■2011年4月24日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
復活は愛が報われる時 up 2011.4.24
神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。
(第1ヨハネ2:6)
【今週のポイント】
愛に生きたキリストの歩みは、復活によって報われたように、
彼が歩まれたように歩む者も同じように報われる。
聖書には、復活の時があると明記されています。そして聖書のことばを証明するために、イエス・キリストは実際によみがえられ、その姿を人々に現して復活を証明されました。しかも、ご自身が天に帰られた後もう一度地上に来られる時があり、その時すべての人もよみがえると約束されたのです。
死後の世界があることによって、希望を持つ人と絶望する人がいます。どんな人生を生きた人であっても、必ず一度は自分の体に立ち戻って、自分という存在と、また他にも世の初めから終わりまでに生まれ出た全ての人々とを知覚し合う時がきます。
今日は、このよみがえりの重要性について考えたいと思います。今私たちが生きているこの人生は、良いよみがえりを受けるための大事な時間なのです。
1.キリストの歩み(ヘブル12:2)
“信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。”
ご自分の間に置かれた喜びのゆえに、神に捨てられ、罪の裁きを受けるという受難さえも乗り越えられた、その「喜び」とは何だったのでしょうか。
(1)『ご自分の前に置かれた喜び』(第1コリント9:24〜25)
“競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。”
競技者たちは、栄冠を受けたいと願います。自分の力を試し、強さを認められたいのです。「前に置かれた喜び」は、競技者が栄冠を目指す姿勢です。イエス様は、人々に愛を注ぎ出す人生に対して「やりとげる」ことと、「報われる」ことへの期待を神様に抱いていました。目標を達成する達成感という喜び。マラソンではゴールがあり、そこにたどり着くことが喜びです。では、私たちの目的は何でしょう。それは復活です。ここまで行ってこそ人生を全うしたと言えるのです。そこではついに神様からの賞賛を受けることができます。クリスチャンは、愛に対して報いを求めないと世間では思われがちですが、相手に要求はしなくても応えてもらえることへの期待はしているのです。神様ご自身もそうです。要求する心は、自分の願いがかなわない時、悪い思いをもってしまいますが、期待する心は、裏切られても悪い思いは起こらず、他の方法を探しては、相手が愛に応えてくれることを期待し続けます。ただし、待ち続けるがゆえに、全てのことを耐え忍ぶものでもあります。
「自分は全く見返りを求めない。愛を流し出すだけで満足。」と言う人は、実は利己的で自己中心で自己満足な状態に気付いていないだけではないでしょうか。愛は自分と相手との間に存在するものであって、相手との良い関係を伴わない愛などありえないのです。神様がもし、イエス様の十字架のみわざを通して「やることはやった。あとはあなた方次第だ。」と人間を突き放されたら、私たちはどうすればよいのでしょうか。ですから、大きな愛を持つ人は大きな期待を抱く人でもあり、それゆえに傷ついたり、忍耐したり、失望したりもするのです。誰かに対して悲しい思いをするのは、その人を愛しているからです。愛なる神様に似せて造られた私たちはみな、人を愛することと愛に応えてもらえるという内なる期待を持っています。
しかし、今の人類は科学と経済の発展によって大きな勘違いをし始めています。人は神なしでも生きていけると過信し、愛よりも自分の楽しみ喜びを優先するようになってしまいました。これはとても悲しいことです。私たちには、全うすべき本当の人生があることをぜひ認識してください。死で終わりではなく、復活というゴールがあるのです。そして、このゴールは各々が自分の出来るベストを尽くすことによって、誰でも栄冠を授けていただけます。決して人と比べられることはありません。なぜなら、成績や成果によらず、各々の行程を評価されるからです。こういう方が神様で、この方を信じていればこそ、私たちは自分に与えられた人生を前向きに希望を持って歩んでいくことができます。キリストのように歩むとは、そういう人生の歩み方のことです。
イエス様は神様の御姿であられるのに、そこから降りて人の姿と能力を持たれました。神が人になるなどあり得ないことなのに、人間を愛するが故に、あえてご自分の立場を捨てられました。これが神の愛の全てです。私たちも自分の持てるものを全部出し切れるように歩みたいですね。自分の肉の欲は、持てるものを出し切る人生にはなれません。「愛を目指す」ために、それら全てを用いていきましょう。キリストご自身も、私たちがもう一度神の子としてやり直すチャンスを与えられるために、地上に降りて十字架のみわざを達成し、ご自身の全てを捧げてくださいました。
(2)『着座された』(第1ペテロ1:3)
“私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。”
ゴールインした人に与えられる報いが、その存在にふさわしい席です。それぞれの働きに応じて与えられます。完走さえできれば、どんな人にもすわるべき座があります。私たちはベストを尽くすことと同時に、必ず報いはあるということを忘れてはいけません。ゴールすればみな報われます。反対に言えば、ゴールしなければ全ての働きと労苦が水の泡になるのです。どんな小さな働きでもゴールさえできれば賞賛されます。たとえこの人生で裏切られても、報われなくても、悲しいことばかりでも、神様はそれら全てを見ておられ、永遠の報いから、たった一つさえもこぼされることはありません。もし復活がなければ、ある人は「しめしめ」と喜び、別の人は「自己満足が人生だ」と結論づけるでしょう。しかし、本当はよみがえりと、それぞれの人生への最終評価がなされるのです。努力は全て報われます。
たとえば学校や職場でいじめを受けたとします。忍耐しても一向に良くなる気配がなく、辛くて死にたくなった時、誰かに心のうちを明かして、理解と慰めと励ましをもらえたら、自分が愛されていることがわかったら、その誰かのために生きようと思うことができます。私たちの努力は、ほとんどの人には理解されないかもしれません。しかし、それをわかってくれる人がいれば、元気が出てきます。特に、自分の信頼する愛する相手からの評価があれば、ものすごく励みになりますね。愛は報われてこそ生きるものです。だからこそ愛はすべてを期待するのです。それを忘れさせようとする現代社会の中で、私たちはもう一度、愛に生きることの重要性を見つめ直すべきではないでしょうか。
2.「蹈常襲故」(とうじょうしゅうこ)
伝統が形だけでなく、その精神も受け継ぐように、私たちもキリストがふみおこなわれたように、互いに愛し合うことを受け継ぎます。時代と共に価値観も愛する方法も変わるけれど、キリストがどう愛されたのかという志と、人々にどう接されたかということは、どの時代でも変わりません。特に「互いに愛し合う」という関係において、「赦し合う」という見本を、ご自分の身をもって、地上における生涯を通して現されました。
私たちの人生には必ず「人を赦す」場面があります。そして人を赦さなければ、互いに愛し合うことはできません。愛はそのように試されます。何度も試され、「赦す」ことを実行していくうちに、相手とのきずなはより強く結ばれていきます。「お互い」がキーポイントです。一方だけに負担を強いるのではありません。
(第1ペテロ2:20〜21)“罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行っていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。”
愛を目指して歩むなら、善を行って苦しむことにもなります。それを耐え忍ぶには、最終的には愛の力に頼るしかありません。しかし私たちには全ての人を平等に愛することはできません。そこで、全てのものの父なる神を敬うことによって、人を愛する心を整えるのです。「神が愛されている一人一人だ」と尊い存在であることを認めるために、「神がその人にいのちを与えられた」といのちの大切さを思いみて、善を行っているのに苦しむという状況を愛をもって耐え忍ぶのが、唯一の最終的砦のような耐え忍び方です。
以上述べましたが、愛は知識で理解するものではなく、心で理解するものです。愛を感じなければ何も変化は起こりません。義理人情や道徳的基準で人と付き合うには限界があります。しかし完成されるまで、成し遂げられるまで赦し続けることのできる愛を私たちにも持つことができるためには、愛される体験がなければ不可能です。
今回の東日本大震災でボランティアに参加してきた人から聞いた話ですが、微力なボランティアであっても、被災地の人々に迷惑をかけないようにと精一杯準備してはるばる遠方から来てくれた、ということだけで、現地の人々は心から喜んでくれたそうです。人は愛を感じた時に、たとえ絶望的な状況であっても、「がんばろう」という心が湧いてきます。家族や財産や仕事も失い、目の前が真っ暗でも、ボランティアの人たちとの心の交流を通して「このままではいけない。」と、立ち上がる気力が湧くのです。それは親切という愛に触れるからです。愛を感じるか感じないかで、あなたの心は違う結末を迎えることになります。希望が湧くか湧かないか。自己達成の人生で終わるか、愛を目指して歩む人生に変わるか。
東日本大震災でいち早く現場に駆けつけたのは、かつての阪神大震災の被害者たちだったそうです。なぜでしょうか。彼らは被災した時に愛を受けたからです。その感動を知っているから、会社を休み、すべて自前で手助けに行ったのです。これはとても大きな愛の行いですが、それができたのは自分たちもかつて同じように助けられたからです。愛は良い方向へと人々の心を変え、希望を与え、広がっていきます。ぜひ、理屈の人生ではなく、愛を感じ取る人生をつかんでください。
