■2011年8月28日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
愛という真理 up 2011.8.28
このように書いて来たのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、真理を知っているからであり、また、偽りはすべて真理から出てはいないからです。
(第1ヨハネ2:21)
1.『真理』について
第1ヨハネの手紙は、クリスチャンに向けて書かれたもので、それは「真理を知っている」者に対して書いたものであると、ヨハネは言っています。今日は、この「真理」について学んでいきます。
(1)一般的な辞書からの意味
本当のこと。また本当であること。ありのまま誤りなく認識されたことのあり方。あらわさ、明らかさ、隠されなさ。
「ありのまま」とは本質であり、例えれば、化粧のない「素顔」のことです。すべての付属のものは取り去られて、何一つ隠されず明らかにされたものです。
(2)宗教、芸術、道徳においての意味
信念や感動の原因や対象と言う意味。例えば「神は真理である」という意味は、「神が信じられている」ということだけでなく、「神が実在する」という意味も含む。また、人間に自由をもたらすという意味もある。
(3)聖書からの意味
A)(詩篇86:11)⇒「神の御教え」が真理
“主よ。あなたの道を私に教えてください。私はあなたの真理のうちを歩みます。私の心を一つにしてください。”
B)(詩篇119:43)⇒「主なる神のことば」が真理
“私の口から、真理のみことばを取り去ってしまわないでください。私は、あなたのさばきを待ち望んでいますから。”
C)(ヨハネ14:6)⇒「イエス」
“イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」”
D)(ヨハネ14:17)⇒「神の御霊」が真理
“「その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」”
E)(ヨハネ17:17)⇒「父なる神のことば」が真理
“「真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。」”
B)とは表現が違い、イエス様はいつも神のことを「父」と呼んでおられました。「父」とはすべてのものの根源であり、造り主であることを意味しています。
この5つのみことばから、真理についてまとめてみます。
<真理について>
◎本当のことである…「創造主である神がおられる」ということに気づくことです。
私(辻師)が若い頃、人生の挫折の中で、「本当に神がおられるなら、示してほしい」と心の中から叫んで祈りました。まさにその時、ひとりのクリスチャンが、アパートの私の部屋をノックして、神について語りに来られたのです。彼は「この部屋をノックしなさい」という、神の語りかけを聞いたと証しされました。
◎ありのまま誤りない…父と御子と御霊なる神です。三人格というのは、神の愛の表れです。
◎明らかにされたこと…神の本質は愛です。すべてのものは愛によって造られました。これが真理です。何の意味もなく偶然進化してきたわけではありません。
このように、クリスチャンとして、真理とは「創造主なる神がおられ、その方は目的をもってすべてを造られた。その神の本質は愛であり、すべての創造物は神の本質である愛を表している。その方は父、御子、御霊なる神である」というように、周りの方々に説明できたらいいですね。
2.『真理を知っている』とは?
★真理であられる父・御子・御霊の神の存在を認めて人生を歩んでいるという意味。そして、そのお方は『愛』である。真理と神の愛とは、深いつながりを持っている。
私たちは知識的に神を知っているというわけではなく、神がおられるということを前提にして、神を畏れ尊んで生活しています。常に神を意識して歩んでいます。それは「真理を知っている」という証明です。難しく考える必要はありません。そして私たちが知っている神は「愛」です。それゆえ愛が真理であり、すべてのものの根本、本質であり、素顔です。
(第1ペテロ1:3)“私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。”
【内容観察】
堕落した人間を深いあわれみをもって永遠のいのちに至る救いを完成してくださった方を私たちが知ったことによって、神であられる主イエスの御力は、まことのいのちとまことの信心に関するすべてのものである真理を与えてくださっています。
【敬聴】
★愛と真理の結びつきについてどのようなことが教えられますか?
神を知っているとは、創造主なる神、三位一体の神を知っていることで、また、愛の神を知っていることであり、それは新しく生まれ変わるという変化が表れてくることです。この変化をもたらすのは「愛」です。その変化は堕落する方向、悪い方向へは決して向きません。神の愛によって心が満たされる時、物欲に動かされることなく、ただ「愛に応えていきたい」という心に変わっていきます。これが「新生体験」です。この根本的な内側の変化を体験されていますか?まだ体験されていないという方は、この神の愛をまだ十分に知っていないからです。聖書をいくら知っていても、知識だけであるなら、その人は本当には変わっていません。愛による変化でなければ、受ける愛はわかっても、流し出す、与える愛はわかりません。自己中心の愛は「愛されるために愛する」愛であり、愛されなくなった時には冷えていきます。しかし、神の愛は、愛されなくても愛し続け、愛が伝わるようにあらゆる努力を惜しみません。そして、全能なる神様が、すべての手を尽くして人類に愛を伝え尽くした時に、終わりがやってきます。愛は赦し続けますが。悪を裁くために終わりがあります。しかし、正しく終わりをもたらすことのできる方は唯一神だけであり、私たちは自分で終わりを決めるのではなく、赦し続けることが必要です。神が「初めであり終わりである」方です。愛によって心が変わると、生きがいが生まれてきます。生きる望みを持つようになります。キリストを信じた人々はみんな、生きる喜びを感じ、未来が喜びに変わります。これは永遠に向かう愛がもたらす予感です。その喜びを見失っていませんか?真理を意識しなくなると、欲望が入り込んできます。クリスチャンが惑わされるのは、いつの間にか真理を軽んじ、周りの世の中の人々に影響されて、欲望に意識が向かってしまう時です。そしてこの世の人々は、クリスチャンより面白おかしく生きていてうらやましい…という風に、気持ちが惑わされてしまいます。
あなたはクリスチャン生活を楽しんでおられますか?真理に対してもっと意識しましょう。私たちは健全な欲求を満たすことに満足しますが、世の中の(不健全な)貪欲は満足することができません。
3.『生知安行』(せいちあんこう)(第1ペテロ1:22)
“あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。”
★『生知安行』の意味
生まれながらにして人の踏み行うべき道をよく知り、考えることなく心のままにそれを行うこと。(聖人の境地)
【内容観察】
神の愛という真理を、主イエスと御霊によって知らされたあなたがたは、その真理の愛に従うことによって、良心が清められ、偽りのない神の家族として信頼し合うようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。
「心から熱く湧き上がってくる愛」は、自分で意識して持つことはできません。きっかけとなるものが必要です。ボランティアに行きたいと思っても、行動に移すにはきっかけが必要であり、熱い思いが湧いてきてこそ、実行に移せます。私たちも「兄弟姉妹を愛する」といっても、この熱い思いが湧いてこそ、日常生活に行いとなって愛を現すことができます。情熱がなければなかなか行動に移すことはできないものです。例えば送迎にしても、自分がしようと行動に移すには、この情熱が必要です。そうでないと、単に「それはいいことだ」という認識で終わってしまいます。
「熱い思いで互いに愛し合いましょう」そのきっかけが「真理に従うことによって良心を清め」です。神の愛に動かされて従うのです。愛に動かされ従うことによって良心が清められ、互いに信頼し合えるようになります。「きよい良心から湧き上がってくる熱い思い」が聖人の境地です。クリスチャンは清い人です。聖人とは神の愛によって心清められた人です。私たちは聖人として、清められた良心に従って歩んでいきましょう。愛は創造的であり、決してあきらめず、さらに良いものを造り出していきます。欲望に欺かれないよう、しっかりと真理(愛)なる神に従っていきましょう。
〜まとめ〜
愛という真理を知ることによって、私たちは神によって新しく生まれます。それは良心が清められることであり、良心が清められるとおのずと道義をわきまえるようになります。そしてその心で自由に生きることができるようになります。
注)心に制限を感じてしまう人は、自分の欲望を満たしたいという動機でみことばを読んでいないか、点検してみましょう。
■2011年8月21日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
愛という注ぎの油 up 2011.8.21
あなたがたには聖なる方からの注ぎの油があるので、だれでも知識を持っています。
(第1ヨハネ2:20)
注ぎの油がなぜ私たちに知識をもたらすのか、今日は考えてみましょう。そして、私たちは皆、この注ぎの油のゆえに正しい知識を持っているのだということに気づいて、それを日々の生活に活かしていきたいと思います。
1.『注ぎの油』と『知識』について(第1ヨハネ2:20)
“みことばは上記参照”
【内容観察】
あなたがたには愛なる神様からの聖い愛を受けて証人と任命されているので、みな真理の知識が与えられています。
上の文にまとめることができる理由を下の【敬聴】で解説します。
【敬聴】
(1)『聖なる方』⇒愛なる神様
ヨハネはこの手紙において、神はまず「聖なる方」と記しています。それはまた、愛が聖なるものであることを示しています、この世界では具体的な聖い愛を示すことは難しいのですが、唯一、神様の愛は聖い愛であるということはできます。十字架について深く思いを凝らす時、神の聖い愛が見えてきます。
(2)『注ぎの油』⇒神の代理人、証人として任命されること。その人には主の霊が下るようになる。(第1サムエル16:12〜13)
“エッサイは人をやって、彼を連れて来させた。その子は血色の良い顔で、目が美しく、姿もりっぱだった。主は仰せられた。「さあ、この者に油を注げ。この者がそれだ。」サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真中で彼に油を注いだ。主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。サムエルは立ち上がってラマへ帰った。”
堕落してしまった初代王サウルに替わる新しい王を任命するために、神の命令によってサムエルが遣わされ、エッサイの末の子であるダビデが選ばれました。神が生きておられて、このことをなされようとしていることの証人として特別に選ばれたことの証が、この注ぎの油です。
(3)『〜があるので』⇒神に代わってことを行う為に選ばれるほど、神から愛を受けているという意味。
神の愛に応答できる人である、という意味も含んでいます。
(4)『知識』⇒神の愛からもたらされる真理の知識。(ヨハネ14:26)
“「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」”
