■2011年6月26日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
愛の始まり up 2011.6.26
小さい者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが御父を知ったからです。父たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが、初めからおられる方を、知ったからです。若い者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが強い者であり、神のみことばが、あなたがたのうちにとどまり、そして、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。
(第1ヨハネ2:14)
「小さい者たち」「父たち」「若い者たち」の三世代に対して書かれたこの手紙。別々にでなく、あえて一つの手紙にまとめたヨハネの真意を探ってみましょう。
1.愛に気付く人生の時代区分
A)子ども(小さい者)としての区分
小さい者=子ども、です。幼く未熟で至らない存在としての子どもです。100%回りに依存して生きています。自立できていない状態、またその年代です。依存するとは愛を受けることでもあり、まさに愛を受け続ける時代が、この子ども時代と言えます。
B)若い者としての時代
依存から自立への過渡期にあります。かなり成熟に近づいている状態です。学んだこと、教えられたこと、しつけられたことが、実際に実を結び始めている時期です。この時期の人々は、愛を流し出すことができるようになってはいますが、また自我の強さが残っていることが弱点でもあります。自己中心の愛を流し出してしまったりもするような精神状態です。
C)親としての時代
成熟し、自立しています。完全に自分で自分を養い育て、導いていくことができるだけでなく、人を育てることができます。育てる立場の人は、自分のことよりも子どもや部下、弟子たちなどのこれから育つ人々のために、時間や労力を費やすことが多くなります。これからの人々のために愛を流し出すことこそ、成熟した人の証といえます。
この3つの時代区分において、それぞれ愛に気づく瞬間があります。子ども時代や若い時には、それが愛だと気づかないことも多くあるのですが。では、愛に気づいたら、自分の内にどんな動き、変化が起こるのでしょうか。
【敬聴】
“ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。”(ルカ19:8)
ザアカイがなぜ取税人になったか、理由は述べられていませんが、当時のユダヤ人、しかも平民が成り上がるのに、一番手っ取り早いのが、取税人だったのは確かです。ローマへの納税義務以外にも、自分の好きなだけ税を上乗せできたのですから。ザアカイはそんな取税人たちの頭にまで上りつめましたが、金に頼り、金に信頼し、金を武器としていた彼が、自分の全財産の半分を貧しい人に施すとは、どういう心境の変化でしょうか。10万円の財産でも、半分施すには勇気がいります。ましてや何十億もの財産を、返すことを期待できない相手に施すとは、並大抵の決意ではありません。さらに残りの財産から、だまし取った金額の4倍を返したなら、今までの苦労は全部水の泡です。それをいとわないほど、ザアカイの心はお金から解放されたのです。イエス様が何かお責めになったからではなく、ザアカイと一緒に食事と交わりをされた結果、彼の心は変えられてしまいました。私たちは人の罪をあげつらい、恐れさせて悔い改めを迫る、という間違いをよく犯しますが、真の悔い改めは、愛に触れられて起こるものです。愛によって心を変えられた人は、「もう罪を犯さないようにしよう」と、正義ときよさを心の中に持ちます。この変化こそが、一番正しい心の変化です。どんな悪人でも、愛に触れればこのような変化が起こります。ザアカイはイエス様の言動ではなく、溢れ出る神の愛に心を動かされたのです。
今までで、自分の心が動かされた人との出会いはどうであったか、思い返してみてください。損得勘定からの変化は愛ではないので、疑いが入るとすぐ壊れてしまいます。愛は、どんな状況が表れても相手を信じ通すことができ、失望に終わりません。自分の価値観に合うとか、自分の思いどおりになるとかいう利己的な考え方で、夫婦が破綻して離婚する事例も昨今多いようですが、利害関係による結婚だからそうなるのです。人にとって大切な存在とは、「自分をいかにすばらしい人徳の高い者へと成長を助けてくれる存在であるか」という点です。内側の徳をお互いに高めあう存在と認め合うことが、正しい愛のかたちです。ザアカイは、ヤハウェの神が愛のお方であることを知らなかったかもしれません。しかし、イエス様と交わることで、この方から溢れ出てくる神の愛に触れて、前に挙げたような発言をしたのではないでしょうか。あなたも「愛に気づく時」について、考えていただきたいのです。愛に触れられたら、その人のために何かをしたくなる、そして、行動に移そうとすることに気づいてください。
2.『愛の始まり』(第1ヨハネ2:14)“みことばは前述”
愛の目覚め、気づき、愛を知ること。何らかのかたち、行動として表れること。
A)『子どものとき』
自分のために犠牲している親の姿を見る時に、愛に目覚めます。それが愛だと具体的に知ってはいませんが、自分なりに応答しようとします。私(辻師)の母が寝込むような病気になった時、それでも無理を押してしゅうとや家族の世話をし、最後に子どもである自分に対して「ごめんね。今何もできへんから。」と謝る姿を見て、いかに大変なことを毎日してくれているか、自分がいかに母に頼り甘えているかを痛感して、「大事にしてあげないと」と思いました。このような気持ちが愛の目覚め、愛の始まりです。愛を認知し、心に感じて、本当は役に立てなくても、何かをしてあげたいと思い、行動に移します。定義など知らずとも、人は愛を感じれば応答したくなるものです。そういうふうに造られたのですから。
B)『若い者のとき』
熱しやすく冷めやすい時代です。励まし、支え、助言、アドバイスが必要です。若い人は言葉に反応しやすい年頃でもあるので、言葉による励ましや支えなどが重要になります。ヨハネも「神のみことばが、あなたがたのうちにとどまり」と、彼らがみことばを基としていることに言及しています。私たちも学生の頃、いろんな友だちや先輩、先生やクラブ活動などの出会いを通して、いろんな言葉をかけられながら青春を過ごした思い出があるはずです。それらはすなわち、いろんな人からの愛を受けて、立ち上がって、やり直して、共に歩んで…という、若者時代の愛の経験なのです。
C)『父としてのとき』
子どもを育てるにあたって振り返ります。「自分もこうやって育てられてきた」と、リアルに体験して気づくのです。愛が自分の内にどれほど育っているかに比例して、子育ても進められていきます。親になって初めて、子どもの時に自分が受けた愛を知るように、あなたの人生を振り返れば、「ここで愛に気づいた」という瞬間がいくつもあるのではないでしょうか。今のきよめられた良心をもって、ぜひ自分の過去を振り返ってみてください。過去の気持ちのままではわからないことも、神を敬う心から見たなら、今に至るための神の大いなる御手の中にあったとわかります。自分が今の自分になるために必要なことであったと、謙虚に神の愛を受け止めることができるでしょう。
あなたが歩んだすべての道を神はご存じで、その全部を最善を尽くして守ってくださいました。その証が十字架です。苦しみや辛さを、神が与えられた一つのプロセスとして信頼して受け止めることができるのは、変わらぬ永遠の愛の証としての十字架が存在しているからです。歴史の中で、間違いなく罪人の私たちに対して表された愛。ひとり子なるイエス・キリストが、あなたへの罪の裁きを身代わりに受けて、あなたにチャンスを与えてくださいました。赦しの愛を与え続けてくださり、それは今も変わることがありません。これらの事柄に関する見えるしるしが、イエス様の十字架です。もし神話なら、事実でないなら、私たちの信仰はむなしいけれど、歴史に刻まれた事実が証明されていることによって、愛なる神様の存在も証明されています。そして、この方の愛も実在することになり、信頼して歩むことができるのです。今日という一日を、愛を信じ、希望を持って歩めるのです。
3.『報本反始』(ほうほんはんし)の心を新たにする
★『報本反始』の意味
天地(創造主)や先祖などの恩(愛)に報いること。人が天地や先祖など、存在の根本に感謝し報い、発生のはじめに思いを致すこと。
自分の始まりである先祖、先祖の始まりであられる神に思いを巡らし、その根本に感謝し、愛なる神があってこそ、今のこの人生に意味があり、価値があることを考え、心を集中させ、思いを捧げるのです。これらのことを心に留めておけば、今を前向きに生きる理由ができます。
(エペソ1:4)
“すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。”
世界の始まる前から、「人をきよく傷のない者としよう」というご計画が存在していました。それは神の愛を伝承するために必要な条件でした。「キリストのうちに選び」とは、天地が始まる以前から、あなたの犯すであろう罪の身代わりとしてのイエス様の犠牲を予想されて、計画を立てられていたということです。イエス様を通して、私たちはきよく傷のない者とされるのです。私たちへの愛の始まりは、天地の基が置かれるよりも前だったのです。すごいですね。それほどまでに私たちは想われています。時間が流れるより前から想われていた私たちが、はるかな時を経て生まれてきた時、神様は「この愛に気づいてほしい」「この愛に目覚めてほしい」と、100年ぽっちの私たちの人生に期待しておられるというのです。
子ども時代に、若い頃に、親になって気づくすべての愛を通して、ご自分の愛に目覚めてほしい、感じ取ってほしいと待ち続けておられるのです.そして皆さんはキリストに出会い、神の子として歩む人生を決心されました。この道の始まりが感情的な愛だった人もあるでしょうし、始まりがはっきりしない人もおられるでしょうが、キリストをあなたの身代わりにされたほどに、あなたを愛してくださった神様に応えたい気持ちの表れが、信仰告白であり、受洗です。これは愛の表れなのです。教会のいろんな奉仕も、突き詰めていけば神への愛の応答です。ささげものも、いろんな犠牲も、神様への恩返しをしたい気持ちからの応答です。「このままで放ってはおけない」と、何かしたくなるのが、愛を感じた証です。
【例話】
ある学校に知的障害を持つ児童がいました。普通学級にいるその児童を、担任教諭は熱心に指導し、時々厳しすぎるくらいでした。発言のチャンスもできうる限り作りましたが、その児童は期待に応えることができず、クラスメイトの失笑をかうばかりでした。事情を知らない人が見ればいじめているようにさえ見えるほどの熱心な指導でしたが、ついに担任教諭の転任が決まりました。お別れ会で誰が先生に感謝のことばを述べるか、学級会がもたれ、例の児童に白羽の矢が立ちました。クラスの児童は彼が失敗するであろうと思っていました。その児童がついに最後の言葉を述べる時、しばらくの沈黙と心ない笑いの後、彼は突如として話し始めました。「先生。ぼくを普通の子と同じに扱ってくれてありがとうございます。」