また今日はイースター記念礼拝ですが、召された人々のことを絡めて考えた場合、その人がたとえどんなほめられない生き方をしたとしても、反面教師として学ぶことができたと受け止められるなら故人の人生は、今のあなたにとって益であったと言うことができます。故人の人生の評価自体は、その行いに応じて神様が正しく判断されます。しかし、自分の人生とのかかわりにおいて、故人の人生は自分にとって益であったと告白し、真っ当に人生を歩み通すならその故人の人生に対して愛の価値が生まれるのです。「この人がいたからこそ、今の自分があるんだな」とあなたが前向きに受け止めるなら、故人の人生は生かされたことになります。それは愛によって価値づけられたものであり神が喜ばれるものです。故人の行いがあなたを生かしたという、愛による結びつきが生まれます。ただし確実に良い報いを受けることができるのは、イエス・キリストが歩まれたように歩む、ということのみです。その他については神様のご判断に委ねる他はありません。ただ一つ言えるとすれば、自分が関わったすべての人について、愛をもって前向きに召されたことについて捉えていくなら、亡くなった人の人生に価値が生まれ、あなたにプラスになっていることで、神様の前に報われる基準になるとは言えます。
今、残されている人たちの生き方一つで、先祖の人生に大きな影響を与えるとしたら、この人生は大きな意味がありますね。自分に命を受け継いでくれた多くの先祖たちの分も頑張りたいと思うものです。それは愛の表れでもあります。愛の神に似せて造られた私たちが、愛から外れた人生を歩むか、愛を目指してもう一度やり直すか、それによって復活の日の裁きは変わります。しかしそれを決めるのは皆さん次第です。あなたのいのちは自分一人のものでなく、先祖たちから受け継いできたものであり、その根本は神から来ています。そういうものを背負っていることも忘れてはいけません。
■2011年4月17日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
全うされるほどの愛 up 2011.4.17
しかし、みことばを守っている者なら、その人のうちには、確かに神の愛が全うされているのです。それによって、私たちが神のうちにいることがわかります。
(第1ヨハネ2:5)
【今週のポイント】
人のうちに、愛が全うされるほどの圧倒的神の愛。
人のうちに全うされるほど、大きな圧倒的な神の愛を見いだしていきましょう。私たちの教会の今年の目標は「愛を目指す」ということです。こういった目標を表明すると、逆に私たちは非難を受けやすくなります。なぜなら、こういった看板を掲げると、少しでもそれにふさわしくない態度や行為がでた時、非難しやすくなるからです。しかし、あえて看板を掲げて意識していかないと、なかなか身につきません。非難を受けながらも、少しでも身につけるよう日々前向きに進みたいものですが、そのために必要なのが「全うされる愛」の存在です。それでは「全うされている」とはどういうことでしょうか。
1.(第1ヨハネ2:5)について
“みことばは前述”
(3)「全うされている」
愛が実現しているというのは、私たちが愛を行っているという意味ではなく、(2)の「神の愛が」実現しているということです。それは「その人((1)のみことばを守っている人)からの神への愛」であり、「その人への神の愛」でもあり、「その人が持っている神のような愛」でもあります。この3通りに「神の愛が」は訳せる表現文です。私たちの力で愛が全うされるのではなく、神の側からの愛の働きかけが私たちの内に満ち満ちているのであり、実現されているということなのです。このような状態になるためには、(1)の「みことばを守っている者」であることが前提になります。そして(1)のみことばを守る動機づけが(2)の「神の愛」です。
【敬聴】
神の愛の働きかけがあなたの内に起こされているというしるしはみことばを守っているということによります。「神の命令、みことばを守っていこう」と、前向きに思えるためには何が必要でしょうか。皆さんは人から愛を受けた時、その人の言葉に素直に従えるという体験をされたことがあるでしょう。父や母、教師、友人等との関係の中で、どういう時に、その人の言う言葉を素直に受け入れ、行いたいと思ったでしょうか。
イエス・キリストの受難は、私たちにそのような動機づけを与える愛です。どれだけ自分に関心を持ち、今の自分のために代わりに苦しみを負い、犠牲を払い、支えてくださっているかがわかると、人は素直に動けるようになります。
特に私は受難について考える時、両親が貧しい中でどんなに一生懸命子どものために働いていたかが浮かんできます。その苦労がわかった時、私はなるべくわがままを言うまいと決心しました。ただ一度、サイクリング型の自転車が欲しいとつぶやいたことがあります。どうせ無理だろうと思い、言ったのですが、親はそれを忘れず三年後に本当に買ってくれました。私のためにそこまでしてくれたとわかった時、もう二度と苦労をさせたくないと思ったものです。
「子どもは親の背中を見て育つ」と昔はよく言われました。しかし最近は、親が自分のプライベートの時間、お金を自分のために使いたいという欲求が強く、子どものために犠牲にするという考えが薄れてきているようで、寂しいものです。そういう親の心が子どもに伝わると、子どもも、自分の大切なものまで犠牲にして人のためにしたくはない、という価値観が身についてしまいます。子どもを育てるというのは、自分のしたいことをするよりもっと価値ある、神様から与えられた役割だと思います。私のような者に、一人の人格者を育てるよう、神様が預けられた…なんと責任あることでしょう。それは永遠のいのちに至るかどうかの分かれ目にさえなる責任なのです。
クリスチャンホームの子どもたちの中には、親の態度が教会と家では違うことを覚えてしまい、教会は教会、家は家という歩み方を受け入れてしまうようになる子どもがいます。そうなると、思春期の反抗期になると、自分だって好きなことをする、行きたくないなら教会へ行かないでいいと、せっかく幼い頃に持っていた純粋な神への信仰も、自分は持っていないと否定するようになってしまいます。たとえば学校の先生も、生徒の前でもしタバコを吸っていながら、生徒にはタバコを吸うなと言っても、それでは効き目はないでしょう。愛する者のために、自分自身も犠牲を払い、愛する者が少しでも永遠のいのちの道を歩めるよう心を配り労苦していくなら、彼らはその心を受け取り、イエス様の十字架の苦難も素直に受け入れていけるのではないでしょうか。
しかし、今の自分があるのはまわりの愛情あってのものだと気付かない人は、いくらまわりが犠牲を払い、愛を傾けても、結局自己中心な道を歩んでいくことになります。私たちはもう成人です。自制心を働かせ、わきまえを持った大人です。「みことばを守る」という結果を出すために、日々奮闘していけるはずです。「赦せと言われても赦せない。無理」と心に思うのではなく、神のみことばである「赦しなさい」を守るために、いかに自分の心を整え、変えようとチャレンジしていくか…現実にそのように奮闘していくことが「みことばを守っている人」なのです。まだできていなくても、できるようになるために、祈ったり、黙想したり、日々努力していることが大切です。「無理だ」と結果が出ないうちにやめてしまったら、その人は「みことばを守らない」ということになります。箸の使い方を正しく覚えるために、どんなに苦労したかを思い出してください。どんなに失敗し、どんなに時間がかかったでしょう。小さい子が正しく箸を使えるようになるまで、何年もかかります。まして、人を赦すということは、一日でできるわけがありません。心の力が弱いとあきらめてしまいます。神の力が、愛がせっかくあなたの心に満ち満ちていても、それに関心を持ち、動かされなければ、みことばを守ることはできません。
十字架で示された神の愛が、自分のために払われた犠牲であることに気づき、そこに動かされるなら、私たちはそのみことばを本当に守っていきたいと、心から願えるようになります。あきらめない私の心を支えているのは、私の至らなさのゆえにサタンに非難されているイエス様の姿です。なぜあんな人を牧師にしたのか、とサタンは訴えます。しかし、イエス様はご自分の血を見せて、わたしが彼の身代わりになって彼を選んだのです、と言ってくださいます。そして今も、私の至らなさのゆえに犠牲を払ってくださっているイエス様の苦しみを思う時、あきらめずにやり通していこうと決心するのです。
私のうちには、もう神の愛の犠牲が実現しているのですから、正しい良心をもって奮い立って、罪に対し抵抗し、みことばを守るように心を変えていけます。
2.「刎頸之友」(ふんけいのとも)
友のためになら、首を切られても悔いはない。イエス様はそのようなお心で十字架にかかられました。羊と牧者、人間と家畜です。羊は人ではありません。しかし、良い牧者は羊のために命を捨てるとあります。最近、ペットを家族以上に愛する人が出ていますが、それは、ペットは100%飼い主の愛を信じ、100%応えるからです。しかし人は、神の愛の恵みに慣れてしまうと、そのための十字架の犠牲を忘れてしまい、愚痴不満をもってしまいます。しかしどんなに頑張っても、全く一人で何の助けもなく生きていける人はいません。私たちは何らかのかたちで、誰かの労苦のおかげで生きています。電気や水も、誰かの努力のおかげです。まして天の父なる神にどれほど助けていただいていることでしょう。イエス様はいのちを捨てるほどに、私たちへの愛を全うしてくださいました。この神に思いを向け、みことばを守っていきましょう。
■2011年4月10日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
真理を持つ人 up 2011.4.10
神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者であり、真理はその人のうちにありません。
(第1ヨハネ2:4)
【今週のポイント】
愛なる神様を知っている人のうちに真理がある。
今回のみことばは、私たちのクリスチャン生活に対する思いをひどく揺さぶるものです。「自分はできてないから知らないのだろうか。」あるいは「神様の何を知っているのだろうか。」と心乱れるかもしれません。しかし、「命令を守らない」ということばは「守れていない」という結果を指すものではありません。命令を守ろうとする気持ちが大切だと言っているのです。
1.神を知っていると言いながら(ヤコブ2:14)
“私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。”
(1)(第1ヨハネ2:4)と(ヤコブ2:14)から「主を知る」ことにつ いて、どのようなことが教えられますか?
