■2011年10月30日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

  愛は正しい方  up 2011.10.30




もしあなたがたが、神は正しい方であると知っているなら、義を行なう者がみな神から生まれたこともわかるはずです。
(第1ヨハネ2:29)

 

 

 

 このみことばは、惑わされないためにヨハネが語っていることばです。「愛」が正しい方であると知っているなら、偽物を見抜くことができるのです。
●律法の大事な働き
 さて、人が意志を働かせるには動機が必要ですが、世の人々の動機は欲望です。動物なら欲望が動機なのは当然ですが、人間は道徳的判断を欲望より優先させることができます。そして欲望を優先させれば戦争になるけれども、愛による意志決定を優先させれば最小限の争いですむのです。ですから、愛こそがすべてのものに関する意志決定の動機となるべきです。神様ご自身も愛であられ、すべての物事を愛によって対応されています。考え、決断、行動すべてが愛によってなされているのです。私たちもこれにならい、愛を動機として生きるように、と聖書は語っています。愛は間違った決断に走りません。誰も脅さず、人に罪を犯させたり、陥れたり、滅ぼしたりするようなことはありません。神の本質が愛である以上、人を罪人にするような働きは決してしないものなのです。滅びでさえ、救いを選ばない罪人たちへの愛ある裁きであり、さらに大きな罪と滅びを犯して苦しみを増やさないためのものです。どんなできごとがあったとしても、神の愛の真実は疑う余地がありません。私たちはサタンの欺きにより罪を犯したので、人間の本質である愛が不安定です。この愛の本質を安定させるために、神は律法という聖書をこの地上に残されました。神の愛を知らせ、神の愛のうちにとどまり、神のかたちである愛を本質としてあなたの内に眠っているものを引き出すために、この律法および聖書が与えられているのです。律法は人をしばるためにあるのではありません。神の愛を教え、人の本質たる愛を引き出すため、愛というあなたの本分をまっとうするためのものなのです。
 人間の本分は神のかたちを表すことにあります。すなわち、愛を見えるかたちで表すために人は造られています。愛なる神の愛を実際に行って、世界に見てもらうために私たちはいます。この「愛を表す」という枠の中にとどまり続けなければ、私たちは私たち自身でなくなってしまいます。ですから、神様はその本分を守るために聖書を与えてくださったのです。聖書はあなたを生かし、あなたらしさを引き出し、愛のかたちに生きるそのルールをしっかりと教えてくださいます。しばるどころか、本当の意味で解放するものなのです。あなたが罪という欲望に縛られ、本質である愛を現せない状態から解放されるために、聖書が与えられたのです。本当のあなたが表されるために、この神のみことばは与えられました。あなたは「愛なる神のかたち」として生きるべきなのです。それでも欲望のままに生きたいと言う人がいたなら、その人は神のかたちを否定することになり、アダムの子孫ではなくなります。そのこと自体が滅びを意味しており、自分の存在自体を否定していることになるのです。
●人間の「規矩準縄」(きくじゅんじょう)
★『規矩準縄』の意味
 物事や行為の標準・基準となるもののこと。手本、きまり。
A)(ガラテヤ5:14)
“律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。”
B)(ローマ13:10)
“愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。”
 神様が聖書を通して私たちに示しておられる最終ゴールは、「永遠のいのち」です。キリストの再臨も、天国に行くことも、「永遠のいのち」における1つのプロセスにすぎません。キリストの姿に達することが「永遠のいのち」です。そして「永遠のいのちを得る」とは、永遠のいのちそのものであられる神から出てきた私たちが、神の元に帰ることです。神より出て、成長、成熟し、完成された暁には神の元に帰って、神とひとつになるのです。それゆえに、「永遠のいのち」は“御父および御子を知ること”(ヨハネ17:3)なのです。
 「知る」とは、以前にお話しましたが、「体験すること」です。今、あなたには「永遠のいのち」がおわかりになりますか?「永遠のいのち」はあなたを造り変えます。死んでいるあなたを生き返らせます。絶望と失望の淵にあっても、「永遠のいのち」に触れれば、あなたはよみがえります。「永遠のいのち」はあなたの肉体さえいやします。「永遠のいのち」は死人さえもよみがえらせます。神に触れるとは、そういうことなのです!このいのちにあなたの霊が触れるとどうなるのでしょうか?聖霊に満たされたことのある人ならば、覚えがあるはずです。自分の意識がきちんとあるにもかかわらず、自分ではないものが自分のうちに満ちあふれて、何ともいい知れない力と喜びと平安とことばに言い尽くせないものを感じます。これを「永遠のいのちに触れる」と言います。なんとも言葉に表現しがたい状態ですが、実は皆さんがイエス様を信じる告白ができる動機は、「永遠のいのち」に触れられたからなのです。さらに「永遠のいのち」を安定して私たちの内に持つことは、「永遠のいのちを獲得する」と言います。この「獲得」して「安定的に内に持つ」ための人生が、今の私たちの人生です。このからだがある限りは、欲望にも心が動き、永遠のいのちにも心が動いて、不安定な状態が続くでしょう。しかしそれを少しずつ安定へと近づけていき、「永遠のいのち」に満たされていくことによって、私たちの人生は前進していると言えます。あなたの意志力ではセルフコントロールするには限界がありますが、「永遠のいのち」を持っている人にとっては、セルフコントロールはたやすいことです。悪習慣など簡単にやめられます。そして、私たちにとって最も悩ましい「貪欲」という心の動き、これを完全に無力なものにすることができるのは、「永遠のいのち」だけなのです。しかし、この「永遠のいのち」=御父と御子を知る、という行動に移るかどうかは、皆さん一人一人にかかっています。
 自分を愛することを、愛が「永遠のいのち」に至らせるものであるという観点から言えば、自分が「永遠のいのち」を得ることができるようにと、最大限の努力と思考を働かせるのが、自分を愛する行為であるということになります。また、「隣人を愛する」とは、「永遠のいのち」に至るようにと、思慮を尽くし、助け、施しをしていくことです。これが律法全体なのです!すべての判断は、「永遠のいのち」を得るため、を基準にします。永遠のいのちを求める方向が義であり、正義であり、正しさです。正誤は、永遠のいのちに向かっているかどうかで決めます。勝ち負けなど正誤には関係ありません。
 たとえば、「宝くじ1等の1億5千万が当たったら、全額ささげよう」と心に決めていた人が、実際に当たってみたら出し惜しみしたとします。それはこの当選金がこの人の心を誘惑して、「永遠のいのち」から遠ざけてしまったのです。こうして「永遠のいのち」を失ったら、それは大損ではありませんか?以上のように、損得も「永遠のいのち」を基準として考えます。優劣を決める時も、与えられた能力をいかに「永遠のいのち」獲得のために用いているかどうかが基準になります。人を滅びに誘い込むような能力があるのなら、神の前にその能力は「劣っている」と見なされるのです。
 この世の基準は欲望を満たすことですが、神の国の基準は「永遠のいのち」、まことの神の愛を知るか知らないか、神の愛を表しているか否かです。私たち神を愛する者の価値観、考え方はこのようであるべきです。
●私たちの規矩準縄はこうである
 イエス様は言われました。“「人はたとえ全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。」”(マタイ16:26)アラブの大富豪は、どんなにぜいたくをしても、お金が尽きることはないそうです。しかし、それをあなたが手にした時、神様を求め続けることをするかどうか考えてください。かたちだけになって、お金に頼るのではありませんか?経済社会におけるお金の力が自分を支えていると、実は思っているかもしれませんね。この世には「地獄の沙汰も金次第」という言葉がありますが、現実はそんなに甘いものではありません。自分が人と比べて不幸だとか貧乏だとか、強いとか弱いとか、それはこの世の基準にすぎません。「永遠のいのち」に至るための基準を持ち、そこから自分にも人にも接していきましょう。叱るも誉めるも「永遠のいのち」のためです。人が持つ疑問はすべて、愛によって解答され、解決されます。人は愛のために生き、愛なる神のために生き、愛によって生きる。人の目的は愛に満たされることです。愛によって考えることで、この世の矛盾のすべてが解決できます。愛なる神様がすべてをお造りになったのですから、答えは全部愛なのです。愛を知りましょう。神を愛するとは自分を愛することであり、自分を愛することは隣人を愛することえす。隣人を愛するとは義の行いを全うすることであり、義の行いを全うするのは人の本分です。人の本分とは愛することです。注意してください、決して「愛されること」の方ではありません。愛するのが、私たちの分です。
 では、私たちはどんな愛を自分の生活における規矩準縄にしているでしょうか。人によって違うことと思います。自分が基準とする愛を考えてみましょう。よりよい愛する生活のために。
●参考:あなたが思い描く愛とはどんなものかと人にきかれて、答える見本になるが、実行しなければ重みのない言葉になるみことば。
(エペソ5:2)“また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。”
 「愛のうちを歩む」とは、[誰々を愛して、誰々のために、あなた自身を神へのささげものとすること]です。これが愛のうちを歩むポイントです。誰かのために犠牲をしても、思うような応答は返ってこないかもしれません。人に期待し続けると、思うような応答を得られない時、怒りや裁く心が湧いてきます。しかし、この誰かへの愛もその犠牲も神へのささげ物であると、愛の対象を神様に置けば、人からの期待外れの応答にも耐えられる痛みになります。そして、神様のためにという力が湧き、愛をないがしろにする人にさえ、もっと愛の施しができます。たとえ相手に届かなくても、その犠牲は神の前に香ばしいささげ物として受け入れられるのです。これが愛のうちを歩む秘訣です。私たちは人を愛しますが、人を愛するという神へのささげ物という視点を持てば、もっと違う愛し方ができ、傷ついたり失望せずに愛を注いでいけます。愛する者のためにささげるすべての労苦は神への香ばしいささげ物になります。神が喜んでくださるのです。労苦のすべては祝福されます。イエス様はそのお手本になられました。ぜひとも(エペソ5:2)を含めて、神の御前に愛を目指して歩んでください。神は正しい方ですから、決して滅びには向かわされません。必ず永遠のいのちへと導いてくださいます。それが愛です。愛を大事に、愛を求めて、愛のうちに歩んでまいりましょう。

 

 

 

 

 

 

■2011年10月23日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

  恥じ入ることのない愛  up 2011.10.23




そこで、子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、キリストが現われるとき、私たちが信頼を持ち、その来臨のときに、御前で恥じ入るということのないためです。
(第1ヨハネ2:28)

