■2010年12月26日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
心の大掃除 up 2010.12.26
こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。
(ヘブル12:1)
【今週のポイント】
罪のゴミを処理し、霊的エコ・ライフを目指す。
今年最後のテーマは、「一切の重荷とまつわりつく罪を捨てる」ことです。上のみことばに「競走」とありますが、競走にはルールがあり、報いがあるものです。しかし、一生懸命走り続けるためには条件があります。重荷を背負ったままでは無理ですし、途中に邪魔なゴミがあったとしても、完走するには邪魔になるでしょう。私たちは自分にまとわりついている罪の存在に早く気付いて、それを捨て去る必要があります。そこで、「心の大掃除」になるわけです。毎週礼拝に参加していても、心の掃除を忘れてしまっていないかを、今回のメッセージを通して再チェックしてみてください。
1.「重荷」というゴミを捨てる(詩篇55:22)
“あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。”
【内容観察】
ゆだねよ⇒手渡す。自分が持っていたものを切り離す。
これは完全に切り離すことが必要です。
主が心配してくださる⇒力ある方が配慮してくださる。
心配りだけではなく、実際の手助けをしてくださいます。解決の方法を与え、励まし、実際に道を開いてくださるのです。
正しい者⇒信仰の義をいただいている人
ゆるがされる⇒否定的になって、信仰が妨げられる。
「ゆるがされるようにはなされない」とは、ぐらつかないように支え、押さえて守ってくださるということです。
重荷⇒思い煩いや心配事を解決できる力が無いので不信仰になる。
問題の内容云々は実は大事なところではありません。それを解決できないことに一番の困難があるのです。主はあなたの心を変えて、解決する力を与えてくださいます。
【敬聴と適用】
信仰がゆるがされる重荷とそうでない重荷とを仕分けること。
人には自分で創意工夫を重ねたり、忍耐をもって続けることによって乗り越えられる重荷と、自分の力の及ばない範囲であり神様に委ねるより他にない重荷があります。神様はむやみに子どもを甘やかしたりはされない方ですが、力の及ばないことにはきちんとご自分の最良の方法をもって対処してくださいます。自分の力が及ばない重荷は、するべきことがわかっているのに気力がわかなかったり、おことばがわかっても受けとめられなかったり、クリスチャンとして生きていけないような気持ちになるものです。それらは神様にお渡ししてください。
ゴミとして処分しない重荷を持ち続けるには(マタイ11:28〜30)
“『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきはおいやすく、わたしの荷は軽いからです。』”
必要な重荷はゴールまで背負っていきます。しかし、重いのですから休憩は必要ですね。休めば元気が出てきます。仕事に疲れて動けなくなったら、また仕事をやりたくなるまで休めば、再び働けるようになります。この世ではすぐ結果を出さなければいけませんが、神様はその人の命がある間は決して見放されません。
この世界の家族においても、主人が心も体も疲れ果てて働けなくなった時には、家族の絆が試されます。彼が回復するまでの過程は主に委ねて、気持ちを切り替え、自分が代わりに家族を守ろうとする妻子だったなら、この家族にはすばらしい愛があることがわかります。私たちは体裁を気にするのか、神に委ねて自分のできる精一杯をするのか、どちらを選ぶのでしょうか。神様はもちろん、愛の人生という競技を最後まで走り抜けることを、私たちに願っておられます。世間体よりも愛を優先することにちゅうちょするなら、世の中の価値観にそれだけ染まっている証拠です。そういうゴミに気付かないと前に進めません。愛を尊べば、世に属するすべてが重荷になるから、あえて愛の順位を下げて波風を避けてはいませんか。しかし、私たちが負うべき重荷は、負いきれるからこそ神様がお許しになったものです。そしてイエス様はご自身のくびきをもって、私たちに上手な荷物の負い方を教えてくださいます。この方に従えば、楽に荷物を運ぶことができるコツがわかります。
2.「まとわりつく罪」というゴミを捨てる(コロサイ3:8)
“しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。”
【内容観察】
まとわりつく罪とは、生活ゴミや生ゴミのこと。毎日、処分しなければいけないこと。それが『怒り、憤り、悪意、そしり、恥ずべきことば』など。
日々働く罪の働きかけを処分しないでいると、家中ゴミだらけで大変なことになります。悪臭がたちこめ、虫がわき、ゴキブリがはいまわり、ネズミが走り回るでしょう。不衛生きわまりないことです。
【敬聴と適用】
私たちから罪を切り離す方法は、福音にある『悔い改め』。
実際の生活において毎日出るゴミをどのように処分しているのか。それに当てはめて、霊的ゴミの処分を考える。
悔い改めは、成功し完成するまで続けるものです。また現在は豊かな生活に応じてゴミが多く出るように、心にも余分なものがたくさんあるので、悔い改めもたくさん必要になります。
3.霊的エコ・ライフ『兼愛無私』(ローマ13:10)
“愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。”
【内容観察】
愛は隣人に害を与えない⇒自分を愛するように隣人を愛する
愛は律法を全うする⇒ゴミの出ないクリスチャン生活
『兼愛無私』(けんあいむし)
意味⇒自他の区別無く、広く人を愛して区別が無いこと。
【敬聴と適用】
幼く未熟なほどゴミをたくさん出してしまう。エコ・ライフの達人はゴミになるようなものさえ生活に役立てようとする。
小さな子どもは日々の行動の中で、数えきれないほどのゴミを出します。食べこぼし、排泄物、いたずらしたものや、遊んでいてこわしたものなど、きりがありません。しかし反対に、大人の知恵ある人になれば、こんなものをどうやってと思うようなものさえ上手に利用しています。私たちも、自分の失敗さえも有用に活用できないかと神の前に祈り求めて、残り一週間を心の中の大掃除をする一週間にしていきましょう。
■2010年12月19日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
その愛に生きて行きます up 2010.12.19
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
(ガラテヤ2:20)
「その愛に生きていきます」
2010年12月19日クリスマス記念礼拝にて 辻秀彦牧師メッセージより
【今週のポイント】
神の愛に生きることが人間の本分である。
イエス様がお生まれになったことの一番大きなメッセージとして、ぜひ心に残していただきたいことは、「すべての人は、神様の前に生きていていいんだよ。」ということです。数年前に定年退職後のご主人に実施された、「定年になって奥さんが語る衝撃の一言」というアンケートには、「あなた、3度も食事をするの」という回答や、最多の回答は「あなた、これからどうするの。」だったそうです。ご主人方にとっては、退職後の何もすることがない姿を見せつけられるような深い痛み、傷を負わせることばだったようです。今のこの世界は、能力のない者、競争に負けた者たちは生きる資格がないと言わせるような、無言のメッセージが流れているような気がします。とにかく生き延びるためには勝ち抜いていかねばならない、負け犬は惨めな生活をして、ただ死ぬのを待つだけの迷惑な自分の存在なのか、というイメージを作ってしまうことも…。逆に第二の人生として定年後の仕事やりがいを見つける方々も増えているようです。
人は自分を支えるものがなくなった時「こんな私がいていいのか」と不安を抱き、恐れをもつようです。みなさんは人生の支えをもっておられるでしょうか。どういうところに生きる支えを持っておられるでしょうか。
これは幼少期に両親に捨てられて施設で育った、ある男性の実話です。小学校では「施設の子」とからかわれ、低学年の時には、遊びに誘ってくれた子の玄関先で母親が、「(自分と)遊んではいけない」と言っているのを聞き、自分の心を痛みから避け、守るために、人と接しない生き方を自然に身につけていきました。高校生になったある朝自分の机の上に数えきれないほどの「罵詈雑言」が書き込まれ、「寂しくても迷惑をかけないように過ごしてきたのに」と、これ以上生きているのが嫌になったそうです。その時同じクラスのA君が、「行くよ。」とその机を抱えて工作室へ運んでくれ、紙ヤスリで落書きを消してくれたのです。「つまらないことに負けるなよ」と言いながら。そして「放課後にまたここでニスを塗ろう。そうしたら元通りだ。」とのA君の言葉に涙が溢れて止まらなかったそうです。そして「生きてて良かった。」と初めて思えたそうです。数年後、A君の結婚の知らせを聞いたその男性は、「おめでとう。君がいなかったら、今の僕はここにはいない。幸せになって欲しい。そしてこれからも親友でいて欲しい。今まで本当にありがとう。」とメッセージを送ったそうです。
私たちが自分を守るために人を攻撃し、非難し、悪く言う言葉には相手の存在を消す内容が含まれています。今の世の中での生きるか死ぬかという生き方を無意識に教え込まれているうちに、「自分は生きていて良いのか」と思っている人も多いようです。
あなたは「生きていて良かった?」と自分に問い正したことがありますか。今日、イエス様のご降誕は、どんな人でも神様の前にいのちをいただいて生きることができる一人一人だと伝えていることを、お話しさせていただきます。
1.イエス様のご降誕について
(1)神様が私たちを愛してくださっていることの証(第1ヨハネ4:9)
“神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。”
