■2011年2月27日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

  きよめの交わり  up 2011.2.27




もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
(第1ヨハネ1:9)

 

 

 

 ヨハネは愛の使徒として有名ですね。彼のうちにはどれほどの深い愛、神への思い、愛に対する捉え方があったのでしょうか。彼が記したことば一つ一つにも、何かしらの思いが込められているはずです。今回はテーマのみことばを、4つに分けて研究してみましょう。

1.(第1ヨハネ1:9)について
(1)「自分の罪を言い表す」(ヨハネ9:41)
“イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」”
 当時のユダヤでは、障害を持つことは大きな罪の表れとされていました。であるのにあえて「盲目であれば罪はなかった」と言われているのは、心の中での状態が真理に対して開かれているかどうかについて語られているからです。自分が盲目(罪人)だと認めるなら罪は赦されますが、目が見える(義人)だと言い張る限り、罪を取り除くことはできません。
 私たちは、自分がどれほど的外れの罪を犯しているかをはっきり認めることが大切です。これが罪を赦されるための必須事項です。さらに、その的外れぶりを詳しく説明できることが必要です。たとえば盗みを働いたとしたら、そこに至るまでの動機や心情などの細部にまでしっかりと思い出し、自分の気持ちを神様の前に全部明らかにしましょう。そうすれば、(2)、(3)にあるように、神様は私たちを必ず赦してくださいます。

(2)「神は真実で正しい方」(イザヤ61:8)
“まことに、わたしは公義を愛する主だ。わたしは不法な略奪を憎む。わたしは誠実を尽くして彼らに報い、とこしえの契約を彼らと結ぶ。”
 私たちが、欲望にかられ、とどめようのない欲望に振り回される自分というものを、神様の前に正直に表すなら、次のようなことが起こります。その罪の働きかけは不法なものであって、罪なき神の子たちを罪の奴隷として陥れる働きだと、神は正しい怒りをもって罪の働きを処分してくださるのです。アダムが罪を犯した時も、最初は誘惑という罪の働きかけがあったからですね。現在の私たちに対する神様のあわれみは、誘惑にだまされて、罪の奴隷になってしまった状況をよくご存じだからなのです。サタンは巧妙な罠で、私たちをだまし取りました。ですから神様は、私たちが正しいことをしたいのにできない現実も、罪の社会の中で傷つきゆがめられていることもわかってくださっています。それゆえに、罪のために腐りきった自分の状態を神様の前にすべてさらけ出すなら、神様はそんなあなたを赦してくださいます。悪魔から生まれた者でもない限り、心から悪を喜ぶ人は、全人類の中にはいません。ましてや、キリストを信じることができた者たちが、自分の罪に心痛まないことなどありえません。だからこそ、悪魔によって不法な略奪を受け、こんな罪人になった私たちを神様はあわれみ、報いととこしえの契約を与えてくださるのです。
何事でも、こと細かく神様の前にお話ししていきましょう。

(3)「その罪を赦し」(第1テモテ2:6)
“キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。”
 アダムが罪を犯して以来、私たち人類が神様に与えた損失は計り知れません。しかし二千年前に神ご自身が、イエス・キリストの十字架によって、ご自分でその損失を贖われました。正義と公正をもって私たちを買い戻し、本来あるべき姿に戻ることができるようにしてくださったのです。そして、「赦したい」と願われる神様は、私たちに正直な罪の告白を求めておられます。本来なら私たち自身のいのちと血をもって支払わねばならない罪の代価は、イエス・キリストという唯一の尊い犠牲がすべて支払ってくださいます。ぜひ、「赦したい」という神様のみこころにこたえて、神様に対して正直な自分であってください。

(4)「悪からきよめてくださる」(使徒10:15)
“すると、再び声があって、彼にこう言った。「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」”
 罪が赦されるのには目的があります。成長し、神の子として成熟することです。「きよめてくださる」ということばには「浄化する」という意味もあります。それはすなわち、罪を犯さない性質へときよめていってくださるということです。罪は一度取り除いて終わるのではなく、罪を犯す行為そのものを、その都度少しずつ取り去ってくださっているのです。
 では浄化はどのようにしてもたらされるのでしょうか。神との関係の中にあってです。神様とのおつきあいの中にあって、だんだんときよめられていくのです。神様との交わりを多く持つほど、私たちは多くのきよめを受けることができます。罪を犯す誘惑や欲望に勝利できるための力が多く与えられるからです。徳が高められ、品性がきよめられ、セルフコントロールがしやすくなるのです。
 ここで特筆すべきなのは、罪人がどうやって神様と交わりを持てるようになったか、ということです。どんなすばらしい効果が期待できても、交わりの方法が得られないなら、はかない夢に過ぎません。しかし神様が与えてくださった、イエス様の十字架という奇跡がこれを可能にしてくださいました。イエス様の十字架に、すべてのご計画がかかっているのです。

2.和風細雨(わふうさいふ)(詩篇86:15)
“しかし主よ。あなたは、あわれみ深く、情け深い神。怒るのにおそく、恵みとまことに富んでおられます。”
『和風細雨』の意味
穏やかに吹く風と、静かにそぼ降る雨のようすから、人のあやまちや欠点を改めるのに柔和な態度、方法でのぞむことのたとえ。
 強硬な手段をもって人を回心させるのは、とても難しいことです。むしろ柔和な態度、方法をとった方が効果を得やすいでしょう。神様も柔和であわれみ深い心と態度をもって、私たちに接してくださっています。だから恐れて自分を隠すことなく、正直なあけっぴろげな心で神様に向き合いましょう。罪を責められて心が痛んでも、神様は必ず私を赦してくださる方だ、と思い出して、隠し事がないようにしましょう。神様はあなたが罪赦されて、罪から離れて前に進むことを望んでおられます。神様に信頼と望みを置き続けるために、(詩篇86:15)を心にいつも留めてください。
 神様の赦しを受けるにあたって、みなさんの心をチェックしていただきたい部分があります。赦しを受けるほどに、イエス様の血潮によって清められた正しい良心が強くなるはずです。正しい良心は、あなたを罪から離れさせます。この良心を捨ててしまい、罪から離れることをいやがると、信仰の破船を起こします。イエス様は決して、罪から離れないで済むように死なれたのではありません。正しい良心は受けたものの偉大さを知り、神様への愛と感謝と尊敬が芽生え、罪から離れ、罪を嫌うようになります。聖霊様も、正しい良心を育てるためにいろんなことを教えてくださいます。罪を犯して「もう何度目か?自分はダメだ。」と思うなら、それを正直に神様に話してください。やってしまったことも、自分の気持ちも、すべてさらけ出してください。神様はあなたをいやし、励まし、慰めてくださいます。さらに、みことばによる知恵、兄弟姉妹による助けなどを得て、私たちは成長していきます。みことばなるキリストとの交わりは聖書をよく読むことを通してなされます。たくさん読めば、たくさんのみことばが助けてくださいます。旧約の初めから、黙示録までたくさん読む方がいいでしょう。何度でも新しい発見があります。自分勝手な勘違いもしにくくなります。
 聖霊なる神様との交わりは祈りを通してなされます。正しい良心と肉の思いとの葛藤がある中で、「聖霊様、今の私の思いを知ってください。」と求めていく時、私たちのために深いうめきをもって父なる神様にとりなしてくださる方が聖霊様です。父なる神様との交わりは兄弟姉妹との交わりによってなされます。父なる神様は、家族一同が交わる中にいたいと思っておられます。兄弟姉妹との間でぶつかり合い、罪がかき回され、その中で父を見上げようとみんながご臨在を求めて前に出る時、赦し合い、和解するという自浄作用が起こります。
自分の罪を告白することを恐れてはいませんか。あるいは罪を犯しているかどうかさえわからない人もおられるかもしれません。しかし、肉が罪の性質を持っている以上、放っておけば必ず的外れの方向に行くのです。いつも神様に教えられて、きちんと方角の微調整をし続ける必要があります。その中で神様の愛をさらに知っていくのです。心の中にいつも、正直に神様への告白を保っていきましょう。そして主の赦しの愛に安心して甘えながら、前に進む勇気を育て、罪から離れていきましょう。

 

 

 

 

 

 

■2011年2月20日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

  真理の交わり  up 2011.2.20




もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
(第1ヨハネ1:8)

 

 

 

 真理のないまま交わりをしても、神が願っておられるような交わりはできません。真理にあることがとても大切です。それでは、真理のない交わりとはどういうことでしょう。(第1ヨハネ1:8)から学んでみましょう。