「油を注ぐ」を現代的に言い換えれば、聖霊に満たされるということになります。聖霊が私たちにすべての良い知識を教えてくださるのです。また、聖書のことばを読むことによって、聖霊様が働いて、必要なみことばを与えてくださいます。神のことばなるイエス様は、今は聖書のことばに姿を変えて、私たちのところに来てくださっています。ですから、最低一度は旧約の初めから新約の最後まで読み通していただきたいのです。せっかくのイエス様のみことばを、一言一句聞き逃さないように。そうして初めて、聖霊が必要なアドバイスを、みことばを通して与えてくださり、自分の判断や行動の指針がわかってくるのです。聖霊様は、必要な時に必要なみことばを、的確に私たちの記憶から引き出してくださいます。どんなに記憶力に自信がなくても、聖書のことばに一度目を通してさえいれば、必ず聖霊様は用いてくださいます。
(5)『油』⇒聖霊(第2コリント1:21)
“私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油を注がれた方は神です。”
油を注がれたとは、聖霊様が注がれたという意味とイコールです。
(6)神の愛も注がれている(ローマ5:5)
“この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。”
聖霊が注がれると同時に、この聖霊によって、神の愛も私たちの内に注がれています。
★これらのことから「愛と注ぎの油と知識」との関連を考えてみましょう。
主の霊がその人にくだることが注ぎの油であり、同時に神の愛も下ります。神の愛と聖霊とは切っても切れない間柄です。聖霊はすべてのことを教えます。それは、愛が知識をもたらすからと考えられます。神の愛に心が動かされたなら、今のままじっとしてはいられず、その愛に対して応答したくなり、何らかの行動をとりたくなります。愛が働くところには知恵が生まれ、知識が与えられ、さらにそこから学習して、さらに効果的な方法へと、行動や考えが進んでいきます。真の知識は発展し続けます。さらに良いものへと新しく生み出し続けるのが真の知識なのです。そして愛は本当に良い方向へと考えを導いていくものです。この神の愛に動かされることが、聖霊に導かれることです。聖霊様は私たちに、神を愛する心の動機をもたらされます。(ヘブル9:14)では、血潮のきよめを受けた良心と記されています。血潮は、神が私たちを愛してくださったことの証です。そしてこの良心を基として日々生活していくなら、神の前に喜ばれる生活が生まれます。ちなみにこの反対は欲望に振り回される貪欲の生活です。神は良心をきよめることによって、愛の動機を私たちに与えてくださったのですね。
真の知識(箴言1:7)については、主を尊敬し、大事に尊んでいる愛のことを畏れ敬うと言います。あがめるとは愛していることです。偶像礼拝は神ならぬものを愛することであり、欲望を神として敬いあがめることと同じです。これは人格を失わせ、欲望に振り回される惨めな人生をもたらします。人が人格者であるためには、良心が不可欠です。良心は神を畏れ、善悪を判断する裁判所のような部分です。良心がきよめられるとは、主を畏れることであり、主を畏れるとは主を愛することであり、それは敬虔という態度を私たちに生まれさせます。敬虔さは神への愛の証です。
以上、愛の動機が真の知識につながるということの意味を説明してみました。愛があれば、その愛を表現するための知識や工夫が次々生まれ、それはやがて真の知識に至ります。愛する方のためにという心を持つ人は、誰でも知識を持っているとも言えます。能力の有無でなく、実践と経験を重ねて、限りなく相手の喜ぶ結果へと近づいていくものなのです。
2.『愛月撤灯』(あいげつてっとう)(ガラテヤ6:14)
“しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。”
★『愛月撤灯』の意味
物や人を偏愛または愛玩することの程度がはなはだしいこと。
「月を愛して灯を撤す」と訓読みする。中国の故事より、中国唐の時代、蘇が詩文を作り酒を飲む席で、月の光があまりにも清らかな為、灯燭を撤去させたという故事。
【内容観察】
この蘇という詩人が、月明かりの完璧さに魅せられ、人の明かりなど邪魔だと明かりを取り除いたように、私たちも神の愛に魅了されたいものですね。世の中すべてが邪魔にしか見えないほど、神の愛の完璧さに魅了され、引き込まれたのが、私たちクリスチャンなのです。それなのに、私たちは神の愛への関心がうす過ぎはしませんか?ぜひ、自然現象などを通して現されている、神の愛に魅了されることのすばらしさを味わってください。神の愛以外に誇りとするものが決してあってはならない、と言いたくなる気落ちがきっとわかるはずです。パウロは、「あなたたちもこんなにすばらしい神の愛という油注ぎを受けて、真の知識を持っているんだから、神様の完璧な愛を誇りとする以外の選択なんてあるわけないですよね?そうでしょ?」と言いたかったのだと思うのです。
月の光に気づくかどうかは私たち次第です。ですから、あえて神様の光に目を凝らして、集中して見ていく必要があると思います。人にはそれぞれ心に引かれるものを感じ取る良い力がありますが、欲に引かれてそれを見失わないように気をつけてください。「あなたは主の愛に対して熱心ですね。そんなあなたが私は好きです。」このように、お互いに言い合おうではありませんか。主のために熱心な人々は、神を愛する人々の前に、とても美しいのです。欲に引かれるとそれが見えないので、気づかない人もいますが、私たちは神様の光を熱心に輝かせてまいりましょう。
■2011年8月14日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
愛による歩み up 2011.8.14
私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
(ガラテヤ5:16)
今回は、学生と青年のためのスプリングキャンプの最終日のメッセージとなります。キャンプのタイトルは『若枝、リジョイス(脱古狸
だつふるだぬき)』です。なぜ古狸かというと、私たちはせっかく神様に愛されて心の目が開かれても、クリスチャン生活を長く続けると、だんだんと喜びが消えてしまう体験をします。その原因が、古狸に象徴しているものであり、それを脱ぎ捨てるという意味を持っています。
(ガラテヤ5:16)で、肉の欲望に多くのクリスチャンが引き込まれていることを、パウロは忠告しています。私たちはいつの間にか、肉の欲望を満たすクリスチャン生活に流されていっているのではないでしょうか。
1.肉の欲望を満足させる歩み
A)「自分の欲」から始まる(ヤコブ1:14〜16)
“人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。”
肉の欲望を満足させる歩みは、どこかで何かにだまされているということです。欺かれ、偽物をつかまされているという状態だといえます。その欺きを見抜くことができれば元に戻れます。だまされていることに気づくことが大切です。
(1)「自分の欲」⇒神が備えてくださっている自然の欲。罪ではない。
クリスチャンは欲は罪だと思いがちですが、罪には至っていない健全な欲があります。
(2)「引かれ、おびき寄せられ、誘惑される」⇒サタンが貪欲に引き入れる働き。罪の領域の欲へ導く=古狸化への道
健全な欲から、罪の欲へと、サタンが誘惑してくるのです。貪欲が罪の欲です。貪欲とは、自制すべき健全な欲の量を超えることです。この不健全な欲のことを、古狸化と表現しています。昔から日本では狸は田畑を荒らす動物でした。
(3)「欲がはらむ」⇒自然の欲から罪の欲、貪欲に変わる=古狸と言う。
古いとは、役立たずということを表します。
(4)「罪を生む」⇒古狸がもう一人のあなたの心に化ける。
クリスチャンは肉の心と正しい良心があり、二重人格ではないかと思えます。
(5)「罪が熟する」⇒貪欲という古狸が化けた心があなたと一体化へ。
増幅された欲望の力は大きく存在感があるので、「これが私の本心だ、本心を偽ることはできない」と、正しい良心を捨ててしまうことさえ起こりうるのです。偽物の心とあなたの人格が一体化していくことが、罪が熟するということです。
(6)「死を生む」⇒人格のない欲に振り回される。無人格化=死の状態。欲望があなたを動かして、人格的判断、考え方、行動ができなくさせます。この無人格化が死の状態です。欲望を制することが難しく、ストレスがたまるので、「それでいいじゃないか、自分の感じるまま、欲するままに満たしていく人生が私の選んだ道だ。」と考える人々も多くなっているのではないでしょうか。「なぜきよく正しく真面目に生きる必要があるのか」という考え方が、無人格化なのです。
(7)「だまされるな」⇒古狸の欺きを見破る=心を見張る
“力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。”(箴言4:23)
B)古狸を「自分の神」とする(ピリピ3:19)
“彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。”
「彼ら」とは、キリストの十字架に敵する生き方をする人です。キリストの十字架とは神様の愛です。それは、神の子として造られたのだから、欲を自制心をもって管理するようにと、欲を制限する生き方なので、欲を制限することを嫌がる人は敵対してしまうのです。肉の欲を満足させる人は、欲望を神としているのです。
(1)「神」⇒支配するもの。尊ぶべきもの。
キリストに敵して歩む人々は、欲に支配されることを喜び、欲を尊ぶ生き方をしています。もっと欲を満たして楽しもうという考え方を持っています。
(2)「恥を栄光とする」⇒道徳や道義から外れることを誇りとする。
間違ったことを恥と思わず、誇りとしてしまいます。
(3)「思いは地上のこと」⇒死後を信じない。欲の社会構造に心を合わす。
死後があったら困るので、死後を考えないようにし、欲を中心とした価値観を受け入れていく生き方です。
★古狸の退治は、真の姿を教えているみことばに従うこと。
古狸はあなたの心ではなく、単なる欲望の感覚です。偽られているので、真実を教えているものに目を向ければ、消えていくものなのです。しかし、欲望という感覚は存在しているように感じるので大変なのです。
2.御霊によって歩む
A)神の愛に動かされる(ローマ5:5)
“この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。”
★失望に終わらないのは、神の愛がその人の心を動かしているから。
神の愛に触れられると、心が動かされます。私は神に愛されていると感じると、失望が希望に変わります。愛を感じている人は絶望しません。愛の励ましは希望を与えます。愛は、人の心を良い方向に動かしますが、欲望は人を悪い方向に堕落させます。欲望が土台となった愛は、その欲望を満たすために何でもするという考え方ですが、本当の愛は悪いことをしてまでもそれを満たそうとはしません。
【敬聴】このみことばから、御霊によって歩むなら、どうして肉の欲望を満たすことがないのかを啓示していただきましょう。
B)誘惑されない欲に心を向ける
サタンは、自然の欲に対して堕落させようとしてきます。しかし、私たちが神の愛を求めるようにとは誘惑してきません。
(1)(マタイ6:33)
“だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。”