愛の気持ちは形に表現されて、相手に伝えられていくものです。神様も私たちを愛している証として、そのひとり子イエス・キリストを救い主として、私たちの身代わりに罪の罰を受けるため、地上にお遣わしになりました。口だけでなく実際に行動をもって、神が私たちを「愛しているよ、生きていていいのだよ」と証を語ってくださっています。
(2)暗闇に輝く、生ける希望の光(第1ペテロ1:3)
“私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。”
天地を創造され、私たちにいのちを与えられた唯一の神がおられることに望みを持つ人はどんな人でしょうか。心優しく真理を求め、敬虔な歩みを願っている人ではないでしょうか。イエス・キリストのご降誕は、何百年も前からユダヤの預言者に語られ、すでに聖書の創世記の時点でも、神が人類に希望を与える預言として語っておられたことです。その預言の成就によって、「預言を語られた神はまことに生きておられる」と、そこに希望を見つけることができたのです。私たちの判断行動を見られる神の前に正直に罪を認め、失敗してもやり直せるのは、神がおられることに希望をもっているからではないでしょうか。
(3)神の愛に生きるための勇気と力(ガラテヤ2:20)
“みことばは前述”
クリスチャンのお手本とも言うべき、伝道者、教師、証し人であるパウロの人生の捉え方、生きる目的、生き方がこのことばの中に凝縮されています。パウロは聖書に精通した、パリサイ人の中の優等生でした。彼は律法を守ることで永遠のいのちを得、神の前に生きてよいとされ、自分の生き甲斐であり、存在価値があると思っていました。しかしすべての教えを守り通すことはできない、彼としてはすべて守るのが無理とわかっていてもがんばっていたのでしょうが、一つでも破ったなら律法を破ったことになり裁きがもたらされる、そんなときイエス・キリストとの出会いを通して、人はルールを守って生きるのではなく、愛に生きることが人としての本分であり、自分らしく生きる道だと知るに至り、このことばを神の霊に感じて記したわけです。
【内容観察】
罪の私は、キリストとともに十字架につけられ、律法によって処罰されました。神の恵みによってキリストとともによみがえった私は、私ではなくキリストが私自身となって、私のうちに生きておられます。そのような私の人生をキリストにささげる決意ができたのは、私を愛して身代わりとなって、私の罪のためにさばきを受けてくださった神の御子を信じる愛ゆえなのです。
罪は律法によって処罰されなければなくなりません。キリストが私の身代わりに処罰を受けてくださったので、私は助かったのです。律法によっては私の罪は処罰されているので、前科はあっても今は一切罪は残っていません。キリストが身代わりとなられたことで今の私があり、キリストが私の内におられるなら、キリストと私は一体となっています。この人生はキリストによって与えられました。信仰ということばに、「信じる愛(すなわち愛してくださった神の愛)に応えて彼のうちに生きていこう」という意味をもたせました。パウロは神の愛を信じて受け入れた結果、湧き上がってきた愛の力によって、神の愛に生きていこうという決心をもって一生を送ったすばらしいクリスチャンでした。その愛に生きるために命を懸けた(殉教)方でした。私たちも愛に生きていきたいという気持ちをもっているはずです。「生きていてもいいのだよ」という環境の中でこそ、魂の安らぎを得、幸福感を感じるものです。なぜ実行しにくいのでしょうか。
2.戴盆望天(たいぼんぼうてん)(ヤコブ4:4)
“貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。”
なかなか厳しい言葉ですが、世の中から分離して別世界で生きることを、神様がおっしゃっておられるのではありません。ここで別の角度からこの意味を考えてみたいと思います。
『戴盆望天』の意味
頭に盆を載せたまま天を仰ぎ見るのはできないことから、二つのことを一度に実現させるのは無理だというたとえ。また、天を見上げるのに盆は邪魔であるということから、手段や方法が目的にかなっていないことのたとえ。
神の愛に生きるのか、欲望のままに生きるのか、はっきりと心を決めなければ、いつのまにか神を敵としてしまっていることさえ気付いていないのではないか。
神の愛に生きていきたいと願いながら、妨げになるものを持っていることに気付いていない、まるで頭の上に盆を載せていながら盆を落とさないようにして天を仰ごうとしているのようではありませんか。「天を仰ぐこと」と「盆を落とさない」ことは両立できないことであり、これを世を愛することが神に敵対するということばに合わせて考えてみてください。目的達成のためには、盆を載せたままでは無理だと気付くことが大切です。人を愛して平和な人生を作り上げたいと願っていても、自己中心の盆を頭に載せていたのでは無理だということです。パウロのように、愛なる神様の愛が内に溢れて、この愛に生きることが私そのものだという気持ちにならなければ、この盆を取り除くことは難しいのではないでしょうか。
【愛に生きる三つの領域】
(1)愛について未熟で無知
まず「愛を得よう」とし、感じるものを求め、愛を自己中心に量る
(2)愛について目が開かれてくる
表情や行動、言葉に関わらず「信じる」しかし人が対象だと信じ続けて裏切られるということもあります。
(3)愛を悟る
愛と神が一体だと気付くこと。神のかたちに似せて造られた私たちの本分は、愛に生きること。感じるとか裏切られるとか、相手の状況に関係なく愛を流し続けることが私の自然な姿である。愛さずにはいられない本質であると気付くこと。
神の愛を生涯において与え尽くした方、マザー・テレサのことば
「あらゆる病気の人のために、多くの薬、治療法があります。しかし奉仕をする時に、親切な方が与えられず、愛において惜しみない心が与えられなければ、『愛されていない』と感じている恐ろしい病気にとっては、どんな治療法もあり得ないと思います。」
大なり小なり「愛されていないのでは…」という不安がよぎると、人生への不信感、人への不信感が生まれてきます。マザーテレサの業績は私たちに真似のできない大きなものですが、彼女は、「愛に生きる」とは社会的な影響を与えることをすることではないと言っています。「誰かのためにほんのちょっとの笑顔を見せたり、ちょっと訪ねてみたり、ランプの灯をともしたり、目の見えない人の代わりに手紙を書いてあげたり、隅のバケツを運んであげたり、サンダルを差し出したり新聞を読んであげたりするようなことは、それ自体は小さくほんのささやかなことですが、実際に私たちの愛の神の行動となるのかもしれません。」と…。
身近な生活の中に、ちょっとした親切など相手を思う気持ちを表すことから始めること、これが神の愛の生きる道ではないかと、私たちに提案しているのではないでしょうか。身近な家族に冷たい態度を取りながら、遠くにいる飢餓の子どもたちへ寄付しているー何か矛盾しているところはないでしょうか。「この愛に生きる」とは、どんな小さなことでも目を注いでくださり、愛の眼差しで見てくださっている神に、間違ったら悔い改めてやり直そうとしていく応答をしていくことです。神がこのような愛を注いでくださっていることは、キリストが預言のとおりに地上にお生まれになったことで証されています。イエス様のご降誕は、敬虔な歩みをしようとする人にとって励みであり希望であり、祝福なのです、愛に生きることはすばらしいことです。
■2010年12月12日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
その愛に望みを抱きます。 up
2010.12.12
私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。
(第1ペテロ1:3)
【今週のポイント】
「私たちに示された神の愛によって、湧き上がる希望に生きる。」
現在、愛について3回シリーズでお話しさせていただいています。先週は、ご降誕が神の愛の証しであるということから、どれほど信頼に値するものであるかについて、客観的に検証してみました。
今週は、この神の愛に対して望みを抱くこと、がテーマです。希望には欲望を達成するためのものと、愛から生まれたものとの2種類がありますが、私たちの望みはもちろん後者です。人にとっての希望はたとえば子どもですね。子どもは未来への希望です。その子どもがひとり子ならば、なおさら愛しいでしょう。そのひとり子をこの世に与えたほど愛してくださった神様。ご自分の希望を犠牲にして、私たちに生ける希望を与えてくださったこの神のお心を思えば、感激せずにはいられません。
1.「生ける望み」(第1ペテロ1:3)
“みことばは前述”
【内容観察】
『生ける望み⇒いのちを保たせる、生き続けさせる、生かす望み。』
「生ける」は生け花の「生け」と同じであり、死ぬべきものを花として飾って生かすことを指しているそうです。
『それはキリストの復活による新生、すなわち、神のかたちに似せて造られた人としてのあるべき姿に再生されることによって与えられる。このこと は、愛なる神の大きなあわれみが私たちに向けられたからである。
なんとすばらしいことか、このような方こそほめたたえられるべき神であ る。私たちの主イエス・キリストの父なる神を、私はほめたたえずにはい られない。』
上の文にある「新生」は「再生」と訳すことができる単語です。テープに録音してある内容をテープレコーダーで再生するように、何度も同じものを新しく造り出すことができるのです。新生にはそういう意味がある、ということですね。人は神のかたちに似せて造られたところがすばらしいところですが、神のかたちを再生させるためのイエス様のみわざであり、イエス様のみわざを考えられたのは神の愛なのです。この神の愛は、イエス様のご降誕によって実現されました。私たちはいつでもこの愛によって希望を持って生きることができます。
