■2011年12月25日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

  愛は悪い欲を打ち壊す  up 2011.12.25




罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。
(第1ヨハネ3:8)

 

 

 

 この世の中、幸せか不幸か、成功か失敗か、夢を実現できたかできないか、儲けたか損したか、という二元的な考え方をしている以上、成功者の裏には失敗者がいて、傷ついています。人の内に欲というものが働いています。この社会は経済社会です。経済学の根本は、いかに人の欲をかきたてて経済活性を起こしていくかだそうです。成功する人もいますが、その競争に負けて、貧しく苦しんでいる人もいます。このような世の中で、「神は愛である」ということをどのように信じていくことができるのでしょうか。
 (第1ヨハネ3:8)上記のみことばに注目してください。大事なのは「悪魔のしわざを打ちこわすためにキリストが現れた」というポイントです。

1.悪い欲は「顛越不恭」(てんえつふきょう)(エペソ5:5)
“あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者ーーこれが偶像礼拝者です。ーーこういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。”
★『顛越不恭」の意味
道を外れて慎み深くないこと。逆らって上からの命を慎んで受けないこと。
「顛越」⇒ころころと転げ落ちる
「不恭」⇒目上の人に対しての不遜、不敬虔、傲慢さ。
 このみことばを読んで、「私は御国を相続できない」と心を痛めるクリスチャンは大丈夫です。しかし、あえて無視をして、誰でもやっているじゃないかと悪い状態を認めず、へりくだって受け止めることをしない人は、危険な状態にあります。私たちの心をむしばんでいくものは「悪い欲」です。「貪欲」ともいいます。「不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者」の根底には、欲が働いています。限度を超えた悪い欲です。「これが偶像礼拝です。」とあります。
自分の思いどおりに動いてくれる、人間が勝手につくったものを礼拝し、それに仕えることを、偶像礼拝と言います。そこには、自分の願望をかなえたいという隠れた動機が根底にあります。
【内容観察】
悪い欲に支配された愛の行為である不品行、汚れ、むさぼり(これらは悪い欲に仕える偶像礼拝)を行う者はだれも、キリストと神の国である愛の国を相続することができません。
 私たちの内に、いろいろな葛藤が起こります。愛で満たされたいという気持ちを利用されて、悪い欲が私たちを不道徳へと導いていきます。悪い欲の働きに対して、私たちは心をよく見張っていくことが必要です。
 一般社会では成功者と言われる方が末期がんになり、ホスピスに来られたそうです。その方が、しょっちゅうナースコールを鳴らして、小さなことで看護士さんを呼ぶそうです。忙しい中でその看護士さんは、できる限りそれに応えていました。そうした中で、「ああ、この人はさみしい人なんだ。」ということがわかってきました。彼は、老後も困らない財産を持っている人で、そのホスピスでは一番いい部屋に入っていました。現役時代には、地位もあり人々がペコペコ頭を下げてくるような人でした。彼が退職して好きな生活をしている中で、末期がんがわかったのですが、それほどの人なのに誰も彼を訪れる人はいませんでした。家族さえもほとんど来ませんでした。ですからさみしくて、看護士を呼びつけては、話をしたいと思っていたのです。それがわかってから、看護士はできるだけ彼の願いをかなえてあげようとしました。そういった患者さんがとても多いのだそうです。
 人と人を結びつけるものはお金や地位ではなく、愛です。欲を生きる力とする人は、どこかで必ず人を傷つけています。たとえ百万人の人を助けたとしても、一人の人をあなたを通して自殺に追い込んでしまったとしたら、百万人助けた良いわざはどうなるのでしょうか。悪魔とは、私たちを愛から引き離す悪い欲のことです。悪い欲がどれだけ社会に多くの不幸や矛盾を起こし、個人的な生活の道を外させ、精神的に混乱を起こしていることでしょうか。自分だけでなく、まわりの人々にもこの悪い欲から救われてほしいと願うのも、愛の心の動きではないでしょうか。「私をこの悪い欲から救ってほしい」という願いを持ってください。

2.愛は顛越不恭を打ち壊す(第1ヨハネ3:8)
“みことばは前述”
【内容観察】
愛なる神のかたちに造られたにもかかわらず、愛を目指して歩まない者は、悪い欲のかたまりである悪魔から出た者です。悪魔は初めから神の愛を大切にせず、自己中心の悪い欲を求め続けているからです。神の愛の現れである神の子キリストがこの世に来られたのは、悪魔のしわざである悪い欲を打ち壊し、人々が愛によって歩むことが出来るようになるためです。

【敬聴】
アダムとエバは、神の愛が見えなかったので悪い欲の誘惑に負けてしまいました。しかし、私たちには神の愛が明らかにされています。
 悪い欲に人間が負けてしまう状況が始まったのは、アダムとエバの出来事からです。最初に、エバに「おいしそう、欲しいな。」という欲望が湧いてきました。それを蛇がそそのかして悪い欲へと引き込んだのです。「取って食べてはならない。」というおことばを破るようにと誘惑してくる欲が、悪い欲です。不道徳だと思っても「別にそれは悪いことではないんだ。」と思わせて、悪い欲を満たそうとする思いや考えが、悪い欲です。
 人は、愛があればお互いの幸せのためにルールを守ろうとするものです。愛があれば、戒めを喜んで守るものです。アダムとエバは、まだ神様の愛をはっきりわからなかったのです。誘惑に負けてしまうような、神様に対する弱い愛でした。しかし、神様は、この出来事さえも用いて、人々が愛なる神様のかたちに似せて造られた者であるということに目覚めて,神の愛を知るようにというお考えを持って、罪を犯して逆境の中に入ってしまった人類を滅ぼさずに、歴史を導いてこられました。まずイスラエルの民を選ばれ、祝福されました。しかし、イスラエルの民は祝福に慣れてしまい、ありがたみがわからなくなり、わがままになって道をそれてしまいました。それでも、神様は苦しんでいる人々の祈りを聞いて、救い出されました。そんな繰り返しが旧約聖書に記されています。神様は「罪を犯したら滅ぼす。」と言われたのに、イスラエルの民は未だに滅びていません。それは愛しているので、忍耐をもって立ち返るまで待ち続けておられるのです。そして神ご自身が人となって地上に来られたのが、イエス・キリストの生涯です。
 私たちはどのようにしてその愛を知り、感じているのでしょうか。
ある女性が、二年間つきあっていた彼からふられるという出来事がありました。すばらしい男性だったので、別れたくなかった彼女に対して、あまりにもしつこいので、彼が暴言を吐き、それっきりになってしまいました。その半年後、彼の友人が彼女に、彼の日記を手渡してくれました。それは彼が病院に入ってからの日記でした。その日記には、彼女との二年間の思い出と、「別れたくなかった。彼女を愛している。」という内容が書かれていました。そして最後に「彼女と話したい。会いたい。まだ死にたくない。やっぱり彼女を愛している。でも、俺のことを忘れて幸せになってほしい。」と締めくくられ、彼は亡くなったそうです。その病気がわかったのが、ちょうど別れ話があった時でした。たとえ短い一生でも清らかな真実の愛に触れること、それ以上に幸せなことは他にはないと思います。世の中には自己中心のいろいろな愛がありますが、イエス・キリストは私たちを愛して、悪い欲から離れるようにと強い愛を示してくださいました。この彼女にとって、ここまでの愛を与えてくれた彼の愛は、その後の彼女の人生に、正しい愛を見分ける力を与えたと思います。
 今のあなたの生活の中で何が主体となっているでしょうか。理屈はわかるけど、やはり欲がないと成長しないのではないかと思われるかもしれませんが、愛こそが良い欲をもたらせる始まりなのです。

3.以下についてのあなたの意見は?
★『悪い欲』と『良い欲』について
★『欲に動かされる愛』と『愛による欲の制御』について
★『愛は感情ですか、きよい良心ですか』
 「神は愛です」という観点から、この3つのことについて正しい判断ができます。神の愛は、意志的な理性的な愛です。今年は「愛を目指して」という言葉をモットーにしてきましたが、考えれば考えるほど、現状は愛とはかけ離れていると感じます。しかし、愛こそが欲に打ち勝つ唯一の力なのです。なぜなら、神の本質が愛だからです。また来年も、聖書から一歩ずつ、みなさんと一緒に愛を目指していきたいと願います。

 

 

 

 

 

 

■2011年12月18日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

  愛は義を行う  up 2011.12.18




子どもたちよ。だれにも惑わされてはいけません。義を行なう者は、キリストが正しくあられるのと同じように正しいのです。
(第1ヨハネ3:7)

 

 

  

ケンカの原因は、どちらが正しいか、に行き着きます。しかし、どちらが正しかったにせよ、いい気分にはならないものですね。では聖書の言う正しさ、義はどんなものなのでしょうか?
「愛をめざして」をテーマにしてきた一年がもうすぐ終わります。しかし、このテーマはこれから先もずっと持ち続けるべき課題です。それを進めるにあたり、不敬虔な人々の考えに惑わされないようにしましょう。
 愛ということばは大事なことばです。しかし現代社会にあっては、とても優先順位の低いものとされているのではないでしょうか。すばらしいものだとはわかっていても、それを最優先して生きる人はほとんどいません。ですから、愛の神を知っている私たちこそが、愛を最優先して生きる生き方をするのが本分です。来年も愛をめざして生きるにあたって、この多数決に流されやすい世界、愛を大事にしていない世界の考え方に惑わされないように気をつけていきたいものですね。

