■2010年8月29日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

  交担命歩 こうたんめいほ  up 2010.8.29


「生きる」という重荷を互いに負い合い、
キリストの律法を全うする人生のこと。


互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。
(ガラテヤ6:2)

 

 

 

【今週のポイント】
キリストのくびきである互いに愛し合うとは、互いに重荷を負い合うことである。

 世の中は弱肉強食という考え方がまかり通るような世界です。しかし、クリスチャンはそうであってはなりません。聖書は、強い者は弱い者の重荷を負うべきであると教えています。今週のポイントは、「互いに重荷を負い合う」ということです。先週から引き続きキリストのくびきを負うこと、互いに愛し合うという点から、このポイントを考えていきましょう。

1.互いに重荷を負い合う(ガラテヤ6:2)
“互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。”

 キリストの律法とは、(ヨハネ13:34)“「わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも愛し合いなさい。」”です。イエス様は御父がイエス様を愛されたのと同じ愛をもって、私たちを愛してくださっています。これが私たちに与えられた唯一の律法であって、これさえ守れば、すべてが理想的に動くはずです。しかしこの愛が、今、阻まれている社会です。それゆえ私たちは、さらに心を向けてキリストの言われている家族愛、兄弟愛に励んでいく必要があるのではないでしょうか。
 「互い」というのは一方的ではありません。みことばは、他人に押し付けて相手に重荷を与えたり、裁いたりするため にあるのではありません。自分だけが負担を受けるのを嫌がって、少しでも楽をしたいために、相手に負担を強要したり、みことばをもって相手を攻撃したりしてはいけません。「互い」とは、自分が負っている重荷の一部でも負っていただけたら感謝です、という姿勢です。全部預けてしまうのではなく、自分も負いながら一部を助けてもらうということです。
 自己防衛のためにみことばを用いて、重荷を全部相手に押し付けてしまうということをしてしまってはいないでしょうか。私たちは
いつの間にか世の中の影響を受けてしまい、損得の考え方に陥っていないでしょうか。大きな台を運ぶにしても、一人よりは二人、三人の方が楽になります。さらに、より重い所はより体力のある人が進んで持つというところに、互いに重荷を負い合うという愛が働きます。この配慮ができる人間関係が大切です。どんなに大きな重荷でも、みんなが一緒に負うなら、動かすことができます。この「互い」ということを、各々が意識することが大切です。自分、自分という個人主義でなく、周りを見てみましょう。家族や夫婦、兄弟姉妹という、まず身近な人々の間で、この「互いに」を実践していきましょう。「互い」を重視する社会は、安全で平和な社会です。

2.負うべき自分自身の重荷(ガラテヤ6:3〜5)
“だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。おのおの自分の行いをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう。人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。”

 どんなに実力あるオリンピックの選手でも、決して一人で金メダルを勝ち得たわけではありません。むしろ彼らは、自分を助けて協力してくれた人々に感謝し、決して自分を誇りません。しかし、自分一人でやってきたと思っている人は誇ってしまいます。
 私たちも自分の存在感を高め、人に認められたいという動機からいろいろな肩書きを得ようとしてきたかもしれません。しかし、そういった肩書きが決して自分の存在感を高めはしないということを私たちはイエス様に出会ったことで気付いてきました。それではどういうところで、互いの存在感を感じられるのでしょうか。それは助け合うことによります。学力や能力はなくても、ある人の陰ながらの奉仕がどれだけ教会のためになっていることでしょうか。そういった人の存在感は大きいのです。牧師の仕事も多くのスタッフのおかげであり、またスタッフを支えてくださる皆さんのおかげでもあります。こういったことを悟っている人は、人に対する態度が柔和で親切になり、何か忠告を受けても、素直に受け入れることができます。決して目立ったことをしたり、得たりする必要はありません。「みんながあっての私であり、私あってのみんな」なのです。自分と神との関係は、実はみんなとの関係でもある、ということに気付きましょう。
 ただ、一人が全員(120名?)と等しく、深い人間関係になることは不可能です。少人数でも、そういった自分の心の重荷を分かち合えるような深いつながりを持てる人を見つけてください。
 先日召天された櫛木ちず枝さんの息子さんが、お母さんへの思いをつづられた文章の一部を紹介したいと思います。
『〜ある日母が、「病気ばかりの私はよっぽど罪が多いのかね。」と嘆いているのを聞き、「そんなことはないよ。私の罪まで、お母ちゃんが被ってくれているんだから、いつも感謝しているよ。」と言うと、「それなら嬉しいから、いくら病気しても平気だけど」と目を輝かせているのを見て、感動したこともありました。〜』
これが互いに重荷を負うということではないでしょうか。こういう会話で、互いが互いの心を分かり合い、支え合う、本当にすばらしい関係です。
 重荷とは何でしょう。「生きる」ことではないでしょうか。私たちはイエス・キリストによってあがなわれたいのちを生きているのです。それは本当に重いいのちです。イエス様がご自身のいのちをもって買い取ってくださったいのちなのです。だから、互いに負い合うことが大切です。ひとりでは負いきれないのです。これが互いに愛し合うことです。

3.どのように重荷を負うのか(ローマ15:1)
“私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。”

 こういった生き方こそ、目指したいものです。
【内容観察】
 ひとりひとり力の発揮できる部分を、各々持っています。その力を互いに生かし合うことが大切です。ある人は20、ある人は10、ある人は5の力を持っているとします。それなら20持っている人はその力を、10の人よりも5の力を持っている人のために使うのが望ましいのです。また、10の力を持っていても、20持っている人の助けを受け入れる必要のある時もあります。互いに我を張らずに、各々が与え合い、受け合う関係が理想的です。
 介護の働きも、若い、力のある人が、高齢の弱っている人を助けるというのは道徳的に当たり前かもしれません。しかし、若い人が手伝うのに、収入がなかったら困ります。その働きをする人の生活を、高齢の人が費用を出していくのも当たり前のことです。ただ、高齢の人だけが負担するのは無理なので、国が負担し、みんなが負担するようにしています。しかし、そこで自分中心に利得を考え、利用者が、お金をもらってるんだからあれもやれ、これもやれと無理難題を言い始めると、それは互いに重荷を負い合っているという考え方からは外れ、そういった利己的な考え方に対しては、今度は介護している若い人々からも、こんなに安い給料でそこまでできないという反応が出てしまいます。そして介護の仕事に希望がもてなくなり、資格をもっていてもやめてしまう人が多く出てしまうのです。
 「互いに重荷を負い合う」というのは、弱い者はすべて弱いというのではありません。それなりに負えるものがあるはずです。こういった姿勢をしっかり持てるのが、クリスチャンではないでしょうか。なぜなら、そういう教えを普段から聞いているからです。
 みことばを行う人になりましょう。全てを完全に行えなくても、自分のできることから始めてみましょう。私たちは神様に、罪という最大の重荷を負っていただいています。ですから、人の重荷を少しでも負いたいと願うのです。この関係を身近なところから始めてみましょう。まずはクリスチャン同士から始めてみてください。神様の前に良心的にチャレンジしてみましょう。そうしないと、いくらメッセージを聞いても、聞くだけでいつまでも変わらないクリスチャンになってしまいます。

 

 

 

 

 

 

■2010年8月22日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

  負軛耶蘇 ふやくやそ  up 2010.8.22


キリストのくびきを負って、キリストから学ぶなら、
たましいに安らぎがもたらされる。


わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。
(マタイ11:29〜30)

 

 

 

【今週のポイント】
キリストのくびきを着けて人生の重荷を負う。

 休みが欲しい時は、疲れている時ですね。そんな時に無理をすると、けがや病気のもとです。イエス様はそういう人たちに、私の下に来て休みなさいと言ってくださいます。しかしそれは休みだけで終わるものではなく、たましいに安らぎが与えられるために、イエス様のくびきを負って学びなさい、と続けられています。休んだ後の歩み方を、イエス様は教えてくださっているのです。

1.「くびき」について(使徒15:10)
“「それなのに、なぜ、今あなたがたは、私たちの先祖も私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みようとするのです。」”

 くびきは、重い荷を引っ張らせるための道具であり、比喩的には自由を束縛するなにがしかの条件を指したりします。束縛される条件が何かしらあるということです。たとえば、仕事を達成することや、家庭内での役目などもある種のくびきと言えるでしょう。
 新約聖書では、生きることの重荷をくびきにたとえられていることが多いようです。「くびき」という言葉を用いて、後ろにつけられている荷物について表現しているのです。
 また、「くびき」は、律法、ルール、やり方などの重荷の負い方を指してもいます。さらにその人の人生における基準、価値判断、思想なども、人の生き方を決めるくびきと考えることができます。私たちクリスチャンの場合は、それがイエス様の基準や価値判断などになっているのです。
 ここで注意しなければならないのは、自分の個人的な価値や基準を人に押し付けていないかどうかです。お互いに、自分のはかりで裁いたり批判したりして、重荷をさらに重くしないように気をつけましょう。

2.「わたしのくびきを負う」(ヨハネ15:9〜14)
“「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です。」”

