■2010年6月27日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

  力戦奮闘 りきせんふんとう  up 2010.6.27


力を尽くして、自分の能力をふるうこと。
力戦=全力を注いで努力する。
奮闘=気力を奮い立たせて戦う。


力強い信頼は主を恐れることにあり、子たちの避け所となる。
(箴言14:26)


 
 人を生かす良い動機を心に持つことが大事だとわかっていても、なかなか湧き上がってこず、むしろ感情的な怒りや嫉妬、敵対する思いが先に出て来て、クリスチャンであることに失望する繰り返しが多い信仰生活かもわかりません。そうすると、徐々にイエス様を信じた時の動機が弱っていき、信仰生活の長い人ほど「まあこんなものだ」と、ゴールに達していないのに、途中であきらめのクリスチャン生活に落ち着いてしまう問題点に陥ってしまうのではないでしょうか。
 神様の願っておられる目的地まで私たちが到達するために、いかに良い動機を保っていくか、という点も含めてお話させていただきたいと思います。

1.(箴言14:26)
“〜前述〜”
「主をおそれることにあり」⇒きよい良心の権威のこと。
 私たちの心は「光とやみ」「肉と御霊」と、2つの対立する領域がありますが、きよい良心の領域とは、救い主イエス・キリストを唯一の神として尊び敬う、イエス・キリストの血潮によってきよめられた領域のことです。
「力強い」⇒あることに心を集中し続けること。
 力は分散されると弱くなります。
「信頼は」⇒良くなろうとする動機をもたらすもの。
「子たち」⇒次世代、家族、付き従う者たちのこと。
「避けどころ」⇒安全安心な場所。身を守る。健全さを保つ。
【前向きな向上心を保つ努力は、目的達成のための努力につながる。心がなえていては、努力を続けることはできない。】
 スポーツの世界に限らず、人生においても心がなえていたら、努力することに大きな影響を及ぼし、勝利できません。私たちも、イエス様を信じているのに罪に負けているという意識があり、罪に勝利できません。「イエス様にはできても、私にはできない。」という信仰を持っていたりします。主を畏れるという領域に私たちの心をしっかり置くことを考えていただきたいと思います。

2.動機を取り戻す(ヨハネ5:2〜9)
“さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていた。そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。”
 ベテスダ(=神のあわれみの家の意)の池に天使が降りてきて、水をかき回した時、最初に池に入った人はいやされるという言い伝えがありました。38年間も伏せっていた人も、最初は治りたかったはずですが、いつか最初に飛び込むことができるだろうという望みを持って、年月ばかりが過ぎていったのです。彼は治ることを、もうあきらめようとしていたかもしれません。飛び込むこともできず、いやされないまま38年間も池の側にいるなら、心境がどう変化するか想像してみてください。
 イエス様はよくなりたいと思ってベテスダの池に来ているその彼に、「よくなりたいか。」と質問されました。イエス様はいったい何を考えておられたのでしょうか。イエス様は彼の「治りたい」という動機を探られるために、質問されたのです。治りたい気持ちがあった彼は言い訳し、「池に入れてくれる人がいない」という問題点を指摘しました。イエス様は「よくなりたいか。」ときかれたのであって、言い訳を聞いておられるのではありません。私たちも「みことばを行えていない。神の前に喜ばれないことを行い続けている。」と自分で自分を咎めていることはないでしょうか。そして神の前に一番良くない点は「それ以上、どうしてもできない。」と伏せってしまうことです。気持ちはあっても問題点に意識がいって立ち止まってしまい、通り越えようという努力をしないでいます。動機を失っているからです。ぜひ気持ちと動機付けは違うことに気付いていただきたいと思います。今の信仰生活が「なぜ成長しないのだろう。」「なぜ新しい領域に入れないのだろう。」と思いつつも、クリスチャン生活の長い人ほど無意識にそこに伏せっているのではないでしょうか。問題点に意識を持ちすぎて、気力、動機を失っている現状かもしれません。
 また、「行きかける」とは、周りを見て、私も行きたいと人ばかり見て、行動もせず、気持ちだけ動いている状態です。これはクリスチャンが無意識にやっていることです。もし彼に「よくなりたいのです。主よ。」と内側に動機があれば、必ず池に入っていやされるだろうからと、イエス様は彼のところには来なかったはずです。しかし、気持ちはあっても不信仰で否定的な弱い心のまま同じ状態にいる彼をあわれんで、イエス様はベテスダ(あわれみの家)の彼のもとに来られたのです。いやしを与えるというより、治りたいという動機を与えるため、心に力を与えるためにです。

a)問題点に意識がとらわれて、解決できない問題であると思い込んでいる
ことが、動機を失う原因となっている。

b)自分を良く見せるための言い訳である「一生懸命やりました」という自
 己義のポーズが動機を失わせている。
 本来彼は、「よくなりたい」ことのために、この池に一番に入るために常に努力をし、目的に近づく意気込みがある説明ができるはずでした。しかし動機がなかったために、問題点を指摘して、できない理由を挙げ、しかし一生懸命やっているポーズをとって「自分は正しいのだが、他の人が手伝ってくれない。私なりに一生懸命やっています。」と言い訳したのでした。言い訳をし始めると動機を失い、やり遂げようという思いがそがれていきます。問題ばかり見ていると、「何をやってもダメ」とやる気をなくしていきます。一度だけの努力でできないと「何をやってもできない」と思い、気持ちはあっても努力しなくなります。
 象は、子象の時に絶対抜けない杭につながれて逃げられない印象を与えられると、大きくなっても、ただの木の杭でもあきらめて逃げないのだそうです。私たちも、できないことが多く出てくると気持ちがそがれてしまって、あきらめていないでしょうか。「聖書を読めない。祈りたいけどなかなか教会に行けない。」と言いながら、夜中3時30分からのワールドカップサッカーの実況中継は必死で見る…。何が違うのでしょうか。

3.何が動機をもたらすのか
 イエス様は、気持ちはあっても行動に移す動機を失い、自己義を表し、自分をカバーする言い訳をした、見せかけの信仰を持った彼に、面と向かって言われました。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」と。この時の状況をぜひ思い描いてみてください。イエス様と病人の距離は、おそらくイエス様の真剣な眼差しをすぐ側で感じるほどに近いものであったと思われます。いやされない状況を説明する彼をじっと見られ、失望し弱って助けが必要と感じている心に、「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」とイエス様は言われたのです。そんな間近で言われたらどう感じるでしょうか。また、言葉をかけてくれる人がどういう人かによって、やってみようという動機付けが与えられます。私(辻師)は高校生の時、先生の言葉でやる気を引き出される体験をしました。人間でさえ、失望した人に力を与える力強い言葉を語れるなら、イエス様の言葉は、聞く者にどれだけ前向きな気持ちを与えることができるでしょうか。言葉は人の心を動かし、変えていきます。

a)イエス様が語られたことばは、霊でありいのちです。
“「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」”
(ヨハネ6:63)
 病人にいのちのことばを与えることによって、「良くなろう」という動機がもたらされた。

b)起きて⇒目をさませ。問題点から目を離せ。
 床を取り上げ⇒自己義を片付けよ。
 歩きなさい⇒今、持っている力で努力しなさい。力戦奮闘。
 「肉は何の役にも立たない」とは、神の前に全人格的に生かされるのは霊であり、すなわち内側から湧き上がってくる「よくなりたい」という、込み上げてくる向上心と前向きな気持ちが、罪の力に支配されている肉の働きさえも支配し、神のみこころを行えるということを言いたかったのではないでしょうか。肉だけの思いで行動したのであれば、単なる肉の欲望を満たした自己満足で終わってしまい、あなたの存在価値、目的を一つも達せられないということなのです。
 皆さん、今日のみことばを知識として聞いたならば、何の動機付けも与えられないでしょう。自己中心の捉え方でみことばを聞いても、メッセージを当たり外れで評価して終わることでしょう。話の内容の良否を問うこと自体、自分本位の捉え方をしていることになりはしないでしょうか。本当に「よくなりたい」と思って、神がメッセンジャーを通して霊といのちを伝える動機を与えていると感じ取る人は、私(辻師)の言葉を前向きに捉え、理解してくれます。私ではなく主を見ているからです。大事なことは内側に動機付けが与えられ、持続していくことです。そうすれば必ず行動に表れ、実現に至るからです。「信仰のことば」を聞いて、「よし、やってみよう」と一週間チャレンジする動機が与えられることが、最も大事なことです。みことばへの理解以上に、その与えられた動機付けを、御霊様が知識においても心においても理解させてくださいます。心の中の努力は、実際の努力に比例していきます。あなたの生活は動機を奪われていませんか。「動機」の「機」という字は機織りから由来しており、動かすために複雑なからくりがあるということです。私たちの行動のもとは、心の中の見えない複雑なからくりからやってきています。心の中で、神を畏れる領域を意識する努力をして初めて、実際の生活で努力を実らせることができるということです。これが私の言いたいポイントです。

〔チャレンジしてほしいみことば〕
“もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。”(ローマ14:8)
 クリスチャンが、自己中心の自分の欲望を満たしたい無意識の肉からの気持ちでこのみことばを聞くなら、「その通りですが、でも…。」と、人のせいにしたり、いろいろできない理由をつけてしまったりするようになります。しかし、どんな状況、環境であろうと、イエス・キリストの贖いのみわざを、神の愛によって感動して受け入れているなら、「私は主のもの」と悟っているはずで、「私の所有権は神様にあるのでどうぞ好きなようにしてください、生きるのも死ぬのもすべてあなたのためです。」と、主のために生きる動機付けが湧いてきます。私たちは日々、この二つの違った反応が出て葛藤します。このみことばを喜んで「そうだ」と思って取りかかるのと、「そこまでいってないので…」と気持ちだけで取りかかるのでは、実際どんな違いが出るでしょうか。
 力戦奮闘  あなたの持っている力で主が「せよ」と言われることにチャレンジしてください。心の中の不信仰に対して、気力を奮ってしっかり戦うなら、必ず行動における努力もできるようになります。その努力の積み重ねに対して、あなたの足りないところに神様の助けの力が及び、完成させてくださいます。神はお一人ですべてをされる方ではなく、私たちを用いて共同で事を成されたいのです。病人は伏せっているからといって何もできないわけではなく、彼の持っている力で工夫できたはずです。パラリンピックで障害を持たれた方が如何なく力を発揮されています。持っている力を磨き、訓練、工夫を積み重ね、優れた結果を出されました。生きている信仰は、自分の持っている力をあきらめずに出し続ける時、生まれてくる小さな信仰の積み重ねが山を動かすという、大きな結果を生み出すのではないでしょうか.神はそれを願っておられます。神の前で私たちの人生をどのように全うするか、まして、神の愛を知って、動機付けを与えられている私たちが、じっと何もしないでいるのはどうでしょうか。私たちの小さな力で神の奇跡を呼び起こすための、小さな努力が必要です。神を畏れる、きよめられた良心に意識を置き続けるという努力、すなわち信仰姿勢が大切です。
 力強い信仰を、主を畏れるという領域に保ち続けるという力が、あなたのクリスチャン生活、人生を変えていくのです。それは神への信仰です。みことばを聞いて「そうだ」という気持ちになれたなら、一週間、消え失せない動機をぜひ保っていただきたいと思います。それは必ず、結果を伴ってきます。