1.惑わされないように(第1ヨハネ3:7)“みことばは前述”

子どもというのは、未熟で惑わされやすいものです。未来があり、もっと良い方向へと導いていける可能性を秘めていますが、知識がまだ十分でなく、心もまだ強くないので、惑わされてしまいやすいのです。

【内容観察】
成長の途上にある人たち。神の愛のうちに留まることを惑わされないようにしなさい。神への愛を動機として義を行う者は、キリストが愛を動機として正しくあられたように、その人も正しいのです。

 惑わす⇒迷わす、踏み迷わせる、だます、誤らせる、誤解する

 私たちの義は、イエス様の義とはどういう意味か考えてみましょう。イエス様はこの地上にいやいや来られたのではありません。神は、ご自分のかたちに似せて造られた私たちをわが子のようにいつくしまれ、罪の中に落ちてしまった後も、あふれる愛をもって何とか助けることはできないかと、贖いのみわざを実現されました。その御父のお心にイエス様も心を合わせ、愛によってこの地上に来られたのです。「愛を動機」として、のところがイエス様の正しさなのです。私たちもこのことをもっと考えて、自分の正しさを神様の正しさに近づけていくことが必要ではないでしょうか。神様への愛を大事にして生きていくことに関して、惑わされないように気をつけようとヨハネは勧めています。

【敬聴】
あなたにとって、愛を目指すことを迷わせるものは何でしょう?
(どのようなことに影響されやすいか)
 あなたにはどんな弱点がありますか。「人の目を気にする」なら、「どういう人」の目を気にするのかなど、自分が影響されやすい弱点を知っておくことによって、私たちは自分を守ることができます。しっかりとした神様への愛と信頼を持ち続けるためには、みなさんそれぞれに内容は違うと思いますが、自分の弱さをよく吟味し、自分が何に惑わされやすいのかに気づくところからまず始めましょう。

2.神の義を表すためのご降誕(ローマ3:25〜26)

“神は、キリスト・イエスを、その血による、まだ信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。”

 神の義、正しいことをしていると思えば、人は惑わされにくくなるものです。私たちにとって、どんな惑わしが来てもはねのけることができる正しさ、神の義とは何でしょうか。上のみことばを記したパウロは、パリサイ人の中のパリサイ人と呼ばれたほどの人であり、みことば自体も難解なものとして有名です。旧約におけるいけにえについてよく理解していないと、このみことばを理解するのは難しいでしょう。

【内容観察】
キリストの十字架は、神の義を表すためであった。
罪を見逃して来られた⇒すぐに処置をしなかった。キリストの十字架が現されるまでの執行猶予。

神御自身が義である⇒神の存在そのものが義である。王様が法律であるようなもの。

 なだめのそなえ物は旧約時代に、自分の罪の身代わりとして牛や羊が鳥や穀物をささげたものです。これによって罪は贖われるとあります。しかし「赦される=正しい」ではありません。ユダヤ人たちは自分の罪をいけにえに移すことによって自分は無罪になるから正しい人間である、と考えていましたが、そうではありません。このいけにえは人の罪を消すためのものではなく、罪を犯していても生き延びることを赦されるためのものです。罪の贖いのための手順を踏んでいる自分は正しい者であるとユダヤ人たちは考え違いをしていましたが、罪を即処分されないための贖いだったのです。私たちが祈ろうと伝道しようとささげものをしようと、行動では救われないのと同じように、ユダヤ人も赦されている存在なのです。愛に満ちた神様であられるがゆえに私たちは生かされ、自由を許されています。愛のない裁きは即処分であり、すなわち死です。神が現された愛の義がイエス・キリストの十字架であり、十字架によって、私たちを愛をもって赦してくださいます。愛している者を赦すために、自らその罪を代わりに背負って償う、これが神の愛による義です。たとえば、怒りっぽくてすぐ人に暴言を吐いてしまう人がいるとします。義は、被害者をこれ以上増やさないために、その人を即刻処分します。しかし愛があると、その人が悔い改めることができるための時間、執行猶予が与えられます。これも義です。この人が罪を犯さなくなるまでの間にこうむる被害は、愛が受け止め、負債を負い続けます。愛があるから犠牲を受け止めることができるのです。直るまで赦し続け、待ち続けるのが愛の義であり、神の義です。私たちも、イエス様を信じてすぐ罪を犯さなくなるわけではありません。神様は赦してくださっています。キリストのように一つも罪を犯さなくなるまで待ち続けてくださるお方がいるのです。それが神の愛の義であり、十字架です。私たちにとっての義の見分け方は、律法を守ったか否かではなく、人を愛するか愛さないかです。神の義は愛することなのですから。愛は永遠のいのちに至るための助けをし、負債を負います。もちろん私たちには神様と全く同じことはできません。しかしそこで絶望してはいけません。神様はそういうあなたを赦し、愛してくださっています。ご自分が造られた本来の姿に少しでも近づくことを願って、あきらめずに今も導いておられるのです。そしてあなたが犯した罪は神ご自身が人となって十字架にかかり、代わりに償ってくださっています。そこまで赦されていながら、まだ自分を直そうとしない人がいたなら、そういう人が永遠の滅びに行くのは当然でしょう。これほどの愛を示されてきたことに対して、「成功する自信はなくても一生懸命やってみます。」という心を持つ人が義なのです。
 神はご自身の愛を信じてほしいと願っておられます。キリストは神の愛なる方ですから、キリストを信じることが神の愛を信じることになります。「こんな私を愛してくださっている。」と神の愛が少しずつわかってくると、人はその愛に対して何らかのお礼をしたくなるものです。愛を感じなければ、神の義を全うすることは難しいですし、愛をなおざりにしたまま人生を歩んでいたのでは、いつまでたっても愛の義を自分の身につけることはできません。愛を知らなければ、クリスチャン生活は何も始まりませんから、わからないと言われる方はぜひわかりたいと思ってください。これがわからなければ、自分自身すらわからないままです。自分を愛してくれる存在によって,人は自分が何ものかを知ります。「自分はここにいていいんだ。」と認めることができます。「自分は愛される者なんだ。」と自分がわかります。愛されていることがわかれば、その愛に応えて生きて行こうという心が湧き上がってくるのが人です。なぜなら、愛なる神のかたちに造られているからです。愛されると愛が湧いてくるのです。その愛によって生きるのが、クリスチャン生活です。
 この愛を、私たちは十字架で見ました。歴史上に記されている愛のしるしは、感じることができなくても確かにそこにあります。その歴史が確かな証拠とされるために、さらに700年もさかのぼった時期の預言書にも預言が残されています。このことを通してあらゆる時代の人々に、神はあなたを愛しておられると示されています。この見える愛をどう感じていくかです。すぐに反応できる人も何年もかかる人もいるでしょう。しかし大事なことは、あなたが神のかたちに造られたので神の愛が内に眠っていることです。その神の愛が罪によっておおわれ固い殻の中に押し込まれているから、現れてくるまで時間がかかり、しかも人によってその時間はまちまちです。ですからあきらめてはいけません。あなたの内に神の愛は必ずあります。あきらめずに神の愛を求めていくことを、心に信念として持っていてください。神ご自身もあなたの内にご自分の愛が目覚めることを信じて導いておられるのですから、この愛を信じていこうという思いを持つことが、あなたの義です。

“イエスを信じる者を義とお認めになる”(ローマ3:26)を、イエス様が神の愛であられることと併せて考えれば、上に挙げた内容を指していることがわかります。神の愛を信じる者を神は義と認めてくださいます。行いによるのではありません。神があなたを愛してくださっていることを信じたら、あなたはもう正しいのです。なぜなら、その愛を信じて感じたら、愛は義を行うものだからです。愛に応答するのです。そして神様は私たちの応答を喜んで受け入れてくださいます。これが義と認められることなのです。行いにおいてはまだまだ足りなくても、愛に応答するということに対して喜んでくださる神様のお姿が、義と認めてくださるという意味なのです。これだったら私たちにもできますね?私たちの持っているもので表現すればいいのです。私たちのできることなど、たかが知れています。目に見える大きさに惑わされやすい私たちのかっとうも、神様は見ておられますから、正直に隠さないでいましょう。最初から「神様、私はこういう者です。」と正直に明かし、あなたのできる最善を神様にささげましょう。祈りも、奉仕も,賛美も。あなたは信じるだけで喜んでもらえる存在なのです。実態はそれにふさわしくなくても、喜んでもらえる存在なのです。そういう神様の愛を、私たちは受けています。そのためにイエス様がお生まれになったのです。なんと感謝なことでしょうか。

3.『徳性滋養』(とくせいじよう)

★『徳性滋養』の意味
天から与えられた道徳的に立派な性質を養い育てること。

(ローマ5:3〜4)
“そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。”