神の国とその義をまず第一に、貪欲なほどに追求していけば、自分の健全な欲は与えられる、という意味です。神が与えてくださるもので、私たちは満足すべきなのです。しかしそれで満足しないから、そこにサタンは誘惑をもってくるのです。
(2)(ホセア6:3)
“私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現れ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。”
主を知ることを切に求めるとは、他のものに目を向けないことです。この主を知ることへの欲求に対しては、サタンは誘惑しようがないのです。私たちが何を求めるかによって、心が健全に満たされるのです。あなたは何が一番欲しいですか。何を手に入れて満足したいのですか。サタンは健全な欲を大きくして、誘惑をしてきます。しかし神様は違います。あなたの本当の霊、魂の喜びは、すべての人が心を一つにして幸せになるという、神の国とその義です。何がそれを邪魔しているのでしょうか。それは古狸です。すべての人が求めるべきもの、それは神の愛だと思います。この一週間、いろいろと黙想しながら、聖書から教えていただきましょう。
■2011年8月7日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
愛による仲間 up 2011.8.7
彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。もし私たちの仲間であったのなら、私たちといっしょにとどまっていたことでしょう。しかし、そうなったのは、彼らがみな私たちの仲間でなかったことが明らかにされるためなのです。
(第1ヨハネ2:19)
今日は、「私たちは『仲間』として残っている者たちである」ということに焦点を当てて、語りたいと思います。神の愛に属する仲間として、最後まで互いの関係を大切にして、地上の歩みを全うしていくために、励ましとなるメッセージとして受け止めてください。
1.『仲間』について
「仲間」とは、「属する」という意味からきているギリシャ語です。今日は神の家族として、私たちがひとつのチームであり、ひとつのグループであるということを中心に見ていきたいと思います。
“バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。”(ガラテヤ3:27)
「キリストをその身に着る」とはどういうことでしょう。チームでは、所属しているしるしとしてユニフォームを身に着けますが、ユニフォームにはどういう役割があるでしょうか。まず相手側と自分たちとの区別がはっきりつき、所属があきらかになります。そして所属しているチームをしっかりと自覚することができます。広島では、広島カープのユニフォームを自らも着て、熱狂的に応援する人がいますが、そのようにユニフォームは心をひとつにする働きもあります。また、チームの目的、働きが明らかになります。
クリスチャンは、キリストのユニフォームを着て、使命達成の歩みをしているのです。私たちはキリストのユニフォームを着て、人々の心を惑わし、やみに引き込もうとしている悪霊、サタンとの戦いをしています。この戦いを共にする仲間として、私たちはチームとして召されています。また、仲間は必ずつながりの共通点を持っています。教会はどのような絆によって、各自が結ばれているのでしょうか?
2.何によってつながっているのか?(コロサイ3:14)
“そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。”
私たちはなぜ、キリストにつながっているのでしょうか?困難の時助けてもらったから?いやしてもらったから?でしょうか。確かにイエス様を信じ、教会に来るようになったきっかけはそうであったかもしれませんが、いつまでも「何かをしていただいているからつながっている」というのでは、限界があります。人は時間と共に、受けた親切や恩を忘れやすいものです。現代はむしろ、そういった恩義に縛られるのを嫌がる風潮さえあります。「イエス・キリストはあなたの罪を赦すために、身代わりとなってくださり、十字架につけられました。」ということも、いつの間にか無感動になり、信仰をもってどれだけ神様が自分の益となることをしてくださるのかとか、教会に来ていて何の得があるのか、という思いが心を占めてしまうかもしれません。常に自分中心に、私に何をしてくださるのか、何が得られるのかを基準に信仰生活を送っていると、祈りが応えられなかったり、自分の期待どおりにいかなくなると、心が神様から離れていくようになります。これは世の中ではよくあることです。例えば「親は自分にいったい何をしてくれたのか」という考えで、親子関係を考えてしまったり…。そういう考え方で生きていたら、互いの関係はどんどん冷たくなっていくでしょう。夫婦でも互いに「相手が自分に何をしてくれたのか」に集中し始めると、関係はこわれ始めます。私たちは「主なる神は結びの帯として完全なものです。」と学んできました。それでは、あなたはキリストに属する者ですか?この世に属する者ですか?どちらですか?三つの理由と共に答えてみてください。皆さんには、「キリストに属する者」といて三つの理由を考えていただきたいと思いますが、今は「この世に属し、キリストに属さない」という理由を考えてみます。ひとつは、キリストだけが救いではない、という考えです。それに、日本の宗教ではない。また、教えに束縛されたくないという3つの理由が考えられます。「キリストに属する」者として、あなたはこれに対し、どういう理由を挙げられるでしょうか?自覚するためにも、ぜひゆっくりと考えてみてください。
3.『棣鄂之情』(ていがくのじょう)による仲間
★『棣鄂之情』の意味
兄弟のうるわしい愛情。兄弟が寄り添い、仲良くするたとえ。兄弟が仲良くするのを、庭梅の、花のガクが集まって美しく咲くことにたとえたもの。
梅の花は、ガクが非常に目立ち、花びらのまん中にガクが寄り添って仲良く咲いているように見えます。私たちはこのように仲良く、外から見てもうらやましいなあと思われるような関係を築きたいものです。
(箴言17:17)“友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。”
【内容観察】友は客観視できるので好意的に受けとめることが出来る。
その関係がさらに深まると、苦しみを分け合う兄弟のようになる。
たとえば、借金で困っている友を、客観的に大変だなあと見るだけの友から、客観視せず、自分の体の一部のように受け止める関係になったら、それは兄弟になります。友の苦しみを自分の身のように感じるなら、もうその関係は友ではなく、兄弟の領域に入ります。
単に励ましを与えるだけでなく、苦しみを分かち合い、ともに受ける兄弟の関係に、私たちもなりたいものです。利己的でなく、利他的な動機でなければ、この関係は築けません。回りの幸せが自分の幸せにつながっていくという考え方です。「神の愛に心が動かされる」ことによって、私たちにその関係が実現してきます。
仲間とは、神の愛に心が動かされた人々の集まりなのです。まず私たちは個人的に神の愛に心動かされ、神を信じ、クリスチャンとなります。そして互いに愛し合う関係が築かれていきます。それは自然になっていくもので、強制ではありません。私たちが神の愛に目覚め、互いの関係にその愛が実現していく時、神を知らない世の中の人々がそれに魅かれて、神の愛の交わりに入ってくるようになるのです。ですから、最も大切なのは、私たち自身が「神の愛に心動かされる」ようになることです。それがなくなってくると、教会に来ることや、聖書を読むことが空しくなってしまいます。そして不平不満がたまり、互いの関係もぎくしゃくしてきます。
「神の愛に心動かされる」一週間を送りましょう。
■2011年7月31日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
愛ゆえの終わり up 2011.7.31
小さい者たちよ。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現われています。それによって、今が終わりの時であることがわかります。
(第1ヨハネ2:18)
ヨハネ第1の手紙は、「神は愛です」ということから導かれています。今日は特に(第1ヨハネ2:18)の節で印象づけられている、「今は終わりの時」についても、神の愛を理解しながら考えてまいりたいと思います。
1.『終わり』について
意味⇒ 果たす、成し遂げる、最後を全うする、おしまい
終わりがある事によって、次の始まりがあることを知る。
「終わりの時」とは、神が語られたこと(預言)が成し遂げられるときという、一つの時代の区切りに入ってきていると言えます。
神様が終わりにされるという時、今までのルールではこれ以上改善が望めない状況になったので、一区切りつけて終わらせ、新しい始まりを起こそうとされたのではないでしょうか。
○神は「愛です」ということから、最後の審判はどのように受け止めたらよいのでしょうか。〜愛である神様がどうして裁きをもたらされるのでしょうか。
(創世記6:5)は、ノアの時代の大洪水になる前の記事が載せられています。神様は「人の心がいつも悪いことだけに傾くのをご覧になって」、地上の肉なる者を、神の愛ゆえに大洪水によって滅ぼそうと決心されたのです。もし大洪水がないまま現代まで延ばされていたら、この世はどうなると思いますか。結果的に「人の心が悪い方へ傾く」とは、行き詰まって手だてがなくなった状態を表し、神様がいくら人の心に、良い方に向かうよう働きかけても、また悪い方へ帰っていく〜「豚は身を洗って、また泥の中にころがる」ということばのようです。人の心が悪を好むようになってしまっている…神様はノアの時代の人々に、罪から離れるように働きかけておられたことでしょう。しかしノアだけが神様の心に応える聖い良心、すなわち神を畏れる心を持っており、悔い改めを受け入れるただ一人の人だったので、救いに導かれたのです。
「悪い方へ傾く」とは、罪を重ねていき、悪い方向へ物事を考えていくことですから、当然、改善の余地がないと神が判断されたのです。神の判断はまちがいありません。人は時間をかければ良くなっていくと期待しますが、「悪い方に傾く」とは、堕落、破壊、腐っていくことであり、何年待っても変わりません。神様はここで進化論が成り立たないことを表しておられます。これ以上罪を重ねて、さらに厳しい裁きが人々に下ることのないようにと限界を決められたのは、神様のあわれみです。少しでも苦しい厳しい裁きを下したくないと思っておられるのです。裁くこと つまり行き詰まりの中で終わりを決めることは、それ以上の罪を重ねさせないという、神様のお気持ちが表れています。改善の余地がないものをいつまでも生かしておくことは、愛の道から外れるといえるかもしれません。だから大洪水は、愛ゆえの処置であったと受け止められます。人の心を測ることができるのは神様だけです。神様にとって人の心がいつも悪いことに心が傾くのをご覧になることは、衝撃的な心の痛みです。「そこまで悪を愛する」心に変えてしまった人々の姿に大きな悲しみを持たれたに違いありません。誰でも自分に関係のある人が悪くなっていくのを見るのは心が痛むものです。
2.愛ゆえの終わり(マタイ18:23〜27)
“「このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします。』と言った。しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。」”
『あわれみ深い王』という視点から、次の質問に答える。
A)王はどうして清算をしたいと思ったのか?