以前、バスケットで世界的なスターであったマイケル・ジョーダン氏のお母様が語られた、子育てのポイントがあります。マイケル氏以外にも子どもたちを何人も育てられた時に大事にされたことは、「愛している」と言葉や態度で子どもに伝えることだったそうです。会話や、抱きしめることや、触れること…朝に、夕に、子どもと接する度毎に愛を示すことで、子どもたちはいろんな挫折や障害に立ち向かっていくことができたのです。
親が支え、励ますことの証が子どもに伝わることによって、子どもはしっかりと成長していくことができます。自分をわかってくれる、理解してくれる人がいると思うことは、人間にとって大きな力です。与えてもらった愛は希望を生み出します。
《あかし》 エチオピアにおける国際飢餓対策機構の働きより
二年続きかんばつのためアメヤ村の人々は、一ヶ月間食べ物を口にしていなかった。一九八五年のことである。このイスラム教徒の村に国際飢餓対策機構による緊急援助の働きが開始された。その当時の村長だった人の話。「あのときには村人全員が死を覚悟した…。でも幸いなことに、あなたたちクリスチャンの支援が間に合って、この村は生きることができたのだよ。」と涙を流して感謝をされた。一九九〇年のことである。イスラム教徒がほとんどだったこの村は、今はクリスチャンの村に生まれ変わった。
この時の背後にあった理由はこうである。以前、イスラム教徒であったときに教えられ信じていたことは、アメヤ村は呪われた村でありアメヤの人々は呪われた民であるので、あのように飢餓になったというのである。しかしクリスチャンたちから聞いたメッセージは全く逆のものであった。天地創造の神は、アメヤ村の一人一人を呪う神ではなく、祝福するお方であるというものであった。
この聖書のメッセージは村人に希望をもたらした。彼らはこれを信じて、見事に立ち直り、自立した。一九九九年にはすべての働きを村人に託して国際飢餓対策機構は撤退した。
【敬聴と適用】
愛を感じると生きる希望が湧いてきます。
イスラム教では、なぜか自分たちは呪われていて、それを救う道もありませんでした。しかし聖書では、たとえ自分たちが呪われていても、それを救い出すための愛の救済を神は編み出してくださいました神は救いたい、愛したい、呪いたくない方だったのです。証にあるアメヤ村では、以前にはたった1つのキリスト教会、しかも会員は4、5名がやっと信仰を保っている状態でした。しかしそれが、飢餓対策機構の助けを受けて後、驚異的な自立をする頃には、最初の教会は600名、村の教会数は35にのぼり、ほとんどがクリスチャンになっていました。これらは自分たちを愛してくれる神様に希望を抱いて行動していった結果です。愛されていることに信頼を持って行動する人は驚くほど前向きに、肯定的になります。たとえば一家の主人に愛されていると実感する家族は明るく、希望に輝いているはずです。主人の存在に左右されない、あるいは主人の給料云々に左右されたりするなら、主人に対する愛と信頼はないでしょう。主人の内にある神の愛に信頼して、前進していく主人について行くのが家族の正しい姿です。
愛を与える立場の人は、ご自分の「愛している」の表現と、愛される者に与えている希望の姿を見つめてみてください。どんな希望を与えているのか、どんな希望を描けているのか見えますか。人の親や責任者がそれを考えているのなら、愛なる神はなおさら、人の子らに対してしっかりと考えておられるはずです。それらの希望をもたらしているのは愛です。
私たちも、身近なところで人の親切に励まされるのは、希望が与えられているしるしではないでしょうか。親、家族、兄弟、クリスチャンの兄弟姉妹などから受ける愛の交わりや助けを通して励ましを受けるのは、愛から生まれる希望が私たちの内に湧き上がっているしるしです。愛をお互いに表すと、互いの内に生ける望みをもたらします。「こんな自分にも生かせる道があり、生かせる望みがある」のです。
2.一念通天(マタイ7:7〜11)
“『求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。』”
【内容観察】
『一念通天』の意味
固い決意を抱いて一心に取り組めば、その努力は必ず天に聞き届けられ、物事を成し遂げることができる。私たちを愛してくださっている父なる神様は、一心に求める者に応えてくださらないことはありえない。
神が私たちの願いに応えてくださるのは、決して思い(欲望)の強さによるのではありません。神は愛なる方なので、一心に取り組む姿勢を見て、この努力に報いてあげたいと思ってくださるのです。親が子どもを思う心です。悪い者でも、子どもは愛しているので良いものを与えます。神は良いお方なのですから、なおさらのことです。しかし悪者のように「うるさいから静かにさせるために」願いをかなえられることはありません。まず工夫、自分のできる精一杯をさせてみて持続力を向上させます。あきらめかけたり、挫折しそうな時に的確な助けをくださいます。私たちが一生懸命に前に進もうとして、うまくいかない自分に落ち込む時ほど、神様は私たちの近くにいて、手を差し伸べてくださっています。パウロは言いました。「私が弱い時にこそ、私は強い。神の力が私の内に完全に働かれるからだ」と。私たちが自分の力の及ばない領域に入った時に折れてしまわないように、神は適切な助けを与えてくださいます。
しかし、私たちはそこまで至らないうちに、心を他のものに向けたり、他のものの助けを受けてしまいます。神様にとってこんな悲しいことはないでしょう。子どもを注意深く育てている父母が、好き放題甘やかす祖父母を前に味わうような気持ちです。真実の父なる神が示される道が厳しいと言って、近所のおばちゃんである悪魔や悪霊のくれる悪いもの(甘〜いお菓子)を受け取ってしまうのです。愛なる神は、私たちを滅びに至らせたり、なまけ者にされたりしません。忍耐力のない者やすぐあきらめるような弱虫にはされません。強く正しく心清らかな者に育つようにと心を砕かれています。そういう神だと信じることができるのは、ひとり子をくださったという証のためです。ご自分の希望を、私たちの生ける望みのために打ち砕かれたことを通して、どれほど親身になって育ててくださっているかを知ることができました。
神の愛に触れると、「こんな私でも生きる望みがある」という希望が生まれてきます。「生きている価値がある」のです。今ある自分を価値ある者として受けとめられるほど、神が愛してくださっているということのゆえに、生きていく気持ちが湧いてきます。これから私たちも、神の愛に望みをおいて歩んでいきましょう。死ぬべき花でも、神の家の床の間に美しく飾られて生かされるということを胸に抱いて大事に生きていきましょう。
■2010年12月5日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
その愛を信じます up 2010.12.5
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
(第1ヨハネ4:9)
【今週のポイント】
「神の愛は、すべての人が信じるに値するもの。」
この時期、クリスマスを前に、イエス様のご降誕について多くのことを教えられます。今週は、客観的に見て、イエス・キリストを通して示された神の愛が、いかに信じられるものかを紹介します。クリスチャンはこの神の愛を信じることによって、どのような状況の中にあっても、前向きに進むことができます。
1.信じることができる愛とは
(1)変わらない愛
誰もが理想とします。相手の愛が瞬間ごとに、何か起きるたびに変わるようだとしたら、どうしてその愛を信じることができるでしょうか。
(2)約束を守り続ける愛
決して裏切らないということです。約束したことを、どんなに自分に不利なことが起きても守り抜いていく姿を見たら、信じることができるはずです。
(3)親身になって考えてくれる愛
愛は、相手の言いなりになることではありません。しかし私たちは自分の思い通りにならないと愛せないという自己中心な愛を持ってしまうことがあります。そのような愛は周りから信頼されません。むしろ相手の未来が永遠のいのちに至るために、互いに忠告したり気配りしていくことが、本当の親身になるということです。
(4)信じ続けてくれる愛
感情に揺さぶられ、欠点が多くても、その人の心の本心を見て信じ続けてくれるなら、それは信頼できる愛です。
(5)赦し受け入れ続けてくれる愛
(6)待ち続けてくれる愛
放蕩息子の話を思い出します。身を持ち崩し、財産も失ってしまった弟息子を、父親はただ無事に帰ってくれることだけを願って、待ち続けました。その父親に天の神様の姿を重ねることができます。父なる神は、あなたの欠点、間違いを責めようとしておられるのではなくそれに気づいて帰って来ることを願っておられます。
(7)その他
皆さんは,他にどんな愛を信じることができるでしょうか。考えてみてください。
【断機之戒】
中国の故事です。学問の途中で帰って来た息子の孟子を悟らせるため、母親は大切な織物を切って、その思いを伝えました。息子の将来を思い、これほど思い切った犠牲をした母親の愛。これは本当に生涯信じ続けられる愛です。これほどまでに親身になってくれる母親の愛を、息子は一生忘れないでしょう。この母親の愛が、孟子を支えたのす。
このように、信頼できる愛に出会うことは、人生にとってすばらしい宝です。それでは神の愛は、どのような愛でしょうか。
2.「その愛を信じます」(第1ヨハネ4:9)
“みことばは前述”
この短いみことばの中に、神の愛が掲示されています。
A)ひとり子を世に遣わされた神の愛を思いみる。
ひとり子は、これ以上価値のあるものはない存在です。唯一の子孫が亡くなるということは、自分たちの家系の未来はないということになります。ひとり子は希望を表します。未来に希望をもたらせるものに、人は価値を感じます。ひとり子は未来なのに、神はその方を地上に遣わされたということは、ひとり子と同等に、それ以上に未来に価値があるものとして、私たちの存在を大切に思ってくださっているということなのです。どれほどの神の愛を、私たちは受けていることでしょう!