【敬聴】
「患難」⇒身をすり減らす苦労のこと。

 実際に身をすり減らすような困難を受けては、品性がねじまがってしまうのが人間です。しかし唯一神の義すなわち神の愛だけが、これを耐え忍ばせることができるのです。愛が心に芽生えた人は、どんな苦しみでも忍耐し、その忍耐はその人の品性を練り、練られた愛の強さは未来に希望をもたらします。愛は未来を幸せに見る力を持っており、すばらしい明日がすぐに来なくても、また次のすばらしい明日を待つことができます。愛をもたない人にとっては絵空事に聞こえるようなものでも、愛は練られた品性を持つことによって、まだ見ぬ未来に希望を持つことができるのです。イエス様が十字架の苦しみを受け止められたのも、父なる神様がひとり子をささげるという痛み苦しみを選ばれたのも、私たちに対する愛があったからです。愛がなくなったら、あなたの性質、生活は歪んでいきませんか?愛を意識することによって、私たちは健全な忍耐、それから生まれてくる健全な練りきよめ、そして力強い希望が湧いてきます。神様は今も私たちの未来に希望を持っておられます。キリストの姿、神のかたちにさらに近づくという希望です。だから続けられるのです。私たちがあきらめたとしても、あきらめきれないほどの愛を神様は持っておられます。身をすり減らす痛み苦しみは、特に人を赦す時にハッキリ表れます、神様の愛が目覚めるためのチャンスだとみことばの真理から受け止めて、忍耐を働かせてください。そうしたら、あなたの心とは違う霊の底から、神のかたちである愛が表れてきて、不思議なほどに力が湧いてきます。人を赦すのは難しいことで、憎い人には何百倍もの復讐をしたくなるのが人の常です。しかしそんなみにくい自分を神様は赦して、愛して、その心がいやされるようにと待ってくださっています。愛を感じていくと、赦す赦さないの問題ではなくなってきます。憎々しい思いは消え、神様の大きな愛に心が包まれます。人は自分の意志で愛を働かせることはできません。愛はちゃんとした人格をもっているからです。神ご自身が愛であられるので、人格を持って私たちの霊に働きかけてきます。この方は御霊であり、聖霊様です。ぜひ、あなたの内に眠っている神のかたちが練り清められ、引き出されるために、身をすり減らす労苦を感じる時こそ本当の自分を見ることができ、神様の愛に一歩近づくことができると受け止め、この人生を歩んでいただきたいのです。今ちょうど苦しみに直面しておられる方は、まず神の愛を見上げてください。それはこんな復讐心に燃えたみにくい私でも、神は愛してくださっていると気づくためです。これがわかると、赦す赦さないのレベルを超えて、赦されている神の愛に包まれることによって、憎しみで自分の心を満たすのが嫌になり、直面した苦しみさえどうでもよくなります。神様のきよい、私を赦されている愛を感じ続けたいから、私たちは自然に良くないものを切り離そうとします。切り離す力がそこに湧いてくるからです。やめようと思ってもやめられないのは、知性が止めようとしていても、心の強さが伴っていないからです。それは愛によって心が強められていないからです。愛の力はあなたを悪から切り離します。愛を大事にすることは、あなたの人生が本当に幸せになるかどうかの境目であり、永遠のいのちに至るかどうかの分かれ道でもあります。それほどに、愛を大事にするのは重要なことです。「そんな愛は私などには似つかわしくない。」と、あなたは否定的に捉えてしまうかもしれません。でも神様はあなたを愛しておられます。「愛を感じない。」それでも神はあなたを愛しておられます。「いやです」それでも神はあなたを愛しておられます。何を言っても神はあなたを愛しておられるのです。それが神様の愛であり、神様の義なのです。すばらしいですね!

 

 

 

 

 

 

■2011年12月11日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

  愛を見て愛を知る  up 2011.12.11




だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪のうちを歩みません。罪のうちを歩む者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。
(第1ヨハネ3:6)

 

 

 

 みことばの解釈は、それぞれの信仰の程度に応じて、聖霊様の助けによってなされていきます。聖書のみことばは、最も正しい解答として表現されており、右か左かはっきり語られています。ですから、そのまま受け止めると、律法に生きるクリスチャン生活になってしまいかねません。なぜなら、「今、罪のうちを歩んでいるかどうか」を尋ねられて、罪の内を歩んでいないとは言い切れません。そうすると、その人はキリストを見てもいないし知ってもいないことになり、今日私たちが持っているキリストへの信仰の行動はすべて否定され、むなしいものになってしまいます。
1.愛を見て知る(第1ヨハネ3:6)
【内容観察】どんな人でも神の愛を大事にする人は、的外れをするようなことはしないのです。どんな人でも正しい良心にそむいて的外れを行なう人は、神の愛を見ようともせず、知ろうともしない人なのです。
内容観察では、「罪のうちを歩む」ということを今のクリスチャン生活にどのように当てはめて適応するかを考えてみました。「どんな人でも、イエス・キリストの血潮⇒神の愛によってきよめられた正しい良心に背いて、罪のうちを歩む的外れを行う人は、神の愛を見ようともせず、知ろうともしない人です。いったん神様の愛に触れて、心が入れ替えられ、すなわち正しい良心がきよめられ、人生の価値観を変えたのに、世の中に関わっているうちに、また世の中の歯車にはまってしまい、せっかくきよめられた良心に目をつむり、元の生活の考え方や価値観に戻ってしまうクリスチャン生活は、神の愛を見ようとも知ろうともしなくなります。なぜなら、神の愛を見て、また知ったなら、さらにみことばに従い、生活を変えなければならないとわかっているからです。神の愛を見ようとも知ろうともしないクリスチャン生活にならないように、私たちは気をつけなければなりません。
 イエス様が天に召されてから70年近く経って、12弟子のヨハネの晩年には、おそらくいろいろなクリスチャン生活に対する解釈が生まれて、世の中の歯車にはまるクリスチャンも多く出てきていたことが伺えます。だからこそ、ヨハネは、神の愛ゆえに、世の中と調子を合わせるのではなく、守るべきものは堅く守ることを気づかせるため、このことばを御霊によって語ったと察します。いかがでしょうか。礼拝では愛を目指したメッセージを聞き、うなずくけれども、一歩社会に出ると聞いたようにはいかない現実にぶつかっておられるのではないでしょうか。私たちは不敬虔な考えに縛られている世の中に置かれていますから、難しいのは確かです。神の愛を知る人生のすばらしさを見させないように、不敬虔な世の中を縛っているサタンや悪霊は、多数決の力でクリスチャンを何とかして闇の中に引っ張り込もうとしてきます。その働きに負けないように、神の愛にしっかり目を向けて、正しい良心をもって生きていきましょう、というのが、主題のみことばのポイントです。
【敬聴】人からの愛や親切に正しく応答できているでしょうか。
 形はどうであれ、自分を育て、面倒を見ていただいたことを愛として受け止め、親孝行をしていくのは、自然な愛の応答です。親切は義務ではなく、愛の証しです。親切を受けた人は、応答としてのお返しを表していくわけです。愛に対して、神の前における正しい応答をしていくことを、ご一緒に学んでいきたいと思います。人に対してできるようになれば、当然、神様の愛に対しても正しい応答ができるようになっていきます。先週の音楽祭でも、心から神をたたえ、ご降誕を音楽をもって愛を奏でて応答する姿に、「神様へのすばらしい愛の演奏ですね」と、愛をもって聴いていくのが正しい応答です。いろいろなところで私たちは、神の愛を受けていることに対する健全な考え方、表現を一つでもしてみられたらいかがでしょうか。どうぞ新しい一週間、チャレンジしてみてください。

2.どうして罪を犯さないのか?(ヨハネ14:6)
“イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」”
 「わたしが道である」と言われるイエス様は、神の愛が見える形で現された方です。「わたし」というところに「神の愛が現された方」と表現して、内容観察に記しました。先週、いろいろな愛があることをお話ししましたが、「きよい愛」はキリストが現された創造主なる神の愛だけです。みなさんがそのきよい愛を願っておられるなら、イエス・キリストを通してでなければ、そこに到達できないし、その愛こそ真理の愛であり、いのちそのものであると実感されるのではないでしょうか。キリストのうちにとどまるとは愛のうちにとどまることなので、当然「道、真理、いのち」の3つのポイントに囲まれた中にあり、決して罪のうちを歩むようなことはありません。
【敬聴】「愛は道であり、真理であり、いのちである」ことから、どのようなイメージを描かれるでしょうか。
・愛は道である…私たちの歩む人生の道、人が歩むべき、選ぶべき道は、愛の道である
・愛は真理である…真理とは創造された元の姿のこと。万物の起源は愛である
・愛はいのちである…単に存在するいのちのことだけでなく、光のような喜びと希望に満ちた、前進し発展していく、躍動的なもの。誰でも愛を感じた人は心が強くなり、明るくなり、不思議な変化をもたらす。
 いのちある生活は、愛に満ちた生活と言っても間違いではありません。だから、愛のうちにいれば、罪のうちを歩むようなことはしません。たとえ罪のうちを歩んだとしても、必ず戻ろうとすることをクリスチャンは知っておく必要があります。私たちの生活の中で、わかっていても罪のうちに引き込まれてしまう誘惑への弱さがあることを私たちは知っています。もし罪のうちに入ったなら、「ここにいてはいけない。」と正しい良心は忠告しているはずです。「立ち返らなければ」という思いが心の中に響いているのに、その良心の声を無視してしまうならば、罪のうちを歩んでしまうようになり、神の愛を見ようとしなくなります。愛を見たならば、「戻らなければならない」という葛藤が起こり、苦しむからです。神様の愛を聞くならば、欲望を制限しなければならなくなり、悩まなくていいものまで悩むようになるからです。怠惰な気持ちに引き込まれて、神の愛を見ようとも知ろうともしなくなって、罪のうちを歩んでしまわないうちに、早いうちに悔い改め、方向転換して、「愛は道であり、真理であり、いのちである」という神の愛のうちに、キリストのうちにとどまる方を選んでいきたいものです。

