■2010年10月31日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
自重自愛 じちょうじあい up
2010.10.31
自分の品位を保って行いを慎み、自らその身を大切にすること。
律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。
(ガラテヤ5:14)
【今週のポイント】
正しい自分の愛し方。
私たちは本当に自分を正しく愛せているでしょうか。今日は、自分を本当に正しく愛せているかどうかを省みながら、共に学んでまいりましょう。
律法は理想的な社会生活を送るためのルールです。今できていなくても、達成に向けてみんなで努力していくことが大切です。この律法を守っていくなら、問題を最小限に食い止めることができ、皆が楽しく生活できるようになるのです。反対に誰かがこのルールを破るなら、ルールを守っている他の人々に大きな負担を強いることになります。そういったことを防ぐために、罰則や裁きが存在するのです。最近では、皆が安全に楽しく暮らすための法律である、ということを忘れて「見つからなければ良い」「罰を免れれば良い」と、自分の損得勘定だけで判断することが多いようですが、法律とは本来、自分を含めた皆の利益を最大限保つために存在することを忘れてはいけません。そして、個々が取るべき最良の判断は『隣人を愛する』ことであり、自分のためでなく隣人のために何かをしていくことによって「自分のことは他の隣人が心配してくれるから、自分はこの隣人を心配する」という、理想の社会が形成されるのです。
ところで、「自分を愛するように」とみことばにありますが、自分を正しく愛せなければ、隣人を正しく愛することは難しいでしょう。あなたはご自分を愛せていますか。好き放題をして欲望を満たすことは、自分を愛していることになるのでしょうか。本当に自分を愛するとは何でしょう。
1.自分を愛するとは「品位を保つ」こと(ガラテヤ6:14)
“しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。”
パウロは私たちの手本として生きたクリスチャン指導者でした。この人が、「神がこんな私を愛してくださっている。これ以外の誇りはない」と言っているのです。
誇りは、自分が自分であるための大切なものです。誇りは品性を保つために欠かせません。誇りがない人は、品性が不安定に上下しやすくなります。たとえばアメリカのオバマ大統領夫人は、大国アメリカの大統領夫人・ファーストレディとしての誇りを持っているがゆえに、彼女の品位を保つことができます。クリスチャンにとっての誇りは,神に愛されていることです。愛されている者にふさわしく生きていこうと決意して生きるのが、品位を保つことになります。今、あなたは何の誇りを持っているでしょうか。それがあれば自分を見失うことはありません。自分を愛するということは、自分が何者であるかをしっかり保つということです。
A)私たちは、神のかたちに似せて創造された。(ヤコブ3:9〜10)
“私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。”
皆さんは、神のかたちに似せて造られた者であることを忘れてはいけません。誰かを非難することは、神を非難することになるのです。人を責める時には、責め方をよく考える必要があります。「あなたは神様に似せて造られたすばらしい存在なのに、我欲に溺れてしまってそれを忘れてはいけません。ぜひ、神様に喜ばれる状態に立ち戻ってください。」と、相手を尊重して忠告し、責めようではありませんか。決して自分の感情で、相手をおとしめないように気をつけましょう。人をおとしめることは神をおとしめること、ひいては自分自身をもおとしめることです。すべての人を尊重することが、自分を尊重することにもなります。
B)私たちは、神に愛されている者(コロサイ3:12)
“それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。”
ここで身につけるよう勧められている性質はすべて、相手の品位を保つために必要な要素ばかりです。実にこれが、神に愛されている者にふさわしい性質なのです。神様が愛してくださったように、相手に同情し、慈愛を持ち、謙遜の心で接し、柔和な対応をし、寛容な心で受けとめる。私たち自身、未熟で不完全な者であるのに、神様は私たちをご自分と同じ者と見なして大事に扱ってくださいました。
2.自分を愛するとは「身を大切にする」こと(エペソ5:29)
“だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。”
自分を憎むようになる理由は、人と比較するからです。多数決の社会では、多くの人が支持するものが正義になりますが、それは真実と言えるのでしょうか。
有名な陶器師の作品は高値で取引されますね。すばらしい作品であり、さらには一点ものの希少品だからです。私たちは神様に造られた、それぞれ一点ものの希少品です。世界にたった一つしかありません。整形して美人になりたい人は、多くの人に支持される姿が欲しいのでしょうが、そのかわりオリジナルの自分を失ってしまいます。神様は世界で一人だけのオリジナルのあなたを愛して、十字架の犠牲によって愛を証明してくださいました。なぜ人は大きな代償を払って何かを手に入れるのでしょう。それだけの価値を認めるからです。神様も、私たち一人一人に絶大な価値を見いだしてくださったがゆえに、一人も滅びないようにと「ひとり子イエス様のいのち」という神様の全財産を投げ出してくださいました。あなたは世界に一人しかいません。神はこのままのあなたを、他にはない宝物として大事に思ってくださっています。自分を憎んではいけません。自分を大事にしてください。
A)からだは神の御住まいであり神のものである。(第1コリント6:19)
“あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。”
神はすべての人の心にご自分の住まいを持ちたいと、計画を持っておられます。だから神は、私たちのからだも大事に尊んでおられます。私たちのからだは自分のものではなく、神様が毎日の生活において幸せを育まれるための大切な場所ですから、粗末にしてはいけません。健康管理が悪いとは、家の管理が悪いことと同じです。住んでくださる方のためにきちんと家の管理をするとは、自分を愛してくださる方が住んでくださるためにからだを大事にすることです。
B)キリストのからだの一部(第1コリント6:15)
“あなたがたのからだはキリストの一部であることを、知らないのですか。キリストのからだを取って遊女のからだとするのですか。そんなことは絶対に許されません。”
「遊女のからだとする」とはからだを汚すことであり、自分の何らかの欲望のために、本来きよく保つためのものを、持ち主の意向を無視して、自分の思うままに使っていくことです。家を壊すこととも言えます。持ち主のことを大事に思うなら、家の保守点検や修理をこまめに行いますが、好き放題にしたなら家は壊れます。自分の体が、シロアリに食われ放題の家に例えられたら、あなたはどんな気持ちになりますか。とすれば、自分のからだをきよく健全に保つことは、自分を愛することと言えます。不道徳な生活は自分自身を壊し、自分の価値を引き下げることになります。これは自分を愛しているとはいえません。神が喜んでくださる神の住まいとしての自分を大事にする心が、自分を正しく愛することになります。自分を愛するように隣人を愛するとは、「隣人の品位を尊重し、その人のからだが健康で汚されないように心配りをすることが、自分を愛するように隣人を愛することである。」と言えると思います。
まず自分の品位を保つ、ということをあなたができるならば、自分と同じ神のかたちに似せて造られた隣人を、同じように、傷つけないように、態度にもことばにも気をつけて話ができるのではないでしょうか。自分の内に聖なる神様が住んでくださる。自分を住まいとしてくださる。これを大事にしたいなら、同じように住まいになる人をも大事にするのは当然ですね。そしてこれが皆の間に浸透していけば、律法が全うされる理想的な社会になります。私たちはそれを目指してイエス様を信じました。アーメン!イエス様を信じて迎え入れて、励まされて、いやされて進んでいくのです。律法を守ることができるために、私たちは日々イエス様が内に住んでくださって、そして歩んでいきます。「できないからダメ」なのではありません。できないからこそ「私はもうクリスチャンらしくない」そう言うのなら、今からクリスチャンらしくなるために、神はあなたの内に住んでくださって、罪を赦し、あなたと住んであなたと共に歩み、律法を全うする、自分を愛するように隣人を愛することができるように、教え導き励まし、共に人生を歩んでくださいます。まず自分を愛せているかどうかを省みてください。自分を愛せてなかったら隣人を愛することは難しいです。
私(辻師)がまだ独身の献身者で教会に住んでいた頃、ある時から毎晩12時頃になると電話が教会にかかってくるようになりました。最初は無言電話でしたが、丁寧に応対し、相手が電話を置くまで待つようにすると、だんだん様子が変わってきました。しゃべるようになると今度は、教会に対する罵詈雑言が続くようになりました。そのことばに一つずつ謝り、お詫びし、謝罪を続けていくと、相手の態度は和らぎ、今度は直接会うことになりました。顔を直接会わせた状態で相手の苦情をよく聞き、謝罪し、相手の品位を傷つけないように対応していくと相手の心は癒され、帰り際の「ありがとうございました。」の言葉を最後に、もう電話はかかってきませんでした。
私たちは隣人の心に対して、自分勝手な心で不用意に傷をつけていることが多くあるのではないかと思います。本当の意味で自分を大事にすることができるなら、人を大事にすることもできるでしょう。ぜひ、自分を愛せているかどうかを考えてみてください。
■2010年10月24日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
旭日東天 きょくじつとうてん up 2010.10.24
朝日が勢いよく東の空に昇る意から、勢いがますます盛んになること。
心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
(申命記6:5)
【今週のポイント】
神への愛は、ますます盛んになっていく。
すべてのものを価値づけ、存在そのものを意味するのは愛です。そして、この愛はますます盛んになり、大きくなっていきます。
この世界の物はすべて、時間と共に衰退し弱っていきます。しかし愛だけは、時間と共に輝きを増し、盛んになっていくのです。人間的な愛でも本物の愛は、70、80歳になっても弱っていくことはありません。しかし、そこに疑いや不信が入ってくると衰退していきます。それは年齢が問題ではありません。