1.『罪はないと言う』
A)『私には罪が存在しない』という間違った信仰
 これは以前お話しした、グノーシス主義の影響による考え方です。
神がイエス・キリストによって罪を処分してくださったのだから、キリストと共によみがえった私たちにはもう罪はない、罪の存在自体がなくなったという拡大解釈です。「私の内には罪はないのだから、私がなすことはすべて正しい」という捉え方なのです。そして、欲望を満たしていくことすら少しも悪くないと考えるのです。もちろん道徳的に、良心的に考えても、それはおかしいと思えますが、こういう理屈を理路整然と聞くと、なるほど…と納得してしまいそうになるのが人の弱さです。理論さえしっかりしていれば、良心的にはおかしいと思えても、納得して信じてしまう。ただ、理屈ばかりを組み立てて自分の都合のいいように捉えていくと、大きな罠にかかることになります。科学の理論はきちんと神の立てられた秩序である法則に基づいているので、追求していくことは何の問題もありませんが、信仰や道徳性を理論づけるのは、基準がなく自由なだけに、大きな違いが生じてきます。哲学や思想が多種多様にあるのがいい例です
 私たちクリスチャンは「納得する」からではなく「神が言われた」から、信じ受け入れるという信仰を持っています。「納得する」ことを重視していると、納得できないみことばが出てきたら信じないということになります。万物を造り、すべての法則を造られた全知全能な神がすべてを治めておられるのに、神のなさることすべてが、どうして私たちの頭で理解できるでしょう。いちいち納得できるかどうかを考えていても無理というものです。私たちはまだまだ未熟な者です。だからといって何もかもうのみにすればいいわけではありません。聖書を読む時、「神は愛です」という観点から見ていくようにしてください。なぜなら万物は神の愛から出ているので、愛をもって理解することができます。神の絶対性を信じているから、神のなさることをいちいち納得する必要はありません。完全な方だからです。(ただし、人のすることに関しては、納得する必要があるでしょう)
 「赦し」というのは、罪の存在自体を取り除いてなくしてしまうというのではありません。「赦し」は罪があるからこそ与えられるものです。私たちには罪があるので、今も「赦し」が与えられているのです。「今も赦されている」というところに、神の愛の素晴らしさを知る秘訣があります。「赦されている」ゆえに、神の愛を知ることができます。「赦されている」のだから、何をやってもOKという考え方は、間違った信仰です。

B)『私は正しい、あなたが間違っている』という間違った態度
 その場の出来事が間違っているかどうかを追求する、その態度が問題です。家族の間でどちらが正しいかを追求していったら、分裂してしまうでしょう。悪い部分を知ることは必要ですが、それ以上に相手の間違いをはっきりとさせ、裁くために追求していくなら、それは相手を傷つけてしまうことになります。家族はまず、「赦し合う」ことが特徴です。
 教会の中で、誰が正しいと主張し合うなら、家族関係は切られてしまいます。ある程度間違いがわかったら、その人が間違いを認めて謝りやすいように、回りが寛容に諭していくのが家族です。子どもと違って大人は、厳しく指摘されると傷ついて弱ってしまいます。大切なのは間違いに気付かせることではなく、改められるよう助けていくことです。感情的な怒りは相手を傷つけるだけです。罪人である私たちは、100%正しいと言い切ることはできません。誰も完全な人はいないのです。それゆえ、同じように罪を犯す弱さがあるのですから、各々の正しさを争っても意味がありません。むしろ責め合うよりも、今度は正しくできるよう励まし合うことが大切ではないでしょうか。

2.『自分を欺いている』
 自分も的外れの罪を犯していながら、相手の罪ばかり責めて、自分は罪はないと言い張るなら、それは自分を欺いていて、そこに真理はありません。真理とは、「イエス・キリスト」です。このキリストは神の愛が形となって現れたお方です。このキリストとの交わりが神との交わりであり、互いの愛の交わりにつながっていきます。愛は交わりの中に見い出されるもので、一人では愛はそこに表れません。キリストと交わらなければ、愛は生まれません。また、互いが交わらなければ、愛は表されません。

3.『真理はない』
 「罪はない」と言う者に、どうして真理である神の愛がないと言えるのでしょうか。ヨハネは家族としての愛の交わり、光の交わりを大切にしていました。そこから逸れないように考えてみてください。罪があるかないかの交わりではなく、罪を改善していく交わりこそ大切です。罪から少しでもお互いが離れていけるよう励まし合い、赦し合いましょう。真理は裁くためにあるのではなく、その人を完成させるためにあるのですから。真理を語っても、相手を傷つけてしまっては意味はありません。語る側に愛があり、受ける側もその愛を信じているなら、傷つくことはないでしょう。
 また、昔赦されたが今はもう大丈夫、赦される必要もないと思い込んでいる人も的外れです。真理は、今も私たちには罪があるので、今も神は赦し続けてくださっていると語っています。ただし、罪を容認することが赦しではありません。この赦しは、もう罪を犯さないようにと期待されているからこそ、与えられているのです。

【敬聴】
1.(エペソ4:32)
“お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。”
 今日のポイントは「互いに赦し合いなさい」です。
 人を赦す理由はイエス様も同じです。今よりもさらに成長し、きっと良くなる、改善されると信じるからです。そこに視点を置いて赦しましょう。
 では、亡くなった人の罪を赦すには、どうしたらいいのでしょう。相手は改善しようがありません。しかし、赦さないというのは、実は受けた傷の痛みを治したくないから赦さないということと同じです。傷がいやされることを願わず、むしろ痛みを通して復讐したいという罪の願いがそこにあって、動かされているのです。亡くなった人を赦せない人は、いやされることを願ってください。「いやして下さい」と祈る時、「赦したらダメ、赦したら損をする」という感情が湧いてくるでしょう。しかし、いやされたら本当に楽になれるのです。
 私自身多くの傷を持っていますが、「忘れる」という恵みをいただきました。過去において受けた仕打ち、仕返しができなかったという悔しさ、我慢するしかない辛さは、精神を歪ませます。しかし、過去の出来事から、神様は感情を忘れさせてくださいました。それゆえ、怒りや恨みといった感情を持つことなく、冷静に、むしろ懐かしく思い出せるようになりました。それがいやしです。
 創世記に出てくるヤコブの息子ヨセフは、二人の息子の一人に、「マナセ」と名前を付けました。それは「忘れさせてくださる神」という意味です。神は、自分を裏切り、奴隷として売った兄たちのつらい思い出を忘れさせてくださった、という意味なのです。

2.(ローマ15:7)
“こういうわけですから、キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい。”
 赦すということと、受け入れるということは同じです。どちらが悪いとかいいとかを責めるのではなく、家族として受け入れるということです。意識していかないと、兄弟姉妹を他人として遠ざけてしまいいつまでたっても家族としてのつながりは持てません。これは急にできるものではありません。たとえ今日は1%しか思えなくても、来週は2%、次の週は3%思えるようにしましょう。少しずつでも、意識してやり続けましょう。
「則天去私(そくてんきょし)」
 これは夏目漱石が晩年持った思想です。彼なりに何らかの悟りを持ったのでしょう。この言葉にある姿勢はとても大切です。私情を出すと、家族は分裂します。私情を捨て、家族のためにという心で生きられたら、どんなにすばらしい家族となれることでしょう。

 

 

 

 

 

 

■2011年2月13日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

  光の交わり  up 2011.2.13




しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。
(第1ヨハネ1:7)

 

 

 

 神は光の中で交わりを保っておられます。
1.私たちの交わりとは何を意味しているのか?
A)(第1ヨハネ1:3)
“私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。”
 御父とは親であり、御子なるイエス様は神の子たちの長男であり、そして私たちという家族構成から成っています。神は家族としての交わりを願っておられ、これこそ神のご計画、みこころであり、このために全宇宙が造られたと言っても過言ではありません。私たちの交わりは、神との交わりという以上に家族の交わりとして考えてほしいということです。
 確かに肉体においては血のつながりのない私たちですが、霊的には神の愛という血筋以上に強いきずなで結ばれた神の家族と言えます。これを意識することが大切です。良い家族は、互いに家族であることを無意識に認めています。はたして私たちは、教会に来て「家族」という意識がどれほどあるでしょうか。他人行儀だったり、家族ならば「まあいいか」で済ませることを見逃さなかったりするのは、家族と考えていないからではないでしょうか。
 家族は、問題のために仲違いすることがあっても、家族関係は続きます。家族関係を意識していないと、「おもしろくない。思いどおりにならない。」といって教会を代わり、まるで「隣の家族になる」というようなことになります。今の家族が悪いからといって、転々と家族を代える人はまずないでしょう。神の家族というつながりをしっかり持ってほしいと神は願っておられます。
B)(エペソ2:19)
“こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。”
 キリストによって新しく生まれた人は、イスラエル人であろうと異邦人であろうと、また能力や価値観に関係なく、みな神の家族だと言っています。