王様には、しもべがもっと借金を増やしていきそうに見え、早く清算した方が良いと感じられたのでしょう。ここで何とかしなければ、しもべはダメになってしまう…という、王のしもべを思う愛から出たお考えです。神様も私たちの罪を清算しなければならないと強く感じられて来られた時に、終わりを決められるのではないでしょうか。
B)王はどうして厳しく追及したのか?
どれだけ大きな借金をしているかという、罪の大きさを知るためです。それを知れば知るほど、赦していただくことがどんなに大きなあわれみであり、恵みかを知ることができます。一万タラントの借金とは、「自分自身と妻子と持ち物全部を売ってても返さなければならないほどの大きいものであり、一生借金のための人生になってしまう。思いどおりの人生を歩むことはできず、最後まで支払うまで、責任を負わなければならない。」と言っているのです。同じように、私たちが犯した罪(神を認めず、愛さない、不敬虔な心)という借金は、永遠に罪の借金を返さなければならないほどの大きなものです。厳しく責められる時は、どんな大きな失敗をしているかを素直に受け止める必要があるのではないでしょうか。神様はいろいろな問題、苦しみを通して、罪の大きさに対する悟りを持つように勧めておられるのではないでしょうか。
C)かわいそうに思って、赦し、借金免除をした王の思惑は?
この時点では、かわいそうに思うほどしもべはひれ伏して、猶予を求めるほど深く反省し、心を砕いた様子が書かれています。王には、返すあてのないほどの借金であるにもかかわらず、何とか返済しようとする彼の姿はあまりにもあわれに見え、かわいそうに思われ、「愛はすべてを信じる」とあるように、しもべの姿を王は信じたわけです。一生かけて借金を返済しようと努力する気持ちがあるのなら、二度と借金しない人生を送るよう努力するようにと考え、借金を赦されたのではないでしょうか。その思惑、恵みを心に感じて、赦されたことが無駄にならないように努力しますというのが、正しい良心の応答だと思います。
なぜ私たちは罪を赦されたのでしょう。それは二度と罪を犯さない努力をするようにと、神がチャンスを与えてくださったということですね。神様があわれみをもって私たちを赦してくださった思惑は、私たちが今与えられている人生、時間、いのちを大事にしていく心がけに気づくことにあるのではないでしょうか。
3.『大処着墨』(たいしょちゃくぼく)を心がける
★『大処着墨』の意味
大事なところから墨を着ける意から、最も大切なポイントを押さえて物事を行うことのたとえ。
何が大事で、絶対に外してはならないことか、何をいつも心がけておくことなのか、私たちはそれをわかって生活しているでしょうか。私たちが愛を目指す上でぜひ心がけたい大事なこととして、(第1コリント8:1)“次に、偶像にささげた肉についてですが、私たちはみな知識を持っているということなら、わかっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。”
「愛は人の徳を建てる」ことを忘れないでいたいと思います。
【内容観察】
(第1コリント1:8)は、「律法を正しく行うことの知識を多く持っていても、その知識が他の人の建徳に至らなければ高ぶるだけです。その知識を愛によって働かせるなら、人の徳を建てることになります。」と言い換えることができます。このみことばからは、「知識は人を高ぶらせ…傲慢にさせる」と、愛と対立するようにとれますが、決してそうではありません。(第2ペテロ1:5〜7)から、信仰には徳を加え、徳を高めるには知識を加え、その知識には自制を加え、さらに敬虔さという、神を畏れる心をもって自制し、その敬虔には失敗してもあきらめずに正しいものを選び続ける忍耐が必要であり、忍耐には兄弟愛が必要であり、兄弟愛に愛を加えるように書かれています。最終的に知識は愛という動機が働いてこそ、生かされるということです。その知識は人を建て上げるためのものです。
クリスチャンは、聖書的知識と、神に出会うという人格的に神を知る知識と、今まで生きてきた体験から得た知識を持っています。これらの知識を自分のためでなく、まわりの人の徳が高められるために用いること、そのために愛という動機が必要だということです。
<建徳のため、愛によって用いるために必要なこと>
(1)創造主を敬う心ー創造主の存在を心に覚えながら、相手の心境を理解し、平安をもたらすために必要。
(2)聖められた良心ー(ヘブル9:14)の神の愛の犠牲の表れであるイエス様の血潮に心を動かされた良心。決して神様の愛を裏切ることがないように、自分の言いたいことを正しく伝えられるよう、言い方を考える。塩で味つけられた言葉が出てきやすい。
(3)神の愛に感動して心動かされていることを思い出しながら、謙虚な心を保ちながら、知識を用いていく。
たとえば、私たちの関係を集約する「互いに愛し合う」交わりは、建徳の交わりです。イエス様は私たちの徳を高めるために罪を処分してくださいました。腐っている部分を取り去って、健全な状態へと戻してくださいました。腐っている部分を置きっ放しにして、いくら良いものを与えても、腐っているものに影響されてしまいます。ノアの時代の人々は、腐れの根本が取り除かれていなかったので、罪という力に対抗できなかったのです。しかし私たちはキリスト・イエスの十字架によって罪の力に対抗できる救いを与えられており、私たちの交わりは建徳の交わりであることを心に留めておきたいですね。
また建徳とは、聖書的にはキリストの姿に近づいていくことです。キリストの姿という象徴的なことばを通して、自分の徳がどのように高められ、人の徳が高められるのをどのように助けていくかを、聖書からイメージし、聖霊様の啓示によって教えられます。そのためにどのように知識を用いていくかが大切です。この建徳が「大処着墨」として、今の私たちに示しておられるのではないでしょうか。
○注意点(第1コリント13:4〜7)より
(誤解のないように)
裁きがあるのは、このみことばに当てはまらないように受け止めやすいのですが、愛ゆえの終わりがあることをわきまえてください。すなわち、今までの状況では行き詰まって、あらゆる手だてを駆使しても手だてがないところまで、愛は忍耐し、がまんし、信じ、期待し続けます。簡単に終わりをもたらすことはなさいません。これ以上手だてがない、一度終わりにして新しい出発が必要という状況に愛を流し出しての「愛ゆえの終わり」です。この理解を忘れないでください。神様の愛ゆえの終わりとは、全能の神様ですら手だてをすべて尽くした、ということです。ヨハネは「今は終わりの時」と言っています。神を畏れない者にとっては大変な状況ですが、イエス様によって心変えられた愛を信じる者にとっては「やっとその時が来た。」という望みと安心が与えられる時なのです。
■2011年7月24日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
みこころを行なう愛 up 2011.7.24
世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。
(第1ヨハネ2:17)
私たちの人生、クリスチャンとしてではなくて、神に似せて造られた人としての人生はどこに向かっているのでしょうか。その正道を見失わないように、それないように、みこころを行う愛をもう一度確認してまいりましょう。
1.世と世の欲とは滅びさる
この世は滅びる、と聞くと、特にノンクリスチャンの人は、自分を否定されたような気持ちになり、反感を持ちやすくなります。ですから、客観的に考えてみましょう。最終的に裁かれるのは神様ですが、それまでに自滅の方向に向かっているという事実を。神様からご覧になると、暗やみの世界であるこの世は欲望を神とする世界です。
「人格のない欲に従っているこの世の人々。人格のないものに、人格者である人間が従っていることは、的外れである。」
どんなにすぐれたプログラムでも、コンピュータに支配された人生で幸せになるなんてあり得ない、と、皆さんも普通にそう思われるはずです。欲もコンピュータと同じで、人格を持ちません。自制せず、善悪の判断もしません。今の世界は欲が人生の土台です。しかし、私たちはそれに対して間違っているとハッキリ自分の態度を示すことが重要です。
【敬聴】(ピリピ3:18〜19)
“というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。”
神様はすべての罪を処分して、全く新しい世界を創られると、黙示録では語られています。しかし、新生したはずの私たちは、以前の記憶も持ち続けており、体自体も以前のものと変わりありません。黙示録で描かれている完全なる再創造を、神様は私たちにはされていません。これはなぜでしょう。
世界は人格を持ちませんが、人はそれぞれ個性、人格を持っています。神様にとって大切な子どもたちだからこそ、安易に滅ぼしたりはせず、救いの道を用意して、回復の手段をくださっています。ですから、パウロのことばは、神様のお気持ちそのものです。欲が神となった人々は、まことの神の愛を「敵だ」とみなし、何度救いに入れられても必ず枠の外へ出てしまい、滅びを選ぶのです。
<ノアの箱船の時代に大洪水が起こったわけ>(創世記6:11)
“地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。”
ノアとその家族以外はみな、神の愛を敵として歩んでいた、と言えます。堕落とは、健全な状態から不健全な状態になっていくことです。人はもともとは良いものであったのに、何らかの理由で健全さを失ってしまったことがわかります。心が堕落すると、暴虐という結果を生み出します。心も行動も全部、神を敵視する状態になってしまうのです。この状態を生み出した根本は欲です。ヤコブ書にも書いてありますが、欲がふくらむと自制心の力を超え、制御が効かなくなります。すると堕落します。堕落した結果、罪を犯します。人を殺す事さえあります。暴虐とは滅びでもあり、腐りきった状態のことです。地獄とは、腐ったゴミを処分するところであり、腐った状態にあることが、実は一番の問題なのです。神様はこれらのことを通して欲に支配されていることの恐ろしさを教え、警戒を勧めておられます。