(申命記6:5)は、モーセを通して神が語られた十戒の一つです。 しかし、いくらそう命じられたからといっても、心に湧き上がってくる愛がなければ、ただ形だけの「尽くす」になってしまいます。親が子育てするのに、形だけ義務を果たしても、その心は別のところにある…ということもあり得るのです。このみことばは、「愛はますます盛んになっていく」ということのゆえに、初めて実現するものです。心を尽くしたいほどに愛が内側から溢れ、精神を尽くしたいほどに神への気持ちが高まっていき、力を尽くしたいほどに信頼が強くなってくる…これが愛なのです。
アブラハムの神への愛(ヘブル11:17〜19)
“信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」と言われたのですが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。”
ヘブル11章は信仰について書かれた有名な章です。アブラハムは信仰によってイサクをささげたとありますが、この信仰とは何でしょうか…。私たちの普通に考える「信仰」で、果たして大切なイサクをささげる気持ちになるでしょうか。「神が言われたんだから従うしかない〜。」これではあまりに律法的な冷たい心になってしまいます。しかし、アブラハムは、「神を愛していた」ゆえに、大切なひとり子イサクをささげたのです。神が願っておられる「信仰」「希望」「愛」は、3つとも合わさって愛になります。光の三原色は3つが合わさると透明になります。しかしこの透明さを分析すると3つの色になるように、神の愛も分析すると3つに分かれますが、ひとつとなって輝くのです。ですから、この「信仰によって」は、「希望」と「愛」によって言い換えることもできます。アブラハムは、神への希望によって、また愛によってイサクをささげました、と言えます。ですから何事であっても、「信仰によって!」「信仰によって!」と言ってしまい、「希望」と「愛」を除いてしまうなら、その信仰にはフィレオの愛が消えてしまい、冷たいものになってしまいます。神の愛はアガパオでよく表しますが、愛は意志的なものだけではなく、情的なフィレオの愛も大切です。
神はなぜ、イサクをささげよとアブラハムに言われたのでしょうか。それは、アブラハムの心が、神を愛するという土台の上に建てられているかどうかを知るために与えられた、最後の試みでした。神が約束されたことを与えられ、神がその与えられたものを取られる…アブラハムにとってイサクは、高齢で人間的には不可能な状況の中で、神によって与えられた約束の子であり、それゆえになお一層いとおしくフィレオの愛が注がれたはずです。そしてそれゆえにいつの間にか、心の焦点はイサクの方にイサクの方にと向けられていったことでしょう。そこで神はアブラハムに、そのイサクは彼が神を信頼し愛したゆえに与えたものであるということを、もう一度理解させるために試みられたのです。つまり、すべての出来事は、神を愛するがゆえに成り立つものであるということを、アブラハムに悟らせようとされたのです。彼の心はこの試みを受けた時、どのように受け止め、整理され、決断に至ったのでしょう。この試み以前にも、神は様々な試みによって、アブラハムの神への愛がしっかりと成長していくように導かれました。彼はだんだん神を信じ、愛し、希望を抱くようになってきました。そしてこれが最後の試みであり、この後は何の試みもなく、平穏に人生を全うしました。
1.心を尽くして愛したアブラハム
この心を尽くすというヘブル語は、知性を表しています。アブラハムは、殺してしまったらもう生き返らないという常識を、「神にはできないことはない」つまり、たとえイサクを殺しても、神は必ずイサクをよみがえらせて約束を成就してくださることもできる全能の方であるというように、一般常識を覆して、神を愛する考え方に変えたのです。もし本当に愛するなら、愛する人を疑うでしょうか。絶対に信じ続けようとします。神は究極の状態で、アブラハムが神を愛するゆえに、あらゆるマイナスの考えを捨てて神を信頼するという「心を尽くす愛」を持つように導かれたのです。
2.精神を尽くして愛したアブラハム
これは魂や人格という内面を表現する部分で、生きた存在そのものです。内側にあるものを感情によって表現します。アブラハムは内なる葛藤を通して感情部分を揺さぶられ、試みられました。ひとり子に対する感情的な思いが、実は神を愛するという感情から出てきたものであることを、思い起こさせられたのです。私にはかわいい孫がいますが、これは私と家内とが神を第一として歩んできた結果生み出された、愛の子孫です。神を第一として生きてきてよかったという心から、孫をかわいがることができます。アブラハムも、イサクあっての神ではなく、神あってのイサクなのです。そのように感情がコントロールできるよう、試みられました。人は感情をいかにコントロールするかで、人生が変わってきます。罪からくる感情表現か、神を愛することから湧き上がってくる感情表現か、どちらがあなたの魂の本当の姿でしょうか。私たちは正しい良心をもってしっかりと感情をコントロールしていくことが大切です。そこに本来のあなたが表れるからです。アブラハムは、神を愛し畏れる心をもって、肉の自己中心からくる感情をコントロールしていきました。
3.力を尽くして愛したアブラハム
「力」とは、意志の働きであり、英語では「very」となります。「非常に」であり、通常ではないということであり、いつも以上の非常に大きな力をもたらす決断をするということです。感情がゆさぶられる迷っている心を、通常にはない強い意志決定によって、アブラハムはイサクをささげる決心をしました。迷っているのは、決断ができていないからです。アブラハムは、今までの人生にはなかったほどの葛藤の中で、強い意志決定をしました。それが「力を尽くす」ということです。彼は意志決定のために、強い力を投入したのです。それは神を愛する愛のゆえに、思いと感情を前向き肯定的に向け、決心したということです。混乱の中で、一切のマイナス面を断ち切り、神に向く決心をする、これが「力を尽くす」ということです。
こういった「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くす」ということは、初めからできるものではありません。しかしクリスチャン生活を送り、ますます神への愛が盛んになっていくために、忘れてはいけないことがあります。それは、神がまず初めに私たちを、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして愛してくださった」ということです。義なる神が罪人を愛する…あり得ないことを、神は何とか再び自分の子として愛するために、思いと考えを尽くし、ひとり子イエスを贖いとして与えられることによって、成就してくださいました。そして私たちを愛してくださったのです。感情面において
罪人を愛する愛など、神には湧かなかったでしょう。しかし愛なる神は「罪人だからこそあわれむべきである」という前向きな考えから、私たちを愛する感情をわきたたせて、熱い愛を内側に起こしてくださいました。英語では「パッション」と言います。十字架のこともパッションと言います。それは私たちへの情熱、愛を表されたからです。愛せない私たちを愛そうと、心を燃やしてくださったのです。そして、ひとり子である、神のすべてである方を犠牲として差し出される大きな決断をされたのです。この愛を与えられて、私たちはますます、神への愛が盛んになる信仰生活を歩めていけるのです。アブラハムはその道を歩んで、最終的にはイサクをささげるという試みを受けました。私たちは最初からそのような試みは受けませんが、一つ一つしっかりと忠実に歩み、気力をくじけさせず、いつもひとり子イエスをくださった神の愛を信じ、希望を持って歩みつづけようではありませんか。ますます朝日が輝き、真昼に到達するように、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くす」神への愛を抱くようになっていきましょう。
■2010年10月17日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
青雲秋月 せいうんしゅうげつ up 2010.10.17
心に汚れなく、澄みとおっていることのたとえ
この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目標としています。
(第1テモテ1:5)
【今週のポイント】
私達が追い求めている愛は、主を畏れ敬うきよさから出て来る愛である。
過ぐる一週間、神様の愛にしっかりとどまって、環境や感情に揺さぶられずに軌道修正をしながら、その歩みを続けられたでしょうか。今日はさらに、「神様の愛にとどまる」ということについて、神様から励まし・勧めを受けてまいりましょう。
今週の四字熟語は「青雲秋月」です。澄み切った秋の青空、透き通った夜空に輝く月を見ていると、心が洗われ、きよめられるような感覚を受けます。澄み切った青空に気持ちが引き込まれて、地上の煩いを忘れて我を取り戻すような気がします。また月明かりは影ができるほどの輝きがあり、暗やみのような暗い人生の歩みに、みことばの光をもって私たちに臨んでおられる救い主イエス様の、月のような暖かい輝きで包まれ、励まされていることを想像できるのではないでしょうか。神様は私たちに知識や言葉だけでなく、ご自分が造られた大自然を通しても、多くのすばらしいものに触れられるようにしてくださっていることを思うとき、それらを生かしていける人生であることを感謝せずにはおれません。
また、今週のポイントから私たちは主を畏れ敬うきよさから出てくる愛を追い求めていると考える時に、この世の人々が考える愛と神様が私たちに示しておられる愛には違いがあります。私たちが神の子として受けるべき愛は神の愛であり、アガパオにフィレオを合わせた完全な愛を目指していくわけですが、どういうところからそれが生み出されていくのかを、(第1テモテ1:5)から考えてまいりましょう。
(第1テモテ1:5は前述)
『この』⇒律法全体、イエス様が語られた新しい戒め。
イエス様の私たちへの戒め、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」、旧約聖書の律法全体、神様のすべてのすすめ、ルールは、この愛を目標にしているということです。
『命令』⇒指令(軍隊用語)使命感を強くわきたたせる言葉。
「目指す」という意味の勅令を表す強いことばです。兵士たちはどんな命令でも達成することが兵士としての喜びであるという自覚を持って戦いをします。私たちクリスチャンが自覚することは、神が私たちに望まれる愛を目標にすることを使命とすることです。兵士たちは、個人的なことは考えず、全体の一部を担い、果たすことが国の平和を守る者としての強い使命だと覚悟を心にわきたたせる言葉です。神のことばは私たちに落胆を与えることはなく、私たちも神様を中心として交わりを守っていこうという気持ちを引き出します。
この目的のための条件が三つ出てきます。
