへの湧き上がってくる感謝を、今度は「赦す」という銭を投げる心のようではないでしょうか。私たち赦された者ができる愛し方は、その人を赦す愛です。受け入れるという意味もありますが、相手の間違いを正しいと認めることではなく、間違いの状態(存在)を認めてあげることです。「やり直したらいいのだから」と神様も赦してくださっているので、希望が持てます。しかしやり直そうとしない人に出会うと、私たちは悲しみ、傷つきます。しかし私たちができることは「赦し続ける」という、その人への愛を現すことです。「赦す」という愛こそが、私たちに委ねられている愛ではないでしょうか。
■2012年2月5日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
驚かない愛 up 2012.2.5
兄弟たち。世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません。
(第1ヨハネ3:13)
先週お話しした、カインによる人類初の殺人は、悪い者が良い者を傷つけてしまうという出来事でした。しかし、私たちはこういった現象に対して驚いてはいけない、とみことばは言っています。その理由を本日はお話していきます。さらに、そのための備えをしておくのも愛の側面の一つであることを、話していきたいと思います。
1.私たちを憎む理由(ヨハネ3:19〜20)
“そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。”
クリスチャンでなくても、愛や正義を大事にする人はいますね。そういった人たちがクリスチャンを迫害することはまずないでしょう。問題なのは、愛や正義を軽んじている不敬虔な人々であり、そういった考えをやみと呼んでいます。彼らからのいじめや、果ては追い出そうとする動きまで、驚くことではないと聖書は言っています。なぜ彼らはクリスチャンを迫害するのでしょうか。その理由を、上のみことばから3つ挙げてみました。
【内容観察】
(1)光よりもやみを愛した。
やみを愛する人は貪欲に従い、貪欲を満たしたいという欲望にかられています。その欲望を満たすまで心は落ち着きません。それなのに、やみの欲望を満たすのに邪魔な存在がいると不愉快なのです。
(2)悪いことをしているので光を憎む。
誰しも欲求を止められるとイライラして怒りが出てくるものです。その怒りは憎しみに発展します。憎しみとは、その対象を排除しようとする心の動きです。たとえば、仕事時間中にどうしてもビールを飲みたくなったとします。それをたしなめる人がいたら、ムカッとします。相手が正しいことを言っているとしてもです。やみを愛する人は、自制できない限度を超えた欲望を達成したいがために、それを妨げる者に対して憎しみを抱き、その存在を排除するのです。
(3)悪い行いが明るみに出されることを恐れている。
自分が間違いであることを認めたくないのです。自分を押し通すための理由として、自分を正しいとします。たとえば、「キリスト教は心が狭い。世の中いろんな人、いろんな価値観がある。それぞれが幸せでありさえすればいいじゃないか。」という耳ざわりのいい言葉がありますが、その根底に潜むものは、「自分は正しい」という主張です。もし間違っていることを認めてしまえば、貪欲を満たすことはできなくなり、不満がたまります。それは憎しみになり、さらに殺意に変わるのです。
【敬聴】
内容観察を参考にして、やみが光を憎む理由を、自分の言葉でまとめてみましょう。
(例)なぜ私たちを憎むのでしょうか。自分が正しい、他は間違っているという、身勝手で自己中心な、かたくなな心が、貪欲を満たそうとする的外れな力に支配されてしまっているからです。それゆえ、邪魔しようとする力はすべて排除しようと(憎む)するのです。
先週のメッセージを思い出してみましょう。神様へのささげ物のはずが、なぜアベルを殺すに至ったのでしょうか。カインにとってアベルが邪魔になった理由は、「自分のささげ物、やり方を神の前に正しいと主張し続けるため」であり、「自分よりも正しい者が存在しては都合が悪いから」です。振り返ってみれば、私たちも、自分の不満や不平を他の人にぶちまけてしまうことがあります。夫婦の間でたまったうっぷんを子どもにぶつけてしまったり…。正しい良心が弱ると、私たちの体に宿る罪の力が表に出てしまうのです。正しいことを求めているクリスチャンでさえ罪を犯すことがあり、やみを愛しているかのような行動が出てしまうことがあるのです。現実的にはただの罪人であることを踏まえておきましょう。みんな同じ罪人であり、赦されている罪人です。赦されていることに感謝ですね。
まとめると、「身勝手な憎しみをもつ人は自己中心であり、利己的であり、他人のことはあまり考えない。他人のことを考える時は必ず自分にプラスになることを心の内に計画している。」
ともかく「不満を持たないように、欲望を満たすように」といった単純な動機が、罪の力に捕えられて、憎まなくていいものにまで憎しみをもってしまうという状況が起こります。特にやみを愛する人、貪欲に対して自制心が働かない不敬虔な人、愛を軽んじるような人々は、そういう行動をするものなのだと理解しておきましょう。
2.「愛は驚かない」とは?(第1コリント13:4〜7)
“愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。”
このみことばは、罪人にできるはずもない内容です。クリスチャンになったからすぐにできると思ったりすると、教会に来たとたん、失望することになります。批判的な人であれば、十のうち一つでも愛のない言葉を聞いた事によって「この人は愛がない」と言い出すでしょう。それほどに、私たちは自己中心の、自己保持をする弱い者なのです。神様がこのみことばを私たちに示されているのは、「できるためにはどうしたらよいか」を考えてほしいからです。今できていなくても、できるようになりたいという気持ちが内側から起こってくるのが、光を愛する人の願いです。本来、人は誰しもそういう願いを持っているものなのですが、できないという負の感情が、チャレンジする気力さえ失わせてしまいます。そこで、神様は救い主イエス・キリストを遣わして、この方に希望を持つようにされました。できないと嘆く私たちを救い出して希望をもたらす、それがイエス・キリストの救いの大事な力です。罪人にはできないことであっても、この方の御力によってできるようになります。イエス・キリストを信じている者は誰でも、みことばを実行できるようになる、それが神を信じる者の心の姿勢です。
★驚く=意外なことにあって心が騒ぐこと。びっくりすること。
自分が「これは当然」と思っていることに対して当てはまらないものに対して、びっくりするのですが、自分の基準は人には当てはめられないものです。自分と比べて何かに秀でている人に、他の部分も優秀であることを求めるのは、世の中の価値観であり、やみの考え方です。私たちはいつの間にか、教会内でもこの世の価値観で兄弟姉妹を裁いたり批判したりしていないでしょうか。みんな得意不得意があります。自分の得意が相手の不得意かもしれません。この世は罪の世界であり、人は罪を犯すものです。罪人同士が集まっているのですから、誰かを傷つけたり、傷つけられたりといった、不本意な、理不尽なことが起きるのです。そして、たいていは正しい方が傷つきます。それはやみを愛する者がいるからですが、だからといって、その相手を抹消するのは正しくありません。神の正しい裁きの時があります。神ご自身も、この裁きの時まで忍耐の限りを尽くして待ってくださっているのです。