「私はクリスチャンである」=「信仰がある」という告白になります。そう告白する人ならば、命令を守ろうとするはずです。これが神を知っている人です。反対の行いをするなら、神を知らないことになります。これらを踏まえて、自己反省、悔い改めのきっかけとしていただきたいと思います。
(2)「あなたは神を知っていない」と言われたなら、どのように応答 すれば良いでしょう。(ホセア6:3)
“私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現れ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。”
知っていないことに気付けたのなら、受け入れた後の反応が大事です。今までの間違っていたことを重要視し過ぎて、マイナスに考えるのは病的な反応です。「知らない」のなら「知ろう」とするのが自然な反応でしょう。おなかが空いたら食べ物を得ようとするのと同じです。罪は「知らない」「わかってない」「できてない」ことを通して、自分をダメだと思わせようと働きかけてきます。しかし「知らない」「持たない」「できない」で終わりたくないなら、良い結果を得るための努力をしたくなるはずです。私たちの内側のどこかからわき出てくる「失敗者、敗者」のままでいさせようとする働きにだまされてはいけません。神様はこれらの働きに勝利する強い子に育てようとしておられます。
柔道などの初心者は、まず先輩に倒されまくります。しかし訓練を重ねていくと、ある時偶然に先輩に勝つことができたりします。まぐれであっても勝ちは勝ちです。最初に比べて力がついてきたからこそ、まぐれとはいえ、先輩に勝てたのです。クリスチャンも同じで、何回敵に倒されてもあきらめずに立ち向かい、訓練を続ければ実力がついて、いつか必ず勝てる瞬間がやってきます。
人が成長するために、当たり前のこんなステップを無視して、私たちは今出来ていない現実ばかり見すぎてはいないでしょうか。足下ばかり見て沈んでいるのは、罪の思うつぼです。しかし、神様は罪に勝てる実力を手に入れることを望んでおられます。天国には、罪に勝つ実力者が集います。ですから、立ち向かって訓練を続けましょう。みことばにある暁の光も大雨も後の雨も、自然現象において確かにもたらされるものです。同じように私たちも立ち向かうことを止めないなら、必ず神様を知る時がやってきます。負け続けてもあきらめなければ、過ごす時間は無駄にはなりません。
今回の一番のポイントはここです。「時をわきまえて、あきらめずに継続して待ち望む人が、真理を持つ人」なのです。
2.真理はその人のうちにない
(1)『真理』とは何か?
A)ヨハネ14:6
“イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」”
真理はイエス様です。
B)ヨハネ14:17
“わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。”
真理は御霊です。
C)ヨハネ17:17
“真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。”
真理は父なる神様のみことばです。
☆以上のことから、「三位一体の神が真理である」と、まとめるこ とができます。
(2)上記のみことばから「真理をうちに持つ」とは、どういうことかを祈り求めましょう。
神のみことばであり、御霊であり、イエス様ご自身である真理を内に持つ、ということになりますが、このことはそれぞれの祈りの中で、知的理解から内なる理解へと、聖霊様の啓示を通して得てください。「うちに持つ」ためには、否定的な思いとの闘いの継続が欠かせないことを、もう一度心に留めおいてください。内なる理解を求めるならば、必ずわかります。
3.「大惑不解」(たいわくふかい)(第1コリント8:6)
“私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。”
やり続けることによって、私たちが理解、納得(聖書的には真理を得る)ためには、イエス様を信じていく中で解決されていくべきいくつもの疑問点が、実際にハッキリと回答されることが必要不可欠です。
『大惑不解』の意味
おのれの迷いを自覚できない凡人は、一生かかっても真理を悟る ことが出来ないということ。
疑問がなかなか解けないこと。
(1)解けない疑問
A)万物はなぜ存在しているのだろうか?
B)私の存在にどのような意味があり価値があるのか?
C)死とは何か。死後あるのか無いのか?