 先日学んだ「ぶどうの木とその枝」についての学びから続けて、このことばは話されています。「わたしのくびき」をどうとらえることができるでしょうか。イエス様のくびきは「父なる神がイエス様を愛されたように、私たち人間を愛する」という内容の「愛し合う」というくびきです。それは、父なる神ご自身が持っておられるルールでもあります。父が御子をどのように愛されたのか、私たちはイエス様が与えてくださった愛によって知ることができます。そして今度は、イエス様が教えてくださったように、私たちが互いに愛し合う番です。もともとこの世界そのものが、互いに愛し合うというルールの下に成り立っています。神様と人とが愛し合う世界です。そのくびきを負う者同士が、「愛し合う」というくびきを実行することによって、人生を安心して歩める、安らぎが来る、とイエス様は言われているのです。
 私たちはたいてい、自分の人生は自分一人で背負うものと思っています。しかし「あなたがた」と呼ばれているのは教会全体に対しての呼びかけであり、共通のくびき、共通の荷物を背負っているという意味でもあります。そして、お互いの弱いところを補い合いながら、みんなで一緒に荷物を背負えば、あきらかに一人一人の負担は軽くなるのです。
 教会はみんなの荷物を背負いあって、一緒に走るチームです。ですから、足並みを揃えないとうまく運べません。イエス様のルールを共通に持って揃って走れば、一人で運ぶよりずっと楽に
うまく運べます。イエス様は確かに一人一人を個人的に愛しておられますが、教会全体としての完全なかたちを望んでもおられます。百匹の羊のうち一匹を探しに行かれたのは、百匹揃った完全な状態を重要視されたからです。同じように、教会も一人でも欠けて完全さを失わないようにと、イエス様は探されるのです。決してそれぞれのわがままを肯定されてはいませんので、注意してください。
 私たちは自分と神様との関係は大事にしても、教会内での兄弟姉妹との関係を軽んじてはいないでしょうか。イエス様はご自分の群れが仲睦まじくあることを望まれ、喜ばれます。共同体としての群れをとても大事にしておられることが、聖書を通してわかってきます。群れのためにあなたが存在し、あなたのために群れが存在するのです。「こんな私なんて群れの邪魔になるからいない方がいい」などと、神様はみじんも思われません。かえって養い育て、自分の価値と仲間の大事さに気付くようにと願っておられます。あるいは自分ばかりに祝福や成功を望むのも行き過ぎで、みんなと調和を保ち、平和であることを神様は望まれます。私たちはキリストの各器官であり、頭とつながっているのと同様に、器官同士もつながっているのですから。
 「全体を大事にする」これが、神様のお気持ちです。そして、このからだにつながることを「聖別」と、とらえることができます。キリストに属する者となるのです。他の混ざり物は一切ない、イエス様だけのくびきを負いましょう。

3.つり合わないくびき(第2コリント6:14)
“不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。”

 進む方向の違うくびきをつけた人とは、一緒に走ることができません。そんなことをしたら、お互い足がもつれたり、からんだりして共倒れしかねません。私たちには「自分はキリストのくびきを負っている」という自覚が必要です。クリスチャンが自らの証しを立てる時、証拠としてキリストのくびきを挙げることができます。そして周りの人々にも、あなたがどういう人なのかハッキリとわかるのです。キリストのくびきを負った人々は互いを大切にし、愛し合う者たちなのです。
 ここで私たちは、世の中の人々とは考え方や価値観が違って当然であることに気付くべきです。これがしっかりしていないと、違うくびきとすり替えてみたり、ああでもない、こうでもないと迷うことになります。これでは一向に学ぶことはできません。自分のくびきは何なのか、しっかり確認しておきましょう。
 この魂に安らぎをもたらすくびきですが、肉の行いには苦痛かもしれないことを覚悟しておきましょう。肉は神に従えないので、神に従う選択をすれば反発するのは当然だからです。しかし、私たちは選んだのです。魂の安らぎか、肉の楽しみか、私たちは常に葛藤しますが、イエス様を信じたという意味は、キリストのくびきを負ってキリストから学ぶ人生を取ったのだということにしっかりと気付いて、日々の選択をキリストのからだのためになるようにと判断していきましょう。イエス様ご自身も、からだのためにご自分を十字架におつけになり、苦しまれました。そのことを思いながらこのくびきを全うしてください。
 イエス様の純粋なくびきを負うために、どれが正しくて自分にとってふさわしいものであるかをよく吟味して、互いに愛し合うことをこの群れで実践していけば、それを見る周りの人が「こんな生き方をしたい」と目覚め始めるはずです。「クリスチャンは言うこととやることが違う」と失望させないように、お互いをいたわり尊重し合う集団を築いていきましょう。
 また、人数が増えればフォローしきれない人々も出てきますが、自分のできうる範囲で互いの人生を負い合うように、仲間作りをしていってください。お互いを信じ、励まし、フォローし合う関係でなければ、強いチームにはなれません。自分に何をしてもらったかではなく、教会全体のプラスになることなら何でも喜んでいきましょう。からだの一部が健康になれば、全体の益になるのですから。もし一般の人々でもできることなら、イエス様の犠牲の上に成り立った私たちのつながりは、もっと強く堅いもののはずです。神の国の完成のために、勝利のために、歩んで行くキリストのからだとして働きを現していってください。それでこそ周りの人々が不思議がり、うらやむ群れとなります。
 今はまだ学びの時です。今の自分に決して失望せず、イエス様についていきましょう。

 

 

 

 

  

 

■2010年8月15日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

  嫌離穢土 けんりえど  up 2010.8.15


この世の汚れを嫌い、通俗な日常的なものから離れ、
聖なる神と関係を持ち、従属すること。


すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。
(ヘブル12:14)

 

 

 

【今週のポイント】
聖められることのすばらしさと喜びを見いだす。

 このみことばは、私たちが前のものに向かって歩んで行くためには「追い求める」という欲求を失うことがないように、争いが起こっていればぜひ平和のために何とかしようという気持ちをかき立たせていただきたいし、同様に聖められることも追い求めるように、ということです。すばらしいものを得たいという気持ちは、限界があってもそれにチャレンジしていくものです。今週は聖められることのすばらしさを見つけ出すことにチャレンジしていきましょう。
 今週の四字熟語の「嫌離穢土」は「穢土(この汚れた世界の意)」を嫌い、離れるという意味の造語です。これと(ヘブル12:14)を関連づけて(この世の汚れを嫌い、通俗な日常的なものから離れ、聖なる神と関係を持ち、従属すること)と意味付けをしました。
「この世に合わせて生きるより、神様に合わせて生きる方がよっぽどすばらしく幸せだ。」と思う気持ちです。

1.『聖』について
〔創造者、贖罪者である主なる神にのみ当てはまるものであり、他の一切から超越し隔絶された絶対的存在者をあらわすにふさわしいもの。〕
 つまり『聖』とは、天地を造られたまことの唯一なる神、しかも罪人をきよめ永遠の神の御国に導かれる、罪の贖いを成し遂げられた神のみが持っておられる性質のことです。『聖』とは、罪を一つも犯さないとか、感情が落ち着いていて寛容で…というだけではことばで十分表現できず、要するに『聖』とは唯一なる神様そのものであり、神のご性質の本質の本質とも言われています。
〔『聖』の語源の原意は、「分離する」「切り離す」。そこから、すべての冒_的事柄や行為から分離され、切り離されて、神との関係を持つという意味を持つ。〕
 宗教的意味として発展していったということです。そしてヘブル人の『聖』についての考え方が、次の言葉に記されています。
〔神ご自身との関係にあるすべてのものということができる。つまり、被造物自体には『聖』は存在しないから、神との関係におかれることによってのみ、『聖』とされるのである。〕
 神以外の存在は『聖』を持ち合わせていません。私たちが聖なる者とされるとは、この聖なる方と関係が結ばれることによって聖なるものに属するという意味になり、聖められるという意味あいがあります。ヘブル人は、聖別とか聖められるとは、「神に属する」という概念を持っています。罪人であっても、神が私たちを受け入れてくださったら、聖いと言われます。行いをきちんとしてから神に属する者になって聖められるという考えを持ちがちですが、そうではなく、神が受け入れてくださり、ご自分のものと許可されたら、現状はどうあれ「聖い」と言われます。
 私たちは「聖められる」という概念を変えなければなりません。そうでなければ、聖くなることを妨げるものを全部取り除いてからでないと、神に属するものになれないという考え方を無意識に持っており、「これ以上聖められない」と思ってしまいがちです。しかし、神があなたを受け入れてくださるという許可があれば、聖くなれるのです。ではどのようにして、罪人が神様に属する者となったのでしょうか。それは贖罪、すなわちイエス・キリストの十字架によってです。神様は十字架によって、どんな罪人でも神に属する者になれるという条件を作ってくださいました。あとは私たちの意志次第です。「救い主イエス・キリストを信じて、神に属する者になろう。聖くなりたい」というところから、聖めの実がなっていきます。神様がまずご自分のものとして私たちを受けとめてくださり、実際に罪から離れ、神様から嫌われることを一つ一つ取り除いていく、「聖い」という実を結び、名実ともに「聖い」という状況へ成長していくのです。
 私たちの希望は、神様に受け入れられてから実質的な聖めを受けていくというところにあります。聖めることのできる方は神様しかおられません。神様との関わりを作り出さなければ、誰も聖められません。まず贖いのみわざによって神に属する者となり、それからだんだんと聖められていくという流れをしっかりと頭に叩き込んでください。私はだめだという思いにならないように気をつけてください。

2.教会を『聖める』目的(エペソ5:26〜27)
“キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。”

 教会は罪人であっても聖められることを願い、神を慕い求める人の集まりです。「キリストがそうされた」のは、イエス・キリストが私たちの身代わりに罪の裁きを受けてくださったという、十字架の贖いのみわざを指します。十字架の目的は神を敬う人々を聖めるためなのです。しかも教会の聖めの目的は、栄光の教会をご自分(イエス様)の前に立たせるためなのです。ここに「夫と妻」という教えの中で語られた神の奥義があります。アダムがエバを目の前にして、「これこそ私の骨からの骨、肉からの肉」と「私にとってふさわしい、良い助け手だ」と宣言したように、イエス様の前に立つ教会は「イエス様にもっともふさわしい存在」と宣言されるため聖めてくださるのです。
 こんな私をもふさわしい妻のように迎え入れようと、イエス様はまず十字架で聖めのためのみわざを完成してくださり、私たちと関わってくださり、ふさわしい者へと導いてくださっているとは、感謝感激です。エステル記に、王妃候補の女性が王様に選ばれる記事が出てきます。ただ美しいだけでなく、王様の前にあるにふさわしく仕上げられるため、十二ヶ月(六ヶ月は没薬、六ヶ月は香料)彼女たちは準備する必要がありました。これは聖めの期間と言えます 私たちも栄光の教会として選ばれていますが、イエス様の前に立つにふさわしい者となるための聖めの期間が、地上での人生と言えます。人生の様々のできごとを通して、イエス様は私たちを聖く傷のない者と整えてくださると考えられたらいかがでしょうか。そうすると、労苦も失敗も無駄ではありません。イエス様が再臨されて私たちの目の前に現れてくださった時には、「わたしの骨からの骨肉からの肉」と宣言してくださることができるように、今私たちは整えられているのだと、ますます聖められることを求めていただきたいと思います。