では現時点の私たちは、どうしたら良いのでしょうか。先日雪が降りましたが、車を運転する人は雪が降ると知っていたら、タイヤをスノータイヤに変えたり、道のどこが危ないかを調べたりして、対策をとります。私たちも、この世にまだやみを愛する人が存在していることを心に置いて、彼らに遭遇した時の対策を練るべきです。備えをしておくのは、愛を示すための大事なポイントです。憎まれる反応を想定していれば、寛容な決断や親切な行動などという、愛の対処法を準備しておくことができます。今日一日の流れの中で、どういうことが起きるかをあらかじめ想定し、心の準備をしておけば、愛を示すことに対してのストレスや不安がだいぶなくなってきます。思い返してみれば、自分がカチンとくるのは特定の誰かではありませんか?その人を変えるのは難しいですが、自分を変えることはできます。怒りは自分の想定を裏切られたことへの不満なのですから。ぜひ今週想定してみてください。「あの人にこう言われたら、どう反応しよう?」「こうきたらどう返そう」と。
3.愛は『有備無憂』(ゆうびむゆう)(第1ペテロ3:9)
“悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。”
★『有備無憂』⇒備えあれば、憂いなし。
愛は、あらゆる事を想定して備えを成し、平安を保つ。
【内容観察】
祝福を受け継ぐために召されたのですから、この世においては憎まれ侮辱される事を想定したうえで、その人に祝福を与えるようにしなさい。
その人が今より良くなるために祈ったり、手助けしたりするのが祝福です。罪人が悔い改めることを喜ばない人はいないでしょう。が、自分に害を与えた者が、悔い改めて祝福され、自分より豊かで幸せな人生を送ることを本当に喜べますか?納得できないとしたら、それは自分の内にまだ自己中心の心が残っていて、自分で報復しないと不満や心の痛みが取れないと思っているからです。しかし、実際は復讐しても心の痛みは取れないことを、多くの人が証ししています。ならば、自分を傷つけた人が、その罪の深さに気づいて、「本当に申し訳ないことをした」と悔い改め、謝りに来た上に、慰謝料百万円も用意してきたらどう思いますか?その人の心が本当に変わったのを知れば、百万円などどうでもよく、心から喜べるのではないでしょうか。今改めて問います。「あなたを迫害する人が、あなたより立派なクリスチャンになることを願いますか?」それでもこの問いにうなずけないとしたら、その人は未だに自分中心に優位性を心に抱きながら物事を判断していることになります。本当の幸せは、悪人があなた以上の善人になることであり、ものすごく幸せになれるのです。なぜなら、あなたに対して犯した罪のゆえに、罪人が悔い改めて永遠のいのちに変わるのですから。さらにその人が教役者としての使命を授かったとしたら、それら全てが、あなたに対しておかした罪を起因としていることになるのです。相手の人生を180度変えた原因が、あなたに対して犯した罪なのです。ですから、祝福を与えることは、相手に対して、自分より立派な人になってほしいと願うことです。それが愛なのです。もちろん全てがうまく行くとは限らないことも想定しておきましょう。そんな罪人の世界であっても神はあきらめずに、悔い改めて救われることを待っておられまうす。罪に気づき、「良い人になろう。」「神に従って生きよう。」と思うようになることを願って、罪人の私たちを祝福してくださっています。
今日、献児式がありましたが、親が子に対してそうであるように神様も、何にしろ幸せであってほしいと願っておられます。どんな悪い子であっても、良い大人になってほしいと親が願い続けるように、父なる神も私たちを祝福してくださっているのです。祝福の道は「私よりも周りの人が幸せになるように」という気持ちで歩むことです。そして、祝福された人たちが周りに増えてきたなら、祝福を受けた人たちが今度はあなたを祝福します。祝福された人は、祝福が十分でない人を見つけたら、祝福せずにはいられません。それが愛の性質なのですから。自分だけが幸せで、周りがひもじい思いをしているとしたら、あなたはどう思いますか。自分がごちそうを並べたテーブルの向かいに、カップラーメン一つの人が座っても、平気で食べていられるとしたら、その人はよっぽと自己中心だと思いませんか。良心が働いて、「分けてあげたら」と思うはずです。良いものをみんなで分け合うことの楽しさ、喜びも知っていきたいものですね。私たちはその途上にある者ですから、やみを愛する人のようなものの見方をしないように、教会内でも気をつけましょう。兄弟姉妹の未熟なところ、至らないところ、悪いところを批判したり裁いたりしないようにしましょう。それよりも祝福した方が、あなたの心も歪まなくていいし、嫌な思いもしなくて済みます。なぜ愛は驚かないのか?悪いことが起こるのを想定済みだからです。
■2012年1月29日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
叢蘭秋風(そうらんしゅうふう)、愛根ざす up
2012.1.29
カインのようであってはいけません。彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行ないは悪く、兄弟の行ないは正しかったからです。
(第1ヨハネ3:12)
神様はなぜ、アベルがカインに殺されるのを見過ごされたのでしょうか。神様は、人がなす多くの不道徳の罪の行為によって、人間関係に問題を起こし、神様の愛の心を痛めるようなことを見て来られました。
「叢蘭秋風」とは、悪い者が良い者に危害を加えることのたとえのこと。
生い茂った蘭が芳しい花を咲かせようとすると、秋風がこれを傷つけ破る意から。
…まさにアベルにとって、兄から殺される事件は「叢蘭秋風」です。確かに神様にとってアベルが殺されることは、とても辛いことですが、神様はある目的のためにこの出来事を受け入れられ、時が来て愛の花を咲かせるまで、じっと待っておられました。その時とは、愛の根がしっかりと張り巡らされる、イエス・キリストが地上に来られる時のことでした。このことからも、神様の偉大なご計画、愛の大きさを知らされます。花は傷つけられても、根は残り、成長しているので、次の年にはさらに美しい花を咲かせる希望を持ち続けられることから、私たちも悪い者によって善良な心が傷つけられたとしても、次の時が来たら、もっとすばらしい花を咲かせることができる希望を持ちましょう。
愛も悪いものによって傷つけられるが、必ず花を咲かせる時がやってくるまで、愛の根は成長し続ける。
1.『カインのようであってはいけません』(創世記4:3〜8)
“ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主はアベルとそのささげ物に目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。”