「放課後、算数を教えるために、つきっきりで教えてくれたことをありがとうございます。」「読めなかった本を一緒に何度も読んでくれてありがとうございます。」彼は10分間、一つ一つの出来事にありがとうの言葉を添えて、感謝を述べ続けました。最後はすべての児童が黙り込んできいていました。必死で涙をこらえて、この児童の謝辞を聞いていた先生は、最後に壇上に立って礼を述べ、「あなたを教えることができて、本当にうれしかった。」と一言感謝を添えました。彼は他の児童と違い、勉強はほとんどできませんでした。しかし、彼は担任の熱意、熱情、愛を信じて受け止めていたのです。他の子は気づけませんでした。能力の優劣が、人間を決めるのではありません。人にとって一番大事なものは、愛を感じることではないでしょうか。そして、感じた愛に応えることではないのでしょうか。この児童は、人として的を射た歩みをしたと思います。
私たちも、自分の願いを神様に祈ってはいるけれど、神様の愛が伝わっていないなら、身勝手で利己的な祈りしかできていないでしょう。それは本当に未熟で、何もかも頼らないと生きていけない幼な子の状態です。神様はそれでも愛してくださっていますが、子育てするくらいの年になっても、また精神状態が幼な子のままというのはどうなのでしょう。きちんと若者になり、親になれるように成熟していかないといけませんね。そのために、愛に気づいていくことが大事です。愛に気づかないと、心は大人になることができません。今日あなたは、どの時点で愛の始まりを見いだして、感じ取っているでしょうか。今週、神様の愛が、あなたの今までの人生においてどういうかたちで注がれてきているかを振り返りながら、ぜひ愛による多くの恵みを受けてきたことに対して、感謝をする一週間としてください。
■2011年6月19日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
受け継がれる愛 up 2011.6.19
父たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが、初めからおられる方を、知ったからです。若い者たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。
(第1ヨハネ2:13)
この節をよく読むと、「なぜ?」という疑問が起こってきます。さらに続きを読めば、さまざまな注意が書き記されていることに気づきます。これらについて考えてみましょう。
1.『父たちよ』(マタイ23:37)
“ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。”
「父」とは、子どもに限らず教え子や子飼いの弟子などを持つ人の意味です。初めからおられる方とは、父なる神様であり、すべてのものの父なる方です。知ったとは、父としての神様の愛を知ったということです。父であるとは、すなわち、すべてのものの父なる神様と同じ立場にあるということです。親の気持ちがわかるでしょう?との問いかけでもあります。父なる存在は、父親として、夫として、家長として、家族のことをいつも心配しています。神様もすべてのものに気を配っておられます。どちらも同じ気持ちです。独身のころは自分のことだけでよかったのですが、結婚、子育てとなると家族に多くの配慮が必要になります。全存在の父ともなればなおさらのことです。あなたが悩むような事柄に対して、神様も悩まれるのです。
(マタイ23:37)を見てみましょう。動物でも子育てには苦労が尽きません。親は、子どものために一生懸命指導や制限をするのですが、子どもはそれに気づかず、嫌がることが多いものです。神様に対しての私たちがちょうどそういう状態です。神様は愛と責任を持ってあなたを育てられ、聖書という指針を与えてくださっています。厳しいしつけは、自制心の弱い、誘惑にすぐ負けるような幼子や未成年者へのしかるべき指導なのです。もちろん彼らが弱れば、優しく介抱してくださいます。あなたが今何かのリーダーであるなら、自分の大変さを通して、神様の大変さに思いを向けてください。この方が真実をもって導いてくださっていることに、ぜひ信頼を置いていきましょう。十字架という確固たる証拠が、私たちには与えられているのですから。私たちの罪を赦すためにひとり子イエス様を罰せられたのは、ひなたちを守るために自らを覆いとして炎の中に死んだ母鶏のようです。大火事で真っ黒になって息絶えても、翼の下にひなたちを守りきった母鶏。ここまでの愛を現された方が、私たちのために叱られるなら、喜んで受けようではありませんか。私たちを赦し、私たちに希望を抱いてくださっているから、注意や叱責があるのです。赦さないならとっくに裁かれているはずです。自分が父としての自覚を持つなら、その自分の父であられる神様の権限や愛も認めて信じましょう。
2.『若い者たちよ』(ルカ21:19)
“あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます。”
若い者は次のリーダーとなるべき存在です。「悪い者」とは、人を罪に陥れる霊的存在者を指します。これに影響されない強さを持ったから、とここで言われています。愛が受け継がれていく、という点から「打ち勝った」ということばを考えてみると、愛を受け継ぐことができた証明としての勝利と言えます。あなたの内に、イエス・キリストを通して神の愛が聖霊とともに注がれ、あなたの霊がそれに触れた時、本来弱いはずの、「肉の誘惑に打ち勝った」からではないか、と。
思い起こしてみてください。初めてイエス様を信じた頃の自分は何か不思議な力に守られて誘惑を退けることができました。聖霊に満たされれば、今まで弱かったものに対しても強くなれます。誰かを愛すると、その人は強くなるし、その性格性質までも変えられます。愛を感じると、良いものが引き出されるのです。現代は、愛を程度の低い感情に置き換えて、その価値をひどく引き下げてしまっています。しかし神様は、本来の高貴な愛を私たちに取り戻させるために、十字架上ですでに罪を処分してくださり、愛を継承できるようにしてくださいました。愛されてこそ、私たちは強くなることができます。人に愛されて強くなれるなら、全能の神に愛されることは、どれほど私たちにとって力になることでしょう。
◎若い人たちのための勝利の秘訣
(ルカ21:19)は、イエス様が、これから起こる迫害の世において勝利を得る秘訣を語られた場面です。さて、どうして忍耐が必要なのでしょうか。(第1コリント13章)に愛の性質が記されていますが、その中に“すべてを耐え忍ぶ”とあります。愛は忍耐を強くします。決して消えない希望がそこにあるからです。人の愛と違い、神の愛は決して失望に終わりません。人の愛に絶望した時こそ、神の愛が真に輝きます。人が天を仰ぐしぐさは、愛なる神様の存在を表しているのです。「この方が私を必ず救ってくださる。」という信頼がそこにあります。その信頼は十字架によって保証されています。これを土台として、どんな困難な時も、「神は愛だから」と、希望を持って歩むことができます。若い人が自分に失望、絶望した時は、神様に愛されていることに気づく時なのです。現状がどうであろうと、神様の愛が注がれている事実は変わりません。あなたをよく知り、将来に至るまで心配してくださっている方なのです。親がいる人はそのありがたみがよくわかるはずです。神様が親でいてくださるのは、本当にすごい感謝なことなのです。人間がどんなに勝手ばかりして世界を壊しても、いろんなできごとや災難などをも通して立ち返ることを待っていてくださっています。人はこの世の先に永遠を待たせています。神様は永遠のための学ぶ時として、人をこの世界で教育され、どう生きるかを教えておられます。
それぞれの人生がどんなかたちであろうと、永遠にふさわしい者となるために、神様が私たちを訓練されていることに変わりはありません。そして、永遠の滅びを受けないための罪の処分はもうしてくださいました。若い人は何回も失敗するかもしれませんが、それを通して、みつばさの陰に宿ることの幸いを知るでしょう。わがままを通せば、火の中に自ら入ってしまいます。みつばさの陰に留まるには忍耐が必要ですが、愛されていることを感じれば、人は忍耐ができるものです。親の気持ちを知ることによって、私たちはさらに次の世代への思いやりを持つことができます。
3.受け継がれる愛が『豁然大悟』(かつぜんたいご)をもたらす
(第1コリント12:3)
“ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。”
★『豁然大悟』の意味
疑い迷っていたことが、からっと開け解けて真理を悟ること。
クリスチャン生活において、自分のわがままが制限されてくると、世の中の人が自由に見え、迷いが出てきます。しかし、神様を第一にするのは、親を大切にすることと同義です。現代では、お金で親孝行を測る人がたくさんいますが、冷たい考えと言わざるとえません。もちろん、自分の手が足りない部分を業者の手によって補うことは、決して責められるべきことではありませんが。
自分の生き方に迷いが出た時は、愛が欠乏しています。愛が足りないと疲れ、希望が持てなくなってきます。心は肉体の休憩ではいやされません。力を受けるのは愛が注がれた時のみです。どんな人にも必要なこの愛を、私たちは愛の源なる神様から受けるために心を向け、愛の励ましを受けます。そして休みを得、回復し、また歩み始めるのです。それは直接神様から受けたり、クリスチャン同士や善意の人を通して受けるかもしれません。神は愛です。この方からぜひ愛を受け、疲れをいやしていただいてください。愛は疑いや迷いから私たちを解き放ちます。そして真理を悟れる力をくださいます。
(第1コリント12:3)を読んで、前回お話ししたことを思い出してください。聖霊は神の愛そのものと捉えても問題ない、とお話しましたね。そこを踏まえて読み返せば、愛を注いでくださる方を呪うなどありえません。だからこそ人は試され、逆境の中でどういう告白をするのかを見られるのです。もし愚痴を言うなら、愛をわかっていなかったのです。愛はすべてのものを前向きにとる力を持っています。愛を受け取り、信じている人は、相手のする事を疑わずかえって将来に希望を抱いています。そういう人は、「イエスは主です。」と心から言うことができます。みなさんも、わがままが通ることが愛だと勘違いしないでください。ぜひ、愛に対する真理を悟っていただきたいと思います。
■2011年6月12日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
失望で終わらない愛 up 2011.6.12
この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
(ローマ5:5)
今日はペンテコステ記念礼拝です。「ペンテコステ」という言葉は、五旬節の意味があります。イスラエルには過越の祭り、ペンテコステの祭り、仮庵の祭りという三大祭りがあり、これらの祭りは十字架、復活、聖霊の降臨、そして再臨と、イエス様が地上に来られた目的と働きが1つずつ成就していく「神様の時」を知らせる大事な役割をしています。
「聖霊の満たし」「神の霊に満たされる」とは、キリスト教の専門用語では「聖霊のバプテスマ」「聖霊の賜物を受ける」「父なる神様の約束のもの」と呼ばれ、神の霊が私たちの内に助け主として住まわれ、満ちてくださる、という出来事で、教えではなく体験です。
水のバプテスマは正しい良心の神への誓いとして、神との間に契約のサインをするようなものですが、それに対して、神の側は私たちの内に聖霊を遣わして心に証印を押され、署名して契約を結んでくださいます。この契約は相互の意志表示と証が必要で、確かに間違いないものとして、私たちは洗礼を受け、神は聖霊の満たしを与えてくださるということです。今日は、愛という側面から、聖霊を私たちの内に迎え入れ、聖霊に満たされることをご紹介したいと思います。