3.『聖別』される喜び(第2コリント6:12〜7:1)
“あなたがたは、私たちの中で制約を受けているのではなく、自分の心で自分を窮屈にしているのです。私は自分の子どもに対するように言います。それに報いて、あなたがたのほうでも心を広くしてください。
不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。
神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。”

 神が私たちを受け入れ、息子、娘と呼んでくださり、神の御国を相続する者としてくださるというのは、どれだけ私たちを大事な存在としてくださっているかわかります。私たちはほうびをもらうために神を愛しているのではありません。ご飯を食べさせてくださるので、妻が夫を愛しているとか、身の回りの世話をしてくれるから夫が妻を愛しているというものではありません。自分のために汗水たらして働いてくださる夫を尊敬するからこそ、身の回りの世話をする → その人自身を大切に思っているからこそ出て来る行動です。神様も私たちが大事だから、息子娘として受け入れてくださるのです。私たちは神様にとってふさわしく、失いたくない存在として愛してくださっている → その気持ちのゆえに罪から聖めてくださるのです。その愛を感じ取って、聖別される喜びを感じ取っていくことが大切です。聖別を喜びと感じない人は、自分の欲望を押さえられて制約を受けていると感じてしまい、自分で自分の心を窮屈にしているのです。
 聖められるとは「聖められなければならない」と強制、強要されると受けとめるべきものではありません。女性が男性の下に、利益を受けるという気持ちで嫁ぐなら、そこには愛はありません。古い時代、夫のいる封建的なしきたりの中に嫁いだのは、夫となるべき男性を愛していたからです。窮屈な因習をも受け止める力がわいてくるのは、愛があるからです。
 神様の聖めの教えを窮屈にとらえるのは、あなたと神様の関係が何か間違っていませんか、とパウロは言っています。あなたは願い事を叶え、思い通りになってくれる神様を考えていませんか。それが神様との関係のイメージですか。神様はある部分合わせてくださっても、完全にあなたに合わせるということはあり得ません。私たちが神様に合わせていくというのが、神様を愛しているしるしです だから、聖めを受けることは、夫である神が私たちに愛を向けてくださるにふさわしい状況に整えられていくことです。これは喜びです。例えばカレーしか作れない妻が、夫が好む焼きそばを作ってあげたいと思うのは、愛しているからです。それを「焼きそばを作らなければならない」と受け取るのは制約を受けており、愛の関係は成り立ちません。神がどれだけあなたを愛しておられるかを知りまたその愛に触れて神に信頼していくことを決めたのなら、神との関係を成長させていく捉え方になって欲しいと、パウロは諭しています。聖別を強要するように聞こえるのは、聞き方が悪いと言っています。
 また、聖別されることが難しいと思うのは、行いによって聖められようとするからです。行いを考える前に、神様と良い関係を保つことを考えてください。それは神様を愛し、信頼する思いが湧いてこなければ、結べません。あなたが自分の気持ちを全部委ねるほどの信頼を神様に持つことができるようになったのは、イエス・キリストの十字架があったからではありませんか。この十字架に、神を敬うことのできるすべての内容が凝縮されており、神様からの、私たちへの永遠に対する希望にあふれた計画を知ることができます。それらを知って、神様のお気持ちに触れ、日々のできごとの中で神様の恵みが豊かに注がれていることを知りながら、神様を尊ぶ気持ちをふくらませていけます。そうすると当然、愛する気持ちも強くなり、愛する方から「こうしてほしい」と言われたら、「喜んでさせていただきます」となるのです。焼きそばを作ったことのない人が焼きそば作りにチャレンジし、最初は好みの味に遠くても、何回も作っていく内に愛する主人の好みに仕上げられるようになっていく → これが聖めです。イエス様の要求に一度で応えることのできない私たちが(イエス様はそのことも知っておられます)、できないと思っていることにも愛があるからチャレンジし、次第にできるようになります。すなわち聖くなっていき、聖いという実を結んでいけるようになり、聖別されていく喜びをもっと実感されていくことでしょう。ゆるやかに、穏やかに、忍耐強く私たちを聖め続けてくださる神様の寛容な愛を信じて、ますます聖められることを喜びとして受けとめてまいりましょう。
 

 

 

 

 

 

■2010年8月8日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

  存人相応 そんじんそうおう  up 2010.8.8


人間が神に似せて造られたのは、「キリストにふさわしい者」
となるためであるという意味。


「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。
(エペソ5:31〜32)

 

 

 

 なぜ私たちは、罪から離れ、自分を聖く保つことを重要視するのでしょうか。それは私たちのアイデンティティ(自己同一性)から来るものです。すなわち、何のために私たちは存在しているかという点です。この(エペソ5:31〜32)はその奥義を語っています。

1.『夫婦』と言う神の奥義(エペソ5:31〜32)
《パウロが「キリストと教会とをさして言っている」と表現しているところから、神は奥義を悟らせるために、男と女とに人を創造されたと考えることができるのではないか!》
【敬聴と適用】
《「良い夫婦」という面から、キリストとの関係を考えてみましょう。》
 良い夫婦関係を保つということにおいて、夫にふさわしい妻の考え方、行動が必要になってきます。今の世の中は、夫と妻は別の人格だから別々に物事を考えるべきだ、個々の人権が優先される考え方によって、夫婦という関係が壊れてきています。良い夫婦というのは、良い関係作りです。どのような関係作りでしょうか。
 「夫にふさわしい妻」とは、妻が夫の言いなりになるのではありません。男性は神のかたちですから、神にふさわしい男性でなければなりません。そして、神にふさわしい男性に対して、女性はその男性にふさわしい者でなければならない、というつながりがあるのです。
 まず男性が「私のアイデンティティは神のかたちである」ということを認識して、それを守り通さなければなりません。「神のかたちに似せて造られた」という枠から出てしまったら、男としてのあるべき姿を失うということです。その神のかたちにふさわしい男性にふさわしいのが、女性としての役割です。この流れをわきまえて、良い夫婦関係を考えていくことが必要です。これを崩してしまうと、力関係で治められるか治めるか、もし治められなかったら離婚するということが起こります。
 私たちは夫婦をお造りになった神様から教えられ、夫と妻のアイデンティティをしっかり保っていれば、良い夫婦関係を自然に築き上げることができます。結婚しておられる人は、この神の奥義を体験していくという、すばらしいみことばの実践の中にあるのです。また、結婚していない人は、直接、神と自分との関係を夫と妻の関係のようなものだと理解して、キリストにふさわしい存在として自分を保つということを考えられたらいいと思います。

2.ふさわしい存在(創世記2:18〜24)
“その後、神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、人にはふさわしい助け手が、見あたらなかった。そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。こうして神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。すると人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。”
 「人が、ひとりでいるのは良くない」というのは、どこから来たのでしょうか。神が人を造られた理由がここにあるのです。神だけが存在していたのでは良くない。だから人を造られたのです。
 神様はいろんな動物を造られ、アダムに名をつけさせました。この「名をつける」というのは意味があります。名前というのは、その存在のアイデンティティを現すものです。アダムは動物たちに名前をつけていきましたが、アダムにふさわしいアイデンティティを持ったものがいなかったのです。そこで神様はアダムを眠らせ、あばら骨からエバを造られました。アダムが眠りから覚めてエバを見た時、直感的に「これは私の骨からの骨、肉からの肉」と言いました。すなわち、「私の同一のアイデンティティを持った者、私にふさわしい者だ」と告白したのです。
 このような関係を、神様は男と女に造られましたが、それはキリストと教会を指しているというのです。一人子イエス・キリストがおられて、キリストにあって、天地の基を置かれる前から私たちは選ばれていたのだと、(エペソ1:4)に書かれています。
 神様の内側に、キリストと教会というご計画を持っておられ、一人子の中にあなたも含め全てのクリスチャンがすでに存在していたのです。そして、それぞれの時代にその人々はこの地上に生まれてきて、イエス・キリストを信じるという道に導かれています。不思議にキリストに魂が惹かれて行くのです。エバがアダムの中に存在していたと同じように、キリストの中に私たちが存在していたから、自然に引き寄せられたのです。
 しかし、私たちには自由意志が与えられているので、その存在理由を受け入れることもできれば、拒絶することもできます。選ばれていたにもかかわらず、拒否することもできるのです。選ばれているということを受け入れるか受け入れないかは、愛するか愛さないかによって判断することができます。これは、男と女が結婚の約束をすることにおいて、愛という関係で結ばれるのと同じです。プログラムされたものは愛ではありません。自分の意志で、この人を愛する者として認め受け入れようと決心することが愛なのです。恋愛感情を感じるだけでは愛ではなく、意志決定していくことによって愛に変わるのです。感情が冷めても、意志決定したことによって、その愛の契約を保つことができるのです。神様は私たちを、永遠のふさわしい助け手として契約を結んでくださいました。だから絶対に手放されません。罪を犯した人類を、なぜすぐに滅ぼされなかったのでしょうか。それは神が私たちをふさわしい相手として選ばれたからなのです。
【敬聴と適用】
《「ふさわしい」とは、「つりあっている」という意味です。「貞操を守る」「忠実である」などあらゆる善いことに対して熱心であるのは、「ふさわしい存在」という自己同一性があるからです。》
 なぜ神様はそれほど聖めを強調され、忠実や貞操を言われるのでしょうか。それは、私たちの相手である神様がそういう方だからなのです。聖く正しく力強い人が夫であるなら、それにふさわしい妻になろうと思うではありませんか。それがなければ、愛がないということです。
 男は一生懸命、神にふさわしい者になろうと神を求め、神の御教えに生きようとし、その夫を見て女は、ふさわしい妻になろうと一心に努力していくという関係が、夫婦のあるべき姿です。
 ふさわしいかどうかを決めるのはあなたではなく、神様です。男性が女性を結婚相手として決める時、恋愛感情だけでは決めず、将来を見越してふさわしい相手だと選ぶように、神様も私たちを見て、今はふさわしくない状態があったとしても、ふさわしい者として選んでくださっているのです。神様が私たちをふさわしい者として決めてくださった、ということを信じてついて行くか行かないかは、あなたが決めることです。
 神様の愛は、私たちの不完全をおおう愛です。完全な者になるまで私たちの罪をおおってくださっているのです。だから、私たちは、イエス・キリストだけに忠実であるということを守り通すのです。これがクリスチャンのアイデンティティなのです。