 

 

 

 ここでは、イエス様が再臨される時に、イエス様の前で恥じ入ることのないために、キリストのうちにしっかりとどまっていなさい、という勧めをくださっています。この「とどまる」ということばは、24節から5、6回出てきており、ヨハネはとどまることの大切さを、聖霊に導かれて記しています。「恥の文化」と呼ばれる日本文化にとって「恥をかく」とは大きな傷であり、問題点です。アダムとエバも、罪を犯した後、自分が裸であることに気づいてその恥を隠し、神様の前から隠れたところを見ると、日本文化だけでなく、恥をかくことをあらわにしない人間の性質だと思わされます。ここで来臨(再臨)の時に「恥じ入る」とは単なる恥ではなく、「恥じ入る」と強調されるほどに後悔できない恥だということです。なぜなら再臨とは人生のゴールでもあり、最後にかく恥ほど大きな恥はないと思います。欧州でのマラソン大会で3位に入賞したランナーは、途中でバスに乗ったことが判明し、入賞を取り消されたそうです。賞賛を浴びた後にバス乗車が見つかって入賞取り消しになるとは大変恥ずかしいことですが、再臨の時に恥じ入るとはこのような状況です。「すべての人は死ぬことと、死んだ後神の前に立って裁きを受けることが定まっている」、クリスチャンも例外なく神の前に立ちます。その時にイエス様があなたを見て「あなたはどなたですか。知らないですね。」と言われるなら、どんなに人の前にキリストにとどまっているような信仰生活に見えても、実際はとどまっていなかったということです。教会に来ていることは、イエス様にとどまっている一つのしるしですが、「教会に来ているからイエス様にとどまっている」とイコール(=)ではないのです。ここまでヨハネが「とどまる」ことを強調するのは、「教会に来ている、奉仕して、何かやっている」ことが、自己満足のキリストにとどまることのしるしだと気づかないうちに惑わされて、最後のゴールの時に恥をかかないためです。最後の時に恥じ入ることのないように、愛を目指していきたいということですね。

1.『最後に得る確信』について(第1ヨハネ2:28)“みことばは前述”
 (第1ヨハネ2:28)のみことばの中の信頼ということばは、「確信」というもっと強い意味あいのものです(口語訳、新共同訳では確信ということばが使われています)。キリストが現れるときに、「イエス様が来られたー」という喜びは、最後までイエス・キリストを信じ通して、「ついに終わりのときがやってきたー」と確信に満ちる喜びです。最後までやり続け、信じ続けてきたことが大きな喜び、確信となって、神様の前に立つことができるのです。そのために普段からキリストにとどまることを心掛けることが必要です。今再臨されたら「恥じ入る」ことはないと言い切れるかどうか…。今来られても大丈夫とはなかなか言えない確信の弱さが、再臨まで続いては困ります。今日イエス様の再臨があったら困るという人は、何とかしなければいけません。
A)今まで続けて来たことが良かったと思えることを書き出す。
 書き出して、再臨までイエス・キリストを信じる励みにしていただきたいと思います。例えば楽器を習う時に、途中で嫌になる時期が来ても通り超えてやり続けた時に、やっていてよかったと思えます。やり続けてきてよかったこと、途中でやめて後悔すること等いろいろあったと思いますが、「愛を目指して歩む」ことだけは、イエス様の再臨までやり通そうという気持ちをまず持っていただきたいと思います。
ご夫婦の方で、今は言えなくても高齢になって「夫婦になってよかったー」と言える夫婦でありたいですね。イエス様の再臨のときも「愛を目指して歩むのはナンセンス」と言われるこの世の中で、私たちは愛を目指すことをあきらめずにクリスチャン生活を歩んでいるなら、再臨の時にきっと「良かった」と思うはずです。「こんな私が名前を呼んでもらえる」という喜びを味わえると思います。自分を励ましながら、今のクリスチャン生活の労苦を乗り越えて、再臨まで愛を目指して歩む人生を選び取っていこうと、互いに励まし合っていきましょう。

2.恥じ入らないために(第1テサロニケ5:16〜18)
“いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。”
(第1ヨハネ)でヨハネは、「キリストのうちにとどまっていなさい」とクリスチャン全員に指導者としての願いを証ししました。これはヨハネだけでなく、神様のお気持ちの現れでもあったのです。そして(テサロニケ5:16〜18)の「神様があなたがたに望んでおられる」ことというのと同じです。つまり、キリストにとどまることは、「いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝する」生活だということです。
A)敬虔さを保ち続けること。⇒『祈り』
★祈りと敬虔さを保つ関係?
 敬虔さを保ち続けるとは主を畏れることです。「主を畏れる」ことがどれほど重要かを思い出してください。敬うべき方を敬う心をなくさないように。神を敬う敬虔な心が一つ目のポイントです。敬う気持ちが自然に内側から湧き上がってくるような何かに触れることが必要です。すなわち祈りと敬虔さを保つ関係であり、これを対話の関係と言います。例えば警察官が急に近づいてきた時、警察の権威を畏れ「何かあったのだろうか」という思いが湧いてきます。しかし、権威を認めない人は平気でいます。祈りが大切なのは、神と出会う時だからです。神に出会っていたら、自然に敬虔さが生まれます。祈りの時に、謙虚な心が湧いてこないならば、その祈りは何の祈りなのでしょうか。神の前に出て、自分の罪深さを感じない人は、どこか違っているのではないでしょうか。イエス様は私たちを友と呼んでくださいますが、目上の方に礼儀を尽くすのは当然のことです。「イエス様、私のような者を友と呼んでくださるのはあなたにとって恥です。」と。これが敬虔さです。だから「絶えず祈りなさい。」と言われるのは、絶えず主を畏れる心が自然にわき上がってきて、敬虔さを保つことができるということです。これがキリストにとどまる一つ目の大事なポイントです。
B)神様の愛を信じ続けること。⇒『喜び』
★喜びと神の愛を信じ続ける関係?
「イエス様を信じている」という言葉ほど、具体性のない、あいまいな信仰の表現はあまりないと思われます。まず確実に理解していく一歩は、「私を愛してくださっている愛を信じている」ということです。良いことをしてくださったので信じる、というのは、とても不安定な信じ方です。しかし、愛し続けてくださっている愛が変わらないので、信じ続けることができるのです。たとえ災難にあっても、何事が起ころうとも、十字架で私の罪のためにいのちを捨ててくださった私への愛は変わらないと、その愛を信じ続けることが信頼の関係です。歴史の中で神の愛が証明された十字架がある以上、人生に何が起ころうとも、神の愛は私たちに向けられているということは間違いのない事実です。神様は私たちが愛を信じているかどうか試みられます。思いどおりにしてくれることが自分を愛してくれているしるしだと勘違いしている人はいませんか。本当の愛は、あなたのいのちが永遠のいのちに至るようにと、ある時は懲らしめ、ムチを打ち、責め、戒めます。あなたの願いを叶えることだけが愛の証しではありません。成長するほど愛を信じることを試されます。0才の子には愛を信じているかどうか試すことはされませんが、2才、3才になると、人格者として育てるため、しつけていき、信頼関係を築いていきます。神様は私たちに依存ではなく自立の愛をもって互いの信頼関係を育もうと導いておられます。どんな出来事が起ころうとも、十字架で現された神の私への愛は変わらない、と信じ続けるあなたの心を引き出したいと願っておられるのです。
C)恵みを覚え続けること。⇒『感謝』
★感謝と恵みを忘れないこととの関係?
 恵みを受けるとは恩を受けることです。お返しができないようなものを受け取ったときが恵みです。では私たちは神様からどのようなものを受け取ったのでしょうか。一番大きな恵みは罪の赦しです。それは恩返しはできません。それも自分で裁きを受けて罪が赦されるのではなく、身代わりに私の罪を負ってくださった方から赦しの恵みを受けたのですから、恩返しはできません。だから私たちのできることは、今持てるもの、与えられているもので感謝して、神様の前に歩むことではないでしょうか。恵みを施した方が一番心嬉しく感じるのは、恵みを受けた人から感謝されることです。相手からの感謝がなければ自己満足の恵みの施しになってしまいます。「恵みを施す−−−恩を感じて感謝をささげる」−−−ここにうるわしい恩義の関係ができます。「すべてのことについて感謝しなさい」とは、何にも代えがたい罪の赦しに恩を感じて感謝していくことです。罪の赦しが与えられているのに文句ばかり、愚痴ばかり言うのは、罪の赦しの大きさ、素晴らしさがわかっていないのです。
 何年か前、米国の死刑囚が買った宝くじが当たり、高額の賞金になったそうです。彼は喜んだけれども悲しみました。なぜなら罪赦されない人が宝くじを当てても喜びようがないからです。私たちは罪赦されているからこそ、今の生活の苦労も喜びも辛さも悲しみも味わえると、罪の赦しの恵みを感謝することが恩義の関係です。
 以上の三つがキリストにとどまる大事な基本的なポイントです。