アダムとエバが罪を犯し、欲望の奴隷となってしまった結果、子どもたちにまでその性質が及び、欲望のために弟さえも殺してしまうという悲しい出来事が起こりました。この問題の発端は、神様が兄カインのささげ物は受け入れず、弟アベルのささげ物を受け入れたことにあります。聖書には「アベルのささげ物は、…初子の中から、最良の、自分自身で」と書かれてあるように、値うちのあるものだったのです。神様は、ささげる物にどれだけの価値をもたらすかというささげ方に注目しておられたのです。カインに「正しく行ったのであれば…」と語られていることからすれば、カインは正しく行わなかったと見てとれます。しかし、この事件はもともと神様とカインの問題であって、弟アベルがとばっちりを受ける理由はありません。これは悪い者が良い者に危害を加える例です。
【敬聴】
カインはなぜアベルを殺すに至ったのでしょうか
「カインの心の動き」
私たちもカインと同じ罪人として、問題は別のところにあるにもかかわらず、他へ思いのはけ口を持っていき、善良な人を傷つけてしまうことがあります。
(1)比較する心が生まれる〜ささげ物をするのに、まわりと比較すること自体間違っているのですが、罪の性質は私たちにまわりと自分を比較する心の動きに誘惑して、的外れを行わせます。また「比較して何が悪いのか」と、比較することにあまり罪の意識がないので、罪の悪い誘惑にかかりやすいのです。比較して、自分の足りないところを直すというのならまだしも、心騒がされる状況になるなら、比較は悪い意味に至ります。
(2)怒りが生まれる〜怒り、しっと、ねたみは不安定な感情
(3)優劣、勝ち負けを考える〜(2)の不安定な感情は(3)の的外れの考え方を生み出す
(4)損か得か〜無意識に考える
(5)憎しみから殺意〜最終的に、アベルを邪魔な存在として殺人に至らせました
このように比較の心は往々にしてとんでもない結果をもたらします。私たちは、比較によって、他の人を傷つけたり自分を傷つけたりしています。比較が私たちの人生にどれだけマイナス的、負の考え方、感情をもたらすか、一度考えてみてください。
2.『比較の心』を乗り越える(ヨハネ21:21〜22)
罪が宿っている以上、比較の心は取れませんが、罪の性質があっても乗り越えられるならば大丈夫です。
“ペテロは彼を見て、イエスに言った。「主よ。この人はどうですか。」イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」”
私たちは、自分のことがわかると、比較の心が出てきて、他の人のことを知りたくなります。この箇所は、イエス様がペテロの人生の終わり方を語られた後、ペテロがヨハネの将来を尋ねた時にイエス様がお答えになった場面です。イエス様のペテロへのお答えに、比較の心を乗り越えるヒントがあります。(「人のことはどうでもよい」と思えるなら、単に比較するだけで留められます)私たちには自分の未来、また存在の安心のために比較しようとする誘惑が働きます。殉教すると言われたペテロにとっては、「ヨハネは死なない」と自分と全く逆の内容であったのでショックだったことでしょう。自分と同じか、もっと苦しむならば安心できたのでしょうが。だから、内容を聞いて、人と比べて安心することを考えてはいけません。それは不安定な安心です。もっと確実な安心を得ることが必要です。
☆「わたしに従いなさい」〜愛による絆を確認したい〜イエス様のお気持ちの表れたことば
ペテロもヨハネも、どんな働きをしようとも(ペテロが裏切ったとしても)、彼らに対するイエス様の愛は変わりません。イエス様は、私たちの行いや実を結ぶ結果によって、心の絆を変えるような方ではありません。比較して人生が変わるはずはなく、大事なことは、私たちの人生で神の計画が完全に全うされることです。愛という信頼関係の絆が、行いによって弱められるようなことがあってはいけないのです。主を愛する人はみな神の子です。
私(辻師)が職人時代、かんなは(荒削り)と(仕上げ)の主に2種類を使い分けていました。どちらが大事かというのは愚問です。仕上げ用のかんなで荒削りをすると、刃がこぼれて仕上げができなくなり、また刃こぼれした荒削りのかんなは、仕上げのかんなのために刃こぼれ覚悟で荒削りの仕事をします。つまり仕上げ用のかんなのために、荒削りのかんなが必要だったのです。神様にとってあなたは必要な存在なのです。嫌なものに用いられることに腹を立てるのは、比較する心があるからです。主人のために役立つことができるのが幸せと思う人は、比べることのない心を持った人です。
自分の分を果たしていくことが大事なことです。ですから良い意味で「あのようになりたい。」と自分を磨こうという励みのためにお手本とする比較は、違いを見て直そうとする見方です。しかし、勝ち負け、優劣をつける比較の見方は、的外れのわながあることに気づいていただきたいと思います
【敬聴と適用】
(コロサイ3:13)より、『比較の心』を乗り越えるためのポイントを見つけてみましょう。
“互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。”
「赦す」ということが大事なポイントです。比較という点からの「赦す」とは、違いを認めることです。違いが受け入れやすくなります。赦せない人は、違いが認められないのです。そして現実を受け入れることは、赦す姿勢です。そうすると、比較の心が死をもたらすような、カインのように人をねたんで傷つけて殺意を持つようなところまで転げ落ちるようなことはありません。むしろ、いつくしむ心、あわれむ心が生まれてきます。赦すとは、がまんすることではなく、現実を認め、受け入れることです。そして自分の心が、
現実を認めたくない肉の心⇒怒り、しっと⇒自己嫌悪へ か、
正しい良心⇒現実を認め受け入れる⇒いつくしむ愛の心へかのどちらに応答するかが分かれ道です。一人一人は唯一の存在であり、その良さと美しさも唯一、人と比べるものではありません。しかし競い合って優劣を決める社会の中にいるので、教会の中にいてもいつのまにか比べる心の動きが染み付いてしまうと、神様との愛の絆を弱めるので気をつけてください。
そこで「主が赦してくださったように」というお手本があります。
初めに赦しがあった。赦しは愛とともにあった。赦しは愛であった。(ヨハネ1:1参照)
赦し=キリスト=ことば=愛=神
初めに赦しがあったとは、私たちの行いを見てからではなく、私たちが生まれる前から私たちを赦すこと、条件なく最初から赦すことを決めておられたのです。「みんなを赦したい」お気持ちから、キリストの救いを実行されたのです。ですから私たちも比較する前に、「何があっても初めから赦そう」と決心することが必要です。まずは自分を含めて「赦していこう」という決心、決意をすることが、「互いに愛し合う」ための初めであり、一歩です。イエス様の私たちへの愛は「赦し」から始まっており、「赦し」なくして互いに愛し合うことはできないのです。それは相手の悪い行状を正しいとすることではなく、悪を行っている現実と、それがあなたに害を与えていることは認めるしかありません。そしてそれは、まるで蘭の花が秋風に強く揺られて、あなたの純真な、神の前における誠実な心の花を傷つけ散らすようなものです。「叢蘭秋風」とは本当に心が痛く辛く悲しいことですが、その痛みだけを、花びらが散ったことだけを見ないでください。その花びらには根があり、神の愛の根はあなたの内に力強く残ります。人から裏切られ傷つけられても、神の前に耐え忍ぶなら、神への愛が強められます(第1ペテロ2:20)。根が強くなることが大事です。今の小さな花を犠牲にして、未来の大きな花が咲くために苦しみを忍耐するというのが、神が示された赦しの愛です。神様がアベルがカインに殺されるのをそのまま見過ごされたのは、私たち罪人に対する、愛、あわれみが強められるため、と考えることができます。神様にとって、アベルがカインに殺されることはものすごい心の痛みです。平気でおられるはずがありません。しかし、この人類の歴史の中で100%ご自分の愛を人々に表し伝えるための花を咲かせ、実を結ぶ時期をじっと待っておられたということです。二千年前にイエス様が現れるまでの時間、神様のうちに私たちへのあわれみが最大になるために、耐え忍ぶ時間が必要であられたのです。キリストのあわれみを全人類に施すために、愛が満ちあふれるまで待っておられたのです。神は私たちを助けようとしておられないのではなく、もっとすばらしい愛の花を咲かせるのを待っておられます。だからイエス様は、今は私たちが傷つくことを、私たち以上に心を痛めて、私たちの信仰がなくならないようにととりなしながら、痛みを受けてくださっています。私たちへの愛が溢れておられる状態です。私たちが病気で苦しんでいるなら、神様は私たち以上に心を痛めておられます。深い同情心とあわれみと強い愛は、困難、苦難、苦しみの中で生み出されてくるというのは、世の中を見てもそうですし、聖書にもはっきり記されています。