『きよい心』⇒「神の愛によって動かされる感情の働き」
神様が私たちをどんなに愛してくださっているかに感動して心が動かされていくことが、心がきよいと言えると思います。反社会的行動に出るのは、神を畏れていないのです。餓死しようとも他人のものを盗んでまで生き延びようと思わないことは、きよい心です。今の世の中「どう生きるか」という価値が忘れられていないでしょうか。
『正しい良心』⇒知識を正しく理解する主を畏れる知性の働き。
私たちの善悪は、神を畏れることを基準にして線引きをし、神様の前に、どう決断することが善であり悪であるか、いつも吟味します。法律にかからない、反しない程度のものという基準ではなく、神様のお心、道徳心が基準となって善悪を分けます。これを知識を正しく理解する基準として、私たちの知性を働かせることを心がけることが必要であり、「正しい良心」「きよい良心」の働きと言えます。「良心がまひする」とは、主を畏れることを基準としていない状態です。
『偽りのない信仰』⇒敬虔な意志による鉄心石腸の決心決断。
人によく思われようとして、言葉や態度など表向きは信仰深さを装ってはいても、内側に自分の思い通りに神を動かそうとする利己的な考えがあるなら、偽りの信仰になります。私たちは神様に利用されるものでなくてはなりません。つまり、神様が用意してくださった自分に合った人生を選び取っていく、用いていただくという気持ちが、偽りのない信仰です。私たちはいつも神様との1対1の関係を意識することが敬虔な心を持つことであり、その中から感情に動かされない意志決定をすることが必要です。
この三つの条件の中から
『出て来る』⇒条件が満たされた状況から湧き上がって来るもの。
三つのうち一つでも欠けると、目標としている愛を見つけ出すことができません。
『目標としている』⇒方向を示している。目指し続ける姿勢。
人生でこの愛を目指し続けると言うことです。芸術、美術、勉学…いろいろなものを追求していけばいくほどゴールはなく、極めるところはないほど、神様はそのすばらしさを味わうようにすべてのものを造っておられることを実感します。細かく調べれば調べるほど尽きることのない追求心を示しているのが、目標としています、ということばの意味です。
この流れを汲みながら、私たちのクリスチャン生活で目標にしている愛はどんな愛か、ということ以上に、どういうところから出てくる愛か、ということが大事です。あなたの内から湧き上がってくる愛は「きよい心」と「正しい良心」と「偽りのない信仰」という条件から出てくることを目標としています。そして、この愛があれば、否定的な思いはきよめられていきます。天地万物を造られた神が保証しておられるので、家族、隣人への愛は前向き、肯定的に捉えられます。病気、問題、自分の弱さ…「すべて私の益となるために、神様が今、私を鍛え、きよめ、磨き、強めてくださっているので、よし、これにチャレンジしていこう。」「私をつぶして、ダメにして、失格者にするために神様が私をこのようにしておられるのではない。すべての人が合格するため、信仰から信仰へと導いておられ、神の愛から神の愛へと励まし、歩みを教えてくださっている」と、神様の大きな愛の支えの中で、「きよい心」「正しい良心」「偽りのない信仰」から出る愛を目指しています。
今苦しいからと言って、あきらめてそこに留まることは、神の御心ではありません。たとえ今否定的な愛であっても、そこから出発することが目指すということです。到達していないからこそ、目標を持ちます。願っていることがあるからこそ、その願いを手に入れようと目指していくわけです。聖書には「愛はなければすべてはむなしい」と記されています。人生において最も価値があり、生きがいをもたらし、輝きがあり、喜びと平安に満たされるもの…それらはすべて愛がなければ起こりえません。単なる欲望でなく「永遠に残るものは信仰と希望と愛、その中でもっとも偉大なものは愛である」と、私たちの存在そのものを価値づけるのは愛だと、神様はおっしゃっています。なぜなら神は愛だからです。その愛の神様によって、すべてのものが、私たちが造られました。ですから、愛の道から外れることは私たちの生きる道から外れることであり、お金を求めることは人生の目的から外れることです。愛を求めてこそ正しい歩みが生まれてくるのです。これらのことを、(第1テモテ1:5)でパウロは聖霊様によって、若き指導者テモテに、多くのクリスチャンに教えるように語っておられます。
【敬聴と決心】
(第1テモテ1:5)によって、さらに具体的に「愛を追い求めていく」ことを、心の中に整理していただきたいと思います。整理ができたら今週はその日一日決心した「きよい心」「正しい良心」「偽りのない信仰」から出た愛を目指してどう歩んだか記録してみましょう。
《例》10月17日
教会の今日の会食は10月16日の世界食糧デーを受けて「わかめご飯」です。現在の私たちの食生活から言うならば質素です。しかし三日に一回しか食事ができない、アフリカの飢餓状態にある人々には「わかめごはん」といえども高価であり、幸せです。飢餓にある人々の気持ちを体験するために、三日に一回小麦粉を水で溶いて、たきぎで火を起こした焼き石の上で焼いたパンを家族で分けて食べるならば、そのひもじさが体験できるかもしれません。しかしその後私たちは普通の食事に戻れますが、もしずっと続くとしたら仕事をする気力を失い、人生を考える気持ちも起こらないかもしれません。空腹感を満たすことだけを考えるようになってしまうというのです。現地の子どもたちは、空腹でも、少しでも元気があれば遊ぶそうです。子どもたちが遊ばなくなったら、本当に飢餓状態だそうです。神様は素直な子どもたちの心に、人生を楽しむことを本能的に与えておられるということではないでしょうか。しかし大人の場合「あれがない、これがない」と言って、幸せの条件を作ってしまい、今あるもので楽しむ考え方ができなくなり、欲望に捕われてしまっているのではないかと思います。何もなければないなりに人生を楽しむ、これが人生を与えられたことへの神への感謝のしかただと思います。いかがでしょうか。こういう考え方こそ「きよい心」「正しい良心」「偽りのない信仰」を内側に持っているのではないでしょうか。
アフリカの飢餓の地域に飢餓対策機構の支援で建てられた学校では、毎朝子どもたちに食事を出すそうです。朝食をとって来られるような家庭はなく、栄養を与えなければ勉強に集中できないからです。ある女の子が朝出された食事を食べずに、いつの間にか姿を消していることに気付いた職員が女の子の後をつけていくと、その食事を家にいる弟や妹に分けて一緒に食べていたというのです。貧しければ貧しいほど「素直な心で家族に分かち合う」という気持ちこそ、「きよい心」「正しい良心」「偽りのない信仰」から出てくる愛ではないでしょうか。現代文化の中では「それが神の愛か」「貧しい国をどうして神は助けないのか」などと、傲慢な考え方をします。しかし現地の人はそうではありません。与えられたものを感謝し、自然を畏れる心−神に通じる信仰心を持っています。私たちは何と心が汚れて自己中心なのでしょうか。何億という財産に囲まれて、高級マンションで一生を過ごすよりも、貧しくて不衛生でも「きよい心」と「正しい良心」と「偽りのない信仰」から出てくる愛を持っている人の方が、たとえ人生が短くても、神が造られた人としてのその愛を味わえる方が幸せではないでしょうか。私はこの価値観を、クリスチャンすべての人に、持っていただきたいと思います。
ですから、今日の昼食のおわん一杯のわかめごはんを、意識的に「きよい心」「正しい良心」「偽りのない信仰」でいただくことが大切なのではないでしょうか。飢餓の地域の人のことを思い浮かべて、知っている知識を考え、わかめごはんでも食べられる幸せを一口一口かみしめながら食べると、おいしさが違ってくるかもしれません。こうして愛をもって食し、支払われた食事代のほとんどを現地に届けられることは、見えないけれど心のこもった温かいものが届けられるような気がします。見える科学の世界しか頼っていない現代人には信じられないようなことですが、心は伝わるのです。粗食を通して、貧しい人々への思いを心に抱きながら食べる心が、食事代の収益分に乗っかって飢餓対策機構の人々の手によって、現地に届けられていきます。
このようにして、今日は例えば飢餓の人々への愛を記録します。
明日からは、身近な家族への「きよい心」「正しい良心」「偽りのない信仰」をもって接していく愛を考えてみてください。
五感による肉的生活に慣れ親しんだ私たちが、この愛によって生きることは、相当エネルギーがいることですが、逆に愛を目指して生きることに慣れ親しめば、状況は逆転します。できる限り意識して、一瞬でも「きよい心」「正しい良心」「偽りのない信仰」から出てくる愛を目標として接してみましょう。最初はできなくても「目指している]という心が、私たちの間違った習慣を正しい習慣に変えていく大切なポイントです。できなかったからといって愛がないのではなく、「明日また目指してみよう。」と家事、仕事…を、「愛する者のため」という心で「きよい心」「正しい良心」「偽りのない信仰」から一度でもいいので試してみましょう。心を込めたら必ず伝わることを信じて、一日のうちのどこかでチャレンジしてみてください。
■2010年10月10日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
鉄心石腸 てっしんせきちょう up
2010.10.10
意志が鉄や石のように堅くて、容易には動かせないこと。
強く堅い精神や意志のたとえ。
彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛(アガパオ)しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛(フィレオ)することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛(アガパオ)しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛(フィレオ)することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛(フィレオ)しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛(フィレオ)しますか。」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛(フィレオ)することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。
(ヨハネ21:15〜17)
【今週のポイント】
永遠の愛の確認。
今回のテーマである「鉄心石腸」は、決意決心したことを堅く守るという、いい意味での意思決定であり、がんことは違います。ポイントにある「永遠」は、変わらないという意味でもあり、感じに頼る愛は動いても、意思決定した愛は、動かないことを表しています。