 

 

 

 

 

 

■2010年6月20日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

  愛建人徳 あいけんじんとく  up 2010.6.20


「愛」というものは、人を神の御姿にまで建て上げるものである。


次に、偶像にささげた肉についてですが、私たちはみな知識を持っているということなら、わかっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。
(第1コリント8:1)


 

 愛というものは、人を神の似姿にまで建て上げるものです。私たちは、この世的な愛ではなく、無限の神そのものであられる愛を、もっと注意深く知っていく必要があります。

1.(第1コリント8:1)の意味を考える
“〜前述〜”
 「偶像」というのは、人の貪欲を満たすために作り出された、実は存在しない神のことです。ですから、本来定義づけられる「神」という存在に該当するお方は、私たちの信じる神ただお一人です。その他の偶像は、人が修行したり悟ったりした内容を神と呼んでいるに過ぎません。聖書の神だけが、ご自身天からお下りになり、まずイスラエル人たちにご自身を現され、さらに世界中の人々にもご自身を現された方です。その存在の確かさは、40人もの筆者によって1500年の長きに渡って記録されてきた聖書の整合性によっても証明されます。
 次に「ささげる」ということばについてですが、これには「礼拝する、仕える、服する」などの意味があります。神ならぬものを礼拝し、それに仕え、服するのです。
 また「肉」とは、自分の身代わりを指します。つまり、自分をささげると表明しているのです。もともと肉はとても高価なもので、年に一度祭りの日に食べられるかどうかという、庶民には高嶺の花の食材です。それをささげるのですから、ささげる相手への服従の姿勢がわかりますね。
 さて、私たちクリスチャンは「偶像にささげた肉」についての対処法を、イエス様とその教えをいただいているので、わかっている、と書いてあります。ではここで記されている、「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てる」とは、何でしょうか。人は自分だけの何かがあると、優越感を持ちやすいものです。それが物質であれ、知識であれ、他人より優れていると思われるものがあると、すぐ自分を偉い者のように思ってしまいます。だからここで、知識を愛によって働かせることによって初めて、知識は本来あるべき使い方をすることができるのだと言っているのです。「愛は人の徳を建てます」の部分は、ギリシャ語では「愛は建てます」と書いてあります。愛は、計り知れないほど様々なものを「建て上げる」ことができます。その働きは、対象が完成するまで続くのです。愛を使わない知識では、実際には達成していない目標にあたかも達したかのような愚かしいプライド、宙に浮いたプライドだけを持ってしまいます。みことばだけを知っていても、それはあなたを幸せにはしません。愛によってみことばが生かされることで、初めてあなたは幸せになれるのです。

2.与えられている愛(第1ヨハネ3:1)
“私たちが神の子どもと呼ばれるために、ーー事実、いま私たちは神の子どもですーー御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからす。”
 この世の人々は愛なる神様を知らず、また理解できないので、私たちの生き方も理解できません。神様が私たちに与えてくださった愛の価値については、「どんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう」ということばに凝縮されています。このことを私たちが置かれている世界にあてはめて考えてみましょう。私たち一般庶民が考えることのできる「最高のプレゼント」と、世界一の大富豪や最高の知識人、世界一の権威者が思う「最高のプレゼント」では、いかに違いがあることか。同じ思いで人を愛し、自分のできる限りの犠牲をお互いに払っています。しかしプレゼントの内容は、その人の持つ様々な力の内容によって、大きく違ってしまうのです。ならば、全知全能の神であられる方が私たちに与えてくださるものは、他のどんなものも足下にも及ばないほどすばらしいに決まっていますね。天使も悪魔も、その他のどんな力あるものも、全存在の根源たる絶対者に勝る贈り物など不可能です。そして、その御父からの愛のプレゼントは、「ひとり子イエス・キリストのいのち」だったのです。イエス・キリストの苦しみと死と葬りと復活は、他の誰も真似できない最上かつ唯一無二のプレゼントなのです。もらったプレゼントに関心がある人、そのプレゼントが好きなものであった人は、大変に喜びます。しかしそれを放り出してしまう人は、関心もないし、好きでもないのです。自分の願いがかなうことにのみ熱心な人は、この偉大なプレゼントに興味がありません。
 クリスチャンとして生きるほどに、自分のできなさ、ふがいなさを知って苦しくなっている人、その人のためにこの愛は示されました。「神様に愛されていることのみが、自分の存在価値である」とわかることによって、目先の目標ではなく、神様の愛に関心が向きます。すると、神の愛はその人を成長させ、完成させます。これ以外に、人が成長する方法はありません。

3.聖霊による(ローマ5:3〜5)
“そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。”
 私たち自身は、目的を示されただけでは何もできない、力のない者です。助けてくださる方が必要なのです。ここで言われている「希望」とは目指すべきゴールのことですが、失望で終わらないのなら、必ずゴールにたどり着けるはずです。しかし、患難も忍耐も練られることも非常に苦しいことです。なぜ耐えられるのでしょうか。クリスチャン生活は決して安楽をもたらしません。なのに喜べる、嬉しくなる、楽しみさえ感じることができる、それはなぜでしょうか。そこにやりがい、達成感があるからです。そして、これらの前向きな気持ちを支え続けてくださるのが、聖霊様の働きなのです。
 私たちを破壊しようとするあらゆる働きに対して、聖霊様が注ぎ続けてくださっている愛の力によって、壊そうとする働きがかえって私たちを建て上げる結果をもたらします。この愛なくしては、人は人生を生き抜くことはできません。ゴールどころか、目の前にある患難に打ち勝つことさえ不可能です。特にクリスチャンが目指す、キリストの姿というゴールは、神様の「建て上げようとする愛」の働きなくしてはあり得ません。
 この世は常に神の子を打ち壊そうと働いています。これに打ち勝つには、神様の愛に頼る以外にありません。そしてこの世の悪しき働きこそが、無力な自分を悟り、神様に頼る原動力になるのです。「自分は小さく無価値だ」と心から思う時、その自分を愛してくださる神様を見上げる目は、“彼(アブラハム)は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。”(創世記15:6)のと同じ信仰の目になります。アブラハムは自分の限界に絶望しましたが、彼のうちに神様の約束だけは残っていました。あなたも自分に何もなくても、神様のおことばだけは残っています。この方はご自分のことばを必ず成就されます。
肉に属するものは、私たちの本体である霊を生かすことができません。しかし、霊に属するものは限界も終わりもなく、肉が死んでも霊は生き続けます。御霊によって生きるなら、九つの実の働きが私たちを完成へと導いてくださいます。聖霊が神の愛の行いをあなたの内に行われます。これに意識を合わせていけば、御霊と同じ行動をとることができるようになります。心しておいてください。御霊は霊を建て上げますが、肉は霊を壊します。肉に心を任せると失望を招きます。でもその時心を戻して、「自分を赦し、人を赦す」「いたらない自分を認め、いたらない人を認める」「罪深い自分を受け入れて、罪深い兄弟姉妹を受け入れる」ことが、神の愛です。実にこの時、あなたはキリストの姿に変えられていくのです。(第2コリント3:18参照)
 どんな人でも自分の努力で聖くなることはできません。肉の力を殺せないからです。そして聖くなるには聖霊様に満たされることが絶対条件です。だからこそパウロは、聖霊様に満たされ続けることを勧めたのです。
 ユダヤ人たちが3時間ごとに祈りの時間を持つのにもちゃんと理由があります。人が神様を意識して一日を過ごすために、なるべく多くの交わりを持つ必要があるからです。この習慣は私たちも見習うべきところです。自分の霊を健全に保つためにもぜひ取り組んでいきましょう。祈りの時間を、たとえ時間自体は短くても、多くのポイントを設けて実行してみましょう。
 自分の弱さを認め、神の愛がなければ生きていけないことを悟り、主に求め、聖霊様に満たされて、愛があなたのうちに働きかけられ、あなたをキリストと同じ姿に変えられていくようにと、その体験をぜひ実現しましょう。

 

 

 

 

 

 

■2010年6月13日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

  冥冥之志 めいめいのこころざし  up 2010.6.13


人知れず心の中に期するものがあり、努力を重ねること。


幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。
(詩篇32:1〜2)


 

 世の中の人は、欲望を満足させたいということが活力となりますが、クリスチャンが余り活発でなく、生き生きしていなかったら、世の中の方が光で、クリスチャンが闇になってしまいます。残念ながら現実に、救われた当初は活発で生き生きしていたのに、だんだん活力がなくなり、暗くなってくるクリスチャンが少なくありません。それは、原動力となるものが欠けてきているからではないでしょうか。今日はそこに焦点をあてて、考えてみたいと思っています。
 私たちが地上で持つ原動力は、神の愛と恵みに感謝する心から流れてきます。何か欲しいから、神の前に熱心に信仰生活を送っている訳!ではありません。自己満足のために祈っているわけでもないでしょう。感謝する気持ちは、私たちの心を明るくし、喜びで満たし、将来に対する希望にもなります。そして、倒れてもまた起き上がる力の原動力になります。
 一般の人でも、感謝する心がいかに大切かは知っています。(詩篇32:1〜2)に、「幸いなこと」について書いてあります。罪人にとって罪を赦され、認められることは、本当に幸いなことなのです。この幸いは永遠に続くものです。罪赦されるとは、義と認められるということです。