D)その他
これらの、人の知識と知恵では解くことができず、あるいは重要視さえされずに「仕方ない」で済まされるような問題について、あなたが答えを見つけないと「真理を持っている」とは言えません。この疑問を自覚して、答えを求めよう、解決を得ようとしない人は一生かかっても真理を悟ることはできません。
(2)第1コリント8:6から、(1)の疑問を解いてみよう。
たとえば、A)の疑問への答えは「すべてのものは神様から出て
きた」と言えます。万物は神様あってこその存在なのです。対してこの世には「神はいない」という考え方があります。そこには存在理由はまったく存在せず、「ただ(偶然に)進化してきた」と考えられています。理由はなく、現象だけが残るのです。すると、善悪は存在せず、各自が思う正義が(衝突も、利害の不一致もありで)認められます。しっかりとした存在理由が提示されると、自分の利益が損なわれるので、彼らはそれを認めません。
あなたはこの世界万物を見た上で、どちらを選ぶのでしょうか。進化論的に考えれば、善も悪もありません。強いか弱いかだけでいいのです。人が善悪を考えるのは、造り主がそういう心をお与えになったからです。この理由の中に留まるのが、自分らしく生きることです。放縦を得たければ、制約を取り払い、自分の欲望のままに生きようとします。
人々が社会生活を円満に過ごすためには、お互いに譲り合う秩序が必要です。秩序がいらないのは、一人で、社会と関係しない人だけです。「好きにする、自由に生きる」とは、人に迷惑をかけることを顧みないことです。あるいは、自分が不利益を被らない程度に回りの様子を伺う状態です。皆さんは、ルールのない人生を送りたいのか、きちんとした理由づけのある、ルールにのっとった人生を送りたいのか、どちらでしょうか。ここで神を知っている人と知らない人との違いが出てきます。自己中心の罪の性質は、今ここで聞いたことに対して、嫌な気分を与えるでしょう。「神があなたを理由を持って、意味づけて、価値づけて作られた。その枠の中に生活しなさい。それを選ぶべきです。」こう聞いたら、心のどこかで反発する気持ちが湧いてきませんか。湧いてきたなら、その人は神を知ることにおいて、まだ知り方が弱いのです。神をよく知っている人は、「その通りだ。当然だ。私はそのために造られたのだから、目的に沿って生きるのが当然だ。」と思うのです。目的のために生きる、目標を達成するために生きることが、一番の満足をもたらすのですから。自由を奪われると勘違いしている人は、自分の迷いをよく自覚して真理を悟ってください。自分の内面を突き詰めていくことを無視したり、自覚しなかったり、不安を持って逃げないでください。
答えを得るための方程式は、聖書の中か、あるいは何も基準を持たない不確かな考えか、この世には二つしか存在しないのです。聖書の物差しか、いつも変わる不安定な物差しか。聖書の物差しなら世界中の人々の人生に対して、いつも寸分の狂いもなく測ることができ、みんなの心の家を完璧に完全に建て上げることができます。 「自分の人生このぐらいでいい」というような心の油断は、全世界の裁きの日に生き残ることができるものでしょうか。
「東日本大震災」は、千年に一度の大震災と言われています。では、この世でただ一度起こる裁きの日には、私たちはどうやって対処すればよいのでしょうか。その一度のために準備するのは賢いことでしょうか、愚かなことでしょうか。今は必要ないようにも思える聖書の教えがあっても、必ず来る裁きの日には、あなたも再び起き上がって裁きを受けるのですから、聖書の基準にのっとった人生を建て上げておけば、今までなかった予想外の人生の結末が訪れても心配ありません。
神がおられるという真理を持つことは、そういうことだと、皆さんのうちに少しでも思いが上がってくるような一週間となりますよう、デボーションに励んでみてください。
■2011年4月3日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
命令と神を知ること up 2011.4.3
もし、私たちが神の命令を守るなら、それによって、私たちは神を知っていることがわかります。
(第1ヨハネ2:3)
【今週のポイント】
『神の命令』は、私たちへの愛の証し
「命令」と「神を知っていること」とは、深い関係があります。ヨハネは、ここで知的な神の知り方ではなく、もっと深い部分の魂・霊で神を知ることを証ししています。神の命令を守る姿勢があるかないかで、魂・霊で神を知っているかどうかがわかります。神の命令を守ろうとして葛藤しながら「守ることが出来なかった」結果が一時的に出ても、あきらめずにチャレンジしていることは、命令を守っていることになるのです。
1.命令を守ることは、神を知っている証し(箴言6:23)
“命令はともしびであり、おしえは光であり、訓戒のための叱責はいのちの道であるからだ。”
これからどうしていけばよいか分からない、どういう方向に歩んでいったらよいか分からない…。今回、町が壊滅的な打撃を受けた東北の人々は、将来に対する光が見えず、灯がないような感じかもしれません。そんな混乱の中にある人々に、「互いに愛し合いなさい」という神の命令が灯となる…。現に、神様のことを知らなくても、「町の復興のために互いに助け合っていこう。今こそ、あきらめてはいけない。」という人々がおこされています。自分の家を流されたある大工さんは、避難所で知り合ったおばあさんが、「傾いてとても住めそうもない自分の家へ帰りたい。」というのを聞いて他の人から、「そんなばらばらの家を直してどうするのか。」と言われても「あきらめてしまったら、それでおしまい。こんな状態だからこそ、未来に向かって互いに励まし合って歩んでいこう。」という証しとして、おばあさんの家を修理しているそうです。私たちは、「クリスチャンです。」と言えなくなりそうな光景です。
世の終わりには、もっとひどい状態になると聖書には書かれています。そのような時にこそ、「互いに愛し合う」ことを心に刻み、今、互いに信頼し合い、心をつなぎ合う気持ちだけは捨てないようにしたいものです。人間の本能でしょうか…。自然にきずなを強めていき、秩序を乱さないようにしていこうとする働きが避難所の中で見られ、まるで神様が、聖霊様を送っておられるような気がします。ぜひ、祈りをもって支えていこうではありませんか。
(1)命令は誰のためにあるのか
(命令する側の利益のためか、命令を受ける側の利益のためか)
何のために神様は命令されるのでしょうか。何のために親は命令するのでしょうか。反抗したくなるのは、命令する側の思い通りにしようと感じるからではないでしょうか。神様が私たちを思い通りに動かしたいのでしょうか。命令は、受ける側の益となるために発せられるものです。
(2)命令を正しい良心で聞き取る
命令する側がどんなに思いを込めても、聞く側の受け止め方によって命令が違って聞こえてきます。命令する方の気持ちを知って聞き取ることが大切です。そのために正しい良心を働かせることが必要です。「自分のしたいことをさせてもらえない。」という自分サイドでは、命令を聞きたくないでしょう。したいことをしていくととんでもない結末となるので「こうしなさい。」と命令されるわけです。誰のために命令しているのかと、命令する人に私たちへの思いを聞き取って、内容を受け止めないと、感謝することはとてもできないでしょう。
(3)命令は、あなたにとって『福音』
命令を福音(良い知らせ)として受け入れられるのは、命令された方を知っているからです。命令を喜んで受け入れられないのは、いろいろな原因があると思います。将来への考え方が浅薄だと、今のことしか考えないので、相手のいう通りに動かされることを嫌いますが、将来を知っていると、命令の内容を聞いて当然だと感謝できます。
2.命令を与えられた方を知っていますか?(イザヤ1:2〜3)
“天よ、聞け。地も耳を傾けよ。主が語られるからだ。「子らはわたしが大きくし、育てた。しかし彼らはわたしに逆らった。牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉おけを知っている。それなのに、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない。」”
神様からの多くの奇跡を体験してきたイスラエルの人々を、神様は育ててこられました。しかし、神様は彼らを牛やろばよりも愚かだと言われています。
(1)どうして牛は、飼い主を知っているのか?
それは、飼い主が養ってくれるからです。牛は飼い主の命令に聞き従います。神が私たちを養ってくださることに、私たちが気づかなかったら、私たちは牛よりも愚かです。
(2)どうしてろばは、持ち主の飼い葉おけを知っているのか?
ろばは牛よりも愚かです。「愚かさ」の象徴で、わがままで、我が強いのです。そのろばですら、持ち主はわからなくても、自分の飼い葉おけの所に行ったら、えさがあることはわかります。ろばは強情なのでなかなか飼い主のいうとおりにしないので、ムチを与えます。その中で飼い主のいうことに従ったので、飼い葉おけの所に連れて来られたことに気づくわけです。このように、牛やろばと飼い主との関係から、動物でさえ自分一人では生きていけないことを理解しているのですが私たちは、科学・文明の進歩によって、だんだんと神様を必要としていないような錯覚に陥るのです。しかし、ますます必要です。神様が作られた宇宙の法則をしっかり知っていないと、科学が発展した故に、とんでもない事故を起こしかねません。
(3)どうして育てられた子らは、逆らうのか?