また、一人だけが愛の忍耐をしているのは、互いに愛し合う関係になっていません。重要なことは(コロサイ3:18)の「互いに」ということばです。教会の中で、たとえば『信仰年数を比較して、長い人からすべき」と考えていくと、神様が言われる「互い」を壊してしまいます。信仰を持って一ヶ月であろうと何十年であろうと、聖書の言っていることは道徳的にも当然のことで、信仰一ヶ月だから、する必要がないとは書かれていません。急を要することであるにもかかわらず、損得勘定で比較の考え方を持ち込んでいないでしょうか。比較がどんなに私たちの絆をバッサリと切ってしまうことでしょうか。「互いに赦し合う」ことをしなければ、実は実りません。どちらが先にすべきか…ではなく、どちらもすべきです。
■2012年1月22日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
初めから聞いている愛 up 2012.1.22
互いに愛し合うべきであるということは、あなたがたが初めから聞いている教えです。
(第1ヨハネ3:11)
11節のこのみことばは、それまでのことばを更に強調しています。何を強調しているのかについて、今日はお話ししたいと思います。わざわざ「初めから」と記されている理由は何なのでしょうか。
1.『初め』について(ヨハネ1:1)
“初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。”
ここにある「初め」は、今日のみことばに使われている単語と同じものです。
★ギリシャ語からの意味
◎(王や長官の)支配、統治、職務
◎初め、最初、原始、本源、おおもと、根源
◎極限、すみ、かど
「初め」と「支配」「統治」の関連性に注目してください。
【敬聴1】
ヨハネ1:1から『初め』と『ことば』と『神』について、『統治』という観点から、どのようなことが教えられますか?
ヨハネがなぜここで「初め」ということばを使ったのか、同じ御霊を受けている皆さんが、それぞれ直接啓示を求めて受けてください。知識を超え、『初め』と『ことば』と『神』について、聖霊様が皆さんに、ヨハネが感じたのと同じようなものを必ず感じさせてくださるはずです。「万物が統治されているところに、ことばがあった。」普通なら、「神がおられた。」と、神を強調するものなのに、あえて「ことば」としている理由は何でしょうか。聖書の神は唯一の神であり、おおもとの存在です。このおおもとの存在とことばを結びつけて、啓示を与えています。ことばと神は一体であり、「初め」なる方です。すなわち「初め」とは、すべてを統治する力を持った存在なのです。ことばと神との偉大さがここに啓示され、私たちはそのことばを使う生き物です。単なる動物ではなく、霊的存在者です。
たとえを考えてみましょう。新一年生が並び方を教えられる時に、「前へならえ」と、前にいる人に両腕をまっすぐ伸ばして列を揃えます。この時、一番前の人がしっかり立って動かずにいれば、後ろは容易に並ぶことができます。一番前が支配権を持っているからです。「初め」ということばの発想はここにあります。音楽もそうです。それぞれの基準となる音程によってドレミが定められ、調ができました。ドが決まらないと、他の音も決まりません。これが「初め」ということです。初めから聞いていた教えとは、「互いに愛し合いなさい」ということでした。これが決まらないと、次の段階に行けないということになります。
【敬聴2】
世の中で互いに愛し合うことが不安定な時は、犯罪が増えます。家族の中に愛がなければ、家族はバラバラであり、夫婦もただの共同生活者です。反対に「互いに愛し合う」ことを基盤に置くと、会社の経営などもうまく行きやすいのです。「互いに愛し合う」ことは理想でもありますが、本来は一番最初に意識して考えなければいけないことです。ですからこのことを念頭に置いて、自分の人生や周りの環境を見てみましょう。これを意識するかしないかで変わります。
2.『初め』は『土台』でもある(ルカ6:47〜49)
“「わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行う人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。聞いても実行しない人は、土台なしで地面に家を建てた人に似ています。川の水が押し寄せると、家は一ぺんに倒れてしまい、そのこわれ方はひどいものとなりました。」”
昨今、よくニュースになる中国などでのいろいろな事故は、モラルという土台の欠如から起こっています。彼らのやり方はどんな感じなのでしょう。たとえば、地下鉄のトンネル工事をする時、日本やアメリカでは一ヶ月に10kmです。安全を重視し、各種検査や保守点検をすると、どうしてもこれ以上のスピードにはならないのです。比べて中国は40〜50kmです。これは何を意味するのでしょうか。仮に日本が一日8時間労働とします。それを中国では三交替24時間体制で掘り続けたとしても、30kmにしかなりません。しかし現実は40〜50kmです。そんなに早く掘れるほど柔らかな地質なら、もっと時間が必要なのではないでしょうか。その意味するところを考えてみてください。現場のモラルが低下していることがよくわかります。
私たちの人生の土台とするべきは、「互いに愛し合う」ことです。これを軽んじるなら、あなたの人生は必ずどこかが歪んできます。愛がなければ、損得勘定で相手を量ります。家族であっても、内部の力関係を量るようになってしまいます。
イエス様のたとえ話にある「洪水」は、聖書的には群衆を意味することが多いものです。今で言うなら多数決です。民主主義は多数決の世界ですが、真理は多数決では決められません。真理は初めから定まっているものであり、動かされることはありません。しかし、「互いに愛し合う」という土台の上に人生を築くことをしない人は、多数決に流されていきます。土台を軽視していると、たとえクリスチャンでも、成功した人生を歩んでいても、危ういものです。世の中の考え、「互いに愛し合うなんて甘い考えは通用しない。」という見方にうなずき始めたら、その人の人生の家は傾き始めています。倒れないうちに土台をしっかりと据え直し、やり直していくことが大事です。他にもいろいろなポイントがあります。ぜひ発見してみてください。
3.『一世木鐸』(いっせいぼくたく)であれ!