B)いのちを得させてくださった神の愛を思いみる。
神に愛される者として造られた、その存在目的に沿った道を歩めるように、いのちを得させてくださいました。私たちを生かすために、神はご自身の最も大切なひとり子を差し出されたのです。それは本当に信じることができる愛です。神の愛は決して変わりません。人はすぐに相手を裁いてしまい、失敗を受け入れることが難しいものです。しかし神は、私たちの失敗も罪もすべて受け入れ、赦し、待ち続けてくださっています。その愛を受けているのですから、私たちも兄弟姉妹を赦し、待ち続けることができるのです。
人の親は時として、子どもの失敗に寛容でなく、いらだってしまいそのために子どもの心を傷つけてしまいます。しかし神は忍耐強く、責めたり裁いたりせず、待ち続けてくださる方です。
「行いによらず、信じる信仰」によって、神は私たちにいのちを得させてくださるのです。神の愛は信じることができる確かな愛です。
C)示された神の愛を思いみる。
各自で示された神の愛を思い巡らせ、心に励ましを受けましょう。
3.信じることができる神の愛
A)(ピリピ2:6〜8)
“キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。”
このみことばは、いかに神の愛が信じられるものであるかを示しています。人は信じられる強い愛に出会う時、変わることができます。そのような愛を回りに見い出せないという人もいるかもしれません。しかし、一つのお話を紹介したいと思います。
ホスピスに、末期ガンの男性が入院していました。彼の娘は婚約をしていて、結婚式を目前に控えていたのですが、父親が出席できない結婚式は、父親を寂しい思いにさせるのでできないと、看護士に打ち明けていました。その看護士が、「それでは、この病院で結婚式をしたらどうですか?」と提案し、病院全体の協力のもと、準備を進めました。そして、当日、体を起こすのもやっとという状態の父親が、娘のためにという一念で、娘の腕を取り、バージンロードを花婿のもとまで歩いたのです。これには医師をはじめ、出席したすべての人が驚きました。そして無事に結婚式は終わりました。全力を使い果たしたかのように、それから数日して、父親は天に召されました。娘は悲しんで、看護士に、当日あれほど元気だった父親が、こんなに急に亡くなってしまったのは何故でしょうとききました。すると、その看護士は「人には使命というものがあって、その使命を果たし終えると、安心して人生を終わることができます。だから、お父さんも、その使命をやり遂げたのでしょうね。」と答えました。そういう愛に支えられて結婚式をした彼女は、本当にしっかりとした強い愛の絆で結ばれた家庭を作り上げていくことでしょう。そして、どんなことがあってもあきらめず乗り越えていけるはずです。
永遠のいのちを得るようにと、イエス様は使命を全うしてくださいました。これこそ、どんなことがあっても信頼できる愛です。私たちは、この方の愛を信じるゆえに、今日もしっかりと前進していけるのです。
■2010年11月28日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
神就是愛 しんじゅぜあい up
2010.11.28
神とともに一体となって付き従っているもの。それは、愛である。すなわち、神は愛である。
愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。
(第1ヨハネ4:7〜8)
【今週のポイント】
「神を知っている者として愛の思いと行動は、自然に湧き上がって
くるもの。『愛さなければならない』という束縛から『愛を注ぎ
たい』という自由を持つ。」
毎週聞いているメッセージも、受け取る側の心の姿勢によってずいぶん違った印象になるものです。神様が語られたことばは確かにしなければならない必須事項なのですが、いやいやながら仕方なく実行すべきものでもありません。私たちが「しなければならない」と負担を感じてしまう理由は、自分のしたくないことや、過去に失敗して苦手意識を持っている事柄に関して、それを実行せよと言われるからですね。しかし、このようなネガティブな受け取り方を続けていたら、いずれメッセージを聞くこと自体がつらくなってきます。以前も申し上げましたが、みことばは手本、目標として、100点満点の状態を記述してあります。私たちはそこに至ることを目指して、毎週みことばを聞き、励まされながらやる気を起こしていきます。私たちの本心はみことばを実行したいと願っていることを再発見するための、毎週の礼拝でもあります。ですから、聞き方に気をつけて欲しいのです。「無理にさせられている」という被害者意識に陥らないよう、正しい良心によってよく観察すれば、自分のきよめられた良心が本当に求めているのは、神の律法に従うことだとわかるはずです。神様は私たちができないことを無理矢理「やりなさい」と責めて強制的にさせられる方ではありません。むしろできないことをご存知の上で、少しずつ完成に近づけるようにと指導してくださっています。この励ましのお心をマイナスな聞き方で「自分はクリスチャンとしての資格がない」と、さらに元気をなくしたりしないように注意してください。あなたの内に失望や絶望があったとしても、その理由は、「したいことがあるのにできていない」「できない」という現況を受け入れてしまっているから、無理にやらされている気持ちになるのです。あなたには、本当は良いことをしたいという気持ちがあることを見失わないでくださいね。この願いを取り去ったなら、もう何もできなくなってしまいます。私たちの心にあるこの願いのゆえに、神様は私たち罪人を救い、助けを与え心にある正しい願いをかなえることができるようにと、いつも守ってくださっているのです。このような神様のお心をよく汲み取って愛を注ぎたいという自由な心を、しっかりと保っていただきたいと願っています。
今回のテーマ「神就是愛」は、「神は愛である」という言葉を中国語で表したものです。「就」は(一緒になる、付き従う)という意味を持ち、とても強い断定表現なのだそうです。ここから見ると「神と一緒に付き従っているのが愛」ということになりますね。私たちも決まりだから愛するのではなく、神様の本質が愛なのと同じように、愛が自然に溢れ出てくるものなのです。この自由な心の動きをとどめないようにしてください。たとえ行動に現されていなくても、そのことで自分の心や他の誰かの心を責めて、湧き上がろうとする愛を消さないように気をつけましょう。良いことを、愛を実現したいという動機こそが基なのですから。それがどんなに小さな願いでも、愛を土台とする願いは退けられることがありません。小さなこの「種」は、からし種のように成長して、空の鳥が巣を作るほどの大きな植物になります。神の前に保ち続けた小さな願いは、驚くべき結果をもたらすのです。ぜひ、「受けるだけでなく与える者になりたい」「愛されるだけでなく愛する者になりたい」という小さな願いを失わないように、「愛したい」という自由な心を大事に育てていきましょう。
1.「神を知っている者」(第1ヨハネ4:7〜8)
“みことばは前述”
「愛する」こと、「神が愛である」ことは、聖書全体のテーマでもあります。ですからぜひあなた自身で、このみことばを通して内側から自然に愛が沸き立たせられるような、そういう聖霊様の働きを内に受けていただいて、できるできないは考えずに「ぜひ愛を表したい」と行動に移していけるようになることを願っています。
【内容観察】
「私たちが互いに愛し合えるのは、神を知っているからです。なぜなら、愛は神から出ているのです。神は愛ですから、愛する者は神から生まれた者であり、愛を持っていますが、愛さない者は愛を持っていないので神を知らないのです。」
愛する心を持っている、愛を注ぎ出したいと願う、実行していこうとする人はみな、神から生まれた者です。愛されたいばかりの人は愛を知りません。あわれみの思いが溢れてくる状況の人々に愛を注ぎたい、助けの手を差し伸べたい、そういう人は神から生まれた者であると、ヨハネは御霊によって啓示を受けて、こう記述しました。そしてあわれみの心を感じる人はみな神を知っている人なのです。愛そうと思わない、自分に愛を受けたい、愛に満たされて満足したい、そういう人は愛を持っていないので、神がわかりません。「私は神を知っているだろうか?」と心配になった人がいるかもしれませんね。実際的には、神と同じようにあわれみの愛が溢れてくる人は、神を知っていると言えます。あわれみが心に溢れる人は幸いですね。この人は神から生まれ、神を知り、愛を持っています。ではあわれみの心が湧いてこない人はどうなのか?と言えば、その人も決して「神から生まれてない、神を知らない者」ではありませんので、自分を卑下しないでください。(ヨハネ1:13)“この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。”とあります。また(同1:12)“しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。”神の御名(イエス・キリスト)を信じた人々が神の子どもとされる、と書いてあります。つまり、イエス様を信じることができた人は全員、神によって神から生まれた者であり、みんな愛を持っているのです。自分の内に見つけられなくても、それは実はあるのです。神を信じることができた人は神から生まれた者であるがゆえに、愛なる神の遺伝子が伝わっているのですから。神が愛なら、あなたも愛なのです。(創世記1章)において、神に似せて造られたのが人であることも記録されていますから、神に似ている者が神のご性質にも似ているのは当然のことです。罪の性質が宿ってしまったがゆえに、肉の欲望の激しさに押されて、本来の心が見えなくなっているだけなのです。この、「得たい。自分を満たしたい。」という欲望は、すべての罪と争いの原因になりました。私たちの人生も「愛されたい」という自分にのみ執着する欲望によって、的外れの人生になってしまいました。それでも神は、私たちの心の底にある小さな願い「愛を注ぎ出したい」という心を目覚めさせるために、イエス様の十字架の犠牲によって神の愛を注いでくださっています。それゆえに、クリスチャンになってからはなお一層、あなたの内に「愛を与えていきたい」という願いが強くなっているのではありませんか。最初は、「ください」ばかりでも、答えてくださっている神様への愛ゆえに、周りの人々に与えていきたいという気持ちが強くなっているなら、健全な状態になりつつあると言えます。また「ください」のお願いばかりの人はまだいやしが必要な過程なのですから、たくさんいやしていただいて、健全さを取り戻してください。「今度は私の番だ。神は私を通して愛を注がれるんだ。」という思い、使命感を持てるくらい元気になってください。あなたが神を信じることができたということはあなたは神から生まれた者、あなたには愛があり、神を知っている人なのです。そういう自信や確信を、みことばを通して自分に言い聞かせてあげてください。自己評価から解放されましょう。