3.『首尾一貫』(しゅびいっかん)の愛
★『首尾一貫』の意味
 方針や態度などが初めから終わりまで変わりなく同じであること。
 生涯のテーマとして、主の再臨まで愛を目指して走り続けます。
A)(ヘブル13:16)
“善を行うことと、持ち物を人に分けることとを怠ってはいけません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです。”
 いけにえとは神への捧げものであり、礼拝行為を表します。私たちの生活が神に喜ばれるいけにえ、すなわち善を行い施しをするという、愛を与えていく毎日になることが、愛を目指した首尾一貫の生活です。
旧約聖書にあるユダヤ教の儀式では、毎日いけにえをささげました。毎日とは生活そのものです。神に喜ばれるささげものをしていく人生は、人にも喜ばれることです。私の生活は礼拝そのものであり、日曜の礼拝だけでなく(これは一部です)礼拝が終わってからの生活が本番だと捉えてください。日曜礼拝は、本番に移るための励ましと説明会のようなもの、この礼拝が終わってから本番が始まるのです。生活そのものが、神にささげる礼拝そのものだと日頃から生活していけば、首尾一貫の生活が生まれてきます。
B)(使徒5:42)
“そして、毎日、宮や家々で教え、イエスがキリストであることを宣べ伝え続けた。”
 キリストとは油注がれた者の意、神の特別な使命のために任命したということ。神の愛を証しし、神の国に入れるようにと、創造主から救い主として任命されたのはただお一人、イエス様だけです。どの神々も出所は一緒と言う人がいますが、その神があなたを救うことのできる役割をイエスにしか与えなかったのです。罪の赦しを得させる方は、イエス様しかおられなかったのです。「イエスがキリストである」とは「イエスしか救い主としてお立てになった方はいない」ということ、「イエスがキリスト、神の愛を証したお方」だと語り続けたとは、私たちが愛のこもったことばを語り続けることであり、そこに愛を目指している者の一貫性があります。怒りっぽい、愚痴っぽい人がイエス様を信じて、愛を目指して、愛のこもった言葉を語っていこうという心を一貫して持つ時に、少しずつ愛のこもった言葉に変わっていくのです。
C)(第1コリント15:58)
“ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。”
 「いつも」ということばに一貫性があります。イエス様は救いのみわざを終えた後、クリスチャンたちを通して、神の国を広める、すなわち治める働きをしようとしておられます。それはこの世に対して平和をもたらす務めです。「主のわざに励む」とは、どんな立場であろうと、どんな仕事をしていようと、この地上の人生を、平和をつくり出し治めるということです。夫婦の間の平和〜夫は愛をもって妻を治め、妻は愛をもって夫を敬ってください。ここに愛による統治が実現します。けんかが始まったら、愛をもって治めましょう。私たちクリスチャンに与えられている務めが愛による治め方です。私たちは神の子であり、平和を作る者です。あなたに神の愛があるから、この務めを与えられました。必ず愛をもって治めることができます。神の国は愛による統治の国なので、愛を喜ばない人は長居をしないでしょう。私たちが愛を目指すとは、愛によって教会の中の平和を保つということです。それ以外に平和を保つことはできません。人生の務めは平和を作ること、そのために愛の言葉を語り、生活そのものが神への礼拝であるという気持ちで歩んでいく時、愛を目指す首尾一貫の人生がはっきり現れてきます。お互いに励まし合って進んでいきましょう。

 

 

 

 

 

 

■2011年10月16日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

  愛があなたを教える  up 2011.10.16




あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、「「その教えは真理であって偽りではありません。「「また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。
(第1ヨハネ2:27)

 

 

 

 注ぎの油が真理を導き、真理を教え、あなたがたを守る、ということになります。この油とは何なのでしょうか。

1.『油が教える』について
A)「教える』
手ほどきをする、教導する、教授する。
分かりやすく教えること。教え導くこと。専門の学術技芸を研究し教えること。
 文法的なことを言えば、この「教える」は同じレベルの存在に対して使われる言葉です。犬などには使いません。「油」を人格者として捉えているゆえの言葉ですね。
B)「油」
日常生活に欠かせないもの。
神が御自身の代理として選ばれた者に、任命のしるしとして特殊な油をの人に注ぎかけた。
注ぎの油 = 主なる神の霊、聖霊 = 神の愛
 「油」という人格が、「あなた」という人格に教えてくださるのです。それはまるで大学教授の専門講義のように深く広くしっかりとです。愛の霊でもあられるこの方から教わるのは、私たちが愛を目指すうえで絶対に必要な事柄です。これが選ばれた者のしるしであり、その教えは日常生活に深く関わって欠かせないものでもあります。これがなければ人格者として、人間として、神の子として問題が起こり、対社会的にも人間関係にも重大な支障をきたします。

2.愛の神から教えられ、学ぶ(申命記4:10)
“あなたがホレブで、あなたの神、主の前に立った日に、主は私に仰せられた。「民をわたしのもとに集めよ。わたしは彼らにわたしのことばを聞かせよう。それによって彼らが地上に生きている日の間、わたしを恐れることを学び、また彼らがその子どもたちに教えることができるように。」”
★ことばを聞かせて教える。
★ことばは『霊』である。(参考ヨハネ6:63)
★ことばを聞くことは霊に触れることを現している。
 ことばを聞くことによって、私たちはいろんな事を学んできたし、これからも学ぶでしょう。ことばを聞くことは、その相手の霊に触れることです。私たちの霊が伝えたい内容が、口から出ることばを通して相手に入っていきます。そして私たちは、知性を超えて霊で理解するところまで、学びを進めることができます。
 学生たちが学ぶ学校の教科書を見てみましょう。必要なことは全部記してあるのに、実際には教師を通して教わります。文字では伝えきれないものがあるからです。文字を生きた霊であることばとして語って、伝えていかなければならない部分があるのです。私たちはことばによって学んでいかなければならない部分があります。ことばが霊であればこそです。
【考えてみよう】
今まで、どのように教えられ学んできましたか?
その中で、身についたものは、どのように教えられてきましたか?
 自分の身についているわざや習慣はどのようにして身についたものでしょうか。体が自然に動くもの、考えが自然に浮かぶものは、説明だけでなく実践によって教えられたはずです。たとえば国語。読むだけでなく書く、書き写す、文を作ってみるなど、実際にやってみることによって能力を身につけていきますね。算数、数学なども、解き方の説明は受けますがそれで終わりではなく、問題集を通して実践していきます。社会も、資料を見るだけでなく、実際に現場に行ってどういうものなのか体験します。理科の分野も実際に実践します。たとえば生き物の構造を知るためにカエルの解剖をすることで、生き物やいのちに対するリアルな感触がもっと立体的に心の内に刻み込まれていくのです。
 学業、スポーツ、技術、しつけ、音楽、芸術など、「聞いて学ぶ」とは「聞いたことに触れていく」ということです。メッセージも聞くだけでなく触れること、聞いたことを動機とする実践と移っていくような聞き方をしてください。

3.イエス様から教えられ、学ぶ(マタイ11:29)
“「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」”
★申命記4:10と同じ意味を、イエス様は語られた。
★イエス様は、神のことばであるお方だから。
“わたしのことばを聞かせ”(申命記4:10)
 神様は見えないことばを見える形で現されました。それがイエス様です。神のことばに従うとは、イエス様に聞き従うことです。キリストに従っていけば、神のことばを学ぶことができるのです。
★言葉を聞いて学ぶことは、聞いたことをまねることである。
 私たちもイエス様のまねをして、一度やってみることです。イエス様の示された手本をわからないなりにやってみることで、新しい気付きが理解が生まれ、ちゃんと身につけることができるようになります。みことばをまねるとは行動してみることです。まずはやってみましょう。
 私(辻師)が表具師のもとに弟子入りした最初の頃、まず見てやってみることから始まりました。もちろんうまくいくはずはありません。人のやり方を見て、動きや形をまねることで、どこがいけないのか、なぜうまくいかないのかを考え始めます。
 私たちもみことばを実践したら、考え始めます。なぜうまくいかない?なぜいやされない?なぜ祝福のみがならない?と。「私の名によって祈れば何でも願いがかなう」はずなのに、かなう人かなわない人、かなう願い、かなわない願いがあるのはなぜなのでしょう。その違いを調べてまねたり、考えて実行したりしていくしかありません。すぐあきらめて放り出してしまったら、結果を出すことなどありえないのです。楽器などを説明書を読むだけでは使いこなせないように、ことばを理解するためには実行あるのみです。

4.『細心臨模』(さいしんりんも)の学び方
★『細心臨模』の意味
 細かいところまで注意を払い、手本を見てそのとおりに写すこと。
 できるだけ正確に手本を写す、まねるのです。イエス様のまねをする時、できるだけ細かい所まで注意を払ってまねていく、という学び方が大事なことです。「油」である聖霊様からどのように教えを受けるか。愛について神のことばがどう言っておられるか。それをできるだけ細かく注意深く理解し、イメージを抱いて行動し、実際の行動から学んでいくやり方なら、あなたは教えられるものがあります。「油」の教えは説明的教えではなく、体験的立体的教えですから、反対に言えば実践なくして理解はないのです。
(ヘブル5:12)
“あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。”
 今まで何年教会に来て、何回メッセージを聞きましたか?それによって何を学び、理解し、身につけてきましたか?何を教えられてきましたか?自分を省みて考えるなら、回数が少ないか、聞き方が悪いか、教え方が悪いか、など何らかの問題が発見されるはずです。この(ヘブル5:12)から私たちが反省すべきところは、私たちは聖霊様から、愛についての基本、初歩をもう一度教えていただく必要があるということです。愛の初歩とは何であるかというところから、もう一度教えていただく必要があると思います。愛である聖霊様が、クリスチャン生活を最初の部分からわかりやすく教えてくださり、導いてくださるから、もう一度初歩に帰りましょう。人間に頼ってどうだこうだと教えられるよりも、神の御霊ご自身から直接初歩の手ほどきを受けることが、私たちには必要です。夫婦愛、家族愛、また人間関係について、いろいろと私たちは学び直さなければいけないものがあるのではないでしょうか。
 ここでもう一つ考えていただきたいことがあります。学ぶにあたり、教えられるにあたって、今あなたは注ぎの油である愛から、何を学ぶことが必要ですか?何らかの課題を持たなければ、学びたいとは思いません。飢え渇きがないとは、自分にもたくさん問題はあるのに、それを乗り越えたい、解決したいという関心がない、ということなのです。
 イエス様を信じた最初は、免許取り立ての人が新車に乗ったようなものです。ガソリン補充やオイル交換、フィルターやタイヤの交換など、メンテナンスをしなければ、やがて車は故障して動けなくなります。みことばも実行して整備しなければ、信仰生活に支障をきたすことになります。車に定期点検があるように、私たちも毎回礼拝に来て点検します。メッセージを通して、自分がどこか基本メンテナンスを抜かしていないかチェックするのです。チェックをさぼって年月が経てば、事故や故障の危険性も上がっていきます。
 みなさんも初歩をもう一度やり直す心構えを持って、愛なる神様の霊から教えを学んでいくという謙虚な心で、一週間を過ごしていってください。来週もう一度来られた時に、メッセージを聞いて「ああ、聖霊様が私に語ってくださっている」という体験をしてほしいと願っています。課題を見つけ出してください。みんな問題を持っているのです。その重要性に気づいていないだけです。

 

 

 

 

 

 

■2011年10月9日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

  愛から目を離さない  up 2011.10.9




私は、あなたがたを惑わそうとする人たちについて以上のことを書いて来ました。
(第1ヨハネ2:26)

 

 

 