 

 

 

 

 

 

■2010年8月1日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

  見張心守 けんちょうしんしゅ  up 2010.8.1


いのちの泉である聖霊様に満たされて歩むために、心を見張り守る。


力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。
(箴言4:23)

 

 

 

 「力の限り」という表現から、どれだけ重要で優先すべきことなのかがうかがえます。「心を守る」とはそれほど大事なことなのです。
なぜ大事なのか。「いのちの泉が湧く」からというのがその理由ですが、本来泉は私たちの生活に欠かせないものです。特に人々が集い暮らすためには、豊かな水をもたらす泉が不可欠でした。農耕も畜産もあるいは工業においても、水無しにはありえないものばかりです。
 人生においても、「いのちの泉」という、私たちの人生を真に生かすことのできる泉の存在なしには、本当の人生は成り立ちません。
 私(辻師)はエルサレム見学の時、ギホンの泉に立ち寄りましたがその湧水はあたかも破裂した巨大な水道管のように激しく吹き上がり洞窟中に轟音を響かせていたことに驚いたものです。エルサレムは荒野のただ中にある街で、他に人の住めそうな潤った土地は見当たりません。この街にだけ豊かに溢れる泉があって、数十万人の人々を養い支えているのです。
 私たちの魂についても、この泉と同じくらいの重要性があると語られています。昔の戦では、水源を奪った方が勝ちでした。
 「泉を見張る」のは、主権、力をよからぬものに奪われないためなのです。それなのに、今の私たちの人生、生活において、「心を守る」ことがあまりにもおろそかになってはいないでしょうか。世の人々は流されるままに生きているので、心を守ることの価値も意味もわかりません。しかし、私たちまでもが彼らの基準に影響されて、きよく生きることをうっとうしく感じるのはいかがなものでしょうか。

1.泉の湧く心(ヤコブ3:9〜12)
“私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって神にかたどって造られた人をのろいます。賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。泉が甘い水と苦い水を同じ穴からわき上がらせるというようなことがあるでしょうか。私の兄弟たち。いちじくの木がオリーブの実をならせたり、ぶどうの木がいちじくの実をならせたりするようなことは、できることでしょうか。塩水が甘い水を出すこともできないことです。”
 本来、一種類の木からは同じ種類の実しかならないのと同様に、泉も常に同じタイプの水を湧き出させ続けるものです。しかし、私たちの心に満ちる思いによって、口から出る言葉は大きく変化してしまいます。良い思いなら良い言葉という甘い水、悪い思いなら悪い言葉という苦い水が。ですから、「心を見張れ」とはこの場合、苦い水が少しでも入り込んで水全体をダメにしないために、苦い水を徹底的に排除せよということなのです。私たち人間には、良い水を選ぶことも苦い水を選ぶこともできる、完全なる自由が与えられていますが、これはイエス様の十字架による犠牲が支払ってくださった、贖いの代価のゆえに与えられたものです。罪人なる人間には、元々は苦い水の水源しかなかったのですが、神様がイエス様の贖いの代価をもって、甘い水の水源を与えてくださったのです。
 苦い水、つまり悪い水しか出ないと、どうなるのでしょう。アフリカ大陸にマリ共和国という国があるのですが、そこは世界一水事情が悪い国として知られています。どこをどういう風に掘っても、濁った悪い水しか出てこないのだそうです。しかたがないので、人も家畜もそこから水を飲むのですが、不潔な水は赤痢とコレラを蔓延させ、救助団体の人々さえ定住できず、救援は難航しています。このように、水は一国の繁栄さえ左右する力を持っているのです。
 私たちはせっかく甘い水の水源を与えられているのに、相変わらず苦い水も出るというのはどういうことなのか、とヤコブはここで注意しています。イエス様の十字架の力、聖霊様の助けをいただいて、この苦い水の泉を封じよう、とここで語られているのです。
 この世の人々は、「善悪両面あるのが真の人間。その方が人間らしい。」と言いますが、ごまかされてはいけません。きよめられることの意味と価値を見失わないようにしてください。「そんなに厳しくきよめを求めてどうする」「きよくなくても、皆仲良く暮らせたらそれでいい」「人に迷惑さえかけなければ多少のわがままはかまわない」「完璧になれるはずないのに、なぜ裁きと地獄があるのか」「世の中は、善と悪、表と裏があって初めてバランスがとれるもの」こんな考えに影響されると、「イエス様みたいになんて無理。あり得ない。」とか、「信徒と献身者とはレベルが違うんだから、暮らし方も違って当たり前」などと思い始めます。これは妥協であり、「力の限り、心を見張り、守る」状態ではありませんね。
 では、先ほどの疑問にはどう答えればいいのでしょうか。
 まず1番目は、「存在の目的」です。進化論者にとって人の存在は偶然であり時代と共に善悪の基準も変わると考えています。もっと言えば、弱肉強食以外に掟はなく、善悪など存在しないのです。対してクリスチャンは神の存在されることを信じ、精緻な法則なしには成り立たない自然界の様々な現象をその証拠として見ています。現在は科学者の間でもデザイン説(この世界は何らかの存在が意図的に造り出したという考え方)が、進化論に代わって有力になりつつあります。無神論者でさえ、研究が進むにつれて「このように発展するように造られているとしか思えない」生命の不思議に触れ、「何者かが」ということだけは認めざるを得なくなっています。
 この世界の人々は「神が人に生命を与えたりとったりできる権利を持っておられる」ことを認めることができません。造られたものがお造りになった方に「あなたは馬鹿だ。私の方がかしこいよ。」と、意見を言っているのです。人の意見には良い意見と、放縦を奪われたくないための反発から出た意見があります。内容自体は正しく見えても、その動機が間違っていて、自分の悪を責められるのがいやなだけなのです。「神に支配されたくない」「自分のやりたいことは悪でもやりたい」「自分中心に物事を進めたい」「自分の権利を保持したい」と。
 私たちは実際には神様の所有物であって、自分には何らの権利もありません。制作者が制作物の権利を持つのは当然なのですが、世の人々はこと自分に関してはそれを認めることができないのです。神を畏れない、非常に不敬虔な世の中になっています。クリスチャンも心の奥底で「自分の権利」「自由」を奪われたくないと思ってはいないでしょうか。そこから神様に反発していませんか。この反発心こそが「苦い水」です。「苦い水」はあなたの心の健康を損ないます。すぐには気付かなくても、「苦い水」を飲み続けることで徐々に弱って行きやがては必ず死に至るのです。
 2番目に、「神にかたどって造られた人間」ということが挙げられます。神にかたどられた存在ならば、神がきよい方である以上、人の真の姿もきよい者であると言えます。「甘い水」を出す者であって、「苦い水」を出す者ではないのです。自分の本来の姿を聖書から捜し出してください。本当の姿だからこそ、きよさを大事にするのです。
 3番目には、「男と女とに人をお造りになった」ことが挙げられます。まず男であるアダム。そして、アダムから取り出されて、名を付けられたエバ。人は元々男と女が揃って完全になるものです。これはキリストと教会を指していて、神の奥義として記されています。エバがアダムのあばら骨から取り出され、造られたように、人も神様の内側に存在していたものが取り出され、造られたものです。神のかたちに似せてとは、神の内側から取り出され、造られたからです。女性が男性にふさわしい助け手として造られたように、人は神にふさわしい助け手として造られたということなのです。男と女、どちらが欠けても不完全です。神と人も、どちらが欠けても不完全な状態であり、お互いを必要としており、天地宇宙万物はそのためにあるのです。この聖なる神にふさわしい助け手としての人間が、きよさを求められるのは当然です。きよさを捨てるとは、その夫たる方との絆を捨てることと同じです。
 最近は「子どもは欲しいが、夫はいらない」「男にだって子どもを産む権利がある」などと、各々が自分の権利ばかり主張している、曲がった愚かな世界になってしまいました。しかし私たちは、「神は神として在らせられ、人は人として存在する」この立場をよく理解しながら、私たちをご自分にふさわしい助け手としてお造りになったからこそ、きよさを要求されるのだと覚えておきましょう。
 きよめを好まず、更なる放縦の道を求める人もいますが、それさえ神様が私たちに完全なる自由を与えてくださった証拠です。神様に似せて造られたからこそ、自由意志をもって自分で決められるのです。神様は人が滅びを選んでしまう危険をわかっていても、愛することを選んで欲しいと願われる心のゆえに、あえて人に全てを選択し進む権利を与えてくださいました。自分の身分、造られた目的を心から喜んで受け入れて、神にふさわしい助け手として歩むかどうかを、私たちは今も選択する立場に置かれています。「しばられたくない」「真理など知りたくない」「何が何でも自由でいたい」「偽りでも真実でも全部味わいたい」「誰にもしばられない自由が欲しい」これが不敬虔な人々の心にある、根本的な願望です。自分はしばられたくないが、他人は自分の思い通りにしたい。これが「苦い水」です。
 自分の中にある醜い思いに気付いた人は、「こんな自分はいやだ」と思います。世界を創ったのも、管理しているのも決して自分ではありません。自分が自分のために無から造り出せたものなどただの1つもありません。なのに、自分では何一つできない存在である人間が、与えられているいのち、世界の中で、創造者であり支配者であられる神に対して「あなたに従いたくない。自由に、いろんなものを味わいたい。」と言うのです。それらすべては神が造られたもので、神の所有物であるのに、勝手な言い分で楽しもうとしているのです。一般社会で、人のものを許可なく勝手に使えば犯罪です。なのに神のものを勝手に使っていることには気付かない、本当に愚かで、しかも虫のいい話です。これがヒューマニズムであり、今の社会の大勢を占めている考え方です。クリスチャンがこのような自分の権利を求める思いの下に教会に来ているなら、聖書の教えは単なる精神修養に留まってしまいます。神様が求められている「甘い水を出す]心の状態にはほど遠いものです。イエス様を信じているならば、造り主の存在とその主権に心から服しているはずです。ならば、甘い水を出す者として造られたあなたは、苦い水の水源を止め、もう二度と入ってこないように見張って、甘い水の水源として「自分は甘い水を出す、いのちの水源なんだ」と自分を受け止め、それを目指していきたいものです。