(ローマ5:5)より、この希望が失望に終わらないわけは、神の愛が私たちの心に注がれているからです。それは、与えられた聖霊によって分かります、ということです。私たち人間の愛は限界があります。失望と絶望という暗い中で、不思議に自分ではない光のようなものを心に感じることがあります。それが神の愛の光です。完全に人間的希望を失ってしまうと、神の希望だけが見えてくるのです。それによって、神様が自分を愛してくださっていることや、聖霊様がおられることがわかります。今、窮地に追い込まれ、自分の力、信仰に絶望している人、もう一度ご自分の信仰生活を見直してください。あなたの内に愛の光が輝いているはずです。注がれている神の愛に気づいていただきたいのです。この愛が、あなたの心をもうひとたび満たしてくださるという希望を持っていただきたいと思います。
1.神の愛を知るために(第1コリント2:10)
“神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。”
愛が注がれていることは、聖霊が私たちの内に来られていることでわかります。聖霊は神であり、神は愛なる方なので、御霊と愛は同じものだと言えます。聖霊に満たされることは、神の愛に満たされることでもあります。聖霊様は私たちが神の愛を知るために遣わされておられることが、(第1コリント2:10)からわかります(探る=極めるの意)。神様は私たちの霊に直接聖霊様によって啓示を与えてくださいます。しかもこの聖霊様は、私たち人間は理解できない無限の神様を啓示されるのです。三次元で得た知識では、到底神様を理解できません。知識でなく魂・霊で神様を知るようにと、聖霊を私たちの魂・霊にお遣わしになるのです。
例えば、三位一体の神が、三つの人格があっておひと方なる神であることを、聖霊様はあなたの霊に触れて啓示され、私たちの霊・魂は理解できるのです。知識を超えた理解は、神の霊と私たちの霊とのつながりでなされます。愛も同じで、三次元の愛を超えた無限の愛を神はお持ちですが、知識による人間的理解を超えた状況を、御霊によって「神は愛」であることを理解させてくださいます。人知をはるかに超えた神を知るためには、私たちの能力、才能、力を超えた部分で教えられなければわかりません。ですから、聖霊様が助け主として私たちのところに遣わされることが、絶対に必要です。まして、神の愛はもっと深く大きいので、御霊によらなければ、神の愛を知ることはほぼ不可能に近いということです。ですから、聖霊に満たされることを求めて、自分の知識で理解できなかった啓示を少しでも与えられていただきたいと思います。
2.心を伝えて下さる愛のとりなし(ローマ8:26)
“御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。”
クリスチャン生活がわからない、信仰がわからない…と自分の知性が混乱している時に、どう祈ったらよいかわからない時があります。そうすると、何とも言い知れぬ辛さが感情に表れてきて、魂が迷い苦しんでいる状態に陥っています。そんな時、聖霊ご自身があなたの言いようもないうめき以上の深いうめきをもって、あなたのためにとりなしてくださるというのです。神様を知る目的だけでなく、私たちの心苦しい深い思いを200%伝えてくださるのです。
(100%は私たちの心そのまま、さらに私たちの苦しみを見られ、聖霊様は同情して100%プラスしてとりなしてくださるのです)。聖霊様は、私たちと神様をつなぐ心のきずなです。このきずなは愛というきずなです。神様と私たちの間に成立する愛、そこに聖霊様がおられます。愛があるところに聖霊様がおられ、聖霊様のおられるところに愛があります。聖霊様は神の愛に十分応えられない私たちの自己葛藤を、言いようもない深いうめきによって神にとりなしてくださいます。私たちの、自分でも言い知れぬ苦しみの深さを聖霊様は極めてくださり、神様にとりなしてくださいます。だから私たちは失望に終わりません。魂は失望しても、愛なる聖霊様が、私たちの魂のうめきを神様に伝えてくださることに希望を見い出すからです。絶望しているからこそ、神に希望が持てます。聖霊様が、神の愛が私たちの内に存在してくださるからです。聖霊様は私たちの助け主としての役割を果たしてくださる、大切な大切なお方です。ぜひ満たしていただけるように、求めていただきたいと思います。
3.『父子相伝』(ふしそうでん)の御霊を遣わされた(ローマ8:15)
“あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。”
★『父子相伝』
学問や技芸などのあらゆる道の奥義を、父から子だけに伝えていくこと
「お父さん」と子どもに呼ばせるのは、相続させることを考えていることを意味します。しかし、この世のヒューマニズムや個人主義という価値観は、子どもに良いものを伝承する心を弱らせました。親が、「自分の財産は自分のために使って当然」「結局自分勝手に育つのだから、子どもを教えない」…これらの考え方には、あまりに愛が見られないのではないでしょうか。クリスチャンにも、この世の不敬虔で貪欲な価値観を持った教えが影響を与えている可能性があります。あなたも、親であったり、弟子がいたり、上司の立場であったりするなら、あなたが得たものを子どもや生徒や部下に教えていきたいと思うのが愛ではないでしょうか。
「アバ、父よ。」と呼ぶ御霊を送られたというのは、「神様、私はあなたの子であって、あなたが私たちに相続させようとされているものを受け取ります。どうぞ私にあなたの奥義を教えてください。ぜひそれを受け継いでいきたいです。」という意味も含んでいます。これは弟子が師匠を愛し信頼し尊敬している気持ちの表れです。このような心が湧き上がるように、御霊が私たちの心に遣わされたのです。これが愛です。
聖霊様が私たちに父からの愛を伝えてくださったなら、その愛に応える反応として「父よ。」と呼べるようになるのです。これが御霊の働きで、私たちと神様との関係を作り出してくださいます。そして最も偉大な伝承は、神の愛です。奇跡を行う力、知恵深い神の奥義…それらを含めて究極の神の愛を継承させるということです。それは天使ではなく、子と呼ばれる者だけが継承できるのです。 「神のかたちに似せて造られた」とあるように、神のDNAを受け継ぐように、私たちは造られました。それはアダムの子孫である私たちだけです。私たちは悩み、苦しみ、楽しみ、喜び、辛さ、悲しみ…すべてのことを味わい知らねば、神の愛を継承する準備ができません。「神のかたちに似せて造られた」ことは、絶対変えられない運命です。その道から逃れることはできません。私たちは、愛なる神の愛を受け継ぐために造られた神の子です。愛を継承するために造られた私たちが、愛を継承しないと拒むから、的外れの存在になって、永遠の神の御国を受け継ぐことができなくなってしまいます。私たちが目指すのは、一つです。聖霊の満たしは、神の愛を伝授させるための神の奥義です。それはキリストであり、すなわち神の愛そのものという奥義を、聖霊はあなたの内に啓示します。今以上に、神様のすばらしさに触れたいと思うなら、後は御霊に満たされて、御霊から啓示を受けていくということだけです。私たちは、三次元という肉体に四次元の霊が宿っています。同じように、四次元の神の霊が三次元の肉体の中に、私たちと共に住んでくださっています。私たちが肉体的神のDNAでなく、魂・霊として神様の霊的DNA、愛を継承するために、御霊を私たちの内に遣わしてくださいました。本当に知りたいのであれば、聖霊に触れられ、満たされるしかありません。そうすると愛がわかり、赦されていることがもっと深くわかり、赦すことがわかってきます。イエス様が教えられたことを、御霊があなたの霊に伝えられます。そのためにも聖霊に満たされる時間を多く保つことができる、私たちの人生でありたいと願います。この一週間の中で、どれだけ聖霊に満たしを受けて過ごすことができたか〜問題にぶつかったり、わからないことや矛盾にぶつかったり、知性で計り知ることのできない思い煩いにぶつかったりした時に、聖霊に満たされたら、すべて解決がやってきます。これは希望です。ですから聖霊に満たされるとは、失望で終わることのない愛で満たされることと同じです。
私(辻師)は、御霊は神の愛そのものと気づいた時から、聖霊に満たされるすばらしさがわかりました。この神の愛が基となってはじめて、奇跡が現され、知恵深くされ、聖霊の奇跡的9つの賜物が生み出されるのです。直接神の愛に触れるとは、聖霊に満たされることです。あとは理屈抜きで、聖霊に満たされることを必死で求めていただきたいと思います。ただただ神の愛を信じて、神の愛に満たされたいと求めてください。
■2011年6月5日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
愛による赦し up
2011.6.5
子どもたちよ。私があなたがたに書き送るのは、主の御名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。
(第1ヨハネ2:12)
1.『子どもたちよ』師弟関係の愛
★(ヨハネ13:33)
“「子どもたちよ。わたしはいましばらくの間、あなたがたといっしょにいます。あなたがたはわたしを捜すでしょう。そして、『わたしが行く所へは、あなたがたは来ることができない。』とわたしがユダヤ人たちに言ったように、今はあなたがたにも言うのです。」”
『子どもたち』=自分の子ども、教え子、子飼いの弟子
師弟の絆が結ばれることがポイント
【敬聴】
みことばであるイエス様と師弟関係が築かれる。
イエス様は、特に12人の弟子とは寝食を共にし、いつもそばにおられました。このイエス様に「子どもたちよ」と呼びかけられるのは、弟子たちにとってどれほど喜ばしいことだったでしょう。自分の敬愛している方から親しくこう呼ばれる時、その家族の一員として迎え入れられているという安心感が湧いてきます。皆さんはどういう仲間作りをし、どういうグループに属しておられるでしょうか。
仲間に迎え入れられることは本当にうれしいものですね。神様からの「わたしの愛する子」という呼びかけを、みことばから感じているでしょうか。強く感じられるほどに、自分は神の家族の一員なのだと喜びが湧き、安心感が得られるようになります。
イエス様はあなたを、自分の愛する子として、ありのままに受け入れてくださいます。そして未熟な弟子ほど、愛による赦しを感じやすくなります。失敗してもなお教え続け、「わが子よ」と励ましてくださる、神の寛容な深い愛を感じ取っていきます。神はあなたの成長を願って、赦しの愛を注いでくださいます。
2.『書き送る』愛が込められた言葉が送られる
★(詩篇107:20)
“主はみことばを送って彼らをいやし、その滅びの穴から彼らを助け出された。”
【内容観察】
神は、私たちをいやすため、また、滅びの穴から救うためにみことばであられる御子イエス・キリストをこの世に送られた。
神のことばである方は、神の愛の言葉、いやしのみことばであられる。
【敬聴】
聖書を読んだり、メッセージを聞いて、みことばが届けられたことを書き記しましょう。
この手紙をヨハネが書いた理由は、愛によって赦されていること、つまり、あなたがたは神に愛されているということを伝えたかったからです。愛がわき起こってこないと、赦すことはできません。それが本当の赦しです。しかし世の中は、利害関係で赦すか赦さないかを決めてしまいます。自分に損を与え続ける相手に対しては、なかなか赦せないものです。