★『一世木鐸』の意味
世の中を教え導く人のたとえ。(警告も含む)
「一世」⇒世の中、人々のこと。
「木鐸」⇒木の振り子が付いている金属製の大鈴。
古代中国で、法律や命令を人民にふれ歩く際に、これを振り鳴らしたことから、世の人を教え導く人のことを言う。
この四字熟語を取り上げたのは、クリスチャンはみな、神の教えである「互いに愛し合いなさい」を人々に伝え、教え導く役割が人生にあるということを知っていただきたかったからです。
下に挙げる3つのみことばもそれを証明しています。
◎(マタイ26:19〜20)
“「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ、わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたと共にいます。」”
弟子のように悟らせる。理解させる。そのように生きるように、ていねいに教え導くということです。
◎(マルコ16:15)
“それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」”
「伝える」⇒語る、知らせることから始まり、理解させ、受け止めることができるようにという意味も含み、さらに深くは「教えさとしなさい」という、導くところまで意味が入っています。聖書の中に出てくる五役者(使徒、預言者、伝道者、教師、牧師)という働きの伝道者には、基本的な「教え導く」も範囲に入っています。「伝える」ためにはそこまでの範囲も含まれるということです。
◎(ルカ24:46〜48)
“「その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まって、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」”
ここでは「証人」に注目してください。「互いに愛し合いなさい。」という、初めから聞いている大事な事を証明する人です。これも木鐸の働きです。王様からの命令を実際に行って証明していく働きが必要なのです。証人なので、成功失敗全部含めて、自分の生活を通して、これが大事な教えであることを証明しながらクリスチャン生活を送ります。立派な人だけが「一世木鐸」するのではなく、あなたもその一人なのです。あなたが、クリスチャンであるのに「互いに愛し合いなさい」という土台を軽んじたために夫婦仲が悪いとしたら、それも証明の一つです。反面教師として役立ちます。あなたが成功している人なら、その理由が「互いに愛し合う」ことにあると証明できます。成功も失敗もすべて、「互いに愛し合いなさい」というおことばの大切さを証しすることになるのです。
「こんなダメな自分がキリストを証しするなんて荷が重すぎる。」などと言っていては、65億の人々に伝えることなどできようはずもありません。ほとんどの場合、証人という伝え方、表し方です。あなたの身近な周りの人々に、あなたの人生そのものが「互いに愛し合いなさい。」というみことばの大切さを証しするのです。だから今うまくいっていない家族関係、夫婦関係でも証しになります。もちろん悪いままでいなさいという意味ではありませんが。イエス様がこのたった一つの戒めを語られた理由を考えてみましょう。初めも終わりもこの一つです。これがあなたの人生すべてを支えるものであり、あなたの人生全体を統治する鍵となる始まりです。
■2012年1月15日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
義の行いは愛すること up 2012.1.15
そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします。義を行なわない者はだれも、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。
(第1ヨハネ3:10)
今日のメインテーマは、私たちの「義の行いは愛すること」ですが、案外私たちは的を外した愛し方をしているかもしれません。そういう意味で「愛すること」について考えてみたいと思います。
1.主題聖句について
“そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします。義を行わない者はだれも、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。”(第1ヨハネ3:10)
【内容観察】
「そのこと」⇒神の種がとどまっているか否か。
「神の子ども」⇒神のかたちをしたもの。
「悪魔の子ども」⇒悪魔のかたちをしたもの。
「義」⇒罪のうちを歩まない。神の愛を信じること。
「神から出たもの」⇒神に属しているもの
「兄弟を愛さないもの」⇒義を行わないもの。神の命令を守らない。
(第1ヨハネ3:10)は「良い地の心」⇒神のかたちの心⇒義を行うこと⇒兄弟を愛すること、という流れがあります。
【敬聴】
この聖句から、主イエス様のどのようなお気持ちを感じ取れますか?
私たちは、人の心を汲み取る訓練をする必要がありますね。当然、神様のお気持ちを理解するためにも、そのお気持ちを汲み取る力を身につけたいものです。それも自分勝手にではなく、できる限り正確に、です。悪い方に受け取られると良い気持ちがしませんが、本人の思い以上に良い方へ理解してもらえると、本当にうれしく思います。とすると、誰に対しても良い方に心を汲み取っていく方が喜ばれますし、誤解も招きにくいです。私たちが、神様のおことばから神様のお気持ちを受け取っていく時に、「神は愛です」ということばが基本になります。(第1ヨハネ3:10)のおことばも愛から語られていると受け止められます。しかし、この1節(同3:10)だけを見て、自分は神の子とか悪魔の子とどっちだろうと量って、否定的な自分を思い描いてしまう人もいます。本当に気づいてほしいことは、「あなたは神のかたちに造られた神の子であって、兄弟を愛することができるのだよ」という神様の励ましです。今、兄弟を愛せていないからといって、悪魔の子だと断定しないように。「あなたはわたしが愛した神の子だから、兄弟を愛することを心がけるように…。」と言われている神の思いを正しく受け止めていただきたいと思います。
2.兄弟を愛するという義の行い(ヨハネ21:15)
“彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」”
なぜイエス様はこの質問をペテロにされたのでしょうか。十字架にかかられる前のこと、エルサレムに近づくにつれ、また過越の祭りが近づくにつれ、「わたしは死ななければならない。」と語られたイエス様を、失ってなるものかとペテロは、いの一番に「死ななければならないのでしたら、私も死にます。」と告白しました。しかし、はやるペテロに「あなたは鶏が鳴く前に三度わたし(イエス様)を知らないと言う。」とイエス様は語られました。ペテロにしてみれば、そんな気持ちはみじんもなく、大変なショックを受けたことでしょう。しかし事実、そのとおりになりました。非常な心の落ち込みをしたペテロが、よみがえられたイエス様に出会って、どんな気持ちだったでしょうか。まさに「会わせる顔がない」というところですが、そんなペテロをイエス様は一度も責めることなく、いつものように、また散り散りに逃げていった弟子たちをも受け止められ、交わりをされました。ペテロもだんだん心が回復してきて、そしてイエス様の前に出た時に、この質問がなされたのでした。昔のペテロですと、間髪入れずに「もちろんです…」と言いそうですが、感情に任せて言葉を口にする失敗をしているので、「はい。…あなたがご存じです。」と自分で自分の心を量らず、イエス様に心の思いを委ねた返事をしたのでした。
私たちには、自分でも気づかない心の隠れた面があります。わからない自分がまだたくさんある…。ペテロが、「すべてを知っておられるのはイエス様だけだ。」という敬虔な気持ちを持つことができたのは、三度イエス様を否むという大失敗を通して学んだからです。イエス様を否む告白はペテロの一生涯の不覚でしょう。自分の身を守るためにとっさに言葉が口をついて出た、ペテロのその愚かさ(よい部分でもありますが)を通してペテロは、愛する気持ちを心に持つことを教えられたと思います。私たちも「私の心は、神様、イエス様が一番ご存じです。イエス様を信じている心は、神様、あなたが一番ご存じでしょう。」と信仰すらイエス様のお考えに信頼することが大事なことです。自分の行いや感情によって「自分はダメなクリスチャンだ。神の子ではないのではないか。」と思ってしまうことのないためにです。そしてイエス様は、ペテロがイエス様をどのように愛しているかを確認されたので、「わたしの小羊を飼いなさい」とペテロに言われました。羊飼いにとっては、羊は自分の命に匹敵する存在です。ペテロが愛する力が弱かったら、羊を飼うようには言われなかったはずです。大事な羊を飼うようにペテロに任せられたのは、ペテロの愛を信じておられるということです。