2.みこころを行う者
神を愛する心からわき上がった使命感を持つ者です。愛がわき上がると、その愛するものに対して何か良いことをしてあげたいという気持ちが起こります。これが大きくなると、使命感に変わります。「いつまでもながらえる」とは、永遠に神様とともにいることです。
「神の愛に触れられ、神を愛する心の現れの一つとして使命感がわき起こる。神様のために何かをさせていただきたいという気持ち。」
イエス様のために何かしたいという気持ちは、欲から出たものではありません。何の見返りも要求しないのが、愛を土台としている証拠です。何かを代償に求めるなら、最後は神を敵とする欲が土台だとわかります。欲に支配された愛と、愛に支配された欲との違いを熟考しましょう。
【敬聴】(ガラテヤ5:6)
“キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。”
欲によって働く信仰はご利益宗教的ですね。常に自分中心です。愛によって働く信仰は、愛してくださった方が中心です。神様の愛に心を動かされた、私たちの信仰であるべきです。最初は自分の欲から教会に来ていたとしても、教えを学ぶうちに「そうじゃない。欲ではなく愛に動かされてこそ、自分の人生は価値があるんだ。」
と気づいていくことが大事です。
ノアの箱船の時、どうしてノアたちだけが救われたのかをみてみましょう。
“ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。”(創世記6:9)
(1)正しい人
ノアも、酒に酔って裸で寝たりするような失敗はありました。決
して完全とは言えません。ここにキリストの救いの真実がすでにあります。すなわち、人は行いによらず、信仰によって正しいとされる、ということです。私たちがいう信仰とは、「神様が私を愛してくださっている。」というその愛に感じて心が動かされて、「ああ、あなたは私の神です。私を造り、私にいのちを与えてくださった創造主です。」と、愛の表現をする心を持った人を、神は正しい人とされます。
(2)全き人
悪い事をしないとか、悪い考えを持たないとかではなく、愛を大事にしていた、ということです。愛を目指している人は、完成には至っていなくても、全き人としての道を歩んでいることから、全き人と認められます。父なる神様は、私たちがキリストの姿になること、すなわち完全な人になるよう導いておられます。そのための道を歩んでいる人は、今は不完全であっても、ゴールから考えれば全き人なのです。愛を学び、愛を育て、愛に生きる。愛の喜びを大事にしていく。こういう人のことを全き人と呼びます。こういう人は決して欲望を土台とせず、感情にも頼りません。
(3)神とともに歩んだ
神とともに歩む人には、失望、絶望がありません。(詩篇23)にあるように、「たとえ死の陰の谷を歩むことがあっても、災いを恐れない」のです。「神が共におられるから」絶望、失望に陥って心が不安に襲われ、どうしようかと心が混乱させられるようなことがあっても、自分の横におられ、内におられる神様を見つめて、不安と恐れは消えていきます。ですから、神とともに歩む人は、前向き、肯定的な人です。物事の現状が悲観的であっても、「神がいてくださるじゃないか」と希望を見い出すことができる人が、神とともにいる人です。常に神にあって状況をプラスに受け止め、そこに希望を見い出していく人。ノアは私たちと同じ不完全な者でしたが、神のみこころを行う人でした。愛を土台としている人。こういう人が新しい世界に導かれます。私たちも最後の審判の後にある、新しい天と地に入っていくことができます。このご計画の成就、神の家族の完成を願って、神様は今も私たちに道を示し、励ましてくださっています。
3.『綱挙網疏』(こうきょもうそ)でみこころを行う
★『綱挙網疏』の意味
根本やおおもとをつかむことに専心して、細事にこだわらないこと。また、大きな罪や大罪の根源を挙げる事に意を用い、小さな罪はゆるすこと。
私たちは大局を忘れて、人の小さな罪や自分の小さな罪にこだわって、悲観的、絶望的になってはいないでしょうか。根源、根本を思い出し、おおもとに立ち返りましょう。クリスチャンとして生きる道の大道はどこなのか、最も大事なこととして神様があなたに教えてくださっていることは何なのかを考えてください。これらを忘れると、日常のささいなことで争いやもめ事が起きます。
(マタイ23:23)“「忌まわしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、他のほうもおろそかにしてはいけません。」”
正義、あわれみ、誠実は、信仰、希望、愛につながる大事なものです。私たちの内なる品性、徳にかかわることについて述べられています。内面的なものが表面に現れたものとして十分の一のささげ物があります。内側の伴わない十分の一は、何の意味ももちません。
【内容観察】「律法の精神をおろそかにした十分の一のささげ物には、価値がない。正しい良心による正義と人に対してのあわれみと神の前に誠実な生活をしてこそ、十分の一のささげ物に価値がある。」
私たちが教会に来て聖書を読んだり、祈ったり、兄弟姉妹に親切を施したりする時、自分の利益を求める気持ちが混じってはいませんか。欲を土台とした行動に陥らないために、自分の根本が何かを確認してください。「愛に触れられて私の心が変わった、その心で与えられたものの十分の一を神のものとして、神を畏れる大切さを表現した。」この内側の現れが十分の一の大事なポイントであり、内側を放置したままの十分の一は、偽善の律法学者やパリサイ人と同じです。常に私たちクリスチャンにとって一番大切なものが何であるか、というおおもとを忘れないようにしていきたいですね。
<証>(故人)水野源三という方をご存じですか。「まばたきの詩人」としてとても有名だった方です。十歳の時、高熱の病によって全身麻痺になり、自力で動かせるのは眼球とまぶただけになった方です。壁に貼った50音表を母に指してもらい、目的の字でまばたきをすることによって、かろうじて会話をしていました。手足があっても動かすことが出来ず、食事も自分では摂れず、生きていくためのすべてを誰かに頼らねばならない人生でした。しかし、この人がイエス様に出会って変えられた結果、どうなったでしょうか。
多くの人に愛されている詩を一つ挙げます。
【生きる】
神様の大きな御手の中で かたつむりはかたつむりらしく歩み
ほたる草はほたる草らしく咲き
あまがえるはあまがえるらしく鳴き
神様の大きな御手の中で 私は私らしく生きる
全身麻痺の彼が、生きるという希望をうたっています。かたつむりやほたる草、あまがえるも小さな存在です。皆に注目されない、気にもされないものたちをあえて取り上げることによって、自分も小さな者ではあるが、神様の愛、根源を知ることによって、「神様は私に、この状態で生きろと言われているんだ」と「だから、私は私らしく生きる」と思えたのです。万物の根本たるお方を見いだした時に、「体が動かない」とか「人に迷惑ばっかりかけている」などのことが、ささいでどうでもいいことになったのでした。彼のお母さんは、むしろ彼が障害者になったことで、「一般の母親以上に彼に愛を表すことができた」と、内側から愛が引き出されたことを語られました。この全身麻痺の人物にかかわった人々は皆、その人生が変えられていきました。もし健康なままの彼に出会ったならこんな変化はあったでしょうか。不自由な彼の状態が、多くの人々に喜びと希望と生きる力を与えたのです。五体満足で暮らしている自分は、いったい何人の人々に対して、喜び、希望、生きる力となっているだろうか。兄弟姉妹のいざこざで心を乱している場合ではありません。自分が存在している理由の根本に目を向けて、神の愛をよく見つめましょう。神様が愛しておられる家族を責めたり嫌ったりなどやめて、お互いにもっと赦し合っていこうとは思われませんか。自分が受けた傷のことばかり気にする人は自己中心です。そういう人がもし水野さんと同じ状態になったら、不平、不満、愚痴ばかりになり、たちまち信仰を捨ててしまうでしょう。水野さんは愛なる神を知り、すべてのものは愛によって造られていることがわかったのです。そして彼は自分の人生を喜びました。
「綱挙網疏」自分の根本やおおもとをしっかりつかんで、それに専心していきましょう。細事にはこだわらないで、大事にみことば、神様の愛を目指して歩んでいきましょう。
■2011年7月17日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
主にあって労苦をともにする up
2011.7.17
主にあって労している、ツルパナとツルポサによろしく。主にあって非常に労苦した愛するペルシスによろしく。
(ローマ16:12)