 辻秀彦牧師・横路伝道師・小栗伝道師メッセージより

[横路伝道師]
 怒りっぽく、「雷の子」と言われたヨハネは、イエス・キリストの愛に触れ「愛の人」と言われるほどにすっかり変えられた、12弟子のうちの最後まで生き残った偉大な使徒でした。この箇所でヨハネは、私たちを惑わす者から守ろうとして、このみことばを書いています。私たちクリスチャンが主イエス様から離れずに、実り豊かな人生を送りたいと願うときに「惑わす者」という邪魔が入ります。書かれた当時もそうですが、今ますます惑わす者が増えています。聖書のことばは今も私たちに語られている生きたことばです。

1.『惑わそうとする人たち』について(第1テモテ6:3〜5)
“違ったことを教え、私たちの主イエス・キリストの健全なことばと敬虔にかなう教えとに同意しない人がいるなら、その人は高慢になっており、何一つ悟らず、疑いをかけたり、ことばの争いをしたりする病気にかかっているのです。そこから、ねたみ、争い、そしり、悪意の疑りが生じ、また、知性が腐ってしまって真理を失った人々、すなわち敬虔を利得の手段と考えている人たちの間には、絶え間のない紛争が生じるのです。”
 惑わそうとする人たちが教会を荒らす時代が来て、滅ぼす力があるやみの力が教会にも入ってきました。
A)「惑わす』
 偽る、そそのかす、ごまかす、詐欺、誘惑、だます。
 言行不一致、神の道から他の道へとだます。
 救い主と御父を否定する。世を愛する。つまずきをもたらす。
B)惑わそうとする人たちの特徴を考え、自分自身を吟味する。
●敬虔を利得の手段とする〜
 形だけのご利益宗教。神の愛に感じて、心から神を愛して、祈ったりみことばを読んだり賛美をしたりするのではなく、これらのことをしていれば神の祝福がもらえると考えている。
●偽る〜「うそつき」〜神のためでなく人のために行っている。
 一番のうそつきはサタンです。神のことばを否定して、エバに「死なない」とうそを言い、人が実を食べた瞬間、神への反逆が成立し、人類に罪が入り、イエス・キリストの復活まで死に支配されることになってしまいました。
●「罪はない」「罪を犯していない」
 世の中には、警察に捕まるようなことはしていないから罪を犯していない、と言う人もいます。しかし天の神様は、殺人に至らなくても、相手の存在を消したいと思う、憎しみの前の段階にでも、また女性を情欲の思いで見るときに、姦淫の罪を犯していなくても、罪を犯しているのと同じだと言われます。物事をなす前の心の動機にある罪の根を罪だと言われます。それを悔い改めなければ天国に行けないと、聖書は厳しく教えています。
●言行不一致〜言うこととすることが違うこと
 信仰を持っていると言いながら、やみの中を歩んでいることはないでしょうか。神を知っていると言いつつ、自分はみことばを守っていなくても人を裁いたり、光の中にいると言いながら兄弟を憎んではいないでしょうか。その相手を避けたり遠ざけたりしているなら、やみの中の歩みが始まっていると言えます。相手が自分よりすぐれた者と認めることを、神様は勧めておられます。
●反キリスト
「サムシンググレイト」と言って、偉大なお方がおられることは多くの人が認めます。しかしイエス・キリストが神の御子だということを否定する人々は、別の教典やいろいろな人の意見を引き合いにして疑わせてきます。
●進化論〜偽りの影響から生まれ、神の存在を認めていません。
 聖書には、神が「天と地を造られた」と書かれています。神の存在なくして、地球、広大な宇宙が支配され、運行されているさま、人体のDNAの不思議さ…とても偶然にできたとは言いがたく、神様を認めざるを得ません。また、この神様が人となって地上に来られ、人の罪を赦すために十字架にかけられ、また多くの奇跡を起こされたことを信じられない人がたくさんいます。しかし聖書を読むならば、その神様はイエス様の中に愛を現され、私たちの救いのために来られたことがはっきり示されています。理解させない力、反キリストが働いていることがわかります。
●高慢
 知識が増え、ことばの争いをする病気にかかり、理屈をこねて、神がいないこと、イエスが救い主でないことを証明しようとする人も現れました。彼らはキリストの愛ほど偉大なものはなく、人々の心を動かし、十字架の救いが人々を変えることを理解できません。このような惑わそうとする人々の特徴を考え、私たち自身の中に惑わそうとする心はないか、また外界から入ってくる力にやられていないかを、目を覚まして吟味しましょう。

[小栗伝道師]
2.『以上のこと』について(第2コリント2:4)
“私は大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらに、あなたがたに手紙を書きました。それは、あなたがたを悲しませるためではなく、私があなたがたに対して抱いている、あふれるばかりの愛を知っていただきたいからでした。”
 詳訳聖書をみると『あなたがたに』この手紙を書いています。」とあります。キリストが私たち罪人のために十字架にかかってくださるという神の愛が現されているにもかかわらず、その神の愛を否定するような惑わしの流れがあるので、他でもない「あなたがたに」と強調されています。リビングバイブルにも同じように「…だまされてほしくないのです」と訳されているように、惑わされないように気をつけるように言われています。
(第2コリント2:14)は、パウロが大きな問題が起こったコリントの教会に宛てた手紙の一文です。パウロは、自分が導いてきたコリントの教会に、その問題に対する苦しみ、痛み、心の嘆きを語っており、また「それほどまでにあなたがたのことを心配し、大事に思い、愛しています。」と語っています。ヨハネも語っているように、今の終わりの時代に信仰をもっているクリスチャンでも、何となくぼーっと時を過ごしているなら、惑わす情報が来た時に足もとをすくわれかねません。
A)十二使徒ヨハネの教会への思いを考えてみましょう。
 イエス様の昇天後、聖霊に導かれ、集められた人々を育ててきた使徒ヨハネは、神と御子を否認し、神の愛を否定する教えに人々が影響されていくのを心から悲しみました。揺さぶられてほしくない、だまされてほしくない、と。危険な教えが入ってきて、いや実際に揺さぶられて、心から神様から離れてしまい、争いをしている人もいる中で、「なぜ自分の心を吟味しないのですか。」とヨハネは語っているのです。大切に思うからこそ、また危険な状況にあるからこそ、放っておくなら病が広がっていくような状況になるので、親のような心境でヨハネは「今こそあなたがたに惑わされることのないようにと注意します」と言っているのです。
B)ヨハネの思いを受け止め、今の自分に適用してください。
 「私たちはイエス・キリストを本当に信じて歩んでいるのだろうか」「形だけの信仰でじっとしたまま日々を過ごしていないだろうか」また「祈りはしても感謝の思いは薄れていないだろうか」と。と自分に当てはめて考えてみましょう。「目を覚ますように」と神様は注意されています。
<自分への適用>
●世の流行に流されて、惑わされていないだろうか。
・進化論の影響ー自然淘汰の考え方からくる、比較する考え。
 力のあることが良い、能力があることが価値があるかのような情報が流れ、クリスチャンでも、人と比べて自分を評価してしまうことがあります。神様は比較するために力の強弱を造られたのではなく、神の愛が現されるため、力のある者がない者をおおうためにそうされました。自分はよい者、能力のある者、人に認められる者になろうとする生き方を選んでいないだろうか。相手を言い負かし、自分を良い立場に置こうとして争う時、惑わしに入っています。神は今のあなたを認めてくださっています。
・目新しい文識
 知識欲にとらわれると新鮮な知識を得ようととびつき、まるで自分が偉いかのように傲慢な罪に捕われ、人をも惑わしてしまいます。自分は神様に赦された者、互いに愛し合うことを神が願っておられることを受け入れるなら安全ですが、神の愛から離れると知識欲に動かされ、高慢になり、サタンの思うつぼにはまってしまいます。
自分は今何を心に留めているかを調べましょう。人の言葉に振り回されて疑りの思いが働き、相手との良い関係が切れてしまうことのないよう、惑わす者に気をつけてまいりましょう。

[辻 秀彦牧師]
3.『堅忍質直』(けんにんしっちょく)のまなざし
★『堅忍質直』の意味
 何事にも我慢強く耐え忍び、飾り気がなくまっすぐな気性をしているさまをいう。
 よそ見をせず、我慢強く、目を奪われないように、イエス様をまっすぐに見ていくということです。
“信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。”(ヘブル12:2)
 ゴールインされた方を見続けることが、惑わされない一番大きなポイントだと言えます。
A)前に置かれた喜び
イエス様は、この喜びのゆえにゴールまで走り続けられたお方です。
●惑わしを我慢強く退け、イエス様から目を離さない。
 約束を手にする喜びは、他のものに目が向きません。約束とは前に置かれた喜びのようなもので、約束が守られる喜びは大きいものです。この喜びが小さいと、惑わされる要因になります。みなさんは心を奪われるような神様のすばらしい約束をお持ちですか。
 先々週、先週とお話ししてきました「永遠のいのち」こそ、他のものに目もくれないほどのすばらしい約束であり、究極の幸せです。今までに体験したことのない、死の力も及ばないほどのものです。何ものもこの幸せを打ち壊す力はないと言えます。これをイエス様は地上の生活で証ししてくださいました。永遠のいのちにあふれたイエス様の行かれるところには、病人はいなくなり、いやされなかった人はいませんでした。イエス様は永遠のいのち、つまり幸せにあふれておられたので、みな幸せになっていきました。長血の女もイエス様の永遠のいのちに触れ、いやされ、不幸から幸せへと変えられたのです。永遠のいのちは影響されない、いや影響を与える力強いいのちです。私たちはこれを手にするのです。あなたの口から出るうるわしいことばで、人々はいやされていくのです。互いをほめることばを語り合った時、心がほだされていくのは、永遠のいのちの一部に触れたからです。それがもっと力強く私たちの内からあふれたなら、もっと多くの人に永遠のいのちの幸せを味わっていただけるのです。そういう人生を味わいたいですね。前に置かれた喜びをしっかり見つけることです。
B)はずかしめを恐れない
 人の批判に恐れを持たない、仮にいやしめられても、その心の傷をいやす永遠のいのちを目の前において歩んでいるすばらしさに心を向けていき、神に愛されていることを恥じないということです。
アイデンティティーの確立が大切なポイントです。私たちは愛の神様のかたちに似せて造られました。愛に生きることが私のアイデンティティーだという確立がされていれば、他のものに惑わされません。惑わされても、いつも立ち返れます。逆にアイデンティティーの確信が弱いと、人の意見に振り回され、流行に流されると言えます。エバは、神のことばに対して確信がなかったので惑わされたのです。私たちも神のことばに確信を持っていないと、だまされてしまいます。
C)十字架を忍ばれた
 死の苦しみを象徴した十字架。十字架を忍ぶとは、愛のために労苦し、犠牲し続けることです。私たちを愛しておられたから、イエス様はその苦しみを耐えられたのです。愛はあらゆる労苦、犠牲を耐える力を与えます。「愛は死のように強い」とあるのは、必ずやってくる死と同様、愛は必ず力強い働きをもたらすということです。あなたは苦しみをどう忍耐されますか〜「愛されている」という愛の力は悔い改めに導き、正しい良心を生かし、人の心をよみがえらせる力を持っています。
愛から目を離さないことが、苦しみ、辛さを耐え忍ぶ大きな力です。そこに本来の自分らしさが現れてきます。私たちの愛の労苦を見て、人々からイエス・キリストを信じたいと言ってもらえたらうれしいですね。世の終わりの特徴は、惑わしの働きがあるということです。私たちが紹介できるのは、美しの門でペテロとヨハネが言ったように「私にあるもの、つまりすべてのものを生かす永遠のいのちをもたらす神の愛」です。私たちも、私たちに対する神の愛のことばを信じたらいやされ、解放されます。そういうすばらしいものを与えようとしておられる神様のお心、約束の永遠のいのちを確実に手にしていくために、「『あなたがたを惑わそうとする人たちについて以上のことを書いてきました』から、愛から目を離さないように」というヨハネの気持ちを受け止めてください。そして新しい一週間、イエス様に対する堅忍質直のまなざしをもって、心の目をイエス様に向けていきましょう。