★罪人が義と認められて生きる
◎ダビデは、罪人の幸いを歌にしている。
(1)そのそむきの罪を赦されたことの幸い。
(2)罪をおおわれたことの幸い。
(3)主が、咎をお認めにならないことの幸い。
(4)心に欺きのないことの幸い。

 (1)〜(4)、これらの4つは、義と認められることの幸いです。皆さんは、罪を赦されたことの幸いを経験しておられますか?怒られるかもしれないということをしてしまったのに許されたら、ホッとするものです。しかし、すぐその許された喜びを忘れてしまったら、また同じことをしてしまいます。「罪がおおわれる」は、罪を犯した当人ではなく、別の人がその負債と裁きを負ってくださるということです。イエス様は、私たちの罪をおおってくださり、私たちの代わりに神の裁きを受けてくださいました。
 神様は私たちの親であり、子どもの犯した罪の負債を負ってくださっています。その親の姿を見て、申し訳ないという思いを持ち続ける人は、もう罪を犯したくないと自制心を働かせます。しかし、親の苦しみを見ても何とも思わず、ただ助かったとしか感じなかったら、そういう人は何度も悪いことをして、何度も親に責任を負わせることになるでしょう。
 同じように神の愛と恵みをいただいても、感謝の心が薄れてしまったら、罪に対して自制心を働かせることなく、簡単に罪を犯してしまうでしょう。自分を変えようとする力が湧いてこないのは、神様の愛と恵みに対して感謝し、恩義に感じることが少ないからではないでしょうか。私たちは日々感謝の心を持っているかどうかが、クリスチャンとしての生き方に違いをもたらします。

◎罪人が義と認められることを考えてみる
「50代の失業者が、未経験な仕事内容の会社に就職でき、正社員となり、定年に関係なく雇われ続けるようなものである。」
 50代の人が新しい仕事を覚えるには、よほどの覚悟がないとできません。見習いの3ヶ月を過ぎて、正社員として雇われ、しかもずっと定年を過ぎても雇い続けてくださるというのはどういうことでしょうか。
 (ヨハネ4:3〜26)に、サマリヤの女性の話が出てきます。イエス様は彼女に会うために、わざわざユダヤ人が嫌って通らないような道を通られました。なぜでしょうか。この女性は5回結婚に失敗し、今の人とは正当な結婚をしていません。当時のユダヤの社会では大変罪深い女性でした。彼女の何が、イエス様の御心を捉えたのでしょうか。この女性の魂は、本当に渇いていたのです。けれども、渇いていても自ら出て来ることのできない環境の中にありました。そのような状況で渇いている魂のためなら、神様は自ら会いに来てくださるのです。彼女の本心は渇き、失望の中にありました。これが神が訪れてくださる条件です。先ほどお話しした50代の男性とこの女性の共通点は何でしょうか。それは「求める心」です。求める心こそ意欲であり、気力となります。ただ、求める心には誠実さと忠実さが伴っていないと、感謝の心にはなりません。自己中心的な求める心があったら、イエス様がわざわざ会いに来てくださったというありがたさに気付きませんし、男性の場合も、仕事覚えも悪い高齢なのに雇ってくれたということのありがたさに気付かないでしょう。
 忠実な心は、感謝の心を持てる状態であり、ダビデが「心に欺きのない人」と言った人たちのことです。それは自分の心を欺いてないということで、自分の渇きも弱さもいたらなさも、素直に認めることです。体裁をつくろわないことです。私たちが今の自分をありのままに出せないなら、誠実さや忠実さの実は結べません。どんなに責任感が強くても、自分の心を欺いていたら、誠実さや忠実さが欠けていきます。
 神の前に誠実に歩むとは、みことばが教えられた時、いくら難しく思えたとしても、やってみよう行ってみようとすることです。50代の男性と面接した人は、彼のやる気を見、仕事に対する誠実さ、忠実さを見て雇ったはずです。
 私たちはもともと、義に関しては未経験な者です。それゆえ神様は、一から教えようとしてくださいます。後は、あなたが誠実にその教えを聞いて、やっていこうとするかどうかにかかっています。あなたを選ばれた神様は、できると見てくださっているのです。誠実さは、いかに多く自分の罪が赦されているかを悟る心です。そして、ありがたいと心から思えるのです。
 (マタイ20:1〜7)に、ぶどう園に雇われた人々の話がでてきます。彼らは9時、12時、3時、5時に雇われていきます。6時に仕事が終わるのに、5時にもまだ立って待っている人がいたのです。主人はその人を連れて帰り、農園の仕事をさせます。ここに、あと1時間しかなくても、それでも仕事が欲しいと待っている人の熱意があります。その人の熱意を見て、主人は雇ったのです。当然、その1時間を、彼は必死で働いたはずです。求める熱意、意欲は、忠実さ、誠実さにつながっていきます。罪人が義と認められるとは、どれほど大きなことでしょうか。毎日の生活の中で、このことをもう一度深く考えてみてください。もしクリスチャン生活の活力がないとしたら、罪人である自分が赦されたということの大きさ、感謝が欠けているからではないでしょうか。
私たちは、イエス様の十字架のあがないをどれだけ深く受け止めているでしょうか。何か思い通りにいかないと、すぐにつぶやいてしまっていないでしょうか。
「冥冥…たいへんな暗闇→人の目に映らないような地味なこと」
 私たちは、感謝の心をもって日々クリスチャンとしての歩みをしっかりとしたいと願っていても、この世の様々な出来事、風潮の前に崩れてしまいそうになります。しかしもし私たちが、「心の中に期するもの」つまり、キリストの再臨において、地上の労苦が報われるという期待があるなら、日々、人知れず努力を重ねていくことができます。この志を持って、人の前ではなく、奥まった所で見ておられる神の前に、しっかりと歩んでまいりましょう。

 

 

 

 

 

 

■2010年6月6日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

  霊果相愛 れいかそうあい  up 2010.6.6


御霊の働きがもたらす結果は、
互いに愛し合うという律法を全うするものである。


兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。
(ガラテヤ5:13〜26)


 

 律法は、私たちが互いに愛し合うために与えられています。私たちの本質である霊が欲しているのは、互いに愛し合うことです。
 今週は、(ガラテヤ5:13〜26)から学びましょう。これはとても大切なところです。
「聖書は、『肉の働き』と『御霊・霊の働き』とを分けている。それぞれの働きによって永遠の結末がもたらされる。だから、神は、預言者をとおし、御子イエス様やクリスチャンをとおして御霊の働きを選ぶことを励まされた。そして、律法を全うできるように御霊の働きである9つの実を与えてくださっている。これは『父の約束』である。」
 私たちは御霊の働きを受けなければ、クリスチャンとして成長・前進できないのです。ここで肉の明白な行いのリストがあり、対照的に御霊の実が書かれています。実がなるまでには時間がかかります。私たちの内側に思いが与えられ、それが心に満ちると、行いとして出てきます。心に満ちていないのに行動することは辛いことです。どんなに良いことをしたいと思っても、心に満ちなければ行いとして出てこないので、まず心に満たすことが必要です。御霊の9つの実はゴールではなく、何かの目的のために与えられるのです。

御霊の9つの働き
(1)「愛」「喜び」「平安」⇒幸福3要素
 まず御霊は神の「愛」を与えてくださいます。そして、神に喜ばれている存在として、「喜び」を与えてくださいます。そして、神との和解を結んだので、「平安」を与えてくださいます。この幸せ感が心に満ちると、行動に表れます。それは御霊の働きです。愛も喜びも平安も、努力して出てくるものではありません。御霊の働きかけによって出てくるのです。実がなるまで木は成長し続けなければなりません。あなたの内で愛が熟成され、心に満ちると、隣人を愛したり赦したりできるようになります。木が育ったら実がなるのは当然です。だから9つの実は自然にできることなのです。私たちがすべきことは、御霊によって生きることです。

(2)「寛容」「親切」「善意」⇒交流3要素
 交流とは、良いコミュニケーションを持つために必要なことです。「寛容」とは、長い忍耐力、根気強さという意味があります。すぐに行動や決断をしないで、よく考えてしていくことです。最後まで相手の話を聞き、行動を見守り、最後に助言を与えることが必要です。
「親切」とは優しくふるまうことです。相手を助けるだけではありません。自分の気持ちがどうであれ、あいさつをされたら笑顔で返すのは、親切なふるまいです。自分中心なふるまいは不親切です。
「善意」とは、道徳的正直さです。道徳的とは、相手を非難したり、傷つけたり、害を与えないことです。愛は人に害を与えません。道徳的正直さとは、物事をすべて前向きに善意に受け止めていくことです。どんなにあなたを批判する人がいても、その言葉を見るのではなく、その心の動機を見てあげることです。どんなに悪い人でも、その動機を見て理解していかないと、良いコミュニケーションを持つことはできません。

(3)「忠実」「柔和」「自制」⇒自治3要素
 社会生活を送る自立と、自分をわきまえ律するという自律の2つを含めた自治を総合的に言えば、自分を上手に扱うセルフコントロールのことです。そのためにまず忠実さ(誠実さ)が必要です。自立する大事なポイントは、神様の愛に対して忠実ということです。例えば両親に対して、親への恩を忘れないことが正しい自立です。親にどんなにしてもらったかという労苦を心に留めることは、誠実さから出てきます。忠実とはコピーという意味があるように、神が私たちにしてくださったことを、今度は私たちがしていきますという心構えです。
 そして「柔和」とは、礼儀正しいおとなしさを言い、どんなことにも礼に欠かない対応をすることです。相手が怒ろうが、無礼であろうが、親切に礼儀正しく応答します。この柔和さは、「私たちがキリストのからだの一肢体である」と聖霊様に思い起こさせていただき、自覚を与えていただくことで、持つことができます。「私はキリストの一部である」と、自分が何者かを自覚すると、礼儀正しく行動できます。「自制」は、欲求をコントロールするように受け止められがちですが、聖霊様は、神様との和解の契約からはみ出ないように、私たちをコントロールしてくださいます。「あなたは神様と同盟の契約を結んだので、そこから出ないように」と、神様と対立することのないように、みことばや助言を通して和解を保ち続けられるようにしてくださっています。神様と平和をもっていることがどんなに身の安全かわかっていたら、欲望にずるずる引っ張られることはほとんどないはずです。引っ張られるのは平和ボケして、神様との平和の価値が薄れてしまうためです。聖霊様は当たり前のことではなく、神との和平の中で、私たちのクリスチャン生活が与えられていることを思い起こさせてくださいます。幸せという土台に、良きコミュニケーションを持つことのできる実を、聖霊様が結ばせてくださり、自分を自立させ、成熟なクリスチャンへと成長するための9つの聖霊様の働きが、私たちの内に今されているということです。