3.神の『徳量寛大』(とくりょうかんだい)を証しする御降誕
★『徳量寛大』の意味
 徳が高く、度量が大きく、人に対して寛容なさま。
「徳量」⇒徳のある人格の量。
「寛大」⇒度量があって思いやりがあること。
 寛大な心は、思いやりを持たないと優越感に浸っている可能性があります。寛大には、あわれみが含まれています。神様は最高に熟した徳をお持ちで、最低の徳の罪人を、神の子の徳の高さまで引き上げることのできる徳の高さを持ったお方です。自分だけでなく、他の人を高める力は愛から出てくるのではないでしょうか。あわれみ、慈悲の力が人々の心に届いて心を和らげ、よいものを受け止めようとする心に変えられていくのです。イエス様は「徳量寛大」な愛を証しするために、この地上に来られたのです。
(ルカ7:48〜50)
“そして女に、「あなたの罪は赦されています。」と言われた。すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」しかし、イエスは女に言われた。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」”
 パリサイ人の家にイエス様が食事に招かれて行った時の出来事です。罪深い(=不道徳)女がイエス様の足にまとわりついて、席に着かれたイエス様の足を涙で洗い、自分の髪で拭いて口づけし、香油を塗ったという話です。イエス様は女が足元に口づけして、神様の救いに対する感謝を表現していることをすでに受け入れておられたのです。聖書の他の箇所には、弟子たちがイエス様のまわりに行った幼子を止めたり、盲目の物乞いがイエス様に向かって叫んだのを制したりした記事がありますが、ここばかりはイエス様にまとわりついている女性を誰も阻止できないほど、イエス様が許されていたということです。この女性は、感謝と感激のあまり、イエス様のほこりにまみれている足元に、愛に対する感謝を表したのです。彼女は、イエス様のメッセージをどこかで聞いて、「こんな私でも望みがある。神は救い主を通して罪を赦して解放してくださる」思いを受け止めたのでしょう。しかし「罪を赦す」と言われたイエス様のことばを聞いて、まわりの人はいぶかしがったのです。この時のイエス様のパリサイ人への「借金を多く赦された人と少し赦された人と、どちらが赦してくれた人を愛するか」との問いに、当然「多く赦された人」と答えたパリサイ人に、イエス様はこの女とパリサイ人を比較して「多く赦された者は多く愛する」と話されたのです。パリサイ人は、「自分はこの女のような罪はない」と思っていました。「律法を守っていけにえをささげており、赦してもらうほどの罪はたくさんない」と。この女性は、いけにえをささげたり、会堂で説教を聞いたりはしていなかったでしょう。罪深い生活の中でしか生きていけない自分を嘆いていたのでしょう。「こんな罪深い私でも、救い主を通して赦してもらえる」と、神の赦しの愛に感激して、イエス様の足元にまとわりついていたのです。この女性とパリサイ人とどちらが罪が少ないでしょうか。いや、罪の大小を比べること自体、神の前に無意味なことです。公には女は罪深い生活を送っていたかもしれません。しかし律法を都合良く解釈して隠れた部分を持つパリサイ人も、見えているいないに関わらず、神の前にみな同じ罪人です。聖書を読み、教会に来て、十一返金をして、奉仕をたくさんして、自発の献金をしていようと、何かをしているから罪が赦されるものではありません。奉仕や祈りなどすべてのことは、赦していただいた神への応答です。愛の反応です。私たちが何もしていなくても、神はまず赦してくださっていることを知らなければなりません。神の赦しの愛があるから、ここに来られるのだと…。旧約時代なら、いけにえをささげずにいるなら打たれたはずの、神のきよい臨在の前で、私たちがきよい神のことばを聞けるのは、イエス・キリストの十字架の贖いのみわざが実現しているからです。赦されているからです。赦されているという愛のおかげで、今の自分があることのゆえに、どう行動し、どう感謝を表すか…のみです。義務でも何でもなく愛のゆえに、私たちはクリスチャン生活を歩んでいるのです。
 ここでのポイントの大事な部分として、赦された愛に感謝してイエス様の足元にまとわりついた女に対して、イエス様が「あなたの信仰があなたを救った」と最後に言われた点です。つまり「あなたの信仰」とは宗教的な信仰ではなく、神が遣わされたメシヤを通して、神が自分を愛して罪を赦されるという神の愛に対する信仰です。信じた気持ちが、イエス様の足にまとわりつく行動として表れたのです。そして「あなたの信仰があなたを救った」とは、「罪に縛られていた心が解放されて神様の愛によって歩む人生に入ることができた。もう罪の生活を続ける必要はありません。神の愛に励まされて、普通の生活に戻りなさい。安心して行きなさい。」ということです。
【敬聴】
 イエス様は安心して行ける表情で、女に言われたことでしょう。
 つまり、にこやかな微笑みをたたえておられたのではないでしょうか。マザーテレサは、「平和はほほえみから始まります」と言っています。「人との間に平和がないなら、あなたがほほえみなさい。1回でうまくいくとは限りません。ほほえみ続けて、平和を作りなさい。それでも相手との間に平和ができなかったら(ほほえむのがむずかしくなったら)祈りましょう。」と。それはほほえみ続けることのできる愛を求めて祈る、ということです。マザーテレサは神の愛を見上げ続けて、すばらしい慈善の働きを続けられました。力が弱った時に、神の愛、十字架を見続け、自分が赦されている神の愛を見て知って、再びほほえみ続けたのです。相手が変わることより、まず私たちが神の愛によってほほえみ続けることのできる愛を内に満たすことによって、「互いに愛し合いなさい」というみことばが実現していくことが、ここで教えられるのではないでしょうか。
 祈っている時に私たちは「安心して行きなさい」と言われるイエス様の声を聞く必要があります。それを聞くまで、神の愛を見続けていきましょう。「私は赦されている」と、心に神の愛が満たされると「安心して行きなさい」とイエス様は言われます。イエス様は、私たちが安心して愛を目指して行けるように、神様の「徳量寛大」を証しされたお方です。その方がお生まれになったのがクリスマスです。ぜひ多くの方に知っていただく機会としたいですね。

 

 

 

 

 

 

■2011年12月4日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

  罪を取り除く愛  up 2011.12.4




キリストが現われたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています。キリストには何の罪もありません。
(第1ヨハネ3:5)

 

 

 

キリストは神の愛です。この愛は私たちの罪を取り除くために現されました。そして愛は、的外れの人生から、本来進むべき道へと、私たちを導き入れてくださるのです。
1.罪を取り除くことについて(第1ヨハネ3:5)
“みことばは前述”
★「取り除く」⇒持ち上げる、ささえる、運ぶ
  なんらかの処置処分をするために、そのものを移動すること。
 キリストは私たちから罪を切り離すために来られた、と言えます。
ところでクリスチャンは案外、理解していないことがあります。罪を切り離すということばには、「罪を実際的に取り除かれる」という意味と、「罪を赦されている」という意味の2種類があることを、です。現在の私たちは罪を犯す者ですが、罪を赦されています。罪を犯さないように努力はしているけれども、なかなか切り離せない罪もあります。しかし、ともかくも「赦されている」のです。たとえるなら、秋の外遊びで、野山を駆け回って帰って来た子どもです。その体のあちこちに、草や木の種子をつけて帰ってきます。その子どもをそのまま家に入れてくれる親もありますし、子どもについた種を取ってから入れてくれる親もあるでしょう。今、私たちがささげることを赦されている礼拝は、種をくっつけたまま家に入らせてもらっている状態です。もちろん赦されているからといって、そのままでいるべきではありませんが。イエス様は「罪を取り除く」こともされるお方ですから、それを忘れないでください。
 また別のたとえをしますが、汚れて汗まみれの仕事着を着たまま、結婚式に来る人は常識的に言っていませんね。しかし、そんな者でも「祝いに来てくれているんだからいいよ」と、愛をもって受け入れてくださっているのが私たちの神様です。もちろん私たちも、自分ができるだけの努力をして、汗も汚れもなるべく拭き取り、消臭スプレーもかけてはいますが、まだ不十分です。それでも神様は、「来てくれてうれしい」と言ってくださいます。礼拝に私たちが入れていただいているというのは、そんな状態なのです。このような寛容を示してくださる方に対して、できうる限りの礼儀を尽くしたいと、私たちは毎回不完全ながらも罪汚れを取り除く努力をして御前に出、神様はそんな小さき者のあがきをさえ、喜んでくださいます。「どうせ赦されてるんだ、気にしなくていいよ」と考えるなら、それは愛の応答ではありませんね。赦され、愛されていることに対して、相手の喜ぶことを選んで応えていこうとするのが、正しい良心からの愛の応答ではないでしょうか。キリストからの愛は、その励ましによって、私たちの内に罪から離れる力をわき上がらせます。こうして、私たちが少しでも罪から離れよう、きよくなろうと努力することが、気持ちが、せめてもの、神様への愛に応答する心の動きです。