2.家族の交わりのすばらしさ(使徒2:44〜47)
“信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。”
 このみことばを他人の感覚で読むと難しいと感じますが、「信者」を「家族」に置き換えて読んでいくと納得すらいきます。家族ならば一緒にいたり、共有したりしても当たり前です。大家族でも台所、風呂等共有していた昔に比べ、現代は家族二世帯それぞれ台所や風呂を持つなどして家族のきずなが薄くなり、互いに理解し合うことができなくなってきているかもしれません。使徒行伝の人々は皆に家族意識が高く、将来の幸せのために持ち物をもって助け合っていく、という考え方をしています。
 また「心を一つにする」とは「同じ家族」という思いを持つ、ということです。孤児院等の施設でも、新しく入って来た子が、自分の家族と認めた時に初めて安心して過ごせるようになるそうです。家族という意識を持つことが、互いの平安、平和を築くということですね。教会の中も同じで、家族という意識があると、ある程度は許せるようになります。しかしその意識がないので、張り合い、競争し、いがみ合うのです。家族として認めてないから、兄弟を愛せないし、敵対心を持ってしまうのです。年の上下関係なく、家族の誰かが一人から賞賛されたら喜ぶのが家族です。ねたむのは家族意識が薄れているからです。
 また家族のきずなは、どんな問題でも乗り越えさせます。私たちの教会も使徒行伝に出てくるような家族になりたいから、今教会に来ているのです。家族と教会を合わせて考えると、人は「安心、喜び、いやし、慰め」のイメージを持ちます。しかしそれだけでなく「叱責、忠告、矯正」という厳しい部分もあります。家族ならば、ケンカしても受け入れ合いますが、他人だと忠告は聞かないでしょう。自分のことを思ってくれる家族だから、自分のことを注意してくれると思えるのです。
 このような思いをもってクリスチャンの交わりをするかどうかが、良い教会となっていくかどうかの分かれ道です。目に見える人数の増加も成長ととれますが、しかし大事なことは家族として教会が成長してきているかどうかです。なぜなら、神は神の家族を回復しようとして、イエス・キリストのあがないのみわざを完成されたのですから。どんな人でも、神の家族として共に交わることができるということを神は今実行しておられます。

3.父なる神の家族への思い(ピリピ2:1〜2)
“こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。”
 パウロは父親的な思い・立場で、ピリピの教会にこのことばを語っていると思えます。パウロを通してヨーロッパに多くの異邦人の教会が建てられていきました。ピリピの教会はその一つです。パウロは、神の家族と言うならば、私(パウロ)の親としての家族に対する喜びが満たされるように、一致を保ち、同じ愛の心を持って、心を合わせ志を一つにしてほしいと語ったのです。当時ピリピの教会はバラバラになっていたのでしょうか。キリスト信者という団体ではあっても、家族という状態ではなかったのかもしれません。パウロは家族意識を持つことをここで語っていると思いますが、同時に父なる神様の気持ちが、聖霊様を通して表れています。すなわちピリピの教会だけでなくすべての教会に対して親として、一つの家族としての交わりを持ってほしいと。「私が」「私が」という自己中心に、自分にばかり思いを向けるのではなく、家族のためにという気持ちで心を合わせてほしいという、父なる神の親としての気持ちが、このことばの中に表れているように思います。
 「倚門之望 いもんのぼう」は、親のそんな愛情を表した四字熟語です。戦いに出かけていった息子の帰りを家の戸口に立って待ちわびている親が、夕暮れには町の門のところまで出かけていって、その門に寄りかかって待つという、子に対する親の、切実な思いを表しています。神様もまるで私たちの帰りを待ちわびておられるようです。早く世の終わりにして、罪を罰する方が簡単です。しかし、新しい天と地に入るわが子たちが未熟なので、一人でも滅びることを願っておられない神は、最後の審判をまだ実行されたくないわけです。この神様の気持ちを察して、神の家族として互いにもっと励まし合い、成長していく交わりが必要なのではないでしょうか。
「癌(ガン)は愛に弱い」〜不可能を可能にする愛の力強さの実話〜
 できないと思っていることも、愛が溢れてくるとチャレンジする気持ちに変えられます。私たちが強められ、前向き、肯定的になるには愛に触れることが必要です。
 今から2年前に、余命3ヶ月と末期ガンを宣告された26歳の看護士の女性には、婚約者がいました。彼女は結婚をあきらめようとしましたが、彼女の病状を聞いた婚約者は、「結婚して一緒にガンを乗り越えよう、共に生きよう。」と彼女を励ましたのです。そして、結婚して彼女の辛いガン治療を励まし続け、42.195Hのフルマラソン出場を目標にして、治療と並行してトレーニングをしていったのです。余命3ヶ月と言われながら、2年経った今でもガンは進行しておらず、42.195Hのフルマラソンの完走を夫と共にやってのけたというのです。
 彼の愛の励ましが彼女の心を奮い立たせ、ガンと闘い、人生の目標の達成に至り、死の力をとどめることができているのです。これはノンクリスチャンの話です。このような事例はたくさんありまして、中には完治した人さえいます。その裏には家族、夫婦、また子どもに対する愛等…愛が原動力となっていることは否めません。
 大事なのは人生の長短ではなく、いかに愛に生きるかです。これに最も根ざしているのがクリスチャンではないでしょうか。にもかかわらず「キリスト教は愛の宗教だ」と言われながら、その実クリスチャンが一番愛を求めてないかもしれません。ひょっとして世の中の人の方が、人生はこの世だけと思っているので、一生懸命共に長く生きていこうという気持ちになれるのかもしれません。愛が働くのです。
「苦しく辛く、問題が大きい時こそ、愛が目覚め、愛の本領が発揮される」とは、全ての世界での共通の、愛が表れる条件ではないでしょうか。
 あなたが神の子として成熟するにあたっての苦しみ、辛さを耐え、乗り越える動機は愛です。父なる神の愛、家族の愛です。パウロは早く天国に行って神様の近くにいることを望みましたが、一方で神の家族である教会から離れてしまうことは辛いことであり、地上に残っているのは親としてあなたがたを導けるから良いことだとも語っています。
 辛い、苦しい時に愛が表される状況が起こり、その愛をもって問題を解決し達成した時に得る満足感は、天国では味わうことができません。なぜなら天国は完成された所であり、そのような愛を体験することができない所だからです。天国に入るために、神の愛がどのようなものであるかをこの地上で体験するわけです。この体験した愛をもって永遠の神の国で主をほめたたえるわけです。天国は愛ゆえに主の御名をほめたたえるという所です。
 今苦労している人は、神様の愛を知るチャンスです。夫婦の仲が難しい人がおられるならば、互いの愛を確認するチャンスと言えます。サタンは夫婦を、家族を、神の家族を破壊しようと、利己主義に洗脳し、家族としてのクリスチャンの間を切り裂こうとしています。気をつけましょう。私たちは、神の家族として共に御国に入っていくのです。
※「イエス様の血潮の関係」
 私たちは未熟な神の子たちです。私(辻師)の孫二人を見るとよ〜くわかります。親の言うことを聞かない、わがまま、自己中心、やりたい放題、ダメと言われてもやり続ける…などの姿は、未熟者の模範を見るようです。二人は一緒に遊びたいのに取り合いになり、ケンカとなる…。しかし、成熟した親は、未熟な二人を大きく包んで、ある時は厳しくしつけて、互いに愛し合う家族という交わりを教えていくわけです。
 このように未熟な者同士が一緒にいると、罪があちらこちらに出てきます。家族という気持ちが薄れると、分裂してしまいます。つまり嫌になるとすぐそこから出ようとして、悪魔に家族という思いを奪われ、自分勝手に行こうという考え方が出てきます。気をつけましょうね。神は神の家族を大事にしておられます。それが光の交わりです。そのために、互いに赦し合うというイエス様の血潮が必要です。互いに「赦し合う、受け入れ合う」というのが神の家族の交わりであり、その罪の清算はイエス様の血でなされています。イエス様が十字架ですべてを処分してくださったので「赦し合おう」という家族の気持ちが出てくるのです。
 神の愛に基づいた、神の家族をしっかり意識していきましょう。

 

 

 

 

 

 

■2011年2月6日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

  真理を行っている人  up 2011.2.6




もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。
(第1ヨハネ1:6)

 

 

 

 神は光であるとヨハネはハッキリ記しています。その神とともに歩む、すなわち交わりを持っていると言いながら、実際にはやみの中を歩んでいるなら、そのことばは偽りであって真理を行っていないとはどういう意味なのか、細かく分析していきたいと思います。

1.第1ヨハネ1:6について
“みことばは前述”
A)「神と交わりがある」
今も続いて神との交わりを持っている。
交わり=コイノニア=関与する、施す⇒影響を及ぼすこと
神様から影響を受ける間柄であることを意味している。

B)「〜と言っていながら」
「光の神様から、光の影響を受けるあいだがらであると断言しているにもかかわらず」という意味。
そのように思い込んでいる場合も考えられる。
 言っていることとやっていることが違うのです。しかし自覚がなく「よい交わりである」と勝手に思い込んでいます。人間関係でもよくこんなことがありますね。交わりは、双方の思いが通じていてこそ成り立つものです。

C)「やみの中を歩んでいるなら」
「〜と言っておきながらも、まったく逆のことをしているならば」
「光の影響ではなく、やみの影響を受けているなら」

D)「偽りを言っているのであって」
神と交わりがあるとは思えないことをしていることが、偽りを言っている証拠になる。
どんなに説明しても弁解の余地はない。
 たとえば先週挙げたグノーシス主義などは、理論で神を定義づけようという考え方なので、そこには行いの実が実りません。同じように「神を信じている」と言いながら、実際の生活で神を信じていることを証ししなければ、偽りを言っていることになるのです。聖書が語っていることを口にしながら、自分はその通りに生活していないなら、あなたは偽り者になります。みことばに生きているという確信を持って語ってこそ、私たちはキリストの証人なのですから。