 

 

 

 

 

 

■2011年10月2日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

  愛という永遠のいのち  up 2011.10.2




それがキリストご自身の私たちにお与えになった約束であって、永遠のいのちです。
(第1ヨハネ2:25)

 

 

 

 これはキリストが私たちに与えてくださった約束です。そして、とどまるということ自体が永遠のいのちであると、ヨハネは語っています。今日は「愛という永遠のいのち」の観点からみことばを見ていきましょう。

1.『永遠のいのち』について
A)父の命令(ヨハネ12:50)
“わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。それゆえ、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのままに話しているのです。”
イエス様のことばに反発することは、父なる神に反発することであると語られている部分です。父の命令が永遠のいのちとはどういう意味なのか、デボーションの中で学んでください。
<ヒント1>
 スポーツをする人は、勝つために努力をします。そこには監督がいて、全体を見極めながら指導します。監督の命令が勝利の鍵とも言えます。
<ヒント2>
 主権国家は必ず憲法を持っています。憲法厳守は国民に幸せをもたらします。守らない者を罰し、平和を維持するために罰則はあるのです。
 以上の2つを神の命令と併せて考えることにより、より理解を深めることができるはずです。神の命令は良いものであり、私たちを幸せにするものです。監督と選手の間に信頼関係があるように、私たちも神様に対する信頼を強めることによって、正しく効力が発揮されていきます。もし強迫的に感じるなら、神様への信頼が歪められてしまっているかもしれません。
B)御父と御子とを知ること(ヨハネ17:3)
“「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」”
 永遠なる方を知るとは、永遠を知ることでもあります。それは時間に限らず、あらゆるものに対して適用されます。それぞれが思いを巡らし、永遠について考えてみてください。さらに言えば、永遠なる方を知ることは、永遠の愛を知ることでもあります。知るとはこの場合、体験していくことを指します。お互いに関係を持ち、交わりを持ち、体験していくことです。私たちは教会内の家族ともぜひ交わりを多くして、お互いを知り合いましょう。また、聖霊様に示され、この愛のすばらしさ、価値を知るほどに人生はもっと変化していきます。

2.永遠のいのちを得るために
A)御霊のために蒔く(ガラテヤ6:8)
“自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。”
 御霊という畑に何らかの種を蒔いて、そこから永遠のいのちを刈り取る、というイメージですね。「蒔く」とは、神の愛のために労苦することです。良い畑であられる御霊に対して蒔き、愛する神様のために労苦をして、神様から永遠のいのちをいただけるのです。人間同士でも、深い信頼関係にある人に対しては惜しみなく労苦していくことができます。そして労苦は実り、お互いに幸せな心を刈り取り、喜び合えます。これは夫婦のかたちにハッキリ現されています。「蒔く」という行為には、収穫への期待が込められています。私たちは神様との信頼関係をしっかり結んで、神様に喜ばれる収穫を期待して、聖霊様に種を蒔くのです。
B)信仰の戦いを戦い抜く(第1テモテ6:12)
“信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。”
 「戦い」ということばによって、私たちが持つべき心の姿勢が示されています。先ほどの「蒔く」には労苦がつきものであり、労苦と戦いには共通点が多くあります。どちらも苦しみが伴います。どちらも結果を手に入れるまでくじけずあきらめずに続けるものです。そしてこの戦いの根本は、神の愛への信頼を保ち続けることなのです。イエス・キリストを与えてくださった神が、今も、こんな自分でも、愛し続けてくださっています。この方を信じる時、もう一度戦おうと立ち上がり、もう一度種を蒔こうと出て行くことができます。自分の肉との激しい戦いは続くとしても、ぜひ戦い抜いて勝利し、永遠のいのちを獲得していただきたいと願います。永遠のいのちは、勝利を得ることと深い関わりがあります。皆さんは、勝負して勝った時の気持ちがおわかりでしょうか。勝利は人の心を強め、明るくし、希望を持たせます。永遠のいのちにも同じ力があると言えるのではないでしょうか。この永遠のいのちが、御父と御子にとどまることにより、約束として与えられるのです。そしてその約束とは、「互いに愛し合うこと」です。

3.『成生存存』(せいせいそんそん)を心掛ける(ユダ1:21) 
“神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。”
★『成性存存』の意味
天から与えられた本性を大切に保存し、それを生かしてことを成し遂げたり、その生命を全うしたりすること。
【内容観察】
 愛である神様のかたちに造られた自分自身の本性を大切にし、愛の終着点である永遠のいのちに至るため、私たちの愛の希望となられた主イエス・キリストのあわれみにとどまり続けなさい。
 イエス様のあわれみにとどまり続けることによって、私たちは永遠のいのちに至ることができます。そのために天から与えられた本性を大切に保存し、神のかたちに造られた自分を見失わないようにしましょう。神の本性は愛であり、神に似せて造られた私たちの本性もまた愛です。しかしその本性を欲望にすり替えられ、だまされているのが今の世の人々です。アダムとエバが自分の欲望に従ってしまった結果、このような状態に陥ってしまったのです。しかし、あわれみを受けると、それを注いでくださった神様を知ることができます。十字架に現された神のあわれみについても、何年も何十年もかかって、その大きさ、広さ、高さ、深さを知っていきます。キリストを信じた時は入口に立った状態です。そこからどんどん、神様のことを知らされていくのです。どれほどのあわれみをもって赦され、生かされているのかを。あわれみということばを、否定的にとらないでください。親が子をあわれむ時、そこには大きな慈しみがあります。親は、子が常に助けを必要としている存在であることを知っているので、あわれみの心を持っているのです。それは決してみじめな状態というだけではなく、助けが必要なことを理解して受け入れている親的な心があわれみの心です。このあわれみを受けることによって、私たちもあわれみを持つ人になることができます。私たちの本性は愛だからです。神様からの愛とあわれみを受けることにより、私たちの本性が覚醒して、人々に愛とあわれみを流し出すものへと変えられます。しかも自然にそうなるのです。変わらない人は、正しく受け取ることができなかった人です。もし求めているのに得られないなら、どこかが間違っている可能性が高いので、自分自身をよく省みて吟味してください。成性存存を心掛けましょう。愛を大事にし、その愛のうちに永遠のいのちを満たせるようにと、神様は今も私たちを育ててくださっています。ですから、あわれみを感じ、あわれみにとどまり、あわれみを待ち望むなら、あわれみを施す者となって、永遠のいのちを得ることができる者へと成長していきます。下の敬聴について、皆さんも祈って、この一週間を愛という永遠のいのちのすばらしさに目覚めていただき、求めていただきたいと思います。
【敬聴】
 永遠のいのちは、愛のかたちを保つ者のうちに存在するのです。永遠のいのちに至るために、キリストのあわれみを待ち望むことを、今の生活に適用しましょう。

 

 

 

 

 

 

■2011年9月25日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

  愛にとどまる  up 2011.9.25




あなたがたは、初めから聞いたことを、自分たちのうちにとどまらせなさい。もし初めから聞いたことがとどまっているなら、あなたがたも御子および御父のうちにとどまるのです。
(第1ヨハネ2:24)

 

 

 

 「初めから聞いたこと」とは「キリストがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」という、およそ2000年前にクリスチャンたちがイエス様から教わった、ただ一つの神様からのおことばでした。このことばの中に、神様のすべての思いが込められていると言えます。そして24節の一節の中に「とどまる」ということばが3回も出てくるのは、何かを強調しているしるしです。今日は「愛にとどまる」というテーマをつけました。御父および御子は愛なる神であり、神にとどまるとは愛のうちにとどまることです。聖書では愛を、感情的なものでなく、人格を持ったものとして啓示しています。神は愛であり、愛は神です。神様は人格者であり、私たちの思いどおりになる方ではありません。私たち以上に正しく完璧な方で、ご自分の意志を持って事をなされるお方です。そのお方は、愛としてご自分の意志を行動に現されます。愛には意志があるのです。私たちが神様の愛を感じたなら、その中で神様のご意志がうかがえ、どのような思いで何をしようとしておられるのかが伝わってきます。神様の愛を感じる人は、神様のみこころも伝わってきます。人は本能的に無意識に愛を求め、愛の中にとどまることを願っています。愛を受け、愛を流し出し、愛に包まれ、愛の中にいる時、一番幸せを感じるそうです。