愛のある教師は、できない生徒を放っておけず、居残りさせてでも教えようとします。放っておけないというのは、そのできない生徒を赦し受け入れているからです。逆に放っておくというのは、できない生徒を受け入れられないからです。会社の就職は、成績が良ければ受け入れ、悪ければ受け入れません。それは会社に利益を与えるか否かが基準になるからです。もし同様の基準で子どもと接したら、大変なことになります。子どもは未熟なので、教えてもなかなかできないのは当然だからです。ひどい事件が先日発覚しました。アフリカで誘拐された少女たちが子どもを産まされ、その産んだ子どもを売るという人身売買が、組織的にされていたのです。子どもを自分の利益のために育てる…恐ろしいことです。
愛するとは、自分の利益になるかどうかが問題ではありません。自分の子どもとして認めることが大切なのです。神様は、私たちがいかに罪深くても、自分の愛する子として見てくださり、愛のことばを「聖書」にして、すべての国、人々に贈ってくださいました。聖書は神様からの愛の手紙です。今、数千の言葉に訳されており、もう少しで、世界で使われているすべてのことばに翻訳されるそうです。それほど聖書は、あらゆる国語の人々に、神の愛の手紙として読まれています。私たちも、人々にことばをかける時、塩で味つけられた優しい親切なことばを使うように気遣うことが大切です。ことばを送るというすばらしさは、(詩篇107:20)にあります。
「ことばを送っていやしがなされる、助け出される」とは、なんとすばらしいことでしょうか。
私たちも、東日本大震災で被災された、特に女川市の小学校数校に、前回のチャリティーコンサートの収益で図書券を買って届けました。そこは読書が盛んな地域でしたが、本をすべて津波で失ってしまいました。それを、あるクリスチャンの方が教育委員会で聞いてきたので、私たちは図書券にして学校へ送りました。(現金は直接渡せないので)1万円の図書券を100枚揃えて、各学校に20枚ずつ配りました。本が好きな子どもたちは、どんなに喜んだことでしょう。震災を受けた多くの子どもたちが、読書を通してなぐさめられ、励まされることを祈ります。ことばにはそのような力があります。また、そこに一緒に、たくさんの皆さんのメッセージカードを入れています。広島からの愛の言葉が、被災された方々の心に届けられました。
ことばを送ることはすばらしいことです。愛の言葉は赦しです。そのことばを私たちが持つために、まず、神のみことばを受け取りいやされましょう。見えない神は、ことばを送られました。そのことばは御子であるイエス・キリストです。イエス様のことばには、神の生命、力強さがあります。そのことばをもって、私たちは互いに励ましあい、助け合うことを、神は望んでおられるのです。愛の込められた言葉を心がけたいものです。そういう交わりのできる集団が教会です。
3.『玉石混交』(ぎょくせきこんこう)の教会(エペソ4:32)
“お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。”
★『玉石混交』の意味
優れたものと劣ったものが区別なく入り交じっていることのたとえ。
★『主の御名によって、多くの罪が赦された』
教会は、どのような人であれ、ともに主の御名によって罪が赦された人々の集まりである。それは、『キリストの御からだ』と表現されるほどに、神の愛によって一つとなった社会である。
いろいろな人々が混じりあい、へだてを感じることなく交われる、そういう社会が教会です。どうしてそういう社会が実現できるでしょうか。それは(エペソ4:32)にある「愛による赦し」によります。もし教会で、社会的地位や能力によって座る位置が決まっていたら、もうそれは教会とは呼べません。もし受け入れられない兄弟がいるなら、それは「兄弟を憎む」という暗やみの中に入ることになります。
ある人はマンガのことしか話をしないとします。そういう人は聖書のことも話せない…しかし、だからといって交わりを持とうとしないのは行き過ぎであり、赦せていないという心です。(いつまでたってもマンガばかり読んでいるのは問題ですが)私たちはキリストを信じ、神の愛を受け入れているという共通点のゆえに、どんな性格、どんな人であっても、交わりを絶つのは「憎しみ」というやみをもたらす原因となりかねないので、気をつけましょう。
しかし、交わりとは互いを高め合うためであり、互いの足を引っ張り、壊し合うようなものではありません。いつまでも世の中的で、中途半端であり続けるような人とは、交わることで悪い影響を受けてしまい、確かに良くないものがあります。ただ、どれだけ長い間、今もなお、いたらない私たちの罪を、神は赦し負い続けてくださったかを思う時、短期間で相手との交わりを避けるようになっていいものでしょうか…私たちは日々罪を犯し、赦され続けている者です。
先週皆さんはどんな罪を赦されましたか?どんな的外れをしたでしょうか。それに気付くほど、「赦されているんだなあー」と、赦しの愛を感じることができます。でも具体的な罪に何一つ気付かず一週間を送り、メッセージで「神はあなたを赦してくださってますよ」と聞いても、ピンとこないでしょう。それは知識で聞くだけになっているからです。しかしたとえば、スピード違反で捕まった時、必死で懇願をして許してもらえたとしたらどうでしょう。うれしいという感動が心に湧き上がるはずです。
私が皆さんに「神は愛をもって赦してくださいました」と語った時、何人の方が心から感動されたでしょうか。皆さん、赦されるということは感動なのです。具体的な罪の赦しがわからなかったら、感動はありません。あなたの何が赦されているのですか?たとえば礼拝中、足を組んでいる聞き方に不遜さがあると注意されたとします。さっと足を戻しますね。それは言われたからやめたというだけのことです。しかし大切なのは、神はこんな自分を赦し、礼拝で神の前に出ることを許してくださっている、と心から感動し、赦されているうれしさに満たされるなら、注意されなくても自然に敬う態度に変わるはずです。
大切なのは、赦されていることを心の底から気付くことです。気付くならば、自然に敬虔さが身についてきます。罪を責められても嫌がらないでください。なぜなら、それは赦されているということが教えられる時だからです。「そういう私を、神は赦し受け入れてくださっている」と、感動してください。その感動こそが必要なのです。
私も、もともと教会で教える立場である教師であり、先輩であった妻と結婚してから、たくさんの注意を受けました。田舎で育った私は、夫が妻から注意されること自体が受け入れがたく、大変なストレスになりました。このストレスをどうしたら良いのかを、神の前に祈りました。自尊心というプライドが、正しいことばも受け止められなくなってしまっているそういう時、砕かれるいい方法がありました。それは、妻がたくさんの注意をせざるを得ない私を、神は赦し受け入れてくださっているということがわかったことでした。
「神は赦してくださっている。」不完全な妻でさえ気付くような、多くの問題のある私を完全な神が赦し続けてくださっているということ、この赦しに私は砕かれました。
人が一番砕かれるのは、愛に感動した時です。その時プライドは溶け去り、心が柔らかくなります。忍耐と寛容な神の愛が私を支え、成長する励ましを与えてくださいます。そして、注意されることばも素直に受け取れます。
「神に愛されている」ことに気付いた人々が、玉石混交しているのが教会です。この深い真理に気付いてください。
■2011年5月29日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
愛は人の目を開く up 2011.5.29
兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩んでいるのであって、自分がどこへ行くのか知らないのです。やみが彼の目を見えなくしたからです。
(第1ヨハネ2:11)
やみが人の目を見えなくさせる、とは、逆の言い方をすれば、愛が人の目を開かせるということです。今回のメッセージは、前回、前々回のメッセージとあわせて、より理解を深めてください。
兄弟を憎むとは、受け入れない、つきあわない、避ける、といった気持ちです。それはやみの中を歩んでおり、つまずきやすく、どこにいくかわからない状態であり、これが心の目が見えない状態です。この目は愛によって開かれていきます。補足ですが、ここで言う心は、知性、感情、意志などを指しています。ではやみの心の詳しい状態を調べてみましょう。
1.やみの中にある心
(1)知性が腐っている(第2テモテ3:8)
“また、こういう人々は、ちょうどヤンネとヤンブレがモーセに逆らったように、真理に逆らうのです。彼らは知性の腐った、信仰の失格者です。”
真理を語る者、指導者に対する反逆です。それは人を受け入れないがために、その人が持つすべてを否定するのです。
<不敬虔で否定的な知性は、すべてをマイナス思考で捉えてしまう。>
良い知識も否定的に受け取るので、良いものがダメになってしまいます。今、マイナス思考の方は、自分は知性が腐っているかも、とショックを受けておられるかもしれませんね。しかし実際のところ、身についたマイナス思考は真理さえ腐らせかねないのです。
(2)怒りと憤りの感情(エペソ4:26)
“怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。”
怒りや憤りなどの感情を長く持ちすぎるのはよくありません。こんな感情のまま、性格を良くするのは不可能です。周りの人へのイメージもよくありません。やみの心は怒りと憤りが怒りやすいのです。
(3)かたくなな意志(使徒19:9)
“しかし、ある者たちが心をかたくなにして聞き入れず、会衆の前で、この道をののしったので、パウロは彼らから身を引き、弟子たちをも退かせて、毎日ツラノの講堂で論じた。”
パウロに逆らう者たちは心をかたくなにして、「絶対に聞かない」と心に決めていたのです。ユダヤ人たちはパウロの語る救い主イエス・キリストに反感を抱き、他の箇所では「パウロを殺すまでは飲み食いしない」とまで言っています。これは強い意志決定がなしうることです。相手が正しくても決して受け入れず、どんな方法でもいいから、相手が間違っていると決めつけるのです。正しいことを守る固い意志は良いものですが、間違っているのに認めず悔い改めない固い意志は損をします。
自分を顧みた時、私たちの心に否定的、怒りっぽい、強情さなどが出ているとしたら問題ですね。みことばに対して「そうかもしれないが」と、受け入れにくくはありませんか。怒りが度々起こり、なぜかわからないことがありませんか。自分の意見をなかなか譲れないことはないですか。思い当たる節がある人は「兄弟を憎む者は
やみの中におり」ということばで、自分を吟味してみてください。誰かを受け入れることができない拒絶感が自分の内にあって、暗やみを持ち込んだのかもしれません。あいさつを避けたり、無意識に人を拒絶してしまったり、交わりを拒否したり、いろんな理屈を付けて交流をいやがるのは、兄弟を憎む領域に入りつつあるのかもしれないのです。この領域に踏み込んでいけば、人生すべてにおいて腐った知性が働いて、マイナス状態に陥ります。腐った知性は長く持つほど習慣化して、定着してしまいます。自分と合わないと思われる人への気持ちは、心が騒ぐ→イライラする→怒り→憤り→憎しみにまで発展します。礼拝の賛美に入れなかったり、メッセージを聞いてもむなしく聞こえてくるなら、兄弟を愛さない自分の心を反応させないために、無感動にしているからです。たとえば賛美をする時みんなと同じにできないなら、「どうしてできないのか」と悩むのが大事なことです。自分の問題点を明らかに示し、解決策を教えてくださるように祈っていきましょう。