E)「真理」
正しい物事の道筋。真実の道理。人として行うべき正しい道。
“「真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。」”(ヨハネ17:17)
 キリストを信じる者たちにとっての真理は、神のみことばですね。
父なる神のおことばは真理である。
みことばは真実の道理であり、道筋である。
万物は神のことばによって造られた。
“信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。”(ヘブル11:3)
 私たちも、何かを作る時、きちんと道理を考え、矛盾のないように組み立てます。神のみことばによって世界ができたのも、神のみことばが道理であるからです。神のことばという真理によって世界は造られ、健全に働くことができるのです。
だから、神のことばは真理と言える。

F)「行ってはいません」
正しい道筋、道理を行っていない。
神と交わることが道理を行っていることである。
光である神の影響を受けていれば、健全な交わりと言える。
 真理を行うとは、神と交わることである、とヨハネは言いたかったのではないでしょうか。
【敬聴】
(第1ヨハネ1:3)
“私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。”
 今までにどのような影響を受けてきましたか?
 私たちは神様との交わりを持つことを求め、尽力しているはずなのですが、その交わりが実のなる交わりになっているかどうかを、吟味していただきたいのです。以前と比べてどこが変わったか、光の影響を受けた部分がどういうところに現れたか、具体的に挙げてみましょう。ぜひ見つけ出してください。
 あなたが神との交わりを信念とし目標として生きているなら、その交わる相手の影響を何らかのかたちで受けているはずなのです。イエス様と出会えて交わりを持つことができるようになったからこそ、こんな風に変わったと言えるようになるはずです。もし変化がない、あるいは悪くなっているとすれば、イエス様でない他の誰かと交わっているからではないでしょうか?あるいは礼拝に来ても、一日に何時間も祈っていても、聖書をたくさん読んでいても、影響を受けるような交わりでなければ、変わることはできません。自分を神様に押し付けるばかりではなく、神様のお気持ちもきちんと受け取ってください。正しい交わりができているかどうか点検してみましょう。

2.「和顔愛語」(わがんあいご)(エペソ4:32)
“お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。”

●「和顔愛語」の意味
なごやかで温和な顔つきと言葉つき。
「和顔」⇒やさしげな顔つき。
「愛語」⇒親愛の気持ちがこもった言葉。
 イエス様はいつでも、私たちに温和な顔つきと優しい言葉をもって接してくださる方です。今は恵みの時、救いの日ですから、私たちのやみの部分も弱さもよく知っていてなおかつ、優しさを注いでくださいます。こういう方と接していたら、私たちも和顔愛語になってくるはずです。少しずつでも変わっていきます。人の人格が変わるには、影響力のある人格者に触れることが一番です。愛ある人になりたいなら愛をもった人に。優しい人間になりたければ、ものすごく優しい人に。人に対して気付かず不親切と思うなら、人によく気がつく親切な人といれば、気付くようになり、親切になります。影響を受けるような交わりをしていくこと、それが私たちを上のみことばのような人に変えていく方法です。
 赦しの神であられるイエス様と交わって、赦されたという影響のもとに自分も他の人を赦せるようになっていきます。これは理屈ではなく、影響を受けた結果です。日々の祈りとみことばの交わりの中で、「今も私をずっと赦し続けてくださっているイエス様」に触れ、赦された心が人を赦す力を得ていくのです。
あなたがもし神の子としてもっと成長したいと思うなら、自分よりずっと成長している人と交わりを持つことです。そういったすばらしい人々と交わることによって、良い習慣を身につけていくことができます。イエス様のように「和顔愛語」をもって人々と接することができるようになっていこうではありませんか。
【敬聴】
エペソ4:32から影響されるような、神のことばとの交わりをしてみましょう。
 モデルケースとして(エペソ4:32)をあげました。このみことばをいつも告白し、黙想し、味わっていくと、神様との交わりの状態になっていきます。するとこのことばの中にある神様のいのちがあなたに影響を与え、告白するたびにみことばにある力があなたに与えられ優しい心を産み出していくのです。このように、どんなみことばも、暗唱聖句でなく影響を受けるような読み方をしましょう。祈りも同じように、困っている人の問題を我が身のように感じながら祈りましょう。これが神様との交わりを開きます。人との交わりも、相手の心を感じるような交わり、相手を先にわかろうとする平和の交わりをしましょう。イエス様、聖霊様との交わりを持ってから、人との交わりを持つと、非常に落ち着いた深い判断ができると思います。
 ぜひ皆さんも、主からしっかりと影響を受けた後に兄弟姉妹と交わるよう、心がけてください。

 

 

 

 

 

 

■2011年1月30日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

  愛の神は光です  up 2011.1.30




神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。
(第1ヨハネ1:5)

 

 

 

 世界中の人々に神の赦しを伝える福音。しかし、この手紙の導入部では、「神は光であって、暗いところがない」と、一見厳しいことばが記されています。このことばが述べられた理由を、時代背景などから検証してみましょう。そして、「愛の神は光である」ことを、私たちもしっかりと心に留めたいと思います。

1.第1ヨハネ1:5について
“みことばは前述”
A)「伝える知らせ」
「おとずれ」「音信」「教え」「知らせ」と訳される。
 聞く人にとって、大切で益となるものを知らせること。
 惑わされないための重要な情報。また、核心を突いた教えと言う色合いを持った「知らせ」のこと。
B)時代背景からみた手紙の重要性
 手紙が書かれた時代背景は、宗教思想運動であるグノーシス主義が大きな影響を社会に与えていた。
 クリスチャンの中で影響された者たちが、異端のグループを作る。
 その考えは、神を人間の知識や理解の中に閉じ込めてしまうものである。
 無限の神様を、限界のある人間が測るなど、無謀としかいいようがありません。200Nしか入らないコップに海の水を注ぐようなものでほとんどが外に溢れ出てこぼれてしまいます。なのに、一杯になった自分の器を見て、神様をわかったような気分になっているわけです。そういう愚かさに陥らないようにと、ヨハネはこの手紙を書いたのではないでしょうか。
C)今は、情報嵐の悪影響を受けている
 愚かな考えに陥ることに関して考えると、現代は正にそれらのるつぼであると言えるでしょう。宗教など己の心に納めておけば良いもの現実の生をいかに充実させるかが本当に大切なことであると考え、現実を楽しむための様々な情報が溢れています。その中でも特に現代人に影響を与えている三つの考え方を挙げておきましょう。
 進化論⇒弱肉強食、自然淘汰など。
争いを当然のこととし、勝者が敗者を食い物にすることを認めます。しかし聖書では、強い者は弱い者を助けるために、その力を与えられたと書いてあります。
 自然淘汰は、生き残るためにすることに善も悪もないと考えますが自分が生き残るために盗みを働くのは悪ではないのでしょうか。飢えを満たすために人を襲うなど、神の子としての自尊心からすれば、あり得ないことです。むしろ餓死を選ぶでしょう。
 ヒューマニズム⇒人間性を尊重する。自由を放縦に変えてしまう。
 ヒューマニズムの一番の問題点は、罪性を人間性の一つとして捉えていることです。罪性の部分もひっくるめて、一人の人間だというのです。しかし罪は私たちとは別の存在であり、私たちの霊、人間性から来たものではないと、クリスチャンたちは知っています。
 資本主義⇒私的利潤の自由かつ無限な追求のための自由競争である。
 つまり、自分の喜びになるものを、好きなだけいくらでも追いかけなさい、ということです。
 普段意識しておらず、自分は影響を受けていないと思いがちですがもう一度ヨハネの気持ちを受けとめて、この現代に生きる自分の価値観がいかに影響を受けているのかを点検する必要があるのではないでしょうか。

2.「神は光です」を考える
 この世の考え方に影響されないために、ヨハネが見ていた光のイメージを探ってみましょう。
A)(ヨハネ1:9)
“すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。”
●まことの光は人を照らす
 心の内側まで照らし、やみの部分も明らかになります。
B)(ヨハネ3:19〜21)
“そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。しかし、真理を行う者は、光のほうに来る。その行いが神にあってなされたことが明らかにされるためである。”
●行いの悪い者は、光を嫌う。
●悪を行う者は、光を憎む。
●真理を行う者は、光に来る。
 残念ながら、神様は悪者には嫌われます。しかし、真理を好み、あこがれる者にとってはこの上なく好ましく慕わしいのです。
C)(第1ヨハネ2:9〜10)
“光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいるのです。兄弟を愛する者は、光の中にとどまり、つまずくことがありません。”
●兄弟を愛する者は、光の中にとどまる。
 真理を行う者たちは、光の中で兄弟を愛している、という姿をヨハネは見ました。真理を行うということは兄弟を愛することであり、光の中とは兄弟愛が満ちている世界のことです。このイメージをもって「神は光であって暗いところが少しもない」とヨハネは記したのでした。ヨハネが見たイエス様は、兄弟愛に満ちた光だったのです。雷の子と呼ばれていたほどの短気なヨハネが、愛の使徒に変えられた理由はここにあります。光(兄弟愛)なる神の光を受け、影響されて、このように変えられたのです。
 この「光」ということばは、どんなに他の教えに影響されて惑わされている人でも、納得させる力を持っています。それゆえにヨハネはあえて「光」という単語を用いたのではないでしょうか。しかし、神様の本質は「兄弟愛」なのです。私たちも神様に対して一部分しか見えていないのではないかと、確かめてみようではありませんか。この方は光なる方であり、愛なる方です。兄弟愛です。正しく歪みなくこの方を捉えていきましょう。