神様は、私たちがイエス・キリストを信じる信仰によって、神の愛を受け止め信じていることを確信してくださっています。そしてペテロに語られたのと同様に、私たちにも「わたしの小羊を飼いなさい」と語られるのです。
★「わたしの羊」⇒主の愛を信じる人々。義とされた人たち
★「飼いなさい」⇒育てる、養う、建徳する、愛する
(ヨハネ13:34)の「互いに愛し合う」という新しい戒めと、ペテロに言われた「小羊を飼いなさい」という内容は、同じものを表しています。つまり、互いに養い合うことは主を愛することであり、互いに愛し合うことだと私は受け止めました。私たちはどのように愛し合うのでしょうか。「わたし(イエス・キリスト)があなたがたを愛したように」です。イエス様は羊を養うお方です。最後まで私たちが安全な状態を保てるように、羊飼いとして羊を養い育てられました。「小羊を飼いなさい」ということばは、私たちがどのように「互いに愛し合う」かというヒントを与えています。ここで「養われる」立場で過ごすと、物の見方が卑屈になる可能性があります。使徒行伝に出てくる食べ物のもめごとの原因は、ギリシャ語とヘブル語の理解の違いから生じたようです。「養われる立場」は一貫して、人と比べ、損得、優劣といった二元性の考え方に引き込まれます。要するに、得たい、欲しい、与えてください、といつも人がどうしているか気になって仕方がない状態です。そして、自分との違いを見て不服に思ったり優越感に浸ったりして、争いのもとになってしまいます。しかし「養い合う」立場は、自分との違いを見て境遇の劣っている人を心配し、公平さを図ろうとします。養うとは、相手が健康であるように、喜びをもたらされるように、幸せであるように、成長するように、という気持ちを持ちます。ですから養い合う心で互いに愛し合うことを考えたら、問題がもっと少なくなるのではないでしょうか。自分より豊かな人を養う必要はありません。自分より持っていない人に分け与える思いが起こるためには、その人の成長を願う心が必要なのではないでしょうか。ペテロに「わたしの小羊を飼いなさい。」と言われたイエス様のお気持ちは、「受けるばかりでなく、あなたのことは神が心配してくださるから、あなたは兄弟姉妹のことを心配しなさい。」という意味だったのではないでしょうか。
3.兄弟愛は『芝蘭結契』(しらんけっけい)(ローマ15:2)
“私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。”
★『芝蘭結契』の意味
良い感化をもたらす才徳の高い人との交際。また、美しい交際。
麗しい付き合いのこと。
私たち神の家族の交わりは、芝蘭結契であることが望ましいです。自分のこともできないのに人のことを心配するなという言葉を聞くことがありますが、そうすると私たちは何もできなくなります。持っていない人々でもできることがあることを、神様は気づかせてくださっています。もっと良い付き合いをするために、持っているものを交換し合いましょう。
●私たちは、神の愛を満たす器。神のかたちに創造されました。
●イエス様を通して、神の愛が注がれています。
●神の愛という才徳が備わっています。
これに互いに気づくことが大事です。養われることしか考えない人は、「ああしてほしい」「こうしてほしい」ということに気を取られがちです。人と同じようなことができたら、あるいは人よりもっと優れたことができたらと、つい人を見て考えてしまいます。しかし、与えられた分で養っていく必要のある人がいることに気づく必要があります。養われながら養っていくことが、互いに愛し合うことです。養う立場だけというのでなく、養われる立場でありつつ養うことに心を向けることが、互いに愛し合うことだと関連づけていくと、考え方が変わってくるのではないでしょうか。まず神様の愛が注がれていることを信じているのならば、神様の愛の中にある油注ぎ〜特別な力、才徳が、私たちの内に愛と一緒に注がれていることを信じましょう。私たちはその才徳を引き出すことができる生活環境の中にいます。ですから病人であっても、違う病気の人のために祈っていいはずです。病気の親が子どもの世話を放棄することはありませんね。力がないので養うことはできないと考えないようにしてください。ないように思えてもあるというところから、自分の内に潜在している神の徳の高さが引き出されてきます。失敗を繰り返しながら、神のかたちが引き出されてくると思います。
【敬聴と適用】
何からはじめればよいでしょう。⇒(エペソ4:29)を参考
“悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。”
ことばは同じでも、受け止め方が違ってくることがあります。失敗しながら、人によって使い分けることを学び取っていくことも必要です。クリスチャン同士、失敗を赦し合うことを基本とし、仮にほめたつもりが誤解される失敗をしたならば、次には気をつける教訓となります。辛いことですが、赦す体験、赦される体験は、また一つ神の愛を知る体験になると思います。「神様はどんなお気持ちで赦されたのだろうか」「どんな辛いお気持ちで、十字架の赦しを実現されたのだろうか」と、日常生活の中からも、学んでいけるのではないでしょうか。
養われる心を卒業し、養う心で取り組んでいく それが「今日も愛を目指していく」ことへつながっていくのではないでしょうか。
■2012年1月8日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
神の愛の種 up 2012.1.8
だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪のうちを歩むことができないのです。
(第1ヨハネ3:9)
今回の主題聖句にある「神の種」を、「神の愛の種」ととらえ、愛の視点から一緒に学んでまいりましょう。
1.「神の種」とは?
A)「みことば」という種(マルコ4:14)
“「種蒔く人は、みことばを蒔くのです。」”
ここには種蒔きのたとえが語られており、種は神のみことばを象徴しています。
B)「神のことば」と呼ばれるキリスト(黙示録19:13)
“その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。”
「神のことば」とはすなわちキリストのことです。
C)キリストは「神の愛」の証し(ローマ5:8)
“しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。”
キリストは、私たちに対する神の愛の証しです。見える愛としてこの地上に来てくださり、十字架において完全にその愛を証明されました。
D)「神の愛」のことばである十字架(第1コリント1:18)
“十字架のことばは、滅びにいたる人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。”
「滅びにいたる」とは愛を受け入れないことです。好きでない相手からの愛の言葉は、無意味で無価値なものだからです。反対に、救いを受けるとは愛を受け入れることです。好きな相手からの愛の言葉は大きな励ましになります。その愛を信じると、大きな喜びと希望が湧いてきます。人からの愛でも、信じて受け止める人には大きな力を与えるのに、ましてや神様からの愛はどれほどの良い影響を与えることでしょうか。
★「種」⇒「みことば」⇒「イエス・キリスト」⇒「神の愛」の証し ⇒「十字架のことば」⇒神のことばが「かたち」となって現れた
十字架のことばとは耳に聞こえる言葉ではなく、行動として表されているものです。芸術家のいろんな作品で、文字はなくてもその他の表現方法を用いてその作家のメッセージが語られているように、神様も、この世に人として来られて十字架にかかられるまでの一生涯を、ことばにならないことばとして私たちに示されています。イエス様の人生そのものが神様の愛のことばなのです。神の種とは神の愛のことば、十字架のことばであり、この愛のことばはかたちとなって十字架の上に現されました。
【敬聴】
「神のことば」が「かたち」となったことについて教えられることは何ですか?