1.(ガラテヤ5:13〜15)
“兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。”
「隣人愛をもって互いに愛し合うために、私たちは召され、自由が与えられている。」
 愛は自由の中にのみ生まれてくるものです。自由とは、自発的なものです。内側からわき起こってくるものでないと、愛ではありません。そのために正しい「自由」という意味を理解しないといけません。
「自由と自分勝手との違いは、他人に迷惑をかけていないかどうかで決まる。」(福沢諭吉の言葉)
 私たちは自由にされており、自分中心に物事を考え、自分勝手に物事を進めていくことが自由だと人々に見られてしまったのでは、それは自由ではなく自分勝手です。迷惑という言葉の中には、混乱をきたらせる、害をもたらす、相手に不愉快な思いを与える、秩序を乱す等、いろんな意味あいが含まれています。本当の自由は、全体を考えた中での私だとわきまえています。人の領域に勝手に入り、人の自由を奪ったり支配するということは、自分勝手なのです。そこをよく考えていかないと、健全な自由はもたらされないのです。神様も私たちを愛しておられるけれど、私たちの自由を支配しようとされているのではありません。愛をお示しになり、私たちの内側から愛が湧き上がってくるのを待っておられるのです。

2.(ガラテヤ5:16〜18)
“私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。”
「自由が与えられた目的のために、御霊の働きに身を委ね、肉の働く機会を与えないように。」
 律法を全うするためには、御霊の働きが必要です。御霊によって歩むとは、御霊に身を委ねることです。自分が引っ張るのではなく、ついて行くのです。肉の働く機会を作ってしまうから、御霊に自分を委ねることができないのではないでしょうか。
 御霊の働きと肉の働きの見分け方は簡単です。しかし、それが難しいと言う人がいます。どちらか見分けられないと言わせているのは誰なのでしょう。その正体を見つけないといけません。あなたが言っているようですが、違います。なぜなら、御霊と肉の働きは相反するのですから、どちらかわからないはずがないのです。きよめられた良心の思いか、罪からくる欲望の思いか見分けられないでしょうか。御霊が左に行くと肉は右に行くのです。わからないと言わせているのは、肉の働きです。それは、御霊の働きに委ねたくないという信号を送っているのです。明らかに御霊の働きと肉の働きは相反するものですから、絶対にわかるのです。これだけははっきりとしておきましょう。

3.(ガラテヤ5:19〜21)
“肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。”
 こういうことをしているクリスチャンは少ないと思いますが、これらは、「ともかく自分の思い通りに物事を進め、満足したい」という動機から来るものです。そしてその満足したいという気持ちは,人の自由を奪っていきます。自分の自由に合わさせようとすることが特徴です。こういうことをしている者は、神の国を相続することはありませんと書いてあります。私たちはよく吟味しておかないといけないと思います。
「神の国を相続できるはずのない肉の働きは明白であって、惑うことはない。」
 ここで神様は、肉の働きはこういうものなのだとはっきり教えておられるのです。それは、罪を犯したら天国に行けないという問題ではなく、それを行っていることがわかれば、それをやめることを勧めるためです。間違いがわかれば、それを正すことを願っておられるのです。惑わずはっきり、やめようと決心しましょう。
「肉の働きの立場に立って信仰の戦いをしているなら、喜びや楽しみや希望が失せてしまう。」
 これは私たちはよくやっています。「クリスチャン生活って辛いよね、喜びがないよね…」と。それは肉の働きの立場から見ているのであって、私たちの霊、きよめられた良心、御霊はそんなことは絶対ありません。肉の働きを遠ざけて正しいことをしたら、必ず霊は喜び楽しみ、希望が湧いてくるはずなのです。しかしそれを感じ取れないのは、肉の立場に立っていて、離れられないと思うからです。

4.(ガラテヤ5:22〜24)
“しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。”
「今は、十字架にかけられた肉から離れ、御霊の9つの働きにより、キリストと共に生きている。」
 肉の立場から信仰の戦いをしたら、どうして苦しくて大変かと言うと、十字架にかかったままでいるからです。考古学の先生の話によると、十字架には腰掛けがあるそうです。座れるのではなく、ちょっと引っかかる程度のものです。人は、両手首と両足に釘を打たれ、宙づり状態になっていると、だんだんと体重で腕が伸ばされ、肺が小さくなって息ができなくなります。苦しいので足に力を入れて腰を上げます。すると肺が楽になり、息ができるようになります。その腰掛けのようなものに引っ掛けて少しホッとします。そしてまたずるずると下がっていき、それを繰り返します。これで一週間から十日生き続けるそうです。苦しみ続けさせるためのいすなのです。それだけ十字架刑はむごたらしく、それぐらい罪が重いという意味を持っているのです。
あなたが今クリスチャン生活が苦しいと思っている理由は、肉の立場から自分を見ているからです。死なずに十字架にかかっているようなものです。早く死になさいと言う意味は、死んだら楽だからです。死ぬのがわからないから一生懸命肉で生きようとするのです。肉から離れられないと思っているのです。肉で生きていると、クリスチャンは肉を十字架につけているので中途半端で、肉を楽しめず死にきれない、まるで宙づりの状態なので、信仰生活が苦しいのです。ノンクリスチャンは肉を十字架にかけていないので、肉的生活を楽しめます。
 私たちは洗礼を通して肉から離れて葬られ、御霊によってよみがえらされました。御霊が働かれ、御霊の9つの実の働きが現れるまでには時間がかかります。御霊の働きをあなたが邪魔してしまうと、実がなるのが遅れてしまいます。これは私たちの努力ではありません。私たちがすべきことは、御霊について行くことです。御霊の実が私たちをキリストの姿に変えていくのです。

5.(ガラテヤ5:25〜26)
“もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。”
「肉は互いの間に争いをもたらせるが、御霊によって生きるなら、互いが愛し合うように導かれる。」
 互いに愛し合うために、9つの働きをしてくださっている御霊に導かれていこうということです。しかし、いどみ合う、そねみ合う、というのは争いであり、肉の働きです。肉の働きに従うなら争い、御霊の働きに従うなら互いに愛し合うことができます。主に愛され主を愛する人生を心から喜び、満足することが秘訣です。御霊の9つの働きがあるのですから、皆さん、満足しましょう。肉は内容、価値に関係なく、ただ満足したいだけです。神様の愛に満足することが、欲望にかられない秘訣の1つです。そしてもう1つは、御霊に同化した人生の歩みを進めていくことです。同化とは同じようになることです。御霊に同化することを考えないと、神様が人生をどんなにかき回され、砕かれることがあっても、癒され、問題解決して静まると、水と油のように分かれてしまいます。キリストと同じ姿に近づくには、御霊と同じになる意識が必要です。御霊が9つの働きをされるなら、それに合わせていく気持ちを持つことが、御霊によって歩む心の秘訣です。
 このようにして、神様は「霊果相愛」という、隣人を自分を愛するように互いに愛し合う、神の律法を全うできる者に、御霊を通して導いてくださっています。これが(ガラテヤ5:13〜26)で捉えることができる、中心的ポイントです。「互いに愛し合う」ために、御霊の働きが9つあって、私の内に働いてくださっているのだから、必ず「互いに愛し合う」ことができるようになると、望みを持つことができます。御霊とけんかすると時間がかかります。キリストの姿に早く変えられていくために、素直に御霊に導かれていきましょう。

 

 

 

 

 

 

■2010年5月30日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

  救霊明確 きゅうれいめいかく  up 2010.5.30


神の召しと選びが明確になればなるほど、救いの喜びが湧き上がる。


その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません。これらを備えていない者は、近視眼であり、盲目であって、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまったのです。ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。これらのことを行なっていれば、つまずくことなど決してありません。
(第2ペテロ1:4〜10)


 

 今週は「つまずくことのない健全さを保つ」ことをポイントとして(第2ペテロ1:4〜10)のみことばから、「救霊明確」という四字熟語を造りました。
 神様が私たちを滅びの中から召し出し、選び出してくださったことが明確になり、神様の御思いのすばらしさ、細やかさがどんどんわかってくると、救いの喜びが実感として湧き上がってきます。この湧き上がってくる喜びが私たちのクリスチャン生活につまずきをもたらせるはずはなく、健全な人生を歩むことができるようにします。この健全さは「ごく普通の」という意味で、当たり前のあるべき姿を表します。ですから罪人になるとは「異常な」状態であり、この世の人々は神様を見ていないので、異常な生活をしています。クリスチャンになるとは何も特別なことではなく、ごく当たり前の人間の姿に戻ることです。病気をして初めて、健康で普通に生活している幸せがわかるように、また苦しみやつらさを通って、いかに普通が幸せかを知ることができるように、神と共に歩むことがうまくいかないことも、うまくいったときにこれが一番いいと気付くためであると言えます。今日は、神様の召しと選びが明確になればなるほど、ごく普通であることの幸いを味わうことができるという点に心を向けて、お話をさせていただきたいと思います。

1.内容観察
 今日のみことばには、いろいろなところに神様の教えの味わいのポイントがあり、一度だけ読んで、それを味わうのは難しいと思われます。今週はぜひ一日に一回はゆっくりこのみことばに目を通していただけたらと思います。(わかりにくいことばをあげて以下に説明しています。)
『栄光』⇒輝かしいほまれ、威信、栄華、輝き
○言葉にできない、圧倒される美しさ、すばらしさ

『徳』⇒立派な振る舞い、徳のある業、称賛される美しさ、優秀さ
○聖書には5回しか出て来ないギリシャ語。「優れている」という意味あいが強い。
 行動が伴っている徳。