3.「不失正鵠」(ふしつせいこく)
●「不失正鵠」の意味
 物事の要点や急所を正確に捉えること。
 「正鵠」は弓の的の中心。窓の真中の黒い星を言う。転じて、物事の要点・急所を意味する。
 弓を射る者は神経を研ぎすませて正鵠を狙います。これにはものすごい集中力が必要で、少しでも気を散らすとたちまち的を外してしまいます。だから、要点や急所を見ずに的を射抜くことはできない、というのが「不失正鵠」です。
 神様の力、豊かさ、公平さ、あわれみ深さなどに表されている本質は何か。これを見失えば、私たちクリスチャンもどんどん的外れな生き方になってしまいます。たとえば100m先の的に当てたいとして、目視が0.1度ずれたならどうなるでしょう。的から数十B、あるいは1m以上のずれを生じるかもしれません。この世の影響を「このぐらいいいだろう」とか「このぐらい一般常識」と許容しているうちに、神様の本質であられる兄弟愛という正鵠からひどく外れることになります。神様の愛がわからなくなり、「成功するための人生」「自己達成のための人生」「自己満足のための人生」にすり替わるのです。
「神は愛」「神は光」「兄弟愛に満ちること」に神様はおられ、この方を知ることのできるチャンスなのに、これらに全く触れることすらできないのです。
 奇跡が起こり、難問が解決し、喜びに溢れていても、「神が愛である」ことがわからない人が現実に存在します。いやされても神の愛がわからない人がいます。そういう人は、自分の体験した部分における神様しかわかりません。すると、せっかく健康になったり富んだりしても、自分の欲望ばかり先走って、神様の願われることはそっちのけになります。私たちもひょっとしたら、正鵠である「兄弟愛」を差し置いて、別のものを目標にしていないでしょうか。それでは真の神様を知ることはできません。
 私たちの信仰については、「愛によって働く信仰が大事」とパウロも言っています。あなたの信仰は欲望によって働く信仰ではないですか?願望によって働く信仰では? そこを本当に正直に、光なる神様の前にさらけ出して、やみの部分をしっかりと照らしていただきましょう。そして、「ああ私はここが悪い。的を外していた。重要な点から目をそらしていた。」と気付いていける一週間として、(第1ヨハネ1:5)を瞑想し黙想し、ヨハネと同じ思いをもって、「神は光であって、神には暗いところが少しもない」と言えるようになろうではありませんか。
 正鵠をしっかり見つめて、主に近づいていっていただきたいと願っています。

 

 

 

 

 

 

■2011年1月23日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

  全き喜び  up 2011.1.23




私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。
(第1ヨハネ1:4)

 

 

 

 喜びが全きものとなるとはどういうことでしょうか。「全き」ということばから想像する喜びの状態があ

1.第1ヨハネ1:4について
 「私たち」とは、ヨハネと、彼が所属している教会の人々を指しています。また、次に出てくる「私たち」は、最初に出てきた人々だけではなく、そこに神様も含まれています。
 ただ、神様が一方的に、ご自分の喜びを読む相手側に押し付けているというわけではありません。この「私たち」には、書いている側だけではなく、読み手の側も含まれているのです。つまり、「この手紙を読むあなたがたも交えて、喜びが全きものとなるためです。」という意味なのです。「全き」というギリシャ語は、「満たす」という意味をベースとして、成就する、全うする、実現する、埋めるということを表しています。
【敬聴】
 今年正月から、1節、2節、3節と学んできましたが、今日学ぶ4節には、手紙の導入部分であり、目的、結論が述べられています。この4節に、言いたいことの結論が凝縮されているのです。それは、全宇宙が喜びに満ちるようになることを神様はみこころとして持っておられるということです。全宇宙を創造され完成された時、神様は「良し」と言われました。それは満足されたということです。心が喜びで満たされたということです。ひとつひとつ、満足感をもって神様は造られました。さらに、ご自身が満足して喜ばれるだけではなく、造られたもの自体がすべて喜びに満ちるように願っておられるのです。
 造った方も造られたものも、存在しているすべてのものが喜びあえることが、全き喜びなのです。

2.「全き喜び」を考える
A)(マタイ25:21(23))
“その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかなものに忠実だったから、私はあなたにたくさんのものを任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』”
 これはタラントのたとえ話です。このことばは,2タラント、5タラントを任され、各々それをもとでにして、さらに2タラント、5タラントをもうけた忠実なしもべたちをほめたものです。そのことばの中に「主人の喜びをともに喜んでくれ。」とあります。これはどういう意味なのかを考えてみましょう。そうすると、「全き喜び」がわかってきます。
●主人としもべの関係。…これは健全な関係で、主人はしもべを、大切な自分の体の一部のように思っています。
●忠実さの結果をともに喜ぶことを求めている。
●主人の喜びは、利己的な動機からではない。では、どのような動機からしもべに、ともに喜ぶことを求めたのか?
 普通、会社の社長が忘年会や新年会で社員をもてなし、「よくやってくれた〜」とスピーチする時、そのあいさつをまともに受け取る社員は少ないでしょう。むしろ、いくら働いても、一番もうけて得しているのは社長であって、自分たちの給料にはほとんど反映していないとつぶやく方が多いでしょう。みんな同じ給料なら思わないでしょうが社長は平社員の何倍も何十倍、何百倍ももうけているわけです。
 しかしこのみことばで、「主人の喜びをともに喜んでくれ」と主人が語っている気持ちは、そのもうけた金額を喜んでいるのではなく、むしろそのしもべが忠実であったことを喜んでいるのです。主人のしもべに対する信頼と、そのしもべの忠実さへの喜びの大きさが表されその喜びをともに喜んでほしいと語られているのですから、それを聞くしもべもどれほどうれしいことでしょうか。
B)(ルカ15:6、9)
“帰って来て、友だちや近所の人を呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。”
“見つけたら、友だちや近所の女たちを呼び集めて、『なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。”
 百匹のうちのいなくなった一匹を見つけた時の喜びと、十枚のうちのなくなった一枚の銀貨が見つかった時の喜びの場面です。友だちや近所の人という親しい関係の人々を、どうして呼び集めて一緒に喜んだのでしょうか。羊なら、近所の人々にも「見ていないか」とききながら回っていくので、見つかったと報告くらいはしてもおかしくないでしょう。しかし、銀貨の場合は家の中なので、近所の人や友人たちにきいて回るはずはなく、ひとりで捜していたはずです。それなのにどうして友だちや近所の女たちを呼び集めて、一緒に喜んでくださいと言うのでしょうか。日本人である私たちには、自分の喜びゆえに共に喜んで欲しいとあえて人を招くことはあまり考えられません。
 それでは、ここで言う「一緒に喜んでください」という気持ちは何でしょうか?あなただったら、どういう動機でこういうことを言うでしょうか?まず考えてみてください。想像するだけでもなんだかうれしくなってきませんか?
C)(ルカ15:32)
“「『だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」”
 これは放蕩息子の話の一番最後に出てくる、長男への父親のことばです。弟の帰還を喜んでいない兄の気持ちを、間違っている、当然喜ぶべきだと言っているのです。なぜでしょうか。近所の人や友人、しもべだったらこの「当然」ということばは使われなかったでしょう。それは「家族」という関係だからこそ使われたことばなのです。家族だからこそ、喜びを共有できるはずなのです。長男は放蕩して帰った弟を、もはや家族として認めていなかったということです。それゆえただの損得感情しか持てなくなり、自分はこれだけしてきたのに弟は放蕩してきた、それなのにこんな待遇を受けるのでは、自分は損で、弟は得しているとしか考えられなくなっていました。そこには家族という関係を完全に忘れ去った冷たさがあります。かわいい弟という心のつながりがなくなっているのです。
 完全な全き喜びは、家族関係の中で味わえるものです。損得で考えるような関係の中では、決して味わうことはできません。父親は苦労して築いた財産を、またたく間に浪費してしまった息子の帰還を、どうして心から喜ぶことができたのでしょうか。それは息子としてしっかりと心のつながりを実感していたからです。
 皆さんも、教会の兄弟姉妹を本当に家族としてつながりを感じていなかったら、「私はこんなに奉仕しているのに、どうしてあの人は何もしないのか…」とか、「あの人はあんな罪を犯しているのに、なぜ委員なんかしているのか…」と裁いてしまうでしょう。もし家族として見ているなら、各々の弱さ、欠点が見つかったとしても、あわれんで許し合い、受け入れることができるでしょう。
 夫婦でも同じです。夫婦という心のつながりをしっかりと感じ取っているなら、相手に対して気遣いをするでしょうが、感じ取っていなかったら、相手と心のつながりがあるかどうかもわからない、ただ同じ家にいるだけ…というような状況になってしまいます。そして損得の感情が出てきます。夫婦の間に喜びがないとしたら、形だけの夫婦になってしまって、心のつながりが消えてしまっているからかもしれません。家族もそうです。心のつながりを大切に築き上げていきましょう。