2.「いのちの泉」について
 以下にヒントを挙げておきますので、日々の具体的な指標としてデボーションをしてみてください。
(1)(箴言10:11)
“正しい者の口はいのちの泉。悪者の口は暴虐を隠す。”
 「いのちの泉」とは何か。私は自分の口からいのちの泉を出しているだろうか。どんな言葉、内容がいのちの泉にふさわしいか、など。自分の口から出るものの内、どのあたりが悪いものか、苦いのかを見分けることができるために、よく観察して熟考してください。

(2)(箴言13:14)
“知恵のある者のおしえはいのちの泉、これによって、死のわなをのがれることができる。”
 「知恵のある」とはどういうことかと言えば、それは死のわなから逃れさせることができるものです。では、「死」とは何を意味しているのでしょうか。クリスチャン的に言うと、「死のわな」とは、罪に引き込もうと誘惑する力のことです。神様からあなたを引き離そうとするものはすべて「死のわな」であって、「苦い水」の教えです。反対に「甘い水」の教えは、死のわなの誘惑からあなたを救い出すものです。これが知恵です。
(3)(箴言14:27)
“主を恐れることはいのちの泉、死のわなからのがれさせる。”
 主を畏れること、神を畏れること、敬虔な心を持つことが「いのちの泉」です。なぜ神を畏れることがいのちの泉なのか、をよく考えてみましょう.ヒントは「死のわなからのがれさせる」ということばです。そして「主を恐れることがいのちの泉」であるなら、私たちはどんなことばを自分の口から出すのが良いのでしょうか。自分が不意に発している言葉をもう一度見直して、人を生かす言葉へと一つずつ改善して、適用していけたらいいですね。
『私たちは神にかたどって造られた者であるがゆえに、きよさを追求する。そのきよさを追求するにあたり、苦い水が混じらないように心を見張り、心を見守っていく。』今週のポイントをしっかりと守り、それを保っていきましょう。

 

 

 

 

 

 

■2010年7月25日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

  天高聴卑 てんこうちょうひ  up 2010.7.25


人々の行いをよく見抜き、禍福をもたらすこと。
帝王の聡明さをたたえる言葉として用いる。


主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」
(出エジプト34:6〜7)

 

 

 

 このみことばは、シナイ山で神がモーセを通して、イスラエルの民に十戒を二度目に渡された時、モーセにご自身を現されたみことばです。
 神はいったいどのようなお方なのでしょうか。私たちはそれをよく理解する時、神が与えられる天命を心から喜び、敬虔な態度で受け取ることができます。神は、ご自身の偉大なご計画の重要なポイントを担う者として、私たちを選んでくださっています。それがわかるならば、自分勝手な欲望に惹かれた人生を歩むのではなく、神の天命に従いたいと願うはずです。神は、私たちの生きる道を語ってくださいます。その御心をしっかりと理解しましょう。

1.天命をくだされる主は崇高聡明な方
(1)「あわれみ深い神」
(2)「情け深い神」
(3)「怒るにおそい神」
(4)「恵みとまことに富む神」
 まこととは、正義、誠実さです。
(5)「恵みを千代に保つ神」
 どのように小さな良いことも忘れず、報いを与えてくださるという意味です。主は貧しいやもめの小さい、けれど精一杯のささげ物に目を留めてくださり、彼女の子孫千代に至るまで守り続けてくださるようなお方です。アダムとエバの千代目の子孫までも、祝福を受け継いでいるのです。いかに罪を犯していても、この全人類に祝福は受け継がれているのです。
(6)「咎とそむきと罪を赦す神」
(7)「罰すべき者は、必ず罰する神」
 この7つのポイントで、(6)までは、情に厚いすばらしい神が表されています。しかし(7)に、悪は必ず罰せられるとあります。この(7)をいつも気にかけて、心配ばかりしていないでしょうか? (1)〜(6)の神の愛をしっかりと味わってください。この宣言に表されている神の御心をしっかりと悟りましょう。
 人は尊敬している人の言葉は100%受け入れますが、尊敬がなかったら受け入れません。天高聴卑なる神様を尊敬し、100%みことばを受け取っていきましょう。

2.天命を選ぶ
(1)試みに会われたイエス様(マタイ4:1〜11)
“さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じてその手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。”
 私たちは一生懸命集中してやっている時は、あまりすきはありません。サタンは、私たちがやり遂げた後、その達成感で生じてくる油断につけ込んで来るのです。世の中のことわざにも「勝って兜(かぶと)の緒を締めよ」というのがあります。40日の断食の後、イエス様は気を抜かれたので、空腹を覚えられたのでした。その時、肉の欲求が最初に試みとしてやってきたのです。これに対してイエス様は、みことばをもって悪魔に対峙されました。しかし、知識だけでみことばを用いても、何の効力もありません。私たちはよく、それを体験します。
 イエス様はみことばのみで、どうして悪魔に打ち勝たれたのでしょうか。それは、このみことばを語られた方を深く理解していたからです。この方との強い関係があったので、イエス様はそのみことばを語られることでしっかりと身を引き締め、肉の誘惑にも打ち勝たれたのです。
 私たちも、どれだけ神を崇高聡明な方とあがめ、信頼しているかでみことばを自分に語られた天命と受け止め、肉欲に対してみことばを用いて打ち勝つことができるようになります。
 もし勝利できなかったらどうなるのでしょうか。それは、肉欲にあらがうことができず、その奴隷となり、従わざるを得なくなる、という状態になっていくのです。クリスチャンであっても、肉の欲がやって来た時、それを受け入れてしまうなら、肉欲の言いなりになって、従うことを許可したことになってしまいます。
 そうなると、いくら祈っても悪い習慣から離れられないという状況に陥ってしまいます。一度欲望に従ってしまうと、その欲求の支配下に入ってしまい、逃れられなくなります。
 イエス様は神様との関係を何よりも優先し、大切にされていたからこそ、肉欲をみことばによって退けることができたのです。
 しかし、次にサタンはそのみことばを用いて、私たちを誘惑してきます。その時イエス様は「試みてはならない」と言われました。それはチャレンジしてはならないと言われたのではなく、不敬虔な心を持ってはならない、という意味で言われたのです。自分中心で物事を考え神を自分に従わせるような、そういうみことばの悪用をすることを「神を試す」と言います。不敬虔さに従うなら、善悪を正しく判断できなくなり、これぐらいなら許されるだろう、そこまでは従えない、という、神を試みる態度になってしまいます。気をつけましょう。
 3つめの試みは、サタンを礼拝するというものでした。サタンの一番の悪は高慢ですから、高慢を神とする、礼拝するということになります。
 高慢さを心に持つと、周りを自分に従わせるという傾向が生まれてきます。これは最悪な自己中心です。いろいろな理屈を並べて周りを従わせ、自分の思い通りに動かす、これがサタンを拝むということです。サタンは高慢によって堕落しました。高慢さを受け入れるなら、高慢さに支配され、神にも人にも、自分の考えに合わなかったら反抗するようになってしまいます。
 これらのサタンの誘惑に心を許してしまうなら、その支配下に入ってしまい、誰も自分の力では逃れられなくなってしまいます。だからこそ、私たちは心を砕き、神の前にへりくだって、助けを求めることが必要なのです。そのために、聖会で語られたように、主が激しく臨んでこられます。
 私たちは心を打ち砕き、本当に悔い改めて神のあわれみを求めなければ、それらの罪の力から救い出されることはありません。神には不可能はありません。しかしあなたが心を変え、改めないなら、神はあなたをあわれみたくてもあわれむことができないのです。私たちの心の中に、神に対する苦々しさを隠していないでしょうか。しっかり自分の心を探ってみましょう。悔い改めて、十字架の前に出て行きましょう。
 