2.心の目が見えていない(ヨハネ9:41)
“イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」”
見える、わかっている、私は正しいという立場を取る人たちの問題点を、客観的に考えてみましょう。生まれつき目の見えない人をいやされたイエス様に文句を言ったユダヤ人たちのやりとりが(ヨハネ9章)に記されています。自分は目が見える(罪人ではない)と主張する彼らの、イエス様を受け入れない心の姿勢と、兄弟を受け入れられない私たちの心の姿勢には共通点があります。それが何かを考えてみてください。
目が見えないと認めるとは、罪人であると認めることであり、その告白は真実ですから罪は認められません。ありのままの自分を告白すれば、神様は赦してくださいます。しかし、目が見えると言い張ることは罪を犯していないと言うことであり、罪がないから赦される必要はないと主張する限り、この人の罪は赦されようがないのです。自分を変えようとしない自己保身、暗やみ、それでも自分を守ろうとする心が挙げられます。皆さん、ご自分を一つの霊としてよく探り、やみの心の部分、罪性というものを認めていただくために、下の【敬聴】を用いてください。
【敬聴】「見える」と言い張る人の心の問題点を考えてみましょう。
もし自分が暗やみにいるとわかったら、どうすればいいでしょうか。「互いに愛し合う」光の中に戻りたいという気持ちがあれば当然、自分の罪を悔い改めて神様の方に近づく努力をするでしょう。しかし、光の中に戻ること、すなわち兄弟姉妹を受け入れることと知って「それはしたくない」とかたくなに拒む場合があり得ます。間違っていると知りつつ、受け入れたくない心のために、強情を張るのです。すると怒りがわき、腐った知性が加わり、ますます強情になります。結果、集会にくることさえ苦痛になり、聖書も読みにくくなり、祈ることさえできなくなります。人を受け入れないことは、こんなにも信仰生活に支障をきたす重要な問題なのです。ヨハネが互いに愛し合うこと、兄弟を受け入れることをこんなにも執拗に語るのは、これが本当に重要な事柄だからです。特に教会は、神の家族として互いの関係を結びあわせる場所であるのに、この世界の個人主義的価値観を持ち込むと、「神様と私はつながっている。他の人は関係ない。」という、聖書にそぐわない社会になってしまいます。私たちクリスチャンは、いつでも関連性を持った仲間であり、家族なのです。私たちが神の子としてキリストのように成熟するために、愛しにくい、受け入れにくい人々との接点を、神様はおつくりになっています。イエス様はどんな人でも愛されました。私たちもイエス様と同じになれるように成長していきます。もちろん物理的には限界がありますが。
心に留めておくべきことは、交流を持つことに対する苦手意識や拒絶感です。そこに働く知性、感情、意志が感じられたら、それは心がやみの中に引き込まれてしまう発端になりうるという危険性を知っておいてください。「自分はクリスチャンとして成長が遅い」と悩む原因が、実は兄弟を受け入れていないという見た目には小さい事柄から起こっているかもしれません。これらに注意してやみから脱出してほしいのですが、もし自分の中にやみの源があるなら、そこから出ることはできません。やみは光によってのみ、あなたの内から追い出すことができます。
3.『判官贔屓』(ほうがんびいき)が目を開かせる(マルコ6:34)
“イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた。”
★『判官贔屓』の意味
弱者や薄幸の者に同情し、味方したり応援したりすること。
源義経が、兄の源頼朝にねたまれて滅んだことに、人々が同情を寄 せたことからいう。
同情する=あわれみを持つと捉えると、クリスチャンにはわかりやすくなりますね。兄弟を愛せないのは、相手へのあわれみ、同情心が起こってないからです。(マルコ6:34)で描かれている群衆はイスラエル人です。彼らの歴史には、神様への反逆が数多く記されています。しかしそんな民でも、イエス様の目には羊飼いのいない羊のように映り、あわれみの心を起こされたのでした。そして疲れておられたにもかかわらず、彼らを教え始められたのです。
どういう見方をすれば、否定的、反抗的な人をあわれむことができるのでしょうか?
『羊飼いのいない羊』=その人のあわれむべき状況を見つける。
『深くあわれむ』=あわれみが湧き上がって来るほどに、その人のことを深く思い見る。
たとえば聖餐式で、体の不自由な人が時間をかけて列に並ぶと、後ろの人たちはずいぶん待たされることになりますが、その姿を見て何を感じるでしょうか。人に頼めば効率的ですが、「自分の足で自分の手で、直接パンと杯をいただくことによって、神への信仰を表したい」という願いをもって、弱々しくも歩みを進める姿に、神への感謝を感じませんか。このように、同情心をもって人の心を見ることができたら、腐った知性はいやされ、怒りは平穏に変わり、かたくなさに替わって寛容さが出てきます。神様が、私を羊飼いのいない羊のように見てあわれんでくださったことに感じ入ることができるかどうかが、深い同情心を持つに至るカギです。自分があわれみを受けて元気になったことがある人は、他の人にあわれみを持つことが比較的容易です。損得勘定でしか物事を見られないなら、自分への助けは得、しかし人への助けはどちらかを考えます。あなたはどういう理由で神様のあわれみを受け止めましたか。損得か、行いの良し悪しか、他の何かですか。そのままの自分を神様が受け入れてくださったと思える人は、理由なしに人への同情心を持てます。
イエス様の十字架の愛を自分がどう感じて受け止めたかがとても大事で、これを少しでも間違えると、兄弟姉妹を愛するということが歪んでいきます。「この人とは良い交わりになりそう」「こんな人とは良い交わりはできない」イエス様がすばらしいお方だからあなたは受け入れたのですが、具体的にはどこですか?力ある方で奇跡やいやしを行われたからですか?それとも、あなたをあわれんでくださったそのあわれみのすばらしさに感じ入ったからですか?この違いは兄弟姉妹との関わり方の違いにだんだん現れてきます。兄弟を憎む者の原点は、神様の愛をどう受け止めたかにあるように思われます。もし利害によって神様を信じていた部分があったとしたらそこで反省して、もう一度神様の愛、あわれみに触れるとはどういうことか、あわれみを大きく深い愛として感じ取りたい、とぜひ求めてください。神の愛に触れたら、あなたは必ずいやされます。神様の愛はそれほどにまで完全で力強い光なのです。自己中心というやみは完全に取り除かれます。自分ではなかなか取れない自己中心の怒り、否定的な思いなどを、愛は一瞬にして取り去る力を持っています。このようなすばらしい神様の愛、欲しいですよね?だから愛を目指して歩むのです。このすばらしいイエス様の愛に憧れて私たちは毎週教会に集まり、少しでも触れられること、変えられることを望んでいるのです。
■2011年5月22日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
愛はつまずかない up 2011.5.22
兄弟を愛する者は、光の中にとどまり、つまずくことがありません。
(第1ヨハネ2:10)
「愛の使徒」であるヨハネが、「創造主なる神は愛なる方である」と断言していることは非常に重要な意味を持ちます。
1.『つまずき』について
(1)歩いていて
よろける、けつまずく、もつれる、バランスを崩す、おぼつかない
(2)計画など遂行していて
失敗する、行き詰まる、壁に突き当たる、挫折する、不成功、
出遅れる、くじかれる、中止になる、落とし穴にはまる。
(3)ギリシャ語から
(動物を捕らえる)わな、道に置かれた障害物、つまずき、人をつまずかせて罪に引き入れる原因、信仰の挫折を引き起こすもの、信じる前に抵 抗を引き起こすもの
このように、神に対する信仰生活において「つまずくことがありません」、また人間関係において「つまずくことがありません」という意味あいで、今日のみことばを考えていきましょう。
「光の中にいるとつまずくことがない」というのは、つまずく要因があっちこっちにあるけれども、光の中を歩んでいれば、よく見てそれらを避けて通ることができる、すなわちつまずかない、ということになります。光の中に留まっている証は、兄弟を愛していることです。ヨハネが表した光と愛の関係を思い出してください。兄弟を愛するとは、家族関係を指します。家族はたとえ一時的にケンカをしてもすぐに和解できますし、そのつながりは切っても切れないものです。私たちは感情だけでなく、「家族として相手の存在を認める」ことが、「愛する」上での大事な点ではないでしょうか。
私たちクリスチャンは、イエス様の十字架での犠牲を通して、神様の愛によって生まれた者です。切っても切れない、キリストにおける家族関係がそこにあります。たとえ嫌いな人がいたとしても、それで家族関係が切れることはありません。この世界の家族でも、たとえ籍を抜いても、そこから生まれたというつながりは消せませんね。
ではなぜ教会では「つまずき」=「兄弟姉妹と関わらず、交わらないようになる状態」が起こるのでしょう。「私は神様は信じていて、愛している。しかし、この教会の人々と交わるのは嫌だ。」という人がいるかもしれません。そういう人は、日曜のメッセージを聞いたら、他の人々と接しないようにそそくさと帰るのでしょう。せっかく賛美で心洗われた気持ちの時に、未熟な兄弟たちの無思慮なふるまいによって、その心を汚されてしまったような落胆を感じるのかもしれません。しかし、神を愛していると言いながら兄弟を受け入れないのは、親を愛しているのに、その同じ親から生まれた者たちを受け入れないということです。これは冷たい家族関係と言えませんか。親と子どもの誰かが話をするたびに、他の兄弟は自室にこもって様子をうかがい、自分の番を待つのです。兄弟同士では顔も合わせません。そんな家族関係に、神の愛が溢れるはずもありません。
では、人の心が神様によって安心を得、人との交わりによって騒がされるというこの差は、何が原因で起きているのでしょうか。神様は、相手がどんな人であろうと丸ごと受け入れてくださるので、安心できます。しかし、人間同士は不完全なので、相手を受け入れきることができません。教会に長い期間在籍するほどに孤独感を感じたり、自分の殻に引きこもったりすることが起こりえます。これはつまずいた状態であり、このつまずきを取り除かない限り、神の愛など証明できません。もし対外的に熱心なボランティア活動をしたとしても、身内である兄弟姉妹に対して、知れば知るほど心を閉ざしてしまうなら、その人のボランティア活動は果たして本物なのでしょうか。このような歪んだ状態を私たちは持っていて、しかも見ないふりをしてはいませんか。人数が多くてフォローしきれないのではなく、特定の誰かを嫌ったり、心を閉ざすその姿勢自体が、何かにつまずいている証拠ではないでしょうか。どういうことに対して私たちがつまずいているか、(黙示録2:14)を敬聴し、黙想することによって気付かせていただきましょう。
【敬聴】
(黙示録2:14)から、『つまずき』についてどのようなことが教えられますか?