1.アガパオの愛とフィレオの愛
『アガパオ』
「わたしにとって何より大事だ」という主体的な判断と選択を表現する愛。
意味=愛する、大事にする、大事に思う、尊重する。
『フィレオ』
自然発生的な人情、友愛の情である親愛の感情からの愛を表す。
意味=友愛、親愛、〜を友として大事にする。
★両者の愛の関連を考えてみましょう。
今日のみことばには、原語のギリシャ語から、イエス様とペテロの愛についての言葉の違いを挙げてみました。神様がこの会話を聖書に残された理由をご一緒に考えてみましょう。
私たちはよく、「アガペは最高ランクの愛で、フィレオは次のランクの愛」と考えます。実際そのように学ぶこともあります。しかし「愛」というものは本当に意志だけなのでしょうか?いえ、愛は感じ取らなければならないものであり、フィレオの愛も決して軽んじるべきではありません。今日考えていただきたいことは、こういうことです。感じる愛は、感じ方によって差が出ます。ですから、「今、フィレオしています。」と言っていても、五分後には変わっているかもしれません。相手の態度如何によって変わってしまう、自然発生的な愛がフィレオですから、今自分が感じている思いを否定されるようなできごとがあれば、もうその情はわいてこないでしょう。感じる愛は、感じ方によってその価値を決めてしまうという不安定なところがあります。しかし、感じるところのない愛が存在できるものでしょうか。感情の介入する余地のない「私はあなたを愛(アガパオ)している。(無表情)」もまた冷たくさびしいものではありませんか?神様は本当に、全く感情のこもっていない愛を私たちに注がれているのでしょうか?それは何か違うと思われるはずです。
たとえば女性は男性に対して、「私を愛している?」とよく質問します。それは彼の愛情を疑っているのではなく、気持ちのこもった愛の表現をされることによって、相手からの愛を感じたいからです。男性は相手に忠実に仕えることによって愛を表現しますが、女性は直接相手に示す態度によって愛を表現する、という違いがあります。私たちは、事の優劣を決めたがるこの世の価値観がつい働いて、どちらの愛が優れているかと決めたくなりますが、どちらも大切なものであり、順位などあろうはずもないのです。私(辻師)としては、このみことばの箇所はアガペとフィレオの優劣を表しているのではなく、深くつながりを持っているこの2つのことばの関係性を思いみて欲しかったから記されている、と考えます。意志決定されたアガパオの愛は、フィレオという情愛を加えることによって完成されるのです。男と女が、結婚によって二人で一人になるように、アガパオとフィレオは元々一つなのです。気持ちが弱い愛はダメになってしまいますし、意志決定の弱い愛も同様に続きません。強い意志決定と、強い感情、両方とも欠かすことのできないこの「愛」というものについて、もっとよく考え、思い巡らせてみてください。
2.イエス様の思いとペテロの思い
A)イエス様の質問は「愛しているか」ではなく「愛するか」である「将来、どんなことがあってもアガパオするか」という質問。
B)ペテロはフィレオすることを強調した。熱情をもって一心に愛することを強調している。
もし男性が、フィレオを求めている女性に対して、「アガパオの愛で愛しているんだ。」と極めて冷静に言い放ったとしたら、女性は傷つくはずです。また反対に男性がアガパオでの応答を求めているのに、女性の方は「そんな冷たいのじゃなくて、フィレオの愛で愛しているのよ!」と感情いっぱいに叫んだとしたら、どうでしょうか。
ペテロは感情的な人でした。そんな彼にはフィレオはふさわしい表現だったのでしょう。しかしイエス様は彼のことをよく知っておられたからこそ、「アガパオ」を使われたのです。彼の熱情が、強固な意志によって支えられていることを確認するために、質問は繰り返されました。同じ質問が繰り返されれば、人は自分が疑われている、信用されてない、と感じ始めるものです。その質問に同じ回答で応えるためには、意志の力が働く必要があり、どれほど強固な意志が働いているかを確認できるのです。さらに3回目の質問が「フィレオするか?」であることによって、感情が過ぎ去ってもなお、意志的に愛を表現するアガパオの支えを見ることができます。愛を感じてもらうためには感情表現が必要ですが、その感情がたとえ冷めてしまっても、意志をもって感情を沸き立たせていくのが、愛の本当のかたちなのです。そしてこれが神の愛です。
愛せるはずもない罪人を、神ご自身が愛を沸き立たせて、人の姿で地上に来られ、罪の贖いとしての苦しみを、ご自身で受けられました。「鉄心石腸」の強い思いに支えられる「アガパオ」の愛を、「フィレオ」の愛によって表現されたのが、イエス様の十字架なのです。そしてこの2種類の愛は、深く密接につながっています。感情的なものは間違うこともあります。しかし、感情は大事なものなのです。ですから、アガパオという、意志力の強い主体的な判断で変化していかないようにフィレオを保っていくのが大切です。ここに私たちのかっとうが起こります。冷めてしまった感情を沸き立たせる時のかっとうです。現代での離婚のほとんどは、自然消滅してしまった感情を再び奮い起こさせることをしないために起こっています。情がなくなれば結婚に意味はない、と言うのです。あるいは義理のような結婚生活を続けることもあるでしょう。しかし、意志も情も、どちらも必要不可欠です。ただし、正しいかたちはあります。強い意志決定という土台の上に、感情を乗せるのです。感情を土台にしたら、変化してしまう感情に合わせて意志を決定することになってしまい、いつも不安定に揺れ動くことになります。土台を逆転させないように、私たちはセルフコントロールする必要があります。「自分自身を愛するように、自分の妻を愛しなさい」とみことばにありますが、それは自分の体を健康に保つためにいろんな計画を持ち、体をケアするように、自分の妻もアガパオしなさいという意味です。大事にお世話しなさい、ということですね。
【敬聴と適用】
イエス様は、同じように質問される。「わたしを愛するか」
フィレオは今現在の心情を表すことが多いことばです。なぜなら感覚はいつも「今」を捉えるものだからです。ペテロの場合は、何度も質問されることによって、変わらない意志決定があることが確認されましたが、もし自分だったらどう答えるだろうか、と考えてみてください。愛は意志決定から始まるのだ、ということに気付くまで、イエス様の質問は繰り返されます。神様はイエス様を通し、聖霊様を通して、いつも愛に目覚めているように、と私たちに語っておられます。
■2010年10月3日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
教外別伝 きょうげべつでん up
2010.10.3
悟りは言葉や文字で伝えられるものではなく、
直接心から心へと伝えるものであるということ。
わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか。そのとき、暁のようにあなたの光がさしいで、あなたの傷はすみやかにいやされる。あなたの義はあなたの前に進み、主の栄光が、あなたのしんがりとなられる。そのとき、あなたが呼ぶと、主は答え、あなたが叫ぶと、「わたしはここにいる。」と仰せられる。もし、あなたの中から、くびきを除き、うしろ指をさすことや、つまらないおしゃべりを除き、飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら、あなたの光は、やみの中に輝き上り、あなたの暗やみは、真昼のようになる。
(イザヤ58:6〜10)
ことばや文字以外でも、伝える方法があります。悟りを持っている人は、物事の道理をわきまえ、それが身に付いて、その中に生きることができる人です。ただの知識だけなら、それを実行することはできませんが、悟っている人は行動に移すことができます。
「愛」は、頭で理解して気付いただけでは不十分です。それは心から心に伝えられていくものなのです。
1.心から心へと伝える(イザヤ58:6〜10) 前頁参照
A)みこころにかなう断食
神様に喜ばれる断食と、喜ばれない断食があります。自分の願いをかなえて欲しいと、断食によって、神様に強く訴え迫っていくのは、少しずれていないでしょうか。これは自己中心的な断食の仕方です。確かに私たちは、何か問題があったり困っている時、断食をすることがあります。それ自体は悪くありませんが、その思いが強すぎて、断食したから願いはかなう、というように、断食を、願いをかなえるための手段としてしまうなら、それは間違った方向にいくことになるでしょう。これは喜ばれない断食です。
神に喜ばれる断食は、利己的動機でなく、隣人愛を動機とするものです。イエス様がたとえで語られた「良きサマリヤ人」の話が、隣人愛についてのものです。困っている人のそばを通り過ぎるのではなく、手を差し出して助けるのが隣人愛です。この愛を追い求めていくなら、そのために断食するようになるでしょう。つまり、大切なのは食べるか食べないかではなく、誰のために、何のために身を悩まし、神に近づいているかです。
B)本来の断食
(1)「悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くこと」
罪を犯す者は罪の奴隷であると、イエス様は語られました。クリスチャンである私たちは、罪をやめたくてもやめられないで苦しんでいる人たちのために、心を痛め、とりなして祈っていく断食があります。
(2)「飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすること」
自立した生活ができない人たちのために、手を差し伸べ、助けるのも断食の形です。ただ助けるだけでなく、『あなたのパンを分け与える』ということが大切です。自分の身を削って、自分自身犠牲を払って、困っている人を助けたことがあるでしょうか。自分の食費を削ってまでして、募金したことがあるでしょうか。
(3)「あなたの中から、くびきを除き、うしろ指をさすことや、つまらないおしゃべりを除き、飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させる こと」
今度は「あなたの内にあるくびきを除く」ことです。私たちは何かに縛られています。自分の「主観」という律法をもって、自分自身を縛っていないでしょうか。そして、その自分の律法、ルールに相手をも縛ろうとしていないでしょうか。自分のルールに相手が従わない時に相手を裁き、罰してしまうのです。人をコントロールしようという高慢なくびきに、自分自身が縛られていないか、考えてみましょう。「うしろ指をさしたり、つまらないおしゃべり」をするというのは、「自己中心」を表しています。物事を自分中心に考え、量っていくのは自己中心です。これを捨てるには大変な葛藤があり、さらに自己管理が必要になってきます。健全な自分を保つために自己管理することも、神の前に喜ばれる断食です。