なぜイスラエルは神様に育てられたのに反抗するのでしょうか。親や先生に反抗するのは、何を知らないからでしょうか。親は食べ物や服を与え、育ててくれています。親ということを認めていても反抗するのはなぜでしょうか。私(辻師)は、母親の働きを知っていました。私の母親のごつごつのグローブのような手は、どれだけ苦労したかを物語っていました。田や畑仕事をし、毎日朝5時から、ひびわれをした手でも冷たい水で拭きそうじをし…。母親の心の動機が分かったとき、反抗など絶対に出来ませんでしたし、反抗しようとも思いませんでした。
3.「心悦誠服」(しんえつせいふく)(ネヘミヤ1:5)
“言った。「ああ、天の神、主。大いなる、恐るべき神。主を愛し、主命令を守る者に対しては、契約を守り、いつくしみを賜わる方。”
『心悦誠服』の意味
心から喜んで相手の誠意に服すること。
「心悦」=心の底から相手の行為や言葉を喜ぶこと。
「誠服」=心から慕うこと。心からつき従うこと。
命令は、私たちへの誠実を込めた言葉です。私たちが神を知ってたら、努力ではなく、心から喜んでおことばに従うことが出来るのです。(1:5)から、ネヘミヤの神への心悦誠服の心を見ることが出来ます。「大いなる…」とは、いかに力強く偉大なお方かを表現しています。「契約を守り、いつくしみを賜る方」ということばに、ネヘミヤの神へのとらえ方が表れています。主を愛し、主の命令を守る者に対して、また、やるべきことをしている人には契約を守り、いつくしみを賜って当然でしょうが、私たちは契約を破った罪人であり、神様に罪を犯して、不信仰を持ち、神を非難する者であったにも関わらず、神からはいつくしみを賜ったのです。ネヘミヤは、自分の罪深さを知っていました。「罪深い者が主を愛する」とは、本来「汚らわしい」と言われても仕方がないことです。「ああ、天の神…」とネヘミヤは、「罪人のみにくい私が聖なるあなたを愛しても、その愛を受け入れてくださり、命令を簡単に破る私に、もう一度命令を守りようにすすんでいくなら、契約をもう一度思い起こして、誠実誠意をもって契約を守り続けてくださり、失敗をものともせず、いつくしんでくださる…。」(1:5)はネヘミヤの罪人という自覚のもとで、神の愛とあわれみ、神の聖さに感動した祈りのことばです。ネヘミヤは、根絶やしにされてもおかしくないほどに罪を犯した先祖に対しても、忍耐し、悔い改めを待ってくださって、捕囚になってでも生き延びる道を与えられた神との関係を、理解したのです。その神のあわれみによって、今の私がここに生まれ育ってきた…と。
では、どのようにして主の誠意誠実を知ることが出来るでしょうか。旧約聖書の知らせは、イスラエルの民によって、まさに良き知らせ=福音となりました。イスラエルの人々は律法を守ろうと必死でしたが、ネヘミヤは、律法を守り通せなかったイスラエルの人々に対して、寛大な愛とあわれみを施された神の気持ちを理解し、神の誠意誠実さに感動し、そして神への信仰をしっかり持っていました。私たちも、キリスト教の歴史の中で、クリスチャンのいろいろな証しやみにくい歴史的事実を通して、それでもなお、神はイスラエルと同じく、地上に教会をあきらめずに残され、日本にも福音が伝えられ…。今自由に賛美し、聖書を読むことが出来…。今だ聖書が翻訳されていない民族もあるという世界情勢の中で、神様が極東の日本の国民に、誠意誠実をもって、キリストの福音を伝えてくださったということに感謝します。
「互いに愛し合いなさい。互いに赦し合いなさい。」これが私たちへの福音であり、私たちを幸せにする神のおことばです。罪人が互いに愛し合うことが出来るように、赦せないことがあっても、「すべての手続きは完了した」とイエス・キリストが罪の裁きを十字架で負っておられるから、「悔い改めてやり直しなさい」と。こんな良い福音がどこにあるでしょうか。神の前に悔い改め続けることの出来る恵みの救いが、どこにあるでしょうか。だから、聖書のおことばはすべて、私たちにとって良き知らせです。私たちのために、神が命令しておられるのです。
■2011年3月27日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
愛の供え物 up 2011.3.27
この方こそ、私たちの罪のための、「「私たちの罪だけでなく全世界のための、「「なだめの供え物なのです。
(第1ヨハネ2:2)
【今週のポイント】
なだめの供え物によって与えられている恵みによって、
愛の供え物である隣人への施しをしましょう。
1.(第1ヨハネ2:2)について
“みことばは前述”
(1)「私たちの罪」
「なだめの供え物」というところに大きな意味があります。この供え物の目的は、私たちの罪、および全世界の罪のためです。そしてなだめの供え物とは、愛の供え物でもあります。私たちの根本的な罪は的外れであり、これに気付くことが大事です。愛すべきものを愛さず尊ぶべきものを尊ばず、信じるべきものを信じないのです。自己本位な、利己的な基準で物事を判断していませんか。私たちは、自分では正しい確かな物差しを持てません。人は神の前に正しくあることはできないのです。「ではどうすればよいのか!」と途方に暮れるかもしれませんね。しかしこの的外れな状態は、なだめの供え物がささげられるためにあえて留め置かれているのです。
(2)「なだめの供え物」
神の怒りが下らないようにするのが、なだめの供え物です。私たちは的外れな状態の存在であるのに、それをなだめの供え物で代わりをさせられるほどに、私たちを愛され、必要とされているのです。道を誤っているのと、存在を必要とされるかどうかは全く別問題です。能力や才能に関係なく、神様は私たちを必要とされています。私たちの存在自体に意味があるのです。
私たちはできないなりにがんばろうとします。これは必要とされた者としての感謝の気持ちから出てきた行動ですね。神様は、そんな私たちが頑張っているのを見るだけで、うれしい気持ちになってくださいます。救っていただいてうれしいので頑張る私たちと、それを(成功も失敗も全部)ほほえましく見てくださる神様。この関係を保つために、裁きをとりなすための供え物として、イエス様が十字架にかかってくださったのです。
(3)「なぜ、なだめの供え物が必要なのか」を考えてみる。
神の怒りをなだめると同時に、罪赦されるために、なだめ(愛)の供え物が必要です。しかし、この世の何ものも、神の怒りを止めるには値しません。贖い(もう一度代価を払う)、償い(損失を埋める)とは、原語から訳すことのできることばなのですが、いずれも対象に強い愛着を持っていることを表しています。
(ヤコブ2:13)“…あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。”
愛は裁きよりも強いのです。愛による供え物は、神様の裁きの心を取り除き、愛の心が神様のお心を支配します。それゆえに、供え物の価値は愛の価値を表現するものですが、愛がない供え物は、たとえどんな高価なものでも意味がありません。
(第1コリント13:3)“…愛がなければ、何の役にも立ちません。”
それほどに、神は愛を大事にされる方と言えます。もしイエス様の十字架上の死が私たちへの愛から来るものでなかったら、身代わりは受け入れられなかったでしょう。私たちも、相手の心がこもっているものは大事にしますね。神様もそうなさいます。「あなたがそこまでして、その人のことを赦してくれと言うのなら、あなたの愛に免じて赦そう。そのかわり、あなたはその人をちゃんと管理するように。」と。身代わりには条件がつきます。「イエス・キリストを信じなければ救われない」のは、私たちの身柄の保証をするための契約がこれでなされるからです。保証人は、かばう相手を管理し、抑制し、もし問題を起こしても尻拭いをするのです。これほどの決意を持って愛してくださるイエス様だからこそ、私たちに神様の赦しが与えられたのです。感謝しましょう。
2.なだめの供え物によってもたらされた恩恵
(1)(第1コリント2:12)
“ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜ったものを、私たちが知るためです。”
(2)(第2コリント6:1)
“私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。”
(1)、(2)についてですが、恵みと一口に言っても、いろんな意味があるはずです。与えられている恵みの一つ一つを知るために、聖霊様が遣わされました。しかし、それらの大元である何らかの「恵み」と呼ばれているものが存在しているわけです。それは何でしょうか。「赦された」恵み、そのおかげで「人生を味わうことができる」恵み、「家族がいる」「勉強できる」などの具体的に挙げられる恵みの数々を無駄にしないようにと、聖書は言っています。
(3)(エペソ1:7)
“私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。”
恵みとは、価値のないものにでも、主観的にもたらされるものです。私たちは豊かに愛されています。あわれまれる価値がない者なのに、あわれんでくださったという恵み。聖書の他の箇所に出てくる「恵み」も、それぞれ意味あいが異なります。どういう意味の恵みなのか、よく考えて読みましょう。すると“まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。”ということへの感謝が湧き上がってくるように変えられるはずです。