『加える』⇒承諾する、与える、授ける、加える、備える、支える
○自分にはない相手の持っているものを受け入れたり、相手にはない自分のものを加えたり、
 助けとなるの意。
※ここでは「信仰が生かされるために徳を加えなさい。また立派な振る舞いをするために必要な知識を得るように。しかし何でもかんでも取り入れるのではなく、選んで自制するように。そのために忍耐というセルフコントロールが必要。忍耐するのに、怒りなどの感情が乱れてしまわないように、神を畏れる敬虔さを加えなさい。そして神を畏れる心、すなわち隣人を愛することが敬虔さであり、それは兄弟姉妹を愛することであり、神の愛を考えて、兄弟愛を全うしなさい。」というようにつながっています。それぞれをフォローするために、必要なものを加えていきなさいという意味です。

『つまずき』⇒堕落する、罪を犯す、惨めな状態になる、誘惑に負ける
○もともと「落ちる」という言葉から派生。せっかく救われたのに不完全な罪の状態に戻ること。
 以上のことをふまえ、ご自分の主観で,強調されたいことをまとめて表現していただけたら、
 と思います。この内容観察が神の啓示を受けるために必要なまとめであり、心の状態も表れます。

【まとめの参考例】
 つまずくことなく神のご性質にあずかる者となるために、あらゆる努力をして信仰に必要なものを加えなさい。

2.質問
 この質問は、ある程度信仰生活を送ってクリスチャン生活の知識が積み上げられてきた時、わかってくるものです。参考までに答えをお話しします。
(1)神様の栄光と徳による、尊くすばらしい約束とは何でしょうか。
 罪が赦され、神の国に入ることができるということ。「神様の栄光と徳による約束」とは、神様の輝かしい誉れと立派な振る舞いにふさわしい約束であり、罪人の罪を赦すことが神様にふさわしいわざであり、他の誰も真似ができません。
(2)「滅びを免れ、神のご性質にあずかる」ことを説明してください。
 滅びとは、罪のために永遠の滅びにいくこと、つまり死刑になることです。「滅びを免れる」とは、更生の余地がないと見なされ、死刑になるはずの私たち罪人が、イエス・キリストの御力で造り変えられ、神のご性質にあずかり、善を行うよい性質を持って出て来るので、世の中に戻ってきて良いとされることです。

(3)「キリストを知る点で、役に立たない者、実を結ばない者」とは、どのような人のことですか。
 キリストに関心のない人だと思います。関心のある者は、神の前に必ず役に立ち、実を結ぶ者になる、ということです。あなたはどれだけキリストに関心があるか、すなわち真理に関心があるか、を胸に問うてみてください。創造主なる神に関心を持って知りたいと求めていくなら、人から言われなくても神を畏れる敬虔な、当たり前の普通の人に生まれ変わるということです。あえてクリスチャンと言わなくても、キリストをよく観察していけば、自然と「自分は何者か」ということに行き着き、ごく自然の人間になるのです。クリスチャンは特別でなく普通です。普通に戻るために、キリストは私たちを罪の力から解放し、きよめ、神のご性質にあずかることができるように整えてくださったのです。キリストに関心のないクリスチャンはそれ以上成長しません。ぜひ関心を持ってください。

(4)どういう意味での「近視眼」「盲目」なのかを説明してください。
 近視は近くがよく見え、遠くのものはぼやけてはっきり見えません。つまり自分のことしか見えない自己中心の人のことです。盲目とは、他の人のことも全然考えない、自己中心かどうかさえも全く見えてない、感じるまま、欲望のまま動く人です。何の信念もなく、欲望を満たしていくための、統一性のない人生を送っているということではないでしょうか。

(5)召されたことと選ばれたこととを確かなものとするために、何をすれば 良いのでしょう。
 招待し、選んでくださった方に関して、多くの正しい情報を手に入れて、その方への信頼度を高めていくことです。あなたは間違いなく天国へ行けるという確信を持っていますか。持っているという人は、何を根拠にされていますか。そこに確信がないと惑わされてしまいます。あなたは天国に行ける招待状を持っていますか。その招待状とは何でしょうか。(第2コリント1:22)と(エペソ1:14)を見てください。
“神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として御霊を私たちの心に与えてくださいました。”
(第2コリント1:22)
“聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。”
(エペソ1:14)
                        
3.敬聴と適用 〜神様はどんなことを示してくださったかをまとめ、どのように今週生かしていくか、決心を記して下さい〜
【例文より】
「『自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまった』
 そのことは、非常に神様を悲しませることである。『きよめられた』と
 いう大きな愛を、軽んじる恩知らずな無礼者だ。」
 「赦された」ことも忘れてしまうとは、神様を非常に悲しませることではないでしょうか。「罪がきよめられた」というのは、神様の私たちへの大きな愛の現れであり、それを忘れるとは、その愛を軽んじ、恩知らずで無礼者だということです。困った時に助けられたのに恩を忘れ、横柄になっていないでしょうか。赦されていることを忘れてはいけません。今も神のあわれみによって、キリストの十字架のゆえに罪なき者として赦してくださっています。罪人の状態なのに、罪人でないように取り扱ってくださっていることを忘れてはいけません。忘れると、神への敬虔さが弱り、感謝が薄くなるのです。私たちは過去どんなに罪深い者であって、どんなところからきよめられたのかがわかればわかるほど、感謝が溢れます。「自分はそれほど罪人ではない」という人ほど、神の愛を軽んじる傾向があるようです。また、横柄さもない全く無関心なクリスチャンは、一番よくないです。この人への手だては本当に難しいです。
 【例文より】
『神様の愛に何も恩返しをする事ができないが、せめてご恩を忘れず、謙遜で敬虔な毎日を心がけたい。つまり、信仰に徳を、徳に知識を、知識に自制を、自制に忍耐を、忍耐に敬虔を、敬虔に兄弟愛を、兄弟愛に愛を加えるよう努力したい。』
 恩を感じているので、できるかどうかわからなくても、やってみようという気持ちが湧いてくるのです。不可能と思えるものでも、神様が「そうしなさい」と言われるなら応えていこうとするのが、謙遜で敬虔な毎日を心がけることではないでしょうか。「できないから、初めからチャレンジしない」というのは、愛を与えてくださった方の気持ちを無にしています。私たちができないことをわかっておられて「やってみなさい」と言われる神様に、少しでも応えようとすることが、私たちが唯一できる恩返しではないでしょうか。
 以上のように、今日のみことばの箇所から、聖霊様によって私(辻師)が敬聴したことと、それに対する応答としての決心を例としてお話しました。皆さんも、他の箇所でも心強く示され、神様が強く語ってくださった点を文章にまとめて一週間を過ごしたり、また毎日少しずつ聖霊様の御声を聞き取っていくことを試みたりしていただきたいと思います。

 

■2010年5月23日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

  不憤不啓 ふぶんふけい  up 2010.5.23


積極的にやろうとする気がなければ、教えることをしない。


わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」
(ルカ11:9〜13)


 

 神の御霊が人々に注がれるということ自体は、旧約の時代からありました。しかしそれは、特別な状況において、特別に選ばれた人に対して与えられるものだったのです。まず王、宮に仕える祭司たち、そして預言者といった、自分の能力を超えて人々を導く必要のある人たちに対して、聖霊による油注ぎがなされました。この特別な選び、聖霊の注ぎを、救い主イエス・キリストによって自分たちにも与えられるという驚くべき約束が、今は与えられています。それはまだ、油注がれた者たちが、世界中に散って、地上を神の国として治めるためであるとも言えます。これは非常に光栄なことです。イスラエルの人なら誰でも、ぜひ聖霊をいただいて神様のお役に立ちたいと思います。自分が生まれたのは神様に用いていただくためであり、それが選民たる証しなのですから。しかし、彼らイスラエルにとってこんなに大事なことが、私たち異邦人には今ひとつピンときません。「イエス様を信じて洗礼を受けた。後は無難に人生過ごして、死んだ後は天国だから安心。」くらいにしかとらえていないなら、問題です。今日は、聖霊を求めることの大切さをお話したいと思います。
 福音書にある「求めなさい。そうすれば与えられます」というみことばは非常に有名ですが、ルカだけが「そうすれば神は聖霊を与えてくださる」と付け加えています。これは、「求め、捜し、たたく」ことを続けるのは、まさに聖霊様をいただくためなのだと、彼が御霊に啓示されたからではないでしょうか。イエス様ご自身も、使徒の働きの冒頭で、“「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」”と、御霊を受ける前の彼らが動くことを禁じておられます。ならば、クリスチャンである私たちも、この世で自分の生まれてきた目的を全うするためには、聖霊のバプテスマが不可欠です。この重要性に気付いた人には、今日のみことばは力強い励ましとなるでしょう。
 今日、皆さんに質問します。「求め、捜し、たたく」ことを「続ける」熱意が、皆さんの内にどれだけあるでしょうか。湧き上がり続ける熱情が、持続する行動につながります。今日だけが特別なのではありません。決められたプログラムを淡々とこなしていくだけなら、何かを求めるものの姿勢ではありません。時間も場所も問わず、気持ちが途切れることがないのが、本当に何かを求める人の心の状態ではないでしょうか。こういう人に、神様は聖霊のバプテスマを与えてくださるのです。
 今日の四字熟語は、「憤せざれば啓せず」と読みます。まるで圧力鍋のふたが吹き飛ぶような、内側から込み上げて溢れる熱く激しい思いがなければ、深い教えを授けられることはない、という意味です。
私たちは何をしに教会に来ているのでしょうか。新しい知識を得て、知識家になりたいからでしょうか。永遠の滅びに行かないための出席ノルマでしょうか。そうではなく、神様に渇いて来た人は、大きな収穫を得ることができます。ですから、神様ご自身に興味を持ち、知りたい、わかりたいという熱意を持っていただきたいのです。どのようにしたらいただけるのか、いただいたらどうなるのか、などは知る必要はありません。今の時点で言えることは、聖霊に満たされた人は、周りから見ても自分自身でもそれとはっきりわかる、ということです。私たちはただ、聖霊のバプテスマを受けることを求め続けましょう。