こういった神に喜ばれる断食をしている人は「暁のようにあなたの光がさしいで」ます。それは本来あるべき姿、神によって造られたあなたの神の子としての姿が現れてくる、ということです。そして、「あなたの傷はすみやかにいやされ」ます。あなた自身のいやしのためではなく、他の人のために心を砕き、祈り求め、身を悩まし、時間を使い、金銭を使い…としているうちに、あなた自身の傷もすみやかにいやされるのです。
最近、海外の貧しい国に若者たちをボランティアとして連れて行き、その人々と共に暮らし、作業することで、更生に導くという働きがあります。貧しい人々と暮らすうちに、いかに日本で自分が恵まれているかに気づき、心が変えられていくのです。それは、相手に愛を注ぎ、助けていくことで、かえって自分も心がいやされていくという体験です。
願いがなぜ聞かれないのか…と思われているなら、はたして自分は神の喜ばれる断食をしているかどうか、思い巡らせてください。神に喜ばれる断食とは、「自分を愛するように、隣人を愛する」ということです。
【敬聴と適用】
「ともかく愛してみましょう。」神は愛であり、真実な愛のあるところに神はおられます。この愛を実践していくなら、あなた自身の心に大きな変化が起こされてきます。「感情的な愛」ではなく、たとえ許せないような人であっても、「ともかく愛していこう」と心に決め、愛を実践していきましょう。そうするなら、神の愛があなた自身の心に伝わり、あなたは自分自身の心が変えられていく体験をすることになります。
〜例〜
大切なお客様を迎えに車で駅に行った時、幸いにも目の前で駐車していた車が出てくれて、すぐに車を止めることができました。しかし、ゲストを乗せていざ車を出そうとバックにギアを入れた時、私の車が出ることを察知した他の車が、急接近してきました。バックミラーで見ると、「早く出せ」と言わんばかりに、中年女性が運転席からにらんでいます。しかし、バックするにはこの人の車が接近しすぎていて、バックしようがありません。相手はそういったことに気付く様子はなく、ただただ「早く出せ」とにらんでいます。思わずカッとしてしまい、「何してんの…」とつぶやいてしまいました。あっ!牧師としてふさわしくないことをつぶやいてしまった
と思うのですが、感情は揺さぶられ、怒りが込み上げてきます。こういう時、人間は自分の思い通りにいかないという怒りが出やすいものです。自分の良心ではいけないと思っているのに、肉は怒りと自己中心が出てきます。この時、膠着(こうちゃく)状態に気付いたガードマンが来てくださり、うまく誘導してくれて助かりました。
こういう「自分は正しいのに…」という時、私たちは自己義が出てきて、相手を動かそうとしてしまいます。しかしこれは愛ではありません。もし神が、私たちと同じようにご自身の義を主張して、私たち罪人を動かそうとされたら、一体どうなってしまうでしょうか。神は愛をもって、私たち罪人の自己中心を知りながらも、まず私たちを罪の縄目から解放するために、ご自身が犠牲を払ってくださいました。もし私が愛の思いで行動したなら、まず自分からへりくだって車を降りて、「すみません、バックしたいのですが、もう少し下がっていただけないでしょうか?」とその運転手に言えたかもしれません。神はまずご自身から、罪人である私たちのもとに来てくださったのですから。
このことを通して、「愛を追い求める」ことを教えられました。そのために、自己管理をしないとなりません。これは本当に難しいことです。しかし神はしてくださったのです。神の愛に気付きもせず、自分勝手に歩んでいた私たちのために、十字架で血を流してくださったのです。
2.私たちに伝えられた神の愛(ローマ5:8)
“しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。”
神は、私たちが悔い改める前に赦して、罪のあがないのための苦しみを、十字架で受けてくださいました。
【内容観察】
キリストが十字架で、私たちの罪のために死んでくださった。これが神様の断食です。愛に飢え、真理に飢え、迷っている私たち。罪の奴隷となり、縛られている私たち。自己中心の私たち。そんな私たちに、まことのいのちのパン、いのちのことばを与えてくださったのです。
神はご自分の身を切って、犠牲にして、私たちを助けてくださいました。これが愛の断食です。隣人のために、あなたも自分のもっているものを差し出し、自分も苦しいと思うことが断食です。苦しいとも思わない助けは、断食ではありません。自分自身や家族のためになら、できるかもしれません。しかし、あなたにとってあまり好ましくない相手、あるいは全くの他人のために、私たちはどれだけ犠牲を払えるでしょうか。自分を苦しめて、兄弟姉妹のために尽くしていく…本当に大変です。
アガペの愛は、感情でなく意志です。試され、気付かされます。ともかく愛を追い求めていきましょう。
■2010年9月26日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
彊食自愛 きょうしょくじあい up 2010.9.26
つとめて飲食し、からだを大事にすること。
そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。
(エペソ5:28〜29)
先週一週間、「アガペーの愛を追い求める」という目標を、どういう形で実践されてきたでしょうか。今日は更に具体的に、「愛を追い求める」ということを考えていきたいと思います。「アガペーの愛を追い求めるにあたって、自己管理から始める」という今週のポイントを、「彊食自愛(つとめて飲食し、からだを大事にすること。)という四字熟語で表しました。「彊」は「強」の古い形で、「つとめて」とは、健康管理のために、気分で食事したりしなかったりするのではなく、食事内容を考え、きちんと時間を決めて、規則正しい食生活をするということです。このことからアガペーの愛の実践の基礎作りがされていくことを、皆さんに知っていただきたいと思います。
1.「愛する」ことについて(エペソ5:28〜29)
“そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。”
聖書には、ギリシャ語辞典から「愛」について二つの言葉が使われています。
『agapao』=「私にとって何より大事だ」という主体的な判断と選択を表現する。
意味=愛する、大事にする、大事に思う、尊重する。
感情によって左右されず、意思決定が強く表れ、変えないということです。
『philia』=自然発生的な人情、友情の情である親愛の感情からの愛を表す。
意味=友愛、親愛、〜を友として大事にする。
精神的な感情面が主体となった愛。直感的なもの。
〔聖書において「agapao」は、神が、私たちを愛しておられる「愛」に 使用され、「philia」は、神の愛と人間の愛とを区別するかのように使 われているという特徴がある。〕
この「agapao」が、聖書には愛ということばに合わされて書かれています。そこで「まず人を愛する前に、自分のからだをアガパオしているだろうか。」というところから「愛する」ことを考えてみましょう。
神はパウロを通して、妻への愛し方を「自分のからだのように愛する」と表現しています。あなたは自分のからだをアガパオしていますか。食欲がなくても、意志力を優先させ食事をとるのは、体の健康維持のため、体を弱らせないための決断です。
今日のポイントは、妻を愛する前にまず自分のからだを大事にしているだろうか、ということです。この世界は、五感に頼る考え方が支配しているので、クリスチャンも、感覚的に健康管理をしている可能性が高いのです。人から勧められたり宣伝されたものに片っ端から飛びついていくのは、主体性はなく、フィレオの愛です。管理は強い意志力を働かせて最善を尽くす必要があります。「神様、まだまだ感情的な私をアガパオの愛で自分の健康管理ができるように強くしてください」と、神様への信仰を働かせていくことが大事です。
「愛(アガパオ)を追い求めなさい」とは、まだまだ意志力が弱く決断をもって愛していくことができないからこそ、それを求めていき、もっと良いことに強く決断して実行していきたい、弱いからこそ求めていくということです。
体も同じです。食べ物に限らず、日常生活での時間の使い方を考え、精神的な安定をもたらすものを求めて、体の健全さを追求するように「愛を追い求めなさい」と、私たちに教えてくださっているのではないでしょうか。それは養い育てるということです。ですから食事をとるのも私たちの意志によります。
「意思決定をする・選択をする」というのは、自由意志が与えられている人格者の特徴です。好き嫌いではなく最善を選ぶことができる選択能力のことです。人間は自由意志の中で、愚かなものも優れたものも選べる能力が与えられており、それは愛を追い求めていると同じ性格のものです。愛も、愚かな愛でも優れた愛でも求めることができます。それを選ぶのはあなた、ということです。あなたは、追い求めれば優れた愛を手に入れることができるのです。「愛を追い求めなさい」とは、「もっとすばらしい良い愛を、神が持っておられるほどの愛を身につけましょう」と勧めておられるのではないでしょうか。
「愛は人の徳を建てる」とは、愛する相手のことを思って「良いものを選んでいく」という愛し方であり、相手の成長のために良いものを提供していき、愛するというのがアガパオの愛です。これは自己管理から始めることができ、愛を追い求めるヒントになるのではないでしょうか。
「愛を追い求める」というのは感情的なものではなく、計画的に更に優れた愛へと自分の生活を進めていくことが必要です。妻を愛するにも感情的なものでなく、相手をよく観察し、性格と価値観をよく理解し、どうしたら心傷つくことなく励まし、コミュニケーションを持つことができるだろうかと計画的な準備が必要です。これほど自分を大事に思ってくれていると相手が理解したら、良いコミュニケーションを持つことができるようになります。自己管理ができる人はアガパオの愛をもって妻を愛し、家族を愛し、隣人を愛していくことができます。単にかわいそうだと言って感情的に物を与えるという愛よりも、今与えるべきかどうか判断し、完成品を与えるより「働く、生産する」ことも考えて与えるのがアガパオの愛です。
ボリビアに駐在されている国際飢餓対策機構のスタッフは、仕事の仕方を教えたり、近代建築の土台から教えたりして、生産性のある生活を学ぶこともプログラムの中に含めているそうです。フィレオの愛はあわれみの感情で与えるだけに終わってしまいます。飢餓対策機構は、現地の人々が将来自立し、他の人を助けることができるようになるようにと、隣人愛を実行している団体です。
私たちも、その場限りのあわれみの感情だけでなく、それを計画性のあるアガパオの愛をもって、その人のための愛の注ぎ方を考えることが大切ではないでしょうか。こういう愛を私たちの生活に習慣づけるため、自分の体を愛する自己管理から始めていかれたらいかがでしょうか。
2.『自己管理の大切さ』について(第1コリント6:19)
“あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。”
この体は私のものではなく、神がご自分の霊を住まわせるため買い取ってくださったのです。この体のオーナーは神様です。中古品の私たちの体を、神様は聖霊様が住み良いようにリフォームしてくださったのです。それを今までのように、自分勝手な使い方をするのではなく、買い取ってくださった方が使いやすいように管理することが必要です。自分のためには面倒くさくても、愛する人のためだとその要求に応えていくことを生き甲斐とします。愛する方がおられるからこそ、奥樣方は労苦を惜しまずに料理をされるのです。私たちも、愛する者のためには自己管理をきちんとしていくのではないでしょうか。自分の妻のため、家族のため、何よりも神様のために自己管理、健康管理をするのは、私たちの内に心から尊敬する大事な神の霊(御霊)が住まわれているからです。どうぞ、愛する方のために健康管理をし、自分の生活を少しずつ改善してみられてはいかがでしょうか。自分の益をもたらすために何かを行っていると、むなしくなり、期待を裏切られると怒りに燃えてしまい、関係が悪くなっていきかねません。しかし、アガパオの愛は期待通りのものが返ってこなくても、それによって変わったりしません。何が起ころうとも愛し続けるものです。相手が変化しようと変わらず愛していくのがアガパオの愛であり、その愛によって相手も良くなっていきます。そういう愛を私たちはまず神様からいただきました。そして、その愛を互いに分かち合うようにというのが、神様の唯一の戒めであり、ここから私たちの社会生活が成り立っていくことを神は、聖書を通して願いとして語っておられるのではないでしょうか。
今週も自己管理を通して人を愛していくということを、自分で訓練していかれたらいかがでしょうか。
■2010年9月19日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
要追求愛 ようついきゅうあい up
2010.9.19
アガペーの愛である神の愛を、熱烈に、何があってもあきらめずに追い求める。
愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。
(第1コリント14:1)
みことばの教えというものは、週ごとに変化しているわけではなく、基本的にずっと続けていくものですが、今週のおことばは特に生涯永遠に追求していっていただきたいと願っています。今週のみことばの冒頭にある「愛を追い求めなさい」が、今週のポイントです。
1.「愛を追い求めなさい」の詳細
A)ギリシャ語より
『愛』⇒神の愛
ギリシャ語での愛には3種類の言葉があります。五感による感覚的愛の表現には「エロス」、精神的、感情的愛の表現には「フィレオ」、強い意志的な愛の表現(今は神の愛を表しています)には、「アガペ」が使われています。
『追う』⇒追いかける、迫害する、追い求める、急ぎ走る
この言葉には内面的心の状態が含まれています。追うための強い心の動機があるのです。
『求める』⇒熱心に燃える、熱心に慕う、ねたむ、嫉妬する
内側から湧き上がる熱烈な情熱を表す言葉が使われています。+に働けば前の2つの言葉、−に働けば後ろの2つの言葉になります。それは押さえることのできないほど激しいものであることが、原語からわかります。
B)漢字より(中国語聖書)
『要』⇒細くしまった腰を表しているところから、物事をしめくくる、しめつけてしぼりだす、(非常に重要なものを)求めるという意。
『追』⇒先に行くもののあとを追う。ルートをたどって追いかける。
『求』⇒散らないように、また逃げないように引き締める。自分のものにしようとする。求める。
『愛』⇒いとおしむ、かわいくてせつなくなる。めでる、好きでたまらなくなる。良いと思って楽しむ。
漢字についてくわしく書いてある辞書を引くと、『愛』という字は(心がせつなく、胸が詰まり、足もそぞろに前に進まない様子)の人の姿を表しているそうです。
皆さんも、一語一語の意味を、詳しく自分なりの言葉で捉えながら、このみことばの意味を自分なりに表現してみてください。理解力の大きな助けになるはずです。
2.『神の愛』について(第1コリント13:1〜3)
“たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
私たちが愛を実際にも留め続けるためには、愛を求める動機が必要です。その動機づけの参考にするために、ダビデに登場してもらってたとえ話をしましょう。
〔例話〕
ダビデは王になるまで、初代王のサウルから逃げ続ける逃亡者だった。洞穴から洞穴へと隠れ続ける毎日。ある時、執拗なサウルの追っ手から隠れようとした洞穴には、クモが巣を張り始めていた。実はダビデはクモが嫌いだった。暗い場所で巣を張っては獲物を食い散らかすクモが、どうにも汚らしく見えて好きになれなかったのだ。クモに触りたくなかったダビデは、クモを避けて慎重に洞穴の奥に進んだ。はたしてサウルの兵たちがやって来たが、ダビデが隠れた洞穴はちらっと見ただけで通り過ぎてしまった。クモがきれいに巣を張っていたからである。「この穴に入るにはクモの巣を壊さなければ進めないはず。だからここにはいない。」と、兵たちは判断したのだった。ダビデにとって汚らしい忌むべき存在であったクモが、結果的にダビデを救った。
また、ダビデがサウル王の剣をこっそり奪って、自分はサウル王を倒せるが倒さないと意思表示し、サウル王の考えを改めてもらおうと考えた作戦の夜のことである。敵陣に忍び込み、サウル王の天幕までたどり着いたダビデではあったが、王の剣はサウルの足の下にあり、しかも寝返り一つうたないときている。このままでは見張りが来てしまう、この作戦は失敗かとダビデが思い始めたころ、一匹の蚊が王の天幕に忍び込んで来た。そして、サウルの足にぴたっと止まり、血を吸い始めたではないか。数秒後、サウル王の足は動き、ダビデはみごと剣を手に入れ、自分のすみかへと戻ることができた。作戦成功である。一匹の小さな蚊が、ダビデを救ったのだ。
これらのことからダビデは悟った。神の造られたものに無駄なものは何一つない。全部役立つものばかりだと。自分にとってはつまらない、イヤなものであっても、神の目からすれば役立つものなのだ。
これらのことを踏まえて、ダビデが王になった後は、平和のうちに愛のうちに情け深く国を治めることができた、という話です。
私たちも、自分からすれば取るに足らない、つまらないと思っているものが、自分の人生の基点に関わる大きな意味を持つことがあるのです。
一口に愛を追い求めるといっても、動機が湧いて来なければ続けることはできません。熱烈な思いをもって情熱的に、などと言っても、そう簡単にできるものではありません。神の愛があなたにとってどれほどの価値があるのかに気付いていかなければ、できるはずもないのです。実際、今聞いたことを実行できる人がどれくらいいるでしょうか。特別な能力も、たくさんの財産も、愛がなければ単なる雑音となり、何の値うちもないものとなり、役に立たないものとなってしまうほど、愛というものは私たちの生活に関わりをもっています。この1%がなければ残りの99%が全部ダメになってしまうほどの、大事な中核なのです。この愛というものが何なのか興味を持ち、調べ始めてください。そこから動機付けが始まります。
3.『神の愛』の実践(第1ヨハネ4:7〜10)
参考(ヨハネ13:34)
“愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。”
上の学びと共に実践していきましょう。世の中にはやってみないとわからないことが山ほどあります。ある動物園について朝から晩まで調べ尽くしたとしても、次の日その動物園に「行って来た」と言う人は皆無のはずです。実際に足を運び、良さを知るためには更に何度も訪れるでしょう。愛も、一度で全部知ることなどとてもできません。愛がどんなに大切で奥深いものかは、まず愛し合うことから実践し、身をもって知っていくしかないのです。これはメッセージを聞いた回数や教会に来ている期間などとは全く関係ありません。オリンピックを目指す選手は一日何時間、練習に費やすのでしょうか。どれほど練習しても大会に出ることのできない選手もいる中で、上位に入る選手ほど謙虚です。愛も毎日が経験、体験です。大事な私たちの人生における、追求すべきものです。もし日曜日以外に愛を実践していないなら、他の時間は全部無駄になります。としたら、現在の私たちはなんと怠けていることでしょう。聖書を読む、祈るなどは確かに神を愛することです。しかし、目に見える兄弟を愛さない者が、目に見えない神を愛するなど不可能です。私たちが思う愛は、結局、自分の思い通りにしたい、という自己中心ではないでしょうか。人を、物事を、自分の思い通りに従わせたいのです。しかし、アガペの愛はまず「汝価値ありき」と、相手をそのまま受け入れ、価値があることを認めます。相手の反応や様子で意志を変えることはありません。
結婚式で、花婿は花嫁を「私の愛する人」として誓います。一緒に暮らすうちに相手の欠点が見えてきて恋情は冷めても、「この人を愛する」という意志決定は変わることがありません。神様は、ご自分にとって愛する価値の一片もない罪人の私たちを「わたしの目には、あなたは高価で尊い」と価値づけられました。神様は決めつけられて意思決定されたのです。そしてこの方はご自分の決められたことを決して変えられません。これが神の愛です。
私たちはまず神の家族として、クリスチャン同士「○○兄弟」、「○○姉妹」を愛します、と決意して愛し始めましょう。これが始まりです。最初は、愛しやすい人からでいいのです。愛していった相手の受け入れがたい面を見た時、「愛を追い求めなさい」ということばが生きてきます。追い求めていけば、神様の愛に触れることができるからです。「ここは嫌いだけど、この兄弟(姉妹)は私の家族」と受け入れる時、内側にいろんな思いや葛藤が起きます。その中で愛とは何かを問う時、神の愛がわかってきます。ですから皆さん、互いに愛し合いましょう。
気をつけないと、人というものは「今聞いたじゃないか。なぜできないのか。」と自分を棚に上げて、周りの人を裁いてしまう愚かさがあります。この時、一番人を愛していないのは、裁いている本人なのですが。本来なすべきなのは、周りができていないなら、その時に自分が愛を実行することです。周りに変化を要求するのではなく「私がもっと愛を表していこう」と、心が燃えるのがアガペの愛です。神様は思い通りにならない私たちを見て、逆に心が燃える方です。「ああ、まだ十分に愛が伝わってない。よし今度はこうしてみよう。」と。これが神の愛なのです。私たちなら「この人はもうダメだな。」と冷えてしまうところですね。あきらめないことは辛く苦しいのですが、イエス様が、罪人を愛し、赦された苦しみを知ることができます。それほどに熱烈な愛が私たちに向けられている、と身をもって感じていく時に、相手の人を「この人はとても大事な人なんだなあ」とわかってきます。これは繰り返し繰り返し実践していって学ぶべきことだと、「互いに愛し合いなさい」ということばをもってヨハネは勧めています。