1.『とどまる』について
意味⇒<自動詞>
   滞在する、住み続ける(時間的には長期)
   続く、存続する(最後まで、いつまでも)
   残る、生存する(いつまでもとどまる)
 「動かそうとする働きがやってきても踏みとどまろうとする」あるいは「動かされてもまた戻る」という、強い意志が感じられる言葉です。
 <他動詞>
待ち受ける(従順)
 英語の聖書では「従順」という言葉が使われており、「わたしにとどまりなさい」とは、「わたしに従いなさい」という意味があります。「神様のみこころや命令があるまでは動きません」もしくは「神様の言われたこと以外はしません」の意味を表し、ひっぱられていくことではありません。ですから(第1ヨハネ2:24)は初めから聞いた「互いに愛し合いなさい」ということばの中に自分自身をとどまらせていくのではなく、逆にそのことばが逃げないように、見失わないように、内にとどまらせなさいということです。私たちはせっかくいただいた「互いに愛し合いなさい」という神様の命令をとどまらせていないのかもしれません。どこかにあるはず、と言っても使っていなかったら、見失っているのと同じです。ヨハネは「互いに愛し合いなさい」ということばを一度受け取った者たちに、「どこかにやっていませんか。使えるようになっていますか。」と語っています。

2.とどまることを強調されたイエス様(ヨハネ15:1〜11)
(1)わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
(4)わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
(6)だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。
(9)父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。
(11)わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。
【敬聴1】
 なぜイエス様は、ぶどうの木と枝という私たちとの関係で、こんなにもたくさん「とどまる」ということばを使われたのでしょうか(11節までに11回、4〜9節で9回)。だいたい「枝がとどまる」という表現はあまりしません。枝は、ぶどうの木から様々なものを待ち受ける(他動詞)立場です。
ポイント1「枝はぶどうの木の一部である」
 つまりイエス様が「わたしがあなたがたを選んだ」と言われたように、ぶどうの木あっての枝というのがイエス様と私たちとの関係です。おもしろいことに、ぶどうの実はぶどうの幹ではなく、枝になります。枝になるということは、神様お一人では実を結べないという条件を付けられ、枝がなければ実がならないという弱点をあえて創られました。そこに愛が生まれるためです。愛は特に弱さを持っている人に流し出す心の動きをします。私たちが神様を愛することができるように、私たち枝がいなければ実がならないように、神様はご自分の弱点を持たれたのです。私たちは自分で弱点を作るようなことはしません。しかし神様は私たちと互いに弱さを補い合い、愛を与え合う平和の状態を作るために、あえて弱さをお創りになりました。私たちは何という光栄な立場に置かれていることでしょうか。
ポイント2「刈り込みされるのは枝」
 黒い真珠と言われる三次のピオーネは、皆が驚嘆する世界一のぶどうだと私は思います。このピオーネは自然になったのではなく、長い時間をかけて、品種改良を重ねてできたものです。一房にいかに大粒で甘く、適度な酸っぱさを均一に持つはち切れそうな引き締まった実をつけさせるため、計算されたつるの剪定がされていることでしょうか。神様もあなたを、人生においていろいろな辛さ、苦しみを通して罪との関係を断ち切るために剪定されます。長い信仰生活を送る人ほど、いらないものもたくさん伸びるので、たくさん剪定されます。良い実を結ぶためにこの苦しみ、辛さがあると思えば、苦しみがいがあると思いませんか。あなたを通してピオーネの一房の実をならせたいと願って、剪定されるのです。しかもあなただけが特別なのではなく、みな同じような大きさと甘さと数の実を結ぶように、手入れをされます。あなたは私だけと思っているかもしれませんが、農夫は全体を見て、同じように良い実を結ぶように手を加えてくださいます。そのポイントは「とどまる」ということばに秘められています。
【敬聴2】(11節)
 ぶどうの木と、喜びに満たされることの関連を考える時に、参考として紹介させていただきます。私は愛の実を結ぶぶどうの木の枝です。ぶどうの木には実がならず、枝に実が付きます。なんとぶどうの実をならせる一番おいしい部分が、私たちの手にあるのです。イエス様がその実をならせても良いはずなのに、私たちの手に委ねられている、あえてその枝としてくださったところは、喜びに満ちるところです。愛しているからこそ、私が孫に自分の分をゆずるのと同様に、神様は私たちを愛しておられるから、一番おいしい部分をならせる枝としてくださったのです。こんな罪深い私たちを、愛の美しい実をならせる部分としてイエス様にくっつけてくださったとは…。すごいチャンスです。このことを感謝するあまりに喜びが心に踊ってきそうです。
 また、「私はぶどうの実をならせるぶどうの木の枝だ。」と自分のアイデンティティがはっきりわかるのです。私は、愛なる神様の木の枝となってぶどうのような愛の実をならせるために生きており、神の子として造られ、救われた、と。このようにはっきりと自分の存在を悟ることができるのも大きな喜びです。私(辻師)がもっていた「私は何者で、何のために行き、どこから来て、どこへ行くのか…」と小学校高学年からの悩みは、キリストのもとに来た時、自分が「ぶどうの木の枝」だと迷いなく心を集中して向けられる、はっきりとした答えが示されました。「ぶどうの木の枝」以外のものをいくら望んでも不可能なことだと。神は世界で驚嘆される「三次のピオーネ」という最高級のぶどうの実を実らせるために、私たちをキリストのぶどうの木の枝としてくださったのです。このぶどうの木は、私たちを通じて神がお考えくださった、全宇宙において最も美しい愛の実を結びます。神は、私たちがこの実を結べるように、霊的遺伝子を授けてくださいました。(パウロはローマ書に、野生種だった私たち異邦人を、もとあったオリーブの枝(ユダヤ人)を切り取って、キリストにつなげるという異邦人の救いと恵みの大きさを語っています。)ぜひ、ぶどうの木の枝である自分という話が、どんなに大きな喜びをもたらすかを見つけ出していただきたいと思います。

3.『昼想夜夢』(ちゅうそうやむ)(ヤコブ5:7〜8)
“こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。”
★『昼想夜夢』の意味
目が覚めている昼に思ったことを、夜に寝て夢見ること。
 私たちが昼も夜も夢に出てくるくらい、良い実を結びたいという思いを持ち続けることを印象づけたいために、この四字熟語を選びました。ヤコブは初代教会の迫害の中で、希望を見失いかけていた弱っていたクリスチャンたちに、農夫である神様さえも耐え忍んで待っておられるのだから、希望を持って収穫の時(再臨)を待ち望むように励ましています。農夫は実をならせるための忍耐を内に持っています。嵐の時には守り、虫がつかないように工夫し、忍耐強く、収穫の時まで待ち望んでいます。「ぶどうの木にとどまる」という意味は、どんなことが起こり、どんな状態になっても、絶対に離れない気持ちを持って枝としてぶどうの木につながり続けることであり、神様は第1ヨハネで語ってくださっているとつなげています。そのため、寝ても覚めても、収穫の時に輝いている神の愛の実を結びたいと願い続け、それが喜びであると心に期待を持ち続けることは、「とどまる」ことです。
【内容観察】
昼想夜夢をもって、主の約束にとどまりなさい。農夫である神様も収穫の時を忍耐をもって待っておられます。あなたがたも初めから聞いたことを自分のうちにとどまらせ、美しい実を結ぶ喜びをもって、近づいている主の再臨を待ち望みなさい。
【敬聴】
 今年もあと3ヶ月。ぶどうの木の収穫の時期が終わりに来ています。農夫たちはすでに来年に向けて、今年以上の実がなるように考え、準備しています。私たちも来年、クリスチャン生活にどんな愛の実を具体的に結ばせるのか、考える時間が必要なのです。時間を重ねていってこそ良い実がなるのです。時間をかけることに心を使ってください。何かをやり続けていく時、良い実が作られていきます。品種改良もそうです。一年に一回しかできない実験で、いくつもぶどうの木をつくり、いろいろ剪定しながら、次の年の実りを見るわけです。私たちもすぐに立派な愛の実を結ぶことは無理です。たとえば「赦す」という愛の実を結べるようになりたいという時、徹夜祈祷でできるわけではなく、真理を知り、みことばを聞き、聖霊様の取り扱いを受け、祈り、聖書を読み、メッセージを聞き…時間を積み重ねて、来年良い実を結ぶ準備ができます。この礼拝の時、みことばの学びの時は、今年よりも来年さらに美しい実を実らせたいためのものです。さらに愛の声かけの「あいさつ」など具体的愛の実をまず教会から、家庭から一般へと、一年一年年数をかけて美しい実が実っていきます。あせらないでください。ぜひ一つ、具体的な愛の実を考えて、来年チャレンジしていただきたいと思います。
『期待する  実り豊かな  ニューライフ』
 神が私たちにぶどうの木の枝として、新しいいのち、人生(ニューライフ)を与えてくださったのは、美しい実を実らせる実り豊かな人生を送るためです。自分は何者かを自覚していくためにも、「期待」は欠かせません。神様が私たちに期待しておられる…だから、私も新しいクリスチャン人生に愛のみの豊かな実りを期待していこうという気持ちを持っていただければと思います。

 

 

 

 

 

 

■2011年9月18日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

  美意延年 びいえんねん  up 2011.9.18

心を楽しませて、つまらない事にくよくよしなければ、
自ら長寿を保つ事ができる。


幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。主はわざわいの日にその人を助け出される。主は彼を見守り、彼を生きながらえさせ、地上でしあわせな者とされる。どうか彼を敵の意のままにさせないでください。
(詩篇41:1〜2)

 

 

 

 美=楽、意=心、延年=長く生きる
 長生きの秘訣は、いかに楽しく人生を過ごすかによるとも言えます。しかし単に時間的に長生きするだけではなく、長寿という意味には「神に祝福されている」という意味が含まれています。つまり、人生を神の愛と恵みによって祝福されて歩んでいる人は長寿なのです。たとえそれが20年、30年であっても、神に祝福されて歩むなら、「美意延年」と言えるのです。
 そして(詩篇41:1〜2)にあるように、神が祝福される人とは、「弱っている者に心を配る人」です。隣人愛を持ち、人に親切であるなら、その人の人生は幸いです。しかし、「私が弱っているのに、他の人に心を配れるわけがない」と、かたくなに自己中心を通す人にとっては、「老い」は苦しくなってきます。老いの苦しみを楽しみに変える秘訣は、「自分も弱っているが、それでも弱っている人を助けたい」という親切な心を実行していくことです。自分が弱くなってきて、自分の足下しか見えなくなると、いろいろなことにくよくよして、よけいに苦痛を増幅することになります。
 昨日、ニュースで見ましたが、77歳の人がヨットで世界一周を成し遂げられました。ヨットは一人ではなかなか操作しにくいものです。その方が「77歳であっても、やろうと思えばできる。東日本の被災者の方々にもぜひ頑張ってほしい」と言っておられました。弱っている人々に励ましや助けを与えるなら、あなたは人生を楽しく生きることができます。心を強く持ちましょう。それでは、本当に楽しめる人生について見ていきましょう。