“「しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行わせた。」”
教会の中につまずきの石を置く人がいます。「偶像の神にささげた物を食べさせ、不品行を行わせる」つまり、神様を信じる信仰からそらせるようなものを持ち込むのです。もし教会の牧師が「どの神も大事」とか「行き着く所は一緒」とか言い出したら大問題ですが、そんなことを言い出す背景には、自分を正当化しようとする思いがあるのです。自分が正しくないことを知っていながらそれを通そうとするなら、イエス様が愛をもって語ってくださっている真実を、自分なりの解釈で曲げてしまいます。こんな思いを自分の中で持っているだけなら、いつか神様に悟らされて、正しい道に戻ることがあるかもしれません。しかし自分が原因でつまずいた人を元に戻すのは、とても困難です。私たちはどこで人につまずきを与えているか、よく吟味しておかないと、神の御前に立った時に、違った教えを人々に証してしまっていたことがわかるかもしれません。むしろ「私のような信仰の足らない者の意見など、参考にしないでください。」と言っておいた方が賢明かもしれません。「つまずきとなる」とはどういうことなのか、皆さんそれぞれ悟らせていただき自分のうちにつまずかせるようなものができていないか、吟味しておいてください。
2.(第1ヨハネ2:10)
“みことばは前述”
【内容観察】
兄弟を愛する者は、光である真理のみことばを行っているのであって、不安定で、行き詰まり、挫折するようなことはありません。
みことばの内容を自分なりにどう受け止めるか、祈りつつ自分のことばで言い表してまとめてみてください。私個人がまとめてみた内容はこうです。真理のみことばを行っていること自体が光の中にとどまっていることであり、そのみことばを行うとは兄弟を愛することであり、私たちに与えられた唯一の戒め「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」これを行っていれば、決して不安定になったり、挫折したり、行き詰まったりすることはない。ヨハネはこう言っていると思うのです。
【敬聴】
愛することが、どうして『つまずく』ことが無いのかを考えてみましょう。
【参照】(第1コリント13:4〜7)
“愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。”
参照のみことばから考えてみます。たとえば、新婚当初は愛が燃えているのでうなずけるこれらのみことばも、感情の上り下がりによって不安定なものへと変わってしまいます。どうすれば「つまずくことのない愛」の領域にたどり着けるのかを、聖霊様に教えていただいてください。愛は理屈ではありませんね。どんな時あなたは親切になり、寛容になり、またねたみなどのマイナスの感情を捨てることができるのでしょうか。考えてみれば、感情が盛り上がっている時、人は理想に近い反応ができます。とすれば、こう言えるでしょう。感情的愛が主体になってはいけませんが、このような愛を示すためには愛を感じていなければできません。理屈で正しいからと、強い意志をもって実行することもあるでしょうが、それにはとてもストレスがたまります。しかし愛の感情が強く内側に働けば、ストレスなく実行できます。決して感情的愛を土台にしてはいけません。しかし、つまずかないためには、常に愛を感じている必要があるのです。神様の愛を説教で聞いて理屈で納得したからといって【参照】にある愛の性質が身についているわけではありません。私たちの内にあるマイナスの性質を取り除くには、大きな愛に触れられる必要があるのです。愛は理屈でなく、感じ取っていくものだからです。自分の心に愛する気持ちが湧き上がってくるような光を受けなければいけません。光は感じるものをそのまま受け取ります。愛も感じるものそのままを受け取ります。神様からの愛を感じ取るなら、愛の反応、行動が生まれてきます。
3.聖書の『君恩海壑』(くんおんかいがく)となるみことば
★『君恩海壑』の意味
主君から受けた恩は、海や谷のように深い。
神を愛し、兄弟を愛する心が湧き起こってくるみことばを選び、分かち合いましょう。私たちは主君なるイエス様から、罪人が受けるべき永遠の滅びより救われるという恩を受けました。しかもそれは無代価で、自分にふさわしくない「いのち」をいただいたのです。今回は「愛」より「恩」の観点から、イエス様を見てください。恩を感じると、人は自然に「ありがとうございます」という心の動きが起こります。「恩」は実際に感じなければ、そのありがたみがわからないものです。十字架の神様の恩を、理屈でなく心で感じてください。
今、東北大震災に遭われた方に、広島から100円のジュースを差し入れとして持っていったとしたら、価格云々でなく、払われたその犠牲に感謝して、元気を出す方が大勢おられます。それは恩を感じたからです。しかし、恩を感じない人々の中には、「もう二度とくるな」と、役に立たなかったボランティアに対して思っている人もいるかもしれません。恩を感じるか否かで大違いです。ましてや、イエス様が2千年前にこの世界に来てくださり、あなたの罪の裁きを代わりに受けて十字架につかれ、永遠の地獄に行くはずの運命からあなたを救ってくださっているという大恩を受けていることを思いみてください。「今日の食事にそれが何の関係がある?一品おかずが増えるのか?」という考えではいけません。見えるものがあるかどうかが、恩を感じるか否かに大きな影響を与えるのは、今あるこの世界で生きることに重きを置いているからです。私たちには死後があるのです。死んだ後に行くべき場所があるのです。「人には一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっている」とあるように私たちは死後の世界にもっと注意を払って、今を生きるべきです。死後を恐れることによって、十字架によってなされた神の愛のわざへの感謝が湧き上がってきます。「こんな自分を赦されるなんて、信じられないほどの恩だ」と、自分なりに感謝の気持ちを現そうと持てるものをもって親切を施したりできるようになります。
そんなふうに「海より谷より深い神のご恩」を感じ取ることのできるみことばを、聖書の中からそれぞれが見つけ出してください。聖書を通読することもすばらしいのですが、自分の努力や何かの誇りのためでは、本来の意味が失われてしまいます。聖書を読むのは、「君恩海壑」を失わないためです。「今日も神様は、海より谷より深い愛でわたしを愛してくださっている」ことを感じるためです。聖書を読む時はぜひ、この神の愛を感じ取れる読み方を、御霊様の導きの中でしていただきたいのです。そうすれば、決して人を見てつまずくことはないし、信仰が弱るとか、兄弟姉妹を批判するとか教会に来ずに無教会信仰になることもありません。ますます光に歩み寄り、いやな人とますます交わりたくなるのです。このような聖書や神様に対する姿勢をもって、この一週間を過ごしていただきたいと思います。
《例》(ローマ1:16)
“私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。”
私は『福音』を恥と思いません。むしろ誇りに思います。それは私を愛して下さっている神様がおられるという『良い知らせ』だからです。親の愛が、どれほど私に注がれて来たかということに気付けば気付くほど、親を誇りに思うようになるのと同じです。
■2011年5月15日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
光と愛、闇と憎しみ up 2011.5.15
光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいるのです。
(第1ヨハネ2:9)
「光の中」とは、信仰告白をした後と言えるでしょう。クリスチャンは、表立って憎むということは避けるものです。「互いに愛し合いなさい。」と教えられているからです。しかし、良心が咎めつつ、葛藤しつつ、憎しみを抑えているということはあるはずです。
「憎む」ということを分析してみるなら、そういう感情、思いに心当たりがあるかもしれません。
1.憎しみは闇
(1)『闇』という言葉の持つイメージ
見えない。見ない。正しく見ようとしない。目を閉じる。
他のものを見ようとしない。自分だけの世界に閉じこもる。孤独。
物事を正しく認識できない。
唯一自分だけを認めることが出来る。自分だけを正しいとする。
他者とのつながりが持てない。
意識して見ないということは、正しく見ようとしないことで、心を閉ざしてしまうことであり、心に闇を招き入れてしまうことになります。そして自分ひとりだけの世界に閉じこもり、孤独の中に留まります。それは自分だけの世界であり、限られたものしか感じることはできません。闇の中では、例えば、声は聞こえても相手の姿は見えないので、相手の姿は声から想像するだけになってしまいます。つまり、ひとつのことはわかっても、他のことはほとんど正確にはわからないという世界です。
これらのことを踏まえて、「闇」は霊的には何を表しているかを考えてみましょう。「闇」とは、唯一自分だけを正しいとする姿勢であり、他者とのつながりがもてない状況です。闇の中では、自分の存在だけがはっきりと確認できるので、自分だけが正しいと思うようになります。
(2)『憎しみ』という言葉の持つイメージ
嫌う。受け入れない。絆を絶つ。
相手の存在を否定し、自分だけを主張する。
憎しみというのも、自分だけが正しいとしたいという主張が根底にあって生まれてきます。自分が否定されて、相手が肯定された時私たちは複雑な感情を持ちます。それが発展すると憎しみが生まれてきます。自分が否定されたくないという、反発する力が憎しみを生むのです。なぜ私たちは相手を否定してでも自分を肯定したいと思い、相手が違った意見を出した時に従うことが難しくなるのでしょうか。そこに、自分だけが一番正しい、自分より劣った意見になぜ従わなくてはいけないのかという、自分だけが正しいという思いが潜んでいます。自分より優れていると従えるが、自分より劣っていると思うと従えないのです。その心の根底にあるのは、ひとつは支配欲です。自分より優れている人には従えるというのは、相手が自分の支配力の及ばない人だと認めたからです。そして、自分の考えている価値観よりさらに上でありながら、同質のものを持っているから従えるのです。しかし、質の違う価値観だった場合は、素直に従えなくなります。そこに、支配するかしないかの葛藤が、無意識に起こるからです。「自分の思いどおりにしたら幸せ」と思うからです。
特に憎しみが起こるのは、多くの場合、自分とは違う意見に従わせられるという状況が起きた時、自分が否定されたという痛みを持ってしまうからです。闇も憎しみも、「自分が正しい」という心の姿勢をとってしまう人のことを示しているのではないでしょうか。
ヨハネが手紙を書いた理由は、イエス様の教えに対して、別の思想がプラスされ、だんだん内容が外れてきてしまうという状況が起きてきたので、それを戒め、正すためです。グノーシス派の人々が、真理も進化して変わっていくものだという哲学思想を、イエス様の教えに加え始めていたのです。しかし、イエス様の教えの中心は愛であり、哲学的知識ではありません。「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を高めます。」知識を重んじる人は、愛を忘れ、高ぶります。高ぶるということは、優劣をつけるということで、優秀な者に皆が従うべき、という支配欲が働くのです。その支配欲を邪魔されると憎しみが起きてきます。こういう状況が教会に生まれ、考え方の違いで教会が分裂してしまうのはよくありません。むしろ、様々な考え方があっても、教会は神の愛によってひとつとなるべきであることを、ヨハネは強調しました。