2.罪を取り除くためのご降誕
 イエス様は私たちから無理に罪をはがされるのではありません。私たちが、自ら罪から離れようという気持ちが起こるように導いて助けてくださるのです。“豚は身を洗ってまたどろの中にころがる。”(第2ペテロ2:22)ように、私たちも愛によって動かされなければ、変わることがありません。
“何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。”(第1ペテロ4:8)
★「おおう」⇒かぶせる、埋める、(波が舟を)のみこむ。
 熱心に愛し合うことが、罪をおおうという行動を起こさせるのです。それはイエス様が、私たちへの熱心な愛のゆえに、神の栄光の御姿を捨てて、地上に来られたのと同じです。イエス様はマリヤさんから生まれてくるところから、わざわざ人の人生をたどられました。そこまでしても私たちを救いたいと思ってくださったからです。また、人の苦しみ悩み、悲しみも全部味わって理解してくださっています。神様なのに、人の味わうマイナスなものを全部一緒に味わってまで、罪から離れるようにとこの地上にやって来られたのは、私たちへの熱心な愛のゆえです。「子どもは親の背中を見て育つ」ということばがありますが、親の熱心な愛の姿を背中に見る、という意味もあると思います。子どもは、自分のために何をしてくれているのかを見ているのです。風呂で自分がこすった大きな背中に、親の犠牲と労苦を感じるのです。神様も、いきなり30歳の姿で地上に来ることはなさらず、妊娠の時点から始めて生まれ育っていくという、ご自分が造られた法則に従われました。そんなふうに愛を示してくださっています。クリスマスは、私たちにも伝わる熱烈な愛の表現であると認識していきましょう。
【内容観察】
最優先するべきことは、互いに強い意志をもって熱心に愛し合うことです。主は、私たちへの熱烈な愛を現すためにこの地上に来られ、その熱心な愛をもって私たちの多くの罪をのみこむように取り除かれるからです。
 ギリシャ語の「おおう」は埋めるという意味を持ち、それはもう決して見つからないということを示しています。また舟などをのみこむという意味もありますが、飲み込まれた舟ももちろん帰りません。私たちの罪も埋められ、飲み込まれ、二度と表に戻ることはありません。熱心な愛は私たちを罪から切り離し、取り除きます。ですから、進歩が目に見えない状況で心があきらめそうな時、その心をもう一度奮い立たせるのが愛の力です。反対に言えば、神の愛に触れることが少なくなると私たちは弱くなり、あきらめやすくなります。これは人間同士でも同じことが言えます。

3.『遍地開花』(へんちかいか)のクリスマス
★『遍地開花』の意味
よいことや幸せが至る所に訪れること。また、各地に広まっていくこと。
 今年は東日本大震災によって、家族と迎える温かなクリスマスが見直されています。ベツレヘムで始まった小さなお祝いは、今や世界中に広まり、多くの人の心をなぐさめ、励ましているのです。
(イザヤ11:9)
“わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。”
 イスラエルの人々からすれば、異邦人はみな野蛮な獣のようなもので、弱肉強食の世界に生きています。そんな連中がお互いに仲良く暮らせる場所、聖なる山があるのです。私たちからすれば、それは教会ですね。神様の愛がそこでは行われています。それを期待し、自分もそうなりたいと望む人々を、神様は集められます。ここでは狼と羊、ひょうと子やぎなどの天敵同士でも仲良くなれます。なぜでしょうか。主の愛を知って心が変えられたからです。
 子どもが親の真似をするように、私たちも神様の真似をします。神様が愛してくださったので、私たちも愛を誰かに注いでみます。神様が赦しておられるのを見て、真似をします。実際にうまくいくとは限りませんが。小さな子は自分の思いがかなわない時、感情を爆発させることによって心の均衡を保とうとしますが、だんだん成長するにしたがって、自分を抑えられるようになり、感情を爆発させる必要がなくなってきます。私たちも同じように、成長するまで神様が保護者として注意深く導いてくださっています。心が壊れてしまわないよう、私たちの心を満たしてくださり、時として思わぬプレゼントで心を喜ばせてくださいます。
 私たちの心は神様によって育てられています。こんな愚かで小さくて幼い自分の信仰、神の子としての心の未熟さを、受け入れてくださっています。神様のお心に感謝して、自分から罪より離れていこうと決意して進んでください。愛を支えに、罪を取り除く歩みを続けて参りましょう。

 

 

 

 

 

 

■2011年11月27日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

  罪とは愛に逆らうこと  up 2011.11.27




罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。
(第1ヨハネ3:4)

 

 

 

 先週学びました「きよさ」は律法を守ります。自分をきよくしようとしている人は、律法に逆らいません。今週はさらに、罪とは愛に逆らうことであるということを学んでいきます。

1.罪とは愛に逆らうこと(第1ヨハネ3:4)
“みことばは前述”
 狩りをする矢は、飛ぶ方向、的は決まっています。しかし、違う方向に向かってしまうことを、的外れ「罪」と言います。もし放った矢が真反対に向いて向かって来たらどうでしょうか。背くとはそういう状況です。律法は、神が愛し合うためのルールとして与えられたものです。この律法によって間違いに気づき、やり直すことができます。律法が愛のためのルールであることを理解しましょう。
 ルールを破ることが、実は愛に逆らうことであると気づいておられるでしょうか。破っても、神様に申し訳ないなあ…という程度にしか感じていないかもしれません。しかし破るとは、逆らい、反発し、拒絶することです。逆らっているということを意識しないために、「信仰がまだ弱いのでできません」と、うまく言い訳をしていないでしょうか。
 イエス様はこういうたとえ話をされました。ある王様が王子の結婚式に際して招待状を送ったところ、自分の仕事や私事で断ってしまう人々がいました。何をおいても優先すべき国王の招待を、ちょっとした用事のために断ってしまう。礼儀を欠く恥ずべきことです。私たちも個人的都合で、神様のご命令、たとえば「許す」ということを拒絶していないでしょうか。神様のきよい愛に対して、泥を塗るようなひどい行為です。神様のみこころは、「できなくてもいいから、まずはやってみなさい」ということなのです。
 ペテロは漁に出て魚が一匹も取れなかった時、イエス様に網を下ろすように言われ、自分自身の漁師としての経験よりも、イエス様のおことばの方に従いました。その結果,神様はたくさんの魚を与えられたのです。私たちも「許してみよう」とやってみる時、案外できることに気づくのです。神様がやってみなさいと言われる時、やってみるという姿勢が大切です。
 もし私(辻師)があなたの方向に向かって歩いて来ていながら、突然くるっと後ろを向いて立ち去ってしまったらどう感じるでしょう?かなり気分が害されると思います。そのように、法に背くというのは、神様の愛に背を向け、神様の心を傷つけ、悲しませる失礼なことなのです。これが「罪とは愛に逆らう」ということです。

2.不法から贖うためのご降誕(テトス2:14)
“キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。”
 今日からアドベントに入ります。キリストのご降誕からも、今日のみことばを学んでみましょう。イエス様は、罪の状態にある私たちを贖うためにお生まれになりました。
【内容観察】
キリストが私達のために御自身をささげるためにお生まれになったのは、人の力では助かることのできない不法の大きな流れから取り戻し、神の愛を目指して歩むことを望みとしているご自分の熱心な民を、ご自分に属する者とするための代価となるためでした。
 不法の大きな流れとは、神の愛に背く流れであり、愛を大切にしないことです。口先では愛が大切であると言いつつ、実は仕事優先で、お金中心の生活をしていたり…。そうなると、愛のないお金の使い方をしていくようになります。先日話題になった大手の会社の社長は、数百億円をギャンブルに使い果たしてしまいました。本来なら社員のこと、家族のことを考えるべき立場の人が、欲に引かれ、自分のことしか考えられなくなり、考えられないような金額をギャンブルで使い果たしてしまったのです。なんという無駄な、愚かなことでしょう。愛をおろそかにすると、良心が鈍ってしまい、欲望にとめどなく引き込まれてしまうのです。そして善悪の見境がなくなっていきます。
 クリスチャンである私たちも、現実の中で、ほんのわずかであっても、神の愛を軽視するような考えがあったり、不敬虔さが生活の中に出てきたりしたら、この世の大きな流れに流されかけていると言えます。神様の方に3歩近づいても、この不法の大きな流れは5歩も6歩もあなたを引きずっていきます。流されていないかどうか気づくために、イエス様は地上に来られ、本当の愛、真実の愛が何であるかを教えてくださったのです。この愛から目を離さないようにしましょう。目を離してしまったら、流されているかどうかもわからなくなってしまいます。大きな流れに乗っていると、流されていても気づきません。気づくには、動かないもの(海であれば山とか)を見つめるしかありません。イエス様の愛は不動の岩です。この愛を見つめていれば、私たちは流されないよう気をつけることができます。ですから、キリストのご降誕をお祝いすることは大切です。自分の正しい位置を確認するためにも必要です。それでは、神とともに歩むとはどのような歩みなのでしょうか。