今週、実生活の中で、恵みの一つ一つを見つけ出していけるように取り組んでみてください。
3.「解衣推食」(かいいすいしょく)(ヘブル13:16)
“善を行うことと、持ち物を人に分けることとを怠ってはいけません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです。”
いけにえということばは、なだめの供え物と言い換えることもできます。神様の裁きを抑えることのできる供え物は、善を行うことと、持ち物を分け与えることです。“…賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実…”(ヘブル13:15)は有名なみことばですが、実際の行動に表れた果実としての善行と施しも欠かせないものです。行いの実をうとんじる人が賛美をしても、それは偽物に過ぎません。むしろ善行と施しをする人の口から、自然に賛美が流れ出るものではないでしょうか。普通に考えても、人に親切をするのは気持ちがいいものです。
『解衣推食』の意味
自分の着衣を脱いで着せ、自分の食べ物をすすめて食べさせる意から、人に恩を施し、人を深く思いやることのたとえ。
これも愛が伴うことが必須条件です。かたちだけでなく深いあわれみと思いやりがなければ、自分の服を脱いで裸の人に着せるなどそうそうできるものではありません。先週お話しした、「もし避難所で、食物欲しさに人の物を取り上げようとする乱暴者にあったら」というたとえで、空腹で平常心を失い、老人の食べ物を取り上げようとする大男に対して自分の食物を差し出すのは、彼を恐れたりうとんじたりする動機では決してありません。ここまで追いつめられた状態を深く理解し、同情とあわれみを抱くからです。この「深い同情心とあわれみ」から行うのと、「恐れ、なだめるために」勧めるのとでは、神の前に大きな違いがあります。私たちも、このことをしっかりと理解し愛をもってすべてのことを行っていけるように努めましょう。
御子イエス・キリストは、御自身をなだめの供え物として、いけにえをささげられました。これこそ、愛による、まったき礼拝です。御子イエス・キリストのように全き礼拝を私たちもささげるには、日曜の礼拝だけでなく、その礼拝において聞いた神様のみことばを実行していってこそ、本当の礼拝になります。
(ローマ12:1)“そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。”
この「からだを用いる」ということを、「解衣推食」と重ねて考えていけば、なだめの供え物としてささげる、ということばをより理解できるでしょう。イエス様は、私たちの罪が赦されるために、なだめの供え物としてのご自身をきよく保ち、きよい生涯を送られました。なだめの供え物として神に受け入れられるために、完璧な状態を保たれたのです。これが「愛がある」ということです。イエス様の地上での時間はすべて、私たちへの愛のために費やされました。これが神に認められて、私たちは赦されたのです。イエス様の私たちへの愛を理解するためにも、この「なだめの供え物」の意味を理解していく一週間としていただきたいと願っています。
■2011年3月20日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
天の故郷に憧れて up 2011.3.20
しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。
(ヘブル11:16)
東北関東大震災で、一体どうなっていくのかという不安な状況が続いています。こういう中で、ある方が、私たちが神様に希望を持って歩めるようにという思いで、俳句を作ってくださいました。
「ひとひらの 白匂い立つ 永遠の春」(匿名)
まだ寒い中、咲く梅の花の香りに、どんな苦難の時でも、私たちには、揺るがない永遠の御国があるという希望を詩っています。
(ヘブル11:16)神の御国に対する希望が、どんな災難の中でも、私たちを支えます。寒い冬の中、春を待ち望む思いと同じです。
【今週のポイント】
終わりの日が近づいているので、ますます天の故郷への憧れが湧き上がる。
(今週はデボーションノートの2→1→3の順に話されました)
2.私たちの希望(ヘブル11:16)
“みことばは前述”
私たちには帰るべき所、天の家があります。今回被災され、家を失った方々がインタビューに答えておられましたが、本当に深い悲しみの中におられます。家や故郷というのは、私たちにとっていこいの場所であり、平安で安心できる所であり、幸せな所です。この世界、地上はいずれ消え去るもので、永遠のものではありません。私たちは天の故郷を目指す生き方をする必要があるでしょう。神様はそのことを、聖書の中で福音として語ってくださっています。
1.終わりの日のためのあかし(マタイ24:14)
“この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされそれから、終わりの日が来ます。”
天の故郷があるということを、イエス・キリストは地上に下ってくださり、福音として証してくださいました。その故郷に入るために、イエス・キリストは私たちの罪を十字架で身代わりに負ってくださったのです。私たちの罪をすべて赦して、ご自身のもとに帰って来るようにと、神は福音を完成させてくださいました。これが事実であるということが伝えられ、証しされてから、終わりの日が来るということをイエス様は語っておられます。伝えるだけでなく証明するのが、私たちイエス・キリストを信じた者たちの務めです。人生の様々な問題を通り抜ける度に、私たちは聖霊によって、確かに天の故郷があると確信していくのです。たとえ地上でどのようなことが起こっても、私たちの魂は肉体を離れて天に帰り、そこで新しい体を与えられて、新しい生活が始まります。そのことを人々に証しする働きがあります。
(1)キリストに習うあかしをたてる(第1テモテ2:6)
“キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。”
神が、ひとり子なるキリストを十字架につけるために遣わされたのは、神の私たちに対する愛のゆえです。それゆえ、終わりの日のあかしは、この神の愛をいただいている私たちが、自分を愛するように隣人を愛するということで立てられます。神はご自身の最も大切なひとり子なるイエス・キリストを与えてくださいました。ひとり子とは、自分のいのちと同じほど大切な存在です。ではこの愛はどのように人々にあかしできるでしょうか。たとえば、今回の大震災で多くの被災者の方々がおられ、そちらに優先的に物資を送らねばならないのに、まずは自分の身を守ろうと買い占めてしまう。そういう心情は理解できますが、自分の状況はそこまで追いつめられていないにもかかわらず、そういう保身に走ってしまう…(広島でも乾電池等がなくなったり)クリスチャンも同じようにしていては「神は愛です」というあかしは立てられません。ここで必要なのは私たちは天の故郷に帰る途上の者であるという自覚です。その自覚があれば、物が不足している中でも、人々に譲っていくということができるのではないでしょうか。
地上で人々に親切を尽くし与え続け、死んだら天国、すばらしい人生ではないでしょうか。たとえ、地上で報われなくても、天では報われるのです。この御国に心を向け、いつも憧れていたなら、神の御心から外れることはありません。
(2)「烈士徇名」(れっしじゅんめい)の道(マタイ10:39)
“自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。”
「烈士徇名」=道理を大切にする人は、命をかけて名誉を守る。
利益や地位など世俗的な価値にこだわらず、道理を通して名誉を守ると いうこと。
「互いに愛し合いなさい」という人生を全うするためのみことばです。
この地上で生きながらえようと自分のいのちを大事にする者は、それを失うのです。我先にと物を取り合う、それは本当のいのちを失います。昨日インターネットで見たニュースですが、高校生たちが震災のために募金を集め、額を数えていたところ、そこへ男がやって来て、「誰に許可を得て商売やっとるんや!」と全額巻き上げていったそうです。なんとひどいことでしょうか。あるいは募金詐欺など…。人の不幸を利用して、自分に利益をもたらそうとする考え方、情けないものです。
しかし、もし窮地に立たされたらどうでしょうか。避難所で食べ物がほとんどなくなった時、均等に分けようとしても全員に行き渡らない時、弱っていたり年老いた人間にやる必要はない!といかつい男性が暴言を吐いた時、そこにあなたが居合わせたらどうしますか?私はこうありたいというシミュレーションをしているのですが飢えと怒りで我を忘れている人間に説教しても無駄です。「私の分をあげるから、今回は我慢してください。」と自分の分を渡す…自分は飢えても、その自己中心の人がどこかで気付いて、悔い改めて神を受け入れる時が来るかもしれないと期待する…自分は死んでも天国に帰るのだからと、そのようでありたいと願っています。
隣人を愛するという真理に立った姿勢を歩む人を、烈士徇名という言葉で表しました。「烈士」とは義理堅く意志の強い、正しい人のことです。私たちはこの世の価値にとらわれず、天の御国を目指し、父なる神の名誉を守るために、隣人を愛していくという真理の道を守る、そのような生き方をしたいものです。もし広島で大きな災害が起きても、私たちはクリスチャンとして、人々に譲り、与えていき、最後は天国の故郷に凱旋していきたいですね。