私たちも、世の中の様々な考え方、価値観に影響されてしまい、愛を忘れ、愛からそれてしまっていないでしょうか。気をつけて、自分を吟味してみましょう。闇とは自己中心の世界です。「兄弟を憎んではいないが嫌い」というのも、やはり闇に入っています。もう交わりたくないと絆を切ってしまったり、いろいろな言い訳をして、「互いに受け入れ合いなさい」というみことばに従わず、自分を正当化してしまうのは、憎んではいなくても、闇に入っていることになります。誰もすぐに100%完全にはなれません。でもそういう自分を正しく吟味し、自分の罪を認めることが大切です。
例えば、いつも礼拝が終わったらすぐに帰ってしまい、誰とも交わろうとしない、そこに受け入れたくないという拒絶が心に潜んでいないでしょうか。そういう心の闇の部分を持ち続けていたら、いつまでも教会は光に満ちた場所になりません。闇の部分があることを認めて、捨てて、互いに受け入れあうようになりたいものです。特にクリスチャン生活の長い人は、しっかりと自分を吟味し直してみましょう。ではもし闇があったらどうしたらいいのかというのが2です。
2.『明哲防身』(めいてつぼうしん)闇を過ぎ去らせる
『明哲防身』とは
道理(真理)に明るい人は、聡明な判断によって用心深く身を守る。
下記のみことばから『憎むと言う闇を過ぎ去らせる』ことについて、どのようなことを学ぶことが出来るでしょう。
「闇を過ぎ去らせる」ということが重要です。多くのみことばを持っている人は、用心深く、少しの闇でも受け入れず、早めに追い払ってしまうよう、賢い判断をします。そういう意味で、「明哲防身」をもって、憎しみと闇を、自分の内側から取り去っていきましょう。そのために5つのみことばを示しています。
(マタイ5:16)
“「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」”
光を持っているのに、その光を輝かせるよう使っていないのでは何もなりません。光を輝かせたら、その場所に闇はなくなります。また光は闇の中でこそ役立ちます。この光とは何でしょう。
(詩篇119:105)
“あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。”
光とは「みことば」です。みことばを輝かせるということを、生活で生かすと…。
(詩篇119:130)
“みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。”
私たちの内に光が満ちていたら、光が差し込むという光景は見られません。光が差し込むのが見えるのは、内側が暗い時です。闇の中でこそ見られます。自己中心という心の闇にみことばが輝くと、悟りがおきて自己中心が自分にとって損であると気付きます。ではそのみことばは何を語っているのでしょう。
(第1ヨハネ2:5)
“しかし、みことばを守っている者なら、その人のうちには、確かに神の愛が全うされているのです。それによって、私たちが神のうちにいることがわかります。”
神を心から愛しているので、そのみことばを心から守ろうとします。神の愛を感じるみことば、メッセージは喜んで行えます。しかし、愛を感じない命令は反抗してしまいます。愛を感じると反抗しなくなります。愛を感じないから、自己中心の闇ができるのです。そしてだんだん憎しみが強くなってきます。みことばは愛によって語られているということをよく理解してください。
(第1コリント8:1b)
“しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。”
知識だけだと人は高ぶってしまいますが、愛に触れられた知識であれば、高慢になることはありません。
私は、自分をかばい、家族の中で一番苦労して働いてくれる母から知識を学びました。その母の愛によって知識を得たので、反抗することなく、高ぶれなかったのです。その愛を感じると徳が建ちます。徳のある人は輝いていて、明るいものです。憎しみという闇を過ぎ去らせるためには、徳を高める、愛に満ちたみことばによって心の闇を照らすことです。そうすれば闇は過ぎ去ります。
私たちは「闇」「憎しみ」と戦おうとします。しかし、直接戦っても勝利できません。唯一闇が退くのは、光がやってきた時だけです。愛のみことばが私たちの内にあると、闇は自然に消え去っていきます。そして赦せるようになります。「愛は寛容である」というみことばのように、努力なしに、その寛容さが心の中に溢れてきます。それは光の力であって、私たちの意志力ではありません。「闇は光に打ち勝たなかった」と、聖書に書いてあるように、これは宇宙の原則なのです。
光が満ちてくる時、闇は存在できなくなります。これが唯一、心から闇を去らせる方法です。心に、愛に輝いているみことばをいただきましょう。愛を内側に持ちましょう。闇は消え去ります。
■2011年5月8日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
古くて新しいその愛 up 2011.5.8
しかし、私は新しい命令としてあなたがたに書き送ります。これはキリストにおいて真理であり、あなたがたにとっても真理です。なぜなら、やみが消え去り、まことの光がすでに輝いているからです。
(第1ヨハネ2:8)
先週の(第1ヨハネ2:7)のみことばは、「古い」ということばが強調されていましたが、8節にきて「しかし」ということばが来て、一転「新しい」ということが浮き立つ流れになってきています。今週は「古くて新しいその愛」について考えていきましょう。
1.古いものを新しいものとして(ルカ5:39)
“「また、だれでも古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みはしません。『古い物は良い。』と言うのです。」”
この当時、ぶどう酒はアルコール分を希薄にして飲み水にするなど、日常生活に欠かせないものでした。
(1)『新しい』という言葉のイメージ
『新しい』に対して肯定的な印象を持っている人が多い。
★あなたの『新しい』に対する肯定的印象を列記してください。
生き生きしている、斬新である、存在価値が高い、など
(2)ワインは『古くて新しい』
『古い物は良い』とは?
古い⇒時間が経過している=熟成している
良い⇒価値が高い、今までにないおいしさ=『新しい』
「ぶどう酒は古いほど良い」と言われ、年代物は高価です。また「新しい」には前向きなイメージがあり、「よい」は「新しい」につながってきます。今まで市場に出ていなかった古い年代のワインは、高価で希少価値があります。神の命令も、「古くて新しい」という肯定的イメージを持っていただきたいと思います。古いから時代に合わないのではなく、古いからこそ、変わらず、人々の人生に真理、道理として保たれてきました。ワインは寝かせる時間が長いと熟成して良いワインになります。このように、古いものは熟成したもの、という良いイメージがあります。新生児に比べ、高齢の方の大きな違いは、人間として熟成していることです。そこには、いろんな人生の体験を通じて、練られ、熟成してきた人格…。同じように、神のみことばも、この二千年間、人々の間で様々な時代を通り抜ける中にあって、古くても熟成したことばであり、「神のことばは7回試された純金よりも尊い。」と言われるように、どの時代にあっても通用する真理、道理です。
ヨハネは、「古い命令を熟成されたワインのように、あなたがたの生活の中に今まで味わったことのない新製品の高価なすばらしいワインのように、新しい命令として紹介しましょう。味わってみなさい。」という思いがあったのではないでしょうか。(ここでは、(ルカ5:39)に合わせて、ワインを通して紹介しています)ともかく「古くて新しい」ものは、熟成されており、その高い熟成度は今までになく新しいものです。私たちにとって神のみことばは、古いけれど日々新しい熟成されたワインのように、味わいが深いものです。
それでは、神の命令とは何を語っているのでしょうか。それは神の愛です。聖書に書かれているいろいろな命令は、私たちを愛しておられるから与えておられるのです。決して滅びに至らないように神の裁きを受けることのないように、と、してよいことと悪いこととを細かく記してあります。神の命令は、神の愛が私たちに向けられている証しです。
【敬聴】『神の命令は古くて新しい』
『神の愛は古くて新しい』と言う意味を黙想し、夫婦愛、家族愛、兄弟愛を見直してみましょう。
ここでは夫婦の愛から考えてみる時、結婚して2ヶ月の夫婦と30年の夫婦の愛にはどんな違いがあるでしょうか。2ヶ月寝かしたワインはどんな味でしょう。30年物のワインはやはり高いですね。30年という夫婦としての歩みは、いろいろなことがあって練られ熟成してきました。30年保たれているということは、愛が実っており、結びあわせているということです。少々の苦しいこと、辛いことは受け止めることができる、しっかりした絆が結ばれています。年数が熟成という工程を通っていくのです。感情的な愛だけを考えないようにしてください。(もちろん夫が妻に感情的な愛を提供することは、夫の大事な責任です。そして妻が夫を尊敬し、愛が結ばれていくのです。)そうして振り返って、感情的な愛から味わいのある愛へと、感情が感じていきます。新婚当時の新鮮な愛に立ち戻る必要はなく、むしろ熟成した新しい愛を味わう夫婦の生活を考えていただきたいです。今、苦しいところを通っている夫婦がおられたら熟成する一番良い時です。そこを通り越えたら、二人は今までにない新鮮な愛を感じ取ります。しかし、別れてしまったら、その愛を味わうことはできません。ここに「互いに」ということばがあることに気をつけましょう。一方的に妥協し、謝罪し、和解してしまうと、新鮮な愛は出てきません。お互いに自分の非を認め、大事にし尊び合う和解と悔い改めを通して、新鮮な愛が生まれてきます。不完全な者同士で悪い方を決定するのではなく、愛を目指している者として、愛を体験しやすい夫婦の関係を通して、「こんな愛が学べ味わわせていただけることを主よ、感謝します。」と、強い愛の絆で結ばれていっていただきたいと思います。
また、教会の兄弟愛において、家族的関係を結びあわせていく時けんかをしながら互いに知り合っていき、互いに助けがないと自分が存在し合えなかったという家族の良さを見つけ出していくことによって、さらに神の家族としての絆が強くされていくには時間が必要です。
ワインが寝かされるというのは、「試みの時間」です。旧約聖書の中にも、試みの形がいろいろ出てきます。「自分はいったい何をしているんだろう。」という時期は、熟成している期間です。試されているわけです。必ず、神様の前に、すばらしいワインとして、人々の前に喜ばれる存在として、みこころの人生を全うすることができるのではないでしょうか。ですから、否定的な人間関係もこのぶどう酒に例えて、「古いけれど新しい」と心励ましていただきたいと思います。
2.聖書の『金言名句』(きんげんめいく)『神は愛です』
『金言名句』とは
教訓的な戒めや、物事の本質、道理を言い当てた短い言葉のこと
(第1ヨハネ4:7)
“愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。”
(ヨハネ6:46)
“「だれも神を見た者はありません。ただ神から出た者、すなわち、この者だけが、父を見たのです。」”
(第1コリント8:6)
“私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。”
★上記の3つのみことばから、『神は愛です』に関連して、どのよう なことが教えられますか?