3.愛の神と『意気投合』(いきとうごう)
★『意気投合』の意味
  互いに気持ちがぴったりと合うようす。
(ミカ6:8)
“主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。”
 ミカ書にあるように「公義を行う」「誠実を愛する」「へりくだる」が神とともに歩むことなのだ…じゃあそうすればいいのか〜と、命じられたから「やればいい」あるいは「やらなければ」というのは、神様と意気投合することとは違います。意気投合とは、どちらも同じ思いを持っていて、それゆえ同じことをしてしまう、ということです。
 神のきよさ、誠実さ、へりくだりにピッタリと合わせていけますか?それは無理です。歩幅の大きい人に、歩幅の小さい人がついて行くのは大変です。しかし、このみことばは、神様の願いを表しているのです。私たちの本心である良心は、公義や誠実、へりくだりを行いたいと痛切に願っているはずです。ここに、神様と「意気投合」していることがわかります。神様の願いと自分の願いが同じなのです。私たちはそれがわかると前向きになり、積極的になれます。そして神様は喜んで私たちを助けてくださいます。私たちの力ではできなくても、公義を行いたい、誠実を愛したい、へりくだりたいと願って歩む私たちの歩みを、神様は助けてくださり、できるように導いてくださいます。まずはあなたの歩幅で始めてみてください。今できなくても願いを持つなら、神様は共に歩んでくださいます。
意気投合するとは、神様と同じように私たちが歩むということではありません。神様と気持ちがぴったり同じになるということです。「救われたい」と「救いたい」がぴったりと合うと、その人は罪の赦しの体験ができます。
 この良心を大切にしましょう。自分が神のかたちであるということを否定したり、あきらめたりしないでください。種はあなたに与えられています。あなたは、必ず神とともに歩めます。神様と意気投合していたら、クリスチャン生活は楽しく幸せなものになります。これから、ますます神様と同じ願いが自分にあることを知り、神様と意気投合して歩んでいく喜びを味わっていきましょう!

 

 

 

 

 

 

■2011年11月20日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

  きよさを継承する愛  up 2011.11.20




キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。
(第1ヨハネ3:3)

 

 

 

 この世にはいろんな愛があります。しかし今、それが肉の欲望によってだんだんと歪められ、単純で純粋な愛などつまらないと、疎外されつつあるのではないでしょうか。以前、韓流ブームが起こった時に大ヒットした「冬のソナタ」というドラマは、純粋な愛を描いて多くの女性をとりこにしました。彼女たちは純粋な愛に飢えていたのです。
 では聖書の愛はどうでしょうか。聖書には、愛に欠けてはならないもの、「きよさ」があります。神には「きよさ」が絶対必要であるのと同様に、愛にも「きよさ」が必要不可欠なのです。世の中にはきよくない神がたくさんありますが、私たちの信頼する神からきよさが失われてしまったらどうでしょうか。信頼し尊敬する心が弱まり、薄れてしまうのではないかと思います。私たちは、自分の願望をかなえてくれる魔法の神を信じているのではありません。「神は愛である」という方を、私たちは信じているのです。そこにきよさを感じ、きよさに言葉で言い表せない価値を感じているからです。以上のことを踏まえて、今日は「愛を継承することはきよさを継承することである」と学んでいきましょう。これは強制ではなく、自ら進んできよくなろうとするのです。
 本日のみことばをもう一度読み返して思いますに、この言葉を書く時のヨハネの脳裏に浮かんでいたのは、イエス様の弟子として過ごしていた頃の自分の姿ではないでしょうか。以前は火のように激しい気性の人であったヨハネは、イエス様の弟子として過ごしたことにより、イエス様や父なる神に触れられて、温和な愛の人に変えられました。イエス様を通して真実の神に触れたヨハネが、自分もこの方のようになりたい、なんとかして近づきたいと内にわき上がる情熱を持ったのは自然な反応でしょう。弟子入りというのはそのように、「この師から学び取りたい」という強い願いがわき上がってきたからするものです。イエス様がマタイに語られた「あらゆる国の人々を弟子としなさい」とは、強制的に従わせるという意味ではなく、学ぶ者の姿勢を言われているのです。「あなたから神の愛を継承したい」「自分もぜひそれを持ちたい」という気持ちが湧き上がって来るような者にしなさい、というのが、このみことばの本意です。これはまた、人々があなたの元に来て弟子になりたいと願うような証をせよという、証し人へのことばでもあります。ヨハネは「この神様なら必ず、きよい愛を知ることができる」とイエス様に望みを持つ人なら、イエス様と同じように自分をきよくしようとする、と言っているわけで、しごく当然のことと言えます。師が持つすばらしいものを受けたい人は、自分も師のように生きていくものです。
 私たちがこのように生きるためには、神の愛に触れることがまず第一です。これなしには欲望を節制するだけの苦しいクリスチャン生活になってしまいます。なぜ自制するのでしょうか?それはきよい愛を受けたいからです。神のかたちになりたいからです。その気持ちが節制を生み出すのです。プロボクサーをみてみましょう。彼らは試合の前に自分に厳しい制限をかけます。水も食事も最低限に抑え、しかも筋肉は落とさないように、体をギリギリまで追いつめていきます。これは強制ではなし得ない、勝利への執念のなせるわざです。
 私たちはと言えば、本来神のかたちに造られている者であるがゆえに、愛を追い求めるのは本能です。しかし欲望に邪魔されて、その道を踏み外しました。そこへキリストが現れ、神様のきよい愛を再び見せてくださり、私たちに希望を与えてくださったのです。この希望の道へと歩む者は、キリストのように自分をきよくします。その憧れがなければ、道の途中でくじけてしまいます。お互いに「このすばらしい愛をもっともっと求めていきましょう。」と励まし合っていきたいものですね。

1.自分を清くする秘伝(第1ペテロ1:22)
“あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。”
A)二種類の「きよい」について
(1)聖い⇒神聖、(神の属性のひとつ)きよい
 神に帰属することによってのみ得られる「きよさ」
 人の努力や能力によっては、決して得ることのできないもの
(2)清い⇒聖化、清潔、汚れていない。
 (物的)よごれ、(倫理的)けがれを取り除かれて行く。
 人の努力によってできる「きよさ」
B)魂を清くするには、真理に従うこと
 まず神様の「聖い」に入れていただいた後に、神様に近づこうとするもろもろの努力が始まります。「きよくされ、受け入れられている」というところから神の愛のきよさを感じて、「こんなすばらしい愛があるんだ」と見せていた、感じさせていただいて、そこから「ぜひこれを私のものとしたい」「それを受け継ぎたい」「私は神のかたちとして造られたのだから、それを得たい」という気持ちがわき上がってきます。これは弟子になりたいという気持ちです。その気持ちから、自分をきよくしていくという生活が始まるのです。(气yテロ1:22)にある「清め」は完全にきよい状態を指すのではなく、きよくする状態にある人を指して言っています。まだ汚れていても、あきらめずに努力し続ける限り、きよいと認められるのです。私たちが人を「きよい」と見る基準は何でしょうか。きよい愛を受け止めていくために、一つ一つ自分の悪いものを悔い改めて直し、罪から離れていこうという気持ちを失わずに、毎日悩み苦しみ葛藤しながらも、少しでも神様のきよさにあずかりたいという気持ちで進んでいる人。そういう姿を見て、「きよい」と言うのではありませんか。皆さんも、「きよい」という結果はまだ出ていないかもしれません。しかしあきらめも挫折も罪やサタンの妨害です。神は、あなたが少しでもきよい愛に憧れて、それを満たしたいという気持ちを持って罪から離れ、罪の性格を直そうと神の前にへりくだって努力していくその姿を喜ばれ、実際的にもきよい人とみてくださいます。そして、実際的に自分をきよくするには、真理に従うことが最善です。

2.清くするところ(ヤコブ4:8)
“神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。”
 先日ブータン国王が来日されました。ブータンは国民が感じる幸福度96%の国です。特に現国王の人気は高く、アジア諸国の誌面を飾ることも度々です。彼は六人の妻を持つことができる法律の下にありながら、一人の妻を生涯愛するという誓いを立て、世界中の人々から絶大なる支持を得ました。クリスチャンでなくても、きよい愛は人々の心を動かすのです。
 私たちはこのきよい愛をおろそかにしてはいないでしょうか。「手を洗いきよめる」とは、実生活における一つ一つの罪を切り離して行くことです。「二心」とは、きよい心への関心の薄さからくるものです。私たちは本来愛の神のかたちに造られたのですから、きよい愛を満たすべく心を向けてまいりましょう。そのために真理に従うというきよめの秘伝が(第1ペテロ1:22)です。「しなくてはならない」のではありません。神様のきよい愛を伝授されたいから、私たちは自らみことばを学び、みことばにチャレンジしていくのです。イエス様の十字架の中に表された神様の見える愛を、どうぞ感じ取って、神様の愛に心動かされてください。そうすれば人の愛にも心動かされるようになりますし、思いみる、あわれみを持つ、いつくしむといった気持ちも自然にわき上がるようになって、神様の言われたことがわかるようになってきます。口で説明して理解できないことも、愛を感じれば心でわかることができます。