神が「光あれ」とことばを発せられると光がかたちとなって現れたように、神が人に対して「わたしはあなたがたを愛している」と仰せられた時に、十字架のことばがイエス・キリストのかたちをとり、この方の人生を通して人への神様の愛が現されました。言葉が現実になる現象は人の世界でも起こることで、自分の人生において言葉を注意深く選んで語り続けていくなら、その言葉はかたちになり、現実に成就します。だから、ことばは種なのです。種は収穫するまで時間がかかります。それぞれの植物の種類に応じて、実がなるまでの時間があります。神が仰せられた「光」が現実に現れるまで、どのくらい時間がかかったか記されてはいませんが、肝心なのは、神が語られたことばは必ず実現するということです。ですから、神様のことばを種として受け止めていくのが大事なことになります。(第1ヨハネ3:9)で「神の種がとどまっているので、罪のうちを歩むことがない。」ということばと重ね合わせて考えてみてください。
2.神の愛の種は蒔かれている(マルコ4:14〜20)
“「種蒔く人は、みことばを蒔くのです。みことばが道ばたに蒔かれるとは、こういう人たちのことですーーみことばを聞くと、すぐサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを持ち去ってしまうのです。同じように、岩地に蒔かれるとは、こういう人たちのことですーーみことばを聞くと、すぐに喜んで受けるが、根を張らないで、ただしばらく続くだけです。それで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。もう一つの、いばらの中に種を蒔かれるとは、こういう人たちのことですーーみことばを聞いてはいるが、世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望がはいり込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の身を結ぶ人たちです。」”
種には実を結ぶというゴールがあります。神様のみことばの種も、種としてあるだけなら空しいものであり、種が実を結ぶ、みことばがかたちとなって現れるというのが大事です。このたとえ話に描かれる4つのタイプの人の心を見ていきましょう。道ばたのような心の人は種を取られてしまいます。岩地のような心の人は、みことばが深く根を張れないので、自分の思いどおりに進まなかったり、反対や邪魔する力にあったりするとつまずいてしまいます。いばらの中に種を蒔かれると、種は植わっているけれど回りの雑用に心を奪われているので、みことばの世話ができません。唯一、この種が実を結ぶまで留まらせることができるのは、良い地に蒔かれた場合のみです。良い地がどんなものか具体的には書かれていませんが、実を得るためには良い地が必要なことだけはわかります。良い地とはもちろん、何の手入れもなく放り出されたような場所ではありません。ましてや私たちは罪人です。自分の心をよく整備しなければ、いくらでも雑草が生えてきます。実際に畑を世話するとわかりますが、水やり、草むしり、害虫駆除と休むひまもなく、実がなり始めたら今度はカラス対策などがあり、放っておいて良い実を得ることなど不可能です。ですから、クリスチャンになったら楽になるというわけにはいかないことがわかります。確かに救いを受けることは楽になることですが、怠けたり愚かに過ごしたりする「楽」とは違うので、自分の利害を主眼に置いてイエス様への信仰を考えると、神様のお考えとは全く合わないことになります。よく考え直してみてください。
今回の主題のみことばと、この良い地に関するみことばを重ね合わせて考えてみましょう。実をならせるとは、みことばの種が留まるためにその場所を整えるということです。良い地を準備し、持っている人たちが実を結ぶ人たちだと語られています。たくさん蒔かれた神の種が私たちの内に実を結ぶ、すなわち行動として現れてくる時に、「罪のうちを歩むことがない」というみことばが成就します。みことばを覚えることイコール種を留まらせること、ではありません。種は条件さえ整えば自然に芽を出し、実をならせるものです。私たちがこの種に対してすべきことは、不自然な品種改良ではなく、種が育つにふさわしい土壌を維持することです。ここに気づけば、自分の生活にみことばの実がならないと嘆く人も、その理由がみことばにふさわしい土壌を保っていないからではないかと見直すことができます。
では良い地を維持するために何をすれば良いか、3つ目から学んでいきましょう。
3.『蛍雪之功』がポイント(コロサイ3:16)
“キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。”
「豊かに住まわせ」とは「とどまらせる」と同意義です。「豊かに」という表現を実現させるためには、そうとうきちんとした条件を整えなければならないはずです。それは並大抵の苦労ではないでしょう。豊かな実りには広い土地が必要であり、その土地の世話には尋常でない努力が必要です。
★『蛍雪之功』(けいせつのこう)の意味
苦労して学問に励むこと。中国の魏晋南北時代、車胤(しゃいん)と孫康(そんこう)は、灯火の油さえ買うことのできない貧しい家柄であったので、蛍の光や雪の明かりで苦学し、身を立てたという故事から。
キリストのことばを豊かに住まわせるためには、この「蛍雪之功」にある姿勢が不可欠です。みことばは簡単には実をならせることができません。もちろんみことばに欠陥があるのではなく、その土地をみことばが育つのに適した状態にするのが難しいのです。たとえば、草取りを怠ければたちまち雑草だらけになり、害虫もつきやすく、土地の栄養分も雑草に取られてしまいます。豊かな実りは怠けたままでは得られません。良い実りを得るための努力が必要だとわかっていても、実行に移すのが難しいのは、クリスチャンとしての姿勢が、神様への悪い意味での甘えや依存になってしまっているのではないでしょうか。イエス様を信じたのは、苦しみを避けるためですか?物事を都合よく進めるためですか?神様は、道ばたの心にも岩地の心にもいばらが生えた心にも、分け隔てなく種を蒔いてくださっています。カラスに取られたり、すぐに枯れたり、育たなかったりしてばかりでも、愛の実がなるようにと願い続けて種を蒔いてくださっているのです。道ばたのような心の人が、周りの環境を責めたり言い訳をしている間にも、いつか気づいてくれると信じて種は蒔かれ続けています。それがいつかはわからないし、ひどく時間のかかることかもしれないのに、神様はあきらめずに愛のことばを蒔き続けておられます。すばらしいことではありませんか!