3.「互譲満喜」(ごじょうまんき)の交わり(エペソ4:32)
“お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。”
 「互譲」の意味は互いに思いやりを持って譲り合い、相手の徳を高めるためならば、自分は譲ってもいいという、思いやりを持つことです。そして譲ることが喜びとなる関係がそこにあります。しかし、譲ることが喜びとならず、負担となるならば、それは互譲満喜という健全な関係ではありません。(エペソ4:32)の「互いに赦し合う」とは本当にいいことばです。ただそのために神様は、全き喜びのために罪を赦すための譲歩をしてくださり、キリストの十字架という贖いの御業をしてくださったということを考えてみてください。これは私たちへの深い思い入れです。それゆえ、互いに赦し合いなさいと言われているのです。譲歩しない限り、本当に赦し合うことはできません。
神はこれ以上譲りようがないほどに、私たちのために譲ってくださったのです。それほどまでにして、私たちと喜びを共有したいと願ってくださっています。私たちも神の家族として、喜びが全きものとなるために、譲り合おうではありませんか。自分一人の喜びを満たすためではなく、周りの人々も同じように喜びで満たしたいという気持ちをしっかりと持ち続けていきましょう。そして、赦し合うことにチャレンジしていきましょう。こうして得られる全き喜びは、何にも代えがたい大きな喜びです。喜びが消える原因は、利己的喜びを求めることにあります。利己的喜びは的外れです。喜びを共有し合うために、私たちは譲り合います。今できていなくても、神はできると信じてくださっているのですから、必ずできるようになります。全き喜びを追い求めていきましょう。

 

 

 

 

 

 

■2011年1月16日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

  至福の交わり  up 2011.1.16




私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。
(第1ヨハネ1:3)

 

 

 

 今回のテーマとなったみことばは、この教会が目指す最終目標でもあります。神との平和の交わりこそ至福の交わりであり、この上ない幸福です。これが全ての人に伝えられるべき大事な事柄であったからこそ、使徒たちを初めとして多くのクリスチャンたちが、海の果てにある日本にまで福音を伝えました。神様が全世界の人々をご自分のかたちに似せてお造りになったのは、実にこの愛の交わりを持つためなのです。

1.伝えられた至福の交わり
 現された愛の距離感は、交わりを通して感じ取っていくもの。
 まず、父なる神様、御子なるイエス様、聖霊様との距離感を、交わりを通して正しく捉えましょう。
 私たちが信じている「父・御子・御霊」であり、お一人であられる三位一体の神について、よくわからないという方もおられるはずですね。これを心の感じ方で分けてみましょう。たとえば父なる神は威厳と尊厳のあるお方です。近づきがたい力ある神であり、すべてのものの源なる方です。裁き主であり、愛なる神です。このいかめしいお姿からずっと近づきやすくするために、私たちと同じ人の姿をとってくださったのがイエス様です。私たちを友と呼んでくださる方であり、気軽につきあえます。封建的社会の中で育った人には目上の存在は恐れ敬うべきものであり、最近の若者が目上の存在を友達扱いするのがよく理解できないかもしれませんが、イエス様は私たちが心許す存在でもあられます。次に聖霊様ですが、この方は私たちの内にじかに住んでくださる助け主です。私たちと合わさって一心同体になってくださいます。これらのことを心に置いて、父・御子・御霊の神を感じる時に、一つのヒントにしてみてください。
[えりを正して臨まなければならないような内容の時は、膝を揃えて父なる神の御前へ。日常生活の何気ない一コマの中では、友なるイエス様が共におられ、一心同体の聖霊様は布団の中でさえ一緒にいて祈りを聞いてくださる。]このように、私たちはいろんな状況や内容に応じて、神様との交わりを考えていくべきではないでしょうか。
【交わり】
 ギリシャ語で『コイノニア』という言葉が使われている。
 その意味⇒参与、援助、施し、共有。
 何らかの関係を持つことであり、必要に応じて助けを与えることであり、大きな心を持って恵みを広く与えることであり、互いにあるものを共同し て所有することである。
 お互いの間に作り出す関係、特に相手を「助ける」ことによって作り出される関係を、「コイノニア」と言います。
【交わりの究極の姿】⇒『家族』
 強い家族愛の絆によって結ばれた関係は、家族互いに参与し、援助し、施し、共有する。
 私たちは神の家族です。家族というのはお互い助け合うものです。援助を与え、お返しをし、親は子どもを育て、子どもは親の老後を看ます。恵みを与え合うのです。このみことばを記したヨハネは特に愛について悟らされた人なので、福音書1章では「キリストを信じる者は神から生まれた者である」とも言っています。これは家族を指しています。現実の私たちの交わりも、このように濃い、深い、強い交わりができているでしょうか。キリストの家族としての交わりがそのようになっているかを考えてみましょう。教会の集まりが、家族としての集まりではなく「神様と私」の関係になってはいませんか。
 親が子どもとの一対一の関係と同じくらい、兄弟同士の親密さを喜ぶように、神様も教会の兄弟姉妹が仲良くすることを喜ばれます。家族なら、兄弟げんかをしても、そのまま家族の絆を断ち切るということはありませんね。いつかはきちんと仲直りします。教会でも同じです。肉体の血がつながっていないという理由で教会の兄姉から心を離してしまうなら、神のみこころから外れた考えを持っていると言わざるをえません。そういう人は神の家族という意識がなくなり、自分の利益になるかどうかが全ての判断基準になります。礼拝も交わりも献金も奉仕も、自分にとってプラスになるかどうかを推し量って、プラスになるものだけ選択します。「神様と私」との関係に益になることだけを選ぶのです。それに対して、家族という意識のある人は、たとえば自分の子どもは通わせてなくても、チャーチスクーラーのために献金してくださったりします。家族のためにという気持ちが、それをさせるのです。
 私たちが今ここにいるのは自分の人生を成功に導くためですか?自分の幸せのためでしょうか?この世の考え方、個人主義に影響を受けた上での「神を信じる」姿勢に留まってはいませんか。神様の願いは全世界にご自身の御心を伝えることです。神様の愛の心は、家族として御父および御子イエス・キリストとの交わりを持つために伝えられた愛だと捉えていくことが、私たちには必要です。もちろん一度に全部はできませんが、それを目指していく気持ちと姿勢が大切です。幼い時ほど自己中心で周りが見えないのは当然ですから、落胆することはありません。自分は幼い者だと自覚しましょう。

2.「累世同居」の神の家族である教会
【意味】
 数代にもわたる家族が、一つ家に一緒に住むこと。
「累世」は世を重ねること。「同居」は同じ家に共に住む意。長命の家系で その繁栄を祝した語。
 教会は、あらゆる世代や人生をとおって来た人々が集まっている、神の大 家族である。繁栄と祝福が交わりによって見ることができる。
 もし問題が起こっても、「家族だから」とその問題を受け止めあうことができるのが、本当のつながりがある証拠です。ケンカが絶えないとしても、それは累世同居のしるしであり、繁栄の実が現されるための初期段階と考えてみてはどうでしょうか。成熟してくれば家族意識が強くなり、昔の過ちを互いに許しあえるようになり、平和を保てるようになるものです。教会は神の愛によってまとめられた、すばらしい累世同居の家族です。そういう家族を意識しながら、今週与えられたみことばを思い巡らせていただきたいと思います。

3.伝えられた至福の交わりを敬聴する
A)(第1コリント1:9)
“神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。”
【敬聴】「招き入れられた交わり」
 私たちが自分から入っていく場合は、自分にとって都合のいい何かがあるからですが、「招き」がある場合は、神様が私たちを好いてくださらない限りは入れません。私たちは自分の夢を実現させるためにここにいるのではなく、神の家族として目覚めるためにいるのです。至福の交わり「こんな幸せがあったんだ」と知るために。家族の中で安心してケンカでき、仲直りもできるために。神の家族愛は、奇跡さえも起こせる力強い関係です。キリスト教におけるすばらしい良いできごとの数々を見れば、奇跡の神の愛の力がなせるわざと納得できますね。
B)(詩篇133:1〜3)
“見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。”
【敬聴】「神の祝福が下る交わり」
 子どもが仲良しで怒る親はいません。それどころか、うれしくてもっといろんなことをしてあげたいと思います。私たち神の家族も、そのように幸せで楽しい家族でありたいものですね。むろん、そこに至るまでに衝突やいさかいはあるでしょうが、悔い改めて謝り、仲直りして共に前進しようとする心、家族意識が、祝福をもたらす理想的な家族の交わりという実を結んでいくのではないでしょうか。
C)(箴言17:1)
“一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。”
【敬聴】「平和な交わり」
 一般家庭でもそうですが、教会も、人と競争したり比べたりする関係を持つのは家族的ではありません。争いは家庭にふさわしくないものです。家庭は平安な場所であり、もし争ったらそれを静めるように働きかけるのが家族です。ここで注意ですが、問題を起こさないのではなく、起きても平和を維持しようと交わりを保っていくのです。施すということばには、許すという意味も含まれています。
 皆さんもどうか、みことばからの家族というイメージを、交わりという言葉の意味も踏まえて考えてください。自分の家庭、さらなる神の家族の状態をより良いものへと高めていけるように、お互いの交わりを持っていきたいですね。