3.『衣鉢相伝』(いはつそうでん)
★『衣鉢相伝』の意味
 奥義や教義を伝え継承すること。
 弟子が師の教えを受け継ぎ伝えること。
(第1ヨハネ3:3)“みことばは前述”
 イエス様は神のきよい愛を伝えるために、愛のかたちとして私たちの下に現れてくださいました。私たちはそれを見、それに触れて、「これが私の生きる道なんだ。これが私が神のかたちに造られた理由なんだ」と気づかされ、目覚めました。そしてこの神のきよい愛に触れられて、もっとそれに関心を向けて、「ぜひイエス様の弟子として歩みたい」という願いが起こされて、衣鉢相伝します。それを受け止め、また次の人に伝えていく者になっていこうという意味で、この四字熟語を選びました。
【内容観察】
 キリストに似る者となる望みを抱く人はみな、きよい愛の神の現れであるキリストが清く御自身を保たれたように、そのきよい愛を受け継いで、そのきよい愛による動機によって、あらゆる汚れから離れるための努力を喜んでするようになるのです。
 自分が受け止めるだけでなく次の人に、自分の子どもや親しい人に伝えていきたいですね。イエス様の死と葬りと復活という福音は、言い換えれば、こんな罪深い私を、きよい神はきよい愛をもって受け入れてくださっているという良き知らせです。
 罪を犯したら悔い改め、罪を犯されても赦す。そういう関係を次の人々にも伝えていく、そんな歩みをこれから一緒に、イエス様が来られる時まで歩んでいきたいとは思われませんか?

 

 

 

 

 

 

■2011年11月13日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

  愛を見れば愛に似る  up 2011.11.13




愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。
(第1ヨハネ3:2)

 

 

 

 キリストは見えない神の現れです。キリストを見れば、見えない神の愛が見えます。そして愛を見れば愛に似るのは、自然な成り行きではないでしょうか。人は親切を受ければお返しをしたくなるものです。その究極のかたちが、イエス様を見て、イエス様に似た者になることなのです。

1.キリストに似た者となる(コロサイ1:27)
“神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。”
★神の奥義であり、栄光の望みであるキリスト。
★奥義=様々の分野における奥深く非常に大切な事柄。
★栄光の望み=輝かしい誉れ、さいわいが約束された望み。
★キリスト=神の愛が見えるかたちとなられたお方。
【内容観察】
 神は聖徒たちに、キリストという奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを知らせたいと思われた。
 キリストという奥義とは、あなたがたの中に注がれている神の愛、キリストに似た者となるさいわいを約束されている望みによる喜びのことです。
 ユダヤ人たちは神に選ばれた民です。それは、十億円当たる可能性がある宝くじを、世界中で彼らだけに与えられたようなものです。彼らは「当選したらどうしよう!」と非常に喜び、反対にチャンスさえ与えられていない他の民は彼らをねたんだり、批判的になったりしていました。特権とはそういうものなのです。しかし神は、イエス・キリストを通して、この特権を異邦人にも与えられました。しかも、異邦人に与えられた宝くじは、「信じた者には全員もれなく十億円が当たる」という破格の条件でした。この当選券とは、「信じるなら誰でも救われる」というイエス様の救いを指しています。一方ユダヤ人はといえば、「律法の行いを全うすることによって義を認められる」のであって、誰もが当選するわけではありません。この違いをよく認識して、神に感謝してください。当選券の中身は、「キリストの奥義」「栄光の望み」です。神の愛であられるキリストの奥義を、私たちに伝授されるというのです。そうすれば、私たちは愛の姿である栄光のキリストと似た者になることができます。思うに、人の一番栄えのある姿とは、愛の大きい深い人の内に見られるのではないでしょうか。財産よりも地位よりも、徳の高い、愛そのものが形をとったような姿の方が、本当の意味で人の栄光の姿と言えるように思います。
 宝くじに表されるように、私たちはこの世で大きな影響力を持つお金に関心があります。 しかし、それ以上にキリストに似る者になるとは私たちにとって影響力のある存在感の大きなものであると、まず気づいてください。

2.キリストのありのままの姿(第1ペテロ1:13)
“ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現れのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。”
   ★キリストの現れのとき⇒再臨
   ★もたらされる恵み⇒愛の姿に似た者となる
   ★イエス・キリスト⇒神の愛のありのままの姿
 恵みは、ふさわしくない者に対して無代価で与えられるものです。罪人にふさわしくない恵みは、義とされることです。イエス・キリストの十字架のあがないによって、神はこの恵みのみわざを完成させてくださいました。救い主を、神の愛を信じることによって、罪人である状態のまま義とされた私たちは、自らの現実に矛盾を感じます。実際には罪を犯してばかりの自分が、神の目に義とされていることがわからないのです。神は「見えない神の現れであるイエス・キリスト」「神の愛のあかしであるイエス・キリスト」を見て、私たちを義としてくださっています。私たちが「神の愛を信じる」ことを、正しいと見てくださっているのです。これが信仰による義です。「神は私を愛してくださっている」と信じ、この神の愛を受け入れる人を、神は正しい人と見てくださるのです。
 本来、人が正しく生きるには、神の似姿として、神のように歩まねばなりません。神のご本質は愛であり、私たちはそのかたちに造られています。ゆえに、愛の道を選んでいくことが私たちにとって正しい選択です。そして、その第一歩は神の愛を信じることであり、信じたあかしがバプテスマを受けることなのです。このような私たちが到達すべき姿はイエス様です。イエス様のありのままのお姿とは「愛」です。私たちも本質は愛なのですから、完成された「愛」の姿に近づいていくのが正しい道なのです。私たちの元々の姿も「愛」なのですから、決して無理な話ではありません。先日お話しした「狼少年」も、もとが人間である以上、もとの人間の習慣を身につけさせることができる可能性は大でした。ですから、私たちもあきらめてはいけません。罪によって欲望という誤った人生を送っていた私たちではあっても、もとが神のかたちである以上、本来の道には戻しやすいのです。聖書から、「神のかたちに造られた」というおことばを見て、もとの姿に戻ることができるという希望を持つことが必要です。周りの声や現在の結果に惑わされてはいけません。神様は、もとに戻る可能性があるからこそ、ひとり子イエス・キリストという代価を支払われたのです。

3.新しい戒めは『微言大義』(びげんたいぎ)
★『微言大義』の意味
 簡潔な言葉の中に、深い意味や道理が含まれていること
(ヨハネ13:34)
“あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。”
 この、ただ一つの戒めに込められた、神の奥義、真理、原則を考えましょう。
【内容観察】
 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛を見せ合いなさい。わたしがあなたがたに愛を見せたように、あなたがたも互いに愛を見せ合いなさい。
 聖書全体にちりばめられている愛は、愛し合うという行動によって表されます。愛は「愛する」が主体であり、その中で「愛される」が付随してくるものなのです。この世界とは逆ですね。まず愛すれば愛されるようになる、というのが本当です。神のかたちに造られた私たちは、何かを愛さずにはいられない心の動きが本能的にあります。しかし、欲望に支配されると、愛されることを優先してしまいます。それが的外れの人生の始まりです。まず「愛する」ことが神様の愛であり真理である、と心に留めましょう。
 イエス様は、愛の手本をまず私たちに見せてくださいました。人を愛する時、相手にその愛が正しく伝わらなければ、愛を見せたことにはなりません。私たちは見て情報を得て、見て感じていきます。見ることは信じることにつながりやすいものです。愛が見えれば、心の中に変化が起こります。
 たとえば東日本大震災の中で起きた様々な出来事を通して、ボランティアに行ったり、家族や周りの人々に心を向けたりするという良い傾向が世の中に起こりました。それは、見たことによって心が動き、愛そうとする働きをした証拠です。力ある人たちと同じようにはできなくても、支える動きをしたいと願った結果です。愛を見ると愛の働きをしたくなる、という本能の現れなのです。ですから、ここでも愛を見せ合えばもっと愛し合えるようになるはずです。そのためには、愛とわかるような伝え方、表現の仕方、見せ方があるはずです。相手が「私は愛されている。私に愛が注がれている。」と感じられるような表現をせねばなりません。自分の感覚で表現すると、勘違いされる可能性もあります。逆の立場から言えば、受ける方も「これは愛の表現なんだ。」と受け止めていくことが大事です。見せる方も、見る方も、お互いに「この人は私を愛してくれている。」「私はこの人に何とか愛を伝えたい。」と、両方の心がうまく通じ合うことが大切です。これがないと、愛を見せ合うことは成立しません。
 「見せる」とは与えることです。「得よう」として行動したら、それは相手に見抜かれてしまいます。与える愛とは利他の心が伝わる愛です。相手に利益をもたらす、そういう愛の伝え方です。私たちはすべての人が永遠のいのちに至るように、という最終ゴールを持っていますが、これを直に伝えても、うまく伝わらないことが多いものです。ですから、「その人に一番必要なものは何か」というところから、愛の犠牲を通して自分が相手を愛し、心配していることを伝え、表現します。ここから、愛の絆、つながりを結んで、最終的に「すべての人を救いたい。」という神の願いを伝える、そんな工夫も必要かもしれません。口で言うより行動で示すことによって、人が愛の反応を示すようになってほしいものです。子どもが見る親の背中は、愛を行動している背中です。
 愛は人の心を動かします。すなわち、私たちは愛を見れば愛に似る者になっていく、ということを心に留めて、また一週間試してみてください。愛を見て心を動かし、愛を見せて人々の心が動いていくことを実験してみてはいかがでしょうか?