2.黙想のみことば
今週のみことばではことばを入れ換えることを試してみてください。入れ換えて読むとどう感じるのか、そのみことばから受ける示しがあるはずです。
[例]A)(第1コリント12:31、14:1)
“あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。”
「愛を追い求めなさい」を「神を追い求めなさい」と置き換えて。
(第1コリント12:31)の「さらにまさる道」ということばを受けて(同13章)に続きます。よい成果を目指すのならば、「よりすぐれた賜物」を求めるのは当然ですね。また、求める理由は人のために、つまり愛を注ぐためです。良い者になるように、良い賜物をいただいて使っていくのです。そして13章はさらにまさる道として愛を紹介して後(同14:1)で「愛を追い求めなさい」と示唆するのです。ここで、「愛」を「神」と置き換えるとどんな印象を受けますか。また「預言」は神からあずかるおことばですが、それを熱心に求めよとあります。神のことばはまことの食物と、聖書の他の箇所に書いてあることと併せて考えてみてください。このように、いろいろと違う角度から観察してみてください。B、Cは皆さんにお任せしますが、ことばの置き方を考えながら、文章の流れを読み取ってみてください。なにかそこに気づきが起こされると思います。
B)(ヤコブ4:8)
“神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。”
「神」を「愛」に置き換えて。
C)(第1コリント16:14)
“いっさいのことを愛をもって行いなさい。”
「愛をもって」を「神にあって」に置き換えて。
■2010年11月21日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
磨頂放踵 まちょうほうしょう up
2010.11.21
頭の先から足のかかとまですり減らすほど、隣人のために努力すること。
自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。
(ピリピ2:4)
【今週のポイント】
隣人が永遠のいのちに至るように努める。
今週のみことばにあるように、隣人のために何かをする時、決して自分自身をおろそかにするのではありません。自分を大事にするのと同じように、他の人も大事にせよ、という意味であることを忘れず、自分をないがしろにはしないでください。たとえば、登山者が行方不明になって、救助隊が助けに行ったとします。この場合、遭難した人も救助隊の人も両方無事帰還してはじめて、救助成功と言えるのではないでしょうか。私たちを罪から贖ってくださったイエス様も、死で終わられたのではなく、復活して天の御座に着座されるという生還劇を果たされました。もし救助する側が遭難者を助けるために死んで終わるのなら、助けられた者たちもどんなに心が痛むことでしょう。しかし、死んだはずの救助隊員が、絶望と思える状況を打破して生還してくれたなら、その喜びは事故に関わった者すべてにとって、言葉に尽くしがたいものになるはずです。以上に述べたことを踏まえて、さきほどのみことば「自分のことだけでなく」を見ますと、自分もしっかりと健全さを保ち、自分のことをよく考えながら、これが大事だと他の人のことも考え、気を配っていくなら、みなが「よかった」と思える結果をもたらすのです。
1.隣人を「顧みる」(ピリピ2:4)
“自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。”
ギリシャ語⇒skopeo⇒目標に目を注ぐ、注目する
この言葉は、競争者の目指すゴールや射手の前にある的を表す言葉から来ている。
★この言葉の意味から人を顧みるとは、どのようなことかを考えてみましょう。
「顧みなさい」とは、他の人に注目し、目標を見つめるようにしっかりと目を注ぐこと、注意深く意識を集中しなさいという意味に取ることができますね。さらに言えば、自分がおのれ自身を認識し自分のためにいろいろと心配りをするように、他の人にも同じようにしなさいということになります。源平の合戦時に、那須与一という弓の達人が出てきます。彼は、海辺に陣を張った源氏軍を挑発する、海上の平家軍が出した扇子にみごと矢を当てたのですが、海辺から遠く離れた小舟の扇子を、吹きすさぶ海風の中で射抜くためには、どれほどの精神状態で的を見つめたことでしょう。それこそ、頭のてっぺんから足のかかとまですり減らして、的を凝視したはずです。そんな那須与一のように、心をすり減らして他の人を顧みなさいとも言えるのではないでしょうか。
しかし、これほどの犠牲を払える相手が、ただの他人ですむはずもないでしょう。深い友情やつながりを持つ相手だからこそ、このように心を注ぐことができるのです。そして、これを目指していくのが神様のご計画です。私たちも、それを目指そうではありませんか。「私にはできない」と言うと、本当にできなくなってしまいます。やってみようから始めて、みことばに達すればゴールです。努力すれば、数センチでも数ミリでもみことばに近づくことはできます。周りを見て人と自分を比べると、あせったり、優越感を持ったり、「(あの人に比べて)できている、できていない」と心が騒ぎますが、私たちの信仰を人間的な基準で量ることなどできません。神様基準で大切なのはゴールに到達することであって、何番目かの順番ではないのです。他の人のことを顧みる心、兄弟姉妹を含めた身近な人への心配りを目指してみましょう。これが今回のメインテーマです。
2.黙想のみことば
今週の目標について難しいと感じる人のために、3つみことばを用意してみました。励まし、チャレンジをいただいて、頑張ってみてください。
A)(ヨハネ3:16)
“神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。”
神は、世界から打ち捨てられている罪人の私たちを見つけて、あわれんでくださいました。私たちが捨てられているゴミ箱をじっと見て、「これらを助けて取り戻そう」と思われたのです。理由は私たちなどには知るべくもありませんが、こうしてゴミ箱から私たちを引っ張り出してくださったのです。しかも、「ひとり子」というご自身の全財産、未来への希望を代価として、です。私たちをじーっとご覧になって、ご自身の頭のてっぺんから足のかかとまで神経をすり減らし、私たちに永遠のいのちを与えること、そのためにご自分の未来であられるイエス様を代価として払うことを決められました。これが(ヨハネ3:16)が語っていることです。
私たちも人を顧みるなら、表面的なあわれみとか同情では、神の望まれる「顧みる」にはなりません。永遠のいのちに至るための、「顧みる」でなければふさわしくないのです。
B)(ヨハネ15:13)
“「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」”
神様が私たちのために犠牲を払われたのは、私たちを友として見てくださっているからです。神は私たちを隣人として認め、扱ってくださいました。他の人を友として受け入れてくださったからこそいのちを捨てるほどの犠牲を払うことがおできになったのです。
私たちの前には、隣人となるべき人たちがたくさんあります。人は一人では生きていけません。だから、他の人との友情を育むのです。友が永遠のいのちに至るために自分のいのちを捨てる、これが頭の先から足のかかとまですり減らす状態です。しかし自分がダメになるというわけではなく、他の人を生かすために自分優先をやめるということなのです。教えられるより教える方が物事をより良く理解するように、私たちが他の人のために尽力する時、私たち自身もより成長できます。
C)(第1ヨハネ3:16)
“キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。”
「べき」というからには、これ以外の選択はないということなのですが、律法的な視点からではなく、恵みの視点から考えてみましょう。私たちが神の愛に触れられた時、心に変化が起こります。親切を受けた時、その人の真心を感じたら、心からの感謝が湧き上がってきます。反対に、いやなものを感じたら悪い反応になるのですが。これは律法ではなく、自発的な行動ですね。「べきです」は、「そうしたい心が湧き上がって来るのです」という意味です。