 

 

 

 

 

 

■2011年1月9日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

  現わされた愛  up 2011.1.9




このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。
(第1ヨハネ1:2)

 

 

 

 ここに記されている永遠のいのちは、先週お話したように、愛なる神様と同じということです。ですから、「永遠のいのち」を「愛」と置き換えても話は通じます。この「愛」を、視点を変えて見てまいりましょう。

1.現された愛の距離感
“初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、”(第1ヨハネ1:1)
“主は遠くから、私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。」”(エレミヤ31:3)
 ヨハネは、神の愛であられるイエス様を、細かい所までじっと見つめ、またじかに触れて知ることができました。とても身近におられたからです。反対にエレミヤから見た神様は、とても離れて感じられました。この距離感の違いはどこから来るのでしょうか。
 心が近かったら、たとえ遠く離れた場所にいても、いつでも相手のことを思い起こすことができるほどに近くの存在として感じることができます。愛は時間と空間を越えるものだからです。神様がそうであられるのと同じです。エレミヤにとって主が遠かった理由は、彼の人生について調べるとわかってきます。神様にとってはエレミヤはけっして遠い存在ではなかったのですが、彼は神の愛をなかなか感じることができませんでした。「悲しみの預言者」「苦しみの預言者」として、イエス様の生涯におけるつらい部分を象徴していると言われるエレミヤは、罪性を持った普通の人間であるがゆえに、イエス様のようには、試練を受けとめられなかったのです。これが神の愛から遠く感じた理由です。
 私たちも自己中心のせいで人生に悩みや問題が生じた時、「なんで神様はこんなことをなさるのか」と、神の愛が見えなくなることがあります。知識では愛されているとわかっても、感じることができません。そして離れていくほど、愛を感じることが難しくなってきます。相手が遠くになれば、その他の余分なものも、視界に入り込んできます。誘惑に弱いとか、思いわずらいが多いとかで「自分はダメだ」と悩んでいる人は、視点を変えてみましょう。あなたがいろんな邪魔によって神様に集中できないのは、神様との心の距離間が離れているからです。どんなに強く思っていても、心の距離が離れていれば、邪念が入り込んできます。遠くにいる人に集中して、その人だけを見ていられるならいいのですが、少しでも気が散れば、いやおうなしに回りの情景が目に入ってきます。
 ペテロが嵐の夜、イエス様のおことばによって水の上を歩いた時もイエス様以外の景色を見たとたん、恐れがやってきて、沈み始めました。しかし、イエス様が手を差し伸べてくださり、またイエス様に意識を集中すると、再び水の上を歩くことができたのです。イエス様の近くにいて集中することは、余分なものを中に入れないことです。身近にイエス様を見れば、他のものに気を取られることがありません。心の中においても同様です。私たちは肉の者なので、イエス様の近くにいてさえ、よそ見することがあります。しかし、主に触れることができる近さなら、それをすぐに正してくださいます。反対に離れていると、ごまかしたりもするようになってしまいます。神の愛と、私たちの心の間の距離は、あなたの信仰生活にとても大きな影響を与えます。
 今、神様との距離感を、あなたはどのように感じているのでしょうか。もし近いか遠いかさえわからないほどなら、自分の感じる範囲に主がおられないことになります。これは危険きわまりない状態です。ぜひ、神様の愛に近づけるよう努力していきましょう。

2.心が近い関係
“主はご自身を恐れる者と親しくされ、ご自身の契約を彼らにお知らせになる。”(詩篇25:14)
“「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」”
 家族以外で一番親しい関係といえば、やはり友だちでしょう。イエス様は「友」ということばによって、いかに近い関係であるかを表現されました。そして、父から聞いたこと(神の契約)について、私たちに教えてくださっています。これらのことから、新旧どちらの時代においても、神様は私たちと近くありたいと望んでおられることがわかります。
【この二つのみことばの比較】
 ご自身を恐れる者と親しくされる⇒あなたがたを友と呼んだ
 ご自身の契約をお知らせになる⇒父から聞いたことを知らせた
 旧約の時代は神様の希望しておられることだったのが、新約では既に実行された事柄になっています。はっきりと友として扱ってくださっているのです。旧約の時代はまだイエス様が誕生されていませんでしたが、新約の時代にイエス様が来られたことによって、神様は実際に私たちの近くに来てくださったのです。私たちがどう感じようと、神様ご自身はイエス様によって人の世に来てくださり、私たちのすぐ側に今もおられます。今度は私たちが距離を縮めて、神様の契約を知る番です。
 重要なことを知らせ、分かち合い、心を一つにしたいというのが、「知らせる」ということばの意味です。悟らせるということですね。イエス様は契約の内容を知り、実行してこられました。そしてこの大事なものを分かち合う友として私たちを選び、大事なことを悟り合う仲間とされました。神様はあなたに大事なことを悟らせ、共有したいと願っておられます。これは愛の現れです。すべてのものを共有したくなるのは愛の行為ですね。
 聖書は神の手紙と言われています。手紙は心を伝える手段であり、悟って欲しい、わかって欲しいという気持ちがこもっています。しかし、神様に心近くある者だけが、正しく理解できるのです。律法的にしかとれないとしたら、神様のお心と遠く離れてしまっているかもしれません。みことばの一つ一つに感動できる人は、イエス様の近くに心がある人です。これを記されたイエス様のお気持ちがわかるから、感動できるのです。
 このことは、一般社会でも言えることで、心が近ければ素直に良いほうに受けとめられますが、心が離れてしまうと、自分勝手な心で悪くとることがよくあります。愛の距離間をしっかり感じ取っていきましょう。相手に近づいて、よく観察して、勘違いされないように、正確に受けとめてもらえるように、工夫しましょう。

3.距離間を縮める努力をする(ヤコブ4:8)
“神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。”
 近づけるのはもちろん、愛の距離間です。愛の対象を遠くに置くから、余分なものが見えて、心に入ってしまうのです。心が清くないのも、じゃまなものが視界に入ってしまうから、心がそれらによって乱されるためです。神の愛に近づくほど二心は弱まり、清められていきます。余分なものが映らないので、汚されないですみます。
 「手を洗いきよめる」とは、心の目に映る様々なものに気を取られないよう、注意を払うことです。気が散ったままでいると、神様に集中できなくなったり、欲望の愛に捕われたりします。やがては自分が神様を愛しているのかどうかわからない、という闇に落ち込むことになります。心が遠いからです。では私たちが神様に近づくためにすべきことは、と言えば、それは個人差がありますので、それぞれ考える必要がありますが、一つだけヒントを記しておきます。神様は最初から近くにいてくださっている、というのが大前提です。私たちが「近づきなさい」と言われているのは、今、現在がまさに離れようとしている状態だからです。まるで、すぐ後ろに立っておられる神様に気付かず、地球を逆に一周して神様に会おうとしている人のようです。向きを変えるだけでいいのに、自分の欲望や願いをかなえたいという方向へ進むから、すぐ後ろであなたへの計画を持っておられる神様にちっとも近づけないのです。愛を目指したなら向きが180度変わりますから、すぐ後ろにおられる神様に出会えます。いったい、自分の願いや欲望をかなえてくれない神様は、あなたを愛してくださっていないと言えるのでしょうか。よく考えてください。目指しなさいと言われた愛は神ご自身ではありませんか。自分の思い通りにしたいというのは欲望を神としているからではないのでしょうか。この間違った考えのまま、イエス様に近づけるはずもないのです。
 神様は、どこに行っても共におられます。よそを向いているのは私たちの方です。別の目的物を見ているのです。神様を遠くに置いて、よそ見ばかりしているのです。神様にいだかれるほど近くにいれば他のものなど見えるはずもないのです。自分の欲望と神の愛を両立させようとして、あえて距離を置いているのかもしれません。しかし、これはいつか完全に欲望に捕われてしまいます。
 以上のことから、現在の神の愛との距離間を感じることは、非常に重要なことと言えます。今週は、神様との愛の距離間を測り、考える一週間としていただきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

■2011年1月2日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

  初めからあったもの  up 2011.1.2




初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、
(第1ヨハネ1:1)

 

 

 

 気が短く、「雷の子」と言われたヨハネが、神の「いのちのことば」を実感したとき、「愛の使徒」と呼ばれるまでに造り変えられました。 愛を目指して歩んでいく年の出だしとして、「このいのちのことばは初めからあった」ということをポイントに、お話させていただきます。