(2)砕かれた預言者エリヤ(第1列王19:1〜14)
“(1〜8前略)彼はそこにあるほら穴に入り、そこで一夜を過ごした。すると、彼への主のことばがあった。主は「エリヤよ。ここで何をしているのか。」と仰せられた。エリヤは答えた。「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています。」主は仰せられた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」すると、そのとき、主が通り過ぎられ、主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。エリヤはこれを聞くと、すぐに外套で顔をおおい、外に出て、ほら穴の入口に立った。すると声が聞こえてこう言った。「エリヤよ。ここで何をしているのか。」エリヤは答えた。「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています。」”
 18章でエリヤは、神の天命によって、バアルの預言者たちと対立し自分の仕える神こそがまことの神であると証明し、彼らをことごとく滅ぼしてしまいました。しかし、その大勝利の後、エリヤは女王イゼベルの怒りにおびえ、逃げて隠れてしまいました。
 神は、「エリヤよ。ここで何をしているのか。」と、二度問われていますが、エリヤはそれに対して全く同じ答え方をしています。しかしこのエリヤの言葉は同じでも、語った時の動機は変わっています。エリヤが大勝利に酔っていた時、神がイゼベルを通し、エリヤを試みられたのかもしれません。
 この恐れにより、エリヤは自分の弱さを浮き彫りにされました。そして祈っていた時「ここで何をしているのか。」と啓示が来ました。その時、エリヤはつぶやいて、神に愚痴ったのです。イゼベルの脅迫を恐れてしまったということは、彼が高慢になってしまっていたからです。その時、神はエリヤに臨まれました。最初は岩々を砕くほどの激しい大風として、そして地震、火として。
 これらの出来事を通して、エリヤは神の力強さ、偉大さを見、正しい良心に意識が向いたのです。この激しさによって、私たちは神を畏れる心を持ち、自分の無力さを悟ります。 
 その後、神はエリヤの耳元でささやかれたのです。「エリヤよ。ここで何をしているのか。」それは裁く神ではなく、あわれみに満ち、情け深い神としてです。その時エリヤは神の前に心砕かれ、悔い改めたのです。そして、同じ言葉ではあっても、今度は全く違う敬虔な心で、エリヤは神の前に答えることができました。それは愚痴ではなく神の愛を拒み続けているイスラエルの民への悲しみの心になっています。
 私たちは、この文字には表れていない、彼の心の変化を見て、この一週間、神の前にどのような心で出ているのかを、自分自身吟味してみましょう。神の前に、きよめられた正しい良心をもって出ようではありませんか。

 

 

 

 

 

 

■2010年7月18日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

  新造大事 しんぞうだいじ  up 2010.7.18


救いは形を整えることではなく、新しく造られることによる。


割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。
(ガラテヤ6:15)

 

 

 

 “Fire Storm ファイアー ストーム”
   
 2010年7月17日(土)〜18日(日)夏期聖会 
     辻秀彦牧師メッセージより
 

●聖会1 悔い改め=破壊
 「主は激しい流れのように来られる」(イザヤ59:19)
・「神の霊がすべての人に注がれる」という約束を、神はしてくださった。(ヨエル2:28)
・聖霊が下られる時〜嵐のような激しさがある。
 激しさとは
・そむきの罪によるあらゆる悪を罰する神様の態度。
・そむきの罪のひどさと主の激しさは比例する。
・神の前に生きようとする人は、不敬虔の中に入れない。

「御霊の激しい流れ」とは
・五旬節の御霊の訪れの出来事は、(ヨエル2:28)の預言の成就であり、また(ヨハネ16:7〜11)で、助け主という表現をされている。
・「罪と義と裁きの教え」が、私たちの内側で激しい嵐となり、この世に影響された私たちの価値観の誤りを認めさせる。
・過ちを指摘される時、冷静でおれず、感情が動き、まるで嵐が通るようにへし折られ、踏みつけられ、飛ばされる。
・私たちの根本的価値観を激しい流れで破壊してしまうこと。
  
   【Creative Destruction〜創造力のある破壊】

「創造性のある破壊」から、聖霊に満たされることを考える(使徒2章)
  
・悔い改めは、今までのものを捨てて180度方向を変えること。
・悔い改めとは、神の価値観に自分の価値観が入れ換えられること
・悔い改めは、激しい嵐、流れ、暴風雨である。
・悔い改め=破壊
・本当に悔い改めるものはないだろうか(イザヤ59:4をヒントに)
・罪に従っている罪深い自分に気付いていないことが問題
・もっと悔い改めるべきことに気付き、壊して新しい価値観をいただいて欲しい。

●聖会2「火と嵐」
・神は審判者であり、裁き主(詩篇50:3〜4)
・いけにえをささげる動機が問われている。〜形だけで心がこもらなくなっていないか。
・神がひとり子をおささげになって私たちを赦してくださった気持ちを感じ取ったなら、何とか応えていこうとするのが感謝の表れであり、誓いである。
審判者から悪者への責め(50:16〜22)
・みことばを無視し、大事にしていないことはないか。
・永遠の裁きが本当の裁きであり、懲らしめは地上で体験する様々の苦しみである。
・懲らしめは、本当の裁きが来るまでに心を入れ替えよという意味でもたらされる助言、忠告、責めである。
・悪者はこれを退ける。
・反抗は、この神の厳しさに対し、心が騒がせられて、激しい嵐となり、肉の心を閉ざすことである。
・姦通とは、ほかの神や教え(この世の価値観)この世的考え方にくみし、神を悪いとする。
・みことばさえ利用して自分を正しくし、欺きの舌を仕組んでいないか。
・厳密に一つ一つ見ていくと、いつも神の前に立つことは出来ないという気持ちがわいてきて、神のもたらされる嵐の前に誰も立つことは出来ない。
・悪人との違いは、神様からの指摘に対して力を恐れさせない肉の心を打ち壊し、悔い改めて道を正しくするところにある。
【焼き尽くす火を通った者が持つ誠実さが、救いをもたらす】
・黙示録にある新しい天と地が、永遠の裁きの後にやってくるように、神は新しい希望に私たちを導き入れ、永遠に生かすために罪を裁かれる。
・心を正直に明らかにし、神の裁きに委ね、罪を悔い改めて一からやり直そう。
・キリストを遣わして下さった神の愛を知ったものは、神が私たちが永遠の滅びに行くために嵐をもって裁きに来る方ではないと気付く。
・(ローマ6:4)(第2コリ5:17)(ローマ8:11)を見て下さい。
・神は肉を完全に取り除くまで、激しい流れと風と火と嵐をもって肉を裁きに来られる。
【感謝のいけにえをささげることが出来るように、嵐を受け焼き尽くされるように】
・実生活の中で役立たない学問は学問ではない(福沢諭吉)
・教会を愛することは、主を愛することと同じ。
・教会であるみなさんがばらばらになっているなら、神を愛しているとは言えない。
・キリストを愛するためにささげものをしていく。
・聖霊に満たされると「生きるのも主のため…」とみことばを行う力がわき上がり、死んだ行いから必ず離れ、キリストの似姿に近づいていく。
・聖霊様は、激しい流れでやって来られ、御霊の思いを拒む肉の価値観をあらわにするよう働かれる。
・神なくして人はちりあくた、と傲慢さ、横柄さを思い知らされ、申し訳ない気持ちをあふれさせる。
 
●聖会3 『新造大事 しんぞうだいじ」
 (ガラテヤ6:15)
・救いは形を整えることではなく、新しく造られることによる。
・形を整えることは大切だが、doing(行い)が救いにつながると錯覚してはいないだろうか。
・古い肉の行い、的外れの行動をさせる。
・新しい=霊の行い(ガラテヤ5:19〜23) 
・肉中心の生活は神から引き離されるが、霊中心の生活は義(神に受け入れられる状態)であり、救いである。

 個人的新造大事
・(ローマ6:4)キリストが神の激しい裁きを十字架で、私たちの身代わりに受けてくださった。キリストが新しいからだでよみがえられたように、私たちも間接的に裁きを受け、以前とは違う新しい自分に生きることができる=洗礼
・(第2コリント5:17)古いものと新しいものの間に、キリストによって裁きを受けたことが、暗黙のうちに示されている。
・(コロサイ3:10)新創造されるたびに嵐(懲らしめ)を通り、古いものを処分していかねばならない。
・(ヘブル12:5)懲らしめは次の段階に進むために、凝り固まった姿勢、価値観を一旦壊すためのものである。
・(エペソ5:26〜27)キリストは、罪深い教会の借金を全部肩代わりして、しみもしわもそのようなものの何一つない栄光の教会の出現を待っておられる。

 宇宙的新造大事(黙示録21:5)
・被造物全体が新しく造られる大切さがある。
 ・新しい天と地に入るために、例外なく救われるため、すべてのアダムの子孫が招かれた。
・イエス・キリストという救いの門から入らず、違う門を探して、古い世界に残った者は裁かれる。
・新造大事は、公にされた神の宣言であり、大切なポイントである・新造のためには、それまでの古いものを処分することを伴っている。
 
 激しさはいつまで(ミカ7:9)
・神の激しさは、破壊完了まで続く。
・(9節)訴えがなければ滅ぼされるまで激しさが続く。
(マタイ18:24〜27)
・(25節)一生かかっても返せない莫大な借金をしたしもべへの、王様の激しい裁きのことばであり、激しい嵐である。
・しもべはあわれみを請うて命乞いをし、猶予を求めた。
・神は滅ぼすことを目的とされていない。
・王様は、しもべが返しきれないことを知っておられ、しもべの怠慢、高慢を砕くため、1万タラントの返済を激しく求められた。
・彼は一度ぺっしゃんこに砕かれた(自分が無きに等しく、助けがないと生きていけない悔いくずおれた心であわれみを求めた)時に、王様の心が動かされた。
・「罪の裁きから救われるためにどうしたらいいのですか」と神を畏れる心からあわれみを請う気持ちが湧き上がってきてこそ、神への揺るぎない信仰に立った歩みをすることができる。
 正しく裁いて
・律法が人を生かすためにあるように、裁きも人を生かすためにある。
(ヤコブ2:13)自分の思い通りのあわれみの方法で、神に施しを求めるのは身勝手である。
 