ここで自分の心をよく観察して、イエス様を、神様を、自分はどう捉えているのだろうかということをぜひ知ってほしいのです。それは本当に自分を大事にしていくための、大切な時になります。自分の愛はなぜ弱いのか、自分のやりたいことを優先している勝手な自分を知ってこそ、真実の第一歩を踏み出すことができます。どんなに長い教会生活でも、心が進んでいないこともあります。周りの人にかっこうよく見せるために自分を偽るのではなく、神様の愛に触れて知ってから初めてできる、感謝に溢れた愛の結果としての行動を、一つずつ積み重ねていってほしいのです。神様は、罪という愛の妨げを、十字架によって打ち壊し取り除いて、私たちの心に直接触れて、愛をわき出させ、目覚めさせてくださいます。罪のおおいが取り除かれてもまだ愛を感じられないのは、自分の欲望が障壁になっているからです。自己中心が自分を鈍くさせています。だから、悔い改めが必要なのです。
3.間違ってはいけないこと
まず「自分勝手な非難にまどわされないこと」です。正当な理屈に見えても、動機がどこにあるのかよく観察してください。たとえば、一家の主人が、「俺は仕事をきちんとして、給料を家に入れ、家族を養っている。休みの時くらい自分の好きなことに使わせてくれ。」と言ったとします。しかし彼は、何より一家の管理をする責任者であり、妻や子どもたちへのケアをする責任があるのです。家族を放り出して、自分の楽しみに時間を費やすのは間違っていませんか。
次に「身勝手な要求に応えることが愛ではない」ということですが、私たちはいつでも、相手が永遠のいのちに至るためにはどうしたらよいかを考えるべきです。「注意や忠告も愛」なのは、相手をわがままにさせたあげく、永遠のいのちから遠去からせてしまわないためですね。ともかく私たちの周りの人々が永遠のいのちに至るようにと顧みて努力していくこと、そのために受けた恵みやみことばを分かち合い、励まし合っていくのです。「目指すのは、永遠のいのちに至ること」なのですから。私が今、何よりも大事にしていることは、お互いに交わりをして互いに励ましを受け、元気になっていくことだと思っています。「よし、やっていこう」と前向きな気持ちになるのが良い交わりです。人の悪いところを注意しても、相手がそれを直せるように励ましたり元気づけたりして、相手のやる気を引き出させるように努めていきたいものです。落胆、失望で終わらせてしまったら、良い交わりとは言えません。私たちの目標は、私たち自身も、隣人も、他の人も永遠のいのちに至ることです。そのために赦し合い、愛し合い、励まし合い、助け合うのだということを覚えていてください。
身近な手本としてあげますが、辻百合子牧師は、人が永遠のいのちに至るために、接するすべての人のために、身をすり減らして祈り、忠告し、みことばの剣で心をあらわにし、なぐさめ、励まし、できうる限りのことをすべてされて導かれています。そんな風に私たちも身の回りの人たちに心を注いでいきたいものですね。
■2010年11月14日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
瑣砕細膩 ささいさいじ up 2010.11.14
情の細やかなこと。「瑣砕」はこまやかなこと。こまごまと心を砕くこと。
「細膩」はきめこまかでなめらかなこと。
最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。
(第1ペテロ3:8)
【今週のポイント】
「誰が隣人か」ではなく、「誰の隣人となるか」
今週の四字熟語の「瑣砕」とは、細々と心を砕き、相手のために心を砕いて相手に合わせること、「細膩」は、相手の人に対する気配り、情の細やかさを表しています。これを具体的にすれば、今週のみことばの(气yテロ3:8)になります。ではこれを私たちは誰にするのでしょうか。今日は隣人とは誰であるかという話を見ていきましょう。よきサマリヤ人のたとえ話の前に、イエス様に質問をした人がいます。
1.「隣人」はだれか?(ルカ10:29〜37)
“しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」イエスは答えて言われた。「ある人がエルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いでほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか」彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」”
この律法の専門家は、自分の正しさを示そうとして「私の隣人とはだれのことですか」と言いました。これは何を言おうとしているのでしょうか。
A)律法の専門家の質問
(1)「私の隣人とは、だれのことですか。」
(2)「私にとって隣人となるのは、どのような人ですか。」
(3)「私にあてはまる隣人を教えてください。」
この律法学者は、律法のくびきを負っているので「律法が私をどう裁くか」ということがいつも主体であり、律法の基準に合わせて合格か不合格かを分けています。だから気になるのは「私」であり自分がどう裁かれるかが問題なのです。律法的な人は、合格か失格かが気になり、基準に達していないと自分はだめだと思います。
例えに出てくる祭司やレビ人は、隣人を愛することを教えている指導者でしたが、強盗に襲われた人を見て、反対側を通り過ぎました。それは、関わりたくないという態度です。見て見ぬふりをしました。もしそれを誰かが見て、後で「祭司さん、見てましたよ。見て見ぬふりをして通り過ぎましたよね。」と言われたらどうでしょうか。彼らは律法のくびきを負っているので、何とか律法の裁きを受けないようにと言い訳をするでしょう。常に律法の中では、私はOKだという立場を守りたい人々です。私は罪人ではない、裁かれない者であるという状況を守ろうとして、いろいろ言い訳をする人は、律法のくびきにつながれている人です。だから、隣人は誰であるかと考えると、いろいろ基準を考えるので難しいのです。隣人は状況によって変わっていくからです。例えば、自分より恵まれていたり、お金持ちだったりすると、自分が隣人になる必要はないと思うのです。律法学者はイエス様を試してこの質問をしましたが、イエス様は直接答えるのではなく、たとえ話を通して、逆に律法学者に質問されました。
B)イエス様の質問
(1)「だれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」
(2)「強盗に襲われた者の隣人として助けたのはだれですか。」
(3)「強盗に教われた者にふさわしい隣人となってあげたのはだれですか」
この「なってあげた」とは、「してあげた」という恩着せがましいものではなく、心から湧き上がる気持ちで、自発的に隣人になったということです。この律法の専門家は、「その人にあわれみをかけてやった人です」と答えました。それが、彼の質問に対する答えでした。ここで律法の専門家とイエス様の質問の違いがあります。
C)質問の視点の違い
律法の専門家は、律法のくびきにつながれた視点からの質問である。
イエス様の質問は、神の恵みによる視点からの質問である。
それは、「律法を厳守しています」という態度と、「隣人になってあげ たい」という態度との違いである。
律法の専門家は、「律法が私をどう言っているか」と、律法で自分を判断し決断していく考え方から見た質問でしたが、イエス様の質問は、神の恵みという視点からの質問でした。神様の恵みとは何でしょうか。それを知るには、自分がどういう者であり、どれだけ罪深いものであるかを悟ることです。自分の罪深さへの悟りに比例して、神様の恵み深さがわかってきます。神の恵みの視点から考えると、隣人のしるしは、何かの基準で隣人になるのではなく、隣人になろうとする深い同情心あわれみの心が向けられた時です。
神様は、私たちが罪人であって、罰すべきものであるにも関わらず、律法にしばられずに救おうと考えられました。律法だと、罪人は罰すべきものです。しかし神様は、律法にしばられている方ではありません。恵み深い愛なるお方なので、罪人を救おうという考え方もおできになるのです。
私たちも、自分には愛せないという人が、まわりにいるかもしれません。しかしその人が苦しんでいる時に、もし自分も同じように苦しんでいた時に誰かに助けてもらったという経験があると、助けてあげようという気持ちになるものです。それは自分がそういう体験をしたからです。しかし体験のない人には葛藤があります。隣人として受けとめるかどうかのきっかけは、深い同情心が湧いてくるかどうかです。祭司もレビ人も、強盗に襲われた人に対して同情心はあったと思います。しかし反対側を通ったということは、気付かなかったという言い訳ができるからです。彼らの心には、同情心よりも違う思いがあふれていたと思います。けがをした人とは関わりたくないとか、自分も襲われたらいけないとか、いろんな思いや考えが心を占めていて、同情心が小さかったのです。
しかしサマリヤ人は、サマリヤ人に偏見を持っているユダヤ人であるとわかりながらも、それ以上に彼を助けようという深い同情心が強かったので、どんな困難な状況が浮かんでも、行動することができたのです。サマリヤ人は、苦しみ、つらさを知っており、苦しみの中で助けを与えられたという大きな体験があったので、宿屋の料金もすべて払ってあげるという行動ができたのだと思います。
神様の恵みの中にいる人は、「救われるはずのない私が救われるようにと、神様が心を動かして、不可能と思うようなことを実現してくださった。」という、神様の愛の中に生かされていることがわかると、いろいろなルールがあったとしても、それ以上に深い同情心をもって、敵でさえも助けることは、大事なことだと気付くはずです。
あなたの生活の基準は、自分の価値観の神様ですか。それとも、神の恵みによる価値観の基準で判断していますか。
【敬聴と適用】
あなたはだれの隣人になりますか!