1.いのちの水を求める(ヨハネ7:37〜38)
“さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」”
 聖霊を求めるのは、のどが渇いている人が水を求めるようなものです。渇いていなければ水を求めるはずもないし、あるいは水でなく、ジュースのように舌を楽しませるものを選ぶかもしれません。でも本当にのどが渇いている時は、水が一番おいしいものです。特に湧き水は他にない甘みやうまみがありますね。
 霊の渇きも、本当にいやせるのは聖霊の水だけですが、他の何かで一時的にごまかすこともできてしまいます。しかし、どんなものを味わったとしても、最終的に一番おいしく、ためになるのは聖霊の湧水だけと断言できます。しかもこの湧水はずっと心の奥から湧き続けて、もう他のものを捜し歩く必要がなくなるのです。この満たしをあなたは持っていますか。また渇いてしまう程度の満たしでは、イエス様が語られた本来のバプテスマとは異なっていると言わざるをえません。今まで自分にとって最大の関心事であったはずのこの世のあれやこれやが、全くどうでもいいことになり、悪いものはすべていのちの水によって流し去られてしまいます。これはすばらしいことです。聖霊に満たされたら、いつの間にかきよくなっているのです。罪を選ぶ必要も理由もないので、苦労して正しい方を選びながら、暗い顔で「クリスチャン生活はつらい」と嘆くこともなくなります。
 皆さんも魂に潤いと元気を得てうるわしくなり、溢れるいのちの輝きをもって過ごせるようになれば、どんなに幸せでしょうか。それを心に描いて、「聖霊の満たしが自分には必要だ」と、もっともっと神の国のすばらしさを求めていく、奥へ先へと進んでいく、姿勢が必要です。

2.求め続ける者への応答(使徒10:44〜48)
“ペテロがなおもこれらのことばを話し続けているとき、みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになった。割礼を受けている信者で、ペテロといっしょに来た人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたので驚いた。彼らが異言を話し、神を賛美するのを聞いたからである。そこでペテロはこう言った。「この人たちは、私たちと同じように、聖霊を受けたのですから、いったいだれが、水をさし止めて、この人たちにバプテスマを受けさせないようにすることができましょうか。」そして、イエス・キリストの御名によってバプテスマを受けるように彼らに命じた。彼らは、ペテロに数日間滞在するように願った。”
 10章全体を読んでいただければわかりますが、コルネリオという人がいて、異邦人ではありましたが、神の前に祈りと施しを忠実に続けていました。祈りは神様との対話であり、施しは神との対話が結実して行いに現れたものです。神様の前で謙虚な心になった人は、なんらかの奉仕をしたくなるのです。コルネリオは、聖書の神様を本当に求めていました。それが祈りと施しの継続となり、神様は、彼の心がこれからも忠実であることを見抜かれて、聖霊の満たしをもってコルネリオに答えてくださいました。彼が求めているものはすべて、聖霊の満たしによって得ることができたのです。
 私たちが求めるものもすべて、聖霊の満たしによって与えられます。仮に、ひとりの人がお金を欲しいと願っていたとします。すると、神様が与えてくださる答えは、聖霊の満たしなのです。なぜなら、その人を通して、聖霊はすべての人や環境に影響を与えられ、その人自身も影響を受け、そして結果としてなんらかの収入があるからです。ですから、すべての祈りに対する根本的な答えは、聖霊の満たしであると言えます。神様はご自身の証しを立てるために、聖霊の満たしを通して、私たちを用いてくださるのです。聖霊に満たされたなら、あなたの能力は引き出され、知恵が与えられ、行動力がつきます。目標達成のためには、誰でも自分を変えていかねばなりませんが、それを聖霊様がしてくださるのです。(第2コリント3:18)にも、栄光から栄光へと変えてくださることが明記されています。

3.聖霊に満たされる楽しみ(エペソ5:15〜21)
“そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。”
 この手紙が書かれた頃、クリスチャンたちは他の人々からねたまれ、嫉妬され始めていました。また、支配者であるローマ帝国は、汚れた不道徳な考え方が一般的で、クリスチャンたちにはとても生きにくい時代でした。
 今、皆さんは賢い人のように歩んでいますか。きちんと神のことばという岩の上に、信仰の家を建てていますか。愚かな人は世の中の流れが強くなると、いっしょに流されてしまいます。私たちも,この世の影響を受けている可能性が十分あります。ですから、神のみことばを聞く機会、祈る機会、兄姉との交わりができる機会などをフルに使って、自分を守るようにしなければいけません。世の人々の主観や価値観に流されないで、主のみこころをよく知りましょう。今、自分がそれを悟っているかどうか、よく心を探ってください。
 また、酒というのは、この時代の人々にとって最大のいやしであり、休息方法でした。しかし、自分を見失い(これが放蕩です)、人としての分別ができなくなるのが大きな欠点です。しかし、御霊に満たされれば、酒を飲むよりももっと楽しくなり、リラックスでき、明日への元気も湧いてきます。酒に酔った人は心が解放され、普段したくてもできなかったようなこともしますが、御霊に満たされた人は、神様に喜ばれるような形で自分を解放することができます。「詩と賛美と霊と…また賛美しなさい。」とありますが、酒に酔う人々がすることとよく似ているとは思いませんか。
 聖霊に満たされることは、酒よりも、他のどんなことよりも楽しいのです。クリスチャン生活が楽しくないのは、聖霊に満たされていない証拠です。「これよりすてきな良い物があろうか」とあなたがもし感じるなら、確かにそれは聖霊の満たしです。そして、もっとそれを求めて行くことが必要なのです。
 また、聖霊のバプテスマは喜びだけでなく偉大な力をも授けてくださいます。今共に聖霊がいてくださっていても、この方の力をマントのように羽織らなければ、力はありません。マントを羽織ったなら、イエス様の力ある証人として、数々の証しを打ち立てることもできるようになります。聖書にあるすべての奇跡は、聖霊の御力が働いてなされているのですから。この方はいのちも自然も動かされるお力を持ち、しかも、酒に酔うよりも楽しさを満たされます。
 この大きな大事な力は、熱意も悟りもない者に簡単に授けてはもらえません。当然ですね。力をまとうことができるのは、本当に神の前に砕かれた人だけです。また、神様は個人が活躍するよりも、みからだなる教会全体が完全に機能することを喜ばれます。どんなに小さい存在と自分で思っていても、その人の協力や祈りや奉仕や交わりは、教会にとって欠かせないものです。ですから、自分が何者かを品定めしているより、恐れずに、受けたものを誰かに、どこかに流し出して渡して行こうではありませんか。力を受けたのは、それを表して神様に栄光を帰するためです。他の人の徳を高め、施しをし、病人がいやされ、足のなえた人が立ち、目の見えない人が見えるようになってこそ、神様の栄光として人々も認めます。そしてこれらの証しに加えて、私たちが互いに愛し合っているなら、生ける神を人々も敬うでしょう。
世の中にはボランティア活動などで活躍する人が多くいますが、私たちも自分にしかできないこと、着せられた聖霊の力を活用していきましょう。あなたも病人を癒すための祈りを共にしていくことができます。人々を暗やみから連れ出す役目の一端を、あなたも担うことができます。そのためにはまず聖霊の満たしを受けましょう。みんなが一致して、一つからだになりましょう。神様はこの教会を一つのからだとして見てくださっています。一人の兄姉のためにみんなで祈り求め、神様の奇跡、いやしがそこに起こるのを見ようではありませんか。今私たちはそのチャンスのただ中にあるのです。あとは私たち次第です。今までの満たしでは足りません。異言だけ、賛美だけに留まらない、死人を生き返らせるほどの満たしがこれからは必要です。今日からはそこに焦点を置いて、聖霊の満たしを求め続けていきましょう。満たされ続けましょう。聖書の出来事が自分にも起こる事を求めてまいりましょう。

 

 

 

 

 

 

■2010年5月16日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   一家団欒 いっかだんらん  up 2010.5.16


一家族が集まってなごみ楽しむこと。


ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
(ローマ5:1)


 幸せの三要素のひとつの「平安」について、今日は語りたいと思います。「神との平和」は非常に大切なことです。イエス様が、私たちに与えると約束されたのは、「神との平和」からもたらされる安心です。 礼拝で感じた平安は、単に音楽から来たものではなく、神に愛され喜ばれる者として、神からの愛と喜びが私たちを包み、私たちの霊に安心が与えられ、いやしがもたらされたからです。神様は今朝の礼拝で、知識を超えて、先に魂に安らぎをもたらせるという体験を与えてくださいました。
「平和・平安」のヘブル語の意味は、以下の通りです。
 
『平和・平安』⇒ヘブル語 shalom の意味
 元来この語は、何かが欠如したりそこなわれたりしていない充足状態(完璧=「1」を意味する)をさし、そこから更に、無事、安否、平安、健康、繁栄、安心、親和、和解、など、人間の生のあらゆる領域に渡って真に望ましい状態を意味する語である。
 すべてが整っている時、私たちは充足し安心します。何一つ欠けていない状態です。私たちは自分の現状を見る時、つい足りないもの、欠けているものに目がいってしまいます。しかし神様はイエス様を通して、私たちに必要なものはすべて与えてくださっているのです。その真理をぜひ見い出してください。
 神様と平和をもつことを「一家団欒」ということばで想像してみましょう。そこには平和と安心があります。丸く輪になって共にくつろぐことを団らんと言います。互いに皆が顔が見られる所に座り、そこには誰一人欠けていません。私たちが週に一度、こうして教会に集まり礼拝するのも「一家団欒」です。それを実現するためにイエス・キリストが地上に来られました。

1.キリストがもたらす和解(ヨハネ14:27)
“「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」”
 キリストがもたらす平安は、「和解」ということばで表されています。イエス様は、ご自身が持っておられる平安を、私たちに与えると言われました。イエス様は貧しい大工の息子としてお生まれになり、30歳になってからご自分の務めを始められました。そして、世の中の権威と衝突することになったのです。国の主権がイエス様に対して圧迫してくる中で、決して安心した状況とは言えませんでしたが、イエス様の内側には常に平安がありました。そして、この平安を私たちに与えると言われたのです。
 この世は、私たちの五感を満たさないと安心できない平安しか与えられません。しかしイエス様の平安は五感に決して左右されませんでした。なぜなら、天地を造られた父なる神との関係が、しっかりとつながっていたからです。天地の主権者なる神と平和が保たれていたなら、この世の一時的な支配者であるローマと平和が保たれていなくても、恐れる必要はなかったのです。イエス様が清く罪のないお方だったからです。(イザヤ53:5)に、イエス様の十字架の預言があります。イエス様の苦しみが、イエス様の持っておられた平安を、私たちに与えるというのです。この苦しみとは、十字架の上で、私たちの身代わりとなって受けられた苦しみです。
 人が死を恐れるのは、死後の罪に対する裁きを、本能的に知っているからです。それゆえ、この世の様々な快楽におぼれて、死というものから目をそらしている人たちがなんと多いことでしょう。その結果、ますます不道徳になり、自己中心な社会になってしまっています。しかし、父なる神は、ひとり子なるイエス様のいのちを犠牲にしてまでも、私たちを受け入れたいと願ってくださっています。それは、私たちを愛し、喜んでくださっているからです。
 父なる神とイエス様が持っておられた平和な関係を、イエス様は私たちにも与えてくださっています。イエス様は、この世だけでなく永遠に続く平安を、私たちに与えようとしておられるのです。この平安を得るために、私たちに必要な契約にサインをするよう勧めておられます。この契約は、イエス様を救い主として受け入れ、洗礼を受けることです。そうしたら証印として、聖霊を受けるのです。
 神様との和解を保っておられますか?