<初めに>流産が続いて、悲しみに打ちひしがれている女性の前に、5歳くらいの男の子が差し出した水色と赤色のおもちゃの指輪二つ。水色は泣かなくていいように守られ、赤色は願い事がかなうという。「ぼくは泣かなくてすむ強い子になったので指輪がいらなくなったから、おばさんが泣かなくてすむように、あげる。」と言ったそうです。この話から、イエス様がペテロに「鶏が三度鳴く前にわたしを知らないと言う」と言われ、それを否定したペテロに、さらに「あなたの信仰がなくならないように祈ったから、立ち直ったら兄弟を力づけてやりなさい。」と言われた聖書の箇所を思い出しました。愛は、助けが必要な人を見ると、湧き上がってくるものです。男の子が差し出した気持ちの持ちようともいえる指輪ですが、私たちにとって神の愛が本物の指輪です。「これ以上クリスチャン生活を進められない」と思うような時も、この愛があるから立ち直ることができたと…。ペテロがイエス様と三年間生活を共にし、その愛を一身に感じ取ってきた最後の時に、自分の身を守るため、イエス様を知らないと言ってしまった心の衝撃はいかほどであったか。そして裏切ったことを知ってもなお愛を注ぎ続けてくださる神の愛に感動して、泣いたのではないでしょうか。こういう愛を体験した人は、弱い人、困っている人を見ると、「ぼくは泣く必要がないので、イエス様の愛を受けて。」と言いたくなるのではないでしょうか。互いに励まし合える愛の交わりが、あふれる愛の泉の証ではないでしょうか。
ローマ書のこの手紙には、ツルパナ、ツルポサ、ペルシスという3人の名前が出てきます。自分だけでなく、労苦した人々の名前もぜひ記したかったパウロの気持ちがあったのでしょう。多くの人はパウロ自身の働きに注目し、尊敬していたことでしょう。しかしパウロは、自分に尊敬が払われるところに同労者の支えがあり、共に働いてくれた仲間たちのおかげで、今の自分があることを知っていたのです。
1.主にある労苦とは
(1)信仰の戦いを続ける労苦
戦いは重労働で、苦しいことが多いです。「戦友」という言葉は血のつながった兄弟よりもっと絆が深く、命をかけて戦う者同志の結びつきを感じさせます。
(2)福音を全世界に伝える労苦
殉教していく人々はもちろんですが、まったく言葉の意味のわからない民族のところへ行って、言葉を研究して聖書に翻訳する働きは、決して派手ではありませんが、一言ずつチェックして、現地の言葉として意味付けていく等々、相当忍耐を要するこの働きも労苦です。その他、伝えにくい地域、語りにくい雰囲気…いろいろな労苦が感じられます。
(3)互いに愛し合う生活の労苦
愛し合うということは、非常に労苦が多いですね。知らない者同志が教会に集まってきて、神様のおことばを聞いて心を一つにしていくのは、相当の労苦です。人数が多くなるにつれ、人間関係の問題も増えてきます。みなさんは今までどのような主にある労苦を体験してこられましたか。身近なところにあなたの労苦があると思います。私たちは主にある労苦を共にしているのです。そういう気持ちを忘れないようにしたいですね。
“私といっしょに囚人となっているアリスタルコが、あなたがたによろしくと言っています。バルナバのいとこであるマルコも同じです。ーこの人については、もし彼があなたがたのところに行ったなら、歓迎するようにという指示をあなたがたは受けています。ーユストと呼ばれるイエスもよろしくと言っています。割礼を受けた人では、この人たちだけが、神の国のために働く私の同労者です。また、彼らは私を激励する者となってくれました。”(コロサイ4:10〜11)
同労者とは〜苦しみを分かち合える間柄。苦しみを理解し合うことによって心が通じ合える。同じ目的のために労を費やす、同じ仕事仲間。
パウロと同様、私たちも御国のための同労者と考えられます。あなたの主にある同労者は誰でしょうか。私(辻師)にとっては当然百合子先生は妻であり、同労者です。伝道師の先生方、スタッフ、そして教会員すべての人が同労者です。御国のために共に労苦を分かち合っているのです。
(例話)星野監督は小さい時に父親を亡くし、グローブを買うのもままならぬ貧しい環境で野球をしていたそうです。中学校で、そう長くは生きられない筋ジストロフィーのK君が同級になり、星野監督が毎日おぶって、雨の日はリヤカーで登下校してくれて、K君にとって学校に行くのが楽しみになったといいます。その後も親交が深められ、K君が41歳で亡くなって2週間後にリーグ優勝を遂げたそうです。星野監督とK君は、片や貧しい環境の中で野球をし、片や病気という重荷を負って生きていくという、互いに人生の苦しみを分かち合う友人として、長い友情関係を持つことができたそうです。人の苦しみを自分のことのように受け止められると、私たちの心は互いに近づきます助け合おうという心が湧いてきます。しかし私だけが苦労していて、最悪の生活の中にいると思っている限り、愛の結びつきはできなくなります。愛の泉が湧き上がるところ、それは苦しみを理解できる者同士、同労者の意識があるところです。あなたの同労者は近くにいるのではないでしょうか。御霊様に示していただいて、苦しみを分かち合う愛の泉が湧き上がる関係に気づいてください。
2.使命感が労苦を支える
(1)きよい良心のうちに湧き上がる使命感。(使徒23:1)
“パウロは議会を見つめて、こう言った。「兄弟たちよ。私は今日まで、全くきよい良心をもって、神の前に生活して来ました。」”
〜全き愛は恐れを取り除く(第1ヨハネ4:18)〜
パウロがユダヤ人に告訴され、議会にかけられた時のことです。一市民が議会にかけられるのは、尋問を受けて大変な恐怖です。しかしパウロの内には神への全き愛があったので、全く恐れませんでした。神の愛に支えられている自分は潔白だという確信が強かったからです。「誰にも責められるようなことは、神の前にかけてしておりません。」と、神の前における正しい良心による人生に対する告白です。行いによる義でなく信仰による義を確信し、悔い改めを繰り返しながら、神の愛の中に歩んでいく生活こそ、潔白な人生の証だと確信していました。神に愛されているというキリストの贖いのみわざのしるしが支えでした。全き愛は強い使命感を湧き立たせます。愛する者のために生きようとするのは使命感です。これが愛の泉が湧き上がってくるということです。
(2)キリストの証人として使命を果たす心構え。(第2コリント2:15)
“私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。”
クリスチャンは、神に愛されたことによって、神の愛の香りを放 つことができます。この香りは証人としての自覚を意味します。人に気に入ってもらうために香りの質を変えることはできません。どこにいってもキリストの証人としての香りを放ち、この日常は使命感から出てきます。
(3)世界中にキリストの敬虔さが人々のうちに満ちあふれるように。“確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です。「キリストは肉において現れ、霊において義と宣言され、御使いたちに見られ、諸国民の間に宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」”(第1テモテ3:16)
このみことばは「敬虔さ=信心深さ」という偉大な奥義です。永遠の贖いのみわざの動機づけは、「愛する者のために」です。あなたのクリスチャン生活の労苦を支えてきたものは何でしょうか。愛する者のために、心の中に持つ強い使命感が敬虔です。世の中に自己中心的使命感を推し進めるのではありません。敬虔さのゆえに、人々はキリストを信じるようになり、その敬虔さは愛、すなわち愛する者のためにへりくだる姿勢を保ち続けます。
敬虔とは、愛する者のために湧き上がってくる、心の姿勢です。自尊心のための敬虔は、欲が土台となっており、忍耐に限界があり「我慢にも程がある」と言うでしょう。しかし、愛する者のためのへりくだりは、仮に自尊心が傷つけられても、愛する者のために自分を支えることができます。人は愛する者のためには、とことん自我を砕くことができます。どんなに恥をかいても恥を忍びます。愛してくれているという愛が支えとなっているからです。私たちは神の愛に支えられ、自分を委ねているので、自尊心が砕かれても自分を見失うことはありません。だから、神の愛を信じている人が、一番へりくだることができます。
3.敬聴(第1テサロニケ1:3)
“絶えず、私たちの父なる神の御前に、あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしています。”
「このみことばから『ともに労苦する』ことについて、どのようなことに 気づかされますか?」
(ヒント)1)使命を果たす力は信仰
2)労苦を受け止めるのは愛
3)イエス・キリストのへの望みは愛の報いを待つ力
ここに「信仰・希望・愛」と、いつまでも存続するものが表れています。そして最も偉大なものは愛の労苦だとパウロは言いました。なぜなら、信仰の働きの労苦を受け止め、キリストに対する希望を持つための苦しみを受け止めるのが愛だからです。私たちは愛の労苦を共にする同労者でありたいですね。(これはクリスチャンという、キリストの体である教会という社会を基本にしています)。この信仰の働きを、愛の労苦を、イエス・キリストへの望みを持ち続けることは、生きる喜びを持つという意味であり、クリスチャン生活の喜びを意味しています。あなたは仕事を喜び、楽しんでやっていますか。生活のためだけでは辛いですね。お金の額も大事ですが、それにまさる、仕事の労苦を喜べる人は、人生を楽しみ喜ぶと表現できます。
(例話)チョークを作っているN社の7割は、知的発育不全の方々で、かれこれ50数年雇用しているそうです。そのきっかけは、特別支援学校から依頼された2人の女の子を、1週間ラベル貼りをさせて、その期間が終わる前日に、社員たちが社長に、この2人をぜひ正社員にと要望してきたことから始まります。聞いてみると、始業一時間前からドアの前で待ち、休憩もせず、ひたすら喜んで、にこにことラベルを貼り続けているようすに、社員の方が感動したのです。彼女たちはラベル貼りをさせてもらえる生きがいを感じ、みんなの助けになっている喜びがあふれていたのです。見学に来た、ある小学生が「神様はどんな人でも役立つ能力を与えておられるんだね。」とつぶやいたのを耳にした社長は、障害のある方の雇用を続けていこうと思ったそうです。