「私の隣人は誰か」と探すのではなく、「私は誰の隣人になろうか」というのが今週のポイントです。サマリヤ人も、隣人になるかならないかという迷いがあったかもしれません。祭司もレビ人も、隣人になるかならないかと悩んだかもしれません。結論は隣人になることを拒否しました。サマリヤ人は隣人になることを決心し、受けとめました。
私たちのまわりには、隣人となるべき人がたくさんいますが、あなたが隣人になるかどうかを決断すべきです。そこで,私たちが最も隣人として受けとめなければならない存在は、夫婦であるなら夫と妻、そして子どもであり家族です。また、あなたの人間関係の中で同情心やあわれみを感じる人がおられたら、それはあなたにとっての隣人となりうる人であるというしるしです。あとはあなたがそれを決断するかどうかです。
教会はキリストのからだであり、一人一人が肢体ということは、お互いに隣人として認め合ってつながっているということです。それは、助けが必要なお互いであるということを認め合う関係が、互いに愛し合うことです。
誰が私の隣人かではなく、私はあの人の隣人になろうと決心する時に、隣人になるのです。自分の能力や価値観で人を隣人として認めるかどうかを決めていたら、いつまでも隣人にはなれないでしょう。神様が私の隣人となってくださって、十字架で苦しみを受けてくださり、いのちを捨ててくださったおかげで、今の私がある。だったら私も兄弟姉妹のために、隣人となっていこう』というのが、互いに愛し合う基準的な考え方ではないかと思います。
あなたを勇気づけ、希望をもたらし、どんな人にでも隣人になっていこうという気持ちを強めてくださるのが神の愛です。
■2010年11月7日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
嘘寒問暖 きょかんもんだん up
2010.11.7
寒さを感じている人に暖かい息を吹きかけ、
暖かくなったか尋ねること。
転じて、人の生活によく気を配ることのたとえ。
それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
(コロサイ3:12)
【今週のポイント】
自分を愛し、人を愛するための心の装い。
さて、先週のポイント「自分を愛する」の中には、健康を保つということも含まれていますが、私も去年の今頃は腎臓結石の痛みで一週間も苦しみ、初めてメッセージを休むという体験を通して、いろんなことを学びました。今回のテーマに沿って言えば、やはり体は普段から手入れをして、気をつけておかなければならないということでしょうか。また、自分に関して注意をするなら、まわりの人々に対しても関心を向け、注意してよく気配りしていくことが大事ですね。今回のデボーションは、以上に述べたことに留意して始めていきたいと思います。
私たちは心に装いをすることによって、正しく自分を愛し、人を愛することができるようになります。先週学んだことは、自分に何か価値があるのではなく、神が私たちを愛してくださった事によって、自分に価値が生まれたということです。今週のみことばから言うなら、神ご自身が「深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」をもって私たちを愛してくださったのです。私たちも、神が示してくださったそのお心に学んで、隣人の生活に気を配っていこうではありませんか。
1.心の装い
A)深い同情心
「人の苦悩や不幸などを、深くその身になってともに感じる心のこと。」
自分が味わったことのない苦しみは、なかなか同情できないものです。反対から言えば、多くの苦しみ、悲しみを味わった人ほど、人の心に気持ちを合わせていくことができるのです。苦しみを分かち合うことのできる相手と知れば、心を合わせて慰め合い、励まし合うことができるようにもなります。深い同情は、心を開くきっかけとしてとても重要なものです。この深い同情心はどうやって身に着けていくことができるのでしょうか。
人への同情を知るために、まず自分をよく観察してみましょう。浅いあわれみではなく、自分の奥底にある真意を見極めるのです。「自分はどういう動機から、この心情になって苦しんでいるのだろうか」と。この「動機」を見つけ出すことができれば、他の人の苦しみの時にも、相手が「わかってくれた」と気付きます。この心の深みを読むことができるために、まず自分の深み、動機をよく探っていきましょう。
私は村田先生(百合子先生のお父様)からのお話や、戦争のいろんな事情を詳しく知るにつれ、その過酷な世界で生き残ってきたということがどういう意味を持つのかがわかってきた時に、自分の父親が、若い頃から叩き上げの兵隊として教育、訓練を受け、戦地ではほとんどの僚友を失い、何とか生き延びて今に至っている心の深みを理解できるようになりました。ベトナムに行った帰還兵たちが元の生活に戻ることができず苦しんでいる多くの例を、私たちは聞いたことがありますが、そうならざるを得ない心に対して少しでも理解が深まると、今度は「よくぞ生き抜いて帰って来てくれた」という思いをもてるようになりました。苦しみの根本に目を向ければ相手を深く理解し、同情することができます。
もしかしたら皆さんも、意外と自分自身を正しく理解、同情できていないかもしれません。本当の動機は何か。なぜこんなに人生に苦しみ、排他的になりクリスチャンだと言いながらも否定的なのだろう。その苦しみ、悩みを、自分自身深く掘り下げて、動機(どんな考え、思いがあって否定的になってしまったのか)を探ってみてください。その原因がわかれば、人はやさしくなれるのです。自己中心的なあわれみでなく、しっかりと問題の原因を見定めていくことができるくらい深く心の中を探ることができたなら、正しい同情につながっていきます。
B)慈愛「いつくしみ、愛すること。大切なものとして大事に扱うこと」
いつくしむからには、理由は何にせよ、大切に扱うという大前提が存在します。「いつくしむ」の古語「いつくし」には、神的な神々しさ、重々しさ、神を敬う大事な姿勢が含まれています。したがって、人を大事に扱う姿勢が慈愛といえるでしょう。ならば、人に向ける前に、自分を本当に大事にできているかどうか、目を向けてみてください。何か他の利益のために自分をいつくしむとか、自己満足のために自分をいつくしむなどはないはずです。本当に大事にするにあたって、自分の満足、不満足は、主目的になり得ないのです。では、本当に大事に扱うとはどういうことでしょうか。たとえば年を取って弱った体を大事にするという時、ゆっくりと無理のないように気をつけるだけではなく、老化を防ぐための訓練や管理も必要になります。好き嫌いでは量れないそれらの地道な努力が、実際に人を愛し続けるための励みにもなるはずです。
C)謙遜 「控えめな態度で振る舞う。へりくだること。」
自分に対して謙遜であるということは、虚栄心を持たないことです。ありのままの自分を認めることです。これができないと、人と比べて劣っているところを見せたくないという虚栄心が、知っているふり、やっているふりをさせます。これはないものをあるかのように偽ることであり、傲慢です。「こんな不信仰な私はあってはならない」と自分を認めることができないなら、それは虚栄心の始まりです。「こんな私なんだ」と今の状態を認めても、そこから一歩チャレンジしてみようと、自分自身に対して謙虚でありましょう。すると人に対しての謙遜もわかってきます。
D)柔和 「性質、態度がやさしく、おとなしいこと。」
問題や波風が起こっても、態度がやさしくおとなしいのが、本当の柔和です。周りの状況に左右されずに、いつも冷静に対応できるということでもあります。自分の感情に揺さぶられる人は、自分に対して柔和さが足りません。「正しい良心」は感情に揺さぶられることなく、常に客観的に自分の感情を見ることができます。柔和さは正しい良心に近い部分にあるものなので、正しい良心から外れてしまうと、感情に揺さぶられ、柔和でいることができません。ぜひ一度、怒りや憎しみや嫉妬やねたみに燃えた心を、客観的に正しい良心から見てください。「ああ自分は怒っているな。恥ずかしい」と思う時、柔和さが出、優しさや冷静さが出てきます。柔和さは相手の態度や反応を決して感情部分で捉えず、感情で返さず、正しい良心をもって大きく受け止め、対応するものです。人を見るのも正しい良心をもって、自分を見るのも正しい良心によってです。人を批判する心、人の悪口を言っている自分を正しい良心をもって客観的に見てください。「ああ、これが私なんだ。私の罪深さなんだ。これをイエス様が共に十字架につけて葬ってくださったんだな。」とこのように見ていくことが柔和さです。そして、この柔和さに欠かせないのが、下に挙げる「寛容」です。