 まとめ
【主があわれんでくださらなければ、私たちは裁きの中で滅んでしまう。】
・悔い改めの実は、同僚をあわれむかどうかで試される。(あわれまれたことに感動して、人をあわれんでいくのが、悔い改めにふさわしい実である。)
 あなたが赦されたのだから、人を赦しなさい
・王様は、しもべたちと人格的信頼関係の結びつきを願っていたからこそ、あわれみを持ってこられた。(あわれみは裁きに向かって勝ち誇る〜ヤコブ2:13)
・正しい裁きは、律法よりあわれみの方が勝っている。
・あわれみによって罪をおおうという裁きは、優れた裁きである。(手本はキリスト)
・私たちが出来ることは、人を赦すことである。
 『時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。』
(マルコ1:15)
・創造力のある破壊が含まれたことばであり、あわれみによって私たちは再び立ち上げられるという救い、福音を宣べ伝えるようにということである。
・神様からの幾度も激しい嵐にあう度に、ただへりくだって、「あわれみを感謝します」という心が、主を賛美するにふさわしいと悟って欲しい。

 

 

 

 

 

 

■2010年7月11日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

  温命知神 おんめいちしん  up 2010.7.11


いのちのパンである神のことばに生きるなら、
さらに深く主なる神を知ることができる。


もし、私たちが神の命令を守るなら、それによって、私たちは神を知っていることがわかります。
(第1ヨハネ2:3)

 

 

 

 今週のポイントからですが、私たちはお互いを知れば知るほど、相手の良さがわかってくるものです。嫌だと思っていたことも、理解することができるようになります。また、親しさが増せば、相手の希望に応えていこうという気持ちも増します。ですから、私たちはもっと主を知ることで、「すばらしい方に会えた」「すばらしい
方を知った」と、お金や他の物質や、世界中のどんなものにも代えられないすばらしさを満たしていこうではありませんか。
 では今週のみことばをごらんください。このことばを逆に考えれば、命令を守れないなら神を知っているとは言えないことになります。命令は、私たちを良いものにするために与えられている預言、教え、ルールです。しかし、私たちには「命令されること」自体に反発しようとする性質があります。その性質は相手をよく知らないがために湧き上がってくるものです。相手をよい意味でよく知っていれば、命令に込められている相手の深い配慮を察することができるため、喜んで従うことができます。
 そこで、今回のテーマ「温命知神」ですが、昔、温かい食物はごちそうでした。家族が食卓を囲む日々の生活において、常に温かい食事を並べることができるのは、本当に裕福な家庭だけでした。貧しい者は日に一度火を焚けば十分で、それ以上はぜいたくだったのです。しかし私たちはみことばというごちそうを日々温め、その本当の味わいを知ることができます。人を赦す前に、自分がどれほど赦されているかを、愛する前に、どれだけ愛されているかを。みことばを温めることによって、神様の深い御心を本当に味わうのです。それはいのちであり、みことばに沿う生き方こそ、いのちがある状態といえます。できるかできないかはさておいて、「やってみよう」と挑戦してみるほどの温めが、今必要ではないでしょうか。

1.神を知る大切さ
(1)人間にとっての神(ホセア6:3)
“私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現れ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。”
 私たちは、良いものを見つけたり知ったりすると、それを更に知ろう、更に得ようと好奇心をかき立てられ、情熱をもって追い求める性質がありますね。ですから、ここでの「追い求めよう」は正に、すばらしい神様であることを表現していると言えます。

A)あなたにとって「主は暁の光のように、確かに現れ」とは?
 暁は夜明け頃、暗闇から太陽が昇ってくるまでの間を指します。
自然界では暁の前は真の暗闇の時間であり、よからぬ生き物が徘徊する時間でもあります。しかし、地球は回っていて、朝は必ずやってきます。同様に、人生が真の暗闇でも、主は暁のように必ず光を上らせてくださいます。助けを、救いを、希望をもたらしてくださるのです。このお方と、良いつながりをもっていたいものですね。

B)あなたにとって「主は大雨のように来る」とは?
 いい意味での「大雨」はどんなイメージでしょうか?それは普通の雨ではできないこと、たとえば地面や建物や空気中の汚れまできれいさっぱり洗い流してくれます。神様も私たちの霊、心、魂の汚れを何もかも洗い流して、すっかりきれいにしてくださいます。

C)あなたにとって「主は後の雨のように潤される」とは?
「後の雨」⇒3月から4月頃に降る雨のことで、穀物の豊かな実りをも たらす。
 この雨が収穫を左右します。絶対に必要な雨なのです。私たちの人生にも最高の結果がもたらされるために、神様の雨が与えられるのだと考えることができます。
 A〜Cの3つのポイントは、私たちが力強く輝いて、生き生きとしたクリスチャン生活を送るために、またどんなマイナスの暗闇の出来事にも、災いにも患難にもうちひしがれることなく、たとえ倒れたとしても再び立ち上がって、またその問題にチャレンジして乗り越えていくという、力強い人生を歩むために、主を知ることは非常に大切なことだと語っています。

(2)出会いで変わる人生(ヨハネ1:40〜42)
“ヨハネから聞いて、イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト)に会った。」と言った。彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。イエスはシモンに目を留めて言われた。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします。」”
 偉大なすばらしい人に出会えば、私たちの人生は変わります。漁師だったアンデレとその兄弟ペテロは、イエス様に出会ったたことによって、生業であった漁師と持ち物全部を捨てて、イエス様の弟子になりました。自分の過去を振り返って、自分をいい方向に変えてくれた出会いは何であったか、あるいは悪い方向に変えたのはどんな出会いだったかを思い返してみましょう。神を知ることは、自分を全く別次元の良いものへと変える良き出会いであることを肝に命じて、それを求めていきましょう。

2.神を知ることによって
(1)平和を愛するようになる(イザヤ11:6〜9)
“狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。”
 「聖なる山」とは教会を指しています。敵対関係にあるはずの動物たちが仲良くしている描写は、お互い平和に暮らすことのできる状況が起こっているからです。「獅子がわらを食う」のは、神を知ることによって、心が平和で満たされている状態を表しています。クリスチャンになった人には、人を傷つける、争うということに対する拒絶感、非常に敏感な悲しみの心が生まれます。それは神様を知ったことによって、私たちの内に平和を愛する心が生まれたしるしです。もしあなたが獅子のような人ならば、わらを食うほどに柔和な心に変えられ、もし子羊のようにか弱いのなら、クリスチャンであるあなたの友は、たとえ本来が狼のような者であっても、決してあなたに害を加えることはありません。なぜなら、主の平和が心に満ちているからです。
 「敵を愛しなさい」とイエス様が語られています。敵が飢えているなら食べさせ、渇いているなら飲ませなさい、と。敵にさえもあわれみや好意や助けや親切を与えることによって、神を畏れる心、正しい良心が彼らの心に起こされ、平和を愛したい、争いたくないという気持ちが生まれることを願うからです。それは武力による制圧ではなく、神を知る、神を愛する姿勢が私たちの生活に表れることによって、真の平和をもたらすという意味でもあります。

(2)愛を持つ(第1ヨハネ4:7)
“愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。”
 神様を知ることにより、私たちは愛のない行動をいとう気持ちが心に強く起こされてきます。以前の罪深い肉の、自己中心的な思いによる習慣などが残っていても、私たちは新しい良心によってそれらを恥じ、きらい、捨てようとする思いに変わっています。たとえ実際には肉の行動をしてしまってから反省していたとしても、成長していけば、そんな憎しみや争いや敵対心の感情や思いや古い考えが自分の心に押し寄せて来た時、それを行動に移す前に、神を知っているということの力強さが、そういう自己中心的なわがままな醜い肉の心を支配し、止めることができます。ぜひ、そこまで神を知っていただきたいのです。自分の力ではこんなことは絶対できません。神を知って力を与えられ、神の力が私たちに敵を赦し、愛し、柔和で寛容で平和を維持しようと努力する力を湧き上がらせてくださるのです。これが神を知ることによって得ることのできる力です。神を知ることの大切さとすばらしさに、ぜひ気付いてください。

3.どのようにして神を知ることができるのか
(1)被造物をとおして(ローマ1:20)
“神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。”
 今の学問を究めていくことによって、ますますこの世界の仕組みが偶然の産物でないことが証明されつつあります。ネットや本で調べるもよし、実際に自然に触れることによって、神様が創造されたいのちを肌で感じるのも良いでしょう。