今から、心の準備をしていきましょう。なぜなら神は、世の終わりには大患難が起きると言われているからです。その心構えで、与えられた仕事を熱心に果たしていきましょう。
3.「生」と「死」を考える(ピリピ1:20〜22)
“それは、私がどういうばあいにも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によってキリストのすばらしさが現されることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。”
パウロは、生きることも死ぬこともよく理解していました。私たちもしっかりとそのことを理解し、今から備えていきたいものです。
■2011年3月13日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
罪を犯さなくなる up 2011.3.13
私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。
(第1ヨハネ2:1)
今週の新しい目標として(第1ヨハネ2:1)が示されました。この「罪を犯さなくなる」というテーマからお話していきたいと思います。
1.第1ヨハネ1章を振り返る
1)第1ヨハネ1章1節「すべてのものは、愛によって創造された。」
2)第1ヨハネ1章2節「神様との愛の距離感を大切にする。」
3)第1ヨハネ1章3節「愛の距離間は、神の家族としての至福の交わり。」
4)第1ヨハネ1章4節「家族の交わりは、互譲満喜による全き喜び。」
5)第1ヨハネ1章5節「『神は愛』という真理の光を、しっかりと見つめて歩む。」
6)第1ヨハネ1章6節「真理なる方との交わりによって、真理を身につけることが出来る。」
7)第1ヨハネ1章7節「血潮による神の家族は、光の交わりである。」
8)第1ヨハネ1章8節「家族の交わりは、改善することを期待した赦しの交わり。」
9)第1ヨハネ1章9節「和風細雨の神に罪を告白し、悔い改めの実を実らせる。」
10)第1ヨハネ1章10節「自己義という傲慢の鎧を脱ぎ捨てて、みことばを迎え入れる。」
詳しくは、これまでの週報をもう一度参照してください。そうすると、「神がヨハネを通してこの手紙を教会に送られた気持ち」が私たちの内に湧き上がって来るのではないでしょうか。読み返すことは大事なことです。注意深く読めば、何度も新しい発見をすることができます。
2.「微言大義」(びげんたいぎ)(第1ヨハネ2:1)
“みことばは前述”
さて、今回のメインテーマです。以前も述べたように、ヨハネは「神は愛である」ということに特に重点を置いて、手紙にも、人々への宣教にも働いた使徒です。彼に与えられたのは神の啓示であって、人の理屈の及ぶところではありません。
『微言大義』の意味
簡単な言葉の中に、深い意味や道理が含まれていること。微妙な表現の中に含まれた奥深い道理。
ヨハネの手紙には、神学的な難しさはほとんどない。しかし、ちょっとした言葉の表現の中に、愛の神についての真理が表現されている。まさに『微言大義』を汲み取ることが大事である。
地上の言葉ではとうてい表現できない神様、それを『愛』ということばで、ヨハネは伝えています。この手紙を深く汲み取っていくにあたって、手紙の本当の作者であられる神様がどんなお方かを知ることが必要です。皆さんも、人の話を聞くにあたって、嘘つき、大言壮語、自己中心な人の言葉をまともに受け取ることはまずないでしょう?その人を知らないうちはびっくりして聞いていても、付き合いが長くなれば、10分の1くらいに聞いておけばいいのだとわかってきます。そのように、相手を知れば知るほど、相手の言葉や書かれた手紙等の真意がわかってきます。神様やイエス様に対しても直接にどういうお方かをわかっていかなければ、聖書の中に込められたお心やお考えを察知するのは難しいことです。ギリシャ語やヘブル語の文法やことばを多く知ることが、必ずしも正しい理解につながるとは限りません。
ヨハネは、「この手紙を書かれた神は愛なる方」と記すことによって、〔この方は楽観的、肯定的、プラス思考、明るい、心底から明るい方だ〕と語っています。ゆえに、「神は愛である」という観点から全ての聖書のみことばを捉えることが、私たちにとって非常に大切なことになります。この心がけをもって、今週のみことばを聖霊様に教えさとしていただきましょう。
【敬聴】
A)『罪を犯さない“ようになる”ため』私たちを理解しておられる表現。
(第1ヨハネ1:4)と(第1ヨハネ2:1)を見比べてみます。(第1ヨハネ1:4)での「私たちが」は、1番目が手紙の発信者たち、2番目は発信者も受信者も含めた、神の家族みんなを指していましたね。これに対して、(第1ヨハネ2:1)の「私」は、神の代理者ヨハネであり、もちろん神ご自身が出された手紙ととることができます。神が願われているのは、私たちが「罪を犯さないようになる」ことです。
人は不思議に、罪を犯すことへの抵抗感を持っています。多少は教育の影響等もあるでしょうが、「人を傷つける」「人のものを盗む」のは良くないことだと、教えれば理解します。しかし現実は思うように正しく生きることが難しいので、罪を犯さず生きることなど不可能だとあきらめてしまうのです。しかし本来、神様は私たちが罪を犯さないように、とお造りになりました。考えてみてください。『犯さない“ようになる”』とはどういう意味なのでしょう。これは私たちのことを非常に理解してくださるがゆえのおことばなのです。すぐには成功できなくても、だんだん目標に近づいていくという、時間的猶予を与えてくださり、罪を犯さなくなるためのプロセスを踏まねばならない私たちへ、配慮してくださっているのです。
親が子どもをすぐに叱ってばかりいると、叱られないために何かをする(あるいはしない)と、マイナスな方向に成長します。神様に対しても、「すぐ怒る方」とか「恐いから」などと、罰を恐れるがゆえに罪を押さえようとします。しかし本当の神様は、ご自分の愛、思い、気持ちに応えて「罪から離れよう」と、自発的な心の力によって罪を犯さないようになっていくことを待っておられるのです。猶予とはどのくらいなのでしょうか? ペテロに「7を70倍するまで赦しなさい」と言われた神様が、それ以上に赦してくださることは明らかでしょう。こんなに良くしてくださる神様に、ぜひ応えていきたいですね。あきらめるのは、期待と信頼をもって犠牲を払ってくださっている神様の御心を見ず、自分のことだけ考えるからです。私たちは誰も、自分の力だけで良い者にはなれません。私たちは、神様のお気持ちに励まされて、自分を良い者にしようと考えるのでなければいけません。
「自分に目的達成が可能かわからなくても、神様がそれを望まれ私を信頼し、期待し、あらゆる犠牲と赦しを与えてくださっているのだから、この命を与え、時間をくださり、待ってくださる方のために、許される限りは走り続けよう。罪を犯さないよう努めていこう。」この、「愛に応答する」という動機が大事です。そして信仰の心が。今あきらめている人はいますか? 神はそれでもあなたをあきらめません。『もう一度やり直しなさい」と優しく言ってくださいます。罪を犯さなくなるためにです。この神のお気持ちをぜひ考えてください。
B)『御父の前で“弁護する方がいます”』どのような弁護?
私たちは生きている限り、必ず罪を犯す者であるのに、みことばにある『罪を犯すことがあれば』とはどういう意味なのでしょう。それは、私たちについてくださっている最高の弁護人イエス・キリストの力強さのゆえです。イエス様の弁護はこの世の弁護とは全く違います。「義なるイエス・キリスト」ということばには、私たちのために忍んでくださった十字架の贖いが表されています。身代わりの裁きによって流してくださった血が、血によってしか贖うことのできない罪の代価を全部支払ってくださいました。イエス様はあなたの側に立って「この人の罪の代価は、わたしが全て十字架で支払ったので、もう罪は残っていないではないですか。」と言ってくださるのです。裁き主であられる神様は、既に処分されたものを再び引き合いに出されることはありません。私たちの罪を何もかも全部、二千年前の十字架におけるご自身の贖いの死によって処分した、という事実をもって、イエス様は私たちの弁護をしてくださるのです。これほど力強い弁護はありません。
その十字架の贖いの効果は、赦されている誰かと、救い主イエス・キリストとの絆が結ばれる時に表れます。「もう裁かれた者である」そして、「自分が直接裁かれたのではなく、キリストが身代わりに裁かれてくださった」ということを悟れば、自分の人生がもはや「自分のもの」ではないと考えるのはむしろ自然な流れと言えるでしょう。助けてくださった方の犠牲、その方が自分のせいで恥をかかないためにも、真っ当な人生を歩みたいと思うのは当然です。これが「愛による応答」です。
私たちは、イエス様が私たちに表してくださったあわれみ、愛に応答していきましょう。5年や10年失敗したからと言ってそれが何でしょうか。神が忍耐して生かしてくださっている間は、一つでも罪を犯さないようになるために、神の前に敬虔にチャレンジしていきなさい、とイエス様が励ましてくださっていることを忘れないでください。