今日から私たちもできうる限り、「愛を追い求めなさい」のことばを心にしっかりと刻んで、まずは愛しやすい人から愛を注いでみようではありませんか。おそらくどんなに愛しやすい相手でも、完璧には愛せませんが、まずはそこからです。だんだん愛が分かってきて、触れてきて成長していくと、赦せない人を赦せるようになってきます。イヤな役に立たないと思われるような虫やクモでも、ダビデの命を救う存在になったということの意味がわかってきます。あの赦せない姑が、自分の永遠のいのちへの道しるべとなってくださったと思えるように変わるのが、愛に触れられた者の応答ではないでしょうか。
時間はかかるでしょう。どんな一流選手でも一朝一夕にできるものではありません。神様の愛は一流の愛です。それを相続することができるようにと、私たちは神の姿に似せて造られました。唯一この愛を持つことができるようにと神が造られたのは、天使ではなく人だったのです。この愛を持つことができるために、光輝く天使たちの美しい姿ではなく、土のちりから、わざわざ私たちを造られたのです。それは愛を注ぐことができるためです。このようなことをいろいろ考えていくと、この神の愛を知るために私たちが造られたとは何とすばらしいことか、感謝できないものなど何もなく、全て感謝できる、とそういう心の目が開かれてきます。愛を追い求めましょう。
■2010年9月12日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
安車蒲輪 あんしゃほりん up
2010.9.12
老人をいたわり、手厚くもてなすこと。
私はこれを見て、心に留め、これを見て、戒めを受けた。
(箴言24:32)
「安車」は中国において、歩行が難しくなった高齢者を載せるための乗り物でした。「蒲輪」とは、がまと言う植物の穂を車輪に巻いて、振動をやわらげ、老人をいたわったということを語っています。しかし、私たちが老人をいたわるのは、弱っておられる方だけではなく、全ての高齢者、長生きされた方をいたわり、手厚くもてなすべきです。その理由を箴言から学んでいきましょう。
1.先進を見て、心に留め、戒めを受ける(箴言24:32)
“私はこれを見て、心に留め、これを見て、戒めを受けた。”
先進=年齢、学芸、地位、経験などが他より先に進んでいる人のこと。
箴言の筆者は、ある畑に目を留めました。(箴言24:30〜31)
“私は、なまけ者の畑と、思慮に欠けている者のぶどう畑のそばを、通った。すると、いばらが一面に生え、いらくさが地面をおおい、その石垣はこわれていた。”
私たちなら、気にもせず通り過ぎたかもしれないその光景が、ある人には戒めを受け取るための大事な場面になりうるのです。私たちは、良い結果をおさめた人の人生には自然に注目します。しかし社会的にはうまくいかなかった、失敗したと思われる人生でも、反面教師として学ぶべきものはあるのです。
例えば、自分に対して害を加えたり、敵対する人であっても、その人生から学べる所は必ずあります。どんな人の人生でも、です。 その人を見て、自分を戒めるための何かを見いだしてください。口先だけで高齢者の方を敬うのではなく、その人の人生と真剣に向き合い、自分が学び取るべきところを見つけていきましょう。
私(辻師)の祖父や父は封建的な社会で育ったために、家庭で強権を振るい、家族に対してわがままでした。女性たちはそれに従順に従い、私はその中で育ってきました。高齢者のわがままはみにくいものです。自分の祖父がしていることを見て私は、「ああいうおじいちゃんにはなりたくない」と思いました。これが、自分を戒めることのできる一つの要因になりました。しかし、反面教師としての祖父の存在に心から感謝できるようになったのは、クリスチャンになってからです。「おじいさんのようになりたくない」と裁いている、自分のみにくさに気付かされました。牧師になり、たくさんの人の人生を見て、聞くようになってからはなおさらでした。
いろんな環境やその人なりの判断などが重なって、現在があるのです。人に迷惑をかけていても、自分のことで精一杯で、周りの迷惑を思い見る余裕のない人もいます。私は小さい頃に祖父のわがままを見ることによって、物の見方に幅ができたのだと、後になって気付きました。それは、逃げることのできない身内の立場だったからこそ、教えられたのだということができます。
傷つけられることの痛み、わがままによって周囲の人がどんなに悲しむかを、自身の体験をもって知ることができたのは、将来牧師職に就くことを見越した、まさに神様の采配のなせるわざです。そしてこのように、人々の心に共感できる、思いみることのできる自分になれたのは、他ならぬ祖父のおかげであると、今は心から思うことができるのです。本当に感謝です。こんなふうに物事をとらえるようになると、たとえば私(辻師)が小3の時、勉強嫌いになった原因をつくった担任の先生も、私がイエス様のもとに来るきっかけをつくってくれた人なのですから、感謝な存在なのです。この視点で物事を見れば、神様がいかにみごとに、時と場所と人を配置されているかがよくわかり、感謝に溢れることができます。さらに、良い人悪い人など関係なく、「全ては私のために備えてくださったのだ」と前向きに受けとめることができます。
これが「心に留め、戒めを受けた」状態であって、金銭に換えることのできない、大事なものなのです。
2.正しく心に留め、戒めを受けるために(ヘブル9:14)
“まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。”
反対から言えば、良心がきよめられなければ、死んだ行いから離れ、生ける神に仕える者となることはできないと言えます。
死んだ行い⇒ものの見方が自己中心的であり、被害者意識を持つ。
自分にとって不利だったと思われるものすべてを、言い訳の理由にせず、感謝できるもの、学ぶべき事柄を与えてくれたものとして受け止められるかどうか、ご自分の心に尋ねてみてください。例えば、親が離婚したために片親で育って苦労した人は、自分の子ども時代のような悲しいつらい思いをわが子にさせないためには、どういうふうに結婚生活を送ったらいいかを考えることができるはずです。自分の両親を反面教師として学んでいれば、絶対離婚にならない夫婦関係を築くことができるのです。それなのに「結婚しなければいい」とか、「子どもは欲しくない」とか思うのは、良心がきよめられていないからです。
この良心は、イエス様の血潮のみがきよめることをおできになります。イエス様は人類を救うための神様のご計画をなぜ受け入れられたのでしょうか。私たちを愛されたのもあるでしょう。しかし、何よりも、このご計画をお立てになった御父を、イエス様は愛しておられたのです。「神におささげになったその血」とは、御父を愛する愛の血潮なのです。その証拠に、イエス様のご生涯は、御父への愛に留まる生涯であられました。私たちを愛してくださったのも父なる神の愛のすばらしさを知っておられたがゆえに、その愛に学ばれたのです。
私たちもイエス様の愛のすばらしさに気付けば、その愛の内を歩みたいと思うのです。それは、妻が夫の愛の中に共に暮らしたいと願うのと同じ気持ちです。人は誰でも、すばらしい愛に出会えば、その愛を大事にして、その愛の内を歩みたいと願うものです。この世ではそんなすばらしい愛に出会うチャンスは少ないでしょう。物質で手軽に自分の心をごまかせてしまうので、お互いをいたわりあう関係になりにくいのです。夫婦でさえ、自分の欲望を満たすための手段としてしか相手を見ないこともままあります。自分が関わる相手のすばらしさをどこに見いだすのでしょうか。夫の自分への愛のすばらしさに気付いた妻は、他のものに目移りすることはありませんし、妻が自分に向ける尊敬の眼差しに気付いた夫は、それから離れたいとは思わないはずです。他のものに心が移るのは、愛によって量っていないからです。自分の思い通りになる相手としか見ていないのです。愛はそんなものではありません。
私たちも自分の心に注意しないと、口では神への愛を言いながら実は計算高く自分の利益を図るような関わり方をしているかもしれません。良心がきよめられていかないといけません。ではこの良心にきよめが与えられるために、神の愛に触れるにはどうしたら良いでしょうか。礼拝の中で、神の愛に触れることができます。礼拝で神のご臨在に満たされた中で、直接神様から、愛されていると、その愛の大きさを感じることができます。礼拝とはもともと主人である王に対して、家臣たちが忠誠と賛美をささげることです。私たちにとって愛するとは、あがめ、礼拝し、服従することです。自分を委ねることです。礼拝は愛することの最高の表現であり、何かを得るための儀式ではありません。「あなたのためなら、私はなんでもします」との意思表明です。それほどに神の愛に感激したということです。だから、信頼して自分を預けることができるのです。礼拝は最も深い愛の表れであると言い換えることもできるでしょう。
もちろん私たちが、最初からそんな完璧な礼拝をささげることなど無理な話ですが、それでも神様が私たちに触れてくださる時に、イエス様の血潮により、神様のきよい愛が私たちに注がれます。
〔例話〕
仲の良い兄弟が、母の遺言内容をお互い取り違えたために、もう二度と顔も見たくないと言うほどに仲違いした。そして別々に、あるラビ(ユダヤ教の教師)にアドバイスをもらいに行った。ラビは彼らを仲直りさせようとして、ある集まりに招いた。二人は集まりの場にお互いの顔を見つけて非常に不愉快であったが、主人の顔に泥を塗るわけにもいかないので、あえてそこに留まった。ラビはそこで一つの物語を話し始めた。
「仲の良い兄弟がいた。兄は結婚して子を授かったが、弟は独身であった。ある日、父が急死して、二人は遺産を半分に分けた。しかしその後弟は考えた。『兄には家族がいるのだから、私にはこの遺産は多すぎる。』弟は自分の受け取り分を、夜こっそり兄の納屋に入れておいた。反対に兄は高考えていた。『自分には家族がいるから、もう老後の心配はない。しかし弟は一人なのだから、老後を支えるための財産が必要だ。』兄も夜中こっそりと、弟の納屋に自分の受け取り分を置いた。
翌朝二人は自分の納屋を見て驚き、お互いの気持ちを察した『でもやっぱりあげよう。』と夜中のやり取りは何回も繰り返されたが、ついにある夜二人は出会った。お互いの心を分かち合った二人は、相手の心に感動し抱き合って号泣したのだった。」
この話を聞いた仲違い中の兄弟は、強く心を打たれた。もともと彼らは本当に仲の良い兄弟だったのだから。どんなに憎んだり嫌ったりする状態にあっても、その根底では、やはりお互いを思いやる心があったのだ。母親の遺言をそれぞれ自分中心の考えで受け取ってしまったがために、彼らの良心は汚され、仲違いするほどに関係が悪くなってしまったが、ラビの話を通して真実の愛に触れることによって、きよめられたのだ。
「兄は(弟は)自分のことを心配してくれているんだ」と、相手の愛に気付くことができ、彼らは仲直りすることができた。