2.見いだされる安心(ルカ15:4〜7)
“「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」”
 羊飼いにとって羊は家族のようなものであり、一匹一匹に名前をつけ、かわいがっています。九十九匹と一匹が対比されていますが、一般的には、一匹の羊のために九十九匹を無駄にはしたくないと思います。しかし、自分の子どもに優劣をつけ、「他の子がいるからこの子はいなくなってもよい」と思う親がいるでしょうか。羊飼いにとっては、一匹も九十九匹も同じ価値があるのです。それゆえ、見つかるまで捜し歩きます。これが神様の私たちへのお気持ちであり、イエス様によって和解するまで、いかに私たち一人一人を心配しておられるかを表しています。いなくなった羊が見つかるとは、一人の罪人が悔い改めることを意味しています。見いだされるとは、私たちが、自分を造ってくださった神に気付くということです。私たちが先に気付いたように思えますが、神は私たちが気付く前に、既に私たちを見いだしてくださり、私たちのところに人となって下ってきてくださったのです。しかし、見いだされた方は、自分が迷っているという自覚がない限り、見いだしていただけたという喜びがありません。世の中には、そういう人がたくさんいます。自分が迷子ではないと思い込んでいるのです。そして、助けなど必要ないという高慢な思いを持ってしまっています。大切なことは、自分がいかに迷子であり、罪人であるかに気付くことです。そのことに気付くなら、神にある安心を見いだすことができるようになります。
 罪赦されたから、罪人ではないと安心していていいのでしょうか。私たちは罪人であるのに、義人とされています。新しい天と地へ行っても、私たちは罪人であったのに、イエス様に見いだしていただいて義人としていただけたのだ、ということは忘れません。それゆえ、永遠に小羊をほめたたえるのです。イエス様は両手両足に、釘の跡を永遠に持ち続けられます。そして、それを見るたびに、私たちは贖われた救いの感謝を持ち続けるのです。これが天国での平安であり、安心です。私たちは、小羊が流してくださった血潮のおかげで神の国に入れたことを永遠に喜び、その愛にあって安らぎ、安心します。私たち羊は、羊飼いについて行ってこそ平安であり、安心です。もし自分は正しいと、自分で義としてしまい、神を無視してしまったら、私たちは罪人にしかすぎなくなります.これは大変危険なことです。行いによる義によって、自分をさも義人であるかのように錯覚しないようにしましょう。自己義は人を裁き、群れから離れてしまうことになります。

3.永遠の未来への平安(ルカ15:8〜10)
“「また、女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。見つけたら、友だちや近所の女たちを呼び集めて、『なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」”
 ひとりの罪人が悔い改めると、天の全体が喜ぶほどに、あなたは見つめられています。あなたが天の御国に入る時、たくさんの天使たちが歓喜をもってあなたを迎え入れてくれるでしょう。
 この銀貨のたとえ話で、女がなくした銀貨を見つけたからと、近所の人たちを呼び集めて喜んでいますが、これは日本では理解できません。なぜ周りの人と共に喜ぶのでしょうか。
 当時のユダヤ人たちにとって、銀貨は贖いの代価で、宮の納入金でした。10枚は、一家5人の贖い金だったのです。もし1枚がなくなってしまったら、家族のうちの一人が、贖いができなくなってしまうのです。そうすると罪が赦されず、その人は神に呪われた一年を過ごさねばならないということになってしまいます。家族は、一人でも欠けてしまったら皆心配になり、平安は失われてしまいます。家族は、みんながそろってこそ平安であるからです。ですから近所の人たちもみんな、一枚でも足りなかったらどんなに大変かを知っているので、見つかった時の喜びを共感できるのです。天の御使いたちも、それを知っているゆえに、ひとりの罪人の救いを心から喜ぶのです。
 この銀貨はイエス様が用意してくださいました。そして永遠の安心を得るのです。天において、神は一家団欒を願ってくださっています。家族の誰ひとりも欠けないで救われることを願っておられるのです。家族みんなが天で顔を合わせられるよう、日々互いに励まし合っていきましょう。

 

 

 

 

  

 

■2010年5月9日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   喜色満面 きしょくまんめん  up 2010.5.9


喜びの表情が心の中で包みきれず、顔中にあふれ出ているさま。


若い男が若い女をめとるように、あなたを再建される方があなたをめとり、花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ぶ。
イザヤ62:5【一部新共同訳】


 

【今週のポイント】
「神様に喜ばれる者であることを知って、喜びに満たされる。」

人は、自分の存在を認めてくれる相手、自分がいることを喜んでくれる相手に出会う時、本当の安らぎを得ます。またうれしくなります。「自分の存在は喜ばれている」と思っている人ほど、大胆に、屈託なく行動していくことができます。さらにそれが自分にとって重要な相手、価値ある相手から喜ばれているなら、その人の喜び、自信はどれほど増していくことでしょうか。
「神は私たちを喜んでくださっている。だから私たちも喜びに満たされることができる。」というのが、今回のテーマです。
 さて、結婚を間近に控えた花婿が花嫁に抱く気持ちは、「喜ばしい存在」です。愛している、という言葉の意味は、「私にとって喜ばしい」ということであり、何ができるから、何が優れているからではなく、そこにいてくれることが喜びであるということなのです。そのように愛にあふれた気持ちで、神様は私たちを見てくださっています。心に楽しいこと、嬉しいことが溢れてくると、人は自然に喜びの表情になるものです。今日の四字熟語はここから取りました。

1.「あなたを喜ぶ」
A)「若い男が若い女をめとるように」(創世記29:20)
“ヤコブはラケルのために七年間仕えた。ヤコブは彼女を愛していたので、それもほんの数日のように思われた。”
 ヤコブは兄エサウの権利をだまし取ったことで、いのちの危険にさらされることになりました。自分の身を守るために、母方の伯父ラバンのところに逃げ込んだヤコブは、そこでラバンの娘ラケルに出会い、生涯の伴侶として迎えたいと切なる思いを抱きます。ですから婚姻の代償にと七年間ただ働きの上、さらにもう七年間追加されても気にもならないくらい、彼はラケルへの愛に満ちていました。愛は疲れを忘れさせ、怒りを完全に制御し、心を安定させ、喜びで満たします.この愛が、今私たちに向けられている神様の御心なのです。

B)「花婿が花嫁を喜ぶように」(雅歌4:9)
“わたしの妹、花嫁よ。あなたはわたしの心をときめかす。あなたのひと目も、首飾りのひとつの玉も。それだけで、わたしの心をときめかす。”
 好きな人と目が合えば、どきどきと胸が高鳴ります。その人を飾る装飾品も、魅力をさらに引き立てて、恋心を燃え上がらせるものです。このような熱い気持ちを、神様は私たちに対して持ってくださっています。あなたの一挙一動、発する一言にさえ、集中して対応してくださいます。私たちの祈りは神様に向けるまなざしであり、心を込めて真実に捧げる祈りは、その表現の上手下手に全く関係なく心を打たれるものなのです。

2.喜びの存在
A)それは義と認められていること。(ルカ18:9〜14)
“自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』 
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様。こんな罪人の私をあわれんでください。』
あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」”
 喜ばれていることイコール義人と認められていること、とはどういう意味なのでしょうか。調べてみましょう。
「高くされる」とは「大いに喜ばれる存在」ということです。「大いに喜ばれる存在」とは、「心にかなった者」という意味です。さらに言えば「心にかなった者」とは「喜ばれる存在」ということです。例えば、ある会場に飾ってある花が、会場の責任者の目にかなうなら、その花は責任者にとって義の存在であり、喜ばれる存在です。しかし、責任者の目にかなわないなら、その花は的外れの存在として会場から排除されます。「心にかなう」とは、判断者の目に義と映ることなのです。ではパリサイ人と取税人との違いはどこにあったのでしょうか。パリサイ人は行いにおいては100点、取税人は0点でしょう。パリサイ人は「このように100点の行動ができていること」を神様に感謝しています。さて、人間というものは、他人の前では自分を取り繕うことができますが、神様の前では気持ちをごまかすことはできません。パリサイ人は、「できている自分」に自信がありました。対して取税人は自分の罪深さをよく知っており、会堂に足を踏み入れることさえ恐れ多かったのです。他の人々からの軽蔑や非難のまなざしを一身に浴びながら顔を上げることもできないまま、彼は祈りました。自分が何者か知られているにも関わらず、勇気を出して会堂に参拝するのは、並大抵のことではありません。彼はやっとの思いで来て、自分の恥ずかしい内情をさらけ出して、神の前に祈ったのです。神様は行いで人を判断されません。なぜなら私たちはみな「罪を赦された」義人なのですから。自分は決して人に胸を張れるような存在ではない。「罪を赦された」からこそ、今義人と認められているのだ、という気持ちは人を謙虚にさせます。自分の力で勝ち取った義ではないことを忘れたら、このパリサイ人と同じになってしまいます。イエス様の贖いあってこその義人であり、御国の相続者であることを、私たちは永遠に忘れてはなりません。今も昔も本当は罪人なのですが、払われた贖いの代価によって、今は義と認定されているだけのことなのです。「私は罪を赦され続けている者」との認識が、謙虚さを生み、それを神様は義と認めてくださり、みこころにかなった者と見てくださるのです。
注目すべきことがさらにあります。それはイエス様が、「取税人が義と認められた」と言われていることです。それは神様が直接、彼にお答えになったということです。「あわれんであげよう。赦してあげよう。」と。あなたは礼拝に来て、自分の求めに答えていただいていますか?喜び、安心して帰ることができていますか?それを感じ取ることができるかどうかが、非常に重要です。パリサイ人は自分の話をすることに夢中で、神様の声を聞き取る心を持っていませんでした。取税人はできていないがゆえに、「あわれんでください。」と返事を受け取る心を持っていたのです。