今、自分が何か罪を犯しているとは感じない人もおられるかもしれません。自分の罪について知っておくことは大切です。私たちは「赦された罪人」であって、現在も実のところは罪人なのです。こんな自分を赦してくださっている神様のために、少しでも罪を犯さない者になりたいと願うのが、神様の愛に報いる私たちの動機であるべきです。その心こそが、私たちの神への信仰であり、決して捨ててはならぬものです。そしてまた、この心こそが、きよめられた良心なのです。これを捨てた者たちが信仰の破船にあったことが聖書に記されています。使徒たちの生きた時代、奇跡といやしが数えきれないほどあった時代でさえ、そのような結果に至った者たちがいたのです。それならばなおさら、私たちは神様の愛を正しく受け止めることのできるきよめられた良心を大事にしながら、「赦され続けている罪人」「愛されている罪人」として、一つでも多くの罪の実を結ぶことのないように、努めていきましょう。
■2011年3月6日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
みことばの内住 up 2011.3.6
もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。
(第1ヨハネ1:10)
クリスチャンは自分が罪深いことを知っています。
1.(第1ヨハネ1:10)について
(1)「罪を犯してはいないと言う」
それは罪を隠すことであり、私は正しいと言う態度を意味している。アダムのように、罪の恥を隠そうとする的外れの態度に気をつける。
(2)「私たちは神を偽り者とする」
クリスチャンは誰も、神は偽り者だと言う人はいない。しかし、私は正しいという態度をとることが、神を偽り者としているのである。
(3)「神のことばは私たちのうちにない」
神のことばであられるキリストは、私たちのうちにおられない。キリストは神の愛。私は正しいと言う態度をとるとき、神のことばである『愛』は存在しなくなる。
罪の恥を隠そうとして、自分の正しさを主張するなら、それは、神を偽り者としていることになる。その人のうちに神の愛は存在しなくなる。
罪を隠して認めない姿勢は、福音のことばが悟れず、神の愛に触れられることを妨げる。
つまり、罪を犯す者であることを知りながら、「罪を犯していない」と言ってしまう自分。私はまだ正しいところがあると言いたくなるのです。言い訳も過ぎると、自分の義を立てることになります。例えば、「片付けてほしい」と頼まれ、一生懸命片付けたものが違っていて、「それではない」と言われた時に、心穏やかでは済まされず、ムカッとくるような場面。その後は、自分の正しさを主張し合って言い争ってしまう展開に…。自分が受け止めた内容の誤りを指摘されても素直に認めることができず、「罪を犯してはいません」と言いたくなって、自己防衛してしまいがちです。どんなに熱意を込めて誠心誠意行っても、内容が違っていれば間違いになります。「一生懸命」が正しいとは限りません。自分が正しいと思って一生懸命やったことが認められず、「間違いだ」と言われるなら、傷つき悲しむわけです。私たちもクリスチャン生活を一生懸命やっていて「間違いだ」と言われても、なかなか素直に認めにくいものです。なぜでしょうか。それは、私たちは「赦されている罪人」だということを忘れているからではないでしょうか。罪人=的外れをする者、であるにもかかわらず、赦されていることを。的外れしなくなったわけではありません。神様は私たちが常に的外れをする者であることを受け入れてくださっているので、寛容・忍耐・柔和をもって、私たちに臨んでくださっているのです。
私たちは、隠していることを認められないほど、自分は正しいと思い込んでいるかもしれません。「私たちは正しい」と言ってしまうところに間違いがあると気づくような、赦されている罪人としての自覚を忘れないようにしたいと思います。
もし罪を隠して、自分は正しいと言い張るなら、そんなつもりはなくても、(2)のポイントのように神を偽り者とする態度になってしまいます。そういう聞き入れない態度は、(3)のように神のことばを内側に宿すことはできません。ですから、みことばなるイエス・キリストと交わると言っても、内側に交わる方がいなかったら交わりようがありません。きよめられていく交わりをしていくためには、みことばを宿した中で交わりをするーすなわち、罪人という自覚の中で、謙虚な心で神様の前に出ることが交わりの大事な基本と言えると思います。
2.罪を悟る(詩篇19:12〜13)
“だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。”
自分の数々のあやまちを悟ることができないのは、傲慢の罪に捕われ、支配されている状況があるからではないでしょうか。また傲慢の罪があると、どんなにみことばを読んで知識的理解があっても本当の交わりに至っていないので、きよめられていきません。知識としてのみことばは頭の中にあっても、みことばが生きて内に住むことができていないので、交わりが成立しないのです。傲慢がイエス・キリストを追い出し、神のみことばを私たちの心から閉め出してしまっているような状況ではないでしょうか。
なぜ傲慢の罪に支配されるかを考えた時、罪を犯したことによる恥、失敗をしてしまったことによる恥ずかしめを隠そうとするからではないでしょうか。人類最初のアダムとエバからあったことです。罪を犯すと、何らかの自己防衛をして、不完全さを見られないように、愛されない者にならないように、尊敬がなくなってしまわないように、自分を守ろうとするのではないでしょうか。
傲慢の罪に支配される様子は、ヨーロッパの騎士が頭の先から足の先まで鉄で覆われた鎧(よろい)を身に着けている姿が思い浮かびます。足下の物を取るのもままならない重たい物を身につけるのは、敵の攻撃から自分を守るためです。「傷つけられたくない」という気持ちは、「私は罪を犯していません。」と鎧を作ってしまうのです。これが傲慢の罪です。傲慢とは気付きませんが、身を守ろうとすることがすでに傲慢です。なぜ裸であることが認められないのでしょうか。認めると矢が突き刺さってきて、みことばの剣で切り刻まれるという恐れをいだいているからです。神様の前では「私は罪人です」と祈りますが、それは本当にへりくだった真の姿でしょうか。
「ありのままに生きる」と言いますが、ありのままの姿がどんな姿か知っていますか。傲慢という罪の鎧を着けた姿、欲望をいう着物を着けた姿、いや感じるままに生きるという服装をつけた姿が、ありのままの姿でしょうか。私たちは、本当の自分の裸の姿を知っていなければ、ありのままに神の前に生きることはできないでしょう。「私は今なお罪人です。イエス様のお陰で罪が赦され、罪のない者と神様は見てくださっている。」ここに神の愛とあわれみを感じて、謙虚になれ、裸になる勇気が出てきます。今の罪人のありのままの姿で、神と共に歩むことを考えていくわけです。
ともかく傲慢の罪という鎧を取ることができるのは、私たちの中身を知っている方に出会った時です。なぜなら、神は赦しの神であり、あわれみ深い方だから、鎧を脱いでも大丈夫だからです。私たちを、鎧を着けなくても良いようにきよめてくださるお方です。そういう信頼を持って、神の前に罪を言い表す(第1ヨハネ1:9)ことが大事だと思います。
3.「流風余韻(りゅうふうよいん)」(コロサイ3:16)
“キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。”
『流風余韻』の意味
後々まで残り伝わるような良い習わし、美風(美しい習わし)のこと
「流風」=先人から伝えられた良い風習。
(コロサイ3:16)のみことばには、礼拝におけるクリスチャンの交わりの様子が描かれています。「互いに教え、戒め…歌う」ためには、キリストのことばを内に住まわせることが大事なポイントです。私たちがイエス様から伝えられた聖書のすばらしい風習を、律法としてではなく、生活文化として取り入れていくなら、何ら難しいことにはなりません。私たちは霊的には神の国に籍を置いていますから、神の国の文化に慣れ親しむことが必要ですね。みことばを豊かに住まわせ、そして「互いに教え、戒め…交わりをしていく」というのが、クリスチャンの文化です。知識ではなく、みことばから感じるものを語り合うという「流風余韻」を聖書から受け止めていくことが必要ではないでしょうか。
キリストのことばとはどういうものでしょうか?
また、みことばを豊かにうちに住まわせるポイントを考えましょう。
上の2つの点を黙想していただけたら、と思います。みことばを豊かに住まわせるポイントは、傲慢の鎧を取り除くことでした。すなわち、罪を犯す者であり、100%正しいとは言い切れない、的外れをする者ですという姿勢です。なぜなら、あわれみ深い神は、罪人にあわれみが注がれ、改められるようにきよめてくださる助けを、交わりの中で与えてくださるからです。黙示録のイエス様が戸を叩いておられる姿を描いた聖画がありますが、みことばがあなたの心の戸を叩いても、内側から少し開けて「少しでも私の正しいことを認めてくださいよ」と言って、イエス様が入られる余地を与えず、戸の中と外で交わりをするようなクリスチャン生活は、本当の交わりになりません。「罪深い私のところに来てくださって、イエス様ありがとうございます。」と、へりくだった心が全面的にイエス様を迎え入れるポイントだと思います。こういうところを皆さんも吟味しながら黙想し、御霊様によって罪を悟らせていただいて、キリストのことばを少しずつ住まわせて、良き交わりへと、初代教会から御霊様によって教会に与えられてきた良い習わしを、この教会でも実らせていきたいと思います。
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