聖書の中に「神は愛です」ということばは2回しか出てきません。それもヨハネしか使っていない、意味深いものです。ヨハネはどうして「神は愛」と決定したのでしょうか。「神は愛です」ということばは、物事の本質、道理を表していることばだと思います。この3つのみことばから、神から出たものとして、(第1ヨハネ4:7)には『愛』が、(ヨハネ4:6)には『キリスト』が、(第1コリント8:6)には『万物すべてのもの』が挙げられています。神も愛も見えませんが、神様はご自分から愛を流し出しておられ、時至ってヨハネ6章(←要参照)に神の子イエス・キリストがこの地上に来られた、とあります。見えない神が形となって現れた方、つまり神の愛が見える形で現され、しかし、歴史の中で一度記すことで、全時代における神の愛の証しとなります。このイエス・キリストは(コロサイ1:16)に『万物はこの方によって造られ、この方のために造られた』とあります。
愛が出て、形となってイエス・キリストが現れ、この方によって万物が生み出された、という流れを黙想していただく時に、私たちすべての存在は、愛から出ていると言えるわけです。神の見えない愛が形となって、見えるものとして宇宙全体に現れている、と考えることもできますね。
「愛がないとすべてはむなしい」のはなぜでしょうか。全宇宙被造物すべては愛から出て、愛によって成り立っています。先週もお話ししましたように、「万物は互いに愛し合っている」、それぞれの分を果たして大自然のバランスは保たれており、人間が欲望のために崩そうとしても、大自然は健全さを維持しようと、互いに回復力を働かせて、バランスを崩さないように保っています。「互いに愛し合う」という神の命令が全宇宙にあるからです。万物の存在は神の愛が形となって現れたもので、それは「互いに愛し合う」という愛、ということです。あなたのために万物はありますが、万物のためにあなたがあることを忘れてはいけません。すべては互いに関わりを持って、良い状態が維持されていくのです。「一人占め」は自然を壊してしまいます。私たちは何と神様の愛に包まれているかと感謝していく毎日の中で、互いに愛し合わなければバランスが崩れ、いがみ合い、傷つけ合ってしまいます。しかし、それを修復しようと愛が働くのは、私たちの内にも「互いに愛し合う」という宇宙の法則が刻まれているからです。あきらめると、「憎む」「いがみ合う」という問題が残ってしまいます。「愛し合う」ことを退けてしまうと、すべてが崩れてしまいます。
「互いに愛し合いなさい」というみことばは、「神は愛です」というみことばと共に、大事な大事な金言名句だと思います。
■2011年5月1日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
すでに聞いている愛のみことば up
2011.5.1
愛する者たち。私はあなたがたに新しい命令を書いているのではありません。むしろ、これはあなたがたが初めから持っていた古い命令です。その古い命令とは、あなたがたがすでに聞いている、みことばのことです。
(第1ヨハネ2:7)
【今週のポイント】
初めから持っていた古い命令を大切に守る。
ヨハネがこの手紙を書いた理由を、もう一度思い出してみましょう。イエス・キリストの昇天から100年近い歳月が過ぎ、人々の思いや考え方に色々なものが混ざって、最初にイエス様が持っておられた純粋な神のみことばに関する理解が欠けてきました。世の中に新しい考え、新しい思想、新しい哲学が蔓延して、イエス様の教えにも浸食してきました。そういう時期にヨハネが用いた「古い命令」ということばに着目してみます。
1.古い命令
(1)『古い』という言葉への短見(短見=思慮の浅い考え方)
多くの人は、『古い』に対して否定的な印象を持っている事が多いようです。特に若い人にはその傾向が顕著です。しかし、ヨハネがあえて「古い命令」と書いたのには確かに意味があるのです。時代をさかのぼれば旧約の初め、何千年も前から語られてきたこの教え。手紙が書かれた当時はやっていたグノーシス主義は、現代でたとえるなら進化論のような大きな影響を世間にもたらした、『新しい』教えでした。
私たちは『古い』に対する否定的概念を捨てて、正しくみことばを受け取るべきです。後述しますが、『古い』とは、変化する必要のない真理であることを表しているのです。
(2)『新しい』という誘惑
人は、古いものより新しいものに興味を持ちやすい。⇒誘惑される
耳新しいものに心が惹かれてしまうことに注意が必要。
ヨハネは、あえて『古い』と記すことで、この命令が決してすたれることのない真理に基づいていることを表しています。目新しいものにすぐ心が移ってしまう人は、真理からそれてしまうよ、という戒めも込められているかもしれません。私たちも、表立って『古い』とは言わなくても、世の中から消えていく古いものたちと同じイメージを、神のみことばに対して持ってはいないでしょうか。
「前に聞いた」「もう知っている」という態度で聞き流してはいませんか。「イエス・キリストが私たちの罪のために十字架で死なれよみがえられた」という教えは、古びて流されてしまうものになるのでしょうか。
古い⇒値うちが下がる。軽んじる。さげすむ。もう慣れっこになっている。今はもう興味がない。
聖書のことばを通読したことが何回あるでしょうか。今はもう本棚にしまわれているなら、目新しいものを求める欲望に動かされている状態です。みことばを新しく受け止めるか、古いものとして受け止めるかが、神様のおことばを聞いた時に生かせるか生かせないかの分かれ道になります。
【敬聴】(ガラテヤ1:4)
“キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。”
このみことばを『古い』という感覚を取り除いて受け取った時、どんな感想を持つでしょうか。「今の悪の世界から私たちを救い出そうとして」という表現があることによって、「私たちの罪のためにご自身をお捨てになった」というイエス様の愛の気持ちが見えてきます。ここを理解できれば、愛が私たちの心に存在し始めます。
神様と愛は同じものであり、時間と空間の制限を受けません。二千年前に表された愛が、今のあなたの中にも存在し始めます。そして愛を感じることができるのです。「二千年前に終わった」のではなく、「二千年前から現在に至るまで、変わらず存在し続けている」愛で、今現実に存在している悪の世界から私たちを救い出そうと、今も働かれている愛なのです。
夫婦愛も、「古い」と判断してしまったら、今はないことになってしまいます。しかし「愛は絶えることがない」のであり、感情は伴わなくても、相手を夫(妻)として認めていること自体が愛なのです。無理に感情部分を盛り上げようとするから、難しくなるのです。感情に左右される恋愛はやがて変化するもので、本当の愛とは違います。真実の愛は夫婦の間に保たれ続けます。真実の友情もまたしかりです。
このようにして、私たちは愛なる神様を実際の生活の中で見つけ出し、感じ取り、自分に注がれているものを知って「神は愛なるお方なのだ」と、その愛に触れていきます。愛とは「思いどおりになる」ことではないし「願いをかなえられる」ことでもありません。それは難しいものですが、触れれば知識を超えて理解できます。この(ガラテヤ1:4)のみことばから、どれほど神様の愛を感じ、そのおことばを感じ取ることができるでしょうか。もしイエス様が空想上の方ならむなしいことですが、実際に歴史の上で存在された神が私たちを愛してくださっているこの愛は、信じるに十分なものです。観念的でなく、実在する伴侶を愛するように、友だちを信頼するように、私たちは神様を信頼することができます。こういう関係を保てるように、ぜひ神様のみことばをしっかり味わっていただきたいと思います。
2.真理は「千古不易」(せんこふえき)である。
『千古不易』とは
きわめて遠い昔から、きわめて遠い将来まで変わらないこと。
永遠に変わらないこと。
★『古い』とは、昔から今に至るまで変化がないことを意味する。
すなわち、みことばは『真理』であることをヨハネは示している。
(ヨハネ17:17)
“「真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。」”
変わらない真理としてのポイントがあります。聖書は、イエス様の言われた通り、「神を愛すること」と「隣人を自分自身のように愛すること」を中心として語られています。これをさらに突き詰めると、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」となることをパウロは記しています。「互いに愛し合う」という教えは、実は宇宙全体を今まで保たせてきた真理なのです。
【敬聴】
(詩篇148篇)
1 ハレルヤ。天において主をほめたたえよ。いと高き所で主をほめたたえよ。
2 主をほめたたえよ。すべての御使いよ。主をほめたたえよ。主の万軍よ。
3 主をほめたたえよ。日よ。月よ。主をほめたたえよ。すべての輝く星よ。
4 主をほめたたえよ。天の天よ。天の上にある水よ。
5 彼らに主の名をほめたたえさせよ。主が命じて、彼らが造られた。
6 主は彼らを、世々限りなく立てられた。主は過ぎ去ることのない定めを置かれた。
7 地において主をほめたたえよ。海の巨獣よ。すべての淵よ。
8 火よ。雹よ。雪よ。煙よ。みことばを行うあらしよ。
9 山々よ。すべての丘よ。実のなる木よ。すべての杉よ。
10獣よ。すべての家畜よ。はうものよ。翼のある鳥よ。
11地の王たちよ。すべての国民よ。君主たちよ。地のすべてのさばきづかさよ。
12若い男よ。若い女よ。年老いた者と幼い者よ。
13彼らに主の名をほめたたえさせよ。主の御名だけがあがめられ、その威光は地と天の上にあるからだ。
14主は、その民の角を上げられた。主の聖徒たち、主の近くにいる民、イスラエルの子らの賛美を。ハレルヤ。
天にある存在だけでなく、森羅万象に対して、「主をほめたたえよ」とは、具体的には何をすることを言っているのでしょうか。被造物が造り主に栄光をお返しするには、自分の役目をしっかり果たすことです。造られたものの能力がフルに引き出された時、造り主への賞賛が生まれます。万物が自分の役目をきちんと果たせば、お互いに支え合うことができます。すると地球も、宇宙全体も、健全な状態に保たれるのです。
今の地球が存在できているのは、万物が互いに愛し合い、支えあっているからです。人間が好き放題やっているのに、未だに破滅が訪れないのは、「互いに愛し合いなさい」という神様の命令に従って、バランスを保とうとしているのです。宇宙全体が、神様に「良し」と言われるほどに、愛による調和を保っているから、人間によってバランスを崩されても、元に戻ろうと働き続けています。愛なる神様が愛を込めてお造りになったものはすべて、愛の性質を持っています。そのように私たちも愛し合うなら、問題は解決していきます。神の国になります。そういう愛の国を、私たちは目指しているのです。そして、「互いに愛し合いなさい」というこの古い古い命令は、実に万物が造られた時から存在し、万物を保っている真理なのです。
万物が自分の分をわきまえ、力を尽くしてお互いを支えあっているように、私たちも自分の分を果たして、お互いを支えあう愛の関係を保っていこうではありませんか。
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