この兄弟の話を、私たちはイエス様のことに合わせて考える必要があります。「イエス様のことは聞きすぎて、耳にタコができた」などと思うなら、その人は良心がマヒしてはいないでしょうか。
先日来られた在原先生の恩師が最初に宣教師として派遣されたチベットでは、2年後に中国軍が侵攻し、チベットを占領してしまいました。宣教師はみな捕えられ、毎日数人ずつ射殺されていきました。恩師ご夫妻はなぜか射殺は免れたものの、真冬のチベットに追放になり、極寒の地をさまようことになったのです。しかし神の御手が現され、行く先々の村で手当を受けて、ついに香港までたどり着きました。故郷のスウェーデンに帰ることもできたのですが、神様はここで日本に行くよう示され、静岡の御殿場に導かれ、そしてそこで救われたのが在原先生なのです。恩師は日本語がほとんどできない方なので、メッセージで「神は愛です」と10分、20分と繰り返されます。神の愛に感動し、涙を流しながら、この一言を続けられるのです。この姿を見て神の愛に感動した人々が集い、教会ができたのです。神様の愛も、人から注がれる愛も、あなたはどれだけ感動を持って受け取っているでしょうか。私たちは、自分に注がれている愛を正しく受け取ることがなかなかできていないのではないでしょうか。神は愛であり、あなたを愛してくださっています。ひとり子イエス・キリストを代償にされるほどに、あなたは大事にされています。こんな大きな神の愛に包まれて、今自分がここにいるということを、その愛に涙を流せるのが、礼拝なのです。私たちもその愛を受けて、自分の人生の妨げとなったいろんな人との出会い中には許せない人もあるかもしれませんが、しかし、そのような神の愛に触れられて、良心がきよめられたなら、その許せない相手の人生を見て、認め、戒めを受けて、「ああ感謝します」と許せるように変えられるのです。これが神の愛を受けた証しです。
まだまだ物質的豊かさの中の誘惑に心動かされてしまっているところの多い私たちです。人と比べたり、競争したりしている、利害関係が心の根底にあるみにくい私たちです。それを反省しながら、「それでも私たちを愛してくださっている愛なる神様」に本当に涙を流せるくらい、神様を知っていきたいですね。一朝一夕にはできなくても、行いによるのではなく、礼拝していくことによってです礼拝、それが神様の愛に触れる一番の近道なのですから。
■2010年9月5日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
聖化保持 せいかほじ up
2010.9.5
きよめられることを求める建徳の生活は、永遠のいのちに至る。
しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。
(ローマ6:22)
【今週のポイント】
互いに重荷を負い合うことが、互いに徳を高める聖なる生活である。
永遠のいのちとは何か、という質問に対して、(ヨハネ17:3)では、御父と、御父が遣わされた御子イエス・キリストを知ることであると語られています。いのちとは、神様から私たちへのメッセージであり、生活という意味も含まれています。人が造られた目的に従って日々を生きることが、生活であり、いのちなのです。永遠のいのちとは、永遠に私たちが自分らしく暮らしていけること、ということができるでしょう。神のおことばに従って生きることは、本来あるべき自然な姿に戻ることなのです。
クリスチャン生活は、決して高い次元の特別な生活ではありません。むしろこの世界で暮らす人々の方が、変わった珍しい生活をしているのです。神様が私たちに示し、導いてくださっている生き方は、神の子として当然のことであり、宇宙や、物理的法則などを含めた全存在の中においても、正しい生き方です。この小さな世界の人々が選ぶ生き方の方が、実は少数派であり、奇妙な状態と言えます。
1.「聖潔に至る実を得る」(ローマ6:22)
“しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。”
【内容観察】
今は、救い主を信じる信仰によって罪から解放され、あわれみ深い主人である神様のものとなり、聖別する成果を持っているのです。それを保ち続けることによって、永遠の営みに至るのです。
地獄も火の池も、日々の営みが存在しない場所であり、ただ刑罰を受けるだけです。対して神の国は、神の子としての生活を営むことのできる場所なのです。私たちもそこに招かれてはいるのですが罪を持ったままでは行けないので、イエス様の十字架による贖いをいただいて、神の国に至ることのできる条件を整えていただきました。ただし、条件を守り続ける必要はあって、守り続けることによって、成果を出し、聖別する実を持つことができ、実際に神の国に入ることができます。
聖別する実とは何でしょうか。自分の生活が神の国にふさわしいものへと変えられていくための何らかの実を、私たちは与えられています。実は将来に希望を抱かせるものです。おいしい果物を食べた時、自分の家でこれを栽培できないか、と思われたことはありませんか。種は、そのおいしい果物の性質を宿しています。蒔いて育てれば、またおいしい実を食べることができます。御霊の実にも種があって、実のおいしさを味わった後、種を蒔いて育てれば、自分の内にそのおいしい実がなるのです。
聖化とは、キリストと同じ姿に変えられていくクリスチャン生活のことを指すのですが、きよめられていくための実は、御霊によって私たちの内に与えられています。実を収穫してはその種を蒔き、また実ったら収穫してその種を蒔き、という聖化の過程がそこにあります。良い農夫であられる神様は、私たちを品種改良してくださいます。ますますおいしくなるように、変えられていく方の私たちも、自分の変化を楽しんでいこうではありませんか。きよくなるのは楽しいことです。窮屈だったり苦痛なのは肉の部分であって、仕上がりが神様の姿と同じになると思えば、きよくなるのは嬉しく、楽しいことです。
この一週間、これらのことを思い巡らしながら、もっときよくなりたいと願って、日々を過ごしてください。
2.「聖化されて行く生活」(ローマ15:1〜2)
“私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。”
【内容観察】
聖別とは、キリストにつながること。それは、神の愛のうちを歩むこと。つまり、キリストの戒めである、互いに愛し合うこと。互いに愛し合うとは、互いに重荷を負い合い喜びを分かち合う建徳のこと。そのようにして互いの益となる生活をすべきである。
「自分を喜ばせるべきではない」ということばが、建徳につながっています。「喜びがある」というのは、精神的に健康な状態であることの表れです。力の弱い人が心に力を得て、荷を担うことができるために、喜びに満たされることが必要なのです。だから強い人は、弱い人が喜びに満たされることができるように、自分の力を使っていくべきです。徳が高められるとは、その人の喜びがあふれてくる状態のことです。心の強さは、喜びの度合いに比例する、と私(辻師)は思います。喜びは前向きな姿勢をもたらします。あるいは、前向きな姿勢が喜びの表れともいえるでしょう。
喜びが少ない人は、信仰における葛藤が多くあります。しかし、喜びがあれば、疲れがいやされていきます。例えば、この世界でも仕事に喜びを見い出したい人が多くいるのは、なぜでしょうか。その喜びが、困難や辛いことも乗り越えさせる精神的強さ、力の源だからです。クリスチャンにも同じことが言えます。喜びは、疲れている体さえも回復させることができます。だから聖書で「いつも喜んでいなさい。」(第1テサロニケ5:16)と書いてあります。私たちが前に向かって歩むために必要なのは、実に「喜び」なのです。
この喜びを人にもたらす、すなわち人の徳が高められるような喜びをもたらすのが、力ある人の役割です。ほめるべき所はほめ、未熟な部分は忠告しながら、相手が成長していけるように力を貸していくのです。担うとは、相手に力が湧き上がるように交わりを持つことです。
3.徳を高める(エペソ4:29)
“悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。”
「悪いことば」とは、その人の喜びの気持ちをそいでしまうような、希望を持っているその思いを打ち砕いてしまうような、そんな否定的なことばのことです。徳を養うとは、徳を立てるのと同義です。
【内容観察】
重荷を負っている人に、さらに重荷を負わせるような悪い言葉を出さないようにしなさい。むしろ、荷が軽くなるように、また、元気になるような言葉を話しなさい。
聞く人に元気を与えるというのが、元気になることばに相当します。恵みというのは、それを受けるにはふさわしくない人への、無代価のプレゼントです。自立できない弱い立場、無代価でいただかなければ今の自分を支えることができない、そういった状態の時に恵みは施されます。すると、「ありがたいなあ」と感謝する心が生まれ、元気が出てきます。心を強くできるのです。
日々、ぎりぎりの費用で生活している人が、大切な生活費を落としたら、どんなに気落ちすることでしょうか。しかし、そのなくした金額を補って余りあるほどの施しを受けたなら、今度はどんな気持ちになりますか?
神様は私たちにはもったいないほどの、多くの恵みを施してくださっています。それに気付いたらうれしくなってきます。感謝が泉のように湧き出てきます。すると、いろんな計画を立てることもできるようになりますし、未来に希望が湧いてきます。私たちが必要としているもの以上に豊かに与えてくださっている神様の恵みを、無駄に受けないように気をつけなければいけません。
果物のたとえに戻しますが、実が現在味わえる恵みとすれば、種は+αです。流通が未発達な国では、この種は大きな希望をもたらします。芽を出し、成長して、多くの新しい実と新しい種を与えてくれるのですから。聖書的にはみことばは種であり、私たちもその種をいただいた者です。みことばの種は人を元気にします。私たちのことば如何で、弱っている人に未来への希望を抱かせることもできるのです。「元気の出ることば」という種をあげて、その人の内に「元気の出ることば」が育っていくように手伝っていく、それが重荷を負うということばの本当の意味ではないでしょうか。
私たちは自分の感情のままに、責めることば、きついことば、厳しいことばを、人に対して発することが多くあります。自分も言われたらイヤなことを人に対して言ってしまったりします。そういう愚かさに気付いて、互いに良いことばを出し合うように、まず第一歩を踏み出していきましょう。この一週間を、互いに良いことばを出し合えるように気配りしてみましょう。みことばの種を分かち合って、さらに育て方も分かち合っていく、そんな歩みへと歩を進めていきたいですね。おいしい実はぜひ、自分でも育ててみることにチャレンジしてください。
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