B)それは、深く関わりたいという願い(第1コリント1:9)
“神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。”
 神は真実をもって私たちを召してくださった、とは心からの願いを込めて、「あなたと共に暮らしたい、一緒にいたい」とプロポーズしてくださったようなものです。そして、その呼びかけが十字架です。贖いがなければ近寄ることさえできない神様と私たちが、イエス様の十字架の贖いのおかげで、「わたしもあなたのところに行けるよ。あなたもわたしのところに来られるよ。」と、神様が言ってくださる状態になれました。結婚は「決して裏切らない。真実を尽くし続ける。」という誓いであり、他の者とは一線を画した深い交わりを前提としています。そのような深い交わり、コミュニケーションを、夫婦関係に、親子関係に、家族全体に持つことができたら、自分が、相手が喜ばしき存在であることの確信がもてることでしょう。神様は、あなたと関わりたい、何かしてあげたいといつも思ってくださっています。もちろん、罪を選ぶ原因になるようなことは聞かれないのですが、いつもあわれみと慈愛の心で見守っておられます。この神様が喜んで聞いてくださることのできる願いを、私たちも考えてみましょう。また、愚痴や不平も、神様は聞いて、なぐさめて、正して、励ましてくださいますから、安心して正直に心を打ち明けていきましょう。「何でも話して欲しい」と思うのは、深く関わりを持ちたい人なら当然の心です。私たちは自分勝手な神様像をつくらないようにしましょう。「ひとり子イエス様を犠牲にしてまで、私を喜ばしい存在として関わりたいと願ってくださっている神様」に対して、私たちも心を裸にして、正しい良心をもって、祈りの時、瞑想の時を是非持っていきましょう。

 

 

 

 

 

 

■2010年5月2日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   寵愛一身 ちょうあいいっしん  up 2010.5.2


大勢のうちから特に大切にされ、愛情を独占すること。


「見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。」
(イザヤ49:16)


 

【今週のポイント】
「神様からどのように大事にされているのかを知る。」

 今週は、神様から私たちがどれほど愛されているかを考えていきましょう。よく、大事なことを忘れないために、手にメモをする人がいます。しかし神様は、私たちを忘れないようにと、なんとご自分の手に刻んでくださったというのです。刻むとは、いつまでも消えないことです。そして手は一番よく見るところです。手のひらに刻むということは、どれだけ私たちを大事にしておられるかという表現です。このような状態を「寵愛一身」と言います。
「寵愛」とは、君主、地位の高い人から特別に目をかけられることです。「一身」とは、一人だけに集中的にそれが注がれるという意味です。神様は私たちを一人の人として見てくださり、愛する者として手のひらに刻んでくださっているのです。

1.誠実を尽くされる(エレミヤ31:3)
“主は遠くから、私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。」”
 私たちがどのような状況になったとしても、どういう反応をしても、誠実であり続けたというのが、神の私たちへの愛です。本当に愛しているならば、誠実を表し続けます。それは愛に比例します。一回の失敗を見て、もう私を愛していないとあきらめて不信に思ってしまうのは、本当の愛ではなく、感情的な愛です。感じなくなったら愛がなくなるのです。本当の愛とは人格的なものです。それは意志的に、愛する者に心を向け続けるということです。
 神様は私たちを、親身になって導いておられます。誠実を尽くすとは、あなたの言う通りになることではありません。誠実さとは、愛する相手が道を外さないように、正しい道、価値ある愛を維持できるようにと、ある時は注意を与え、戒めます。優しいだけが愛ではありません。誠実さとは、その人に間違ってほしくない、悪い状態になって欲しくないという気持ちも込められているのです。

(詩篇78:37〜39)
“彼らの心は神に誠実でなく、神の契約にも忠実でなかった。しかし、あわれみ深い神は、彼らの咎を赦して、滅ぼさず、幾度も怒りを押さえ、憤りのすべてをかき立てられはしなかった。神は、彼らが肉にすぎず、吹き去れば、返って来ない風であることを心に留めてくださった。”

「神様は、イスラエルの人々を特別に扱われました。しかし、彼らは、神様の愛を正しく受けとめず、神様を幾度も悲しませたので す。そんな彼らに対して、神様は誠実を尽くされ、今日まで彼ら を滅ぼさずにいます。」
 これは不思議なことです。神様は、ご自分がいったん選んで愛した者をあきらめきれずに、何回も悔い改めて心を入れ替え立ち返るようにと、今に至るまで導き、忍耐を寛容を示してくださっているのです。神様は、とことん愛して誠実さを示していかれるお方です。しかし、いつまでもそれに応えなかったら、最終的にその誠実さに反抗した報いを受けなければならないことは、知っておかなければなりません。赦しと恵みは、期間が定められています。最後の裁きの時に、最終的に愛に応えなかった者を処分されるということを定められているのです。赦しには期限があるのです。

【考えてみましょう】
「あなたに対して、神様の誠実さをどのようなところに見い出すことが出来ますか。」
 私たちは誠実さを裏切られたり、傷つけられたりするとすぐに心を閉ざしてしまいます。しかし神様は赦してくださり、心を入れ替えれば、今までのことは全部赦してくださるお方です。
「あなたのことを親身になって関わってくれる人が、神様以外にいるかを考えてみましょう。」
 人からのものを感じなければ、どうして見えない神様からのものを感じられるでしょうか。あなたの身近な人に、こんな私だけど本当によく面倒を見てくれるという人がいないでしょうか。そういう体験をしているなら、必ず神様の誠実さを感じ取ることができるようになります。

2.深いあわれみが注がれる(第2歴代誌36:15)
“彼らの父祖の神、主は、彼らのもとに、使者たちを遣わし、早くからしきりに使いを遣わされた。それは、ご自分の民と、ご自分の御住まいをあわれまれたからである。”

 神様は、イスラエルが堕落していく状態の中で、使者たちを早くからしきりに遣わされました。ここに深いあわれみがあります。私たちでも、大事にしているものを簡単に処分してしまうことはしません。愛なる神様ならなおさらのことでしょう。神様はどうして、しきりに使いを遣わしたのでしょうか。彼らは罪を犯して、神様に背を向けて、自分勝手に歩んでいる状況にも関わらず、使いを遣わしたのです。少しでも心を入れ替えるチャンスがあるならと、声をかけ続けてくださるのです。

【考えてみましょう】
「あなたの身近なもので、いま役に立っていなくても大切に残して あるものがあるでしょうか。それをどうして処分しないのかを考 えてみてください。同じように神様はあなたに対してあわれんで おられることを考えてみましょう。」
 神様にとっては役立たずの罪人を、ひとり子イエス・キリストのいのちという高い代価で買い取ってくださいました。そこまでしてでも手放したくない、どうしても捨てがたい、私たちへの愛が注がれているのです。あわれみはかわいそうだけでなく、放っておけない、大事なもの、残しておきたいという意味があるのです。だから神様はこの世界を見捨てることをせず、クリスチャンを通してご自分の愛を伝えておられるのです。
 上原令子さんがされた、こんな話がありました。ある少女が自分の大事な人形を持ってきてくれました。恥ずかしそうに後ろに持っていて、やっと見せてもらうと、なんとそれはボロボロに使い古した人形だったのです。今はもう人の前に出すのも恥ずかしいような人形ですが、彼女にとっては、小さいときから一緒に遊んできた大事な大事な友だちでした。それを見て令子さんは感動して、「愛の奇跡」という歌を作ったそうです。皆さんが大事にしている古いものをどうして処分しないのでしょうか。それは、今役立つかではなく、今の自分に至るための歩みを一緒に歩んできた大事な存在であり、無駄と言われてもぜひ最後まで残しておきたいという、神様にとって私たちはそういう存在なのです。

3.礼儀を尽くす(創世記28:15)
“「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」”

「愛は礼儀に反することをせず」と(第1コリント13:1)にあります。愛すると、礼儀を重んじるようになります。
「ヤコブに語られたこのことばは、約束を守り通すことが礼儀を尽くすことであることがわかります。」
『礼儀』⇒社会生活の秩序を保つために人が守るべき行動様式。
     特に、敬意をあらわす作法。
大事な人との約束を守り通すことが礼儀です。みんなが憲法を守ることで平和に暮らせます。それを守り続けることが相手に対する礼儀です。神様は、一度語ったことを必ず成し遂げるまで、あきらめずに守り続けるお方です。それは礼儀であり、相手に対する愛の固い決意です。

“「あなたは彼らを戒めて、彼らをあなたの律法に立ち返らせようとされましたが、彼らはかってなふるまいをして、あなたの命令に聞き従わず、もし人がこれを行うなら、これによって生きる、というあなたの定めにそむいて罪を犯し、肩を怒らして、うなじをこわくし、聞き入れようとはしませんでした。」”(ネヘミヤ9:29)

 律法を守ることが、神様への礼儀なのです。それは神様との平和を保つためです。私たちは、自分の祈りだけ応えてもらって、神様からの要求に応えようとしないのは、愛ではありません。律法とは相手を大事にするためのルールなのです。しかし、多くの人々は束縛されると思うのです。愛とは本来縛るものなのです。放縦ではなく、愛という枠の中にはめ込むのです。愛し合うとは、お互いの愛に合わせることです。どちらかだけが合わせていると、不幸になっていきます。自分が応えられたら、相手にも応えていこうとするのが、健全な愛です。礼儀は、価値ある清らかな愛の幸せをもたらすものです。
「律法や戒めは、主権者に対しする礼儀を尽くすための教えです。愛は礼儀に反することをしません。」

【考えてみましょう】
「愛することは大切に扱うこと。大事に扱うことは礼儀を尽くすこと。礼儀の大切さを考えてみましょう。」
神様はいつも私たちに礼儀を尽くし、深いあわれみを注ぎ、永遠の愛をもって誠実を尽くし続けてくださっています。この愛に心から信頼して歩んでいきましょう。