 

 

 

 

 

 

■2011年11月6日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

  不敬虔には愛が理解できない  up 2011.11.6




私たちが神の子どもと呼ばれるために、事実、いま私たちは神の子どもです。御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。
(第1ヨハネ3:1)

 

 

 

 ヨハネはこの手紙を、未信者にではなく教会の人々に書きました。それは私たちがこの世の影響によって惑わされないためです。世の人々は神、御父を理解できません。不敬虔なために、御父の本質である「愛」がわからないからです。なぜ毎週日曜に礼拝に行くのか、仕事でお金を得るよりも教会の奉仕を選ぶのか、世の中は理解できないでしょう。しかし私たちも、クリスチャン生活を歩む上で、なぜ集会に参加したり奉仕をしたりしているのか、ふとわからなくなることがあるかもしれません。そしていつの間にか不信や疑いが出てきて、信仰生活に意欲がもてなくなり、礼拝に出ていても心がこもらなくなったり…そのような状況に陥ってしまうのはなぜでしょうか。それは知らないうちに、世の「不敬虔」の影響を受けてしまっているからです。「不敬虔」はどのようなかたちで影響を与えてくるのでしょうか。たとえば「ありのままの自分でいい」という考え方も、一見すばらしいようですが、それはあくまで今到達した時点での自分を受け入れるということであって、いつまでもこのままでいい、何の努力もしなくていいという意味ではありません。「さらに自分は進んでいこう」という決心を持ちながら、今の、まだできない部分をそのまま受け入れて、あたかも自分はできているという虚勢を張ったり反対に落ち込んだりしないで、神の前にその愛を受けながら、できるように前向きに努めていくことが含まれています。(成長していくということです。) しかし、不敬虔な考え方での「ありのままの自分でいい」は、自分中心の好き勝手な自分のままでいい、何も変える必要はない、思いのまま生きればいいという、放縦の姿勢になってしまいかねません。この言葉はカウンセリングから出てきたことばです。今の自分を愛し受け入れられないで、苦しみもがいて、そのために大きなっ葛藤が起きて身動きとれなくなってしまった人に、今の自分をそのまま認めて受け入れて、過剰なストレスから解放し、次へのステップに進むために出てきたカウンセリング用語です。
 また、不敬虔の影響を今日の食料デーにたとえて考えてみましょう。
今、世界の約10億の人々が飢えているのに、日本では、有り余った食物でぜいたくに生きています。私たちは食物を無駄に捨ててしまっていないでしょうか。冷蔵庫にたくさんの食料があって、買っていたのを忘れてしまい、古いからと捨ててしまったり…。これも不敬虔な心ではないでしょうか。何の良心のとがめもなく捨ててしまうなら不敬虔です。有り余るという環境にいつの間にか慣れてしまい、大切にすることを忘れてしまうなら、私たちは不敬虔の影響を受けていることになります。そのような不敬虔な心にならないために、私たちは御父のすばらしい愛を感じ取っておくことが大切です。

1.御父のすばらしい愛(第1ペテロ3:21)
“そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。”
 今日は御父のすばらしい愛を「バプテスマ」から気づいていただきたいと思います。バプテスマの儀式に込められた神のみこころと、それを受ける私たちの心という2つの面から考えてみましょう。
 神は私たちをご自身のかたちに造って、神の子としてくださるために、御子の十字架のあがないの救いを用意してくださいました。罪があるままでは神の子となることはできないからです。その十字架のあがないを表しているのが「洗礼(バプテスマ)」です。洗礼によって、あなたの罪が処分され神の子とされたということが、あなたの人生に証拠として残ります。これが大切です。また、ひとり子のイエス様の十字架という、そこまでして神は私たちを愛してくださっているということに感動して、これからは神の子としての人生を歩みますと決心する、私たちの側の決心の表明が洗礼でもあります。洗礼はただの儀式ではありません。洗礼は、神の子として生きるという正しい良心の誓いの証でもあります。神は洗礼を用意してくださいました。その洗礼を受けることによって、私たちはすべての罪が赦され、以降は私たちの神のみこころに沿った正しい歩みだけを、神は見てくださるのです。しかし、神の愛に動かされるというのが動機でないと、意味がありません。神様は洗礼を、私たちへの「愛のしるし」とされました。神の愛の動機によって水のバプテスマ(洗礼)は定められたのです。洗礼は、私たちに注がれた神の愛の象徴です。ですから、原則として、神の愛を受け入れるという表明をするために、洗礼を受ける必要があるのです。私たちが神の子として歩むために、御父はどんなにすばらしい愛を注いでくださっていることでしょう。以前、狼に育てられた少年が保護されたことがあります。引き取られた当初は、見た目は人でも中身はまったく人とは違っていました。しかし引き取った人々の苦労と忍耐、愛情によって変わっていくことができたそうです。私たちが神の子として成長していくために、神はどれだけ大きな愛情と忍耐を尽くしてくださっていることでしょうか。狼を人間にすることはできません。しかし少年はもともと人であったので、可能であったわけです。私たちも神のかたちに造られていたのに、罪の力によって神の子としてふさわしくない状態でした。しかし神の子としてあがなわれ、変えられていく第一歩として洗礼があります。この洗礼を受けることによって、まずは私たちは「神の子」としてスタートしました。この瞬間から、神は私たちを神の子として養い育て始めておられます。

2.なぜ御父を知らないのか(イザヤ1:2〜3)
“天よ、聞け。地も耳を傾けよ。主が語られるからだ。「子らはわたしが大きくし、育てた。しかし彼らはわたしに逆らった。牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉おけを知っている。それなのに、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない。」”
 家畜である牛やろばでさえ飼い主を知っているのに、人間だけが天地を造られた神を知りません。この鈍感な心の問題は、
A)自分本位の考え方で、自己満足や自己達成を求めています。
 自己達成を求めている人は、神を必要としないことが多いのです。自分の努力と力でなんとかなると、無意識のうちに高慢になっています。あらゆる被造物が神によって造られているのですが、彼らは自分が神の恩恵を受けているとは感じません。成功しすぎる人は、不敬虔になっていくという危険があります。
B)欲が限度を超えると不健全な貪欲となり、人の心を捕えて奴隷としてしまいますそして自制心が極端に弱くなってしまい、敬虔な心を失い、たとえば親孝行にしても、「そこまでしなくてもいいではないか…」というような思いが出てきます。願望に心が捕えられると、恩義ということもわからなくなります。
C)神の愛に興味や関心がなくなります。神の愛ではなく異性の愛、出会い系サイトなどの不道徳な愛に傾いていきます。彼らの興味は肉の情欲の方に向いていくのです。きれいな愛は純真な愛は求めず、むしろ汚してしまいます。こういうものに影響されてくると、これらのものが魂を雲や霧のように覆ってきて、神を見えなくし、感じなくさせ、神の愛に対して鈍感にさせてしまいます。気をつけないといけません。被害者意識も「自分は不幸だ」と自己中心に決めつけている、自分本位の捉え方です。私たちの幸不幸の判断基準は、「永遠のいのちに至るかどうか」です。神の愛に触れることが少なく、神のみこころに触れようとしないなら、そういう人の信仰は弱っていきます。神の愛を感じていく時に、心は動き、力を受けます。人の心は愛によって動かされるからです。

3.神の子どもとして『初志貫徹』(しょしかんてつ)する
★『初志貫徹』の意味
 思い立った時の最初の気持ちや志を、最後まで貫き通すこと。
(エペソ1:5)“神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。”
 神は私たちを神の子として、永遠の昔に心に定めて下さいました。なんとすばらしいことでしょう。あなたのどんな心配事も、神はすべてご存知です。神はあなたが愛によって歩み、愛のために生きることを願っておられます。これが人としての本分であり、正しい道です。愛をもって天命を受け、愛によって歩み、愛のために生きる志をもってしっかりと歩みましょう。このように神の愛を感じ、人生を受け入れた心をずっと持ち続ける人生こそ、『初志貫徹』の人生です。「神の子どもなのだ」と強く心に教えられるたびに、初志貫徹の思いを持つようにしましょう。洗礼を受けて何年経とうが、愛に触れるなら、愛を感じ、初志貫徹していくことができます。私たちが聖日の礼拝ごとに神の愛を感じていくなら、その一週間はすばらしい一週間となるでしょう。神の愛がすべてを乗り越え、すべての問題を解決してくれます。神の愛に励まされ、愛を感じて心を動かされましょう。初めの愛に立ち返る今日として、また新たにスタートしていきましょう。自分の心を吟味し、あらゆる不敬虔を悔い改めましょう。不敬虔は神の愛を感じさせなくします。