私たちも神の前に罪深い、何の役にも立たないもので、神の子としてはふさわしくない者です。あなたは生きる喜びをどこで感じていますか。私(辻師)は、国語力の低い、人前で到底話せるような者でなかったこんな私でも、みことばを語る者として置いてくださっていることを、生きる喜びと感じています。私にできることをさせていただこうという思い、神の愛に生かされている感謝の思いです。神に生かされているあなたの人生ならば、生きることは喜びです。例話はノンクリスチャンの方々の話です。クリスチャンだけでなく、万物を愛をもって造られた神は、愛のあるところにおられます。ただその愛を、神の恵みと気づいておられない人が多いので、私たちはそれを語っていく必要があります。湧き上がる愛の泉の鍵は、愛の労苦の中にあるのではないでしょうか。
■2011年7月10日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
欲というこの世の愛 up 2011.7.10
すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。
(第1ヨハネ2:16〜17)
私たちが目指しているのは神の愛です。この世に属する「欲」という愛にだまされないようにしなくてはいけません。
1.この世から出た愛
A)肉の欲=満足したい気持ち⇒特に感情の欲求⇒感情
おなかが空いたとか、見たいものがあるとか、五感から来る感情は不安定さを持っています。感情に引っ張られている人は、ちょっとしたことでも不安定になりやすいのです。「自分に優しくしてほしい」「自分の思う通りにしてほしい」と願い、かなわないと怒り、憎しみ、ねたみなどが出てくるのが特徴です。
B)目の欲=知りたい気持ち⇒特に知的欲求⇒知性
C)暮らし向きの自慢=良いものでありたい⇒特に利己的欲求⇒意志
人に認められたい、ほめられたい気持ちです。「利己的欲求」には、強い意志力が働いています。
知・情・意から出てくるものはすべて欲であり、欲求です。「欲しい・得たい・満足したい」から愛を求めると、間違いを起こします。「神を知らない人々は、知・情・意からくる欲望を満たしたいという心の動きを『愛』と思っている。この世から出た愛は、欲が動機となっている。」
「好きになる」とは欲求です。自分にとって必要な何かを持っている誰かや何か、なのです。ですから、期待を裏切られると、ねたみ、しっと、復讐心、破壊をもたらす怒りになります。最近、ストーカーによる殺人事件が度々起こっていますが、あれは愛ではなく欲望から発しているから、思いどおりにならない相手を殺すのです。欲望の愛と神の愛の違いをよくわきまえる必要があります。欲望から来る愛は、満足できない時悪い心が出て、憎しみ、相手を破壊する心が起こります。神の愛は相手を大事にします。自分の期待を裏切られても、自分の心が傷つき悲しんでも、決して相手を傷つけず、復讐もしません。わかってもらうための方法を考えたり、相手の考えを尊重して身を引くなどするのです。もし人を好きになって告白する時、「断られたら嫌だ」と思う気持ちはどこからくるのでしょうか。プライドからか、思いどおりにならないからでしょうか。相手を一人の人格者として認めていれば、受けるのも断るのも相手の自由と納得できます。ですから、相手が思うような反応をしない時に悪い感情が出るなら、欲望から来た愛だと見分けることができるのです。
【敬聴】
(コロサイ3:5)のみことばから、『欲』について、どのようなことが教えられますか?
“ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。”
むさぼりとは貪欲、コントロールできない欲のことです。不品行、汚れ、情欲、悪い欲に走らせてしまいます。偶像とは、実在しない神であり、人の欲望が生み出したものです。それにひれ伏すのが礼拝ですから、欲望を重んじ、欲望に振り回されることになるのです。宗教的儀式などなくても、欲望をコントロールできない人は偶像礼拝者だと、聖書は欲望に対して厳しく忠告しています。この世は欲望を重視します。欲望無しに経済の発展はあり得ないからです。「欲望は金を動かし生活を改善する。生活改善は環境を良くし、幸せをもたらす。」これは勘違いであり、経済社会の私たちへの洗脳です。歴史を見れば明らかですが、経済的豊かさは幸せには直結しません。
愛を求める時に、「欲望があってこそ愛」などとは決して思わないでください。
2.「欲」が先か、『愛』が先か!
A)欲に支配された愛⇒死に至る(ヤコブ1:14〜15)
“人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。”
欲自体が悪いのではありませんが、欲に支配された人生は破滅です。人にとって愛は一番大切なもので、人間関係をつなぐものです。幸せは、人格者同士のつながりの中にあります。人以外の何か、たとえばパソコンやペットは、自分の思いどおりになっている間が楽しいだけです。しかし、自分の思いどおりの人生は本当に幸せなのでしょうか。人の幸せのために尽くすことの方が、もっと幸せを心に満たすことができます。不思議なことですが、自分の満足より、愛する者の幸せのために何かすることの方が、より大きな幸せを得られるのが人間なのです。ボランティアに行く人々は、相手に合わせ、相手に尽くすことで、人が仕合せになることによって得ることのできる幸せ感を知っているのです。
この経済社会、競争社会、比較社会の中で、欲望というものに洗脳された人生観を、私たちは持ってしまっているのではないでしょうか。聖書はこれについて「永遠の滅び、死に至る」と明言しています。
B)愛に支配された欲⇒いのちに至る(ユダ1:21)
“神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。”
「保つ」と「待ち望む」には、共通の行動、心の姿勢があります。忍耐をする、自制心を働かせるということです。私たちは一定の枠に留まり続けるためには、自制心を働かせ、忍耐をする必要があります。スポーツ選手なども、最高のコンディションを保つために、自分の生活全てに自制をします。一家を支えて働いているご主人方も、家族全員の幸せを考えるなら、自分が働いて得る給料ではあっても、かなりの自制をし、勝手には使いません。自制と忍耐とが必要です。それが愛なのです。健全な状態を保つために自分を制御する、これが愛です。神様の愛の中に留まる動機が、欲望でなく愛であれば、自然に自制心、忍耐が生み出されてきます。愛によらない自制心も忍耐も、実行できないことがほとんどです。欲望のための自制や忍耐は、欲望がかなえられなかった時に、殺意までわくほどの巨大な反動ではねかえってきます。欲が土台か愛が土台かで、あなたの人生結果は大きな違いを迎えます。
3.神の愛を『拳拳服膺』(けんけんふくよう)する
★『拳拳服膺』の意味
常に忘れず、慎んで胸中に抱き持ち、心を尽くして守り行うこと。
「拳拳」=両手でうやうやしく捧げ持つことの形容
「服膺」=胸にくっつけることから、よく心に留めること
私たちは神様の愛に対して、大事に大事に大切に扱っていきましょう。心に大事にしっかりと抱きしめて、それを失わないようにして、愛の実を結んでいきましょう。特に大事にしたいのは、両手で捧げ持つことです。仕事で名刺交換をする時、小さなカードを両手で大切にいただくようにしますが、神様の愛を同じように大事に扱っているでしょうか。神様の愛の実を結ぶことを日頃から気にして、心にかけて、歩んでいますか。そういう点にポイントを置いて、この一週間歩んでください。両手に大事に捧げ持って、神様の愛、十字架に表されたイエス様の、私たちに対する神の愛を真摯に受け止めて、「ああ、ありがとうございます。」「大事にします。」と胸に抱きます。「この愛によって、わたしの人生がどんなにうるおされるだろうか」と大事に使ってください。しまいこんではいけません。使わなければ意味がありませんよ。この一週間、神様の愛の意味を考えながら、歩んでいただきたいと願います。
実行できる計画を立てましょう。たとえば、聖書を読む時、いろんな姿勢で読まれていると思います。ここで神様を大事にしていることの表現をどうやって表したら良いかと考えてみます。各々で考え方は違うでしょうが、ある人は「机にきちんと座って、両手で持って聖書を読もう。」と考えます。それを実際に行動して、たとえ2行でも聖書を読めたなら、神の愛を大事にしている証ができたことになります。あるいは礼拝にきちんとした格好で来ることも、その人の神様への敬意の表れです。大事な方、目上の人にお会いする時、服装を正すのは当然のことですね。ただ、ここで大切なのは、各自が自分でやろうと決めたことを実行に移すことです。言われたからするのでは律法であって、心にうそをついていることになりますから。態度や姿勢の変化に心も順応することはよくあります。主に敬虔さ、もしくはものを大事に扱うなどの、良い心を持って何かに取り組む時、まず形から始めるというのも一つの方法です。もしかしたら、背筋を伸ばして聖書を読んでみた時に、「こういう読み方もいいな」と何か不思議な心の変化が起こるかもしれません。
神様を大事にする日々を過ごして、良いものを体験していける人生となるようにと願っています。
■2011年7月3日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
御父を愛する愛 up 2011.7.3
世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。
(第1ヨハネ2:15)
このみことばで心が騒いでしまう人がいないでしょうか。御父を愛する愛は自分には十分はない…とか、世を愛してしまっているのではないか…とか。そして自分で失望してしまっていないでしょうか。実は私たちは、既に「御父を愛する愛」をいただいているのです。今日は、そのことに気づいていただきたいと思います。
1.なぜ、世と世にあるものを愛してはいけないのか?