1.伝道者の書2:25
“実に、神から離れて、だれが食べ、だれが楽しむことができようか。”
 「神から離れて」は、神を無視した不敬虔な生活を送っているということです。そういう人は、食べても、本当に楽しめる人生を送っていません。神を畏れる人は、自己中心ではなく、皆と平和に過ごそうという協調心を持っています。人を思いやる心は、敬虔な心から出てくるものです。神から離れて飲み食いを楽しんでいる人は、自分のことだけを考えて、利害関係の中で生きていると言えるでしょう。そういう人は、本当の意味で人生の楽しみを味わえません。神を畏れる敬虔な心は、皆と協力し合うという心を生み出します。

2.イザヤ25:9
“その日、人は言う。「見よ。この方こそ、私たちが救いを待ち望んだ私たちの神。この方こそ、私たちが待ち望んだ主。その御救いを楽しみ喜ぼう。」”
 私たちはどのような神を期待しているでしょう。多くの人々は、自分の願いをかなえてくれる神、ご利益宗教の神を求めます。しかし、私たちを中心に神が動かれるのではなく、神が中心にすべての人を動かされるというのが、平和の大事な原則です。各々の人々の自己中心によって神が動くとしたら、争いが絶えることはありません。キリスト教でも戦争をしている人々がいますが、そういう人々は本当にはイエス・キリストを敬ってはおらず、御利益的な信じ方しかしていません。そして、そういう人々は、祝福してくれないと信じないという考え方しか持っていないのです。
 私(辻師)がイエス・キリストに出会った時、神がいかに弱い立場の人々に耳を傾けてくださるかに心を動かされました。こんな私のために、神ご自身がイエス・キリストとなって自ら罪の身代わりになってくださった…こんな神は他にはいない。この方こそ私が待ち望んでいる救いの神だ!と確信しました。こういう神が世界を治めてくださったら、どんなにすばらしい世界になることでしょう。
私たちは夫婦、家族、地域の中で、弱い人々を助けていく心で、平和を共に作り上げていきましょう。「平和をつくり出す人々」を、神は「神の子」と呼んでくださっています。

3.イザヤ61:10
“わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。”
 ナイチンゲールは敵も味方も関係なく、神が与えてくださった大切な命として、すべての負傷者の看護をしました。そこから赤十字の働きが始まりました。彼女は裕福な家庭で心一杯の愛情を受けて育ちました。心に愛情が満ちている人は、弱い人々に対して関心を持つようになります。心豊かな人は、その豊かさを人に分けることができます。神は私たちが人生を楽しめるように、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿の栄冠を授け、花嫁の宝玉で飾ってくださいました。人生を楽しむための愛を私たちに与えてくださっています。楽しむ心を持つことが大切です。
 長距離走の人々は、いくら苦しくても、走るのが大好きです。楽しむことを知っている人は、たとえ辛く苦しくても、その中に楽しみを見いだすことができるのです。人生を楽しめない人は「楽しもう!」という気持ちがなく、「楽しめるもの」を探しているのではないでしょうか。そして楽しめるものには、自分の思いどおりになるという隠れた条件があるのではないでしょうか。
 8月のキャンプに、名古屋の児童福祉施設の子どもたちが参加してくれて、昨日感謝の手紙が来ました。その中のひとりが「特に『大富豪』というトランプをみんなでやって楽しかった」と書いていました。その子は勝ち続けたから楽しかったというわけではありません。勝つか負けるかではなく、初対面ではあっても、みんなで一緒にトランプゲームをできたことが楽しかった、と言っているのです。負けても楽しかったのです。人生を楽しむというのも、そういうことと通じるものがあるようです。自分の主観や条件で、人生が楽しいかどうかを決めないでください。みんなが一緒にいることが楽しいのではないでしょうか。心に愛が一杯あると、本当に人生を楽しめます。

A)救いの衣を着る
 あなたらしくない人生から、あなたらしい人生に救われました。
「救い」という衣を着ると、神に似せて創られた本来の自分らしさが見えてきて、自分の良さが引き出されるのです。

B)正義の外套をまとう
 自分の身を守るために与えられます。正義とは、「悪に染まらず、悪をはねつける」ものです。正義と賛美は関係があります。神を賛美し、心から感謝をささげることは、あなたにとって外套となります。賛美の外套とは、「自分らしい人生、神の子としてのきよい良心をもって歩むその人生すべてを楽しめる心を持って歩むため、その心を守る外套」として神が与えてくださるのです。
 今日、気持ちがふさいでいる人、意欲が低下している方は「イエス・キリストはあなたが人生を楽しめるように、愛を与えてくださっている」ということを信じて、ひとつひとつ、感謝を見つけていってください。不幸なことの中にも、後で感謝することが見えるようになってきます。感謝に心を向けていくと、あなたの魂は前向きに変わっていきます。まるで外套を着たかのように、罪の雨風から神の子として楽しむ心が守られます。

C)花婿の栄冠を受ける
 結婚式の祝宴では、花婿はみんなから誉める言葉をたくさん受けます。栄冠とは栄誉を受ける証であり、ほめ言葉のことです。特別な男性であり、世界で一番幸せだとほめられます。神はあなたを花婿のように特別な存在だと見てくださいます。それは大きな自信となり、安心となります。それゆえどんな苦難もいやされ、乗り越えていけるのです。

D)花嫁の宝玉で飾る
 花嫁も特別な存在ですが、その特徴は「最も美しい」ということです。飾りは、その人の美しさを引き立てるものです。いくらきれいなネックレスでも、その人の美しさを引き立てるもの、似合うものでないと、意味がありません。神は私たちの良さを最も引き立ててくれる人生を歩ませてくださいます。いろいろな出来事すべてが、人生の装飾品であり、美しさを引き立てるものです。(神は私たちのことを、私たち以上に知っておられます)
 私たちは、この神が与えてくださった人生を「楽しもう」とする心で歩めばいいのです。「私には何の楽しみもない」と言う人は、神から離れています。神があなたに与えてくださっているもの、救いを楽しもうではありませんか。

 〜まとめ〜
 救い主によってもたらされたこのいのちを、神とともに人生を楽 しむことが、祝福に満ちたまことの喜びである。

 

 

 

 

 

 

■2011年9月11日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

  愛を持っている  up 2011.9.11




だれでも御子を否認する者は、御父を持たず、御子を告白する者は、御父をも持っているのです。
(第1ヨハネ2:23)

 

 

 

1.『持つ』とは?
A)ギリシャ語より
 ⇒保存する、所有する、保つ、身につけている、抱く、帯びる。
 いつでも使えるように、対象をきちんと保存していることが注目点です。
B)「保存する」
 ⇒いつでも使えるように生かし保っておくこと。
★知恵を用いて保存食を作る。
★冷蔵庫に食品を保存しておく。
★コンピューターにデーターを保存しておく。
★電気エネルギーを充電池に保存しておく。
★見聞きしたり、学び教えられたことを記憶しておく。
 人は昔から、必要なものを最適な時、最高の状態で使うために工夫と努力を重ねてきました。保ち続けるためには、その対象に変化が生じないことが必要です。そのためには手入れ、メンテナンスが欠かせません。ギリシャ語の「保つ」には、手に入れた対象をいつでも最高の状態で使えるように手入れをして保持する、という意味があるのです。
 神様を信じ、愛を受け入れたときのその愛を、神様への良い思いを、いつも変わらず劣化させずに、いつでも良い思いを思い出して、心に神様の愛が満ちるようにしておいた持ち方が、「保つ」です。人が誰かを愛してもその愛が冷えていく理由は、「手入れが足りない」からです。持っていたはずの愛がいつの間にか見えなくなっている理由は、「気にしていなかった」からです。大事なものはいつも側において気にかけ、手入れをします。昔、武士たちは腰の刀をとても大切にし、手入れを欠かしませんでした。それは身を守り、敵を倒すための大事なものだったからです。私たちも御父に対してそういう持ち方をし、心の中に迎え入れることが大切です。

2.『御父を持っている』とは?(第1ヨハネ2:23)
“みことばは前述”
【内容観察】
 だれでも御子を正当または真実と認めない不信仰な者は、御父を受け入れておらず、御子を現した生活をする者は、御父を抱き、御父とともに生きているのです。イエス・キリストをみことばのまま丸ごと受け入れることをせずに、自分の考えなどで少しでも違った情報を保存したら、神様を持っていないことになります。すると、恵みや祝福を受けられません。最初は完全な情報であっても、劣化していくほどに、救われたという実感も薄れ、さらに恵みも遠ざかっていきます。あなたの信じ方は、いつでも新鮮に神様を思い描ける信じ方でしょうか?
さて、御子を否認するの逆は承認するであり、認めることは告白することですが、それを想起させるみことばがあります。
【敬聴】(ローマ10:10)
“人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。”
 信じるとは承認することです。キリストの復活を承認することは救われることであり、神を持つことです。
「復活を信じると義と認められる=イエスを承認すると御父を持つ」
 このつながりについて気づくことは何ですか?
 義とされることは、御父が打ちに存在してくださることとイコールです。
「口で告白すると救われる=イエスを表現すると御父を持つ」
 このつながりについて気づくことは何ですか?
 告白は行動のための第一歩です。今からしようと思うことが、口からぽろりと出てくるのは、誰しも経験があるはずです。最近話題の女子サッカーチーム「なでしこジャパン」も、試合前には円陣を組んでハッパをかけます。心を引き締め、行動に移すための告白です。告白してから行動すれば、何をすべきか、どうするべきかの舵取りが容易になります。さらに、行動を表現し続けるために、告白も続きます。そして告白を基として人は動くのです。
 イエス様を告白するとは、自分もイエス様のようになりたいと思う心を表現しているのであって、そこからみことばを実行することにつながります。この承認と告白は、保存されたものを引き出すキーポイントです。私たちが承認と告白をできる理由は、私たちが神を持ち、愛を持っているから、救われているからです。では愛を持ったのはいつからでしょう。神様に愛を注がれた時、天地の始まる前からあなたを選び、あなたにご計画を持たれた時からです。
 この世のすべての人々は、神の愛をすでに受けているにもかかわらず、この世の悪いものの影響を受けて、保存がうまくできていない状態にあります。しかし、皆さんは正しい保存の仕方を知りました。イエスを承認し、告白すること。神が遣わされた救い主なるひとり子イエスと、あなたのためになされた犠牲としての死と、神の御力による復活とを真実であると信じると、正しい保存ができます。そして、イエスは主であり、天地の造り主であり、すべてのものの主人、支配者、治める者であると告白します。あなたのいのちもイエス様が造られ、人生もイエス様によって導かれ、治められる、あなたの主人であることを認める告白をし、畏れ敬いましょう。以上のことができた人は救いが正しく保存され、その実が生活の中に現されていきます。
このみことばから『御父を持っている』ことについて、どのようなことが教えられますか?
御父を持っているとはすなわち、神の愛の臨在を私たちにもたらすことです。