1.神とともに初めからあったもの
“初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、”(第1ヨハネ1:1)
“初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。”(ヨハネ1:1)
“私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。”
(第1ヨハネ4:16)
  初めからあったもの⇒いのちのことば
    ↓
  初めに、ことばがあった⇒ことばは神であった
    ↓
  神の愛を知った⇒神は愛です
  「愛」はことばなる神とともに初めから存在していた。
  そして、「愛」はいのちのことばであった。
  すなわち、「キリスト」である。
【敬聴】
  愛=ことば=いのち=キリスト=神=初めからあったもの
 ヨハネは、「神とは…」「愛とは…」と心の中に思い巡らし、使徒行伝2章に記されている、聖霊が下られたペンテコステの日に「神は愛だ」と聖霊によって啓示を受けました。すなわち、この神は初めからおられ、旧約時代はモーセを通して語られることばとして地上にお現れになり、そのことばがイエス・キリストという人の姿となって、「神は愛です」ということば通りにこの地上で愛を証明され、歩まれたお方だったと。「神は愛です」と大胆に断言するには、相当の確信が必要です。神の中に愛があり、しかも愛と神は一体であり、神様の最も偉大なご性質が愛なのです。神様の義、公平さ、聖さ…どこから見ても愛が見えるのです。

2.愛による創造(ヨハネ1:2〜4)
“この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。”
 「この方」とはキリストのことです。「この方」を「愛」ということばに置き換えてみましょう。私(辻師)は特に「造られたもので、愛によらずにできたものは一つもない」というところにとても感動しました。自分の存在を否定し、自分の存在の意味を疑い、「生きることはむなしい」とどん底のセルフイメージを抱えていた私(辻師)にとって、希望の光となりました。こんな私でも愛によって造られたのだと…。愛に渇き、孤独な人、心閉ざした人、どうぞぜひ読み直していただきたいです。罪人であろうと、劣等感があろうと、人から卑下され「だめ」という烙印を押されていようと、愛が込められて造られたことを…。
【万物は、神様が愛を込めて創造されたものです。】
 愛によって作られた食事⇒家庭に喜びと希望が生まれる
 愛によってできた食事は、出来の良し悪しを問いません。しかし愛がなければ、たとえおいしい料理が何品も食卓に並んでも冷たいものです。会話もなく、しらけきって、否定的な言葉が家族間に飛び交う光景。愛のこもった食事を作る奥さんがいても、それを感じないご主人や子どもがいたり、また、奥さんが愛のこもっていない食事を出して、ご主人や子どもが愛に飢えているケースもあります。
 愛によって作られた贈り物⇒生きる喜びと希望が与えられる
 「どんなに愛を注いでくださっているのだろう」というのがわかる贈り物を受けると、「私のような者にこんなにまでしてくれる」と、生きる喜びがふつふつと湧いてきます。
愛によって生まれた子⇒生きる力としての喜びと希望が湧き上がる
 両親の愛の中で生まれ、育まれた子どもは、生きる力としての喜びと希望が湧き上がり、元気に育つものです。たとえ障がいを持った状態であったとしてもです。
 すべての存在は愛から生まれたもの。
 だから、喜びと希望に満ちている。
 エロスの愛でも、一時的に喜びと希望を与えます。ましてや神の愛ならば、どれほど長く力強く生きる命として、私たちを喜びと希望に満たすことでしょうか。たとえ全世界があなたを裏切っても、神は誠実な方で、あなたを裏切ることはなさいません。出来の良し悪しにかかわらず、心を込めて作ったものはだれでも失いたくないのと同じように、神様も私たち一人一人を真心込めてお造りくださったからこそ誰一人滅んで欲しくないと思われるのは当然のことです。一時的に反抗し、わがままな自己中心の時期を通ったとしても、様々な状況から「愛がなければむなしい人生になってしまう」と悟り、神を見上げるようになります。その神を見上げる心を殺してしまったら、そのチャンスはいつやってくるかわかりません。皆さんはそのチャンスに出会って、今日まで愛なる神様を信頼して歩んでこられたのではないでしょうか。もし私たちの心に喜びと希望がなくなってきたら、神への愛が弱っている証拠です。これは人に対しても言えることで、妻や夫、子どもに対して喜びと希望が見いだせなくなってきたら、家族への愛が弱っている証拠です。自分には重荷だと愛をあきらめてしまうと、愛は極端に力を失ってしまい、別離が発生してしまいかねません。愛がなくなったのではなく、愛を捨ててしまうためです。感じていた愛が感じられなくなったり、他のものへ向けたり…。人は何かを愛していかないと生きていけません。だから世の中の人は欲望を愛します。日本の状況は、愛にすり替わる欲望(この世は愛さえも欲望に取り込んで汚れたものとしてしまい、感情の愛に変えてしまいました)との戦いがあります。皆さんは、欲望と神の愛の狭間で戦っておられるかもしれませんが、ぜひ愛を目指して歩む道を選び取っていただきたいと思います。
【愛に対する疑問が出て来るのはなぜでしょう。】
○愛してくださっているなら、どうしてこんなことになるのですか?
 神のみこころを行うためには、愛を目指すことが一番確実です。このことを告白すると、今年の人生に「どうしてこのようなことが…」という出来事が起こって来るでしょう。いや愛を目指しているからこそ、起こってくる出来事があるのです。
○愛があるなら、どうして願いどおりにしてくださらないのですか?
 愛は奴隷となることではありません。こういう人の「神は愛です」のイメージは、「神は私の奴隷です」と言っているようなものです。愛ゆえに、願いに応えられないこともあり得ることを悟らせるためです。
○それで、愛していると言えるのですか?
 愛ということばを使い続けることで「愛を目指しているクリスチャンなのか」と非難を受けることもあるでしょう。しかし、その責めの言葉にごまかされてはいけません。今の自分は愛がないから、「愛を目指している途中」だとわきまえればよいのです。もし責められて落胆するなら、愛がある完全な者だと思っているわけで、それは傲慢です。責められたなら「愛を目指して歩んでいます。やり直します。」とへりくだるべきです。私たちが目指しているのは神の愛であって、人間が要求する愛ではありません。この世の主観的愛と神の愛を混ぜることのないように、神の愛を学んでいかなければなりません。だから上記の疑問が出て来るのです。まるでオリーブの油がしぼられて、にじみ出してくるかのように…。私たちもいろいろな圧迫を受けて、純粋な高価な愛の油がしたたり落ちてくるかもしれませんね。しかし神様はあなたが死ぬほどに圧迫はされません。にじみ出てくるようにと加減されます。
 そこで、あなたの中に罪の影響でこのような疑問が浮かんで来たなら昨日(元旦礼拝)のポイントでもある、通念転換(パラダイムシフト)することがいつも必要です。パラダイムシフトのパラダイムとは「範例=模範となるべきもの」です。私たちはこの世の中の多数決の主観を模範とし、影響されて神のことばを量ってしまっている可能性があります。しかし私たちが模範とすべき主観は神様のおこころであり、こちらにパラダイムシフト、転換してください。神様の愛から物事をみていくことーこの通念転換を始めなければ、愛を目指すことはできません。パラダイムシフトせずに愛を求めても、この世の愛の主観を求めることになり、「神は愛である」という愛と全く違ってきます。このパラダイムシフトにこそ、大きな第一歩があると言えます。

3.詩篇139:1〜14を敬聴
“主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられますことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。あなたは前からうしろから私を取り囲み、御手を私の上に置かれました。そのような知識は私にとってあまりにも不思議、あまりにも高くて、及びもつきません。
私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、そこでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕えます。たとい私が「おお、やみよ。私をおおえ。私の回りの光よ。夜となれ。」と言っても、あなたにとっては、やみも暗くなく夜は昼のように明るいのです。暗やみも光も同じことです。
それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。”
 「神は愛です」「愛によってすべてのものは造られた」という観点から、このみことばをどう受けとめられるかを考えてみてください。「内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられた」とは、神が私たちを心を込めて手づくりされた、ということです。神はあらゆる法則の中で、一つの受精卵を複雑に仕上げていかれます。愛がこもった作品だからこそ、細かい部分までご存知であり、愛で結び合わされているので思いを読み取れるのです。一つ一つのことを神様が愛を込めて造られたーダビデは何を言わんとしているのでしょうか。「こんなに愛を込めて神は私をお造りになった」「ここまで考えて私をお造りになった」ということではないでしょうか。ぜひ味わってください。神は自分のかたちに似せて造った私たちには、相当の愛と労力と気持ちをつぎ込んでおられると思います。それをたった一つ善悪を知る木の実を食べたことで全部ダメになってしまうならば、こんな悔しいことはありません。簡単に捨てることができないほどの思い入れがおありだったからこそ、罪人を今に至るまで残されたのです。
 全宇宙の始まりであり、すべての終わりである愛。
 「愛が初めであり、終わりである。」
 愛を目指してこの生涯を全うしたいですね。