私たちなら、わざわざ国道2号線に種を蒔いたりはしませんね。そこに実をならせる労苦は想像するだけでもぞっとします。しかし、私たちの心はそのくらい罪深いものなのです。そんなところに神様が愛の種を蒔いておられるという事実を、どう受け止めるべきでしょうか。きちんとコンスタントに収穫を得るためには良い地が必要であり、良い地を維持するために私たちは労苦を惜しみません。みことばを学ぶとは単に学習することではなく、日常の多くの失敗を重ねる中で神様の愛のおことばを内側に留め、そしてみことばが自然に成長して実をならせるものなのです。その時、「本当に深く神様の愛を知っていくことができる」と言えるのではないでしょうか。楽して手に入れたものよりも苦労して手に入れたものの方が、その大切さがわかります。苦しみを伴うものには大きな価値を見い出すことができます。私たちの人生においても、労苦の中に苦しみの中に、自分のいのちの大切さ、愛のすばらしさをより深く味わっていくことができるのではないかと思います。
皆さん、神の愛の種を一つでも多く実らせて収穫に至るようにと、自分の心を良い地として保つために努力していきましょう。
■2012年1月1日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
今日も愛を目指して up 2012.1.1
いっさいのことを愛をもって行ないなさい。
(第1コリント16:14)
昨年の「愛を目指して」というキャッチフレーズに加え、今年は「今日も愛を目指して」というものにしました。なかなか愛を表せなかった一日を反省する終わりになっても、翌朝には「愛を目指そう」とする心がけが大切です。昨日ができなかったのであきらめるのではなく、「今日も…。」という気持ちをもっていただきたいという思いを、キャッチフレーズの中に織り込みました。
私たちは、なぜ愛を目指すのでしょうか。それは、私たちの内に愛が十分ないからです。そこで気をつけていただきたいことは、愛を目指しているにはふさわしくない行為を見て責める思いを持ってしまうことです。完全でないからこそ、完全な愛を目指して歩んでいる途上にあるので、愛を目指していない状況を見たなら、責めるのでなく、「一緒にがんばろう。」と励ましていただきたいですね。
1.第1コリント16:14の大切さ(1)(第1コリント13:1〜3)
“たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。”
【敬聴】
★『愛がなければ』
A)「やかましいどらや、うるさいシンバルと同じ」とは?
いくら美しい音色を奏でる超一流の楽器奏者が集まっていても、指揮者がいないまま各々自分勝手に演奏したのでは、やかましいだけです。愛は指揮者のような役目をすると考えたらどうでしょうか。愛がなければ意味もなく、秩序もありません。愛があると、全体をまとめ、秩序を生み出し、意味を与えます。私たちの生活に愛がないなら、同じようなことが言えます。夫婦も互いにガミガミ言うだけだったら、うるさいシンバルと同じです。愛のない忠告もうるさいだけですが、愛がある忠告は、忠告を受ける人の人生を正していくのではないでしょうか。
B)「何の値うちもない」とは?
愛がなければ、どんなに立派なものを持っていても、どんなに役立つことをしていても、値うちがありません。それは存在価値がないということです。外国旅行をするのに、どんなに準備物を整えていても、肝心のパスポートを手もとに持っていなければ、その旅行には行けません。それまでの周到な準備が何の値うちもなくなってしまいます。何の準備もしていなくても、パスポートさえあれば、出発できるのです。キリストの愛を得て救いの中に入っても、今愛をもっていなければ、何の値うちもないのです。
C)「何の役にも立たない」とは?
B)と同様に、むなしい、無きに等しいということです。仮に新車で荷物、おみやげを積んでいざ帰ろうとする時に、車のキーがなければ出発できず、やがて口論さえ生じて、出掛けるのをやめてしまうことになってしまいかねません。愛がなければ、すべてがむなしくなる 愛とは本当に大切なものです。この世の中は愛をおろそかにしているので、問題が起こって、いがみ合って、争い合っていることが多いです。しかし、愛が表れているところは、環境がどんなに悪くても、平安に満ち足りた心を持つことができます。愛の大切さを知識だけでなく、日頃の生活の中で感じ取っていただいて、「今、愛を表すことが大事」という瞬間に生かしていただきたいと思います。
2.第1コリント16:14の大切さ(2)(コロサイ1:17)
“御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。”
【敬聴】『御子』を『神の愛』に置き換えて読んでみましょう。
愛の大切さについて、どのようなことが教えられますか?
御子とはイエス・キリストのことであり、神の愛の現れということを、去年もずっと話してきました。(コロサイ1:17)のみことばの「御子」を『神の愛」に置き換えてみると、神が愛をもって万物をお造りになったことがよくわかります。宇宙の秩序は愛によって保たれているということです。「秩序」はルールだけでなく、「ルールを守ろう」とする愛があってこそ、保たれます。しかし、その愛が自己中心的愛では、どんなに良いルールでも争いを起こします。相手を思う気持ちがなければ、ルールを守る意味がありません。
自分を守るための偽証が発覚したり、良い記録を出すために筋肉増強剤を使用してドーピング検査にかかって失格したりする出来事も過去にありました。愛は、全体の益になることを考えます。万物は愛にあって成り立っているのですから、社会も家庭も夫婦も、本来愛にあって成り立つものです。しかし、万物が損得勘定という利害によって成り立ってしまうと、勝者と敗者、富む者と貧しい者というふうに分けられて二元論の世界になってしまいます。愛がないからです。私たちもこの流れに影響されて人生を送ると、説教では愛を聞いても生活は利害関係による「成功的人生」を求めることになってしまいます。クリスチャンの成功的人生は、愛によって成り立っているかどうかです。たとえ貧しくても愛があれば、神の前には尊いものであることを、今年実生活でどの程度受け止めていけるかどうかが、「愛を目指す」ということになっていくと思います。
3.『軻親断機』(かしんだんき)のこの一年(第1テモテ1:5)
“この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目標としています。”
★『軻親断機』の意味
物事を途中で投げ出したり、その志を捨ててはいけないという戒めの語。
学問をあきらめて帰って来た孟子に、母親が、織っていた布を途中からはさみで切り、学問を続けるように諭したことから。
(軻とは孟子の本名で、孟軻と言う。「子」はその人物への尊敬を表す 語で、日本語で言えば「孟先生」。)
私たちが目指している愛は「きよい心と正しい良心と偽りのない信仰から出てくる愛」であり、感情的な優しさや、思いどおりになることを愛だと思い込まないようにしたいと思います。「きよい心と正しい良心と偽りのない信仰から出てくる愛」は、愛なる神様の愛を畏れ敬うことです。これを続けることが、一切のことを愛をもって行うことにつながるのです。
ここで、単なる戒めで「軻親断機」の言葉を使っているのではありません。孟子が切り裂かれた完成間近の布から、「途中であきらめたら、切り裂かれた布と同じ」という理屈だけを学んだのなら、あきらめた学問をもう一度やり直そうという動機に至ったかどうかわかりません。孟子は、貧しい中から自分の勉学を支えるために丹精込めて作り上げてきた布を切ってまで、自分のことを案じてくれている母親の愛に気づいたのです。母親は、息子に正しい動機づけを与え、あきらめないでゴールまで走り続けるようにという母親としての心の思いを込めて布を切ったのです。その母親の愛の行動が、挫折し砕け、なえた孟子の心をもう一度立ち上がらせる力となったのです。くじけそうになった時、彼はきっと思い出すと思います。布を切ったお母さんの姿を。その愛を…。
私たちも、愛を目指せない自分にあきらめた気分で一日を送ろうとする時に、思い出してほしいのです。イエス様の十字架です。孟子の母は布を切りましたが、イエス様はご自分の身を切って私たちの挫折という罪を負ってくださいました。挫折した心は、的外れで健全な状態ではありません。それを正しい状況に戻せるように、神は愛を示してくださいました。これが十字架です。「身を切ってまで、私たちが立ち戻るように、十字架で神は愛を現してくださったのだ…」と。「軻親断機」…あきらめないで、今年一年、愛を目指して歩んでいただきたいと思います。
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