A)つまずきを与えるものだから(マタイ18:7)
“つまずきを与えるこの世は忌まわしいものです。つまずきが起こることは避けられないが、つまずきをもたらす者は忌まわしいものです。”
この「つまずき」は、動物に仕掛ける罠が語源です。また、前進を妨げ、そこから前に進ませないようにするという意味があります。不健全な状態がそこに起こるのです。つまずきを与えるこの世を愛したら、つまずき続け、圧迫され、ゆがめられ、弱肉強食の環境の中で、傷つき生きていくしかありません。
B)過ぎ去るものだから(第1コリント7:31)
“世の冨を用いる者は用いすぎないようにしなさい。この世の有様は過ぎ去るからです。”
私たちは、無くなっていくもの、過ぎ去るものに対して、例えば消耗品であるなら、そんなに力を入れて執着しません。物は古びていき、価値が薄れていきます。いつまでも新品と同じ価値があるように執着し続けるなら、それはむなしいでしょう。この世を愛し、どんなに心を尽くしても、消えていくものであるということは、空しいということです。
C)きよめられる環境だから(箴言17:3)
“銀にはるつぼ、金には炉、人の心をためすのは主。”
るつぼや炉は、銀や金を精錬して、悪いものを取り除き、さらに純度の高い良いものに作り出していくための所です。原石のままでは価値は低いのですが、価値の高い銀や金だけをなんとか取り出すために、るつぼや炉が用いられます。価値あるものを、さらに価値あるものにするための場所です。同様に、人も不純物があるので、それを取り除くため、神は試みを与えられます。天国では試みはありません。神はるつぼや炉のように、この世で私たちを試みられて、私たちの心から不純物を取り除いて浄化されます。試みは嫌なものです。しかしその労苦、辛さが報われるのが、純化されることであり、きよめられるということです。あなたがきよめられるということは、純化されて銀や金のようになるということなので、あなたの存在価値は高められるということです。ですから、きよめを拒むということは、純化を拒むということになります。神はこの世で私たちを試されるのですから、この世はるつぼや炉のような所であり、愛する対象ではありません。
【敬聴】
『愛が成立する』ための条件について考えてみましょう。欲望に動かされるのは、『愛』ではありません。
「愛が成立する」ことを深く考えてみましょう。この世は愛する対象物にはなりません。
ある人が猫をとてもかわいがっていました。ある時、その猫が体調を崩してぐったりしているので、好物の魚をあぶって、口元まで持っていき、食べさせてやろうとしたところ、猫は突然うなって、指に噛み付いてきました。その瞬間、その人は「殺してやろうか」というほどの怒りが込み上げてきたそうです。なぜそれほどの怒りがきたのかを内省した時、「自分はこれほどまでにこの猫をかわいがり、よくしてやっている」という、恩着せがましい思いがあることに気づきました。そういう気持ちがあると、裏切られた時、かわいさは怒りに変わるのだとわかったそうです。
「やってやっている」という気持ちが根底に隠れていると、愛する対象から違う反応が来た時、怒りが湧いてきます。それは本当の愛ではありません。恩着せがましい愛は、愛の一方通行であり、互いの関係は成立していないので、本当の愛ではなく、単に好意を持っているというだけです。気に入った時だけ愛するのは、聖書の言う「愛」とは違います。私たちは気に入られて神に愛されているのでしょうか?もしそうだったら、ご自身のひとり子なるイエス・キリストを、反抗し続けている私たち人類の罪の身代わりに、地上に送ってくださるでしょうか。単に気に入った、好意がある、というだけでできることではありません。愛は反抗するものにも向けられます。「汝の敵を愛せよ」という愛を、私たちは本当に理解しているでしょうか。私たちの愛は、自分の気に入らない反応や相手に対して向かう時に試されます。本物の愛は、期待と違う反応が返ってきても、変わることはありません。神の愛は、人間的な愛のように気に入ったから、好意を持てるから、注がれるというものではないのです。この世的な愛の基準で神の愛を見るのはやめましょう。そうしないと、「御父を愛する愛」は決してわかりません。
2.御父を愛する愛とは?(ヘブル12:7〜11)
“訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。”
ヨハネはどうして、「御父」ということばをわざわざ使って、神を愛することを勧めたのでしょうか?私たちが一番愛を理解して受け止められるのは、親子の関係における愛です。「神が愛してくださる」とは、親が愛してくれるように受け止めることができるのです。赤ちゃんは「愛」を理解して、母親のおっぱいを飲んでいるのではありません。成長していくにつれてわかるようになり、自分は母親に愛されているのだと理解するようになるのです。後で気づくものです。最初は、私たちは神様を親として、なかなか認識できません。しかし、いろいろな経験を通して知るようになってきます。なぜ子どもは、親孝行をしたいと考えるようになるのでしょうか?親は優しさだけでなく、懲らしめも与えます。親は子どもの将来も見据えて、子どもが苦労しないよう、回りの人々から馬鹿にされないよう、ある時は厳しくしつけるものです。しつけをされているその時は辛く感じ、親を恨むこともあるでしょうが、成長して社会に出た時、そのしつけのおかげで回りの人々に認めてもらえ、ほめられるようになって初めて、しつけてくれた親の愛がわかってくるものです。
親を愛する愛は、そのようにして湧いてきます。御父なる神様の愛も同じです。「後になると、これによって訓練された人々に、平安な義の実を結ばせ」るのです。御父は、あなたの代わりに、御子イエスという大きな犠牲を払ってでも愛してくれます。御父がどれだけ、永遠の将来のために愛の犠牲を払ってくださっていることでしょう。それに気づいたら、親を愛する愛、御父なる神への愛が湧いてくるはずです。
3.『菽水之歓』(しゅくすいのかん)を尽くす(マルコ12:32〜33)
“そこで、この律法学者は、イエスに言った。「先生。そのとおりです。『主は唯一であって、そのほかに、主はない。』と言われたのは、まさにそのとおりです。また『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する。』ことは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています。」”
★『菽水之歓』の意味
貧しい暮らしをしながらも、なお親に孝行を尽くして喜ばせること。『菽水』は豆と水のこと。貧しい生活の象徴。水や豆などの祖末な食事をすすってでも、なお、孝行を尽くして親を喜ばせるという意味。
この律法学者は、大工の出であったイエス様に、「先生」と呼びかけています。彼に対してイエス様は、「あなたは神の国に遠くない」と言われました。彼は他の律法学者と違って、大切なのは儀式やいけにえという形ではなく、むしろ心であると気づいていたのです。給料を持ってきているのだから、父親の責任は果たしている。食べさせているのだから、あとは学校へやっていればいい…それが愛でしょうか。「育ててやったのに!」「お金をつぎ込んでやったのに」と、子どもが自分の期待に背いた時腹を立てる、それではペットに向ける愛と変わりません。子どもの心は育ちません。本当に子どもを愛している親は、ただ贈り物を欲しがっているのでしょうか?親にとって何よりもうれしいのは、むしろ一本の電話です。自分のことを思ってくれているという気持ちがうれしいのです。神様はどんな贈り物よりも、それをささげる子ども、私たちの親を思う心、御父への思いを喜ばれます。
「菽水之歓」を尽くす子どもの心は何でしょうか。親の愛に気づかなければ決してできません。先週語った「愛の始まり」に気づかなければできないのです。「神がまず私たちを愛してくださった…」そこに気づきましょう。神は私たちの将来、永遠の未来のために、どれほど大きな投資をしてくださっていることでしょう。さらに、この世のるつぼ、炉で訓練して、立派な子どもとして成長するために、イエス・キリストのいけにえという、大きな犠牲を払ってくださったのです。このような父なる神の愛をむだにしないため、父なる神が私たちを信じてくださっている愛を、不敬虔な人々に偽りだと言わせたくない、そう思って奮起することが、御父を愛する愛ではないでしょうか。
御父の愛の優しさだけでなく、厳しいしつけの愛にも気づいてください。後になって必ず、そのありがたさがわかってきます。あなたの御父である神の愛に気づき、その愛に報いたいと願って、神の子としての歩みをしっかりと進めていきましょう。
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