3.『危言危行』(きげんきこう)を心掛ける(ヘブル13:15)
“ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。”
よみがえりのイエス・キリストが私たちの人生のすばらしい導き手であり、私たちの霊・魂を生かす生きたみことばであられるのですが、それを更によく保存するための手入れ、いつでも効果的にいただくための効果的な保存の仕方、用い方を紹介します。
★『危言危行』の意味
言語や行いを厳しくすること、また、言行を清く正しく守ること。
「危言」⇒言動を厳しくして、俗に従わない。厳正にする意。
「危行」⇒高くする。正しく気高くする意。
 私たちは軽はずみな発言をよくしますね。それは度々、事を荒立てる原因になります。ですから、良い言葉を厳密に選んでいこう、というのが「危言」の意味です。では実際にどうすれば良いのかの見本として、上に挙げたみことばがあります。賛美中心の言動が「危言危行」になるのです。たとえばクリスチャン同士が会った時のあいさつ、「感謝します」は、「あなたに会えたことを神様に感謝します。」という意味です。「すべてのことを感謝しなさい。」というみことばがありますが、それは「いつでも神様を賛美しなさい」という意味でもあります。感謝は、「すべてのできごとを愛なる神が愛をもってなされている」と信じる前向きな姿勢から出てくる心です。今は良くない出来事としてしか捉えられなくても、後になって振り返れば、失ったものよりも得たものの方がはるかに大きかったことに気づくという経験はよくあります。この神の愛の導きを先取りして、「自分の未来には良いことがある。災いを通してすばらしいものを用意してくださっている」と信じて、「感謝します。」と告白するのです。これが神をほめたたえる姿勢です。自分に都合の良いあれやこれやの言葉を並べ立てるのではなく、まず感謝から賛美は始まります。感謝の心が既に神をほめたたえる心になっているのです。
 「くちびるの果実」とは、行動に移すための告白です。2のポイントにもありましたが、「私たちは神の愛に溢れた人生を歩んでいきます」とまず告白することが賛美です。賛美はみことばを表現する行動なのです。赦せない時、腹立たしい時、まず「この問題には神が必ず良い結末を用意してくださっている。だから感謝しよう。」と感謝します。そしてイエス様に、「あなたが良いことを用意してくださっていることを信じます。」と賛美をしていきます。すると私たちの心は変えられて、また新しい気持ちで前に進んでいけます。
 この一週間がんばってきたのに報われなかった人もがんばれなかった人も、教会に来て礼拝の中で力を受けることができます。でもやる気になったとたん、出ばなをくじくようなことが起きるかもしれません。しかし、困難がなければ、神様を信じる力を鍛えることはできません。ちなみに失敗をするのは自分が原因であり、神様にはまったく責任はありません。注意していれば防げたものを、自己中心から正しい道をそれたり横着したりして、失敗するのです。人生に一瞬たりとも全く同じ状態は起こりませんから、その都度注意して歩むのです。神様が教えてくださるすべてのことを見逃さないように「心がけて」いけば、救いをさびつかせることはないはずです。どんな小さいことでも感謝することを「心がけて」ください。油断すると、必要な時には愚痴不平でボロボロになっているかもしれません。
 以上の心がけを忘れなければ、どんなに時が経とうとも古びることのない新鮮な関係を、神様との間に持つことができます。賛美をしていくことは、正しく保存し、正しく勝つようできるためのきっかけです。これらのことを私たちに理解させるために、ヨハネは「御父をも持っている」ということばの使い方をしたのではないでしょうか。新鮮さを保つために、ぜひ感謝を捧げてください。元の愛の新鮮さを保つために、すべてのことに感謝をしましょう。そうすればすべてが変わっていきます。これがみことばの原則です。

 

 

 

 

 

 

■2011年9月4日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

  愛を否定する  up 2011.9.4




偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否認する者、それが反キリストです。
(第1ヨハネ2:22)

 

 

 

 反キリストとは、映画などで描かれているおどろおどろしいものではなく、もっとリアルな存在です。それは愛を否定する者です。

1.『反キリスト』について(ピリピ3:18)
“というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。”
 ノンクリスチャンは表面的には神を意識していないことが多いものです。しかし、彼らの中にも善悪の心がいつも戦いを繰り広げています。神を畏れるところからくる、社会的秩序を重んじる心を道徳心といいますが、これを無視し続け、欲望を優先させるなら、「認めない」状態と言えます。これが十字架を敵とした歩み方です。
★(第1ヨハネ2:22)⇒御父と御子を認めない。愛の神を認めない。
            私たちに愛を注いで下さっている神を認めない。
 御父も御子も愛の神です。神を認めないのは神の愛を認めないのと同じ意味です。
★十字架の敵として歩む
 欲望を神としている。地上のことだけにその思いがある。
 私たちは神の愛に守られ、愛に支えられ、愛によって生きています。十字架は、肉の人でも気づくことのできる、神の愛の明らかな証明です。はっきりとした敵対心がなくても、それに背を向けて認めないなら、同じことです。私たちはいつの間にか背を向けていないか、自分を顧みる必要があります。反発しているか、共に歩んでいるかの確認を常にしていきましょう。
【内容観察】
 多くの人々が、神が人間を限りない愛をもって愛していることを示されたひとり子イエス様の贖いの御業である『愛』に対して、受け入れず反発し、背を向けて生きている。
 反キリストの立場に立っている人たちが、しっかりと自分の意志で反発しているとは限りません。よく意味もわからず、結果も考えずであっても、すでに明らかにされている神の愛に背を向けている心自体が、反キリストです。これらのことは自分ではことさらに意識してはいないことが多いのですが、みことばに対しての苦手意識やちょっとした反感などが、いつの間にか大きく軌道をそらすことになるので、注意してください。

2.世の終わりの愛(マタイ24:12)
“不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。”
★不法⇒規則に従わない。無秩序。放縦。貪欲に従う。自己中心。
★はびこる⇒一般化している。常識化している。
★愛は冷たくなる⇒個人主義の社会。
 たとえば、東北大震災において、被災者を助けるための様々な措置を、被災してない人がうまく利用して自分の金儲けに使うという事件がありました。自分が得するためなら何でもする、あるいは自分の得にならないことはしない、こんな考え方が浸透すれば、愛は冷えます。この考え方がもし教会にはびこるなら、教会は立ち行きません。教会は愛によって成り立つものですから。私たちは愛をもって不法を治めなくてはなりません。愛が冷えないためには、赦すことのみが力を持ちます。不法をなす人に対しても善を行い、愛を注ぎ続けるためには、赦しが絶対に欠かせません。世の中はますます人を赦さなくなっていきますが、教会はそのようなやみを退け、人を赦し受け入れていく存在であり続けることが、イエス様の願いです。

3.『安宅正路』(あんたくせいろ)(テトス3:3〜6)
“私たちも以前は、愚かな者であり、不従順で、迷った者であり、いろいろな欲情と快楽の奴隷になり、悪意とねたみの中に生活し、憎まれ者であり、互いに憎み合う者でした。しかし、私たちの救い主なる神のいつくしみと人への愛とが現れたとき、神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。”
★『安宅正路』の意味
慈しみの徳の「仁」と、信頼の徳の「義」のたとえ。
「安宅」⇒住み心地の良い家。仁を安らかな身の置き所にたとえる。
「正路」⇒人の踏み行うべき道という意から、義のたとえ。
『仁は人の安宅なり、義は人の正路なり。』
【内容観察】
 以前は、私たちも反キリストの仲間でした。しかし、十字架に現された神の愛によって新生と更新の洗いを受け、今は安宅正路の人生を歩んでいるのです。その聖霊は、今もイエス様によって豊かに注がれています。
 もしあなたが、神様の愛よりもお金を選ぶとします。食べたいものを食べ、欲しい物は何でも買い、行きたい所に自由に行ける、アラブの王子のようなぜいたくな暮らしです。しかしこれが人にとって最高の生き方かどうかを考えてみてください。天国での暮らしが同じような状態で、しかもそれが永遠に続くとしたら、あなたはどう思われますか?人は、何もかも許される環境に置かれると、次第にやる気を失ってしまいます。そして「自分の役目」「やりがいのある仕事」を欲するようになるそうです。私たちは意義や価値のある仕事をしたい、という良い心をもともと持っているのです。そして天国には、私たちの存在意義を十分に活用できるすばらしい仕事が待ち構えています。食事も睡眠も忘れるほど(それらはもはや必要ないのですが)熱中できる仕事とは何か、今から胸がおどるようですね。
「仁」は聖書で言う愛です。「義」は信頼を受けるための大事な徳です。この二つを備えるのが人の本分であり、生き甲斐であり、価値です。私たちは以前は正反対の方向を向いていたのですが、今は神様のあわれみによって、キリストを信じる信仰のみによって新生と更新の洗いをもって救われています。愛は、私たちを生まれ変わらせ、更に新しくし続ける力があります。東北大震災以来、人々の心が親切に向かおうとする雰囲気が感じられます。私(辻師)は、最近2度、落とし物を拾ってもらうという親切を受けたのですが、その親切により、愛は気持ちを良い方向へ変え、更新し、洗うことができる、と感じました。聖霊の新生と更新は神の愛によるものです。兄弟姉妹との間の愛が冷めてきたと感じるなら、親切を施し合うことが減っているのかもしれません。世の中と同調しないよう、私たちは兄弟姉妹に親切を流し出していこうではありませんか。
 私たちは聖霊によって「安宅正路」という徳をもたらされています。この「仁」と「義」はすでに与えられており、あなたにも実行できます。決して反キリストに引き込まれて愛が冷えることのないよう、愛を流し合い、赦し合っていこうではありませんか。