E)寛容 「寛大で、よく人を赦し受け入れること。」
赦すことが柔和さには必要であり、柔和さを維持するためには寛容さが欠かせません。しかし間違ってはいけないのは、そのまま罪の状態を見過ごし続けるのは寛容ではない、ということです。寛容さは必ず一定の領域を持っています。神様の領域はキリストの再臨までであり、その時までに悔い改めるように勧められていますね。私たちも人に対しての寛容さに範囲があるはずです。その範囲の広さによって、心が広いとかせまいとかが決まるわけですね。ペテロが人を赦す回数を7度まで(人の限界)かと問うた時に、イエス様は7を70倍するまで(神の裁きに委ねよという意味)と言われました。最終的判断、裁きは神がなされるから、その時までは赦しなさいということです。たとえば、酒やタバコ、ギャンブルなどがやめられない人に指導していく時、そこには寛容さが必要です。今日の約束を今日破ってしまった人を責めずに、再度悔い改めとチャレンジを促すには、柔和さと寛容が欠かせません。それをどこまで続けられるかが問題ですが、悔い改めて正しい方向に立ち返らせることができるために、寛容があるのです。寛容は相手に好き放題させる放縦とは違い、目的があります。なぜ赦すかといえば、悔い改めて正しい方向に立ち返り、良くなるためのチャンスを幾度も与えるためです。これは自分に対しても当てはまります。あなたは何度、自分に悔い改めとやり直しを許しているでしょうか?自分への寛容さが問われる部分ですね。よくあることですが、何度も同じ過ちを繰り返して行くと、悔い改めをする気力が失われてきます。自分を赦す赦さないではなく、「もう自分なんてダメだ。好きなように裁いてください」と投げやりな気持ちになってしまい、やり直しのしようがなくなってしまうのです。そこで必要なのが深い同情心です。なぜそんなに投げやりになってしまったのか、なぜそこまで自分を卑下して、ダメな者として悔い改める気持ちさえなくしてしまったのか、とその真意を自分でしっかりと見つけ出すと、「私は本当に神様に愛されたいんだな。」ということがわかります。本当に神様に愛されたいからこそ、できない自分を卑下し、落胆し、失望するのです。そんな時に同情心をもって真意を見れば、「ああそうなんだ、そういう真意があるんだ。」と思うことができ、自分を赦す方向に心をもっていけます。赦すためには、励ましが必要です。神様が「大丈夫だよ。もう一度やってみたら。」と赦してくださっていることを見る時、何のために十字架で苦しみを負ってまで赦してくださっているかをもう一度考えて、「もう一度やろうよ」と自分自身を励ましていくことができます。
詩篇に出てくる「わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。」ということばは叱咤激励ではなく、柔和と寛容と、慈愛と謙遜と、深い同情心から出ているのではないかと思います。自分の心の奥底にある気持ちを深い同情心をもって理解し、神に愛されている者としての慈愛をもって自分を大事に受け止めながら、へりくだってダメな自分を認める、しかしそんな絶望的な自分の状況に対して、柔和な態度で「あきらめないで。そんな感情に揺さぶられないで正しい良心を持って。大丈夫だよ。赦しがあるよ。神は受け入れてくださっているよ。」と寛容をもって励ましていることば。このようにして、あなたもまず自分自身に対して深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を示していってください。自分自身をモデルケース、テストケースとして実行してみるわけです。そうすれば、いかにして上に挙げてきた心の装いを実行していけばいいかが具体的にわかります。あとは、それをそのまま隣人にも実行するだけです。ただ、決して忘れないでください。深い同情心がまず根底にあってこれは絶対に欠かせないものなのです。
「これらの心の装いを持って自分を愛するとき、必ず心に思いうかんで来ることは、『主が私を大事にしてくださっているから』という思いです。」
2.良きサマリヤ人のたとえ話(ルカ10:30〜37)
“イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ半殺しにして逃げて行った。たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」”
【敬聴と適用】
このたとえ話から、サマリヤ人は、どのように正しく自分を愛することができていたのかを考えてみましょう。端的に言えば、なぜサマリヤ人はこのユダヤ人を助ける気になったのか、ということです。自分が強盗に襲われるかもしれない危険を冒してまで、普段自分たちを迫害しているユダヤ人を助けた上に、宿屋まで連れて行って介抱し、宿泊費と介抱費用を前渡しで自分が負担して、足りなければ帰りにまた寄って不足分を支払うとまで言うこの人は、よっぽどの人格者としか思えませんね。まさに「嘘寒問暖」を地でいく気配りができるこのサマリヤ人は、なぜそこまでできたのでしょうか
たとえば、入院経験がある人に初めて入院する人の準備を手伝っていただいたなら、必要な物を的確に十分にそろえることができるでしょう。体験者は、実体験から欲しいもの、不必要なものなどを判断できるので、心配りが的確なのです。このサマリヤ人は、強盗に遭って何もかも取られ、見捨てられたユダヤ人の状態を、他の健全な人から見ると近寄りたくない関わりたくないような状態を、「この人に関わると自分まで危険な目に遭わされる」と思わせるような人を、それほどに打ちのめされていたこの人の、孤独感と恐怖と痛みを知っていたのです。サマリヤ人はいつもユダヤ人から差別され無視され、認められず、傷ついた痛みを持つ経験者だからです。サマリヤ人たちの礼拝を、ユダヤ人たちはおとしめ、傷つけ、辱めてまるで強盗のような行いを続けてきました。やっていることを認めてもらえないという孤独感と恐怖と痛みを想像することができますか?だからこそ彼は、相手が誰だとかではなく、一人の人が見捨てられ、傷つき、孤独と恐怖と痛みにさいなまれているという状態を察して、助けずにはいられなかったのではないでしょうか。深い同情心が、強盗に襲われた人を助けるきっかけになったということですね。この気持ちが大きいほど、人を助けたい気持ちが強くなっていきます。自分の危険をも顧みず、相手の気持ちや身の安全を思うのは、深い同情心、すなわち相手のことを思いみるからです。その人の存在はいかに大切であるかを慈しむ心、自分の身よりも相手を優先させる謙遜、周りの状況に左右されない冷静な心でこれからを考え、相手の落ち度を責めない寛容な態度で対処したのはすべてそこからです。強盗に襲われた人は、無防備に大金を持って歩いていたからそんな目に遭ったのだと責めることもできたでしょうが、そんな批判は脇へ置いて、「まず助けなくては」と思うことができたのは、個人的に、被害者に対する深い同情心が湧いたからです。ということはこのサマリヤ人は、自分を本当に正しく愛することができていたと言えるでしょう。自分をよく知っている人だからこそ相手をよく理解することができたのです。皆さん、私たちも、なぜ人を毛嫌いするのか、なぜ受け入れられないのか、その原因はひょっとして自分自身にあるのではないかと、自分を見直してみましょう。自分を正しく愛することを通して人を正しく愛することができるようになる、と知ってください。皆さんもいろいろ瞑想しながら隣人を愛する愛へと、ご自分を主の前に整えていっていただきたいと願っています。
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