(2)御霊に満たされることによって(エペソ1:17) 
“どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。”
 直接神様に触れる方法もあります。たいていの人は直感的に神様はいると思っていますが、よく知らないので勝手に名前をつけたりしています。しかし、本当のことを知りたければ、直接会えばいいのです。すごい彫刻を作る芸術家に会いにいくようなものです。私たちの場合は、神の御霊に満たされることによって、神ご自身を啓示していただき、またそれを知るための知恵を与えられます。
 「神様を知るために御霊に満たされる」というのが、今回の聖会の目的でもあります。現在から未来まで中途半端なクリスチャン生活を変化もなく続けて、人生の喜びも生きがいもつかめずに、ただ形ばかりのクリスチャンの姿を維持していくだけの人生では、何のために神様が私たちをこの地上に残してくださっているのかわかりません。ギリギリで天国に行けるかどうかの信仰を持ち続けているクリスチャン生活なんて、空しいものです。クリスチャンであるのは当たり前で、それ以上にやって欲しいことがあるからこそ、神様は私たちをこの世界に置いてくださっているのです。しかし、与えられた役目を成し遂げるためには、私たちの内に湧き上がる動機付け、湧き上がる意欲が必要です。これらは神を知ることによって湧き上がってくるものです。誰かの計画に自分の身を投じる決意、意欲、勇気は、相手の魅力を知らなければ出てきません。たとえば自分にとって興味のない分野のことでも、専門家が手取り足取り詳しく教えてくれたなら、「やってみたい」と思うことがあるはずです。「出会い、知る」ことは、私たちに前向きなエネルギーを与えます。あなたの「うまくいかない」クリスチャン生活は、「主を知ろう」としないで、心が離れているからではないでしょうか。「何か事を成す」のは、「主を知る」という基本があってこそ初めて価値を持つのです。「成す」ことに心を向けると、「やり遂げた」という自己満足が、主に栄光を帰さずに自分に栄光を帰するという罪になります。
 しかし、「主を知る」ことによって湧き上がる力がなさしめた成功は、決して自分のものにはならず、「主の御力によってこれらのことがなされた」という謙虚な心で、主に栄光を帰します。私たちは日々の生活の中で、いつの間にか「成し遂げた自分」に栄光を帰して、主の栄光を奪っていないか、注意して見ていく必要があります。「神様に助けられなくても私はここまでできている。その残りを神様は支えてくださっているのだ。」というような、自分に名誉を求める肉の思いがどこかに隠れていないでしょうか。それだから神は、私たちを練りきよめられ、試みにあわせ、苦しみによって心の目が開かれるようにと、愛をもって導いておられるのです。
 ぜひこの聖会において心を探っていただき、心が純真な思いで「今まで以上にもっと主を知ろう、そのすばらしさを味わいたい」と、そのすばらしさに触れることによって、もっと輝いた生き方、いのちに溢れたクリスチャン生活を歩めるよう、求めていただきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

■2010年7月4日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

  飲水思源 いんすいしげん  up 2010.7.4


物事の基本を忘れないという戒めの語。
水を飲む時、その水源のことを思う意から。


あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。
(ルカ6:36)

 

 

 

 私たちの信仰の理念は、「神の前における正しい良心をそなえた、あわれみ豊かな教会」です。互いにあわれみを施す良いクリスチャン関係をさらに築き上げていくために、今週も学んでいきたいと思います。
(ルカ6:36)子どもは親に似るものです。ですから、私たちが神の子と呼ばれる以上、神に似た者となっていくのはごく自然なことではないでしょうか。
 私たちのすばらしい霊の父なる神のように、あわれみ深くなりたいものです。ではどうしたら、このあわれみが私たちのうちにあふれてくるようになるのでしょうか。その秘訣が「飲水思源」という言葉に表されています。
昔から、良い水は本当に貴重なものでした。これは大自然の恵みと言えます。昔の人々は、この大自然の恩恵を神としてあがめ、敬虔な心を持って、大切に使いました。
 私たちの恩恵は父なる神から来ています。すべてを造り出し、私たちを生み出してくださった父なる神こそが、すべての源なのです。

1.「あわれみ」
深いあわれみ(oiktirmon)=慈悲深い、慈しみ深い
             寛大な行為を表して、安堵を与えること。
あわれみ(eleeo⇒eleos)=同情する、助ける、あわれむ、慈善をする
             神から人間に求められる、互いに対する振る舞いのことを指す。
 「あわれみ」は、単に「かわいそう」という意味ではなく、慈しみも表しています。ヘブル語、ギリシャ語の「あわれみ」という意味は、神から人間に求められる、互いに対する振る舞いのことを指します。互いに愛し合う愛は「あわれみを持ち合う」ことが中心になります。

2.父なる神のあわれみ(エペソ2:4〜7)
“しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜る慈愛によって明らかにお示しになるためでした。”
 神は豊かなあわれみをもって、私たちを愛してくださっています。それは、神に敵対し、不敬虔である私たちを、それにもかかわらず神に役立つ者として救い、造りかえてくださる大きな愛です。そして、単に役立つ者とされるだけでなく、天の所にすわらせてくださったのです。それは、天に席を設けられるということであり、高い、重要な身分を与えてくださったということです。そのために、罪の赦しの大きな犠牲を払ってくださったのです。
 神のこの大きなあわれみ、慈愛を説明するのに、言葉では限界があります。私たちが自分の人生においていろいろな経験をし、いろいろな出会いを通して、あわれみを受けるということがどんなに大きな恵みであるかを知ることが必要です。神のあわれみの愛を感じ取ることが、非常に大切なことです。それによって心が目覚めていきます。「あわれみが嫌だ」と言う人は、あわれみがどのようなものかを知らないか、もしくは高慢になってしまっている可能性があります。〔内容観察〕に、「寛大な処置を施してくださった」とありますが、それは何か利益を得るからとか、利己的な理由からではなく、ただ私たちを愛してくださったことによります。このような神の愛を、魂と霊で感じ取ってください。
 ことばは霊ですから、あわれみを表したみことばを、何回も魂に聞かせることによって、ことばなる神様の臨在に私たちの霊が触れられ、知識ではなく悟りとして理解していけるようになります。

3.人が人をあわれむ(第1ヨハネ3:17)
“世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。”
【内容観察】
「神があわれんでくださった愛をとどめていない者が、どうして、困って いる兄弟にあわれみの心を向けることができるでしょう。」
 神のあわれみを感じ取り、神のあわれみに触れなければ、人をあわれむことはできません。優越感からのあわれみではない、神の与えてくださるあわれみは、感じ取らなければわからないものです。あわれみを感じると、心は柔らかく優しくなってきます。この世的なあわれみという意味と、神の言われるあわれみは異なります。
 私たちは足らない者同士だからこそ、互いにあわれみ合い、助け合うことが大切です。夫と妻も、互いに持っていないものを相手が持っているからこそ、互いにあわれみ合い、一つになれるのです。思いやる心、寛大な心を示すのもあわれみです。あわれみは安心を与え、本心を表し、本心に立ち返ることができます。死の恐怖に縛られていた私たちも、イエス様に出会い、死からよみがえられたイエス様のあわれみによって、死は終わりでないということを教えられ、安堵して生きていくことができるようになったのです。そして与えられた時間を、神の子として成長していくために用いるようになりました。

〔まとめ〕
「私たちが互いに愛し合う愛とは、主が私たちをあわれんでくださった愛のように、あわれみの愛によって愛し合うことである。
そして、あわれみを正しく感じ受けとめた人は、必ず、正しくあわれみを施す愛がわきあがってくる。」
 (ヨハネ13:34)に、イエス様は、“「わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」”と言われました。イエス様はどのように、私たちを愛してくださったのでしょう。それは、あわれみの愛です。私たちが安心して永遠のいのちを生きるために、寛大な処置をなしてくださったのです。そのように、互いに愛し合うように言ってくださっているのです。あわれみを正しく受け取り、感じ取った人は、必ずあわれみをもって愛することができるようになります。弱いところ、欠点に、あわれみをいかに受けているかがわかった時に、心がへりくだることができます。しかし逆に、弱いところ、欠点を指摘され、責められると、私たちは心を閉ざして高慢になります。それは敵対心を持つからです。ですから、あわれみの愛を受け取ることによって、あなたは優しくなれます。「優しい心」とは、へりくだれるということです。ありのままの自分をさらけ出した時に、その自分の悪い部分を補ってくれるというのが、あわれみの愛です。このあわれみを経験することが大切です。
 私(辻師)は口べたであり、話すのが苦手であるにもかかわらず、神が牧師としてここに置いてくださったと感じるゆえに、そのあわれみを経験しているゆえに、優しくなることができます。そのあわれみを忘れると高慢になり、肉の欲が出てきて、プライドが出てきます。そして争う心が起きてきます。こういう感情が出てきた時にはいつも、牧師として置いてくださっている神のあわれみを思い起こすようにしています。正しく愛を感じ受けとめたら、あわれみが湧いてきます。そして、敵対してくる人にも、あわれみを受けて赦された自分と似ているところを見い出し、その心情を思いやることができるようになります。

☆考えてみましょう
(1)(マタイ18:33)
“「『私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』」”
【質問】あわれみを受けたなら、どうして仲間をあわれむべきなのか?
 「べき」とは、当然しないといけないことです。なぜでしょう。
王様にとっては、1万タラントを赦したしもべも、百タラント借りていたしもべも、同等にしもべなのです。ですから、このしもべ同士でもめることは心の痛むことです。王様は自分の働きを助けるしもべを、大切にしたいのです。ですから、王様は悲しまれたのです。
神はあなたの大きな借金を赦してくださっています。それなのに、クリスチャン同士でいがみあっているなら、神は本当に悲しまれます。仲間同士、同じ群れはよけいにあわれみ合うべきです。愛の源なる神を思って赦し合うことが大切です。
(2)(ローマ9:15)
“神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました。”
 きよい良心から考えないと、誤解してしまうみことばです。きよくない良心から考えると、神はわがままで勝手だと受けとめてしまうでしょう。しかし、きよい良心で考えてみましょう。ここから、神はあわれみ深い方であると、どうやって説明できますか?神の主権、地位の高さを踏まえて考えてみましょう。
 例えばあなたが物を選ぶ権利を持っていて、テーブルの上に並んだたくさんのごちそうから、最もおいしい物を選んで賞金を与えるとします。味見をしていくあなたを、料理を作った人が真剣に見つめます。その中から、あなたは自分の味覚に合った料理を選ぶでしょう。選ばれなかった人が、それを責めることはできません。
あわれみ、慈しむとは、「選ばれる」ということです。神からあわれまれて選ばれるということがどんなにすごいことかを、このみことばは表しています。大きな地位と権利のある方によって、罪人である私たちが選ばれたのです。その選ばれたすばらしさ、大きさを、私たちは感じとらないといけません。
 神にあわれまれ、選ばれるとは、何とすばらしいことでしょう。喜びが湧き上がってきます。